1
「お風呂借りたよ」
人の気配に、蓬莱山輝夜が書見台から目を上げると、藤原妹紅が床の間に入ってくる所だった。風呂上がり、丹念に髪と身を清めてきたのか、石鹸の良い匂いが漂う。小豆色に和綴た和漢三才図会を閉じ、声を返した。
「随分ゆっくりだったわね。永遠亭のお風呂は気に入ったかしら」
「うん、とても良かった。やっぱり家が広いと違うね。竹林で一人住まいをしていると、不精のせいもあって近隣の泉か温泉がいいところ、偶に湯を沸かしても、せいぜいが五右衛門風呂。永遠亭みたいに林泉で露天とはいかないよ」
成程、ゆるりと湯を楽しんできた風情。装いこそ、襟のついた白いシャツ、札を縫い取り吊した紅のもんぺと常のそれだが、襟元から覗く肌理細かい白い肌は暖かな桃の花のように上気している。地にも着きそうな薄青の長髪が、障子越しに差し込む石灯籠を受けて艶に光る。飾り気のない振る舞いをしても、滲み出る気品は流石に藤原の姫君である。
姫といえば、月の姫もまた見事。瑪瑙を思わせる大きな両の瞳、袿 や単 を装ったと思しき桃の上衣に緋の袴。切り揃え背へと流した濡れ羽の黒髪は、透き通るような白磁の肌と好一対を成している。いずれ劣らぬ貴女二人、といった風情。
「それは良かったわ」
「そうさせて貰うよ。次は慧音も一緒に来られるといいのだけれど」
妹紅の言葉に、輝夜はそういえばと首を捻る。
「妹紅が一人で来るのは珍しいわよね。お付きのハクタクはどうしているの?」
「慧音なら村に行ってるよ。寺小屋を新しくするらしくてね、手伝いだってさ。全く物好きだよ」
受け答えながら、妹紅は外にと面した障子に手をかけ開く。眼前に広がるは、巨きな庭石を真中に据え、五彩の色石が界を結ぶ書院式の庭園。白砂の丘陵には、赤黒の松が配され、対象を成している。小ぶりながらも、過不足無く良く整えられた苑地 と判じられた。
「中々いいね」
「永遠亭自慢の庭よ。悪くないと思わない?」
「輝夜にしては良い趣味じゃないか。私も嫌いじゃないよ。小ぶりだけど、庭や砂盛の造形もしっかりしてる。ただ――」
言葉を切る妹紅に、輝夜は小首を傾げる。
「ただ?」
「月が出ていないのが残念かな。池中に月影が投じられなければ、庭の造作も画龍点睛、珠に瑕というところ。ま、これは輝夜のせいじゃないけどね」
確かに、池の水面はさざ波一つ無く誠に静謐だが、それ故に整いすぎている感が無くはない。月の姿が映り込めば趣を増そうが、見上げれば、空は一面の灰。真円たる春月は空を覆う曇に隠され、その姿を現そうとはしてくれない。かぐや姫の庭園には少々似つかわしくない夜空であろう。
まあねえ、と輝夜は頷き、掌で空を指す。
「今日が駄目でも次の十五夜があるわ。どうしても、というなら雲を散らしても良いけれど。月を隠すのに比べれば、余程に楽よ」
「遠慮しておく。そんな事でもしたら、神社、紅魔館、森の中の不思議の館、彼方此方から人やら妖やらが飛んでくるよ。弾幕ごっこの気分じゃないな」
「同感ね」
顔を見合わせ、互いに笑う。永夜の狂想曲は中々に愉快ではあったが、そうそう大騒ぎばかりでは、蓬莱人といえども身がもたぬ。
「それで、今夜は泊まっていくの?」
「そのつもり。今から帰るのも手間だしね。慧音はしばらく村泊まり、家に帰っても誰もいないし、遊んでいっても罰は当たらないはずだ」
「はいはい。じゃあ、イナバに布団を用意させておくわ」
「お願いするよ」
穏やかに言葉が紡がれてゆく。余人には、乳飲み子の頃より同じ時を過ごした連れ合いのように見えるかも知れない。
実際、輝夜と妹紅の付き合いは長く、昔時より何かと縁は絶えぬ。不死者という特異性により幻想郷でも広く知られ、事あるごとに角を突き合わせているため、仲違いしているように思われがちだが、実際の所はそう単純な関係ではない。竹林を燃やし尽くしかねぬまでに争う程に仲が悪く、互いに行き来して寢泊するほどには仲が良い、そのような間柄である。
妹紅が室に寝転がると、歳月を経た青畳が背を心地よく刺激する。さらりさらりと耳に届くは、書見台に目を戻した輝夜が和書を紐解く音。
室は閑寂そのものだ。目には天井、耳には風の音、背には青畳。しんとした夜空を渡る風が床の間を揺さぶる。石灯籠の灯りが二つの人影を障子へと映し出す。世界は室であり、室が世界であるような錯覚が心地良い。
「……ふぅ」
息一つ。瞼が重くなってきた。このまま寝入ってしまうのも悪くない。襦袢に着替え春眠といたそうかと、妹紅が身を起こした時。
ああそうだ――と、輝夜が顔を上げた。
「妹紅、あなた、お酒は好きだったかしら」
「大好きだよ。神社の宴会では結構飲んでいると思う。どこぞの鬼やスキマ妖怪ほどじゃないけどね」
「なら良かったわ」
「何がさ?」
「せっかくだし、寝る前にいいお酒をご馳走しようかと思っただけよ」
「今夜は随分気前がいいね。何か私に隠し事でもしていないか?」
「言ってなさいな。私だって、たまの客をもてなす位はするわよ。いらないというならそれで構わないのだけれども」
「拗ねない拗ねない。勿論、いただくよ。輝夜がいいお酒というからには、美味しいに決まっている。見逃す手はないね」
楽しそうに笑う妹紅を微苦笑して見やり、輝夜は橋懸かりへと向けて二度手を叩く。間を置かず、すいと音もなく襖が開いた。付き人が声がかりを待ち受けていたかのようである。
「失礼いたします」
涼しげな声と共に、入り来るは臈たけた女。赤と青に塗り分けられ星々を象った装いを凝らしたチュニックめいた衣の上からでも、女性らしいくっきりとした丸みを帯びた体を見てとることが出来る。編み束ねた銀の髪は妹紅や輝夜よりさらに長く、碧の瞳は深く沈む泉のよう。月の頭脳と称えられる異才にして、輝夜が最も信を置く付き人、八意永琳である。
「姫、お呼びでしょうか?」
「呼んだわ。相変わらず早いわね」
「いや、早すぎないか? さっきから襖向こうに居たような気もするんだけど……」
呆れたような妹紅の声を聞き流し、永琳は座して主の言葉を待つ。
「せっかく妹紅が来ているのだし、宴の場を設けようかと思ったのよ。倉から『残月』を持ってきて頂戴。夜光の杯も忘れないでね。葡萄の美酒というわけではないけれど、あのお酒には良く合うから」
軽やかな輝夜の言葉に、永琳が眉を寄せる。お忘れですか、とでも言いたげ。
「どうかしたの、永琳? そんな顔して」
「姫、残月でしたら、先日の宴会で全て干してしまいました。只の一滴すらも残ってはおりません」
「あら、そうだったかしら」
「はい。姫がお酔いになって、イナバたちに大盤振る舞い。上戸も下戸も構わずに、杯を盈たす酒の精。おかげで永遠亭は酔人ならぬ酔兎だらけ、てゐは誰彼構わず抱きつき、ウドンゲは酒瓶を抱えてしくしくと泣き続ける始末でした。姫は早々に寝てしまわれましたが、大変だったのですよ」
じと、と音がしそうな目で、妹紅は輝夜を一瞥。
「輝夜」
「何よ」
「それは本当にどうかと思うよ」
「いやね、ほら、私だって解ってるのよ。だから普段は度を過ごさないようにしているじゃない。まあ、たまの無礼講ではそうもいかないことがあるけれど……」
「無礼講といえど、主自らが無礼をはたらいてどうするのですか。反省なさってください」
「……ごめんなさい」
しゅんと小さくなる輝夜。さしもの姫も、永遠亭を実質的に取り仕切っている従者には頭が上がらないようだ。永琳も永琳で、反省しろと言ってはいるものの、糾弾の様子はなく、全くこの子はとでも続けそうな調子。妹紅は、手のかかる子ほど可愛い、という言葉を思い起こす。月の姫とその従者、主従というよりも親子や姉妹に近いのかもしれぬ。
「それはそれとして――」
声音と表情が和らぐ。説教を続けるつもりはないようだ。
「ご所望は残月でしたね。どうしても、というならば調達して参りますが」
「そうね、永琳かイナバに頼んでもいいのだけれど」
しばし思案していたが、髪を揺らして手を打った。
「いいわ。妹紅も来ているし、私が行ってくる」
「心得ました。宿直 の者はいかがいたしましょう」
「幽冥境に討ち入るわけでなし、そんな大層なものはいらないわよ。それより、空模様はどう?」
「今宵は夜明けまで程よく曇り、といったところでしょうか。丁度よろしいかと」
「好都合ね。永琳、出かける前に杯だけ包んでおいて」
命じられ、永琳は何やら調達すべくそそくさと下がる。輝夜は満足げに頷くと、話の流れが見えず、黙していた妹紅に一言。
「それじゃあ妹紅、行きましょうか」
「ちょっと待て輝夜、話が見えない。何をしに、どこに行くんだ」
「お酒を取りに行くに決まっているじゃない。まあ、付いてくればわかるわよ。春の夜は嫌いじゃないでしょ」
「好きか嫌いかで言えば大好きだけどね。残月とやらが行き先にあるのか?」
「あるというか、取りに行くというか。楽しみにしていなさいな」
謎めかすような言い方に妹紅は首をひねり、まあいいかと思い直した。身を切るような冬は既に過ぎ、時は既に春。連れ立って夜半のそぞろ歩きもまた一興であろう。
「わかったよ。いつ行く?」
「永琳が戻ってきたら出るわ。すぐに来るでしょうし」
「じゃあ、今の内に支度しちゃうよ」
支度といっても大したことはない。寝間着には着替えていなかったため、髪にリボンを結わうだけだ。数こそ多いが、そこは年期が違う。リボンを手挟んで髪に近づけ、きゅいと捻ればそれでお終い。瞬く間である。
中でも目立つ紅白のリボンを付け終えると、永琳が何やら包みを抱えて戻ってきた。
「お待たせいたしました。夜光の杯が二つです。それと、こちらをお忘れ無く」
輝夜が受け取ったのは、永遠亭の紋が入った手提灯。そして、杯がくるまれているらしい絹の布と、小さな巾着。
「あら、有り難う。用意がいいわね」
「お任せ下さい。姫のなさることは全て承知しております」
永琳は目元を柔和に細め、笑む。
「頼りになるわ。それじゃ、行ってくるわ。遅くなりそうだから、先に寝ていていいわよ」
「お気遣いなく。私も今夜は調剤がありますので」
「いつもながら良く働いてるね。輝夜、見習いなよ」
「妹紅こそ、ハクタクを手本にしなきゃ」
和気藹々と軽口をききながら、内玄関へと向う。靴に足を入れ、門を開けば広がるは一面の黒。
「それじゃ、行ってくるわね」
「行っていらっしゃいませ。夜道にはお気を付けて」
門で手を振る永琳に見送られ、輝夜と妹紅は揃って夜の幻想郷へと歩み出した。
2
「ねえ輝夜」
「何、妹紅」
「頼りになるのはわかるけど、永琳に甘えすぎじゃないか?」
「いいのよ、永琳はそれが仕事なんだから。妹紅こそ、ハクタクにべったりじゃないの」
「あ、あれは違うよ」
「何が違うのよ」
「だから、ほら、あれだよ、慧音は慧音だから口うるさくて面倒見が良くて、勝手に世話を焼いてくるだけで、そりゃ私は色々と助かっているからそんな言い方をしては悪いのだけれど、たまに一人になりたい時は放っておいてくれてそろそろ寂しくなった頃に折良く出てきてご飯を用意してくれたり……」
「はいはい。仲が良くて羨ましいこと」
「だからそれは……こら待て輝夜、話を聞けってば」
口元に掌あててくすくすと笑み、月の姫は半歩先を行く。草草の夜露が、提灯の光を受けて燦めいた。もんぺの隠しで両の手を暖め後追う妹紅の頭上では、笹の葉擦れがさらさらと心地よい旋律を奏でる。音と光に見守られながら、戯れ言を交わしながら、永遠亭の門を潜り抜け、生い茂る竹林を歩み進む。
妹紅はゆったり歩みながら、辺りを見渡した。月と星の光が雲に遮られ、竹林はとっぷりと闇に埋もれている。だが、雲にも闇にも重苦しさは無く、強い風でひょいと散りこぼれそうな程軽やかだ。そのせいか、輝夜が手にした提灯と、妹紅が身を取り巻くように宿した炎だけで道標は充分である。
「ちょっと暑いわね。冷たいのは要るかしら」
「有り難い。今夜は蒸すね」
湿った暖かい空気の中、輝夜は流れ出る汗を拭いながら水を入れた竹筒に口を付ける。妹紅は襟元に風を送り込みながら、その筒を受け取って喉を潤した。春先に相応しい微温 い大気は、裳裾の間からひっそりと忍び込んでくるようで、衣に隠された肌をしっとりと湿らせてくる。朝ぼらけにくるまる、とろとろとした夢見心地な布団の温かさにも似て――
「……ふぁ……」
「あら、大きな欠伸。まだ夜は長いわよ」
大欠伸をかみ殺し、妹紅は目をこすって背伸びすると答える。
「ん、眠いわけじゃないから安心してよ。あんまりにも暖かくて気持ちいいから、つい、ね。こういう空気も嫌いじゃないな」
「私もよ。ずっと屋敷にいたら、息が詰まってしまうわ。折に触れての夜の散歩も心地よいもの。道連れがいるならなおさらね」
「……へえ」
「あら、何か意外そうね」
「輝夜は一人遊びが好きそうだな、って思ってたからね。何となくだけどさ」
「無論、一人になりたい時もあるわよ。あなたがさっき言っていたみたいにね。でもね、人はずっと一人でいることは出来ない。百年の孤独には耐えられても、私達の持てる時間はその幾百、幾千倍よ。須臾から永遠までを渡り歩き、刹那を無辺と変じ、一滴の雨垂れに宇宙を幻視することも出来るわ。連れ合いの一人も欲しくなって当然でしょ」
「ふうん、色々考えてるんだな」
「あのねえ、あなただって蓬莱人でしょうに。こんなこと、解りきっているんじゃないの?」
「さあね。難しいことを考えるのはとっくに止めたよ。空にかかる横雲を吟じ、土中に碧玉を得、花鳥風月と共に遊ぶ。私はそうしているだけで満足だな。幸い、幻想郷は希覯の眺望だらけ。退屈することはないしね」
「妹紅らしいといえばらしいわね」
「それ、褒めてるのか?」
「どうかしら? 解釈はお任せするわ」
ころころと、鈴が転がるような声で輝夜が笑う。苦笑をかえす妹紅に、続けて一言。
「まあ、それなら今夜は楽しめるでしょうね。珍しいものが見られるわよ」
「だろうね。輝夜がわざわざ私を連れてきたんだ、風変わりなことがあるに違いないよ」
「ご期待にそえられると良いけれども。そろそろ着くわよ」
気付けば、頭上を覆う竹の葉が薄れていた。足下を確かめれば、地はなだらかに傾斜し、夜空へと向かっている。いつの間にか竹林を抜け、小高い丘へと辿り着いていたようだ。振り返れば、ぼうと明かりを灯しているのは永遠亭だけ。しんしんとした春の夜、民家の一つ、化生の姿とて見当たらず、幻想郷でも人里離れた僻地のようである。
上り坂を踏みしめ、また歩むことしばし。子の刻へと至った時
「ここよ」
輝夜が足を止めた。
開けた草地である。樹樹があたりをぐるりと取り囲み、真円を描いていた。春特有の、寒とも暖ともつかぬ強い風が吹き抜け、髪を揺らし草いきれを散らした。昼日中ならば、宙で、地で、春を告げる妖精たちがくるくると舞っていそうな丘の頂だ。道の傾斜は然程厳しいものではなかったが、どこまでもだらだらと続いていたせいで高さはそれなり、永遠亭は無論のこと、かなり離れた民家や村までを一望することが出来た。
「へえ、こんな所あったんだ」
「永琳やイナバとお昼を持ってくることもあるわよ。遠出には丁度いい眺望よね」
「確かにいい眺めだけど、何もないじゃないか。夜の散策にはちょっと寂しい」
「何もない方がいいのよ。残月を採りに来たのだからね」
そういえばそうだったな――と、今更ながらに妹紅は思い出す。
「そろそろ教えてよ。残月って、どんなお酒なのさ」
「名前で解らないかしらね。永遠亭自慢のお酒よ。ただ、普通の酒とは少しばかり作り方が違うの」
「発酵させないとかかな」
「そう言えないこともないわね。発酵どころか、本来の意味で作る必要すらないわ」
「勿体つけるなあ。いい加減教えてよ」
「それもそうね――」
月の姫、提灯を地に置き、ひらりと身を翻す。掌を上として左手を天に差し上げ
「春は酔いの季節よ。燃え立つばかりの桃の樹では雲雀が頻りと囀り、土は人膚のように暖かく、たなびく陽炎の向こうでは鶯がこちらにおいでと啼く。目を瞑ればうとうとと浅い夢に溺れそうな春霞。目映く明るいばかりの春光は類無き酔いを与えてくれるわ。そうは思わない?」
「けれども、お日様の光は時々強すぎる。明るく、心を浮き立たせ、酔いを覚ましてしまうくらいにはね」
「ええ。ですから、日の光でなく月光に頼るのよ。日中ですら、とろりとした酔いをもたらしてくれるのですもの。降り注ぐ春月ともなれば、類無き酒種になるわ」
つまりは、月光が酒ということであろうか。余り聞かぬ製法ではあるが、有り得ぬ話でもない。何といっても、ここは幻想郷。突拍子もない話に一々驚いていてはとても身がもたぬ。
むしろ、問題は
「肝心の月が出ていない。どうやってお酒を採るのさ」
「月の呼び水には星が一番よ。そのために、これを持って来たのじゃない」
輝夜は、道中手にしていた白い布袋の口を開く。出かけしなに永琳が渡してくれたものだ。ざらりと中身をこぼせば、掌に落ちるのは鮮やかな宝石。
いや、宝石ではない。彩りこそ青の、桃の、碧の、橙のと鮮やかなれど、掌の上でころころと硬く転がるそれは、舌の上ではとろとろと甘く熔けてしまう無数の突起持つ砂糖菓子。
「金平糖だね」
「ご名答。綺麗よね、これ」
「私の家にも置いてあるよ。口寂しいときに丁度いい」
「イナバたちにも大人気ね。甘い物を食べ過ぎるのは良くないと、永琳はいい顔をしないけれども」
「それで、これをどうするのさ?」
輝夜は答えず、代わりに艶と笑い空を仰ぐ。すると、その口からは詩の一節が流れ出た。
「春宵一刻 値千金」
宋代の詩人、蘇軾の手になる七言絶句である。
「花有清香 月有陰」
歌を、詩を吟じられれば、些事は置き、隨するのが作法。透き通るような輝夜の声を追うのは、飾らずといえど雑駁に堕さぬ雅声。
「歌管 楼臺 聲細細」
『鞦韆 院落 夜沈沈』
重なる声に合わせ、輝夜は金平糖をこぼした掌を宙へ向け振る。鮮やかな砂糖の塊は、空へと投げられ、冴え冴えとした夜風に乗り吹き散らばった。金平糖と金平糖が擦れ合う、かりりとした硬質な音が耳へと届く。
輝夜、星の似姿が雲間に消えたのを見届けて
「参、弐、壱……」
数をかぞえ、ぱっと、袂を翻し両の手を広げ
「零!」
声を張る。
刹那。
妹紅が歓声を上げた。
星々が曇天に瞬いた。
透き通った翠が、薔薇紅に光る玉が、銀と金と白の彩りが天を覆い尽くした。毛先のように小さなものから、化け物めいた大きさまでの極彩色が散らばる様子は、まるで無数の蛍が乱舞しているかのようだ。北に南に東に西に、見渡す限りは目に痛いほど鮮やかな星々が天蓋を占有する。
万華鏡のように変転する星の光。嬉しげに星見を楽しんでいた妹紅の視野を、柔らかく冷たい光がちかりと刺す。
「ほら、出てきたわよ」
夜の空、帳を割って何かが滲み出てきた。
月である。
満月である。
二三度瞬きすれば、滲み出て朦朧としていた月の姿は確たるものとなり、一帯を照す。
どんよりと空を覆う雲は散ることも流れることもないが、富士を除いた山峰の頂のように、真円の月は雲の下にて煌煌しく在った。
「見事なものだね」
「ええ、星に招かれ来たりて相照らす十五夜の月。琴を弾じて長嘯するも一興でしょうね」
雲の眼下で瞬く星々を押しのけ、柔らな金の光が二人を照らし出した。星に彩られ、月に淡く浮かび上がる輝夜と妹紅の姿はどこか幻想的だった。
妹紅は、月を、星を見上げ、嬉しげに目を細める。長い時を生きていても、このような光景に出会うことは滅多にないのか、表情にも振る舞いにも、心弾んでいる様子が明らかだった。
「いいね、とてもいいね、これ。輝夜にこんな特技があったなんて。今まで教えてくれなかったのが恨めしいよ」
「早々出来ることじゃないもの。星を造るだけでも疲れるのよ。贋作も大変なのだから」
妹紅、光を手に受けて
「贋作といえば、月のこれもどことなく軽いね。やっぱり偽物なのかな?」
「無論、贋月よ。偽の星に惹かれて出てきたのですもの、当然よね」
「それもそうか。星が金平糖なら、月は何で出きているのかな」
「触ってみたら?」
「触れるの?」
意外な提案に、夜空におそるおそると手を伸ばす。月へはとても届かぬと見えたが、少し背伸びをしたらあっさりと届いてしまった。
満月はひやりと冷たく固く、どことなく玩具のようだ。厚みも然程ではなく、その気になれば表と裏を挟んで掴めてしまうほど。表面はつるりと滑らかで、指を走らせるとつるりと滑り、少し力を加えると変形してへこむ程に弾力がある。
成程、これは造り物であろう。最も、造物といっても、安手の玩具のような不自然さはなく、丹誠込められた贋作、精巧なオブジェめいている。
「何だと思う?」
「この手触りだと……錻力 かな」
「正解。金と銀、銅と鉄も良いけれども、少しばかり重苦しすぎるわ。錻力の軽さが私は一番好き」
「砂糖菓子のお星様、錻力のお月様。星はかりりと砕け、月はぺこりと凹む。気の利いた天体嗜好症だ」
「喜んで貰えたかしら?」
「とっても。来て良かったよ」
「私も連れてきた甲斐があったというものね。続けて、目当てのお酒といきしょうか」
輝夜が絹の布から取り出したのは、永遠亭から持って来た夜光の杯二つ。片割れを妹紅へと手渡し、
「それじゃあ――」
杯を月の方へと向けて、ほろほろとこぼれる光を受けるかのように高く差し上げた。と、見る見る間に、輝く液体が杯を盈たしてゆく。八分程も入ったところで手元に戻し軽く振ると、月光は杯の中でとぷんと揺れた。
妹紅も、見様見真似で杯を月へと差し上げる。さっと月が輝くや否や、光線は流体へと変じ、杯に満ちた。薄荷のような冷たい匂いがつんと立ち上り、鼻腔を刺激する。
「なるほどね。夜が明けても、雲に隠れても、空に残る月の欠片。これだから、残月というわけなんだ」
「そう。贋月の光こそが材料……というよりそのものね。本物の月でもいいのだけれど、それだと限りがあるから。材料を乱費してはいけないからこうしているの。ああ、味は変わらないから安心してね」
「じゃ、取りあえず……乾杯」
ちん、と杯打ち合わせ、妹紅はぐいと杯を干す。舌の上ではころころと丸く甘く、喉を通れば火花のようにちかちか弾け、腑へと届けばひやりと心地の良い冷たさ。日本酒にも、焼酎にも、ウ井スキーにも似ない、奇妙な美味。
「……うん、この味、好きだな」
「良かったわ。妹紅は絶対気に入ってくれると思っていたから。ちょっと手間ではあるけれど、わざわざ足を運ぶだけのことはあるでしょう」
「永遠亭で飲むのも良いのだろうけれど、採りたてはまた格別だね」
空となった杯を贋月に向けもたげると、直ぐに月の光が酒と変じる。妹紅が口をつけようとすると
「こうするとひと味違うわよ」
輝夜が手を伸ばし、星の一つをひょいと摘んだ。紅のそれを杯に放り込むと、泡をたてて溶け、崩れ、弾けて酒の中へと瞬時に溶け込む。
「こんなことまで出来るんだ」
妹紅は杯をかかげると、その中を覗き込んだ。月の光そのものの色合いをとっていた酒は、ほんのりと赤く染まり、櫻桃やあんずをどこか思わせる。杯の縁に口をつけると、そのまま飲み干してぺろりと唇なめ
「酸味が増したね。これも美味しい。星の色で味が違うのかな」
「ええ。赤、青、翠、紫、海碧、おぼろ銀、乳白、一つとて同じものはないわ。飲むだけじゃない、星を刻んで月光に溶かし、軽く炙って煙を吸うのも悪くないわね。朝日が昇るまで、色々と試してみてはどうかしら」
「朝までか。それじゃあ……」
輝夜、妹紅の続く言葉を待つことなく頷いて
「今宵はこのまま、二人で月見酒としましょう。付き合うわよね?」
「勿論。まだまだ夜は半ば、朝餉の時まで付き合うよ」
「そうこなくっちゃ。永琳には悪いけど、私たちだけで楽しませて貰いましょう」
笑い交わし、杯を軽く打ち合わせた。高く清く澄んだ音が響き渡り、応じて贋月は一層輝く。一杯、一杯、また一杯。金平糖の星と錻力の満月が見守る中、姫二人はいつまでも酒杯を重ねていた。
(了)
「お風呂借りたよ」
人の気配に、蓬莱山輝夜が書見台から目を上げると、藤原妹紅が床の間に入ってくる所だった。風呂上がり、丹念に髪と身を清めてきたのか、石鹸の良い匂いが漂う。小豆色に和綴た和漢三才図会を閉じ、声を返した。
「随分ゆっくりだったわね。永遠亭のお風呂は気に入ったかしら」
「うん、とても良かった。やっぱり家が広いと違うね。竹林で一人住まいをしていると、不精のせいもあって近隣の泉か温泉がいいところ、偶に湯を沸かしても、せいぜいが五右衛門風呂。永遠亭みたいに林泉で露天とはいかないよ」
成程、ゆるりと湯を楽しんできた風情。装いこそ、襟のついた白いシャツ、札を縫い取り吊した紅のもんぺと常のそれだが、襟元から覗く肌理細かい白い肌は暖かな桃の花のように上気している。地にも着きそうな薄青の長髪が、障子越しに差し込む石灯籠を受けて艶に光る。飾り気のない振る舞いをしても、滲み出る気品は流石に藤原の姫君である。
姫といえば、月の姫もまた見事。瑪瑙を思わせる大きな両の瞳、
「それは良かったわ」
「そうさせて貰うよ。次は慧音も一緒に来られるといいのだけれど」
妹紅の言葉に、輝夜はそういえばと首を捻る。
「妹紅が一人で来るのは珍しいわよね。お付きのハクタクはどうしているの?」
「慧音なら村に行ってるよ。寺小屋を新しくするらしくてね、手伝いだってさ。全く物好きだよ」
受け答えながら、妹紅は外にと面した障子に手をかけ開く。眼前に広がるは、巨きな庭石を真中に据え、五彩の色石が界を結ぶ書院式の庭園。白砂の丘陵には、赤黒の松が配され、対象を成している。小ぶりながらも、過不足無く良く整えられた
「中々いいね」
「永遠亭自慢の庭よ。悪くないと思わない?」
「輝夜にしては良い趣味じゃないか。私も嫌いじゃないよ。小ぶりだけど、庭や砂盛の造形もしっかりしてる。ただ――」
言葉を切る妹紅に、輝夜は小首を傾げる。
「ただ?」
「月が出ていないのが残念かな。池中に月影が投じられなければ、庭の造作も画龍点睛、珠に瑕というところ。ま、これは輝夜のせいじゃないけどね」
確かに、池の水面はさざ波一つ無く誠に静謐だが、それ故に整いすぎている感が無くはない。月の姿が映り込めば趣を増そうが、見上げれば、空は一面の灰。真円たる春月は空を覆う曇に隠され、その姿を現そうとはしてくれない。かぐや姫の庭園には少々似つかわしくない夜空であろう。
まあねえ、と輝夜は頷き、掌で空を指す。
「今日が駄目でも次の十五夜があるわ。どうしても、というなら雲を散らしても良いけれど。月を隠すのに比べれば、余程に楽よ」
「遠慮しておく。そんな事でもしたら、神社、紅魔館、森の中の不思議の館、彼方此方から人やら妖やらが飛んでくるよ。弾幕ごっこの気分じゃないな」
「同感ね」
顔を見合わせ、互いに笑う。永夜の狂想曲は中々に愉快ではあったが、そうそう大騒ぎばかりでは、蓬莱人といえども身がもたぬ。
「それで、今夜は泊まっていくの?」
「そのつもり。今から帰るのも手間だしね。慧音はしばらく村泊まり、家に帰っても誰もいないし、遊んでいっても罰は当たらないはずだ」
「はいはい。じゃあ、イナバに布団を用意させておくわ」
「お願いするよ」
穏やかに言葉が紡がれてゆく。余人には、乳飲み子の頃より同じ時を過ごした連れ合いのように見えるかも知れない。
実際、輝夜と妹紅の付き合いは長く、昔時より何かと縁は絶えぬ。不死者という特異性により幻想郷でも広く知られ、事あるごとに角を突き合わせているため、仲違いしているように思われがちだが、実際の所はそう単純な関係ではない。竹林を燃やし尽くしかねぬまでに争う程に仲が悪く、互いに行き来して寢泊するほどには仲が良い、そのような間柄である。
妹紅が室に寝転がると、歳月を経た青畳が背を心地よく刺激する。さらりさらりと耳に届くは、書見台に目を戻した輝夜が和書を紐解く音。
室は閑寂そのものだ。目には天井、耳には風の音、背には青畳。しんとした夜空を渡る風が床の間を揺さぶる。石灯籠の灯りが二つの人影を障子へと映し出す。世界は室であり、室が世界であるような錯覚が心地良い。
「……ふぅ」
息一つ。瞼が重くなってきた。このまま寝入ってしまうのも悪くない。襦袢に着替え春眠といたそうかと、妹紅が身を起こした時。
ああそうだ――と、輝夜が顔を上げた。
「妹紅、あなた、お酒は好きだったかしら」
「大好きだよ。神社の宴会では結構飲んでいると思う。どこぞの鬼やスキマ妖怪ほどじゃないけどね」
「なら良かったわ」
「何がさ?」
「せっかくだし、寝る前にいいお酒をご馳走しようかと思っただけよ」
「今夜は随分気前がいいね。何か私に隠し事でもしていないか?」
「言ってなさいな。私だって、たまの客をもてなす位はするわよ。いらないというならそれで構わないのだけれども」
「拗ねない拗ねない。勿論、いただくよ。輝夜がいいお酒というからには、美味しいに決まっている。見逃す手はないね」
楽しそうに笑う妹紅を微苦笑して見やり、輝夜は橋懸かりへと向けて二度手を叩く。間を置かず、すいと音もなく襖が開いた。付き人が声がかりを待ち受けていたかのようである。
「失礼いたします」
涼しげな声と共に、入り来るは臈たけた女。赤と青に塗り分けられ星々を象った装いを凝らしたチュニックめいた衣の上からでも、女性らしいくっきりとした丸みを帯びた体を見てとることが出来る。編み束ねた銀の髪は妹紅や輝夜よりさらに長く、碧の瞳は深く沈む泉のよう。月の頭脳と称えられる異才にして、輝夜が最も信を置く付き人、八意永琳である。
「姫、お呼びでしょうか?」
「呼んだわ。相変わらず早いわね」
「いや、早すぎないか? さっきから襖向こうに居たような気もするんだけど……」
呆れたような妹紅の声を聞き流し、永琳は座して主の言葉を待つ。
「せっかく妹紅が来ているのだし、宴の場を設けようかと思ったのよ。倉から『残月』を持ってきて頂戴。夜光の杯も忘れないでね。葡萄の美酒というわけではないけれど、あのお酒には良く合うから」
軽やかな輝夜の言葉に、永琳が眉を寄せる。お忘れですか、とでも言いたげ。
「どうかしたの、永琳? そんな顔して」
「姫、残月でしたら、先日の宴会で全て干してしまいました。只の一滴すらも残ってはおりません」
「あら、そうだったかしら」
「はい。姫がお酔いになって、イナバたちに大盤振る舞い。上戸も下戸も構わずに、杯を盈たす酒の精。おかげで永遠亭は酔人ならぬ酔兎だらけ、てゐは誰彼構わず抱きつき、ウドンゲは酒瓶を抱えてしくしくと泣き続ける始末でした。姫は早々に寝てしまわれましたが、大変だったのですよ」
じと、と音がしそうな目で、妹紅は輝夜を一瞥。
「輝夜」
「何よ」
「それは本当にどうかと思うよ」
「いやね、ほら、私だって解ってるのよ。だから普段は度を過ごさないようにしているじゃない。まあ、たまの無礼講ではそうもいかないことがあるけれど……」
「無礼講といえど、主自らが無礼をはたらいてどうするのですか。反省なさってください」
「……ごめんなさい」
しゅんと小さくなる輝夜。さしもの姫も、永遠亭を実質的に取り仕切っている従者には頭が上がらないようだ。永琳も永琳で、反省しろと言ってはいるものの、糾弾の様子はなく、全くこの子はとでも続けそうな調子。妹紅は、手のかかる子ほど可愛い、という言葉を思い起こす。月の姫とその従者、主従というよりも親子や姉妹に近いのかもしれぬ。
「それはそれとして――」
声音と表情が和らぐ。説教を続けるつもりはないようだ。
「ご所望は残月でしたね。どうしても、というならば調達して参りますが」
「そうね、永琳かイナバに頼んでもいいのだけれど」
しばし思案していたが、髪を揺らして手を打った。
「いいわ。妹紅も来ているし、私が行ってくる」
「心得ました。
「幽冥境に討ち入るわけでなし、そんな大層なものはいらないわよ。それより、空模様はどう?」
「今宵は夜明けまで程よく曇り、といったところでしょうか。丁度よろしいかと」
「好都合ね。永琳、出かける前に杯だけ包んでおいて」
命じられ、永琳は何やら調達すべくそそくさと下がる。輝夜は満足げに頷くと、話の流れが見えず、黙していた妹紅に一言。
「それじゃあ妹紅、行きましょうか」
「ちょっと待て輝夜、話が見えない。何をしに、どこに行くんだ」
「お酒を取りに行くに決まっているじゃない。まあ、付いてくればわかるわよ。春の夜は嫌いじゃないでしょ」
「好きか嫌いかで言えば大好きだけどね。残月とやらが行き先にあるのか?」
「あるというか、取りに行くというか。楽しみにしていなさいな」
謎めかすような言い方に妹紅は首をひねり、まあいいかと思い直した。身を切るような冬は既に過ぎ、時は既に春。連れ立って夜半のそぞろ歩きもまた一興であろう。
「わかったよ。いつ行く?」
「永琳が戻ってきたら出るわ。すぐに来るでしょうし」
「じゃあ、今の内に支度しちゃうよ」
支度といっても大したことはない。寝間着には着替えていなかったため、髪にリボンを結わうだけだ。数こそ多いが、そこは年期が違う。リボンを手挟んで髪に近づけ、きゅいと捻ればそれでお終い。瞬く間である。
中でも目立つ紅白のリボンを付け終えると、永琳が何やら包みを抱えて戻ってきた。
「お待たせいたしました。夜光の杯が二つです。それと、こちらをお忘れ無く」
輝夜が受け取ったのは、永遠亭の紋が入った手提灯。そして、杯がくるまれているらしい絹の布と、小さな巾着。
「あら、有り難う。用意がいいわね」
「お任せ下さい。姫のなさることは全て承知しております」
永琳は目元を柔和に細め、笑む。
「頼りになるわ。それじゃ、行ってくるわ。遅くなりそうだから、先に寝ていていいわよ」
「お気遣いなく。私も今夜は調剤がありますので」
「いつもながら良く働いてるね。輝夜、見習いなよ」
「妹紅こそ、ハクタクを手本にしなきゃ」
和気藹々と軽口をききながら、内玄関へと向う。靴に足を入れ、門を開けば広がるは一面の黒。
「それじゃ、行ってくるわね」
「行っていらっしゃいませ。夜道にはお気を付けて」
門で手を振る永琳に見送られ、輝夜と妹紅は揃って夜の幻想郷へと歩み出した。
2
「ねえ輝夜」
「何、妹紅」
「頼りになるのはわかるけど、永琳に甘えすぎじゃないか?」
「いいのよ、永琳はそれが仕事なんだから。妹紅こそ、ハクタクにべったりじゃないの」
「あ、あれは違うよ」
「何が違うのよ」
「だから、ほら、あれだよ、慧音は慧音だから口うるさくて面倒見が良くて、勝手に世話を焼いてくるだけで、そりゃ私は色々と助かっているからそんな言い方をしては悪いのだけれど、たまに一人になりたい時は放っておいてくれてそろそろ寂しくなった頃に折良く出てきてご飯を用意してくれたり……」
「はいはい。仲が良くて羨ましいこと」
「だからそれは……こら待て輝夜、話を聞けってば」
口元に掌あててくすくすと笑み、月の姫は半歩先を行く。草草の夜露が、提灯の光を受けて燦めいた。もんぺの隠しで両の手を暖め後追う妹紅の頭上では、笹の葉擦れがさらさらと心地よい旋律を奏でる。音と光に見守られながら、戯れ言を交わしながら、永遠亭の門を潜り抜け、生い茂る竹林を歩み進む。
妹紅はゆったり歩みながら、辺りを見渡した。月と星の光が雲に遮られ、竹林はとっぷりと闇に埋もれている。だが、雲にも闇にも重苦しさは無く、強い風でひょいと散りこぼれそうな程軽やかだ。そのせいか、輝夜が手にした提灯と、妹紅が身を取り巻くように宿した炎だけで道標は充分である。
「ちょっと暑いわね。冷たいのは要るかしら」
「有り難い。今夜は蒸すね」
湿った暖かい空気の中、輝夜は流れ出る汗を拭いながら水を入れた竹筒に口を付ける。妹紅は襟元に風を送り込みながら、その筒を受け取って喉を潤した。春先に相応しい
「……ふぁ……」
「あら、大きな欠伸。まだ夜は長いわよ」
大欠伸をかみ殺し、妹紅は目をこすって背伸びすると答える。
「ん、眠いわけじゃないから安心してよ。あんまりにも暖かくて気持ちいいから、つい、ね。こういう空気も嫌いじゃないな」
「私もよ。ずっと屋敷にいたら、息が詰まってしまうわ。折に触れての夜の散歩も心地よいもの。道連れがいるならなおさらね」
「……へえ」
「あら、何か意外そうね」
「輝夜は一人遊びが好きそうだな、って思ってたからね。何となくだけどさ」
「無論、一人になりたい時もあるわよ。あなたがさっき言っていたみたいにね。でもね、人はずっと一人でいることは出来ない。百年の孤独には耐えられても、私達の持てる時間はその幾百、幾千倍よ。須臾から永遠までを渡り歩き、刹那を無辺と変じ、一滴の雨垂れに宇宙を幻視することも出来るわ。連れ合いの一人も欲しくなって当然でしょ」
「ふうん、色々考えてるんだな」
「あのねえ、あなただって蓬莱人でしょうに。こんなこと、解りきっているんじゃないの?」
「さあね。難しいことを考えるのはとっくに止めたよ。空にかかる横雲を吟じ、土中に碧玉を得、花鳥風月と共に遊ぶ。私はそうしているだけで満足だな。幸い、幻想郷は希覯の眺望だらけ。退屈することはないしね」
「妹紅らしいといえばらしいわね」
「それ、褒めてるのか?」
「どうかしら? 解釈はお任せするわ」
ころころと、鈴が転がるような声で輝夜が笑う。苦笑をかえす妹紅に、続けて一言。
「まあ、それなら今夜は楽しめるでしょうね。珍しいものが見られるわよ」
「だろうね。輝夜がわざわざ私を連れてきたんだ、風変わりなことがあるに違いないよ」
「ご期待にそえられると良いけれども。そろそろ着くわよ」
気付けば、頭上を覆う竹の葉が薄れていた。足下を確かめれば、地はなだらかに傾斜し、夜空へと向かっている。いつの間にか竹林を抜け、小高い丘へと辿り着いていたようだ。振り返れば、ぼうと明かりを灯しているのは永遠亭だけ。しんしんとした春の夜、民家の一つ、化生の姿とて見当たらず、幻想郷でも人里離れた僻地のようである。
上り坂を踏みしめ、また歩むことしばし。子の刻へと至った時
「ここよ」
輝夜が足を止めた。
開けた草地である。樹樹があたりをぐるりと取り囲み、真円を描いていた。春特有の、寒とも暖ともつかぬ強い風が吹き抜け、髪を揺らし草いきれを散らした。昼日中ならば、宙で、地で、春を告げる妖精たちがくるくると舞っていそうな丘の頂だ。道の傾斜は然程厳しいものではなかったが、どこまでもだらだらと続いていたせいで高さはそれなり、永遠亭は無論のこと、かなり離れた民家や村までを一望することが出来た。
「へえ、こんな所あったんだ」
「永琳やイナバとお昼を持ってくることもあるわよ。遠出には丁度いい眺望よね」
「確かにいい眺めだけど、何もないじゃないか。夜の散策にはちょっと寂しい」
「何もない方がいいのよ。残月を採りに来たのだからね」
そういえばそうだったな――と、今更ながらに妹紅は思い出す。
「そろそろ教えてよ。残月って、どんなお酒なのさ」
「名前で解らないかしらね。永遠亭自慢のお酒よ。ただ、普通の酒とは少しばかり作り方が違うの」
「発酵させないとかかな」
「そう言えないこともないわね。発酵どころか、本来の意味で作る必要すらないわ」
「勿体つけるなあ。いい加減教えてよ」
「それもそうね――」
月の姫、提灯を地に置き、ひらりと身を翻す。掌を上として左手を天に差し上げ
「春は酔いの季節よ。燃え立つばかりの桃の樹では雲雀が頻りと囀り、土は人膚のように暖かく、たなびく陽炎の向こうでは鶯がこちらにおいでと啼く。目を瞑ればうとうとと浅い夢に溺れそうな春霞。目映く明るいばかりの春光は類無き酔いを与えてくれるわ。そうは思わない?」
「けれども、お日様の光は時々強すぎる。明るく、心を浮き立たせ、酔いを覚ましてしまうくらいにはね」
「ええ。ですから、日の光でなく月光に頼るのよ。日中ですら、とろりとした酔いをもたらしてくれるのですもの。降り注ぐ春月ともなれば、類無き酒種になるわ」
つまりは、月光が酒ということであろうか。余り聞かぬ製法ではあるが、有り得ぬ話でもない。何といっても、ここは幻想郷。突拍子もない話に一々驚いていてはとても身がもたぬ。
むしろ、問題は
「肝心の月が出ていない。どうやってお酒を採るのさ」
「月の呼び水には星が一番よ。そのために、これを持って来たのじゃない」
輝夜は、道中手にしていた白い布袋の口を開く。出かけしなに永琳が渡してくれたものだ。ざらりと中身をこぼせば、掌に落ちるのは鮮やかな宝石。
いや、宝石ではない。彩りこそ青の、桃の、碧の、橙のと鮮やかなれど、掌の上でころころと硬く転がるそれは、舌の上ではとろとろと甘く熔けてしまう無数の突起持つ砂糖菓子。
「金平糖だね」
「ご名答。綺麗よね、これ」
「私の家にも置いてあるよ。口寂しいときに丁度いい」
「イナバたちにも大人気ね。甘い物を食べ過ぎるのは良くないと、永琳はいい顔をしないけれども」
「それで、これをどうするのさ?」
輝夜は答えず、代わりに艶と笑い空を仰ぐ。すると、その口からは詩の一節が流れ出た。
「春宵一刻 値千金」
宋代の詩人、蘇軾の手になる七言絶句である。
「花有清香 月有陰」
歌を、詩を吟じられれば、些事は置き、隨するのが作法。透き通るような輝夜の声を追うのは、飾らずといえど雑駁に堕さぬ雅声。
「歌管 楼臺 聲細細」
『鞦韆 院落 夜沈沈』
重なる声に合わせ、輝夜は金平糖をこぼした掌を宙へ向け振る。鮮やかな砂糖の塊は、空へと投げられ、冴え冴えとした夜風に乗り吹き散らばった。金平糖と金平糖が擦れ合う、かりりとした硬質な音が耳へと届く。
輝夜、星の似姿が雲間に消えたのを見届けて
「参、弐、壱……」
数をかぞえ、ぱっと、袂を翻し両の手を広げ
「零!」
声を張る。
刹那。
妹紅が歓声を上げた。
星々が曇天に瞬いた。
透き通った翠が、薔薇紅に光る玉が、銀と金と白の彩りが天を覆い尽くした。毛先のように小さなものから、化け物めいた大きさまでの極彩色が散らばる様子は、まるで無数の蛍が乱舞しているかのようだ。北に南に東に西に、見渡す限りは目に痛いほど鮮やかな星々が天蓋を占有する。
万華鏡のように変転する星の光。嬉しげに星見を楽しんでいた妹紅の視野を、柔らかく冷たい光がちかりと刺す。
「ほら、出てきたわよ」
夜の空、帳を割って何かが滲み出てきた。
月である。
満月である。
二三度瞬きすれば、滲み出て朦朧としていた月の姿は確たるものとなり、一帯を照す。
どんよりと空を覆う雲は散ることも流れることもないが、富士を除いた山峰の頂のように、真円の月は雲の下にて煌煌しく在った。
「見事なものだね」
「ええ、星に招かれ来たりて相照らす十五夜の月。琴を弾じて長嘯するも一興でしょうね」
雲の眼下で瞬く星々を押しのけ、柔らな金の光が二人を照らし出した。星に彩られ、月に淡く浮かび上がる輝夜と妹紅の姿はどこか幻想的だった。
妹紅は、月を、星を見上げ、嬉しげに目を細める。長い時を生きていても、このような光景に出会うことは滅多にないのか、表情にも振る舞いにも、心弾んでいる様子が明らかだった。
「いいね、とてもいいね、これ。輝夜にこんな特技があったなんて。今まで教えてくれなかったのが恨めしいよ」
「早々出来ることじゃないもの。星を造るだけでも疲れるのよ。贋作も大変なのだから」
妹紅、光を手に受けて
「贋作といえば、月のこれもどことなく軽いね。やっぱり偽物なのかな?」
「無論、贋月よ。偽の星に惹かれて出てきたのですもの、当然よね」
「それもそうか。星が金平糖なら、月は何で出きているのかな」
「触ってみたら?」
「触れるの?」
意外な提案に、夜空におそるおそると手を伸ばす。月へはとても届かぬと見えたが、少し背伸びをしたらあっさりと届いてしまった。
満月はひやりと冷たく固く、どことなく玩具のようだ。厚みも然程ではなく、その気になれば表と裏を挟んで掴めてしまうほど。表面はつるりと滑らかで、指を走らせるとつるりと滑り、少し力を加えると変形してへこむ程に弾力がある。
成程、これは造り物であろう。最も、造物といっても、安手の玩具のような不自然さはなく、丹誠込められた贋作、精巧なオブジェめいている。
「何だと思う?」
「この手触りだと……
「正解。金と銀、銅と鉄も良いけれども、少しばかり重苦しすぎるわ。錻力の軽さが私は一番好き」
「砂糖菓子のお星様、錻力のお月様。星はかりりと砕け、月はぺこりと凹む。気の利いた天体嗜好症だ」
「喜んで貰えたかしら?」
「とっても。来て良かったよ」
「私も連れてきた甲斐があったというものね。続けて、目当てのお酒といきしょうか」
輝夜が絹の布から取り出したのは、永遠亭から持って来た夜光の杯二つ。片割れを妹紅へと手渡し、
「それじゃあ――」
杯を月の方へと向けて、ほろほろとこぼれる光を受けるかのように高く差し上げた。と、見る見る間に、輝く液体が杯を盈たしてゆく。八分程も入ったところで手元に戻し軽く振ると、月光は杯の中でとぷんと揺れた。
妹紅も、見様見真似で杯を月へと差し上げる。さっと月が輝くや否や、光線は流体へと変じ、杯に満ちた。薄荷のような冷たい匂いがつんと立ち上り、鼻腔を刺激する。
「なるほどね。夜が明けても、雲に隠れても、空に残る月の欠片。これだから、残月というわけなんだ」
「そう。贋月の光こそが材料……というよりそのものね。本物の月でもいいのだけれど、それだと限りがあるから。材料を乱費してはいけないからこうしているの。ああ、味は変わらないから安心してね」
「じゃ、取りあえず……乾杯」
ちん、と杯打ち合わせ、妹紅はぐいと杯を干す。舌の上ではころころと丸く甘く、喉を通れば火花のようにちかちか弾け、腑へと届けばひやりと心地の良い冷たさ。日本酒にも、焼酎にも、ウ井スキーにも似ない、奇妙な美味。
「……うん、この味、好きだな」
「良かったわ。妹紅は絶対気に入ってくれると思っていたから。ちょっと手間ではあるけれど、わざわざ足を運ぶだけのことはあるでしょう」
「永遠亭で飲むのも良いのだろうけれど、採りたてはまた格別だね」
空となった杯を贋月に向けもたげると、直ぐに月の光が酒と変じる。妹紅が口をつけようとすると
「こうするとひと味違うわよ」
輝夜が手を伸ばし、星の一つをひょいと摘んだ。紅のそれを杯に放り込むと、泡をたてて溶け、崩れ、弾けて酒の中へと瞬時に溶け込む。
「こんなことまで出来るんだ」
妹紅は杯をかかげると、その中を覗き込んだ。月の光そのものの色合いをとっていた酒は、ほんのりと赤く染まり、櫻桃やあんずをどこか思わせる。杯の縁に口をつけると、そのまま飲み干してぺろりと唇なめ
「酸味が増したね。これも美味しい。星の色で味が違うのかな」
「ええ。赤、青、翠、紫、海碧、おぼろ銀、乳白、一つとて同じものはないわ。飲むだけじゃない、星を刻んで月光に溶かし、軽く炙って煙を吸うのも悪くないわね。朝日が昇るまで、色々と試してみてはどうかしら」
「朝までか。それじゃあ……」
輝夜、妹紅の続く言葉を待つことなく頷いて
「今宵はこのまま、二人で月見酒としましょう。付き合うわよね?」
「勿論。まだまだ夜は半ば、朝餉の時まで付き合うよ」
「そうこなくっちゃ。永琳には悪いけど、私たちだけで楽しませて貰いましょう」
笑い交わし、杯を軽く打ち合わせた。高く清く澄んだ音が響き渡り、応じて贋月は一層輝く。一杯、一杯、また一杯。金平糖の星と錻力の満月が見守る中、姫二人はいつまでも酒杯を重ねていた。
(了)
こういうやり取りの方が自然なのかもしれない。
二人とも元貴族だしね。
風の薫りを感じられる作品、ありがとうございました。
キャラごとの交わりも、無理なく自然にこなせていてヤスさんの気合というか、意気込みが感じられました。
しかし、回りくどすぎる描写があって、理解しにくい部分がありました。
加えて、難しい漢字には振り仮名を打つべきだと思います。
さらに、全ての文章が空白を置かずに書かれているため、読みづらく感じました。
毒ばかり吐いてすみませんでした。更なる上達を、期待しています
どことなく童話を思わせる粋なアイテムと、うんちくをとうとうと述べる二人。
まさにこれぞ〈幻想郷〉、といった雰囲気が全体から漂ってくる作品でした。
伝奇やファンタジーではなく、この優しい童話のような感覚はとても綺麗に感じます。
キャラクターたちも、良家のお嬢様を思わせる輝夜が好きな自分にはまさにぴったりの輝夜ですし。
芳醇な味わいの作品。ありがとうございました。
文体も科白まわしも、とても心地よいものでした。
次の作品を読むのが楽しみです。ファンになりました。