序章
四季。
それは、遥か昔から連綿と続く大地の営み。
新緑が見る者の目を癒し、雪解けの水が静かな時を刻む春。
大地の恵みが野山を潤す秋。見上げる空はどこまでも青く、高く。
全てが白に塗りかえられる冬。それは、新たな目覚めを待つ大地が見る一時の夢。
そして、夏。
新たな生命にあふれ、世界は喜びを謳う。大地が最も輝く瞬間。
そんな輝きの片隅で私は生まれた。
世界にとってはとるに足りない出来事。
生まれる時期を間違えてしまうものは、今も昔も存在する。
それが偶々私だったということ。ただそれだけのこと。
しかし、私にとっては何よりも重大事。
生まれる時期を間違えたものの多くは、長くは生きられない。
体が環境に適応できないから。
それは虫であろうと妖怪であろうと同じ事。
誕生したばかりの私にとって、夏の暑さは苛酷なものだった。
生きたければ、強くならなくてはならなかった。
強くなければ、生きられなかった。
だから私は強くなった。
どうにか夏をのりきり、秋を越え、冬を迎える。
氷精が本来生まれてくる季節。
その年もいつもの通り、多くの氷精が生まれた。
はじめて見る同種の姿に、私の心は浮き立った。
今まではずっと一人だった。どんなに苦しいときでも、頼れるものはいなかった。
けれどこれからは一人じゃない。
そう、思っていた。
しかし、彼等はそうは考えなかった。
私が異質である事はわかっている。
夏に生まれ、その夏を生き延びた氷精のことなど私だって他に知らない。
また、もともと氷精というものは集団を好まない。
加えて、私は強くなりすぎた。
単に半年早く生まれ、厳しい環境で生き延びなければならなかったということ。
それができるだけの才能もあったのだろう。
とにかく、私の力は一般的な氷精を大きく超えていた。
彼等にとって私は理解の外にあり、恐れの対象であった。
結局私は一人だった。
それでも生きていかなければならなかった。
だから私は強くなる。
一人でも生きていけるように。
そのためには心はいらない。
心があるから、誰かに頼りたくなる。
心があるから、寂しくもなる。
ならば、そんなものはいらない。
自分の心さえも凍らせて、私は強くなった。
凍らせた心の中でも思考は変化した。
不安は自信へ。自信はやがて過信へと。
私は強い。他の誰よりも。
そのときは、本当にそう思っていた。
そして、季節は廻る・・・・・。
第一章
幻想郷の夏…の夕暮れ。
青から赤へと装いを変える世界。
見上げた空には、本来の柔らかな白を紅に染めた雲。
ん…。
日の光が目に入り、思わず片目を閉じる。片手をあげて日差しを遮る。
西に傾いて、それでもなお力強く全てを照らす太陽。
私の頬も朱に染まっているのだろうか。
それは、さして意味のない思考。
それよりも、この暑さをどうするかの方が重要だ。
今の私にとって、夏の暑さは脅威ではない。
しかし、不快なものは不快だ。
氷精である私は、やはり涼しい方がすごしやすい。
なので、日差しを避けるためにわざわざ森の中を歩いていたのだが…。
これだけ空気が温まっていては、風を切って飛んでいたほうがよかったかもしれない。
だが、それでは直に日差しを浴びる事に…。
正解のない堂々巡りをしながらぼんやりと歩いているうちにも、光はその勢力を弱め、
いれかわりに薄闇が勢力を増す。世界が黒に染まるまでそれほど時間は要らないだろう。
森を特に目的地もなく歩く。いつのまにか霧が出てきている。
薄暗くなったのは太陽のせいばかりではないようだ。
なんとなく惹かれるものを感じて、霧が深くなるほうへと歩を早める。
視界はあまり効かなくなったが、たいしたことはなかった。
まるで霧に導かれているかのように、迷いなく進んでいく・・・と。
唐突に霧が晴れた。
いつのまにか完全に夜となっていて、月明かりが淡く世界を覆っている。
そして、目の前には湖。
背後の森は相変わらず霧の中だというのに、この湖には一片のそれもなく。
静かに月を映すその湖面は曇りのない鏡。
かすかな風を受け、僅かに揺らいだ湖面を乱反射した月光が踊り。
生温かった風は浄化され、凛とした冷たさを持って飛び立っていく。
物音ひとつない静寂。世界から断絶された箱庭。
綺麗・・・。
思わず漏れた自分の言葉に驚く。
感情など全て凍らせたと思っていたが、まだ少し残っていたようだ。
と、やや感傷的な気持ちになり・・・首を振ってその思考を頭から追い出す。
軽く地をけり、上空に舞い上がる。
静寂の中では自分の羽音がやけに大きく響く。
高所から見下ろした湖はやはり美しかった。
気に入った。しばらくはここに落ち着こうと思う。
しかし、その前にやらなければならない事があった。
上空から見ると、下からでは見えなかったものが見える。
ここには、かなり多くの先客がいるようだ。
まずはそれを排除しなければならない。
この湖は私のもの。誰にも渡さない。
それは傲慢な思考。だが、止められるものはいない。
私は全身に強烈な冷気をまとい、遥か下方の湖に向けて解き放つ。
それは、冷気により相手に意思をたたきつける、氷精固有の伝達手法。
伝える意思は簡潔。
ここは私がもらう。即刻退去しなさい。抵抗する者に容赦はしない。
静かだった湖が騒然となる。
突然の来訪者に対する驚きが、冷気を通して伝わる。
その驚きが収まると、次は強烈な敵対心。
多くの意思が湖の各所から飛び立つ。
予想よりかなり多くの妖怪が集まってきた。
しかしいずれも私の敵とはなり得ない。
あなた達は抵抗するのね。警告はしたわよ。
静かに言い放った言葉に目前の妖怪達の目の色が変わる。
口火を切ったのは誰だったか。
ある妖怪の放った妖力が私を掠める。
それを合図にして彼等は一斉に攻撃を始めた。
初弾は単調な直線の攻撃。冷気を身にまとい、苦もなくこれをかわす。
そして反撃。密度を高めた冷気の一撃が妖怪の一人を的確に射抜いた。
続けて、特に狙いも定めず広範囲に冷気を飛ばす。
さして威力のない攻撃ではあるが、それでも幾人かは行動不能になった。
妖怪たちは一瞬怯んだ様子を見せたが、互いに目配せをすると一斉に散開した。
包囲しようというのだろう。
相手の意図はわかっていたが、焦るほどのことはない。
移動しながら繰り返される攻撃を軽やかにかわす。
右へ、左へ。
上へ、下…ではなくもう一度上へ。
包囲を適当にかき乱し、目に入ったものを冷気で射抜く。
しばらくそれを繰り返したが、彼等の数は減る様子を見せない。
よくもこれだけ集まったものだ。
妖怪というものは概ね自己中心的なものだというのに。
いつのまにか包囲は完成していた。
一瞬反応が遅れた死角からの攻撃で、袖が破ける。
攻撃が一瞬やんだ隙に周囲を見回して確認する。
前後左右に上に下に。
みごとに囲まれている。
まったく、気に入っている服なのに。
それでもつぶやいた言葉に緊張感はない。
この状況自体は予測した事だ。確認すればそれなりの対処はできる。
攻撃が再開され、今まで以上に高密度の弾幕が私を襲う。
直線的な攻撃でもこれだけの数があれば、おのずと道は限られる。
私は最小限の動きで攻撃をかわす。かわしきれないものは冷気で迎撃する。
包囲の輪はしだいに狭まり、攻撃の密度は増す。
それに対し私は動きを減らし、少しずつ迎撃の幅を広げていく。
攻撃を受け止めた冷気が周囲に拡散していく。
あと、少し…。
様々な欠片によって視界は遮られているが、そこを通る攻撃は全て知覚している。
彼等はさらに包囲を狭め、とどめと言わんばかりに同時に攻撃を仕掛けた。
しかし、遅い。
冷気は十分に場を満たし、私は彼等の位置を全て確認できていた。
一言だけつぶやく。
凍れ。
同時に全方位に霊力を解放。場の冷気全てを支配下に置く。
拡散していた冷気は瞬時に収束し、攻撃を全て受け止める。
さらに、包囲の結果として私の射程に入ってきた妖怪たちを捉える。
逃れようとするものもいたが、もはや手遅れだった。
妖怪たちは全て氷付けとなり湖面に落下していく。
まぁ、この程度か…。
特に感慨はない。これは当然の結果だから。
加えて言うならば、一応手加減はしてある。
容赦しないとは言ったが、やはり死んでしまっては寝覚めが悪い。
まぁ、この程度で死ぬようなものがいたとしたら -いないとは思うが-
身のほど知らずにも程があるということだろう。
力の差は十分に見せ付けた。後は勝手にいなくなるだろう。
そう思って湖に降りようとした私の背後に…
彼女は、いた。
第二章
ねえ、ちょっと…。
!!
一瞬思考が止まりかけ…強引に引き戻して飛び退る。
彼女には、即座に攻撃をする意思はないようだった。
それがあったら今ごろ私は撃墜とされていただろう。
今日はじめての緊張を味わいながら、彼女を観察する。
一見したイメージは白。
全てが白いというわけではないが、それ以外の色は不思議と目に入らなかった。
私が操る冷気とはまったく違う白。
氷のような無機質さはなく、雪のように純粋で、かつ春のような暖かさを持った白。
彼女の背には羽があり、それは見覚えのある形をしている。
その羽は光を透過するほど薄く、頼りなげでありながら折れることなく自らを支えている。
自分の背をちらと振り返って確認する。
そこにあるのは紛れもなく彼女と同種の羽。
彼女も氷精。しかも、かなり高位。
納得すると同時に疑問も湧く。
冷気の網を逃れる事ができたのは高位の氷精なら当然だろう。
それはそれで構わない。
しかし、疑問の方は晴れない。
彼女の持つ雰囲気は、私の知る氷精のものとはまったく別物だった。
彼女にはほぼ全ての氷精が持つ冷たい雰囲気は微塵も感じられない。
自分を含め、今まで出会った氷精のイメージが全て砕かれる。
むしろ暖かく、穏やかに世界を包む春。
およそ氷精としては持ち得ない雰囲気であった。
彼女はいきなり飛び退った私をきょとんとして見つめていたが
一瞬私と目があうと、恥ずかしげにうつむいてしまった。
自分から話しかけておいてそれはないだろうに。
いや、それはこの際どうでもいい。
問題は彼女がどういうつもりでここにいるのかということだ。
何か用?
努めて声から感情を消す。動揺を悟られるわけにはいかない。
・・・もう遅いかもしれないが。
彼女ははっと顔を上げて、思い出したかのように言う。
あの、困ります…。
何が。
即答する私に返事が遅れる。
…えっと、酷いじゃないですか。
だから何が。
また答えが遅れる。どうも会話のペースが合わない。
…ここでは力づくの争い事は禁止。です。みんな仲良く暮らしているんですから。
誰が決めたの。そんな事。
彼女は伏目がちに答える。
私…です。
へぇ、ここではあなたがルールだと。
彼女は顔を上げ、落ちつかなげにきょろきょろと周りを見回す。
誰かの助け舟を待っているのかもしれないが、この場には私たちしかいない。
あきらめて私のほうを向いて言う。
えと、そんなにたいそうな事じゃないんです。だけどそのけんかはあまり好きじゃないからみんなやめて欲しいなと。そうお願いしたらみんな止めてくれましたし、せっかくだからそれをルールにしようって決めて。だから私がルールとかそういうんじゃなくて…。
普通にしゃべれるんじゃないの。
言葉を遮って言うと、彼女はまた固まってしまった。
しかしそれもどうでもいい。
この場に話し合いによる解決はない。
なぜなら、私のほうに折れる気がないからだ。
ならば、やる事は一つ。それを宣言する。
そのルールは今日まで。私がここをもらうから。
そんなぁ。みんなで仲良くしましょうよ。湖は広いんですから。
悪いけど、折れる気は無いわ。
そう言って距離をとり、挨拶代わりに冷気をたたきつける。
彼女は特によけようともせず、その身に冷気を受けた。
うぅ、仕方ないです~。
冷気の中から姿をあらわした彼女に、ダメージは見られない。
やはり彼女も氷精である以上、耐性があるのだろう。
彼女の放つ冷気を軽く受ける。
特に攻撃的なものにはみえず挨拶の返事といったところか。
もちろんダメージなど受けない。と思ったが…。
それこそ蚊に刺された程度。ダメージと呼ぶには値しない。
ただし、完全にゼロではない。
まったく無防備に受けたものとはいえ、無視する事はできない。
彼女は、少なくとも私と同等の力をもっている。
僅かな思考の間に、彼女は新たに冷気を放ってきた。
避けてもよかったがあえて受ける。
この程度のものを避けていては、自分の力量を教えるようなものだ。
何食わぬ顔で受け流し、やはり微かにゼロではないダメージを受ける。
彼女の力量が読みきれない。ならば、全力を出す前にたたく。
方針を決め、冷気に身を包んで高速で飛翔する。
彼女は相変わらず同様の冷気しか放ってこない。
自分の冷気で包んでいれば、この程度の冷気でダメージを受ける事は全く無い。
攻撃を無視して接近し、高密度に圧縮した冷気を叩き込む。
彼女は少し驚いた様子で身を翻し、さらに接近を試みる私との間に今までよりも強力な冷気の防壁を展開する。
強引に突破すれば、さすがにダメージを受けるだろう。
しかし、この程度が彼女の本気であるわけはない。
私は一旦移動を止め、壁を回り込むように冷気を放つ。
一部は壁の向こうの彼女を襲うが、大部分は彼女の背後へと抜けていく。
それを確認した私は、再び冷気で身を包み壁の突破を図る。
予想外の行動に彼女の動きが一瞬止まる。
勝った。
小さくないダメージを受けながらも、勝利を確信する。
彼女は完全に私の射程にいる。
周囲の冷気を圧縮。
これまで以上の霊力を注ぎ込まれ、冷気は気体から固体へと姿を変える。
生成したのは小石からレンガ程の大小さまざまな氷弾。
彼女の背後でも、先ほど通り過ぎた冷気が氷弾を形成する。
氷弾による物理的な打撃。これならば冷気に耐性があろうと関係は無い。
これだけ近距離で彼女を取り囲んでいる以上、はずすことも無い。
勝利宣言を兼ねて言葉を放つ。
踊れ。
全方位からの氷弾が彼女に降り注ぐ。
必死に回避、迎撃をしているようだが対処しきれるはずは無い。
詰み、ね。まぁなかなか…
突如
氷弾が全て消滅した。
いや、蒸発…した?
笑みを浮かべかけた顔が強張る。
手段はわからないが、彼女は氷弾の攻撃を防いだ。
それは事実である。
ならば、新たな策を考えなければならない。
思いついた策は、一つしかなかった。
すなわち、全力を持って彼女を凍らせる。
それは氷精である自分たちにとって、ある意味で絶対の決着。
駆け引きも何も無く、互いの力量のみが問われる。
これが駄目ならば、今の私は彼女に届かない。
全ての霊力を解放する。集められるだけの冷気を全て支配下に置き、絶対の意思を込める。
やる事は、先ほどの妖怪たちにやった事と同じ。
しかし、今度は全力で、たった一人の相手にぶつける。
彼女は動かない。氷弾を防ぐのに全力を使い果たしたのだろうか。
だとしたら、彼女は助からないかもしれない。
事ここに至って、いまだ私の心に敗北という言葉はない。
私は誰より強い。負けるはずがない。
最後の言葉を発する。
冷気にのせた意思はただ一つ。
凍れ!!!
解き放たれた冷気は彼女に向かって殺到する。
その質量だけでも、先ほどの氷弾とは比べ物にならない。
嵐のような冷気のうねりはやがて竜巻と化し、彼女を覆う。
手ごたえはあった。これまで行使した中でも最大の威力を出せた。
これで負けるなんてありえない。
その思いで眼前の光景を眺める。
竜巻は閉じて球体となり、もはや彼女の逃げ場は無い。
いくら粘ろうとも無駄なこと。
均衡の破れるときを待つ。
その時はすぐに訪れた。
もっとも、それは私の予期していたものとは違った。
球体が一瞬歪んだかと思うと、内側からはじけた。
次いで、爆音。
視界を覆う白いものは蒸気だろうか。
私は彼女の気配を探るが、全くつかめない。
辺りの冷気すべてが消し飛ばされてしまったらしい。
全ての感覚を遮断され、呆然とする私の前に彼女は現れた。
彼女はにっこりと微笑んで言う。
は~い、これで私の勝ちです~。
もうけんかは駄目ですよ~。
まるで何事も無かったかのように。
体から全ての力が抜けた。
支えを失った体は湖をめがけて落下していった。
最後に見たものは、
落下する私に向かって飛んでくる、彼女の泣きそうな顔。
第三章
気が付いて最初に見たものは、やはり彼女の泣き顔だった。
どうしたものかと思いつつ、声をかける。
あの…。
あっ、目がさめたんですか。よかったです~。
いや、台詞はこんなものだったが、その表情と口調をなんと説明したものか。
とにかく顔をくしゃくしゃして抱きついてきて
よかったです、よかったです。と繰り返す。
あ、こら、離れなさい。離れなさいってば。
うぅ~。心配したですよ~。よかったです~。
聞く耳をもたないというのはこういうことだろう。 違うか?
どうしようもないので、彼女が落ち着くまでまわりを見回す。
まず明らかに場所が変わっており、ここは屋内である。状況からすると彼女の家だろうか。
また、それなりに時間がたっているらしく窓から差し込む光は明るい。
まだぐずっている彼女の手をにぎり、大丈夫だから。という。
普段の私には考えられない行動だが、こうでもしないと話が進まない。
起き上がろうとすると、彼女に押し戻された。
だめです。まだ寝てないと。
それは、彼女にしては強い口調。
ここでごねても仕方がないのでおとなしく従い、そのままの姿勢で質問をする。
ここは。
私…の家、です。
言葉は切れ切れではあるが、応答は速い。
で、私はどれくらい寝ていたの。
三日、と少しです。
さすがに驚く。それは心配もするだろう。と、考えたところで疑問が浮かぶ。
なぜ、彼女が私の心配をしているのか。
その疑問をそのまま問うと、彼女はきょとんとした顔で聞き返した。
どうしてそんな事聞くんですか。
それはいかにも、何を言っているのかわからないという顔であり、
実際わかっていないのだろうと思えた。
理解できない。
はっきり言わないとわからないのだろうかと思う。
なんであなたは、全力で敵対してきた相手の心配をしているの。
彼女はすこし考えて言った。
……なんででしょうね~。
からかわれているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
まぁいいじゃないですか。私もあなたも、みんなも無事だったんですから。
めでたしめでたしです~。
あなたがよくても私はよくない。と言おうとしてやめた。
いずれにしろ私は負けたのであり、聞くべきことは特にない。
これ以上ここにとどまる理由は無い。
強引に起き上がって告げる。
じゃあね。私はもう行くわ。
彼女は心外だといった表情で答える。
どうしてですか。ここが好きになったんでしょう。
仲良く暮らせばいいじゃないですか~。
一瞬カッとしかけて自分を抑える。
極力声を抑えて話す。
どういう意味。
私は湖をもらうと言って戦い、負けたから出て行く。それだけのことよ。
それとも、同情しているつもり。
絶句してうつむく彼女。
時が引き伸ばされたかのような -実際はそう長くも無かったのだろうが- 沈黙の時間。
顔を上げた彼女は一気に言葉を紡ぐ。泣きそうな声で。
ごめんなさい。でも、そんなつもりじゃなかったです。
私はけんかは好きじゃないから、あなたの言う事はよくわかりません。
でも、せっかく好きになった場所から出て行くのはもったいないです。
そういうところ、これから見つかるかどうかわからないんですよ。
それに・・・
それに、一人ぼっちは…さみしいです……。
言い終えると、彼女はまたうつむいてしまった
馬鹿なことを言ってしまったと思う。
彼女は本当に、思ったことを言っただけなのだろう。
後悔を感じるのは何時以来か。
彼女といると、無くしたと思っていた感情が表に出る。
悪かったわ。でも私はここにはいられない。
あれだけのことをやったのだから、あなたはともかく他の人は許さない。
ここに留まりたいという思いはある。しかしそれを表に出すわけにはいかない。
それをやったら、私はこのままではいられなくなる。
今の言葉はただの逃避。責任の転嫁。
それを聞いた彼女は勢い込んで言う。
それなら大丈夫です。あなたと同じような事をした人たちもいっぱいいますから。
さすがに、全員やっつけちゃったのはあなたが初めてですけど。
みんな今は仲良くしてるんですよ。
それは違う。彼等は彼女の力を恐れてなりをひそめているだけではないのか。
そういった疑問もある。
しかし、彼等の団結力はそれだけでは説明できないとも思う。
私は、またこの湖を狙うわよ。あなたを倒して。
言い訳としては弱い。頭がまわらない。
案の定、彼女はためらう様子も無く答える。
それでもいいです。やっぱり同じような事を言った人だっています。
でも、そのときは私だけを狙ってくださいね。他の人はあなたに敵いませんから。
そう言って付け加える。
あなたが、どういう風に考えていてもいいです。
だけど、一人になるのは駄目です。
それは…駄目です……。
最後の方は声が小さくてよく聞き取れなかった。
結局、この後のいくらかの -形ばかりの- 抗弁はしたが、
あっさりと彼女に言い負かされた。
ここにいたいという気持ちがある以上、それは当然の帰結。
むしろ、言い負かされることを望んでいたのではないかと思う。
でもそれを口に出すことはない。
あくまでも、説得されて仕方なく。という形。
いつでも行動を起こすには、ここにいたほうがいいという言い訳。
それが、今の私にできる子供じみた最後の抵抗。
謂れのない腹立たしさもある。
なぜ、この最も氷精らしくない彼女が私以上の力を持っているのか。
そういえば、あの時の力はいったいなんだったのか。
このまま引き下がるわけにはいかない。
そんな私の心を知ってか知らずか。
彼女は、私がここにとどまる事にしたのを素直に喜んでくれた。
微笑みながら彼女は聞いてきた。
そうだ、あなたの名前はなんていうの。
名前、それが意味を無くしてどれくらい経っていたのか。
一人で生きてきた私にとって、自分の名前にあまり意味はなかったから。
それを問われたのは初めてだった。
それが意味を無くしても忘れる事はできなかった。
それだけが私に残ったものだったから。
チルノ。
一言で答える。
彼女はチルノ、チルノと小さく繰り返す。
うんとうなずいて言う。
素敵な響き。あなたにぴったり。
思わず顔が赤くなった。
名前を聞かれるのも初めてなら、それをほめられるのも初めてだった。
慌てて言う。
あ、あなた。あなたはなんていうの。
私? 私はね~・・・んーっと、秘密~。
は、何よそれ。
彼女の目は笑っている。
彼女は人をからかう事などないと思ったが、見込み違いだったらしい。
そうね~。私に勝ったら教えてあげる~。
なん、ですって……。
彼女は相変わらずの笑みを浮かべている。
一方で私の表情は険しくなる。
ここにとどまる理由がもう一つできた。
絶対、勝って名前を聞く。
・
・
・
翌日は湖を案内する。という名目で彼女に連れまわされた。
どうも彼女にとって案内はついでであり、先客たちに私を紹介するのが目的だった様子だ。
正直驚いた事に、彼等の対応は概ね好意的なものだった。
軽く手を振ってくるものもいれば、まぁよろしゅ~。とか、姉ちゃん強いの~。
とか、中には姉御、弟子にしてくださいなどと何か勘違いしているものまでいた。
そういった会話に慣れていない私は、その度にあたふたとしてしまうのだが、
それを見ている彼女は心から嬉しそうだった。
楽しそうね、私が困っているのはそんなに面白い?
私の問いに彼女は何の屈託もなく答える。
楽しいし、嬉しいよ。チルノがみんなと仲良くなるの。
友達が増えるのはいい事だよ~。
私にとって、そんな真っ直ぐな答えはどうにも気恥ずかしく、
外野から飛ぶ野次ともあいまってなんとも居心地がよろしくない。
一方の彼女はといえば本当にそれ以外のことは考えていないようであって
終始ニッコリと微笑んでいる。
当然悪意など欠片も感じられず、それゆえになんというか、たちが悪い。
天然と言ってしまえばそれだけだが。
彼女のそんなところは苦手だったが、それを嫌いになる事もできなかった。
結局その日は散々に引きずりまわされた挙句、
第一回・湖と名前争奪戦を挑んで敗北した。
第四章
四季。
全体としては変化する事のない、幾度も幾度もくり返される円環。
しかし、その中に生きるものにとっては、それは毎回少しずつ以前のそれとは異なる何か。
少なくとも私にとって、これは確かなことだった。
周囲がこれほどに騒がしいことはこれまでになかった。
湖には七日に一度は訪問者がおり、何人かに一人は荒事を辞さないものだった。
もっとも、私や彼女が出張る必要はまずなかった。
相手は妖怪たちに適当にのされ、彼女の雰囲気に言いくるめられて
すっかり丸くなってそのまま住み着くか、また別の場所に行くか。
本当に、彼女の言っていた事はそのまま事実だった。
ときおり、妖魔退治と称する人間が来る事があった。
彼等は並の妖怪以上の能力があり、相手を傷つける事を全く躊躇わない者が多かった。
そういった手合いは、私や彼女が相手をした。
私は徹底的に痛めつけても構わないと思っていたが、彼女はそうは思わないらしく
適当なところでいつも止めに入るのだった。
月の形が一巡する間に一度は彼女に挑んだ。
もはや恒例行事と化したこの戦いは、湖の住人たちにとって格好の娯楽であり
あるものはそれを肴に宴会を開き、あるものは勝敗をめぐって賭けをしたりもした。
ちなみにオッズは常に彼女の鉄板であり、戦績は十連敗を越えた頃に数えるのをやめた。
そういえば、彼女の能力についてたずねたら簡単に教えてくれた。
端的に言うと、熱を操る能力ということらしい。
氷精なのに熱って何なのよ。と問うと彼女は笑って答えた。
熱気も冷気も本質的には同じもの。私にとってはそれが当たり前だった。
他の氷精が熱気を操れないと知ったときはむしろ私が驚いた。と。
全く、雰囲気といい能力といい、彼女は生まれてくる種族を間違えたとしか思えない。
冗談交じりにそういうと、彼女は答えた。
そうかもしれないね。だけど、私は私。
私は氷精の・・・っと、名前は秘密だったね~。
ずっと柔らかい笑みは絶やさなかったが、
その表情がほんの少しだけ陰って見えたのは気のせいだろうか。
・
・
・
もはや湖の支配権などどうでもよかった。
彼女の名前を知りたい気持ちは常にあったが、それも絶対のものではなくなっていった。
私はこの湖が好きであり、妖怪たちが好きであり、彼女が好きだった。
ここにいることができるならそれでいいと思った。
ここは、ただ生きるためだけに力を追い求める必要はない。
あえて、感情を殺して生きる必要もない。
このまま時が止まればいいと、本気で思ったこともあった。
しかし、時を止めることはできない。
世界は常に極微小の変化を起こし、ゆえに万物は移ろいゆく。
そしてまた、季節は廻る・・・・・。
第五章
幻想郷の夏。その日は特に暑かった。
私は湖からやや離れた森の中で、冷気を操っていた。
俗にいう特訓というやつだ。
もちろん勝つためである。
相変わらず連敗記録は更新中であり、彼女の名前もわからないままだった。
いまさら湖をどうこうしようという気はないが、
氷の仮面がはがれてみれば、私はただの負けず嫌いだった。
最近の特訓では単に大きな威力を目指すのではなく、
鋭く研ぎ澄まされた一撃というものを考えていた。
何度も挑んだ挙句、小細工と霊力勝負ではどうやっても敵わないとわかったからである。
自在に操れると思っていた冷気も、その制御の方針を少し変えただけで
なかなか思う通りにはならなかった。
今まで行ってきた無差別大威力路線がいかに簡単だった事か。
あるいは、今までそれだけを考えてきた反動だろうか。
それはともかく、その日も夕暮れとなりそろそろ切り上げようかというときに
一人の人間が現れた。彼は問う。
お前はこのあたりに住む氷精か。
またか、と思う。
最近、妖魔退治を名乗る人間がとみに増えた。
しかし、油断はできない。
私より強いものは存在する。目の前の人間がそうではないという補償はない。
僅かに距離をとりながら、返答する。
まぁ、そうね。何か用。
彼は淡々と答えた。
最近、氷精にやられたという同業者が多くてな。
で、その同業者から氷精退治の依頼を受けた。
経緯はわかったが、それは私をいっそう苛立たせるものだった。
ちょっと待ちなさいよ。別にこっちから手を出したわけじゃないでしょ。
勝手に乗り込んできた馬鹿を追い返して、何が悪いのよ。
彼は少しだけ苦笑を浮かべて答える。
そっちにとっちゃ手前勝手な話だとは思うけどな。
しかしまぁ、これも俺の飯のタネ。
ついでに言えば、強いのとやりあうのは嫌いじゃない。
なんとなく、今まで相手をした人間とは毛色が違う。
しかし、私に敵対しようとしている事にかわりはない。
降りかかる火の粉は払う。
場の緊張が高まる。
言っとくけど、遠慮はしないわよ。
楽しませてくれよ。
同時にそう言い放つと互いに距離をとり、霊力を練る。
先手を取ったのは私。牽制の意味をこめて冷気を放つ。
彼は左手をかざすと何事か念じた。
それだけで私の冷気は吹き散らされる。
彼は右手を懐に入れ、何ものかを取り出し私に向けて放つ。
飛んでくる影は三つ。いずれも直線的な攻撃。
どんなものかは知らないが、当たらなければどうということもない。
大きく横にとび、斜線から外れて彼を狙おうとする。
しかし、三つの影はいきなりその軌道を変え再び私に向かう。
追尾弾?
つぶやいて、いったん大きく跳び退る。
距離をとって迎撃する必要があった。
が、影は急激な加速をみせる。
やむを得ず近距離での迎撃。
広範な冷気を放つと、影は不規則に軌道を変え逃れようとする。
二枚は捉えた。凍りついて地に落ちる。
もう一枚は・・・
ギリギリのところで網から逃れ、真っ直ぐに私に向かってきた。
再び迎撃を試み、失敗を悟る。間に合わない。
影は、私の腕に張り付く。
それは一種の札であり、意味の取れない文様が羅列されている。
この手のものはどんな効果があるのかわからない。
何某かの衝撃を予期して身を硬くするが、特に変化は起きない。
何よコレ。
気にするな。
釈然としないが初手では彼に遅れをとった。
挽回を期して冷気を放つ。
正面、右、左そして上空の四方向。
その全てが先ほどのもの以上の威力を持つ。
彼は動揺を見せず、左手をかざし正面の冷気に向けて突進する。
迎撃しながら接近、何かの攻撃をするつもりだろう。
しかし、それは予測している。
追撃のために前方に薄く冷気を放出し、つぶやく。
止まれ。
彼が今まさに迎撃しようとしていた初弾が停止する。
ん、なっ。
詠唱のタイミングを誤り迎撃に失敗する。
一瞬の停滞。
その隙に、三方向からの冷気が彼を追う。
彼は斜線から逃れようとするが、そういう訳には行かない。
散れ。
それぞれの冷気が複数に分裂し、彼の退路をふさぐ。
その分威力は落ちるが、足止めとしては十分。次。
踊れ。
薄く前面に放出した冷気が収束する。
以前と数は大して変わらないが、速度で数段上回る氷弾。
この状況で回避は不可能。防げるか?
彼は先ほどとは色の違う札を取り出し念じる。
最初に激突しようとした氷弾が、近傍で砕ける。
次弾、三弾、四弾
次々と接近し、届くことなく霧散していく。
彼の周囲では激突のたび半透明な半球が煌く。
やはり、結界の類を使えるようだ。
札を見たときからそんな事もあるだろうとは思っていた。
よって、予定どおりのもう一手。
冷気を身に集め、その全てを指先に収束させる。
氷弾の残りはあと少し。彼はその場を動けない。
大丈夫、間に合う。
これが本命。
貫け!!
音もなく、空気を引き裂いて光が飛ぶ。
相手に向かう光は一本。
しかしその密度、速度はそれまでの冷気とは別次元。
光は真っ直ぐに突き進み、残存する氷弾を追い抜き結界に激突。
半透明は不透明となり、半球が歪む。
ギン・・・と、鈍い音とともに結界が砕ける。
残った氷弾が彼に降り注ぐ。
土煙が舞う。
勝った・・・か?
負け続けた事により、以前よりも用心深くなったと思う。
その用心深さが幸いした。
土煙の中から高速で飛翔する札。
直撃コースのそれを紙一重でかわす。
この札には追尾能力はないようだが・・・
後方で爆音。
札に接触したと思われる樹木が、音を立てて倒れた。
威力が違う…と。
そう一人ごちる。
土煙が収まり、膝立ちの彼が姿をあらわす。
衣服が所々破れてはいるが、それ以上のことはないようだ。
埃を払い、首を振って立ち上がる。
いいね嬢ちゃん。やるじゃないか。
そう言うと、新たな札を放つ。
先ほどと同じ札。
特に工夫のなさそうな一撃をよける。
続けて彼は札を放つ。
私は避ける。
放つ。
避ける。
放つ。
避ける。
放つ放つ放つ。
避ける避ける避け・・・
背中に衝撃。一瞬息が詰まり、目前に札が迫る。
咄嗟に冷気を放って迎撃。そして札の爆発。
直撃こそ回避できたものの、爆発の余波で吹き飛ばされる。
ぐっ…何が。
周囲を見回して愕然とする。
札が私を取り巻いて浮いている。
設置型っていうんだけどな。
ま、さっきやられたのと似たようなもんさ。
どうする。
解説をする声には余裕が感じられた。
短い時間で思考をめぐらせる。
現状、とりうる選択肢は少ない。
即時に決断、できる限りの冷気を身に纏う。
ほう、まだやるかい。
余裕の表情は変わらない。
私は身に纏った冷気の一部を彼に向けて放つ。
同時に後方・・・私を取り巻く札の一枚に向けて冷気を放ち、
自分も全速で飛ぶ。
あ、てめ…。
私の意図に気付くが、反応する前に冷気に包まれる。
威力はほとんど無いただの目潰し。
冷気と交わった札が爆発。
衝撃を身に纏った冷気で軽減し、強引に突破をはかる。
直後、全ての札が爆発。
半瞬の差で包囲を抜けた。
背後からの爆風を受け加速。そのまま離脱する。
逃げるのは悔しいが、ここでやられるわけにはいかない。
いまだざわめきが残る森の中で、残された札使いはつぶやく。
ったく・・・頭の働く嬢ちゃんだ。
保険はかけとくもんだな。
・
・
・
夜もだいぶ更けた頃、私は湖についた。
だいぶ遠回りをしたが、追跡の心配は無さそうだった。
その場で仰向けになり、疲労に強張った体を弛緩させる。
今日はこのまま休むか、それとも先に彼女に伝えるか。
少しだけ考えて、前者を取る。
追撃の気配は無い。明日でも遅くはない。
何より、休み無く動かした体が猛烈に休息を要求していた。
目を閉じると視界は闇。そのまま思考も深く沈んでいく。
・・・いいのかい嬢ちゃん。風邪ひくぜ。
ゆっくりと目を開ける。
視界には、私を見下ろす札使い。
飛び起きて離れる…つもりが、足をとられて派手に転倒した。
混乱した思考が機敏な動作を妨げる。
顔だけ動かして前方を見上げる。
間違いなく、夕暮れの札使い。
服装は先ほどと変わっており、それとなく格式が感じられる。
そんな、追跡の気配は…。
大きな声ではなかったが、静かなこの場所では思いの他よく通った。
彼は頷くと一枚の札を取り出し、手を離す。
地に落ちるかと思われたそれは途中で軌道を変え、こちらに飛んできた。
はっとして身を起こす。
安心しろって。ただの種明かしさ。
茫として言う声に動きが止まる。
札はゆっくりとこちらに向かい、私の腕に張り付いた。
そこは、一番最初の札を受けたところ。
そう考える間もなく、二枚の札は消えた。
と、いう訳だ。あの札は追跡用でな。
気配なんか全然無いから、気付かなかっただろ。
まぁ、いろいろやってたところ悪いんだが。
結局、彼の手の上で踊らされていたということか。
追跡を防ぐための遠回りは、彼に十分な準備をする時間を与えただけだった。
さらに、彼をここに案内という失態まで演じてしまった。
せめて、彼女に伝えていれば…。
行動の全てが裏目。脱力感が襲う。
さて、じゃあ夕方の続きでもするか。
そう言って彼は札を放つ。
迎撃に冷気を放つが、集中を欠いたそれはあっさりと貫かれた。
慌てて後退しようとするも、至近距離での爆発になすすべもなく吹き飛ばされる。
思考が緩慢になっていく。
残念だが、ここまでだな。
彼の言葉には本当に残念そうな、そして申し訳なさそうな響きがある。
悪いな。せめて苦しまないようにしてやるよ。
そう言って取り出したのは、これまでと違う一回り大きい札。
まぁ、効果はわかる気がする。そういう札なのだろう。
一呼吸おいて、その札を放つ。
時間が引き延ばされる感覚。札は思いのほかゆっくりと迫る。
傷ついた体は動こうとせず、折れた心は迎撃の意思を発せず。
私は目を閉じる。思い浮かぶのはいつも変らぬ彼女の笑顔。
そういえば彼女の名前、最後までわからなかったな。
そして、爆音と衝撃。
第六章
……の……じょ…ぶ…
何?
ちる…し………して…
静かに…してよ。もう、疲れちゃったから…。
…るの・・・ごめんっ!!
熱をともなった痛み。一回、二回、三回・・・。
…たい、いた……、痛い痛い痛いやめてやめてやめてっ!
無意識の反射で跳ね起きる。
ゴンっ
鈍い痛み。
また遠くに行きそうな意識を、額の痛みと頬に残る熱、肌に伝わる暖かさが引き止めた。
うっすらと目を開けると、そこは涙で滲んだ世界。間近に白い人影。
両の膝を折り、両の手を胸の前で合わせている姿は、
神に祈りをささげる聖女の如く・・・
と、その聖女。やおら両手を広げて飛び掛ってきた。
あまりのことに何の反応も示せず、そのまま押し倒されて…
そこで、呆けた意識が少しだけ形を結んだ。
懐かしい感覚。以前にもこんな事があったような気がする。
ああ…と声がもれる。戻ってきたんだ。ここに。
彼女のもとに……。
ほんの数時間ぶりに見る彼女。
私の中で、絶えず微笑を投げかけてくれた少女。
その彼女が今浮かべているのは泣き笑い。
よかったよ…よかったよ。
と、いつだったかのように繰り返す。
ありがと…もう、大丈夫。
口から出た声はあまりにも小さかった。本当はもっと元気な声をかけたいのに。
彼女はささやく。
ゆっくり、休んでね…。あとは、私ががんばるから。
最後に私をぎゅっと抱きしめて、そっと地に横たえる。
立ち上がり、私に背を向ける。一度だけ振り向いてにっこりと微笑んだ。
そんな、いつもと変わらないような彼女は、すぐ目の前にいるのにひどく遠くに見えた。
だめ、行かないで、行っちゃやだよ…。
必死に呼び止めようとするが、声は出せず体も動かない。
一歩ずつ離れていく彼女を、見ていることしかできない。
少しだけ、足を引きずっているように見えるのは気のせいだろうか。
歩みの先には、あの札使いがいる。
彼女の戦いが・・・始まる。
・
・
・
ともすれば戦いの余波に吹き飛ばされそうな意識を、必死につなぎとめる。
彼女を助けることも、声をかけることもできない。
私にできるのは、ただ、この戦いを見届ける事だけ。
彼女の操る冷気は、私と戦う時のものとは明らかに違った。
彼女の顔は厳しく、険しい。
私がどんなに全力を尽くしても、見ることの敵わなかった表情。
札使いの操る術は、私と戦った時とは明らかに違った。
彼の顔もまた、険しい。
あの飄とした雰囲気からは、創造もできなかった表情。
これが彼女の本気の戦い。
彼の本気の戦い。
二人の戦いはしかし、当人たちの表情とは裏腹に、見るものに美しさを感じさせる。
一方が攻勢に出れば一方はそれをかわし、受け流し、反撃にする。
一方が動きを止めたときには、なぜかもう一方の動きも止まり、静謐な時が流れる。
それは、一切の無駄無く、全てが予定調和する舞踏。
荒々しさの中に、見るものを魅了する美しさを秘めた武踏。
永遠に続くかとも思われる競演。
だが、それは厳然として戦いであり、均衡が崩れる時がきた。
着地に僅かに足をとられる彼女。
好機と見て攻撃に移る札使い。
札使いが札を放つ刹那。
彼の周りで、彼の札によるものではない爆発が起きる。
彼女が初めて見せる、熱による攻撃。
相手が私であったら、絶対にただではすまないその攻撃。
彼の周囲は完全に白く覆われ、その中を窺い知る事はできない。
そして、さらに爆発。
今度は先ほどまで彼女がいたところ。
舞い上がる土煙に彼女の姿が遮られる。
風に煙が吹き散らされた後、彼も、彼女もそこにいた。
息を呑む片膝をついて彼女を見つめる札使い。その服はぼろぼろに破れて見る影も無い。
蝋燭の炎のようにゆらゆらと佇む彼女。白い肌と衣装は埃にまみれ、
僅かに赤く染まって見えるのは……だろうか。
私は息をのむ。だめ。これ以上は絶対にだめ。
止めなければと思う気持ちと裏腹に、体は全く動いてくれない。
彼女たちの会話が耳に届く。
信じられんな。嬢ちゃん、本当に氷精かい。
よく…言われるよ。
こんなに、しんどくて楽しいのは初めてだよ。
私は楽しくないよ。けんかは好きじゃないから。
そうか…。なぁ、けんかの嫌いなお嬢ちゃん。
なぁに。
よかったら、名前を教えてくれないか。
……私に勝ったら、教えてあげる。
彼女の周囲に冷気が集う。
これまでとはまた違う冷気。いや、それを冷気と呼ぶものだろうか。
遠く離れた私のところまで、氷精である私でさえ思わず手をひくほどの冷たさ。
しかし、その気配はいつもの彼女と変わらぬ温かさ。
矛盾に満ちた感覚だが、それをうまく伝える言葉は無い。
かすかに彼女の声が響いてきた。それは呪文の詠唱。
自らの全てを託す。力ある言霊。
其の者蒼く我身に集う 彼方の夢に心弾ませ
其の者紅く世界を包む 此方の想い案じ給ひて
白き封衣 紡いで詠へ 淡き氷印 纏うて眠れ
『完全なる 永遠の静謐 』
風がやむ。音が消える。時すら止まったのか。
無音の世界。動くものはいない。
ほんの一瞬前と異なるのは、湖岸に現出した巨大な氷柱。
氷に囚われた札使いは動かない。
しかし、彼女もうずくまったまま動かない。
しばし、全てを傍観してしまう。
ふと我にかえり、彼女に駆け寄る。
抱き起こした彼女は、普段の温もりが幻であるかのように冷たい。
目を硬く閉じ、動く気配を見せない。
ねぇ、起きてよ。行っちゃやだよ。ねぇ、ねぇ・・・。
彼女は動かない。
ねぇ、目を開けてよ。またいつもみたいに微笑ってよ・・・。
彼女は動かない。
ねぇ、起きてよ…。目を開けてよ……。
私、もう、一人は嫌だよ・・・。
涙がこぼれた。次から次へと溢れて止まらなかった。
弱かった私。友達など要らないと強がった私。一人心細さに泣いた私。
一番最初に凍らせて、彼女に出会ってからも、最後まで融けることなく残っていた
私を形作る最後の欠片。
体を揺さぶる。ほとんど叩きつけるように言葉を浴びせる。
ねぇ、起きて、起きてよ。起きてってば!
それでも彼女は力なく横たわっている。
溢れた涙が頬を伝い、彼女の埃にまみれた顔に落ちる。
これで目が覚めたら、などと馬鹿なことを考え・・・
馬鹿でもいい。彼女が目を覚ましてくれるのなら、なんだっていい。
ねぇ、チルノ…。
細く小さい声。
私は最初それを聞き逃してしまった。
ねぇ、チルノ…そこにいるの?
今度は聞き取った。慌てて答える。
うんっ。いる。いるよっ。よかった。目が覚めたんだね!
ふふ、少しは私の気持がわかったかな。
うっすらと目を開けて彼女が言う。
わかった。こんなの、もう嫌だよ。だから、だから…。
ねぇ、氷はどっちにあるの。
言葉を遮って彼女が言う。
どっちって、あっち側にあるけど。
そっちを向かせてくれないかな。
え、うん。いいけど…。
私はいぶかしむ。彼女からも見えない位置ではないはずなのに。
まさか、と思う。
ねぇ、もしかして目が見えないの…。
ちょっとね。あ、うん。ありがと。
そういって彼女は氷柱に向かって手をかざす。
すると、融ける気配すら見せなかった氷柱にひびが入る。
一本、二本、三本・・・
次々とひびは増え、やがて自重を支えられなくなって崩壊し、霧散した。
氷の戒めから解放された札使いが歩み寄る。何が起きたのかわからないといった顔。
それは私も同じ。
なぜだ。
どうして。
私と彼の声がハモる。
彼女は薄い微笑みを浮かべて答えた。
私はけんかが嫌い。でも、誰かが死んじゃうのはもっと嫌い。
だからだよ。
そう言った彼女に札使いは問う。その表情は沈痛。
誰かの中に、自分は入っていないのか。
その言葉に私ははっとする。あえて考えないようにしていたことだ。
彼女はそれには答えずに言う。
この湖をお願いね。これから、大変になるかもしれないから。
何をしろと。
何も。ただ、見守っていてくれればいいの。
ここは、私が一番好きなところだから。
そうか…。
すべて決まった事であるかのような雰囲気に、慌てて口をはさむ。
ちょ、ちょっと!二人で話をすすめないで!!
だめ。だめだよそんなの。あなたがいなくなったら、誰がここを守るの。
認めない。そんなの、絶対認めないから!!
彼女は微笑む。それはいつもと同じ、暖かく、柔らかい天使の微笑。
ゴメンね。でも、チルノは一人じゃないよ。湖には、みんながいる。
あんなにいっぱい、友達がいるじゃない。
だって…だからって・・・
後は言葉にならない。
しゃくりあげている私を横目に札使いが言う。
最後にこんな事を言うのもなんだが…。
なぁに。
嬢ちゃんの名前、教えてもらえないか。
あれ、勝ったのは私だよ。
生き延びたのは俺の方だ。だから勝ったのは俺の方。
そういうことにしてくれよ…。
しかたないなぁ。一回しか言わないからちゃんと聞いてね。
チルノも、私のこと、忘れないで…。
私は必死に首を横に振る。ずっと名前は知りたかった。
でも、こんなのは嫌だ。嫌だよ。
いい? 私の、私の…名前は・・・・・・
終章
今年もまた、季節は廻る。
今年はいろいろな事が起きた。夏には紅い霧がでたり、
何時までたっても春がこなかったり。
かと、思えばいきなり桜が満開になってみたり。
騒がしいこの幻想郷でも、なかなかに変化にとんだ年だった。
私は今もこの湖に住んでいて、妖怪たちのまとめ役をしている。
彼らは、いろいろと私を頼ってくれるし、私もそれなりに迷惑をかけたりもしている。
みんなは、私が強くなったと言ってくれるけど、私はそうは思っていない。
私は彼女と出逢った時からずっと、負けず嫌いで、意地っ張りで、寂しがり屋の氷精のままなんだと思う。
でも、少しだけ変わったこともある。
もう、心を凍らせる事はない。寂しい時は一緒にいてくれる友達もいる。
だから私は笑う。彼女がそうしていたように(彼女のような微笑みはできないけれど)
湖は今日も変わらず月影を映す。
森には(普通の)霧がかかり、風は静かに湖面を撫でる。
湖面に自分の姿を映す。
今の私は彼女にはどう見えているのだろうか。
それはわからないけど、もし誰かが彼女に出会うなら、それはきっと春のような雰囲気と心を持った
笑顔のよく似合う少女であろう。
そう、思うのだ。
私の中の彼女は、今でも変らず微笑んでくれる。
だから、私は毎日彼女の眠る湖に向かって呼びかける。
リリ-っ!。私は、今日も………元気だよっ!!!
戦闘の描写を気にされてますが、別に問題はなかったかと思います。
私が気になった所としては、キャラの発言にカギカッコが使われていなかったために、地の文なのか発言なのかがちょっと分かりにくかった事ですね。ただ、そういう表現方法が作品の演出として非常に魅力的でもあっただけに、ある程度のマイナス面は仕方がないのかも知れませんけど。
ともあれ、素敵なお話をありがとうございます。この作品とその主人公たちに敬意を表し、ちょっくら人気投票EXTRAに行ってきます(出撃AA略)。
ほぼ対極にある2人を結びつける自信が無く、最後に名前が明かされたときはホッとしました。ステキです。
本気で感激しました。いや、話だけじゃなくて、設定とか描写とか!!
自分の中でベストオブSSに認定されました(ぉ
リリーの生き様かっきーよう
読み終えて『生まれてくる種族を間違えたとしか・・・』の部分思い出してははぁ、なるほどねと思いました。
次に生まれ変わる時は間違えずに春の妖精として現れるんでしょうなぁ。
ともかく良い作品有り難うございます。