桜 満ちる 冥府の奥に
静か 眠る 遥けき 想い
夜が紫(ゆかり)を帯びている。
それは悠久の時の果て。月はなく、星とて見えず、ただ寂寞(じゃくまく)たる夜空の底より遙かな高みへ、天を摩してそびえ立つ巨樹。それは千歳に佇み、億年を閲(けみ)し、永劫をも識る一本(ひともと)の妖(あやかし)――。
白く淡く、薄墨を映したその花弁がひとひら、ふつりと枝を離れ遠く地を目掛けて舞い降り始めた。春の夜、微涼を含む風に乗って花弁は右へ、左へ――また右へ。綾織りの羅(うすもの)よりもすべらかに、天女の羽衣よりも軽く透き徹り。その根はほのかな藍に色付いて、その尖はかすかな朱に彩られて、花弁は遠い地を目指しゆるゆると舞い降りる。左へ、右へ、また左へ――夜闇に沈む朔月のややも傾く程に間をかけて、花弁は巨樹の根元、黒く豊潤に湿った沃土へ、そこに端座した少女の膝の上へと長い長い落下を終えた。
練り絹の経帷子(きょうかたびら)に白足袋、白頭巾。右の手には石突きを嵌めた杖を掴み、左の手には珊瑚の数珠を提げて、その珠をそっとつまぐっている。此岸より彼岸へ向かう時の流れの、ここにだけ淀み滞ったような――時の河の堰(せき)のように凍てついて、動きの絶えたこの光景の中で、唯一その指だけが静かにうごめき珠をくり続けていた。九十四、九十五、九十六。つややかな珊瑚を愛でるように、また時折戸惑うように間を置いて、数珠はそっと手繰られる。
ふいに。
蒼ざめた唇がほんの僅かに、まるで接吻を乞うように上向けて開かれ――ごぽりと。紅い、血の泡を吐いた。
少女の帷子は既に鮮やかな朱へ染まり、胸元からは、そのごくゆるやかな曲線に抗うかのように――それ自体が鋭い意志を持つ別個の生物のように、研ぎ澄まされた刃を持つ懐剣が生え出でている。溢れる血潮は白無垢の死装束を伝い、黒く湿り気を帯びた沃土に染み、そして地中深く喰らい込んだ妖の根へと滴る。妖樹はその幼い、稚(いとけな)い命をこの上ない貪欲さで吸い尽くそうとしていた。九十九、百、百一……しかし尚も少女は数珠を爪繰り、もはや声にならない声を絞って歌を――切々たる哀調を帯びた、死幻の歌を唄っている。血の泡が弾け、筋となって白い肌を伝う。
また赤く青い花弁のひとひらが枝を離れ、遙か高みから星の落ちる道をなぞって少女の膝へ舞い落ちた。続いてもうひとひら、更にもうひとひら。程なくして次から次へと、花弁はまるで雪のように降り続ける。――紫色の夜、月を圧して枝を広げ、爛漫と咲き誇っていた大樹が今しも散り去ろうとしていた。苦悶を叫んで梢がそよぎ、厚い樹皮に覆われた幹が、焦げ付くような憎悪に狂ってどよめいた。花弁はいよいよ勢いを増して降り注ぎ、白雪が朱に染まった少女に新たな死出の装いを着せ付ける。
百八の数珠の、輝く珊瑚の珠の最後のひとつに指を伸ばした時……少女は声も無く、寂莫たる夜にただ独りで事切れた。
そっと微笑を浮かべた亡骸へ、雪のように降りしきるその花は――
漆黒に桜の紋が美しい。
胸の高さに捧げた長大な太刀に、そっと指を這わせる。凍てつくような春の朝、肌を刺す冷気を吸って漆地の肌触りは硬く澄み切っていた。ゆるやかに呼吸を整え、少女は瞑目(めいもく)する――。
あるかなしかの風が、額で切り揃えられた銀髪を揺らした。白皙(はくせき)の肌に包まれた面差しに未だ成熟の兆しはなく、頬からおとがいにかけての線にも幼い尖りが残されている。花ではなく、また蕾(つぼみ)にも到らず――若枝にやっとほころんだ新芽のような、そんな少女だった。
浅く吸い、深く吐く。その幾度かの繰り返しを経て、彫像の少女が目を開く。柄元に添えられていた指に力が込められ、秋水の刃が音もなく鞘走った。一度鯉口を切ったら、後は躊躇しない。太刀はすらりと抜き放たれ、優雅に弧を描くと少女の晴眼に収まる。
虚空を見据える瞳は、紅(くれない)――。
白玉楼の庭師。魂魄妖夢の朝は、こうして始まる。
「つー」
繰り返しになるが、凍てつくような春の朝である。桟敷の板張りは霜を含んで黒々と濡れ、いずこからか差し込む薄明かりを鈍く照り返す。年経た古木の佇まいにはまたある種の風情もあるだろうが――差し当たってそんな事は問題ではない。
「つー」
蓬莱山(ほうらいさん)の冠雪よりも、その雪解けから成る清流よりも。それは、ただつめたいのだ。取り分け寝起き端の少女のきゃしゃな素足には、とてつもなく。
「つー……め」
たい、と発音しなかったのは武門に志す者としてのささやかな、しかしけして譲れぬ矜持(きょうじ)であり、また自身研ぎ澄まされた刃のように容赦なく、兎角につけ厳格であった先代の教えでもある。老師は口癖のように言ったものだ。
(心頭滅却すれば火もまた涼し、心頭いささか滅却できれば火もまあぬくい(、、、)くらいには――)
「……つー」
然るが故に、妖夢は雨の日も風の日も朝練を欠かさず、打たれながら吹かれながら、しばしば風邪など患いつつもたゆまぬ精進を重ねてきた。踏み出す足は既に感覚がなく、その表情とて泣き顔のまま硬直しているとしても、差し当たってそんな事は問題ではない……事になっているのだ。
「つー」
さておいて、魂魄妖夢にはみっつ秘密がある。
(右手(めて)に小刀、弓手(ゆんで)に太刀。それぞれ中段と脇構えに収め、腰を落とす。太刀を左上段に構え直すと同時、小刀は筋交いに切り上げ――間髪入れず太刀を袈裟に払って、右の脇構えに)
ひとつ、実は庭師と云う肩書きは余り好きになれない。
ちょっと古臭いし、野暮ったい。自分は桜の世話こそすれ土いじりとは無縁だし、造園作業など考えた事もない。何より、庭の手入れは刀と全く関わりがないのだ。どうせなら剣士とか、何なら用心棒とか。いっそ人斬りでも構わない。本当はもっとこう、武張った呼ばれ方をしてみたかった。
(振り上げた小刀も遊ばせていてはいけない。ひとまず右に体を開いて脾腹(ひばら)を隠し、一拍の後踏み込んで左面を打つ)
白玉楼の庭師、いざ参る――なんて名乗っても締まらない気がしてしまう。大上段に振りかぶった二刀を、枝切り鋏の刃に見立てたりして……思わず己の空想にかぶりを振った。いや、胸中でだけそうして、妖夢の身体は流れるような動きで型をそらんじている。素早い踏み込みに板張りが軋んだ。
(前腕だけの打ち込みでは一の太刀たり得ない。太刀を八双へ、小太刀を晴眼へ。構えを移行させる間にも、絶えず切っ先は相手の喉元に差し向ける)
名乗りといえば、ふたつ。実は自分の名前がいまひとつ好きではない。
とは言っても、妖夢が気に入らないと云う訳ではない。そちらは寧ろ逆で、まず響きが悪くない。字面もまずまず良好で、ゆめのあやかしと読み下せばどこかしら儚げな趣もある。口にする時はよおむ、などとだらしない間延びを許さず、くっきりようむと発音するのがお気に入りだった。しかし……コンパクはどうだろう。
(切り下げる左を牽制に。右は逆袈裟、それも即座に引き戻して下段につける。半歩退いて打ち込みに備え、腰を沈めるここが正念場)
そう、コンパクはどうだろう。コンパクはどうなのか。響きははっきり言って間抜けだ。そうなると字面がどうだって補いにはならないし、第一そちらだって良くないに決まっている。コンパク。その字義、意味する所に到っては……
どう、なのだろう?
(短刀を下段に差したまま継ぎ足に一歩進め、転瞬横に薙いで長刀を上段に。たわめた足を一息に踏み抜いて飛び込み――真一文字に正面を断ち割る)
銀髪が跳ね、白刃が空を裂いた。六調子の打ちは残心で基本姿勢に戻り、打突は間断なく繰り返される。妖夢は先刻と同じ所作を、今度は可能な限り迅速になぞり始めた。素足が床を敲(たた)く音が連続し、深く吐き出した呼気が白く霞のように浮かぶと、次の瞬間には幾筋もの剣撃で千々に分かたれる。白い頬にかすかな赤味が差し、瞳はまどろむような半眼にまで伏せられた。
――もし妖夢に、朝の弱い主の書斎へ忍び込むくらいのふてぶてしさがあれば。たかが漢字二文字、調べ出して覚えるくらい造作もない話なのだが、そんなものは薬にしたくとも持ち合わせぬのが少女の少女たる由縁である。妖夢はただ己の無学に恥じ入り、少しばかり恥じ入り過ぎて未だにその疑問を小さな胸へ秘めたままにしている。しかし果たして忠は庭師の徳であり、誠は武人の操(みさお)なのだ。
そして凍てつくような春の朝。薄暗い桟敷に、いずこからか差し込むほのかな光を今は秋水の刃が受けて四方に弾き返していた。少女はか細い腕に長大な太刀を委ね、踊るように定められた型を取っていく。
ふいに、ようやく昇りつつある朝陽の一筋が、堅く閉ざされた板戸の合間の、あるかなしかの隙間をすり抜けて差し込まれた。表れた光の帯の中に、桜の花弁がひとひら。はらりと舞い込む。
――その瞬間。
少女の息遣いが途絶え、鋭い針のような殺気が空を疾った。刃が宙に軌跡だけを残してひるがえり、刹那、少女の胸元より銀光となって迸る。
一拍の沈黙。石火の早業という他ない突きに桜の花弁は――ただ、はらりと揺れただけだった。蝶のはばたきにも似た挙動で宙に返ると、虚空に佇立(ちょりつ)する太刀の峰へそっと舞い落ちる。
妖夢は嘆息し、手首を返して刃を引き寄せるとぱちりと鞘に納めた。腰に帯びるには長過ぎる刀を背に負うと、気怠げに歩を進め板戸の手前で落ちた花弁を拾い上げる。
湿り気を含んでつややかに光るそれを暫しもてあそび……程なく、興なげな面持ちで指を放した。軽い花弁は桟敷の宙に泳ぎ、妖夢は板戸に手をかける。
魂魄妖夢にはみっつ秘密がある。
ひとつ、実は庭師と云う肩書きは余り好きになれない。
ふたつ、実は自分の名前がいまひとつ好きではない。
みっつ、
がらりと開け放つと、目の眩むような陽射しと――桜、桜、桜。無数に舞い散る桜がざあ、と吹き込んだ。少女の小さな姿を覆い隠し、黒光りする板間も白茶けた漆喰の壁も、朽ちかけた梁の行き交う遠い天井さえも桜色に塗り潰して、花弁が吹雪となって乱舞する。
縦横に荒れ狂う雪風の隙間を縫って、紅の――かすかに、苛立たしげな険を帯びた瞳がまばたいた。
――実は、桜が嫌いだ。
しゃ、と歯切れの良い音を立てて開かれたのは暗紫の扇である。
降りしきる桜の雨の中、一対の扇が無数の花弁の隙間を縫うように滑り抜けると、桜もまたその軌跡を追って舞い上がる。軽やかなつむじ風に花は思い思いの方向へと煽られ、扇の持ち手を中心に渦を巻く様はさながら一輪の百合に寄り集う蝶といった風情。白足袋の爪先でとんと拍子を打ち、少女は誰ともなしに微笑んだ。
眉に墨を掃き、白装束は左前。額には巷説怪談宜しく三角の布を立て、すわ八百八町に化け出でようかといった装いだが――。頬は淡く朱に染まり、瞳はとろりとして焦点が定かでない。顔前で両の扇を交差させると、縁の赤い眼だけを覗かせて再度うふふと笑った。
酔っている。
「幽々子様――」
と、見たくない物を見てしまったと言いたげに面を伏せ、妖夢が顔を出した。一寸先は闇とは良く言ったもの、二百由旬(ゆじゅん)の庭は目蓋に覆い被さる桜を退けなければ自分の手の平も見分けられないような有様である。花びら避けに大振りな番傘を差して、庭師は円舞する主に咎めるような眼差しを向けた。
「あらあら妖夢ちゃん。お銚子の代わりならまだ当分は要らなくってよ?」
ここの発音は勿論これ以上ない所まで弛緩して、殆どよーむ(、、、)とでもいったようなものになっている。日頃滑舌の良い歌人だけに、酒が入ると呂律の乱れが耳につくのだ……妖夢は深く深く嘆息すると、未だ舞を止めようとしない主人、幽々子に傘を差しかける。
「酒類の貯えは薬湯からお神酒(みき)の類に至るまで残らず離れの大蔵に移しておきました。……確か錠前も下ろしてあった筈なのですが」
「そう!」
び、と扇を突き出して玉楼の姫は腰に手をやった。京人形を思わせる端正な面差しを小憎らしげにしかめ、小振りの唇を突き出して訴える。
「あの忌々しい南京ったら! 押しても引いてもかじってもびくともしないのよ? お屋敷中畳まで剥がして捜したのに鍵は見付からないし……いっそ扉に穴開けちゃおうかしらと思ったんだけど」
ととん、と拍子を踏み身をひるがえす。扇が差し向けられた先にはこんもりと桜の花弁が積もっていた。
「折良くこちらの黒魔さんに差し入れを頂いたものだから、ね」
見れば、小山の頂上からは僅かに黒い布地が覗いている。したたか酔い潰れてそのまま横になったものだろう……西行寺の宴席に連なったなら無理からぬ事と言えようか。妖夢はうんざりとそのとんがり帽子を見遣り、胸中なんてことをと呟いた。
「酒は憂いの玉箒(たまはばき)、両手に抱えて来てくれるなんて流石魔女だと思わない? あとで篤く御礼申し上げて頂戴ね」
「ええ。……掘り起こして」
酒一斗詩百篇と謳われたのは誰だったろうか? 酒精と粋人の切っても切れぬ間柄とはいえ、どうも幽々子にはその辺りの交わりが親密に過ぎるきらいがあった。酒池に溺れた土佐衛門、死人(しびと)の嬢は心の臓まで凍り付いている筈だが、その血管にはきっと人肌に燗した酒が流れているのだと妖夢は思う。
不意にごうと風が巻き、桜吹雪が流れる向きを変えた。束の間晴れた視界に遠く、一際高い桜の巨樹が垣間見え――幽々子は突風に背を押されたように一歩を踏み出して、そのままひらひらと歩き出してしまう。舞い足のまま黒魔の山をひょいと飛び越えると、耳慣れない節付けで唄うように言った。
「立って半畳寝て一畳、酒は呑んでも二合半、っと。お客様方も引き上げられた事だし、今年のお花見ももう終わりかしら?」
妖夢は小走りにその背に従って、
「桜も散り始めましたから。私もようやく片付けに取りかかれます」
「名残惜しいわねえ。だけど妖夢これ知ってる? 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは――」
「早く始めないと夜半には屋敷が桜に埋もれかねませんよ。それに西行妖の花びらはけして現世に近付けるなと先代の言い置きです」
「まあまあ庭師様はお仕事熱心であそばすこと。だけど仕方がないわね……」
言ってくるりときびすを返し、幽々子は右手の扇を閉じた。死に装束の隠しに手を入れたかと思うと、おもむろに途方もない大きさの酒瓶を取り出してみせる。
「西行寺家当主として、使用人を煩わせる訳にはいかないわっ」
土蜘蛛と篆書(てんしょ)された瓶がやおらに持ち上がり、殆ど真逆様になって死人姫の口に琥珀色の液体をぶちまけた。思わず番傘を取り落とし、情けない悲鳴を上げる妖夢の目前に程なくして空き瓶が転がる。
「甘露! これで栓を抜いたお酒は全部片付いたわね」
「幽々子様……」
哀訴をたたえた眼差しを左の扇で受け流し、幽々子はいよいよ上機嫌にうふふふと笑い出した。量にせよ銘柄にせよとても年頃の娘がきこしめして良いような代物ではないのだが、そこは東方幻想郷、それも比良坂(ひらさか)越した黄泉国(よもつくに)の住人である。養老の滝で暮らす少女を前にしては、現世の酒豪など物の数ではない。うわばみとて足があったなら矢張り裸足で逃げ出しただろう。
「いいじゃない桜ももう終わりなんだし。これは散りゆく春と交わす離別の水杯、泣かず吐かずがその背を見送る者の務めだわ」
自らの言葉に感じ入るように一拍間を置いて、幽々子は空いた利き手に筆を取りだした。扇を目の高さに持ち上げて、やにわに真面目くさった表情を作ってみせる。
「ここで一首」
こうしていると思いがけず端正な横顔に、露を含んだ瞳がよく映える。暗紫の扇に細筆が走ると、純白の墨が染め抜いたように浮かび上がった。数秒前のへべれけはどこに行ったものやら、清冽な流れを思わせる調子で淀みなく、朗々と詠み上げる。
「酒飲みは花に喩えりゃ蕾かな――」
上の句でひとまず間を置き、一拍、二拍。
……五拍を数えた妖夢がいぶかしげな視線を向けると、幽々子は扇を捧げ持った姿勢のまま微動だにしていない。不意の沈黙を余所(よそ)に風が巻き、桜が踊る。
「……口にね」
「はい」
「花びらが入ったわ」
「はあ」
もう堪らないといった様子でけたけたと笑いだし、幽冥楼閣の歌聖は扇を放り投げた。竹骨を張った蝙蝠(こうもり)は宙返りを打って桜色の地面に落ち、慌てて拾い上げようと身を屈めた妖夢の背に、ふと。ふわりと幽々子が覆い被さる。
「あなたも一席いかがかしら?」
肩越しに筆を伸ばし、まず詠み人の名をしたためる。云に鬼、白にまた鬼。思わずあ、と漏らした妖夢の呟きを聞き留めて、幽々子はささやくように告げた。
「知らなかった? あなたの姓は魂魄――人ならば誰もが宿す一対の霊。魂は善き精神を、魄は悪しき肉体を司り、相伴って命を形作る。陰陽(おんみょう)、或いは随神(かんながら)の道の心霊思想……遡れば大陸における民間信仰にまで行き着くらしいわ」
傍目にも上気して見えた主の肌はしかし、今妖夢の身体を慄(ふる)えさせる程に凍てついて感じられた。何とも答えかねて目を伏せたその背で、幽々子は熱に浮かされたような、しかしどこか寂しげな調子で続ける。
「遠く現世の、その果てをも越えた最果ての人間界。幾つも幾つも結界をくぐった先にあるその大陸が半人のあなたの故郷。死後互いに分かたれた魄は地に留まるけれど、魂は天に昇り長い輪廻の旅に出る……」
細い腕が首に絡まり、胸の前でゆるく重ねられた。短い沈黙の後、亡霊の姫はそっと妖夢の耳朶(じだ)に唇を寄せる。
「妖忌はこの庭から去ったわ。あなたもいつか……?」
「わ、私はけして――!」
訳もなくどぎまぎして、妖夢は弾かれたように口を切った。半ば引き剥がすようにして幽々子の腕を逃れ、胸元を抑えて主の正面に向き直る。と、幽々子もまたくるくると舞い足に数歩下がり、こちらに背を向けてとんと拍子を打った。肩越しに振り向く。
「少なくともお片付けが済むまではいてくれるのよね?」
その顔には悪戯っぽい表情があり、頬の横に上げた指先では大振りな鍵の輪が揺れて――はっと気付いて懐を探る妖夢に、うふふふふと笑う声。やられた。
「幽々子様っ!」
「うんうん。愛してるわよ妖夢」
三度(みたび)風が巻き、桜の吹雪が舞い上がる。飛び立つ蝶を伴って足早に遠ざかる背中を見送り――妖夢はもう! と叫んで番傘を地面に叩き付けた。降り積もった花弁がそれを柔らかく受け止め、事もなげに跳ね返してみせる。
「目も当てられないぜ……」
と、これは桜に埋もれた魔理沙の寝言。きっ、とばかり黒魔山を睨み付けた少女の頬もまた、桜色である。
時よ 巡れ 永遠 越え
富士見の 娘
かつ、こつこつ。かつ、こつこつ。
丹塗(にぬ)りの箸を逆しまに摘み上げ、ばちに見立てて空徳利の縁を小突く。それだけ聞けばいかにも行儀作法にそぐわぬ、酔客の手遊(てすさ)びのようだが――しかし妖夢の表情はといえば実に実に興なげで、その指が正確に規則的に上下する様などは、どこかしら器械めいた無感動を思わせる。
日中も薄暗い桜屋敷の厨(くりや)。当主の般若湯(はんにゃとう)を別とすれば亡霊達が特に飲み食いをする必要はないし、半ば人でもある庭師に同族の肉を啖(くら)う習慣はない。山菜と僅かな穀類、それに折に触れて豆や木の実の汁を添えた精進物が日頃の膳であり、従ってそれを賄(まかな)う設備もごくごくささやかなものである。こんな狭苦しい場所で立ち働くのはいかにも窮屈であるし、洗い物ならばいっそ川辺にでも出てこなしたいのが本当の所なのだが――閉め切った小窓の外で荒れ狂う桜を思えば、そう云う訳にもいかない。まだずっと小さかった頃、欠け茶碗に花びらをよそって飯事(ままごと)にしたっけ……回想に我知らず失笑を漏らし、妖夢はするりと頬を撫でた。
そして茫洋と宙に泳ぐその眼差しの先を、ふわりと猪口(ちょこ)が通り過ぎる。その後に小振りの杯、大柄な酒瓶が続き、更に銚子、酒升、ぐい呑み。挙げ句一抱えもありそうな大瓢箪が宙に浮かぶのを視界の端に捉えて、妖夢は現実に引き戻されたといった心持ちでうんざりと吐息した。箸持つ手を下げ、容赦なく立ちこめる酒臭から顔を背ける。
同時、列をなして流れる酒器類がぴたりと静止した。杯が酒瓶が、銚子が酒升がぐい飲みが一斉に妖夢を振り返ると、きーとかかーとかいったような甲高い声を上げ猛然と抗議する。
「はいはいはいはいはい。分かったわよもう」
言っておざなりに手を振り、妖夢は箸を摘み上げた。酒器どもはつんと顎を上げて正面に向き直ると、再び刻まれ出した三拍子に合わせて行進を再開。薄明かりに注意深く目を凝らせば、それらの一つ一つに大人の握り拳程の生き物がくっついているのが伺える。
「これだから妖精って嫌い……」
気取られぬように独りごちて、妖夢は器械的律動を継続した。妖精達は腕一杯に抱えた酒器を強拍で持ち上げ、続く二度の弱拍で運んでまた胸元に引き寄せる。片足を軸にくるりくるりと歩むそれはどうやら異国の舞踏であるらしかった。
全体何がそんなに愉しいものやら、皆一様にこぼれんばかりの笑みを浮かべ嬌声を上げつつの働き振りであるのだが――これが拍子を途切れさせると怒るし、うっかり間違えても怒る。では後は自分がやるからと厄介払いしようとしたら、狂憤に駆られた群衆に青磁の逸品を割られたので妖夢はすっかり諦観してしまった。かつこつと律動は続く。
「アン」
「ドゥ」
「トロワ~」
と、不意に響いた声に戸口を振り向くと、古びた木戸の前で三匹の妖精がぎくりと身をすくめた。何事もなかったような素振りで手に手を取り、陶製の大盃を運んでいるがよくよく見れば心持ち顔が赤い。下手で底を支える一匹がひっくと喉を鳴らすと盃がたぷんと応えた。
「……」
慌てて口を抑える様を妖夢は半眼に睨み据え、
「いや違う違う」
「そっちじゃなくてこっちよ」
「幽霊だしね~」
弦楽器の弓に肩を小突かれてまたぐるりと振り返った。見れば粗い木目の隙間を抜けるように黒、白、赤の三色帽子が浮かび、その下には鏡に映したようにそっくり同じ顔が三つ。あろう事か屋敷の壁から茸のように生え出ている。
プリズムリバー三姉妹、あの世では騒霊音楽隊で通る三人組だ。
「いや、昨晩はご馳走になったからさ」
「何か手伝える事でもないかなってね」
「ルナサ姉さんに引っ張られてきたの~」
顔立ちこそ瓜三つ、互いに似通ってはいてもそこに浮かぶ表情はまるで趣きが違う。妖夢は戸惑いがちに三つの顔を見比べ――差しあたって生真面目そうな面持ちの長女を選んで話しかけた。お愛想程度に笑いかける。
「ありがとう。見ての通り手は足りてるんだけど……取り敢えず、入って」ぬりかべと話してるみたいで、ちょっと気色が悪い。
するりと事もなげに壁を抜ける騒霊達を招き入れて、妖夢は心持ち壁際に寄った。空いた隙間に黒服のルナサが腰を下ろし、他に座れそうな余裕もないので白と赤、つまりメルランとリリカはそのまま滞空する。顔馴染の妖精が幾匹か、手元の酒器を仲間に押し付けてその膝へ飛びついた。
「こらこら、お仕事放り出しちゃ駄目よ」
「働かざる者食われるべしだぞ~」
言いつつも各々の楽器を取り出し、即興で二重奏を始める。妖精達は歓声で応えて輪になると、先程までのものよりは幾分軽快な踊りを舞い始めた――薄暗い中に蜉蝣(かげろう)のそれを思わせる翅(はね)がはためき、半透明の皮膜が仄明りを受けて虹色にきらめく。ルナサがつと視線で塗り箸を示すと、独白めかした調子で言った。
「それ、もう止めても大丈夫なんじゃないか」
「あ……本当だ」
見れば早瀬のような曲調に合わせて、酒器を運ぶ群れもまた流れを早めている。これなら夜更け前にあらかた片付くかもしれない――痺れた手首を回しながら妖夢が軽く頭を下げると、黒い騒霊はうんとああの中間のような声を上げて頬を掻いた。話題を探すように周囲を見回す。
「しかし、毎年これじゃあんたも大変だな」
「うーん。こういうのも仕事の内だから」
「頭が下がるよ。それはそうと……」
柱の陰に浮かんでいた四弦の提琴(ていきん)を手招きすると、小鳥でも扱うように左肩にとまらせて直接弓をあてがう。軽く数小節を奏でた所で、ふと妖夢が小首を傾げた――耳慣れない旋律だが、しかし微かに聞き覚えも感じる。長く余韻を引かせて弓を離し、ルナサが目顔に問うた。
「それは……そう、たしか昨日の宴で」
「ネクロファンタジア」
「え、ねく――?」
横文字の響きに難しい顔をする妖夢を脇目に見遣って、ルナサは繰り返す。
「ネクロファンタジア。直に訳せば死の幻想、くらいの意味になるかな。昨晩はこれをプログラムのとりに据えてたんだけどさ」
暫し言い淀み、帽子の上から髪をかきまわした。できる限り言葉を選ぼうと視線を上向け、結局何とも言いかねて感じたままを喋る。
「聴いてるお姫様の様子が変だった。酒瓶に抱きついたまま、急に呆(ほう)けたような顔付きになって――どこか気に障るような節があったと思うかい」
真剣そのものといった面持ちの中で、鳶色(とびいろ)の瞳に気遣わしげな表情が浮かんでいる。――不意にこの生真面目な騒霊に対する漠然とした好感を抱いて、妖夢は心付けるように微笑んでみせた。
「ううん、心配要らないと思う。どちらかといえばお嬢様も気に入ってらっしゃるみたいだったし」
「私もルナサのヴァイオリンは上出来だったと思うわよ」
「気迫の演奏だったね~」
すうと降下してきた赤が分別顔に腕を組み、続いて白がその肩に貼り付いてふやけたような笑みを浮かべた。なかなか便利なもので、こうしている間にも頭上では二種の楽器が独りでに演奏を続けている。地の果てまで続くかと思われた妖精の列も次第に短くなりつつあり、今は布巾をかけ棚へしまい込む所作に余念がなかった。
「自分でも悪くなかったと思うよ。それだから逆にっていうか」
「ルナ姉は凝り性だからなあ」
「それでリリカは一言多いのよね」
「メルランは楽天的に過ぎる。ペットがきちんとしなきゃ合奏は締まらないぞ」
三色の帽子の下、一様に揃った顔が三様に異なる面持ちでぽんぽんと言葉を投げ付け合う。女三人寄ればかしましいなどと言うが……途端に賑やかになった光景にひとり苦笑を浮かべて、妖夢は厨の窓を見上げた。木造の屋敷というものは建て付けの良し悪しとは関わりなく、いつでもどこかから明りが感じられるものである。今も藁漆喰の壁から染み出たように、茜を帯びた日差しが古びた調度を淡く縁取っていた。
きゃあきゃあと騒がしい霊の輪から半身を乗り出して、ルナサが早口に告げる。
「これからまだ庭の見廻りもしなきゃならないんだろ? ここは私達が預かるから、日が落ちる前に行ってきなよ」
「本当はお客様にこんな事押し付けちゃいけないんだけど……。それじゃあ、今日だけは甘えさせてもらう」
膝を払って立ち上がり、改めて頭を下げてから妖夢はきびすを返した。板戸の隙間に身を滑らせ、奥座敷へ続く外廊下を歩き出す。暗室を一歩出ればそこはたちまち桜に占拠された世界のようで、いつもなら無愛想な石灯籠が佇み、玉砂利に囲われた池には蓮が浮かぶ中庭の景観もとても直視できたものではない。いささかならず春を集め過ぎたのではないか――まるで桜の度外れて旺盛な生命が、それ以外の存在を許そうとしていないかのようだ。
死の幻想――。
騒霊達の声と、その楽器が奏でる旋律を背中に聞きながら、ふと妖夢は額に手を遣った。死の幻想? 自分はその言葉にもまた、微かな聞き覚えがある筈だ。追想に目を細め、遠い記憶を注意深く手繰り寄せる。生とは――
(生とは死の幻想。形影相随(けいえいあいしたが)い罔両(もうりょう)その境を頒(わか)ち難し。顕界の生者必滅して幽界に到り、隠世(かくりよ)の客暇(いとま)を乞いて亦(ま)た現世(うつしよ)に宿す)
注意深く耳を傾けていなければ、風にさらわれて聞き取れなくなってしまう。かすれ、しわがれたその声は老師の――そう、幽居し姿を晦(くら)ます直前の声だ。
(死せずして生くる事能(あた)わずば、生き身に死す者ただ杳冥(ようめい)の空(うつ)ろに歔欷(きょき)すのみ。なればこそ……)
師が一体何を語ろうとしているのか、その頃の妖夢には分からなかった――いや、今でも自分はその言葉の真意を悟ってはいない。ただ板張りの桟敷にぎこちなく端座して、白刃(しらは)のような師の眼差しから何かを読みとれないかとはかのない期待を抱いている……しかし、だからこそ。
(嬢を、お守りせよ)
そう命じられた一言に、託された二刀の重みにひたむきに従ってきたのだ。
――私は、
ふいに脳裏に浮かんできた想念を苦く噛み締め、妖夢は胸中で独りごちる。
私は何も知らない。幽々子様の事も、幽々子様がこれ程の春を集めて咲かせようとしたあの桜の事も。幽々子様を守るべく存在している、この自分自身の事さえも――。
物思わしげに胸元に手を遣る妖夢の背後遠くで、虹を宿した翅が暗がりへ溶けていこうとしていた。白玉楼の日没が近い。
無論、並の竹箒や塵取りが役に立とう筈もなかった。
上から順に雪かき、雪おし、雪よけ、雪はね。加えて樫板を組んで作られた手押し車を玄爺亀の甲羅さながらに背負いあげて、妖夢は白玉楼の物置きからそっと這い出した。
この程度、日頃の鍛錬に比べれば物の数でもないと鼻で笑いつつ、植木道具の剣山と化した姿を――余りと言えば余りにも庭師然とした出で立ちを、誰ぞ見咎められはすまいかと気が気でもないのがこの少女の煮え切らない所である。素早く左右に走らされた紅い目が、白玉楼階段に繋がる正門で心持ち見開かれた。
とんとんと軽く跳ねるように石段を登り、拍子を取るように頭頂へ結わえた紅白のリボンを揺らしている。誰そ彼時の冷え込みに白く息を吐いて、その癖疲労や緊張感とは全く無縁なその面差しは――
「博麗霊夢!」
弾けるように叫んで、妖夢は背に負った銘刀、霖印(ながあめじるし)の特上雪かきを抜き放った。深く腰を落として平晴眼の構えを取り、半瞬の後はっと気付いてそれを放り捨てる。改めて、
「博麗霊夢!!」
「いや、そっちで叩かれても痛いけど」
そうこうする間に幻想郷の巫女は独特の、漂うような足取りでもう一足一刀の間合いにまで詰めている。歩みを止めて桜の上に直立すると、ひょいと白の筒袖に通した両腕を広げてみせた。布地の隙間から薄い肩が覗き、傾いた日差しを柔らかく受け止める。
「兎も角相手見てから身構えなさいよ。この通り丸腰でしょ?」
そのままの姿勢でくるりと背中を向け、栗色の髪越しに振り向いてみせた。間延びした声音も僅かに皮肉げな口調も、長い睫毛の下に落ち着いた瞳の色までもが、それぞれ小憎らしい程自然に寛いでいる。
「人類は十進法を採用し、ついでに民主政治と人道主義と国際平和と、それからごく一部は憲法九条なんかも定めました、ってね」
「――それにしても無神経だろうが。何の条理を分けて玉楼の春を荒らし終えた賊が、またふわふわ舞い戻ってきた」
「主犯(ホシ)は現場に戻るもの。だけど賊ってねえ……あんたらがうちの境内で花見してた件はどうなるのよ」
「それはお嬢様の御意向だ! 私はそれに殉じこそすれけして阻み立てはしない」
言い募る園芸針鼠をはいはいと軽くいなして、博麗の巫女は片手を腰に当てた。二百由旬の庭を眺めはるかすように顔を上向け――その角度では最早壁のようにそそり立つ花弁しか見えなかったので、少し爪先立つ。
「そう噛み付かなくったってお使いが済んだらすぐ帰るわよ。黒いの、来てるんでしょ――っていうか、丁度只今救助に馳せ参ぜんと心得て居った次第に御座候、みたいな格好ね」
指摘されて、妖夢は今拾い上げようとしていた雪かきをがばと抱き締めた。闖入者の弛緩した顔付きをきっとばかりに睨み据え、骨付き肉を死守する子犬が如き剣幕で言い放つ。
「貴様の助けなぞ借りん!」
「うーん。その心配は凄く無い」
もう降参と言いたげに諸手を挙げて、霊夢の身体がふわりと宙に浮いた。何の前触れもなく、しかしあくまでも自然に――先刻三色の騒霊達が見せたそれとは明らかに異なる、純然たる自然の法理に則った浮遊だ。そしてそれでいて浮き雲や天つ風、自由意志を欠く漂流物のような印象も与えない……いずれ奇妙な術である。
妖夢の見上げる前で空飛ぶ巫女は宙を進み、厚く降りしきった桜の上へと音もなく着地した。花の方でもそれがまるで重さなど持たないものであるかのように、快く受け止めて踏まれるままに任せている。霊夢は花弁の上を歩き出し、例の間延びした声でぽつりと言い捨てた。
「あんたはちょっと力み過ぎなのよ。そんなだから大事なお嬢様も守れな……」
「――ッ!」
その一弾指、いや一刹那の間に太刀風が疾り抜け、その軌跡上に舞っていた六枚の花弁が、各々違う位置で、しかし一様に目を瞠る程の鋭さで截然と断ち割られた。二間余りにもなろうかと云う空隙を翔ぶが如くに埋めて、妖の鍛えた刃が半人の少女の腕から伸びている。
一髪の隙間もなく首筋に触れた刃を見下ろして――霊夢の瞳はやはり何の感情も帯びてはいなかった。透明な視線が長刀の上をなぞり、透かし細工を施した黒鉄(くろがね)の鍔、漆塗りの柄とそれを握る白い手を辿って庭師の顔へ到った時、初めてほんの微かな悔恨にその色が翳る。……少女は白皙の肌を殆ど蒼白なまでにして、まるで急所を刺し貫かれた獣のような形相をしていた。
「――こう間近で見るとずいぶん綺麗な刀ね。魔理沙の前で抜いたら盗られちゃいそう」
呟き、筒袖を穏やかな自然の風にひるがえして再び歩き出す。
「で、あの魔女は一体どこに埋まってるの? 案内してくれないなら勝手に荒(、)捜しするわよ」
「……」
きつく唇を噛んで、少女は抜き打った刀を鞘に戻した。震える肩に手押し車を背負い直し、今度は親にはぐれた子犬のような足取りで、深くうつむいたまま桜の壁に分け入る。その銀髪からつきだしたこちらは黒いリボンを見るともなしに見下ろして、もう一人の少女はぼんやりと告げた。
「……ちょっと、無神経だったかしらね」
だからすまなかった、とはけして言わないのもまた少女の少女たる由縁である。しかしその気侭さもこの場合に限っては――重く湿った花をかき分けて進む今の妖夢に限っては、寧ろありがたい。
その身 覚めず 巡る事無く
留まり ただ 命を枯らす
るーるるーるーるるーるーるーるー
と、芝居がかった泣き声の鼻歌(ハミング)を聞き留めて妖夢は道行きの左手、高くそびえたつ花弁の山を見上げた。高からぬ少女の背丈からすれば、ほぼ三倍半にもなろうかという桜の大山――枝から落ちる林檎でもなかろうが、無論散る花とて慣性の三法則に従い上から下へ、重力に引かれて落下する。にも関わらず……山の周辺に立ち並ぶ比較的若い桜よりは、山そのものの方が幾分背が高くさえあるのはちょっと得心がいきかねる所だった。
どうあれ庭師は重い荷物をがちゃつかせて山へ駆け寄り、といって無論登頂を目指そうとするのではない、雪かきを厚く降り積もった花弁へ差し込んだ。樫の柄に体重を乗せつつ振り返り、叫ぶ。
「博麗霊夢!」
その間にも歌は次の節回しへ移り、桜に遮断されて蚊の泣くようにしか聞こえなかったそれも心なしか響きを増している。――明らかに聞き流して通り過ぎようとしていたらしい博麗の巫女がうんざりと向き直り、酷く白けた面持ちで歩み寄ってきた。
「雪山救助隊の気分だわ。この場合捜索費用は遭難者持ちよね」
言いつつ妖夢の背に手を伸ばし、残る三種の神器をそれぞれ値踏みするように眺めてから――比較的たおやかな作りの雪よけを抜き取った。よいしょと肩の高さに捧げ持つと、山の根本近くに見当を付けて突き込む。
ごつん、とくぐもった音がして鼻歌が止まった。
……ややあって、今度は本当に涙声の歌が再開される。二人は顔を見合わせて、
「死んだかな?」
「……今ならまだ間に合うと思うぞ」
「聞こえてるなら言うけど、そのまま寝れば死ねるわよ。ちょっと考えてみなさい」
おそるおそるかかれた雪が、すこぶるつきのぞんざいさでよけられて、程なく桜色の地面から明るい金髪が覗いた。蜂蜜のそれを思わせるような深みのある色合いで、こうして見るとずいぶんな癖っ毛でもある。霊夢は連れの方に顔を向けると、考え深げな面持ちで指を立てた。
「白骨死体にも髪だけは残ってるって聞いた事が……」
「そして夜毎に伸びて下手人(ホシ)を七代祟るぜ」
金髪がぐるりと裏返り、形の良い顔が逆しまに、つまり仰向けになってこちらへ向けられた。目の端には涙の滴が珠になって下がっているが、口角は気丈にも細く吊り上がって不敵な笑みを浮かべている。
「雲上の冥府まで足労大いに御苦労! つっても霊夢なら箒も使わずひとっ飛びだろうからわざわざ礼をするには及ばないな。とっとと掘り出して貰うのも結構だが、それより雪山救助犬なら迎え酒に蒸留酒の一樽や二樽――」
全く懲りていない。呆れた妖夢が雪かきに花弁をすくいあげると、横合いからひょいと伸びてきた雪よけがその柄を突いた。あ、と言う間もあらばこそ勢い雪かきは反転し、白い花びらが滝となってにやけた顔面へ降り注ぐ。魔女は盛大に噎せた。
「行きがけ霧雨邸に寄ったついでにね、酔い覚まし持ってきてあげたのよ」
言って博麗の巫女は袂から唐草細工の小瓶を取り出し、鷹揚な手つきで栓を捻ると無色透明の液体を数滴。下唇に花びらをあしらい、荒い息を吐く魔女の口へとしたたらせる。
「石炭乾留の気付けだって。説明書きによると、一滴服ませれば効果覿面、即気絶するくらい効くらしいわ」
桜山、噴火。絶句して地中、いや花中でのたうつ魔理沙の煽りをくって、見上げる高さに積もった花弁は大きく跳ね上がり、雪崩を打って崩れ落ちた。雪かきを構えたままの妖夢が凝然と見つめるその前で、霊夢は空になった瓶を肩越しに放る。懐紙を取り出して瓶に触れた指先を拭い、次いでそれを足下に敷いてその上に腰を落ち着けた。
ふうと大仰に吐息して、赤みを帯びた頬を手団扇に扇ぐ。
「汗かいちゃった。あんたは全然疲れてなさそうだけど――やっぱ半分も幻だとあたし達とは具合が違うの?」
「半分しか幻じゃない。鍛え方が違うだけだ」
言ってとりあえず雪かきは足下の花弁に突き刺し、妖夢は額にまとわりつく銀髪をはねあげた。腕を上げたついでに手のひらを眼前に開き、彼方で沈もうとしている夕陽に透かしてみる。
剣士の手と言うにはまだ余りに細く、そして柔らか過ぎると思う。堅い樫の棒を握っていた指の腹はいつにも増して白く、妖夢の瞳が見つめる前で今ゆっくりと血の色を取り戻そうとしていた。自分はこの白玉楼に住まう、唯一の生き物(、、、)なのだ――普段は意識する迄もないその実感へ、今更のような感慨を覚えて少女は軽く鼻を鳴らした。この身とてもやがては滅び、死せる魄を遊離した魂は輪廻の六道を辿り出す。
魂の旅路がただ連綿と続き、始まりも終わりもない一続きの鎖のようなものなら……それはそれで構うまい。しかし、その鎖の輪が主の――白玉楼に舞う歌聖の、あの氷のように冷え切った指にははめられていないのだとしたら。それがこの少女には耐えられない。
妖夢は揃えた指を拳にして握り込み、ふと心づいてそれを懐に入れると、一本の扇子を取り出した。暫しの沈黙を弁解するように使え、と告げて不届きにも修行嫌いの巫女に放ってやる。
「ご親切にどうも。それにしても、こうやって一斉に散る桜眺めてると今年の春にもいよいよとどめかって感じがするわね」
ぱらぱら、と不器用な音を立てつつ暗紫の扇を開き、頭を仰向けて白い首筋に風を送る。
「またぎらぎら影の濃い暑苦しい季節がきて、ぴゅーぴゅー木枯らしのうそ寒い季節に代わって――まあ次の春の何て遠いこと。やれやれだわ」
しかしそう不平をかこつ巫女自身はと言えば、暑ければ縁側で夕涼み、寒ければこたつで蜜柑。そのおつむりは常春にうぐいすまでさえずっている――という手合いではないか。しかし、ここで茶々を入れては何やら敵と馴れ合うような心持ちがする。生真面目に口を噤む妖夢を余所に、霊夢はふと仰け反った視線の先、背もたれにした老木の枝を見上げて怪訝そうな表情を作った。扇を閉じて、何やら予言めいた事を言う。
「でも、来年になってもこの樹はもう駄目かもしれないわね」
「何故だ?」この巫女、園芸趣味でもあったのか。
「何故って……ただの勘なんだけど。強いて言えばほら、こいつだけ他の樹より沢山花が残ってるでしょ? 萎れ切っても枝にしがみついてる花なんて不粋じゃない。人の魂だって散り際の汚かった奴のは転生が遅いわ」
「理屈になってない」
「だから勘だってば」
霊夢は大儀そうに立ち上がり、一つ伸びをすると扇の持ち手を先にして差し出す。妖夢が受け取ったのを確認してから指を放し、欠伸混じりに言い添えた。暮れゆく春の日に、紅白の立ち姿が長い影を曳いている。
「今日もさけさけ、明日もさけ……かしらね」
うん? と唸って不得要領な顔をする庭師に苦笑してひらひらと手を振ってみせ、
「その歌の下句よ。酒飲みは花に喩えりゃ蕾かな――つまりそう云う事でしょ? いかにも呑ん兵衛が詠みそうな、太平楽でちょっと可愛らしい歌、だけど」
ふと笑みを消して遠くを見るような目つきをする。その視線の先は広漠たる白玉楼の、二百由旬の庭の中心、か?
「だけど、なんだ」
「べっつに。酒は百薬の長、なれど万病の源。あんたが言って聞くものかどうかは疑問だけど、ご主人様の酒量にもちょっとは気を配る事ね」
「言われる迄もない。お嬢様は私が、この命に換えてもお守りする」
「半分の命じゃ半分しか守れないかも……」
「吐かせこの極楽蜻蛉」
言い捨てて互いに背を向け、別れようとした二人の耳にまた例のるるる(、、、)が聞こえてきた。二つの口が同時にあ、と呟きを漏らし片方は半ば取り乱したように慌てて、もう片方はここで思い出したのは不覚だと言いたげに渋々とそれぞれ雪おしと雪はねを手に取った。いつの間にやら魔女の金色の頭が、多少なだらかになった桜山の裾野から再びちょこんと突き出ている。今度はきちんと正面を向いて俯けになっているが、黒の三角帽子がないせいか心持ち額の辺りがさみしいようだ。
「ここにこう金鈷でもはめれば――何やら花果山の猿のようだな」
「せめてお空に還れない帚星と言ってあげましょうか」
「いやに夕陽が目に沁みやがるぜ……」
先刻の霊夢より万倍は遠い眼差しで呟く魔理沙だが、しかしこの期に及んで尚口元にはにやけた笑みが張り付いている。怒り喜び悲しみ、この魔女には百八種類の笑いこそあれ、その他の表情は残らず欠落しているのではないか――? 愚にも付かない事を考えつつ、妖夢はずっしりと重い雪おしをはねあげた。いずれにせよ、泣き言恨み言の類を聞かされるよりはたがの外れたような笑いでも浮かべていて貰うに越すはない。
噴火の助けもあってか、二度目の花かきはさくさくと捗った。頭上の重石が削れる度に魔女の鼻歌は明るく軽やかな調子に変わってゆく。幾らか学習もしたものと見えて、霊夢が白々しい笑みを浮かべつつ雪はねに花を盛るや、長首亀も顔負けの素早さで頭を隠すようになっていた。
そのるるる(、、、)が早瀬を思わせる曲調にまで復帰した時、ふと妖夢は雪おしを操る手を止め――(魔理沙の首は引っ込んだ)――少し首を傾げた。それは耳慣れない旋律、ではないのだ。
「おい、さっきから歌ってるそれは、ねく――じゃなくて、ええと」
膝を突いて亀穴を覗き込み、
「死の幻想。昨晩の宴で演奏されてた曲だな?」
「そうなのか? 私は潰れてたから聴いちゃいないけど、今朝方お前のお嬢様が――」
と、首を出して見上げた所で額に落ちる陰に気付き、はたと口を噤む。博麗の巫女は無慈悲に微笑み、雪はねを裏返した……再びひとしきり噎せた後で、
「は、謀ったなッ!」
「きっぱりと誤解だ。それより、お嬢様がどうなさったのだ? 聞けば昨晩もどこかご様子が妙だったとか」
「どうって、歌ってただけだぜ? 酒瓶片手に、くるくる踊りながらさ」
言って黒魔は桜の上にうんと手を張り、勢いを付けて身体を山から引き抜いた。巣穴に腕を突き入れてとんがり帽子を引き抜き、乱れた金髪をその中にぎゅうとばかり押し込む。黒と金、所々に白を配した極端な対照を持つ装いである。
「ただ、曲は同じでも歌い方が……バラッドか、さもなきゃレクイエムみたいな感じかね。私が最初やってたのよりもゆるやかで、ちと辛気臭く聞こえたっけな」
帽子に詰まった桜が金髪に流れ落ち、全身あちこちにまとわりついたそれを濡れ犬か何かのようにぶるぶると振り払う。またも現れた横文字へ途方に暮れたような顔をする白玉楼の庭師に、霊夢が短く挽歌の事、と通訳を加えた。
「兎も角、お前は給仕が忙しくて気付かなかったかもしれないが、私には始終あの調子で浮かれてたような覚えがあるぞ。心配無用だぜ」
「魔理沙の覚えがあてになるもんですか。第一今日は昼前に邪魔してやるから茶請けを揃えて待ちやがれ、じゃなかったの? 一体何時間寝てたのよ」
見れば霊夢はもう用は済んだとばかり、早くも先に立って帰り道を辿っている。魔理沙は最後にぶるん、と頭を振って、癖毛を尾のようになびかせつつその後ろ姿を追いかけた。行きがかり上、妖夢も見送りに随伴する。
「昼前と言えば10時! 急いで飛べば間に合うように神社へ帰れるぜ」
「あんたの体内時計はきっかり半日狂ってるようね。お煎餅に蟻がたかってても取り替えは利きませんから悪しからず」
「目も当てられないぜ……」
「それより、お前箒なしで飛べたのか?」
「そこをこの雪かきで――」
「無理ね」
小走りに歩む少女達を茜に照らして、長い一日の最後の陽差しが潰えた。東の方には宵の明星、じき十五夜の月が登る――。
深く降り積もった雪は音を吸い、為に深山を静寂に閉ざすという。幽冥楼閣を包み込んだ桜にも、或いはそれと同じ事が起こり得るだろうか――煌々と光る月の下、仄白く浮かび上がって見える花弁をそっと踏みしめる。
庭師はいつでも下を向いて歩く。それが仕事なのだ。飾り気のない黒靴の、露を宿した爪先を見詰めながら妖夢は考える。春を盛りと咲き誇った桜は、しかし夏の訪れを待たず風に身を任せ、四方へ吹き散らされては程なく泥にまみれる。薄墨の花弁が地に落ち、土に汚れる様はどこかしら無惨を感じさせるものだが――しかし枯れ凋(しぼ)む前に蝶として風に乗り、みどりの葉桜として夏を迎えるのは遠からず再び巡り来る春の為の、必要にして欠かせざる儀式とも言えるのではないか。
日中あれ程吹き荒れていた花の嵐も今はずいぶん収まって、開けた視界には紺色の空と円(まどか)の月。月光に桜はただ白く、空との接点では両者の色彩を交えて淡く紫色(ゆかりいろ)の闇が下りている。春宵(しゅんしょう)の一刻、涼やかな夜気が肌に快い。
ふいにある種の予感を覚えて、妖夢は歩みを止めた。面を上げると大粒の牡丹雪を思わせる花弁がゆるやかに舞い降り、そっと頬をかすめて流れていく。玉楼の園に小高い丘の斜面が作った、並木の間の丸い隙間。そこに風と桜を従えて、白装束の背が佇立していた。
西行寺はいつでも上を向いて歩く。桜色の髪の下、桜色の瞳が見上げるその視線の先には――桜が。天を摩してそびえたつ、桜の巨樹があった。花も葉もない、老い朽ちた枯れ木。黒々と張り巡らされた枝に月を捕えて、夜半の空に黙然と屹立している。
「いい夜ね」
振り返りもせず、幽々子は言う。さわさわと梢(こずえ)が鳴っている。
「こんな夜には昔の事を思い出すの。どれくらい前になるかしら? あの頃この辺りには泉が沢山あって、庭の桜もまだ若木が多かった。書斎で夜更かしすると妖忌に怒られて、搾りたてのお酒は舌がひりひりするくらい辛くて――あなたはとても小さくて、おままごととちゃんばらごっこが日課だったわ」
昔日(せきじつ)を懐かしむ声音は軽く明るく、同時にどこか熱っぽく浮ついて聞こえた。しんと静まり返った夜を打って、主の言葉は遠く響く。妖夢は花びらの上に居住まいを正し、黙してそれに耳を傾けた。
「覚えてる? 妖忌にきつく叱られた晩、あなたは一人で泣ける場所を探してよくこの桜の下に来てた。私はいつも寝室からそれを見てた……ううん、この桜を見ている私の前に、あなたがあらわれた。一度きり、偶然通りかかったみたいに声をかけて、一緒のお布団で寝た事があったわね。あなたがちがちに畏まっちゃって、一睡もしようとしなかったけれど――」
色付いた闇に白無垢の衣装が眩しい。月の暈(かさ)のように淡い光をまとい、幽々子は巨樹に寄り添うように佇んでいる。かすかに笑みを含んで言葉は続く。
「結局明け方には寝入っちゃって、そのまま昼までぐっすり。あなたのお師様はお屋敷中探し回って赤くなったり青くなったりしてたのよ? 後にも先にも、あんなにおろおろうろたえた妖忌が見られたのはあれっきり――そう、よく覚えてるわ」
つと燐光を含んだ袖が上がり、薄闇を押し退けて前方に差し伸べられた。百年を枯れ続けた老木の、固くひび割れた樹皮に触れる。
「夏を越し秋を経て冬に到り、そしてまた春が訪れる。そうやってとても長い時間をこの白玉楼で過ごしてきたわ。だけど……ねえ妖夢、不思議だとは思わない?」
幽々子様――?
呼びかけようとして、ふいに気付いた。主の声は酒気を帯びていない。
氷雨(ひさめ)のように冷たく澄んで、それなのにぞっとする程軽く明るく。滔々(とうとう)と言葉は続く。
「その長い長い時間の中でも、この桜は一度として咲いていないの。まるで時間の流れから取り残されたみたいに、ずっとずっと冬の中に閉じ込められてるみたいに、夏を越し秋を経て冬に到り、だけどこの桜だけはけして春を迎える事がないの。こうして触れてると雪みたいに冷たくて、何もかも吸い込ままれてしまいそうになるわ。この厚い皮の奥で十重(とえ)二十重(はたえ)に、いいえもっと幾つも幾つも気が触れそうになるくらい沢山刻まれた年輪の中の、この樹の血管と心臓はきっと水晶のような液で満たされて、どんなに長い長い長い時間を過ごしても動き出せないくらい凍り付いてるのよ。
どうして? どうしてだか分からない。分かるのはただこの樹の時が堰き止められていて――何故かしら、私にはそれがとても哀しいという事だけ。百の刃に身を刻まれるように、千の針に刺し貫かれるよりも強く――哀しい。哀しいわ」
言いながら妖木にそっと頬を寄せる主を、妖夢はただ立ち竦(すく)んだまま凝視する事しかできない。耳を塞ぎたくなる思いに駆られるが腕が動かない。紫色の闇の中で月が白く凍る。降りしきる花弁が雪に変わる。何かの境界が揺れているのが見える(、、、、、、、、、、、、、、、、)。
「想像できる? この樹にもまだ手の平に包めるような苗木の頃が、風に飛ばされそうな種子の頃があった筈だわ。この樹にも軽く手折られる若枝や瑞々しい新芽を持っていた頃があった。あなたのように幼く、風に笑って雨に泣いた頃が。流れる時の中で生きていた頃があった。それなのにどうして……どうして、爛漫と咲き誇っていたこの樹の花を、私は憶えているのに思い出すことができないの(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)?」
「――幽々子様!」
弾かれたように上げた声は、研ぎ澄まされた刃のように仮借無く、断ち切るように迷いのないものでなければならなかった筈だ。しかし妖夢はまだ妖忌にはなれない。主を制止する言葉は情けなく震え、哀願に等しい涙声にしかならなかった。
「妖夢……?」
舞い散る桜を伴って、幽々子が振り返る。その背には紺色の空を縦に割って、巨大な老樹の影が伸び――まるでそれが幽世の姫自身が曳(ひ)く翳(かげ)りのように思えて、妖夢は口を噤(つぐ)んだ。拳を握り深く俯く。
長い沈黙があった。――その後、独白めかして幽々子が呟く。
「日が替わればもう夏ね」
見上げる視線の先で満月は中天にかかり、今日と明日の境が近い事を示している。桜の雨が死人の頬を洗う。
「昼が長くなれば沢山本が読めるわ――そうだ、手習いを教えてあげる。書斎を少し整理して、あなたの文机を置くの」
白玉楼の春が散り、現世へと還っていく。俯いた視界には踏みにじられ、泥に塗れた桜が見える。
「そうして次の春を待ちましょう。その内にいつかこの桜も咲くかもしれないものね」
――嘘です。
叫び出したい衝動に駆られたのは、夜風に吹かれた主の声が余りにも……余りにも虚ろに響いたからだ。それは希(のぞ)みを語る言葉ではない。命を語る言葉ではありえない。
「そう……いつか、きっとね」
――あなたは知っている。頭では知らなくても、心のどこかで憶えている。その桜がけして咲きはしない事を(、、、、、、、、、、、、、、、)、そんないつかは永遠に訪れない事を(、、、、、、、、、、、、、、、、)。
言えなかった。妖夢はせめて精一杯の意志を振絞って顔を上げ――ただ未だ喋り続けようとする主の姿に堪えかねて、口を開く。
「――お身体に障ります。屋敷へお戻りください」
告げた言葉に忘我の表情が雪のように溶けて、次第に何か驚いたような、きょとんとした顔付きに変わった。急にあどけなく見える面差しは年相応の少女のもので――少なくとも、幾百の年月を経た亡霊のそれではない。
夜の静寂(しじま)にくすくすと、声。
「そう言われると、何だか生きてる人間みたい」
そう言って主は微笑んだ。
いや、無量劫の冬の彼方から、幾層もの霜をまとって差し向けられたようなそれを。
妖夢は笑みと呼ぶ事が、できない。
その身 癒す 桜の花
浴びる事無く
燭を入れぬ桟敷には爪に灯した程の明りもない。ぬばたまの闇が垂れ込めるその中に、刃の風切る音、素足の床を敲く調子。そして押し殺した少女の息遣いが、辺りをはばかるように低く響いている。
光が色を映す媒介(なかだち)でしかないように、闇もまた色そのものではない。その下ではあらゆる色は殺され、また活かされて空となる。例えば澄み切った黒、切り揃えられた銀。幼い白。紅。それらは闇(くらがり)の中にあって何ら意味を為さぬ。
だからこれは道理に合わない。黒洞々(こくとうとう)たる夜の風景に、時折りそこにある筈のないものを受けて、四方に弾き返す秋水の刃が見える。銀光は宙を疾り、切り返し、弧を描いてまたぴたりと晴眼に収まる。その切っ先にしんと宿った光芒は、果たしていずこから差し込まれたものだろうか――見る間にひゅう、と少女の呼気が白く尾を引いて、刃はまた滑り出した。
理(ことわり)を外れ、法(のり)を避けていくものは実在しない幻である。しかし幻想郷にならばそれが在る。太刀は銘を楼観剣、少女は名を魂魄妖夢といった。
流れるように型をそらんじながら、少女の眼差しは虚空を見据えて微動だにしない。ただその中に乱れる千々の思いが、酷く危うげに瞳を揺らしていた。紅い虹彩には桜が映っている。
ある時にはそれは凍てついた老樹であり、またある時には哀しげに佇む主であった。主はその背へ影のように巨樹を従え、かと思えば主自身がひびわれた樹皮の下、したたる水晶の樹液に囚われている。主は桜に頬を寄せる。妖夢は嘘だと叫ぶ。ひとつ斬撃が放たれる度、躍る銀光を受けてその景は目まぐるしく姿を変えた。
――その桜はけして咲きはしない。
何故だ、と思う。それは妖夢の言葉だったが、そこに宿っていたのは幽々子の思いだ。紫色の空、円の月の下で主は確かにそう悟っていた。虚ろな声が語らずに語っていたのはその絶望ではなかったか。
だけど、何故――。
何も解らず、妖夢はただ惑う。
そして下段、中段、上段。脇構えから八双へ、晴眼へ。六調子の打ちは残心で基本姿勢に立ち戻り、打突は間断なく繰り返される。短刀は銘を白楼剣と切られた。ひるがえる銀光は、或いはそれを宿す刃そのものから発せられているのかもしれない――、不意に。
妖夢は目を見開いた。黒一色の視界に目が潰れんばかりの銀(しろがね)が閃き、迸る。
「う……あ、」
がくりと膝が崩れ、少女は呻いて板張りにへたり込んだ。息を吸おうとした所で、肺が絞られたように痛む。動悸が早鐘のように打っている。俯けば乱れた銀髪が頬にかかり、少女は胸元を掴んで身を折った。
ややあって、静まり返った桟敷にはかたかたと場違いな音が響いていた。鍔鳴りかと見下ろせば、漆塗りの柄を指が白くなるまで握り込んで、自分自身の腕が震えている。力なく苦笑して、妖夢はぎこちない所作で手の平を開いた。乾いた音を立てて太刀が転がる。
見上げれば、瞳を射抜かんばかりに見えた光はもう跡も残さず消え失せていた……六調子の打ち、相手の斬撃に備え、体をかわして身を沈める一挙動。しかし妖夢は――妖夢の意志を越えて弾けた、妖夢の中の何かが――退くべき足を踏み込み、下げるべき太刀を無理にも振り上げさせた。理由は分からない。型も筋も、この世界に普く法も理も無視して、ただ一閃を求めた。
しかし、空も裂けよと放たれたその斬撃は、果たして何一つ斬り得ずに霧散したのだ。
嘆いたのか、憤ったのか、それとも恐れ怯いたのか。
それは来し方の呼声か、行く末の予感か。
とまれ激情に衝かれて疾った刃は、何を斬ろうとしたのだろう――。
妖夢には、何も解らなかった。すべてを見極め、受け止めるにはこの剣士は余りに幼過ぎた。その瞳が見上げる世界は暗く、闇に鎖(とざ)されて黙している。
ただ――深く息を吐いて、目蓋を下ろしたその時。右のまなじりから白い頬へ、一粒の涙が伝い落ちた。
少女はただ惑い。何も解らぬまま、主を想って泣く。
満開の花吹雪く白玉楼に、けして咲かない花がある。
ほころびかけたままに凍てついて、けして笑えぬ蕾がある。
ああ、だから――
魂魄妖夢は、桜が嫌いだ。
了
文章全体でネクロファンタジァが表現されている匠の技です。
自分には確かに死の幻想が幻視できました。
たまには過去の話集を読むべきですね。こんな素晴らしい作品に出会えるのだから。
読むのに三日かかった