顕界と冥界の境が薄れてから此方、私――庭師・魂魄妖夢の日々は益々慌しいものとなった。三日と空けず、現世から客人が訪れるのだ。目的は花見から殴り込み、物盗りまで様々。賑やか迷惑であることに変わりは無い。
しかしどんな来訪者も、この御方に比べればまだ良いと思う。
「妖夢、急須のお茶が切れたわ」
「今すぐに淹れてお持ちします」
幽々子様の呑気な声に呼ばれ、私は控えの間から顔を出す。
「はい、どうぞ」
眼前に、この世ともあの世ともつかぬ空間が広がった。何もなかった場所に、極彩色の澱がある。歪み轟く色彩の波は、何度目にしても慣れない。酔いを覚える。瞬きを繰り返す私の前に、朱泥の茶器を持った手が生えてきた。
「要らないのかしら。私が親を切ってあげたのに」
幽々子様の向かいに座ったお客様は、八雲紫様。暑くもないのに右手で扇子をはためかせている。急須を持った左手は、私の目の前。
礼を述べて受け取ると、空になった手が私の耳たぶと頬を撫でた。手袋越しの冷たい指先に、情けない声を漏らしそうになる。
「ゆ、紫様」
「あら意外と予想通りに敏感」
夢見るようにまったりと評する。次の瞬間には興味をなくしたかのように空の湯飲みを傾ける。
服も腹も黒い魔法使いや、心も武器も冷たいメイド。彼女達ならばまだ少しは分かる。
紫様は理解できない御方だ。怖くて、難しくて、恐ろしい。
放っておけるならまだいい。そうも行かない。紫様は幽々子様とは長い付き合いの御方。加えて顕界と冥界の境の一件でお世話になっている。無視してはいけない。厚遇するべき。
「でも、どうしたら」
如何にすれば、私の中にある苦手意識は消えるのだろう。
夜桜を眺め考える。紫様と普通に接しているのは、幽々子様と巫女。幽々子様は持ち前の大らかさで、巫女は淡白な姿勢で身を保っている。私には残念ながらどちらもない。私にあるのは、
「しまった」
うっかりした所。お茶を長く出し過ぎた。幽々子様も紫様も味には敏感だ。出がらしは茶海にあけ、新たな茶葉を計り入れた。
紫様は夜半ばに白玉楼を訪れ、朝には帰っている。昼間は眠っているらしい。
私は祖父の教えを守り、夜更かしは程々にしている。朝は幽々子様より早くに起きて、剣の稽古とお食事やお召し物の用意。紫様がいつ帰ったかは知らない。
そういえば、紫様は何処に帰っているのだろう。以前紫様の式神が「マヨヒガ」と言っていた。其処は何処なのだろう。
私は祖父の教えを破り、夜更かしすることを決めた。今晩だけにする。
「珍しいわねぇ、妖夢が悪い子になったみたい」
「私が調教してあげましょうか、今季なら愛情で割り引くわ」
冥界の月が傾いていく。普段なら眠りの淵にいるはずの私の姿に、幽々子様と紫様は揃って笑った。さほど驚きはしない。長き年月を重ねたお二人は、余程の異変でもなければ慌てない。そもそも慌てるという機能が存在するのかすら分からない。
紫様の調教のお誘いは丁重にお断りし、私は控えの間で睡魔と闘った。
幽々子様と紫様はお茶を飲み続けた。途中から純米酒に変わった。空の瓶が畳の上に幾つも転がる。
剣を磨きながら、私はお二人の話に耳を傾けた。音に集中しないと、眠りかねない。
「幽々子は覚えているかしら、あの桜の前で和歌を読んだこと」
「ええと、記憶があるようでないわ。花の異変の後でしたっけ」
「後と前と中飛車」
あの桜、というのは恐らく西行妖のことだろう。花の異変というのはよく分からない。
お二人の話は思い出話と世間話と言葉遊びと、他もろもろで出来ている。
(愉しそう)
幽々子様は紫様を前にするとお若くなる。いつもだって、老成されているわけではない。ただ、紫様が相手だと、まるで年下の妹のように見えるのだ。幼い私の前では見せない顔だ。
私だって、そこいらの妖怪と比べたら格段に長い年月を幽々子様と過ごしている。でも、敵わない。紫様には、時の重みで敵わない。
月風に煽られ桜が散る。一枚は池の上へ、一枚は砂利の上へ。
(そうか、私は)
苦手意識の根元を、ひとつ見出した気がした。修行の足りない私の心は、
(醜いな)
嫉妬したのだ。
降った夜が上がっていく。
立て続けに杯を煽った幽々子様は、酒瓶に埋もれて眠りに就いた。
「妖夢、幽々子にかけるものを頂戴な。お湯や願いや数字以外で」
紫様に頼まれて、薄手の布団を運ぶ。当分起きることはないだろう。
幽々子様の寝つきを確認すると、紫様は立ち上がった。
「お帰りになるのですか」
「その前に一箇所寄るわ」
ついてくる?
紫様の目が訊いていた。二振りの刀を背負い、私は続いた。
幽霊の花見には朝も晩も無い。古木にも両の手で足りるものにも、淡く光る霊が群がっていた。
「木のもとに、棲みける跡を見つるかな――」
光と花弁を掻き分けて、紫様は一直線に進んだ。行き先ははっきりしているらしい。私は遅れぬよう、出来る限り直線に歩んだ。
朗々と歌が吟ぜられる。こんなにも伸びやかな声で謡うことを、私は知らずにいた。
歌と歩に導かれ、夜明けに辿り着く。
紫様の目指した地、其処は、
「西行妖」
冥界で最も壮大で優雅な、墨染の桜だった。他の桜が満開を迎えるなか、この一本だけは五分咲き程度に留まっている。暁に近い紺色の空に、仄白い花は良く映えた。
紫様は目立つ紫色の夜会着の裾を広げ、桜の根元に座した。
「紫様、此処で何を」
「私だけになってしまったわね」
私の問いは届かなかったのだろう。紫様は静寂に乗せて囁いた。
何が私だけなのだろう。紫様は私に背を向けている。どんな顔で言っているのかは、察せなかった。十中八九笑顔だろう。ただ笑顔だけではないようにも見えた。
私の頬を撫でた冷たい手が、西行妖の根に触れる。
西行妖の下には何者かが眠っている。祖父と幽々子様の話だ。ついこの間まで、私は何者かのために春を集めていた。春を集め西行妖を満開にすれば、何者かが復活すると信じて。結局果たせなかったけれども。
紫様は、下に眠る者をご存知なのかもしれない。
「絶えたりし君が息吹を待ちつけて、我いかばかり、嬉しいはずなのに」
歌うように紡がれる言葉。其処に、
「覚えているのは、私だけになってしまったわ」
そこに淋しさを見出すのは、私の間違いだろうか。
紫様は優れた力と知識をお持ちの妖怪。長く生きる中で、淋しさや憂いとは程遠い穏やかな境地に至ったはず。だとしても、今ばかりは。私はこの御方の背中に、歌に、語りかける様に、遺された者の哀しみを感じた。祖父を亡くしてすぐの私のような。
木の下に埋まっているのは、誰なのですか。
訊くことは躊躇われた。紫様を傷つけてしまう気がした。私には紫様を傷つけるなんて、到底不可能なのに。
墨染の欠片が舞い落ちる。紫様の帽子に。
長く生きることや覚えていることの重みや痛みを、私はまだ知らない。いつか私にも、なくしたものを強く嘆く日が訪れるのだろうか。だとしても、今の私には分からない。
私が、今出来ることは、
「あら、桜がくっついてたの」
「はい、ひとひらほど」
圧し掛かる時の重みを、無邪気な振りで包みのけることだった。
じゃあね、また来るわ。紫様は手を振るや、色とりどりの波間に消えた。何処へ行くかは突き止められなかった。今夜はいい。
「ああそうそう。今度は出がらし作っちゃ駄目よ」
隙間の隙間から苦言が残された。こ、今夜はいい。
墨染の花弁を握り、白玉楼への道を急ぐ。幽々子様が寝冷えをしては大変だ。
今度用事が終わったら、上等なお茶を買いに行こう。
幽々子様と、紫様のために。
しかしどんな来訪者も、この御方に比べればまだ良いと思う。
「妖夢、急須のお茶が切れたわ」
「今すぐに淹れてお持ちします」
幽々子様の呑気な声に呼ばれ、私は控えの間から顔を出す。
「はい、どうぞ」
眼前に、この世ともあの世ともつかぬ空間が広がった。何もなかった場所に、極彩色の澱がある。歪み轟く色彩の波は、何度目にしても慣れない。酔いを覚える。瞬きを繰り返す私の前に、朱泥の茶器を持った手が生えてきた。
「要らないのかしら。私が親を切ってあげたのに」
幽々子様の向かいに座ったお客様は、八雲紫様。暑くもないのに右手で扇子をはためかせている。急須を持った左手は、私の目の前。
礼を述べて受け取ると、空になった手が私の耳たぶと頬を撫でた。手袋越しの冷たい指先に、情けない声を漏らしそうになる。
「ゆ、紫様」
「あら意外と予想通りに敏感」
夢見るようにまったりと評する。次の瞬間には興味をなくしたかのように空の湯飲みを傾ける。
服も腹も黒い魔法使いや、心も武器も冷たいメイド。彼女達ならばまだ少しは分かる。
紫様は理解できない御方だ。怖くて、難しくて、恐ろしい。
放っておけるならまだいい。そうも行かない。紫様は幽々子様とは長い付き合いの御方。加えて顕界と冥界の境の一件でお世話になっている。無視してはいけない。厚遇するべき。
「でも、どうしたら」
如何にすれば、私の中にある苦手意識は消えるのだろう。
夜桜を眺め考える。紫様と普通に接しているのは、幽々子様と巫女。幽々子様は持ち前の大らかさで、巫女は淡白な姿勢で身を保っている。私には残念ながらどちらもない。私にあるのは、
「しまった」
うっかりした所。お茶を長く出し過ぎた。幽々子様も紫様も味には敏感だ。出がらしは茶海にあけ、新たな茶葉を計り入れた。
紫様は夜半ばに白玉楼を訪れ、朝には帰っている。昼間は眠っているらしい。
私は祖父の教えを守り、夜更かしは程々にしている。朝は幽々子様より早くに起きて、剣の稽古とお食事やお召し物の用意。紫様がいつ帰ったかは知らない。
そういえば、紫様は何処に帰っているのだろう。以前紫様の式神が「マヨヒガ」と言っていた。其処は何処なのだろう。
私は祖父の教えを破り、夜更かしすることを決めた。今晩だけにする。
「珍しいわねぇ、妖夢が悪い子になったみたい」
「私が調教してあげましょうか、今季なら愛情で割り引くわ」
冥界の月が傾いていく。普段なら眠りの淵にいるはずの私の姿に、幽々子様と紫様は揃って笑った。さほど驚きはしない。長き年月を重ねたお二人は、余程の異変でもなければ慌てない。そもそも慌てるという機能が存在するのかすら分からない。
紫様の調教のお誘いは丁重にお断りし、私は控えの間で睡魔と闘った。
幽々子様と紫様はお茶を飲み続けた。途中から純米酒に変わった。空の瓶が畳の上に幾つも転がる。
剣を磨きながら、私はお二人の話に耳を傾けた。音に集中しないと、眠りかねない。
「幽々子は覚えているかしら、あの桜の前で和歌を読んだこと」
「ええと、記憶があるようでないわ。花の異変の後でしたっけ」
「後と前と中飛車」
あの桜、というのは恐らく西行妖のことだろう。花の異変というのはよく分からない。
お二人の話は思い出話と世間話と言葉遊びと、他もろもろで出来ている。
(愉しそう)
幽々子様は紫様を前にするとお若くなる。いつもだって、老成されているわけではない。ただ、紫様が相手だと、まるで年下の妹のように見えるのだ。幼い私の前では見せない顔だ。
私だって、そこいらの妖怪と比べたら格段に長い年月を幽々子様と過ごしている。でも、敵わない。紫様には、時の重みで敵わない。
月風に煽られ桜が散る。一枚は池の上へ、一枚は砂利の上へ。
(そうか、私は)
苦手意識の根元を、ひとつ見出した気がした。修行の足りない私の心は、
(醜いな)
嫉妬したのだ。
降った夜が上がっていく。
立て続けに杯を煽った幽々子様は、酒瓶に埋もれて眠りに就いた。
「妖夢、幽々子にかけるものを頂戴な。お湯や願いや数字以外で」
紫様に頼まれて、薄手の布団を運ぶ。当分起きることはないだろう。
幽々子様の寝つきを確認すると、紫様は立ち上がった。
「お帰りになるのですか」
「その前に一箇所寄るわ」
ついてくる?
紫様の目が訊いていた。二振りの刀を背負い、私は続いた。
幽霊の花見には朝も晩も無い。古木にも両の手で足りるものにも、淡く光る霊が群がっていた。
「木のもとに、棲みける跡を見つるかな――」
光と花弁を掻き分けて、紫様は一直線に進んだ。行き先ははっきりしているらしい。私は遅れぬよう、出来る限り直線に歩んだ。
朗々と歌が吟ぜられる。こんなにも伸びやかな声で謡うことを、私は知らずにいた。
歌と歩に導かれ、夜明けに辿り着く。
紫様の目指した地、其処は、
「西行妖」
冥界で最も壮大で優雅な、墨染の桜だった。他の桜が満開を迎えるなか、この一本だけは五分咲き程度に留まっている。暁に近い紺色の空に、仄白い花は良く映えた。
紫様は目立つ紫色の夜会着の裾を広げ、桜の根元に座した。
「紫様、此処で何を」
「私だけになってしまったわね」
私の問いは届かなかったのだろう。紫様は静寂に乗せて囁いた。
何が私だけなのだろう。紫様は私に背を向けている。どんな顔で言っているのかは、察せなかった。十中八九笑顔だろう。ただ笑顔だけではないようにも見えた。
私の頬を撫でた冷たい手が、西行妖の根に触れる。
西行妖の下には何者かが眠っている。祖父と幽々子様の話だ。ついこの間まで、私は何者かのために春を集めていた。春を集め西行妖を満開にすれば、何者かが復活すると信じて。結局果たせなかったけれども。
紫様は、下に眠る者をご存知なのかもしれない。
「絶えたりし君が息吹を待ちつけて、我いかばかり、嬉しいはずなのに」
歌うように紡がれる言葉。其処に、
「覚えているのは、私だけになってしまったわ」
そこに淋しさを見出すのは、私の間違いだろうか。
紫様は優れた力と知識をお持ちの妖怪。長く生きる中で、淋しさや憂いとは程遠い穏やかな境地に至ったはず。だとしても、今ばかりは。私はこの御方の背中に、歌に、語りかける様に、遺された者の哀しみを感じた。祖父を亡くしてすぐの私のような。
木の下に埋まっているのは、誰なのですか。
訊くことは躊躇われた。紫様を傷つけてしまう気がした。私には紫様を傷つけるなんて、到底不可能なのに。
墨染の欠片が舞い落ちる。紫様の帽子に。
長く生きることや覚えていることの重みや痛みを、私はまだ知らない。いつか私にも、なくしたものを強く嘆く日が訪れるのだろうか。だとしても、今の私には分からない。
私が、今出来ることは、
「あら、桜がくっついてたの」
「はい、ひとひらほど」
圧し掛かる時の重みを、無邪気な振りで包みのけることだった。
じゃあね、また来るわ。紫様は手を振るや、色とりどりの波間に消えた。何処へ行くかは突き止められなかった。今夜はいい。
「ああそうそう。今度は出がらし作っちゃ駄目よ」
隙間の隙間から苦言が残された。こ、今夜はいい。
墨染の花弁を握り、白玉楼への道を急ぐ。幽々子様が寝冷えをしては大変だ。
今度用事が終わったら、上等なお茶を買いに行こう。
幽々子様と、紫様のために。
よく喋る、考える妖夢になったかもしれません。紫様と妖夢のどちらを視点に据えるかで最初迷いました。思考の割合素直な妖夢を選びました。
読みやすい文体であったのならば良かったです。
はじめから変わらぬ文体のきれいさ,しみじみしみいる情緒を伝えていだ抱きました.
綺麗ですね
ほんとうに綺麗だなぁ
読んでなかったのかな…。
何にせよ地の文の巧さが際立つ文章です。
素敵な作品ですね
そんな新鮮な気持ちを抱きます。
同時に、自分の汚さが見えて情けなくて…
素晴らしい才能だと思います。
これからもお体に気を付けて御活動なさいますよう
心より応援申し上げます。