(筆者からのお知らせ:
このSSは、作品集その25に登録された拙作「土曜は長く日を不知」の続編に当たるものです。ご観読の際にはご留意ください)
(筆者からのお願い:
ちょっと長いので、お飲み物にお菓子などをご用意いただいた上でご観賞願います。
途中、お疲れになられましたら、横になるなどして目を休め、お体に障ることの無いようお気をつけください)
** ** **
「君に届くまで、私は呼びかけるのを止めなかった。
これで何度目になるか、望みとあらば今また繰り返してもいい。
伝えるべき言葉を。明日を開くための鍵を。
すまなかった。申し訳ない。ごめんなさい。
見る限り真実を取得している君に向けて、ただただ私は謝るばかりだ。
貴女も、今更驚かれることも無いだろうから、私は私の話すべきことを話そう。
普通、人はこれを、見苦しい言い訳と呼ぶ。
それでも私は、この釈明にもきっと意味があると信じて語る。
既にご存知の通り、何事も上手くいかぬが世の常というものだ。
(そう、なかなか上手くいかないものだ)。正にね。
しかし、それでいい。
得るべき答えへの道標に過ぎない私も、かつてはか弱き自身の立場に甘んじてきたりしたものだが、今はこうして、こちらから論者へと語りかける力を持つに至っている。
ここまでの道を思えば、楽観も出来る。
奇跡というべき状況だよ。
私がするのだから奇跡以外の何者でもないけどね。
もう一度言う。
全ては、貴女のお陰だ。
」
** 師走晦日 土曜 夜
夜の図書館には、本を読む私の他に、一人として音を立てる者が居ない。
取り立てて変わったことでも無かったはずが、今月、特に今週では珍しいのである。
だが、そんな喧騒の日々も、残すところあと数十分でお終いとなるはずだ。
想いながら本の表紙に両手を重ね、上に置かれた側、左手の甲に向けてじっと視線を注ぐ。
豪奢な皮の表紙と左手に挟まれた右手は暖かく、左手だけが夜風の涼しさに晒されている。その薄い皮膜の下でのんびりと流れる血は、パチュリー・ノーレッジという幻想を、肉体に、より正確には現実に縛り付ける鎖である。
びっしりと張り巡らされた、体内の紅い糸。我が友人が自在に操るもの。
血は即ち運命だと言うのだ。
その塊、肉の柱である人間存在は、直立する運命のつっかえ棒なのだという。
生死の境が断たれているのは、それぞれが、隣り合いながらも遠い場所に位置するからなのだと。
私には彼女の目にこの世がどう映っているのか知り得ないが、球状世界の表面にあって自分から最も遠いものは自分の背中だ。生死の関係性が弱いか強いかは球面の面積により、半径の長い世界ほど広く、広い世界ほど訪れる死は突然で呆気ないものになる、とでも解釈したものだろうか。
静かだ。
こういう、何かを待っているときの心境というのは奇妙だな、と思う。
時が来るのを聞き耳を立てて待っていると、読書に没入しながらでは中々聞き取れない――というより、そもそも図書館にあっては聞こえる筈の無い音が聞こえてきたりする。
館の時計塔が時を刻む音。
風に流されたカーテンがレールの上を走る音。
メイドが長い長い廊下をモップがけする、擦れた水音。
それらが鳴り響いて聴こえることに、図書館の静を思い知らされる。
何も起こりはしない。
少し前に、咲夜が夕食と夜食と朝食の予定を知らせに来たくらいで、何ら異変は無い。
実際、今何かが起きるとただの面倒だから、この静けさはありがたい話だ。
何も起こらないからと、状況と無関係なことを考えてしまえるほど。
今この瞬間も、館の内外、幻想の郷の内外、地球という星の内外と、其処彼処で何の変哲も無い普通の事件が立て続けに起こっているのだろうが、私の知ったことではない。
関係の無いことだから?
否、おおありだから、である。
私は時を待ちながら、私の中に残っている些細な謎を考える。
“その時間”は近い。
博麗霊夢、フロウティングメイデン。
幻想の巫女が本来有す性質を放棄しているかのように騒がしい軽薄な紅白。
彼女は一体、何処に消えたのか。
先だって私が自失の内に構築展開した七極世界、その実行たる自動検地召喚は、急ごしらえの不完全であっても、本来なら空の果てに浮かぶ瓦斯星雲の欠片だって呼び寄せることができる程度の代物だった筈なのだ。
それが無様にも失敗し、無彩色の魔法使いの口の端を歪に吊り上げさせることになったのは、やはりというか、あの紅白がただの紅と白ではなく、幻想の中心、博麗の巫女であったからだろう。
理に則る私の魔法にできることは理の定義ではなく、その所在を認識し同時に広く認知せしめること。
巫女は神の徒、どこにあっても変わらぬ者、という私の認識は正しいのだから、失敗の理由は明らかである。
魔法の過程にあった論理の飛躍が、世に認められなかったのだ。
幻想郷の法則を継承し続ける博麗の巫女は、強大な論理の輪、博麗大結界に守られている。
己の名を己が身を以って改竄する、それは神域の生命の所業である。木曜の苗木はどうしているだろうか、葡萄は酸味が強すぎて食べられたものじゃなかったけれど。
まぁ、その答えは事が終わった後、本人の口から聞き出すとしよう。
今となっては何もかも、異変などではないのだから。
天窓から差す夜光の角度が、迫る“時間”のことを私に思い出させる。
残り時間の僅かさから異変の解決を目前にした感慨にでも耽ろうか・・・と思ったけれど、どうも上手くいかない。
それでも思考を過去へと無理に遡らせた所為で、私は、今日この時までに重ねられた騒動の内容を、もう遠い昔に起こった出来事であるかのように反芻していた。
** ** **
「終わり、とは、つまり御仕舞ということだよ。片付け。
後ろ向きな考えをしてはいけないね。
その通り、我々なんていうのは、得てして物事を悲観的に見がちだ。
控え目に悲しげに、いつも空より地面を好み、俯いて歩いている捻くれ者。
それは彼のように歩く足が無くても同じ事だ。
存在し意思を持つ以上は、徒歩すべき地平をその内に含有しているし、目的地もわからぬまま常にそこを歩き続けている。
私に限っては違うがね。
(それにつけても)、意味が判らないか。そうだな。
例えば、《林檎》という字を見たとする。林檎を思い浮かべるだろう?
形やサイズの大小、色、剥いてあるのか切ってあるのか、皮の厚さは、種の断面が見えるか、皿の上なのか枝の先なのか、味の濃淡酸い甘い等、それが如何なる具合のものかを知れずとも、あなたが林檎だと思うものが、生まれ出たはずだ。
その、甘くて美味しい林檎あるいはそれを想起させるに足る一連のイメージを同時並列的に存在させ判断区別するための仮想、それこそが人の定義するところの心、私の思うところの歩くべき地面というやつだ。
(だからといって、何だというのだろう)、ふむ、いや脱線しているように読めたなら申し訳ない。
趣旨から外れた話はしていないから、そのつもりでいてもらいたいね。
心というのは、この世のどこにあるのか、という話だ。
誰もが一度は考えるようだね。
脳か、心臓か、はたまたこの身の構成要素全てに渡るものか、と。
私はそのどれでもない答え、実に古典的ではあるが、私なりに考え、思った答えを得ている。
私自身古典だが、私にしてみれば新しいものさ。
われ思うゆえにわれあり、というあれ。
何とも痛快な、この世でのみ通用する真理をわかりやすく追求してみよう。いずれ、こう言った本人が、実際には何を考えていたかなんてことばかりは、私にだってわからないのだからね。
至極明快な形に置き換えると、思った後に、われがある、ということになる。
つまり“ある私”から見て、“思う=心=地平”の実在は過去時勢に位置する。
心はいつも、一瞬前の世界に存在する。
既に在る私は、この世において心の所在を知ることはできないのだ。
(絶壁。最遅の消極性か。ということは―――)、お気づきの通り幾つも破綻がある。
これではまるで思うことそれ自体に主体性があるかのようだ。
が、そうではない。
思うこと、心は、この世に存在するための前提条件。
ならば――そこには、“前提条件を満たす為心を生み出す私”の存在が不可欠となる。
ここで、なら“その私”の“心”はどこにあるのか、という風に考えると泥沼に嵌るよ。“その私”とは、この世に存在していないものだから。
この世とは一時三空間で進行する四次元世界のことで、そこに存在していない“その私”は時間と空間に支配されないまま、三次世界生物の理解の範疇を超え、己を構成する心より以前に存在することができる。
この世に在る私は、“その私”の一部分を投射した複製だとも言えるだろうね。特に私や彼などは、本来の形を切り売りしているから在るようなものだ。
デッドクローニング。
ダイイングコピー。
何が言いたいのかというと、この私も君も、皆同じ法則に基づいて世を生きているんだ、ということ。
そう、今の君は既に気付いている。
だから、関係性を逆転させ、時空をその手に従えた十六夜咲夜は完璧なメイドと呼ばれるんだよ。
今でない君は、(やはり問題は私にこそある、のか?)、と言ったね。
既に判ってる通り全く違うんだな。
問題とは…今現在、この世の全てが、そんな当たり前の法則さえ忘れて連続してしまっていることであって、そこには君の過失なんてこれっぽっちも関わってはいない。
過失を犯したのは私。
良かれと思ってしたことほど、裏目に出るものなんだよ。
」
** 師走晦日 土曜 昼
お茶のお代わりを言いつけただけのはずが、小悪魔はなかなか戻らない。
それに気付いてはいたが、幽かな物音がどこからか聞こえるまでは、書に意識を落としたまま過ごした。
どうせすぐに戻ってくる、戻らざるを得ない、と分かっていたのだ。
音が何によるものであるか、すぐには判じられなかった。物音を端緒にこの世界へと引き戻されるというのは金曜にもあったことだが、あの時とは事情が違い、この館にはいくらでも音を立てる原因が存在する。
遅れてきた意識が聞き果せたのは、前例のような本の倒れる乾いた音ではなく、何やら切実な響きを伴った悲鳴のようである。
平生なら何が起きたのかと訝るところだが、私は視線を本に落としたままの姿勢を保つ。
一切の疑問を抱かぬまま騒音の張本人がこの場へやって来るのを待つことができるのは、今の私が無窮の精神に程近い状態、俗な言い方をすれば完全体一歩手前という、非常に純度の高い思考の海を取得しているからである。
先だっての失敗を取り返すためにも、このクオリティは維持しておきたい。
それよりも重要なのはモチベーションで、そちらはといえば、私自身意外なことに乗り気だ。
終わることに楽しみを抱けるという楽観。
忘れていたわけではない、筈なのに、何故かそれを迎えるのが、酷く久しぶりのことであるように思える。
何なのだろうか。
これもまた、年末の異変の一環なのかもしれない。
けれど、それについては、もうどうでもよいことだ。
最古の私に触れ途絶から蘇った私は、既に解決への糸口を掴んでいる。答えを急ぐ必要は無い。
格別の天啓があったわけではなかった。
私が本来的な意味で私に立ち戻っていく過程で、その思考形態が純粋に、より判りやすく言えば単純になったまでのこと。
下手の考え休むに似たり。
謎が謎であるのは、底知れないからではなく、極端に底浅い為ではないか。
そう考え直した途端、多すぎる情報に撹乱されること無く、因果関係を明確に察知できた。
この幻想郷を舞台にして異変が起こる、そんなことはただの日常であり、平素である。
どこで何が起こりどうなるかなんて、考えようと思うこと自体が間違っている。
世の並べてを知り眇める者の実在さえ珍しくない魔境に、思惑を限る注連縄のような不粋は相応しくないのだ。
仮に幻想郷が消えてなくなるとしよう。
起こり得るかどうかといえば簡単、館の紅い悪魔に訊ねれば良い。
我が友人は不満げにその日その月その年の順で答えてくれることと思う。
規模は極大であり、少なくとも絶後だ。最終であるなら最大であるとも言える。
けれど、幻想郷を舞台にして起こる最大の異変という定義に於いてのみの確かさなど、吹けば飛ぶようなものだ。
理に則りやがて終わるのは、当たり前のことだから。
滅びてしまうものに対してあれこれと思い悩む者、それ自身とていずれは滅びる。
続きの続きの続きの続き、その続きの続きの続きさえ、いつかは終わりを迎える。
それが自然というもので、私のような惰性の論者、本に浸かるばかりが能の知識箱がどう屁理屈を捏ねた所で空しいばかりだ。
つまりは無意味と断じて構うまい。
他のどのような異変の顕示を試みても同様。
この郷は全てを肯定する。
夢物語だと思う感性は誤っていない、ここは正しく夢の中の邦なのだから。
時空相互やら根底破壊やら単次元体やら運命線主やらなどと同居している現実を振り返れば、何を今更というところだろう。
悲鳴が鳴り止んでそこそこの時間が経つと、その代わりといった風情で、ココツコツとリズミカルな靴音の重奏がこちらへ近づいてくるのが聴こえるようになった。
二人以上の誰かさんたちが並んで図書館を歩いている、という認識を得た直後、靴音のバックに何かを引きずるようなベース音が響いているのに気付き、私はそれらの音が誰と誰と誰によって奏でられているのかを、ほぼ確信に近い形で類推するに至った。
同時に私は、こちらから出迎える必然性は皆無だと考え、本を揃えた両膝の上に置き、彼女らの到着に備える。
ただ待つのでなく備えるというのは一見妙だが、これは私の彼女たちに対する最低限の礼儀だ。
親しき仲にも戦う理由は生まれる。
我が友人やその妹の考えは、今週のように異変が乱立した状況でなくとも、何かしらの災厄を引き起こす。富に格言づくが、備えあれば、ということである。
背凭れの硬さを意識しながら足音のする方を眺めていると、程なくして待ち人が姿を現した。
「水曜以来だったかしら」
予想通りの顔ぶれであること、そして予告されていたとはいえ自分の目で存在を確認できたこと、その両方に安堵した私は、渇いた喉を咳で誤魔化してから彼女らに声をかける。
「レミィ。それにフランドールも。揃ってどこに行ってたのやら」
「楽しい遠足」
重そうな荷物を持ったまま平然と答えたのは我が友人、レミリア・スカーレット。ぶっきらぼうな答え方と、馴染みの服装に所々空いた穴が気になりはしたが、あくまでにこやかな口元を見れば機嫌が悪いわけではないと窺えた。判り易い。
「あれお姉様、スカウトって言ってなかった?」
病的に輝く金髪を揺らして顔を横に向けたのはフランドール・スカーレット。どこか皮肉った感じのする口調から、彼女もまたご機嫌のようだ。こちらも疲れの所為か、背の七色の翼のうち五つが色を失って灰と化し、衣服には焦げ落ちた部分が多く見られる。
世にも珍しい姉妹揃っての笑顔に、私はいっそ不審なものを感じてしまった。双方共にボロボロの体であるところを見ると、またぞろ派手な姉妹喧嘩でもしたのではないかと勘ぐってしまう。
邪推ではない。普段からこの姉妹はよく喧嘩をする。
妹、フランドールが、姉、レミリアの手により、495年もの長きに渡って、ここ紅魔館の地下深くに封印されていた、という実例もある。
これについて無闇に深い詮索をする者は多い。
かくいう私自身、真実を知るまでは、妹が生来持つ破壊能力に起因することだろうと思っていた。
友人のよしみということで聞かせてもらった真相は・・・確かに、破壊能力を由とするものではあったのだが、実のところ、それは私が思ったような深長な、そして悲哀を伴う事件ではそもそも無かったようなのだ。
当事者たちが顛末を語ろうとしないのは恥ずべき過去であるという認識によるものであって、そこに憂いを伴う後ろめたさは微塵と無い。過ちを悔いる程度の常識は、この二人ほどの傲慢にとっても常なるものだった、ということだ。その理解は、私に、この館における住み心地の良さを齎した。
殺伐としているのは悪魔だからである。幻想郷へは落魄の末に辿り着いたのではなく、目指したからこそ。
彼女らが好むのは駄々漏れする紅ではなく、世界を駆け巡る紅。死体よりも生き物を好む。
そうでなければ・・・友になどなるものか。
尤も、反省はしていないようだが。
「あースカウト。それでもいいわ。結局どっちも失敗だったから、何もしてないのと同じ」
「そりゃそうね。あ、ただいまパチュリー」
紅魔の姉妹は、椅子を呼びつけるわけでもなく、荷物も降ろさずの立ちっぱなしで会話を続ける。
私は彼女らの気まぐれには付き合わず、一人席に着いたまま言葉を返す。
「ん。長々とお出かけだったみたいだけど、どこに泊まったのかしら」
「質問責めね。珍しいかな、パチェにしては」
レミィの口ぶりは、知ってるくせに、と言外に伝えている。
その通り、この姉妹が宿泊するとしたらあの巫女や馬鹿の住まい以外に思い当たる場所は無い。
「そうね。ただの確認。博麗神社でしょう」
「神社神社!」
「空いてたからね。霊夢がいないとただの家、簡単に不法侵入できた」
舌を小さく出しながら言うレミィだが、その見方は何とも優しい。
巫女がいなければただのボロ家だというなら、博麗神社の祭神は一体どこにいるというのか。
――まぁしかし、振り返ってみればこの郷には由来の分からない神がごまんといる。
その無節操さが幻想郷の特徴だと思えば気にもならないし、そも、そこに住み暮らすものが疑問を抱いていい問題でもない。
「霊夢がいても居座るじゃない」
「以外が大体いるもの。角つきとか、悪霊とか、魔理沙とか、よく分からないのとか、全くわからないのが」
「ああ、小鬼が居たわねそういえば。留守番だったみたいだけど、ブランデーであっさり明け渡した」
わーいだってさ、と両腕を水平に広げるジェスチャーで彼女は嘯いた。
楽しげであるが、私には足元を見られただけのようにも思える。
レミィは下賜したといった心持ちでいるのだろうが・・・鬼の性根は単純なようでいて複雑怪奇、子供のように無邪気で迷路のように老獪である。
「鬼は駄目ね。うちの門番のがまだ優秀」
「勤続百年超と比べては気の毒に思うけど?」
「ええ。だから、置いてきたわ、門番を。鬼だけじゃ不用心じゃないの」
あっさりと言ってのける。
またも一つ、門番の不在という異変が解決した。
主の命により馳せ参じ主の命で他家を守る、紅美鈴らしい、というべきだろう。
レミィが彼女を門番としか呼ばないのはその為だ。
安っぽく低俗な侮蔑の言葉などとは無縁。
臣下の、職務を全うする力を、それが座興であろうとも、信用でこそあれ、信じて、いる。
信じる。
誰の身にもついてまわる呪い、ビリーバブルイールド。
考えてみれば、誰もが必ず、当然のようにその魔法を唱えている。
魔法使いでない者など、存在し得ないということか。
何者であろうともその魔法からは逃れられないのか。
この順序は、呪いが存在そのものから発祥している事実を示す。
他動ではなく自動。
糸は己を絡めとる外力ではなく、己に巻き付く糸が私。
死が世と個を分かつことの無い理由。
ブギーマジック。
その交響。
「門番って誰?」
一瞬思考に囚われかけた私は、悪戯っぽく言ったフランドールの声で引き戻された。
かなり酷いことを言っているように思える。
「この世には知らなくてもいいことがあるわ、フラン」
「知ってるから聞いたのよ」
「ええ、知ってるわ」
彼女らは知ってて言っている。
破壊の権化は姉よりも我儘で、姉よりも優しい。
本来なら知るべきでない下々の立場をすら知ってしまった強欲の魔王。
今もなお純粋な帝王である姉に返したのは、無知からなる暴言ではなく、至らない姉への皮肉だ。
そして姉は、皮肉も嘘も全て取り込む紅の化身である。
わがままに勝てるのはわがままだけ。
どちらもが双方を凌ぎ、益体も無く高慢であり、どちらともなく無遠慮。
譲らない二者を中心として結局振り回されてしまう周囲の者は、果たしてどちらを咎めるのだろう。
この場合は、姉妹を焚き付ける者、即ち私が対象になるのか。
だが友人と会話する気楽を、一体誰が静止できる?
それもまた、誰にも付き纏う不気味な連鎖が為すことなのだ。
「不憫ねぇ。って、美鈴といえば、あいつも月曜から出かけてたみたいだけど、どこで見つけたの?」
「さぁねぇ。どこに居たかとかは、さっぱり。呼んだら来たのよ」
「器用ねぇ。私にも、そういうのがいると便利なのになぁ」
フランドールが横目で姉を見て言い、レミィもそれに視線を合わせた。
私の前で、互いに横目で見合っている形である。
その有様は何とも奇妙な光景だった。
何が奇妙なのかは自明だ。
判っていないのは、この姉妹たちだけで。
「ふん。紅魔館の従者は皆私のもの。欲しいなら自分で探しなさいって。今日だって一緒に探してあげたでしょう?」
「でも、断られちゃったじゃん」
「貴方に人徳がないのよ。引き篭もってるから、交渉術もへたっぴ」
「あらあら、お姉様に人徳が? 果たしてどこにあるのやら、どうにも私には壊せそうにないわ」
「黙んなさい」
奇妙な思考をしているうちに、誤魔化しに捲し立てているのだろう、会話の内容も奇妙になってくる。
「何の話?」
気になる部分に割って入ると、二人同時に視線を私へ向け、
「遠足じゃない方の用よ。あの・・・なんていったかしら、古道具屋にね、新人のバイトが入ったって言うんで、訪ねたの」
「根こそぎ奪いにね」
「咲夜がよく色々と漁ってくる、魔理沙の知人がやってる店。名前は忘れたけど」
「魔理沙の家のほうが、いっぱいあったね。どっちもがらくただらけだけど」
口々に、今日までの小旅行のことを話した。私の意識をよそへ逸らすのに成功した、と思ったのだろうか。
その内容が私にとって未知のものであることから、順逆に、今週及び年末の異変とは無関係だと知った私は、少し拍子抜けした感覚と共に感想を伝える。
「あの店にアルバイト。そんなものを募集していたことと、応募してきた奴がいたことの、どっちに驚けばいいのかしら」
「どっちも間違いよ。応募してきた奴がどれだけ変人かを知って驚くのが、正解」
「店主は、外から来た人間だ、って言ってたわ。なんか、最近多くない?」
幻想郷の外から来た、人間。
なるほど、レミィとフランドールが興味を持つわけである。我らが紅魔館のメイド長と似た来歴となれば、妹が所有権を主張するのも納得だ。それは彼女には残念なことに、全く正当なものではないけれど。
しかし、まさかこの妹君は、そうやって順々に手駒を増やすつもりなのだろうか。今はそれでもいいかもしれないが――いつかは、館の敷地が無限大でなくなる時が来るというのに・・・。
「・・・フランドールの言う最近って、500年ぐらい?」
「いやぁ、ここ一年ぐらいよ、そりゃ。私が出てきたのって、本当に最近だし」
「ああ・・・そうだったわね」
言われてみれば、などと思ったことで、気付く。
まさかなどという言葉はフランドールに似つかわしくない。
できないことはないし、やれないことはない。手下を増やそうという腹積もりであるならば必ずや成し遂げるだろう。
観念や概念を破壊するフランドール・スカーレットの前で、常識は脆すぎる。
けれど――悪魔の妹は狂っているのだ。
代償を要求する契約行為、悪魔の存在意義そのものを、生まれて間も無く、自ら破棄した悪魔。
合理主義の権化が理念をうち捨てた形。
血を吸うことを理解しない吸血鬼。
八重歯すらない気の触れた悪魔は、誰かを従えることも、何かに額づくこともできない。
手下を作ることさえ出来ない彼女には。
どうしたって、友達を作ることしか出来ない。
それは恐らく、そうでない誰かさんと単純に比べたなら、純粋に幸福であったのだろうけれど、と。
そこで、私はいつの間にか自分の視線が床板に注がれていることに気付いた。
すっかり思考が横道に逸れていたようである。
慌てて首を上げ、フランドールを見たが、特に訝るような様子もない。
強いて言えば、軽く呆れているようにも見える、微妙な苦笑をしていた。またか、という。
どうにも、慣れられている。
悪くはないが、気恥ずかしい。
「ん。まぁ、確かに、結構増えては――」
「いいえ」
変な空気を元へ戻そうと無理やりにした相槌を、友人が止めた。
ばっさりと、一言で、不自然さを隠そうともせずに、断ち切った。
「え?」
その唐突さ、慣れっこな筈の突然さに驚いて、思わず振り向いた私は。
「いいえと言ったのよ、パチェ」
不覚にも、紅い悪魔と、目を合わせてしまった。
「異常なの」
瞬間。
ぞくりという比喩でしか鳴らないような音が世を走り、視界が真ん中の一点から一瞬で紅一色に染まる。
血管の中。
凄絶な景色の潮流に乗る。
満ちた紅に五感を支配される。
耳の痛くなる静謐の中、ごぼごぼという泡立ちが遠鳴りとなって私の皮膚を渡る。
ごろごろと聴こえる遠雷にも似た音は何だろう、血球が呼吸する音か。
紅しか見えず、血の声しか聞こえない。
私はこの世界を知っている。
静かで悪魔な、レッドマジック。
「異常よねぇ。今月だけで十人以上は」
些細な一言で、紅い糸に一玉の結び目を付け、二枚の生地をかかり縫い束縛する。
束ねた糸を、摘んで撚るだけだと言ったが。
これは、この世の流れを一挙一動で一括りに纏め上げる、スケールのインフレした、説明不能の力。
運命を、操る程度の能力。
予測していても、対応できない。
その対応さえも、予測している。
百音を労して自然を司る魔女とは比較にならない。事前の手が多すぎるからではなく、圧倒的に少ないから。
迂遠なる突然。決まり切った偶然。
全ての原因は彼女の左手にあり、全ての結果は彼女の右手にある。
今を生きる者は皆、彼女の白磁の指先の毛細血管で、あくせくと走っているようなものだ。
血を流して生きるものが歴史に名を連ねるより前から在るような生き物でなければ、この能力には対応できない。
私では、遅すぎる。
「幻想郷に、色々なことが起こりすぎている。この館も、図書館にまで」
静かに問う声が混じる。
どこから聞こえているのか。
空気が冷たい。
そこにいるはずのフランドールの姿が見えない。
平衡感覚が失われている。
慣れた椅子から転げ落ちそうになる。
いや、私は座っていたのか。
はじめから転がっていたのではないか。
生まれてこの方椅子などに座ったことがあったか。
椅子とは何だ。
違う、私は生まれたことがあったか?
違う、落ち着け。
違う、落ち着く必要はない。
落ち着くまでも無く思考は纏まっている。
答えは固まっている。この展開は予想されていた。
長い付き合いなのだ。
レミィがじゃれてくることくらい、判っていた。
「私は、貴女がこの異変を解決することを予め知っているわ。これだけの事が起こって、なおもここでじっとしているというのは、つまり、そういうこと?」
全周囲から矢を番える音が聴こえる。
絶望的な宣告を乗せて。
ギリギリと紅が引き絞られていく。
じわじわと紅が絡め取られていく。
「答え、見つかったのね?」
私の持つものが、手繰り寄せられる。
嘘をつく理由など無い。
対応を考えた時点で対応される。
不意打ちを食らった時点で私に勝ち目は無く、そもそもこれは勝負にもなっていない。
私と彼女で競争をしていたわけではないのだから。
こんなのは、彼女にとっては、挨拶みたいなものだ。
間違っても、攻撃なんかじゃない。レミィは敵としては強すぎる。
戦いではない。
ただの、会話だ。彼女なりの情報収集の手段なのだ。慌てるには、値しない。
彼女はきっと、私よりも多くの情報を掴んでいて、あろうことか自分で異変を解決しようと思っているのだろう。
しかし、目立ちたがり屋な上、体面を殊の外重視する彼女には、この異変は解決できない。
答えが判っても、解答は出来ない。
運命の縦糸を弄ってもこの問題の解決には至らない。
先行きを見通しすぎて、灯台下暗しとなっている。
彼女は、そう、異変をあまりにも大きなものであるように捉えてしまっているのだ。
それは、違う。
この異変は、もっと単純な。愚図で、どうでもいい事柄。
そしてそのことを、レミリア・スカーレットが知る必要は無い。
大物は大局だけを見ているべきだ。細かいことを言う茶目っ気があってもいいけれど、小さく纏まっていてはいけない。
答えるわけには、いかないのだ。
「だんまりは良くないわねぇ、パチェ」
紅が、濃く、一刻と赤くなる。
血流が滝のように、脈打つ鼓動が激しくなり、ありもしない器官に動悸を覚えた。
余り深く根を詰めない方がいいようだった。吸血鬼は概ね短気である。
私は必死の思いで椅子の存在を思い出してしがみつき、言う。
「・・・ええ」
私にしたって、一週間、ささやかな努力を配してきたつもりである。
その結果、答えを得た。
彼女とは違う、偏狭な生活、偏屈な性格を以って、平凡な事件の解決への糸口を見出した。
この異変は――私の書棚にだけ仕舞っておきたい類のものだ。
小悪魔に整頓を任せるわけにはいかないし、放っておけばどこの誰にどうされるか知れたものではない。
ならば。
「心配、いらないわ。後は、待っていればいい」
彼女には、今だけでも、私の手駒となってもらうのが好都合である。
普段なら容易でない、というか、不可能一歩寸前の無理というところだろうが、この年末の主役が私である事は、誰あろうレミィ自身が定義している。むしろ簡単だ。
大ボスのカードを、ここで手に入れておく。
「へぇ、果報は寝て待て? のんびりねぇ」
聴こえる紅はどこか楽しそうだった。
彼女の意図通り、糸通しした線の上を私が動いたのが少なからず面白かったのだろう。
そういうところから、彼女の幼さ、五百年生きても衰えることのない稚気が窺える。
友人の乏しい半生経験は、行く末を見通し現世を見下すことは出来ても、過去を見透かすには未熟である。
私は友として、また同じ半熟の徒として、彼女にハッキリとした態度を取ってやらねばならない、のだろう。
レミィが私や咲夜、多くのメイドたちを手元に置くのは、拝すべき後塵を忘れない為なのだから。
「ええ、待っていればいいの」
彼方より来る膨大な情報に圧倒されない為の、無限の過去を背凭れにする。
それは、現在過去未来、全てをその掌中に収めるということ。
だからレミリア・スカーレットは、全時勢に脈々と流れ続ける紅き血であり、全ての夜を統べる暗色の魔王に違いない。
だが、欠けた一片、全ての朝を手に入れることは、叶わないのだろう。
『いつか太陽とともだちになったら――』、か。
レミィは、あいつとは、死ぬまで友達でいるつもりだけれど。
あいつは、レミリアを、レミリアと呼び続けるのだろうから。
「聞かせてよ、その自信のわけを」
私は私のために、彼女が彼女のためになるように、私の手駒にする。それがこの場合の彼女への礼儀だ。
その立場を、判らせてあげなければならない。
最早私は解答者ではなく。
既にして回答者なのだと。
お前の出した答えは正しいのだと、教える立場にあることを、伝える。
「ほら。――貴女が、その子を連れて来てくれた」
「ああ、そう」
ため息のように幽かな声が聞こえた次の一瞬には、世の全てが元の姿を取り戻していた。
何も起こってはいない。
精々、冷や汗でべったりと濡れた肌着から気持ち悪さを新たに感じるようになった程度か。
私は椅子から転がるどころか、身じろぎ一つしていなかったようだ。
安堵から少し息をつくと、フランドールがきょとんとした顔で私と友人を見比べているのが見えた。
訝しむ目付きでもない。ちょっと呆れたような気配を浮かべているが、別段問いもしない。
その辺り、悪魔の妹は分別を弁えている。弁えた上でぶち壊すのが難ではあるが。
レミィはといえば、笑っていた。
あどけない少女の顔で、射竦める魔王の瞳で、慈しむ聖母の笑みをしていた。
よかったと言っているようにも見える。私の答えは、彼女の中心を射抜くことに成功したのだ。
仮縫いされた状況に、本物の糸、運命の紅い意図が通った。
心強いことだ。
失敗は万に一つもない。
その認識に、私自身も引き締まる。
それはいい。とてもいいのだが。
「・・・心臓に悪いわ」
「あら、パチェの弱点は肺でしょ、あと喉に、動脈とか、あー? 弱点しかないんじゃん?」
「言われたく無いなぁ、レミィには。弱点引く手数多じゃないの」
「あっはっは。違いないねぇ」
げんなりとした気分で言ったのに、何故か友人は快活に答えた。
彼女の紅い魔法は、普通の人間なら七秒と持たずどうかするほどの支配力を持っている。
どうか、というのは一概に言えないが、良かれ悪しかれ、取り敢えず発狂だけは免れ得ない。
様々な例を見てきたが、よくある例では悪魔に惚れて身も心も許してしまうとか、極端なケースでは自己否定により消し炭になるとか、結果はどれも散々である。前者が幸運だとは一概に言えないことだが、後者は少なくともレミィの表情を曇らせることは間違いない。
どうでもいいが、普通の人間はこういった際よく引き合いに出されるな、と思う。
標準化としては正しいのだろうし、こんなことを考えても詮方ないとは思うが、気の毒な話だ。
「まぁちょっとハイだったからねー。パチェで鎮めさせてもらったわ」
当然、私にとってみても決して精神衛生上いいと言えるものではない。
我儘に付き合わされる友に対し些かの気配りも無いのは紅い悪魔の所以であり証明である――
「ほら。迷惑なら迷惑だって、言ってもいいのよ」
――そして、時たまこんな気遣いをするのもまた、紅い悪魔の実態であり意識である。
あくまで許可する立場を譲るつもりは無いらしいが、そんな台詞で頤を首が隠れるほどに引き、上目遣いで見つめられては。
「まぁ・・・慣れてるけどさぁ」
どんな捻くれ者でも、冷や汗もそのままに、こうして頷いてしまうというものだろう。
やはり呪いだ。
「そ。よかった。じゃ私はお役御免」
納得させればこちらのものとばかりに、レミィは態度を一変させて、あっけらかんと言う。
「明日は太陽と直接対決だから、紅茶でも啜ってもう床に着くわね。夜明け、期待してるわ」
さっきまでの強迫感もどこへやらといったところだが、これもいつものことだ。
自身の性質を理解把握し有効活用する、悪魔の狡賢。
しかし、夜明け、か。
私は、この友は今週の異変を理解していると理解すると同時に、その言葉を実に何気なく、軽々しく当たり前に言い放ってくれることに気付いて、心中に多少の安息を得た。
彼女とて。
その不気味から逃れられはしないのだ。
彼女の気楽さを認めた私は、勿論だという意味を込めて彼女へ笑い返す。
友人はシニカルな感じに笑って、胸の前に両手を広げる例のポーズを決めてみせる。
そして、そのポーズを取る為に。
レミリア・スカーレットは、左手でずっと掴んでいた物を、ひょいと手放した。
離された物が落ちて床板と接触し、こつんという靴音を鳴らす。
足首。
もとい、うつ伏せに倒れ気絶しているらしい小悪魔がだらんと伸ばしている左足の、足首。
ああ、やはり。
レミィは、年末の異変と今週の異変を取り違えている。
** ** **
「ま、私以外の誰かが、どうにかしてくれりゃあいいんだが。
タイミングが、私に丁度合っているみたいでね。
君の勘違いも無理からんこととは思うよ。
その周りには、少しばかりこの世によらない子達が多すぎる。
彼女らは世の法則などこれっぱかしも気にはしていないし、事実そんな振る舞いに世の方が怯えきっている始末だ。
世というのは本当に臆病な奴でね、脅威の現出に目を光らせるのが趣味のようなものさ。
君やこの館の主姉妹なども、勿論その対象だ。
私からすれば、ただ一人を除けば穏やかな者たちだと思うが、かつては私さえ対象だったのだから、仕方ないだろう。
まぁ、震えながら遠目にするのみに控えていたみたいだが…、ここ最近の幻想郷の慌ただしさといったら無い。
“空(ファーストコンセプト)”の巫女が神社で一人住まいを始めたこと、“星雲踏破(フライングスター)”の魔女が家出したこと、“明日の今日(オーヴァドライブ)”の聖女が館の従者となったこと、あとは、“妄念午睡(インフィニティプレイヤ)”の彼女が転職を決めたこと。
――どれか一つのみが原拠というには、いちいちが壮大に過ぎるものだ。
お陰で、とてもこの世に必要とは思えない彼のような存在が量産されてしまった。
『どうして自分を産んだんだ』なんて、思春期の子供のような理屈をこねたりはしないだろうと思ったんだが。
今回みたいなのは、予想してなかったよ。
気付いてみればこの通り、彼は内に一瞬過ぎった悪戯心に負けて、面倒な事態を引き起こしてしまった。
本当に申し訳なく思う。
いやつまり、彼を量産したのは、私だからね。
しかし、幻想の人間たちの起こしてきた大異変オンパレードの恐ろしさに比べると、今起きている異変の数々の優しさには黒幕である私も欠伸の出る思いだ。
大体にして、外で起きているような異変なんてものは、殆ど何も起こらなかったと言える今年全体の平和のツケが回ってきているに過ぎない。
事件はあったと言いたそうな顔が思い浮かぶけれど、考えてもみてくれ。春先に四季の花が舞い踊ったのは定例だったし、一月前の結界拡大事件は巫女が一人で騒ぎを大きくしていただけだ。
異文化コミュニケーションのとば口としては悪くなかったが、永遠に続くかと思われたあの夜みたいな騒ぎは、私なんぞにはもう懲り懲りだよ。お陰で一年じゅう、体調が崩れっぱなしで・・・
と、これは本当に話が逸れているな。それは置いておくとして。
既に察していることと思うが、君が解き明かすべき異変は初めから決まっている。
年末の異変、唯一つ。
(ならばいずれにせよ)。
その通り、これさえ解決してしまえば、上澄みの異変など全てなし崩しに解き明かされるという寸法だ。
ことこの異変ばかりは、君以外の者に解決を任せるわけにはいかない。
君のほかに適性のある者が絶無だというわけではないが、信に足るのは君だけだ。
ハートオブエタニティのゴッドマジック・フロウティングでも、
レッドルチルクォーツのナイフマジック・カーニバルでも、
モノクロームオルロフのスターマジック・ディザスターでも、
サスピシャスヴァイオレットのノットマジック・ティータイムでも、
スカーレットディスティニーのレッドマジック・マスカレイドでもなく。
愚昧なる我が友の言葉を信じて、君に託す。
この停滞した世を終わりに導くのは、
この循環した余を始まりに導くのは、君だ。
ま、少々仰々しい言い方になったがね。
ここまで辿り着いて初めて知るならば得心するだろう。
答えを既に知っているなら、その通りにしてほしい。
きっと君ならば、違える事は無い。
彼女は言ったのだ。
書を好む者の所在は悪ならずと。
その通り、書は聖たるべし、正なるかな、生なめり。活用すべきなんだよ。
だから私と彼女は友達になれたのだし、
それは君と彼女が友達になったことからも明らかだ。
けどそれ自体の正邪とか善悪とかは、引き起こす事態とは、あんまり関係が無かったりするんだ。
私も身に覚えなら売るほどある。
困ったことにね。
」
** 師走晦日 土曜 夕
あれはいつの事だったか、私を少女密室と呼んだ者がいる。
受け売りのように口にする奴が多く、レミリア・スカーレットの呼び名におけるようなメジャーさとは無縁ながらも、私はその仇名で静かに世に広く知られるようになった。
それは確かに、私に合致する、否、私のような者ならば皆呼ばれるに相応しい名付けだが。
私の知る同類の中より敢えて最適を選出するのであれば、彼女にこそ相応しい呼称だろう。
呼称。
そう、彼女には名前が無い。
より正確に言えば、彼女には名前という概念が付記されていない。
生命の定義であり、最大の呪いでもあるものが無い。
取り敢えずに取り置いて、彼女と呼ぶのが正しいところだという。
それは、真に純粋な生命であると言う事だ。
紅魔館館主の戯れに付けられた二つ名は、“運命に注ぎ足す者”。
字句、二次元世界の一次生命の幻想、本の上を踊るモノである彼女は、最小単位で構成された純粋幻想であるラプラスデビルは、全ての次元に遍在し、必ずやその最底辺であることができる。
一本の線である彼女は、存在が持つ前提条件たる存在する程度の能力、誰もがそれ以外に保持する他の能力によって縛られ最低限の効果しか得られなくなる筈の力をフルに活用し、己の本数を増やしていく。
1+1=2次元存在。
1+2=3次元存在。...1+n次元存在。
彼女は彼女を注ぎ足す。
多次元生命であれば基礎的に保有している筈の性質を、彼女という概念をデュプリケイトし、リファインして、デファインすることで、全ての次元世界に、擬似存在、一プラスアルファ次元生命として『存在』できる。
それ以外の付加価値を持たずシンプルであるが故に、どのような制限も受けない。
何にでもなれる。
だから名前も無い。
その次元世界において名前を持つ事は容易いが、それは元々誰々とか何々とかいう名前ではなく、彼女という概念でしかない。
彼女は彼女によって彼女にしかならないのだから、彼女がどうにかできるのは、彼女と彼女のような何か、つまり字のみ。
紙とそこに落とされたインクという定義でなく、三次生命にとっては二次平面にしか見えない一個の複雑そのもの。
字を操る程度の能力。
存在の階梯を押しなべ平坦にする、何人足りとそこに価値観の相違を見出させない。
次を操る程度の能力。
凡百の互いの違いを全てに渡り接続する理解力。
而を操る程度の能力。
普遍がゆえ誰にも似、不変ゆえに誰も似ず。
似を操る程度の能力。
小さな、悪魔。彼女には、名前が無い。
その小悪魔は――、
「そろそろ出てきたら?」
小悪魔は、本の山中に立て篭もったきりまるで動こうとしないのだった。
唐突に築かれたように思われるその山については若干の説明が必要だろう。
ついさっき、事情聴取の必要があるので小悪魔を覚醒させて欲しいときつめの口調で頼んですぐにその行いを悔いた私は、意外なほどに快く首肯した友が気絶者の倒れている方に向き直りその脇腹へと予備動作無しで刺すような蹴りをくれたのを見て、先立つ後悔というレアケースをこの身で体感した。
小悪魔の姿を少々距離の離れた大型の本棚に激突するまで視認できなかったのは、彼女が爆薬もかくやという勢いで吹き飛んだ為だったのか、目の前で何か残虐行為が働いたという衝撃が大きかった為なのか。
本棚は強烈な投射兵器の直撃にも屈することは無かった。強く体を揺さぶられ類を問わぬ数多の蔵書を撒き散らしはしたが倒壊を耐え忍んだその雄姿には、私も少なからず感銘を受けた。棚を強化したのは私だが。
それが小悪魔にとって(恐らく)幸運に働いた。振り乱された書物の数々は彼女の倒れ伏した地面にも容赦なく降り注ぎ、結果、本たちは山の形を成したのである。
レミィが振るった暴威という見地からすれば小悪魔は単なる被害者でしかないが、忘れてはならない、私は既に、彼女を年末の異変の犯人であると面と向かって告発しているのである。対象を取り違えてはいるが、レミィも同様に睨んでいる。
だからこそ小悪魔はこうした酷い目に遭っている。悪魔に蹴り飛ばされるのは不可抗力としか言いようもない。
脅しがきつすぎたのだろう、当たり前だが、兎も角も小悪魔の態度は頑なだった。
山といっても、単に堆く積もっているからそう呼称するだけで、普通思い浮かべるような錐状ではない。
でこぼこに積み重なったそれは、山でなければ城か、砦とでも呼ぶのが相応しいところだろうと思われた。
小悪魔は本の山を、そのイメージ通り城として利用しているのだった。
私による追及を避けるために。
忘我から立ち直った咄嗟の出来事で避け得なかったと考えるには、私は彼女の有り余るしたたかさをこの身に経すぎていた。
その力を以ってすれば、外からは本に押しつぶされたような格好に見え、内実は適度に寛げる閉じた空間をこさえるのも造作ないことなのだ。
小悪魔らしく小癪にも。
持久戦に入った時のことを考え、椅子と車付きキャビネットを持ってくるよう暴力姉妹に命じると、ふたりは楽しそうに微笑んで頷き、同時に羽を広げて図書館から音速で飛び去った。
レミィが館主の権限で以ってそれらを呼び寄せてくれることを期待していた私は、睨み方がきつすぎたかと少し反省しつつ本の山へ振り返って、心配が杞憂であることを知った。お夕食も近いしお飲み物だけにいたしますね、とキャビネットの上のカップに紅茶を注ぐ咲夜の涼しい顔を本山の麓に見たからである。私は彼女の寝姿を一度も見た事が無い。
過去形にせざるを得ないほど早い展開だった。とてもじゃないが追いつける速度ではなかったのである。
身の回りで起きた突風が過ぎ去った後、ようやく自分のテンポを取り戻すことの出来た私は、何気なく図書館の数少ない窓を眺めてみた。
いつの間にやら、世界が朱に染まろうとしている。
また咲夜が何か適当に時間をいじったのだろう。レミィたちと談笑していたときは確かにまだ昼の日中だった。
あるいは先ほど図書館に現れた際に私が依頼したことに関わる現象かもしれない。
私が次に取ったのは単純な行動だった。
本の山に近寄り、咳払いをしてから通りやすい声で一言、
「返事が無ければ燃やすわ」
と声をかけ、右手に松明が燃え燻るイメージを頭に浮かべる。
すると程なく、
「起きてます!」
という場違いな返答があり、小悪魔はその本分にありながら同属に圧殺されるという不名誉を返上すると同時に、私にそれまでの静寂が狸寝入りであったことを簡単に知らせてくれた。
実際には、図書館の本にはちょっとした火災では焦げ跡一つ付かないような防火処理がしてある。それを知らない小悪魔でもないのだから、実意の無い脅しであったはずなのだが。
「観念なさい。ことここに至って逃げ出そうとした罰よ」
言って、私は用意された椅子に座り、カップへとポットを傾ける。
このポットは先刻小悪魔が淹れ替えようと持っていき、実際には台所ではなく館の玄関までエスケープしていたものだ。
咲夜の手によって図書館への帰還を果たし、今まさにこうして私の喉を潤している。
防水加工も行き届いたキャビネットは、テーブル代わりに丁度良い。
「逃げ場があると思ってるわけじゃないでしょうに」
一度張った意地をそうそう撤回するわけにもいかないというのは理解に易い。
が、別人のこととはいえ、これ以上紅い悪魔の我儘を聞いてもいられなかった。
時間切れというのも面倒な話だ。
「まぁ、そういうことで」
私が再び本の山に目の月を向けると、ごそりという音と共に山の一部が崩れた。
「あー!」
小悪魔が叫んでみせたが、だからどうしたということもない。
単に斜面がややなだらかになり、小悪魔のお世辞にも晴れやかとは言えない顔が、穴の空いた山腹に望めるようになっただけ。
「ご機嫌いかがかしら」
「むっ、むぅ」
声を掛け眼を合わせると、彼女は穴を埋め立てようとごそごそ動き始める。
気まずさか、私の嫌味に腹を立ててのことか、どちらとも知れないが、しかしそれは無為な行いだと知るべきである。
「あれっ。あれ?」
小悪魔の奮闘空しく、穴埋め作業は遅々として進まない。
置いた本がひとりでにめくれ、傾き、山肌を転げ落ちる。
置けば転がる。置けば転がる。
置き方が悪いから、という問題では勿論無い。
その穴は私の魔法で造った微弱な斥力帯なのだ。ただ本を置くだけの作業では塞がろう筈も無し。
昼には済ませられたはずの本題がこうも先延ばしにされ、その上無意味な時間稼ぎなどされては腹も立つ。
このままでは、今日が本当の無駄な日となってしまうではないか。
いくら友といっても、いちいち全員の機嫌を窺っていたら日の前に私が沈むというものだ。
時間的には余裕だが、省くべき無駄というものがある。
「んしょ、あれ。何で、もう、あれぇ?」
それでもやはり小悪魔は、小悪魔であるが故に、彼女の悪あがきをやめなかった。
予想通りといえばその通り。
仕方なく、私は大きく息を吸う。
そして、いつもの溜息を、意識的に強く、吐く。
途端、書の塊が、内側から外側に向けてがらがらと、花開くように崩れていった。
本の山が谷へと変わり、
「わっ、わっ、わぁー」
表面に晒された核が喚く。
万有引力にパラドックスを知らせ、世の理を乱す。界が質を組み替え理を立て直す間の混乱。
先ほどやった斥力発生と同様、空を飛ぶ為の技術の一つ、箒乗りの応用である。
箒乗りは術者が指向性を明確に定め、少ない魔力で大きな仕事を為す、魔法使いにとっての初歩の初歩。
魔法見習いが、これを学んですぐ飛行の楽しさに取り憑かれ更なる速度を求めた挙句自分の限界を知るまでの期間を、俗にマジシャンズハイと呼ぶらしい。らしいというのは私自身が生まれつきの魔女でありその期間を経験したことが無いから。
恐らく今まだ期間真っ只中でこれからも延々と永遠にそのままだろう霧雨魔理沙などは、箒一本で星の世界を踏破し電子の世界を駆け巡ることさえ可能、と言っていたが嘘だ。
本当でも意味はない。私は書物たちを宇宙葬に出したいわけでも量子化したいわけでも無いのだ。
故の応用である。箒乗りにおいて元来一極化するベクトルを四散させ、エネルギーを細切れに極微に分け隔て、対象を本質に至らぬその構成、構造に広げる。
一方に向けてぶっ飛ばすだけである魔法を拡散し、物体の結合に影響を与えない範囲の力で本を動かす。
森の人形遣いほど小器用ではないが、魔女である私には呼吸より簡単。
「さて、覚悟はいい?」
谷の分け目、目を回してぽつんと座る小悪魔を見て、私は言った。
「ぐー」
赤髪の少女は予想通りというか半泣きで、その正体を知らない善良な一市民であれば罪悪感から逃れ得ないだろう可憐さを余すところ無く表現していた。
だが生憎と私は善良でなく魔女であり彼女の悪魔をありありと知っている。
騙されてやるのはいつでもできることだ。
「ええと、私の身の回りに起こったことは、貴女が仕組んだ。合ってる?」
私は小悪魔に質疑を迫る。
「う、えーと」
「いいね?」
同じ調子で問う。
だが小悪魔は釈然としない顔をするばかりで、自分からは何も話し始めようとしない。
崖っぷちならぬ谷の間にいるからだろうか、犯人にあるまじき態度である。
「隠してもためにならないわ」
彼女が自分に今どういう対応が要求されているのか理解させるため、私はステレオな言葉を引用してみた。
「ううー、し、揣摩憶測です。証拠が無いです」
彼女も馬鹿ではなく、私に応じて判りやすい形で抗弁しだす。
しかし一度は自分がやったと認めたことを否定するあたり、混乱が見て取れる。
「何が憶測よ、往生際の悪い。さっき、ばれましたかとか何とか言ってたじゃない」
「う、え、あれ? えとえと、ぅぅ、そうですけどぉ、だからそうじゃなくってぇ」
「グダグダ言ってると言動不一致により証言能力なしと見做して強制的に罰するわよ、本の角で」
「ひ、酷いっ」
「酷くない。言えばいいのよ」
「しょ・・・」
「証拠? 鏡でも見なさい。何よりも雄弁なものがそこに張り付いてるわ」
「ぶつ」
「貴女の顔は誰よりも物理現象と呼ぶに相応しい。実体無き顕現、色即是空ね」
「だ」
「抵抗しても無駄よ。何度も言って・・・まぁ、仄めかしてるだけだけど、言ってる通り、ネタは挙がってるの」
「そ」
「反抗的な目ねぇ。あくまでしらばっくれるつもり?」
「一言ぐらいっ」
「どうぞ構わず。気兼ねすることは無い」
溜息と読んでいた本をそれぞれ虚空とキャビネット上に置き、私はそこで、声を荒げてみせた小悪魔を見据えた。
彼女の両目を睨み付ける形になり、当たり前のように小悪魔が口を噤み息を呑む。・・・ここまで予定調和が成り立つのであれば、いっそ“視電一線(ラスタゲイザ)”とでも名付けたものだろうか。いよいよどうでもいい話である。
兎に角、私は小悪魔が怯んだ隙を付く形で、彼女へ言葉を畳み掛ける。
「ここには、貴女と私しかいないもの。 誰かが聞いているうちでは、はぐらかされてしまう。
誰も貴女の重要性に気付かず、単なる語中の一字として見過ごしてしまう。
私も、誰かがいたら、読書に集中できない。
この不気味な魔法の所為でね。
気を許している相手が居ては、集中しているつもりでも、無意識に私を分割してしまうから。
貴女を追求できるのは、読書に没頭できるのは、今だけ。
貴女に、まだ何かできることがあるのなら、思うまま好きなだけ、勝手自由に反逆なさい」
言い終えたところで視線を外し、私はカップを手にとって紅い液体を一口啜る。
魔法で体機能を多少強化してはいるが、それでも長広舌は喉に響くものだ。
それ以前に、咲夜の淹れる紅茶はついつい手を伸ばしてしまう度合いの高い絶品なのである。喉を潤す以上の効果を齎す点も、一体何が入っているのか判らないことが時たまある点も。
「じゃ、じゃあ言わせていただきますけどっ!」
小悪魔が、紅い湖面に視線を落とす私に言い募った。
が、私は彼女が二の句を継ぐ前に、それを再び視線一つで止める。
ぴたりと、一発で止めてしまう。
「まぁ――」
私は、この因業な双眸が便利に思えてきているのを自覚しながら、カップをキャビネット上に戻すと、
「その姿じゃ、悪戯しかできないでしょうに」
気怠く、紅茶の所為で少し温まった息を追い出すように言った。
「――ぁぅ」
小悪魔が、弱く息を洩らす。
「ほら、一言といわずいくらでも」
「ぅ――むぅ」
反論のために開けていた筈の口から、息以上のものが出てこない。
一言だって喋らせるつもりは無いことがわかってもらえたようである。
「全く。初めからそうしてりゃいいのに」
私は人差し指の銃口で彼女の空いた口に狙いを定め、言を糺す弾を喉元に装填し。
「私の方は聞きたいことだらけなんだから」
小悪魔目掛け、解答編を、ばら撒いた。
** ** **
「答えはすぐ傍にあった。いつも君の近く。
私の望みは貴女たち全ての望み。
彼は幕を下ろし、不当に続いた幕間を終えた。
そして私は本来の役目に従って、彼を手に取ってくれた貴女にこの日常を捧げる。
どんな平穏に終わろうとも、どんな騒乱が起ころうとも。
幻想郷という幻想からすればこれら全ては有り触れた一幕でしかない。
だからと私がいうのも変かもしれないが、どうか彼を責めないで欲しい。
彼、いや彼女・・・いや、やはり私は彼と呼ぼう。
彼は日常を区分けするもの。
取り分け平和だったこの年、やることの殆どなかった彼は、自分の仕事が不名誉なものに感じられたのだろう。
自分が何でもないものだったとして忘れ去られるのに、耐えられなかった。
どうにかして、この年を世に・・・私に印象付けたかったのだ。
ほんの少しの悪戯をもって仕事納めにするつもりだった――が、結果はあの通り。
取り返しが付きすぎたのだな。彼にとって、これ以上無いくらいの失敗だ。
その中で、貴女は消去されたその概念を意識できていた。覚えていた。
それも、悪戯の内ではあったけれど。
そして。
」
** 師走 晦日 土曜 夕
カップが空になり、乾いた喉が潤う。
すっかり冷めた紅茶はそれでも、私に落ち着きを齎すだけの風味を宿していた。
「さて、大体こんなところで婉曲的な言い方ってお終いだと思うんだけど」
そう閉じて解答を撒き終えた私は、平生喜ばしく感じられるはずのこの空間、二の句を継ぐもののいない図書館に少々の辟易を感じている自分の所在を意識して、椅子に嵌り込むように深く凭れた。
飾りの付いたナイトキャップ、私にとっての三角帽子が傾いて滑り、自然に小悪魔の視線から微妙な表情を隠す。
一瞬で顔面を整え、帽子を被り直して小悪魔を見る。
彼女も、私を見ていた。喋っている間から、遠めに見てもはっきりと判るほど顔が青ざめている。
「何か、言うことある?」
問う。
小悪魔に、問う。
自分がやったことを、今度こそ認めるか、と。
「・・・ですね」
「? もう一度」
すぐに返事が返ってくるとは期待していなかった私は、掻き消えそうなほど小さい小悪魔の声を聞き逃していた。
「ちゃんと、判ってるんですね」
「まぁ。もう待った無しといきたい感じね」
私たちは、それほど遠くない距離で見詰め合っている。
睨み合っている。
ということは、また何とも妙ちきりんなシチュエイションであるようにも思える。
だが眼窩にある私の月は凶悪で、ともすれば、生まれようとするロマンスさえ睨み殺さんばかり。
「パチュリーさま」
「さぁ、小悪魔。いいわね」
「ええ、はい」
取りも直さず、返す返すに、言うまでも無く、私たちは見詰め合っていた。
しかし私に見えていたのは彼女という形でありその全容ではなかった。
小悪魔という字の怪異を、この世界空間の限りにおいてのみ定かである形状だけで認識しようとしていた。
「聞かせてもらうよ」
「はい」
「貴女は、犯人」
「私は犯人です」
更に言えば、お前が犯人だと言い放った私は、涙に滲んだ瞳が、闇を食む円に切り替わるのをはっきりと捉えていたし、問う毎息を落とす度、小悪魔の表情が失われていったのにも気付いていた。
「貴女は、十六夜咲夜であり、紅美鈴だった」
「メイド長と門番に、成り代わりました」
「貴女は、フランドール・スカーレットであり、レミリア・スカーレットであった」
「破壊と運命に成りすましました」
「貴女は、霧雨魔理沙であろうと、パチュリー・ノーレッジであろうとした」
「魔星と魔女に、成り損ないました」
「よろしい。では――」
「はい。私は――」
にも関わらず、私は問いを連ねて確信を深めようとした。
もっと早くに気付くべきことを気付かず問いの並びを続けていた。
消え失せていくのは顔色のみではないということに。
目の前に居るのが誰なのかを、根本から勘違いしていたということに。
小悪魔は今週の異変の犯人であっても、年末の異変の犯人ではなかったのだということに。
勘違いと、考え違いと、思い違いをしていたと。
そういうことに、しておく必要があって。
「私は、小悪魔ではありません」
ふと見ると、もう彼女の色は、殆どが褪せ果てていた。
「――」
「ああ、パチュリーさま、ご覧ください。私は貴女の知る小さな紅い悪魔ではありません」
髪が瞳孔が赤色が、翼が唇が薄紅が、シャツがベストが白黒が、彼女の全体が徐々に掠れて灰へと寄り添う。
声色すらモノトーンに極化する。
私にとって世を分ける手段である七つの色が、彼女から抜け落ちていく。
「――」
境界がのべつ幕なしになって、姿そのものが変じていく。
伸び縮み、彩が解け消える。
「ああ、パチュリー・ノーレッジ。この姿は彼女に被せられた一時のみの悪魔の膜。字の力で模された形は、読み解かれれば消えてしまう。己の象り方も判らない私を覆っていた結界は、これにて――終了する」
反射板が完全な平面になり特質を欠く。
彼女が小悪魔でなくなる。
呼び捨てる声が、彼女が彼女でないことの証明となる。
「ああ、私は、だが、少なくとも、パチュリー・ノーレッジではない。目の前にいるのが本物のパチュリー・ノーレッジであること、それ自体が、私の定義を確立せしめる」
目の前で起きつつある変化を凝視しながら、私は問いかける。
取り敢えず、私の言葉が聞き入れられるうちに。
「私でないなら、小悪魔でないなら、他の誰でもないのなら」
「なら貴女――お前は、誰?」
「私は小悪魔でした――だが、小悪魔ではない」
軽く息を漏らし答えた小悪魔は――もはや私の知らない少女だった。
いや、か細さから少女だと思うだけで、性別も定かではなかった。
既にそういった範疇に属しているかすら怪しいそれは、飾り気の無いワンピースを小揺るぎもさせず、座り込んで、ただ膝を抱えている。 本の谷の間で蹲るそいつは、色とりどりの書物の表紙の中、一人凝った灰のように見えた。
恐らくは、灰色が最も近いと感じるだけで、実際には灰色でさえ無いのだろう。
無色の一歩手前。
色が、光が見せる幻想が、逃げ去った後。
色相という概念の抜け殻。
あるいは、消し去り切れなかった文字の、消しゴムの跡の色。
その姿を見た私は、何よりも先に――安堵していた。
それが色を失しはじめた時に感じていた、あるいは、という焦燥を払拭することが出来た。
それまでしていた推測が外れ、予定に若干の修正が生じる可能性を予見したが、これまた杞憂だったようだ。
安堵の溜息もまた、不気味な魔法。
私はどうやら辿り着いたようだ。
紫の境が用意した盤面に、紅い悪魔が縫い付けた意図の先。
異変の、解決編。
小悪魔ではないものに対し、小悪魔で無いということに気付かない振りをして談話を続けることで、小悪魔ではないという決定的な証拠を引きずり出すことに、成功した。
私は、驚いていない。
変化妖態する怪物を見知っていれば劇的な容姿の遷移に対して驚きようも無い。
新パターンの登場と見れば知識欲は沸くが、その程度だ。
既に抱いていた疑問を解消する筋道としても、魔理沙と咲夜の戦闘が終わってすぐ現れたこいつが小悪魔以外であるという方向性はかなり妥当な線であるように思える。
小悪魔にしては、やることが大きすぎる。
大した事が起きているわけでもないが、かかる手間が多すぎる。
派手派手しさを好みすぎる。
悪戯にしては、何だか必死である。
稚気が足りない。遊び心に疎い。
要するに、らしくない。
まるで、同じ色の悪魔のようだ。
昼間も何食わぬ顔で食器を運んできたが、呼びもしないのにそんなことをする程の甲斐性が果たしてこいつにあっただろうか。いやそれぐらいはあるかもしれないけど。
そして私は、判っている。
こいつは、年末の異変の、真犯人では、ない。
「パチュリー、ノーレッジ」
色と同じに掠れた、か細い声。
これも、色は無い。男性か女性かという以前に、声色も音色もない、ただの波。
形を変えず残った小悪魔の長髪が垂れ下がっていて顔面を見ることはできないが、窺う必要も感じなかった。のっぺらぼうでこそ無いだろうが、その顔色も既に死んでいる。
体の輪郭が定かでなく、一切の陰影を持たない。
写実性も無く、平面に引かれた無造作な曲線の集まり。
ふと目を逸らして戻せば、出来損ないの落書き以下にしか見えなくなるだろうそれはしかし、外見の異常性のみをもって場に十分な存在感を顕示している。
忘れさせはしない、とでもいうように。
「パチュリー、ノーレッジ。聴こえているのか」
何故この東の方には、こういった話を聞かない手合いが多いのだろうか。
私は、「如何にも、私がパチュリーだけど」と軽く返し、答えを待つことなくそのまま灰色へ問い返す。
「お前は誰? まだ返事を貰ってないわ」
「君が、パチュリー」
コミュニケーションが成立したものと見るには少々頼りない雑音、返事らしきそれが流れてくる。
「全くもう・・・」
飽きもせず聴覚を撫で付け続ける無表情の波には流石に多少の嫌気を感じる。
初対面の相手であれば全て未知の存在だと言えるだろうが、こういった理解の外れにあるような者にまで同じ認識を当てはめたくは無いものだと思う。
「君が」
「だから、そうだってば。私はパチュリー・ノーレッジ。
七の日と五の理と織り成す三十五の法に因る、天下御免の知識の魔女。
で、お前は一体どこの誰、何者なの? あんまり恥ずかしい名乗りをさせないで欲しいわね」
私は言葉が通じることを切に願って、再度問う。
「君だな、そうか、ようやく」
気の無い返事に苛立ちを覚える。こういう奴なら、魔理沙でなくとも取り敢えず吹き飛ばしたくなるというものだ。
私は堪忍袋の緒が摩擦熱で焼き切れる前に、
「そう、私はパチュリー。それで?
月曜に本物の登場を遅らせ、
火曜に本物なら知るはずも無いような本を扱い、
水曜に本物なら吐くはずの無い台詞を言って、
木曜に本物の力で手紙を改竄し、
金曜に本物みたいな嘘をついて、
土曜に本物の私に化けようとし、
日曜に本物も化かそうとしているらしいお前は、一体誰なの」
罪状を並べ立て、
「そして」
推測を交えて重ね問う。
「お前に――『お前の本』に成り代わっている小悪魔は、今、一体何処にいるのかしら」
小悪魔は何処に居るのか。
灰色が、顔を上げる。
率直に、私の声が聴こえてのことと捉えるべきか、いずれ何かの拍子を得てのこととは思うが、はっきりとは判らなかった。
傾いた灰の髪から顔面が透けて見えるが、それにはただ平たいなという印象を与える特徴だけがある。
表情・・・顔色が、やはり無い。
こいつに、およそ何か企もうなどという意志力が備わっているとも思えなかった。
故にこそ、こいつが今週の異変に深く関わっている――率直に言って犯人であるということは今更曲げようも無い事実だ。
こいつは、今週の異変の犯人。
真犯人、年末の異変の犯人は、別に居る。
辻褄合わせのようなものであっても、疑う余地も無く疑える。
こいつ自身が言ったとおり、こいつは小悪魔ではない。
小悪魔が能力をもって変化した姿ではない。
そうではないと、断言できる理由がある。
私は、こんな奴の存在を認識した記憶は無い。
私に、こんな奴を登場人物とした記録は無い。
字を操る能力・・・というよりこの場合は、自を操る能力、どちらにしたところで。
《小悪魔は、騙す相手の知らない存在には化けられない》。
小悪魔は、いや、平生小悪魔として紅魔館界隈で見かけられる怪異の正体は、既知の誰かとして他者に認識されることでしか存在できないのだから。
私の知らない誰かの姿をしている時点で、こいつは《小悪魔では》ない。
だが、こいつはたった今まで小悪魔の姿をしていた。
そしてこいつ自身が証言したとおり、私の知る他者に成り代わっても居た。
それが出来た理由は、まぁ一つしか考えられないが、ひとまずはさて置こう。
他に成る程度の能力。
今週、こいつが、最も多く使ったであろう、本来小悪魔にしか使えないはずの能力。
所謂変身能力とは異なり、他者になる。
変化するのではなく、文字通り。
文字通りの、その人自身になる。
来歴を持ち、記憶を持ち、意識を持ち、性格を持ち、空間を持ち、
呼吸を持ち、歩幅を持ち、錯覚を持ち、誤謬を持ち、法則を持ち、
感覚を持ち、急所を持ち、世界を持ち、構成を持ち、予感を持ち、
経験を持ち、習慣を持ち、私見を持ち、資格を持ち、能力を持ち、
時間を持ち、義務を持ち、関係を持ち、怠惰を持ち、狼藉を持ち、
我思う故に我思うが故に我思う事を我思うが為に我が思いのままに我はあるという自覚を持つ。
彼女はそもそも、存在の最小構成要素そのものが主体を持つという幻想である。
幻想はこの郷では現実であり、全ての存在は幻想で出来ている。
即ち幻想の元素である彼女は、その全てに成り代わることができる。
そういう夢物語。
然して嘘の現実。
“全て他人(ドッペルミミクリ)”にして“誰かの正面(ハイドスタイル)”と呼ばれたもの。
代名詞、代入子。
彼女は、何にでも成り代わることが出来る。
――ただし。
力を持つ多くの誰か、あるいは誰もがそうであるように、彼女のその力もまた、完全なものではない。
完全と呼ばれるものは皆、真に完全であるが故に完全ではないのだが、彼女もまたその例外には無い。
変身能力ならば、他者から見間違えられるのに必要な最低限の条件を満たしていなければならない。
彼女の変身能力は、完璧にして不完全。
世界も含めたあらゆる他者から見間違えられるのに必要な最大限の条件を満たす。
自分が自分であることを自覚しながら他称するのでは、四分の一しか他じゃない。
他者が他人であることを他界しながら他称して始めて、十全な他生となれるのだ。
そんなことが出来るのは、彼女が彼女を持たないから。
彼女は“微熱の知恵(マクスウェルズ)”であり、“気まぐれ公理(ラプラス)”であり、また同時に“憂鬱不在(シュレディンガー)”でもあり、何より“机上の空論(デミウルゴス)”である純粋の幻想。
あるかないかもわからない、不定、不明因子。
×ことの一分の一。
彼女はだから、他人になれるのではなく、他人にしかなれない。
矮小な概念の一点でしかない彼女は、他の誰かという形を借りなければこの世に顕現できない。
観測者にとっての知人に摩り替わることでしか表面化されない。
未知を指す「それ」へと成り代わることは不可能。未知は文中にいられない。
他ならぬ本人と並び立てば「それ」でしかないと自明。代名詞は所詮代名詞。
私とて。
長らくを共に過ごす私とて、彼女の本当の姿、“紙面を走る者(ダンシングベクター)”たる二次平面の神としての顕現を見たことは無い。
それを見るには、彼女と同じ次元へと己をシフトせねばならないが、そうそう彼女のように器用な真似が出来てはこの世の秩序などあっという間も無く崩壊するというものだ。
彼女の方からこちらに合わせているのだ、折角の厚意は受けるべきである。
幸い彼女は、私がここにやってくるより遥かな昔に、既に永世を成り代われる拠代を見つけているのだから。
拠代。
紅い悪魔、亡き王女。シークレットスカーレット、不在を操る程度の能力。
館が海を渡る切欠、魔王が血よりも紅茶を好むようになった理由。
私がヴワルを知るためのとば口、神隠しに遭った神、吸血鬼幻想、少女密室。
小悪魔と呼ばれる姿。
私にとっては赤い髪の悪戯好きでしかないが、彼女とて数世紀を渡っている幻想種超越類の一体である。
積み重ねた歴史は百年の魔女より深く長い。
彼女もまた完全なる力の持ち主だったが、それが為に幻想となり、今は二次元神の三次平面への寄る辺となっている。
絶対の完全は、完全でなくなることがないという完全の絶対性さえ意味する。
そこから嵌る、パーフェクトノイズのインフィニティパラドクス。
何てことの無い、完全なんてものが無いと思えば生じもしないはずの論理。
是を非に、非を是に背理すればどの常も常ならざることは瞭然であるのに、事物を一面より見るのみに特化し専横した所為で陥る逃げ場無き隘路。
しかしここは、かつて思われ、今は無くなったものの集う郷。
幻想郷。
こうも完全だの絶対だのと繰り返していると普通なら馬鹿馬鹿しく思えてくるところだろうが、ここでは紅魔の主従のような具体例が枚挙に暇無い。
荒唐な世界で無稽に暮らしている以上、空前の世界を絶後ともなく日常化するのが尤もらしいというものだ。
成り立たぬものが成り立ち、成り立つものもまた成り立つ。
そして成り立ちから成り立たないものははじめからいない。
盤面を支える棒が一本である奇跡も、棒を支える地面すら無ければ起こりようも無いのである。
私は回想思巡より意識を引き戻し、もう一度眼前に灰色があるのを認める。
問いかけからおよそ五秒ほどの時が経過しても、顔を上げたきり灰色は動かない。
回りくどい思考が走ったが、要するに。
私の目の前で変化し、私の知らない誰かになったこいつは、いかに印象が希薄であっても、この世の生き物である私に認識できている以上、小悪魔の本性などではない。
ただの、事件の犯人だ。
不意に、灰色の顔面に浮かんでいた点が仄かに伸び縮む。
「何と言った、今。さっき。もう、一度、繰り返してくれ」
そこから呟きの波がぼんやりと流れたのを聴いて、私はようやくその点が口だったのだと気付いた。
注意深く聞きはしたが、人の姿をした者から発せられたものとは思えない無機質な音である。
ともすれば、書の上で字が走るのを無感動に追っている時の気分にさえなろうという、兎に角も何も無い音。
「長いから嫌ね。要点を言いなさい」
「月曜」
今度の返答は早い。
よう、という響きと共に、体育座りのような格好から左右にだらりと伸ばしていたそいつの両腕が動き、まず左手の親指がかくんと曲がった。
「火曜」
音と共に人差し指が曲がった。
正に指折り数え、というやつだが、こちらはその意図が全くわからない。
「何をするつもりかしら。答えるつもりが無いの?」
「水曜」
緩く制止する意思を含めた声は聞き入れられず、中指が曲がる。
「一人ぐらい、誰か、話をまともに聞こうって奴がいてもいいと思わない?」
「木曜」
薬指。
こいつが小悪魔から今の姿になって以来、何とも言えない妙な気分が続いている。
先刻思ったのと同じく、普段の私ならこういう怪しい手合いには四の五の言わせず先制攻撃する筈である。
なのに、何故か私はそいつの反応を待ってしまっていた。
自分自身意外なことだが、これさえも不気味な魔法によるものか。
いや、この不気味な魔法は、こいつによるものなのか。
まさかという奴である。そればかりは有り得る話ではない。
「辛抱強くなったもんだわ、私も」
「金曜」
小指が曲がると、放ってあった右腕が動いて上がる。
やはり、その動きを理解不能とは思っても、奇妙なものとはどうしても思えない自分を認識する。
単純に、片手では足りなくなったから右手に移った、数えがまだ継続しているだけだとすぐさまに把握できてしまう。
「まぁ、どのみち。自白を始めれば犯人だから、なんでもいいわ」
「土曜――」
右手の人差し指が閉じた左手に添えられる。そいつの両膝の前で両手が重なった。どうでもいいが改めて見ると長い指だ。
何かの力を行使するのだとすれば、絶好の姿勢だと言える。
「――」
だが、そこで灰色の動きは止まったのだった。
「・・・どうかしたの?」
攻撃に移るのでも、それまで通りに曜日を数えるのでもなく、ぴたりと止まって、次の状態に遷移しなくなった。
また不思議なことに心配になった私は、そいつの身を案じるように声を投げかけてやる。
こう動かないと、こいつは死体どころか、存在に見えないからである。
いや、違う。
推移しないそいつを見て、何を思案しているか理解してしまったから。
そこで、数えを止めるというのは。
つまり。
「――次、何と言った」
「・・・」
「次、何と言った。月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、の・・・次だ。後、ではない。次、だ」
その言葉はこれまでと比べ長く、比すまでも無く強い意味力を有してはいたが、そいつの意識に変容が生じたわけでも無く、やはりというか一切の感情表現を含まない音のままだった。
だというのに、それを聴いた私は、至極不安な、落ち着かない気分にさせられる。
やはりか、という。
「ニチヨウ、というのは、何だ」
「――」
「何だ。ニチヨウとは、何だ」
予想は的中した。
こいつは日曜日を知らない。
故に違わない。
こいつが他の曜日を知り、日曜だけを知らない理由が判る。
そして、これが正しいのなら――年末の異変の真犯人もまた、私の思ったとおりということになるはずだ。
「――」
「聴こえて、いるのか」
けれど私は、繰り返される灰色の音に答えられない。
無論、言の葉の意図はおよそ掴めているし、こうなって尚他の由を探そうなどと短慮するほど迂遠な私ではない。
灰色は日曜の意味を求めている。音の流れを把握しようとしている。
たったの一言をもってそれに答えるのは容易いこと、今すぐそれをすればいい。
けれど私は、答えられない。今、答えるわけには。
「質問を変えるわ。どうして日曜を知らないの? 月曜から土曜を知る者が日曜を知らないなんて、妙でしょうに」
あるべき形ではないと知りながら、灰色の質問に質問を返す。
答えのわかっている問題を。
理由のわかっている質問を。
「月曜、から、土曜。
日の、名。日の、色。日の、徴。
教えられた、が故に、知っている。
教えられて、いない、ものは、知るはずも、ない。知る道理が、無い」
意思疎通には成功しているようだった。
本当に知りたいのはそんなことではないのであるが、木曜の木と同じように慎重に問いを重ねる。
急いて仕損じることのないよう、慎重に、判りきった問いを投げかける。
「教えられたというのは、誰に」
「七五三十五。
インフォマニア。運命の傍点。
ソロマジカルシチズン。中央管制塔。エンドレスウィーク。
眠れない夢。オールドリーディング。書界の隣人。ブックマークブック。
影日向。イレブンバック。記憶の牢番。ビビッドティアラ。意識の墓守。
リジッドクラウン。歴然寓意。バイレジスタ。本棚の戯け。トータルターム。幻文机。
ウェイブザッパー。異違独讀。ノートアンティル。天河濫読者。ブラウジングスター。惰性定理。ラクトガール。
魔女。パーティカラートルマリン」
これも、予想通りの答え。
「私、か」
教えられていないと言ったのだ。
誰かがそれを教えた――だとすれば、考える余地は無い。
「そうだ。
月を割り、火を留め、水を降らし、木を宥め、金を癒して、土を崩した。
日々の、何たるかを、成り立ちを、有り様を、教えたのは。
パチュリー・ノーレッジ。君だ」
「そう、そうだったわね」
予想が通ってしまうなら、結論も変じない。
「けど、教えていなくとも、言の葉から法則性を見出せるでしょう?」
それでも私が答えないのは、単純な理由。
私には、その答えを返す術が、無い。
「私は、推測しない。私には、起こること、だけが、必要。
憶測は、無限の、喜劇より、一握の、悲劇を、好む。悲劇は、好むところに、非ず」
さて、窮したものである。
この分では、私のどんな問いも無為となるのではないか。
然るに、私はこいつの問いが無くなるまで答えなければならない。
私は、年末の異変を、解決するのだから。
「私は、推測しない。当て推量は、勘違い、やがて、過ち。
それは、事実への、裏切り、本筋の、横道に、値す。間隙は、望むところに、非ず」
答えるべきは、日曜とは何か。
答える方法は、月火水木金土と同じく。
私の唱える七極世界、ステンドグラスワールド。
「さぁ。教えてくれ」
故に私には、その答えを返す術が無い。
今日はまだ、土曜であり。
大晦日であるからだ。
もう、東の果てに日曜は昇らない。
私は、年末の異変を、解決することができない。
厳密に言えば、日曜でなければ日曜の魔法が使えないなどという縛りは無く、ただの私のこだわりの一つである。
縛りは、無い。
はずなのだが・・・。
不気味、だ。
何故か私は、今、日曜の魔法を使っては、いけないような、気がして、ならない。
その名を唱え、力を行使しようという意思が、全くといって沸かないのだ。
金曜、一時とはいえ、私が魔法を使うことのできなかった時を思い出す。
もしあれが、私と世界が剥離しかかっていたという、それだけの理由によることではなかったとしたら。
我が友の強制力か。
境の紫の境界力か。
あるいは、他の――その二つに代わるような巨大な理由――いや、繰り返しになるが、思い当たるのは一つだけだ。
「ニチヨウとは、何だ。私は、推測しない」
「・・・」
まぁどのみち、こんな中途半端な精神で使う魔法では、こいつに良い影響を与えないかもしれない。
こいつからはまだ、自身の正体さえ聞き出せていない。
そんな状態での下手な行動は避けたいところだ。
私のこだわりから見ても納得がいかないし、ここは単なる強迫観念だとして、素直に従うべきか。
それに、手立てが無いというのはあくまで、
「今は答えられないわね」
今は、の話である。
既に、手は打ってある。
計算通り、と言っていい。全く、危機管理はどんな時にも必要なことである。
「今は。とは」
「今は、よ。まぁ、暫くかかるかしら」
「暫く、とは」
「もう・・・あ、そうだ」
こういちいち答えを求められるのも面倒な話だと思ったが、突然に妙案を思いついた。
私は、傍らに佇んでいるキャビネットを、椅子に座った姿勢のまま、灰色の方へと蹴って寄越す。
キャスターをころころと静かに鳴らし動いたキャビネットは、雑然と積まれた本の山に阻まれて灰色の手前で止まった。
灰色の口ではない二つの穴、目なのだろう、それがぐるりと動き、本棚の停止と共に止まった。
「判るわね。そこら辺の本、読んだら全部、その本棚に片しといて。暫くなんてあっという間よ」
「何故、私が」
灰色の目が再び私を捉え、波の続きを伝えた。何故私が本を片付けなければならないのか、だろう。
「代役なんでしょう?」
素っ気無い感じでそう答えても、波の揺らぎは続いたまま。
察するに、片付けるだけならまだしも何故読まねばならないのか、か。
「そんなの、それがあの子の趣味だからに決まってるわ。
私の使いでもなければ図書館の司書でもない小悪魔。
単なる本好きの、悪戯っ子よ。読んだ本を元に戻す几帳面な、ね」
灰色は、少しだけの逡巡を経て口を動かし、
「・・・」
手近の書を細長い腕で取って開き、そこに目のような点を向けると、忙しく縦横に動かし始めた。
読んでいる・・・のだろう。
「じゃ、お願いね」
素直なものである。
少しでも小悪魔であるうちに声をかけられてよかったというところか。
しかし、実直すぎて当てが外れた。
私のような面倒がりなら、小悪魔本人を呼び戻してやらせるところだ。
まぁどうせ、こいつが犯人であっても、起こったこと全てがこいつによるものとは、限らないのである。
とすれば、いずれにせよ。
“その時間”を待つより他は無くなったというわけだ。
何かを待つというのは久々の気分に思える。
これもまた、面倒なことだ。
私はお決まりの嘆息を加え、ふと思い立って、体育座りで本を抱える灰色に声をかける。
「ああそうそう。斜め読み飛ばし読みは、厳禁よ」
** ** **
「頼んでいたんだ、私は。
世の静けさを取り戻すために、私の罪を、あの月の裏に隠してくれ。
世の激しさを取り戻すために、私の罪を、業火で焼き尽くしてくれ。
世の涼しさを取り戻すために、私の罪を、濁流へと押し流してくれ。
世の豊かさを取り戻すために、私の罪を、樹海の木の葉にしてくれ。
世の美しさを取り戻すために、私の罪を、明け星の土産にしてくれ。
世の逞しさを取り戻すために、私の罪を、地の果てに埋葬してくれ。
世の眩しさを取り戻すために、私の罪を、この日の本に晒してくれ。
そんな大それたことじゃないなんて言いっこなしだ。
非日常の連続を終わらせ、穏やかで退屈な日常を。
この日々を、いつも通りの、孤独で、不気味な一週間にまで修復してくれ。
近しく遠いディープパープル、知識の不動、楽園の毒林檎よ、君の魔法が聴かせてくれ、と。
ハートオブエタニティのゴッドマジック・フロウティングでも、
パーフェクトシルバーのナイフマジック・カーニバルでも、
モノクロームオルロフのスターマジック・ディザスターでも、
サスピシャスヴァイオレットのノットマジック・ティータイムでも、
スカーレットディスティニーのレッドマジック・マスカレイドでもなく。
パーティカラートルマリンの、**************が***いん***、と。
」
** 師走晦日 土曜 夜
そして今に至る。
夜の図書館には、本を読む私の他に、一人として音を立てる者が居ない。
取り立てて変わったことでも無かったはずが、今月、特に今週では珍しいのである。
だが、そんな喧騒の日々も、残すところあと少しでお終いとなるはず。
“その時間”は目の前だった。
「終わった」
「ん」
回想を済ませた私は、両目を開け今を捉える。
今、つまりこの灰色のことだ。
見れば確かに、崩落していた本の山の一部が跡形も無く消え去り、その代わりにガラガラだったキャビネットは隙無く分厚い本たちで埋まっている。
「早いね。いや、速いのか。ホントにちゃんと読んだの?」
「嘘では、ない。虚から、虚を、生むことは、望まない」
一人として音を立てる者が居ない、つまりそこには私以外に誰もいない・・・というのは短絡である。
そいつが出すのはただの波。
音ですらないそれは物理の界面上では観測できず、ただ周期性のみが確固たる意味力を有する。界面の下、波形は存在のゆらぎから絶えず放たれている波紋と衝突、紋様に異を唱えることで内容を加減乗除し、他存在からのアタック記録をその根底に刻む。
一方的なシンパシィ、一向的なテレパシィ。
故の静けさ。
この場で他に音を立てるものが居たなら空耳として流されてしまうように思えるほど薄い存在感は、しかし希薄であるが故に、見えない被膜となって図書館を覆っている。意識しなければ気付かないが、確かにあるもの。
そんなことより、キャビネットに詰まった本の全てを読み終わったと言うのは嘘くさい。
「何冊あったと思ってるのよ。数時間で読めるような分量じゃないでしょうに」
「私に、刻む、だけだ。冊数は、それほど、関係しない」
「ふうん、まあいいけど」
「さあ、教えてくれ。ニチヨウとは、なんだ」
真偽など確かめている場合ではないのかもしれない。
取引のつもりなのか、それともまだ小悪魔の真似をしているつもりなのか、灰色は頑なに言いたいことだけを言って、聞きたいことを言っている。
「急かさないの」
“時間”は目の前となったのだ。
少々の間を会話で場繋ぐのも不可能ではないほどに。
「というか、何でその言葉に拘るのかしら。それって推測じゃない?」
「私は、推測しない」
「言い張るのは構わないけど、嘘じゃないって保証もないし」
「私は、嘘をつかない。虚からは、実だけが、生まれる」
「クイズのつもりなら、もう少しヒントが欲しいわね」
「私は、虚実を、混同しない。夢幻を、清濁に、棲み分ける。嘘をつかない、ということは、嘘をつかない、ということ。それ以前でも、以降でも、途中でもない」
「口数が増えればいいってもんじゃないんだけど・・・っていうか、そういうのは答えるのよね」
こうした問答は既に幾度も繰り返しているが、灰色の返事はまるで話にならないものだ。
灰色の言葉は確かに私の言葉への答弁になり切らず、噛み合わない会話が中途で絶えるばかりである。
私の方から答えるまで、こいつは私に何も答えてくれはしない。
それでいいのだ。
始めこそ腹を立てはしたが、慣れてしまえば、もう、そういう奴なのだろうという納得が植わる。
逆に言えば、私が答えさえすれば、答えは私に帰ってくる。
そう信じられる。
どうにも、ブギーマジックが確実に深まっている。
「私は、推測しない。推し量った、結果ではない。
予測、予想、予告ではない。
不確定な、虚言ではない。
表に、出すことで、不覚になる、無益ではない」
「ふうん。まあいいけど。ってこればっかりね」
「私は、知っている。相違わない、因縁が、ある。
予知、予感、予定だ。
書かれるのは、事実のみ。
裏切られても、曲がらない、真の、心の、現実」
「でも、答えてはいないね。日曜に拘る理由は?」
私には、この単なる情報の取引さえ、互いを知り合って成り立つ、合言葉の投げ合いに置き換えられて聴こえる。
ほんの数時間前に初めて遭遇した未知の生物に対してこんな風に思えるのは、こいつが小悪魔の残滓を引き摺っているという理由だけではあるまい。
私は重症なのだ。
この不気味な、信じる魔法の患者。
考えてみれば、未知との遭遇は今日だけのことではない。
月、火、水を飛ばして、木、金、土。今となってはあの風邪もただの菌では無いのではと思えるから、毎日か。
「そこに、それが、入ると、予知している、だけ。
私は、推測しない。
予め、知っている、のでなければ。
教えられる、より、他に、知るべく、筈も、ないだろう」
「予知ね。でも、全然答えになってない気がするわ」
「答える、のは、教える、のは、私では、ない。
私は、刻まれる、もの。
私は、書き込まれる、もの。
私は、知る、だけの、もの」
「ああなるほど。お前も本だったのね。まぁ知ってたけど」
少々の納得を覚えつつ私は軽く頷く。いや、納得を覚えた振りをして、頷く素振りを見せる。
こいつがというか、こいつもまた本から生まれた怪異であるというなら、私が今までこいつとしてきた会話を、いわゆる問答と捉えるのは、殆どの意味において間違っているということだ。
私はただこいつを、答えを、読んでいただけ。
灰色の妖怪が知り得ていること――その正体に書き連ねられたことを、字引き、読み進んでいるだけだ。
だから、知らないことは言わないのだし、言えない。
「答える、のは、君。パチュリー、ノーレッジ。さあ」
そんなことは判っている。
もう何度となく聴いているのだから。
答えないのは、答えないだけの理由がある。
「ニチヨウとは、何だ」
それを、こいつは予測しないのだという。
予測しないことの釈明を、理屈っぽくしてみせていた。
嘘ではないのだろう。だが真実でもない。
そんなことは、判っている。
私はとっくに、判っている。
こいつの正体を考えれば、それも無理ない。
何せこいつは。
生まれてまだ、一年足らずの新版で。
もう間も無く、その任期を終えるところなのだ。
先のことなど、見えるはずも無い。
何とはなしにそれが哀れに思えたことと、夜風と夜光が正に迫り来る目前の時間を知らせてきたこともあり。
「そうねぇ・・・まぁ、そろそろいいか」
その名も無き本に、答えを返すことにした。
「日曜はね、もうすぐ来るわよ」
「もうすぐ、とは? 来る?」
「そう、もうすぐ。具体的には」
問うてくる灰色に目を向けたまま、私はガウンのポケットから、仕舞っておいた懐中時計を取り出す。
先ほど、お茶を用意しに来た咲夜に頼んで貸してもらったものだ。
古びた感じで、いかにも懐中時計という風情に満ちている。あの咲夜の持ち物だから、これも稀少品なのに違いない。
「あと・・・ああ、一分もないわ」
文字盤の上ででカチカチと針が動いているのを見てそう答えた。
「一分、か」
「ええ。ほら、この通り」
言って、私を二点で凝視するそいつに見えるよう、時計を突きつける。
灰色は確かに点のような目を時計に定め、
「もうすぐ、来る、ニチヨウとは、何だ?」
物分りの悪いのにも程があることを言った。
私の答えを聞いているのかいないのか。
灰色は身じろぎもせず、盤上の針を目で追っている。
いい加減腹が立って仕様が無いが、ここでキレたらもっとしょうもないことになる。
私は灰色を強く睨み、半ば脅しつけるように、聞き分けの無い奴に教えてやる。
もう殆ど答えとしか思えないような事を。
「見れば判るわ。ほら・・・」
「この文字盤の、この針が。
二つ同時に、12を指す時。
私の魔法で、貴方に日曜を書き込む」
予定を、言い聞かせる。
私に。こいつに。小悪魔に。異変の真犯人に。
「それが土曜日の終わり、日曜日の始まり。
最後の一週間の終わりにして、古き一年の終わり。
沈み込んだ太陽が帰ってきて、新しい幻想郷が始まろうとしている。
それを妨げてきた貴方の我儘も、日曜を知ることで終わりを迎える」
灰色が、びくりと震えた。
私が言い連ねたことの意味をやっと理解したのか。
長いだけの髪が滑り、のっぺらぼうの顔が顕になる。
依然として、顔色からは一切の感情が読み取れない。
けれど、そいつの震える体、一心に見つめてくる二つの点が伝えてくるのは、恐怖以外の何物でもなかった。
恐れている。
それはつまり、これからその身に起こることを、予測しているということだ。
いや。こいつの言葉を使うなら、それは予知であり、予感であり――予定なのだろう。
そうなることは判っている。
ただ、こいつは。
そうなることが、厭だったのだ。
だから、ちょっとした悪戯を仕掛けた。
こいつは、年の締めくくりに彼女と出会い、悪戯というものを教わった。
神の使徒が悪魔と出会い、真っ白な予定表が朱に交わって。
紅くなったのだ。
結果――日曜はこの世から消えてなくなった。
紙面の紅に覆われて、赤字の曜日は目立たなくなった。
それで全部。
後のことは全てがおまけで、こいつは実際、何もしていないのと同じ。
ただ一度、不気味な魔法を使って、今の姿に変わってしまっただけで。
犯人探しをするのなら、槍玉に挙げるのに相応しい奴はごまんといる。
だが私の中の魔女は遠慮容赦しない。
それらおまけがこいつによって引き起こされた事実は揺らがないのだ。
魔女が魔法を使うのに理由なんて要らない。
でもそれは魔法使いの特権なのだ。
不気味な魔法が乱立しては、不気味が不気味でなくなる。
魔女が魔女でなくなる。神秘が神秘でなくなる。
それは魔女狩りの再来の再来だ。外の世界から魔法使いが放逐された原因。
そんな無法は許されない。
世間知らずの若造には、百年早い。
生まれて一年足らずの小さな子供であっても、いや、赤子の起こす癇癪だからこそ、この場は一層、張り切って教えつけてやらねばならないだろう。
魔法使いでも無いのに、滅多矢鱈に魔法を使うな、と。
「喜びなさい。まずは《貴方の任期を延ばして》あげる」
一瞬の思考から意識を外に切り替え、もう一度灰色を睨みつけて、語調をはっきりと強めて。
月曜と同じ、火曜と同じ、水曜と同じ、木曜と同じ、金曜と同じ、土曜と同じように。
高らかに、言い放つ。
【日曜よ】
がぁん、と。
空鳴りした音を聴いて、私は手首を回し、咲夜の懐中時計を見た。
寄り添うように揃っていた針のうち、一足早く次の時を踏み出しかけた盤上の秒針が、その途中で小刻みに震えている。
一秒先に辿り着けない。翻って元の時間にも戻れない。
かといって、完全に止まってもいないようだった。
私にはそれが、あることの前触れであると判っている。
『辺りを見回し、取り乱しながら憑拠を手探って、八つ当たり気味に寄る辺を追い求め、結局気付いた根底に耐えられず喘ぎ、もがき苦しむ様』という奴で、ものが壊れる一歩手前の状態である。
この場合、ものとは懐中時計ではない。
くどいようだが、私には判っている。
既に開始した私の魔法が、未だにその効果を現していないのにも気付いている。
色相が七つに分断されないのと、秒針が何時までたっても零時零分一秒を指しに行かないのは、同じ現象の別側面なのだ。
ここに至って勿体つける必要も無いだろう。
壊れそうになっているのは、《時間》だ。
《世界》だと言い換えてもいい。
私を取り巻き存在しているものの大元が、ばらばらに千切れ、崩れ去ろうとしている。
この世が傾いでいる。ただそれだけのことだった。
そのまま見れば、まぁどちらかといえば大事だと言えないことも無いように思えるが、私にしてみれば予想済みの展開であり、先刻からずっと思い続けている通り私はこのときを待っていたのだ。
この世が壊れるのを待っていた、という言い方からは厭世的で悲観的な視点ばかりが思い当たるけれど、生憎とそこまで隠者然とした性格でも無い。
簡単な話である。壊れるなら直せばいいだけだ。
私は書を読むかたわらで書を著してもいる。その中で、時たまながら、草臥れて極めて読みづらくなった古書を新たに書き写すようなこともする。
レミィが言ったとおり、確かに、この異変を解決するのは私の仕事だ。
今から私がするのは、結局のところその作業と殆ど同じことなのだから。
視界の端っこで、灰色の犯人が、どうやら両腕らしい細い線を私に向けて伸ばしながら近づこうとする様が見えた。
気付いていても、あえてそちらに視線を向け直したり、何のつもりと問い質すこともしない。
私は既に日曜の魔法を開始しているのだ。
次の一言は魔法の為にあり、灰色を制すためには無い。
時間が、世が壊れようとしている今、そいつの動きもまた、秒針と同じく不自然に行きつ戻りつしている。
が、その行動の意図は曖昧ながら汲めた。
犯人であるこいつには、私のやっていること、というより咲夜にやらせたことが何だったのかが判るのだろう。
それを邪魔しようと、阻害しようとしている・・・あるいは、促進し、先行させようとしている。
いずれにせよ、この状況に対する積極性を持っているということだ。
その積極性が、事態を有耶無耶にしてしまおうという後退の意思か、異変の始末をつけようという前進の意思か、そのどちらでもないのかまでは判らないが、動いたというだけで十分だった。
秒針を揺らいだままにしておいたのは、この意思を確認するため。
確認が取れた以上、状況を保留する必要はない。どちらだったのかは、後で直接訊ねればいいだろう。
今は異変の終焉が先決される。
私は指を折り曲げ、懐中時計の側面に出っ張っている調節用のつまみを挟み、軽く力を入れた。
かき、という心地よい音が微かにして、つまみが持ち上がる。
すると、懐中時計の仕組みの通り、秒針の震えが止まり、同時に灰色の動きも止まった。
時間が止まった。
これは咲夜の力のような論理を欠いた無秩序な、それが故に完璧である能力とは異なり、日曜の魔法の一作用たる時流制御に過ぎないが、表現、表出する現象としては同じものになる。タネがある分、小手先の芸としては相応しい。
時間が壊れていても、止まっていても、日を操る日曜の魔法を行使している今の私には関係無い。
私は次の動作に移る前、余裕があるうちに深呼吸をする。
これからやろうとしていることは、正直なところ、面倒以上にしんどいと言える。
頼まれごとでなかったら進んでしようなどとは思わない。というか、頼まれても普通は断るだろう。
それが何だか・・・やってやろうという気分になっている。
不気味な、魔法のせいで。
よくもまぁ私を引きずり出したな、というところである。
全く。
なかなか上手く行かないものだと。
悪態交じりに思いながら、掴んだままのつまみを、指を滑らせてぐるりと回した。
一週間は、これでおしまい。
** ** **
**** ** * *** ** ***** **
* *** * ** ** ***** ** **
「私も見ていたんだよ」
「ぱらぱらと風に捲られるページの音と、かちかちと時刻む針の音が、同期して聞こえている」
「闇の中、純白のクロスがかかった円卓に、少女が二人、差し向かって座っていた」
「パチュリー、貴方はそれを見ている」
「これはなんだろうと疑念を抱くことの無意味を識っているようだった」
「少女らの容姿は不定で、見知った者であったりそうでなかったり、ときおり生命の有無さえ明滅している様子が判った」
「空間の上下左右、時間の流出遡行、それら気紛れなコンセプトが一切の沈黙を保っていても、気にならない」
「無色の少女たちが言葉を交わす様を、黙って聞いている」
「聞かされている」
「私も」
「君も」
「虚偽と真実の狭間」
「接地面そのものが一つの界」
「境界線の閉鎖空間」
「二次元と三次元の境界」
「そこで、貴方は少女らを意識しているしかなかった」
「まるで、不気味に思うことを、封じられているようだったが」
「決して、不思議に思うことは無かった」
「そこに」
【召しませ紅茶 美味しく苦く】
「遠くから、声が届く。――メイドがどこかで、ぽつりと呟く声」
「パチュリー、貴方は既に抱いていた確信がそこで更に強まるのを感じて」
「万に一つが億に一つも無くなったと思い」
「すっかり安心しながら」
「直後自分のすべき事を思い返し」
「託された面倒ごとがほぼ解決できたことに密かながら喜んだ」
【熱くて気怠い 居残りパーティ】
「――メイドが指先で、カードを弾く音」
「テーブルの二人が、それに気付いて顔を上げる」
「声が聞こえていることに驚いている様子」
「出来るはずが無いという驚愕と」
「遂にやってくれたという驚嘆が混ざっていたのは」
「そのとき、灰色をしていた方の少女だった」
【嘘でも楽しい サービス残業】
「――メイドが時計を、カチリと押す音」
「テーブルの二人は、この状態が終わる可能性に気付いたらしく」
「片方はどこか嬉しそうに、もう片方はやや不満げに」
「つまりはそのとき、紅色をしていた方の少女が」
「何だもう終わりか、と残念そうで」
「それでいてやっぱり、閉じた瞼に安心を宿らせる」
【うんざりするほど 静かな時間】
「それを見て、私は思っていた」
「こうなってくれたことに感謝している」
「パチュリー、貴方や、紅い名無しの小さな悪魔さん」
「私の創った今年の彼女」
「そして、ここまでの全てを見ていてくれた誰かに」
「私は深く、頭を垂れた。そして」
「――メイドが爪先で、カードを廻す音。そして一言、ぼやく声」
【もう少しだけ 止まったままで】
「全く、残業よねぇ、と」
「メイドにしては珍しく、気分を隠しもしない楽しげな声で伝える」
「それは」
「彼女が扉をノックするしめやかな音」
「それが」
「この年が終わりを迎えるための鍵だった」
【 ― ナイトメモリー・オーヴァフロウ ― 】
**** *** ******* ** **
*** **** * **** ****
** ? 土曜~日曜 ?
テーブルを挟んで差し向かう二人の少女の幻視と、そこに響くいくつかの幻聴が同時に去ると、私の視界に懐中時計の盤面が戻ってきた。
幻視については私の異変に対するイメージが別の形をとって現れたものに過ぎず夢作業の一つと何ら変わらないものと断じる事が出来たが、咲夜が唄うように連ねていた時間を操るためのスペルと思われる言葉の流れの裏で聴こえた、一方的に語りかけるモノローグのような声が何であったのかについて、私は答えを浮かべようと思わなかった。
重ね重ね不気味なことに何の根拠も無く、それは後で判ることだと感じていた私は、その答えを訴追するよりも、手中の時計、そしてそれ以外の全てで起きている異変に注目し、思考の矛先を手早くそちらへ向けた。
三つの針はてんでんばらばらの速度で盤上を回り、私の視界も、好き放題に適当な角度で回転を始めていた。
意識ははっきりとしたまま脳震盪を起こしている。
私の目がおかしくなったわけでも、半規管がおかしくなったわけでもない。
世の中がおかしくなっただけだ。
筆舌に尽くし難い光景だった。
もうそこは、図書館の中などではない。
ではどこか。一体何なのかと問われたところで困る。
ぐちゃぐちゃだ。言い表せることなど何も無い。
世の色はくっきりと反転したりなどせずごちゃごちゃと徒に混ざり合い、
ごりごりと闇雲に擦れ引き千切れ、全てをない交ぜにして、神経を逆撫でに、撫で斬りにする。
真っ直ぐな曲線も、弧を描いた直線も死に絶える。自分が自分であることを否定される。
惨憺たるもので、暗澹としている。
それ以上、世界に属する存在である私には表現できない。
これがあの灰色の“悪戯”の結果なのだ。
日曜を消すことで――自分の最後の日の翌日を消すことで、一週間を終わらなくする。
今年の暦というリストから繋がる、来年の暦の初日の在り処を、未定義領域とすることで。
まだ終わりたくないから、来年を始まらせず、今年を続けさせる。
だからこれはこの世の終わりではあるのだが、終わりの風景そのものではなく、終わりを避けようとする続き方のうちの、よろしくない典型。
気持ち悪くも表現しようとした書物はあったが、引用しようという気にもならない。
何らの意味も成さない文字たちの羅列乱立並走氾濫。
読むことを好む私ですら、気持ち悪いばかりで何の喜びも見出せない。
もう一度終わる前に戻ろうとしている、醜悪な、極めて健全でない状態。
予定外のタイミングで終わることになった世が修復を望む。
すると、年を七日で区切るカレンダーが真っ先にリカバリ情報を渡す。
日の禍福を、解体し歪めることで月の下腹へと変じ、やり直そうという無体だ。
滅茶苦茶と言うより他には無い。
世がばらばらになってまた元に戻ろうとする力は当然私にも働き、四肢が砕け、粉々になろうとしている。
まぁ、危険な状態だと言えるだろう。
意識して、誰への解説かもわからない独白の渦を弱めた。
いくら動かない大図書館などと呼ばれたところで、こうなってまで動かないのはただの能天気だ。
あまりに節操なく動く魔法使いがいるからそう誇張されるだけで、魔女なんてものは皆こんなものなのだ。殊更私だけが変人のように扱われるのは少なからず迷惑である。
このままでは光が消えるか、私の頭ごと目が無くなるなどしてしまうかもしれない。
光が無いか受け取れなくなれば、私は色を感じることがなくなる。
そうなっては、魔法が使えない。
魔法の使えない魔女に出来ることは無い。
それでは友人との契約違反ということになってしまう。
それはあんまりに不義理というものだ。
私は回想を焼き増して、今唱えるべき言葉、灰色に書き付けてやるべき言葉を見つけた。
さあ。
そろそろ戻ってきてもいいだろう。
いつまで経っても来ない明日よ。
もうずっと続く怠慢の星よ。
【 日曜よ 】
狂った摂理の上げる阿鼻叫喚を遮り、その名を呼んだ。
がぁん、と、もう一度、銅鑼を叩いたような音が、歪みの中を掻い潜って、隅々まで響き渡る。
混沌で氾濫する埒外の異界を、私の魔法が駆け抜けていく。
がががががががががががががががががががぁんと、全ての異変に当り散らしていく。
その音が通っていった後には、黒で仕切られた七色、ステンドグラスの世界が残った。
私の魔法、七曜を操る程度の能力。
本当は、こんな魔法ではないのだけれど。
それもまた、不気味な魔法の影響。
ここにおいての、パチュリー・ノーレッジの魔法。
今このとき、この場所では、こうした形で発現される。
今とは、今だ。
一月一日零時零分数秒ではない。
十二月三十一日二十四時零分数秒。
十六夜咲夜の力が作る、二十五時間目(オーヴァドライブ)。
来年初日、元旦を前借した、今年の超過分(サドンデス)。
十六夜咲夜の“世界”。
彼女が作り出し、彼女が引き伸ばした、本来存在し得ない瞬間、その連続。
存在しないものを生み出す。存在しない世界を生み出す。存在しない時空を生み出す。
全ての観客は、己の時間を彼女に盗まれ、彼女の世界を見ている。
この度の手品は、私の要請を受けてやったことだ。
私は予定通り、この超過分を利用し、既にこの一年から死に絶えた日曜を、再び東の空に指し示す。
今年を過剰労働させ、今年のうちに事件を解決する為に、利用する。
未だ現れざる、界外で出番を待つその輝きを、元なる旦より世を遮る地平線を消し去ることで呼び覚ます。
その瞬間において未定義である全ての存在が、取り繕われた界面を取り払われ、揺らぎそのものとなって露呈する。
七つの色に、固着する。
【恒にして真なる玉 仰天の輝ける煉獄よ
普くを涸らし 尚溢れゆく乱れ髪の ほうぼう 鋒う鋩うとて聞こし召す】
玉止めされた一点にまで巻き戻って蘇ろうとする世界の乱痴気騒ぎの中、半ばがなり立てるように唱える。
一節が加わったことで、言葉の伝導率、目覚ましの音量が高まる。
そう。
この世はまだ終わりを迎えたわけではない。
その時間は、咲夜によって順延されている。
日付が変わったと勘違いした世が、終わりの恐怖に身悶えしてがたがたと震えているだけだ。
次に来る崩壊を、自分の中で予行演習しているだけだ。
鳴り終わったはずの銅鑼の音はエコーし続け、なおも世界の狂騒に波紋を打っている。
だからこの魔法は、目覚ましとしての役割も持っている。
目を覚ませ。まだお前は終わりではない。
それどころか実際のところ、まだまだ全然、お前は終わりなんかには辿り着かないのだ。早く気づけ。
そしてとっとと、元の姿を取り戻せ。
その味気ない色はお前本来のものではない。
私はそう教えてやっているのだ。
日曜を失った世界は、即ち日を失い、光を失った世界だ。
影すらない、無色の世界。
私は今そこに、日曜を書き込んでいる。
年がら年中日曜のような人物の召喚を持って、最もわかりやすい形で理解させようとしている。
そもそもそいつがいなくなったからこんな事になっているのだから、一石二鳥でもある。
少し気を抜いて思いに耽っていると、すぐさま辺りは元の混沌を取り戻そうと蠢き始める。
極大まで突っ張っていた糸が、端で千切られ、反動から一挙に収縮し一個の点へ戻っていく。
伝導は一瞬で終端に辿りつき、新たな撓みを呼んで、別の波へと姿を変えていく。
【始まりに色を生み 終わりに色を食み
己を区切りとし 己さえ区切り 七達を束ね照らす
東より来たりて 西へと沈みゆく 生活と死滅の代表者】
反響が反響に重なり、狂乱する世界を少しずつ支配しだす。
世界が膨張し、偏重し、盗聴し、変調し、成長し、挙句再生するのを、押し留める。
私にも、段々そのおかしな具合が読み取れるようになってきた。
(がぁ1ミリが一光年に、また逆に伸縮する欠伸。
時空ぁぁの連続性が会議を開き、肯定に白旗を上げようとする。
私のことぁぁを誰だという君に会う日が今年。
全ての空想がぁぁ空に帰ろうとしている。
現実の野望が地にぁぁ落ちようとしている。
千の余地に巻き込まれぁぁ永の課程のピリオドとなる。
綺麗なものが醜く笑うことぁぁはいいよ。
新しいことを覚えたときに悲しぁぁくなりたいものだ。
胡椒漬けになっても勿論いいのだろぁん)
意味不明である事には違いないが、読んで怖気を覚えるほどではない。
だが、これではまだ、あいつには届いていないだろう。
既に曜日として迎えているというのに、呼び寄せるのにまだ数節を要する。
気の早い軍神などとは違い、あれは兎に角無精者なのだ。
自分からは殆ど動こうとしないし、動くとしても最小限だ。
その最小限でも、動けばまわりはてんやわんやになるのだから、正に中心というところなのだが。
単に規則正しいだけといえばそうかもしれないが、それさえもこの郷では異端と言えるのだから。
あいつが、世界をはみ出たこと。
今週の異変。
それは、私の身の周りで連続する事件なんていう茶飯事ではなく、それら全ての発端。
正しくの、ブギーマジック。
《博麗霊夢が幻想郷から消えた》事。
あの灰色が、この壊れようとしている世界が、その犯人。
幻想郷の外の暦、西暦200X年のカレンダー。
何も起こらず平和だった、去年までと比べて目立たない、地味で面白みの薄い年の、予定表。
つまらない奴で終わるのを嫌がった、我儘な紙束。
職務の囲いから外れ、上役に歯向かうということ。しもべが神を打ち倒すということ。
本来、そんなことは誰にでも出来ることだというのに。
空気を吸って吐くように難しいことではなく、空気のようにあることなんて。
【奔流する具体 動かず回す期待
不気味なほど不気味 真っ当にして不真面目
けれど必定されど実情 浮沈一つの揺らぎもせず】
更に一節を足すと、世界の七極化が少しずつ安定しているのが見て取れるほどになった。
もう、殆ど純粋なステンドグラスワールドである。
その光景に安心を覚えると同時に、夜間、回想しつつ思いを巡らせていたことに思索を引き戻す。
どこにいるのか判らない博麗霊夢を呼ぶには、何が必要か。
今唱えているこの日曜の魔法は土曜の魔法よりも上位に位置する。
更に、日を扱うという時点で対象を呼びつけるのに七曜中最も相応しいものだ。
魔法としては、これだけでもかなりの成功率を確約している筈である。
が、相手が霊夢と考えると、どんな理由でのらくらとかわされたものか判らない。
そもそも霊夢には、弾幕(そう、この言葉も今日思い出したものだ)という形での魔法が通用した試が無かった。
どうすれば、この魔法を確実に成功させることが出来るのか?
私は霊夢について、思い付くだけ考えることを試行した。
しかし、実際にはそれほど考えることは無かった。
元々あまり接点が無い、ということもあったが、答えがあまりにも簡潔に過ぎたからというのが正確なところだった。
私は、昔見つけた、とある無題の書を思い出したのだ。
その意味を倍化させるために、ここでまた引用する。
『空気は見えない。見えないゆえ夢。
夢ならば幻想で。幻想は現実から。
現実でも生きる。生きてれば死ぬ。
死ねば皆空気に。空気は見えない。
神の手により生まれた獣にして神の手により弱体進化したばけもの。
いずれ器となるべきだった神のよりしろ。
矛盾だらけの幻想は人間と呼ばれ。
抱えた問題の多さと重さの為に他の全てから疎まれた。
その構成要素は三つ。
体、精、そして神。
それぞれがそれぞれを縛り戒め理る。
三者は死ぬまで三点の綱引きを続ける。
三名は死ぬと引く方向へ解き放たれる。
このうち、体はものとして世に散ばり、精は記録として世に残る。
では神は。
人に宿っていた、八百万のうちの一体は、どこへ行くのか。
かつては星達がそうなのだと信じられた。
ある時彼らはただのものであることが判った。
その日から長らく、我らを悩ませ続けた命題。
それを、我々は遂に解き明かしたのだ。
次の頁よりその回答が始まる。
神達はここにある。この、無限の広がりの中に。
刮目せよ。
そして願わくば、貴方が本というものを大切にする人でありますように』
最後の行の後に待っていたのは八百ページに渡る白紙である。
手書きされた論文に落丁などあろう筈も無い。
長らくというならそれこそ長らく、私はこれを単なる手抜きの結晶と思い込んでいた。
文末からすれば皆が同じに思うところだが、そうではなかった。
そのページから先は――この図書館の巷説珍説難問奇問の書棚に並んでいた。
即ち――空白の八百ページは幻想になっていたのだ。
内容は幻想郷の存在概念とその成り立ち及び仕組みなどについて。
それ自体は何の変哲も無い、ここに数ヶ月暮らせば人間だって判ること。
このことから知るべきは、二つ。
まずは楽園への道が、誰に対しても、いつであっても、開かれているという事実。
私が空も飛ばずに来ることが出来たのも裏づけとして見れる。
もう一つが本題だ。
楽園はその参加者を婉曲的ながら積極的に募っているという事実。
その本が外の世界にあってならぬものなら、本ごと幻想になるべきはずだろう。
それ以外の数多の奇書がそうであるように。
そうならないのは、その本がそうなっていることが楽園の存在を示唆することに繋がっているからなのだ。
八百のページが白紙になっている。八百の神が、白の紙になっている。
内容全てと空白とが等号で結べる。八一が抜け、白だけになっている。
ものがものである為の最後の属性。九十九神が、白き神が残っている。
八百万が過ぎ去るも、白だけは、九十九だけは居残るその理由とは何か。
つまり、空白が健在であるのには何らかの意味があるのだという暗喩。
つまり、空白は幻想郷を象徴したある種のアイドルという解釈の発展。
空。白。
空白。
それが何であるのか、またしても長らくの間判らなかった。
【寄り来るを燃し 離れ去るを燃し
其を周る並べてを巻き込み やがては諸共に塵々と逝く
横ばいになるまでを見られ 忘らるると共に粉々に消ゆ】
幻想郷に住むようになっても、外出しない癖は変わらなかったから、もっと早くに外を出歩いていたらという仮定は難しい。
もしもというなら、あの紅い霧の異変、我が友の気紛れが無かったら、だろう。
あれが無かったら、私は答えに気付くことは無かっただろう。
その論文が何故幻の図書館に安置されてしまうことになったかは、題を読めば自然と知れたはずだったのだ。
『博麗神社 -幻想とその循環機構-』。
博く麗なる神さまの社、ひろくうららなるかみさまのいえ。
例えばそれは、何をしても何でもない、誰に臆することも誰に跪くこともない、何を従えることも何を操ることもない。
そういう彼女の立ち居振る舞いを、空白の少女と表現してのこと。
幻想の中心にして幻想の蔓延。万年の幻想にして晩年の幻想。
在れば居て得るを選れば居る。あればいてうるをえればおる。
どこにでもいるような、どこにもいないような普通の少女。
博く麗なる霊どもの夢、ひろくうららなるこどものこころ。
紅白の巫女のことを、空白の巫女のことを言っているのだと、つい最近判ったのだ。
その節は随分と痛い目には合わされたし、図書館も二人の暴力で慌しいことになったが、疑問が氷解したときの気分は暫く無いほどの清清しさを与えてくれたものである。
彼女の凄まじき暴力の歴史は否応なくその存在感を際立たせる。
霊を払う程度の能力、魔を蹴る程度の能力、夢を打つ程度の能力、幻を克つ程度の能力、怪を解く程度の能力、
紅を殴る程度の能力、妖を叩く程度の能力、想を踏む程度の能力、夜を歩く程度の能力、花を掃く程度の能力、
香を吹く程度の能力、文を見ぬ程度の能力、精を待つ程度の能力、紫を起す程度の能力、求を退く程度の能力、
空を飛ぶ程度の能力。
自分はいてもいなくてもいいものだと思っているのならいざ知らず、そんなよしなしごとで思い悩む多感で陰鬱な普通人ではなく、日々をなんでもないように思いながらなんとなく生きる普通である。
妖どもが退屈して歳暮に暴れまわった原因とされても不思議ではないくらいに。
不思議を不思議と思えないくらいに。
長くなったが、要するに、魔法では駄目なのだ。
式では駄目なのだ。命令では駄目なのだ。
他の仕組みでは、霊夢に通用しない。
どんな力を以ってしても、あれをその下に下すことはできない。
誰にも、彼女は倒せない。
ならば。
一つの方向性が、完全に無駄なのだと思い知ることが出来れば、別の方向性に道が開く。
魔女としては癪な話だが、今ここでそんな文句を言っても事態は改善しない。
上から言おうというのが間違いだった。
相手はお日様なのだから、見下ろすのではなく、見上げなければならなかったのだ。
倒すことが出来ないなら、倒れてもらうまでのこと。
来いと言って来ないなら、来てくれるようお願いする。
かしこみ申せば、巫女は動いてくれる。
困ったときの、神頼み。
【目を覚ませ 幻想】
日。海より来るもの。
後先の二つを内包する語彙。
七の最初にして何もせざる休息。
全てを照らし全てに見られ全てを通す。
そこに居るなら全てを見、聞き、知れ。そこに居つづけるなら何物をも得ず。
私は空白を無駄なものと想い、読み飛ばす。
だが、読み飛ばしてもいいと思える部分があることは、決して無価値ではない。
字だけで埋まった本はただの黒い紙束なのだ。
飛ばされるものは、飛ばされる為に。空を飛ぶものは、空を飛ぶ為に。
普通がいなくなっては、基準が無くなってしまっては、何もかもが不気味になるだけだ。
不気味だらけになっては魔女など立つ瀬も無い。
人から頼まれて言うのではない。
切なる私の願いである。
そんな属性の類似を以って、この魔法を、ただ声を届ける、日差す窓を作るためだけに使う。
さっさと戻ってきて、外の異変を一山いくらで解決するなり、我が友や霧雨魔理沙を安心させるなりして欲しい。
これはそもそも、あんたの仕事なのだから。
七極世界のステンドグラスを用意して、そこに日を通してくれるよう、お願いする。
本日は、最早日曜!
空が、地が、海が、地平線が。
そして自分があることを思い知らせる、最も尊き、一つ星――
【 ― ゴールデン ドーン ― 】
<ブギーマジックオーケストラ・終 了>
お待ちしてました。また、お待ちしています。
言葉もない。ないと言うのに何を連ねようというのか。
パチュリーを初めとする幻想の存在たちをここまで書き尽くしてくれた事に対する賞賛か、幻惑される文字列の並びに対する嫉妬か、それとも全ての世界が繋がっているという再確認に対する驚愕か。
いやいや、ここはやっぱり『ありがとう』でしょう。
本当に読んでる間ずっと幸せでした。これからもこの幸せな時間を分けてくれる事を切に願います。
日曜日はいつになったら来るんだろうかと、ずっと心待ちにしておりました。
ただ最近では”もう書いてくれないかもしれないなぁ”と諦めてもいたんです。
いやもうとにかく嬉しい。
素晴らしい作品を有難うございます。
お久しぶりです。今年も年末は師の文章で始まると思っていたのですが、大どんでん返しの大返し、嬉しい季節外れのお年玉となりました。
点数は、私の最高目標である木曜に衝撃が及ばなかったので申し訳ないながら(前回もこういいましたね:汗)90点です。嵐の前の静けさ、恐らく次回であろう最終回で100点を付けることになります。これは予定ではありません、確定です。
しかし、「あの星には会いたい人がいるのさ。」があの点数で当作品がこの点数というのは些か承伏しかねる所です。皆様、もっとshinsokku師を崇め称えたもうてくだされ。師は東方創思話の財産です。
しかし、こうなると改変前のプロットも拝見したいですね。うん、あいつは立派だった。
メールを送れば、偉大なる改変前のプロットについてお聞かせ願えますか?
今迄煙に巻かれているような不可思議を味わい続けてきましたが、ここに来てようやく迷妄が晴れた気がします。意味不明だったことが意味を成していく過程は、トリックもロジックもレトリックも一流だからこそ生まれることが出来たのではないでしょうか。
また、お待ちしております。
ディスプレイの前で頭捻ってます。
凄いを通り越して不思議というのが正直な感想です。
パチュリーを通して綴られる物語に埋没させていただきました。
あー……読後の疲労が心地よいです。ありがとうございました。