「ネタが無い」
新品同然の原稿用紙を前に独り呟く。
困った話です、ネタがありません。
全国の作家と漫才師と寿司職人、ついでに三流SS書きが一度はぶち当たる壁がついに私の前に立ちふさがりました。
幻想郷はいたって平和そのもの。一面記事級の特ダネどころか、地方紙の片隅に載ってる権力者ジジイの葬式レベルの事件すら無いのです。
普通に暮らしている分には良いでしょうが、私のように事件を飯のタネにしている新聞記者にとっては大変な事態です。
十常侍曰く、「陛下、世はまさに天下泰平にございます」ってヤツですか? それじゃ困るんですよ!
「むむむ、文々。新聞始まって以来の大ピンチですよ、これは」
頭を抱えて悩んだところでペンが進むわけはなく、時間は残酷にも刻一刻と過ぎていきます。
このままでは明日の一面は白一色、唯一載っている記事はノーレッジ先生連載の四コマ漫画だけになってしまいます。
朝早くにポストに挟まる真っ白な紙の束、そしてその隅にポツンと掲載された、ボォのつまらなさとあおぞら家族の気色悪さを混ぜ合わせたかのような狂気の漫画。
何の嫌がらせですか、内容が理解できる分まだ恐怖新聞のほうが精神的に優しいです。
「何かネタになるような事をメモして無かったかなぁ……」
使い込んでボロボロになった文花帖、
何か使えるようなことが書かれてないか淡い期待を抱いてページを開く。
まだ使ってなかったネタ、いつでも使えるようにストックしておいたネタ、書き方によっては大事件になる小ネタ。そんなものが見つかればいいのですが……。
「お、ありましたありました、えーと『博麗神社、ついに倒壊』、『霧雨氏とマーガトロイド氏、近日中に結婚か』。……ダメですね、こんなの使えません」
使われてないネタを発見して喜んだのも束の間、あまりに下らない内容に肩を落としました。
学級新聞じゃあるまいし、知り合いのネタなんか書いたって誰も読みやしません。
こんなもん一面記事にしようものなら二秒でスレストが来ます。スレストはハゲです。
「『完全密着、閻魔様のプライベートに迫る!』……これは以前ボツにしたやつですね」
人妖問わず死ねば必ずお世話になる閻魔様。馴染みが薄いようで意外とある、閻魔様の知られざる私生活。
自分でもなかなか面白そうな記事になりそうだと思ったのですが、いざアポを取ろうと無縁塚を訪ねたら、にっこりと笑顔を浮かべて「取材? そうかよし殺す!」と首根っこを捕まれ、そのまま地獄に叩き込まれそうになりました。
……どうやら閻魔様の私生活は地獄でもトップシークレット扱いのようです。
ちっ、良いじゃないですか。どうせ官僚並の優雅な暮らしをしてるんでしょうが。私達市民には汁権利じゃなくて知る権利があるんですよ、全く。
あー、全然書けない! なんでこんなに事件が無いんですか!
このままでは編集長に怒られてしまいます、誰ですか編集長って。
もうこの際、珊瑚にイニシャルでも彫って事件にしてしまおうかと思った、その時。
「すいませーん! 射命丸さん、ご在宅ですかー?」
誰かが玄関のチャイムを鳴らしました。誰ですか! 人がイライラしている時にっ!
わざとらしく、ドタドタと大きな足音を立てながら玄関に向かう。
「……受信料なら払いませんのでお帰りください。新聞勧誘ならこの場で内臓を引きずり出して巫女の餌にしてあげますので、せいぜいそのお粗末な脳味噌で辞世の句でも考えといてください」
「ちょ、ちょっと、何怖い事言ってるんですか! そして何故、拡張員にだけ辛くあたるんですか!?」
「商売敵ですし、嫌いなんですよあいつら。読●は中学もロクに出てないような低脳チンピラだし、朝●は気色悪い程馴れ馴れしいババァだし」
「伏字があるとはいえ危険すぎる発言!!」
「さあ、貴女はどっちですか? 答えないと後者とみなしますよ」
「ど、どっちでもありませんよ! 私です、鈴仙です鈴仙!」
レイセン? ああ、永遠亭のブレザーウサギさんですね。
玄関の穴から覗くと、確かに見覚えのある真っ赤な瞳が確認できました。
訪問販売の類なら絞め殺してやろうかと思いましたが、知り合いならば追い返す必要もありません。
世間体もありますし、何か面白い情報を持ってるかもしれません。
私はそう考えドアノブに手をかけ、扉を開けました。
「どうしたんですか? 貴女がここに来るなんて珍しいですね」
「ええ、本日は薬の訪問販売に……って、閉めないでくださいよ! 話だけでも聞いて……痛っ、耳が挟まった! 痛い痛い、開けて、開けてください!」
合法的に新聞勧誘と訪問販売を皆殺しにできる法律できないかなぁ、頼みますよ安倍さん。
「痛ったぁ~、ウサ耳美少女から唯の美少女になってしまうところでしたよ」
結局、鈴仙さんは耳を治療して欲しいとの理由で家に上がりこんできました。
多分、八意さん辺りから何が何でも家に上がりこめ、と教わっているのでしょう。
ふぅ、私もまだまだ甘いですね。ま、訪問販売とはいえ知り合いですからね、この位はしても良いでしょう。
「すいません、なんか無理矢理あがらせてもらっちゃたみたいで」
「みたい、じゃなくて無理矢理だと思いますが」
「そんな怖い顔しないでくださいよぉ。あ、これどうぞ」
そう言うと、鈴仙さんは自分の鞄から箱を取り出して私に手渡しました。なんですかこれは?
「冥王……饅頭?」
「はい、師匠と二人で宇宙旅行に行ったときのお土産です。結構美味しいですよ」
「……賞味期限、半年前ですけど」
「地球までヒッチハイクで帰ってきたもんで。あ、でも仮に腐っていてもお腹の薬も扱ってますから大丈夫ですよ」
下痢止めがあれば腐ったものを食べても大丈夫ときたか。
そんな考えを持ってる人なんて、世界広しといえども貴女とトルネコぐらいですよ。
「他にも色々な薬を取り揃えてますよ。常備薬はいかがですか?」
「うーん、間に合ってます」
「そうですか、じゃあコレとかどうですか? 若返りの薬、豊胸剤、人格が入れ替わる薬、性転換の薬、この薬一つでSSが一本書ける程の便利な品ばかりですよ」
「……役には立ちそうですけど、既に他の人が使ってますし」
「えー」
「すいませんが、本当に薬は間に合っています。耳の治療はしてあげたんだから、とっとと帰ってください」
きっぱりと断る。こういうのは曖昧な素振りを見せると負けです。
いくら知り合いとはいえ、必要の無いものを買うわけにはいきません。
そんな理屈がまかり通るなら文々。新聞は今頃幻想郷最大手ですよ。
「そんなぁ、ノルマを越えるだけの売り上げを出さないと、師匠が……」
売れそうに無いとわかるや、泣きそうな顔になる鈴仙さん。どうやらノルマを越えないと大変な事になるようです。
師匠、ということは八意さんに何かをされてしまうのでしょうか?。新薬の実験台? 月の技術をフルに活用した拷問?
鈴仙さんの表情は例えようの無い悲壮感が漂っています。むむ、私の想像なんかよりも遥かに辛い仕打ちが待っているのでしょうか。
うーん、なんだか気の毒になってきましたね。新聞記者は公平であるべきなのに、目の前でそんな顔をされると流石の私も……。
「師匠が、抱きしめてくれないんです……」
……は?
「規定数以上の売り上げを出すと、師匠が髪を撫でながら優しく抱きしめてくれるんです。師匠の胸はとっても柔らかくて暖かくて、まるでこの世の全ての幸福に包まれているような安心感があって……」
「……鈴仙さん」
「そして、二人は一晩中肌を寄せ合い絡み合……え、な、なんですか?」
「もし、ここが私の家の中でなく何の障害も無い野外だったら、貴女は今頃私の起こした竜巻によって空高く吹き飛ばされ、そのまま頭から地面に落下して脳ミソをブチ撒けて死んでいたでしょう」
「……」
「己の幸運に感謝することですね」
あまり私を怒らせない方がいい。
「……そうだ」
少しでも薬を買わせようとする鈴仙さんを見て、私の頭に一つの考えが浮かびました。
「鈴仙さん、貴女の周りで何か事件は起きてませんか?」
「事件、ですか?」
「ええ、取引をしましょう。鈴仙さんが知ってる最近起きた面白い事件、それを教えてくれれば薬を買う事も考えますよ」
「ほ、本当ですか!」
薬を買う、という単語に目を輝かせる鈴仙さん。
私は新聞を書くネタが欲しい、鈴仙さんは薬を売りたい、お互いの利害は一致しています。
ネタを提供してくれたら、お礼にバンソウコウの一枚でも買って上げましょう、買う量は言ってないし。
問題は鈴仙さんの周りで記事になるような事件が起きているか、という事なんですが……。
「事件ですか。うーん、何かあったかなぁ……?」
「できるだけ大きな出来事が良いですね。新しく開発された画期的な薬、というのでも構いませんよ」
「薬かぁ、師匠最近作っていたっけなぁ?」
腕を組みうーむと唸る鈴仙さん。
彼女はしばらく同じポーズを続けていましたが、しばらくすると何かを思い出したかのように口を開きました。
「そうだ、薬じゃないんですけど、最近永遠亭に新しい医療技術を取り入れたんですよ」
「へえ」
「はい。文さん、退行催眠ってご存知ですか?」
「タイコウサイミン?」
退行催眠、聞いたことがあります。
確か、催眠術によってその人の意識を過去に戻し、本人が忘れているような古い記憶を呼び起こす行為。
主に記憶喪失の治療に使われているそうですが、人によっては前世の記憶までもが蘇るとか。
私自身のイメージとしては、医学とオカルトの境界に位置する技術だと思っています。
「ええ、この退行催眠を使えば、本人がとっくに忘れていた過去の出来事を思い出すことが出来るんですよ。そうですね、例えば宇宙人にアブダクションされた時の記憶とか」
「宇宙兎にそれを思い出させてもらってもなぁ……」
「失敬な、誇り高き月の兎をリトルグレイみたいな辺境惑星の蛮族と一緒にしないでください」
蛮族なんだ。矢追純一が人生をかけて追ってきたものは何だったのか。
「はぁ……で、その退行催眠のどの辺が凄いんですか?」
「そりゃあもう、本当に凄いんですよ! なんてったって患者の秘められた過去や、隠しておきたい黒歴史が曝け出されるわけですからね」
「ほほぅ!」
それは興味深い。ジャーナリストとしてかなり好奇心をそそられる技術です。
患者のプライバシーはどうなるんだって話ですが、相手は馬鹿と紙一重というか若干馬鹿に近いあの八意 永琳が経営する病院です。そんなもん期待する方が間違っているんでしょう。
「それで、効果はあったんですか?」
「そりゃあ勿論! この間なんて、あの霧雨 魔理沙の過去が明らかになったんですから!」
「おお、それは凄い! それで、あの泥棒さんにどんな過去が!?」
これはラッキー、退行催眠の取材の途中で思わぬ情報をゲットです。
今まで霧雨 魔理沙の過去といったら、現行設定と旧作設定が入り混じって極めて不安定な情報しか入ってきませんでした。
赤髪だったり、うふふだったり、辻褄を合わせるだけで一苦労です。まあ魔梨沙は誤字らしいですけど。
それが本人の口から語られたとあったら、幻想郷を揺るがすほどの大スクープになりますよ。いやホントに。
「実はですね、魔理沙って名前、本名じゃないらしいですよ」
「なんと!? そ、それは本当ですか!?」
「ええ、彼女は幼い頃実家を勘当されて、魔法の森を一人彷徨っていた所を、魅魔という悪霊に拾われたらしいんです」
「ふんふん、それでそれで?」
「その時、彼女は幼さゆえに自分の名前を『ファリファ』としか発音できずに、それを聞いた魅魔が『魔理沙』と名づけて今に到るそうですよ」
「……それは多分、別の人の話ですね」
今の話で、私の催眠術に対する信頼度は急降下。
無茶苦茶じゃないですか。なんで魔理沙さんの記憶におかしらが出てくるんですか。
退行催眠、記事にするにはなかなか面白い話だと思ったのですか、肝心の中身がコレではとても使えません。
やっぱり鈴仙さんには早めにお帰り頂いた方がいいですね。
「どうも信じられませんね、本当は催眠術じゃなくて自白剤でも使ったんじゃないですか? ほら、永琳さんってそういうの好きそうでしょ」
「むむっ、狂気の月の兎である私の術が信用できないっていうんですか! それに師匠は尋問するときは薬じゃなく、もっと触手的なモノを使います!」
そうですか。
「そんなに嘘臭いって言うんなら、文さんが実際に試して見ますか? 百聞は一見にしかずですよ」
「えっ?」
「薬を買ってくれないどころか、私の催眠術まで嘘扱いされて、このまま大人しく帰れるハズがありません!」
「そ、そんなこと言われても……」
頬を膨らませてプリプリと怒る鈴仙さん。
ただでさえ胡散臭い退行催眠。鈴仙さんの話で更に信憑性が無くなったっていうのに、それを私に受けさせると申すか。
仮に催眠が成功したとしても、その後に待っているのは知られたくない過去の告白タイム。
清く正しく生きてきた私に、知られたくない過去なんて五百個ぐらいしか思い浮かびませんが、やはり個人情報の公開は勘弁して欲しいです。
ですが、そんな私の気持ちとは裏腹に鈴仙さんはすっかり本気です。
自慢の催眠術をコケにされたのが気に入らなかったのでしょうか。真っ赤な瞳をギラギラと輝かせて私に返答を迫ってきます。
うーん、ここで断ったら何をされるか分かりません。幻想郷一の俊足の私が負けるとは思いませんが、平和を愛する戦場ジャーナリストとしては無用な争いは避けたいところです。
それに、鈴仙さんは他に記事に出来るようなネタも持ってなさそうですしね……。
「……わかりました」
「!!」
「弱めでお願いしますね、私はこのあと記事を書かなければならないので」
「ま、任せてください! それじゃあ文さん、気持ちを落ち着かせて、私の瞳を見てください……」
私は言われたとおりに気持ちをリラックスさせ、鈴仙さんの眼を見つめる。
彼女の眼って見るとクラクラするからあまり見たくないんですけど、これも記事の為です。
「それじゃあ、いきますよ……」
真っ赤な瞳に更に赤みがかかる。催眠術が始まったようです、ああ気持ち悪い。
「……」
「……」
今のところ意識ははっきりとしています、まだ催眠にはかかっていないようです。
早くしてくれないと、催眠とは全く関係無く倒れてしまいます。うう、目が回る……。
「……」
「……」
まだですか? そろそろ限界なんですが……。
「……」
「……」
「……まだ、意識はありますか?」
「はい」
「……」
「……」
「今日は調子が悪いみたいです」
「ちょっと待てやぁぁぁぁぁぁ!!!!」
なんだそりゃ、散々大口叩いといて結果がコレか。既に頭の中で記事内容は決まっていたというのに、台無しじゃないか。明日の一面は私が兎に目を回されました、とでも書けというのか。文々。新聞は私の日記帳じゃねえんだ、チルノの裏にでも書いとけ、な!
「す、すいません、実はこの治療法はまだ実験段階でして、まだ上手く使えないんですよ」
「この、時間が無いってのに……ふぎゃ!!」
立ち上がって鈴仙さんの胸倉を掴もうとするが、さっきの余韻で上手く歩く事が出来ない。
鈴仙さんまであと一歩のところで、私は足をもつらせて床にすっ転んだ。
「あ、あれ? もしかして怒ってます? じ、じゃあ、薬は買ってもらわなくて結構ですので! すいませんでしたー!」
床で惨めに悶える私を尻目に、鈴仙さんは文字通り脱兎のように荷物を纏めて逃げるように去っていった。
ぬぬぬ、なんてこった! これじゃあ明日の新聞はどうすればいいんだ!
鈴仙さんの相手をしたせいで、無駄に時間を使ってしまった。これじゃあ新たなネタを探しに外に出る事も出来ない。
ああもう疲れた、全身から力が抜けていく。鈴仙さんの眼を見つめていたせいか、ひどい眠気が襲ってくる。駄目だ、私は新聞を書かなきゃいけないのに、ここで眠ったら明日の朝に間に合わない。でも、もう意識が……。
眠い……もう……駄目……。
◆◇◆
「 あ た い っ た ら 最 強 ね!!!」
春の日差しの中、湖の畔の木陰で心地よく眠っていると、
突然、チルノちゃんが私の前に現れ、お決まりの台詞を叫び私を夢の世界から引き戻した。
「ほら大妖精! とっとと起きる! 大ニュースがあるんだから、大ニュース!」
「チ、チルノちゃん、どうしたの突然……」
「だから、ニュースがあんのよ! どう、聞きたい? 聞きたくなくても言うわよ?」
「民主主義の欠片も無いのね……それで、何かあったの?」
「よく聞いてくれたわ大妖精! ついにあたいは宿敵、大ガマを倒したのよ!」
ふふん、と胸を張るチルノちゃん。
まだ半分眠っている私の両目に、チルノちゃんのぺたんこな胸と健康的な生足が映りこむ。
一気に目が覚めました、ごっつぁんです。
……で、なんだって? 大ガマさんをどうしたって?
「え? チルノちゃん、大ガマさんを倒したって……」
「そーよ、そうなのよ! ついにあたいはあいつをコテンパンにしてやったわ!」
チルノちゃんが信じられない事を口にする。
頬を抓ってみる、痛い。どうやら私が寝ぼけているわけでもないみたい。
大ガマさんに勝った? まさかそんな、あれだけ全戦全敗を重ねていたっていうのに。
大ガマさんとチルノちゃんの対決はそもそも、チルノちゃん趣味である蛙の氷漬けが彼等達のボスである大ガマさんの耳に伝わった事から始まった。
圧倒的な巨体とパワーとぬるぬるの前に手も足も出なかったチルノちゃんは、それ以来一方的に大ガマさんをライバルに認定し、定期的に勝負を挑んでいる。
と言っても、冷気が通用しない大ガマさん相手に氷精が勝てるはずが無い、その度に「次こそは負けないから!」と負け犬全開の捨て台詞で逃げ帰るのが毎回のお決まり展開だ。
ちなみに、大ガマさんの舌には微量の消化液が含まれていて、それに巻きつかれたチルノちゃんの服は……。
おおっと、この先は言えないなぁ。そのあられもない姿を楽しむのは私だけの特権なんだからウフフ。
「チルノちゃん……大ガマさんに勝ったって本当?」
「そーよ、あたいが本気を出せばあんな奴なんともないわ!」
「……熱は無いみたいね、腕に注射の跡も無い」
「本当だってば! 変な薬とかも打ってないわよ!」
真っ直ぐな眼差しで主張するチルノちゃん、その目には一点の曇りも無い。
嘘を言っているわけでは無さそう。そもそもチルノちゃんに嘘が付けるのかどうか疑問ではあるけど。
でも、にわかには信じられない。あの大ガマさんを倒したなんて。
「今日、朝起きたとき突然悟ったの、力だけが全てじゃないって。だから今日は大ガマに別の形で勝負を挑んでやったの! やっぱりあたいは天才ね!」
「別の形? 弾幕ごっこじゃなくて?」
「そう、今回は『論戦』てヤツで大ガマと勝負をしたの!」
「えっ!? ろ、ろんせんって、チルノちゃんが!?」
「そうよ、テーマは日本のショーシ化問題・広がるショトクカクサ問題・495歳の幼女吸血鬼を好きになっても相手のほうが年上なんだからロリコン扱いされるのはおかしいんじゃねえの問題の三つよ!」
「な、なんか三つ目が微妙だけど、どれも難しいテーマばかりじゃない。本当にそれで大ガマさんに勝ったの!?」
「勿論よ! 大ガマのヤツ、あたいの的を得た発言の連発にタジタジだったんだから!」
とてもじゃないが信じられない。
長い付き合いである私ですら、常に斜め上を行くチルノちゃんの思考回路を理解できていないのに、論戦で勝負だなんて……。
しかも、テーマはどれも難解なものばかり。意味が分かっているのか疑わしいのに、論戦なんて成立するのだろうか。
「ね、ねえ、本当にそれで大ガマさんに勝ったの……?」
「本当よ! はっきりと覚えている、アイツは自分の負けを認めたわ、あたいの勝ちよ!」
「嘘でしょ……」
「いい加減信じてよ、確かに聞いたんだから! 大ガマが『もういいよ、俺の負けでいいよ、頭が痛くなってきたから帰らせてくれ』言ってたのを! 今まで散々負け続けてきたけど、これで汚名挽回ってやつね!」
チルノちゃん、それは諦められてるのよ。色々と。
それよりも汚名は挽回するんじゃなくて……いや、汚名を重ねているだけだからそれでいいか。
よかった、やっぱりチルノちゃんはチルノちゃんだ。そのバカ可愛さにハートを奪われっぱなしだわ。
「じゃあ大妖精! この勢いで次行くわよ次!」
大ガマさんを打ち負かした(と思っている)のがそれほど嬉しかったのか、チルノちゃんのテンションは上がりっぱなし。
私の手を強引に掴んで空に飛び立つ。ああ、チルノちゃんの手、冷たいけど柔らかい。
「ちょ、ちょっとチルノちゃん、どこに行くの!?」
「決まってるじゃないの!第一の宿敵、大ガマを倒したんだから、次は第二の宿敵を倒しに行くのよ!」
第二の宿敵? チルノちゃんに宿敵認定されるような残念な人生の使い方をしている妖怪が、大ガマさんのほかにもいるのだろうか。
「今日こそあのバカガラスをぎゃふんといわせてやるわ、見てなさいよ!」
「カラス? もしかして、あの新聞記者さんのこと?」
「そいつに決まってるじゃない! 見てなさいよ、今度こそアイツを氷漬けにして大阪湾に沈めてやるから!」
この辺りで新聞記者、といったら一人しかいない。
伝統の幻想ブン屋スパッツ派。文々。新聞の記者、射命丸 文。
私はあまり面識は無いんだけど、かなり有名な強力な妖怪らしい。
チルノちゃんや、その友達のミスティアやリグルも取材を受けた事があり、記事にしてもらった事があるんだとか。
何故か私の元には取材に来なかった、あと図書館勤務のこぁちゃんの所にも来なかった。こぁちゃんはその事で荒れた。血涙をインク替わりに恨み辛みを書に記し、この世界全てを滅ぼす力を持つ地獄から来た死と惨劇の魔道書を一晩で完成させるという偉業を成し遂げた。翌日、本は魔女に没収された。いとあわれなり。
そのカラスさんが、どうしてチルノちゃんの宿敵になるんだろう?
「チルノちゃん、新聞記者さんと何かあったの?」
「あったも何も、あいつあたいを見るたびにちょっかいを出してくるのよ! 勝負をしかけてもすぐに逃げて追いつけないし!」
「ちょっかい?」
「あたいを見てるとネタに困らない、とか言って。弾幕の届かない場所でカメラ片手にニヤニヤしてさ、ほんっと腹が立つったらありゃしないわ!」
むむむ、私のあずかり知らぬ所でそんな事を。私の愛しいチルノちゃんに馴れ馴れしく近づくなんて、不愉快にも程がある。
巫女や紅い館の住人達に密着したほうが面白い記事が書けると思うのに、なんでまたチルノちゃんに。本当にカラスって何考えてるのかしら。
……!!! なんということ! 私は恐ろしい事実に気付いてしまった!
チルノちゃんの発言に含まれていた、ちょっかい、ネタに困らない、カメラ、ニヤニヤ。これらの単語から導き出されるモノ。
つ、つまりあの新聞記者はカメラでチルノちゃんを撮影して、自宅でニヤニヤしながら、チルノちゃんを、その、つまり……ネ、ネタにっ! ネタにぃぃぃぃ!!! ひぃぃぃ、やめてぇぇ!! 私の、私のチルノちゃんが汚されるぅぅ!!!(大妖精も妖精なのであまり頭は良くありません)
ゆ、許せない……よくもチルノちゃんにそんな邪な感情を……!
「今日のあたいは絶好調、大ガマを倒して気力150! 今ならバカガラスにだって勝てるわ! 大妖精、行くわよ!」
「ええ、行きましょう! カラスなんて絞めて捌いてきっちょむさんに売り歩いてもらいましょう!」
「な、なんか大妖精の目が怖いけど、心強いわ! では、しゅっぱーつ!」
大丈夫よチルノちゃん。貴女はずっと私が守ってあげるから!
◆◇◆
野を越え山を越え、やってきたのは妖怪の山。
天狗と河童が独自の社会を築いており、余所者は人間、妖怪問わず容赦なく襲い掛かる閉鎖空間となっている。
勿論、妖精も例外ではなく、ここの住人にとって私達は排除すべき対象であり、
彼らのテリトリーに一歩足を踏み入れた瞬間、予想通り「どこから来たんじゃワレ」的な方々が私達の前に立ちはだかった。
拳一つで沈めました。
力=正義、分かりやすくって助かるわ。妖精がそんなに強いわけない? 愛の力は無敵なんです><
「ここよ、間違いないわ!」
鼻血で顔面を真っ赤に染めた天狗の情報を元に道なき道を進むと、突如目の前に現れた昔ながらの日本家屋。
近くの看板に『文々。』と書かれていたのでここで間違いない。『新聞』の部分はピンクチラシが張られていて見えなかった。
「いくわよ! 覚悟しなさいバカガラス!」
建物を見つけた途端、勢いよく玄関に走っていき扉を開けるチルノちゃん。いよいよ天狗との対決が始まるんだ。
噂によれば、相手は風を自由に操る事ができるらしい。つまり、相手の攻撃を受けるたびにチルノちゃんのスカートがフワリと……。
大ガマさんの消化液プレイも病んだ雰囲気がたまらなかったけど、やっぱり基本はパンチラね。全てのネチョはパンチラに通ずる、よく言ったものだわ。
「……」
ところが、玄関の戸を開けたっきりチルノちゃんは中に入ろうとしない。呆然とその場に立ち尽くしたまま、一体どうしたのかしら?
「どうしたの、中に入らないの?」
「……大妖精、あれ」
チルノちゃんが家の中を指差す。
窓が少なく灯りも付いていないせいで、家の中は昼間だというのに暗闇に包まれていた。
「あれ、なんだろ?」
チルノちゃんの指差した先、そこには人間一人ぐらいの大きさの何かが転がっていた。
真っ暗で目を凝らさないよく見えないけど、どうやら形も人間と同じみたいだった。
「んー、見た感じ手足も頭もあるし、人間に近い形をしているね。人形かな?」
「不確定名:しょうたいふめいのそんざい ってやつね!」
「マーフィー君かしら? LATUMAPICが無いと分からないわね」
正体を確かめるため、二人で謎の物体の元に近づいてみる。
私達の足音にも何の反応も示さない、やっぱり人形なのかな? でも、なんで人形が玄関に?
念のため、物体の頬の部分に手を触れてみる。すると、私の右手にほのかな温かみが伝わってきた。
「! 大変チルノちゃん、これ、人形なんかじゃないわ!」
「こいつ、射命丸 文だわ!」
「チ、チルノちゃん、一体何が起こったの!? もしかして殺っ……」
「違うわよ、あたいは何もしてないわ! 玄関を開けたらそこに倒れていたのよ!」
なんと、廊下で倒れていたのは私達の標的、射命丸 文だった。
呼吸に合わせて肩を動かしている所を見ると、取り合えず死んではいないようだが、気絶しているのかそれとも眠っているのか、彼女は床にうつ伏せたまま動かない。
勝負を仕掛けにきた相手が既にダウンしていた、という予想だにしていなかった光景に、私達はパニックに陥った。
「どどどどうなってんのよ! なんでバカガラスが倒れてるのよ!」
「どうしようチルノちゃん、とりあえず今のうちにトドメを刺しておこうか?」
「何言ってるのよ、それじゃ勝負ができないでしょ! とにかくこいつを起こさないと! 大妖精、気絶した奴を起こすのって、口から空気を送り込むのと裸で暖め合うのとどっちだっけ?」
「どっちも違うわ、その間違った知識はどこから得たの?」
「レティ」
「雪ダルマぁ! 次の冬に絶対殺す!!」
あの雪見大福め、出番が少ないからってチルノちゃんに下らない知識を埋め込みおって。
次に会った時、先制の右ストレートを叩き込む事を心に誓っていると、その騒ぎが耳に入ったのか、文さんの体が僅かに動く。
「う、うーん……」
「あ、大妖精、カラスが起きそうよ!」
今まで死体のように倒れていた彼女が、ゆっくりと体を起こす。
「……」
「やっと起きたわねバカガラス! さあ、尋常にあたいと勝負するニャ!」
「西山君!?」
「……うー」
「どうしたのよ、さあかかってきなさい!」
「ちょっと待ってチルノちゃん、なんだか様子が変よ?」
私達の目の前でやっと目を覚ました文さん。だが、どうも様子がおかしい。
「あ……うあ?」
言葉にならない言葉を発しながら、虚ろな目で辺りをキョロキョロと見回す文さん。
気絶から目覚めたばかり、ということもあるだろうけど、それを前提にしてもこれは異常だ。
文さんの表情からは天狗特有の狡猾さや嫌らしさがまるで感じられない。
まるで記憶喪失にでもなったか、生まれたばかりの赤ん坊みたい。
「な、なんだって言うのよ。こいつ……」
「うー……」
奇怪な行動をとる文さんに身構えるチルノちゃん。
その動きが気になったのか、文さんとチルノちゃんの目が合う。そして次の瞬間……。
「……ママッ!!」
「うわっ!?」
突然、チルノちゃんに向かって文さんが飛び掛った。
「ママ、ママー!」
「ぎゃあぁぁぁ、重い、潰れる!! 助けてー、大妖精!」
「こらっ、チルノちゃんになんて事を! 離れろ、離れろぉー!!」
文さんに抱きつかれそのまま床に倒れこむチルノちゃん。
ぬぅぅ、この害鳥め。私でさえ手をつなぐ以上のことはしていないというのに!
体格差のせいで自力で脱出できないチルノちゃんを助ける為、私は文さんの肩を掴み無理矢理チルノちゃんから引っぺがす。
渾身の力で引き剥がしたせいで、文さんは後方に転がり柱に頭をにぶつけた。
「大丈夫? チルノちゃん」
「はぁっ、はぁっ、な、なんなのよ一体……」
「……うぇ」
「?」
「……う、うぇ……う゛わあぁぁぁあ―――んっ!!!」
「!?」
しばらく頭の痛みでうずくまっていたが、突然、火がついたように泣き出す文さん。
あまりの声の大きさに、私達は耳を塞ぎ文さんから距離をとる。
「ど、どうなってんのよ! あいつ、頭がどうにかなっちゃったの!?」
「う゛わあぁぁぁあ―――んっ!!!」
「チ、チルノちゃん、もしかしてこれは刷り込み現象なんじゃない?」
「す、すりこみ?」
「うん、鳥のヒナっていうのは、卵から孵って最初に見たものを親だと思う習性があるの。それで、偶然目が合ったチルノちゃんを親だと思い込んじゃったんじゃないかな」
「ヒ、ヒナっていったって、あいつ多分あたいより年齢は上だよ?」
「多分、文さんはなにかショックを受けて幼児退行を起こしちゃったんだよ。気絶してたのもそれが原因じゃないかな?」
「う゛わあぁ、うわぁぁぁぁんっ!!!」
耳が痛くなるような泣き声の中、二人で会話を交わす。
「う゛わあぁ、う゛わあぁぁぁあんっ!!!
「とりあえず、この泣き声どうにかならないワケ!?」
「チ、チルノちゃんがなんとかしてみてよ!」
「あたいが!?」
「文さんはチルノちゃんをママだと思っているから、優しく抱きしめてあげればきっと泣き止むよ!」
「うん、やってみる……」
信じられない、と言った表情で新聞記者に近づくチルノちゃん。
猛獣に餌をやるような怯えた手付きで、両腕をゆっくりと文の背中に回していく。
「こ、これでいいの? ほら、泣き止みなさい」
「うぇ、うぇ……ぐすっ」
チルノちゃんが抱きしめた瞬間、今までの激しい泣き声が嘘のように静まった。
それどころか、興奮で真っ赤だった顔が徐々に落ち着き始め、寝息まで立て始めた。
「……すぅ、すぅ」
「お、おさまった。ホントにあたいをママだと思ってるんだ……」
二人でほっと胸を撫で下ろす。
馴れない妖怪の山を進み、やっと出逢った相手は既に気絶していて、起きたと思ったら彼女は幼児退行をおこしていた。
この短い時間の中で色々な事が起こりすぎたせいか、私達は全身の力が抜けその場にヘナヘナと崩れ落ちてしまった。
「はい、チルノちゃん。喉渇いたでしょ」
文さん家の冷蔵庫から勝手に取り出したジュースをチルノちゃんに手渡す。
「うん、ありがと」
小声でチルノちゃんが応える。下手に大きな声を出したら、せっかく静かになった文さんが再び泣き始めてしまう。
二人で取り決めたわけではないが、そうなるであろうという事は流石のチルノちゃんでも予想出来る。
文さんが眠り始めてから、二人の声のトーンは自然と小さくなっていった。
「気をつけてね、零したら下にいる文さんが起きちゃうよ」
「わ、わかった、気をつける」
そんな二人の緊張をよそに、文さんはチルノちゃんの膝の上で幸せそうな顔をしながら寝息を立てている。
思い切り泣いて疲れたのか、それともママだと思い込んでるチルノちゃんが近くにいて安心しているのか、
その姿は、とてもじゃないが幻想郷トップクラスの実力を持つ天狗とは思えない。
その裏表の無い穏やかな寝顔は、生後数ヶ月の赤ちゃんと同じ雰囲気を漂わせていた。
「それにしても、文さんが飛び掛ってきたときはビックリしたね」
「本当よ! いきなりあたいに向かって『ママッ!』だなんて、頭がどうかなっちゃったのかと思ったわ!」
「いや、実際にどうにかなってるんだけどね……」
「いつもはあたいを散々馬鹿にしてくるくせに、いざこっちから出向いてやったら、イキナリ赤ちゃんになってるんだもん。もう戦う気も失せちゃったわ」
いくらチルノちゃんでも、無抵抗の相手に勝負を仕掛けるほど残酷じゃない。
幼児退行を起こした文さんを見て、チルノちゃんの戦意はすっかり削がれてしまったみたい。
私も、文さんからチルノちゃんの純潔を守るために意気込んでやってきたけど、相手が赤ん坊じゃあ戦うわけにはいかないもんね。
「チルノちゃん……これからどうしようか?」
何の話か、そんなのは決まっている。チルノちゃんの膝の上で静かに寝息を立てる文さんの話だ。
文さんは体はそのままだが、心は完全に赤ちゃんになってしまっている。言葉は喋れないし歩く事も出来ない。
その上、チルノちゃんをママだと思い込んでいると言う厄介なオマケ付き。
既に私達に戦意がないとなれば、これ以上文さんと一緒にいる必要はない。
文さんの治療については、竹林のお医者さんにでも頼んでおけば万事問題ないでしょう。
それで、上手い事長期入院でもしてくれれば、チルノちゃんにちょっかいを出す事もできない。
んっふっふ、私は何も手を下してないのに、文さんは勝手に入院する羽目になっちゃった。きっとチルノちゃんにちょっかいを出した罰が下ったんだわ。
「ねえ、大妖精」
「ん?」
赤ん坊状態の文さんを見つめながら、チルノちゃんが口を開く。
「こいつさ、あたいと会うときは必ず、ニヤニヤ笑っているんだよね。あたい、あいつのその顔が大っ嫌いなの。なんていうか、馬鹿にされてるのよ、あたいを見下してるの。」
「……天狗と比べると、妖精って弱い存在だもんね」
「うん、だから、あいつの顔ってその嫌らしい笑いしか見たことがなかったの」
「……」
「でも……バカガラスって、こんな顔もできるんだね」
……ん? 今チルノちゃん、変な事言わなかった?
「こいつ、あたいの目の前でこんな無防備な姿を晒してるけど、それはあたいのことをママだと思って信頼してるからなんだよね。あのバカガラスがだよ?」
「え、え? な、何を言ってるの?」
「えへへ、あたいがママか。なんだか嬉しいなぁ」
「チ、チルノちゃん……?」
あ、あれ? もしかして変なフラグ立っちゃった?
ダ、ダメだよチルノちゃん、文さんはお医者さんに任せて、私達は湖の家に帰るんだよ?
「あのね、大妖精」
いけない、それ以上言っちゃいけない! 貴女には私がついてるじゃない、だから……。
「あたい、文と一緒に暮らしたいな……」
「だあぁぁぁめえぇぇぇぇ!! ぜぇぇーったいにダァメェェェ!!!」
喉が張り裂けんばかりの大声で、チルノちゃんの言葉を遮る。
突然の大声にびっくりしたチルノちゃんが、思わず後ろに仰け反る。
「な、なんでよぅ、なんでダメなのさ!」
「ダメ、ダメ! とにかくダメ! そんなの私が許さないから!」
「なんでなのよ、ちゃんと餌もあげるし散歩も連れてくもん!」
「とにかくダメ! 私は絶対に反対だから!」
「何さ、大妖精ったら何様のつもりよ! 別に大妖精はあたいの保護者でもなんでもないじゃない、なんでそんなに反対するのよ!」
「うっ、そ、それは……」
思わず言葉が詰まる。
どうしよう、確かに私はチルノちゃんの保護者じゃない。
いや、保護者面をしているけど、チルノちゃんにとってはただの友達に過ぎないんだ。
ただの友達が、そんな上から目線でものを言うわけにも変って話。
しかも、反対する理由が文さんと一緒にいるのが気に食わないだなんて、絶対に納得しないだろうし。
ああ、でもいくら幼児退行を起こしてるとはいえ、チルノちゃんと文さんが同棲をするなんて絶対に許さない!
いくら本人達が親子のつもりでも、端から見たらラブラブカップルにしか見えない。
変な噂が立っちゃったらどうするの!? というか、私の目から見てもカップルに見える!
私の中の炎が、嫉妬の炎が燃え上がる。嫌、このままじゃマスクに4号として認められてしまうわ!
「……ふぇ」
「あ、ごめん、起こしちゃった!?」
しまった、今の口論のせいで折角静かに眠っていた文さんが目を覚ましてしまった!
「ふぇ、ぶえぇぇぇぇ―――んっ!!!」
再び、耳がつんざくような声で泣き始める文さん。
「ああもう! 大妖精のせいで文が起きちゃったじゃないの!」
「え、そ、その……ご、ごめん」
「ほーら文、泣いちゃダメよー。ほーらよしよし」
「ふえぇぇぇん、ママぁ……」
泣き叫びだした文さんを優しくなだめるチルノちゃん。
文さんはすぐに泣き止み、自分よりもはるかに小さいチルノちゃんに抱きつく。
「大丈夫よ文。ママがついているからね」
「ママぁ、ぐすっ、ぐすっ……」
そう言って文さんの黒髪を撫でるチルノちゃんの顔には、蛙を氷漬けにする時とは明らかに違う優しい笑みに溢れていた。
あああ! なんてこったい、あの悪戯っ子のチルノちゃんが、こんな短時間の間に母性に目覚めたっていうの!?
私の愛はいつまで経っても伝わらないのに、なぜカラスはこんなにもあっさりと?
小さいチルノちゃんに甘える大きな文さん。どうみても特殊なプレイが出来るお店の光景にしか見えないよ! 一時間いくらですか!?
「ほら、文だってあたいと一緒にいる方が良いってさ」
「で、でも、やっぱり専門の人に相談したほうが……」
「もういい、大妖精のわからずや! あたいは文と一緒に暮らすんだもん!」
「はうっ!!」
チルノちゃんの可愛い唇から発せられた言葉は、私のガラスのハートを粉々にするのに十分な威力だった。
「そ、そんなぁ、チルノちゃぁーん……」
「文、今日からずっとママと一緒にいようねぇー!」
「あぅー……」
呆然と立ちすくむ私の前で、二人はキャッキャとじゃれ合う。
なんという疎外感、なんという孤独感。
ああ、そうなのね……私はもうチルノちゃんには必要とされてないのね。じゃあ、私はこれから何を頼りに生きていけばいいの?
もう嫌だ、人生に絶望した。明日から旅にでよう、そして場末の酒場で流しとして暮らそう。
そして十数年後にミスティアと奇跡の再開を果たして二人でユニットを組もう。ギャラは8:2だ。
幸せそうな二人を尻目に、私はこれから始まるソロプレイ人生に思いを馳せ、一人玄関に向かって歩き出した。
「あれ? おーい、だいようせーい、どこいくのー?」
止めて、もう貴女の事は忘れたいの。これ以上私の心を傷つけないで。
「ちょっと、なんで何も答えないのさー」
返事をしちゃ駄目、ここは耐えるの。私はチルノちゃんとは別の道を歩むんだから。
今までありがとうチルノちゃん、私の事、忘れないでね。
「待ってよー! 早く大妖精もあたいの家に行こうよー!」
……え? チルノちゃん、今なんて……。
「大妖精は、あたいだけで文の世話をするのが不安で反対してたんでしょ? だったら、大妖精も一緒に三人であたいの家に行こうよ」
「チルノちゃん? あ、ちょっと……」
「行こう! ほら、そっち文の足持って、あたい一人じゃ文を家まで背負って行けないよ」
その小さい背中いっぱいに文さんを背負って、私に呼びかけるチルノちゃん。
嗚呼、その純粋さは今の私にとっては残酷すぎる。貴女は私に、目の前で二人がキャッキャウフフしている様をハンカチ噛みながら見ていろっていうの?
ひどい、そんなのってひどすぎるよチルノちゃん! まるで、食べ物を前にした幽々子さん、妹紅さんの尻を前にした慧音さんがお預けをくらうようなもの、そんなの正気を保てないよ!
そんな思いをする位なら、私はチルノちゃんに嫌われる方を選ぶ。さよなら! もう探さないで!
「大妖精、早く来てよ! 文がまた泣き出しちゃうでしょ!」
「チ、チルノちゃん、あ、あのね、私……」
「何やってんのよもう! ほら、ちゃんと足持って!!!」
「え? あ、う、うん、わかった……」
……断りきれませんでした。
ああ、きっと私は行きたくもないクソ上司の飲み会に、嫌々参加しちゃうタイプなんだろうなぁ。
ノミニケーションていう言葉考えた奴死ねよ。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
「おー……」
「ぁぅー」
こうして、私とチルノちゃんと赤ちゃんになった文さん……文ちゃんの三人の同居生活が、殆ど強引に始まったのである。
◆◇◆
「うーん、鳥の赤ちゃんって何を食べるのかしら?」
どうしよう、流れに身を任せていたらとんでもない状態になってしまった。
チルノちゃんは、どこから持ってきたのか『生き物の飼い方』という本を、逆さまに持って顔を顰めている。
そして全ての発端である文さんは、赤ん坊の感覚ではもう寝る時間なのか、チルノちゃんの肩に寄りかかりうつらうつらと船を漕いでいる。
何も知らない他人がこの様子を見たら、若干ロリコン気味の百合カップルに見えてしまうだろう。
どっちかって言うと姉妹に見えるんじゃないかって? 幻想郷にそんな常識的な思考回路の人がいるわけないじゃない。
「みすちーって普段何食べてたっけ? いつも食べられてばっかだから分からないなぁ」
初めて出会ったあの日から、ずっと夢に見てきたチルノちゃん宅お泊り。
これがただのお泊りならば、着替えに歯磨きセット、勝負ドロワーズに精力ドリンク、ついでにティッシュ箱と完全武装(フルアーマー)で望む所だが、今はとてもそんな気にはなれない。
「ねえ、文は何が食べたい?」
「あぅぅ……」
「んもー、それじゃ分からないでしょー」
「うー、うー!」
帰ってきてからチルノちゃんはずーっと、文さんに付きっ切り。
その間、私は完全に放置プレイ。二人のイチャつきを正座で見つめて早三十分。
もはや、チルノちゃんが私の存在を覚えているかどうかも疑わしい。
まあ、こうなる事は予想できていたんだけどね。あまりにピッタリ的中したので、もしかして予知能力でもあるんじゃないかと思っちゃう。
でも、いくら予想していたとはいえ実際にやられると流石に辛い。
まあ、赤ちゃんって事は、少なくともチルノちゃんに手は出さないだろうし、その点では安心なんだけど……。
「ぅー、ままぁ」
「ん、どうしたの文?」
「……おっぱい」
……あんだって?
「そう、文ったらおっぱいが欲しいのね」
「ばぁ、ばぁ」
「よし、それじゃあ文のため一肌脱いじゃおうかな?」
「ちょっと待ったああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
スカートの裾を掴み、今にも脱ぎだしそうなチルノちゃんに向かって渾身のフライングボディアタック。
完全な死角からの攻撃はチルノちゃんに見事直撃し、二人は体を絡ませながら転がり豪快に壁にぶつかった。
「いったぁ~、いきなり何するのよ大妖精、痛いじゃないの!」
「チ、チルノちゃん、今自分が何しようとしたのか分かってるの!?」
「何って、文におっぱいをあげようとしたのよ。文、お腹空いてるって言ってるし」
「だから、それがおかしいの! チルノちゃん、母乳出ないでしょ!」
「分からないわよ、昨日は野菜を一杯食べたから、もしかしたら出るかもしれないわ」
便秘じゃないんだから。
「だったら、大妖精がおっぱいあげればいいじゃない!」
「わ、私だって出ないわよ!」
「何よ、偉そうなこと言う割には使えないわね!」
「そんな、非道い!」
母乳が出ないだけで罵られた。くそっ、なんて時代だ。
「じゃあ他の奴に頼むからいいわよ。うーん、他にミルクが用意できそうな奴っていないかなぁ?」
別にミルクにこだわる必要は無いと思うんだけどなぁ、体は大人なんだし。
「紅い家の中国人はおっぱいでかいからきっと出るわよね。あ、でも見た目からして豆板醤とか出そうね。あの怖いメイドのは大きいけれど、どことなく作り物っぽいし……」
つーか、鳥のヒナなんだからミミズ辺りで十分だ。いや、カラスだから生ゴミでいいや、生ゴミで。
「そうだ、確か魔法の森にモリチカって名前のメガネ男がいたわね! あいつに頼もう!」
「ぎゃあああぁぁぁぁぁっ!!!」
チルノちゃんのあまりに恐ろしい発想に思わず奇声をあげる。
お前は何を言っているんだ。あのメガネに母乳を出してもらおうと言うのか。
頬を紅潮させ、吐息でメガネを曇らせながら、自らの両乳首を摘んで白濁汁を噴出させる半裸の好青年。
なんという精神的ブラクラ、想像するだけでもんじゃ焼きが三人前は作れそうな禍々しさ。まさに地獄絵図。
この世に悪があるとすれば それはメガネ、貴様だ ――エドワード・D・モリスン
「どうしたのよ、突然大声だして」
「チ、チルノちゃん、いくらケモとかわぁいとか多種多様の新ジャンルが生まれている昨今とはいえ、生き物としての基本は守らなきゃダメ! 男の人からおっぱいは出ないんだから!」
「新ジャンル? 何の事か分からないけど、それ位知ってるわよ」
「確かに幻想郷は魔法とか薬とか境界とかで、その手のネタには異常に強いけど、流石に……え、知ってる?」
あれ? 知ってたんだ。ちょっとチルノちゃんを見くびりすぎたかも。やだ、ちょっと恥ずかしい。
でも、だとすると森近さんからミルクを貰おうって、どういう意味なんだろ?
……! まさかまさかまさか!!!
ダメだよチルノちゃん! それだけは本当にダメなんだよ!!
それはちょっと洒落にならない、下ネタで許される領域を遥かに越えてるよ!
香×チル? いやぁぁ、私のチルノちゃんが汚されるぅぅ、本日二度目! どれだけチルノちゃんを汚すの、私の想像力!
こんなもの虻さんに見つかったら一発削除&永久追放は免れないわ! お願い、バカな真似は止めて!
「前に魔理沙から聞いたんだけど、あいつ、風呂上りに褌一丁で牛乳を飲むのが日課らしいのよ」
「ああぁぁぁ、チルノちゃんまるで練乳アイスの様に……え?」
「だから、香霖堂に行って牛乳を貰ってきちゃおう! ついでに、文が好きそうなオモチャも見つけられれば一石二鳥! どうよあたいのこの知略、凄いでしょ!?」
そういうことでしたか。サーセン、変な事想像して。
「ゼンは急げ、早速魔法の森に行ってくるね!」
「え、ちょっとチルノちゃん……!」
「留守の間、文の相手お願いねー、泣かしちゃダメだよー!」
「あ……」
言うが早いか、チルノちゃんは私と文さんを置いて外に飛び出した。
慌てて追いかけたが既に時遅し、チルノちゃんは魔法の森方面の空に消え去ってしまった。
◆◇◆
どうしよう、文さんと二人きりになってしまった。
勝手の知らない他人の家、そこで言葉の通じない赤ん坊と二人きり。うーん、居心地悪いなぁ……。
「あうぅ……」
突然、ママのチルノちゃんが居なくなってしまい状況が理解できないのか、
文さんは人差し指を咥えて、不安そうな瞳で辺りをキョロキョロと見回している。
「う、うぇ、うぇぇぇん……」
「あー、ほらほら、泣かないでねー良い子だからー」
「う、ぐすっ、ぐすっ……」
「参ったなぁ、早くチルノちゃん帰ってこないかなぁ」
チルノちゃんが文さんを育てたいと言い出した時、私は彼女一人ではとても無理だと思い反対した。
だが、そんな私も育児の経験があるわけでは無いのだ。こういう時、どうしたら良いのかサッパリ分からない。
赤ちゃんがぐずってしまったら、どうやって対処をしたら良いのだろう。
「そうだ、確かこういう時は……」
前に何かの本で読んだ赤ちゃんのあやし方を思い出した。
「ほ~ら文ちゃん、いないいない……」
「あぅ……」
「ばあぁぁぁぁ~!」
「!!」
一旦顔を手で覆って、掛け声と一緒に変な顔を見せる。
理屈はよく分からないが、大抵の赤ちゃんはこれで機嫌が直るらしい。
私は、両手で頬を押さえつけてタコのようになった顔を文さんに見せ付けた。
「ば、ばぁぁ~……」
「……」
二人の間に沈黙の時間が流れる。
文さんはキョトンとした顔で私を見つめる。
は、恥ずかしい。相手が赤ちゃんだと分かっていても、これはかなり恥ずかしい。
なにこれ、完全にスベッた空気じゃない。気の弱い芸人ならトラウマになって二度と舞台に上がれないわ。こんなんで本当に赤ちゃんの機嫌が……。
「だぁ、だあぁぁ!」
「! 文ちゃん、笑った……」
なんと、今まで不機嫌だった文さんが、私の顔を見て笑ってくれた!
やだ、なんか心を開いてくれたみたいで嬉しいな。
「よ~し、じゃあもう一回いくよ!」
「うー、うー!」
「文ちゃん、いないいない、ばあぁぁぁ~!」
今度はさっきとは反対に、両手で顔を目一杯張ってみる。
自分で見ることはできないが、今の私の顔は、横に伸びきって相当マヌケな面になっているハズ。
「キャッキャッ!」
「うふふ、私もなんだか楽しくなってきた。ほーら、いないいない、ぶるわぁぁぁぁぁぁ!!!」
三回目は私の肉体と発想の限界に挑戦した、大妖精一世一代の超変な顔を披露。
目をぐりぐり動かして、舌を鼻まで伸ばして、両手どころか両足まで総動員して、全身全てを使い顔面を歪める。
いやぁ、絵でお見せできないのが残念。
「お前らぁ虫けらなぞにぃぃ、負けるわけがないぃぃぃぃ!!!」
「だぁだぁー! うー!」
文さん大喜び。
可愛いなぁ、チルノちゃんが育てたくなるのも分かる気がするわ。自然に私の顔にも笑顔がこぼれてくる。
さっきまでチルノちゃんを独り占めしていて、その行動全てが憎らしかったけど、
いざ自分に向けられると、いつの間にかそんな感情はどこかに吹き飛んでしまった。
たとえ体は大人とはいえ、赤ちゃんの純粋な瞳は心が癒される。これが母性ってものなのかな?
もし、本来の文さんだったら、絶対にこんな笑顔はできないだろうなぁ……。
本来の文さんなら……。
「……本来?」
と、ここで私の頭にある疑問が浮かんできた。
もし、目の前の彼女が赤ちゃんじゃなかったとしたら?
ただ、赤ちゃんに見えるだけだったとしたら?
「……文ちゃん、本当に赤ちゃんになってるよね?」
「うー?」
今更ながら、本当に赤ちゃんになっているかどうか不安になってきた。
思えば『幼児退行』と最初に言い出したのは私だ、医者に診てもらったワケでは無い。
文さんの行動が赤ちゃんそのものだから二人と全く疑わなかったけど、所詮は医学知識の無い素人判断。本当かどうかは分からない。
はたして、今の文さんの症状は幼児退行で間違いないのだろうか?
実は、喋れなくなっているだけで意識は元のままなのでは? 実は何物かに操られてる? 実は偽者?
疑い出すときりが無い、私の頭に次々と嫌な想像が浮かんでくる。
そもそも、天狗のような強力な妖怪が幼児退行を起こすようなショックを受けるだろうか。
いや、あのとき見せた文さんの笑顔の純粋さは間違いなく本物だ。疑っちゃダメ、信じてあげなきゃ。
色々な思いが頭を交差し頭がパンクしそうになった時、一つの最悪な展開が思い浮かんでしまった。
「ねえ文ちゃん、もしかして赤ちゃんになっているのって演技じゃないよね?」
「……」
私達が倒れている文さんを見つけ、チルノちゃんの家に運び込むまで、
この間、ずっと赤ちゃんの演技をしていたとしたら……?
聞いた話によれば、本来の文さんは特ダネの為なら弾幕ファイトも辞さない性格だという。
何か狙いがあって赤ちゃんのフリをしていたとしたら、だとしたら一体何の為に?
……! まさか、文さんは最初からチルノちゃんを狙っていたのでは!?
赤ちゃんに成りすまし、チルノちゃんの家に潜入して、そして隙を見てチルノちゃんを……!
もしかして、さっきおっぱいが欲しいと言い出したのもそういう狙い!? GOUHOU的にチルノちゃんを襲おうと?
だとしたら、私はなんという事をしてしまったんだ、恋のライバルをわざわざ招き入れるなんて。
じゃあ、さっきの私の変な顔もバッチリ記憶に残ってるって事!? うあああ、恥ずかしい! 穴があったら入れ……いや、入りたい!
……確かめる必要があるわね。
「文ちゃん、ちょっといいかな~?」
「うー?」
人差し指と親指をゆっくりと文さんの顔に近づけていき、そして……。
「えいっ!」
「!! ふぎゅ!?」
一気に力を込めて頬をつねる。
突然こんな事をされたら、演技も忘れて素に戻るかもしれない。
本当に赤ちゃんだった場合はちょっと可哀想だけど、これもチルノちゃんの為。
「この、正体を現せこのバケガラスめっ!」
「ふぇ、ふぇ……」
「!!」
「ぶええぇぇぇぇ―――ん!」
むむ、泣き出してしまった。やはり本当に赤ちゃんになっているの?
いや、泣くだけなら今まで何回もあったし、まだ断定は出来ない。
「ここで引く訳にはいかない、もっと強く、それっ!」
「うえぇぇぇ―――ん、びえぇぇ―――ん!!」
「ええい、まだ尻尾を出さぬか! ならば大妖精奥義……!」
「何やってるのよ大妖精! 文が泣いてるじゃない!!」
突然、凄まじい音を立ててドアが開く。
驚いて振り返ると、顔を真っ赤にしたチルノちゃんが怒りの表情を浮かべこちらに突っ込んでくる。
ああ、あと一歩の所だったのに! いや、それよりもマズい所を見られてしまった、ど、どうしよう……。
「大妖精には文の相手を頼んだはずでしょ! なのになんで泣かせてるのよ!」
「え、いや、その……」
「確かに見たわよ! 大妖精、文のホッペをつねってたわね! 非道いじゃない、どうしてそんなことするの!?」
「ち、違うのよチルノちゃん、誤解よ。時には互いに体を傷つけあう愛もアリかと思って」
「どんな愛よ! 文に変なコト教えないで!」
チルノちゃんは完全にご立腹。頭から湯気を出して今にも溶けてしまいそう。
ああ、どうしよう。これでチルノちゃんの私への信頼度が大幅に下がってしまった。
やっぱり、文さんは本当に赤ちゃんになっているのかなぁ?
「ふん、まあいいわ。次からは普通に相手をしてあげてね」
「ご、ごめん、気をつけるわ」
「それじゃあ、予定通りメガネから色々貰ってきたから、整理するの手伝って頂戴」
一度怒鳴ったことで、怒りは一応収まったみたい。
チルノちゃんは外から『香霖堂』と書かれたビニール袋を次々に中に運んでくる。
さっきまで激しく泣き叫んでいた文さんは、ママであるチルノちゃんの姿を見つけると嬉しそうに笑顔を浮かべ手を叩く。
うーん、どうも信じる事ができない。よし、今度はチルノちゃんに気付かれないようにしなきゃ。
とりあえず、これ以上チルノちゃんを怒らせないため、言われたとおりビニール袋の荷物を整理しよう。
「うわー、一杯あるね。こんなに買ってお金は大丈夫だったの?」
「お金? そんなの払ってないわよ?」
「え……も、もしかして万引き?」
「ちーがーうわーよー。あたいがメガネに赤ちゃんを育てる道具が欲しいって言ったら、なんでか色々と用意してくれたのよ。その上、『僕にはこれぐらいしかできないから』って千円貰っちゃったわ、”カンパ”だってさ」
何か勘違いされてるな。悪い噂が広がらなきゃ良いけど。
「文、お腹すいたでしょ。すぐご飯を作ってあげるね」
「あぅー」
「大妖精は貰ってきたものを整理しておいて、あたいはミルクを作るから」
「う、うん、わかった……」
「えーと、人肌まで温める? あたいの肌で温めればいいのかしら? 凍っちゃいそうだけど……」
ビニール袋の一つから粉ミルクを取り出すと、チルノちゃんはブツブツと説明を読みながら台所に消えたいった。
そして私は、チルノちゃんに怒鳴られた事のショックを引きずりながらも、とりあえず他の袋の中身をテーブルの上に並べていく。
「オムツ、おしゃぶり、ガラガラ、涎掛け。へー、結構揃っているのね」
どの人種に向けたのか分からない品揃えで有名な香霖堂だけど、意外と日用品も扱っているのね。
そういえば、あそこの店主は小さい頃の魔理沙さんの面倒を見ていたって聞くし、育児に理解を持っているのかもしれないわ。
「ん、オムツ……?」
袋から取り出した大人用のオムツを手に持ち、私は考えを巡らす。
……閃いた! イメージ的にはピコーン、と頭上に電球が輝く感じ。
そうだ、オムツだ! 赤ちゃんといえばオムツ! どういうことか? ふっふっふ、まあ聞きなさい。
赤ちゃんは自分では何もできない、当然トイレも自分では行けない。
だから、“したく”なったらオムツの中でする他に無い。
そして、汚れたオムツを自分で替えることも出来ないから、交換は他の人に任せるしかない。
他人に下着を替えてもらう&排泄物の処理、赤ちゃん以外では入院患者ぐらいしか体験する事の無いこの恥ずかしさ。
もし文さんが赤ちゃんのフリをしているのなら、この二重苦にはどう対応する?
頬の痛みは我慢できても、他人にオムツを履かされるこの屈辱は普通の精神では耐えられないでしょう。
さあ、こんどこそ貴女の化けの皮を剥いでやるわ! 射命丸 文、覚悟!
「あー、大変! 文ちゃんったらおしっこ出しちゃったみたいー!」
「えー? 本当ー!?」
「チルノちゃーん、私がオムツを替えておくねー!」
「わかったー、よろしくねー!」
よっしゃあ! これでチルノちゃんに何かを言われる心配もない。
赤ちゃんがオモラシしちゃうのは自然な事だもんね、何もやましい事はないわ。
文さんはオムツ、という単語を耳にしても相変わらずにこにこと笑顔を浮かべている。
ふ、最後まで演技を貫くか。その意気や良し、せめてもの情けだ、苦しまぬように交換してやろう!
「さあ、お仕置きの時間だよベイビー」
私は片手に替えのオムツを持ち、残る片手で文さんに手を伸ばす。
下着を剥ぎ取られ、恥ずかしさに悲鳴をあげて正体を現すがいい! 貴女の企みもここまでだ!
……
と、勢いよく彼女の下着に手をかけたまでは良かったが、
私はそこで何か違和感を感じ、そのまま動きを止めた。
なんだろう? 伸ばした手の先がやけに温かい、ここだけ周りと空気が違うみたい。
湿気……って言えばいいのかな? はて、スカートは通風性に優れているはずなのに、これはどういう事か?
もっとよく調べる為、文さんの体に手を這わせてみる。すると、べちょりとまるで濡れタオルにでも触ったかの様な感触が伝わってきた。
……何か危険な予感がする。
私は違和感の原因を確かめるため、文さんのスカートをちらりと捲りあげる。
すると……。
「んぎゃああぁぁぁぁぁ―――!!!!」
思わず叫び声をあげてしまった。
「ど、どうしたの大妖精、何かあったの!?」
声を聞きつけ、チルノちゃんが台所から戻ってくる。
「あ、ああ……」
「ねえ大妖精、どうしたのよ!」
「あ、文ちゃんが……文ちゃんが……」
「文が? 文がどうしたの?」
ショックのあまり上手く喋ることができない。
チルノちゃんは鬼気迫る表情で私に問い詰める。
「オ……オモラシしてる……」
「はぁ?」
嘘だ、そんなことがあるワケ無いんだ、文さんは赤ちゃんの演技をしているだけ、だからそんなことがあっちゃいけないんだ。
「……何言ってるのよ? だからオムツに替えようとしてたんでしょ?」
「で、でも、まさかホントにしてるなんて……」
「全く、自分がやるって言い出したんでしょ? もう、仕方が無いからあたいが替えてあげるよ。ほら文、足上げてー」
「嘘だ、嘘だ……」
「大妖精、文のぱんつ洗濯しておいて。ほら」
頭の中がパニックになっているところに、突如投げられた文さんの汚れた下着。私は一瞬、何が起きたのか把握できなかった。
放物線を描いて自分に向かって飛んでくる物体。アレに当たるとマズイ、と、私の妖精の本能が告げていた。
「うひゃぁ、ばっちぃ!」
私はぱんつが接触する瞬間、アクロバティックに体を反らし、当たり判定ギリギリ間一髪回避に成功した。
額から冷や汗がたらりと流れる。ふう、危ないところだった。
ふふ、私って意外と気合避けの才能があったりして。
「大妖精、今なんて言ったの……」
「え?」
汗を拭い、奇跡のぱんつ避けの余韻に浸っていると、チルノちゃんが悲しそうな目で私に語りかけてきた。
「ばっちぃって何よ……なんでそんな事言うのよ」
「え、あれ、チルノちゃん、な、なんの話?」
「オモラシしちゃうのは仕方が無いじゃない、文は一人じゃ何にも出来ないんだから! なのに、なんでそんな非道い事言うのよ! 文が可愛そうじゃない!」
「え、その、それは、文さんが私達を騙しているんじゃないかって……」
「赤ちゃんがどうやってあたい達を騙すのよ! さっきも文の頬をつねって苛めてたし、大妖精は文の事が嫌いなんでしょ!」
「そ、そんなことは無いよぉ」
「もういい! 文はあたいだけで育てる! 大妖精なんか大嫌い!!」
「!!!」
嫌い、確かにそう言われた。聞き間違いなんかじゃない、大嫌いと言われた。
前のように私がチルノちゃんを避けたのではない、チルノちゃんの方が私をいらないと言ったのだ。
その言葉が私の心に深く重く圧し掛かる。その後もチルノちゃんは目に涙を浮かべて私を捲し立てるが、全く耳に入ってこない。
頭では理解している。今のチルノちゃんは、文さんを本当の娘のように可愛がっている。
その娘を苛めたり、汚らしく思ったりすれば、そりゃ嫌われるのは当然の話じゃないか。
だけど、心がそれを受け入れてくれない。
チルノちゃんは私の一番の親友、その親友が私を嫌いだなんて、そんなことがある筈が無い。
チルノちゃんを失ったら、もう私には何も無い。だから、嫌われるなんてあってはならない。
そんな気持ちが、嫌いという言葉を受け止める事を固く拒絶していた。
理屈では分かる、気持ちでは理解できない。私の心が悲しみに覆い尽くされ、自然と両目から涙が溢れてくる。
「う゛、う゛、う゛わあぁぁぁぁぁぁ―――ん!!!」
何も考えられない、何も聞こえない。
ただ、この辛い現実から逃げ出したいという気持ちからか、私は大声で泣き叫びながら、チルノちゃんの家を飛び出した。
激しく体を動かす事によって、この深い悲しみを振り払うかのように、行き先も決めずに私は全速力で駆けた。
「ねえ魔理沙、この木の実って図鑑に載っていたアレじゃない?」
「おお、本当だな。うん、私の思ったとおりだ、魔法の森の奥はまだまだ未開拓地だからな、レアアイテムが山ほど見つかるぜ」
「暗くて不気味だけどね、昼間だってのに日の光が全然届かないわ」
「そうだな、過去にもここまで来た奴なんてきっと私達ぐらいだぜ」
「本当ねぇ、妖怪どころか動物も見かけないし……っきゃあ! ま、魔理沙、何するの……」
「そう、ここなら……誰も来ないぜ……」
「ヤ、ヤダぁ、こ、こんな所で……魔理沙、やめて……んっ」
「アリス、好きだ……愛してるぜ……」
「ダ、ダメよ魔理沙ぁ、本当にダメなんだかグギャアァァァァァァァァ!!! ……ガボガボガボ」
「ああ! アリスが謎の超高速物体に弾き飛ばされて巨大ウツボカズラの消化液の中にぃぃぃぃ!!!」
草を掻き分け、樹木をなぎ倒し、とにかく私は走った。
途中で何か人型の生物を轢いた気がしたが、涙で前がよく見えないので何なのかは分からない。
今の私の前ではそのような瑣末な事はどうでも良かったのであった。
大妖精なんか大嫌い
チルノちゃんの言葉が何度も何度も頭の中をリフレインし、
その度に涙を流し、嗚咽を漏らし、全てを拒絶するかのように頭を振る。
私は一体どこに向かっているのだろう。どこだっていい、この悲しい現実を忘れさせてくれる所ならば。
「う゛っ、う゛っ、ぐすっ……」
気がつくと私は切り立った崖の上に立っていた。
前を見ずに走り続け、いつの間にか何処かの山に登ってしまったみたい。
その崖の上からは、紅魔館から無縁塚まで幻想郷を一望できる素晴らしい景色が広がっていた、
だけど、その景色を見ても私の心は少しも癒されやしなかった。
文さんは私達を騙してなんかいなかった。
本当に幼児退行を起こしているのだ、でなければ私の目の前でオモラシなんて出来るはずない。
そして彼女は、私とチルノちゃんを母親として必要としていたのだ。
なのに、私は嫉妬のあまり彼女を疑う事しかできず、その結果、文さんもチルノちゃんも傷つけてしまった。
嗚呼、私は自分の事しか考えていなかった、なんて愚かなんだろう。
もう終りにしよう、私はチルノちゃんの前から、幻想郷から永遠に姿を消そう。
崖下を覗くと、かなりの高さであることが確認できる。ここから落下すれば、確実に命は無い。
誰かが言ってた、自殺をするのは悟った賢者か考えすぎた愚者。
そして私は愚者、ここから飛び降りで頭がぐしゃー、てなるんだ。ウフフ、面白い? 何笑ってんだテメェ。
私は力なく、崖の切れ目に向かってゆっくりと歩き出した。 I can fly、空も飛べるはず。
「大妖精!!」
あと一歩、という所でふいに背後から私を呼ぶ声が聞こえた。
「……チルノちゃん?」
振り返った先には、文さんを背負い息を切らして私の名を呼ぶチルノちゃんの姿があった。
そんなバカな、何故チルノちゃんがここに?
死の間際に立った私に、幻覚となって現れてきたとでも言うの?
「チ、チルノちゃん、一体どうしたの……?」
「バカっ! それはこっちの台詞よ! いきなり飛び出して、心配になるじゃない!!」
「え……」
チルノちゃん……私の事が心配でわざわざ追いかけてきてくれたの?
でも、私はもう貴女に嫌われて……。
「その、さっきは悪かったわよ……嫌いだなんて言っちゃって」
「!!」
「あ、あたい一人じゃやっぱり文の世話をするのは無理みたいなんだ……オムツの交換の仕方も分からないし」
「チルノちゃん……」
「だからさ、もし嫌じゃなかったら、もう一度、あたいに協力してくれないかな? あ、でも、文と一緒にいるのが嫌なら、別に構わないから」
これは夢、それともご都合主義?
一方的に私が悪いのに、チルノちゃんがもう一度やり直そうと言ってくれる。
返事をしようとするも、感動のあまり体が震えて上手く声が出ない。
「チ、チルノちゃん、その……」
「うん……」
「私の方こそ、ごめんね……私、色々文さんに酷い事しちゃって……私、もっと文さんを好きになるよう頑張るから、その……」
「……」
「私も、文さんのママになっていいかな?」
もう迷わない。文さんが元に戻る日まで、私もチルノちゃんと一緒にママになる。
チルノちゃんにできない事は私がやって、私の力が足りないときはチルノちゃんに手伝ってもらって。
それが仲直りの証、もう誰も悲しませたりなんかしないんだから!
「うん! ありがと大妖精!」
にぱっ とチルノちゃんの顔に笑顔が戻る。うん、やっぱり笑った顔が一番だよ。
神様、もう二度とチルノちゃんを悲しませたりしませんから、彼女の笑顔がずっとこのまま無くさないでください。
「じゃあ、あたいの家に戻ろうか!」
「うんっ!」
さあ、これから私と、チルノちゃんと、文さんの、本当の意味での生活が始まるんだ!
「あー、大妖精、ちょっと悪いんだけど、家に帰るまで文をおんぶしてくれない?」
「え、うん、別に良いけど……」
さあ帰ろう、と意気込んだ所で、チルノちゃんがそんな事を言い出した。
そっか、自分より大きい文さんを担いでここまで私を追ってきてくれたんだもん、疲れて当然だよね。
ごめんねチルノちゃん、帰り道は私に任せて、後はゆっくり休んでおいてよ。
「じゃあ、慎重にお願いね」
「うん、ほら文さん、今度は私がおんぶをしてあげるからね~」
チルノちゃんの背中からゆっくりと文さんを持ち上げ、自分の背中に乗せていく。
私も今から文さんのママなんだ、ちゃんとスキンシップをとって嫌われないようにしなくちゃ。
「大丈夫? ちゃんとおんぶできた?」
「うん、バッチリだよ」
両手で文さんの足を掴み、落ちないように固定する。
おんぶする人が変わっても、文さんは特に愚図る様子も無い。
人見知りしない性格なのかな? それとも、もう私もママだと認めてくれたのかな?
ママだと思ってくれたのだったら嬉しいな、ふふっ。
「それじゃ改めて、お家に帰ろう!」
「おーっ!」
「う、うぅぅ……」
私の背中に温かい液体が染み渡ったのは、その直後の事だった。
百合好きとしても期待せざるを得ない。
そして逃げんなうどんw
築60年とか閻魔チャリとかタイムサービスの肉とかだもんな………。
赤ちゃんは可愛いですもんね。GJ!
なんだかんだでおおむね幸せそうで安心したよアリス。
大妖精、気合避けってw
しかし新聞社ごとに方針でもあるのかなぁ……うちに来る朝曰新聞の勧誘も非常になれなれしいおっさんだ……。
>ファリファ
その発想はなかったわー
タイトルと点数にホイホイされましたが
すごくテンポがよくて読み口が気持ちいいです。
心して後半読んで参ります。
2.チルノはオムツの当て方が分からなかった。
3.全開爆走して来た大妖精にあのタイミングで追いついたチルノは、走って来たにしろ飛んで来たにしろ、それなりにスピードを出してきた。
4.そのチルノに、文は背負われて来た。
ど ん だ け ご 開 帳 だ よ w
飲み物を口にしないように心がけていて正解でした。射命丸と大妖精の一人称が黒すぎる……!
しかしこれは新しい発想だ、GJ
>テーマは親子愛
はい。……えっ?