桜も散り初めに入り、木々の緑も少しずつたくましさを見せ始める頃、
博麗神社では、紅白の巫女と黒白の魔女が、縁側の日溜りで淹れたてのお茶をすすっていた。
「あっ」
ガチャン
お茶が手にこぼれ、紅白の巫女、博麗霊夢は思わず湯のみから手を放してしまった。
「あ~あ、やっちゃった。縁起悪いわね。」
それを横目で眺めていた黒白の魔女、霧雨魔理沙が口の端をにやりとあげて言った。
「そうか? 私の茶には茶柱が立ってるんだが。こいつは春から縁起が良いぜ。」
「何言ってるのよ。縁起とは全く無縁の格好をしてるくせに。」
「ほぉ。すると霊夢は縁起が悪い方を真実と受け取るわけか?」
魔理沙はますますにやにやしながら霊夢を軽く挑発した。
「そうよ。だって、これから湯のみの掃除をしなければいけないじゃない。」
「それは、自業自得というものだぜ。」
「うるさいわね。」
そうこうしているうちに、割れた湯のみの片付けも終わり、新しいお茶を淹れて飲もうと口をつけた時、
「霊夢~~~~~~!!!!!!!!!!」
ガチャン
「…やっぱり縁起悪いわね。」
「違いないぜ。」
「レティが!レティが!!!」
「チルノ、とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いたらどうだ。」
「あ、ありがと。って、あちゃちゃちゃ!溶けちゃうわよ、馬鹿!」
「魔理沙…」
「すまん」
「で、レティがどうしたの?」
「レティが、死んじゃいそうなの!」
チルノの言葉に二人はそろって首をかしげた。
「? それって、春が来たから消… いえ、お別れするってことじゃないの?」
「でも、もう春になってからだいぶ経つぜ? 今までよく居られたな。」
「違うの!そうじゃないの! レティが言ってた。春になって旅立たなければならない境界をずらされたって! それで、春になってもここに居なければならなくなって、それで…」
しゃべるにつれ、チルノの声に嗚咽が混じり始め、最後にはとうとう言葉が詰まって出なくなった。
「それで、どうしたの?」
霊夢はしゃくりあげているチルノの頭をなでながら、慈しむようにやさしく話し掛けた、
「れ、霊夢… 霊夢~~~~~~!!!!!!!!」
チルノは感極まって、詰まっていた全てを吐き出した。
「そう、だったの…」
「…」
霊夢はいつになく神妙な顔つきで、チルノの頭をなで続けていた。
魔理沙もいつもの笑みは完全に消え、目をつぶりながら考えを巡らせていた。
「なぁ霊夢。やっぱこれって。」
「そうね、境界を操る奴なんて、あいつぐらいしかいないし。あんだけ懲らしめたのにまだ懲りてなかったのかしら。」
魔理沙はまた少し考えるそぶりを見せた後、チルノにおもむろに尋ねた。
「…なぁ、チルノ。レティはそいつの特徴とか言ってなかったか?」
「え… そういえば、少女って言ってた。」
「少女か。なぁ霊夢。」
「何よ。」
「おまえ、あいつのこと、少女だと思うか。」
「またずいぶんと答えにくい質問をぶつけてくるわね。魔理沙はどう思うのよ。」
「そりゃ、多分霊夢の考えてる事と同じだと思うぜ。」
「ずるいわね。」
「命は惜しいからな。」
「そりゃそうね。」
「で、だ。」
と、何か触れてはならないことをさらりと流したあと、魔理沙は二人に向き合って言った。
「とりあえず、境界を操れる奴は私と霊夢の知っている限り一人しかいない。ただ、そいつがレティの境界を操ったかどうかは疑わしい。」
「そうね。」
「じゃ、じゃあどうすれば?!」
興奮するチルノを押さえつけて魔理沙は言葉を続けた。
「落ち着けって。いいか? とりあえず、今しなければいけないことは、レティを治療することと、境界を操った奴をみつけてレティの境界を元に戻させることだ。治療の方は、私と、あとパチュリーに頼んで何とかするから、霊夢はあいつのところへ行って、境界を操った奴にこころあたりがないか聞き出してくれないか。」
「…いいわ。治療は専門じゃないし、妖怪調伏なら慣れてるから、嫌が応でも訊き出してやるわ。」
「…頼もしいぜ。」
「わ、私は?」
「あなたは、レティについてあげなさい。それが何よりの薬よ。大丈夫。操った奴は首に縄をつけてでもひっ捕らえてやるわ。」
「うん… うん!」
ここに来てチルノの瞳にようやく生気が戻ったのを確認して、霊夢はいつもの調子で言った。
「じゃ、泣き虫恋娘も泣き止んだ事だし、とっとと片付けましょうか。」
「なっ…! 泣き虫って言うなーーー!」
「…恋娘はいいのか。」
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私は何物なんだろう。
私のちからは何の為にあるんだろう。
私は何で生きているんだろう。
他の何物でもないわたし
他の何物にもないちから
他の何物とも変えられないさだめ
私を形つくるのは何?
私を形つくるのは誰?
私を形つくるのは…
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季節はどこにでも平等に訪れる。
それは、ここ紅魔館でも例外ではなく、
全体を紅で塗り固められたその館の中にも、穏やかな春の気配が充満していた。
その入り口で門番をしている中国風の衣装を纏った少女は、春の恩恵を一身に受け、甘美な世界に旅立っている最中であった。
「むにゃむにゃ… …うふふ、大した事ないわね… この紅美鈴様に勝とうなんて百年…」
……ゴゴゴゴゴゴ
「う、う~ん、…え?」
ゴォォォオオオオオオオオオオ
「? な、何?」
ドカーーーーーーン!!!!
「キャアアアアアアアアア」
派手な閃光とともに門が吹っ飛ばされ、哀れな門番はその門の下敷きになっていた。
「よ。すまん、ちょっと急ぎの用で、ここを通らせてもらうぜ。」
「…だからって、乱暴にも程があるわよ… って、こら待てーーーー!」
しかし、門番の絶叫はすでに届かず、あたりは嵐が過ぎ去った後のような有り様が広がるばかりであった。
「ああ…、またお仕置きが待ってるわ… がくっ」
「パチュリー、パチュリーはいるか?」
ヴワル魔法図書館。ありとあらゆる文献がそろうこの世の知識の貯蔵庫。
その知識の中心で、いつものようにその少女は本を読んでいた。
「あら、どうしたの魔理沙。そんなに血相を変えて」
寝巻き姿の少女は、本から視線を上目使いになる形でわずかに上げ、無味乾燥な調子で言った。
「すまないが、一刻を争う事態なんだ。」
そう前置きをして、魔理沙はこれまでの経緯を一息に説明した。
魔理沙の説明を終始変わらぬ表情で聞いていたパチュリーは最後に少しだけ息を吸うと、ため息を吐くように話し出した。
「… 残念だけど、治す方法はわからないわ。」
「そうなのか?」
この本と知識の加護を受けている少女でさえ、わからないのか?
心なしか、パチュリーの声に感情のノイズが混じっている気がする… そう魔理沙は感じた。
「今のレティは、何物でもないの。」
「何物でもない?」
「そう。否定の概念でしか存在しないもの。『何かである』ものではなく、『何かではない』もの。『何かではない』とは言えても、『何かである』とは言えないもの。…だから、何物でもない。それが今のレティ。」
パチュリーはまるで呪文のように言葉をくるくる使い回して言った。
「もう少し、わかりやすく説明してくれないか。」
「…いい? 魔理沙。 本来レティは冬の妖怪なの。冬とともに現れ、冬とともに生き、冬とともに消える。それが冬の妖怪。」
「ああ。」
「けど、境界をずらされたレティは、冬が終わっても消えることはなかった。その時点で、レティは冬との関係を絶たれ、冬の妖怪ではなくなった。」
「冬の妖怪ではない…」
「そう、レティは冬の妖怪ではない。そしてそれが今のレティを定義する全てなの。何かであるとは言えない。ただ、冬の妖怪ではないとしか言えない存在。だから何物とも言えない。それが今のレティよ。」
「…」
「治療は、その対象がはっきりわかってこそ効果を発揮するわ。人間の風邪とわかっていれば、それを治療するロジックを構築することで、確実に効果をあげることができるし、それは妖怪でも妖精でもかわらないけど…」
「ああ、わかった。何物でもないものに対しては、そのロジックの組みようがそもそも無いんだ。」
「そういうこと。何をどのようにすれば利くのかわからないし、せいぜい、汎用性の高そうな治療法を試みることぐらいしか手が無いの。それだって、相対的なものに過ぎないし、決定的な治療法にはなりえないと思うけど。」
そこまで言うと、パチュリーは軽く咳き込んだ。
ここまでしゃべるだけでも、この病弱な少女にとってはかなりの負担になっているのだろう。
「ありがとな、パチュリー。」
魔理沙は、パチュリーの背中を軽くさすりながら言った。
すると、今までほとんど無表情だったパチュリーがわずかに頬を紅潮させて、
「ふふ、魔理沙はやっぱり魔理沙ね。」と嬉しそうにつぶやいた。
「どういう意味だ。」
「言葉どおりの意味よ。」
「ちぇ」
魔理沙も視線を浮わつかせながら自分の頬が熱くなるのを感じていたそのとき、突然魔理沙の頭の中に閃きが走った。
「…ありがとな。パチュリー」
「え?」
「さっきの言葉、確かにそのとおりだぜ。レティは今確かに冬の妖怪ではないかもしれないけど、それでもレティはやっぱりレティなんだよ。冬との関係性は絶たれてしまったけど、チルノや私たちとの関わりは絶たれていないんだ。だから、治療方法は、他ならぬ私達、特に一番レティを知っているチルノ自身が鍵を握っているはずなんだ。」
「あ…」
パチュリーはほんの一瞬目を見開いたあと、少し寂しそうに、それでも嬉しそうに魔理沙を見つめた。
「そうね。そうかも知れないわ。」
「よし。そうと決まれば、出来るだけ汎用性の高そうな治療法とチルノの援護の二つ柱で、レティの境界が戻るまでなんとか持ちこたえさせるぜ。」
「魔理沙…」
「というわけで、すまん、パチュリー、また数冊本を借りてくぜ。」
いつもは勝手に持ち出すくせに。パチュリーはそう思いながらも何だか無性におかしくなった。
「持ってかないで、とは言えないわね。流石に。」
「ふふ。パチュリーはやっぱりパチュリーだよな。」
「どういう意味よ。」
「言葉どおりの意味だぜ。」
そう言うと、魔理沙は、白い歯を剥き出しにして笑った。
パチュリーの好きな、あの気持ちのいい笑顔だった。
「…またいらっしゃい。」
「呼ばれなくてもまたくるぜ。」
そう挨拶を交わして、魔理沙は一気に飛び去った。
バヒュュンンンンンンン!
「…やっぱり結界を張ろうかしら」
パチュリーのつぶやきも空しく、あたりは嵐が過ぎ去った後のような有り様が広がるばかりであった。
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次空の狭間にあるマヨヒガ。
日本の田舎の一軒屋のような趣のその建物にも、春の息吹がすっかりと根付き、
その中でこれまた日本情緒あふれるようなひなびた生活を送る式の姿があった。
「橙~ 昼ご飯が出来たから運ぶの手伝ってくれ~」
頭に二股に分かれた帽子をかぶった割烹着姿の狐の式が、台所から居間へ向かって呼んだ。
「はい、藍様~」
すぐに、黒猫の元気な式が返事をして、とてとてと台所に駆け出していった。
二人分の食器を運びながら二人の式は仲の良い会話を続けた。
「春ももうたけなわだな。どうだ、今度ピクニックにでも行かないか。」
「うん!」
「橙はどこに行きたい?」
「え? う~ん。 お魚が一杯食べられるとこなんかいいかな。藍様は?」
「ははは、そうだなぁ…」
と居間の障子を開けたとき、二人は出来ればもう二度と会いたくなかった人物を目にしてしまった。
「あ、あああああ~~~~~~! お前はいつかの略奪巫女!」
「失礼ね。今日は略奪しに来たわけじゃないわ。」
「(…今日は?)」
藍はこめかみを押さえ、背中に逃げ込んだ橙をかばいながら、そのすっかりくつろいでいる紅白の巫女をなんとも言えない表情で眺めた。
「…で、今日は何の用だ。」
「用があるのはあなたたちの主人によ。もう春なんだから当然冬眠からはさめてるわよね。」
「ああ。と言いたいところだが、紫様は冬眠からさめるや否や今度は『やっぱり春は暁を覚えずよね』とかおっしゃって、またすぐ寝に入られた。」
疲れと同情と哀れみが複雑に責めぎあった視線が霊夢に注がれた。
「… 相変わらず大変ね。」
「紫様はそういう方だから。 まぁ、何にしても夜までは起きてこられないだろう。」
「そう。 じゃあ実力行使しかなさそうね。」
霊夢はそう言うと、いつの間に持ってきたのか、そばにあった袋をつかんだ。
「! や、やるか?!」
「待て、橙。 …霊夢、それは?」
二人の目の前で霊夢が袋の中から勢い良く何かを取り出すと、突然、あたりに漆黒の闇が噴き出した。
「こんなこともあろうかと、途中でこいつを捕まえてきたのよね。」
霊夢はこともなげに言うとその何か=金髪の片側に赤いリボンをつけた少女を畳の上に載せた。
今やこの部屋中に充満している闇は、この少女から発せられているようだった。
「ううう。ひどい~」
「善は急げ。」
「全然善じゃない~」
「ふん。そんな子供だましで起きてこられるもんか。」
「…霊夢。言いにくいんだが、私もこれで紫様が起きてこられるとは…」
「あらどうかしら、何事もやってみなければわからないわ。」
「おなかすいた~」
などと、おのおのがめいめいに喋っていると
「ああ、良く寝た。ねえ藍、晩御飯まだぁ?」
と、スキマから妖艶な妖怪がだらしない格好で四人の前に現れた。
「それで、何かご用かしら。」
先ほどの痴態がまるでなかったかのような平静な口調で、お茶をすすりながらスキマ妖怪は霊夢に尋ねた。
「ええ。単刀直入に聞きたいんだけど、あなた、レティ=ホワイトロックの境界を操らなかった?」
「え?」
「霊夢。自慢にも何にもならないが、紫様は冬からこの方ずっと寝っぱなしだったんだ。そんなことはあるはずない。」
「そうだそうだ。…て、紫様?」
意気高々な式達とは対照的に、紫は少し俯き加減になっていた。
「あ、ごめんなさいね。霊夢。よろしければその話をもう少し詳しく聞かせてくださるかしら。」
「もちろんそのつもりで来たんだけど。」
いささか、拍子抜けした感じで、それでも一部始終を霊夢が伝え終わると、紫はますます俯いてしまった。
「あんた、やっぱり心当たりがあるの?」
「…。 霊夢、私もそのレティの元へ行きます。その境界をずらしたという少女にも… 心当たりが、あります。」
「紫様?」
「紫様?」
何故か悲痛なまでの紫の声に思わず藍と橙が呼びかけていた。
「大丈夫よ。ごめんなさい。藍、橙、今から少し出かけてくるわね。お留守番、よろしくね。」
二人の心配を和らげるかのように微笑んで、紫は言った。
「…分かりました。気をつけて行って来て下さい。」
「紫様… いってらっしゃい。」
「ええ。それじゃあ霊夢。場所の案内をお願いできるかしら。」
「いいけど、大丈夫?」
「大丈夫です。じゃあね、藍、橙、いってきます。 …そうそう、今夜は四人分の食事を用意しておいてね。」
そう言うと、霊夢を連れて紫はスキマの中に消えていった。
「…幸せの境界 ついにこの時が来たのね」
「? どういう意味」
「すぐに分かるわ。霊夢、その少女は―――」
その消えた場所をしばらく眺めたのち、橙が藍に体を預けて言った。
「ねぇ、藍様。紫様大丈夫かな。」
藍は小さな橙の体をかるく抱きしめ、頭をゆっくりなでると、
「大丈夫だ。橙。それより、今夜は四人分の食事を用意しないといけないからな。食事の用意も手伝ってくれ。」
と力強い調子で言った。
「! う、うん!藍様! 手伝う手伝う!」
「よしよし。ご褒美にまた新しい符を教えてやろうな。」
「あ、ありがとう藍様! 今度こそあの生意気な巫女をやっつけてやるんだから。」
「ははは。その意気だ。」
こうして、二人の式は、帰ってくる主人のため、やはり仲の良い会話をしながら夕飯の準備にとりかかり始めた。
「ううう、あたしは一体…」
こころなしか、部屋の一角がますます暗くなった。