※はじめに※
この駄文は「すきま妖怪と世界を喰らう魔狼」の後編です。
暫く笑い続けていた少女は、満足したのか、未だ狂気の笑みを顔に浮かべながら、紫だった肉片に背を向けて背後の森へと歩いていく。
『愚か者めが……』
「皆死ンジャエ……」
去っていく少女の口から、ここに来て初めてまともな言葉が出てきた。
だが。
『我の眼前に立ち塞がるものは総て』
「皆大嫌イ……」
少女の、擦れた声とは別の、何者かの声が、少女の口から同時に発せられている。
『有象無象の区別無く』
「憎イ……殺ス……壊ス」
「『全部滅ぼしてくれる……!!!』」
この世のものとは思えない、奈落の底よりも深いところから響いてくるかのような声音。
総てを焼き尽くすかのような、地獄の業火の如き憎悪が声に滴っていた。
「『そうだ。全部。全部滅ぼしてやる。こんな世界(ところ)なんか大嫌いだ!!!!』」
ギリギリと牙を咬み鳴らし、両手両足の爪がバキバキと音を立てて凶悪な様になり伸びていく。
「『全部……壊して、殺して、滅ぼしてやる……』」
狂気と憎悪に歪んだ顔を天に向け、狼少女は地鳴りのするような、巨大な遠吠えをした。
聴くものすべてを畏怖させるかのような、身の毛のよだつ恐ろしい遠吠えだった。
「『さぁ……次は……何を壊して……誰を殺そう……』」
遠吠えの後、少女は狂気の薄ら笑いを張り付かせたままゆっくりと森の中へと入って行き……。
「残念ね。貴女に次は無いわ」
「『!?』」
少女の足元から、何本もの巨大な槍の穂先が飛び出してきた。
「『クッ!?』」
穂先は少女の右足を掠めただけで大した傷にはならなかったが、彼女に与えた精神的なショックはかなりのものだった。
「『何者だ……』」
狼少女は油断無く周囲を見渡していく。
「『何処だ……何処に居る……?』」
だが、何者の気配も感じ取れなかった。
「……判らないの?まさか、忘れてしまったのかしら」
「『?』」
「ここよ、こ・こ」
少女が声の聞こえてきた方向へと振り向く。
その先に見えたものは……。
「『……?』」
彼女の視線の先。
そこは先程までの戦場であり。
たった今、彼女が殺した女の死体だけ……。
「あーあ、こぉーんな可愛い女の子を捕まえて、挽肉みたいにしちゃうだなんて……犯罪よ?」
死体だけ……?
「まったく、失礼しちゃうわね」
「『な……に……?』」
「結構痛かったわよ、さっきのアレ」
死体が、喋っている。
「面倒くさがらずに普通に戦っていれば、こんな風にはならないのだけれど…」
否、喋っているというよりそれは、どこかから、口とは別の場所から発音されているように聞こえた。
それでも。
「『馬鹿な……何故……』」
「でも、残念。たったアレっぽっちでは、この八雲 紫は殺せない」
死体が喋っているようにしか聞こえない。
大気がざわめく。
木々が震える。
大地が怯える。
その場所に、彼女達が存在するその空間、その世界に、あまりに禍々しい妖気が、濃密を通り越して「満」そのものと言っても過言では無い程に満ち充ちていく。
少女は全身が総毛立つのを感じた。
(我が……この我が……)
「ア、アアアア…」
(恐怖だと……!?)
妖気は急速に、森全体を包み込んでいく。
その勢いたるや幻想郷全体を飲み込むが如く。
『貴様は……いったい……』
「私?私はただのすきま妖怪。趣味はお昼寝と寝ることと冬眠」
だがその妖気は突然広がるのを止めた。
「おっといけない……これ以上は霊夢に見つかってしまうわ。……うん、これくらいにしとかいとね」
死体が、何か、得体の知れない黒い霞のようなものに包まれていく。
得体が知れないのは、単にそれが不気味だから、だけでは無かった。
それには気配と呼べるものが存在していないのだ。
確かに其処に居るのに、何故か認識出来ない。
ザワザワと不気味な音を立てて、それはだんだんと大きくなっていく。
やがて……。
黒い霞は人一人ほどの大きさの塊へと収束して行き……。
終には人の形を成していく。
「新しい服を用意しなきゃ。もうちょっと待っててね」
黒い人型が、まるで友人にでも話しかけるような調子でそう言った。
人型がそう言って数秒と立たぬうちに、黒い人型はだんだんとその輪郭を露わにしていく。
そして、唐突に黒い人型から強烈な突風が発せられた。
狼少女は思わず目を閉じてしまう。
「ふぅ……再構築なんて久しぶりだったから、少し手間取ってしまったわ。マメにチェックしておかないとね」
「……!!!」
『貴様……!何故……』
聞き覚えのある声に、少女は吹き付ける突風の中、瞳を開けてそのまま凝固した。
背筋に電極を押し付けれたかのような怖気が走った。
『殺した筈だ……その身を内からバラバラに粉砕した筈だ……』
「あぁ……アレのこと?まぁ…ちょっと痛かったけれど。戦うって時であるならば、大したことでもないわ」
狼少女の眼前には。
つい先程、彼女自身の手で葬り去ったはずの女妖怪が、気だるそうな表情でこちらを見て笑っていた。
「さっきのアレ……中々どうして、物騒な技ね。私にはアレだけれど他の連中が喰らったらアレね」
まるで、他愛の無い世間話でもするかのように、復活した紫は少女に話しかけた。
「貴女の、さっきの能力」
ビシリ、と紫は少女に向けて指を突き付けた。
「まず最初のアレ。アレは、私の周囲の空間を、こう…揺さぶって、衝撃波を作り出す攻撃」
ぴくり、と少女の表情が動いた。
「私の腕を落としたのは、空間に断裂を生じさせて、それをぶつける攻撃。カマイタチに似てるかもね。空間の裂け目をぶつけると言う事は、ぶつかった場所とそうでない場所とが隔たれてしまい、結果的に切り離されてしまう。物理法則に囚われない、とっても便利な刃ね。お魚を捌くのに役立ちそう」
紫が、ゆっくりと少女との距離を詰めていく。
少女は動かない。
否、動けない。
「最後のアレは、私の身体の内側、そこにある空間を瞬間的に、これでもかって言うぐらいに圧縮し、それをやはり瞬間的に解放して、圧縮された空間の反発作用で私の身体を内から吹っ飛ばした。幻想郷に完全な「密」は多いようで少ない。少ないようで多くもあるけれど。まぁ兎に角、完全な「密」が無い以上、其処には隙間があり、その隙間とは空間ね。その空間がある場所なら、この技で破壊できないものは無い。無論、その対象が物理攻撃で壊せるものだけだけど。目標の内部自体が目標なのだから、回避も防御も不可能に近い」
紫が少女の目の前までやってきた。
「以上のことと、貴女の空間を渡る能力から考えられる答え。貴女の能力は空間操作。それも非常に高度な」
『……』
「ウゥウウウウゥ……」
「それともう一つ解った事」
紫の顔から笑みが消える。
「貴女の中にはどうも、人格が二つあるようね」
「ガァァァァーッ!!!」
少女の口から悲鳴に近い叫び声があがり、同時に、獰猛な一撃が紫に向けて繰り出された。
たとえ鋼であろうとも粉々に粉砕するであろうその拳は、紫の顔面を直撃した。
少女の顔に薄い笑みが浮かぶ。
会心の一撃だ。
隙だらけで近づいてくるお前が悪い……。
「……それで?」
少女は拳を紫の顔面にめり込ませたまま硬直した。
「……!」
『なんだと……』
紫は平然としていた。
それどころか、その顔に傷一つも負っていない。
効いていなかった。
「無駄よ。貴女の攻撃は、もう私には通じません。力の差というものね」
それまで、狂気と憎悪のみだった少女の顔に、ここに来て始めてそれ以外の感情が現れた。
恐怖。
『貴様は……貴様はいったい、何なのだ?』
「何だと言われましても」
少女は脱兎の勢いで紫から飛び離れた。
「グルルルル……」
『我の拳は確かに貴様に入った筈だ!なのに、何故…何故、通じていない!!』
「答えはさっき言いました。力の差。それと私は、どこの御家庭にも必ず一人は居るすきま妖怪」
『居るのか』
「私は何処にでも居るし、何処にも居ない。まぁそんなことはどうでもよろしい。質問しているのは私。貴女は誰?どうして貴女は心を二つ持っているのかしら」
『……知ってどうする』
「それは聞いてから考えるわ」
『……巫山戯た女だ。貴様のような女に、語る舌など持たぬわ!!!』
狼少女が紫に向けて手をかざす。
『もう一度、粉々にしてくれる!爆ぜろ!!!』
少女の掌から、目に見えない力が紫に向けて放たれる。
……だが。
『……なぜだ』
「……」
『何故だ!何故、何も起きない!?』
紫はそこに何事も無く立っていた。
「何も起きてはいたわ。私が消しただけで」
『消しただと!?』
「私も貴女と同じように空間を操れるのよ。正確には、空間というより境界をね」
『境界?』
「そう。詳しい説明は省くわ。面倒だし。……兎に角。貴女がさっきまでに繰り出した技はもう通じない。今のが奥の手みたいだけれど、
それも私には通じない。いくら私の内の空間を圧縮しても、私がそれをさせない」
『─―――――ッ!!』
「王手よ、狼さん」
刹那。
紫の姿が少女の視界から消失した。
「!!!」
『な』
気付けば吹き飛んでいた。
顔面に強烈な衝撃。
「『ガハッ!!!』」
自分が殴り飛ばされたと認識した時には、既に無数の連打を受けていた。
「ゴアァァァッ……」
『なっ!何だというのだ……この威力は!!ぬおおおおお……!!!』
容赦無い打撃の嵐。
「私が近接戦闘を苦手だとでも思っていたのかしら。それは間違い。得意とか不得意とかではなくて、距離なんて関係無いのが本当」
姿無き紫からの猛攻。
目にも止まらぬ、否、目にも映らない速度で紫は行動しているのだ。
「強さ自慢をするわけでは無いけれど、少なくとも」
「『―――――――ッ』」
「貴女如きに殺されるほど、私には死亡願望、無いのよ」
刹那、雷が間近に落ちたかのような轟音とともに、狼少女の身体が宙に打ち上げられた。
神速を遥かに上回る速度で繰り出された紫の蹴りが、少女の顎を真下からまともに直撃したのだ。
「貴女は頑丈さが売りらしいから、これぐらいじゃまだ参らないわよね……なら」
蹴り上げた少女を眺めながら、紫は右手を頭の高さまで上げ、
「こんなのは如何かしら」
指をパチンと鳴らす。
瞬間、宙に浮かされた少女に、四方八方から強烈な衝撃が襲い掛かった。
「グガッ!!!」
『こ…これはッ……!!』
目に見えない、衝撃。
「そう。貴女が私に教えてくれた技」
空間振動による衝撃波。
もっとも、紫の放つそれは、先程、少女が放ったものより威力は倍近い。
「それと」
紫の目がスッと細まる。
「空間圧縮もお返しするわね」
パチンと。
指の鳴る音。
「安心して。内から吹き飛ばしはしないわ。私が狙うのは貴女の近くの空間」
大気を劈く爆音。
触れるものを根こそぎ吹き飛ばす強烈なエネルギーが、狼少女の至近距離でその獰猛な牙を剥き、炸裂した。
その破壊力は、先程紫が受けたものと同じだとは到底思えないほどの、桁違いのものだ。
「『ウオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』」
「たぁまや~♪」
何時の間にか取り出した傘で、飛んでくる土砂や岩を弾きながら紫は教師が生徒に教えるかのように喋る。
「対象付近の空間を圧縮して吹き飛ばした方が、何かと効率がいいのよ、覚えておきなさい。個々の内部空間を圧縮して爆裂させる方が、与えるダメージが大きくていいけど、面倒くさいしね」
やがて、空間圧縮により炸裂したエネルギーの余波が徐々に収まっていき。
空から、黒焦げのボロ雑巾のような酷い惨状となって、狼少女の身体が落ちてきた。
地面に叩きつけられた少女は、そのままピクリとも動かない。
その身体は、全身ズタズタの酷いありさまだった。
全身に受けた傷から、鮮血が噴水の様に勢い良く噴き出す。
「あちゃー。やりすぎちゃったかしら?ウェルダンにしては焦げ過ぎね。生きてる?」
紫は倒れたまま動かない狼少女を覗き込むようにして見た。
さしもの強靭さを誇る少女も、今の一撃には耐え切れなかったようだ。
ぐったりとしていて、先程までの強大な生命力が嘘の様に消え失せてしまっている。
「『ぅ……ガハ……!』」
吐血。
動けなかった。
もはや指一つ動かせるだけの余力も無い。
(我が……負けるというのか?敗れると……?この…我が……)
全身が痛い。
身体が鉛のように重い。
「ガルル……カッ…ハッ!ハグア…ガ……」
声にならない。
全身から血液と一緒に気力と体力が流れ出ていくようだった。
(我が……我が……)
少女の顔には死相が色濃く現れていた。
見開かれた瞳は混濁としており、もはや視覚としての機能を失っていた。
「本当にやりすぎちゃったみたいね……久し振りに少し真面目にやったら、加減を間違えちゃったわ……。お墓は作ってあげるから、許してって……それは少しムシが良すぎるわね……」
……痛イ。
(我が死ぬ?我が消える?)
……痛イヨ。
(嫌だ……!死にたくない)
……死ニタクナイ……死ニタクナイヨ……。
(認めぬ……!我は認めぬぞ……ッ)
ドクン。
「な……何……?」
紫は我が目を疑った。
虫の息だった狼少女から、凄まじい妖気が溢れ出したのだ。
……死ニタクナイ……。
「?何?」
……イヤ……殺サナイデ……。
「……貴女なの?」
……憎イ!!
憎イ!!!
「くっ……」
少女の身体から溢れ出た妖気は、際限無く溢れ、周囲を満たし始める。
そして、妖気とともにその場に満ちていくもの。
憎悪。
憎悪が溢れ出していた。
まるで海のように。
「まだ…終わらないって事……?いいでしょう、今度こそ、苦しまないように終わらせてあげましょう」
周囲を満たしていく妖気と憎悪。
全てを飲み込むかのようなそれと対峙しながら、紫は一枚の符を取り出す。
……イヤイヤイヤ!死ニタクナイ!
……嫌イ嫌イ嫌イ!ミンナ大嫌イ……!!
「……終わりましょう……魍魎「二重黒死」……」
――――――――刹那。
……ミンナ殺シテヤル!!!!
「―――ッ!?何ですって?」
周囲に充ち満ちていた妖気と憎悪が、一斉に爆発した。
同時に、少女の身体から、黒い影の様なものが急速に拡がり……。
(影?違う!これは…闇?否!これは……ッ)
一気に周囲を飲み込んでいく。
「――――ッ!…っこれは……」
瞬時に拡がる黒に、離脱する間も無く紫も飲み込まれて行く……。
(隙間に逃げ込む暇が無い……それに……この黒は……)
……殺シテヤル……!殺シテヤル!!ミンナ殺シテヤル!!!
「……虚無」
……消エチャエ!!
ミンナ消エチャエ!!!
深い闇へと、紫は飲み込まれていった。
そこは何も無かった。
音も、光も、感覚さえも無かった。
何も無い世界。
虚無の世界。
狭いのか、広いのか。
地に足が着いているのかそうでないのか。
立っているのかそうでないのか、それすらも解らない。
ただひたすらに何も無い、そこは虚無の世界だった。
「……ここは…そうか……私は…あの娘の身体から生まれた闇に飲まれて……」
紫は虚空を漂っていた。
意識を取り戻したのはつい先程。
いったい、どれほどの時間、こうしていたのだろうか。
先程、と言うのも、時間の感覚が曖昧なこの空間ではそれが本当に「先程」だったのか、「もっと昔」なのかさえ解らない。
時間の感覚も、ここには無かった。
「おかしな場所……いいえ、場所というのも適当ではないわね……この空間は何かしら?」
紫は周囲を見渡してみるが、やはり何も無かった。
「何の気配もしないし……嫌なところ。さっさと帰りましょう」
紫は隙間を開こうとした。
だが。
「え…うそ」
開かない。
紫は暫し黙考した後、
「……成る程……ここはある種の結界なのね……。それもかなり強力な。無理すれば隙間も開けるでしょうけれど、これ以上疲れたくないし、おなかも減ったわ……さぁどうしましょう」
漂いながら腕を組み、考えるフリをする。
「……とりあえず出口を探しましょう。結界ならば、どこかしらに弱い部分があるでしょうし、そこを破れば出れるはず」
感覚を総動員して、紫はゆっくりと闇の中を動き始めた。
――――――――――――――――暗い。
それに……狭かった。
窮屈だった。
動けなかった。
身体が重い。
重い上に、何かに縛られていて、まったく身動きが取れない。
……どうして、こんなところにいるんだろう。
怖い。
怖い。
寂しい。
寂しい。
誰か。
誰か、いないの?
誰もいないの?
助けて。
ここはいや。
出して。
お願い。
……お母さん……お父さん……。
「……本当、何も無いわね……」
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
時間の感覚が無いというのは、何と不便なことか、と紫は思った。
「あのメイドも、よく気が狂わないわね。普通の人間や妖怪ならばすぐに発狂しそうだわ……って、あのメイドは普通じゃなかったわね」
無明の闇。
虚無。
「……絶対的な孤独感……音も光も何も無い世界……こんな場所に長時間いたら間違い無く壊れてしまうわね……ゆかりんこわぁい」
おどけて見せるも、その顔には薄く焦りが出てきていた。
「……兎に角、長居は無用。御免被りたいわね。気分が悪くなるわ」
流石の紫も、背筋が薄ら寒くなるような世界だ。
無理矢理押し破ることも考えた。
だが、ここまで過ごしたのだから、何かしら解明したいと言う欲が芽生えて来たのである。
「……そろそろ何かがあると思うのだけれど……」
解らないし、判らない。
あとどれ程の時間、ここにいなければならないのか……。
「……もう少しだと思うのだけれど……」
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
何時までこうしていればいいのだろう?
一瞬か永遠か。
どちらともつかない世界。
変化など無い世界。
出口など、本当にあるのだろうか。
「………………」
どこまでも、果てし無く続く無明の闇。
虚無。
「……?」
―――――――その時。
―――――――何かが、聞こえた気がした。
―――――――――――暗い。
狭い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
どうして。
どうして?
どうして、誰も。
どうして誰も、助けてくれないの?
わたしの声が聞こえないの?
お願いだから。
助けて。
ここから出して。
嫌。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。
ここは嫌!!
「……声?あの娘の声かしら……小さすぎて解らないけれど…こっちかしら」
闇の彼方から幽かに聞こえてきた声。
耳を澄まし、消え入りそうな程に小さなその声は、虚無の世界であるこの空間で、はじめて感知できた変化だった。
それを紫は逃さなかった。
(何か変化があったということは、そこに何かが存在すると言うこと。ならばそこへ言ってみるのが道理ね、この場合)
紫は今も幽かに聞こえてくるその声のする方へと進んでいった。
聞き逃さないように、慎重に。
けれど速く、急いで。
――――――――――――寒いよ。
暗いよ。
怖いよ。
寂しいよ。
誰か。
誰か来て。
助けて。
ここから出して。
私は皆の姿が見えるのに。
皆は私が見えない。
皆の声が聞こえても、私の声は届かない。
誰も、誰も探そうとしてくれない。
私がこんなに苦しいのに。
私がこんなに寂しいのに。
私が。
なんで。
なんで私が、私だけが……。
私だけがこんな目に。
私だけ不幸。
他の皆は幸せそう。
どうして。
どうして……!!
―――――――――――――私はこんなに悲しくて怖くて苦しいのに。
―――――――――――――そんなに楽しそうに!幸せそうに笑っているの……!!?
―――――――――――――許せない。
―――――――――――――憎たらしい。
―――――――――――――憎い。
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
「解る……少しずつだけれど、確実に、「何か」に近付いているわ」
紫自身は、それなりに速く飛んでいるつもりだが、速度を感じさせる要素が周りにまったく無い為に、本人でさえ速いのか遅いのかが解らない。
だが、確実に「何か」へと近づいている事だけは解る。
「…これは…悲しみ?恐怖……そして……」
近づく度に僅かずつ解っていく「何か」。
憎悪。
「これは、やっぱりあの娘の……」
相変わらず、何も無い世界。
だが、進もうとすればするほどに、何も無かった世界に、何かが存在することがはっきりとしていく。
やがて。
「これは……」
紫は不意に歩みを止めた。
そこには。
言われて尚且つよく注意しなければ、到底見つけられないような、一粒の砂ほどの大きさの光があった。
「この小さな光…これがこの世界の綻び?…いいえ、違う……これは……あの娘の心?」
その光は断続的に、弱くなったり強くなったりしていた。
「悲しみ、恐怖と、怒り、憎悪が交互に発せられている……この光は、あの娘の心……精神なのね。それではこの虚無の世界は……」
紫は無限に拡がる無明の世界を見渡した。
「ここは、あの娘の精神世界というわけ……?だとすれば……なんて可哀相な娘なのかしら……」
紫は両手でその小さな光を優しく包み込んだ。
壊れてしまわないように、大事な宝物を扱うかのように。
「ここから出るには、この光が何らかの手がかりになっていると思うのだけれど。どうすれば……あら?」
包み込んだ光は、だんだんと紫の手の中で、その輝きを弱めていた。
「迂闊に触れちゃったかかしら……?それとも……いいえ、今は考えていられる場合じゃないわね…。これがあの娘の心なら、もうすぐあの娘の心は消えてしまうかもしれない」
光は徐々に弱々しくなっていく。
「……とりあえず……こうしてみましょうか」
紫は光を手にしたまま瞳を閉じて、精神を集中する。
「ちょっと…お邪魔するわよ」
紫がそう呟いた瞬間。
紫の身体が、掻き消えるようにして光の中へと吸い込まれていった。
(心の「隙間」に入らせてもらうわ……御免なさいね)
「…これは」
そこは、真紅。
視界いっぱいに拡がるのは、紅蓮の炎。
そこは炎の海だった。
「怒り…憎悪の海。これがあの娘の世界?」
熱かった。
触れるものは、何ものをも焼き尽くさずにはいられない、地獄の業火。
「これはあの娘の記憶?ここはまだ、心の表層……まだ、奥がある」
紫は炎の海の中へと進んでいく。
紫は気付いていなかったが、精神が弱い者がここへ入り込めば一瞬にしてその精神を焼き尽くされ、たちまち絶命してしまう、そんな世界。
奥へ進めば進むほど、その炎はより熱く、より激しくなっていく。
やがて。
「!」
恐らく、この世界の中心部かと思われる場所。
炎の中に、ゆらめく影を見つけた。
「……あれは」
目を凝らして、浮かぶ輪郭を捉える。
……それは、巨大な狼の姿をした影だった。
激しい憎悪の海の中心で尚、より禍々しく、より激しい憎悪を放つ存在。
「これは……?どこかで……。この影のようなものが、あの娘の心の中心部なのね。あの娘はこの中に……」
巨大な狼の影からは、先程から紫が感じていた、怒りと憎悪、悲しみの感情が絶えず発せられていた。
だが、その感情は徐々に弱くなっていっているのも紫が感じた通りだった。
「……!消えかかっている?」
弱くなってはいるが、未だに強大な感情の波を発し続けているそれを、紫は悲しげな面持ちで見つめた。
「心が消えていく……貴女に、何が起こったと言うの?」
解らなかった。
そもそも自分は、あの少女のことを知っているとは言えない。
だが……。
「憎悪の内にあるこの悲しみ……消えていく心……」
見過ごすことは出来なかった。
紫からしてみれば、ここから脱出する為に少女の心の中へと鍵を求めてやってきたのだから、目的だけを果たして、さっさと脱出するだけでよかった。
ただ、感じた少女の悲しみと、これまで通ってきた少女の精神世界、孤独は、紫の憐憫に少しばかり触れたのだ。
可能であれば、慰めてやりたかった。
強い者が持つ、ある種の、弱い者への憐れみの感情であることを紫は理解していたが、別にそれを悪いことだとは思わなかった。
自分がしたいからそれをする。
それは禁忌ではないのだから、それを行うのに躊躇いは無い。
「…どの道、覗くことになるのだから」
紫は、狼の影へとゆっくり近づいていく。
「見させてもらうわよ。早く出たいし、藍と橙を待たせてあるし」
影の中心部分へと入り込んでいく……。
影への侵入は思ったよりもずっと楽だった。
「拒まれるかと思っていたけど……それどころか」
影は、紫が近づくと、抵抗どころか、むしろ紫を歓迎でもするかのようにして、彼女の存在を中へと招きいれた。
侵入の際、隙間を開く準備をしていた紫は、その事実を訝しがりながらも、歩みを進めることにした。
そのまま奥へ、奥へと進んでいく。
影の内部は、外見とはまた違っていた。
入ってすぐ、表層部分は、影の見た目通り、黒い霞のようなものだけが拡がる空間だったが、それを抜けると、今度はあたり一面が光の世界になった。
光の泡。
光の粒子。
それは暖かかった。
「これは…」
光の泡の中に、何かが映っていた。
そこには男と女に抱かれている少女が映っていた。
男も女も少女も、幸せそうに笑っていた。
鏡を覗いているらしかった。
別の泡には、さっき見た泡の中にいた少女と、同じくらいの歳だと思われる少年少女が、楽しそうに遊んでいる姿。
別の泡にも、他の泡にも。
全ての泡に映っているのは、見ているだけで幸福感が滲み出てきそうな光景ばかりだった。
登場人物は、ほとんどが最初に見た男と女だった。
「この二人……夫婦かしら……それに、最初に見たアレに映っていた女の子…あれは、あの娘よね……ということは、あの娘の両親があの夫婦…これは、あの娘の記憶の断片……?」
どの記憶も、幸せに満ち溢れていた。
「こんなに幸せそうなのに、何故、貴女は、あんなに憎悪の炎を燃やすの?怒りに心を焦がし、悲しみに震えているの」
記憶の断片が作り出す緩やかな流れの中を、更に奥へと進んでいく。
どれ程進んだだろうか。
「…!?」
紫の目が、それまでの暖かな世界とは明らかに異質な、黒い影を捉えた。
「闇……。ここが、あの娘の心の最深部…?」
その闇は何よりも冷たく。
そして何よりも熱かった。
憎悪と怒り、悲しみの源。
「……」
紫はその闇へと触れた。
「……!!」
触れた途端、奥へと飲み込まれるような感覚が紫を襲った。
(落ちる…!深い闇へと……)
そこは何も無いように見えた。
だが、今までの虚無の世界とは違って、うっすらと何かがあることを紫に感じさせた。
奥へ、奥へと進んでいくうちに、一筋の光が見えてくる。
紫は躊躇わずにその光の中へと入っていく。
「……ここは」
そこは別世界だった。
今までの何も無かった世界では無く、像を持った、世界。
「あの娘の記憶が作り出した風景……?」
そこは、村のようだった。
紫の周囲には藁葺き屋根の家々。
周囲を森で囲まれた、小さな村。
「記憶の断片で見たわ……貴女の暮らしていた村なのね、ここは」
彼女が幸福な生活を送っていたであろう、その世界。
だが、そうでないことがすぐに解った。
「……!」
周囲から聞こえてくるのは幸せな日常の喧騒ではなかった。
怒号。
悲鳴。
剣戟の音。
肉を断ち、血飛沫が飛ぶ音。
木が燃える臭い。
肉が焦げる臭い。
助けを求める声。
罵声。
見回せば、周りの家々には何時の間にか火の手が上がっていた。
不思議なのは、聞こえてくる声が、何を言っているのか解らないことだった。
紫は上空へと飛び上がり、村を見下ろした。
「……ここは……狼人間の集落…?何が起こっているの?」
目を凝らし、今、村で起こっている事態を把握しようとする。
「あれは…人間?……人間が、狼人間の集落を襲っているのね」
紫はそれを暫く傍観していた。
人間達は一方的に狼人間達を虐殺していた。
見上げれば月は無い。
新月だった。
狼人間は、新月時には普通の、力の無い人間と大差の無い妖怪だ。
そして人間達の方が数は圧倒的に上だった。
質が同じなら後は物量の問題である。
人間達の、狼人間達に対する仕打ちは目も当てられないものだった。
老若男女、大人も子供も問わず皆殺し。
女は輪姦され、金品は強奪されていく。
…幻想郷ではさして珍しくも無い風景だった。
一部を除き、人間と妖怪の関係は、血で血を洗う抗争が日常の、殺伐とした世界だ。
人間は妖怪が恐ろしくて、そして憎くて堪らない。
妖怪は人間を食べるし、攻められて黙っていられるほどお人好しな者でもない(例外もいるようだが)。
幻想郷が生まれる前からこの地に存在し続けて、そうした妖怪と人間の関係を知っていた紫にとって、この光景は見慣れたものの一つに過ぎなかった。
「これはあの娘の記憶なのね。……ではあの娘はどこに……」
あちこちで火の手が上がり、殺戮と陵辱が行われている村の隅々まで、感覚を総動員してあの少女の姿を探した。
見慣れているとは言え、見ていて気分がいいものでもない。
(これはあの娘の記憶が作り出した、過去の記憶の世界。残像。既に起きてしまった事を変えることは出来ないし、そもそも干渉は出来ないもの)
知らず拳を握り締めてしまう。
年端もいかない少女が殺されるところを見てしまった。
言葉の解らない悲鳴が聞こえた。
恐らく、少女の記憶が、悲鳴や罵声などを意図的に聞こえないようにしているのだろう。
(思い出したくない、心の奥底にある記憶…無意識に記憶の編集を行って、声を遮断しているのね)
どうにも出来ないことだと理性では解っていても、感情が納得出来ない。
気持ちを切り替えるため、紫は再び少女を探すことに専念する。
「どこなの…?」
少女の記憶の世界であるならば、この時点で彼女は生きており、この惨状に遭遇している最中の筈である。
東。
いない。
西。
人間の陣地だ。
南。
やはりいない。
北。
人間達に追い詰められている一組の男女が居た。
「…」
男が抱えているもの。
「居た……!」
彼女だった。
紫と戦った時と比べると随分印象が違ったが、それは彼女がまだ幼いからであろう。
男女は、彼女の両親だ。
幼い顔に恐怖を染めて、ガタガタと父親の腕の中で震えている。
彼女とその両親は、武器を手にした人間達に囲まれていた。
周囲に逃げ場は無い。
人間達が彼女達に襲い掛かった。
最初のうちは、父親母親共に、襲い掛かる人間達を返り討ちにしていたが、多勢に無勢、やがて取り押さえられてしまった。
捕らえられた彼女と両親は、人間達の陣へと連行された。
紫もその後を追う。
そこは少女にとって地獄だったに違いない。
そこは処刑場だった。
屠殺場かもしれない。
捕らえられた狼人間達が、文字通り嬲り殺しにされていた。
四肢を切り取られた者。
両目を抉り取られた者。
生首は無造作に地面へと投げ捨てられ、踏み砕かれた。
原形を保った死体は一つも残っていない。
男も女も、一切の区別無く。
女は犯され、男はその様を見せ付けられながら、それぞれ殺されていく。
血と肉の臭いが充満した、まさに地獄のような場所だった。
(これじゃ、どちらが化物か解らないわね…。人間という生き物は、化物以上に化物よ)
紫の姿は、この世界の者には映らないらしい。
過去の記憶の映像なのだから当然と言えば当然だが、それは紫が干渉したくても出来ないことの証明でもある。
その地獄のような処刑場に、少女はいた。
地面に無造作に打ち立てられた鉄杭に荒縄で縛り付けられている。
少女は泣き叫んでいた。
声の意味が判らなくても、意味は解る。
「やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて」
見知った人々が次々と殺されていく。
少女が「やめて」と言う度に、次々と人々が殺されていく。
そして、ついに。
目の前で、父親が殺された。
四肢を切り落とされて。
焼き鏝を全身のいたる所に押し付けられて。
全身を切り刻まれて。
最後は首をもがれて絶命した。
首から噴水のように噴き出る鮮血を全身に浴び、少女は狂ったように笑い出した。
実際、狂ってしまったのだろう。
狂気の笑みを浮かべ瞳は焦点が合わない。
だがそれでも。
呂律の回らない口で、少女は「やめて。やめて」と人間達に懇願し続けた。
縛り付けられた縄から抜け出そうともがくが、身体にきつく縛り付けられた縄は解けず、逆に少女の幼い身体に容赦無く食い込んでいく。
縄との摩擦で、少女の皮膚は擦り切れ、血が溢れ出した。
だが、そうした少女の願いが聞き届けられるはずも無く。
今度は母親が、その命を奪われた。
何人もの男に陵辱されて。
壊れるまで犯され続け。
最後には背中に何本もの剣を突き立てられて。
母の血が、父の血で濡れた少女を再び濡らす。
少女は狂った。
馬鹿みたいに笑いながら。
その顔に狂気を張り付かせながら。
泣いていた。
大粒の涙を流し、笑い声を上げながら。
哭いていた。
「やめて。やめて。やめて。やめて」
うわごとの様に繰り返しながら。
そんな少女を五月蠅く思ったのだろう。
人間達の中から何人かが、手に剣を持って少女に近づいていく。
(ちょっと…!やめなさい…!!)
思わず拳を振り上げる紫。
もう駄目だ、見ていられない。
だが、自分にはどうすることも出来ない。
悔しかった。
(あぁ……!!)
ついに、人間の一人が、泣き叫ぶ少女に、その兇刃を振り下ろした。
肩先から胸までを斜めに、一気に斬り下ろされた。
力任せに叩き斬ったのだろう。
傷口は歪だった。
切り裂かれた傷口から、少女の鮮血が勢い良く噴き出した。
即死だったろう。
力一杯泣き叫んで、幼い抵抗を続けていた少女は、瞳を見開いたまま力無くその頭を垂れた。
少女は、死んだ。
(いや…!!なんてこと……!!)
だと言うのに。
(…!やめて!やめなさい!!)
人間達は動かなくなった少女の骸に、尚も執拗に剣を、槍を突き立てた。
見るも無残な肉塊へと変えられていく少女。
(ぐっ…!)
紫の口の中に、鉄の味がした。
知らず唇を噛み破ってしまったらしい。
指が白くなるほど握り締めた拳からは血が滴った。
人間達の喜悦の表情が、堪らなく憎たらしかった。
殺してやりたかった。
(この……ッ)
瞳に憎悪の炎が燃え上がる。
膨れ上がる殺意。
溢れんばかりの憎悪。
頭蓋の奥で、白熱の焔が炸裂し……。
「『殺してやる……ッ!!』」
ドクン。
「―――っ!?今のは?!」
紫の口を突いて出た言葉と同じ言葉を、誰かが言った。
聞き覚えのある声。
「――――?――――!!――――!!―――――!?」
人間達の不快なざわめきが、紫を我に戻した。
「!!!」
そこには、信じられない光景が拡がっていた。
全身を剣山と化しながら、幽鬼の様に立ち上がった少女の姿が其処にあった。
立ち上がった少女は、周囲の人間達を睥睨する。
その瞳は、猛り狂った憎悪の炎で爛々と輝き。
その口には今まで無かった、鋭く尖った大きな犬歯が剥き出しになっていた。
少女は、もはや少女ではなかった。
人の形をした、文字通りの悪鬼だった。
人間達の顔からは、先程の喜悦や憎悪の色が欠片も残さず吹き飛んでいた。
代わりに、激しい恐怖と焦りがその顔を蹂躙する。
人間達の喉から、恐怖そのものの悲鳴が搾り出されるのと、「それ」が地響きさえも起こしそうなほどの、巨大な咆哮を発したのは同時だった。
その咆哮は大気を揺るがし、夜の虚空を引き裂いた。
聞くものすべてを恐怖で支配する、地獄が顕現したかのような恐ろしい咆哮だった。
間近でそれを耳にした人間達は、残らず口から泡を吹き、白目を剥いていた。
発狂してしまっていた。
咆哮の後、「それ」の身体が変化し始めた。
全身の傷口が一斉に塞がり、刺さったままの武器は残らず抜け落ちる。
両腕の爪が大きく鋭く変化していき。
全身から白銀色の体毛が急速に伸びていく。
骨格が瞬時に組み替えられていき、その身体はみるみるうちに巨大になっていく。
「それ」は巨大な獣だった。
白銀に輝く体毛に覆われた、巨大な狼の姿をしていた。
「こ……この狼は……!!」
紫の脳裏に、遠い昔の記憶がフラッシュバックする。
「私は…これを見たことがある……」
そう。
自分は、この狼を……。
「!?」
瞬間。
世界が暗転する。
それまでいた景色が消え失せ、周囲は再び無明の闇へと戻る。
「これは……どうなったのかしら……」
先程の光景が嘘のように掻き消え、今までそこに起きていた出来事が幻かと────実際、幻のようなものだったのだが────思った程だ。
「……何かあるはずなのよ…そう、無くなってはいない……」
紫は周囲を見回した。
探しているものはすぐに見つかった。
ちょうど紫の背後に、ぼんやりと影が浮かび上がってくる。
それは最初、輪郭の無い霞のようなものだったが、だんだんと形を成して行き、一人の少女の姿になっていく。
まだ輪郭だけで細部まではっきりとはしないが、見間違える筈が無い。
あの少女だ。
「ねぇ……」
紫は努めて優しい声で少女に話しかけた。
だが、少女は答えない。
反応しなかった。
「ねぇ、私の声が聞こえるかしら?」
少女は答えない。
「聞こえていない…?それじゃあ、これもあの娘の記憶が生み出した幻?」
少女の前に回りこんで、目の前で手を振ってみたが、少女は無反応だった。
じっと、何かを見つめているようだった。
「何をしているのかしら…」
紫は少女の視線の先を見た。
「……これは、何?」
そこには、楽しそうに笑いながら歩いている親子の姿が見えた。
何も無い空間に出来た、空間の裂け目。
「隙間に似てなくも無いけれど……これは一体……」
紫がもう一度少女の方へと顔を向けると、少女の姿はよりはっきりと見えるようになっていた。
「……!」
少女は、鎖で繋がれていた。
首輪を嵌められ、手枷、足枷を嵌められていた。
それぞれの枷には短い鎖が繋がれている。
その鎖は虚空から唐突に生えている。
鎖は頑丈そうで、それぞれの枷もまた頑丈に見えた。
そして重そうだった。
実際、重いのだろう。
少女はその小さな体をピクリとも動かせないでいる。
両膝を突き、両腕も力無く地に伏している。
「これは……私が使った、あの呪の……」
封魔「夢と現と時の境界」。
間違えようが無かった。
自分が行使した術なのだ、忘れようが無い。
「術の効果が目に見える形で具現化しているのね……惨い…自分でやっておいてアレだけど……」
少女を戒める鎖は、少女の小さなその身体には余りに大きく、その様は余りに痛々しかった。
紫の視線を余所に、幻影の少女はひたすら自分の目の前にある空間の裂け目から見える映像を見続けている。
「この娘が封じられた次元の狭間に、偶々裂け目があったのかしら?それとも……。これは、外の景色が見えているようだけれど……見た感じ、外界の景色が洩れて来ているだけで、向こうからは見えていないようね」
少女と一緒に裂け目を覗き込んだ。
裂け目から見えるのは先程見た親子だ。
視点は彼等を正面から捉えており、少女の姿が見えているのなら普通、気が付くはずだ。
そうでないということは、紫の考えが正しいことになる。
外界からの景色……情報が、少女のいる次元の狭間に漏れてきているだけに過ぎないと言うことなのだ。
(まだまだ未熟ってことかしら。……こんな術、磨きたくは無いけれど)
裂け目には、先程とは別の人物が出てきた。
今度は子供達が遊んでいる場面だ。
どの子供も、楽しそうに笑い、遊びに耽っている。
背後の景色を見るに、裂け目から見える場所は人間の里らしい。
裂け目から見える場面がまた切り替わった。
そこには祖母と思われる老婆に、木の玩具を買ってもらい喜びはしゃぐ女の子の姿。
次々と現れては消えていく人々。
そのどれもが、楽しそうに笑い、幸福に包まれた人々であった。
たまに猫や犬、狸などの動物も映ったが、それらの動物達も、どこか幸せそうな雰囲気を感じさせた。
裂け目に映る景色は、時間と共にその姿を変えていく。
「いったい……どれほどの歳月を、ここで過ごしたと言うの?」
景色も人も、目まぐるしく変化していく。
紫が行使した術は、対象の時間進行を急激に遅くする。
これを使われた者は、周囲が普通に過ごしている時間の、何倍もの長さの時間を味わうことになるのだ。
瞬きした瞬間に、さっきそこにいた相手はもう死んでいて、その相手の世界では既に何十年も経過しているのだ。
これで狂わない方がおかしいだろう……。
少女はそれらを食い入る様に見つめ続けていた。
見つめながら、少女は独り何かを呟いているが、先程と同じで紫には聞き取れない。
だが、紫には少女の声が聞こえるように感じられた。
彼女は最初、泣いていた。
ひたすらに泣きじゃくり、手枷の非常な重みに必死に逆らって手を伸ばそうとしていた。
外の景色に向かって。
そこに見える人々に向かって。
彼女は泣き続けた。
身体から水分のすべてを搾り出すかのように。
まるで神話の神のように、海を泣き干さんばかりに。
彼女は叫び、求め続けた。
助けて。
ここから出して。
苦しい。
助けて。
助けて。
助けて─────。
何時しか少女は泣き止んでいた。
涙も枯れ果てたのか。
その瞳は虚ろだった。
だが見開かれた瞳は、変わらず空間の裂け目を見つめ続けていた。
否、凝視していると言ってもいい。
裂け目からは人々の幸福に包まれた生活が覗いていた。
何も裂け目に映るのすべての人々が笑っていたり、楽しそうにしている訳ではなかった。
だが、外界から隔離され、干渉することもされることも出来ないまま、自分には無い自由で、縛り付けられていない生活を送る人々は、彼女から見れば何よりも幸せに見えていた。
まるで、何かに憑かれているかのようにひたすら、少女は裂け目を見続けていた。
その表情は能面のような無表情だった。
たまに、思い出したかのようにブツブツと、うわごとの様に何ごとかを呟く姿が、紫には痛々しく見えた。
――――――――助けてよ。
お願い。
お願い。
……こんなにお願いしてるのに。
どうして。
誰も気付いてくれないの?
少女は知らないのだ。
自分の姿が、裂け目から見えている人々には見えていないことに。
何時の間にか、拳は堅く握り締められていた。
紫の感覚で十数分。
少女の記憶の世界では何年が過ぎたのか。
少女は相変わらず、空間の裂け目を見つめ続けていた。
────否。
見つめているのではなかった。
睨んでいた。
射殺すような視線で睨みつけていた。
その表情はもはや能面のそれではない。
少女の幼い顔は、怒りと憎悪で満ち溢れていた。
「……」
少女の怒りと憎悪の鉾先は、すべて裂け目から見える、彼女にとって幸福であろう者達へと向けられていた。
奥歯が砕ける程に噛み締め、爪は虚空を掻き毟った。
息をするかのように少女は囁き続ける。
憎い。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
その口からは、助けを求める声も、嗚咽でもなく、呪詛だけが流れ続けた。
その瞳には、涙はもう無く、憎悪の炎だけが爛々と燈っていた。
何故、助けてくれないのか。
声を枯らし、涙を枯らし、助けを呼んだのに、必死の思いで呼んだのに。
私だけを独りぼっちにして、知らない振り。
苦しんでいる私をほったらかしにして、幸せそうに笑っていて。
……許せない。
許せるものか。
「…………」
少女の怒り、憎悪は、彼女の逆恨みだ。
彼女がその憎悪を向けている人々に、非は無い。
だがそれに気付いていない少女にとって、その怒りは正しいものであり、憎悪は彼女にとって正義であった。
少女の憎悪が、逆恨みと変わらないことが紫には解ってはいたが、紫はそのことについて何も言えなかった。
彼女をこのような境遇に追いやったのは他ならぬ紫自身だからだ。
彼女が使った術さえ無ければ、少女はこのようなことにはならなかった筈だったから、と紫は思う。
何故、あの時ちゃんと確認をしなかったのだろうか。
妖怪、特に人外は、種族によっては死んだように見えてその実眠っているだけだったりするという、変わった生態を持つ者もいる。
彼女――――あの巨狼も、死んでしまったように見えただけで、実は疲れて眠っていたのかもしれない。
……だが、紫は責任を感じてはいたが、後悔はしていなかった。
少女の運命を狂わせてしまったことには責任を感じているが、彼女を封じていなかった場合、あの後更に巨狼による破壊は拡がっていたであろう事は、大いに予想できた。
紫がそれを見過ごすとは出来なかった。
「ごめんなさい。謝って済む事ではないけれど……私にはあれが最良だと思えたからそうしたの。許してくれとは言わないわ。……それでも……謝らせて欲しいわ……」
憎悪の炎を燃やす少女を見つめ、紫は静かにそう告げると、少女に対して深く頭を下げた。
そして、
「……そろそろ、姿を現して欲しいわ。貴女の過去は、充分私に伝わったわ。もう、昔を振り返るのは終わりにしましょう」
紫が言い終わらない内に、そこにいた少女の姿が掻き消える。
周囲は闇へと戻り。
『貴様か…ここまで入り込んできた者は』
「それ」がゆっくりと、その姿を現した。
狼だった。
毛足の長い、美しい白銀色の体毛に身を包んだ、成長した雄の獅子程の大きさの狼だった。
その身体は無駄が一つも無い、しなやかな鉄線をより合わせたような強靭で引き締まった筋肉だ。
まさに狼という種を体現していると紫は思った。
その姿は、体格こそ大きかったが、どこかニホンオオカミのそれを彷彿とさせる。
精悍な顔付きは、雄々しく勇ましい、まさに「狼」を体現している。
強く逞しい顎を開くと、刃より鋭い牙が、凶暴な光を放っていた。
だが、その瞳に凶暴な光はまったく無く、代わりに、永き時を生きた者の持つ叡智の光が静かに宿っている。
『迷い込んだか?それとも……』
狼が口を開いた。
「入り込ませていただいたわ。出口はこの方向でいいはずだと思うのだけれど」
『出口など無い』
「それは困ったわね」
『……』
「あなたね?あの娘が一度死んだ後、あの娘を生き返らせて、そしてその後暴れた巨大な狼の正体は」
『いかにも』
「……ここから出たいのだけれど」
『……間も無く、すべてを飲み込むだろう……この世界、そのものを』
「飲み込む……?どういうことかしら。質問に答えていないわ」
『……ここから出ようが出まいが、もうじき世界は消滅する。我の力は飲み、喰らうこと。遥かな昔、我が唯一の友が我に託した力により、我の力は大きくなった。我はすべてを飲み、喰らうことが出来るようになった。試したことは無いが、恐らくすべてのものを飲み喰らうことが出来ようぞ…。これが答えだ』
狼は「唯一の友」の話をする時、その表情が優しげに変わっていたことを紫は見逃さなかった。
「……暴飲暴食の大食漢さんね。答え…続きを聞かせてくれないかしら?」
『……』
「…世界を飲み込む…って言っていたけれど、それはどういうこと?」
『言葉通りの意味だ。我はこの世界を飲み、喰らう』
「……飲まれた世界はどうなるの」
『此処に辿り着くまでに見てきた筈だ。我は虚無から生み出されしもの。唯一つの存在。我に取り込まれたものは、虚無へと還るのみ』
「……!あなたの胃はすごいのね。虚無へと還る?無くなるということ?」
『厳密には違うが、無くなるということにしておく。説明は面倒だ』
「あらら」
『お前が此処に辿り着くまでに通ってきたあの世界は、虚無の世界だ。いずれ、先程までお前が存在していた世界もああなる。すべては虚無へと還るのだ。我に喰われてな』
「……笑えないお話ね。それが本当なら、私はそれを許すわけにはいかないわ」
紫は狼を睨む。
手には何時の間にか傘を取り出している。
……恐らく、自分がこの世界も、狼も滅ぼすことは容易いだろう。
自分はそれだけの事が出来る「危険な存在」だから。
だが、感情はそれをすることを躊躇わせる。
何か、別の解決策は。
未だ見えぬ解を求め、紫は質問を続けた。
「世界を食べる。それじゃあなたはどうなるの」
『試したことなど無いからな。その時、我がどうなるかは解らぬ。だが……』
狼は紫から視線を外すと、
『……恐らく、我も虚無へと還るだろう。それがもう一人の我の望らしい』
と、瞳を閉じて告げた。
「もう一人?」
『お前に過去の記憶を見せていたもの。我の1985816番目の器。1985816番目の我』
狼は紫の背後に視線を投げた。
「…?」
狼の視線の先に、幽かに見える人影があった。
少女だ。
今は背を向け俯き、座り込んでいる。
肩が震えている。
泣いていた。
少女の、すすり泣く声が闇へと吸い込まれるかのように幽かに聞こえてくる。
「あれは……」
『あれはもう一つの我。我の1985816番目の器。1985816番目の我』
「どういうこと?」
『原初の我は、我が唯一の友の為、共に悪しき神々との戦いの際肉体を破壊され、魂だけの存在となった。肉体を失った我は、悪しき神々の呪いで、肉体が再生される前に魂だけの存在へと変えられてしまった。そして、最期の戦いの終わりに、悪しき神の最期の呪詛で、卑しき犬の魂の奥底へと我は封じられた』
狼は遠い目をしながら続けた。
『その瞬間から、我は我の器となる者の魂の奥底で永劫に封ぜられる存在となった。器が朽ちれば、我に近しい因子を持つ、新たな器へと望まぬ転生を余儀なくされる……時の流れによる死が我からは永遠に奪われた』
「それはお気の毒に。退屈してしまわない?」
『時の流れによる死は奪われたが、別段それは気に病むことではない。我は転生の度にそれまでの器の記憶は失い、新たな器の記憶を得る。器は器であると同時に我である。我は何度も新しい生を受けているも同じ。生まれる度に我は新しい我となる。今、こうして喋っている我自体は、普段は決して表には出ないし、我自身も出られぬ。我は器の魂の、単なる付属品に過ぎない。我は、我が表に出るようなことが無ければ、「我」として覚醒することは無い。我と器の関係は、簡単に言えば「我」という白紙の紙に「器」の生が書かれていき、「器」が滅するときに「我」という白紙の紙から「器」が消え、新たな「器」の生が書き記されるということだ。紙は白紙のままでは何も語らない。何度も転生してはいるが、何度も別の人生を味わっているからな、退屈はせぬ』
「…退屈はしないのね。あなたは白紙。新しい物語を書かれる存在というわけ。本の中の主人公に感情移入して、そうした本が何冊もあるって感じに似てるわね。すこし違うけれど」
『…大体合っている』
「ふぅん……難儀なことね。……まぁいいわ。あなたがどういう存在かはこれで少し解ったし。ご解説どうも。ついでに、あなたじゃなくあの娘が、世界を喰らうと望んでいるってどういうことか説明してくれないかしら?」
『器が望んでいることだ』
「そう望む理由よ」
『器の見せた記憶は覚えているだろう。器は憎悪の炎に身を焦がし過ぎて、燃え尽きようとしている。器は、その憎悪を、己を取り巻く世界すべてに向けている。何もかもが憎いのだ。「こんな世界などいらない」、それが器の意思。器の憎悪が我を覚醒させ、今の、このような事態になった』
「…あの娘が本気でそう望んでいるの?あなたがじゃなくて?さっき、あの娘と戦っていた時、確かにあなたの人格も表に出てきていて、私と喋ったけれど?あの雰囲気なら世界を飲み込もうなんて考えを起こしそうだったわ」
『我は世界を飲み込むことが出来てもそれがしたいわけではない。先の戦いでお前と話した我は、器の憎悪に同調した、我の感情の一部だ。純粋な我の意思では無い。器の、度し難い憎悪の念が狂気となり、我の怒りの部分と同調し、より狂った攻撃衝動と破壊衝動を持った仮の人格が生み出された。それが先程の我だ……。あの人格は、我と器、双方の正しい人格ではない。攻撃衝動と破壊衝動だけが増幅されて具現化した、現象のようなものだ』
「……解ったわ。信用しましょう。……説明ついでに教えてくれない?どうしたらあの娘が世界を飲み込むことを止められるの」
『簡単な方法は一つ。あそこにいる器を殺せばいい。あれは器の魂が形を成したもの。あれを殺せば器は死に、世界は救われるだろう。……だが』
狼の表情が険しくなる。
『器は我でもある。お前が我を殺そうとする……それを我が見過ごすと思うな』
狼が威嚇するように低く唸り声を上げた。
実際は威嚇ではなく、半ば本気だったのかも知れない。
紫はそんな狼には目もくれず、少女を見つめたまま、
「……他には何か無いのかしら?」
と聞いた。
『……何故、それを聞く。先程、我が言った手段がお前にとって最も簡単な手段の筈だ。未だに信じられぬし、我としては認めたくは無いが、お前の力は我を上回っている。我を殺すことはお前にとって大した手間にはならぬ筈だ……』
狼は、何故だか解らないと言った表情で紫に尋ねた。
「……私に、あの娘を殺すことは出来ない……いいえ、したくは無いわ。出来ることならね。教えて頂戴。他の方法を」
狼の方へと向き直った紫は、真剣な表情で狼に問い詰めた。
『……』
「あるのなら、教えて。……お願い」
狼は紫をじっと見つめた。
「……」
『……』
無言。
二人の間を沈黙が支配する。
時間にして数分。
だが紫にはそれが永遠に近く感じられた。
……やがて。
『……方法が無くは……無い』
と、狼は短くそう告げた。
『世界を喰らおうという望は、器が望んでいることだ。器がそれを望まねば、あるいは止められるやも知れぬ』
「説得しろって言うの?」
狼は紫に背を向けて続けた。
『器に思いとどまらせることがそうと言うなら、そうだ。だが…既に世界を飲み込み始めている今、間に合うかどうか……』
「解ったわ……」
狼は振り返って紫を見つめた。
『……僅かだが、時を稼いでおいてやる。さっさとしろ』
狼は短くそう告げると、紫が制止する間も無く闇へと消えていった。
「時を稼ぐって何をする気なのかしら?…まぁ、ありがとうと言っておくわ」
消えた狼を見送るようにして、感謝の言葉を呟く。
「それと……ごめんなさい。あなたにも、私は謝らなくちゃいけないわ…」
念じるように、立ち去った狼に告げた。
今度、またあの狼に会ったら、ちゃんと謝ろうと思う。
「さて……」
紫はゆっくりと、少女へと向き直った。
「私の言うことを、聞いてくれるかしら?」
不安が無いといえば嘘になる。
自分は少女を、この世界と同じ何も無い場所へ閉じ込めた張本人なのだ。
そんな人物の話を、果たして聞いてくれるだろうか。
「私ならまず聞かないわね。それでそんなヤツは追い払っちゃうわ」
自分で言って、気が滅入ってきた。
そんな自分の考えに思わず苦笑いがこぼれた。
「それじゃ駄目じゃないの」
紫の口元に浮かんだ苦笑は、次の瞬間には痕跡すら残さずに消えた。
傘を隙間に放り込む。
キッと口元を結び、これまでにないほど真剣な表情になる。
意を決して、紫はすすり泣く少女の元へと、ゆっくりと静かに歩いていった。
「……!」
紫が少女の元まで後十数歩というところまでやって来た時、すすり泣く少女の肩が、ピクンと大きく跳ねた。
背後から不意を突かれた小動物を思わせた。
可愛らしい耳が警戒のためにピンと立つ。
少女はゆっくりと、ぎこちない動きで肩越しに後ろを振り向いた。
近くまで来ていた紫と視線が交錯する。
「あ……こんにちは」
紫の口から間抜けな言葉が滑り出た。
(こんにちは、じゃないわよ!何を言っているのかしら……まったく……)
少女の瞳は、恐怖に濁っていた。
まるで、初めて見る得体の知れない不気味なものを見る目つきだ。
涙を浮かべ、見開かれたその眼に、少女を覗き込むようにして紫が写る。
まるで硝子球だ。
恐怖以外の感情が欠落しているかのように、その瞳は虚ろだった。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「……あ……」
「ッ!!」
沈黙に耐えかねて、紫が声をかけた途端に、少女は恐れ戦き、両手で頭を庇うようにして丸まってしまった。
そのままガタガタ震えて、蚊の泣くような声で、
「怖い」と繰り返し出す。
「あ、あのね……?」
「ッ!?ッ!!!」
声をかける度に、怯える少女はその小さな体をびくんびくんと震わせて、より一層怯えるだけだった。
話しかける度に少女は怯え、それが更に酷くなる。
紫はすっかり困ってしまった。
(このままじゃ埒が開かないわね……気持ちは解るけれど。あー、もう!どうしたらいいのかしら……?)
普通に話しかけても少女は怯えるばかりで話にならない。
かと言ってこのままだなんていうのは論外だ。
少女の、このような仕草を見て、紫は少女に対しての憐憫の情がより強く深くなったことに気付いた。
同時に、ある種の愛おしさも覚えた。
それは、哀れな、捨てられた仔犬に対して感じる愛情と同情に近しいものだった。
紫はそれを黙殺した。
自分が、この少女に対して同情はおろか愛情を持つなんて、おこがましいにも程があると思ったからだ。
「怖がらないで?私は……何も怖いことはしないわ」
優しく語りかける。
彼女への罪の意識と、憐憫の情が、紫を優しい気持ちにさせた。
「返事とか……そう、答えなくてもいいわ。…聞いてくれるだけでいいから……」
少女を刺激しないように、優しく、静かに、ゆっくりと話しかける。
母親が、泣いている我が子を慰めるかのように、優しく。
少女の手前まで来ると、紫はそこに腰を下ろした。
「私……貴女に謝らなければいけないわ」
「……」
「……ずっと、寂しかったのでしょう?苦しくて……悲しくて……独りぼっちで、あんな場所に閉じ込められて……辛かったわよね。嫌だったわよね」
少女が傍にいるのなら、その頭を優しく撫でていただろう。
抱きしめていたかもしれない。
「……」
少女は紫が何もしないことが解って少しだけ安心したのか、盗み見るような仕草で紫を見ていた。
その瞳にはまだ怯えの色が濃く残っていたが、先程よりは心なしかそれが薄らいでいるかのように見える。
少女が怯えないので、紫はそのまま喋り続けた。
「ごめんなさい……ごめんね……。私が……」
次の一言を言うには、勇気が必要だった。
だが躊躇ったのは一瞬だけだった。
自分は言わなければならない。
「私が……」
「……?」
この少女に謝らなければならない。
「私が……貴女を、あそこに閉じ込めたの。あの、忌まわしい場所に」
「……!」
紫がそう言った瞬間。
少女の瞳に、恐怖の色に混じって憤怒と憎悪の炎が閃いた。
命の無い人形に突然、魂が吹き込まれたようだった。
動かない人形に生が宿った様を髣髴とさせる。
同時に、少女の全身からもの凄い殺意が溢れ出す。
刺すような殺意の波動が、すべて紫に叩き付けられる。
凄まじい憎悪の念が、紫に襲い掛かった。
思わず怖気つきそうになるほどの濃密な負の感情に、紫は晒された。
紫の手が小さく震えた。
(すごい……!)
「……ッ!!!」
無言の憎悪。
並の者なら背筋が凍り付いて砕けてしまうだろう。
見るものを圧倒する、狂的な眼光だ。
先刻戦った時と比較にならない。
紫は思わず目を背けたい衝動に駆られた。
(駄目よ……しっかりしなさい紫!)
強引に視線を戻す。
少女の感情から逃れることを頑として拒む。
そうだ…自分はこの娘から逃げてはいけない。
紫は、少女の呪詛の如き視線と真っ向から対峙した。
「…許してとは言わない。いいえ、言えないわ。貴女が過ごした孤独の時を思えば、どんな謝罪の言葉も無意味な有象無象に成り下がるでしょう。ただ……それでも……私は、貴女に謝らせて欲しい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
紫は頭を下げた。
何度も謝罪の言葉を少女に捧げながら。
少女が望むのなら、土下座してもいい。
そう思った。
「……!!!」
襲撃は電光の速度で瞬時に行われた。
座り込んでいた少女の姿が掻き消えたと思った瞬間、少女は一瞬で紫との間合いを詰めていた。
少女の右手が閃いた。
破壊槌のような重い拳だ。
それが紫の顔面に突き刺さった。
たまらず後方へと吹き飛ばされる紫。
先の戦闘の時ほどの威力は無かったが、それでもその威力は強烈だった。
少女が、瞳に憎悪の炎を燃やして、吹き飛び仰向けに倒れた紫に飛びかかった。
「うああああああああああああっ」
少女は紫に馬乗りになると、拳を固めて紫の顔や胸を力任せに乱打した。
怒りのままに殴りつけ爪を立てた。
妖怪とは想像以上に頑丈なものだ。
特に弱りでもしていない限り、例え巨大な鉄塊が恐ろしい速度で真上から落ちてきて押し潰されても、涼しい顔ををして次の瞬間には鉄塊を押し退けて両の足で大地を踏みしめる。
少女の拳は落下してくる鉄塊以上の破壊力が込められていたが、紫の身体にはあまり効果は無いようだ。
口の端から血が滲み出て、頬は赤く腫れ上がってはいたが、深刻なダメージは一切無い。
紫ぐらいの妖怪になれば、巨大な隕石の直撃にでも耐えられる。
恐らくは核爆発の爆心地にいても平気なのではないだろうか。
紫は黙って耐えた。
身体の痛みなどどうでもいい。
自分には、少女の攻撃は用を成さないと解りきっているから。
でも、心は痛かった。
殴られ、抉られる度に紫の心は痛んだ。
一発一発が、少女の怒りであり、憎悪であり、寂しさのツケだと思った。
防御の姿勢は取らない。
力も入れない。
悲鳴もあげない。
ただ流れに身を任せる。
少女の気が済むのなら、いくら痛めつけられてもいいと思った。
少女を説得する等と言う事は紫の意識下から完全に抜け落ちてしまっていた。
「はぁはぁはぁはぁ……」
やがて、少女の呼吸が荒くなってきた。
疲れてきたのか、拳を振り上げる速度が鈍ってきた。
拳は力無く紫の胸に降ろされた。
「はぁ…うあああああ!」
腕を苦心して持ち上げようとするが出来ない。
今はあの狼と離れている性かも知れないと紫は思った。
目の前の少女は、「普通の狼人間の子供」程度の能力しか持っていない。
「気は…済んだ……?……ううん、済む筈なんて無いわよね……」
紫は弱々しく言った。
身体が平気でも心は痛かった。
心に血管があるのなら、間違い無く出血多量だ。
「―――――――ッ!!」
少女の顔が憎悪に歪む。
だが、拳が上がらない。
その拳は、皮が擦り剥け血が流れ出していた。
固く握り締めていた為に、鋭い爪が自らの掌を傷つけていた。
ドクドクと血が流れ出ていく。
「ごめんね……」
紫は傷ついた少女の拳を見つめ、紫は言った。
自分の身体に心底嫌気が差した。
憎しみすら抱いた。
目の前の少女が必死に殴りつけても、大きな損傷は受けない、妖怪の身体。
死ぬわけにはいかないから、尚更腹立たしい。
その身体が、この少女の身体を逆に傷つけていく。
「ごめん…なさ…い」
涙が零れ落ちた。
自分でも気付かぬうちに、大粒の涙が頬を濡らして流れ落ちる。
「……?」
少女の顔に困惑の色が過ぎった。
……憎い筈だ。
許せない。
この女は、私をあんな場所に閉じ込めた犯人だと言った。
私を、あんな目に合わせた張本人なのだ。
許せる訳が無かった。
殺してやりたい。
憎くて憎くてしょうがない。
その筈だ。
「な…んで……」
震える声で、少女は初めて言葉を発した。
長い間喋っていなかったせいか、その声は擦れていた。
そんな声を聞いて、紫の心は更に言い難い痛みを受けた。
「なんで……なんで……!」
残りの体力を掻き集めて、少女は紫の襟元を掴み、強引に自分の顔へと近づけた。
少女の瞳に、恐怖、憎悪の他にはじめて、別の感情の色が浮かんだ。
「なんで……痛くないの!?」
「痛いわ……」
「嘘!痛いって言わない!!悲鳴をあげないじゃないのよ!!」
少女の両腕が紫の首へと伸びた。
多少なりとも体力が回復したのか、その動きに鈍さは一片も無い。
万力のような威力を秘めた指が、紫の首を絞め上げにかかる。
「『アイツら』は、私がこうしてやれば痛いって言った!苦しいといった!助けて!止めて!無様に泣き叫んで命乞いをした!!悲鳴を上げて這いずり回っていい気味!!!」
「…」
「なのにっ」
奥歯が砕けるほどにきつく噛み締めた牙がガリガリと音を立てた。
「なんでお前はそうしない!?何故そうならない!?」
頭髪がバリバリと音を立てて逆立つ。
眼光は炎を噴きそうだ。
「お前は…ッお前はぁぁッ!!!」
「……」
少女はありったけの力を、紫の首に喰い込ませた指に加えた。
だが、どんなに少女が力を加えていっても、紫の顔に苦悶の表情は欠片も浮かばない。
「何故だ……なんで……」
「本当に……ごめんなさい……」
そっと。
紫は自分の首へ絡みついている少女の指に優しく触れた。
「!」
ビクンと、肩を震わせて少女が驚く。
指に触れたぐらいで大袈裟な反応だったが、紫にはそう映らなかった。
長い間、誰にも触れられたことが無かったのだ。
誰かに触れられるということを忘れてしまっていた。
そんな仕草が紫の心をまた苦しめた。
「ごめんね…」
「……ッ」
「私のせいで……本当に……ごめんなさい……」
「は…離せ…!」
「はい…」
紫は言われたとおりに手を離した。
「答えなさいよ……!何で、何で痛いって、止めてって言わないの!?」
「……私には、そんなことを言う資格は無いわ」
「……」
「貴女が味わってきた苦しみに比べれば、この程度の痛みなんて……」
嘘だ。
身体の痛みは確かに無かった。
だが、心の方は傷だらけだった。
罪の意識が紫の心を酷く傷つけ蝕んでいた。
「たとえ……たとえ私がどんなことをしても、貴女に対してしたことへの償いにはならない……私に出来ることは、貴女に謝ることと…貴女の気が済むよう努力することぐらい……私に、貴女の怒りと憎しみを全部、ぶつけて頂戴……それぐらいしか…私に出来ることは……」
「―――――――ッ!!」
少女は紫の首を恐ろしい力で掴んだ。
絞め上げながら、倒れた紫の身体を強引に引き起こす。
「お前にッ!!!」
「…ッぁ……」
「お前なんかにっ……私の……私の気持ちが、解ってたまるかッ!!!!」
馬乗りの姿勢を解いて立ち上がると、紫の首を掴み、絞め上げながら持ち上げた。
少女と紫の身長差はかなりあったが、紫の足は地面から10センチも離れた。
憤怒に燃える鬼の形相だ。
迫力だけで程度の低い妖怪は消滅しそうだ。
少女の可愛らしい耳は尖り、牙は大きく太く変化していく。
狼人間の、獣化現象が生じかけていた。
幼い顔が急激に、彫りが深くなり、鼻先の尖った獣面へと変化し始めた。
あの狼と同じ、白銀色の体毛が密生し出す。
「私がっ……私が今までどんな気持ちでいたか……!お前に解るのか!!あの孤独!!あの苦しみ!!それが解るとでも言うのか!?気安く言うな!!あれが…あれが解らない奴なんかに、この気持ちが解る訳が無いッ!!!!」
怒りの余り、自らが発狂しそうだ。
狼の口臭と体臭が紫の顔を嬲った。
「カァアアアア……!!!」
恐ろしい姿だった。
どんなに勇ましい者でも、たとえ何処かの伝説の勇者であっても思わず顔を背け、瞳を閉じて、耳を塞いだであろう。
最悪、逃げ出すか発狂するかもしれない。
だが、紫はそうしなかった。
顔を背けず瞳は少女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
耳は塞がないし、逃げ腰にもならなかった。
「……解るわ」
「何…!?」
「誰もいない、動けない。孤独。……私もそれを知っているから」
「……お前……何を言っているのか解っているな…巫山戯るな……!噛み殺してやる……!!!」
かっと少女の口が裂けた。
凶暴な光を放つ鋭い牙と炎のように赤い口内が紫の視界を埋め尽くす。
「別に…巫山戯てなんかいないわ……」
「黙れ!!殺してやる……お前なんか死んじゃえばいいんだ!!」
「私は、私として「生まれた」時、そこには誰もいなかったわ」
紫は少女の怒声を気にする様子も無く喋り始めた。
「貴女みたいに繋がれてはいなかったし、時の流れも普通だったから、その点では貴女より幸せだったかもね」
「何を言って…」
「遠い遠い昔、私はこの世に生まれた。生まれて間もない私は、自分の能力が解らずに自分から次元の狭間に落ちてしまった」
「…?」
「どうしてそこに来てしまったのか。どうやったらそこから出られるのか。それが解らぬまま私は永い永い時を過ごしたわ。……自分以外に誰かが、何かが存在していることなんて気付きもしなかった……。それどころか、私は自分が何者なのかさえ解っていなかったわ……」
紫は軽く目を閉じた。
「何も無い永い時は、私を磨耗させ虚無的にするには充分過ぎる程に長かった。寂しさだけが私に残された唯一の心の欠片。でも、それが「寂しい」という感情だとは解らなかったわ。だって、私には何も無かったんだもの」
「…………」
「ある日、私は唐突にこっちの世界へと引き戻されたわ。妖怪使いの荒い巫女が、私がいた狭間に出来た綻びを目ざとく見つけて私を引っ張り出したわ。……あの時の私は…あまり大きな声では言えないけれど、相当酷いものだったわ」
「……?」
何時の間にか、少女は紫の独白に聞き入っていた。
首を掴んだ指の力が気付かぬ内に弱くなっている。
変化しかけていた身体が静かに元へと戻っていく。
「初めて見る景色。初めて知った世界。初めて知る、私以外の存在。何も無い、何も知らない私はすぐさま恐慌状態に陥ったわ。あの時の感覚は今でも覚えている……。未知への恐怖。恐怖は私の何も無い心を容易く壊したわ。知らないことへの恐怖が、やがてどうしようもない怒りと憎悪へと変わり、まともに意思と呼べるものを持っていなかった私は狂ってしまうことで漸く、はじめて「自我」と呼べるものを形成した。……狂った心が本当は普通の心だったのよ。……狂っていた私だけれども、その心の奥底には一つだけ、たった一つだけ生まれた時から持っていた感情があったわ。……何だと思う?」
「え?……な、何…?」
「寂しいっていう気持ち。私は寂しかったのよ。その気持ちが永い間、ずっと満たされることは無かった……。満たされない寂しさ、絶対の孤独。この世界に再び戻ってきた私の心に生まれた恐怖、怒り、憎悪、狂気は全部、その寂しさが原因だった。磨耗した私に残されたものは寂しさだけ……」
「…………」
紫は瞑目しながら続けた。
「狂った私は、その、やりようのない怒りと憎悪を世界に振り撒いたわ。……貴女のように。私は暴れに暴れたわ。私をこの世界に引き戻した巫女が、私を打ち倒すまでの短い時間で、私は多くの罪無き命を奪ってしまった……」
閉じた瞳から、光る雫が静かにこぼれた。
「生まれて間もない、右も左も解らなかった私だったけど、私は私を生んだこの世界を愛していた。それを忘れてしまって、私は大きな大きな罪を背負った……。もう少しで、この世界を滅茶苦茶に壊してしまうところだったのよ……」
「……」
「巫女に倒されて、私は何年かその巫女の下で過ごしたわ。巫女は乱暴で、がさつで怠け者だったけれど、優しくて、私に色々なことを教えてくれたわ。彼女は私の育ての親と言ってもおかしくないわ……。その巫女から教えられたの。「お前がしたことは悪いことだ。だけど、お前が悪いだけってことじゃない。悪いのはお前があんな目にあってしまったことだ」って。それで、「お前が大きくなって、もし、お前と同じような目に合ってる奴や合いそうな奴を見つけたらどうする」って聞かれたわ。……私は答えた。「助ける」って。自分のような目には誰も合わせたくないって。答えた時に誓ったわ。絶対……あんなことを他の誰かに味合わせちゃ駄目だって……。なのに……なのに……!」
紫は両手で自分の頭を抱えて嗚咽を漏らした。
大粒の涙が頬を伝い、紫の首を絞める少女の手を濡らした。
少女は自分でも気付かぬ内に紫を地面に降ろしていた。
「私は!私は……。貴女を……!」
言えば言うほどに、自責の念が紫を押し潰すように重く圧し掛かって来る。
軽口を叩いて平静を装ってきていたが、少女の記憶を覗いた時点で紫の心はひどく不安定になっていたのだ。
今にも折れてしまいそうだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!私……私……」
紫は子供のように泣きじゃくった。
「お…おい……」
少女は思わず狼狽してしまった。
「ごめんなさい…ごめんね……私…私…あぁ……」
「!?」
不意に、紫が少女を抱きしめた。
衝動的に抱きしめたのだろう。
抱きしめられた少女は、飛び上がりそうになるほど驚いた。
耳はピンと立ち、尻尾の毛は総毛立った。
「ごめん…なさい……」
「…っ……」
驚きはしたものの、少女は抵抗しなかった。
首にかけた指も、力を抜いた。
「………」
「………」
口に出しては言わなかったが、少女は理解した。
紫が、自分と同じ境遇にあったことがあるということ。
自分の気持ちを、相手がわかってくれていること。
泣きじゃくる紫を見て、少女は紫の、果ての無い後悔を知った。
……自分が「死ね」と言えば、この女は間違い無く自害するだろう。
自分が望めば、それ以外のこともやってのけるだろう……。
「…………暖かい…」
紫に聞こえないように、少女は小さな声でそう呟いた。
最後にこうして誰かと触れ合ったのは何時だったろう?
気の遠くなるほど遠い昔だ。
勘定するのが馬鹿らしいほど、久しぶりに触れた他者の感触は、少女の心を大いに愉しませた。
……もっと愉しみたい。
「もっと……」
「?」
今度は紫にも聞こえるように、大きな声で言った。
「もっと」
紫の首にかけていた指を外すと、少女は恐る恐る紫の腰へと腕を回した。
「もっと…………………ギュッと、して」
「え……」
ここに来てようやく紫は、自分が少女を抱きしめていたことに気が付いた。
慌てて腕を解こうとする。
「ご…ごめなさい……!」
「だめ!」
「?!」
「このまま……もっと、ギュッてして」
「…いいの?嫌じゃ…ないの……」
「……」
少女は無言で紫の腰へと腕を回した。
そのまま紫の胸へと顔を埋める。
「あ……」
そんな少女の態度に紫は戸惑ったが、自分に抱きついている少女を見て、瞳を閉じて優しく少女を抱きしめた。
紫の腕の中で少女の小さな身体が幽かに震えた。
歓喜の震えだった。
「ごめんね……」
紫は腕の中の少女に言った。
言葉だけではどうにもならないが、言わずにはいられなかった。
「本当に……ごめんなさい……」
「……もう、いいよ」
「え…?」
少女は紫の胸から顔を僅かに離すと、紫の顔をじっと見つめながら言った。
「お前の気持ち……全部解った。全部は…許さないけど……ちょっとだけ、許す。許してあげる……」
「……」
紫は目を丸くして驚き、固まってしまった。
「そんな……私……貴女に許されるだなんて……」
「文句ある?」
「!!無いわ!」
「ならそれでいいよ。お前、いい奴。だから、少しだけ、許してあげる。……全部じゃないよ?」
上目遣いでじっと見つめてくる少女に、紫は子を想う親のそれに近い愛情を抱いた。
「ねぇ……私は、貴女に何をしてあげられるの?」
「…?」
「私は……このまま、貴女に許されていいのか……解らないの……。償いを…私は、貴女に償いをしなくてはいけない」
「…免罪符が欲しいの?」
「罪の代償を。私は…貴女が望むとおりにするわ。贖罪を…させて欲しいの……」
「…………」
少女は紫の顔を見つめながら暫し黙り込んだ。
そして、
「……私は、こんな世界、無くなっちゃえばいいと思ってた」
紫の胸に再び顔を埋めながら少女はこぼすように言った。
「全部、憎かった。皆、私を無視して、助けてくれなくて。憎くて憎くてどうしようもなかった」
「……」
「実を言うとね…」
『お前の心の内を見せてもらった』
「!?」
『そう驚くことでもあるまい……ここは我の中だ。我がここに居ても何の不思議もあるまい』
何時の間にか狼が紫と少女の傍にやってきていた。
「突然だからびっくりしたわよ……。…それで、心の内って?」
『お前の心の一部を見させてもらった。我に関するお前の心、情報を引き出してな』
「……」
『我の精神世界においては、如何なるものも、ほぼ我の思い通りに出来る。……お前は例外だったが』
「最初から、私に関するお前の情報だけを読み取るつもりだったのだけれど。お前の心の壁はとても硬かった。お前はすごい妖怪なんだな……」
「……それほどでもないと思うけれど…」
『勝手に覗いたことは謝罪する。だが、我としてはお前が我のことをどう思い考えているのかが知りたかった』
「……それが、あの時言っていた、時を稼ぐ、ってことだったのね?」
「お前のことが知りたかった。お前は、私が世界を消してしまおうと思っていたことに反対だった。でも、お前は私に対して罪の意識も持っていた。それに私への強い興味も」
『そこでお前の心を知り、お前を試してみた。お前が世界を守ることを優先し、我を消してしまおうと考えていたなら、世界を即座に飲み込もうと思っていた』
紫は言われて、はじめて自分が少女を説得しようと思っていたことを思い出した。
少女と狼は交互に紫に対して語りかけた。
『だが、お前はそう思っていなかった。お前は、世界のことを忘れてまで我への罪の意識を持ち、我に許しを求めた』
「お前は、私に、私の身に起きたことも教えてくれた。私は、私と相談して決めた」
『我はお前を許そう。すべては許せぬが、それはこれからのお前に償ってもらおうと思う』
少女は紫を抱きしめる腕に力を込めた。
愛しい者への抱擁だった。
狼は紫の身体へと擦り寄った。
野生の狼が、愛する家族へとその身体を寄せるのと同じだった。
そんな少女と狼の行動に驚きながら、紫は震える声で言った。
「そんな……。私……どうして…許してくれるの……」
「お前の、私に対する気持ちが私に伝わった。お前は私の気持ちを解ってくれているし、私に対してしたことへの懺悔の念も確かだ。……もういいだろう?これ以上は……。私は、お前を許すよ……」
紫は頬に、熱いものが流れるのを感じた。
「あぁ……」
喜びとも、安堵とも言えない様な、不思議な感覚が紫を支配した。
涙が止まらない。
「……ありがとう……」
震える声で、それだけ言うのが精一杯だった。
紫は少女を抱く腕に、少女と同じように力を込めた。
擦り寄ってくる狼に、片手を離して狼のふさふさとした頭を優しく撫でた。
「ありがとう…本当に……ありがとう……」
涙で視界が曇って、うまく少女と狼の姿が見えない。
二人と一匹の、静かで、優しい時間が、ゆっくりと流れていった……。
結局、世界は飲み込まれず、世界の危機は去った。
あの後、紫は今回の一件に関する情報を詳しく、狼から聞きだした。
幻想郷に流行し出していた「虚無病」の正体は、「幸せ」を憎んだ少女が、無意識のうちに己の「喰らう」能力を使い、人々の「幸せ」を
喰らっていたのだという。
無意識に行っていたので、喰らった「幸せ」は特に何もせずに放置していた。
狼が言うには、喰らった「幸せ」を解放したので、すぐに幻想郷中の「虚無病」患者は「幸せ」を取り戻し、元へと戻るだろうとのことだった。
少女の精神世界から戻ってきた紫は、自分のすぐ横で倒れている少女を抱き起こした。
少女は精神世界の幼い姿ではなく、紫がはじめて目にした時の成長した姿に戻っていた。
抱き起こした少女はピクリとも動かず、最初は死んでしまったのかと思い、紫はショックのあまり失神しそうになった。
が、少女はただ眠っているだけだと解って、ほっとして腰を抜かしてしまった。
「もう…あまり驚かさないで頂戴」
紫は少女が目を覚ますまでずっと傍に居て、その寝顔を見ていた。
今までの、憤怒と憎悪に染まった表情が嘘だったかのように、その寝顔は穏やかで可愛らしかった。
少女が目を覚ましてからがまた大変だった。
……少女は記憶をすべて失っていた。
目覚めた少女は、自分が何者なのかも解らず混乱し、泣き出してしまった。
紫は困ってしまって、少女をあやそうとして、あの手この手を尽くして少女を笑わそうとした。
その様はあまりに滑稽で、とても他人には見せられなかったらしい。
紫の帰りが遅いので、心配で身に来た藍が、思わず吹き出してしまった程だから、紫には相当似合わない姿だったのだろう。
「紫様が、珍妙で奇天烈な踊りを一生懸命に踊っていられた。腹がよじれるかと思った」
後に藍はそう橙に洩らしたという。
少女の記憶が無いのは、恐らく、彼女の中に居る「狼」の配慮だと紫は思った。
精神世界で出会った少女は、狼のもう一つの人格であり、少女の本当の人格は、あの凄惨な過去のせいで完全に壊れてしまっていたのだ。
幼い少女の精神は、紫の精神ほど強くは無かった。
あの時、狼と共にいた少女は、壊れた少女の人格の、最後の一欠片だった。
狼の分身のような存在だったのだ。
壊れてしまった人格は、狼が取り込み一体となった。
狼は、自分と一体化していた少女の魂の基本情報だけを残して、人格の初期化を計ったのだ。
狼も少女を形成する一部である。
すべてを取り込んだ上で、少女は新たな生を受けたようなものだった。
紫は、事実は知らないが大体こんなことだろうと思ったし、それが事実だったので、これ以上はあまり考えないことにした。
少女は記憶と一緒に、その能力の大半を失ってしまっていた。
正確には使い方を忘れ、力の存在も忘れているだけだったが、紫はそれがいいことだと思った。
彼女の能力は、使い方を間違えれば大変危険な代物だ。
少女が善悪の判断が出来ないうちは、そんなものは使えなくてもいいものなのである。
幻想郷中の「虚無病」患者は残らず全快した。
人間の里では、今まで鬱になっていた人間だというのが嘘だと思えるくらいに、「虚無病」患者は全員、元気一杯に回復していた。
里にいつもの活気が戻ったので、慧音としては何の文句も無かった。
「しかし…あれは何だったのだろう」
彼女としては原因が知りたかった。
再発は防ぎたい。
「今度、図書館の主に聞いてみるか」
畑仕事に精を出す村人達を眺めながら、慧音は図書館へ行く日は何時にしようかという考えに耽っていった。
春風が心地好い。
もうすぐ夏だ。
「蟲達の力!嘗めるんじゃないわよ!!小さな蟲も、たくさん集まればでっかい竜だって一時間で完食できるのよッ!大きくて強い仲間もいるんだから!来て!王m」
「そーなのかー。でも、それ以上は言わないほうがいいってばっちゃが言ってたよ」
「わかればいいのよ夜魔。……ところでばっちゃって誰?」
「いっぱいいるから食べてもいい?」
「食うな」
以前より少し逞しくなった妖蟲。
「あっははははは!私は比類なき冷凍能力を手に入れたのよ!ツノガエルだって出会った瞬間完全冷凍よ~」
スランプ脱出で自惚れ気味な氷精。
「ようアリス、久々だな……ぬがッ!?」
「あぁ魔理沙!!魔理沙ぁ!!」
「はっ離せ…苦しい……」
「あ~ん魔理沙ぁ」
「うわー……」
後光が差しそうなほどの幸福感に包まれた人形遣い。
久し振りにアリスの家へと出向いた魔理沙は、ドアをノックするなり家の中へと引きずり込まれていった。
……ちなみに、魔理沙は製作中の魔法薬を何とか完成させたらしい。
何の魔法薬かは、
「企業秘密ってヤツだ」
とのこと。
「美鈴!また魔理沙を通したわね!!何で貴女はそう、いつもいつも……門番としての誇りは無いのかっ!!!」
「ひぃっ!あっ、あの時、私は非番だったじゃないですかぁ~!」
「問答無用よ!躾ェ!!」
「ぎゃあぁぁぁ……」
紅魔館の門ではいつもの光景。
気のせいか、咲夜の投げるナイフの切れが、以前より鋭くなっていることを、美鈴は薄れる意識の中で感じた。
――――――――それから半年。
時期外れの「文々。新聞」が幻想郷中に空からばら撒かれ、霊夢に謂れの無い事でとっちめられた萃香がそれを苦笑混じりで読んでいた頃。
幻想郷の、よく解らない場所にあるマヨヒガ。
そのマヨヒガにある八雲家。
「おはようございます~紫様~」
「紫様、おはようございます。朝ですよ」
「う~ん…あと五分……」
「紫様~!今日は「ぴくにっく」ですよ~!早く起きて下さいよぅ」
「うぅ~…そうだったわ……ぐぅ」
「「寝ないでください」」
「ちょ…待っててね……今起きるわよぅ」
藍と橙に身体を揺さぶられ、紫はようやく布団から這い出してきた。
「まったく…朝からあれだけ騒がしかったというのに……よく寝ていられますね」
藍はじと目で、着替える紫を見ながら呆れたように言った。
隣で橙がちょっぴり舌を出しながら余所を向いているのに気付かない。
「妖怪、寝ようと思えばどこでもどんな時でも、状況を問わずに寝れるわよ?藍は修行が足り無いわね…ふぁ」
あくびを噛み殺しながら紫は藍に返した。
「そんな修行はしたくありません……。さぁ早く顔を洗って。朝餉がもうじき出来ます」
紫の布団を押入れにしまい込みながら藍が言った。
「早く起きて、食べて、出掛けましょうよ、紫様~」
目を擦り、井戸の方へとふらふら歩いて行く紫の手を引きながら、橙が急かす。
八雲家の台所から、魚を焼くいい匂いが漂ってきていた。
橙は猫又である。
魚は大好物なのだ。
生魚が一番好きだが、魚料理は全部好きなのである。
台所から流れてくる匂いを鼻一杯に吸い込むと、思わず顔がほころんでしまう。
そうでなくても今日は彼女が待ちに待ったピクニックである。
朝から橙は尻尾を振り振り家中を走り回っていたのだ。
橙の気分に合わせて八雲家に住み着いている猫達が一斉に騒いだので、藍の大目玉を喰ったのだった。
紫が顔を洗い終え、橙から手拭いを受け取ると、台所から明るい声が聞こえてきた。
「橙ねぇ~。紫様は起きた~?」
「うん。起きたよ~」
「朝餉の用意が出来たから、藍姉さまにも伝えて頂戴」
「わかった~」
橙は大きな声で返事をすると、ようやく眠気から覚めた紫が、藍と庭で談笑していた。
「紫様、藍様、朝餉の用意が出来ました~」
橙が腕をブンブンと振って二人を呼んだ。
三人が食卓に着くと、台所から割烹着に身を包んだ、黒髪の娘が姿を現した。
艶やかな黒髪は肩より少し下の高さで切り揃えている。
「おはようございます。今日は鯵の開きになめこの味噌汁ですよ~」
背丈は藍とほぼ同じくらいの、細身の娘だ。
細身といっても痩せぎすではなく、普通に健康的な体躯の持ち主である。
背の割りに幼い顔立ちをしている。
美人であるが、どこか間延びした様なゆるい表情で、美女というより可愛らしい村娘と言った印象だ。
「おはよう、銀」
「銀、後は私がやるから、お前も席に着きなさい。今、お茶を淹れてあげよう」
「銀ちゃんご苦労様~」
銀と呼ばれた少女は、嬉しそうに微笑むと、
「はい」
と答え紫と橙の横の席に着いた。
正面は藍の席だ。
四人が座ると、小さな円卓はいっぱいになった。
「そろそろ大きなものに換えるか…」
銀から「ひつ」を受け取り、茶碗にそれぞれのご飯をよそいながら藍は呟いた。
既に全員分のお茶を淹れ終っている。
「「「「いただきます」」」」
一斉に手を合わせ、礼をすると、紫はおひたしを、藍はご飯を、橙は鯵の開きをそれぞれ食べ始めた。
銀はお茶を一口啜るとご飯を食べ始める。
銀は、あの時の狼少女だった。
記憶を失った少女のこの名前は、彼女の内に棲む、あの狼の体毛の色から取って紫が名付けたものだ。
八雲家へと連れて来られた銀は、最初は紫以外に懐かず人見知りが激しかったが、藍や橙を次第に家族として認識すると、生来の性格なのか明るく間延びした少女に育っていった。
銀は明るく、真面目な性格だったが、どこか間延びしていて、常にゆるい表情をしていた。
頭の中身も、真面目ではあるのだが思考が他者より二まわりほどのん気に出来ており、やはり傍から見れば少々とろい少女にしか見えなかった。
紫は銀を自分の第二の式として使役することにした。
外回りの仕事などは藍が行うので、銀はもっぱらマヨヒガでの紫の雑事を担当する。
紫と銀の関係は、銀が「紫様」と呼んでこそいるが、主と式と言うより親子の関係に近い。
紫が銀を式としたのは、より自分へ近しい、親しい者の関係として選んだことだった。
彼女の考えでは、主と式の関係は肉親同然のものであるらしい。
銀を式とする際、彼女に八雲の姓も与えた。
当初、藍は銀を警戒していたが、紫から真相を聞かされ、彼女へ優しく接し始めた。
橙も銀を怖がっていたが、藍の態度や、記憶が無く、ほとんど生まれたばかりの状態になっていた銀にあれこれ頼られるうちに心を許し、何時の間にか姉妹のような関係になっていた。
彼女達は短い間で本当の家族のようになっていった。
実際、自分達は本当の家族だと彼女達全員が思っていた。
銀は、そして彼女達は、幸福の時を過ごして行けることだろう。
八雲家の食卓はその日も穏やかで、笑いが絶えず、とても楽しそうだった。
「藍様、銀ちゃん、お弁当は?」
「うむ。腕によりをかけて、たくさん作っておいたぞ」
「橙ねぇの好きな、おかかのおにぎりもたくさんあるよ」
「わーい!ねぇねぇ紫様、今日は妖夢さんや幽々子様も一緒に行くんだよね?」
橙が目を輝かせながら紫に聞いた。
「そうねぇ…幽々子、来るかしら…?とりあえず、神社には顔を出そうと思っているけれど」
「大人数でも大丈夫ですよ。お弁当はたくさんありますから」
「詰め込むのに苦労したぐらいですからね…」
「今日は楽しい一日になりそうね」
今日の予定を楽しそうに語る橙と、大量に作った弁当がもし余ったら…と考えどうしようかと思い悩む銀、それぞれの身支度は出来たかと最後の確認をしつつ食事の後片付けを始める藍。
藍の淹れたお茶を飲みながら、紫は静かに瞳を閉じ、祈ってみた。
(今日も、そしてこれからも、この娘達が幸せでありますように)
とりあえず、神は信じていないが他に祈る対象もいなかったので、博麗の神社に祭ってある神様に祈りを捧げてみた。
(…妖怪が神様にお祈りだなんて。明日は槍が降りそうね)
自分の考えに苦笑を漏らす。
「紫様!早く出掛けましょうよ~」
「こら、橙!それを言うなら自分の支度をちゃんと終えてからにしなさい」
「!そうか、余ったら、ルーミアさんに御裾分けすればいいんだ…」
橙はもう待ちきれないと言う様子で紫を急かす。
そんな橙を叱りながらも、手早く後片付けを終えている辺り、藍も早く行きたくてウズウズしている様子だ。
九つある尻尾がどれも嬉しそうに揺れている。
自分の世界にどっぷりと浸かっていた銀は、慌てて身支度を整え始めた。
「ふふ…」
そんな娘達を見ながら、紫は隙間へと手を入れ、愛用の日傘を取り出しながら楽しそうに笑みを浮かべた。
彼女も楽しみなのだ。
「本当……今日は楽しい一日になりそう」
そしてこれからも、と心の中で付け加える。
「さぁ行きましょう。もう待てないわ」
「はい紫様。橙、銀、忘れ物は無いな?」
「無いよ~」
「ちり紙忘れてました…」
季節は秋。
涼しげな風が心地好い。
空は青くどここまでも澄み渡っている。
絶好のピクニック日和だ。
「用意はいいわね?」
「はい」
「は~い」
「…はい」
「それでは出発~♪しっかりついて来なさい」
雲一つ無い秋の空を、すきま妖怪とその式、式の式と第二の式が、楽しそうに飛んでいく。
紫は、藍と橙と楽しそうに笑い合っている銀を見ながら、思った。
彼女はあまりに辛い目に遭い過ぎた。
それは自分のせいでもある。
これからは自分が、あの娘を幸せにしてやらねば。
それが自分の贖罪であり、今では幸せである。
孤独は何よりも辛い。
何千何万もの年月を、孤独のうちに過ごしてきた紫には、それが痛いほどよく解っていた。
この家族を大切にしよう。
家族だけでなく、友と呼べるあの少女達のことも。
「もう二度と……私やあの娘の様な目には遭わせない。私が知りうる限り、それは絶対よ」
銀の精神世界から脱した時にすでに誓いを立てていたが、それをもう一度、己の心に誓う。
決意を新たに、紫は青く澄み渡る幻想郷の空を大きく見渡した。
愛する幻想郷。
愛する家族。
愛する友人達。
「…一人、湿っぽくしてても駄目ね」
溜息混じりに苦笑する。
「なに楽しそうに話してるのかしら?私も混ぜて~」
秋も深まる幻想郷。
幻想の空に、少女達の楽しげな笑い声が静かに、軽やかに響き渡っていく。
「では、こうしましょう。神社まで競争よ!」
「負けませんよ~」
「頑張るんだから!」
「一番は私がもらいます」
「それ!用意……どん!!」
今日も、幻想郷は平和である。
―――――――時に、ここ冥界にある白玉楼。
白玉楼の主、西行寺 幽々子は、この世の終わりのような顔で、見事に手入れされた庭木を凝視していた。
顔面蒼白で、その目は落ち窪んでいる。
死人の様な(死んでいるが)目で、一心不乱に庭木を見つめ続けている。
時折、何かをブツブツとうわ言の様に口走る姿は不気味さ大爆発だ。
かのレミリア・スカーレットも逃げ出すのではないだろうかと妖夢は思った。
「何故だ…!?「虚無病」の脅威は既に去った筈……何故、幽々子様だけ治らないんだ……」
妖夢は真剣に頭を悩ませていた。
心配で心配で、食事がロクに喉を通らない。
このままでは自分の方が餓死してもおかしくないな、と思う。
……もし、妖夢が幽々子の寝室をもっとよく調べていたら、彼女はこんなに日々頭を悩ませ心を痛めることも無かったであろう。
幽々子の寝室には、
「胸の大きな女性は乳癌になりやすい!~by鈴仙・優曇華院・イナバ~」
本の中身は、「胸を大きくしない為には絶食が一番!」等とかなりインチキ臭い内容がズラズラと書かれている。
しかも肝心の治療法や、どうすればいいのか等具体的なものが何一つ記述されていない。
おまけに本の中盤辺りからは殆ど関係の無い情報が記述されていた。
著者が著者だけに仕方が無いのだが。
鈴仙に叱られた腹いせに、彼女が著したとして永琳を騙し、永琳に鈴仙を叱らせようという目論見で書かれた、浅はかな知恵で書かれたデタラメな本である。
言わずもがな、その目論見は失敗して本は処分され、てゐは永琳にお仕置きされた。
処分された筈の本だが、何かの手違いで竹林に放置されたらしい。
そのデタラメの内容を、幽々子の少女らしい無邪気な心は完全に信じきってしまっていた。
ちなみに、書かれてからすでにかなりの時間は経過している筈である。
西行寺 幽々子は完全な死人、幽霊である。
肉体が無いのに、今更癌になる筈が無いのだ……。
「もう一度…幽々子様の身の周りを調べてみよう」
落ちている(捨てられている)ものを拾ってきたり、自分が幽霊だと言うことを忘れていたり、悩みが胸のことだったり。
白玉楼に血の雨が降る日は、近い。
終
この駄文は「すきま妖怪と世界を喰らう魔狼」の後編です。
暫く笑い続けていた少女は、満足したのか、未だ狂気の笑みを顔に浮かべながら、紫だった肉片に背を向けて背後の森へと歩いていく。
『愚か者めが……』
「皆死ンジャエ……」
去っていく少女の口から、ここに来て初めてまともな言葉が出てきた。
だが。
『我の眼前に立ち塞がるものは総て』
「皆大嫌イ……」
少女の、擦れた声とは別の、何者かの声が、少女の口から同時に発せられている。
『有象無象の区別無く』
「憎イ……殺ス……壊ス」
「『全部滅ぼしてくれる……!!!』」
この世のものとは思えない、奈落の底よりも深いところから響いてくるかのような声音。
総てを焼き尽くすかのような、地獄の業火の如き憎悪が声に滴っていた。
「『そうだ。全部。全部滅ぼしてやる。こんな世界(ところ)なんか大嫌いだ!!!!』」
ギリギリと牙を咬み鳴らし、両手両足の爪がバキバキと音を立てて凶悪な様になり伸びていく。
「『全部……壊して、殺して、滅ぼしてやる……』」
狂気と憎悪に歪んだ顔を天に向け、狼少女は地鳴りのするような、巨大な遠吠えをした。
聴くものすべてを畏怖させるかのような、身の毛のよだつ恐ろしい遠吠えだった。
「『さぁ……次は……何を壊して……誰を殺そう……』」
遠吠えの後、少女は狂気の薄ら笑いを張り付かせたままゆっくりと森の中へと入って行き……。
「残念ね。貴女に次は無いわ」
「『!?』」
少女の足元から、何本もの巨大な槍の穂先が飛び出してきた。
「『クッ!?』」
穂先は少女の右足を掠めただけで大した傷にはならなかったが、彼女に与えた精神的なショックはかなりのものだった。
「『何者だ……』」
狼少女は油断無く周囲を見渡していく。
「『何処だ……何処に居る……?』」
だが、何者の気配も感じ取れなかった。
「……判らないの?まさか、忘れてしまったのかしら」
「『?』」
「ここよ、こ・こ」
少女が声の聞こえてきた方向へと振り向く。
その先に見えたものは……。
「『……?』」
彼女の視線の先。
そこは先程までの戦場であり。
たった今、彼女が殺した女の死体だけ……。
「あーあ、こぉーんな可愛い女の子を捕まえて、挽肉みたいにしちゃうだなんて……犯罪よ?」
死体だけ……?
「まったく、失礼しちゃうわね」
「『な……に……?』」
「結構痛かったわよ、さっきのアレ」
死体が、喋っている。
「面倒くさがらずに普通に戦っていれば、こんな風にはならないのだけれど…」
否、喋っているというよりそれは、どこかから、口とは別の場所から発音されているように聞こえた。
それでも。
「『馬鹿な……何故……』」
「でも、残念。たったアレっぽっちでは、この八雲 紫は殺せない」
死体が喋っているようにしか聞こえない。
大気がざわめく。
木々が震える。
大地が怯える。
その場所に、彼女達が存在するその空間、その世界に、あまりに禍々しい妖気が、濃密を通り越して「満」そのものと言っても過言では無い程に満ち充ちていく。
少女は全身が総毛立つのを感じた。
(我が……この我が……)
「ア、アアアア…」
(恐怖だと……!?)
妖気は急速に、森全体を包み込んでいく。
その勢いたるや幻想郷全体を飲み込むが如く。
『貴様は……いったい……』
「私?私はただのすきま妖怪。趣味はお昼寝と寝ることと冬眠」
だがその妖気は突然広がるのを止めた。
「おっといけない……これ以上は霊夢に見つかってしまうわ。……うん、これくらいにしとかいとね」
死体が、何か、得体の知れない黒い霞のようなものに包まれていく。
得体が知れないのは、単にそれが不気味だから、だけでは無かった。
それには気配と呼べるものが存在していないのだ。
確かに其処に居るのに、何故か認識出来ない。
ザワザワと不気味な音を立てて、それはだんだんと大きくなっていく。
やがて……。
黒い霞は人一人ほどの大きさの塊へと収束して行き……。
終には人の形を成していく。
「新しい服を用意しなきゃ。もうちょっと待っててね」
黒い人型が、まるで友人にでも話しかけるような調子でそう言った。
人型がそう言って数秒と立たぬうちに、黒い人型はだんだんとその輪郭を露わにしていく。
そして、唐突に黒い人型から強烈な突風が発せられた。
狼少女は思わず目を閉じてしまう。
「ふぅ……再構築なんて久しぶりだったから、少し手間取ってしまったわ。マメにチェックしておかないとね」
「……!!!」
『貴様……!何故……』
聞き覚えのある声に、少女は吹き付ける突風の中、瞳を開けてそのまま凝固した。
背筋に電極を押し付けれたかのような怖気が走った。
『殺した筈だ……その身を内からバラバラに粉砕した筈だ……』
「あぁ……アレのこと?まぁ…ちょっと痛かったけれど。戦うって時であるならば、大したことでもないわ」
狼少女の眼前には。
つい先程、彼女自身の手で葬り去ったはずの女妖怪が、気だるそうな表情でこちらを見て笑っていた。
「さっきのアレ……中々どうして、物騒な技ね。私にはアレだけれど他の連中が喰らったらアレね」
まるで、他愛の無い世間話でもするかのように、復活した紫は少女に話しかけた。
「貴女の、さっきの能力」
ビシリ、と紫は少女に向けて指を突き付けた。
「まず最初のアレ。アレは、私の周囲の空間を、こう…揺さぶって、衝撃波を作り出す攻撃」
ぴくり、と少女の表情が動いた。
「私の腕を落としたのは、空間に断裂を生じさせて、それをぶつける攻撃。カマイタチに似てるかもね。空間の裂け目をぶつけると言う事は、ぶつかった場所とそうでない場所とが隔たれてしまい、結果的に切り離されてしまう。物理法則に囚われない、とっても便利な刃ね。お魚を捌くのに役立ちそう」
紫が、ゆっくりと少女との距離を詰めていく。
少女は動かない。
否、動けない。
「最後のアレは、私の身体の内側、そこにある空間を瞬間的に、これでもかって言うぐらいに圧縮し、それをやはり瞬間的に解放して、圧縮された空間の反発作用で私の身体を内から吹っ飛ばした。幻想郷に完全な「密」は多いようで少ない。少ないようで多くもあるけれど。まぁ兎に角、完全な「密」が無い以上、其処には隙間があり、その隙間とは空間ね。その空間がある場所なら、この技で破壊できないものは無い。無論、その対象が物理攻撃で壊せるものだけだけど。目標の内部自体が目標なのだから、回避も防御も不可能に近い」
紫が少女の目の前までやってきた。
「以上のことと、貴女の空間を渡る能力から考えられる答え。貴女の能力は空間操作。それも非常に高度な」
『……』
「ウゥウウウウゥ……」
「それともう一つ解った事」
紫の顔から笑みが消える。
「貴女の中にはどうも、人格が二つあるようね」
「ガァァァァーッ!!!」
少女の口から悲鳴に近い叫び声があがり、同時に、獰猛な一撃が紫に向けて繰り出された。
たとえ鋼であろうとも粉々に粉砕するであろうその拳は、紫の顔面を直撃した。
少女の顔に薄い笑みが浮かぶ。
会心の一撃だ。
隙だらけで近づいてくるお前が悪い……。
「……それで?」
少女は拳を紫の顔面にめり込ませたまま硬直した。
「……!」
『なんだと……』
紫は平然としていた。
それどころか、その顔に傷一つも負っていない。
効いていなかった。
「無駄よ。貴女の攻撃は、もう私には通じません。力の差というものね」
それまで、狂気と憎悪のみだった少女の顔に、ここに来て始めてそれ以外の感情が現れた。
恐怖。
『貴様は……貴様はいったい、何なのだ?』
「何だと言われましても」
少女は脱兎の勢いで紫から飛び離れた。
「グルルルル……」
『我の拳は確かに貴様に入った筈だ!なのに、何故…何故、通じていない!!』
「答えはさっき言いました。力の差。それと私は、どこの御家庭にも必ず一人は居るすきま妖怪」
『居るのか』
「私は何処にでも居るし、何処にも居ない。まぁそんなことはどうでもよろしい。質問しているのは私。貴女は誰?どうして貴女は心を二つ持っているのかしら」
『……知ってどうする』
「それは聞いてから考えるわ」
『……巫山戯た女だ。貴様のような女に、語る舌など持たぬわ!!!』
狼少女が紫に向けて手をかざす。
『もう一度、粉々にしてくれる!爆ぜろ!!!』
少女の掌から、目に見えない力が紫に向けて放たれる。
……だが。
『……なぜだ』
「……」
『何故だ!何故、何も起きない!?』
紫はそこに何事も無く立っていた。
「何も起きてはいたわ。私が消しただけで」
『消しただと!?』
「私も貴女と同じように空間を操れるのよ。正確には、空間というより境界をね」
『境界?』
「そう。詳しい説明は省くわ。面倒だし。……兎に角。貴女がさっきまでに繰り出した技はもう通じない。今のが奥の手みたいだけれど、
それも私には通じない。いくら私の内の空間を圧縮しても、私がそれをさせない」
『─―――――ッ!!』
「王手よ、狼さん」
刹那。
紫の姿が少女の視界から消失した。
「!!!」
『な』
気付けば吹き飛んでいた。
顔面に強烈な衝撃。
「『ガハッ!!!』」
自分が殴り飛ばされたと認識した時には、既に無数の連打を受けていた。
「ゴアァァァッ……」
『なっ!何だというのだ……この威力は!!ぬおおおおお……!!!』
容赦無い打撃の嵐。
「私が近接戦闘を苦手だとでも思っていたのかしら。それは間違い。得意とか不得意とかではなくて、距離なんて関係無いのが本当」
姿無き紫からの猛攻。
目にも止まらぬ、否、目にも映らない速度で紫は行動しているのだ。
「強さ自慢をするわけでは無いけれど、少なくとも」
「『―――――――ッ』」
「貴女如きに殺されるほど、私には死亡願望、無いのよ」
刹那、雷が間近に落ちたかのような轟音とともに、狼少女の身体が宙に打ち上げられた。
神速を遥かに上回る速度で繰り出された紫の蹴りが、少女の顎を真下からまともに直撃したのだ。
「貴女は頑丈さが売りらしいから、これぐらいじゃまだ参らないわよね……なら」
蹴り上げた少女を眺めながら、紫は右手を頭の高さまで上げ、
「こんなのは如何かしら」
指をパチンと鳴らす。
瞬間、宙に浮かされた少女に、四方八方から強烈な衝撃が襲い掛かった。
「グガッ!!!」
『こ…これはッ……!!』
目に見えない、衝撃。
「そう。貴女が私に教えてくれた技」
空間振動による衝撃波。
もっとも、紫の放つそれは、先程、少女が放ったものより威力は倍近い。
「それと」
紫の目がスッと細まる。
「空間圧縮もお返しするわね」
パチンと。
指の鳴る音。
「安心して。内から吹き飛ばしはしないわ。私が狙うのは貴女の近くの空間」
大気を劈く爆音。
触れるものを根こそぎ吹き飛ばす強烈なエネルギーが、狼少女の至近距離でその獰猛な牙を剥き、炸裂した。
その破壊力は、先程紫が受けたものと同じだとは到底思えないほどの、桁違いのものだ。
「『ウオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』」
「たぁまや~♪」
何時の間にか取り出した傘で、飛んでくる土砂や岩を弾きながら紫は教師が生徒に教えるかのように喋る。
「対象付近の空間を圧縮して吹き飛ばした方が、何かと効率がいいのよ、覚えておきなさい。個々の内部空間を圧縮して爆裂させる方が、与えるダメージが大きくていいけど、面倒くさいしね」
やがて、空間圧縮により炸裂したエネルギーの余波が徐々に収まっていき。
空から、黒焦げのボロ雑巾のような酷い惨状となって、狼少女の身体が落ちてきた。
地面に叩きつけられた少女は、そのままピクリとも動かない。
その身体は、全身ズタズタの酷いありさまだった。
全身に受けた傷から、鮮血が噴水の様に勢い良く噴き出す。
「あちゃー。やりすぎちゃったかしら?ウェルダンにしては焦げ過ぎね。生きてる?」
紫は倒れたまま動かない狼少女を覗き込むようにして見た。
さしもの強靭さを誇る少女も、今の一撃には耐え切れなかったようだ。
ぐったりとしていて、先程までの強大な生命力が嘘の様に消え失せてしまっている。
「『ぅ……ガハ……!』」
吐血。
動けなかった。
もはや指一つ動かせるだけの余力も無い。
(我が……負けるというのか?敗れると……?この…我が……)
全身が痛い。
身体が鉛のように重い。
「ガルル……カッ…ハッ!ハグア…ガ……」
声にならない。
全身から血液と一緒に気力と体力が流れ出ていくようだった。
(我が……我が……)
少女の顔には死相が色濃く現れていた。
見開かれた瞳は混濁としており、もはや視覚としての機能を失っていた。
「本当にやりすぎちゃったみたいね……久し振りに少し真面目にやったら、加減を間違えちゃったわ……。お墓は作ってあげるから、許してって……それは少しムシが良すぎるわね……」
……痛イ。
(我が死ぬ?我が消える?)
……痛イヨ。
(嫌だ……!死にたくない)
……死ニタクナイ……死ニタクナイヨ……。
(認めぬ……!我は認めぬぞ……ッ)
ドクン。
「な……何……?」
紫は我が目を疑った。
虫の息だった狼少女から、凄まじい妖気が溢れ出したのだ。
……死ニタクナイ……。
「?何?」
……イヤ……殺サナイデ……。
「……貴女なの?」
……憎イ!!
憎イ!!!
「くっ……」
少女の身体から溢れ出た妖気は、際限無く溢れ、周囲を満たし始める。
そして、妖気とともにその場に満ちていくもの。
憎悪。
憎悪が溢れ出していた。
まるで海のように。
「まだ…終わらないって事……?いいでしょう、今度こそ、苦しまないように終わらせてあげましょう」
周囲を満たしていく妖気と憎悪。
全てを飲み込むかのようなそれと対峙しながら、紫は一枚の符を取り出す。
……イヤイヤイヤ!死ニタクナイ!
……嫌イ嫌イ嫌イ!ミンナ大嫌イ……!!
「……終わりましょう……魍魎「二重黒死」……」
――――――――刹那。
……ミンナ殺シテヤル!!!!
「―――ッ!?何ですって?」
周囲に充ち満ちていた妖気と憎悪が、一斉に爆発した。
同時に、少女の身体から、黒い影の様なものが急速に拡がり……。
(影?違う!これは…闇?否!これは……ッ)
一気に周囲を飲み込んでいく。
「――――ッ!…っこれは……」
瞬時に拡がる黒に、離脱する間も無く紫も飲み込まれて行く……。
(隙間に逃げ込む暇が無い……それに……この黒は……)
……殺シテヤル……!殺シテヤル!!ミンナ殺シテヤル!!!
「……虚無」
……消エチャエ!!
ミンナ消エチャエ!!!
深い闇へと、紫は飲み込まれていった。
そこは何も無かった。
音も、光も、感覚さえも無かった。
何も無い世界。
虚無の世界。
狭いのか、広いのか。
地に足が着いているのかそうでないのか。
立っているのかそうでないのか、それすらも解らない。
ただひたすらに何も無い、そこは虚無の世界だった。
「……ここは…そうか……私は…あの娘の身体から生まれた闇に飲まれて……」
紫は虚空を漂っていた。
意識を取り戻したのはつい先程。
いったい、どれほどの時間、こうしていたのだろうか。
先程、と言うのも、時間の感覚が曖昧なこの空間ではそれが本当に「先程」だったのか、「もっと昔」なのかさえ解らない。
時間の感覚も、ここには無かった。
「おかしな場所……いいえ、場所というのも適当ではないわね……この空間は何かしら?」
紫は周囲を見渡してみるが、やはり何も無かった。
「何の気配もしないし……嫌なところ。さっさと帰りましょう」
紫は隙間を開こうとした。
だが。
「え…うそ」
開かない。
紫は暫し黙考した後、
「……成る程……ここはある種の結界なのね……。それもかなり強力な。無理すれば隙間も開けるでしょうけれど、これ以上疲れたくないし、おなかも減ったわ……さぁどうしましょう」
漂いながら腕を組み、考えるフリをする。
「……とりあえず出口を探しましょう。結界ならば、どこかしらに弱い部分があるでしょうし、そこを破れば出れるはず」
感覚を総動員して、紫はゆっくりと闇の中を動き始めた。
――――――――――――――――暗い。
それに……狭かった。
窮屈だった。
動けなかった。
身体が重い。
重い上に、何かに縛られていて、まったく身動きが取れない。
……どうして、こんなところにいるんだろう。
怖い。
怖い。
寂しい。
寂しい。
誰か。
誰か、いないの?
誰もいないの?
助けて。
ここはいや。
出して。
お願い。
……お母さん……お父さん……。
「……本当、何も無いわね……」
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
時間の感覚が無いというのは、何と不便なことか、と紫は思った。
「あのメイドも、よく気が狂わないわね。普通の人間や妖怪ならばすぐに発狂しそうだわ……って、あのメイドは普通じゃなかったわね」
無明の闇。
虚無。
「……絶対的な孤独感……音も光も何も無い世界……こんな場所に長時間いたら間違い無く壊れてしまうわね……ゆかりんこわぁい」
おどけて見せるも、その顔には薄く焦りが出てきていた。
「……兎に角、長居は無用。御免被りたいわね。気分が悪くなるわ」
流石の紫も、背筋が薄ら寒くなるような世界だ。
無理矢理押し破ることも考えた。
だが、ここまで過ごしたのだから、何かしら解明したいと言う欲が芽生えて来たのである。
「……そろそろ何かがあると思うのだけれど……」
解らないし、判らない。
あとどれ程の時間、ここにいなければならないのか……。
「……もう少しだと思うのだけれど……」
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
何時までこうしていればいいのだろう?
一瞬か永遠か。
どちらともつかない世界。
変化など無い世界。
出口など、本当にあるのだろうか。
「………………」
どこまでも、果てし無く続く無明の闇。
虚無。
「……?」
―――――――その時。
―――――――何かが、聞こえた気がした。
―――――――――――暗い。
狭い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
どうして。
どうして?
どうして、誰も。
どうして誰も、助けてくれないの?
わたしの声が聞こえないの?
お願いだから。
助けて。
ここから出して。
嫌。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。
ここは嫌!!
「……声?あの娘の声かしら……小さすぎて解らないけれど…こっちかしら」
闇の彼方から幽かに聞こえてきた声。
耳を澄まし、消え入りそうな程に小さなその声は、虚無の世界であるこの空間で、はじめて感知できた変化だった。
それを紫は逃さなかった。
(何か変化があったということは、そこに何かが存在すると言うこと。ならばそこへ言ってみるのが道理ね、この場合)
紫は今も幽かに聞こえてくるその声のする方へと進んでいった。
聞き逃さないように、慎重に。
けれど速く、急いで。
――――――――――――寒いよ。
暗いよ。
怖いよ。
寂しいよ。
誰か。
誰か来て。
助けて。
ここから出して。
私は皆の姿が見えるのに。
皆は私が見えない。
皆の声が聞こえても、私の声は届かない。
誰も、誰も探そうとしてくれない。
私がこんなに苦しいのに。
私がこんなに寂しいのに。
私が。
なんで。
なんで私が、私だけが……。
私だけがこんな目に。
私だけ不幸。
他の皆は幸せそう。
どうして。
どうして……!!
―――――――――――――私はこんなに悲しくて怖くて苦しいのに。
―――――――――――――そんなに楽しそうに!幸せそうに笑っているの……!!?
―――――――――――――許せない。
―――――――――――――憎たらしい。
―――――――――――――憎い。
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
1時間?
1日?
1分かもしれない。
「解る……少しずつだけれど、確実に、「何か」に近付いているわ」
紫自身は、それなりに速く飛んでいるつもりだが、速度を感じさせる要素が周りにまったく無い為に、本人でさえ速いのか遅いのかが解らない。
だが、確実に「何か」へと近づいている事だけは解る。
「…これは…悲しみ?恐怖……そして……」
近づく度に僅かずつ解っていく「何か」。
憎悪。
「これは、やっぱりあの娘の……」
相変わらず、何も無い世界。
だが、進もうとすればするほどに、何も無かった世界に、何かが存在することがはっきりとしていく。
やがて。
「これは……」
紫は不意に歩みを止めた。
そこには。
言われて尚且つよく注意しなければ、到底見つけられないような、一粒の砂ほどの大きさの光があった。
「この小さな光…これがこの世界の綻び?…いいえ、違う……これは……あの娘の心?」
その光は断続的に、弱くなったり強くなったりしていた。
「悲しみ、恐怖と、怒り、憎悪が交互に発せられている……この光は、あの娘の心……精神なのね。それではこの虚無の世界は……」
紫は無限に拡がる無明の世界を見渡した。
「ここは、あの娘の精神世界というわけ……?だとすれば……なんて可哀相な娘なのかしら……」
紫は両手でその小さな光を優しく包み込んだ。
壊れてしまわないように、大事な宝物を扱うかのように。
「ここから出るには、この光が何らかの手がかりになっていると思うのだけれど。どうすれば……あら?」
包み込んだ光は、だんだんと紫の手の中で、その輝きを弱めていた。
「迂闊に触れちゃったかかしら……?それとも……いいえ、今は考えていられる場合じゃないわね…。これがあの娘の心なら、もうすぐあの娘の心は消えてしまうかもしれない」
光は徐々に弱々しくなっていく。
「……とりあえず……こうしてみましょうか」
紫は光を手にしたまま瞳を閉じて、精神を集中する。
「ちょっと…お邪魔するわよ」
紫がそう呟いた瞬間。
紫の身体が、掻き消えるようにして光の中へと吸い込まれていった。
(心の「隙間」に入らせてもらうわ……御免なさいね)
「…これは」
そこは、真紅。
視界いっぱいに拡がるのは、紅蓮の炎。
そこは炎の海だった。
「怒り…憎悪の海。これがあの娘の世界?」
熱かった。
触れるものは、何ものをも焼き尽くさずにはいられない、地獄の業火。
「これはあの娘の記憶?ここはまだ、心の表層……まだ、奥がある」
紫は炎の海の中へと進んでいく。
紫は気付いていなかったが、精神が弱い者がここへ入り込めば一瞬にしてその精神を焼き尽くされ、たちまち絶命してしまう、そんな世界。
奥へ進めば進むほど、その炎はより熱く、より激しくなっていく。
やがて。
「!」
恐らく、この世界の中心部かと思われる場所。
炎の中に、ゆらめく影を見つけた。
「……あれは」
目を凝らして、浮かぶ輪郭を捉える。
……それは、巨大な狼の姿をした影だった。
激しい憎悪の海の中心で尚、より禍々しく、より激しい憎悪を放つ存在。
「これは……?どこかで……。この影のようなものが、あの娘の心の中心部なのね。あの娘はこの中に……」
巨大な狼の影からは、先程から紫が感じていた、怒りと憎悪、悲しみの感情が絶えず発せられていた。
だが、その感情は徐々に弱くなっていっているのも紫が感じた通りだった。
「……!消えかかっている?」
弱くなってはいるが、未だに強大な感情の波を発し続けているそれを、紫は悲しげな面持ちで見つめた。
「心が消えていく……貴女に、何が起こったと言うの?」
解らなかった。
そもそも自分は、あの少女のことを知っているとは言えない。
だが……。
「憎悪の内にあるこの悲しみ……消えていく心……」
見過ごすことは出来なかった。
紫からしてみれば、ここから脱出する為に少女の心の中へと鍵を求めてやってきたのだから、目的だけを果たして、さっさと脱出するだけでよかった。
ただ、感じた少女の悲しみと、これまで通ってきた少女の精神世界、孤独は、紫の憐憫に少しばかり触れたのだ。
可能であれば、慰めてやりたかった。
強い者が持つ、ある種の、弱い者への憐れみの感情であることを紫は理解していたが、別にそれを悪いことだとは思わなかった。
自分がしたいからそれをする。
それは禁忌ではないのだから、それを行うのに躊躇いは無い。
「…どの道、覗くことになるのだから」
紫は、狼の影へとゆっくり近づいていく。
「見させてもらうわよ。早く出たいし、藍と橙を待たせてあるし」
影の中心部分へと入り込んでいく……。
影への侵入は思ったよりもずっと楽だった。
「拒まれるかと思っていたけど……それどころか」
影は、紫が近づくと、抵抗どころか、むしろ紫を歓迎でもするかのようにして、彼女の存在を中へと招きいれた。
侵入の際、隙間を開く準備をしていた紫は、その事実を訝しがりながらも、歩みを進めることにした。
そのまま奥へ、奥へと進んでいく。
影の内部は、外見とはまた違っていた。
入ってすぐ、表層部分は、影の見た目通り、黒い霞のようなものだけが拡がる空間だったが、それを抜けると、今度はあたり一面が光の世界になった。
光の泡。
光の粒子。
それは暖かかった。
「これは…」
光の泡の中に、何かが映っていた。
そこには男と女に抱かれている少女が映っていた。
男も女も少女も、幸せそうに笑っていた。
鏡を覗いているらしかった。
別の泡には、さっき見た泡の中にいた少女と、同じくらいの歳だと思われる少年少女が、楽しそうに遊んでいる姿。
別の泡にも、他の泡にも。
全ての泡に映っているのは、見ているだけで幸福感が滲み出てきそうな光景ばかりだった。
登場人物は、ほとんどが最初に見た男と女だった。
「この二人……夫婦かしら……それに、最初に見たアレに映っていた女の子…あれは、あの娘よね……ということは、あの娘の両親があの夫婦…これは、あの娘の記憶の断片……?」
どの記憶も、幸せに満ち溢れていた。
「こんなに幸せそうなのに、何故、貴女は、あんなに憎悪の炎を燃やすの?怒りに心を焦がし、悲しみに震えているの」
記憶の断片が作り出す緩やかな流れの中を、更に奥へと進んでいく。
どれ程進んだだろうか。
「…!?」
紫の目が、それまでの暖かな世界とは明らかに異質な、黒い影を捉えた。
「闇……。ここが、あの娘の心の最深部…?」
その闇は何よりも冷たく。
そして何よりも熱かった。
憎悪と怒り、悲しみの源。
「……」
紫はその闇へと触れた。
「……!!」
触れた途端、奥へと飲み込まれるような感覚が紫を襲った。
(落ちる…!深い闇へと……)
そこは何も無いように見えた。
だが、今までの虚無の世界とは違って、うっすらと何かがあることを紫に感じさせた。
奥へ、奥へと進んでいくうちに、一筋の光が見えてくる。
紫は躊躇わずにその光の中へと入っていく。
「……ここは」
そこは別世界だった。
今までの何も無かった世界では無く、像を持った、世界。
「あの娘の記憶が作り出した風景……?」
そこは、村のようだった。
紫の周囲には藁葺き屋根の家々。
周囲を森で囲まれた、小さな村。
「記憶の断片で見たわ……貴女の暮らしていた村なのね、ここは」
彼女が幸福な生活を送っていたであろう、その世界。
だが、そうでないことがすぐに解った。
「……!」
周囲から聞こえてくるのは幸せな日常の喧騒ではなかった。
怒号。
悲鳴。
剣戟の音。
肉を断ち、血飛沫が飛ぶ音。
木が燃える臭い。
肉が焦げる臭い。
助けを求める声。
罵声。
見回せば、周りの家々には何時の間にか火の手が上がっていた。
不思議なのは、聞こえてくる声が、何を言っているのか解らないことだった。
紫は上空へと飛び上がり、村を見下ろした。
「……ここは……狼人間の集落…?何が起こっているの?」
目を凝らし、今、村で起こっている事態を把握しようとする。
「あれは…人間?……人間が、狼人間の集落を襲っているのね」
紫はそれを暫く傍観していた。
人間達は一方的に狼人間達を虐殺していた。
見上げれば月は無い。
新月だった。
狼人間は、新月時には普通の、力の無い人間と大差の無い妖怪だ。
そして人間達の方が数は圧倒的に上だった。
質が同じなら後は物量の問題である。
人間達の、狼人間達に対する仕打ちは目も当てられないものだった。
老若男女、大人も子供も問わず皆殺し。
女は輪姦され、金品は強奪されていく。
…幻想郷ではさして珍しくも無い風景だった。
一部を除き、人間と妖怪の関係は、血で血を洗う抗争が日常の、殺伐とした世界だ。
人間は妖怪が恐ろしくて、そして憎くて堪らない。
妖怪は人間を食べるし、攻められて黙っていられるほどお人好しな者でもない(例外もいるようだが)。
幻想郷が生まれる前からこの地に存在し続けて、そうした妖怪と人間の関係を知っていた紫にとって、この光景は見慣れたものの一つに過ぎなかった。
「これはあの娘の記憶なのね。……ではあの娘はどこに……」
あちこちで火の手が上がり、殺戮と陵辱が行われている村の隅々まで、感覚を総動員してあの少女の姿を探した。
見慣れているとは言え、見ていて気分がいいものでもない。
(これはあの娘の記憶が作り出した、過去の記憶の世界。残像。既に起きてしまった事を変えることは出来ないし、そもそも干渉は出来ないもの)
知らず拳を握り締めてしまう。
年端もいかない少女が殺されるところを見てしまった。
言葉の解らない悲鳴が聞こえた。
恐らく、少女の記憶が、悲鳴や罵声などを意図的に聞こえないようにしているのだろう。
(思い出したくない、心の奥底にある記憶…無意識に記憶の編集を行って、声を遮断しているのね)
どうにも出来ないことだと理性では解っていても、感情が納得出来ない。
気持ちを切り替えるため、紫は再び少女を探すことに専念する。
「どこなの…?」
少女の記憶の世界であるならば、この時点で彼女は生きており、この惨状に遭遇している最中の筈である。
東。
いない。
西。
人間の陣地だ。
南。
やはりいない。
北。
人間達に追い詰められている一組の男女が居た。
「…」
男が抱えているもの。
「居た……!」
彼女だった。
紫と戦った時と比べると随分印象が違ったが、それは彼女がまだ幼いからであろう。
男女は、彼女の両親だ。
幼い顔に恐怖を染めて、ガタガタと父親の腕の中で震えている。
彼女とその両親は、武器を手にした人間達に囲まれていた。
周囲に逃げ場は無い。
人間達が彼女達に襲い掛かった。
最初のうちは、父親母親共に、襲い掛かる人間達を返り討ちにしていたが、多勢に無勢、やがて取り押さえられてしまった。
捕らえられた彼女と両親は、人間達の陣へと連行された。
紫もその後を追う。
そこは少女にとって地獄だったに違いない。
そこは処刑場だった。
屠殺場かもしれない。
捕らえられた狼人間達が、文字通り嬲り殺しにされていた。
四肢を切り取られた者。
両目を抉り取られた者。
生首は無造作に地面へと投げ捨てられ、踏み砕かれた。
原形を保った死体は一つも残っていない。
男も女も、一切の区別無く。
女は犯され、男はその様を見せ付けられながら、それぞれ殺されていく。
血と肉の臭いが充満した、まさに地獄のような場所だった。
(これじゃ、どちらが化物か解らないわね…。人間という生き物は、化物以上に化物よ)
紫の姿は、この世界の者には映らないらしい。
過去の記憶の映像なのだから当然と言えば当然だが、それは紫が干渉したくても出来ないことの証明でもある。
その地獄のような処刑場に、少女はいた。
地面に無造作に打ち立てられた鉄杭に荒縄で縛り付けられている。
少女は泣き叫んでいた。
声の意味が判らなくても、意味は解る。
「やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて」
見知った人々が次々と殺されていく。
少女が「やめて」と言う度に、次々と人々が殺されていく。
そして、ついに。
目の前で、父親が殺された。
四肢を切り落とされて。
焼き鏝を全身のいたる所に押し付けられて。
全身を切り刻まれて。
最後は首をもがれて絶命した。
首から噴水のように噴き出る鮮血を全身に浴び、少女は狂ったように笑い出した。
実際、狂ってしまったのだろう。
狂気の笑みを浮かべ瞳は焦点が合わない。
だがそれでも。
呂律の回らない口で、少女は「やめて。やめて」と人間達に懇願し続けた。
縛り付けられた縄から抜け出そうともがくが、身体にきつく縛り付けられた縄は解けず、逆に少女の幼い身体に容赦無く食い込んでいく。
縄との摩擦で、少女の皮膚は擦り切れ、血が溢れ出した。
だが、そうした少女の願いが聞き届けられるはずも無く。
今度は母親が、その命を奪われた。
何人もの男に陵辱されて。
壊れるまで犯され続け。
最後には背中に何本もの剣を突き立てられて。
母の血が、父の血で濡れた少女を再び濡らす。
少女は狂った。
馬鹿みたいに笑いながら。
その顔に狂気を張り付かせながら。
泣いていた。
大粒の涙を流し、笑い声を上げながら。
哭いていた。
「やめて。やめて。やめて。やめて」
うわごとの様に繰り返しながら。
そんな少女を五月蠅く思ったのだろう。
人間達の中から何人かが、手に剣を持って少女に近づいていく。
(ちょっと…!やめなさい…!!)
思わず拳を振り上げる紫。
もう駄目だ、見ていられない。
だが、自分にはどうすることも出来ない。
悔しかった。
(あぁ……!!)
ついに、人間の一人が、泣き叫ぶ少女に、その兇刃を振り下ろした。
肩先から胸までを斜めに、一気に斬り下ろされた。
力任せに叩き斬ったのだろう。
傷口は歪だった。
切り裂かれた傷口から、少女の鮮血が勢い良く噴き出した。
即死だったろう。
力一杯泣き叫んで、幼い抵抗を続けていた少女は、瞳を見開いたまま力無くその頭を垂れた。
少女は、死んだ。
(いや…!!なんてこと……!!)
だと言うのに。
(…!やめて!やめなさい!!)
人間達は動かなくなった少女の骸に、尚も執拗に剣を、槍を突き立てた。
見るも無残な肉塊へと変えられていく少女。
(ぐっ…!)
紫の口の中に、鉄の味がした。
知らず唇を噛み破ってしまったらしい。
指が白くなるほど握り締めた拳からは血が滴った。
人間達の喜悦の表情が、堪らなく憎たらしかった。
殺してやりたかった。
(この……ッ)
瞳に憎悪の炎が燃え上がる。
膨れ上がる殺意。
溢れんばかりの憎悪。
頭蓋の奥で、白熱の焔が炸裂し……。
「『殺してやる……ッ!!』」
ドクン。
「―――っ!?今のは?!」
紫の口を突いて出た言葉と同じ言葉を、誰かが言った。
聞き覚えのある声。
「――――?――――!!――――!!―――――!?」
人間達の不快なざわめきが、紫を我に戻した。
「!!!」
そこには、信じられない光景が拡がっていた。
全身を剣山と化しながら、幽鬼の様に立ち上がった少女の姿が其処にあった。
立ち上がった少女は、周囲の人間達を睥睨する。
その瞳は、猛り狂った憎悪の炎で爛々と輝き。
その口には今まで無かった、鋭く尖った大きな犬歯が剥き出しになっていた。
少女は、もはや少女ではなかった。
人の形をした、文字通りの悪鬼だった。
人間達の顔からは、先程の喜悦や憎悪の色が欠片も残さず吹き飛んでいた。
代わりに、激しい恐怖と焦りがその顔を蹂躙する。
人間達の喉から、恐怖そのものの悲鳴が搾り出されるのと、「それ」が地響きさえも起こしそうなほどの、巨大な咆哮を発したのは同時だった。
その咆哮は大気を揺るがし、夜の虚空を引き裂いた。
聞くものすべてを恐怖で支配する、地獄が顕現したかのような恐ろしい咆哮だった。
間近でそれを耳にした人間達は、残らず口から泡を吹き、白目を剥いていた。
発狂してしまっていた。
咆哮の後、「それ」の身体が変化し始めた。
全身の傷口が一斉に塞がり、刺さったままの武器は残らず抜け落ちる。
両腕の爪が大きく鋭く変化していき。
全身から白銀色の体毛が急速に伸びていく。
骨格が瞬時に組み替えられていき、その身体はみるみるうちに巨大になっていく。
「それ」は巨大な獣だった。
白銀に輝く体毛に覆われた、巨大な狼の姿をしていた。
「こ……この狼は……!!」
紫の脳裏に、遠い昔の記憶がフラッシュバックする。
「私は…これを見たことがある……」
そう。
自分は、この狼を……。
「!?」
瞬間。
世界が暗転する。
それまでいた景色が消え失せ、周囲は再び無明の闇へと戻る。
「これは……どうなったのかしら……」
先程の光景が嘘のように掻き消え、今までそこに起きていた出来事が幻かと────実際、幻のようなものだったのだが────思った程だ。
「……何かあるはずなのよ…そう、無くなってはいない……」
紫は周囲を見回した。
探しているものはすぐに見つかった。
ちょうど紫の背後に、ぼんやりと影が浮かび上がってくる。
それは最初、輪郭の無い霞のようなものだったが、だんだんと形を成して行き、一人の少女の姿になっていく。
まだ輪郭だけで細部まではっきりとはしないが、見間違える筈が無い。
あの少女だ。
「ねぇ……」
紫は努めて優しい声で少女に話しかけた。
だが、少女は答えない。
反応しなかった。
「ねぇ、私の声が聞こえるかしら?」
少女は答えない。
「聞こえていない…?それじゃあ、これもあの娘の記憶が生み出した幻?」
少女の前に回りこんで、目の前で手を振ってみたが、少女は無反応だった。
じっと、何かを見つめているようだった。
「何をしているのかしら…」
紫は少女の視線の先を見た。
「……これは、何?」
そこには、楽しそうに笑いながら歩いている親子の姿が見えた。
何も無い空間に出来た、空間の裂け目。
「隙間に似てなくも無いけれど……これは一体……」
紫がもう一度少女の方へと顔を向けると、少女の姿はよりはっきりと見えるようになっていた。
「……!」
少女は、鎖で繋がれていた。
首輪を嵌められ、手枷、足枷を嵌められていた。
それぞれの枷には短い鎖が繋がれている。
その鎖は虚空から唐突に生えている。
鎖は頑丈そうで、それぞれの枷もまた頑丈に見えた。
そして重そうだった。
実際、重いのだろう。
少女はその小さな体をピクリとも動かせないでいる。
両膝を突き、両腕も力無く地に伏している。
「これは……私が使った、あの呪の……」
封魔「夢と現と時の境界」。
間違えようが無かった。
自分が行使した術なのだ、忘れようが無い。
「術の効果が目に見える形で具現化しているのね……惨い…自分でやっておいてアレだけど……」
少女を戒める鎖は、少女の小さなその身体には余りに大きく、その様は余りに痛々しかった。
紫の視線を余所に、幻影の少女はひたすら自分の目の前にある空間の裂け目から見える映像を見続けている。
「この娘が封じられた次元の狭間に、偶々裂け目があったのかしら?それとも……。これは、外の景色が見えているようだけれど……見た感じ、外界の景色が洩れて来ているだけで、向こうからは見えていないようね」
少女と一緒に裂け目を覗き込んだ。
裂け目から見えるのは先程見た親子だ。
視点は彼等を正面から捉えており、少女の姿が見えているのなら普通、気が付くはずだ。
そうでないということは、紫の考えが正しいことになる。
外界からの景色……情報が、少女のいる次元の狭間に漏れてきているだけに過ぎないと言うことなのだ。
(まだまだ未熟ってことかしら。……こんな術、磨きたくは無いけれど)
裂け目には、先程とは別の人物が出てきた。
今度は子供達が遊んでいる場面だ。
どの子供も、楽しそうに笑い、遊びに耽っている。
背後の景色を見るに、裂け目から見える場所は人間の里らしい。
裂け目から見える場面がまた切り替わった。
そこには祖母と思われる老婆に、木の玩具を買ってもらい喜びはしゃぐ女の子の姿。
次々と現れては消えていく人々。
そのどれもが、楽しそうに笑い、幸福に包まれた人々であった。
たまに猫や犬、狸などの動物も映ったが、それらの動物達も、どこか幸せそうな雰囲気を感じさせた。
裂け目に映る景色は、時間と共にその姿を変えていく。
「いったい……どれほどの歳月を、ここで過ごしたと言うの?」
景色も人も、目まぐるしく変化していく。
紫が行使した術は、対象の時間進行を急激に遅くする。
これを使われた者は、周囲が普通に過ごしている時間の、何倍もの長さの時間を味わうことになるのだ。
瞬きした瞬間に、さっきそこにいた相手はもう死んでいて、その相手の世界では既に何十年も経過しているのだ。
これで狂わない方がおかしいだろう……。
少女はそれらを食い入る様に見つめ続けていた。
見つめながら、少女は独り何かを呟いているが、先程と同じで紫には聞き取れない。
だが、紫には少女の声が聞こえるように感じられた。
彼女は最初、泣いていた。
ひたすらに泣きじゃくり、手枷の非常な重みに必死に逆らって手を伸ばそうとしていた。
外の景色に向かって。
そこに見える人々に向かって。
彼女は泣き続けた。
身体から水分のすべてを搾り出すかのように。
まるで神話の神のように、海を泣き干さんばかりに。
彼女は叫び、求め続けた。
助けて。
ここから出して。
苦しい。
助けて。
助けて。
助けて─────。
何時しか少女は泣き止んでいた。
涙も枯れ果てたのか。
その瞳は虚ろだった。
だが見開かれた瞳は、変わらず空間の裂け目を見つめ続けていた。
否、凝視していると言ってもいい。
裂け目からは人々の幸福に包まれた生活が覗いていた。
何も裂け目に映るのすべての人々が笑っていたり、楽しそうにしている訳ではなかった。
だが、外界から隔離され、干渉することもされることも出来ないまま、自分には無い自由で、縛り付けられていない生活を送る人々は、彼女から見れば何よりも幸せに見えていた。
まるで、何かに憑かれているかのようにひたすら、少女は裂け目を見続けていた。
その表情は能面のような無表情だった。
たまに、思い出したかのようにブツブツと、うわごとの様に何ごとかを呟く姿が、紫には痛々しく見えた。
――――――――助けてよ。
お願い。
お願い。
……こんなにお願いしてるのに。
どうして。
誰も気付いてくれないの?
少女は知らないのだ。
自分の姿が、裂け目から見えている人々には見えていないことに。
何時の間にか、拳は堅く握り締められていた。
紫の感覚で十数分。
少女の記憶の世界では何年が過ぎたのか。
少女は相変わらず、空間の裂け目を見つめ続けていた。
────否。
見つめているのではなかった。
睨んでいた。
射殺すような視線で睨みつけていた。
その表情はもはや能面のそれではない。
少女の幼い顔は、怒りと憎悪で満ち溢れていた。
「……」
少女の怒りと憎悪の鉾先は、すべて裂け目から見える、彼女にとって幸福であろう者達へと向けられていた。
奥歯が砕ける程に噛み締め、爪は虚空を掻き毟った。
息をするかのように少女は囁き続ける。
憎い。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
その口からは、助けを求める声も、嗚咽でもなく、呪詛だけが流れ続けた。
その瞳には、涙はもう無く、憎悪の炎だけが爛々と燈っていた。
何故、助けてくれないのか。
声を枯らし、涙を枯らし、助けを呼んだのに、必死の思いで呼んだのに。
私だけを独りぼっちにして、知らない振り。
苦しんでいる私をほったらかしにして、幸せそうに笑っていて。
……許せない。
許せるものか。
「…………」
少女の怒り、憎悪は、彼女の逆恨みだ。
彼女がその憎悪を向けている人々に、非は無い。
だがそれに気付いていない少女にとって、その怒りは正しいものであり、憎悪は彼女にとって正義であった。
少女の憎悪が、逆恨みと変わらないことが紫には解ってはいたが、紫はそのことについて何も言えなかった。
彼女をこのような境遇に追いやったのは他ならぬ紫自身だからだ。
彼女が使った術さえ無ければ、少女はこのようなことにはならなかった筈だったから、と紫は思う。
何故、あの時ちゃんと確認をしなかったのだろうか。
妖怪、特に人外は、種族によっては死んだように見えてその実眠っているだけだったりするという、変わった生態を持つ者もいる。
彼女――――あの巨狼も、死んでしまったように見えただけで、実は疲れて眠っていたのかもしれない。
……だが、紫は責任を感じてはいたが、後悔はしていなかった。
少女の運命を狂わせてしまったことには責任を感じているが、彼女を封じていなかった場合、あの後更に巨狼による破壊は拡がっていたであろう事は、大いに予想できた。
紫がそれを見過ごすとは出来なかった。
「ごめんなさい。謝って済む事ではないけれど……私にはあれが最良だと思えたからそうしたの。許してくれとは言わないわ。……それでも……謝らせて欲しいわ……」
憎悪の炎を燃やす少女を見つめ、紫は静かにそう告げると、少女に対して深く頭を下げた。
そして、
「……そろそろ、姿を現して欲しいわ。貴女の過去は、充分私に伝わったわ。もう、昔を振り返るのは終わりにしましょう」
紫が言い終わらない内に、そこにいた少女の姿が掻き消える。
周囲は闇へと戻り。
『貴様か…ここまで入り込んできた者は』
「それ」がゆっくりと、その姿を現した。
狼だった。
毛足の長い、美しい白銀色の体毛に身を包んだ、成長した雄の獅子程の大きさの狼だった。
その身体は無駄が一つも無い、しなやかな鉄線をより合わせたような強靭で引き締まった筋肉だ。
まさに狼という種を体現していると紫は思った。
その姿は、体格こそ大きかったが、どこかニホンオオカミのそれを彷彿とさせる。
精悍な顔付きは、雄々しく勇ましい、まさに「狼」を体現している。
強く逞しい顎を開くと、刃より鋭い牙が、凶暴な光を放っていた。
だが、その瞳に凶暴な光はまったく無く、代わりに、永き時を生きた者の持つ叡智の光が静かに宿っている。
『迷い込んだか?それとも……』
狼が口を開いた。
「入り込ませていただいたわ。出口はこの方向でいいはずだと思うのだけれど」
『出口など無い』
「それは困ったわね」
『……』
「あなたね?あの娘が一度死んだ後、あの娘を生き返らせて、そしてその後暴れた巨大な狼の正体は」
『いかにも』
「……ここから出たいのだけれど」
『……間も無く、すべてを飲み込むだろう……この世界、そのものを』
「飲み込む……?どういうことかしら。質問に答えていないわ」
『……ここから出ようが出まいが、もうじき世界は消滅する。我の力は飲み、喰らうこと。遥かな昔、我が唯一の友が我に託した力により、我の力は大きくなった。我はすべてを飲み、喰らうことが出来るようになった。試したことは無いが、恐らくすべてのものを飲み喰らうことが出来ようぞ…。これが答えだ』
狼は「唯一の友」の話をする時、その表情が優しげに変わっていたことを紫は見逃さなかった。
「……暴飲暴食の大食漢さんね。答え…続きを聞かせてくれないかしら?」
『……』
「…世界を飲み込む…って言っていたけれど、それはどういうこと?」
『言葉通りの意味だ。我はこの世界を飲み、喰らう』
「……飲まれた世界はどうなるの」
『此処に辿り着くまでに見てきた筈だ。我は虚無から生み出されしもの。唯一つの存在。我に取り込まれたものは、虚無へと還るのみ』
「……!あなたの胃はすごいのね。虚無へと還る?無くなるということ?」
『厳密には違うが、無くなるということにしておく。説明は面倒だ』
「あらら」
『お前が此処に辿り着くまでに通ってきたあの世界は、虚無の世界だ。いずれ、先程までお前が存在していた世界もああなる。すべては虚無へと還るのだ。我に喰われてな』
「……笑えないお話ね。それが本当なら、私はそれを許すわけにはいかないわ」
紫は狼を睨む。
手には何時の間にか傘を取り出している。
……恐らく、自分がこの世界も、狼も滅ぼすことは容易いだろう。
自分はそれだけの事が出来る「危険な存在」だから。
だが、感情はそれをすることを躊躇わせる。
何か、別の解決策は。
未だ見えぬ解を求め、紫は質問を続けた。
「世界を食べる。それじゃあなたはどうなるの」
『試したことなど無いからな。その時、我がどうなるかは解らぬ。だが……』
狼は紫から視線を外すと、
『……恐らく、我も虚無へと還るだろう。それがもう一人の我の望らしい』
と、瞳を閉じて告げた。
「もう一人?」
『お前に過去の記憶を見せていたもの。我の1985816番目の器。1985816番目の我』
狼は紫の背後に視線を投げた。
「…?」
狼の視線の先に、幽かに見える人影があった。
少女だ。
今は背を向け俯き、座り込んでいる。
肩が震えている。
泣いていた。
少女の、すすり泣く声が闇へと吸い込まれるかのように幽かに聞こえてくる。
「あれは……」
『あれはもう一つの我。我の1985816番目の器。1985816番目の我』
「どういうこと?」
『原初の我は、我が唯一の友の為、共に悪しき神々との戦いの際肉体を破壊され、魂だけの存在となった。肉体を失った我は、悪しき神々の呪いで、肉体が再生される前に魂だけの存在へと変えられてしまった。そして、最期の戦いの終わりに、悪しき神の最期の呪詛で、卑しき犬の魂の奥底へと我は封じられた』
狼は遠い目をしながら続けた。
『その瞬間から、我は我の器となる者の魂の奥底で永劫に封ぜられる存在となった。器が朽ちれば、我に近しい因子を持つ、新たな器へと望まぬ転生を余儀なくされる……時の流れによる死が我からは永遠に奪われた』
「それはお気の毒に。退屈してしまわない?」
『時の流れによる死は奪われたが、別段それは気に病むことではない。我は転生の度にそれまでの器の記憶は失い、新たな器の記憶を得る。器は器であると同時に我である。我は何度も新しい生を受けているも同じ。生まれる度に我は新しい我となる。今、こうして喋っている我自体は、普段は決して表には出ないし、我自身も出られぬ。我は器の魂の、単なる付属品に過ぎない。我は、我が表に出るようなことが無ければ、「我」として覚醒することは無い。我と器の関係は、簡単に言えば「我」という白紙の紙に「器」の生が書かれていき、「器」が滅するときに「我」という白紙の紙から「器」が消え、新たな「器」の生が書き記されるということだ。紙は白紙のままでは何も語らない。何度も転生してはいるが、何度も別の人生を味わっているからな、退屈はせぬ』
「…退屈はしないのね。あなたは白紙。新しい物語を書かれる存在というわけ。本の中の主人公に感情移入して、そうした本が何冊もあるって感じに似てるわね。すこし違うけれど」
『…大体合っている』
「ふぅん……難儀なことね。……まぁいいわ。あなたがどういう存在かはこれで少し解ったし。ご解説どうも。ついでに、あなたじゃなくあの娘が、世界を喰らうと望んでいるってどういうことか説明してくれないかしら?」
『器が望んでいることだ』
「そう望む理由よ」
『器の見せた記憶は覚えているだろう。器は憎悪の炎に身を焦がし過ぎて、燃え尽きようとしている。器は、その憎悪を、己を取り巻く世界すべてに向けている。何もかもが憎いのだ。「こんな世界などいらない」、それが器の意思。器の憎悪が我を覚醒させ、今の、このような事態になった』
「…あの娘が本気でそう望んでいるの?あなたがじゃなくて?さっき、あの娘と戦っていた時、確かにあなたの人格も表に出てきていて、私と喋ったけれど?あの雰囲気なら世界を飲み込もうなんて考えを起こしそうだったわ」
『我は世界を飲み込むことが出来てもそれがしたいわけではない。先の戦いでお前と話した我は、器の憎悪に同調した、我の感情の一部だ。純粋な我の意思では無い。器の、度し難い憎悪の念が狂気となり、我の怒りの部分と同調し、より狂った攻撃衝動と破壊衝動を持った仮の人格が生み出された。それが先程の我だ……。あの人格は、我と器、双方の正しい人格ではない。攻撃衝動と破壊衝動だけが増幅されて具現化した、現象のようなものだ』
「……解ったわ。信用しましょう。……説明ついでに教えてくれない?どうしたらあの娘が世界を飲み込むことを止められるの」
『簡単な方法は一つ。あそこにいる器を殺せばいい。あれは器の魂が形を成したもの。あれを殺せば器は死に、世界は救われるだろう。……だが』
狼の表情が険しくなる。
『器は我でもある。お前が我を殺そうとする……それを我が見過ごすと思うな』
狼が威嚇するように低く唸り声を上げた。
実際は威嚇ではなく、半ば本気だったのかも知れない。
紫はそんな狼には目もくれず、少女を見つめたまま、
「……他には何か無いのかしら?」
と聞いた。
『……何故、それを聞く。先程、我が言った手段がお前にとって最も簡単な手段の筈だ。未だに信じられぬし、我としては認めたくは無いが、お前の力は我を上回っている。我を殺すことはお前にとって大した手間にはならぬ筈だ……』
狼は、何故だか解らないと言った表情で紫に尋ねた。
「……私に、あの娘を殺すことは出来ない……いいえ、したくは無いわ。出来ることならね。教えて頂戴。他の方法を」
狼の方へと向き直った紫は、真剣な表情で狼に問い詰めた。
『……』
「あるのなら、教えて。……お願い」
狼は紫をじっと見つめた。
「……」
『……』
無言。
二人の間を沈黙が支配する。
時間にして数分。
だが紫にはそれが永遠に近く感じられた。
……やがて。
『……方法が無くは……無い』
と、狼は短くそう告げた。
『世界を喰らおうという望は、器が望んでいることだ。器がそれを望まねば、あるいは止められるやも知れぬ』
「説得しろって言うの?」
狼は紫に背を向けて続けた。
『器に思いとどまらせることがそうと言うなら、そうだ。だが…既に世界を飲み込み始めている今、間に合うかどうか……』
「解ったわ……」
狼は振り返って紫を見つめた。
『……僅かだが、時を稼いでおいてやる。さっさとしろ』
狼は短くそう告げると、紫が制止する間も無く闇へと消えていった。
「時を稼ぐって何をする気なのかしら?…まぁ、ありがとうと言っておくわ」
消えた狼を見送るようにして、感謝の言葉を呟く。
「それと……ごめんなさい。あなたにも、私は謝らなくちゃいけないわ…」
念じるように、立ち去った狼に告げた。
今度、またあの狼に会ったら、ちゃんと謝ろうと思う。
「さて……」
紫はゆっくりと、少女へと向き直った。
「私の言うことを、聞いてくれるかしら?」
不安が無いといえば嘘になる。
自分は少女を、この世界と同じ何も無い場所へ閉じ込めた張本人なのだ。
そんな人物の話を、果たして聞いてくれるだろうか。
「私ならまず聞かないわね。それでそんなヤツは追い払っちゃうわ」
自分で言って、気が滅入ってきた。
そんな自分の考えに思わず苦笑いがこぼれた。
「それじゃ駄目じゃないの」
紫の口元に浮かんだ苦笑は、次の瞬間には痕跡すら残さずに消えた。
傘を隙間に放り込む。
キッと口元を結び、これまでにないほど真剣な表情になる。
意を決して、紫はすすり泣く少女の元へと、ゆっくりと静かに歩いていった。
「……!」
紫が少女の元まで後十数歩というところまでやって来た時、すすり泣く少女の肩が、ピクンと大きく跳ねた。
背後から不意を突かれた小動物を思わせた。
可愛らしい耳が警戒のためにピンと立つ。
少女はゆっくりと、ぎこちない動きで肩越しに後ろを振り向いた。
近くまで来ていた紫と視線が交錯する。
「あ……こんにちは」
紫の口から間抜けな言葉が滑り出た。
(こんにちは、じゃないわよ!何を言っているのかしら……まったく……)
少女の瞳は、恐怖に濁っていた。
まるで、初めて見る得体の知れない不気味なものを見る目つきだ。
涙を浮かべ、見開かれたその眼に、少女を覗き込むようにして紫が写る。
まるで硝子球だ。
恐怖以外の感情が欠落しているかのように、その瞳は虚ろだった。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「……あ……」
「ッ!!」
沈黙に耐えかねて、紫が声をかけた途端に、少女は恐れ戦き、両手で頭を庇うようにして丸まってしまった。
そのままガタガタ震えて、蚊の泣くような声で、
「怖い」と繰り返し出す。
「あ、あのね……?」
「ッ!?ッ!!!」
声をかける度に、怯える少女はその小さな体をびくんびくんと震わせて、より一層怯えるだけだった。
話しかける度に少女は怯え、それが更に酷くなる。
紫はすっかり困ってしまった。
(このままじゃ埒が開かないわね……気持ちは解るけれど。あー、もう!どうしたらいいのかしら……?)
普通に話しかけても少女は怯えるばかりで話にならない。
かと言ってこのままだなんていうのは論外だ。
少女の、このような仕草を見て、紫は少女に対しての憐憫の情がより強く深くなったことに気付いた。
同時に、ある種の愛おしさも覚えた。
それは、哀れな、捨てられた仔犬に対して感じる愛情と同情に近しいものだった。
紫はそれを黙殺した。
自分が、この少女に対して同情はおろか愛情を持つなんて、おこがましいにも程があると思ったからだ。
「怖がらないで?私は……何も怖いことはしないわ」
優しく語りかける。
彼女への罪の意識と、憐憫の情が、紫を優しい気持ちにさせた。
「返事とか……そう、答えなくてもいいわ。…聞いてくれるだけでいいから……」
少女を刺激しないように、優しく、静かに、ゆっくりと話しかける。
母親が、泣いている我が子を慰めるかのように、優しく。
少女の手前まで来ると、紫はそこに腰を下ろした。
「私……貴女に謝らなければいけないわ」
「……」
「……ずっと、寂しかったのでしょう?苦しくて……悲しくて……独りぼっちで、あんな場所に閉じ込められて……辛かったわよね。嫌だったわよね」
少女が傍にいるのなら、その頭を優しく撫でていただろう。
抱きしめていたかもしれない。
「……」
少女は紫が何もしないことが解って少しだけ安心したのか、盗み見るような仕草で紫を見ていた。
その瞳にはまだ怯えの色が濃く残っていたが、先程よりは心なしかそれが薄らいでいるかのように見える。
少女が怯えないので、紫はそのまま喋り続けた。
「ごめんなさい……ごめんね……。私が……」
次の一言を言うには、勇気が必要だった。
だが躊躇ったのは一瞬だけだった。
自分は言わなければならない。
「私が……」
「……?」
この少女に謝らなければならない。
「私が……貴女を、あそこに閉じ込めたの。あの、忌まわしい場所に」
「……!」
紫がそう言った瞬間。
少女の瞳に、恐怖の色に混じって憤怒と憎悪の炎が閃いた。
命の無い人形に突然、魂が吹き込まれたようだった。
動かない人形に生が宿った様を髣髴とさせる。
同時に、少女の全身からもの凄い殺意が溢れ出す。
刺すような殺意の波動が、すべて紫に叩き付けられる。
凄まじい憎悪の念が、紫に襲い掛かった。
思わず怖気つきそうになるほどの濃密な負の感情に、紫は晒された。
紫の手が小さく震えた。
(すごい……!)
「……ッ!!!」
無言の憎悪。
並の者なら背筋が凍り付いて砕けてしまうだろう。
見るものを圧倒する、狂的な眼光だ。
先刻戦った時と比較にならない。
紫は思わず目を背けたい衝動に駆られた。
(駄目よ……しっかりしなさい紫!)
強引に視線を戻す。
少女の感情から逃れることを頑として拒む。
そうだ…自分はこの娘から逃げてはいけない。
紫は、少女の呪詛の如き視線と真っ向から対峙した。
「…許してとは言わない。いいえ、言えないわ。貴女が過ごした孤独の時を思えば、どんな謝罪の言葉も無意味な有象無象に成り下がるでしょう。ただ……それでも……私は、貴女に謝らせて欲しい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
紫は頭を下げた。
何度も謝罪の言葉を少女に捧げながら。
少女が望むのなら、土下座してもいい。
そう思った。
「……!!!」
襲撃は電光の速度で瞬時に行われた。
座り込んでいた少女の姿が掻き消えたと思った瞬間、少女は一瞬で紫との間合いを詰めていた。
少女の右手が閃いた。
破壊槌のような重い拳だ。
それが紫の顔面に突き刺さった。
たまらず後方へと吹き飛ばされる紫。
先の戦闘の時ほどの威力は無かったが、それでもその威力は強烈だった。
少女が、瞳に憎悪の炎を燃やして、吹き飛び仰向けに倒れた紫に飛びかかった。
「うああああああああああああっ」
少女は紫に馬乗りになると、拳を固めて紫の顔や胸を力任せに乱打した。
怒りのままに殴りつけ爪を立てた。
妖怪とは想像以上に頑丈なものだ。
特に弱りでもしていない限り、例え巨大な鉄塊が恐ろしい速度で真上から落ちてきて押し潰されても、涼しい顔ををして次の瞬間には鉄塊を押し退けて両の足で大地を踏みしめる。
少女の拳は落下してくる鉄塊以上の破壊力が込められていたが、紫の身体にはあまり効果は無いようだ。
口の端から血が滲み出て、頬は赤く腫れ上がってはいたが、深刻なダメージは一切無い。
紫ぐらいの妖怪になれば、巨大な隕石の直撃にでも耐えられる。
恐らくは核爆発の爆心地にいても平気なのではないだろうか。
紫は黙って耐えた。
身体の痛みなどどうでもいい。
自分には、少女の攻撃は用を成さないと解りきっているから。
でも、心は痛かった。
殴られ、抉られる度に紫の心は痛んだ。
一発一発が、少女の怒りであり、憎悪であり、寂しさのツケだと思った。
防御の姿勢は取らない。
力も入れない。
悲鳴もあげない。
ただ流れに身を任せる。
少女の気が済むのなら、いくら痛めつけられてもいいと思った。
少女を説得する等と言う事は紫の意識下から完全に抜け落ちてしまっていた。
「はぁはぁはぁはぁ……」
やがて、少女の呼吸が荒くなってきた。
疲れてきたのか、拳を振り上げる速度が鈍ってきた。
拳は力無く紫の胸に降ろされた。
「はぁ…うあああああ!」
腕を苦心して持ち上げようとするが出来ない。
今はあの狼と離れている性かも知れないと紫は思った。
目の前の少女は、「普通の狼人間の子供」程度の能力しか持っていない。
「気は…済んだ……?……ううん、済む筈なんて無いわよね……」
紫は弱々しく言った。
身体が平気でも心は痛かった。
心に血管があるのなら、間違い無く出血多量だ。
「―――――――ッ!!」
少女の顔が憎悪に歪む。
だが、拳が上がらない。
その拳は、皮が擦り剥け血が流れ出していた。
固く握り締めていた為に、鋭い爪が自らの掌を傷つけていた。
ドクドクと血が流れ出ていく。
「ごめんね……」
紫は傷ついた少女の拳を見つめ、紫は言った。
自分の身体に心底嫌気が差した。
憎しみすら抱いた。
目の前の少女が必死に殴りつけても、大きな損傷は受けない、妖怪の身体。
死ぬわけにはいかないから、尚更腹立たしい。
その身体が、この少女の身体を逆に傷つけていく。
「ごめん…なさ…い」
涙が零れ落ちた。
自分でも気付かぬうちに、大粒の涙が頬を濡らして流れ落ちる。
「……?」
少女の顔に困惑の色が過ぎった。
……憎い筈だ。
許せない。
この女は、私をあんな場所に閉じ込めた犯人だと言った。
私を、あんな目に合わせた張本人なのだ。
許せる訳が無かった。
殺してやりたい。
憎くて憎くてしょうがない。
その筈だ。
「な…んで……」
震える声で、少女は初めて言葉を発した。
長い間喋っていなかったせいか、その声は擦れていた。
そんな声を聞いて、紫の心は更に言い難い痛みを受けた。
「なんで……なんで……!」
残りの体力を掻き集めて、少女は紫の襟元を掴み、強引に自分の顔へと近づけた。
少女の瞳に、恐怖、憎悪の他にはじめて、別の感情の色が浮かんだ。
「なんで……痛くないの!?」
「痛いわ……」
「嘘!痛いって言わない!!悲鳴をあげないじゃないのよ!!」
少女の両腕が紫の首へと伸びた。
多少なりとも体力が回復したのか、その動きに鈍さは一片も無い。
万力のような威力を秘めた指が、紫の首を絞め上げにかかる。
「『アイツら』は、私がこうしてやれば痛いって言った!苦しいといった!助けて!止めて!無様に泣き叫んで命乞いをした!!悲鳴を上げて這いずり回っていい気味!!!」
「…」
「なのにっ」
奥歯が砕けるほどにきつく噛み締めた牙がガリガリと音を立てた。
「なんでお前はそうしない!?何故そうならない!?」
頭髪がバリバリと音を立てて逆立つ。
眼光は炎を噴きそうだ。
「お前は…ッお前はぁぁッ!!!」
「……」
少女はありったけの力を、紫の首に喰い込ませた指に加えた。
だが、どんなに少女が力を加えていっても、紫の顔に苦悶の表情は欠片も浮かばない。
「何故だ……なんで……」
「本当に……ごめんなさい……」
そっと。
紫は自分の首へ絡みついている少女の指に優しく触れた。
「!」
ビクンと、肩を震わせて少女が驚く。
指に触れたぐらいで大袈裟な反応だったが、紫にはそう映らなかった。
長い間、誰にも触れられたことが無かったのだ。
誰かに触れられるということを忘れてしまっていた。
そんな仕草が紫の心をまた苦しめた。
「ごめんね…」
「……ッ」
「私のせいで……本当に……ごめんなさい……」
「は…離せ…!」
「はい…」
紫は言われたとおりに手を離した。
「答えなさいよ……!何で、何で痛いって、止めてって言わないの!?」
「……私には、そんなことを言う資格は無いわ」
「……」
「貴女が味わってきた苦しみに比べれば、この程度の痛みなんて……」
嘘だ。
身体の痛みは確かに無かった。
だが、心の方は傷だらけだった。
罪の意識が紫の心を酷く傷つけ蝕んでいた。
「たとえ……たとえ私がどんなことをしても、貴女に対してしたことへの償いにはならない……私に出来ることは、貴女に謝ることと…貴女の気が済むよう努力することぐらい……私に、貴女の怒りと憎しみを全部、ぶつけて頂戴……それぐらいしか…私に出来ることは……」
「―――――――ッ!!」
少女は紫の首を恐ろしい力で掴んだ。
絞め上げながら、倒れた紫の身体を強引に引き起こす。
「お前にッ!!!」
「…ッぁ……」
「お前なんかにっ……私の……私の気持ちが、解ってたまるかッ!!!!」
馬乗りの姿勢を解いて立ち上がると、紫の首を掴み、絞め上げながら持ち上げた。
少女と紫の身長差はかなりあったが、紫の足は地面から10センチも離れた。
憤怒に燃える鬼の形相だ。
迫力だけで程度の低い妖怪は消滅しそうだ。
少女の可愛らしい耳は尖り、牙は大きく太く変化していく。
狼人間の、獣化現象が生じかけていた。
幼い顔が急激に、彫りが深くなり、鼻先の尖った獣面へと変化し始めた。
あの狼と同じ、白銀色の体毛が密生し出す。
「私がっ……私が今までどんな気持ちでいたか……!お前に解るのか!!あの孤独!!あの苦しみ!!それが解るとでも言うのか!?気安く言うな!!あれが…あれが解らない奴なんかに、この気持ちが解る訳が無いッ!!!!」
怒りの余り、自らが発狂しそうだ。
狼の口臭と体臭が紫の顔を嬲った。
「カァアアアア……!!!」
恐ろしい姿だった。
どんなに勇ましい者でも、たとえ何処かの伝説の勇者であっても思わず顔を背け、瞳を閉じて、耳を塞いだであろう。
最悪、逃げ出すか発狂するかもしれない。
だが、紫はそうしなかった。
顔を背けず瞳は少女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
耳は塞がないし、逃げ腰にもならなかった。
「……解るわ」
「何…!?」
「誰もいない、動けない。孤独。……私もそれを知っているから」
「……お前……何を言っているのか解っているな…巫山戯るな……!噛み殺してやる……!!!」
かっと少女の口が裂けた。
凶暴な光を放つ鋭い牙と炎のように赤い口内が紫の視界を埋め尽くす。
「別に…巫山戯てなんかいないわ……」
「黙れ!!殺してやる……お前なんか死んじゃえばいいんだ!!」
「私は、私として「生まれた」時、そこには誰もいなかったわ」
紫は少女の怒声を気にする様子も無く喋り始めた。
「貴女みたいに繋がれてはいなかったし、時の流れも普通だったから、その点では貴女より幸せだったかもね」
「何を言って…」
「遠い遠い昔、私はこの世に生まれた。生まれて間もない私は、自分の能力が解らずに自分から次元の狭間に落ちてしまった」
「…?」
「どうしてそこに来てしまったのか。どうやったらそこから出られるのか。それが解らぬまま私は永い永い時を過ごしたわ。……自分以外に誰かが、何かが存在していることなんて気付きもしなかった……。それどころか、私は自分が何者なのかさえ解っていなかったわ……」
紫は軽く目を閉じた。
「何も無い永い時は、私を磨耗させ虚無的にするには充分過ぎる程に長かった。寂しさだけが私に残された唯一の心の欠片。でも、それが「寂しい」という感情だとは解らなかったわ。だって、私には何も無かったんだもの」
「…………」
「ある日、私は唐突にこっちの世界へと引き戻されたわ。妖怪使いの荒い巫女が、私がいた狭間に出来た綻びを目ざとく見つけて私を引っ張り出したわ。……あの時の私は…あまり大きな声では言えないけれど、相当酷いものだったわ」
「……?」
何時の間にか、少女は紫の独白に聞き入っていた。
首を掴んだ指の力が気付かぬ内に弱くなっている。
変化しかけていた身体が静かに元へと戻っていく。
「初めて見る景色。初めて知った世界。初めて知る、私以外の存在。何も無い、何も知らない私はすぐさま恐慌状態に陥ったわ。あの時の感覚は今でも覚えている……。未知への恐怖。恐怖は私の何も無い心を容易く壊したわ。知らないことへの恐怖が、やがてどうしようもない怒りと憎悪へと変わり、まともに意思と呼べるものを持っていなかった私は狂ってしまうことで漸く、はじめて「自我」と呼べるものを形成した。……狂った心が本当は普通の心だったのよ。……狂っていた私だけれども、その心の奥底には一つだけ、たった一つだけ生まれた時から持っていた感情があったわ。……何だと思う?」
「え?……な、何…?」
「寂しいっていう気持ち。私は寂しかったのよ。その気持ちが永い間、ずっと満たされることは無かった……。満たされない寂しさ、絶対の孤独。この世界に再び戻ってきた私の心に生まれた恐怖、怒り、憎悪、狂気は全部、その寂しさが原因だった。磨耗した私に残されたものは寂しさだけ……」
「…………」
紫は瞑目しながら続けた。
「狂った私は、その、やりようのない怒りと憎悪を世界に振り撒いたわ。……貴女のように。私は暴れに暴れたわ。私をこの世界に引き戻した巫女が、私を打ち倒すまでの短い時間で、私は多くの罪無き命を奪ってしまった……」
閉じた瞳から、光る雫が静かにこぼれた。
「生まれて間もない、右も左も解らなかった私だったけど、私は私を生んだこの世界を愛していた。それを忘れてしまって、私は大きな大きな罪を背負った……。もう少しで、この世界を滅茶苦茶に壊してしまうところだったのよ……」
「……」
「巫女に倒されて、私は何年かその巫女の下で過ごしたわ。巫女は乱暴で、がさつで怠け者だったけれど、優しくて、私に色々なことを教えてくれたわ。彼女は私の育ての親と言ってもおかしくないわ……。その巫女から教えられたの。「お前がしたことは悪いことだ。だけど、お前が悪いだけってことじゃない。悪いのはお前があんな目にあってしまったことだ」って。それで、「お前が大きくなって、もし、お前と同じような目に合ってる奴や合いそうな奴を見つけたらどうする」って聞かれたわ。……私は答えた。「助ける」って。自分のような目には誰も合わせたくないって。答えた時に誓ったわ。絶対……あんなことを他の誰かに味合わせちゃ駄目だって……。なのに……なのに……!」
紫は両手で自分の頭を抱えて嗚咽を漏らした。
大粒の涙が頬を伝い、紫の首を絞める少女の手を濡らした。
少女は自分でも気付かぬ内に紫を地面に降ろしていた。
「私は!私は……。貴女を……!」
言えば言うほどに、自責の念が紫を押し潰すように重く圧し掛かって来る。
軽口を叩いて平静を装ってきていたが、少女の記憶を覗いた時点で紫の心はひどく不安定になっていたのだ。
今にも折れてしまいそうだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!私……私……」
紫は子供のように泣きじゃくった。
「お…おい……」
少女は思わず狼狽してしまった。
「ごめんなさい…ごめんね……私…私…あぁ……」
「!?」
不意に、紫が少女を抱きしめた。
衝動的に抱きしめたのだろう。
抱きしめられた少女は、飛び上がりそうになるほど驚いた。
耳はピンと立ち、尻尾の毛は総毛立った。
「ごめん…なさい……」
「…っ……」
驚きはしたものの、少女は抵抗しなかった。
首にかけた指も、力を抜いた。
「………」
「………」
口に出しては言わなかったが、少女は理解した。
紫が、自分と同じ境遇にあったことがあるということ。
自分の気持ちを、相手がわかってくれていること。
泣きじゃくる紫を見て、少女は紫の、果ての無い後悔を知った。
……自分が「死ね」と言えば、この女は間違い無く自害するだろう。
自分が望めば、それ以外のこともやってのけるだろう……。
「…………暖かい…」
紫に聞こえないように、少女は小さな声でそう呟いた。
最後にこうして誰かと触れ合ったのは何時だったろう?
気の遠くなるほど遠い昔だ。
勘定するのが馬鹿らしいほど、久しぶりに触れた他者の感触は、少女の心を大いに愉しませた。
……もっと愉しみたい。
「もっと……」
「?」
今度は紫にも聞こえるように、大きな声で言った。
「もっと」
紫の首にかけていた指を外すと、少女は恐る恐る紫の腰へと腕を回した。
「もっと…………………ギュッと、して」
「え……」
ここに来てようやく紫は、自分が少女を抱きしめていたことに気が付いた。
慌てて腕を解こうとする。
「ご…ごめなさい……!」
「だめ!」
「?!」
「このまま……もっと、ギュッてして」
「…いいの?嫌じゃ…ないの……」
「……」
少女は無言で紫の腰へと腕を回した。
そのまま紫の胸へと顔を埋める。
「あ……」
そんな少女の態度に紫は戸惑ったが、自分に抱きついている少女を見て、瞳を閉じて優しく少女を抱きしめた。
紫の腕の中で少女の小さな身体が幽かに震えた。
歓喜の震えだった。
「ごめんね……」
紫は腕の中の少女に言った。
言葉だけではどうにもならないが、言わずにはいられなかった。
「本当に……ごめんなさい……」
「……もう、いいよ」
「え…?」
少女は紫の胸から顔を僅かに離すと、紫の顔をじっと見つめながら言った。
「お前の気持ち……全部解った。全部は…許さないけど……ちょっとだけ、許す。許してあげる……」
「……」
紫は目を丸くして驚き、固まってしまった。
「そんな……私……貴女に許されるだなんて……」
「文句ある?」
「!!無いわ!」
「ならそれでいいよ。お前、いい奴。だから、少しだけ、許してあげる。……全部じゃないよ?」
上目遣いでじっと見つめてくる少女に、紫は子を想う親のそれに近い愛情を抱いた。
「ねぇ……私は、貴女に何をしてあげられるの?」
「…?」
「私は……このまま、貴女に許されていいのか……解らないの……。償いを…私は、貴女に償いをしなくてはいけない」
「…免罪符が欲しいの?」
「罪の代償を。私は…貴女が望むとおりにするわ。贖罪を…させて欲しいの……」
「…………」
少女は紫の顔を見つめながら暫し黙り込んだ。
そして、
「……私は、こんな世界、無くなっちゃえばいいと思ってた」
紫の胸に再び顔を埋めながら少女はこぼすように言った。
「全部、憎かった。皆、私を無視して、助けてくれなくて。憎くて憎くてどうしようもなかった」
「……」
「実を言うとね…」
『お前の心の内を見せてもらった』
「!?」
『そう驚くことでもあるまい……ここは我の中だ。我がここに居ても何の不思議もあるまい』
何時の間にか狼が紫と少女の傍にやってきていた。
「突然だからびっくりしたわよ……。…それで、心の内って?」
『お前の心の一部を見させてもらった。我に関するお前の心、情報を引き出してな』
「……」
『我の精神世界においては、如何なるものも、ほぼ我の思い通りに出来る。……お前は例外だったが』
「最初から、私に関するお前の情報だけを読み取るつもりだったのだけれど。お前の心の壁はとても硬かった。お前はすごい妖怪なんだな……」
「……それほどでもないと思うけれど…」
『勝手に覗いたことは謝罪する。だが、我としてはお前が我のことをどう思い考えているのかが知りたかった』
「……それが、あの時言っていた、時を稼ぐ、ってことだったのね?」
「お前のことが知りたかった。お前は、私が世界を消してしまおうと思っていたことに反対だった。でも、お前は私に対して罪の意識も持っていた。それに私への強い興味も」
『そこでお前の心を知り、お前を試してみた。お前が世界を守ることを優先し、我を消してしまおうと考えていたなら、世界を即座に飲み込もうと思っていた』
紫は言われて、はじめて自分が少女を説得しようと思っていたことを思い出した。
少女と狼は交互に紫に対して語りかけた。
『だが、お前はそう思っていなかった。お前は、世界のことを忘れてまで我への罪の意識を持ち、我に許しを求めた』
「お前は、私に、私の身に起きたことも教えてくれた。私は、私と相談して決めた」
『我はお前を許そう。すべては許せぬが、それはこれからのお前に償ってもらおうと思う』
少女は紫を抱きしめる腕に力を込めた。
愛しい者への抱擁だった。
狼は紫の身体へと擦り寄った。
野生の狼が、愛する家族へとその身体を寄せるのと同じだった。
そんな少女と狼の行動に驚きながら、紫は震える声で言った。
「そんな……。私……どうして…許してくれるの……」
「お前の、私に対する気持ちが私に伝わった。お前は私の気持ちを解ってくれているし、私に対してしたことへの懺悔の念も確かだ。……もういいだろう?これ以上は……。私は、お前を許すよ……」
紫は頬に、熱いものが流れるのを感じた。
「あぁ……」
喜びとも、安堵とも言えない様な、不思議な感覚が紫を支配した。
涙が止まらない。
「……ありがとう……」
震える声で、それだけ言うのが精一杯だった。
紫は少女を抱く腕に、少女と同じように力を込めた。
擦り寄ってくる狼に、片手を離して狼のふさふさとした頭を優しく撫でた。
「ありがとう…本当に……ありがとう……」
涙で視界が曇って、うまく少女と狼の姿が見えない。
二人と一匹の、静かで、優しい時間が、ゆっくりと流れていった……。
結局、世界は飲み込まれず、世界の危機は去った。
あの後、紫は今回の一件に関する情報を詳しく、狼から聞きだした。
幻想郷に流行し出していた「虚無病」の正体は、「幸せ」を憎んだ少女が、無意識のうちに己の「喰らう」能力を使い、人々の「幸せ」を
喰らっていたのだという。
無意識に行っていたので、喰らった「幸せ」は特に何もせずに放置していた。
狼が言うには、喰らった「幸せ」を解放したので、すぐに幻想郷中の「虚無病」患者は「幸せ」を取り戻し、元へと戻るだろうとのことだった。
少女の精神世界から戻ってきた紫は、自分のすぐ横で倒れている少女を抱き起こした。
少女は精神世界の幼い姿ではなく、紫がはじめて目にした時の成長した姿に戻っていた。
抱き起こした少女はピクリとも動かず、最初は死んでしまったのかと思い、紫はショックのあまり失神しそうになった。
が、少女はただ眠っているだけだと解って、ほっとして腰を抜かしてしまった。
「もう…あまり驚かさないで頂戴」
紫は少女が目を覚ますまでずっと傍に居て、その寝顔を見ていた。
今までの、憤怒と憎悪に染まった表情が嘘だったかのように、その寝顔は穏やかで可愛らしかった。
少女が目を覚ましてからがまた大変だった。
……少女は記憶をすべて失っていた。
目覚めた少女は、自分が何者なのかも解らず混乱し、泣き出してしまった。
紫は困ってしまって、少女をあやそうとして、あの手この手を尽くして少女を笑わそうとした。
その様はあまりに滑稽で、とても他人には見せられなかったらしい。
紫の帰りが遅いので、心配で身に来た藍が、思わず吹き出してしまった程だから、紫には相当似合わない姿だったのだろう。
「紫様が、珍妙で奇天烈な踊りを一生懸命に踊っていられた。腹がよじれるかと思った」
後に藍はそう橙に洩らしたという。
少女の記憶が無いのは、恐らく、彼女の中に居る「狼」の配慮だと紫は思った。
精神世界で出会った少女は、狼のもう一つの人格であり、少女の本当の人格は、あの凄惨な過去のせいで完全に壊れてしまっていたのだ。
幼い少女の精神は、紫の精神ほど強くは無かった。
あの時、狼と共にいた少女は、壊れた少女の人格の、最後の一欠片だった。
狼の分身のような存在だったのだ。
壊れてしまった人格は、狼が取り込み一体となった。
狼は、自分と一体化していた少女の魂の基本情報だけを残して、人格の初期化を計ったのだ。
狼も少女を形成する一部である。
すべてを取り込んだ上で、少女は新たな生を受けたようなものだった。
紫は、事実は知らないが大体こんなことだろうと思ったし、それが事実だったので、これ以上はあまり考えないことにした。
少女は記憶と一緒に、その能力の大半を失ってしまっていた。
正確には使い方を忘れ、力の存在も忘れているだけだったが、紫はそれがいいことだと思った。
彼女の能力は、使い方を間違えれば大変危険な代物だ。
少女が善悪の判断が出来ないうちは、そんなものは使えなくてもいいものなのである。
幻想郷中の「虚無病」患者は残らず全快した。
人間の里では、今まで鬱になっていた人間だというのが嘘だと思えるくらいに、「虚無病」患者は全員、元気一杯に回復していた。
里にいつもの活気が戻ったので、慧音としては何の文句も無かった。
「しかし…あれは何だったのだろう」
彼女としては原因が知りたかった。
再発は防ぎたい。
「今度、図書館の主に聞いてみるか」
畑仕事に精を出す村人達を眺めながら、慧音は図書館へ行く日は何時にしようかという考えに耽っていった。
春風が心地好い。
もうすぐ夏だ。
「蟲達の力!嘗めるんじゃないわよ!!小さな蟲も、たくさん集まればでっかい竜だって一時間で完食できるのよッ!大きくて強い仲間もいるんだから!来て!王m」
「そーなのかー。でも、それ以上は言わないほうがいいってばっちゃが言ってたよ」
「わかればいいのよ夜魔。……ところでばっちゃって誰?」
「いっぱいいるから食べてもいい?」
「食うな」
以前より少し逞しくなった妖蟲。
「あっははははは!私は比類なき冷凍能力を手に入れたのよ!ツノガエルだって出会った瞬間完全冷凍よ~」
スランプ脱出で自惚れ気味な氷精。
「ようアリス、久々だな……ぬがッ!?」
「あぁ魔理沙!!魔理沙ぁ!!」
「はっ離せ…苦しい……」
「あ~ん魔理沙ぁ」
「うわー……」
後光が差しそうなほどの幸福感に包まれた人形遣い。
久し振りにアリスの家へと出向いた魔理沙は、ドアをノックするなり家の中へと引きずり込まれていった。
……ちなみに、魔理沙は製作中の魔法薬を何とか完成させたらしい。
何の魔法薬かは、
「企業秘密ってヤツだ」
とのこと。
「美鈴!また魔理沙を通したわね!!何で貴女はそう、いつもいつも……門番としての誇りは無いのかっ!!!」
「ひぃっ!あっ、あの時、私は非番だったじゃないですかぁ~!」
「問答無用よ!躾ェ!!」
「ぎゃあぁぁぁ……」
紅魔館の門ではいつもの光景。
気のせいか、咲夜の投げるナイフの切れが、以前より鋭くなっていることを、美鈴は薄れる意識の中で感じた。
――――――――それから半年。
時期外れの「文々。新聞」が幻想郷中に空からばら撒かれ、霊夢に謂れの無い事でとっちめられた萃香がそれを苦笑混じりで読んでいた頃。
幻想郷の、よく解らない場所にあるマヨヒガ。
そのマヨヒガにある八雲家。
「おはようございます~紫様~」
「紫様、おはようございます。朝ですよ」
「う~ん…あと五分……」
「紫様~!今日は「ぴくにっく」ですよ~!早く起きて下さいよぅ」
「うぅ~…そうだったわ……ぐぅ」
「「寝ないでください」」
「ちょ…待っててね……今起きるわよぅ」
藍と橙に身体を揺さぶられ、紫はようやく布団から這い出してきた。
「まったく…朝からあれだけ騒がしかったというのに……よく寝ていられますね」
藍はじと目で、着替える紫を見ながら呆れたように言った。
隣で橙がちょっぴり舌を出しながら余所を向いているのに気付かない。
「妖怪、寝ようと思えばどこでもどんな時でも、状況を問わずに寝れるわよ?藍は修行が足り無いわね…ふぁ」
あくびを噛み殺しながら紫は藍に返した。
「そんな修行はしたくありません……。さぁ早く顔を洗って。朝餉がもうじき出来ます」
紫の布団を押入れにしまい込みながら藍が言った。
「早く起きて、食べて、出掛けましょうよ、紫様~」
目を擦り、井戸の方へとふらふら歩いて行く紫の手を引きながら、橙が急かす。
八雲家の台所から、魚を焼くいい匂いが漂ってきていた。
橙は猫又である。
魚は大好物なのだ。
生魚が一番好きだが、魚料理は全部好きなのである。
台所から流れてくる匂いを鼻一杯に吸い込むと、思わず顔がほころんでしまう。
そうでなくても今日は彼女が待ちに待ったピクニックである。
朝から橙は尻尾を振り振り家中を走り回っていたのだ。
橙の気分に合わせて八雲家に住み着いている猫達が一斉に騒いだので、藍の大目玉を喰ったのだった。
紫が顔を洗い終え、橙から手拭いを受け取ると、台所から明るい声が聞こえてきた。
「橙ねぇ~。紫様は起きた~?」
「うん。起きたよ~」
「朝餉の用意が出来たから、藍姉さまにも伝えて頂戴」
「わかった~」
橙は大きな声で返事をすると、ようやく眠気から覚めた紫が、藍と庭で談笑していた。
「紫様、藍様、朝餉の用意が出来ました~」
橙が腕をブンブンと振って二人を呼んだ。
三人が食卓に着くと、台所から割烹着に身を包んだ、黒髪の娘が姿を現した。
艶やかな黒髪は肩より少し下の高さで切り揃えている。
「おはようございます。今日は鯵の開きになめこの味噌汁ですよ~」
背丈は藍とほぼ同じくらいの、細身の娘だ。
細身といっても痩せぎすではなく、普通に健康的な体躯の持ち主である。
背の割りに幼い顔立ちをしている。
美人であるが、どこか間延びした様なゆるい表情で、美女というより可愛らしい村娘と言った印象だ。
「おはよう、銀」
「銀、後は私がやるから、お前も席に着きなさい。今、お茶を淹れてあげよう」
「銀ちゃんご苦労様~」
銀と呼ばれた少女は、嬉しそうに微笑むと、
「はい」
と答え紫と橙の横の席に着いた。
正面は藍の席だ。
四人が座ると、小さな円卓はいっぱいになった。
「そろそろ大きなものに換えるか…」
銀から「ひつ」を受け取り、茶碗にそれぞれのご飯をよそいながら藍は呟いた。
既に全員分のお茶を淹れ終っている。
「「「「いただきます」」」」
一斉に手を合わせ、礼をすると、紫はおひたしを、藍はご飯を、橙は鯵の開きをそれぞれ食べ始めた。
銀はお茶を一口啜るとご飯を食べ始める。
銀は、あの時の狼少女だった。
記憶を失った少女のこの名前は、彼女の内に棲む、あの狼の体毛の色から取って紫が名付けたものだ。
八雲家へと連れて来られた銀は、最初は紫以外に懐かず人見知りが激しかったが、藍や橙を次第に家族として認識すると、生来の性格なのか明るく間延びした少女に育っていった。
銀は明るく、真面目な性格だったが、どこか間延びしていて、常にゆるい表情をしていた。
頭の中身も、真面目ではあるのだが思考が他者より二まわりほどのん気に出来ており、やはり傍から見れば少々とろい少女にしか見えなかった。
紫は銀を自分の第二の式として使役することにした。
外回りの仕事などは藍が行うので、銀はもっぱらマヨヒガでの紫の雑事を担当する。
紫と銀の関係は、銀が「紫様」と呼んでこそいるが、主と式と言うより親子の関係に近い。
紫が銀を式としたのは、より自分へ近しい、親しい者の関係として選んだことだった。
彼女の考えでは、主と式の関係は肉親同然のものであるらしい。
銀を式とする際、彼女に八雲の姓も与えた。
当初、藍は銀を警戒していたが、紫から真相を聞かされ、彼女へ優しく接し始めた。
橙も銀を怖がっていたが、藍の態度や、記憶が無く、ほとんど生まれたばかりの状態になっていた銀にあれこれ頼られるうちに心を許し、何時の間にか姉妹のような関係になっていた。
彼女達は短い間で本当の家族のようになっていった。
実際、自分達は本当の家族だと彼女達全員が思っていた。
銀は、そして彼女達は、幸福の時を過ごして行けることだろう。
八雲家の食卓はその日も穏やかで、笑いが絶えず、とても楽しそうだった。
「藍様、銀ちゃん、お弁当は?」
「うむ。腕によりをかけて、たくさん作っておいたぞ」
「橙ねぇの好きな、おかかのおにぎりもたくさんあるよ」
「わーい!ねぇねぇ紫様、今日は妖夢さんや幽々子様も一緒に行くんだよね?」
橙が目を輝かせながら紫に聞いた。
「そうねぇ…幽々子、来るかしら…?とりあえず、神社には顔を出そうと思っているけれど」
「大人数でも大丈夫ですよ。お弁当はたくさんありますから」
「詰め込むのに苦労したぐらいですからね…」
「今日は楽しい一日になりそうね」
今日の予定を楽しそうに語る橙と、大量に作った弁当がもし余ったら…と考えどうしようかと思い悩む銀、それぞれの身支度は出来たかと最後の確認をしつつ食事の後片付けを始める藍。
藍の淹れたお茶を飲みながら、紫は静かに瞳を閉じ、祈ってみた。
(今日も、そしてこれからも、この娘達が幸せでありますように)
とりあえず、神は信じていないが他に祈る対象もいなかったので、博麗の神社に祭ってある神様に祈りを捧げてみた。
(…妖怪が神様にお祈りだなんて。明日は槍が降りそうね)
自分の考えに苦笑を漏らす。
「紫様!早く出掛けましょうよ~」
「こら、橙!それを言うなら自分の支度をちゃんと終えてからにしなさい」
「!そうか、余ったら、ルーミアさんに御裾分けすればいいんだ…」
橙はもう待ちきれないと言う様子で紫を急かす。
そんな橙を叱りながらも、手早く後片付けを終えている辺り、藍も早く行きたくてウズウズしている様子だ。
九つある尻尾がどれも嬉しそうに揺れている。
自分の世界にどっぷりと浸かっていた銀は、慌てて身支度を整え始めた。
「ふふ…」
そんな娘達を見ながら、紫は隙間へと手を入れ、愛用の日傘を取り出しながら楽しそうに笑みを浮かべた。
彼女も楽しみなのだ。
「本当……今日は楽しい一日になりそう」
そしてこれからも、と心の中で付け加える。
「さぁ行きましょう。もう待てないわ」
「はい紫様。橙、銀、忘れ物は無いな?」
「無いよ~」
「ちり紙忘れてました…」
季節は秋。
涼しげな風が心地好い。
空は青くどここまでも澄み渡っている。
絶好のピクニック日和だ。
「用意はいいわね?」
「はい」
「は~い」
「…はい」
「それでは出発~♪しっかりついて来なさい」
雲一つ無い秋の空を、すきま妖怪とその式、式の式と第二の式が、楽しそうに飛んでいく。
紫は、藍と橙と楽しそうに笑い合っている銀を見ながら、思った。
彼女はあまりに辛い目に遭い過ぎた。
それは自分のせいでもある。
これからは自分が、あの娘を幸せにしてやらねば。
それが自分の贖罪であり、今では幸せである。
孤独は何よりも辛い。
何千何万もの年月を、孤独のうちに過ごしてきた紫には、それが痛いほどよく解っていた。
この家族を大切にしよう。
家族だけでなく、友と呼べるあの少女達のことも。
「もう二度と……私やあの娘の様な目には遭わせない。私が知りうる限り、それは絶対よ」
銀の精神世界から脱した時にすでに誓いを立てていたが、それをもう一度、己の心に誓う。
決意を新たに、紫は青く澄み渡る幻想郷の空を大きく見渡した。
愛する幻想郷。
愛する家族。
愛する友人達。
「…一人、湿っぽくしてても駄目ね」
溜息混じりに苦笑する。
「なに楽しそうに話してるのかしら?私も混ぜて~」
秋も深まる幻想郷。
幻想の空に、少女達の楽しげな笑い声が静かに、軽やかに響き渡っていく。
「では、こうしましょう。神社まで競争よ!」
「負けませんよ~」
「頑張るんだから!」
「一番は私がもらいます」
「それ!用意……どん!!」
今日も、幻想郷は平和である。
―――――――時に、ここ冥界にある白玉楼。
白玉楼の主、西行寺 幽々子は、この世の終わりのような顔で、見事に手入れされた庭木を凝視していた。
顔面蒼白で、その目は落ち窪んでいる。
死人の様な(死んでいるが)目で、一心不乱に庭木を見つめ続けている。
時折、何かをブツブツとうわ言の様に口走る姿は不気味さ大爆発だ。
かのレミリア・スカーレットも逃げ出すのではないだろうかと妖夢は思った。
「何故だ…!?「虚無病」の脅威は既に去った筈……何故、幽々子様だけ治らないんだ……」
妖夢は真剣に頭を悩ませていた。
心配で心配で、食事がロクに喉を通らない。
このままでは自分の方が餓死してもおかしくないな、と思う。
……もし、妖夢が幽々子の寝室をもっとよく調べていたら、彼女はこんなに日々頭を悩ませ心を痛めることも無かったであろう。
幽々子の寝室には、
「胸の大きな女性は乳癌になりやすい!~by鈴仙・優曇華院・イナバ~」
本の中身は、「胸を大きくしない為には絶食が一番!」等とかなりインチキ臭い内容がズラズラと書かれている。
しかも肝心の治療法や、どうすればいいのか等具体的なものが何一つ記述されていない。
おまけに本の中盤辺りからは殆ど関係の無い情報が記述されていた。
著者が著者だけに仕方が無いのだが。
鈴仙に叱られた腹いせに、彼女が著したとして永琳を騙し、永琳に鈴仙を叱らせようという目論見で書かれた、浅はかな知恵で書かれたデタラメな本である。
言わずもがな、その目論見は失敗して本は処分され、てゐは永琳にお仕置きされた。
処分された筈の本だが、何かの手違いで竹林に放置されたらしい。
そのデタラメの内容を、幽々子の少女らしい無邪気な心は完全に信じきってしまっていた。
ちなみに、書かれてからすでにかなりの時間は経過している筈である。
西行寺 幽々子は完全な死人、幽霊である。
肉体が無いのに、今更癌になる筈が無いのだ……。
「もう一度…幽々子様の身の周りを調べてみよう」
落ちている(捨てられている)ものを拾ってきたり、自分が幽霊だと言うことを忘れていたり、悩みが胸のことだったり。
白玉楼に血の雨が降る日は、近い。
終
あまり上手く言葉に出来ないのですが、正直に言って面白くないです。
何が と訊かれるとまた処遇に困るのですが、どうしようもないのです。
根本的に何かがにズレてしまっているようなと言うかなんと言うか
…どうにもこうにもコメントのしようがありません。困った
ちなみに別にオリキャラがどうのとかそういうわけではないですよ?私はそういうの気にしませんし
ゆかりんの心情の変化が非常に細かく書かれている所も、細かいところまで人間の心情として無理がないために好感度大でした。ただ、登場人物の心情を一から十まで地の文で直接説明するのではなく、代わりにセリフや行動や仕草などで表現し読者に読み取らせるという部分がもっとあっても良いと思います。ボリュームも抑えられるし、想像する余地ができて読者の楽しみも増えるのではないでしょうか。
あと、難しい表現が多く、ぶっちゃけ何度か辞書引いたんですが、お陰で日本語の深さを楽しめました。最後に、誤字的なものを。
>かなりのもだった のが抜けちゃってます
>腕を組み、考えるフリ もし全ての感覚がない世界なら触感も体勢感覚も無いはずなのでおかしいかな、と(時間感覚だけがないなら良いのですが)
>一つに過
>ぎなかった 改行が入っちゃってます
>干渉は出来な
>いもの 改行が入っちゃってます
>離れている性 ~のせいというときは所為か平仮名を使うと思います
>そ巫女の のが抜けちゃってます
>生来の性格なの
>か 改行が入っちゃってます
>出来たかと
>最後の確認 改行が入っちゃってます
というか空行が辛いです。
適度な空行はテンポを操作するのに効果的ですけど、これは読むテンポを乱されるだけでもう。
次の行を読むぜ! と叫んでる脳に冷や水浴びせられるのを何回も何回もやられると読む気無くします。
SSが長い分、空行のダメージが大きかったです