Coolier - 新生・東方創想話

老人と孫(終)

2007/04/27 05:11:14
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 とうとう最後までどうするべきか、妖夢には決められなかった。


 無数に立ち並ぶ木々の間を歩きながら余計な雑念を捨て、無心になるよう努め、そうして自分が今何をすればいいのか、決心をしたように思い、洞窟へと戻ろうとする―――すると再び、さっきまではあれほど明確に感じられていた、自分が何をするべきかという事柄が分からなくなってしまうのだ。そうすると森の中に戻り、再びどうすればいいのか苦慮することになる。三十分ぐらい経ったと思った頃に、決めあぐねた妖夢は意を決して洞窟に足を踏み入れた。彼が望んでいるんだから、そうしてやろう、と。ただそれだけを頭に刻み込みながら。どうして自分がこれほどまでに迷っているのか、皆目見当もつかなかった。


(待っていたぞ)と祖父が一番に声をかけた。幽々子様はどことなく気遣うような目付きで妖夢を見ていたが、彼女がこっくりと頷くと、答えを得たかと思ったのか、幽々子様は二人から後ずさった。心の底では、未だに迷いの根が強くその触手を伸ばしていたのだが。


(お爺様、では、………僭越ながら、その役目を引き受けさせていただきます)と、とうとう言った。そう、彼が望んでいるのだ。やらない道理は無い。それだけだ。


 妖夢は深呼吸すると、両目を閉じて神経を集中させた。


 祖父は何かしら思うところがあるのだろうが、どんな感情も表に出さずに妖夢を見ているだけだった。ひたすらに神経を集中して妖夢は、右手を白楼剣、左手を楼観剣の鞘に手を掛けた。


(良いか、お前が線の中に入ると同時に魔剣が攻撃を加えるだろうから、楼観剣でそれを受け止め―――)


 祖父が何か喋っているのだが、意識しても妖夢にはそれらの言葉が殆ど聞こえなかった。ただ眼前に迫った祖父殺しという汚名だけが頭に焼き付いて離れない。集中しかけた神経が解け掛けて、慌てて首を振る。その様子を不審がったのか、思考の隙間から聞こえていた祖父の声が消えた。


 更に彼は話しているが、今度は全く耳に入らなかった。雑音にしか聞こえない。この時妖夢は自分の中で相反する二つの感情が戦いあっていることに初めて気付き、呆然としていたのだった。


 殺せ。


 嫌だ。


 殺すんだ。彼はそれを望んだ。


 そんなことできない。


 お前を酷い目に合わせたのに、小さな頃は最も死んで欲しい相手だったのに、どうしてそこまで頑なになる?


 祖父を殺すなんてできない。


 想いのせめぎあいはまるで刃物と刃物が強烈な勢いでぶつかりあっているようだった。それが立てる音が耳を痛ませ、衝撃で妖夢は目の中がちかちかした。それは瞬く間に程度を大きくしていき、ついに妖夢は他のどんなことも考えられなくなり、目や耳も不能になった。完全に想いの中に囚われていた。


 かつてないほど頭の中で荒れ狂っている物のせいか、祖父のことを思っているからなのか、妖夢の中で昔の記憶が蘇ってきた。それは心の最下層に位置し、彼女自身ですら忘れていた、些細で、取るに足らない記憶だった。まだ祖父が西行寺家にいたころの。


 その時の妖夢は布団の中に入っていた。風邪だった―――妖夢が幽々子様の大切にしている花瓶を割ってしまい、それによって祖父が激怒し、仕置きの結果として体調不良を引き起こしたのだった。備え付けの薬を飲んでも熱は下がらなかった。妖夢はぼんやりした頭で、自分はこのまま死ぬんだろうと思っていた。


 妖夢の傍には、祖父が座っていた。


 彼の役目は簡単だった。水で濡らした布巾を絞って妖夢の頭に乗せることと、妖夢の容態がおかしくならないか気を配ることぐらいのものだった。それでも、妖夢は熱でぼやけた視界の中で、祖父の体がやけに大きく、化物のように影に包まれているように見えた。


 ああ、まだ仕置きは続いているんだ、と妖夢はその時思った。あれほど激怒したんだからまだ怒りは収まっていないんだろう、殴られるぐらいのことはされるんだろう、妖夢は本気でそう考えていた。


 だからこそか、妖夢は「ごめんなさい」と祖父らしい影に呟きながら、右手を差し出した。どうして右手なんか出したのかよく覚えていないが、多分頭を殴られるより腕を殴られる方がマシだと思ったのだろう。


 意に反して、祖父は殴ろうとしなかった。痛みを予感して目を閉じた妖夢は、右手が温かい感触に包まれたのを感じ、おそるおそる目を開けた。


 祖父は、妖夢の手を握っていた。まるで壊れ物でも扱うかのように、痛くはない程度で握り締めていたのだった。


 驚きこそあったものの、ただ温かい、という想いだけが故障しかけた頭の中に満ちて、彼女は祖父の目を見た。彼は鬼の目をしていなかった。人の目だった。彼は妖夢の事を本気で心配しているようだった。


 その祖父の目から涙が落ちていたことは、驚愕というレベルを越えて、信じられないという領域にまで達していた。むしろその顔があまりに現実離れしているように思えて、妖夢は忘れることにしたのかもしれなかった。


「寝ていなさい」


 祖父がぽつりと、長らく声を出していないせいか小さい声で呟いた。空いた手で妖夢の髪を男らしい不器用な手つきで梳きながらだった。声には出さないものの、祖父は私のせいだ、私のせいでこんなことになってしまったと呟いていたが、妖夢の目にはそれが見えなかった。妖夢は祖父の手の感触がひたすらに気持ちよくて、すぐにとろんと目を閉じた。


 そのまま、すとんと落ちるように彼女は眠りに落ちた。


 そんな記憶だった。例えそれが優しくされた唯一の記憶だとしても、妖夢にはそれがとてつもなく価値あるものに思え、貴重なように感じられた。


 そしてまた、今になって思い出すには悲しすぎる記憶だった。


 彼女の中に蘇ったそれは、想いのせめぎあいの中に爆弾のように落とされた。


 それから、妖夢は爆発した。


「やだ、やだ、やだああぁあああぁぁあああ!!」
 叫びながら剣から手を離し、しゃがみこんで頭を抱える。テレパシーで会話することを、目の前に決して恥をさらしてはいけない人たちがいることを忘れ、何もかもかなぐり捨てて妖夢は泣き叫んだ。
「そんなのやだ、嫌あっ! おじいちゃんにそんなこと出来ない! できないよう、そんなのいやああ!!」


 妖夢―――と一歩進み出た幽々子様の手を振り払って、妖夢は子供のように泣き始めた。目から涙がとめどなく溢れ、鼻からは鼻水が出てくる。足が震えて力が入らなくなり、ぺたんと尻餅をつく格好になった。


「だって、おじいちゃん、おじいちゃん死んじゃうの嫌だ!! 絶対やだ、やだ! そんなのいや! おじいちゃん斬るなんてできないよう、おじいちゃん………ううぅぅううぅううううう………」


 誰にも手がつけられないほど強く泣きじゃくり、まさしく今の妖夢は赤ん坊に戻ったかのようだった。妖夢の中で溜め込んできたあらゆる激情が、あらゆる矛盾が、あらゆる想いが炸裂した瞬間だった。永遠にこのまま泣き続けるのではないかと言うほど、妖夢は絶望しきっていた。それは、祖父の体がどう手を尽くしても助かりようも無い状態だということに、それでいて自分が止めを刺さなければいけないことに。また彼がどんなに苦痛を強いる修行を課したり、呆れ返るほど長い時間を留守にしていたとしても、やはり妖夢の祖父なのだということに対してだった。彼女はもう考えることを放棄していた。


 その妖夢を止めたのは、他ならぬ祖父の妖忌だった。





(妖夢)とこれまでに無いほど穏やかな声で妖忌が声をかけた。幽々子がもう一度妖夢に近づいてみようと思った矢先のことだったため、彼女は祖父と妖夢を見比べてから一歩下がった。………この件に関しては、あまり首を突っ込まない方がいいと思ったからだ。


 妖夢は尚も激しく泣いていたが、もう一度妖忌がテレパシーで語りかけると、今度は顔をごしごし擦り俯いていたそれを上げた。涙と鼻水で汚れたそれは、紛れも無い祖父を思う孫の表情だった。ついさっきまで剣の柄に手をかけていた剣士の顔は、どこかに吹き飛んでしまったみたいだった。そこにいるのは祖父の破滅を目の当たりにした孫の姿でしかなかった。


(お前は優しい子だな)
 そう諭すように妖忌は口を開いた。
(あんなことをしてさえ………一言も告げずに消えてさえ、お前は俺を祖父だと思っていてくれるのか)


 妖忌は表情を変えて妖夢を見た。その顔は幽々子にとっても長らく見ることのなかった、紐に結んだ虻で遊ぶ孫を眺める祖父の顔にも見えたし、遠く昔の二度と戻ってこない過去をぼんやり思い起こすような寂しそうな表情にも見えた。どこかの不死人が時折見せる憧憬めいた目付きにも似ているように思え、その顔つきからは、まるで全盛期と同じ精悍な表情を読み取ることができた。


(それに、妖夢。お前は優しい上に強い子だ。あんな厳しい訓練でさえ、見事にお前は耐えて見せたじゃないか。俺がいない間、立派に幽々子様を守り抜いたじゃないか。………そして、お前は人としても十分成長した。俺の目の前にいるお前の姿が、何よりの証拠だ。それは、俺にとってとてもとても嬉しいことだ)


 妖夢は未だに泣き続けていたが、それでも顔を擦る頻度は少なくなっていったし、妖忌の話に集中しているのか、合間合間で頷きを繰り返している。驚くことに幽々子は、妖忌と妖夢の両者の顔に、どこか独特の表情―――長い間背負っていた重荷が、ようやく取り払われたような、そんなものを見ることができた。幽々子は二人の間に自分では立ち入ることのできない絆を実際に目視できた。


(あれの全てをお前に許してもらおうとは思っておらんよ、妖夢。俺はそこまで馬鹿じゃない。あれは確かに虐待だったと思うし、後から考えてみれば馬鹿馬鹿しいようなこともたくさんやった。だけど、お前がそういう顔を出来るってことは、何から何まで悪かったわけじゃないのかもな)


 再び寂しそうな、あの表情が表に出たかと思うと、妖忌は一粒涙を零した。ついぞ見ることが無かった妖忌の涙に、妖夢と幽々子は同時に驚いた。とは言っても涙はそれきりで、たった一つのそれは顎を伝い、ぽたりと音を立てて石の床に跡を残した。


(妖夢、お前が俺の孫で良かった。ありがとう。


 さあ、そろそろ始めてくれ。


 この化物もどきを哀れな生から救ってくれ)


 ほんの少しの時間を置いて、妖夢は鞘に手をかけることで、それに応えた。





 目に溜まった涙を拭いて、ざっと妖忌に手順を説明してもらい、妖夢はそれを口の中で反復する。相手となる魔剣は一太刀、もしくは二太刀分しか動けないと検討をつけたが、それでも剣そのものの力なのか、かつて西行寺家の護衛を勤めた人間が扱うからか、異常なまでに速い。今まで立ち会った相手としては、居合いに似たようなものかもしれない。髪の毛ほどでも反応するのが遅れれば、致命傷を受けるに違いない。妖夢は顔を拭って涙の残滓を取り除くと、立ち上がって祖父である妖忌を真っ直ぐに見据えた。今ではもう祖父に対する不信感や不安は綺麗さっぱり消えてしまい、ある種の信頼がそこにはあった。この人なら、絶対に上手くやってくれるだろう、と。あれほど流した涙の割にはいやに切り替えが早いと思ったが、むしろ涙を流したからこそ早いのかもしれなかった。


(ようやく俺のことをまともに見てくれるようになったな)
 妖忌はそう言うと意地悪く笑ったが、すぐに真剣な面持ちに変わった。
(こっちの準備はいつでも大丈夫だ。お前の覚悟が出来たら、その線から踏み込んでくれ)


 妖夢は目を閉じて、心を落ち着け神経を一本の剣のように、槍のように、鏃のように収束させるよう集中する。妖忌の言葉は心の中に染み込み、かつて存在した泥のような想いを溶かしてしまっているようだった。だから妖夢はそれほど時間を掛けずに、自分が成すべきことを考えることができた。


 目を開けて、鞘に手を添えたままで、妖夢は一歩踏み出した。幽々子様に目を向け、今度こそ大丈夫ですというように頷く。彼女もそれを察知したように、さっきまでの真剣な表情はどこへやら、のんびりとした顔を見せた。妖忌に向き直り、再びもう一歩。


 お爺様、行きます。テレパシーではなく、一人ごちるように妖夢は考えた。


 来い、妖夢。耳に聞いていないのに、その妖夢に応えるように祖父が言った気がした。


 妖夢は線を踏み越えた。


 その途端、これまで妖忌の体を毒虫のように食い荒らすことで力を得ていた魔剣が動いた。右から一太刀、触れるもの全てを打ち砕きかねない一撃が飛んできたが、妖夢の超人的な第六感がそれを感じ、左手の楼観剣で防いだ。耳が痛くなるほど明快な金属の音が響き渡るが、さらりと妖夢の耳は聞き流す。


 左手の楼観剣で攻撃を防ぎ、右手の白楼剣で一気に勝負を決める―――それが事前に説明された手順だった。白楼剣を突き立てるべき場所は既に承知していた。妖忌の左胸、心臓があるべき部分だ。ぎちり、と右手の血管が脈動したような気がした。


 真空さえ巻き起こすほど高速の突きで心臓を打ち破ろうとしたその時、妖夢の右手から魔剣が毒蛇のように襲ってきた。速すぎる、と妖夢は澄み切った心の中で始めて驚きを覚えた。一体いつ剣を引き戻したのか、いつのまに剣の位置を変えたのか、彼女の感覚を持ってしても分からなかった。現に、左手で楼観剣が受け止めていただろう魔剣は、未だにその重量を保っているようにさえ思えるのだ。今から楼観剣を刃の方へ動かすのは無理だとその時悟った。


 白楼剣は心臓の上にまで達していたが、魔剣の方はもう断頭台の如く妖夢の首まで到達する直前だった。このまま両方の剣が同時に突き進めば、白楼剣が心臓を抉る前に、まず間違いなく妖夢の首が飛ぶだろう。


 迂闊だった、と妖夢は硬直を始めた思考の中で思った。これまで妖忌に鬼のように鍛えられ、自分一人になっても訓練を続けたというのに、それら全てを加味してもこの魔剣には及ばないレベルだったのだ。その結果がこれとは、何とも無様なものだった。だが、真剣に打ち合って首を刈られる以上、妖夢には忸怩たる後悔は無かった。思い残すことがあるとすれば、それは残されるだろう妖忌と幽々子様のことで―――


 魔剣の動きが止まった。


 唐突に供給されていたエネルギーが途絶えたように、ほんの一瞬でそれはぴたりと動かなくなり、数瞬してから妖夢の首目掛けて動きだしたが、その時にはもう妖夢は白楼剣を目的の位置にまで深く深く突き刺し、背中から白楼剣の刃が飛び出していた。妖忌の懐に飛び込むような形で、ある意味抱きすくめられたようにも見えるかもしれなかった。


 心臓に深手を負った魔剣はそのショックで動きを止めたが、やがて生き物のように身をくねらせながら妖忌の手から離れ、がちゃんと音を立てて床に落ちた。それは妖夢を次の宿主に決めたのか、妖夢の目にその剣は光り輝き、いかにも価値がありそうな代物に見えた。この剣とならばどんな相手にも瞬時に打ち勝てるだろうと、幻想郷に生息している妖怪全てを凌駕できるぐらいに思われた。


 だがそれを手に取るより早く、妖夢は渾身の力を込めて刃を真ん中の辺りから踏み割った。その瞬間、魔剣の中からどことも知れぬ世界からやってきた異形の物しか立てないような、いかにもおぞましさと恐ろしさを掻きたてる邪悪な絶叫が聞こえてきた。しかもそれは一つだけではなく、複数の声が混じっていた―――後になって、きっとあの剣は食い取った人間の魂を、自分そのものとして取り込んでいたのだろうと妖夢は思った。空気を求めて喘ぐかのように今際の叫びは途中で消え、やがて刃からはどれほど豪華に飾り付けても出てこないような輝きが消えた。それきり何の音も聞こえなくなった。


(どうにか間に合ったか)
 心臓を破られた妖忌が、口の中からごぼごぼと残った血を吐き出しながら言った。だがそのテレパシーも、魔剣が死んだせいなのか、早くも聞き取りにくくなっていた。口中から溢れる血が妖忌の服を、妖夢の服を汚す。(やれやれ、仕様の無い弟子だ。まだあれを止められる力が俺の中に残っていて良かった)


「おじいちゃ、おじいちゃん―――」
 妖夢は死に掛けた妖忌を目の前にして、さっき止めたばかりの涙がまた流れ出てくるのを感じた。妖忌の体が壁から離れ、妖夢に覆いかぶさるような体勢になる。反射的に抱きすくめてから妖夢は、血の臭いと一緒に久しく嗅ぐことのなかった祖父の匂いを鼻に感じた。


 どこかしょっぱくて、けれども甘いような匂いもして、古い本から漂ってくるような、古めかしい時代からやってきたような匂い。


 幼い頃、自分と共に生きてきた匂い。


 それが今、朽ち果てようとしていた。


 妖忌が崩れかけた両腕を一心に動かし、妖夢の背中に回したのが感覚で分かった。
(もうお別れのようだ。妖夢、最後、最――後に―――)


「おじいちゃんの体、あったかい。すごく、すごくあったかい」
 涙を流しながら、妖忌の匂いを嗅ぎながら、妖忌を抱きしめながら、妖夢はそう声に出して言った。妖忌の骨ばった手が、僅かに背中の辺りを上下している。撫でているんだ、と思った。


 足の感触が消えたことを感じて見下ろすと、両足が砂と化してさらさらと下に溜まり始めていた。


(よう―――夢―――幽――子――様と、しあ―――幸せに―――)


 こくこくと、それ以外何もしてはならないように思えて、妖夢は何度も何度も頷いた。そうすることによって妖忌の言葉を胸に刻みつけようとするかのように。


(々―――様―孫―――を、宜し―――お願い―――しま――――――)


 気がつくと、幽々子様が傍に立っていた。彼女は涙こそ流していないもの、今まさに妖忌との別れに際して沈痛な表情で見守っていた。やがて妖忌の腰が砂となり、腹が、胸が砂になった。妖夢は以前お茶菓子をつまみながら、幽々子様から教えてもらった話を思い出した―――幽霊の成仏する様にも多様なものがあり、ごく自然に消えることもあれば、目の前の妖忌のように砂となることもあることを。


(それ―――じゃ―――さよ――さようなら、だ―――)


 首だけが残った妖忌が二人に言うと、とうとう彼の全てが砂になった。ざあっと砂の小山がそこに出来て、妖夢は視線を合わせるかのようにそこへ座り込む。その砂を愛しそうに触りながら、妖夢はぽつりと、目の前に遺体があるように口に出した。


「おじいちゃん」


 それから、また泣き始めた。





 苔が放つ薄光の中で目を開けた。右手にはその根を体中に伸ばした魔剣、入り口には変わらずそこにある大岩。やれやれ、何も変わっていない。依然として手足は動かないものの、目や耳の動きには異常が無いようだし、こうして喉の渇きも覚えずにいるということは、魔剣の力は健在ということらしい。事実、彼は魔剣に寄生された時から喉の渇きや空腹を忘れており、今となってはそれがどんな感覚であったかも思い出すことが出来なかった。


 つまりもう、自分は人間という存在からかけ離れてしまったということだ。


 洞窟の床を見下ろすと、そこには苔と床を形作る岩石しか見えない。しかしうんざりほど見てきた入り口に再び目を向けるよりも、ずっと景観としては良さそうなものに彼には思えた。入り口には彼を閉じ込めたままのうのうとその場所に鎮座する大岩がいるのだ。相手が無生物であっても見たくなんて無かった。


 それに、どうせいくらもがいてもこの場所からは動けないのだから、それならば考え事ぐらいしかすることがない。


 この洞窟に閉じ込められ、悪戦苦闘した挙句に根が生えてしまったかのようにここから動けなくなったのは何時だったのか、思い出そうとしてみて彼は、まるで分からないことに気がついた。三週間前だった気もするし、三ヶ月前だった気がするし、三十年も前のことのようにも思えるのだ。時間の感覚はとっくの昔におかしくなっていたが、今はそうした段階を越えてしまっており、時間という概念すらあやふやになり、一秒が一分に、一分が一時間にも思えた。言うなればここは時間とは無縁の世界だとも表現できる。


 先日まではあれ程生き延びたかった時間を、今は無理矢理に延命させられていることが皮肉に思え、彼は声に出して笑った。ひゅうひゅうと風穴を風が通るような音しか聞こえない。


 だがこうして仮のものであっても永遠を生きるとなれば、色々と物事を透かし見る余裕も生まれてきた。例えば外の様子はどうなっているか、とか。例えば西行寺家では誰が何をして、何があるのか。例えば幻想郷全体はどのように変遷しているのか、とか。


 例えば、自分が迎えるかもしれない救いについて、とか。


 あの時妖夢の幻影が予言のように告げた事が果たして真っ赤な嘘だとは、彼にとっては信じ難かった。彼の中から生まれた妖夢がその場限りの出任せを言うことで正気を保たせたとしても、それ以上の何かがあるように思えてならないのだ。とは言え、それが何なのかは分かる筈も無かった。おそらくそれを正確に理解しているのは神か悪魔ぐらいのものだろう。そしてそんな存在が彼の下までいちいちやってきて、これこれこういうことなんだよと教えてくれるとは思えない。


 しかしそれが分からなくとも、彼は待つことができた。その為の時間はたっぷりとある。彼の体が本格的に自壊し始める時か、もしくは剣の寿命が尽きる時までは。何百年か何千年か分からないが、その間にどうにかなるだろう。


 そう思うと、若干だが清々しい気持ちになることができた。生きることを放棄して、ただ待つだけの存在になるのがこれほど楽だとはな、と苦笑する。考えることも感じることもなく、ただたゆたっているだけでいいのだから。


 もしかして、あの大岩が塞いでいる出口から顔を出すのは妖夢ではないだろうか?


 時々そう考えるのだが、それはできすぎだというものだ。


 一番望んでいることがそっくり起こることはありえない。それを彼は魔術師に傷つけられ、大岩に閉じ込められ、触れてはいけない魔剣を手にした事柄から学習した。この上まだ幸運が舞い降りてくれると考えるのは野暮なものだ、変な期待など捨ててしまうべきだ。


 それでも、望まずにはいられない。


 渇望せずにはいられない。


 あそこからひょっこりと妖夢が顔を出し、自分の元まで来てくれることを。


 自分にとっての救いになってくれることを。


 できれば………自分が彼女につけたかもしれない傷が癒されてくれることを。


 そうした事を、彼は洞窟の壁に繋がれて正気と狂気の境目をふわふわと漂いながら、願って止まない。





 墓自体は簡素なものだった。穴掘りには時間をかけたものの、いざ埋葬する際はしゃちほこばった儀式をすることもなかったし、お経を唱えることもなかった。彼から流れ落ちた砂を遺灰として、穴の中にゆっくりと落とし込み、土を被せただけだったからだ。


 手伝いに来た幽霊たちが帰っていく只中、妖夢は墓標代わりの板切れを突き刺した墓の前で手を合わせた。墓標には魂魄妖忌之墓、としか書いていない。しかし本人がどう望むか分からないが、こういう時間を掛けない簡素な物を好むように妖夢には思えたのだ。


 空は晴天だったし、風も無かった。ある意味埋葬には最適な日なのかもしれない。陽の光が妖忌の墓を十分に照らし、その前に座っているだけで体が温かくなっていくのを妖夢は感じていた。お爺様、ここで太陽の光を存分に浴びて、久方ぶりに眠りを味わってください。そう最後に言ってから妖夢は立ち上がった。


「よーむー」とのんびりとした声音が背後からかけられたのは、丁度その時だった。振り返ると庭に面した縁側に幽々子様が座っている。片手にはお団子、もう片手にはお茶があった。脇には皿の上に山盛りのお団子が積まれていたが、幽々子様が作る筈もないから、料理係に無理矢理やらせたんだろう。妖夢はひいひい喘ぎながらお団子を作らされる料理番の苦労を思い、心の中で嘆息した。


「こっちにいらっしゃい」
 幽々子様は手を差し招き、妖夢はその通りにした。


 縁側に腰を下ろして、お団子をつまむ幽々子様を横目で見ながら、同じようにお団子を一本取り上げて、玉を一つ齧り取った。甘くもちもちした触感が口の中に広がる。おいしい。


「幽々子様は、お墓参りはしないのですか?」


「そこに墓があれば好きな時に墓参りできるから、まあ今じゃなくてもいいでしょ。今は何より代えがたいお八つの時間よ」


 あれそうだっけ、と時間を確認している妖夢に向かって、まるで違う話題を幽々子様は投げかけた。


「妖忌のこと、まだ辛い?」


 一瞬どう返答したものか考えあぐね、お団子の玉をもう一つ齧る。


「辛い………とは思いますけど、前ほどじゃありません。たくさん泣いたらスッキリしましたし、顔を洗ったような気分になれました。多分時間が経ったからだと思いますけど」


「そうね。………ちょっと、質問の仕方が悪かったかもね。まあ何にせよ、妖夢の言うとおりだわ。もう少し経てばもっと楽になると思うし、徐々に傷も癒えるでしょうしね」


「はい。だから幽々子様は、あまり気を使わなくても結構です。そんなの柄じゃありませんよ」


 笑いながら言うと、幽々子様が少しむっとした顔つきになった。その様がもっとおかしくて、くすくすと子供っぽく笑った。


「それにしても今回、私は完全に部外者だったわ。ああもう、むしゃくしゃするから洞窟で拾った宝物、全部妖夢から没収しちゃおうかしら。剣や巻物とかは殆ど駄目になってるけど、一部はまだ使えるだろうし。あの黄金とか、売りさばいてお八つ代にするのもいいわね」


「そんな余裕があるならお給金を下さい………」


 いつもどおりだ、と妖夢は思った。これでいつもどおり、日常が戻ってきた。少し変わった所もあるけれど、大方はそのまま戻ってきた。


 妖忌のことはまだ頭の中に引っ掛かっている物もあるけれど、さっき幽々子様に話した通りきっと時間が解決してくれるだろう。布団の中で祖父の感触や熱を思い出して涙が滲むことや、部屋の壁に立てかけた竹刀を目にすると、時々幼い頃の地獄みたいだった訓練を思い出すことや、洞窟の脇を通る度にあの出来事が脳裏を過ぎることも、きっと時間が解決させてくれるだろう。木を腐らせ、岩を砂にして、人の体を土に戻していくように、時間はそれらを細かく分割し、やがて毒にも薬にもならないただの思い出にしてくれるだろう。


 西行寺家の庭の中、太陽の光を浴びた木々に並んで、魂魄妖忌の墓が陽光を浴びながら、じっとこちらを見守っていた。
 ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
 私的に妖夢と妖忌の関係がこうであったらなあ、と思い書き始めましたが、後で東方wikiや作品に付属していたテキストを見てみたら、大分かけ離れたような設定となってしまいました。その点については完全に私の不注意と不勉強の産物です。
 また、端々でどう見ても説得力不足だろう描写加減や、読みにくいだろう書き方についても私の責任です。
 そう言った非常に拙い作品でしたが、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
 この作品を添削してくれた某人には今更ながらお礼を。ありがとー!
 それでは、また次の作品にて。
 ………ほんとにペース上げよう(汗
復路鵜
http://clannadetc.s56.xrea.com/x/top.html
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コメント



0.570簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
一文が長くて読みづらい所がちらほら。一人称と三人称の混在は効果的な場面もあると思うのですが、「妖夢と幽々子様」みたいなのは流石に違和感がありました。テーマに関しても、やはり落ちるべき所に落ち着いたな、って感じ。

けど、色々差っ引いてもやっぱ良かったな、と。
9.無評価復路鵜削除
 そういえば、三人称なのに何故か呼び名が幽々子様になっていました………
 個人的にあまり気にしてはいませんでしたが、確かにこれはおかしいか。
 テーマ的には、ううむ、王道というか正統派と言うべきか。
 何はともかく、100点をありがとうございます!
10.80ZORK削除
人物の内面の描写が上手いなあと感じました。特に妖忌や妖夢が悩むシーンが。
11.100名前が無い程度の能力削除
余計なことは言わない。ただ一言、良かったとだけ。
12.無評価復路鵜削除
お返事がたいへん遅れてごめんなさい(汗

>ZORKさん
ありがとうございますなのです。
内面描写では、妖夢以前に東方の人間ってそもそも悩むキャラじゃねえだろ! とか思っていたんですが、受け入れられて良かった。

>名前が無い程度の能力さん
ヽ(>ヮ<)ノ
14.80SSを見て楽しむ程度の能力削除
結構よかったですよ 面白かったです 
自分としては次回作は霧島の続編希望を・・・
15.無評価復路鵜削除
うわあ、今更気付きましたほんとごめんなさいごめんなさいごめんなさい!
>SSを見て楽しむ程度の能力さん
感想をありがとーございますですよ!
幻想郷調査部隊については、ネタはある程度組みあがっているんです、しかし書いていないんです(最悪
やっぱり完結までこぎつけたいんだけどなあ、ううむ。
とりあえずはがんばりますよ。ありがとうございます。
16.100名前が無い程度の能力削除
お爺ちゃんっ子であった私は妖夢が泣くシーンで泣きました。
すばらしい作品をありがとう
18.100名前が無い程度の能力削除
これだけいわせていいただきたい。最高でした。
22.無評価毎日元気削除
素晴らしい作品でした。また期待しています
23.90名前が無い程度の能力削除
今まで多数の妖忌SSを読んできましたが、この作品の妖忌が一番好きかも。
達観しているようで迷い惑う、等身大の妖忌にやっと出会えたという思いです。
妖忌の葛藤の描写、とても迫力ありました。
妖忌と妖夢と幽々子さまが三人の関係が絶妙で、いつまでも読んでいたいと感じさせられます。
悲劇なのでしょうが、作者さまの文体が優しく暖かみを感じました。
素敵な小説を読ませていただきありがとうございました。