前書き
私設定を元に書き起こしたお話です。
また、暴力的な表現や公式を無視した無視した点が多々あると思いますので、
お読みになられる方はその点ご容赦くださいませ。
―――あのとき私はなぜあの巫女を殺さなかったのか?
私は、私がいつ何時にでも自由に幻想郷を徘徊出来るように霧を放った。それを望んだのは他でもないこの私だったはず。…それなのに、確かにあの巫女を殺せる程の力を有している私が何故に地に倒れ伏さねばならなかったのか? 詰めをしくじったわけではない。それならば、私の心の片隅であの巫女を殺す事への躊躇いがあったと見るべきか。
――――――それはなぜ?
――――どうして?
――決まっている、私があの巫女の生き血をゆっくりと味わいたかったから。
……あの戦いの中ではそれは叶わなかった。私が本気を出していたのであれば、血を飲む以前に五体をバラバラに粉砕していただろう。そして彼女の肉体は原子となって、粒子となって、もはや博麗霊夢と呼べるモノではなくなっていただろう。
…それはよろしくない。私は、博麗霊夢の命尽くまで、何度でも何度でも生き血を啜りたかったのだ。だから、先の戦いでも半ばわざと勝ちをくれてやった。言われるままに霧の発生を解除してもやった。すべては、博麗霊夢が私よりも優位に立っていると錯覚させるための布石に過ぎない。
そろそろ頃合だろうか? 博麗霊夢はきっと私のことを調伏した一悪魔として下に見ている事だろう。…ああ、考えるだけでもゾクゾクする。まさかそんな私なんかがあなたの血を狙っているだなんて露ほどにも思っていないことでしょうね。…あぁ。
――コンコン
悦に浸っていると部屋にノックの音が響いた。
「入りなさい」
私は一言そう言った。誰が来たかは聞かずとも分かる。ついさっきメイド長の十六夜咲夜に、今日は部屋にお茶を持って来るように申し付けていたからだ。
――はい、とだけドアの向こうから短く返事がし、ゆっくりとドアが開いた。
そうして入ってきたのはやはり咲夜であった。
「言いつけ通りお部屋にお茶を持って参りました」
慇懃な態度でそう言いながら、咲夜はいそいそとお茶の準備に取り掛かった。私もベッドから降り、部屋中央にあるターンテーブルの方へ移動する。今日のお茶受けは何かしら。
「楽しみね…。咲夜の淹れるお茶は私の期待をいつも裏切らないわ」
実際よく出来たメイドだと思う。始めて会ったときは血を吸うだけ吸って殺してしまうつもりだったけど、今にして思えば止めておいて正解だった。偶に起こすきまぐれは意外な結果をもたらしてくれる。…特に、あの時を操る力―――。
「わ、私などまだまだです、レミリアお嬢様。さぁ、血入りの紅茶を淹れましたよ。今日のお茶菓子はお手製のクリームチーズを使ったチーズケーキです。お口に合いますかどうか…」
少々自信薄に咲夜は言ったが、口にしてみると文句の付け所などない美味しさだった。上品な甘さで、改めて咲夜の料理の腕に感心した。次いで紅茶を一口飲む。
「…完璧ね。咲夜、貴方もう少し自信を持ちなさい。ところで、この紅茶の血はいつもより甘いけれど、前のとは違う人間のものかしら? …ああ、そんな顔しないで、不味いと言っているんじゃないわ」
500年吸血鬼をしているだけあって、血の味にはすごく敏感だ。今日のはまだ若い人間の少女のものだろう。私的には先週くらいに咲夜が捕らえてきたという青年の血が最近では一番美味しかった。と、するとあれはもう死んだのか。死んだ人間の血は淀んでしまうために酷く不味い…。咲夜もそれを見越して新しく人間を攫ってきたのだろう。
「…私が食糧庫に行ったときには紅茶用の者がすでに事切れておりまして……。それで里の方からめぼしい少女を見つけて連れてきた次第ですが、お口に合いませんでしたか…?」
……予想通り。やはり人を騙すのは人が適任なのか。きっとその少女も咲夜に言葉巧みに騙され、紅魔館へのこのこと付いて来たのだろう。だが、声を掛けたのが私だったらどうか? 恐らくはこの羽を見て、血のように紅い眼を見て、獲物を捕らえたら決して離すことのないこの牙を見て、その少女は逃げ出したことだろう。
もっとも、逃げ出したところでたかが人間。私から逃れられるはずがない。では、博麗霊夢はどうか? 如何にあれに力があるとはいえ、やはり人間には違いない。
…ふふふ、悪魔は人を騙すもの。だから私は彼女を騙し通して必ずや生き血を啜ってみせる。仮令逃げ出そうとも力ずくであの白い華奢な首筋に牙を突き立てる。そうするだけの力が…私にはある。
・
・
・
それからしばらく、クスクスと私は笑っていた。自分の質問に答えてもらえなかった咲夜はやや不満そうな顔をしていたが、構わず私は笑い続けた。
その後、私はお茶を済ませると、咲夜に部屋から出て行くように促した。それと、夕食はいらないという旨を彼女に伝える。これはすなわち『外』で食事を摂るという意味だった。
咲夜が部屋を出た後、私はめくりめく甘美な食事のことを想像し、この上なく興奮していた。
*
幻想郷のはずれ、遠い僻地に唯一の神社、博麗神社はあった。
今日は、この神社の巫女博麗霊夢の元に、友人である霧雨魔理沙が遊びに来ていた。縁側にて、二人仲良く緑茶などを飲んでまったりとしていた。お茶請けは魔理沙がどこぞで仕入れてきた甘納豆である。
「かぁ~、やっぱり緑茶が一番だな。和菓子と絶妙に合うところが最高だぜ」
「せっかくの美味しいお茶もあんたが騒いじゃ味も分からなくなるわ。って、魔理沙はいつもそればっかり言う」
弾けてお茶を満喫する魔理沙を他所に、今日の霊夢はあまり元気がない。何やら言い知れぬ不安が彼女に纏わりついているためだった。そんな霊夢を心配そうに見つめながら、魔理沙は言う。
「…う~ん、元気ないのな。霊夢にしちゃ珍しい……。何か、あったのか?」
何かあるから…元気がないのだろう。と、ごく当たり前の発想を元に魔理沙が尋ねたわけだが、この問にもさっき同様元気なさそうに霊夢は答える。
「…簡単に言うとね、近いうちに私の身に何か起こりそうな……そんな気がするの。そう、まるで『運命』に逆らうようなものね、どんなに私が護身のために結界をこさえようとも絶対に回避出来ない…」
どういう原理かはよく分からないが、これまでに幻想郷で起こった数々の事件のほとんどを、霊夢は自分の予感を元に解決してきた。つい最近起こった霧が幻想郷一体を覆った一件についてもそうだった。…だから、今回霊夢が言っている事もあるいは現実のものになるかもしれないと魔理沙は思った。
「い、いきなりだなぁ……。まぁ、気が滅入っているときは寝れば少しはましになる。……といいな」
「…何よそれ? けど、確かにその事が気になってからあまり寝れてないから、一理あるかもね。本当に寝不足なだけだといいけど…」
いつもの余裕が霊夢にないため、魔理沙は対応に少し困った。それだけ今回霊夢が予感している事が重大なものだということか。魔理沙は何もしてあげられない自分に憤ったが、そうしたところでどうなるわけでもない。
これ以上ここにいても霊夢を元気付けることは不可能と魔理沙は見て取り、そろそろ御暇しようと思った。ちょうど霊夢の話から気になる事も出来たからである。
「とんでもないことにならないといいけどな。元気になったら、今度は霊夢の方がお菓子を持って私の家に遊びに来るといいさ」
魔理沙の方が霊夢の家へ来ることの方が多いが、お互い変わりばんこに双方の家を訪ねる事もしばしばあった。
「最近は神社にお参りに来る人がいないから無理よ。…ああ、でも行きがけに野良妖怪でもいれば何とかなるわ。貯め込んでるのに会えればいいけど…」
霊夢はよく妖怪から金品の類を略奪する。魔理沙は今回の霊夢の悪い予感も、ただ単に恨みを買ったのが問題ではないのかと一瞬だけ思った。しかし、簡単に金品を奪われる程度の力しかない妖怪が如何に徒党を組んで霊夢を襲ったところで、あっさりと返り討ちにされるのがオチだ。
…やっぱり、大きな厄災か何かが霊夢を襲おうとしている事は間違いのない事なのだ、と魔理沙は思い直した。
「…どうしようもない奴だなぁ。本当に巫女かどうか疑いたくなるぞ」
そう言いつつも、魔理沙も偶に略奪はする。
霊夢はごまかすようにして笑い、いつの間にやら空っぽになっていた湯飲みにお茶を注いだ。よくよく考えてみればこのお茶も妖怪から略奪したものを売却して得たお金で買った物だった。笑いが苦笑いに変わる。
「…そうねぇ、たま~に私も自分で自分を本気で疑うわ」
「私も似たようなものだから、あまり霊夢の事は言えないけどな」
――違いない、と二人は声を高らかに上げて笑った。とりあえず笑うくらいの余裕が出てよかったと魔理沙は思う。
そして、霊夢が二杯目のお茶を飲み干し、魔理沙が甘納豆を完食し終わったところでお開きとなった。
「悩みがあるならいつでも言ってくれ。…それじゃあ、私はちょっと行く所が出来たから―――」
魔理沙はそう言うと軒に立て掛けていた箒に跨り体を宙に浮かした。魔女ならではである。
どこ行くの? と霊夢が質問すると、んっ、紅魔館、とだけ魔理沙は返事をし、そのまま博麗神社を後にした。
魔理沙が去った後、今しがたまで明るく笑みを浮かべていた霊夢の表情は、再び暗く沈んだものとなった。
*
いつものようにただそこに立っているだけの門番をとっちめると、魔理沙は館のメイド長に露骨に嫌な顔をされながら広大な図書館に通された。度々そうしてここにやって来るが、その都度、この見る者を圧巻するほどの蔵書量に魔理沙は目を見張る。しかし生憎と今は、いちいち驚いている場合ではなかった。
さっそく魔理沙はこの図書館の管理人室に向かう。館長のパチュリー・ノーレッジに会うためだった。おそらく、いや確実に今日も本を読んでいることだろう。
通い慣れた通路を通り、魔理沙は図書管理室へと行き着いた。急いでいたためか、少々荒々しくガンガンとドアをノックした。
しばらく返事は返ってこなかったが、何度もドアを叩いているうちに、さも迷惑そうな声でどうぞという返事が返ってきた。待ってました、と言わんばかりに魔理沙は図書管理室に入る。
すると、やはり部屋の中央にて分厚い本を読んでいるじと目の少女がいた。相変わらず不機嫌そうな顔である。たぶん、魔理沙がここへ来ると自分の読書の時間を妨げられるためであろう。故に魔理沙の目には、この少女がいつも不機嫌であるかのように映るのである。
ページを繰る手を止め、じと目の少女パチュリーは目線を本から魔理沙の方へとずらした。それから、魔理沙、あなた来る度に門番をいじめるのは止めてあげてね、と言った。
「楽勝だったな、今日も。…ってかさ、大体あいつの方から喧嘩を吹っ掛けてくるんだ。今回は前より数段強くなったから勝負とか言って。私はそれにのってやっているだけだぜ?」
どっちもどっちね…、と呆れたような顔をパチュリーはした。
「折角だから、あなたが紅魔館の門番をしたらどうかしら? そうすれば余計なお客さんもここへは来ない事だし…」
魔理沙は自分が紅魔館の前で仁王立ちをして侵入者を待ち構えている姿を想像した…。果てしなく退屈そうだったので首をぶんぶんと横に振った。
「心底ごめんだな…。私は勝手気ままにやっているほうが性にあってる。そっちこそ偶には本を読むのを止めて、外で元気に門番でもやってみたらどうだい?」
「…要らぬお節介よ、人には適材適所ってものがあるの。…それはそうと、一体何をしに今日は来たのかしら? 門番になりたいんだったら咲夜にでも頼みなさい」
人じゃないけどな……と、魔理沙は思ったが口には出さなかった。言うだけ不毛だからである。
ここで魔理沙は、今日紅魔館に来た理由をパチュリーに話し始めるのであった。
魔理沙はパチュリーに、今日霊夢が近いうちに自分の身に何か起こるのを予感していたことを話した。始めは雲を掴むようで、確証も何もない話だったのでパチュリーはつまらなそうだった。
だが、途中の説明の中に『運命』という単語が口に出されたとき、パチュリーの表情が明らかに変った。そこを魔理沙は逃さなかった。
「…言ってくれ。何か知っているなら教えてくれないか? 今回の件の鍵は霊夢が口にした『運命に抗うようなもの』っていう抽象的な言葉だけなんだ。これが何を指すのかが分かれば、霊夢に被害が及ぶ前に私が何とか―――」
―――無理よ。
そう、冷たくパチュリーは言い放った。この二の句を繋げさせない言葉の重圧に押し潰されそうになりながら、魔理沙は言った。頼むから、その言葉の示す意味を教えてくれと。
「……帰りなさい。人間にはどうしようもない事が世の中にはあるのよ。況してや『運命』に抗うだなんて――」
――それは、つまり…
パチュリーは心の中で恐怖する、あれには何人たりとて適わぬと。『運命』を司るまさに神にも匹敵する力を有するあの齢500を数える少女に、一体誰が勝てるというのか。悪い夢だ。
そうパチュリーは思った。戦えば為す術も無く殺されるだろう……そう思ったからこそ、パチュリーは魔理沙にレミリアのことを教えたくはなかった。彼女を死なせなたくなかったからだ。
魔理沙はなおも食い下がった。
大切な友人の不安を取り除いてあげたい。
だから力を貸してくれと。
大切な友人…と聞いてパチュリーの心が少し揺れた。
彼女は心から友人、博麗霊夢を救いたいと願っている。正体の見えない『運命』に逆らうことさえも辞さないという感じだった。
パチュリーはここまで他人のために動ける魔理沙を少し羨ましく思う。果たして、100と幾年の歳月の中で、自分はそこまで他人に尽くそうと思ったことがあっただろうか?
…それならば、今この瞬間こそが自分が始めて他人のために尽力するよう運命付けられた時なのだ、とパチュリーは考えた。
「…適当な事をやっても、運命には…レミィには勝てやしないわよ? …レミィの反目に回るのは不本意だけど、今回だけはあなたに協力してあげるわ」
――ただし、私が今回の一軒に関与した事は内緒よ?
と、パチュリーは慌てるようにして一言付け加えをした。
一方の魔理沙は衝撃の事実を聞いて大いに驚いた。
まさか、一週間ほど前に霊夢の手で倒されたはずの吸血鬼が『運命』の正体であったとは。そこで、魔理沙ははたとあることに気付いたのでパチュリーに尋ねてみた。
「分かってる。いちいちそんなこと言ったりなんかしないぜ。…それで、パチュリー、もしかするとあいつの…レミリアの力は『運命』をどうこうするって感じのものなのか?」
パチュリーは黙ってこくりと頷いた。
…だからパチュリーは自分に『運命』が何たるものを指しているのかを教えるのを渋ったのだ。それもそのはず、運命を操作し得る力の持ち主に、ただの人間風情が敵うわけがないのは自明の理だったから。それに加えて、レミリア自体がパチュリーの友人であったからというのもあるだろう。にも拘わらず、パチュリーはレミリアに弓引く事を自分のために承諾してくれた。
そのことに魔理沙はパチュリーに心から感謝した。
――ありがとう。
魔理沙は何も飾らず、ただ一言それだけを言った。そして、右手を差し出し、パチュリーに握手を求めた。
手を差し出されたときはきょとんとしていたパチュリーもすぐに照れくさそうにはにかみながら魔理沙の手を握り返した。
「…か、勘違いしないで! これは貸しの一つよ!! そう…今度あなた、前自慢していた外の世界の魔導書をここに持ってきなさい!」
あくまでも素直でないパチュリーに魔理沙は苦笑した。
「いいよいいよ、今度必ず持って来る。…しかし、あれだけ頑なに教えてくれなかったのに、何か当てがあるのかい? 仮に私とパチュリーが二人がかりでレミリアを襲ったとしても勝算が全く見えないんだが…」
正面切って戦えば100%の確率で敗北を喫することをパチュリーは知っていた。従って、それでも魔理沙に協力するというからには、何らかの方法があるということか。
「賭けね、これは一種の賭けよ。もし私の目論見がはずれたのなら、あなたも自分の死を覚悟することね。……それじゃあ、その覚悟があるのなら私に付いて来て…」
重い腰を上げ、パチュリーが向かった先は図書管理室内の奥にある隠し部屋への入り口だった。
幾度かここへは来ていたが、まさか隠し部屋なんて殊勝なものがあるということには目ざとい魔理沙も気付かなかった。しかし今はそんなことはどうでもよく、とにかく魔理沙はパチュリーの後ろに付いて行く。
……長年使用されていなさそうな通路であったが、偶に咲夜が掃除をしているのか、黴臭いくらいで埃はほとんど堆積していない。そのため、喘息持ちのパチュリーも気にせず歩く事が出来ていた。
目的地へ着くまで、二人は終始一貫無言で通路を歩き続けた。すると、やがて暗がりに特殊な魔法陣で封印を施された部屋の前に来た。
パチュリーは懐中から図書館全般の物と思しき鍵の束を取り出すと、その部屋の唯一の進入口である古めかしい装飾がなされた扉に一本の鍵を差し入れると、カチャリという音と共にロックがはずれた。部屋を封印していた魔方陣も同時に消え去る。どうやら鍵にも魔法がかかっており、それと連結して扉が開くという仕組みになっているようだった。
ロックをはずすと、パチュリーは再び懐中に鍵の束を収め、魔理沙に部屋に入るよう促した。やや緊張気味な表情をしながら魔理沙は無言のまま頷き、パチュリーの後を追った。
…部屋の内部は先程まで居た通路とは雰囲気が明らかに異なった。また、大小様々な本が棚に整理されて保管されているのが見て取れる。その辺はヴワル魔法図書館と大差はないのだが、何かがおかしい。
――この部屋は生きていない
魔理沙が直感的に思ったことはそういったものだった。
あまりにも馬鹿げた表現であるが、一番的を射た表現であった。
この部屋には『生』というものが全く感じられないのだ。
―――――それもそのはず
――――なぜなら
―――この部屋は
――時間が流れていないから……
パチュリーにそう教えてもらって、魔理沙はなるほどと納得した。
始めは黄泉の世界にでも迷い込んだのかと錯覚したが、今はこの『生』を感じさせない感覚が、時間が流れていないせいなのだということが理解できた。時間が凍結しているのである。
「…てっきり、魔女に騙されて死出の旅路へご案内かと思ったが、そういうことかい。…なぁ、パチュリーここはどうして、……その、時間が凍結状態にされているんだ?」
パチュリーは少々自慢気に微笑んだ。
「宝の山よ、ここは。…ここはね、紅魔館の禁書保管庫の一つよ。門外不出の希少な本が数多く眠っている。時間が凍結されているのは、これら死蔵された本の一切が朽ち果ててしまわないようにするための処置。レミィが人間である咲夜を紅魔館に置いているのも、ここの部屋の時間を凍結させるためってわけ」
時間の一切の流れが凍結すれば、如何なる方法を用いようとも凍結した物質を破壊することは出来ない。術が解かれるまで、半永久的に術をかけられたその瞬間のままを保つ事が出来る。まさに完璧な防御策であると言えよう。
「……結界を張り巡らせてればそれで事足りると思うけどな。そうまでして一体何を守っているんだ? どんなに希少でも、たかが本に何をそこまで…」
――これを妹様に破壊されないようにするためよ。
パチュリーは部屋の片隅に無造作に置いてあった一冊の何の変哲もない本を手に取ってそう言った。棚に整頓されている本よりかは若干薄く、一回り小さかった。
また、周囲をよく見渡すと、パチュリーが手に取った分のと同じ種類の本が数多く収められている棚があった。ちょうど一冊分の空きがあるので、もともとそこにあったものなのだろう。
「…で、それは一体何なんだ? まさか超強力な魔導書ってだけじゃないだろうな? …ははぁ、それであの爆弾娘があれ以上の物騒な力を身に付けないよう厳重に守っているってわけかい。何? もしかして相当に危険な魔法でも載っているっていうのか、それ?」
パチュリーは首を横に振った。
「…レミィはこれを『アカシック・レコード』と呼んでいるわ。…あら? 吃驚したようね? …そう、これは全宇宙の過去・現在・未来を記したものよ。私が今手にしているのは『人』についてのものね。あっちの棚にあるのは『人』以外のものを記しているわ」
魔理沙はちらりと先程見た棚を見やる。そんなとんでもないものが紅魔館に眠っているということにただただ驚くばかりであった。
「わけが分からないぜ、どうしたってそんなものがここにあるんだ? そんなものがあるとしても、それは概念の中だけでの話じゃないのか? 実際に書物としてあるなんて話聞いたこともない……」
――が、現実にこの時の流れていない空間にそれはあったのだった。
「…いいえ、魔理沙。これは嘘でも何でもなく、正真正銘本物のアカシック・レコードの写しよ。ただし、ここに記載されているのは未来だけだけど…」
パチュリーの話によると、この写しはレミリアが運命を操作するために実際にアカシック・レコードを具現化させたものであるらしい。
そして、レミリアの運命を操作する能力とは、このアカシック・レコードの情報を改竄することによって未来を変えてしまうというものだった。だが、『過去』だけは、起こってしまった事柄についてだけは如何にレミリアと雖も変えることは出来ない。そんなに都合のいい能力というわけではないようだった。
「………とんでもない代物だな…。それで、何でまたこれをフランドールから守ってるんだい? あいつは何でもかんでもぶっ壊しちゃうだけで、特にどうというわけでもない気がするんだが…」
その質問にパチュリーは頭を痛めるようにしながら答える。
「……考えても見なさい。妹様はありとあらゆるものを破壊することが出来るのよ。すなわち、もし仮に妹様がこの『未来』を著している写しを破壊しでもしたら―――」
――壊した先の未来は消えてなくなる。フランドールは未来という概念ごとすべてを消し飛ばしてしまうのだ。なるほど、こうも厳重に保管するわけである。
「…楽観視出来ないってことかい。って、それなら最初からこの写しとやらを具現化なんてさせなければいいと思うんだが…。早いとこフランドールに壊されないよう、引っ込めるようにレミリアに言っておけよ」
しかし、それは出来ないとパチュリーは言った。どうしてだ? と魔理沙が尋ねると、レミリアが死にでもしない限り消える事はないといった返事が返ってきた。まったくもって難儀なことである。それからパチュリーは妖しく笑いながら話の核心に触れ出した。
でもね、自由に出し入れが利かない。そこに付け入る隙があるのよ―――。
*
霊夢は禊を済ませると、新しい巫女服に着替えた。
魔理沙が帰ってから、霊夢はずっと身の回りを清める事に時間を費やしていた。しかし、やってもやっても身に迫る悪寒を拭い去ることは出来ず、時間が経過すればするほど恐怖心が募ってきていた。
しかし、それでもやることはやっておかねばと、霊夢は日頃滅多に張ることがない結界を、まるで取り憑かれたかのように周囲に張り巡らし始めた。
抜かりはない、全くないはずであった。あらゆる妖魔、災厄を悉く退ける結界や護符をきちんと神社周りに完全にこさえていたはずなのである。
だがそれでも、霊夢本人が抜かりなしと思っていても、まるでそれだけが霊夢の頭から抜け落ちたかのように、吸血鬼を退ける結界・護符だけは一つとして張られる事はなかった……。
*
…夜になった。ぱちりと両眼を見開き、私は目を覚ます。忌々しい日の光も、今は月の光に取って代わられていた。実に見事な満月で、外食するにはまさにうってつけの夜だった。
私ははやる心を抑えつつ、さっそく外へ出るための身支度をした。外には手ぶらで行けばいいので準備もすぐに終わった。
そして、早速私は紅魔館から出ると、まっすぐに博麗神社に向かって羽ばたいた。風を切り、夜風を全身に感じながら移動するのは心地がいい。それに、移動するに当って食事前のいい運動になることだろう。
途中、神社の前の広大な湖を通ると、氷精たちが賑やかに話などをしているのが見えた。大して興味はなかったが、彼女たちが夜にも拘わらずやっていた蛙を凍らせる遊びを見て、私は思わず笑みがこぼれた。
やはり、力が強いものが弱いものを嬲るのはこの世の常なのだと。この法則にぴたりと氷精たちが当て嵌っていたので、私は笑わずにはいられなかった。
そうやって氷精たちを笑っていると、向こうも私に気付いたのか、皆してひそひそと何か耳打ちをし始めた。思わずカチンと来たので、殺してしまうつもりで眼をいからせると氷精たちは氷精のくせにまるで凍りついたように動かなくなってしまった。
―――蛇に睨まれた蛙だ。
可笑しかった。とてもその様が可笑しかったので私は声を立てながら大いに笑った。
……揺るがない、力なきものは力あるものに永劫に屈するしかないという論理は、今の光景を見るまでも無く決して揺るがない…。そう…揺るがないのだ。
くすくすくす―――――――
可笑しくて可笑しくて可笑しくて、私の嗤いは止まる事は無かった。
*
「――よくお聞きなさい。レミィの本来の能力はこの具現化したアカシック・レコードの写しを改竄して、元々予定されていた未来を変えてしまうところにある。…とは言ってもね、この本が彼女の手元に無い限りは運命を操作されることはないの。後は、妹様には劣るものの、強力な魔力を行使して魔法を発動させることだけね。…まぁ、それでも相当な使い手であることに間違いはないけれど」
「…どういうことだい? つまり、この写しとやらをこっちで抑えていればレミリアはもう運命を改竄する事が出来ないから、後はどうにかして倒せってことか?」
――ただ倒すだけじゃ無駄よ、そうパチュリーは言った。なぜなら、魔理沙の話から霊夢の運命が改竄されているのは明白であり、よしんば魔理沙が首尾よくレミリアを倒したとしても、霊夢に降りかかる運命だけは決して変わることがないからだ。
「勝っても仕方が無いのよ。それに、勝ったからってレミィがすんなり紅白の運命を戻してくれるとも限らないわ。アカシック・レコードに刻まれた運命は必ず訪れるのよ! 魔理沙、これはここに来る前にも言った通り賭けよ。紅白の元に何時レミィが行くとも知れない。だから私たちの手で――――」
――運命を修正するのよ。
…それが、パチュリーが考えた解決策であった。何とも突拍子のない、無謀な挑戦のようにも思えたが、彼女なら……知識と日陰の少女と謳われる彼女なら、あるいはそれも可能なのかもしれなかった。
「……出来るのか? そんな―――」
――そんなこと。
思いもかけなかった話に魔理沙は魂が抜けたようになった。そんな魔理沙を勇気付けるように、焚き付けるようにパチュリーが言う。
「何とかするのよ、私たちの手でね。『出来るのか?』じゃなくて、『やる』のよ。そのためにあなたも私を訪ねて来たのでしょう? …だったら、最後まで、たとえ結果が最悪なものになったのだとしても、悔いを残さないようにやるだけやってみせてよ!」
その通りだ、と魔理沙は思った。自分は何のためにここへ来たか、それは霊夢を救いたい、ただその思いからだったはずだ。ならば、ここまで来てその一念を曲げる必要など微塵もないではないか。やれるだけのことはやる、それならば―――。
――後悔はない。
「…よーし、分かったぜパチュリー。私に出来る事なら何でもする。さっそく作業にとりかかろう!!」
気合の入ったらしい魔理沙の様子を見て、それでこそ霧雨魔理沙だとパチュリーは思った。
そして、いざパチュリーと魔理沙が運命を修正すべく作業を開始しようとしたところで、上からカツン、カツンと何者かの靴音が響いてきた。
(―――レミリアか?)
魔理沙の動機が激しくなった。横目でパチュリーを見ると、自分と同様に緊張しているようなのが伺えた。
…この状況はとても言い訳が通じるような状況ではない。恐らく、有無を言わさず殺されてしまう事だろう…。自分だけが殺されるならまだしも、万が一パチュリーが殺されてしまうような事態になってしまっては……。
靴音は部屋の前の扉で止まった。中に緊張が走る。
もし扉の向こうの何者かがレミリアであったのなら、魔理沙はその瞬間に魔法を叩き込むつもりでいた。死なば諸共である。
―――コンコン
そうノックがする。やや固い口調でパチュリーがどうぞとだけ言った。
ゆっくりとドアノブが音を立てて回り、扉が開く。
入ってきたのは―――――メイド長の十六夜咲夜だった。
身構えていた魔理沙はホッと胸を撫で下ろした。
パチュリーもまた同様である。
「うわっ、びっくりしたぁ。何よあなたは?」
出会い頭に攻撃されかけようとしていたので、咲夜はムスッとした感じで魔理沙にメンチを切った。その行動に対し、魔理沙は悪い悪いと、全然悪そうにせず謝った。
咲夜は相変わらず人を食った性格をしている魔女を憎々しげに睨むと、横で緊張が解けて普段のじと目に戻ったパチュリーに話し掛けた。
「…パチュリー様、そろそろ夕食の時分になりますが如何しましょう? 今日、レミリアお嬢様は外にお食事しに出て行かれまして、偶にはパチュリー様の食べたいものをお作りようと思ってお探ししてたのですが……。今、お忙しいですか?」
咲夜のその言葉を聞いて、魔理沙の血の気は引いた。
よりによって今日その日が霊夢の予感していた運命を決する日であろうとは。
おそらくレミリアが食事をしにいった場所というのは―――――。
いや、もしかすると違うかもしれない……。が、それでも魔理沙は今日に違いないと感じた。こういうときに限って悪い予感は当るものである。
「……勘弁してくれ。パチュリー、どうすれば…どうすればいい? このままじゃ、霊夢が死んじまうかもしれない。じっとしていられないんだ、何でもいい……私がするべきことを教えてくれ……」
何の話か咲夜はさっぱり分からなかったが、気にせず再度食事を摂るか否かをパチュリーに聞いた。今日は食事も何もかもいらないということを咲夜に伝えると、咲夜は相分かりましたと部屋から出て行った。
咲夜が完全に出て行ったことを確認すると、パチュリーは魔理沙に優しく声を掛けた。あなたが今出来る事をすればいい、さぁ解読に取り掛かりましょうと。
魔理沙はゆっくりと頷いた。次いで、やおら自分の顔面を両手でぴしゃりと叩くと、気合が入ったぜと言い、いつもの不適な笑みに戻った。
「…レミィは、たぶん単純明快に紅白の運命を改竄しているはず。その個所を解読して、どうにかして私たちの手で修正を施す事さえ出来れば……、きっと紅白は助かるわ!」
――きっと、そう断言するようにパチュリーは魔理沙に言った。それが今の魔理沙には何よりの励みとなる言葉だった。
……ああ、と魔理沙は一言返事をすると、帽子を前に深く被り直した。
そのせいでパチュリーは気付かなかったが、魔理沙は軽く涙を流していたのだった。
精一杯やれば、後の結果がどうであれ悔いは無い。
だから人は――――頑張れる。
「私に読めない本なんてないぜ? ……残された時間は少ないのかもしれない。けど、私はここで諦めるわけにはいかないんだ。さっ、パチュリー、とっとと解読に取り掛かろう!」
じと目の魔女は、ええと答え、軽く笑った。
白黒の魔女もまた―――。
―――そして、二人の魔女は部屋を替え、運命に立ち向かい始めた。
*
…確か、この辺りに博麗霊夢の住む神社が在ったはず。
私はその近辺に確実にいるはずなのに、周りを見渡してみても神社は影も形も見えない。
――さては
結界を張っているか…。
ならば、私が神社を見つけられないのもそのせいか。
けれど、如何に策を巡らそうとも今日この日、博麗霊夢は私に血を吸われる運命になっている。そう、それは決して変わることのない運命…。
…だから、容易に結界に閉ざされていない部分を発見する事が出来た。
まるでそこは私のために用意された専用の道であるかのようだった。
くすくすと笑いながら、私はその道状になっている所を通った。
すると果たして、偶に来ていた神社と寸分違わぬ光景が目の前に広がる。
振り返って後ろを見ると、鳥居やら樹木など、神社一帯を取り囲んでいる範囲中にびっしりと御札が張ってあるのが見て取れる。
何人とて寄せ付けぬように……、こんなことをしたのだろう。
必死になって私の描いた運命から逃れようと、博麗霊夢がもがいていた姿が想像出来た。
…たまらなく、興奮した。
喩えるなら息継ぎをしようとしたところを、水中から足を引っ張るなり何なりして溺死させてしまうようなもの。一呼吸で繋ぎ止めれるはずだった命を摘み取る、そうした行為はたまらなく私を興奮させる。賭けていた希望を踏み躙るのは最高だ。
私は軽く舌なめずりをした。
獲物はもう、すぐそこだ……。
何度か通された事のある博麗霊夢が生活をしている場所をゆっくりと歩く。
やはりここもそこらじゅうに札、札、札―――とびっしり結界やら何やらが張られていたが、どうしたことか私には全く効かず、簡単に私の侵入を許してしまっていた。
――これも運命の為せる業だ。
これが昨日だったら私は一歩も立ち入る事は敵わなかっただろう。だが、今日は、この日だけは別だ。たとえ何が起ころうとも博麗霊夢は、今日、この私に―――。
・
・
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やがて、私は博麗霊夢がいると思しき部屋の前に来た。
人間とは比較にならない五感を持って中の様子を探ると、確かにこの部屋の中から人の気配がした。
――博麗霊夢。
彼女がいることを確認すると、私は襖を破壊して部屋に押し入った。
想定していなかった事態に、博麗霊夢は文字通り固まってしまっていた。
私はそんな彼女にそのまま目にも止まらぬ速さで近付くと、頚動脈を締めるようにしながら右手で首を掴んだ。
「…うふふふ、こんばんわ霊夢。今日は随分と物々しいけれど、何かあったのかしら? あれじゃあお友達も入ってこれないわよ?」
矢継ぎ早にそんなことを言ったが、どうしたもこうしても全部私が描いた絵の話だ。自分で言ってて可笑しくなってきた。
一方の霊夢は、首を掴まれ宙に持ち上げられてしまったのでじたばたと動くことしか出来ないでいた。げほっげほっと口を鳴らし、満足に息も出来ないでいる。
…それは面白くなかった。
私は右手の力を少し弱め、かろうじて話が出来るようにしてやる。
ぜぇぜぇと息を漏らしながら、苦悶に満ちた表情を私に向けていた。
「…よう、ま…の類は…寄ってこれないよう……結界を………張っていたのに…………どうして………あんたが……ここに………?」
そうなる運命だったのよ、と私は言った。
彼女にしてみれば、あまりに理不尽な話であろうが知ったことではない。
それに、元々生半可な呪符程度では、悪魔の中でも飛びぬけて優秀な種族である吸血鬼を退ける事など出来ないのだ。
それでも私を神社に入れたくなかったのなら――――
「……ニンニクでも軒先に吊るしておくべきだったわね? 聞いたことぐらいは、あるでしょう? 中途半端な呪いよりかは遥かに効果があるわ」
そう言ってから私はくすくすと笑う。
霊夢は今度、絶望に満ちた表情をしていた。
そして、そのカタカタと戦慄く口で言葉を紡ぐ。
「…わ、たし……を…どうする……つもり?」
決まっている、私の牙を首に穿ち、血を啜ること。
そもそも、目的はそうすることなのだから…。
望めばすぐにでもそうすることは出来た…。
だが、ここで私は悪魔的なアイディアを閃いたのだった。
それは、霊夢の体を私に自由にさせるか、大人しく血を吸われるかを本人に選ばせるというものだ。
…人間が吸血鬼に血を吸われれば―――言うまでも無く夜の住人の仲間入りを果たす事となる。で、あるならばまず間違いなく霊夢は私に体を自由にさせることを選ぶだろう。
如何な彼女が優れた巫女であろうとも、所詮は人間に過ぎない。間違いなく、確実に、己の保身を選ぶためにそっちを選ぶはずだ。
どうしてそんなことを考えたかといえば……そういうことに興味があったからと答えるしかない。
これは変質した歪愛に近しい。捻じ曲がった私の霊夢への愛情が、私をこんな凶行に駆り立てる。
そして―――その後で、彼女の血を堪能しよう。
だって、そう運命付けられているのだから…。
彼女がどっちを選んでも、それだけは変わらない……。
さっそく彼女に、たった今考えついた二者択一を選ばせることにする。
霊夢はどうしてこんなことをするのか? させようとするのか? などといった無意味な事を聞いてきた。
私は言ってやる。
「…理由? そんなものはどうだっていいのよ。私が、ただしたいことをするだけの話よ。さぁ、早くどっちか選びなさい」
まぁそう言われてすぐに、どっちかを選ぶわけはない。
案の定、予想通りの返事が返ってくる。
「…嫌……よ。ふざ……け………ないで……今なら…許して……あげないでも…ないわ」
私は鼻で笑った。
何て、愚かな娘なのだろうと。
左手で、私は思い切り部屋の壁を殴りつけた。その瞬間、壁は物の見事に爆ぜ、衝撃がずっと先の部屋の壁まで突き抜けていく。ガラガラと音を立てて、私が殴りつけた方面は半壊していった。その光景の凄まじさをまじまじと見せ付けられ、霊夢は唖然としていた。
くすりと笑い、私は霊夢を直視した。
これで己の立場というものを分かってもらえた事だろう。
「…私をあまり怒らせないことね。大人しく言われた通りになさい。…言っておくけど、陰陽玉なんかでおかしな真似をしたら、次はあなたがこうなるわよ? 痛みも何もなく、自分が死んだことにさえ気付かない。…そんなのは嫌でしょう?」
痛みと苦しみは自分が生きているということを実感させる。
死ぬその瞬間、たとえ痛みと苦しみを味わおうとも最後の一瞬まで自分の生を感じる事が出来るなら、それは幸せだと私は思う。即死など、もっとも救いの無い死に方だ。
だから私は―――獲物はなるべく痛めつけ、苦しませてから血を啜る。
私の言いたいことが理解できたのか、霊夢は嗚咽を漏らしながら質問に答えた。
「…うぅ………………きに…して……」
ぼそぼそと言っていたので聞き取り難くはあったが、霊夢が言いたいことは理解出来た。
私は彼女を床に降ろすと、首を掴んでいた右手を離す。
そうするとへたれ込むようにして彼女は床に座った。
そのまま、私は霊夢を―――――――――。
*
レミリアが博麗神社近辺に到着した頃、パチュリーと魔理沙はアカシック・レコードの解読に躍起になっていた。
最初は読む事すら出来なかったが、パチュリーの桁外れな知識量と魔理沙の閃きによって、大体は理解出来るようになっていた。
「出来っこないと思ってたが、案外上手くいくもんだな。この調子でいけば、もしかしなくても解読出来そうな気がするなぁ…」
何でもやってみるものである。
そうこうしているうちに、ついに二人は今日の霊夢の運命が記載されている箇所を発見するに至った。
「…あぁ! ここだわ! 魔理沙、やったわよ。…後は、これをどう修正するかね。レミィには遠く及ばないけど、ある程度なら私たちの魔力でも何とかなるかも…」
パチュリーが見つけた霊夢の運命には、『X月X日、レミリア・スカーレットに血を吸われる』という一行が付け足されていた。
何らかの呪文を詠唱し、パチュリーは『れる』の部分を『れない』に書き換えた……。
「もうこれで大丈夫なはず…。起こってしまった運命は改竄することは出来ないから、これで紅白は助かったってことね…」
二人はホッと安堵の息を漏らした。――しかし。
パチュリーが修正はもう完了したものとして魔法と解くと、図られたように『れない』にした部分は再び『れる』に戻ってしまった。
二人は顔を見合わせた。
一時的に修正をする事は出来た、だがこれでは…。
焦りが募る中、パチュリーは考える。一時的に修正は出来たのだ、それならばなぜ修正を加えた箇所が戻るのか?
考えるに考えて、パチュリーは修正を施した術者の魔力が行使され続けている間に限る、ということに気付いた。だが、レミリアの場合だとそんな必要は無く、書き換えたら後は何もしなくてもずっとそのままを保つ事が出来るのだ。まさに彼女だけの特権と言えよう。
ならば―――。
「…ねぇ、魔理沙、一つ提案があるわ…」
わずかに難儀そうな表情をし、パチュリーが言った。
私が今日が終わる時間まで、何とかこの修正状態を保っておくから、その隙にレミィと弾幕りあうなり何なりして時間を稼ぐのよ、と。
「私がか……」
そうあなたがよ、とパチュリーは言ってから、もう一度『れる』を『れない』に修正した。
さっきはほんの一寸の時間のことだったが、持続して修正状態を保つのは相当骨が折れる。どんどん写しに魔力を吸われていった。
――それから、パチュリーは血を吐いた。
「…かはっ…げほ………、思ったより辛い…わね…。…いい? 魔理沙、おそらく今は、血を吸われる代わりの『代償』を紅白は払っているはずよ。だから、今動けるあなたが二人の間に介入して、それすらも止めてしまいなさい……ごほっ…」
そしてこうも付け加える。
あなたはその過程で死んでしまうかもしれないけれど…と。
「…っっ! 大丈夫かよパチュリー!!! 無理をするな!」
口元から溢れる血をネグリジェの袖で拭いながら、パチュリーは言う。
「…何でもないわ、この程度…。私の心配なら事が上手くいってからいくらでもしなさい。それに…、ここで無理をしないと……あなたに申し訳が立たないわ!」
(――百と幾余の月日の中で出来た、初めての人間の友達ですものね……)
…苦しいはずなのに、パチュリーは安らかそうな顔をして笑った。
魔理沙はその笑顔の意味を理解した。
それじゃあ、ひとっ走り行ってくるぜ! と魔理沙は幻想郷の夜に飛び出した。
*
私の傍らには憔悴しきって眠ってしまっている巫女がいた。
かなり長い時間弄んだから、それも無理もない話だろう。
しかし、これはあくまでも主菜の前の前菜に過ぎない。
言うまでも無く主菜とは、彼女の――霊夢の血を啜ることだ。
眠ってしまって物言わぬ彼女の首筋に牙を突き立てることなんて造作もない。私は、少しずつ、少しずつ、自分で自分を焦らすようにしながら霊夢の首筋へ顔を近づけていった。
あと少し、もう寸でのところで――――邪魔が入った。
ぴたりと私は自分の動きは止める。
くるりと紅い目を何者かが来た方へと向けた。
眼前には白と黒で彩られた服の人間が一人。
ちらりと霊夢を見てから、もう一度そいつに向き直った。
…見覚えがある。確か、霊夢の知り合いの人間の魔女。
そして、偶にパチェに会いに来る人間の魔女だった。
其が名は―――霧雨魔理沙。
…しかしなぜ彼女がここにいるのか? 今この神社は私を除いて何人とて入れぬよう結界が張られていたはずだ…。
――いや。
私は自分のミスにチッと舌打ちをした。先刻程、壁を破壊した際に、あまりにも威力が強すぎて、外に張られていた結界ごと吹き飛ばしてしまったのだ。
だから、こいつは何ら苦労することなく神社の内部に入れた…。
けれど、それが何だというのだろう。
仮令誰がここに来ようとも、ちゃっちゃっと片付けてしまえばいい。
それにこいつはただの人間、恐るるに足らぬ相手だ。百の齢を重ねた正真正銘本物の魔女のパチェならいざ知らず、こんなちんけな人間ごときの魔女に何が出来るというのか。
唯一出来る事があるとすれば、それは私にあっさりと殺されてしまう事ぐらいだろう。
「…私に何か用かしら? もっとも私はあなたに用なんてないけれど…」
私の言ったことが聞こえていないのか、霧雨魔理沙は呆けたような顔をしていた。
無理からぬことだ、自分の親友が私に弄ばれたことが明瞭だったのだから。
よほどショックだったと見える。
「どうしたの? …あぁ、あなたも私に血を吸って欲しいのかしら? …でも駄目ね、あなたのその目が気に入らないわ。だからここで―――」
―――死になさい。
親の敵を見るような霧雨魔理沙の目が私を苛立たせた。
人間のくだらぬ友情ごっこほど虫唾が走るものは無い。
くすり、と笑うと私は霧雨魔理沙を始末するべく、魔法を解き放った。
ダビデの星――六芒星を虚空に仰ぎ見ながら、天罰を受けるといい。
凄まじい量のレーザー状の魔力が神社に入り乱れた。
建物はさらに崩壊していき、私のいる反対側を除いてはほとんど全損していった。
ガラガラと建物の崩れる音が辺りに響いていく―――。
……霧雨魔理沙は私の前方にはいない。
どんな使い手であろうともあの密集した魔力を掻い潜ることは不可能。
恐らくは、跡形もなく消し飛んだと見るのが打倒か。だとすれば、何と人間は脆い……。
邪魔者が消えてなくなったところで、早速私は霊夢の血を吸おうと後ろを振り返った。
するとそこには、消し飛ばしたはずの霧雨魔理沙がいた。
思わず目を疑った。なぜ? どうして生きているの?
「…天罰が聞いて呆れるな。あんなちゃちなレーザーを私がかわすことが出来ないとでも思ったのかい? だったら、えらく甘く見られたもんだな。レーザーってのはこうやって使うもんだぜ!」
そう言って霧雨魔理沙は有り得ないほど強大なレーザーをこちらに放ってきた。
耳を劈く轟音、抑え難い衝撃、そしてその威力……。
さしもの私も盛大に吹っ飛んでいき、神社の遥か手前に押し戻されていた。
・
・
・
気付いてみれば、私は地に倒れ伏していた。
自慢の服も土埃に塗れ、衝撃の強さで所々痛んでいる。
何と、無様な様だ…。たかが人間相手に……。
――がりっ
私は怒りのあまり唇を噛み切った。計算外だ、私の運命にこんな屈辱的なことが記載されているというのだろうか? 有り得ない、ふざけた話だ。
そこではたと考えてみる。
私は当初―――ただ霊夢の血を吸うためだけにここへ来たのではなかったか?
それなのに、なぜか急に彼女の体を弄ぶことを考え、血を吸う事をおざなりにしていた。
――馬鹿な…
私が興味を持っていたことは、突き詰めれば霊夢の血を吸うことだけだったはず。
後から来た愛情だ、何だというのはどう考えてもおかしい…。
だって私は、ここに来るときは確かに霊夢の血を吸う事だけを考えていたはずなのに…。
――運命が変わろうとしているのか?
――それともこうなることも定められた運命だったのだろうか?
私は、他人の運命を操る事が出来ても自分の運命だけは変えることは出来ないし、知る事も出来ない。
それは『私』のことがアカシック・レコードには一切記載されていないから――――。
『私』自信が、運命そのものだから――――。
後数時間程度で、今日は終わりを迎えようとしていた。
今日を過ぎれば、霊夢は私が再びアカシック・レコードを改竄しない限りは、血を吸われることは無いだろう。
もし、霧雨魔理沙が残された時間私を抑える事が出来たならば―――。
そのときは―――ありのままに運命を受け入れよう。
*
魔理沙は、レミリアが博麗神社より遥か彼方に吹き飛んでいったのを確認すると、傍らの気を失うようにして寝ている霊夢を見た。
…霊夢の着衣は乱れていた。これが…これがパチュリーの言っていた『代償』というヤツなのだろうか? だとすれば、何と惨たらしい事か。
複雑な思いに魔理沙は駆られる。幾ら命が助かったとはいえ、これではあんまりだ。
自分の私欲のため、悪戯に運命を操作するあの吸血鬼の娘に対して、魔理沙は激しい憤りを感じた。
しかし今は、憤怒をレミリアにぶつけることよりも何よりも、とにかく時間を稼ぐことが優先だった。パチュリーが書き換えを実行している間は、霊夢が死んだりはしないとはいっても、今レミリアに霊夢を連れて行かれたら今度はどんなことをされるか知れたものではない。
――逃げなければ…
遠くへ、可能な限り遠くへ。1秒でも10秒でも、可能な限り多くの時間を費やすのだ。
そうすれば、霊夢はもう何もされることがないはずだ…。
魔理沙はそう信じたかった。
霊夢をおぶるようにして肩に担ぐと、魔理沙は箒に乗って空に浮いた。
二人分の体重のせいか、動作が不安定だったが飛ぶ分には問題はなかった。
だが、速度だけは期待通りに出なかった。こんなふらふらな状態で空を飛んでいたら、あっさりとレミリアに見つかって撃ち落とされてしまうことだろう。
魔理沙は低空飛行することを選んだ。
鬱蒼と茂る木々が邪魔臭かったが、人一人担いで走るよりかは断然速い。それに、レミリアもこっちが全速力で空を翔けていると思っているだろうから、都合がいい。相手が探すのに手間取れば手間取るほど時間も稼げる。そう思ってのことだった。
決断してからの行動は早かった。
魔理沙はレミリアを吹き飛ばした反対の方向に、そうして不安定ながらも突き進んでいく。
レミリアとの距離はどんどん遠ざかっているはずだ。
・
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・
――いいぞ、この調子…
逃避行は順調だった。夜の森を移動していたので、厄介な妖怪にでも出会ったらどうしようかと内心冷や冷やだった魔理沙だが、それこそ運命が味方をしてくれているかのように何者にも邪魔されることはなかった。
「精々必死になって空を探してるといいぜ。…時間ももうあと少し、このまま逃げ遂せれば私たちの勝ちさ……」
――なぁ、霊夢。
ほとんど確定した勝利を前にして、魔理沙はにんまりとしながら後ろの霊夢を見た。
そのとき、魔理沙の視界に奇妙なモノが映った。
パタパタと夜の森を舞う、鳥のように羽の生えた生物がいた。
色は黒い。目はぼぅっと紅く輝いているように見えた。
飛行の様子から梟といった夜鳥の類でもなさそうだった。
と、するならばあの生き物は蝙蝠―――か。
そして―――その動き。明らかに魔理沙と霊夢に付いて来るように飛んでいた。
魔理沙は唾を飲み込んだ。間違いない、こいつは…こいつは―――――。
前方を見れば、木々はもう見えなくなっており、開けた草原のような場所に出ていた。
それと同時に、魔理沙と霊夢の乗っていた箒は何の前触れもなくバラバラに消し飛び、二人とも宙に投げ出された。
魔理沙は魔法で何とか衝撃を防げたが、霊夢の安否が気遣われる。
すぐに体制を整えると、周囲を見渡し霊夢を探した。
「探し物はこちらかしら?」
目の前に見えたのは、まるでお姫様のように霊夢を抱いているレミリアだった。
魔理沙は自分の馬鹿さ加減を呪った。
ここまで妖怪に襲われなかったのも何の事はない、いつの間にやら蝙蝠に化けたレミリアが後ろについて来ていたからだ。私の獲物に手を出すな、という警告を発しながら……。
文字通り、運命に味方されていたのだった。
「…乱暴なヤツだな。もう少し丁寧な遣り方にしたらどうだい?」
状況はどう見ても魔理沙の分が悪かった。
霊夢を奪取されているため、こちらから魔法を仕掛ける事も出来ない。
箒を破壊されてしまっている以上、逃げられたらそれまでだった。
このあまりの状況の悪転ぶり。
一番考えたくない事だったが、パチュリーが力尽きた可能性が高かった。
やはり運命はあいつに味方しているのか…? そう思わずにはいられなかった。
それでも魔理沙は自分のペースを崩さないよう努めた。
口調も態度もいつもと全く同じ。自分を保つことが今の魔理沙に出来ることだった。
「…いいわね、あなた。その人を食った態度、嫌いじゃないわ。土壇場になって命乞いをする人間なんかよりもずっと、ね。…それじゃあ、決着をつけましょうか?」
そう言ってレミリアは抱えていた霊夢をそっと地面に降ろした。
そうしてからキッと魔理沙を見据えた。
彼女の紅い眼は魔理沙に死を予感させた。
…だが、それならそれでもいいと魔理沙は思う。
本来なら、レミリアは自分などに目もくれず、早々にこの場から霊夢ごと逃げていたはずなのである。
時間はもうほとんど残されていない。
そんな状態であるにも拘わらず、レミリアは人間の魔理沙に地べたに這いつくばされたのがよほど癪に障ったのか、あろうことか決着をつけようなどと言ってきている。
――それならば、たとえ自分が死んでも霊夢は助かるか?
なら、本望だ。
「かかってきな! 最後まで立っていた方の勝ちだぜ!!」
紅い吸血鬼と白黒の魔女は相対す。
それぞれの思惑の中、戦いの火蓋が切られた。
同時に、運命もまた動き出そうとしていた―――――。
了
この話でのレミリアの能力って、トト神の漫画みたいですねw
続きが気になる~!
(ところで、後の方の「れる」と「れない」、入れ違っていませんか?)
修正しました。あそこを書き間違えると話が根底からおかしくなってしまうので焦りました。ご報告どうも有り難う御座います( ´∀`)
>375さん
期待を裏切るようで甚だ恐縮ですが、実はこのお話はあれでお終いです(;´Д`)
元々ああいうラストにしようと思って書き始めたものだったので、いささか拍子抜けするとは思いますが…。
*
あと、実は「」内がしりとりになるよう仕込みを入れてました。
このまま誰にも気付かれないのはあまりにも寂しかったので、ついでに言及しておきます。
言われるまで全く気が付かなかった……
しりとりの仕込みといい、彩光です。ほんとに。
と言うより内容にどっぷり集中しております。
続きがないのは少し残念ですが、それでも読むことが出来て良かった
レミリア>霊夢 ドキドキ