Coolier - 新生・東方創想話

老人と孫(二)

2007/04/26 08:10:29
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 そこへ辿り着くまでに、そんなに長い時間はかからなかった。


 頼りになる太陽の光が届かない所まで入り込むと、洞窟の壁が淡い緑色の光を放ち始めるのが分かった。緑色の光は太陽の光と反比例して強くなっていった。なんだろうと思って光の元を触ると、苔のようなものに見えた。暗闇で発光する性質のものらしく、おかげで妖夢は必要以上にびくびくすることなく先へと進むことができた。苔が放つ、葉の色にも似た緑に照らされ、半霊の体が変色している。苔は途中でぽつりぽつりと途切れている箇所があるものの、概ね通路には満遍なく生えており、そのうち妖夢はちょっとした秘境を探検している気分を味わうことができた。


 ぴたぴたと壁に手をあてながら進んでいくが、その度に壁の冷たさが身に染みた。長いこと外気に触れていないせいかひやりと氷のように冷たく、しかも先へ先へ進むため、体温で温まることもないからだ。次第に岩から湧き出る冷気に体が冷やされ、背中に張り付いている半霊も妖夢と同じようにぶるぶる震えはじめた。とはいえ、この幽霊の場合は、それが怖がっているからなのか寒がっているからなのかはよく分からなかった。自分自身の深層意識を表した半霊の行動に、もっと精進しなきゃな、と妖夢はため息をついた。


 洞窟奥にある僅かな輝きは少しずつ大きくなりつつあるように妖夢の目に映った。なだらかな坂を形成している通路を歩いていき、おそるおそる目的の場所へと進んでいく。足音が壁に反響して、何人もが一緒になって歩いているように聞こえた。一度振り返ってみると、入り口の光は随分頼りなくなっていた。まるで洞窟のために、特別に小さく誂えた窓みたいだった。無意識に心細くなったのか、体が再び震える。


 やがて輝く物体と同じ地点まで妖夢が降りると、そこはさっきの通路よりもさらに広がっているように見えた。苔は天井や床、壁まで広がっており、全体を軽く見回すことも可能だった。きっとここなら、何か小ぶりな宴会ぐらいは開けるだろう。もしかすれば誰かがそういった目的でこういう洞窟を作ったんじゃないだろうかと妖夢は考え始めたが、その時奥の方で光る物をようやく発見したので、その思考はすぐに消え去った。


 それは木製の、いつから放置されていたのか、腐れたような臭いを放つ箱の中に入っていた―――実際腐っているのかもしれない。壊れかけた箱の隙間から中身がいくつか見えた。つんとする嫌な臭いに顔をしかめながら箱を覗くと、光が薄いため詳細は分からないもののその中には陶器のようなものや、何やら黄色っぽく見えるごつごつした岩らしきものが入っている。それは表面に錆らしきものがこびりついていたが、軽く払うとすぐに落ちた。試しに持ち上げてみると、ずっしりと重い。持ち上げた拍子に外から差し込む光が軽く当たったのか、持っているものが輝きを放った。わっと驚いた声を上げてそれを落とすと、床にぶつかって金属と金属が擦りあうような音が出た。反射的に耳を手で押さえたくなる。


 その音と同時に、近くにある壁の傍で何かが動いた気配がした。妖夢はすぐに反応した。


 幽々子様に仕えながら同時に剣の指南役として腕を奮っている少女は、気配を放つ物もしくは生き物からすぐに距離を取って、白楼剣と楼観剣に手をかける。この広さなら壁に刀がぶつかる心配も無かったから、安心して振り回すことができそうだった。五感全てを音がした方向へ集中させ、今さっき自分が察知した物体の正体を鋭く観察する。もしこっちに飛び掛ってくるとか、何かを投げつける様子があればすぐさま反撃する積りだった。既に頭の中には、どこかの大妖怪ほどではないが、これからの対応とこちらから斬りこむ際の何通りものシミュレーションが高速で行われていた。


 そうしながら二十秒ほど待機したが、考えていたようなことは起こらなかった。森閑とした沈黙だけしかない。壁の方へにじり寄り、苔の光ではなかなか見えにくいそれを睨み付ける。ある程度の距離まで来た所で、音の主が声を出した。


(誰だ?)


 それが耳ではなく、直接頭の中に文字として響き渡るような類だったため、妖夢は少しの間戸惑った。刀を抜きかけ、目の前に居る筈のそれを注視した。これが喋っているのかしら? というよりこれはむしろ、テレパシー? あまりそういう方面に心当たりは無かったが、妖怪と戦ったり弾幕と向かい合う日常を過ごしているため、少しは免疫がついている。深呼吸して驚きを消し去ると、どうやって返事をすればいいのか分からなかったが、とりあえず頭の中でそれらしきもの文面を作り、相手に届くよう念じてみた。


(え、と。魂魄妖夢と申します。あなたは?)


 思念が通じたのかそうでないのか、声をかけてきた者は何も喋らなかった。あまりに反応が無いので聞こえなかったのかと妖夢がもう一度思念を作ろうとすると、とてつもない大音量で叫びに近いものが妖夢の頭の中に響き渡った。あの金属が立てる音を軽く凌ぎ、思わず耳の中がパンクするような錯覚を覚えて今度こそ彼女は耳を塞いだ。怒声とも悲鳴とも歓声ともつかない声に彼女が戸惑っていると、それはようやく叫び終えて、彼女にもう一度、泣いているともとれる声をかけた。


(本当にそうなのか? お前は魂魄妖夢なのか? 聞き間違いではないのだな? 嘘をついていないのだな?)


 その言葉にある種の迫力―――半ば狂気めいた興奮を感じ取った妖夢は、正直に肯定の言葉を返した。もし仮に意地の悪さを発揮して、こういう時にからかうような事を話せば、目の前にいるそれは何の躊躇も無くこっちを八つ裂きにしようとするだろう。あの黒白ぐらいならやりかねないが、彼女は魔法使いほどひねくれているというわけではなかった。


 それから、さっきから激烈な感情を露にしているそれはまたもや予想できない行動を取った。泣き出したのである。その行為からは笑っているような悲しんでいるような、どっちとも判然のつかないような混然とした感情を妖夢は受け取り、気味の悪ささえ感じた。すすり泣いている目の前のそれがどんな事情を抱えているにせよ、少なくとも尋常なものでないことは間違いない。もしかして、この人はちょっと狂ってしまったんじゃないだろうかと妖夢は考えたが、それを読み取られれば大変だと思ってすぐに打ち消した。


(そうか―――妖夢、妖夢か―――おお、なんということだ。もっと近くまで来てくれ、そうだ、もっと近く)


 どうやら自分に対する敵意が無い(表面的には)ことを確認したので、妖夢は武器を収め、おそるおそると近づいてみた。攻撃されることはなくても、いきなり飛び掛ってくるのではと怖がる気持ちが根底にあったからだ。もしそんなことがあれば、本能的に刀を抜かないという自信はちょっと無かった。その後ろから、半霊もおそるおそるついてくる。


 暗闇の中にいるだろうそれの姿は苔が作り出す光に照らされてはいるものの、光が当たっていない場所もちらほらとあるため、見えているのか見えていないのか微妙だった。なにやら奇妙なスポットライトに映し出されたオブジェと表現できる所もあり、正確に見分けることは難しい。とっくに闇に慣れた目でもうすぼんやりとしか視認できないため、相当近くまで行く必要があった。向こうも同じ条件のようで、繰り返し妖夢に近くへ来るよう懇願する調子で呟いている。


 いよいよ眼前まで来た時、それはどうやら特殊な力を持った物体や動物というわけではなく、人間―――少なくとも人間の形をした―――だということが分かった。立ち尽くしたような状態で壁にもたれかかっており、手には何か長いものを持っているように見える。足の方から順に、顔の方まで目線を上げていく。


 その人物の顔を見た時、妖夢は相手ではなく自分が狂ったんじゃないかと思った。思考の中が渦と化して、ごんごんと様々な感情が押し流されていく。疑問、困惑、混乱、戦慄、そして恐怖。妖夢は呆然と、ぽかんと開いた口が塞がらない状態で、自分を見ているだろう人物を見やった。


 一見した所、その人物はかつて自分の前から消えた祖父に似ていた。


 まさか、と彼女は思った。ありえないはず、こんなところにいるはずが無い、どうしてこんなところに、どうしてこんなところにどうしてどうしてどうしてどうしてどうして


(俺は妖忌だ、妖夢)
 思考の無限ループに巻き込まれかけた妖夢を寸前で引っ張り出したのは、祖父らしき人物の声だった。どうやら混乱した頭で考えた内容がそのまま伝わったらしい。
(正真正銘、本当の魂魄妖忌だ。こんな場所でお前に会えるとは思ってもいなかった………お前も同じようだな。正直、俺はここで朽ちるだろうと思っていたよ)


 よくよく注意すれば聞き覚えがあるかもしれない声を耳にして、どうにか彼女は思考を取り戻した。それでも今現在自分が置かれている状況の半分を理解したぐらいで、これからどうすればいいのかなんてさっぱり分からなかった。完全に主導権をすぐ前にいる存在に明け渡し、妖夢は立ち竦んでいるしかなかった。


(なあ、もう少し近くまで来てくれないか? 暗くてお前の顔もよく見えないんだ、それに目………いや、とにかくもっと近くに、そうもっと、もっとだ)


 言われるがまま、妖夢は体を近づけていった。目の前にある祖父の体から立ち上る異臭に似たものや、人と呼ぶにはちょっとばかり崩れているような形には全く気付かないまま、一歩、また一歩と。


(おお………大きくなった、大きくなったな妖夢。あんな小さかった孫が、俺の背丈の半分も無かったあの子が―――)


 祖父の腕が僅かに身じろぎしていることに、妖夢は土壇場になって気がついた。最初に体が反応して、次に脳の運動神経を司る部分が感じ取り、心が知ったのは最後だった。


 近づきかけていた足を高速で後ろに戻し、無理矢理滑らされた靴が嫌な音を立てる。床の苔がその際こすられて微かに飛び散り、妖夢は思い切り後ろに後退した。その動作よりもコンマ一秒遅く、妖夢のすぐ目の前を恐るべき速さで剣先が駆け抜けていった。音速に近いような速さのそれは、耳の中がおかしくなるほどの鋭い音を残して去っていく。少し見下ろすと、胸の辺りが少し切られていたのが見えた。


 斬り付けられた、淡々と妖夢はそう考えた。日頃から刀と接している身として、その程度で済んだのかもしれなかったし、日常的に誰かと戦っているために神経が鍛えられ、かわすのが上手くなったのかもしれない。だがそれを糸口として、再会したばかりの祖父が自分を殺そうとしたという事実がじわじわと体中に浸透していき、思わず膝の辺りから力が抜けそうになった。不意に薄闇の中にいるだろう魂魄妖忌が先程感じた通りの狂人に思え、すぐに大きく距離を取る。理性や思考と言ったレベルではなく、妖夢の奥底に深く根付いた生存本能、今はそれがただ体を突き動かしていた。そうでなければ妖夢は感情と理性に翻弄されて一歩も動けなかっただろう。


 横目で出口を確認し、あまりにも状況を理解するには材料が不十分であるこの場所から脱出しようとした途端、(待て!!)と祖父が声を荒げた。その声に悲鳴や怒号ではなく、どこか違う感情を含んでいるように聞こえた妖夢は、すぐに動けるように警戒してはいるものの、足を止めた。せめて見ておこうと思い、闇に慣れた目で祖父が持っているだろう得物を確認する。じっと形状を見てみると、どことなく西洋の剣にも見えなくも無い。長さは楼観剣よりも短いが、それでもありふれた刀よりはよっぽど長いと思えるような代物だった。


(くそ、まさかこれが反応、すると、は………)
 祖父は大病を患ったかのように苦しそうな呻きをもらし、思わず妖夢は介抱しようかと近づきかけたが、長い得物で胸の辺りから真っ二つにされる所だった事実を思い出し、動きかけた足がまた止まる。


(どうして、あんなことを………?)
 できるだけ感情を込めないよう努力して言ったのだが、どうしても心の底から警戒心がにじみ出てくるようだった。声に秘められたそれを敏感に感じ取った祖父は、そう感じるのも当たり前だとばかりに自虐的に笑った。あらゆる事象に翻弄されて疲れ果て、何もかもが自分の手から離れていくのを受け入れたような絶望的な笑い方だった。


 これだよ、と言って祖父は右手に持った得物をゆっくり動かした。そんな簡単な動作でさえ今の彼には激痛を引き起こすらしく、大きく苦鳴が聞こえてきた。明るい場所で祖父の姿が見えればいいのに、と妖夢は歯噛みする。そうすれば何がどうなっているのか見ることができるというのに。こんなことなら、洞窟に入る時点で明かりを用意するべきだった。


(俺が持っている剣、名前は忘れたがな。………こいつが血を欲しがっているんだ。本当なら俺が血をくれてやるべきなんだが、もう俺には殆ど残っとらん。だからか、血を持っているような生き物全てを殺そうと―――持っている俺が言えることではないが―――しているんだ。どうやら、俺が目覚めると同時にこいつも動き出したようでな………すまん、最初に言っておくべきだった。しかし、宿主の意に反しても動き回ろうとするとは、な。最も、俺の命を繋ぎ止めているのもこの剣なんだろうが)


 乾いた笑い。希望を持つのは馬鹿げたことだと、言葉の裏で彼はそう言っているようだった。


 手のひらにじわじわと汗を掻き始めたが、妖夢にはそれを気にする余裕なんて無かった。いったい、目の前にいる祖父にはなにが起きたんだろう? 屋敷を出てからここに辿り着くまでに、なにが起こったんだろう? どうしてあの剣を持つことになったのだろう?


(………話してください。あなたに起きたことを。そうでなくては私はここを動くことはできません)


 好奇心も勿論あったが、それ以上に話を聞かなければならないという義務感のようなものを妖夢は感じ始めていた。そう、この人の孫として自分には聞く義務がある。この人はどれほどの窮地に立たされ、死地とすら呼べそうな環境に放り込まれてしまったのか。


 そうだな、と疲れ果てた様子で妖忌は呟き、そこに座ってくれ。俺は動けないし、遠くならば剣も当たらんだろう、と妖夢に促した。言われるがままに刀を鞘に納め、それでも妖忌からは目を離さずに彼女は正座した。


 それから、彼が語り始めたことを聞き始めた。





 迂闊だった。彼は胆汁を飲み干したように苦々しい思いで足首を見つめ、再び自分の中に痛みという名の大波が襲い掛かってくるのを感じ、耐え忍ぶためにきつく目を閉じた。


 それはなんと表現するべきか。客観的に見れば体の一部がこそげ落ちたと同じだが、自分の中ではまるで魂の半分をごっそりと抉られたようなおぞましい感覚がした。服の一部を切り取って傷に巻くことで一応の止血はしているものの、大事な部分をおおかた吹き飛ばされた自分の足は、見るも無残な有様でしかない。彼は波の合間合間に襲い掛かってくる寒気―――おそらく血が流れすぎたせいだろう―――にも同様に耐え忍んでいた。血管は大丈夫だろうか、と考え、そんな馬鹿らしいことを思った自分を笑う。なにせ血管の問題ではなく、足が丸ごと吹き飛ばされたようなものなのだ。立っていることも困難で、彼は成す術も無く座り込むしかなかった。辺り一面は血の海となっており、そういえば自分の服も血まみれなことにようやく気がついたのだが、今更そんなことはどうだって良かった。


 足首を襲った傷よりも遥かに大きな問題―――それは、自分がこの洞窟に閉じ込められたということだった。


 冥界にやってきてからすぐに、そこらへんを飛び回っている幽霊を捕まえては不審な人間はいなかったかと聞き込みを始めた。幽霊というのは一定の場所をふらふらしているのが殆どだったから動き回る必要があったが、問題の人間たちはそれほど時間を置かずに見つけられた。森の一角で聞き込みを続けながら歩いていると、幽霊の一匹が妙な洞窟を見つけたことを教えてくれたのだった。つい最近までは山肌しか無かったというのに、ふと通りがかるといつのまにか洞窟が出来ており、しかも男たちが住み着くようになったと言う。更に突っ込んで話を聞くと、この辺りでは全然見ないような物を運び込んでいて、もっと近づいて眺めようとしたら追い払われたということだった。そこだな、と即断した彼は、そのお礼に近くの花畑でもぎ取った花を一輪渡し、足早に幽霊から知らされた場所へと向かった。


 大当たりだった。やがて洞窟らしき場所を見つけた彼は、入り口付近で男たちがたむろしているのをちょうど発見した。彼らは何事かを話しこんでいるようだったが、見張りに二人だけを残して中へと入っていった。彼は森の中で待ち続け、夜になり、洞窟の中から煙が上がってくる様を見てから行動を起こすことにした。もくもくと煙が上がっていることや、さっきの時点で箱のようなものを運び込んでいたので、付近の村を荒らしまわり、その成功祝いに酒盛りをしてるのだろう見当をつける。相手の人数は少々部が悪いものだったが、今までこれ以上の人数と対決したこともあるし、これより体調不良の状態で戦いに挑んで勝利したことがある。今回も大丈夫だろう、と彼は普段なら考えもしないような楽観的な思考を抱き、襲撃に臨んだ。


 今考えれば、それが油断だったに違いない。


 こんな所で見張ってたって何も来ないだろう、そう決め付けていたのか座り込んでいた見張り番たちを五秒足らずで斬り殺し、中にいる人間が外の様子に気付かないうちに一気に中へと入り込む。念のために携帯用の明かりも用意しておいたが、この点は洞窟の壁や天井に張り付いていた苔が放つ穏やかな光が解決してくれたし、何より最奥部で焚火が放つ光の存在があった。それほど距離的に長くない坂を下りた所の広場で男たちが酒を飲んでいるところを確認して、彼は一切躊躇わずに斬りこんだ。


 まず最初に狙ったのは黒ずくめの男、入り口付近で見張っている時、こいつが村の人間が言っていた「魔法を使う奴」だろうと目をつけておいた人間だった。他の人間たちとは服装や雰囲気が明らかに異なっているため、見分けるのは容易だった。彼からは背を向ける形で座っていたので、音も無く近づき背中から切り裂く。断末魔も立てずばったり倒れたそいつを踏み越え、彼は刀を取ることも忘れて呆然としている男たち(すぐ前のことも見えていないのか、酒を飲んだり肉を食い続けている馬鹿もいた)に向かって刀を奮い始めた。積み上げられていた刀剣類などを背にし、男たちが武器を手にできないような場所に陣取る。


 最初の五人までは手近にいたことや、彼の存在が何なのか把握できかねていたようなので楽に殺せた。心臓や首などの急所を狙い、最低限の動きで罪にまみれた命を斬り飛ばしていく。その辺からようやく彼らは茫然自失の状態から立ち直り、侵入者を撃退するために必死の抵抗を始めた。半ばパニックに陥りながら、洞窟に転がっている石や焚き火に突っ込まれていた木を武器にした数人を斬り殺した所で、彼は辛うじて取り逃がした男が武器を取ろうとしていることに気付いた。胸を斬った時点で血が噴出したので、即死したと思ったのだが、まだ息があったのだ。早く斬らねば―――と焦りを覚えたが、それを感じ取ったかのように男たちが彼に飛び掛り、羽交い絞めにした。獣臭い息と途切れ途切れの脅し文句とが耳元に当たり、背中が怖気立つような感覚がする。このままではまずい、と悟った彼はすぐに行動した………背中から彼に抱きついている男ともども、後ろから焚き火の中に倒れこんだのである。殺気と憎悪をこねまわしたような呻き声を上げていた男は、野獣のような悲鳴を上げて、慌てて手を離して逃げ出そうとする。体中を燃え焦がす熱は彼も感じてはいたが、直に火に触れた盗賊ほどではなかった。地面の上を転がることで服や足にまとわりつく火を振り払い、すぐに立ち上がると、残りには目もくれないで唯一武器を持った男に突っ込もうとした。その途端に、急に左肩を後ろに引き戻されるような衝撃が走った。


 撃たれた―――反射的にそう感じた。肩を見ると小型の矢が一本、肩甲骨の辺りに突き刺さっている。バランスが崩れてたたらを踏むが、すぐに体勢を立て直した。痛みとそれに付随する熱が傷口の辺りから発散されていたが、これはむしろ長年の修行と実践によっても慣れ親しんできた代物だったので、容易に無視することができた。利き腕の方ではないので、こいつら相手ならばそれ程の支障でもないだろうと考え、彼は左腕のことを瞬時に頭の中から消し去った。隙が出来たと生き残りの男たちが武器を取りに向かうが、男達の予想とは異なり、彼は肩に突き刺さった矢の存在を無視して駆ける。武器を手に取ろうとした男二人を後ろから突き殺し、ようやく得物を手に取った男が振り向き様に首を飛ばした。胸から血を噴き出しつつ、息も絶え絶えに小型の弓をもう一度番えようとしていた射手の両腕を切り落とすと、腕が無くなったのに尚も努力を続ける男の首を一気に刎ねた。数瞬の間、男の体は尚もそこで立っていたが、やがて地面に倒れた。


 刀を構え、ざっと周りに目を向けて立っている者がいないかどうか確認する。焚き火の脇で炎に身を包まれ、地面をのたうちまわりながら悲鳴を上げる男がいた。どうにも見ていられなくなり、近づくと胸を一突きにして男を殺し、命が抜けた死体を火が舐め尽す様から目を逸らした。それが済んだので体の怪我を見てみる。全身に広がった薄い火傷、特に問題ない。肩の矢、これも大丈夫。後で人里に戻った時にでも矢を引き抜いて然るべき治療を受ければ問題は無い。流石に一人で相手するには人数が多すぎたかもしれないが、むしろこの人数でこの怪我なら僥倖と言ったところだ。そう考えて、いつもいつも自分は死線をかいくぐっているな、と頭を掻いた。こういうこともそろそろ止めにしなければいけない。まるで自殺願望を持ち合わせているみたいだ。


 改めて、脇に打ち捨ててあるような形で放置してある略奪品に目をやった。箱は一つきりしかなかったが、何分かなりの大きさだった。あらかた箱を探ってみれば、大量の武器、銭、巻物、魔道書などがごろごろと出てくる。中には黄金の塊もあり、これが村から盗んだ黄金か、と思い至った。死体が焦げる臭いがぷんぷんと臭ってきたが、すぐに念頭から消し去る。懐から取り出した紙と照らし合わせてみれば中身は殆ど揃っているように思えた。まあ、本格的に確かめるには箱の中をひっくり返すしかなさそうだし、それを行うには村に帰るしかなさそうだ。


 とりあえずここから外に出なければならない。大の大人二人でも持ち運びに苦労するような荷物をどう外に出したものだろうかと思案しながら立ち上がった途端、さっきとは比較にならない程の痛みが足首で爆発した。力を入れているのにも関わらず立てなくなり、膝をついてしまう。それと同時に後ろを向くと、血走った形相をした黒ずくめが起き上がりかけた状態で両の手のひらをこちらに向けていた。彼は完全に死んだことを確かめなかった自分の傲慢さを、背中に深手を負っても長時間生き延びていた黒ずくめの生命力を呪った。


 だが黒ずくめの口が動いていることを目にすると、彼は悪態をつくのをやめて動こうとしない足を意志の力で無理矢理に動かし刀を振り下ろした。刀が黒ずくめの首を横から抉り斬り飛ばすのと、黒ずくめの詠唱が終わるのは同時だった。刀を振り切ったと同時に彼は完全に支えを無くして床に倒れこんだ。それでも刀を杖代わりにしてどうにか立ち上がり、今度こそ黒ずくめが完全に死んでいることを見て取った。少なくとも、首を飛ばされて生きている人間はいない。


 洞窟全体を揺り動かす激震が始まったのはその直後だった。


 強い地面の震えによって危ういバランスを保っていた両足が崩れて、倒れ込んだ拍子に固い石ころで頭をぶつけた。頭の中の揺れと洞窟に響き渡る揺れが激烈な勢いで掻き混ぜられ、船酔いにも似た不快感が頭から始まり足のつま先に至るまで駆け巡った。小石が天井から砂のように落ちてきて、彼の脇や体に音を立てて当たる。ああ吐くな、と思った瞬間に彼は意識が闇色の霧に包まれることを認識し、その刹那には失神していた。


 目が覚めると、洞窟の入り口が塞がれてしまっていたのが見えた―――それが、ここまでの状況だった。これまで様々な状況を経験したこあとはあっても、これほどの醜態を晒したことはそうそうない。自分自身の不甲斐なさに、彼は壁を殴りつけたくなった。


 とにかく、これからどうするべきかを確認するには、まず動くしかない。この泣き叫ぶ足をなだめすかして、だ。こんちくしょう。


 ずるずると、まるで老婆のように這いずりながら移動し、時間をかけて入り口まで辿り着く。地震に遭っても光を放ち続ける苔の下で、洞窟の入り口を完全に塞いでいる代物に手を当てる。たぶん岩だろうな、と彼は思った。侵入者用のトラップか、それとも自爆装置とかいう奴だろうか。


 誰かがここを見つけ自分を助けてくれる可能性について考えてから、あまりのばかばかしさに笑いたくなった。冥界には普通の人間が来れる筈がないし、ここを知っているのは幽霊ぐらいのものだ。彼らが他の人間を呼んでくれるとは思えない。万が一か、もしくは億に一の確率で旅人がふらりと通りがかった所で、ここは最初から塞がれていたようにしか見えないだろう。


 自分が置かれている状況に対して大きなため息をついてから、この状態で何ができるかと思案する。足をやられて満足に立てない、入り口はどっしりと強固な大岩に塞がれている、見たところ、他に出口になり得そうな場所は見当たらない。天井や壁に小さな穴は空いているが、そこから外へ通じるような穴を空けるのは無理だろう。まずそのための道具が無いし、人手も自分一人しかいない。それに何より、その穴を空けた所で洞窟自体が崩れない保証はどこにもないのだ。


 万事休すか、と彼は考えた。自分の中で悔恨や怒り、嘆きや悲しみなど、雑多な情動が巨大になっていき、彼自身を押しつぶそうとする。奥歯を強くかみ締めるが、雀蜂のように執念深く混沌は彼の傍ににじり寄り、今にも大きく口を開けようとしていた。その時、妖夢がこの様を見たらどう思うだろうか、と考えてしまい、彼女に対する羞恥心やら情けない気持ちやらで胸がいっぱいになった。自分がどんな窮地でも生き延びるよう心得させたというのに、俺は何を諦めかけているんだ、と。


 そう思い描いたら、さっきまで心を占めていた悪感情は嘘のように消えてしまった。さながら妖夢の存在が水と化して、大火事になりかけていた彼の心をあわやという所で消化したようなものだった。首を振って余計な思考を追い払うと、深呼吸した。


 まずは眠ろう。眠って、頭をスッキリさせて、それから考えよう。風は吹き込んでいるようだから、窒息死することはあるまい。


 大岩にもたれかかり、意識を失うまで大立ち回りを演じていた広場を改めて眺めると、小石や砂を被って焚火は消えてしまっていた。死体の幾つかも砂を被ったのか汚れているように見える。


 目を閉じると、睡眠は思ったよりもすぐにやってきた。





 洞窟の中にいる間はどうにか平静を保っていたものの、いざ外に出て光を全身に浴びた瞬間、妖夢は眩暈と共に倒れそうになった。半霊と刀でどうにか体を支えて、ひたすらに西行寺家の屋敷を脳内に思い描く。そこで自分がしなければいけないことや、自分が待たせている筈の亡霊嬢のことを強く強く念じて、気絶という名の白い闇を遠ざけようと苦心した。しばらくして闇が薄まったことを確認すると、妖夢は今度こそ二本の足を地面に着けた。


(今日はもう帰れ)と、祖父は自分が閉じ込められるようになった経緯を話すと、彼女に向かってはっきりとそう言った。
(お前はお前でやることがあるだろうし、それに、俺の話を聞いて山ほど考えることがあるはずだ。………俺の方も考えたいんだ。見ての通り、俺はここから動くことができない。この剣は近づく生き物を無差別に斬りつけてしまう代物でな、それに俺一人じゃここからは動けん。だから明日また来てくれ、この時間にな。なに、これまでずっと耐え忍んできたんだ。一日ぐらいどうってことないさ)


 言われた通りに出てきたのだが、果たしてそれで良かったのだろうかと、妖夢は思案を巡らせた。確かに自分には西行寺家の家事などしなければいけないことがあるし、祖父から聞かせたもらった事実については一晩じっくり考えても清算できないと思われるほど、あまりにも深遠な内容だった。


 だが、あの暗闇。妖夢はおそるおそる後ろの洞窟を振り返った。ぽっかりと、山肌の中で空いた黒い点。あんなところに置いてきて良かったのだろうか? せめて一晩だけでも付き従って、話し相手になるべきではなかったのでは? いくら本人が慣れ親しんだとは言っても、それくらいの心配りぐらいはするべきではないか?


 一瞬そうしようと思いかけて、妖夢の去り際に祖父が見せた、妖夢や自分がいる洞窟を越えて遥かに遠くを透かし見るような目つきを思い出した。薄くぼんやりと輪郭をぼやかせるような明かりの中でも、それははっきりと見えた。距離や時間だけでなく、次元や宇宙ですら望遠するようなあの目。あんな目をするのは永遠を生きる神か、もしくは無限を流れる時間に漂白され、自我を破壊された廃人ぐらいのものだった。きっとあの目をしている間は、祖父に自分の話が聞こえることは決して無いのだろう。彼の目に自分が写ることもないのだろう。妖夢には決して理解できない深さに取り残された彼が得た、そうした思考に思いを馳せて、途端に妖夢は恐ろしくなった―――何年間、祖父はあの涅槃に一人ぼっちでいたのだろう? 月や太陽の光も目にできないまま、どれほどの年月を気が狂いそうなほど平板な洞窟の壁を眺めて過ごしたのだろう?


 思考がどんどん泥沼に入っていきそうだったので、妖夢は首を振って底なしの沼に別れを告げて、西行寺家に向けて飛び立った。


 遠目に長年自分が住み慣れた屋敷の姿が見えてくると、妖夢はどこか安堵している自分に気がついた。祖父と予期しない出会い方をしたことで、これから自分が目にする世界もどこかが変質していくのではないか、と言う不安を無意識に覚えたんだろう、と思った。それほどにあの人の出現は自分にとって異質で、異端で、異常としか言いようがなかった。


 それもそうだろう。子供の頃―――と言っても何十年も前のことだが―――に別れの言葉一つ残さず目の前から消えて、今の今まで一通の便りも寄越さなかった人だ。妖夢にとってこれまでの祖父は、まるで血を分けた人間というよりも、知り合いの知人ぐらいという存在にしか思えなかった。その証拠に、これまでは祖父の名前を何度か聞いても、無関心以上の物は何も呼び覚まさなかったのだ。幽々子様が気を利かせて水を向けてくれても、自分は曖昧に頷くぐらいしかしなかった。というより、できなかった。


 どうして自分はあんなにも祖父を他人のように感じているのか、そう思った所で、彼女はいつのまにか屋敷の庭に降り立っているようだった。考え事に夢中になりすぎていたらしく、周りが見えていなかったのだろうか? 視界の端で、自分の帰宅を知った幽霊がふらふらと、それでもいつもより急いだ調子で屋敷の中に入っていくのが見えた。多分幽々子様が妖夢が来たら知らせるよう命令しておいたのだろう。


「遅いじゃないの妖夢、三時のお八つも抜かすなんてこれはもう大問題ね」
 上にあがる気にもなれなかった妖夢が縁側に座っていると、ぺたぺたと聞こえる足音と共に幽々子様がこっちにやってきた。そういえば、今日はまだ用意していなかった。道理でいつもより若干不機嫌なんだろう。あわてて時刻を確認してみると、既に五時を回っていた。自分では分からなかったものの、あの洞窟の中で相当な時間を過ごしたに違いない。


 お八つに続けて夕飯の用意をしていないことに対して文句を言いかけた幽々子様は、妖夢の考え込むような顔を見るなり口を閉めて、手に持った扇子を弄くりながら、彼女の隣に座り込んだ。


「まあ、夕飯については由々しき懸案事項だろうけど」
 音も無く扇子を開き、妖夢の裡を全て透かし見るような目をしながら、幽々子様は従者の目を見据えた。
「何か話したいことがあるんでしょう? 聞いてあげるから話して御覧なさい。あ、そこの幽霊、ちょっとお茶とお茶菓子持ってきなさい。今すぐ。あと夕飯の準備も妖夢抜きで始めなさい」


 ぞんざいな命令に慌てた幽霊が家の中へすっ飛んでいくのを尻目に、妖夢は西行寺家の主人の顔を横目で見つつ、自分の中に澱のようにわだかまる物に言葉をつかえさせながら、それでも自分が体験した事を拙い調子で話し始めた。祖父から話してもらったこと―――洞窟に入り、魔剣を手にするようになったことについて―――も残らず口にすることで、少しは気分がマシになったように思えた。


 表面的には、幽々子様の表情は話の最初から最後まで変わらないように見えた。暮れかけていた日が完全に落ちて、いつもの夕飯の時間になっても話は続き、言いつけられた幽霊が急いで持ってきたお茶が完全にぬるくなった頃、ようやく話し終えることができた。お茶を飲んで喉の調子を整えてから、扇子を口にあてて考え込んだ様子を見せる幽々子様に、妖夢はおそるおそるという調子で話しかけた。


「祖父は………助かる、と、思いますか?」


 妖夢の脳裏に洞窟の壁に体をもたせかけたまま、錆一つない剣を手にし、悠久を見据える祖父の姿が映った。あの状態から人を助けるにはどうすればいいのだろうか? 相手が自分と同じ魂魄家の人間だとしても、あそこまで消耗しきっている人を助けることはできるのだろうか?


 長いこと幽々子様は黙りこくり、祖父と同じように遠くを見る視線を灰色の月に向けていたが、やがてぽつりと一言、喉からようやく搾り出したと言った調子で言った。


「普通の生活を送る、という意味じゃ無理かもしれないわね」


 その言葉を聞いた時、妖夢の中に怒りや悲しみと言った、激しい感情は全く生まれなかった。驚くほど淡白にその事実を受け止め、処理することができる自分自身に気付く。小石を投げ込まれただけのように、心の海にはさざなみすら立たなかった。それはどうしてなのだろうか? あまりに時間と距離を置きすぎたから? あれが祖父でなく何か別の生物にしか思えないから?


 それとも、幼い頃に徹底的に痛めつけられたから?


 あまりにも罰当たりな考えを思いついた自分の脳を呪いつつ、妖夢はそれを表には出さずに幽々子様に問いかけた。
「どうして、そう思いますか?」


「詳しいことは見てみないと分からないし、断言はできないんだけど………あなたの話を元にすると、今の妖忌は、自縛霊にも似たような存在じゃないかと思っているわ。正確には異なるでしょうけど。どこに分類できるかと問われればそういう物にあてはまるかもしれない、ぐらいだから。彼が閉じ込められた状況や、どれほど長い時間捨て置かれたのか、そういうことを考えれば、正直剣を手放しても生き延びられる可能性は捨てざるを得ないわ。その剣が妖忌を延命させているのは事実でしょうし、でもそれだと無差別に剣を振るうって理由が分からないけれど………妖忌の体には血が殆ど残っていないから、それを摂取するためだけになりふり構わず動いてるのかも………」


 縋るように見つめる妖夢の視線に気付くと、幽々子様は口を閉じて、扇子を膝の上に置いた。
「明日も、彼のところに行く積り?」と尋ねるよりは独り言のように幽々子様は言った。その言い方にはどこか話題の振り方が突然だった気がするのはどうしてだろう。もしかして気遣ってくれたのだろうか。


 もちろんです、と頷くと、その答えに満足したように幽々子様は立ち上がり、それじゃあ、私も一緒に行かないとね、と話した。あなたについていって、妖忌に何が起きたのか確かめないと。


 そのまま幽々子様は障子を開けて、屋敷の中へと戻っていった。夕飯の支度は早くねー、と言い残して。妖夢は頭の中を包みかけていた疑問の山を押しのけて、とにかく手を動かすために厨房へと向かった。


 既に話し合うべきことは終わらせてしまったので、夕飯の時になにか言葉を交わすこともなく、もそもそと二人は食事をした。普段は口やかましく説教じみたことを言ったりもする屋敷の主人も、この日ばかりは黙々と目の前にある膳に手をつけ、妖夢もまた無言を押し通した。沈黙のまま夕餉の時間は終わり、妖夢が屋敷の雑事を終わらせている間にもう眠る時間がやってきてしまっていた。


 布団の中に潜り込んで、障子の向こうに見える筈の月を仰ぐ。遮蔽物となっている薄い和紙の向こうから、ぼやけた丸い形が見えた。あの月を同じように祖父も眺めているのだろうか、と思うと、自分がここでこうしていることに対していたたまれない気分になった。今この間も、祖父は一人洞窟の中で苦痛に毒されているのだ。どうして孫である自分が行かないという道理があるというのだ?


 だが相手は自分を斬ろうとした。あの手つきには一切の躊躇や逡巡というものがなかった。いくら剣に操られているという理由があったとしても、それだけでああも素早い斬撃を叩き込めるものだろうか?


 つまり………そこには少なからぬ、祖父の意思が存在したのではないか?


 言うなれば、殺意とか。


 馬鹿な考えだ。妖夢はそれを一蹴した。少なくとも自分の中ではその積もりだったが、それはしつこく這い上がり、追いすがり、妖夢の魂に入り込もうとした。まるでウイルスみたいに彼女の神経を侵し、正常な思考を奪おうとしていた。お前を小さな頃に散々折檻した人間が、どうして今になってお前に助けを求める? 本当に助けを求めるだけなのか? もしかすれば、剣がしきりに欲しがっているらしい血を調達するためにお前を呼び寄せたんじゃないのか? 今日はどうにか逃げられたけれども、明日になってまたあそこへ行けば、祖父は今度こそお前を切り捨て、その血を剣に分け与えて苦痛を和らげようとするんじゃないか? もしチャンスがあれば幽々子様まで毒牙にかけようとするんじゃないのか?


 馬鹿だ、嘘だ、ふざけた考えだ。人を虚仮にするのも大概にしろ。あっちへ行け、出て行け。お前なんか消えてしまえ。


 だが確実に否定できるわけじゃあるまい?


 妖夢はごろんと寝床で体勢を変えて、深い闇が巣食っている部屋の隅を見つめた。目の中が熱っぽく、瞼を閉じても頭の中がしゃかりきになって活動を続けていた。この状況を打破するには眠るしかないとわかっていても、それはなかなかやってきてくれない。八意先生に睡眠薬でも調合してもらえば良かったかな、とうわべで思うと、静かに息を吐き出しながら今度は仰向けになった。どこか人の顔に見える染みをぼうっと見つめ、邪悪な思考が消え去るのをひたすらに待つ。相変わらずそれは、祖父が自分を殺そうとしているのだとわめきちらすばかりだった。まるで自分自身が闇と同化し、考え方すら蚕食されたかのようだった。


 だが自分にはそれが否定できないことは事実だった。理性と名のつく存在がきいきいと金切り声を上げて警告する様を、自分は止めることができない。何故だろう、と思い、写真のように鮮明な映像が頭の中の映写機に映った。


 子供の頃のこと。雨の日。西行寺家の庭先で祖父が竹刀を振り上げている。その先には子供の頃の妖夢がいる。泣き出しながら、ごめんなさい、ごめんなさいと地べたに頭をこすり付けて土下座をしながら、目の前の存在に必死に許しを求めている。雨と泥が服のみならず体にべったりと張り付き体を汚している。傘を差した祖父は大馬鹿者、お前はどうしようもない大馬鹿者だと雷にも負けないほど大きな声で叫んでいる。どうしてそうなったかと言うと、それは妖夢が幽々子様の部屋の掃除をしている際に、彼女が大切にしていた花瓶を割ってしまったからだった。最初のうちに幽々子様は祖父の行き過ぎた折檻を止めようとしたのだが、これは魂魄家の問題でもありますので、どうか手出しは無用にしてくださいましと妖忌に説得され、渋々手を引かざるを得なかったのだ。雨の中に野ざらしにされ、竹刀で散々叩かれるという仕置きは結局、祖父の怒りが沈静化するまで続けられた。それが原因で妖夢は風邪を引いて、生死の境を彷徨う事になった。


 一つ、祖父が自分を斬りつけたこと。思い出すたびに体に震えが走る、けれどもにわかには信じられない出来事。砂粒ほどの慈悲もなく彼は妖夢の心臓を切り潰そうとした。


 そしてもう一つ、祖父の仕置きの際の阿修羅のような形相。鬼や悪魔ですら怯む顔で彼は凄み、まさしく敵意と言うものを幼い日の妖夢に対して向けていた。


 これら二つが重なり合い、一瞬だけ離れ、また重なる。妖夢は何も考えまいとしながら、祖父が何のために自分を呼んだのか、本当は分からなくなりかけている自分に気が付いたことを認めないわけにはいかなかった。


 ようやく寝付いたのは、太陽の光が地平線の向こうから僅かに見えかけた頃だった。





 洞窟の中だけの明かりでは視界が不十分だったので、焚き火をもう一度点けることにした。使える物はないかと足首から血と共に流れ出て来る苦痛に耐えながら死体を一箇所に集め、そのうちの一つから取り上げた火打ち石を使い、消えた焚き火を再び点けた。たったそれだけの作業でも息を切らせ、冷や汗と脂汗を掻いている自分に悪態をつく。相当体力を消耗しているだろうから、これからは急いで動かなければまずいだろう。魂魄家の人間と言えども不死身というわけではないのだ。自分の傍では、弱りきったように半霊が地面すれすれの所を浮かんでおり、彼の深層意識がどれほど気を落としているのかを端的に表現していた。


 より詳しく洞窟の中を見られるようになったので、見落としが無いように壁面や天井の部分をもう一度眺めてみる。どこか広げられそうな場所が無いか見てみたが、それらしいものは見つけられなかった。やはりあの塞がれた出口しか可能性は無さそうだ。


 まず自分が持っている物を確認してみる。刀、僅かな路銀、携帯用の明かり、かさばる荷物は森の中に置いてきたから役に立ちそうなものはそれくらいしかなかった。隅に重ねてある死体の山からも、使えそうなのは大して発見できない。黒ずくめの男からが最も期待できたのだが、こいつは持ち物を何も持っていなかった。腹立ちまぎれにその体を蹴り付けようとしたが、癇癪を起こすよりまずは脱出だ、と自らを戒める。ちょうど明かりもあるので、宝箱の中身も漁ってみることにした。どうせ自分がここを出られなければこれらも日の目を見ることなく朽ち果てる運命なのだ。


 崩落前に見たように、武器、巻物、銭と中身に変化があるようには見えない。仕方がないのでそれらを取り出し、使えそうな物だけ床に並べていく。値打ちがありそうな刀や短槍、それに旅商人からも略奪したのか、洋風の剣らしきものもそこにあった。幅が長く、箱の中に収まったが不思議に思えるぐらいのものだった。手に持ってほれぼれと眺めていると、他にもある武器よりも、この剣に惹かれている自分に気がつく。どことなく自分が泥棒と同じことをしているという後ろめたい気持ちが湧いて出てきたが、どうせここを出るまでの付き合いなのだし良いだろうと、彼はそれを腰に収めた。鞘からは抜かず、これを使うとしても最後にしようと決めていた。長年自分が愛用してきた刀よりも後に。


 それから、使えそうな武器を抱えて入り口の前まで行き、大岩らしきものに触れる。がっちりと洞窟の入り口にはまりこんでいるらしく、隙間から筋ほどの光も差さない。明かりから離れているため苔が放つぼんやりとした緑色の光を頼りにし、彼は適当な刀を取り上げる。やるしかないか、そう思い、息を鋭く吸い込む。他に方法がなければこれでやるしかない。あまりに非効率的なやり方であっても、笑ってしまうほど可能性が低くても。


 今こそ訓練の成果を見せる時だろう。


 とはいえ、岩を斬るなんてことは考えたことも無いのだが。


 一発、予め定めておいた岩の中央にある一点に彼は取り上げた刀を叩き付けた。そのまま跳ね返ってきた衝撃に腕がじんと痺れ、足が壊れかけているにも関わらず立ち上がったため、激痛が体中を駆け巡った。思わず苦悶の声を漏らしたが、歯を食いしばり、姿勢を直すと二撃目を同じ場所にぶつける。三、四、五と立て続けにそれを繰り返す。あまり神経を休ませると調子に乗りかねないので、休憩を入れるのはごくごく短い時間だけだった。途中で腕が馬鹿になるかもしれないと不安はあったが、痛みを除けば思ったよりも楽に作業は進められた。


 百撃を越えるか越えないかの所で、一本目の刀が折れた。それを放り投げると二本目を取り出し、続けて同じように振り始める。


 四本目の刃が金属音とともにへし折れた際、動くのはそろそろ潮時だと直感的に気付いた。腕の疲弊はまだ耐えられるレベルだったが、足の痛みが既に失神寸前という領域にまで上昇していたからだった。体の調子に目を配れば全身から大量の汗が噴き出し、心臓の鼓動は負担をかけすぎたせいか馬のような速さで動いている。彼は息を大きく吸い込んだ。ぽっきりと真中辺りで折れた刀を放り出し、火の元まで這いながら戻るとごろんと横になり、すぐに眠り込んだ。いちいち火の元まで戻るのは足に多大な負担がかかるのだが、やはり明かりの傍で眠る方が安心できたからだ。起き上がると入り口まで戻り、同じ行為を続けた。足の血はどうにか止まったものの、その代わりに苦痛という名の棘が始終足首を突き刺しているような錯覚を覚えたようだった。もしや雑菌でも入ったのだろうかと思ったが、今更どうしようもないことだった。足首の包帯代わりの服を取り替える時、あまりの激痛に何度も失神しかけるところだったが、意志の力でようやく押さえ込む。傷は微かながら変色し、腐り始めているのではという懸念を彼は抱いた。


 刀を振り上げ、振り下ろしていく過程で足の痛みの他に問題となったのは、胃の中に何も入れていないということだった。思い返してみれば、最後に飯を食ったのは洞窟に突入する直前、月を見ながら握り飯を胃の中に入れたことぐらいだ。ここに閉じ込められておおよそ一日経ったが、それだけ時間が経てば腹の虫が怒り狂うのも当然だった。空腹はそのうち気にならなくなっていったが、代わりに差しこみによる痛みが腹の中で蠢き、胃を小刀でぎりぎりと切り取られているかのようだった。適当な巻物を噛んで痛みを抑えながら、彼は刀を振るいつづけた。幾ら修行をして鍛えていると言っても、刀が折れるほど振るっていると腕の筋肉がおかしくなった。一度か二度、短時間だが完全に腕が動かなくなり、その場で安静にする他なかった。それに血液が足りないという問題もあった………空腹とは別に、常に貧血寸前であるという状態でもあったのである。それらを誤魔化しつつ作業を進めるということは、休憩の時間を多く取らなければならないことを意味した。ある痛みが一時的に消えれば、代わりに何らかの体調不良が発生した。ようやくそれを振り払ったと思った途端、さっきの痛みがもう一度ぶり返す、という具合だった。彼はただそれを受け入れ、ひたすらに屈従するしかなかった。全身を蛭に吸われることよりも、蜂にまとわりつかれることよりも、尚悪かった。


 だがどうにか耐えた。音を立てて腐っていくかのような足首から発せられる熱にも似た鈍痛や、よじれた胃の腑から湧き上がる凄まじい不快感、更に岩を斬るという未だ試したことすらない事への不安に、彼はどうにかして耐えることができた。


 それは、刀を振る時も振らない時も、絶えず頭の片隅に西行寺家に残してきた孫の存在があったからだった。


 自分が家を出てからどのように育っただろうか。立派に成長して幽々子様を守れているのだろうか。どこか体を悪くしてはいないだろうか。屋敷に置いてきた白楼剣と楼観剣はうまく扱えているだろうか。


 そして、今ここで苦戦している自分を見れば、どのように考えるだろうかと。


 あの子が剣を持ち始めた頃、自分は特に厳しく、死地においても意志を失わず、最後の最後まで生存を諦めずに行動することを教え込んだのだ。そのやり方が正しかったのかどうかは今になっては分からないが、自分は彼女にそういう教育を施した。それを受けた彼女が今の絶望すら感じている自分を見たら、どのように思うだろう? もしも諦めて刀を下ろしたりすれば、彼女はどのような心境を師に対して抱くだろう?


 そうした、一種の恥辱感や孫に対する憧憬の想い、そして自分が置かれた立場からすれば当然である結末を捻じ曲げても生き延びてやろうというしぶとさと言ったものが、どうにか心を保たせてくれた。小さな傷がついても全く崩れる様子がなく、傲然とした巨体を晒し続ける大岩に対して刀を振るい続ける根気を彼の中に呼び起こしてくれた。例え傷一つつけられなくとも、刀が振れなくなったとしても諦めてたまるか。最後の最後まで足を引きずり血反吐を吐いて、光を求めて悪あがきをしてやろう。


 自分が唯一あの子に胸を張るのができるのは、そうしたことでしかないように彼には思われた。
 書いた後で思いましたが、戦闘シーンって難しいですね(笑
 さらさらと書ければ楽なのですが、どうにも私が書いた場合は泥臭いというか泥沼的な物しか出てこないので、簡単に書ける人は尊敬してしまいます。あと人体欠損なども。
 文章に関してはおそらく穴だらけでしょうが、今の私ではこれが精一杯! と言い訳らしきものを吐いてみたり。
 いやほんと、精進します。
 続きは明日にでも。
復路鵜
http://clannadetc.s56.xrea.com/x/top.html
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