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明け方までレミィと話し明かしていた為か、眠りから覚めた時には正午を越えていた。特に生活サイクルに気を付けて生きている訳ではないけれど、やはり吸血鬼との生活は夜型になりやすい。
そんな事を思いながらベッドから起き出すと、私は着替えを済ませて化粧台の前へと腰掛けた。そのまま姿見へ視線を向け、長い髪に櫛を通していく。
鏡の向こうにあるのは、もうずっと変わらない風貌。恐らくこの先も、例え死が訪れようと変化する事は無いだろう魔女の顔はまだ少し眠そうで、
「ふぁ……」
欠伸が出た。
浮かんだ涙を拭いながら櫛を置き、長い髪にリボンを結んでいく。そういえば、このリボンに魔力を籠めたのは何年前だっただろうか。その効力が落ちているという訳ではないけれど、そろそろ魔力を籠め直した方が良いかもしれない。
「……でも、後でも十分ね」
幻想郷にやって来た当初なら兎も角、最近は外敵から身を護る事が少なくなった。大概の妖怪や人間は美鈴が撃退してくれるし、例え門を超えられても咲夜の率いるメイド達が居る。もし彼女達を倒す事が出来たとしても、この屋敷にはレミィが居るのだ。吸血鬼という種族柄、弱点は多いけれど、その実力は折り紙付き。彼女に倒せない相手は少ししかない。私に出番が回ってくる頃には、大概の戦闘は終わってしまうだろう。
だからこそ、私は幸せだと感じる。ただただ、屋敷に引き籠もって本を読み続ける事が出来るのだから。
そしてリボンを結び終え、眠る前に読んでいた本を本棚に仕舞ってから自室を出ると、私は紅い廊下を図書館へと向かい飛び始めた。途中擦れ違ったメイドに珈琲を頼み、漂うように進んでいく。そして普段通りに図書館の扉を開き、普段通りに中へと入り、
「ようパチュリー。邪魔してるぜ」
「お邪魔してるわ」
そこには二人程魔法使いが居た。
「帰って頂戴」
溜め息と共に呟き、しかし半ば諦めながらいつものように図書館の奥へ。そこにある椅子に腰掛けると、白黒の方が口を開いた。
「今日は本を読みに来ただけだ。それなら文句は無いだろう?」
「そういう問題じゃないわ。ここは私の部屋。貴女達を招いた記憶は無い」
「そう言うなって」
白黒――霧雨・魔理沙が笑みで言う。全く、この娘は言っても聞いた例が無い。恐らく頭の中に花が咲いているに違いない。
その近くに立つ七色のは、まるで意に関せずといった風に本を眺めている。それでもその肩に乗っている人形が頭を下げてきたから、少なくとも悪気はあるのかもしれない。それを行動に表さないのは、魔女である私に対抗意識を燃やしているからなのかどうなのか。まぁ、心を読む魔法を知らない私には判断の付かない所だ。
私はもう一つ溜め息を吐き、書き掛けの魔道書を開きながら、
「用事が済んだらさっさと帰りなさい」
「へーい」「はいはい」
答え、二人の魔法使いが図書館の闇の中へと消えていく。小悪魔に何か嫌がらせでもさせようかと一瞬考えたけれど、流石に止める。そんな事をしたくらいで素直に帰る二人ではないからだ。
「……さて」
ペンを手に取る。あの二人は放っておいて、魔道書を完成させないと。
……
十六夜・咲夜が珈琲を持って現れたのは、それから暫くしての事だった。まぁ、カップがしっかり三人分用意されていたのに気付いた瞬間、彼女の有能さに少し疲れが増したが。
そんな咲夜が淹れてくれた珈琲を飲みながら、ちゃっかり居座る二人の魔法使いへと視線を向ける。
こうやって黙っていると、二人とも人形のように可愛らしい。お揃いの衣装でも着せれば絵になるに違いない。……そうね。今度咲夜に衣装を用意させて、天狗にそれを影から撮影させようかしら。新聞に掲載されれば冷やかす者が現れるだろうし、そうなればここに来る回数も減るだろうから――
と、そんな事を思っていると、七色――アリス・マーガトロイドが口を開いた。
「……それにしても、ここは本当に大きいわね。初めて足を踏み入れた時もそう思ったけれど、改めて見ると驚異的だわ」
「確かになぁ。……なぁパチュリー。咲夜がこの屋敷に来る前は、この量の本をどうやって保管してたんだ?」
魔理沙の問い掛けに、さて答えるべきかどうするかを考える。考えて、別に不利益になるような事では無いと気付き、私は珈琲を一口飲んでから、
「どうもこうもないわ。元々この屋敷は私のものだもの。ここに収まりきらなかった本は、他の部屋の本棚に仕舞っていたわ」
そう答えた直後、三人娘の動きが一瞬停止した。文字で表すなら「へ?」という感じの間抜けな表情を顔に浮かべて。もしかすると、狐に抓まれた顔というのはこういう感じなのかもしれない。
その状況から逸早く復帰した咲夜は、しかし驚きを持ったまま、
「そうだったのですか?」
「そうだったのよ。……その話をした事はなかったかしら?」
「いえ、初耳ですわ。私も、このお屋敷はお嬢様が所有していたものかと……」
咲夜の言葉を聞いて思い出す。もう長い間一緒に過ごしているように錯覚していたけれど、咲夜がメイドとして働き始めたのはつい最近の事なのだ。この屋敷の歴史を知らないのは無理もなかった。
だから私は、不思議そうな顔をしている三人娘へと改めて視線を向け、
「少し考えてみれば解るでしょう? 私はずっと本に囲まれて生きてきた。そんな私が、どうすればレミィと知り合えると思うの?」
そう。あの幼い風貌の吸血鬼は、向こうから私の所にやって来たのだ。
1
それは今から半世紀以上前の事だ。
魔女の暮らす屋敷はひっそりとした森の中に建っていた。日光を嫌うその外壁は白く、その内部には数え切れぬ程の本が数え切れぬ程の本棚の中に収められていた。
何も知らずこの場所に訪れた者は、ここを幽霊屋敷のようだと感じるだろう。外観から見ただけでは、まるで生活感が感じられないのだから。
しかし実際には、二人の住民が静かに暮らしていた。
その住人の一人であり、屋敷の主でもある魔女――パチュリー・ノーレッジは、本に顔を向けながら虚空へと声を放った。
「小悪魔、お茶」
その言葉に答えるように、彼女の背後に小柄な少女が現れる。空に浮かぶ彼女もまた雑誌に目を落としており、同じようにそのままの姿勢で答えた。
「えー、自分で淹れて下さいよ。面倒臭い」
「お茶」
「……はいはい。全く、人使いの荒い魔女に召喚されたもんだわ……」
ぶつぶつと呟きつつも雑誌を畳んで机の上に置き、着地すると、小悪魔は部屋を出て台所の方へと歩いていく。その姿をちらりと見ながら、パチュリーは小さく溜め息を吐いた。
厳密に言えば、パチュリーは彼女を召喚したつもりは無かった。曰く付きだと言われている魔道書を開いた時、向こうから勝手に現れただけなのだから。
しかしそれでも相手は悪魔で、当初は少々扱いに苦労した。それでも今のような上下関係が出来上がり、それが消える事無く今に至っている。恐らくこの先も、この関係は続いていくのだろう。
そんな事を思っていると、出て行ったばかりの小悪魔が部屋へと戻ってきた。同時に何故か強い魔力を感じ……引きつった顔をした小悪魔は、パチュリーへと強張った笑顔を向け、
「……ぱ、パチュリー、お客様です」
上擦った声で告げる。玄関とは逆方向にある台所に向かった小悪魔が、どうして来客に気付けたのだろう――そう、感じた魔力にではなく、小悪魔についての疑問を挟んでしまった次の瞬間、パチュリーの読んでいた本に影が差した。
「?!」
「……また難解な本を読んでいるのね。私にはさっぱりだわ」
呟き、突然現れたそれは退屈げに溜め息を吐いた。耳元に届いた息は驚く程に冷たく、感じる魔力は恐ろしい程に高い。無意識に背筋が凍る。判断が遅れた。緊張と焦りが一気に溢れ出し、驚きで止まりそうになっていた心臓が早鐘を打ち鳴らし始める。
けれど魔女はそれを表情に出さず、空に浮かぶ幼い風貌の侵入者を睨みつけた。
すると、少女の姿をしたモノが少し驚いたように目を見開いた。そして、その容姿にそぐわぬ大人びた笑みを浮かべると、
「良い度胸ね」
「……不法侵入者に立ち向かうぐらいの力は、持っているつもりだもの」
「へぇ、それは凄い。吸血鬼を恐れない人間が居るだなんてね」
大仰に言って、羽根のように音も無く吸血鬼はパチュリーの正面へと下り立った。その顔に本気の色はなく、寧ろこちらの反応を見て楽しんでいるようにも感じられる。
だから、
「私は人間じゃない。――魔女よ」
パチュリーはその目の前で思考を巡らせる。恐怖や動揺は消えていないけれど、それでも明らかにこちらを嘗めている相手へと、自分の力を見せ付けてやる為に。
しかし対する吸血鬼は動じる事無く、その細い指を一本、そっとパチュリーの唇に乗せた。
冷たい。
まるで言葉を発する事を――呪文の詠唱を禁じるかのような行為を行いながら、吸血鬼は魔女に告げる。
「私は戦いに来たんじゃないの。ここに魔女が居るっていうから、それを見に来ただけ。解った?」
指の先にある吸血鬼の顔には有無を言わさぬ微笑みがあって、だからパチュリーはその指から逃れるように顔を背けつつ、
「……解ったわ」
屈辱的だが、頷くしかない。何故ならば相手は吸血鬼。やろうと思えばその指一本で、魔女の細い首を刈り取る事が出来るのだろうから。
と、そう自分自身に言い聞かせていると、吸血鬼はまるで教師のように頷き、
「宜しい。それに貴女みたいな小娘じゃ、私に傷一つ付けられないしね」
「……なんですって?」
背けたばかりの顔を向ける。すると吸血鬼は嘲笑うかのように、
「魔女って言っても、所詮は人間の延長でしょう? もし違うとしても、無理な話だわ」
「――ッ」
一瞬で頭に血が上る。魔女としての自分を一言で否定された気がして、積み重ねてきた人生の全てを哂われたような気がして、思わずパチュリーは椅子から立ち上がっていた。
恐怖は消えた。あるのはただ、嫉妬に似た強い感情。
「……傷を付けられないかどうか、その身で判断してみなさい」
「構わないわよ?」
あくまでも吸血鬼は余裕で、だからこそパチュリーは冷静ではいられない。常に手元に置いている魔道書を手に取り、そこに記述した呪文を一気に詠唱していく。
「さて、魔女様がどこまでやってくれるのかしら」
吸血鬼が何か言っているが、今は無視。魔力の出し惜しみなどする事無く持ちうる最強を詠み上げる。同時に複数の魔法陣を周囲に生み出し、その一つ一つに魔力を通わせ増幅させていく。
息が苦しい。
しかし、ここで詠唱を止める訳にはいかなかった。
構築するのは祖から始まる永遠の遺志。数多の者達が求めた一途な意志。奇跡を生み出す錬金の石。廻り回る五つの元素。混合し生み出すは一つの意思。
「――賢者の石」
言葉と共に魔法が完成し、魔女を護るように周回していた魔方陣一つ一つが巨大な石塊へと変化していく。そして五つ目の魔法陣が変化を終わらせる前に魔女は動き出し、驚きを浮かべる吸血鬼へと奇跡の具現を撃ち当てた。
吸血鬼の肉体が砕ける音よりも、屋敷の壁が吹き飛んだ音の方が大きい。そんな当たり前の事にパチュリーは驚き、しかし次の瞬間更なる驚愕を得た。
「……ふぅん。口だけじゃないのね」
吸血鬼の右腕が吹き飛んでいた。だが、それだけ。まるで飛んできた羽虫を追い払った程度の気楽さで、夜の眷属は呟いてみせる。右腕一本など、ダメージにならないかのように。
「そんな……」
魔女としての自信が一気に砕けそうになる。けれど――けれど、まだ終われない。まだ終わらせる訳にはいかない!
壊れた壁は小悪魔に修復させれば良いと判断し、魔女は浮遊する賢者の石を更に吸血鬼へと向けて加速させ、その破壊力を増させる為に追加詠唱を始め――しかし、魔女よりも先に吸血鬼は動き出す。
彼女は右腕に紅い霧を纏わせながらパチュリーへと加速すると、軽い跳躍と共に空中で身を翻し、
「っと」
風切り音と共に、高速で踵が迫――
「――!!」
まるで硝子を割るような音と共に防御魔法が破砕。それを脳が理解するよりも早く、魔女の体は背後に並ぶ本棚へと激突していた。
受身を取る事すら出来ず本棚に受け止められたパチュリーは、まるで壁に投げたパイのようにずるずると落下していく。同時に本が雪崩のように崩れ落ち、その体は本の海に沈み始めた。だが、吸血鬼はそれを許さず、
「……もう終わりなの?」
途切れそうになる意識の中そんな声を聞き、次の瞬間、体に急激な浮遊感。ぼんやりとした思考の中、飛んでいる、という事は解っても、どうして自分が飛んでいるのかが解らない。
一瞬で腕を修復した吸血鬼に放り投げられたのだと気付いたのは、小悪魔に抱きとめられた後だった。
「何やってんですか! 相手は吸血鬼ですよ?!」
悲痛な声が落ちてくる。全くこの子はどうして逃げなかったのかしら。そう思いながら、力の入らない体を無理矢理起き上がらせる。
息が苦しい。しかし、まだ終われない。
どうやら吸血鬼は追い討ちをしてくる気は無いらしい。一度攻撃したから、今度はこちらの番という事なのだろうか? 解らない。だがこれはチャンスで、だからこそ魔女は次の一手に取り掛かる。
全身の痛みを無視し、奇跡的に離す事が無かった魔道書に再び視線を落とす。しかし羅列する文字を追う視線が揺らぎ、小悪魔に支えられていなければ真っ直ぐ立っている事すら出来ない。
それでも、詠唱さえ出来れば魔法を発動させる事が出来る。魔法さえ発動させる事が出来れば、パチュリー・ノーレッジは魔女足り得る。荒れた息を整え、魔女は恐らく最後になるだろう呪文の詠唱を始め――
「ッ」
咳が、出た。
咳が、吸血鬼が不思議そうな、咳が、顔をしている。小悪魔が、咳が、顔を歪ま、咳が、せている。咳が、それでも、咳が、魔女は、咳が、呪文を、咳が、咳が咳が咳咳咳咳咳咳……嗚呼、どうしてこんな時に、
咳、が、
「ッ、っ」
止まら、ない。
「ッ!!」
不味い、と思った時には、最悪のタイミングで発作が始まっていた。
詠唱が止まり、辛うじて浮遊していた賢者の石は完全に消え去り、魔女は本を抱きながらその場に倒れこんだ。
「ぱ、パチュリー?!」
すぐ近くから小悪魔の声が聞こえる。けれど全身を砕きそうな苦しみに言葉を返す事が出来ない。
これは殺されるな、と頭の隅で思う。しかしその思考すら、襲い来る苦しみの中に消えていった。
……
漸く発作が治まり、涙などで汚れた顔を洗って一息付いた時、まだパチュリーの首は繋がっていた。
どうして自分は殺されなかったのだろうか。そんな風に思いながら部屋に戻ると、瓦礫と本を片付けられた部屋に新しいテーブルと椅子が用意されており、そこで吸血鬼がお茶を飲んでいた。
彼女はパチュリーの姿に気付くと、少し複雑そうな表情で、
「……貴女、病気なの? 魔女の癖に?」
その言葉を聞きながら、パチュリーは吸血鬼の正面へと腰掛けた。そして自身で破壊した壁へと視線を向けつつ、
「私は喘息持ちなの。これは生まれつきで、どんな魔法でも治す事が出来なかった。だから時たま、ああやって発作が起こるのよ」
「……ふぅん」
そのまま、吸血鬼が押し黙る。そこに殺気は無く、しかしその視線はじっとパチュリーに向けられて、居心地の悪さは凄まじいものがあった。だからパリュリーはその目に視線を絡めつつ、
「私を殺さないの?」
「……そうね。あの攻撃は少し痛かったけど……まぁ、許してあげるわ」
「そう、なら良かったわ」
言葉とは裏腹に、緊張を解く事は出来ない。けれどそれとは別に、強い絶望を感じていた。全力で放った一撃に殆ど効果が無かったというのは、魔女としてのメンツが立たないからだ。
そんなパチュリーの思いなど気付いていないのだろう吸血鬼は、カップに入った紅茶を飲み干すと、音も無く席を立ち、
「それじゃ、私はそろそろ帰るわね。ここに居る魔女が案外面白い奴だって解ったから」
「……そう」
「また遊びに来るわ。今度は玄関からね」
そう微笑んで告げて、吸血鬼が霧になる。
刹那、
「そうそう、小娘は訂正するわ。パチュリーさん」
そう言葉を残し、消えた。
「……」
あれ程強かった魔力が一瞬にして消え去り、パチュリーの体から一気に力が抜けた。どうやら、生き延びる事が出来たらしい。
「……助かったわね」
思わず言葉が漏れる。そして忘れていた全身の痛みから逃げるように背もたれに体重を預けた時、ティーポットを持った小悪魔が部屋に入ってきた。
「あれ、あの吸血鬼はどうしたんですか?」
「帰ったわ。でも今度は玄関から来るらしいから、丁重に追い返して」
「無理ですよ。私なんかじゃ一瞬で消し炭にされちゃいますもの」
普段は見せぬ真剣な顔で言って、小悪魔が紅茶を淹れる準備を始めた。それでも安堵があるのだろうその様子を眺めていると、不意に彼女が呟いた。
「もう辛くない?」
「大丈夫。薬も飲んだし、それを貰ったら今日は休む事にするわ」
「ん、解りました」
言って、カップに紅茶が注がれていく。その香りと色を楽しめる事に感謝しながら、パチュリーは小さく呟いていた。
「……ありがとう」
「え?」
「私があの吸血鬼に一撃を受けた時、本棚周辺に何か付術したでしょう? そうでなければ、私の体は隣の部屋まで吹き飛んでいた筈よ」
この屋敷にある本棚は街で売られていたごく一般的なものだ。そんなものが、吸血鬼の一撃を受けたパチュリーの体を受け止められる筈が無い。同時にこうして骨折の一つも無く生きて居る事が出来るのも、その魔法のお蔭だろう。
「なんだ、気付いてたんですか」
と、自分用の紅茶を淹れながら答えた小悪魔の言葉に、パチュリーは頷き、
「確信したのは……発作が治まって、冷静になる事が出来た時だけれどね。恐らくあの吸血鬼は手加減をしていただろうけれど、それでも戦闘準備をしっかりと行っていなかった私では即死出来る攻撃だった。それを打ち身程度で終わらせる事が出来たのは、貴女の魔法があったから。……だから、ありがとう」
「はいはい。でも、次は気をつけてくださいよ? あの人、今度は私の手助けを見逃してくれないでしょうから」
「解っているわ。私も、まだ死にたくは無いもの。……でも、どうして私を助けてくれたの?」
小悪魔から紅茶を受け取りつつ、疑問を投げ掛ける。すると彼女は、少しきょとんとした顔で、
「……何言ってんですか?」
「……どういう事?」
問い返したパチュリーに、小悪魔は脱力しながら溜め息を吐いた後、表情を改めると、
「良いですか? 私は本を媒体に異界と現世を行き来する悪魔なんです。その媒体となる本、或いはその所有者が消滅した場合、現世に取り残される可能性があるんです」
そういえばそうだった。彼女を召喚した本はパチュリーの自室にあり、結果それはパチュリーが所有者になっている事を意味する。
「つまり、自分自身の為?」
「そういう事です。……それに、パチュリーの事は嫌いじゃないですからね。目の前で死なれるのは気分が悪いんです」
言って、少し恥ずかしげに小悪魔が視線を逸らす。同時に、パチュリーの胸に暖かいものが広がった。
小悪魔がパチュリーの事を嫌いではないと言うように、パチュリーもまた、彼女の事を嫌ってはいない。だからこそこうやって向かい合い、一緒に紅茶を飲む事が出来ていて、そしてこの生活がこの先も続くと思えるのだ。
だが今日になって突然、吸血鬼という存在が現れた。この街に吸血鬼が居るという話は聞いた事が無い為、恐らく他の街から流れて来たに違いない。
「……でも、厄介な存在が現れたものね」
「ですね。……って、その様子だと何か思う事でも?」
「えぇ、少しね」
そしてパチュリーは紅茶を一口飲み、
「妙だとは思わない? 吸血鬼なんて存在、もう滅んでいたと思っていたのに」
二十世紀も中盤に入ろうという今、最早吸血鬼など物語の中の存在だ。その大半は既に討伐されたと聞くし、彼らはもう幻想の存在になったと思っていた。
すると、正面に座る小悪魔は少々意外そうに、
「や、パチュリーがそれを言っちゃ駄目でしょう」
「どうして?」
「まぁ私もそうですけど、魔女って存在も殆ど滅びたようなものじゃないですか。ほら、魔女狩りとか」
「ああ、確かにそうね」
パチュリー・ノーレッジがこの世に生を受ける更に以前、一部地域に根付いていた魔法の文化はほぼ完全に壊滅していた。その生き残りの先に居るのがパチュリーなのだが、確かに魔女や魔法使いという存在もその数は減っている。もしかしたら、この地方にはパチュリー以外の魔女は存在していない可能性もあった。
そして小悪魔のような悪魔も、最近では人々の闇に現れる事が少なくなっている。それは召喚される機会が減ったという事もあるが、それを行う人間すら悪魔の存在を信じていない場合が多くなっているのだ。
「そりゃ中には魔力を感じられる人もいるかもですけど……今の街には、翼と尻尾を隠した私を悪魔だと見抜ける人が居ないんですから。結構在り得ないです」
「でもだからこそ、手軽に買い物を任せられるんじゃない」
「それはそうですけど……。でも、結構淋しいものですよ? 昔だったら、もうきゃーきゃー言われてたんですから」
「……へぇ、そうなの」
単独でこちらの世界に姿を現せられるならまだしも、本の世界に住む悪魔がどうすればきゃーきゃー言われるんだ、と思いつつも、取り敢えず頷いておく。
兎も角、この世界での存在が希薄になりつつある魔女と悪魔の元に吸血鬼が現れたというのは、恐らく偶然ではないのだろう。パリュリーはそう考え、紅茶を飲んだ。
だが、パチュリー気付かない。
今日の出逢いが、自分達の運命を変えるものだった事に。
2
数日後、本当に玄関を通って吸血鬼が現れた。
「レミリア・スカーレットよ。これから宜しく」
その楽しげな微笑みを見ながら、パチュリーは思わず呟いていた。
「……小悪魔」
「だから、追い返せる訳無いでしょう!」
彼女も必死らしい。突然自分よりも上位の力を持つ者が現れたのだから、萎縮してしまうのも仕方ないのかもしれない。だが、それとこれとは別問題だ。
「帰ってもらえるかしら」
「嫌よ。だって暇なんだもの。少しぐらい遊んでくれない?」
「……遊ぶ?」
「そう。話し相手になってくれるだけでも良いわ。……身内以外と話をするの、久しぶりだから」
そう言って少し悲しげに笑う吸血鬼――レミリアに、パチュリーは言葉を返す事が出来なかった。
……
レミリア・スカーレットは、もう四百年以上吸血鬼をやっているのだという。少々大きな城に居を構え、妹やメイド達と共に暮らしていたのだそうだ。
しかし近年になって、人間達は吸血鬼を――夜を恐れなくなってきていた。彼女達のシンボルである月は魔力を失い、夜は闇を失い、『スカーレット・デビル』と恐れられていた夜の眷属の居場所は少しずつ失われていった。
そして人間の手が城に迫った時、姉は妹と数人のメイドを連れて城を捨て、放浪の旅に出た。
「人間を殺すのは簡単。でもご存知の通り、人間は私達吸血鬼の弱点を知り尽くしているわ。銀、聖水、大蒜……そして日光。太陽が出ている間、私達はとても無力になる。そんな時に武装したハンター達に襲われたら、いくら私達といえども殺されてしまう可能性があるの。だからその最悪が訪れる前に逃げ出すしかなかった。屈辱だけどね」
最強であろう吸血鬼とはいえ、弱点は多い。月の恩恵すら満足に受けられない今の時代では、弱小な人間から逃げるしかない場合もあるのだ。
恐らく相手が一人なら、パチュリーを相手にした時のように負ける事は無いのだろう。けれど人間は強大な相手に対し一人で向かってくる事は少ない。チームを組み、確実に相手を殺しに来る。一瞬で人間を一人屠ったとしても、次の瞬間には銀の銃弾が体に迫っているかもしれないのだ。そうなったら最後、飛び道具を持たない吸血鬼は逃げに徹するしかなくなってしまう。
「魔法を使って反撃に出たとしても、城内を破壊してしまうような事があれば、人間を殺せても日光に曝される危険が増えてしまう。だから、迂闊に反撃すら出来ないのよ」
もし逆に人間へと攻撃を仕掛けたとしても、次の朝には逃げ帰らなくてはならない。……結局、どんな行動を起こしても、最終的には自分達の身に危険が及んでしまうのだ。
「まぁ、私の妹なら、その力を使ってどうにか出来るかもしれないけど……でも、そんな事はさせたくないのよ」
それはありとあらゆるものを破壊する力。もしその力が暴走すれば、レミリアはおろか、妹の命すら破壊してしまう可能性がある。たった一人の肉親である姉は、それを恐れていた。
だから、いつか安住の地が再び見つかるまで、彼女は妹を幸せな夢の世界へと堕とした。この世界に溢れる苦痛を味あわせない為に。
「いろんな場所を見て周ったわ。でも、安住の地なんて存在しなかった。どこもかしこも人間だらけで、もう同属すらその姿を消していた。同じように夜に生きていた者達も討伐され尽くし、悪魔を愛していた魔女や魔法使い達は炎と共に消えていた。この世界に私達が存在出来る夜は、もうどこにも無かった……。……そんな時、ここに住む魔女の噂を聞いたのよ」
この巨大な屋敷とパチュリー達の存在は、昔から街で噂になっていたらしい。それがレミリアの耳に入ったのだろう。
吸血鬼の語る過去を聞き終えた魔女は、体から警戒を解いた。目の前に座る少女は強大な力を持っているけれど、しかしとても弱い存在だという事に気付いたから。
だから、
「まぁ、私でよければ話し相手ぐらいにはなるわ。……でも、戦闘はもう嫌だから」
「解ってるわ。話し相手が出来ただけでも十分だもの」
そう言って微笑んだレミリアの顔は、幼い風貌には似合わぬ程影が差して見えた。
……
そして……一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、十年が過ぎ、更に更に長い時が過ぎていく。
ある時、こんな事があった。
その日自室で魔道書を書いていたパチュリーは、作業が一段落すると、普段本を読んでいる部屋へと足を向けた。そして部屋にある本棚から一冊の本を抜き出し、ある違和感に気付いた。
「……埃が無い?」
見れば、本棚に少し溜まっていた埃が綺麗に掃除されていた。
一体どういう事だろうか。今まで言われなければ掃除をしなかった小悪魔がやったのだろうか? そう思いながら本を手に取り、椅子に戻ると、いつの間にやって来ていたのかレミリアの姿があった。
「こんばんわ」
「こんばんわ。今日は突然なのね」
「まぁね。……突然なんだけど、今日はパチュリーにお願いがあって来たの」
「お願い?」
その言葉に首を傾げたと同時、台所の方から小悪魔の声が響いてきた。
「こ、これは……!」
それは驚きと興奮と喜びを含んでおり、パチュリーは更に首を傾げつつ、
「……何かしら」
何気なく台所へと続く廊下へ視線を向けると、そこには見知らぬメイド服姿の女性が立っていた。
「……誰?」
殺気は無い。しかし人間でも無い。何故ならば彼女の顔は異常な程に白く、そして首には小さな傷が二つあった。
吸血鬼? いや、その従者だろうか。そう思考を働かせるパチュリーに、レミリアから答えが来た。
「あれ、ウチのメイド。まぁ、私の両親の従者なんだけどね」
その言葉に、メイド服の女性が恭しく頭を下げる。その動きは美しく、小悪魔に見習わせたい程だった。
「……で、そのメイドさんがどうしてうちに?」
「そろそろ肉体に限界が来ているのよ。だから最後ぐらい、メイドらしい仕事をさせてあげようと思って」
従者と成る以前からメイドとして働いていたという彼女は……いや、彼女を含めた数人の女性達は、主人亡き後もその娘達を親身になって育て上げた。
しかし先の理由から住処を失ったレミリアは、彼女達を自由にしようと考えたという。だが、彼女達はその言葉に頷かず、
「最後まで、御世話をさせて欲しい」
それは彼女達の最後の我が儘で、だからレミリアは彼女達の現在の主として、その想いを果たしてやる事に決めたのだという。
「でも、世話をするにも妹は眠っているし、私はこうやってパチュリーの家に入り浸っているし、させてあげる事が無かったの」
「だから、逆に私の世話をさせよう、と?」
「そういう事。そこに私が加われば、彼女達の仕事に変化は無いから」
という事はつまり、レミリア達もこの屋敷に住み込むという事になるのだが……パチュリーは敢えてそこを追求する事は無かった。まだ一年にも満たない短い時間とはいえ、レミリアとの生活が当たり前になってきていたから。
と、そんな時だ。
「ぱ、パチュリー! なんだか知らないけど凄く美味しいご飯が! これは食べないと損ですよ!!」
今までで一番輝いた笑顔をした小悪魔が部屋に飛び込んできて、パチュリーは少しだけ悲しくなった。
その後、吸血鬼の妹であるフランドール・スカーレットもやって来て、いつの間にか屋敷は大所帯となった。
そしてある時、こんな事があった。
魔女はいつものように本を読み、小悪魔も同じように本を読み、そしてレミリアはメイドに淹れさせた紅茶を飲みながらケーキを食べていた。
そんな時に、ふとレミリアが口を開いた。
「……そういえば、どうして小悪魔は『小悪魔』なの?」
「どういう事?」
問い掛けるパチュリーに、レミリアは不思議そうに、
「私にはレミリアという名前がある。メイド達にも名前はあるし、パチュリーにも『パチュリー・ノーレッジ』という名前がある。でも、どうして彼女は『小悪魔』なの?」
「ああ、その事」
言って、パチュリーは視線を上げた。そしてその先で背中を向けて本を読む小悪魔を見ながら、
「彼女は本を媒体にして現れた悪魔なのよ。通常そういった悪魔はその本の中に名前が刻まれていて、それを所有者が読み上げる事で契約を結び、魂を奪う状況を整えるの。でも、私はそれを行わなかった」
「どうして?」
「名前というのは、その存在を決定付ける強い力を持っているわ。特に相手が悪魔の場合、それだけでも十分な力を持っているの。だから私は彼女に余計な力を持たせないようにそれを封じたのよ」
その結果、小悪魔は自分自身の名前を口に出す事も記述する事も出来なくなっている。それでもある程度強い力を持っているのだから、判断は間違っていなかったのだろうとパチュリーは思う。……と、そんなパチュリーに抗議するかのように、小悪魔の尻尾が小さく揺れた。
すると、パチュリーの言葉に感心したように頷いたレミリアは何かを思案し……楽しげな笑みを浮かべると、
「それなら、私が彼女に名前を付けたらどうなるの?」
「残念だけど、どうにもならないわ。本を媒体にしている以上、一度決定付けられた名前を変化させる事は出来ないから」
「……ふぅん。じゃあ、小悪魔には名前を付けるのは止めね」
その言葉と共に、笑みの質が変わる。それはまるで、悪戯を思いついた少女のように。恐らくはそれが彼女の素で、だからこそ、その表情がとても輝いて見えるのは間違いではないのだろう。
と、そう思考が逸れた隙に、レミリアの口は動いていた。
「その代わり、今日から貴女をパチェと呼ぶわ」
「……今の話、聞いてた?」
名前を付けるという事は、相手を変えてしまうという事。例えそれがニックネームだとしても変わらない。吸血鬼のような存在がそれを行えば――そして彼女の力を考えれば、その人物を根底から変化させてしまう可能性もある。……だというのに、レミリアは笑みを崩さず、
「だって、その方がフレンドリーでしょう?」
「……」
言葉が出ない。だったらなんだというんだろう。彼女は私と友達にでもなりたいというのだろうか? そんな事を思い、しかしそれは別に否定すべき事では無いと気付く。
だからパチュリーは笑みと共に息を吐き
「解ったわ。その代わり、私も貴女の事をレミィと呼ばせてもらうわ。……その方がフレンドリーでしょうから」
こうして、魔女と吸血鬼の二人は互い同士、その存在を変化させた。
即ち、友人という間柄に。
そうして魔女達は時を重ねて行く。同時に、様々な出来事が屋敷の中で起こっていった。
ある時、屋敷の内装を変え、レミリア達の部屋を作った。
ある時、収まり切らなくなった本を収納する為、地下に図書室を作った。
ある時、フランドールが目を覚まし、ちょっとした騒動になった。
そしてある時、レミリアの連れて来たメイド達が死を迎え、屋敷が悲しみに沈んだ。
喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全て全て詰まった日々が過ぎ去っていった。
そうして時を重ねていたある日、何十年ぶりかに外の見えるテラスへと出たパチュリーは、そこに広がる風景に息を飲んだ。
深い森に囲まれていた筈の屋敷は、いつの間にか住宅地の只中にあり、その周囲には背の高い巨人のような建物が幾つもそびえ建っていた。
「……」
驚きで言葉が出ない。いや、少なからず予想はしていたけれど、目の前に拡がる現実は魔女の予想を遥かに越えている。この閉鎖的な屋敷で平和に暮らしている内に、世界は変わりきってしまっていた。
「……もうこの世界に、私達の居場所は無いのかもしれないわね」
幻想の、存在。
街に買出しへと向かう事がある小悪魔や、この屋敷にやって来るまで放浪していた吸血鬼は、世界が急激に変化している事を実感していたに違いない。しかし魔女のそれは知識だけであり、自らの実体験ではなかった。だからこそ驚きも大きく、そして絶望も大きかった。
そして魔女は目に見えぬ巨大な力を知った。それは人間という存在の、この星を侵食する力。目に見えぬからこそ恐ろしいそれは、どんな魔法を持っても立ち向かえぬもの。
この先、いつまでも平和な時間が過ぎていくと思っていた。けれど今日にも、人間の手によってそれが壊されるかもしれないのだ。
出来る事なら逃げ出してしまいたい。平和に暮らせる、安住の地へ。
「……馬鹿馬鹿しい」
一体何処へ逃げるというのだ。この世界に、もう夜の眷属が生きる場所など存在しない。それに気付いてしまったというのに。
「……」
空を見上げる。そこにある青空は、とても青空とは言えぬ程霞んで見えた。
――だから、誰一人として気付かなかった。
目の前の現実に衝撃を受けている魔女も、屋敷の中で紅茶を淹れる準備をしている小悪魔も、眠りに就いている吸血鬼姉妹も、誰として。
この世界で幻想となった事を認めた彼女達が、ある場所へと引き寄せられていた事に。
3
明くる日。
その変化に真っ先に気付いたのは、小悪魔だった。彼女は自室で本を読んでいたパチュリーの元へとやって来ると、しかし部屋の中には入らずに口を開いた。
「……ねぇパチュリー、一つ良いかなぁ」
「何?」
「ここ、どこ?」
「……何を言っているの?」
呆れながら言い、読んでいた本から視線を上げると、小悪魔が数少ない窓の外へと指を指しながら硬直していた。
そのまま問い掛けても「これは夢? 或いは幻?」といった要領を得ない答えしか返ってこず、仕方なくパチュリーは椅子から立ち上がると、小悪魔の隣へと近付いた。
そして窓の外へと視線を向け、
「こ、これは……」
窓の外には巨大な湖が拡がっていた。空は青く高く、その先にある森は青々と茂り、まるで別世界に飛び込んだかのよう。
パチュリーは呆然と外を眺めながら、同じように外へと視線を向ける小悪魔へと問い掛ける、
「小悪魔、貴女何か変な魔法でも使った?」
「使ってたらこんなに驚いてませんて」
「確かにそうね……」
当然パチュリーも身に覚えが無く、もしレミリアが魔法を使ったとしても、その発動に気付けぬ筈が無い。
「でも、一体どういう事なのかしら……。一晩で外の景色が変わっているなんて、初めての事だから見当も付かないわ」
まるで狐に抓まれたかのようだ。しかしこのまま呆然としていた所で何の進展もない為、パチュリーは小悪魔と共に屋敷の外へと出てみる事にした。
……
恐る恐る外へと出ると、目の前に作り物ではない広大な自然が拡がった。力強さに溢れたそこに、住宅地や背の高い建物は欠片も存在しない。
そう、例えるならここは、
「……アヴァロンね」
林檎の木が生えていれば完璧なのではないかと思える程、崇高な場所に足を踏み入れた感覚がある。
だが、この世界にそんな場所が存在する筈は無い。アーサー王は架空の存在なのだ。
「……小悪魔、一度屋敷に戻りましょう」
「解りました。何がなにやらさっぱりですもんね……」
呟く小悪魔に頷き返し、共に屋敷へと向けて歩き出し……不意に、背後から声が飛んできた。
「ちょっと待ちな!」
「「?!」」
小悪魔と同時に振り返ると、そこには青を基調とした服に身を包んだ少女が空に浮かんでいた。人間と変わらぬ外見をした彼女は、しかしその背中に半透明の翼……いや、羽を持っていた。
少女は魔女達へビシっと指を指し、強い意志を持った瞳で睨みつけ、
「アンタ達、何者?」
「……魔女と悪魔よ。貴女こそ、何者なの?」
自力で空を飛んでいる事を考えれば、魔法使いか何かなのだろうか? しかし相対する少女は、笑みと共にパチュリー達が想像もしていなかった言葉を口にした。
「あたいはチルノ! この辺じゃ知らないヤツは居ない妖精だよ!」
「よ、妖精……?」
もうこの世界には存在しないとされるモノが、どうしてこんな所に? そう戸惑うパチュリーに、チルノと名乗った少女は腕を組みながら、
「アンタ達が魔女と悪魔なのは解ったわ。でも、突然あんなデッカイ建物を持ってこられちゃ、あたい達は迷惑なの。だから出てってくれない?」
「……貴女が何を言っているのか解らないけれど、貴女には仲間が居るの?」
『あたい達』というのはつまりそういう事だ。パチュリーがその言葉を告げた瞬間、チルノは「当然よ!」と頷き、
「みんな!」
言葉と共に、一瞬にして二十近い数の少女達が現れた。彼女達は皆チルノと同じような衣装に身を包み、その背には美しい羽を生やしていた。
「……パチュリー、コレ結構不味い気がするんですけど」
「同感ね。……どうしたものかしら」
魔法を放つのは簡単だが、彼女達の正体が気になる。妖精という言葉の意味やこの場所の事など、問い質したい事は沢山あるのだ。
だが、チルノは待ってくれなかった。
「黙ってるなら、こっちからいくよ!」
言葉と共にチルノが両手を正面に突き出し、次の瞬間、幾つもの氷の塊がパチュリー達へと放たれた。
「?!」
「危ない!」
驚くパチュリーを抱きしめ、小悪魔が咄嗟に後退する。しかし魔女は目の前で起こった現象に対する驚きで一杯だった。
「今の、魔法? 違うわね。詠唱も魔力も何も感じなかった。じゃあ他の技術? それにしたって、あんな一瞬で……」
「こらパチュリー! ボケっとしない!」
「!」
耳元で叫ぶ小悪魔の声に我に返る。見れば、他の少女達も何か弾のようなものを放ってきていた。
それにどれだけの力があるのか、攻撃手段なのかどうかすら不明瞭。しかしチルノの言葉から考えるに、友好的な手段では無いのは確実。だから魔女は大きく深呼吸し、
「――小悪魔、少し時間を稼いで。どうにか詠唱を行うから」
「はいはい! でも、早くしてくださいよ!」
叫ぶ小悪魔に頷き、上下左右に揺らぐ視界を遮るように目を閉じて詠唱を開始する。息が辛くならないように注意しながら、しかし出来うる最速で。
生み出すは火神。祭火を導く神との仲介者。世界に偏在する炎の代行者。目覚めよ、世界の守護神。
「――アグニシャイン」
周囲に業火を生み出し、少女達へと向けて一気に放つ。すると意外な事に、少女達はいともあっけなく消滅した。もしかすると、彼女達は予想以上に弱い存在なのかもしれない。
「って、消滅?!」
怪我をするというのならまだしも、存在の消滅? いや、緊急回避的な魔法を発動させたのか? だとしても突然過ぎる!
混乱が増し、状況把握すら思ったように行えない。そんな魔女の混乱を更に高めるかのように、チルノが声高に叫んだ。
「パーフェクトフリーズ!」
刹那、その言葉通り、パチュリーの放った魔法が動きを停止した。
「し、信じられない……」
魔法と思われるものの無詠唱発動。どんな原理なのかは解らないが、その力は強大過ぎる。動揺と混乱に意識が飲まれ、どうして良いのかが解らなくなった時、ふいにパチュリーの体を小悪魔が放り投げた。
「こ、小悪魔?!」
地面に激突する前に魔法で体を停止させ、慌てて消えてしまった小悪魔を探す。すると彼女は、単身チルノへと向かい突っ込んでいた。
彼女は停止した魔法とチルノの放つ氷弾を掻い潜り一気にその正面まで近付くと、空中で体を回転させて蹴りを放った。それは、何十年も前にパチュリーがレミリアから受けたものに酷似していた。
小悪魔の蹴りを受けたチルノは後方へと吹き飛び、派手な水飛沫を上げて湖の中へと落下。その容赦の無い威力に驚いていると、小悪魔がこちらへと振り返った。
「パチュリー、大丈夫?」
「え、ええ。でも、今のはちょっとやり過ぎなんじゃ……」
「何甘い事言ってんだか……。殺られそうになったら殺り返す。これは常識ですよ?」
「……」
ああ、そういえばこの子は悪魔だったわね……。そう今更ながらに思いながらパチュリーはゆっくりと地面に降り立った。そのまま湖へと視線を向けると、チルノが浮かんでくる気配は無い。どうやら彼女は死んで――
「勝手に殺すなー!!」
生きていた。
まだ痛むのだろう腹を押さえながら飛び出してきたチルノは、しかしその目に輝きを失わせないままにパチュリー達を睨み、
「あ、あたいはまだまだ負けちゃいないんだから!!」
ふらふらの体で叫ぶ。しかしそれ以上に、パチュリー達はチルノの体に起きているある変化に目を奪われていた。
彼女の体に付着している水分が、何故か少しずつ凍りついていくのだ。そしてチルノは猫のように体を震わせてそれを弾き飛ばすと、呆然とする魔女達の視線に釣られるように自分自身へと視線を向け、
「何? あたいの体に何か付いてる?」
「……」
腹を押さえながら言うチルノへと、問い掛ける言葉が見つからない。魔法で防壁を張っているのだろうか? 或いは水に対して反応する加護を掛けているのだろうか? だとしてもどうして氷なのだろう。炎で蒸発させたり風で乾燥させるならまだしも、凍らせて落とすなど非効率にも程がある。一体どうして……。
理解不能な状況に呆然と立ち尽くしていると、パリュリーの隣へと小悪魔が降り立った。危険が迫ればすぐ逃げられるように、その体に片手を回しながら。
相対するチルノは何を思ったのか、パチュリー達へと苛立たしげに視線を戻すと、
「何か言いなさいよ!」
思考は巡る。答えが出ない事は解っているのに、疑問が浮かび続けて止まらない。
「もう! やる気が無いなら無いって言いなさいよ!」
チルノが叫ぶ。その度に周囲の温度が下がっているような錯覚に陥る。馬鹿馬鹿しい。
「……」
やがてチルノは押し黙り、じっと魔女達を睨みつけ……しかしすぐに視線を逸らすと、
「止めよ止め! こんなにつまんない勝負は初めてだわ!」
「……勝負?」
一方的に始まったこれが勝負? 疑問を投げ掛けたパチュリーに、ぷいと顔を逸らしたチルノは苛立たしげに、
「ふん。あたいだって何も答えないから」
先程のお返しよ、と言わんばかりに口を噤む。その姿はまるで幼い子供のようで、ますますパチュリーは何も言えなくなる。すると、隣に立つ小悪魔が小さく口火を切った。
「……一方的に攻撃してきた卑怯者が何を言ってるんだか」
「な!」
「二人相手にあの人数? それでいて勝負? ハ、頭の弱いお子様ですね」
「何よ! アンタだってあたいに――」
「静かに。何も答えないのでしょう?」
言って、小悪魔が自身の口元に指を添え、指先で何かを掴むようにし、
「お口にチャック」
左から右へ、小悪魔の指が唇をなぞった。
それは簡単な封呪の魔法。魔法使いならば確実に回避するだろうそれを、しかしチルノは回避する事が無かった。小悪魔の動きに合わせて、チルノの口が閉じていく。
「?! ッ! ッ!!」
声が出せない事に動揺したのか、チルノが目を白黒させながらもがき始めた。小悪魔はそれを冷たい目で見ながら、
「……はぁ。こんな低レベルの魔法も防げないのに、どうしてあんな強大な魔法が使えたんでしょうねぇ」
「うーん……。何か特殊なアイテムでも使ったのかしら……」
そう言葉を返しながら、パチュリーは小悪魔が蹴りを放った付近の大地に何かを見付けた。
「あれは……」
「ん? どうしたんです?」
聞いて来る小悪魔と共に、パチュリーは視線に捕らえたそれへと近付き、
「……カード?」
「みたいですねぇ」
それは一枚のカード。俗にスペルカードと呼ばれる、少女達の切り札。
しかしまだ何も知らない魔女はカードを手に取ると、小悪魔と共に湖上でもがくチルノへと近付いた。そして、涙を浮かべてもがき続けるチルノの唇にそっと手を当て、
「落ち着きなさい。そして答えて。このカードは一体どんなもので、そしてこの世界はどんな所なのか。……それが出来るなら、その魔法を解いてあげる」
「! ッ!!」
親に叱られた子供のように泣き腫らしたチルノは、魔女の言葉に何度も頷いた。恐らく、こういった魔法を体に受けた経験が無いのだろう。つまり彼女にとっての勝負とは、肉体の破壊や命の奪い合いといったものとは別の場所にあるもの、なのかもしれない。
そんな風に思いながら、ゆっくりとチルノの唇に触れる。それは屋敷の中で眠る吸血鬼の肌よりも冷たく、パチュリーの中に更に疑問が浮かんでいく。
だが、まずは話を聞いてみなければ解らない。百聞は一見に如かず。自己問答だけでは疑問を解決させる事は出来ないのだから。
指先でチルノの唇をなぞる。
「じゃあ、答えて頂戴。貴女の知っている、この世界の知識を」
……
こうして、パチュリー達は幻想郷へとやって来た。
弾幕ごっこなどの勝負事についてはチルノから粗方聞き出し、突然取材に来た天狗や、周囲を通り掛かった人間や妖怪からこの世界についての話を聞き、魔女達は幻想郷という場所の知識を高めていく。
そんな時、レミリアが宣言したのだ。
「……なら、私達がこの地にやって来たというアピールをしないといけないわね」
何をするのかと疑問に思うパチュリーを他所に、レミリアの行動は早かった。小悪魔と共に何か魔法を生み出したかと思えば、それ――強制的な変化を促す魔法。ただし、ある無機物限定――をこの屋敷へと向けて発動させたのだ。
それがどんな結果をもたらすのか予想も出来なかったけれど、しかしパチュリーに不満はなかった。この世界は以前居た場所よりも体の調子が良く、同じように調子が良いのだろうレミリアや小悪魔の姿を眺めているだけも幸せな気分になれたから。
斯くして明くる日。
パチュリーが眠りから覚めた時、彼女の屋敷は紅一色に染まっていた。
4
そして、
「屋敷にメイドを集め出す事になった時、私はこの屋敷をレミィに譲ったの。図書館に籠っている私より、彼女の方が館主に相応しいと思ったから。
その後暫くして美鈴がやって来て、咲夜がやって来た。それからまた暫く経ってから、レミィが霧で幻想郷を覆ったのよ」
そう軽く過去の事を説明すると、三人の娘達はそれぞれ納得したように頷いた。
とはいえ、過去を振り返る事など中々無い私にとって、こうやって昔話をするのは珍しい事だ。それが幻想郷に来る以前の事となると尚更に。
だがしかし、まだ百年程しか生きていないとはいえ様々な事があったものだと強く思う。もしあの時レミィと出逢っていなければ、今も私はあの街か、或いは別の場所で、人間から隠れるように本を読んでいるに違いない。
そういった意味でも、私は幸せだと感じる。ただただ引き籠もっているだけでは得られないものを、沢山得る事が出来たのだから。
……
咲夜が給仕に戻り、それに続くように二人の魔法使いが図書館から消えた後、暗闇から小悪魔が現れた。私と同じように懐かしさを感じているのだろう彼女は、柔らかい微笑みを浮かべ、
「また懐かしい話をしてましたねぇ」
「えぇ。本当に懐かしい話だったわ。……貴女も混ざれば良かったのに」
「いやいや、私は長々と話をするのは不得意ですから。それに、私もパチュリーの話を聞いていたかったですし」
言って、小悪魔が私の隣へと腰掛けた。
思えば、彼女との付き合いが一番長い。まぁ、人生の大半を彼女と共に過ごしてきたのだから、それも当然なのだが。とはいえそこに苦痛は無く、寧ろ居て当然という安心感に似たものがある。もし彼女という存在が消えてしまったら……などという事は考えたくも無かった。
そんな事を思っていると、懐かしそうに小悪魔が呟く。
「今更ですけど、チルノには悪い事しちゃいましたねぇ」
「確かにそうね……」
小悪魔の蹴りはまだしも、言葉を封じるというのはスペルカードの使用を封じるのと同じ事だ。あれが殺し合いではなく勝負だった以上、知らなかったとはいえ、ルール違反をしてしまった。
一年中元気なあの妖精はもう気にしてはいないだろうけれど、忘れても居ないだろう。彼女は馬鹿だが愚者ではない。今更になるが、折を見て無礼を詫びよう。
だが、それとは別にして、私は過去に問い掛け忘れていた質問を小悪魔に投げ掛けた。
「そういえば、どうして貴女がレミィと同じような蹴りを放てたの?」
「あれですか? あれはパチュリーが構ってくれなかった時に、時々レミリアさんから教えて貰ってたんですよ。まぁ、模倣するだけで精一杯でしたけど」
「そういう事だったの。……って、構ってくれなかった、というのはどういう事?」
私の言葉に、小悪魔は背もたれに体重を預けながら、
「そのままの意味ですよ? いつも私の事、こき使ってばっかりだし」
「……そう」
言えばやってくれるから、ついつい雑用を言い付けてしまう事が多いのは確かだった。少しは戒めた方が良いのかもしれない。
そんな風に思い、しかし対する小悪魔は少々慌てながら、
「や、でも、その、別に嫌って訳じゃないですからね? 私は嫌な事を自分から行う程、酔狂じゃないですから」
移り気な子ねぇ、と思いつつも、「ありがとう」と言葉を返す。本当に、感謝しているわ。
そして私は、再び書き掛けの魔道書へと視線を落とし始めた。隣に腰掛ける小悪魔は何処からか一冊の本を取り出し、ページを開いていく。
「「……」」
言葉が消えた図書館は、すぐに静寂に満ちてしまう。それが何十年も昔から変わらない私達の空気だったという事を、今更ながらに実感する。
「……」
……。
……ああ、そうか。そうだったのか。
私は少し勘違いをしていた。今感じているこの幸せは、彼女と共にあるこの日常があってこそのものだったのだ。もしあの時レミィと出逢わずに暮らしていたとしても、これは変わる事が無いに違いない。
なんだ。私はどの道を歩んでも、隣に彼女が居てくれる限り、不幸になる事はないようだ。
そんな事を思っていると、小悪魔が本から顔を上げ、
「ねぇパチュリー」
「何?」
「静寂を共有出来るって、素晴らしい事ですよね」
「ええ、そうね。私もそれを思っていたわ」
静寂に他者の存在が混ざると、どうしてか緊張というスパイスが出来上がる事がある。それは相手と交流が深くても起こりうる事だ。逆にその静寂を苦に思わなければ、その相手と共にいて、心からリラックスする事が出来るという事になる。
この屋敷の住人で、私が苦に感じる相手は居ない。けれど彼女との時間は、それとは別の心地よさすら感じられるのだ。
だから、気付く。
昔も今も、何も変わらない。ただ、過ごして行く場所が変わっただけの事。小悪魔と二人で静かに過ごす時間に、変化は何一つ起こっていなかった。
「……小悪魔。貴女が居てくれて、本当に良かった」
「どういたしまして。私も、パチュリーに召喚されて良かったです。……今更気付きましたけどね」
「私もよ。今になって、漸く気付けた」
言って、共に笑う。
本当に、今更な話。でも私達にとっては、初めての話。
私はペンを置き、小悪魔は本を畳み、そして正面から向かい合う。
告げる言葉は一つ。
視線の先に居る相手へと、少々の気恥ずかしさと共に。
「「これからも、よろしく」」
しかし小悪魔がパチュリー呼び捨ては違和感が
いい話でした。
一つだけ気になったのは、パチュリーの矜持です。レミリアに手も足も出なかった後に理想(希望)と現実のギャップをどう処理したのか──いつか倒してやると誓ったのか、知識は力とは関係ないとか喘息だから等と自らを誤魔化したのか、レミリアへの尊敬に昇華したのか──というところを描写して欲しかったな、と。
最後に…「まるで生活観が」とありますが、これは生活感ではないでしょうか。
他の少し独特な空気もよくて、
また、こんな彼女達の話が読みたいです。
ご指摘、ご感想、有難う御座います。
>理想(希望)と現実のギャップをどう処理したのか――
描写不足でした……。
倒してやろうとは思っていても、吸血鬼の過去を知った事で、次第にその思いは薄れていったのだと思います。
魔女としてのメンツを傷つけられたのは確かだけれど、気丈に振舞う吸血鬼もまた、その気高いプライドを汚されてきていた。その事実は、少なからず魔女の心情を変化させる力があったと思いますので。
読書と執筆に生きる毎日を「幸せな時間」と言えるパチュリーが羨ましく感じたり。
そして「お口にチャック」で笑いました。