※この作品は『作品集16「幻視の夜、二つの杯」』の対となる作品です。
※単独でも楽しめますが、先にそっちを読んでいると、二割八分五厘程度面白みが増すかもしれません。
文々。新聞(第百二十期 如月の一)紙面より
【真冬の月、大爆発】
○月○日、夜空に浮かぶ満月が音もなく大爆発していた事が判った。大きな事件だが、夜遅くだったので意外と気が付いていない人が多い。
満月は静かに拡散し、月の光を蓄えたまま無数の欠片が地上に降り注いだ。しばらくして欠片は霧のように細かくなり、再び集まって元通りの満月となった。それほど長い時間ではなかった上に、真夜中で音もなかった為、その非現実的で幻想的な光景を見ることが出来た人は幸運である。(引用終わり)
―――――――――――――。
――――耳鳴りが、治まらない。
かれこれ一週間も止まない耳鳴りに悩まされている。
耳鳴りのせいで頭痛がする――ということは無い。
不思議なことに、耳鳴りがすることでストレスを感じていないのだ。
日々の暮らしで不便や不都合を感じず、おかげでこの症状をどう対処すればいいのかわからない。
積極的になれず、今一つ決めかねている。
自己診断も、これといった原因は見つからず消去法で、ごく普通の心因性、という結論に至った。
だが、これも心当たりが――――
―――――――――――――。
うるさいほどの耳鳴り。思考が途切れた。
耳が痛い、という幻覚。
ああ、日常に支障が無いというのは嘘かもしれない。
しかし、耳鳴りが気になるのは何もせず物思いに耽っている時だけで、何か仕事をしているときは逆によく集中出来るぐらいなのだ。
睡眠障害になりそうなものだが、就寝時に耳鳴りのうるささを堪えたり、眠れなくて辛いと思う間もなく、ぐっすりと寝てしまう。
翌朝目が覚めて耳鳴りが治まっていないことを(うんざりと、ではなく)確認するが、身体の調子は良い。
師匠からも、最近のウドンゲは動きが良い、と褒められるほどで、これには耳を傾げざるを得ない。
そしてそれはつまり、私の異常は周囲の誰も気づいていないということなのだ。
―――――――――――――。
耳鳴りは治まらない。
どうすればいいのかわからない。
師匠やてゐに相談するのも何故か気が引ける。
「…………」
幻想郷で唯一の月の兎である私、鈴仙・優曇華院・イナバ――レイセンは独り、漠然とした何かを抱えつつ、止まない耳鳴りを聴き続けている。
事の起こりは、節分のことだった。
紅魔館の魔女が節分に於ける追儺の儀を、天狗の新聞に載せて幻想郷に示したのが一昨年の春の終わり。
それに便乗する形で魔法使いが幻想郷中に『一大節分イベント』を広めて回った。
かの魔法使いはこの手の祭りが好きであり、誰もが予想しうることであり、そして完全に彼女自身の意思であった。
言わずもがな、節分の追儺の儀式は豆撒きであり、魔法使い同様に祭り好きではあるものの、同じく一昨年の春に姿を現した鬼が、この行事を好むはずが無かったのだ。
しかし祭り好きなのはこの二者だけではない。むしろ幻想郷の住人は祭り好きばかりである。
一年目は散発的に行われ、二年目は一年目に行われた所からも伝播してすっかり幻想郷中に浸透したのだった。
かくして節分では至る所で「鬼は外」の大号令が聞かれることになった。神社の巫女はそこはかとなく「福は内」を強めに言っていた。
当の鬼はこの節分イベントの折、あちらこちらに出向いて的役を務め、それなりに賑やかさを楽しんだようだが、内心はやはり気に食わなかった。
そして先の満月の折、ちょっと脅かしてみただけ、と軽い気持ちで、その想像を絶する鬼の力を以って、天蓋を割り――月を砕いた。
その光景を、月見の宴を偶然行っていた永遠亭の面々は目にすることになったのだった。
その時、声が上がったようにも、静寂が支配したようにも思える。
よく覚えていなかった。
私は、ただ、月が砕けた光景に眼を奪われ、呆然と立ち尽くしていた。
永遠亭で宴会が行われていたのは本当に偶然で、強いてあげるなら、つい先日にあった節分の大騒ぎの余韻を締める意味があったかもしれない。
姫は満月の夜には何かしら催すことが多いけれど、何もしないことも少なくない。永遠を生きている故に、特別意識がずれているのだ。
――思い返してみて、あの光景は見るべきではなかった、と思う。
仮にも私は月の兎である。
故郷が砕かれて、良い思いをするはずがない。
あの後、すぐに欠片が
それぐらい、鬼の気まぐれが起こした事件は私にとって衝撃的だったのだ。
―――――――――――――。
こんな経緯があれば、この耳鳴りが心因性であり、その事が原因になり得るだろう。
問題は、なぜここまで長引いているのか、ということ。
砕月の事件は天狗の新聞で事のあらましがわかって、実際に月が砕けたわけではない、と判明して安堵したし、それ以後、気にしているという自覚に乏しい。
もう自分では割り切ってしまって、後を引いているように感じないのだから、よくわからない。
―――――――――――――。
とある日、姫と師匠が揃って出かけた。
様子のおかしさの周期から察するに、おそらくまた蓬莱人のところに行ったのだろう。
師匠からは永遠亭のことを任されたが、実際には休みを貰ったに等しい。館の管理はてゐのほうが上手い。
一刻ほどで常務を終え、自室に戻った。
姫も師匠も居らず、いつも静かな館をさらなる静寂が包んでいる。
することがなくなり、さらに館の静寂が輪をかけて、耳鳴りが酷くなる。
静か過ぎて――――うるさ過ぎる。
――――居ても立っても居られなくなって、私は館を後にした。
―――――――――――――。
神社や人里、湖や森に上空と、撫でるように飛んでいく。
こんな時に限って、誰にも逢わない。
わざと直接会いに行こうとしていないけれど、逆に珍しい気がする。
……幻想郷にも慣れたものだ。
いつごろから居始めたのか、よく覚えてないけれど。
永遠亭が少しずつ開かれ始めて一年半。
月の兎は妖怪の一員として、幻想郷に馴染んでいる。
―――――――――――――。
誰にも遭わないため、本当に珍しく、無縁塚まで来てしまった。
去年の春、少し出歩けば誰かと弾幕りあう羽目になったのを思い出して、余計不思議に思う。
死神の姿は見えない。まあ、仕事をしているのだろう。いいことだ。
あの時咲き乱れていた彼岸花は、旬ではないため咲いていない。
嗚呼、ここも、酷く静かだ。
静か過ぎて――――苛々する。
……静かだと耳鳴りがうるさいから、苛々するのだ。
はあ、と溜め息を吐く。
気づかなかっただけで、結構参っているのかもしれない。
師匠の胡蝶夢丸を飲むのも、絶対に何かされると思って躊躇していたが、そろそろ真剣に考えなければならないか。
平気だ平気だ、と思っていてもそれは妖怪の身体が頑丈だからで、やはり精神の病はじわじわと蝕むものなのだろう。師匠の受け売りだけれど。
もう一度、溜め息。
なんでこんなところにまで来てしまったんだろう。
「それは、貴方の罪の意識がさせたことです」
――此処に至って、一番会いたくなかった人に、声をかけられた。
幻想郷の閻魔様。罪を裁く者。四季 映姫・ヤマザナドゥ。
一瞬、彼女の声で耳鳴りが消え、すぐに戻った。
「……どういう、意味でしょうか?」
声のしたほうを向く。十メートルほどの間を挟み、対峙した。
「貴方は波長を扱う。在る物を無いように見せ、理解していることをわからないようにする」
射抜くように、私の眼を覗き込む彼女の瞳。
とてもじゃないが、催眠幻視をかける余裕は持てない。
「以前貴方を裁いた後、確認しましたが……。貴方は私の教えを理解していなかった。だから私は罪の念を持ち続けるしかなさそうだと思いました」
彼女が眼を伏せる。鋭い視線が外され、安堵した。
「だって、あの教えは抽象的過ぎて……」
「――が、それは私の勘違いでした」
再び、裁く者の眼が、私をとらえる。
「貴方はわかっていた。わかっていて、それから眼を逸らした」
「……何を、言ってるんですか」
「自分自身すら騙せば、それは嘘ではなくなるから。とんでもない詐欺師ね」
酷いことを言われた気がする。
詐欺師はてゐの代名詞だ。私じゃない。
私の戸惑いを余所に、彼女は続ける。
「とはいえ、無意識では気づいている。それは覆せない。生まれた齟齬に耐えられなくなったのが今の貴方」
何を言っているのか、わからない。
私はただ、耳鳴りに悩んでいる(悩んでいる?)だけなのに。
「貴方は耳鳴りなんかで悩んでいない」
「…………」
「本当に耳鳴りで悩んでいるのなら、此処まで来ていない。貴方の師に診てもらうこともできた。けれどそうはしなかった。“このこと”を話すのを恐れたのね」
わからない。
わからないのに、どうしようもなく心が震える。
彼女の眼に射抜かれ、言葉を突き刺される度に、常にずらしている何かが、少しずつ元に戻って、重なってくる。それから、
――逃げたい。
――逃げるな。
相反する二つの意思がせめぎ合い、結果、私は身動きが取れない。
そんな私の内情すら見透かして、とうとうと彼女は語る。
「貴方は、罪を恐れている」
今更の話だった。そんなことは逃げ出した時からずっと抱え込んで生きてきた。
罪を犯したこと苦悩し、誤魔化し、生きてきた。
罪を背負っていることを。
罪を忘れることを。
罪を認めることを。
罪を認めたくないことを。
正気と狂気。現視と幻視。
背反する思考は、並行して交じり合わず、レイセン(鈴仙)を攻め立てる。
覚えていない――覚えている。
ザラザラと脳裏にノイズが走る。
水面下に沈んでいるはずの何かが浮かびかけている。
――怖い。
単純に恐れた。レイセン(鈴仙)、唯一の共通項。
今この現実から自身をズラして逃げてしまいたい。
なのに、足も、眼も、動かない。
嫌だ。
嫌なのに。
「貴方は、あの時、本当はどう思ったのか」
致命的な尋問。曖昧になっている心が悲鳴を上げる。
境界が裏返る。
正気が狂気に、狂気が正気に。
レイセンは鈴仙の仮面を破り、その罪を直視する。
ああ、だって。
だって、狂っているのは私なのだから――
――――月が割れる。
音も無く砕け、粉々に散る月は――美しかった。
実際、姫や師匠は感嘆し、微笑みすら浮かべていた。
覚えている。覚えているのだ。
狂気の眼を持つ私が、周囲を視ていないということはない。私に死角など無く、多次元を捉える幻視が、私を私足らせる根幹なのだ。
だから、私は天狗の新聞を見ることなく、事の真相を直視していたのだ。
――してしまったのだ。
驚き、何が起きたのか、と疑問に思うや否や、私の眼は働き、月を走査した。
それは、私が長く禁じていたことだったのに。
月を逃げて以来、月を眺めることはあっても、“視”たことはなかった。
地上から見る月は静かに輝き、清らかで、綺麗だった。
穢れた地上と対比するように月は清浄で、大気は殺伐とした月の姿を適度に柔らかくぼかす。
かつての狂気は遥か昔。僅かにその名残を残す面影。
――今は無き、栄華の夢。
とうの昔――永夜事変と呼ばれるようになった、あの事件からほとんど間を置かず、月の軍勢は宣告通り、地上の侵攻軍に総攻撃を仕掛け、その結果――
――――滅んでいた。
元より劣勢だったのだ。
その事実に目を瞑り、最後の全面戦争に打って出た月の軍勢は、数千年の誇りを胸に、散っていった。
彼らは誇りを高らかに吼え、間際には魂の悲鳴を上げた。
数多の同胞の叫び、それが聴こえなかったはずが無い。
――聴こえなかったはずが無い!
聴こえていた。ああ、聴こえていた!
月の裏側からであろうと、地球の裏側からであろうと、我らの声は通じ合う。
――聴こえないはずが無い!
耳に幾重にも響く断末魔。
私一人だけ逃げ延びたことを呪うかのように反響する慟哭。
私一人だけ生き延びることに期待するような嘱託する声。
――聴きたくなんかなかった!
逃げた私には何もかもが重すぎた。
一介の月の兎に過ぎない私には、そんなものは背負えない。
月の過去も、未来も、怨嗟も、希望も、何もかも。
――だから、眼を瞑った。耳を塞いだ。
声が聞こえなくなっても、自分自身を騙した。
まだ月の都は健在だと、仲間たちは生きているんだと。
ありもしない月からの声を自ら造りだし、空虚な一人芝居を演じきる。
レイセンは鈴仙として、月の兎よりも幻想郷の妖怪兎という立場を維持したのだ。
それが故郷を、より裏切る行動だとしても。
だって耐え切れない。
私は姫じゃない、師匠じゃない。
あるがままに受け入れるなんて出来っこない。
大罪を犯す勇気なんてない。
……ただ必死に、眼を逸らし続けるしかなかったのに。
――――砕月の夜、私は自らの罪を、直視したのだ。
あの夜から、再び私は罪から逃げ出した。
二度目の逃亡は誤魔化しだらけで、もうまともに自身を繕うことが出来なかった。
もう“無い”ということを視てしまった後だ。
幻聴を真実として捉えていたトリックは崩され、月からの声はもう聞こえない。
今まで幻聴を生み出していた周波数がぽっかりと空き、波動の空白が耳鳴りを生んだ。
静寂による耳鳴りに悩まされ、常に使っていた容量が空いたことで私の性能は上がった。
聞こえないからうるさくて、聴こえないから音を欲して、私は彷徨った。
でもどこかで、助けて欲しかった。罪を裁いて欲しかった。
隠していても本当は知っていたから。
視えない罪の意識は膨れ上がっていっていき、私はとっくに押し潰されそうになっていた。
レイセンは鈴仙を攻め、鈴仙はレイセンから逃げていた。
自分を認められないまま、生きていくのは苦痛でしかない。
……いずれ破綻するのは眼に視えていた。
今が、その時。それだけのこと。だから――
「――――――――……………………っ!!」
――私は、ナいた。
大声で、あるいは無言で。
兎は声を出さずに、ナく。
月に届くように、自らを攻めるように。
祈りは高らかに、悔みは奈落へ。
溜め続けていた想いを全て吐き出すように、赤い瞳は輝き、月の波動は世界へ響く。
許して欲しい。
許せとは言わない。
振動する想いは、心のままに。
ただ悲しみと懺悔を世界に吐露する。
感情のままに涙を流し、涙で視界が歪もうと、狂気の瞳は世界を捉え続ける。
――――なんて優しい
全てを、罪深き咎人すら受け入れる幻想郷。
それがどうした、と世界の表情は変わらない。
……そのことが逆に悲しくて、私はなき続けた。
いつの間にか月が出ていた。
辺りは暗く夜が訪れ、幻想郷の閻魔は何処かへ去っていた。
「…………帰ろう」
袖で乱暴に顔を拭い、無縁塚を後にする。
身体はだるかったし、心もへとへとだった。
でも、私には帰る場所があるから、帰らないと。
…………もう、耳鳴りは聞こえなかった。
「――鈴仙!」
館に着くとてゐが跳びついてきた。
不意を突かれ、たたらを踏みながらも私は堪えた。
「……おかえりなさい」
ただいま、となんとか返しながら、私は驚いていた。
てゐの声は震えていた。てゐが泣いてる。
腰に抱きつき、私のお腹に顔をうずめているてゐの表情は見えないけれど、涙の熱さが染み込んで来る。
「どうしたの……?」
私が居ない間に何かあったのかと思い、問うがてゐは顔をうずめたまま首を振った。
「ちがう、鈴仙が……!」
私が? と、少し驚きながら、ああ、と納得した。
てゐは力のある妖怪兎だ。私の“声”が聞こえ過ぎても不思議じゃない。
「ごめん。嫌な気持ちにさせたね」
「……ううん」
でも素直に嬉しいと思う。泣いてくれる友が居る。
私には、本当はそんな資格がないから。
「…………」
「…………」
ひとしきりてゐは私の服を濡らした後、顔を上げた。
「――さあ、鈴仙」
「…………?」
「今日は宴会よ。みんな来てるんだから」
「みんな? みんなって……?」
戸惑う私に、さっきまでの涙色が嘘のようにてゐは笑って、
「みんなはみんなよ。今日はどんちゃん騒ぎなんだから!」
私の手を引っ張っていく。
そして、大広間に入った私を迎えたのは――――
…………ああ、本当に。
――――
良い作品をありがとうございます。
読んでて泣きそうになれました。
悲しくて、どこか寂しい感じですね。