魂魄妖夢という少女が祖父であり師匠でもあった人間から剣術の教育を受け始め、祖父が西行寺家から消えるまでの数年間、彼女が置かれていた所は文字通り地獄だった。
物心ついた時から竹刀を持たされ、文字を覚えるより先に剣の持ち方を覚えた。文字においても剣においても、祖父は妖夢を指導した―――というよりは、鬼のように無理矢理叩き込んだ。妖夢たちが居候をしていた西行寺家の庭先で主に訓練は行われた。時には屋敷を抜けて森の中に入ることもあったし、膝や腰まで水に漬かった状態ですることもあった。延々と走らされることや祖父以外の生物と戦わされることもあったし、その他覚えていないけれども色々な修練があった。始めの頃は祖父も優しく教えてくれたものの、基礎を終えた辺りからはどんどん厳しく、辛いものとなっていった。打ち合いの時に一度でも竹刀を落とされれば何回も強く頬を叩かれた。打たれた箇所は膨らんで三日間そのままだった。雨の最中で足が震えれば膝を打たれた。たまらず膝をつくと、今度は頭を打たれる。一言弱音を吐けば飯が抜きになった。三日間飯を抜きになったことはあったが、祖父は平然と訓練を続け、一度栄養失調で死ぬ寸前まで行ったことがある。祖父との訓練は、朝も昼も夜も、雨の日も雪の日も霧の日も雪の日も、一日だって欠かすことなく続けられた。そのせいか、骨折から風邪と、あらゆる種類の体調不良を妖夢は経験したことがある。一度、祖父は本気で自分を殺そうとしているんじゃないかとまで思ったが、悪鬼も裸足で逃げ出すような祖父の教え具合に、まもなくそんな疑念は頭の中から叩き出され、二度と妖夢もそう考えなかった。
たまに祖父と連れ立って屋敷から出て、長い長い階段を時間をかけて降り(この時ばかりは祖父も妖夢の手を握り、何百段という高さから落下しないようにしてくれた)、麓にある町へ買い物に行く時も、決して脇見をすることはできなかった。『物を持つことは雑念となり、雑念は弱みとなる。弱みを持てばその部分から心が腐り始めて、やがて大切な物を守れなくなる』と祖父は教え聞かせた。道端に生えている花や、外を走っている女の子の頭につけられている不思議な物―――それが髪飾りだと知ったのは、ずっとずっと後だった―――を見ることさえ禁じられた。幼心にはその言葉や訓練がどんなに苛烈なものであっても、紛う事無き真実であり、彼女を取り巻く世界そのものだった。祖父からの折檻はその頃の妖夢の全てだった。叩かれた。蹴られた。怒鳴られた。殴られた。ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけられ、そんな中でも剣を持つ努力を無理矢理させられた。どんな死地でも、窮地でも耐え忍ぶ努力をさせられた。彼女は耐えた。耐えるしかなかった。それ以外にどうすればいいのか彼女は知らなかった。
だから体中に紫色のアザが出来るのも当然だった。祖父は硬膏の張り方だけ教えてさっさと部屋を出て行ってしまったから、妖夢はそれらを一人で体中に貼り付けなければいけなかった。子供の手はそれほど長くないし、貼り付けるべき所には背中も含まれていたから、決して簡単な作業ではなかった。それほど広くもない部屋の中で、ごそごそと音を立てながらそんな事をしていると、次第に自分自身が惨めで、取るに足らないちっぽけなものに思えてきた。今頃外にいるだろう祖父は自分の何千倍も、何万倍も大きな存在で、きつい稽古をつけられている自分は遥かに及ばないどうしようもない存在なのだと。自分が馬鹿でのろまで剣を持つのが下手だから、いつも祖父が怒るのだと。このまま消えられたらどんなにか楽だろうかと。様々なことを思った。そのうち涙が溢れ出てきて手が止まった。もしたった今祖父に見つけられたら何をされるか分からなかったから、両手で声を押し殺した。頭の中が真っ赤になって、肺から息が搾り出される。大きな嗚咽がこみ上げてきて、喉がひくひくと動く。
もう泣くだろうな、と心の底で思った時、障子が音もなく開いた。あの人かもしれないと思って立ち上がろうとした束の間、そこには自分がこれから守るべき人が立っていた。正確には、祖父にそう教えられていた。名前は西行寺幽々子で、この屋敷に住む人(正確には生きていないのだけれど)としては、妖夢と祖父以外でただ一人の人だった。大丈夫? ひどいアザ、と妖夢を気遣いながらその人はしゃがみこんで、幽霊だというのに温かく思える手でアザの部分を撫でてくれる。その感触と祖父のごつごつした、怖気と警戒心を引き起こす感触とを比較してしまい、祖父にも、目の前の亡霊嬢にも申し訳ない気持ちが湧き出てきて、また涙を流す。これは弱さだ。弱さは心を腐らせる。そう思ってもどうしようもなかった。硬膏、張ってあげるね、と幽々子様は背中に回って、一人じゃ手が届かなかった所に薬を塗りこみ、その上から布を貼り付けてくれた。すぅ、と背中がひんやりして痛みが消えていく感触。それは湿布だけの効能じゃなく、背中をやさしく撫でてくれる、西行寺幽々子という名前の姫様がいるからだと思った。自分一人でやったんじゃ、とてもこんなに温かい気持ちにはなれない。
このまま振り向いて、幽々子様にすがり付いて泣き出したくなったが、あの人がそんな弱さを曝け出すことを許さないだろうし、そうすることで自分がますます弱くなりそうな気がして、顔を擦って涙を誤魔化しながら、温かい幽々子様からそっと離れた。もう、いかないと、と言いながら。
本当は行きたくなかった。このまま部屋に残って、幽々子様とお話をして楽しく過ごしたかった。一緒にお茶を飲んで、菓子を食べて、すっかり磨耗した神経を心行くまで休ませたかった。だけどそれはあの人に逆らうことだったから不可能だった。それは自分を否定することだ。それは心を腐らせ、幽々子様を死に至らしめるものだ。
だが恐怖感がなによりも先に出てきた。自分は祖父を怖がっているのだと、彼の姿を見るたびに心のどこかが逃げ出したがっていることを、この頃には明確に意識しはじめていた。
部屋を出る際、ねえ、と幽々子様が声をかけた。言っていいのか迷っているような、そんな感じの声だった。振り向くと、顔を俯けていた幽々子様が、決心したように顔を上げた所だった。あの人、あなたに厳しく―――すごく厳しく当たるけれど、でも、嫌っているわけじゃないのよ。この前私に話してくれたの。お酒を飲みながらあの人、妖夢が可愛くて仕方が無いって。だから、精一杯自分が持っている物を全部あの子に伝えてやりたいって、そう言ってたの。幽々子様は途切れがちに、これを言ってしまっていいのか、最後まで悩んでいるような調子で打ち明けた。一回口を閉じてから、幽々子様はもう一度言った。
だから、そんな悲しい顔、しないで。
言われるがままに、自分で自分の顔を触る。これが悲しいんだろうか。元々こんな顔だった気がするし、そうでなかったかもしれない。ひょっとするとあの人に扱かれているうちに、だんだん自分でも気付いていないうちに変化してきたのかもしれない。努めて、悲しいと思われないように顔の表情を変えて、幽々子様に言う。わたし、大丈夫です。こんなの、いつもと比べたら転んだみたいなものです。硬膏、ありがとうございました。
言葉の最後の部分では幽々子様から顔を背けた。幽々子様の目をじっと見ていたら、また泣き出してしまいそうだったからだ。障子を開けて、部屋を出て、後ろ手に閉める。この間、幽々子様の声は聞こえなかった。すう、と一息吸い込んで、あの人が待っているだろう庭へ戻った。
雨がそぼ降る庭で、祖父は妖夢の目を刀のような鋭い目付きで睨み付けていた。迂闊に触れると真っ二つにされてしまいそうな威圧感が彼から放たれているのを妖夢は感じとった。遅いぞ、と一言。並みの子供であればその時点で震え上がるような声質だったけれど、既に慣れていた妖夢は動じなかった。謝罪を表すように一礼して、祖父の前に立つ。雨が頭や体に当たるが全く気にならない。竹刀を持ち、構えている祖父にひたすら集中する。そうでなければ超高速で飛来する竹刀を防げないからだ。
『あの人、あなたに厳しく当たるけれど』
いつのまに振り上げたのか、警戒していたにも関わらず竹刀で横腹を二発、背中を一発打ち据えられる。足から力が抜けて倒れる。胃の中身を戻しそうになり、祖父が怒声を吐く。
『嫌っているわけじゃないのよ』
立ち上がると拳骨で殴られる。何だその様は。お前は本当に魂魄妖夢なのか。それともどこかから紛れ込んできた餓鬼なのか。もしやる気があるなら態度で示せ。もう一度!!
『精一杯自分が持っている物を全部あの子に伝えてやりたいって、そう言ってたの』
怒声、怒号、熊の咆哮のようなどら声。そして一寸の慈悲もなく体に叩きつけられる衝撃。
幽々子様が嘘を言うわけがない。絶対にそんな筈が無い。だけどそうした確固とした信頼とは裏腹に、妖夢にはその言葉が疑問に思えていた。祖父には人に優しくするような、そんな心が存在するのだろうかと、自分のことなんて何とも思っていなくて、ただ己の腕を後世へ伝えるための手っ取り早い道具でしかないんじゃないかと。疑問は湧き出たまま、どんなに殴られても、どんなに打ち据えられても、いつまでも消えなかった。
もしかしたら祖父は幽々子様を騙しているのかもしれない、という恐ろしい考えも浮かんだが、すぐに消した。そうしないと弱音を吐く以上に自分の心が腐ると本能的に判断したからだ。
訓練は続いた。昨日もあった、今日もあった、明日もあるだろう、きっと明後日もあるだろう。いつまでも殴られるだろう。いつまでも走らされ、竹刀を振らされ、ひたすらに訓練をさせられるだろう。その時の妖夢にとって、それは幽々子様や祖父の存在と同じくらい確かなものだった。
終焉がやってきたのは唐突だった。いつも通りの朝で、今日は何発殴られるんだろうと心を硬くして庭で正座していた時、幽々子様が縁側に姿を現して言った。あの人がいないのよ、妖夢、心当たりない?
その言葉を聞いたはじめ、訓練を休めるかもしれないと言う心の中のずる賢い部分が動いただけだった。もしかしたら、今日は一日家を留守にするのかもしれない。そういう時は極稀に一度か二度あった。そういう日が来ることを待ち望んでいたが、いざやってくるとどうすればいいのか分からなかった妖夢は、そういう時には幽々子様と一緒にいた。幽々子様と羊羹を食べたり、一緒に散歩をしたり、幽々子様が書く書道を見ていたりした。そういう時には例外なく、心の中に幽々子様の手みたいな、温かい物が満ちて、生きていて良かった、と思えるのだ。きっと今日も同じようなものだろう。妖夢は単純にそう考え、今日は何を書いてもらおうかと狸の皮算用までしていた始末だった。
事態がそれだけに留まらないことを知ったのは、祖父の部屋にある文書を幽々子様が見つけた時だった。祖父が出かける時は大抵幽々子様に言伝をしてから出かけたので、それがないことに違和感を覚えた幽々子様が、祖父の部屋を探した結果だった。幽々子様へ、と筆文字で書いてあったそれを、二人で一緒に読んだ。習いたての妖夢にも読めるほど内容は簡単だった。祖父と妖夢は西行寺家に居候しているが、急用が出来て祖父は至急この家を離れなければならなくなった。出来れば孫も連れて行きたいが(この文字を見た時、誇張無しに妖夢は震え上がった)、事情が逼迫しているため置いていかざるをえない。非常に長い間留守にするだろうと思うが、孫のことを宜しくお願い致します。云々。
読み終えた時、心の中に真っ先に去来したのは、寂しさでも、悲しみでもなかった。それは解放感だった。いつまでも自分が閉じ込められているだろうと絶望していた牢獄は、実は鍵が掛かっていなかったことを発見したような気狂いじみた歓喜。おそるおそる戸を押し開けて、外の光を全身に浴びた際の恐怖じみた興奮。そうした物が体中を支配して、実際庭に出て叫びたいというこの上なく強烈な衝動を我慢しなければならなかった。それでも、今自分が感じている気持ちを幽々子様に気取られれば不謹慎だと思い、せめて心中を気取られないようにそっと傍を離れた。幽々子様を振り返ると、彼女は手紙を何回も読み返していて妖夢には気付いていないようだった。人によっては、祖父の印象は大分違うんだろう。風船のようにふわふわした頭で妖夢はそう思った。
西行寺家の庭がよく見える縁側までやってきて、今自分が置かれている環境が夢じゃないかと思いながら腰を下ろす。ぎっと古めかしい板が音を立てるけれど、その音がきっかけで目を覚ますことはない。あの人の雷みたいな声で起こされることもない。おそるおそる顔を触っても、いつも感じているものと同じ、自分の冷たい手の感触。半霊に触れてもいつもと同じだった。
両手で顔を覆い、汗ばんだ手から発せられる暗闇の中で、魂魄妖夢は一声、泣き声を上げた。涙が一筋垂れてきたが、それだけだった。それで、これが現実だとようやく理解した。
こうして、魂魄妖夢の人生から魂魄妖忌はふっつりと、煙のように姿を消した。
それから何十年かして、魂魄妖夢は冥界に数多存在する森の中を散歩している時に、ある不思議な発見をした。
数ヶ月ほど前から、西行寺家の庭の手入れや昼ごはんの支度、そうした諸々の雑事を終わらせた後で、妖夢はたまに散歩をすることにしていた。剣の修行や家の見回りはそれ自体、とても大切なことだが、時には頭の中を空っぽにしてぶらぶらと歩き回り、森の中で木の匂いを嗅ぐことや、西行寺家前の階段に長い年月と共に刻まれたヒビを眺めることも、精神的な修行という面では同じぐらい大切なのだと考えたからだった。そうでなくとも、ここ最近は三日おきの宴会騒ぎや花の異変、明けない夜などこれまでは決して無かった事件が続発していたのだから、ある程度物事をぼんやり考えて、多分に刺激を受けがちな精神をリラックスさせる必要があった。まあ所謂ガス抜きみたいなものだった。
最初の頃は家の近くを軽く回ったり、空をふわふわ漂って眼下の景色を眺めるだけで満足していたものの、近頃はより遠くへ、より深い所へと足を伸ばすようになった。それも浮遊でではなく、徒歩だった。いつのまにか妖夢は空いた時間に冥界中を見て回らないと気が済まないようになっていた。そう長い時間は休みをとれるわけではないのだが、そういう時には変な所で凝り性なのか、それまで見て回った所を抜かし、まだ見ていない所を中心に見るようになった。少々爺むさいと言えなくもないが、この行為を知っているのは幽々子様ぐらいなので別に構う物でもなかった。それに白黒や巫女が知ったとしても、別にどうということもないだろう。やましいことをしているわけではないのだから。
この日も時間に余裕があることを確認して、屋敷から結構離れたなと自分でも思う所を歩く―――思わぬ発見をしたのは、その時だった。
妖夢は散歩をする際に幾つかのコースを設定しているが、今日彼女が歩いていたのは少々特殊なものだった。他では森の中や湖の傍を歩いたりしているのだが、ここでは山の際、それも切り立った崖の下を進んでいくというものだった。そのコースでは森や湖のように飛び交う幽霊たちを見られないし、延々と続く壁のような山肌には他所とは違って変化が無い。だが余計な物を無くすことによって自分の中で考えをまとめることに役立ったし、平坦で変わり映えの無い場所をのんびり歩くことによって、少々固すぎるきらいのある思考を柔らかくすることができた。どうすればもっと剣の腕が上がるのか、夕飯のおかずは何にするべきかとか、そう言った簡単には決められないようなことも、ぼんやりと頭を空っぽにすることで、思わぬ妙案が出てくることもあった。この時も妖夢は夕飯の内容を魚にするか山菜にするか、うんうんと唸りながら歩いていたのだが、唐突に前の方の岩肌にぽっかりと空いた穴が見えた。ちょうど肌色の柔らかい壁を指で突いたみたいに、今まで目にしたこともないような綺麗で黒々とした点を確認できる。周囲にはつい最近になって壁を形成するという役目を放棄したようで、岩があちこち散らばっている。妖夢がそこに駆け寄ると、その穴らしきものはこれまで岩の隙間から発見することができなかったことが疑問に思えるほど大きく見えた。中でも楼観剣は抜けるかな、と無意識に妖夢は考えを走らせていた。ここ、もしかして洞窟だったんだろうか?
穴の前で、一体どうしてこんなものが出来たのだろうと考え、すぐに原因らしきものを思いついた。
二週間ほど前、冥界の中で大きな嵐が吹き荒れた事があった。幽霊が蔓延り魂の転換点である冥界でも大掛かりな自然現象は発生するものらしく、三日続いた大嵐は冥界中を巻き込んで豪雨と暴風を吹き荒らした挙句、西行寺家の部分部分をある程度掻っ攫っていった。西行寺家に避難した幽霊たちは無事だったものの、そうでなかった幽霊たちは殆どが嵐によって散り散りに吹き飛ばされた。あの後妖夢は幽霊たちを捕まえるために、冥界の中を吹っ飛びまわらなくてはならなかった。しかも仕事を終えたのも束の間、今度は西行寺家の当主である西行寺幽々子様より、嵐によって壊された屋敷の箇所を即刻修復するように命じられた。本来ならば幽々子様もあまり急かすようなことはしないのだが、破壊された箇所に幽々子様の寝所が含まれているのが問題だった。幽霊を追い掛け回すのに二日間、屋敷の修復のために二日間を妖夢は尽力し、殆ど毎日徹夜を断行させられていた。
きっとこの穴も、あの嵐が原因に違いない。その証拠に、穴の前にはかつて洞窟を覆い隠していただろう岩がごろりと死体のように転がっている。おそらくここには無い部分は、雨風である程度転がって行ったのだろう。妙なのは、どうも岩の壊れ方が物をぶつけられたような感じではなく、何か鋭利な物で切られたようにすっぱりと断ち切られていることだった。岩は主に真っ二つに裂かれたようになっており、嵐に吹き飛ばされた木や岩がぶち当たった程度じゃとてもこんな壊れ方なんてしない。想像もできないほど強い力で叩き切られたぐらいでなければならないだろう。そんなものがこの冥界に存在するだろうか、と暫く妖夢は考え込んでいたが、どうしても答えが出てこないので問いそのものを放棄することにした。
突っ立っていても仕方がないので穴の中を覗いてみると、中はおおよそ真っ暗となっており、通路の途中から完全な闇に支配されて奥の方は見えてこない。お化けや怪物などの類が苦手な妖夢は、もしかして中には………と嫌な想像をしてしまい、体中に鳥肌が走った。油虫や蛇ぐらいなら平気で斬れるが、そういうのは流石に怖い。半霊に見てこさせようと思ったが、どうやら妖夢と思考がシンクロしているらしき大型の幽霊は、ぶるぶると震えて背中に回りこんだ。せめて何か手がかりらしきものが見えないかと目を凝らしたが、それらしきものは見えてこない。
一旦屋敷に戻って明かりを持って来ようかと考えた時、洞窟の奥で一瞬、何かが光ったように見えた。ちかちか、と日の光に反応したのか、それは何度も星みたいに小さく輝き、まるで妖夢を誘っているように見える。なんだか話が出来すぎているように思えて少し怖くなってきたが、だがその頃には彼女の中の好奇心は抑え切れない程膨れ上がっていた。
少しの間、好奇心と子供っぽさから成る単純な恐怖心とが争っていたが、とうとう好奇心が勝利した。意を決して妖夢は、洞窟の闇へと体を滑り込ませた。
一歩穴の中に分け入ると、陽の光があたる場所にも関わらず、体中をひんやりとした冷気が覆うのが感じられた。日光が長年入ってこなかったせいもあるだろうが、そうしたことが外の世界との断絶を象徴しているように思えて、ぽつぽつと鳥肌が再び立ってきた。洞窟の通路に触れるのは靴の裏だが、裸足で歩いているように冷たく感じられる。けれども一歩踏み出しても足が滑りそうな様子は無く、ほっと息をついて妖夢はおそるおそる中に入り込む。通路は奥に行くにしたがって、少しずつ下り坂になっていくようだったから、闇の中を踏み込む時は自然と足が慎重になった。ゆっくり、慎重に、足を滑らせないように………
先へ進むにつれて、子供の頃に消えた冒険心や好奇心が、どんどん湧き上がってくるのが感じられ、妖夢は年甲斐もなく胸がわくわくしていた―――見かけは少女だが、中身は百年近く年を経ている―――そのせいで、宙を浮いていればまず滑るという心配をしなくて済むことや、昼餉を終えて午睡を満喫していた幽々子様が直に目覚める時間だということを次第に忘れてしまっていた。
心を躍らせる久方ぶりの歓喜に身を震わせ、妖夢は先へ進むたびに冷たさを増す闇の奥へと歩いていった。
村人たちから話を聞いた時は、あまりの驚きに声も出なかった。
彼らから盗まれたのは主に長老の蔵に置いてあった、門外不出の巻物や村で掘り出した黄金―――長老個人の蔵というより、村全体で管理している場所のようだった―――それに財貨の類も保管してあったらしい。村長には古物の収集癖があるらしく、何十年や何百年前に製造された刀剣もあるらしいとの話を聞いた瞬間、思わず体中の血が沸騰しそうになり、それが顔に出ないよう懸命に抑えた。
その村にやってきたのはほんの偶然、路銀を稼ぐためにぶらりと立ち寄っただけだった。その前までは金にも余裕があったのだが、厄介なことにこの前立ち寄った中有の道でスリに持ち金をあらかた掠め取られてしまったのだ。店にいる幽霊や亡霊に尋ねてみたが成果は上がらず、泊まる事も出来ずに一晩中歩き続けてこの村に辿り着いた。それまでも、紅い館が立つ湖や太陽の畑、魔法の森などの方々を回り、そろそろ食料も尽きかけていた所だったのだ。用心棒でもやって稼ごうと思った矢先、そう言った情報が集まりそうな居酒屋でその情報を耳にした。その話をした人間は浮かない顔をしていた。犯人グループとされる一味はべらぼうに強く、妖怪でさえ屠る事もあり、その上冥界に居を構えているのだから、こちらから討伐することもできやしない、と。
冥界、という単語で彼は目を見張った。男は続けた、あいつら、仲間内に魔法だか何だか使える奴がいるらしくて、そいつが術をかけて冥界に行き来できるようにしてるんだ。あそこまで逃げられたんじゃ俺たちにはどうしようもないし、そろそろ向こうの里(あんな遠くだけどよ、と言った感じで男は明後日の方向を指差した)にいるって言う守り神さまにでもお願いでもしなきゃならんかもな。けどな、あんな遠い場所にどうやったら無事に辿り着けるもんか―――
俺が引き受けよう、と男が言い終わる前に彼は言い、小瓶の中の酒を一気に呷ってから立ち上がった。もともとそんな話があれば飛びつこうと思っていたし、冥界という予想しなかった地名が出てきて、更にその仕事に対するやる気が盛り上がっていた。男は、あんた正気か? と怪訝そうな目で彼をじろりと睨み付けた。その腰のもんに自信はあるんだろうが、その白髪を見た感じ体力が保ちそうにないと見えるがね。悪いが、あんたみたいに立候補した奴が五人はいるんだが、全員行方不明になったよ。今頃虫の餌じゃないかねえ。
お前が瞬きする間に真っ二つにすることもできるんだぞ、と表情一つ変えずに彼は言った。実際その言葉は嘘ではなかった。刀の抜刀には自信があったし、大抵の人間ならば負けないと自負していたからだ。その言葉を耳にして、男は実際に刀を突きつけられたように慌てて後ろに下がり、椅子からずり落ちて床に尻餅をついた。がたんと大きな音がして、周りの人間が不思議そうな目で二人を見やる。彼は苦笑して、村長に今の話、伝えといてくれ、と言うと机の上に置いてあった略奪品を記した紙を懐に入れて、店を出て行った。残された男は酒の代金が自分に押し付けられたことや侮辱に近い扱いを受けたことにも頭が回らず、さっきの男から向けられた鬼神めいた威圧感と言葉に秘められた殺気に怯えるばかりだった。
懐に残った数少ない金で買えるだけの食料を買い、人目につかない村外れで彼は冥界へと飛んだ。その方法は魔術の一種で、剣の道のみをひたすらに研鑽してきた彼にとって、唯一使うことができる魔法だった―――かつて胸に抱いた赤ん坊とともに冥界に行く時も、同じ魔法を使った。あまり人に見せられるものではないので、周りに注意を向けながら用意していると時間はかかったが、無事にそれは成功した。
冥界に辿り着き、何十年前にここを去った後でも全く変わっていない風景に苦笑しながら歩いている際、ふと西行寺家に残してきた孫のことが頭に浮かんできた。銀にも似た白い髪、彼女の傍で頼りなく揺れる半霊、そして竹刀を持たせた時の姿。まざまざとあの子が子供の頃の思い出が目に浮かび―――
―――それから、自分に向けた孫の笑顔を見たことが無い自分に気がつき、後悔にも似たやりきれなさが襲ってきた。無意識に顔が歪み、自分を責め苛むどす黒い思考が体中を支配しようとする。年月の経過により白くなった髪を強く掻いて湧き出た思考をかき乱そうとするが上手くいかない。
自分が果たして孫の育て方を間違えたのかもしれないということには、屋敷を離れて数年経ってから思い至った。切っ掛けは何気なく簡単なもので、どこにでも存在するような日常の風景だった。
ある日、人間の里に向かって道端を歩いている際、脇で二人の子供が紐に結んだ虻で遊んでいる光景を見つけた。その子供らは見ているこちらの顔が綻ぶほど眩い笑顔で、向日葵のように元気な笑い声を響かせていた。それが兄弟なのか友達なのかぱっと見では判断できなかったが、彼らはとても仲が良かった。日の光がもたらす陽気によってぼうっとした頭でその顔を見て、その声を聞いて、同じような体格をしていた孫に自分はどんな育て方をしただろうか、と考えた。
途端にぐっと息が詰まるような戦慄を覚えた。一瞬にしてこれまで信じてきた物が簡単に崩れ落ちたかのような、信じられない程不安な気持ちになった。自分自身でさえ、こんな感情が噴き出すとはと驚いたものだ。それ以上子供たちを見ていられなくて顔を明後日の方向に向けると、逃げ出すように早足で歩き始めた、と言うより逃げ出した。今しがた覚えたばかりの不安を払拭しようと努力したものの、どんどんその不安は大きくなる一方だった。里に着くと三日間、布団の中で丸まり絶やすことの無かった剣術の鍛錬まで休み、自分があの子に教え育てた教育が果たして正しかったのか自問自答した。考え込むことによって単純明快だった論理がどうしようもなく複雑に思え、不安は霧のように道筋を塞いでしまい、彼は思考の迷路の中で迷った。昼夜問わず考え続け、一睡も出来なかった。もしかして自分は恐るべき間違いをしでかしたのではないかという思いが終始頭を掠め、何度も彼は叫びだしたくなった。俺は正しかった! 正しいに決まってる! あの子に自分のやるべき事を教えたんだ!
これ以上の方法なんてあるわけがない!
本当にそうだったのだろうか? どんなに自己肯定の言葉を心の中で叫び散らし、剣を持つことで如何に精神を鍛えられるかを思い描いても、たった一つの疑問がそれら全てを容赦なく打ち砕いた。
あの子にその道を強要させることは正しいことだったのだろうか? と思った。
自分でもありえないような疑問だと考えた。持つことすら馬鹿らしい、考えるに値しない疑問だと。
自分の子供の頃は孫と同じように育てられてきた。殴られ、蹴られ、怒鳴られ、そうされたおかげで踏み抜かれた雑草のようにたくましく育つことができた。西行寺家に仕え、護衛としてその勤めを果たした。主の死さえ看取った。だから孫にも同じ道を歩ませるべきなのだ。自分と同じように厳しい試練に対抗しなければならないのだ。魂魄家に生まれた人間として、そうしなければいけないのだ。
だがあの子の機械的な動き、黙々と竹刀を振り、叩かれても打たれても表情を変えず、何かに耐え抜くかのように彼の訓練を受ける姿を思い出すと、これまで予想もしなかった方向からやってくる痛みが胸を貫いた。あの子には、もっとまともな道があったんじゃないか? 虻に結んだ紐を持って、近所の子供たちと駆けずり回って野原を走り回り、笑顔とともに成長していくような道が?
自分はあの子を人間として扱わないことで、笑顔というものを失わせたんじゃないか?
やもすれば、永遠に。
それに輪をかけて酷いのは、その不安が現実の物になってしまうことだった。
孫と道端で遊んでいる子供たちの絵が何度もブレては離れ、ブレては離れた。それ自体同一のものであったのに、なにか恐ろしい間違いのせいで離れさせられたかのようだった。
彼は悩んだ。悩み続けた。
四日目になって、とうとう答えが分からなくなった。それと同時に、もしも西行寺家に戻ったら、孫にどんな顔をして会えばいいのかも分からなくなった。
だから彼は、その問題について考えることをやめた。ただじくじくと血を流し続けるその部分から目を逸らし、時間が傷を塞ぎ、かさぶたを作り、勝手に傷を見えなくしてくれることを祈った。そろそろ西行寺家に一度ぐらいは立ち寄ろうかとこの頃の彼は考えていたのだが、それは撤回せざるを得なくなった。
ふと、自分が森の真ん中で立ち止まってしまっていることに気付く。目を向けていたことにも意識が及ばなかった真っ青な空から目を降ろして、西行寺家が存在するだろう方角にあたりをつけて、彼は目線を向けた。きっとあの子はあそこにいる。今もあの屋敷で庭師か何か………もしかすれば、正式に仕えるようになったのかもしれない。
この討伐が終わったら、一度あの子に会おう。会って話をして、もし自分のやったことが間違いであったのなら、素直に謝ろう。
太陽から投げかけられるぎらつく日差しに肌を焼かれ、済んだ青さをした虚空を見上げながら、彼はそう思った。
物心ついた時から竹刀を持たされ、文字を覚えるより先に剣の持ち方を覚えた。文字においても剣においても、祖父は妖夢を指導した―――というよりは、鬼のように無理矢理叩き込んだ。妖夢たちが居候をしていた西行寺家の庭先で主に訓練は行われた。時には屋敷を抜けて森の中に入ることもあったし、膝や腰まで水に漬かった状態ですることもあった。延々と走らされることや祖父以外の生物と戦わされることもあったし、その他覚えていないけれども色々な修練があった。始めの頃は祖父も優しく教えてくれたものの、基礎を終えた辺りからはどんどん厳しく、辛いものとなっていった。打ち合いの時に一度でも竹刀を落とされれば何回も強く頬を叩かれた。打たれた箇所は膨らんで三日間そのままだった。雨の最中で足が震えれば膝を打たれた。たまらず膝をつくと、今度は頭を打たれる。一言弱音を吐けば飯が抜きになった。三日間飯を抜きになったことはあったが、祖父は平然と訓練を続け、一度栄養失調で死ぬ寸前まで行ったことがある。祖父との訓練は、朝も昼も夜も、雨の日も雪の日も霧の日も雪の日も、一日だって欠かすことなく続けられた。そのせいか、骨折から風邪と、あらゆる種類の体調不良を妖夢は経験したことがある。一度、祖父は本気で自分を殺そうとしているんじゃないかとまで思ったが、悪鬼も裸足で逃げ出すような祖父の教え具合に、まもなくそんな疑念は頭の中から叩き出され、二度と妖夢もそう考えなかった。
たまに祖父と連れ立って屋敷から出て、長い長い階段を時間をかけて降り(この時ばかりは祖父も妖夢の手を握り、何百段という高さから落下しないようにしてくれた)、麓にある町へ買い物に行く時も、決して脇見をすることはできなかった。『物を持つことは雑念となり、雑念は弱みとなる。弱みを持てばその部分から心が腐り始めて、やがて大切な物を守れなくなる』と祖父は教え聞かせた。道端に生えている花や、外を走っている女の子の頭につけられている不思議な物―――それが髪飾りだと知ったのは、ずっとずっと後だった―――を見ることさえ禁じられた。幼心にはその言葉や訓練がどんなに苛烈なものであっても、紛う事無き真実であり、彼女を取り巻く世界そのものだった。祖父からの折檻はその頃の妖夢の全てだった。叩かれた。蹴られた。怒鳴られた。殴られた。ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけられ、そんな中でも剣を持つ努力を無理矢理させられた。どんな死地でも、窮地でも耐え忍ぶ努力をさせられた。彼女は耐えた。耐えるしかなかった。それ以外にどうすればいいのか彼女は知らなかった。
だから体中に紫色のアザが出来るのも当然だった。祖父は硬膏の張り方だけ教えてさっさと部屋を出て行ってしまったから、妖夢はそれらを一人で体中に貼り付けなければいけなかった。子供の手はそれほど長くないし、貼り付けるべき所には背中も含まれていたから、決して簡単な作業ではなかった。それほど広くもない部屋の中で、ごそごそと音を立てながらそんな事をしていると、次第に自分自身が惨めで、取るに足らないちっぽけなものに思えてきた。今頃外にいるだろう祖父は自分の何千倍も、何万倍も大きな存在で、きつい稽古をつけられている自分は遥かに及ばないどうしようもない存在なのだと。自分が馬鹿でのろまで剣を持つのが下手だから、いつも祖父が怒るのだと。このまま消えられたらどんなにか楽だろうかと。様々なことを思った。そのうち涙が溢れ出てきて手が止まった。もしたった今祖父に見つけられたら何をされるか分からなかったから、両手で声を押し殺した。頭の中が真っ赤になって、肺から息が搾り出される。大きな嗚咽がこみ上げてきて、喉がひくひくと動く。
もう泣くだろうな、と心の底で思った時、障子が音もなく開いた。あの人かもしれないと思って立ち上がろうとした束の間、そこには自分がこれから守るべき人が立っていた。正確には、祖父にそう教えられていた。名前は西行寺幽々子で、この屋敷に住む人(正確には生きていないのだけれど)としては、妖夢と祖父以外でただ一人の人だった。大丈夫? ひどいアザ、と妖夢を気遣いながらその人はしゃがみこんで、幽霊だというのに温かく思える手でアザの部分を撫でてくれる。その感触と祖父のごつごつした、怖気と警戒心を引き起こす感触とを比較してしまい、祖父にも、目の前の亡霊嬢にも申し訳ない気持ちが湧き出てきて、また涙を流す。これは弱さだ。弱さは心を腐らせる。そう思ってもどうしようもなかった。硬膏、張ってあげるね、と幽々子様は背中に回って、一人じゃ手が届かなかった所に薬を塗りこみ、その上から布を貼り付けてくれた。すぅ、と背中がひんやりして痛みが消えていく感触。それは湿布だけの効能じゃなく、背中をやさしく撫でてくれる、西行寺幽々子という名前の姫様がいるからだと思った。自分一人でやったんじゃ、とてもこんなに温かい気持ちにはなれない。
このまま振り向いて、幽々子様にすがり付いて泣き出したくなったが、あの人がそんな弱さを曝け出すことを許さないだろうし、そうすることで自分がますます弱くなりそうな気がして、顔を擦って涙を誤魔化しながら、温かい幽々子様からそっと離れた。もう、いかないと、と言いながら。
本当は行きたくなかった。このまま部屋に残って、幽々子様とお話をして楽しく過ごしたかった。一緒にお茶を飲んで、菓子を食べて、すっかり磨耗した神経を心行くまで休ませたかった。だけどそれはあの人に逆らうことだったから不可能だった。それは自分を否定することだ。それは心を腐らせ、幽々子様を死に至らしめるものだ。
だが恐怖感がなによりも先に出てきた。自分は祖父を怖がっているのだと、彼の姿を見るたびに心のどこかが逃げ出したがっていることを、この頃には明確に意識しはじめていた。
部屋を出る際、ねえ、と幽々子様が声をかけた。言っていいのか迷っているような、そんな感じの声だった。振り向くと、顔を俯けていた幽々子様が、決心したように顔を上げた所だった。あの人、あなたに厳しく―――すごく厳しく当たるけれど、でも、嫌っているわけじゃないのよ。この前私に話してくれたの。お酒を飲みながらあの人、妖夢が可愛くて仕方が無いって。だから、精一杯自分が持っている物を全部あの子に伝えてやりたいって、そう言ってたの。幽々子様は途切れがちに、これを言ってしまっていいのか、最後まで悩んでいるような調子で打ち明けた。一回口を閉じてから、幽々子様はもう一度言った。
だから、そんな悲しい顔、しないで。
言われるがままに、自分で自分の顔を触る。これが悲しいんだろうか。元々こんな顔だった気がするし、そうでなかったかもしれない。ひょっとするとあの人に扱かれているうちに、だんだん自分でも気付いていないうちに変化してきたのかもしれない。努めて、悲しいと思われないように顔の表情を変えて、幽々子様に言う。わたし、大丈夫です。こんなの、いつもと比べたら転んだみたいなものです。硬膏、ありがとうございました。
言葉の最後の部分では幽々子様から顔を背けた。幽々子様の目をじっと見ていたら、また泣き出してしまいそうだったからだ。障子を開けて、部屋を出て、後ろ手に閉める。この間、幽々子様の声は聞こえなかった。すう、と一息吸い込んで、あの人が待っているだろう庭へ戻った。
雨がそぼ降る庭で、祖父は妖夢の目を刀のような鋭い目付きで睨み付けていた。迂闊に触れると真っ二つにされてしまいそうな威圧感が彼から放たれているのを妖夢は感じとった。遅いぞ、と一言。並みの子供であればその時点で震え上がるような声質だったけれど、既に慣れていた妖夢は動じなかった。謝罪を表すように一礼して、祖父の前に立つ。雨が頭や体に当たるが全く気にならない。竹刀を持ち、構えている祖父にひたすら集中する。そうでなければ超高速で飛来する竹刀を防げないからだ。
『あの人、あなたに厳しく当たるけれど』
いつのまに振り上げたのか、警戒していたにも関わらず竹刀で横腹を二発、背中を一発打ち据えられる。足から力が抜けて倒れる。胃の中身を戻しそうになり、祖父が怒声を吐く。
『嫌っているわけじゃないのよ』
立ち上がると拳骨で殴られる。何だその様は。お前は本当に魂魄妖夢なのか。それともどこかから紛れ込んできた餓鬼なのか。もしやる気があるなら態度で示せ。もう一度!!
『精一杯自分が持っている物を全部あの子に伝えてやりたいって、そう言ってたの』
怒声、怒号、熊の咆哮のようなどら声。そして一寸の慈悲もなく体に叩きつけられる衝撃。
幽々子様が嘘を言うわけがない。絶対にそんな筈が無い。だけどそうした確固とした信頼とは裏腹に、妖夢にはその言葉が疑問に思えていた。祖父には人に優しくするような、そんな心が存在するのだろうかと、自分のことなんて何とも思っていなくて、ただ己の腕を後世へ伝えるための手っ取り早い道具でしかないんじゃないかと。疑問は湧き出たまま、どんなに殴られても、どんなに打ち据えられても、いつまでも消えなかった。
もしかしたら祖父は幽々子様を騙しているのかもしれない、という恐ろしい考えも浮かんだが、すぐに消した。そうしないと弱音を吐く以上に自分の心が腐ると本能的に判断したからだ。
訓練は続いた。昨日もあった、今日もあった、明日もあるだろう、きっと明後日もあるだろう。いつまでも殴られるだろう。いつまでも走らされ、竹刀を振らされ、ひたすらに訓練をさせられるだろう。その時の妖夢にとって、それは幽々子様や祖父の存在と同じくらい確かなものだった。
終焉がやってきたのは唐突だった。いつも通りの朝で、今日は何発殴られるんだろうと心を硬くして庭で正座していた時、幽々子様が縁側に姿を現して言った。あの人がいないのよ、妖夢、心当たりない?
その言葉を聞いたはじめ、訓練を休めるかもしれないと言う心の中のずる賢い部分が動いただけだった。もしかしたら、今日は一日家を留守にするのかもしれない。そういう時は極稀に一度か二度あった。そういう日が来ることを待ち望んでいたが、いざやってくるとどうすればいいのか分からなかった妖夢は、そういう時には幽々子様と一緒にいた。幽々子様と羊羹を食べたり、一緒に散歩をしたり、幽々子様が書く書道を見ていたりした。そういう時には例外なく、心の中に幽々子様の手みたいな、温かい物が満ちて、生きていて良かった、と思えるのだ。きっと今日も同じようなものだろう。妖夢は単純にそう考え、今日は何を書いてもらおうかと狸の皮算用までしていた始末だった。
事態がそれだけに留まらないことを知ったのは、祖父の部屋にある文書を幽々子様が見つけた時だった。祖父が出かける時は大抵幽々子様に言伝をしてから出かけたので、それがないことに違和感を覚えた幽々子様が、祖父の部屋を探した結果だった。幽々子様へ、と筆文字で書いてあったそれを、二人で一緒に読んだ。習いたての妖夢にも読めるほど内容は簡単だった。祖父と妖夢は西行寺家に居候しているが、急用が出来て祖父は至急この家を離れなければならなくなった。出来れば孫も連れて行きたいが(この文字を見た時、誇張無しに妖夢は震え上がった)、事情が逼迫しているため置いていかざるをえない。非常に長い間留守にするだろうと思うが、孫のことを宜しくお願い致します。云々。
読み終えた時、心の中に真っ先に去来したのは、寂しさでも、悲しみでもなかった。それは解放感だった。いつまでも自分が閉じ込められているだろうと絶望していた牢獄は、実は鍵が掛かっていなかったことを発見したような気狂いじみた歓喜。おそるおそる戸を押し開けて、外の光を全身に浴びた際の恐怖じみた興奮。そうした物が体中を支配して、実際庭に出て叫びたいというこの上なく強烈な衝動を我慢しなければならなかった。それでも、今自分が感じている気持ちを幽々子様に気取られれば不謹慎だと思い、せめて心中を気取られないようにそっと傍を離れた。幽々子様を振り返ると、彼女は手紙を何回も読み返していて妖夢には気付いていないようだった。人によっては、祖父の印象は大分違うんだろう。風船のようにふわふわした頭で妖夢はそう思った。
西行寺家の庭がよく見える縁側までやってきて、今自分が置かれている環境が夢じゃないかと思いながら腰を下ろす。ぎっと古めかしい板が音を立てるけれど、その音がきっかけで目を覚ますことはない。あの人の雷みたいな声で起こされることもない。おそるおそる顔を触っても、いつも感じているものと同じ、自分の冷たい手の感触。半霊に触れてもいつもと同じだった。
両手で顔を覆い、汗ばんだ手から発せられる暗闇の中で、魂魄妖夢は一声、泣き声を上げた。涙が一筋垂れてきたが、それだけだった。それで、これが現実だとようやく理解した。
こうして、魂魄妖夢の人生から魂魄妖忌はふっつりと、煙のように姿を消した。
それから何十年かして、魂魄妖夢は冥界に数多存在する森の中を散歩している時に、ある不思議な発見をした。
数ヶ月ほど前から、西行寺家の庭の手入れや昼ごはんの支度、そうした諸々の雑事を終わらせた後で、妖夢はたまに散歩をすることにしていた。剣の修行や家の見回りはそれ自体、とても大切なことだが、時には頭の中を空っぽにしてぶらぶらと歩き回り、森の中で木の匂いを嗅ぐことや、西行寺家前の階段に長い年月と共に刻まれたヒビを眺めることも、精神的な修行という面では同じぐらい大切なのだと考えたからだった。そうでなくとも、ここ最近は三日おきの宴会騒ぎや花の異変、明けない夜などこれまでは決して無かった事件が続発していたのだから、ある程度物事をぼんやり考えて、多分に刺激を受けがちな精神をリラックスさせる必要があった。まあ所謂ガス抜きみたいなものだった。
最初の頃は家の近くを軽く回ったり、空をふわふわ漂って眼下の景色を眺めるだけで満足していたものの、近頃はより遠くへ、より深い所へと足を伸ばすようになった。それも浮遊でではなく、徒歩だった。いつのまにか妖夢は空いた時間に冥界中を見て回らないと気が済まないようになっていた。そう長い時間は休みをとれるわけではないのだが、そういう時には変な所で凝り性なのか、それまで見て回った所を抜かし、まだ見ていない所を中心に見るようになった。少々爺むさいと言えなくもないが、この行為を知っているのは幽々子様ぐらいなので別に構う物でもなかった。それに白黒や巫女が知ったとしても、別にどうということもないだろう。やましいことをしているわけではないのだから。
この日も時間に余裕があることを確認して、屋敷から結構離れたなと自分でも思う所を歩く―――思わぬ発見をしたのは、その時だった。
妖夢は散歩をする際に幾つかのコースを設定しているが、今日彼女が歩いていたのは少々特殊なものだった。他では森の中や湖の傍を歩いたりしているのだが、ここでは山の際、それも切り立った崖の下を進んでいくというものだった。そのコースでは森や湖のように飛び交う幽霊たちを見られないし、延々と続く壁のような山肌には他所とは違って変化が無い。だが余計な物を無くすことによって自分の中で考えをまとめることに役立ったし、平坦で変わり映えの無い場所をのんびり歩くことによって、少々固すぎるきらいのある思考を柔らかくすることができた。どうすればもっと剣の腕が上がるのか、夕飯のおかずは何にするべきかとか、そう言った簡単には決められないようなことも、ぼんやりと頭を空っぽにすることで、思わぬ妙案が出てくることもあった。この時も妖夢は夕飯の内容を魚にするか山菜にするか、うんうんと唸りながら歩いていたのだが、唐突に前の方の岩肌にぽっかりと空いた穴が見えた。ちょうど肌色の柔らかい壁を指で突いたみたいに、今まで目にしたこともないような綺麗で黒々とした点を確認できる。周囲にはつい最近になって壁を形成するという役目を放棄したようで、岩があちこち散らばっている。妖夢がそこに駆け寄ると、その穴らしきものはこれまで岩の隙間から発見することができなかったことが疑問に思えるほど大きく見えた。中でも楼観剣は抜けるかな、と無意識に妖夢は考えを走らせていた。ここ、もしかして洞窟だったんだろうか?
穴の前で、一体どうしてこんなものが出来たのだろうと考え、すぐに原因らしきものを思いついた。
二週間ほど前、冥界の中で大きな嵐が吹き荒れた事があった。幽霊が蔓延り魂の転換点である冥界でも大掛かりな自然現象は発生するものらしく、三日続いた大嵐は冥界中を巻き込んで豪雨と暴風を吹き荒らした挙句、西行寺家の部分部分をある程度掻っ攫っていった。西行寺家に避難した幽霊たちは無事だったものの、そうでなかった幽霊たちは殆どが嵐によって散り散りに吹き飛ばされた。あの後妖夢は幽霊たちを捕まえるために、冥界の中を吹っ飛びまわらなくてはならなかった。しかも仕事を終えたのも束の間、今度は西行寺家の当主である西行寺幽々子様より、嵐によって壊された屋敷の箇所を即刻修復するように命じられた。本来ならば幽々子様もあまり急かすようなことはしないのだが、破壊された箇所に幽々子様の寝所が含まれているのが問題だった。幽霊を追い掛け回すのに二日間、屋敷の修復のために二日間を妖夢は尽力し、殆ど毎日徹夜を断行させられていた。
きっとこの穴も、あの嵐が原因に違いない。その証拠に、穴の前にはかつて洞窟を覆い隠していただろう岩がごろりと死体のように転がっている。おそらくここには無い部分は、雨風である程度転がって行ったのだろう。妙なのは、どうも岩の壊れ方が物をぶつけられたような感じではなく、何か鋭利な物で切られたようにすっぱりと断ち切られていることだった。岩は主に真っ二つに裂かれたようになっており、嵐に吹き飛ばされた木や岩がぶち当たった程度じゃとてもこんな壊れ方なんてしない。想像もできないほど強い力で叩き切られたぐらいでなければならないだろう。そんなものがこの冥界に存在するだろうか、と暫く妖夢は考え込んでいたが、どうしても答えが出てこないので問いそのものを放棄することにした。
突っ立っていても仕方がないので穴の中を覗いてみると、中はおおよそ真っ暗となっており、通路の途中から完全な闇に支配されて奥の方は見えてこない。お化けや怪物などの類が苦手な妖夢は、もしかして中には………と嫌な想像をしてしまい、体中に鳥肌が走った。油虫や蛇ぐらいなら平気で斬れるが、そういうのは流石に怖い。半霊に見てこさせようと思ったが、どうやら妖夢と思考がシンクロしているらしき大型の幽霊は、ぶるぶると震えて背中に回りこんだ。せめて何か手がかりらしきものが見えないかと目を凝らしたが、それらしきものは見えてこない。
一旦屋敷に戻って明かりを持って来ようかと考えた時、洞窟の奥で一瞬、何かが光ったように見えた。ちかちか、と日の光に反応したのか、それは何度も星みたいに小さく輝き、まるで妖夢を誘っているように見える。なんだか話が出来すぎているように思えて少し怖くなってきたが、だがその頃には彼女の中の好奇心は抑え切れない程膨れ上がっていた。
少しの間、好奇心と子供っぽさから成る単純な恐怖心とが争っていたが、とうとう好奇心が勝利した。意を決して妖夢は、洞窟の闇へと体を滑り込ませた。
一歩穴の中に分け入ると、陽の光があたる場所にも関わらず、体中をひんやりとした冷気が覆うのが感じられた。日光が長年入ってこなかったせいもあるだろうが、そうしたことが外の世界との断絶を象徴しているように思えて、ぽつぽつと鳥肌が再び立ってきた。洞窟の通路に触れるのは靴の裏だが、裸足で歩いているように冷たく感じられる。けれども一歩踏み出しても足が滑りそうな様子は無く、ほっと息をついて妖夢はおそるおそる中に入り込む。通路は奥に行くにしたがって、少しずつ下り坂になっていくようだったから、闇の中を踏み込む時は自然と足が慎重になった。ゆっくり、慎重に、足を滑らせないように………
先へ進むにつれて、子供の頃に消えた冒険心や好奇心が、どんどん湧き上がってくるのが感じられ、妖夢は年甲斐もなく胸がわくわくしていた―――見かけは少女だが、中身は百年近く年を経ている―――そのせいで、宙を浮いていればまず滑るという心配をしなくて済むことや、昼餉を終えて午睡を満喫していた幽々子様が直に目覚める時間だということを次第に忘れてしまっていた。
心を躍らせる久方ぶりの歓喜に身を震わせ、妖夢は先へ進むたびに冷たさを増す闇の奥へと歩いていった。
村人たちから話を聞いた時は、あまりの驚きに声も出なかった。
彼らから盗まれたのは主に長老の蔵に置いてあった、門外不出の巻物や村で掘り出した黄金―――長老個人の蔵というより、村全体で管理している場所のようだった―――それに財貨の類も保管してあったらしい。村長には古物の収集癖があるらしく、何十年や何百年前に製造された刀剣もあるらしいとの話を聞いた瞬間、思わず体中の血が沸騰しそうになり、それが顔に出ないよう懸命に抑えた。
その村にやってきたのはほんの偶然、路銀を稼ぐためにぶらりと立ち寄っただけだった。その前までは金にも余裕があったのだが、厄介なことにこの前立ち寄った中有の道でスリに持ち金をあらかた掠め取られてしまったのだ。店にいる幽霊や亡霊に尋ねてみたが成果は上がらず、泊まる事も出来ずに一晩中歩き続けてこの村に辿り着いた。それまでも、紅い館が立つ湖や太陽の畑、魔法の森などの方々を回り、そろそろ食料も尽きかけていた所だったのだ。用心棒でもやって稼ごうと思った矢先、そう言った情報が集まりそうな居酒屋でその情報を耳にした。その話をした人間は浮かない顔をしていた。犯人グループとされる一味はべらぼうに強く、妖怪でさえ屠る事もあり、その上冥界に居を構えているのだから、こちらから討伐することもできやしない、と。
冥界、という単語で彼は目を見張った。男は続けた、あいつら、仲間内に魔法だか何だか使える奴がいるらしくて、そいつが術をかけて冥界に行き来できるようにしてるんだ。あそこまで逃げられたんじゃ俺たちにはどうしようもないし、そろそろ向こうの里(あんな遠くだけどよ、と言った感じで男は明後日の方向を指差した)にいるって言う守り神さまにでもお願いでもしなきゃならんかもな。けどな、あんな遠い場所にどうやったら無事に辿り着けるもんか―――
俺が引き受けよう、と男が言い終わる前に彼は言い、小瓶の中の酒を一気に呷ってから立ち上がった。もともとそんな話があれば飛びつこうと思っていたし、冥界という予想しなかった地名が出てきて、更にその仕事に対するやる気が盛り上がっていた。男は、あんた正気か? と怪訝そうな目で彼をじろりと睨み付けた。その腰のもんに自信はあるんだろうが、その白髪を見た感じ体力が保ちそうにないと見えるがね。悪いが、あんたみたいに立候補した奴が五人はいるんだが、全員行方不明になったよ。今頃虫の餌じゃないかねえ。
お前が瞬きする間に真っ二つにすることもできるんだぞ、と表情一つ変えずに彼は言った。実際その言葉は嘘ではなかった。刀の抜刀には自信があったし、大抵の人間ならば負けないと自負していたからだ。その言葉を耳にして、男は実際に刀を突きつけられたように慌てて後ろに下がり、椅子からずり落ちて床に尻餅をついた。がたんと大きな音がして、周りの人間が不思議そうな目で二人を見やる。彼は苦笑して、村長に今の話、伝えといてくれ、と言うと机の上に置いてあった略奪品を記した紙を懐に入れて、店を出て行った。残された男は酒の代金が自分に押し付けられたことや侮辱に近い扱いを受けたことにも頭が回らず、さっきの男から向けられた鬼神めいた威圧感と言葉に秘められた殺気に怯えるばかりだった。
懐に残った数少ない金で買えるだけの食料を買い、人目につかない村外れで彼は冥界へと飛んだ。その方法は魔術の一種で、剣の道のみをひたすらに研鑽してきた彼にとって、唯一使うことができる魔法だった―――かつて胸に抱いた赤ん坊とともに冥界に行く時も、同じ魔法を使った。あまり人に見せられるものではないので、周りに注意を向けながら用意していると時間はかかったが、無事にそれは成功した。
冥界に辿り着き、何十年前にここを去った後でも全く変わっていない風景に苦笑しながら歩いている際、ふと西行寺家に残してきた孫のことが頭に浮かんできた。銀にも似た白い髪、彼女の傍で頼りなく揺れる半霊、そして竹刀を持たせた時の姿。まざまざとあの子が子供の頃の思い出が目に浮かび―――
―――それから、自分に向けた孫の笑顔を見たことが無い自分に気がつき、後悔にも似たやりきれなさが襲ってきた。無意識に顔が歪み、自分を責め苛むどす黒い思考が体中を支配しようとする。年月の経過により白くなった髪を強く掻いて湧き出た思考をかき乱そうとするが上手くいかない。
自分が果たして孫の育て方を間違えたのかもしれないということには、屋敷を離れて数年経ってから思い至った。切っ掛けは何気なく簡単なもので、どこにでも存在するような日常の風景だった。
ある日、人間の里に向かって道端を歩いている際、脇で二人の子供が紐に結んだ虻で遊んでいる光景を見つけた。その子供らは見ているこちらの顔が綻ぶほど眩い笑顔で、向日葵のように元気な笑い声を響かせていた。それが兄弟なのか友達なのかぱっと見では判断できなかったが、彼らはとても仲が良かった。日の光がもたらす陽気によってぼうっとした頭でその顔を見て、その声を聞いて、同じような体格をしていた孫に自分はどんな育て方をしただろうか、と考えた。
途端にぐっと息が詰まるような戦慄を覚えた。一瞬にしてこれまで信じてきた物が簡単に崩れ落ちたかのような、信じられない程不安な気持ちになった。自分自身でさえ、こんな感情が噴き出すとはと驚いたものだ。それ以上子供たちを見ていられなくて顔を明後日の方向に向けると、逃げ出すように早足で歩き始めた、と言うより逃げ出した。今しがた覚えたばかりの不安を払拭しようと努力したものの、どんどんその不安は大きくなる一方だった。里に着くと三日間、布団の中で丸まり絶やすことの無かった剣術の鍛錬まで休み、自分があの子に教え育てた教育が果たして正しかったのか自問自答した。考え込むことによって単純明快だった論理がどうしようもなく複雑に思え、不安は霧のように道筋を塞いでしまい、彼は思考の迷路の中で迷った。昼夜問わず考え続け、一睡も出来なかった。もしかして自分は恐るべき間違いをしでかしたのではないかという思いが終始頭を掠め、何度も彼は叫びだしたくなった。俺は正しかった! 正しいに決まってる! あの子に自分のやるべき事を教えたんだ!
これ以上の方法なんてあるわけがない!
本当にそうだったのだろうか? どんなに自己肯定の言葉を心の中で叫び散らし、剣を持つことで如何に精神を鍛えられるかを思い描いても、たった一つの疑問がそれら全てを容赦なく打ち砕いた。
あの子にその道を強要させることは正しいことだったのだろうか? と思った。
自分でもありえないような疑問だと考えた。持つことすら馬鹿らしい、考えるに値しない疑問だと。
自分の子供の頃は孫と同じように育てられてきた。殴られ、蹴られ、怒鳴られ、そうされたおかげで踏み抜かれた雑草のようにたくましく育つことができた。西行寺家に仕え、護衛としてその勤めを果たした。主の死さえ看取った。だから孫にも同じ道を歩ませるべきなのだ。自分と同じように厳しい試練に対抗しなければならないのだ。魂魄家に生まれた人間として、そうしなければいけないのだ。
だがあの子の機械的な動き、黙々と竹刀を振り、叩かれても打たれても表情を変えず、何かに耐え抜くかのように彼の訓練を受ける姿を思い出すと、これまで予想もしなかった方向からやってくる痛みが胸を貫いた。あの子には、もっとまともな道があったんじゃないか? 虻に結んだ紐を持って、近所の子供たちと駆けずり回って野原を走り回り、笑顔とともに成長していくような道が?
自分はあの子を人間として扱わないことで、笑顔というものを失わせたんじゃないか?
やもすれば、永遠に。
それに輪をかけて酷いのは、その不安が現実の物になってしまうことだった。
孫と道端で遊んでいる子供たちの絵が何度もブレては離れ、ブレては離れた。それ自体同一のものであったのに、なにか恐ろしい間違いのせいで離れさせられたかのようだった。
彼は悩んだ。悩み続けた。
四日目になって、とうとう答えが分からなくなった。それと同時に、もしも西行寺家に戻ったら、孫にどんな顔をして会えばいいのかも分からなくなった。
だから彼は、その問題について考えることをやめた。ただじくじくと血を流し続けるその部分から目を逸らし、時間が傷を塞ぎ、かさぶたを作り、勝手に傷を見えなくしてくれることを祈った。そろそろ西行寺家に一度ぐらいは立ち寄ろうかとこの頃の彼は考えていたのだが、それは撤回せざるを得なくなった。
ふと、自分が森の真ん中で立ち止まってしまっていることに気付く。目を向けていたことにも意識が及ばなかった真っ青な空から目を降ろして、西行寺家が存在するだろう方角にあたりをつけて、彼は目線を向けた。きっとあの子はあそこにいる。今もあの屋敷で庭師か何か………もしかすれば、正式に仕えるようになったのかもしれない。
この討伐が終わったら、一度あの子に会おう。会って話をして、もし自分のやったことが間違いであったのなら、素直に謝ろう。
太陽から投げかけられるぎらつく日差しに肌を焼かれ、済んだ青さをした虚空を見上げながら、彼はそう思った。