「メリー!そっちは終わった?」
「うん、ばっちり…半分残ってる」
「もう、メリーはのんびりなんだから…」
「だって…あんまり夕焼けがきれいだったから…」
「あ、また景色見てるうちに手が止まったわね、もう」
「ごめんなさい」
「まぁいいわ…手伝うからとっとと終わらせちゃおう」
「うん♪」
あれから数日、私たちはだんだんこちらの暮らしにも慣れてきた。
今では、雪かきをすればちゃんと崩さずに雪捨て場まで持っていけるし、雪下ろしをしようとして自分を下ろすこともなくなった。服を燃やさずに火を起こすことだってどうにかできる。
百合さんが、だんだん動けなくなってきたので…というよりも、私たちと羽馬さんが無理矢理休ませているので、その分の仕事は十二分にあった。
それでも百合さんは何かというと働こうとするけど…本当、昔の人はなんでこう働きたがるんだろう。私たちとは大違いだわ。
…自分で言ってむなしくなったけど、それはまぁいい。
「メリー、それじゃあやろっか」
屋根の反対側へと出ると、確かにメリーの担当が半分位残っている。
ちなみに、今やっているのは屋根の雪下ろし…屋根の雪を手分けして下に落としていく。
いつの間にか1m位にまで積もっている雪、雪かきをしていればわかるけど、この雪はとっても重たくて、放っておくと家がつぶれてしまう。しかも、時間が経つと凍り付いて手に負えなくなるので、とっとと片づけなければならないのだ。
「うん、ご協力感謝感謝♪」
陽気に言ったメリーの頬が、夕陽に照らされてほんのりと染まる。
夕陽を反射する雪原は、あちこちできらきらと輝いて、日々重労働を課してくる白い悪魔と同じとは思えなかった。
うん、自分で考えていて少し恥ずかしくなったわ。
「調子いいんだから…全くもう」
照れ隠しに私は渋い顔をして答えを返し、ざくっとばかりに雪下ろしにかかったのだった。
「終わったねぇ~」
メリーが満足そうに言って、うーんと伸びをした。気持ちはわかるけど落ちないでね、引っ張り出すの面倒なんだから…経験上。
さて、二人がかりでの雪下ろしは順調に進み、日が暮れるまでかなりの余裕を残して終えることができた。
目の前には屋根の藁がしっかりと見えている。
「そうね、なかなかいい運動になったわ」
私は両腕を左右に振って疲れをはねとばした。家の中でぬくぬくしているのもいいけど、こうやって身体を動かすのは案外楽しい。まぁこんなのが二三年続けばさすがに嫌になるだろうけど。
一方、メリーは既に嫌になっているらしい。
「そう?私は腰が痛くて…」
「あんた何歳なのよ…」
あいたたとか言いながら腰を押さえるメリーに、私は苦笑して言葉を返す。
確かに雪かきとかすると腰を痛めるけど、それにしたって…メリーったら家に閉じこもってばかりいるからよ。
「あはは、ひどいなぁ蓮子」
「やれやれ」
そう言って屋根に腰を下ろす私も、考えてみると年寄りくさい。秘封倶楽部にも高齢化の波が押し寄せてきたのかしらね?
「んしょ…と」
そんなことを考えていると、やっぱり年寄りじみたかけ声と共にメリーが隣に座った。ちょっとだけ藁が揺れる。
「…本当にきれいね、蓮子」
一瞬の後、メリーが呟くように言った。屋根の上から眺める景色は、確かにとてもきれい。
特に、青空と夜空と…そして夕焼けが混じり合ったような不思議な空が、何とも表現できず美しかった。
「うん…」
私はそう言ってメリーに寄りかかる。いつもより速い鼓動が、コートを伝わってこちらに届いた。
「…この世界になら、しばらくいてもいいね」
「そうね」
メリーが言い、私も同意した。空の色がだんだんと藍色に染まっていく。こんなにきれいな空を、屋根の上から眺められるなんて…
でも、ずっと住むには不便だろう。住めば都というけれど、それにしても私たちは科学に頼りすぎてしまった。
すきま風の吹きこむ家に住んで、ご飯を炊くにも多大な苦労を強いられるこの世界は、私たちには厳しすぎた。
それともう一つ、こちらに来て思ったのは、やっぱりこの世界では秘封倶楽部の好奇心を満たしきれないということだった。
この小さな里が、ここの人にとってはほとんど唯一の世界…仮にある程度里の外に出たとしても、先は見えている。
秘封倶楽部の好奇心は色々な所に向いているし、無論この世界も非常に興味深かった。でも、私たちの持つ能力…様々な…でそれを満たすには、この世界はあまりに小さすぎたのだ。
物理の勉強、宇宙や…別な街へ行くこと、裂け目を探しにあちこちの名所旧跡を巡ること…こちらの世界ではできないことが多すぎた。
とてもきれいで、優しくて、恐ろくて…そして面白い世界。だけど、やはりここは私たちのいるべき所ではなかった。
「冬休みとか…来られればいいのにね」
ふとメリーが呟き、私はすぐに答えた。
「そうねぇ、そんなパック旅行…できないかしら」
本心でそう思う。住むのは大変そうだし、すぐに飽きるかもしれない。だけど、長い休みに遊びに来る先としては、これほど魅力的な場所はなかった。
どんな時でも、いつもと違う世界に行ってみたいという心を人は持っている。私たちの場合、それがちょっと強くて、そして目指す場所がほんの少し特別なだけ。
本当の意味での異世界なんて、そうそう行けるものじゃないし、行きたいという人もそんなに多くはないだろう。
まして、この世界では人間が『無敵』の存在ではないのだから…
「でも、こっちの世界にこれるツアーなんかがあったら、私ならどんなにバイトしたって行ってやるのに」
「そうね」
私の言葉に、すぐにメリーの答えが返ってきた。
優しく美しい異世界四泊五日の旅、筍料理フルコース。今なら秘境を走るローカル線、極寒のおんぼろディーゼルカー乗車体験と、地底湖での湖水浴体験付き、凍死への補償はありませんのでご了承下さい。
「…駄目ね」
自分で考えて失敗だと思った。これじゃあ旅行会社に抗議が殺到するわ。
「ええっ?駄目なの?」
慌てるメリーに、私は答えた。
「うん、やっぱり夏のツアーじゃないとね」
優しく美しい異世界四泊五日の旅、筍料理フルコース。今なら秘境を走るローカル線、窓の開くおんぼろディーゼルカー乗車体験と、涼しい地底湖での湖水浴体験付き。大自然の涼しさをご堪能下さい。
これならいけそうね、筍料理フルコースが余計な気がするけど。
「そうねぇ…夏なら涼しそうね」
メリーが楽しそうに言った。のんびりとしたその目は、遠く夏を見ているみたいだった。
そう、確かに今は寒いけど、夏だったらきっとちょうどいいだろう。それに、この白一色の世界が、夏、どう変わるのかとても気になった。
きっときっと、優しくてわくわくするような色に違いないはずだ。
「自由に…行き来できればいいのにね」
「そうね…本当にそう思うわ」
私の独り言に、メリーの呟きが返ってきた。
羽馬さんと百合さん…せっかく仲良くなれたのだ。元の世界に帰れた後も、せめて手紙のやりとりくらいはしたいのに…
そういえば、洞窟の中で会ったあの子の姿をあれ以来見ていない。さして大きくないこの里なら、一度位会っていそうなものだけど…洞窟にでも住んでるのかしら、まさかね。
ああ、帰る前に一言お別れ位したいのだけど…
メリーも似たようなことを考えているのかしら?だんだんと宵闇に向かう景色を眺めながら、私たちはただぼんやりと屋根に座っていた。
「おーい、晩飯できたぞ、そっちはどうだい?」
「あ、今片づけます~」
どれくらい経ったのだろう、屋根の下から羽馬さんの声がかかった。いけないいけない、すっかり時間が経っちゃったわ。
気がつけばお日様はとっくの昔に山の陰へと身を隠し、お星様は頭の上からきらきら光を降らせてた。
身体もすっかり冷えちゃったみたいね、早く下に降りなきゃ…
「メリー、ほら、行くよ」
私は隣の友人に声をかけたけど、なぜか反応がない。
「ちょっと…ちょっとメリー…ん?」
ゆする私の耳に飛び込んできたのは…
「す~」
幸せそうな寝息…寝てるわね。
「…」
「てい」
「ふゃ…え、わわ…きゃー!?」
ついと押すと、メリーはそのままごろごろと屋根を転がり、落下、そして雪に突き刺さった。まぁ下はやわらかな雪だから心配はないだろう。
「よし、片付け終わりっと…」
私は汗をぬぐう、いい仕事したわねぇ。雪下ろしとメリー下ろしも終わったわ。これで屋根の上に重さはなくなったわね…私は軽いわよ?
「何?何が起きたの…冷たい、あれ?何で私ったら雪から生えてるのかしら?超常現象?」
下を見れば、何が起こったのかわからずに雪から脱出しようともがく友人の姿。この高さから落ちたのだ、雪にはまるとそうそう脱出はできない。私を一人にして眠っちゃった罰よ♪
「あらメリー、寝ぼけて落ちたのね。本当…のんびりなんだから」
私はそしらぬ顔で友人に言う。メリーの方は、何で落ちたのか気付く様子もなく、私に助けを求める。
「そ…そうなの?助けてよー蓮子~」
「はいはい」
じたじたばたばた…声と身体で助けを求めるメリーに、私は返事をしてはしごに手をかける。
「早く~冷たいよ~」
「わかったわかった」
にやにや笑いを浮かべつつ、私ははしごを降りていく。既に空は真っ暗だった。
「お~い、まだかい?今夜は筍ごはんだぞ」
「わっ蓮子、急いで急いで!筍よ!筍ご飯っていってるよ!!早くしないとなくなっちゃうわ!!」
羽馬さんの声が軒下から聞こえてきて、メリーが慌て出す。じたばた暴れる友人を見ながら、私は笑って言った。
「もう、急がなくてもちゃんととっておいてくれるわよ」
「ま…まぁ蓮子じゃないんだからちゃんととっておいてはくれるでしょうけど…」
「助けるのやめようか?」
「ごめん、嘘」
家の中からは、逃げ出してきた筍ごはんの匂いが伝わってくる。一仕事終えたら家の中では美味しいご飯が待っている。幸せねぇ…
「蓮子、蓮子~」
「はいはい」
すぐ目の前で雪に生えているメリーに返事をして、私は友人の手を引いた。
「それでですね、メリーったら私の言うことも聞かないで、毎日筍味のクッキーなんかを食べるもんだからぷくぷく膨らんできて…」
「何よ、そう言う蓮子だって…」
おひつ一杯の筍ご飯、その他海の幸山の幸…私たちの目から見れば贅沢なそれらが、こっちの世界ではむしろ『質素な』献立だった。
昔は…今もだけど…交易は大層儲かったそうだけど、そのからくりが少しわかった気がした。
何はともあれ美味しいご飯に会話は弾む…って言っても、話しているのはもっぱら私たちだけれど。
「ははは、仲がいいな」
羽馬さんはお酒を飲みながら笑っていて…
「そうそう」
百合さんは、そんな羽馬さんにお酒をつぎながら相づちを打っている。
最初は遠慮していたり、私たちについてこられないで笑って誤魔化しているのかなとか思っていたのだけど、どうやらそれで楽しんでいるらしい。
「「仲よくないで…あ」」
あ…のタイミングまで一緒だった私たちに、二人は大爆笑。私たちは照れを隠すように目の前の筍ご飯をかっこんだ。
でも、食べ終わって、おかわりをするタイミングですら、これでもかとばかりに同じだったのは内緒だ。う~ん、一緒にいる内にいつの間にか似てきたのか、はたまた最初から似ていたから友達になれたのか…どちらにしろ嫌ねぇ。
「家が明るくなって嬉しいよ…ずっと寂しかったからなぁ」
「そうそう…」
わいわい騒ぐ私たちを見ながら、羽馬さんが呟くように言う。心なしか、百合さんの相づちにも元気がなかった。
こんなに仲がいい夫婦なのに、なんでそんなに子どもがいないのを寂しがるのかしら?昔は子どもがいないと色々と居づらいと聞いたけど…
一瞬、小さな疑問が浮かんできたけど、それはあっという間に消え去った。
だって、どっちにしたって…
「おなかの子が生まれたら騒がしくなりますよ、きっと」
視線の先には膨らんでいる百合さんのおなか、もうそろそろ生まれてもいい頃なのだ。
「まぁそうだな、はっはっは」
私の言葉に、いつもの調子を取り戻した羽馬さんが笑った。暗い空気は一瞬で吹き飛び、たちまち明るさが室内に戻る。
「そうそう…あ、蹴ったわ」
「え?」
「おっ、本当か?」
その時、百合さんがおなかをおさえて幸せそうに笑った。私と羽馬さんが百合さんに駆け寄る。
お茶碗片手におひつに吸い寄せられていったメリーは無視だ。
「さわってみる?」
「え、いいんですか?」
慌てて問い返す私に、百合さんは笑って頷いた。
「じゃ…じゃあ…」
私はおそるおそる百合さんのおなかへと手を伸ばす。
「あ…動いた?」
手のひらに暖かさが伝わって、それを追って小さな衝撃がやってくる。
「元気なんですね♪」
「そうそう、きっと二人みたいに元気いっぱいに育ってくれるわ」
私の言葉に百合さんも笑って答えてくれた。
「でも蓮子みたいに乱暴者に育っちゃったら大変ですよ?」
「どこから湧いて出たのよあんたは…」
その時、突然横やりを入れてきたメリーに私は言う。筍ご飯はもういいのかと言いかけた私は、大きなおひつの中には、もう米粒一つたりとも残っていないのを見て言うのをやめた。これでメリーの『筍太り』は確定ね。
呆れる私をよそに、メリーは続ける。
「ほらほら、蓮子みたいながさつな女の子にならないように私が優しく撫でてあげるわ」
「…あんた後で覚えてなさいよ?」
「おーい、父の番はまだかい?」
「羽馬君は最後」
「おいおい…」
「あ、動いた動いたっ!」
「元気な子に育ちそうねぇ」
「お~い」
優しそうに微笑む百合さんを中心に、小さな家の屋根の下、私たちは小さな命を愛でていたのだった。
「ごめんください、二人ともいるかな?」
こちらに来てからずいぶんと時間が経ったある日のこと、こんこんととんと扉を叩く音がして、続いて私たちを呼ぶ声がした。
「この声は…慧音さんね」
あれから何度か会う機会があったおかげで、声は覚えていた。
「そうね、何かしら?」
羽馬さんはお留守、百合さんは奥の部屋で休んでいて、居間にいるのは私たちだけだ。とても静かで、のんびりとした空気が漂っている。
ちょうどお茶を飲んでいた私たちは、そろってずずずとお茶を飲み干し、外へと出る。
がらがらごとりと扉を開けて、外の空気に身を縮めると、視線の先には慧音さん。
「いやいや、遅れてすまなかった。担当が『冬眠』していてな、起きるのを待っていたものだから…」
そう言う慧音さんは、苦笑いして頭をかいた。冬眠ねぇ…ホントに冬眠しているわけはないから、やる気がないとかで引きこもってたのかしら?
どこにでものんびり屋はいるものねぇ。
それはそうとして、慧音さんがわざわざ来てくれたということは…
「ああ…それでだ、ずいぶん時間が過ぎてしまったが…うん、無事お前達を元の世界に返せる」
慧音さんがしっかりと言った言葉は、私たちの時間を止めた。
青い空に風が吹き、羽織ったコートがはためいた
細かい雪が舞い散って、空のどこかに旅に出る
明るい言葉が届いたら、困った私は石になる
「…二人ともどうかしたのか?」
どう答えていいのかわからず、固まった私たちを見て、慧音さんは首を傾げる。
「あ…えっと…それはいつですか?」
いつまでも黙ってはいられなかった。私は、絞り出すように問い返す。
「急ですまないんだが…明日なんだ」
「「明日!?」」
あまりに急な展開に、私たちの声が揃った。いくらなんでも準備が間に合わないじゃない…心の…
「あ、いや本当はもうちょっと時間があればよかったんだが…いかんせんあいつは気まぐれでなぁ」
「あ、いえいえ、向こうの世界に返してもらえるだけでも嬉しいので…」
心の内を見られたのか、すまなそうに言う慧音さんに、私は反射的に言い返すけど、声に中身がなかったのは仕方がないと思う。
「ああそうか、そうだよなぁ。うん、外の世界の人間には、ここは色々と不便だろうし…ああ、それで…」
「明日の昼くらいには迎えに来るから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
お話の締めくくり、そう言った慧音さんに、私は頭を下げた。
何を聞いたのかも記憶に留めない内に時間が過ぎて慧音さんは去っていった。だけど、最後、明日には私たちが元の世界に帰れるということはわかった。
「ねぇ蓮子」
しばらくして、隣からメリーの声がした。
「なに?」
「これでこの世界ともお別れかしら…」
「そうね…」
メリーの、嬉しさよりも寂しさが多いような言葉に、私はぼんやりと答えた。
「羽馬さんや百合さんともお別れね…」
「…うん」
ゆっくりとメリーが答えた。
こちらの世界に来てからずいぶんお世話になった二人ともお別れか。
確かにこの世界にずっといるわけにはいかないけれど、でも、明日帰るなんて本当に急だわ。
私はふと空を見上げる。
冬の青空…それは、私たちの世界の空と変わらない色をしていて、向こうの世界と繋がっているみたいに思える…でも、見えない何かによってしっかりと遮断されているのだろう。
この世界とあちらの世界は簡単には行き来できない、たぶんもうここに来ることはない。
そんなことを思うと、私はとても寂しくなった。
夕方、囲炉裏を囲んだ私たちは、羽馬さんと百合さんに事情を説明し、お礼を言った。
「そうか…いや、寂しくなるなぁ」
「ええ、もうちょっと…というわけにはいかないんでしょうね」
寂しそうに言う二人に、私たちも言葉を返す。
「はい、なにやら色々と都合があるみたいで…」
「自由に往復できればいいんですけど…」
「雪下ろしに雪かき、ずいぶん上手くなったのにもったいないぞ、二人とも」
「そうそう、せっかくご飯も焦がさずに炊けるようになったのに」
「いっそうちの子になってしまえよ、なぁ」
「羽馬君」
「あ、ああ…」
本気なような、そして冗談のような羽馬さんの言葉を聞きつつ、私は視線をずらす。
「結局会えなかったね…」
「うん」
視線の先にはもう一人、百合さんのおなかにいる赤ちゃん。あれから毎日おなかを触らせてもらって、色々話しかけたりしてるのに、結局顔を見られなかったなぁ。
ちなみに、メリーは何を思ったか、毎日毎日「筍~筍~」と呼びかけている。どうやら小さい子を筍好きの道へと引きずり込もうとしているらしい。もう…
「そろそろのはずなんだけど…ごめんなさいね」
「あ、いえいえ」
自分のせいのように謝る百合さんに慌てて手をふると、今度は隣からメリーの声がする。
「もう、蓮子が撫でたから遅刻癖がうつっちゃったんじゃないの?赤ん坊に」
「んなわけないでしょ!」
「あーあ、乱暴な子に育っちゃったらどうしよう」
「…メリーみたいに人の話を聞かないのんびり娘が生まれたらどうするのよ」
「のんびりはいいのよ、遅刻は駄目だけど」
「む…」
「まぁまぁ、おせんべでも食べて…ま、二人みたいな素直で元気な子に育ってくれれば私は満足だよ」
「そうそう、素直で元気なのが一番よ」
私たちがにらみ合いを開始すると、慣れた言葉で羽馬さんと百合さんが止めに入った。こんな光景もあとちょっと…か。
暖かな囲炉裏を囲みながら、私たちはおせんべいと会話を楽しむ。本当なら、このおせんべいの作り方も習っていきたかったのだけど…残念ね。
「あ、すいません。ちょっと暗くなる前に行きたいところがあるので」
辛いときは長いけど、楽しいときは一瞬で過ぎ去る。
ちなみに、その間第五十二次おせんべ戦争が勃発し、終結したのだけどどうでもいい。
お話に夢中になって、囲炉裏の炭がなくなりそうになってきた頃、ふとあることを思い出した私は会話を止めた。
「そうかい?うん、では夕飯を作って待っているよ」
「そうそう、腕によりをかけて作ってあげるわ。羽馬君が」
「やれやれ…無理に働かれるよりはいいんだがな」
二人はその理由を聞くまでもなく、了解してくれた。
「はい、すいません…」
「いやいや」
笑って手を振る羽馬さんにぺこりとお辞儀をして、メリーの方へと視線を向ける。
「メリー、里に行こう」
「え…?」
戸惑うメリーに、私は続ける。
「ほら…洞窟のあの子にも一言くらい挨拶しないとね」
「あ~蓮子にしては気が利くじゃない」
「一言余計よ…」
失礼ね、私はいつでも気が利くわ。あんたと違って。
「じゃあ支度してとっとと行ってこよう」
あの子がどこの家にいるのかは知らないけれど、何軒か聞いて回ればすぐにわかるだろう。暗くなる前に家に帰って、またお話して、帰る準備をして…忙しいわ。
「蓮子、こういう雪も面白いねぇ」
楽しそうに雪を踏んで歩くメリーは、道を踊るように歩いている。一歩足を踏み出すと、その度に陽気な音が響いて、メリーは嬉しそうだ。
「メリー、そんなこと言ってないで急ぐわよ」
そんなおとぼけ友人をせかし、私は先を目指す。お日様の姿はすでになく、外はだんだん暗くなってきている。
今日は雪こそ降らなかったのだけど、空気は冷たく寒風が身体に突き刺さる。私に踏まれた雪は、ぱりぱりと乾いた音を立てていた。
「もう…蓮子には自然を楽しむという気持ちはないのかしら?心に余裕がないのねぇ」
「楽しむときには楽しんでるわよ、もう」
のんびりお気楽なメリーを横目に、ついいたため息白い息、目の前に浮かんだそれは、風の中へと散っていく。
「おかしいわねぇ…」
私はため息に続いて声を出した。
「何で誰も知らないのかしら?」
そう、八満の住んでいる家を探して、何軒も訪ねてみたのだけど、どの家でも首をかしげばかりで、住んでいる家どころか、八満の名を知っている家すらない。
偽名でも使ったのかと思って、年格好を説明してみたのだけど、やはり皆首を横に振るばかりだった。
この小さな里で、知らない住人なんていなさそうなんだけど…まして、相手は子ども、よくもわるくも子どもはしっかり里で『見守られている』イメージがあるんだけどなぁ。
「あの洞窟に住んでるとか?」
メリーが真面目な顔をして言ったけど、さすがにそれは考えられない。大体どうやって生活するのよ、ご飯もなにもないじゃない。
「もののけだったのかなぁ」
「う~ん…」
しかし、そんな私も、続くメリーの言葉は否定しきれなかった。里といえる位人家が集まっているのはここくらいって言っていたし…
逆に考えれば『妖家』が集まってる所はあったりするのかしら?興味を惹かれるわ。
「そうね、親切なもののけがいて私たちを助けてくれた…そうなのかもしれないわねぇ」
もののけというものに会ったことはないけど、私たちが十人十色であるのと同じように、もののけにだって色々な考え方をした連中がいるかもしれないのだ。
「もしそうだったら私たち妖怪とお話したことになるのよね、うん、帰ったら自慢できるわ」
「はぁ」
気楽に笑うメリーを見ながらため息一つ、ついたため息の先には、もう数多のお星様が輝いていた。予想外に時間が経っちゃったわね、さすがにもう戻らないと…
「まぁもののけでもなんでもお礼はしたかったんだけど…」
私は呟いた。
若干の未練を残しつつ、私たちは進路を我が家へと向けた。
「我が家…か…」
ふと、私は独語する。
自分の考えが少し不思議だった。そんなに長くいたわけではないけど、たしかにあの家は間違いなく私たちの『我が家』だった。
なんのためらいもなく、あの家を『我が家』と考えた自分の心が、少しだけ誇らしい。
「どうしたの蓮子?」
「あ、うん、ごめん独り言」
「変な蓮子」
そんな私を見て不審に思ったのだろう。メリーが尋ねてきたけど、私は手を振って誤魔化した。
固い雪を踏んで、私たちは家路を急ぐ。
街灯もなく、家から漏れる光も弱々しいこの世界。
だけど、月明かりが雪を照らして、夜なのに不思議な位明るくて、歩くのには十分だ。どこが特別光るわけでもなく、だけどぼんやりと辺りを照らす光は、幻想的でとてもきれいだ。
「…お別れの贈り物かしら?」
「どうしたの蓮子?」
独語した私に、メリーの声が届く。私は慌てて誤魔化した。
「ううん、何でもないわ」
「さっきから蓮子変だよ?」
ますます首を傾げ、言うメリーに、私は答えてやった。
「変なのはお互い様」
「う…否定できないわ」
たじろぐメリーを横に見て、私はどんどん先を行く。近い家から聞いて回ったので、気がついたら里の反対側までやってきてしまったのだ。急がないと…
以前に比べればいくらか慣れたとはいえ、夜の雪道を歩くのはなかなか大変だ。
「あれ?何かしら?」
「誰か来てるみたいね」
夜の雪道氷を踏んで、と、里の中心部を通過した頃、メリーが道の先を指さした。薄闇の中へと伸びた指の先には、闇に浮かんだ小さな灯り。
それはぼんやりゆらゆら揺れながら、こちらに近づいてきていた。
灯りを持った人影は、だんだんと大きくなって、やがて見慣れた人の姿になった。
「あ、あれ…羽馬さん?」
「あ、本当だ」
薄い明かりの中に見えてきたその姿は、見慣れた羽馬さんの姿だった。
「羽馬さん?」
「あ、二人とも無事だったか…よかった…」
私の言葉に、本当にほっとしたような声が聞こえてきた。
あ、あんまり遅かったから心配かけちゃったのかしら?
「あ、ごめんなさい…ずいぶん遅くなっちゃって」
「そうそう、蓮子が遅刻魔だったせいで…」
「メリーが行く先々でお菓子もらってお茶してたからでしょ」
「蓮子だって楽しんでたじゃない」
いつも通りに言い争いを開始する私たちだけど、どうにも羽馬さんの様子がおかしい…
「怪我は…ないよな、生きてるよな」
羽馬さんは、泣いているような、震えているような声で私に言った。
「え、は…はい、大丈夫です」
「うう…蓮子のせいで心に傷が…痛い痛いっ!?」
メリーの頭をぐりぐりする私、でも、いつもならここで止めに入る羽馬さんの声がしない。
「羽馬さん…?」
羽馬さんが黙っているのに気がつき私はぐりぐりを途中で止めた。本当に…心配かけちゃったのかしら?
「あ、ごめんなさい。心配かけちゃったみたいで…」
「いや、いいんだ…無事ならいいんだ。さぁ帰ろう」
言いかけた私に手を振って、羽馬さんは言う。
明るい夜道の真ん中に、そんな羽馬さんの声が広がった。そして、羽馬さんの頬が光ったように見えた。
でも…
「あの…?」
「今夜のご飯は腕によりをかけて作ったんだ、筍づくしだぞ」
問いかけた私の言葉を止めるかのように、羽馬さんはいつも通りの明るい声でそう言った。
「え、本当ですか!?蓮子蓮子!早く帰ろうよっ!!」
「ちょ…あんたは復活早いわね」
「はっはっは、急がなくても筍はなくならないよ。なんてったって一番食べるのが二人ともここにいるじゃないか」
はしゃぐメリーに呆れる私、そして茶化す羽馬さん。たちまち空気は元通りだ。
「?」
色々明るい空気の中で、私たちは家路を急ぐ。これが最後の帰り道…そう思うと、やっぱりちょっと切ないわね。
「三人とも遅いわ、ほら…ごはんが冷めてしまうじゃない」
「「「ごめんなさい」」」
帰ってくると、待っていたのは玄関先に座ってこちらを睨む百合さんだった。
最大権力者の恐ろしさを知っている私たちは、素直に頭を下げて謝る。
「うん、よろしい…それじゃあ折角のごはんが冷めない内に頂きましょうか」
「筍っ!」
「あ、メリー!まず手を洗いなさいっ!!」
百合さんのお許しを得て、早速とばかりに駆け出すメリー。ほんと、仕方ないわねぇ。
「ほにょにゃけにょこほひひい」
「メリー、言いたいことがあるならちゃんと食べてから言いなさい」
この筍美味しいとでも言っているのか、幸せそうにこちらを向いたメリーに、私は言った。
「ほうはぁい」
「はぁ」
「のどに詰まらせないでね、ゆっくり噛んで食べるのよ」
「ふぁいふぁい」
「はぁ」
メリーは、そう言うなりもごもごと口に料理を詰め込んでいく。ほんと、これでいい年した女の子なのかしら?
「そうそう、急がなくてもまだまだたくさんあるんだから」
「はっはっは、いや、食欲があるのはいいことだよ。元気な証拠だ」
一方、羽馬さんと百合さんはそんなメリーを見て嬉しそうだ。あんだけ素直においしいおいしいと言ってもらえると、それは確かに嬉しいだろう。
私も、こちらにきて料理のお手伝いをしてみてわかったけど、苦労してつくったご飯に「おいしい」と言ってもらえる事はとても嬉しい。自分のしたことで喜んでもらえるっていうのはやっぱりいいわねぇ。
いつもは自分で作って、そして自分で食べていたから、こんな思いをしたことはなかったわ。
ちなみに、晩ご飯は、ごはんに汁物、おかずの一品一品に至るまで、全部が全部筍づくしだった。本当に筍料理のフルコースになってるわね…少しやりすぎな感もないではないけど、最後の晩だもの、これでいいかもしれない。
幸せいっぱいな表情で頬を膨らませるメリーを、私たちは笑って眺めていた。
そう、これが私たちみんなで食べる最後の晩ご飯。
明日の夜には、私たちは元の世界に帰って、そして、食べ慣れた合成食品を食べているだろう。
そう思うと少し寂しくなるのだけど、だけど、だからこそ今日は明るく食べたい。筍に魅入られたメリーはどうかわからないけど、羽馬さんと百合さんも同じ気持ちなんだろう。
泣くのはお別れの時だけで十分。悲しい時間と楽しい時間、それは間違いなく後者のが長い方がいいに決まっている。
「む…むぎゅ…」
その時、隣から変な声…見れば、メリーが顔を真っ赤にしてじたばたしていた。…慌てて詰め込んだせいで、のどに詰まらせたのね。だから言ったのに!
「あーもうっ!かっ込むから!!」
筍ご飯を口に詰め込んで、リスみたいになったメリーの背を叩く。本当にもう…世話がやけるんだから。
「けほっ…うう、ありがとう蓮子、危うく筍と刺し違えるところだったわ」
すんでの所で三途の川渡河作戦に失敗したメリーが、むせながら言った。
「筍と同じなんて…ずいぶんと安い命ね」
私は、そんなメリーへと皮肉の視線を向ける。
刺し違えるにしてももう少しまともなものを選んでもらいたいわ。いくらなんでも、墓碑銘に『筍と勇敢に戦い、そして刺し違えた我が友人、ここに苔むす屍となり眠る』なんて書くことになったら、恥ずかしくてお墓参りにも行けないじゃない。
「ひどいなぁ…筍はそんなに安くないわ」
「そうきたか…」
しかし、皮肉る私の言葉に対し、メリーの方は予想外の答えで応じてきた。あんたの命は筍より安くていいの?さすがは『天然者』ね。
「まだまだあるからな」
「そうそう、どんどん食べてね」
さて、そんな私たちを見て笑う二人は、次から次へとお皿を出してくる。お皿お皿に盛りつけられる筍料理…
「わ、凄い!」
「筍づくしですね…」
たちまち周囲は筍で埋め尽くされる、今夜あたり夢でうなされそうで怖いわね…竹林ならぬ筍林で迷う夢とか。
メリーは大喜びだけど、私の方はさすがに食傷気味。だけど、そんな私の心を見透かしたかのように百合さんから声がかかった。
「食べ飽きたら他のもあるから遠慮なくね」
「はて?私はこれしか作って…」
「保存食がいくらかあるわ。羽馬君は知らないけど」
「おいおい…」
この家の本当の主が誰かよくわかるような発言が聞こえてきて、羽馬さんが情けない顔をする。
羽馬さんを手玉にとる百合さん、余裕の笑みが大人の女性らしかった。いつかはああなりたいものね。
「蓮子~このお酒なかなかいけるわよ」
山のような料理も、そのほとんどが消滅し、場の空気がのんびりし始めた頃、メリーの方からなにやらお酒の匂いがしてきた。
「ちょっメリーいつの間に!?」
どこから見つけてきたのか、とっくり片手におちょこへとお酒を注ぐメリーは、既に顔が赤い。
「おおっ、わかってるじゃないか。今年のはできがよくてな、はっはっは」
おしてそれを見てはしゃぐ羽馬さん。こっちはもう真っ赤だ、ほんとにもう…
「羽馬君もほどほどにね」
「わかったわかった、はっはっは」
半分呆れた百合さんに答えつつ、羽馬さんはメリーとお酒を飲み交わす。
「それでですね、蓮子ったらいっつも…」
「はっはっは、実に愉快だ、愉快痛快はっはっは」
「遅刻ばっかりしてくるものだからもう…」
「全くもって面白い、はっはっは」
あれからしばらくして、メリーと羽馬さんはすっかり腕を組んで意気投合している。ちなみに、話は全くといっていいほどかみあっていない…正真正銘の酔っぱらいね。
「ごめんなさい、メリーったらすぐに酔っぱらって」
すでに会話になっていない会話をしているメリーを見て、私は百合さんに頭を下げる。
「こちらこそごめんなさい、羽馬君もそうなのよ」
呆れたような表情で百合さんも答えてくれた。たぶん、私の今の表情も、百合さんから見たらこんな感じなんだろう。
「じゃあお互い様ですね」
「そうそう、お互い様」
私たちはお互いの相方を横目に見つつ笑い合う。
「どう?私たちも」
その時、百合さんが一本のとっくりを頭上にかかげた。
「はい、いただきます」
一体どこに隠していたのか…やはり百合さんに畏れを抱きつつ、私は喜んでその申し出を受け入れた。
ちろちろと燃える囲炉裏端で開かれる二つの酒宴、片方がどんちゃんどんちゃん騒ぐのを見ながら、私たちはそれを肴にちびちびと飲む。
「本当、楽しそうですねぇ」
二人を見て言った私に、百合さんが相づちを打つ。
「そうそう、いつまで経っても子どもなんだから…」
そう言う百合さんの声はとても優しくて、何でこの二人が仲良くやっているのかの理由がよくわかる気がした。
「もう本当の親子みたいですね、まぁメリーは人とうちとけるのが早いんですけど…羽馬さんも」
羽馬さんがなにやら民謡を歌い出した頃、私は言った。
立ってなにやら歌っている羽馬さんと、それを見てはしゃぐメリーは、とても仲のよい父娘みたいだった。
そんな私に、百合さんは囲炉裏に炭を入れながら…ゆっくり呟く。
「羽馬君はね…いつか自分の子どもとお酒を飲むのが夢だって言っていたわ」
「あら、それじゃあもうすぐ…でもないけど叶うんじゃないですか?初めての子ども…おおはしゃぎする羽馬さんの姿が目に見える気がします」
私は微笑みながら答え、百合さんのおなかを見た。
視線の先…百合さんの膨らんだおなかからは、たぶんまもなく新しい命が生まれるだろう。そうすれば、きっと羽馬さんの夢は叶うはずだ。
「そうね…」
「どうかしたんですか?」
しかし、百合さんの表情はさえない、酔っちゃったのかしら…と、私は笑顔のまま尋ねた。
だけど、そんな私を見て、百合さんは少し悲しそうにこう言った。
「あのね…」
そこで一旦言葉が途切れて、そして炭が小さな音を立てる。
「私たちは、一回子どもを亡くしてるのよ」
「え…」
一瞬、メリー達の騒ぎ声が聞こえなくなって、うるさいはずの空間がとても静かに思えた。
たぶん、それは百合さんの言葉が『大きすぎた』から。他の何の音も耳に入らなくなったのだろう。
呆然とする私に、百合さんは続ける。
「私たちが結婚してすぐ生まれた子がいたの、元気な男の子。それはもう羽馬君は可愛がって可愛がって…毎日毎日つきっきりだったわ、私が妬ける位にね」
少し茶化したように言う百合さん、嫉妬する百合さんなんて想像できないけど…
「だけどね、その子は元気すぎたの…元気すぎて、羽馬君と一緒に里の外へ遊びにいってばっかりで…ある日帰らなかった」
もうメリー達の姿は目に映らなかった。小さく燃える火と、それに照らされた百合さんの顔だけが、私の視界に入っていた。
「その日はたまたま羽馬君が一緒にいなかったのよ、羽馬君は何度も悔やんでいたわ。私が一緒にいれば…って」
最初の、無理して明るくしていたような声はとっくになくなって、百合さんの素直な
声が私の心へとしみてくる。
ああ…だから今日羽馬さんはあんなに心配して、わざわざ追いかけてきてくれたのね…色々な疑問が少しづつ解けていく…
「羽馬君の名前の由来はね『破魔矢』からきているの、魔を破る…その名の通り、羽馬君は一度も妖怪に襲われたりはしなかった。里でも運のいい男として有名だったの、だけど…」
百合さんの頬に、何かが光った。
「だけど…いえ、だから妖怪に対して不用心だったのかもしれない、妖怪への対処法も、ちゃんと教えられなかった…」
一度出た涙は、容易には止まらない。百合さんの目からは、とめどなく涙がこぼれる。
「そして、羽馬君は…そして私は夢を亡くしたの」
囲炉裏の火はだんだんと小さくなって、だけど、私は炭を入れることはできなかった。
「あれからとても寂しくて…羽馬君は一日中あの子を探して山を歩き回ったわ。周囲に危ないと止められても、あの人は諦めきれなかった…亡骸が見つからなかったからなおさら…」
そんな私を見て、少しだけ笑顔をみせてくれた百合さんは、囲炉裏に炭を入れて再び口を開く。
「破魔…たしかにあの人は運がよかった。そんなことをしておきながら、一度も妖怪に遭わなかったのだから…普通の人なら、たぶん今頃妖怪のおなかの中にいるわ」
囲炉裏の火が少しだけ強くなり、再び百合さんの頬を照らした。
「でも結局駄目だった。あの子が着ていた服の切れ端が…どす黒く汚れて木に引っかかっていたのを見つけただけ」
そこでおちょこのお酒をくいっと飲んで、百合さんは上を見上げた。暖かな滴が、ぽとりぽとりと床に落ちていった。
「私は…そんな羽馬君をぼんやり眺めて、毎日を送るだけだった。毎日毎日…」
長い長い一瞬の間をおいて、百合さんは視線を元に戻して再び続ける。
「だけどね、ある日そのままじゃいけない、これじゃあ私たちもあの子も幸せになれない…そう思って、私たちは必死に明るくなろうと努力したの。変な言い方だけど、明るくなるように必死だった…明るくなるように頑張っていれば、いずれ自然に明るくなれるはずだから…そう信じて」
そう言う百合さんの表情は、悲しそうで、切なそうで、だけど力強かった。
「それで、また子どもを授かって…もう一度頑張ろうって二人で決めて…そんな時に来たのがあなた達だったのよ」
そこで、ようやく百合さんの表情が元に戻った。
「驚いたわ、突然夜に外の世界の人をしばらくいさせて欲しい…なんて言われたんだもの。慌てて支度をして…どんな人が来るかと思っていたら、明るい女の子が二人、家の前で大騒ぎしていたんだから」
「あう…」
いたずらげな、だけど優しい笑顔を見せてくれた百合さんに、私はようやく言葉を返せた。いや、言葉にはなっていなかったんだけど…う~ん、思い出すと恥ずかしいなぁ。
「あのね、あの晩あなた達を泊めたのはあの子の部屋だったの。どうしてもあそこだけは手をつけられなくて…ずっと昔のままだったあの子の部屋…」
「え…?」
再び言葉にならない言葉を返す私。まさか…そんな部屋を片づけさせちゃっただなんて…
「ごめ…」
「感謝しているわ」
だけど、言おうとした私の言葉は、予想外の百合さんの一言で封じられる。
「あの部屋は、どうしても振り切れなかった悲しさの象徴、だけど、あなたたちがあの部屋に入ってくれたおかげでそれも振り切れた。これで、あの子も私たちも未来に向かって進めるわ…そして、おなかの中の子も」
おなかをさすり、そう言う百合さんの表情には、もう悲しさの影はない。
「本当にありがとう。あなたたちと過ごした時間は、将来、こんな幸せを得ることができる…そんな未来からの約束、そう思ったわ」
まっすぐ私を見る百合さんの表情…それは、とても優しくてとても力強くて…そしてとてもとても希望に満ちていた。
「あ…あの…私は…」
長い長い話を聞き終えて、そして、私はどう答えればいいのかわからず、ただただ無意味な言葉を繰り返す。
「あ…」
その時、私は百合さんに抱かれ、黙り込んだ。二つの鼓動が、ゆっくりと伝わってくる。
「あのね、どうして私がこんな事を話したのかわかるかしら?」
耳元に…百合さんの声が聞こえてきた。
「え…いえ」
わからない、さっぱりわからない…ううん、あんまり驚くようなお話を聞いたせいで、頭が働かなくなっているみたい。
「あのね…」
百合さんはささやくように続ける。
「あなたがあの子に似ているから…優しくて、元気で…そして好奇心旺盛な子だからよ」
百合さんの表情は見えない、だけど…
「この世界では、さして多くはないにしろ妖怪に人が食べられた…そういう事件が起こるの。外の世界のことは知らないわ、それに、あなた達の持っている好奇心は大切だと思ってる。だけど、それにばかり気をとられて、そして危険に目を向けないようなことだけはして欲しくないの…あなたが死んでしまったら、悲しんでしまう人がいるのだから」
真剣に私たちのことを心配してくれているということだけはわかった。私はこくりと頷く。
のどかで、みんなが優しく幸せに過ごしている世界…そんな風に思っていたのは、少しだけ間違っていたのかもしれない。私たちの世界と同じように…いえ、むしろそれ以上に辛いことや危険なことがあるのだろう。
私は、最初こちらに来たときに異世界パックツアーと思っていたけど、まさにその通りだった。この世界の表面だけ、それだけを見て楽しんでいたのかもしれない。
私たちが未知のものに対する興味…好奇心を失うことは決してない、だって、そうしたら私たちが私たちでなくなってしまうのだから…
だけど、これからはもっと自分の身を大切にしよう、自分だけの為じゃなくて、自分の事を大切に思ってくれている人のためにも…
私が考えていることがわかったのだろう。
「ありがとう、向こうに行っても元気で、幸せにね…」
百合さんはそう言って私の頭を撫で、そして続けた。
「あの子の…八満の分まで」
「もう、メリーまだぁ?」
翌朝、青空の下、私は壁にもたれかかって友人の名を呼んだ。ここ数日、晴れの日が続いている…もう春が近いのかもしれない。
肌に感じる風はほんの少しだけやわらかく、空気の匂いも、どこか今までと違う気がした。
「あ、待って待って…うう、頭が痛いわ」
私の声に返事が届き、続いて扉から見慣れた顔がひょっこり出てくる。
「もう…昨日あれだけ飲むからよ」
頭を押さえ、へろへろと出てきた友人に、私はあきれ顔。本当にもう…昨日どれだけ飲んだのかしら?
「うう~飲み過ぎた」
「もう、飲み過ぎよ、羽馬君」
そして、続いて出てきた羽馬さんの方もやっぱりへろへろだ。あ~あ、百合さんにもたれかかっちゃってもう…
「大丈夫か?」
こちらの様子を見る慧音さんも、心配しつつも呆れているみたい。
「…もう、お別れはしたのか?」
慧音さんは続ける。
「はい」
「ふぁい」
私は答え、メリーも続く。
「…じゃあ、行こうか」
慧音さんの言葉に、私はこくりとうなずき、そして二人の方を振り返った。
「おおい、私もついて…うぷ」
「もう、羽馬君は無理よ。慧音さんがついてらっしゃるんだから大丈夫、諦めなさい」
「だけどなぁ…」
「諦めなさい」
「はい…」
どうにかついてこようとした羽馬さんは、百合さんにあっけなく従わされてこちらを向いた。
「二人とも、達者でな…いつかまた縁があったら…うぷ…うん、また会おう」
口元を押さえながら、羽馬さんが言った。ううん、感動のシーンにはほど遠いわね。
そんな羽馬さんをじとっと見た百合さんは、こちらを向き直ってこう言った。
「もう、羽馬君のせいで台無しになってしまったわ…二人とも、こんな男にひっかからないように気をつけるのよ…元気でね」
「百合!?」
どうしてこうもまた感動のシーンがコメディーになってしまうのか、口元を押さえながらこちらを見る羽馬さんと、すっかり呆れている百合さんに、来たときよりも暖かな風が吹き付けた。
「…ありがとうございました。どうか元気な子を生んで…そして幸せになって下さい」
でも、私には二人の気持ちがよくわかっている。だから、そう言ってしっかり頭を下げた。
「う…あう、ありがとうございました。筍…美味しかったです」
そして、メリーもお礼とともに頭を下げる。一言余計な気はしないでもないけど…あと、口押さえながら言ったら雰囲気ぶちこわしじゃない!
しかもそんな状態なのにお土産の袋持ってるし…中身は間違いなく筍の保存食ね。
「では、まだ話し足りないことはあると思うが…行こうか」
私が頭を上げた時、慧音さんが優しく言った。
…お別れだ。
「はい…」
私はその時、百合さんの目を見た。
何も言っていない…だけど、たくさんあった言いたいことは、全部伝わったと思う。そして、百合さんが言いたいことも…
「あっ!?蓮子ずるい~目と目で会話できてるなんて…うぷ」
「お~い、私は…うぷ?」
「「うるさい」」
私と百合さんの声が揃った。完全な連携口撃に、二人は黙り込む。
百合さんの視線が、さっきと同じ言葉を伝えてきた…お互い苦労しますね…って。
「二人とも…いや、メリー、大丈夫か?」
ふらふらゆらゆら…ぱっと見にも大丈夫じゃなさそうなメリーを振り返り、慧音さんが言った。
「う~あんまり大丈夫じゃな…うぷ…」
そう言って、メリーは雪からぴょこりと顔を出している石に座り込む。
「もう…まぁ着いたんだからいいけどね、あんたはしばらく休んでいなさい」
あきれ顔で私が言った時、慧音さんが尋ねた。
「ここで…いいのか?」
「はい、一時間…じゃなかった、半刻ほど時間をもらえますか?」
「ああ、大丈夫だ」
慧音さんのしっかりとした答えが返ってきて、私は準備を始めた。
さて、私たちは今目的地…博麗神社というらしい…ではなく、一番最初に来た、あの洞窟の前にいる。
本当に出発する時間よりもずいぶん早めに、私たちは家を出ていた。おかげで、慧音さんをずいぶん急がせてしまったのだけど、どうしてもしたいことがあったのだ。
いきなり百合さんとの約束を破るようで気が引けるけど、でも、どうしてもやらなければならない…大切なこと。
「じゃあちょっと行ってきます」
「…気をつけてな」
二本の縄と、そして麻袋を担ぎ、そして灯りを持った私に、慧音さんが言う。
なんでこんなことをするのか理由を聞かないのは不思議だった。まるで全部わかっているような…ま、そんなわけないか。
「蓮子~忘れ物?うぷ…」
そして、何もわかっていなさそうな声もまた、こちらに届く、メリーだ。
私は笑顔でこう言った。
「ええ、とても大切な忘れ者がいるから、とってくるわ」
「うっ…相変わらず狭いわ」
来るときにメリーが塞いだ小さな穴…そこに身を押し込んで、私は先へと進む。来るときよりも何かきついような気がするのは気のせいと信じたいわね。
「さて…と」
私は灯りをかかげて周囲を見た。暗いくらい『道』が、光の届かないはるか向こうまで続いていた。迷い込んだら出られない、そんなイメージ…
だけど、幸いにして目的の場所までは一本道だ。迷うことはないだろう。
「…行こう」
私はそう言って一歩足を踏み出した。
さほど時間を経ず、私は目的地へとついた。
目の前には、深くて暗い大きな穴。迂回路…と言っていただけに、私たちが見た側とは反対の方へ出るにはそんなに距離はなかったみたいだ。
「今迎えに行くからね」
真っ暗な闇の中へと、私はそう呟いて、近くの岩へと縄をしっかりくくりつけ、別な岩にもまた、同じようにくくりつける。万が一ということもあるわけだから…
「う~まだかしら…」
私は呟く。声が反響して戻ってきた。
縦穴は想像以上に深くて、なかなか足がつかない。縄は相当長いから、足りないということはないだろうけど、登るのは苦労しそうね。
硬い岩の感触を感じながら、私はするすると降りていく…と…
「あ…」
足が、やわらかな泥の感触を伝えてきて、私はゆっくりと着地した。すぐに、腰に結びつけていた灯りを持って、周囲を照らす。
「…凄い」
一瞬、私は息をのんだ。
目に映ったのは、大きな大きな地底湖…地下に、こんな大きな空洞があるなんて…あちこちから、おかしな形をした鍾乳石がぶらさがっていて、とても不思議な空間だ。
「おっと…」
思わず一歩進んだ私は、冷たい水を感じて、思わず足を上げた。
澄んだ水が足元まできていて、そこに足を踏み入れたみたいだ…
そして…
「…八満」
私は呟いた。
視線の先、岸からさして遠くない場所に、小さな骨が沈んでいる。あれが…
「姉ちゃん…」
その時、隣から声が聞こえる…聞き覚えのある男の子の声…私はそちらを見て、言った。
「そうよ、お姉ちゃんだから敬いなさい」
振り向いた先には、私たちを助け出してくれた男の子…八満の姿があった。
「危ないから来るなって言ったのに…」
「危ないとは聞いたけど来るなとは聞いてないわ」
「ちぇっ」
出っ張った石に、私たちは仲良く腰掛けて話す。八満が蹴った小石が、ぽっちゃんぼちゃちゃんと音を立て、水底へと沈んでいった。
「…なぁ、父ちゃんと母ちゃん…元気だった?」
小石が見えなくなって、音の反響もやんだ時、八満はゆっくりと私に聞く。
「ええ…元気すぎて、羽馬さんは二日酔いで百合さんに怒られてたわ」
「はははっ父ちゃんらしいや…よかった、落ち込んでたり…してなかったんだ」
とても嬉しそうで…そして少し寂しそうに言った八満の身体を、私は抱きしめた。
百合さんがそうしてくれたように…あのときのぬくもりを、冷え切った八満に伝えるように…
「ええ…とても落ち込んで…でも二人はそれを乗り越えたの。自分と、赤ちゃんと…そしてあなたのためにもね」
「そっか…よかった…って、え!?赤ちゃん!?」
八満の声が洞窟内に反射する。赤ちゃん赤ちゃんと洞窟が連呼して、私は笑顔でそれに続く。
「ええ、赤ちゃん…まだ生まれてはいないんだけどね」
「そっか…赤ちゃんか…弟かな、妹かな」
八満は、そう言ってまた小石を蹴った。
小石は、何度か水面を跳ねて、そしてまた沈んでいく。
「…ん?あれ?どうして姉ちゃんは俺の父ちゃんと母ちゃんの名前知ってるんだ?」
その時、八満が不思議そうに尋ねた。気づくの遅いわよ。
「反応鈍いわね」
「うっさいやい」
頬を膨らませて言った八満…子どもねぇ。
「それはあんたが羽馬さんとそっくりだからよ、明るくて、お調子者で、優しくて…ほんとそっくり」
「あ…そっか…うん、だって俺は父ちゃんの子だからな」
私の言葉に、嬉しそうに言う八満。羽馬さんが聞いたら喜ぶだろうなぁ…百合さんは苦笑いしそうだけど。
だけど、そんな八満に私は続ける。
「というのは嘘で、実は百合さんから聞いたのよ。八満っていう子がいたってね」
「げ…ちっくしょーっだましたな!」
いたずら笑顔の私に、八満は頬を膨らませる。
「あんただって、私たちのこと一回騙したでしょう?失敗したけど…でもお互い様よ」
「ちぇっ…まぁいっか、お互い様だしな」
「ええ、お互い様」
私はそう言って八満を見た。
本当に似てる、羽馬さんと…そして百合さんに…
再び沈黙がこの場所を包んで、時が過ぎる。
「あんた…どうしてこんなところにいたの?」
「ん…」
私の言葉に、八満は少し黙り込んで、ぺろりと舌を出す。
「いや…黒猫がさ、なんか妖怪に追われてたんだよ、川べりに追いつめられて…で、あんなもん俺が一発だぜって突っ込んでったら、逆に一発でやられちまってさ、どんぶらこっこと川下り…気がついたらそこで沈んでたんだ」
なんか自分が死んだっていうのに、八満は異様な位明るい。死なれた人間より死んだ人間の方が明るいっていうのはどうかと思う。
なんか真面目に相手する気なくなってくるわね…ま、人間だって十人いれば十人の性格があるんだから、幽霊だって人(?)それぞれでもおかしくはないか。
「なんか呆れればいいんだか誉めればいいんだか、叱ればいいんだかわかんないわね。仕方ないから全部言っておくわ。バカ、よくやった、なにやってんのよ」
「…同情はないのかよ?」
「ないわよ、自業自得じゃない。しかも羽馬さんと百合さんにあんだけ心配かけて…」
「ん…」
私の言葉に、八満は黙って頭をかく。少し…言い過ぎたかな?私は少しだけ言葉を和らげる。
「まぁあんたらしいわね、猫を助けてなんて…それなら墓碑銘に書いてもちゃんとお墓参りができるわ。自ら犠牲となって猫を助け、自らは水漬く屍となった勇士、ここに眠る…ってね」
筍と相討ちじゃあ情けないけど、これならあんまり情けなくない…と思う。
「あ、だろだろ、なんかかっこいいな俺」
私の言葉に、八満は胸を張る。本当…見知らぬ子どもの幽霊とじゃなくて、なんか出来の悪い弟と話しているような気がしてきたわ。
それにしても、皮肉も混じってたんだけどね…本人が満足ならそれでいっか。
「じゃ、行こっか」
あれから二三、お話をすると、私はそう言って立ち上がった。いつまでもいるわけにはいかなかった…
しかし、隣を見ると八満の姿はそこにはもうない。
「あれ?」
少し視線をずらすと…いた。八満は、自分の骸の上…水面に浮いていた。小さな光に照らされて、ぼんやり浮かぶ八満は、悔しいくらいきれいだった。
「…俺、こんなにみんなに迷惑かけて、きっと地獄行きだろうなぁ」
ぼんやり明るい水面の上、八満はそう言って上を見る。とても真面目で、寂しそうな表情、だけど…
「そうね、迷惑かけてばっかり…だけど、あんたはきっと天国に行けるわ。私が保証する」
私は力強く言う。
そう、猫を助けて、それで私たちまで助けてくれて…これでこの子が地獄に送られるんだったら、私は閻魔様の罷免を訴えるわ。弾劾裁判よ、署名でもなんでも集めてやるんだから…
「姉ちゃんに保証されてもなぁ」
「うるさい」
「ちぇっ」
再び明るくなった八満を見た後、私は、前へと歩き出した。
今度は、私があなたを助けてあげるわ、八満。
「慧音さん、メリー、遅くなってごめんなさい」
こちらにいる間に少し鍛えられたのか、私は思ったよりも早く穴から抜け出て、そして洞窟の外へと出た。
そこには、待ちくたびれた様子のメリーと、なんら変わらずこちらを見る慧音さんの姿。
「いやいや、大丈夫、まだ時間はある」
「むー蓮子遅いわ、おかげで二日酔いがさめてしまったじゃない」
「ならいいでしょうが…」
笑って言った慧音さんには私も笑顔を返し、メリーには冷たい視線を送っておいた。
「よくないわよ、二日酔いっていうのもお酒の…」
「大切な話があるんです」
でも、そこからいつも通りになりそうになった空気を私は無理矢理引き締めた。私の真剣な表情を見て、慧音さんもメリーも、真面目な顔でこちらを見た。
「…慧音さん、この子を羽馬さんの所へ送ってあげてくれませんか」
一瞬の間をおいて、私は麻袋を雪の上に置いた。中で骨がぶつかって、小さな苦情が聞こえた気がした。
「八満君の?」
「え…!?なんでメリー知って…」
だけど、その時メリーのいつも通りな声が聞こえて、私は慌てて問い返す。だってあのときメリーは酔っぱらって…
だけど、混乱状態にある私へと、メリーは追い打ちをかける。
「蓮子気がついてなかったの?私てっきり気づいてたとばかり思って…」
「は…はぁ?」
そう言って首を傾げるメリーへ、思わず間抜けな声で問い返してしまった。じゃああんたは相手が幽霊と知ってて普通に話していたわけ?
「もう、蓮子ったら鈍いんだから…」
メリーは言うけど、あれで気づく方が変だと思う。大体、なんであんたは基本的に鈍いのに、変なところで『だけ』鋭いのよ?
「…でもいいの?」
「へ?」
その時、メリーの声がすこし真面目なものになって、私は戸惑う。
「その子を羽馬さんの所に送っちゃって…」
「あ…」
私は、メリーの言葉に固まる。羽馬さん達は、せっかく未来へと進んでいる、だけど、そんな時に八満の骸が戻ってきたら…
「ね」
メリーの顔に、私は悩む。でも、それじゃあ八満があんまり可哀想で…
「その子洞窟が好きでそこにいるんでしょ、洞窟をこよなく愛してそこを死に場所に決めた洞窟霊なんでしょ?そこから無理矢理引き離して、縁も縁もない羽馬さんの家に送っちゃってもお互い困るわ。そうでしょう?」
「…」
「ね、だから…」
「でいっ!!」
「きゃっ!?」
悲鳴と共に雪上を吹き飛ばされていったメリーへ、私は叫んだ。
「こんのおとぼけ娘っ!」
「そうだそうだ!誰が洞窟霊だよ!好きであんなとこにいたんじゃないやい!」
そして、もう一つの声も私に続く。この声は…
「うう…ひどいわ。あ、八満君?」
「あ、本当…」
「あ、本当…ってなぁ…」
隣を見れば、いつの間にやら姿を現した八満が、呆れ顔でこちらを見ていた。
「大体そっちの天然姉ちゃんだって酷いけど、こっちの暴力姉ちゃんなんて人の骨でぶん殴るなよ、何本か折れちゃったじゃないか」
「あ…つい手頃だったから…」
八満の苦情に、私は慌てて弁解した。
そう、メリーを吹き飛ばした『兵器』は八満…の骨、なんかあの骨を入れた袋、重さといい手応えといい使いやすかったのよね。そういえば命中の瞬間音がしたわ…ボキとかパキとかいう…
「手頃だからって武器に使うなよ…」
「いいじゃん、他に使い道ないんだし」
「だから使うなっ!」
「むー私無視されてる…天然という言葉について削除と謝罪を要求する~」
「や、天然じゃん」
「うん天然」
「む、私について偏見と誤解が持たれているようね、正確なメリー知識をつけてもらわないと…」
「体重は…」
「わーわー!!」
「あ、そういえば私についての暴力女という発言について…」
「削除も謝罪もしない、だって合ってるし」
「うん、まったくもってその通りだね」
「む、私について正確な…」
「胸囲は…」
「待てぃ!」
「そもそも俺に対する洞窟霊っていうのは…」
「洞窟霊じゃない」
「洞窟霊ね」
「ひでぇ、これだよ」
「だから私は天然じゃ…」
会話は進まず、ただ回っているのみ。
しかし、永遠に続くかと思われた、幽霊一人、人間二人の口げんかは、やがておずおずと加わってきた声によって停止せしめられた。
「あーいいかな」
「「「あ…」」」
遠慮がちな言葉に、会話は止まって私たちは声の主へと振り向く。
その視線の先には、頭をかかえた慧音さんの姿…うん、若いのに白髪が多い理由がよくわかった気がしたわ。
「…いやいや、まるで姉弟みたいだな。と、それはいいとして…私は彼らの所へは骸を運んでやることはできない」
優しいけど、厳然とした声で慧音さんは言う。
「たぶん…わかっていると思うが、死者を悼むのは大切だ。だが、いつまでもそれを続けていては、死者も生者も未来を見られなくなってしまう。だから…」
「ああ、俺もそう思う」
慧音さんがそこまで言ったとき、八満が話を切った。慧音さんは、嬉しそうというよりも悲しそうに声を止めた。
「ありがとう。俺、もう行くよ…骨はそっちの姉ちゃんの言うとおり、もう使わないからさ…適当に捨てちゃっていいぜ」
八満の声に、私たちは黙り込む。林の木々が揺れて、何か優しい風がやってきた。
「…帰ると、離れられなくなりそうだからさ。俺…このまま逝くよ」
八満の身体が、少しづつ空に滲んでいく。
「…ごめんな、わざわざ持ってきてもらったのに」
そんなこと…ないのに…私は泣きそうになったから、だから笑ってこう言った。
「ううん、いいよ。お互い様」
そんな答えに、八満の顔が少し笑った。屈託のない笑顔。
「そっか、お互い様だな…」
八満の姿は、だんだん消えていく。
「待って!これおにぎり…長旅になりそうだから持っていって」
「え…」
その時、メリーが八満にまるいまるいおにぎりを押しつけた。戸惑ったような八満は、だけどおにぎりを頬張った。
「うまいや、母ちゃんのだ…」
「八満…」
その声に、景色が滲んで、八満の姿が滲んで…そして…消えた。
「…行こうか」
一瞬の…だけどとても長い時間を経て、慧音さんが言った。もう視界には何もなく、白い世界が広がるだけ。
ほんの少しだけ時間をおいて、私たちはしっかりと答えた。
「「はい」」
空は少しだけ曇ってきて、別れを惜しむかのように小雪を降らせる。
古く、固くなった雪は、だんだんと新雪に覆われていく。そして、もうすぐそれすらもなくなって、春がくるのだ。
季節は巡る、そして、命も巡る。もし、次に来ることがあったなら、その時は、きっとまた八満に会えるに違いない。名前が変わっていても、姿が変わっていても…きっと会えるに違いない。
「蓮子蓮子!駅!!駅が見えるわ!!」
広がる視界の真ん中を、メリーじゃ指さしはしゃぎ叫ぶ。うきうきした空気が、境内を包んでいた。
石段の上、神社の境内からは、いつか見た小さな駅が見える。石段を下りればすぐそこだ。
そして、駅の周囲には小さいながらも近代的な街並みが広がっている。間違いない、私たちは元の世界に帰ってきたのだ。
「…そうね、私にも見えるわ」
はしゃぐメリーに答え、そして私は続ける。
「さぁ…帰りましょう」
「ええ」
ゆっくりゆっくり私たちは石段を下っていく、雪が積もっていて、とても歩きにくいけど『あちら』で過ごした経験は無駄ではない。
一段一段、雪の階段を踏みしめて、ゆっくり、だけど確実に降りていく。
「…あ、幼稚園かしら?」
その時、メリーが呟いた。
ふと耳を澄ませば、明るい子ども達の声が聞こえる。どたどたばたばた騒ぐ音…これは、どこの世界でも変わらないわね。
「…蓮子が珍しく優しい顔してる」
その時、酷く失礼な一言が聞こえた。私はいつも優しいわよ、メリー以外には。
「うるさい」
「む、私には優しくない」
「当たり前」
「む~」
睨むメリーをあっさり無視して、私は最後の石段から地に降りた。もう目の前はあの駅だった。
ふと見れば、向こうから小さな灯りがやってくる。
「あ…列車来たよ」
「一日三本なのに…運がいいわねぇ。今何時?」
だけど、そんな私にメリーは首を振る。
「わかんない、時計…あげてきちゃったから。私が一番大切にしているものだから、形見にして下さいって」
「…ま、いっか」
形見という単語に少しひっかかったけど、まぁよしとしよう。時計も、メリーの元にいるよりは安心かもしれない。
「行こうメリー、これに乗り遅れたら下手したら野宿よ」
「うーん、それは避けたいわねぇ…氷漬けはごめんだわ」
私たちは駅へと歩き出す。向こうからは、薄く積もった雪をはね除け、列車がこちらへと進んできていた。
~?~
突風が一気に駆け抜ける。
吹雪が周囲を駆け抜ける。
紫の桜吹雪が駆け抜ける。
暗く明るく、狭く広い広場の中央。そこに、小柄な女性と、小さな少年が立っていた。
「あなたは、一番大きな罪を知っていますか?」
女性が尋ねる。
「人を殺したり、傷つけたりすることかな?」
少年が答え、しかし女性は黙って首を振る。
「人を騙したり、お金を盗んだりすること?」
言い直した少年に、女性は少し悩んで、答える。
「確かに、それらはどれもがとても重い罪ではあります。ですが、最も重い罪というわけではありません」
「う~ん…」
黙り込んだ少年に、ゆっくりと、しかし確実に女性は言った。
「最も重い罪…それは、他人を悲しませること。天寿を全うすれば、残された者は悲しみつつも、それを受け入れてくれるでしょう。でも、あなたはそうではない…」
少年は、何も言わない。言えなかった…
「あなたは、無茶な行動をして、死に…そして多くの人を悲しませた」
女性はそう言いきった。
「それに比べれば、あなたの行った善行はなきに等しい。あなたは、極楽に行くことはできません」
「…うん、わかってるよ」
ひときわ大きく桜が吹いて、少年は女性を真っ直ぐに見つめる。
「地獄行きだろ、覚悟…してるよ」
しかし、女性は首を振った。
「いいえ、あなたには地獄すら生ぬるい。自分を生んでくれた親を悲しませ、その大切な時間を無為に過ごさせた罪はあまりに重すぎる」
彼女は、少し憐れむような、しかし妥協を許さない声で少年に言葉を送る。
「じゃ…じゃあ俺はどうすれば…」
戸惑ったような少年の視線と、女性の視線がぶつかった。
「あなたにできることは一つしかない」
「…」
少年の瞳が、女性を見つめる。
「あなたは、一生をかけて親に償わなければならない。幸せに暮らし、子どもを生んで、親を看取り、そして天寿を全うすること。それがあなたにできるたった一つの善行です」
刹那、一面の桜吹雪が二人を包み込んで、そして、吹雪がやんだ時、少年の姿もまた消えていた。
「…これでまた始末書が増えましたね。私も小町に負けず劣らずの問題児なのかもしれません」
自嘲するような、しかし満足げな声が聞こえ、女性の姿もそこから消え去った。
「美味しいわねぇ」
「うん、同感」
流れゆく景色を見ながら、私たちはおにぎりをぱくつく。一口食べるごとに、おいしさと優しい気持ちが、口の中へと広がってきた。
百合さんお手製の山菜おにぎり…いつ赤ちゃんが生まれるかわからないようなときなのに、早起きして作ってくれたんだと思うとますます美味しい。
車内はとても暖かく、そして静かだ。
列車は、雪の重みなど存在しないかのように疾走する。明るい車内には何人かのお客さんがいる…皆顔なじみなのか、わいわいがやがやと会話に余念がない。
…内容はさっぱりわからないけど。
「来るときの列車もよかったんだけど…新型も来てたのね」
メリーが言った。
「そうね、明るいのはいいけど、前の方が『旅』っていう気がしてたわ」
私は答える。
ディーゼルの唸りなど聞こえない。かすかな振動だけで、この列車は山間を駆け抜けていた。
外と車内は完全に遮断されて、寒さなど全く感じなかった。暖かい空気、しかしぬくもりはどこにもない。
「…本当に元の世界に戻ってきたのね」
「そうね」
短い会話を終えて、長いもの思いにふける。
列車は、次々とトンネルを抜け、進んでいた。坂に入っても、全く速度は落ちない。音がないのと相まって、まるで走るというよりは滑っているような印象さえ受ける。
「蓮子」
その時、メリーの声が聞こえ、私は視線を向けた。
「次はいつ行く?」
時刻表を持つメリーの視線は、すでに次の休みへと飛んでいる。
「…夏、あの神社で『裂け目』を探すわよ」
私は答えた。一瞬、百合さんのため息が聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだろう…ごめんなさい。
「…そうね、帰ったらバイトしないとね」
メリーも応じる。大丈夫、月に行くよりは現実的だ。月より異世界の方が近いのだ。
「うん、私もバイト探し…」
「おぎゃあ」
「「え?」」
その時、私とメリーの声がそろった。
二人揃って車内を見回したのだけど、おしゃべりしている人たちはお年寄りばかりで、赤ん坊などどこにもいない。
「メリー、今…」
「うん…」
私たちは顔を見合わせ、そして、神社の方へと笑顔を向けた。
「「おめでとうございます。どうかお幸せに」」
どこからか、ありがとう…という、聞き覚えのある三つの声が聞こえた気がした。
列車は進む、音もなく
列車は進む、雪の中
列車は進む、未来へ向けて
山は険しく雪深く、それでもずんずん先に行く
どんなに先が苦しくて、どんなに先が険しくて、例えうんうん唸っても、それでもずんずん先へ行く
山があるならトンネル掘って、谷があるなら橋を架け、そしてずんずん先へ行く
止まっていても仕方がない、止まっているなら発車しよう
幸せ未来を夢に見て、汽笛一声発車しよう
列車はずんずん先へ行く
「ん?…ああ、この記事も古くなったな」
列車が去るのを見送った駅員は、そう独語し、目にとまった一枚の新聞記事を掲示板から剥がした。
数年前の日付のそれは、大きく変色し、もはや新聞としての役目を果たしてはいない。
『旧型ディーゼルカーが幼稚園へ』
3月18日、廃車となったディーゼルカーが、△駅近くにある幼稚園へ寄贈された。
この同車は、新型車両の投入により引退したもので、駅近くの△幼稚園(園児10名)から譲渡の要望を受け、同園への無償譲渡が決まった。
同園の石見園長は、長年子ども達の足として活躍してきたディーゼルカーをスクラップにするのは惜しく、保存を受け入れたと語っている。
尚、同車は、今後園児達の遊び場として『発車』する予定である。
「さて…と、帰るか」
駅員は伸びをして、手を伸ばす。
彼が駅の電気を消すと、一瞬だけ生きていた駅舎は、再び眠りにつく。
ふわふわと降る雪の中、小さな駅はのんびりのんびり次の列車を待っていた。
『おしまい』
「うん、ばっちり…半分残ってる」
「もう、メリーはのんびりなんだから…」
「だって…あんまり夕焼けがきれいだったから…」
「あ、また景色見てるうちに手が止まったわね、もう」
「ごめんなさい」
「まぁいいわ…手伝うからとっとと終わらせちゃおう」
「うん♪」
あれから数日、私たちはだんだんこちらの暮らしにも慣れてきた。
今では、雪かきをすればちゃんと崩さずに雪捨て場まで持っていけるし、雪下ろしをしようとして自分を下ろすこともなくなった。服を燃やさずに火を起こすことだってどうにかできる。
百合さんが、だんだん動けなくなってきたので…というよりも、私たちと羽馬さんが無理矢理休ませているので、その分の仕事は十二分にあった。
それでも百合さんは何かというと働こうとするけど…本当、昔の人はなんでこう働きたがるんだろう。私たちとは大違いだわ。
…自分で言ってむなしくなったけど、それはまぁいい。
「メリー、それじゃあやろっか」
屋根の反対側へと出ると、確かにメリーの担当が半分位残っている。
ちなみに、今やっているのは屋根の雪下ろし…屋根の雪を手分けして下に落としていく。
いつの間にか1m位にまで積もっている雪、雪かきをしていればわかるけど、この雪はとっても重たくて、放っておくと家がつぶれてしまう。しかも、時間が経つと凍り付いて手に負えなくなるので、とっとと片づけなければならないのだ。
「うん、ご協力感謝感謝♪」
陽気に言ったメリーの頬が、夕陽に照らされてほんのりと染まる。
夕陽を反射する雪原は、あちこちできらきらと輝いて、日々重労働を課してくる白い悪魔と同じとは思えなかった。
うん、自分で考えていて少し恥ずかしくなったわ。
「調子いいんだから…全くもう」
照れ隠しに私は渋い顔をして答えを返し、ざくっとばかりに雪下ろしにかかったのだった。
「終わったねぇ~」
メリーが満足そうに言って、うーんと伸びをした。気持ちはわかるけど落ちないでね、引っ張り出すの面倒なんだから…経験上。
さて、二人がかりでの雪下ろしは順調に進み、日が暮れるまでかなりの余裕を残して終えることができた。
目の前には屋根の藁がしっかりと見えている。
「そうね、なかなかいい運動になったわ」
私は両腕を左右に振って疲れをはねとばした。家の中でぬくぬくしているのもいいけど、こうやって身体を動かすのは案外楽しい。まぁこんなのが二三年続けばさすがに嫌になるだろうけど。
一方、メリーは既に嫌になっているらしい。
「そう?私は腰が痛くて…」
「あんた何歳なのよ…」
あいたたとか言いながら腰を押さえるメリーに、私は苦笑して言葉を返す。
確かに雪かきとかすると腰を痛めるけど、それにしたって…メリーったら家に閉じこもってばかりいるからよ。
「あはは、ひどいなぁ蓮子」
「やれやれ」
そう言って屋根に腰を下ろす私も、考えてみると年寄りくさい。秘封倶楽部にも高齢化の波が押し寄せてきたのかしらね?
「んしょ…と」
そんなことを考えていると、やっぱり年寄りじみたかけ声と共にメリーが隣に座った。ちょっとだけ藁が揺れる。
「…本当にきれいね、蓮子」
一瞬の後、メリーが呟くように言った。屋根の上から眺める景色は、確かにとてもきれい。
特に、青空と夜空と…そして夕焼けが混じり合ったような不思議な空が、何とも表現できず美しかった。
「うん…」
私はそう言ってメリーに寄りかかる。いつもより速い鼓動が、コートを伝わってこちらに届いた。
「…この世界になら、しばらくいてもいいね」
「そうね」
メリーが言い、私も同意した。空の色がだんだんと藍色に染まっていく。こんなにきれいな空を、屋根の上から眺められるなんて…
でも、ずっと住むには不便だろう。住めば都というけれど、それにしても私たちは科学に頼りすぎてしまった。
すきま風の吹きこむ家に住んで、ご飯を炊くにも多大な苦労を強いられるこの世界は、私たちには厳しすぎた。
それともう一つ、こちらに来て思ったのは、やっぱりこの世界では秘封倶楽部の好奇心を満たしきれないということだった。
この小さな里が、ここの人にとってはほとんど唯一の世界…仮にある程度里の外に出たとしても、先は見えている。
秘封倶楽部の好奇心は色々な所に向いているし、無論この世界も非常に興味深かった。でも、私たちの持つ能力…様々な…でそれを満たすには、この世界はあまりに小さすぎたのだ。
物理の勉強、宇宙や…別な街へ行くこと、裂け目を探しにあちこちの名所旧跡を巡ること…こちらの世界ではできないことが多すぎた。
とてもきれいで、優しくて、恐ろくて…そして面白い世界。だけど、やはりここは私たちのいるべき所ではなかった。
「冬休みとか…来られればいいのにね」
ふとメリーが呟き、私はすぐに答えた。
「そうねぇ、そんなパック旅行…できないかしら」
本心でそう思う。住むのは大変そうだし、すぐに飽きるかもしれない。だけど、長い休みに遊びに来る先としては、これほど魅力的な場所はなかった。
どんな時でも、いつもと違う世界に行ってみたいという心を人は持っている。私たちの場合、それがちょっと強くて、そして目指す場所がほんの少し特別なだけ。
本当の意味での異世界なんて、そうそう行けるものじゃないし、行きたいという人もそんなに多くはないだろう。
まして、この世界では人間が『無敵』の存在ではないのだから…
「でも、こっちの世界にこれるツアーなんかがあったら、私ならどんなにバイトしたって行ってやるのに」
「そうね」
私の言葉に、すぐにメリーの答えが返ってきた。
優しく美しい異世界四泊五日の旅、筍料理フルコース。今なら秘境を走るローカル線、極寒のおんぼろディーゼルカー乗車体験と、地底湖での湖水浴体験付き、凍死への補償はありませんのでご了承下さい。
「…駄目ね」
自分で考えて失敗だと思った。これじゃあ旅行会社に抗議が殺到するわ。
「ええっ?駄目なの?」
慌てるメリーに、私は答えた。
「うん、やっぱり夏のツアーじゃないとね」
優しく美しい異世界四泊五日の旅、筍料理フルコース。今なら秘境を走るローカル線、窓の開くおんぼろディーゼルカー乗車体験と、涼しい地底湖での湖水浴体験付き。大自然の涼しさをご堪能下さい。
これならいけそうね、筍料理フルコースが余計な気がするけど。
「そうねぇ…夏なら涼しそうね」
メリーが楽しそうに言った。のんびりとしたその目は、遠く夏を見ているみたいだった。
そう、確かに今は寒いけど、夏だったらきっとちょうどいいだろう。それに、この白一色の世界が、夏、どう変わるのかとても気になった。
きっときっと、優しくてわくわくするような色に違いないはずだ。
「自由に…行き来できればいいのにね」
「そうね…本当にそう思うわ」
私の独り言に、メリーの呟きが返ってきた。
羽馬さんと百合さん…せっかく仲良くなれたのだ。元の世界に帰れた後も、せめて手紙のやりとりくらいはしたいのに…
そういえば、洞窟の中で会ったあの子の姿をあれ以来見ていない。さして大きくないこの里なら、一度位会っていそうなものだけど…洞窟にでも住んでるのかしら、まさかね。
ああ、帰る前に一言お別れ位したいのだけど…
メリーも似たようなことを考えているのかしら?だんだんと宵闇に向かう景色を眺めながら、私たちはただぼんやりと屋根に座っていた。
「おーい、晩飯できたぞ、そっちはどうだい?」
「あ、今片づけます~」
どれくらい経ったのだろう、屋根の下から羽馬さんの声がかかった。いけないいけない、すっかり時間が経っちゃったわ。
気がつけばお日様はとっくの昔に山の陰へと身を隠し、お星様は頭の上からきらきら光を降らせてた。
身体もすっかり冷えちゃったみたいね、早く下に降りなきゃ…
「メリー、ほら、行くよ」
私は隣の友人に声をかけたけど、なぜか反応がない。
「ちょっと…ちょっとメリー…ん?」
ゆする私の耳に飛び込んできたのは…
「す~」
幸せそうな寝息…寝てるわね。
「…」
「てい」
「ふゃ…え、わわ…きゃー!?」
ついと押すと、メリーはそのままごろごろと屋根を転がり、落下、そして雪に突き刺さった。まぁ下はやわらかな雪だから心配はないだろう。
「よし、片付け終わりっと…」
私は汗をぬぐう、いい仕事したわねぇ。雪下ろしとメリー下ろしも終わったわ。これで屋根の上に重さはなくなったわね…私は軽いわよ?
「何?何が起きたの…冷たい、あれ?何で私ったら雪から生えてるのかしら?超常現象?」
下を見れば、何が起こったのかわからずに雪から脱出しようともがく友人の姿。この高さから落ちたのだ、雪にはまるとそうそう脱出はできない。私を一人にして眠っちゃった罰よ♪
「あらメリー、寝ぼけて落ちたのね。本当…のんびりなんだから」
私はそしらぬ顔で友人に言う。メリーの方は、何で落ちたのか気付く様子もなく、私に助けを求める。
「そ…そうなの?助けてよー蓮子~」
「はいはい」
じたじたばたばた…声と身体で助けを求めるメリーに、私は返事をしてはしごに手をかける。
「早く~冷たいよ~」
「わかったわかった」
にやにや笑いを浮かべつつ、私ははしごを降りていく。既に空は真っ暗だった。
「お~い、まだかい?今夜は筍ごはんだぞ」
「わっ蓮子、急いで急いで!筍よ!筍ご飯っていってるよ!!早くしないとなくなっちゃうわ!!」
羽馬さんの声が軒下から聞こえてきて、メリーが慌て出す。じたばた暴れる友人を見ながら、私は笑って言った。
「もう、急がなくてもちゃんととっておいてくれるわよ」
「ま…まぁ蓮子じゃないんだからちゃんととっておいてはくれるでしょうけど…」
「助けるのやめようか?」
「ごめん、嘘」
家の中からは、逃げ出してきた筍ごはんの匂いが伝わってくる。一仕事終えたら家の中では美味しいご飯が待っている。幸せねぇ…
「蓮子、蓮子~」
「はいはい」
すぐ目の前で雪に生えているメリーに返事をして、私は友人の手を引いた。
「それでですね、メリーったら私の言うことも聞かないで、毎日筍味のクッキーなんかを食べるもんだからぷくぷく膨らんできて…」
「何よ、そう言う蓮子だって…」
おひつ一杯の筍ご飯、その他海の幸山の幸…私たちの目から見れば贅沢なそれらが、こっちの世界ではむしろ『質素な』献立だった。
昔は…今もだけど…交易は大層儲かったそうだけど、そのからくりが少しわかった気がした。
何はともあれ美味しいご飯に会話は弾む…って言っても、話しているのはもっぱら私たちだけれど。
「ははは、仲がいいな」
羽馬さんはお酒を飲みながら笑っていて…
「そうそう」
百合さんは、そんな羽馬さんにお酒をつぎながら相づちを打っている。
最初は遠慮していたり、私たちについてこられないで笑って誤魔化しているのかなとか思っていたのだけど、どうやらそれで楽しんでいるらしい。
「「仲よくないで…あ」」
あ…のタイミングまで一緒だった私たちに、二人は大爆笑。私たちは照れを隠すように目の前の筍ご飯をかっこんだ。
でも、食べ終わって、おかわりをするタイミングですら、これでもかとばかりに同じだったのは内緒だ。う~ん、一緒にいる内にいつの間にか似てきたのか、はたまた最初から似ていたから友達になれたのか…どちらにしろ嫌ねぇ。
「家が明るくなって嬉しいよ…ずっと寂しかったからなぁ」
「そうそう…」
わいわい騒ぐ私たちを見ながら、羽馬さんが呟くように言う。心なしか、百合さんの相づちにも元気がなかった。
こんなに仲がいい夫婦なのに、なんでそんなに子どもがいないのを寂しがるのかしら?昔は子どもがいないと色々と居づらいと聞いたけど…
一瞬、小さな疑問が浮かんできたけど、それはあっという間に消え去った。
だって、どっちにしたって…
「おなかの子が生まれたら騒がしくなりますよ、きっと」
視線の先には膨らんでいる百合さんのおなか、もうそろそろ生まれてもいい頃なのだ。
「まぁそうだな、はっはっは」
私の言葉に、いつもの調子を取り戻した羽馬さんが笑った。暗い空気は一瞬で吹き飛び、たちまち明るさが室内に戻る。
「そうそう…あ、蹴ったわ」
「え?」
「おっ、本当か?」
その時、百合さんがおなかをおさえて幸せそうに笑った。私と羽馬さんが百合さんに駆け寄る。
お茶碗片手におひつに吸い寄せられていったメリーは無視だ。
「さわってみる?」
「え、いいんですか?」
慌てて問い返す私に、百合さんは笑って頷いた。
「じゃ…じゃあ…」
私はおそるおそる百合さんのおなかへと手を伸ばす。
「あ…動いた?」
手のひらに暖かさが伝わって、それを追って小さな衝撃がやってくる。
「元気なんですね♪」
「そうそう、きっと二人みたいに元気いっぱいに育ってくれるわ」
私の言葉に百合さんも笑って答えてくれた。
「でも蓮子みたいに乱暴者に育っちゃったら大変ですよ?」
「どこから湧いて出たのよあんたは…」
その時、突然横やりを入れてきたメリーに私は言う。筍ご飯はもういいのかと言いかけた私は、大きなおひつの中には、もう米粒一つたりとも残っていないのを見て言うのをやめた。これでメリーの『筍太り』は確定ね。
呆れる私をよそに、メリーは続ける。
「ほらほら、蓮子みたいながさつな女の子にならないように私が優しく撫でてあげるわ」
「…あんた後で覚えてなさいよ?」
「おーい、父の番はまだかい?」
「羽馬君は最後」
「おいおい…」
「あ、動いた動いたっ!」
「元気な子に育ちそうねぇ」
「お~い」
優しそうに微笑む百合さんを中心に、小さな家の屋根の下、私たちは小さな命を愛でていたのだった。
「ごめんください、二人ともいるかな?」
こちらに来てからずいぶんと時間が経ったある日のこと、こんこんととんと扉を叩く音がして、続いて私たちを呼ぶ声がした。
「この声は…慧音さんね」
あれから何度か会う機会があったおかげで、声は覚えていた。
「そうね、何かしら?」
羽馬さんはお留守、百合さんは奥の部屋で休んでいて、居間にいるのは私たちだけだ。とても静かで、のんびりとした空気が漂っている。
ちょうどお茶を飲んでいた私たちは、そろってずずずとお茶を飲み干し、外へと出る。
がらがらごとりと扉を開けて、外の空気に身を縮めると、視線の先には慧音さん。
「いやいや、遅れてすまなかった。担当が『冬眠』していてな、起きるのを待っていたものだから…」
そう言う慧音さんは、苦笑いして頭をかいた。冬眠ねぇ…ホントに冬眠しているわけはないから、やる気がないとかで引きこもってたのかしら?
どこにでものんびり屋はいるものねぇ。
それはそうとして、慧音さんがわざわざ来てくれたということは…
「ああ…それでだ、ずいぶん時間が過ぎてしまったが…うん、無事お前達を元の世界に返せる」
慧音さんがしっかりと言った言葉は、私たちの時間を止めた。
青い空に風が吹き、羽織ったコートがはためいた
細かい雪が舞い散って、空のどこかに旅に出る
明るい言葉が届いたら、困った私は石になる
「…二人ともどうかしたのか?」
どう答えていいのかわからず、固まった私たちを見て、慧音さんは首を傾げる。
「あ…えっと…それはいつですか?」
いつまでも黙ってはいられなかった。私は、絞り出すように問い返す。
「急ですまないんだが…明日なんだ」
「「明日!?」」
あまりに急な展開に、私たちの声が揃った。いくらなんでも準備が間に合わないじゃない…心の…
「あ、いや本当はもうちょっと時間があればよかったんだが…いかんせんあいつは気まぐれでなぁ」
「あ、いえいえ、向こうの世界に返してもらえるだけでも嬉しいので…」
心の内を見られたのか、すまなそうに言う慧音さんに、私は反射的に言い返すけど、声に中身がなかったのは仕方がないと思う。
「ああそうか、そうだよなぁ。うん、外の世界の人間には、ここは色々と不便だろうし…ああ、それで…」
「明日の昼くらいには迎えに来るから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
お話の締めくくり、そう言った慧音さんに、私は頭を下げた。
何を聞いたのかも記憶に留めない内に時間が過ぎて慧音さんは去っていった。だけど、最後、明日には私たちが元の世界に帰れるということはわかった。
「ねぇ蓮子」
しばらくして、隣からメリーの声がした。
「なに?」
「これでこの世界ともお別れかしら…」
「そうね…」
メリーの、嬉しさよりも寂しさが多いような言葉に、私はぼんやりと答えた。
「羽馬さんや百合さんともお別れね…」
「…うん」
ゆっくりとメリーが答えた。
こちらの世界に来てからずいぶんお世話になった二人ともお別れか。
確かにこの世界にずっといるわけにはいかないけれど、でも、明日帰るなんて本当に急だわ。
私はふと空を見上げる。
冬の青空…それは、私たちの世界の空と変わらない色をしていて、向こうの世界と繋がっているみたいに思える…でも、見えない何かによってしっかりと遮断されているのだろう。
この世界とあちらの世界は簡単には行き来できない、たぶんもうここに来ることはない。
そんなことを思うと、私はとても寂しくなった。
夕方、囲炉裏を囲んだ私たちは、羽馬さんと百合さんに事情を説明し、お礼を言った。
「そうか…いや、寂しくなるなぁ」
「ええ、もうちょっと…というわけにはいかないんでしょうね」
寂しそうに言う二人に、私たちも言葉を返す。
「はい、なにやら色々と都合があるみたいで…」
「自由に往復できればいいんですけど…」
「雪下ろしに雪かき、ずいぶん上手くなったのにもったいないぞ、二人とも」
「そうそう、せっかくご飯も焦がさずに炊けるようになったのに」
「いっそうちの子になってしまえよ、なぁ」
「羽馬君」
「あ、ああ…」
本気なような、そして冗談のような羽馬さんの言葉を聞きつつ、私は視線をずらす。
「結局会えなかったね…」
「うん」
視線の先にはもう一人、百合さんのおなかにいる赤ちゃん。あれから毎日おなかを触らせてもらって、色々話しかけたりしてるのに、結局顔を見られなかったなぁ。
ちなみに、メリーは何を思ったか、毎日毎日「筍~筍~」と呼びかけている。どうやら小さい子を筍好きの道へと引きずり込もうとしているらしい。もう…
「そろそろのはずなんだけど…ごめんなさいね」
「あ、いえいえ」
自分のせいのように謝る百合さんに慌てて手をふると、今度は隣からメリーの声がする。
「もう、蓮子が撫でたから遅刻癖がうつっちゃったんじゃないの?赤ん坊に」
「んなわけないでしょ!」
「あーあ、乱暴な子に育っちゃったらどうしよう」
「…メリーみたいに人の話を聞かないのんびり娘が生まれたらどうするのよ」
「のんびりはいいのよ、遅刻は駄目だけど」
「む…」
「まぁまぁ、おせんべでも食べて…ま、二人みたいな素直で元気な子に育ってくれれば私は満足だよ」
「そうそう、素直で元気なのが一番よ」
私たちがにらみ合いを開始すると、慣れた言葉で羽馬さんと百合さんが止めに入った。こんな光景もあとちょっと…か。
暖かな囲炉裏を囲みながら、私たちはおせんべいと会話を楽しむ。本当なら、このおせんべいの作り方も習っていきたかったのだけど…残念ね。
「あ、すいません。ちょっと暗くなる前に行きたいところがあるので」
辛いときは長いけど、楽しいときは一瞬で過ぎ去る。
ちなみに、その間第五十二次おせんべ戦争が勃発し、終結したのだけどどうでもいい。
お話に夢中になって、囲炉裏の炭がなくなりそうになってきた頃、ふとあることを思い出した私は会話を止めた。
「そうかい?うん、では夕飯を作って待っているよ」
「そうそう、腕によりをかけて作ってあげるわ。羽馬君が」
「やれやれ…無理に働かれるよりはいいんだがな」
二人はその理由を聞くまでもなく、了解してくれた。
「はい、すいません…」
「いやいや」
笑って手を振る羽馬さんにぺこりとお辞儀をして、メリーの方へと視線を向ける。
「メリー、里に行こう」
「え…?」
戸惑うメリーに、私は続ける。
「ほら…洞窟のあの子にも一言くらい挨拶しないとね」
「あ~蓮子にしては気が利くじゃない」
「一言余計よ…」
失礼ね、私はいつでも気が利くわ。あんたと違って。
「じゃあ支度してとっとと行ってこよう」
あの子がどこの家にいるのかは知らないけれど、何軒か聞いて回ればすぐにわかるだろう。暗くなる前に家に帰って、またお話して、帰る準備をして…忙しいわ。
「蓮子、こういう雪も面白いねぇ」
楽しそうに雪を踏んで歩くメリーは、道を踊るように歩いている。一歩足を踏み出すと、その度に陽気な音が響いて、メリーは嬉しそうだ。
「メリー、そんなこと言ってないで急ぐわよ」
そんなおとぼけ友人をせかし、私は先を目指す。お日様の姿はすでになく、外はだんだん暗くなってきている。
今日は雪こそ降らなかったのだけど、空気は冷たく寒風が身体に突き刺さる。私に踏まれた雪は、ぱりぱりと乾いた音を立てていた。
「もう…蓮子には自然を楽しむという気持ちはないのかしら?心に余裕がないのねぇ」
「楽しむときには楽しんでるわよ、もう」
のんびりお気楽なメリーを横目に、ついいたため息白い息、目の前に浮かんだそれは、風の中へと散っていく。
「おかしいわねぇ…」
私はため息に続いて声を出した。
「何で誰も知らないのかしら?」
そう、八満の住んでいる家を探して、何軒も訪ねてみたのだけど、どの家でも首をかしげばかりで、住んでいる家どころか、八満の名を知っている家すらない。
偽名でも使ったのかと思って、年格好を説明してみたのだけど、やはり皆首を横に振るばかりだった。
この小さな里で、知らない住人なんていなさそうなんだけど…まして、相手は子ども、よくもわるくも子どもはしっかり里で『見守られている』イメージがあるんだけどなぁ。
「あの洞窟に住んでるとか?」
メリーが真面目な顔をして言ったけど、さすがにそれは考えられない。大体どうやって生活するのよ、ご飯もなにもないじゃない。
「もののけだったのかなぁ」
「う~ん…」
しかし、そんな私も、続くメリーの言葉は否定しきれなかった。里といえる位人家が集まっているのはここくらいって言っていたし…
逆に考えれば『妖家』が集まってる所はあったりするのかしら?興味を惹かれるわ。
「そうね、親切なもののけがいて私たちを助けてくれた…そうなのかもしれないわねぇ」
もののけというものに会ったことはないけど、私たちが十人十色であるのと同じように、もののけにだって色々な考え方をした連中がいるかもしれないのだ。
「もしそうだったら私たち妖怪とお話したことになるのよね、うん、帰ったら自慢できるわ」
「はぁ」
気楽に笑うメリーを見ながらため息一つ、ついたため息の先には、もう数多のお星様が輝いていた。予想外に時間が経っちゃったわね、さすがにもう戻らないと…
「まぁもののけでもなんでもお礼はしたかったんだけど…」
私は呟いた。
若干の未練を残しつつ、私たちは進路を我が家へと向けた。
「我が家…か…」
ふと、私は独語する。
自分の考えが少し不思議だった。そんなに長くいたわけではないけど、たしかにあの家は間違いなく私たちの『我が家』だった。
なんのためらいもなく、あの家を『我が家』と考えた自分の心が、少しだけ誇らしい。
「どうしたの蓮子?」
「あ、うん、ごめん独り言」
「変な蓮子」
そんな私を見て不審に思ったのだろう。メリーが尋ねてきたけど、私は手を振って誤魔化した。
固い雪を踏んで、私たちは家路を急ぐ。
街灯もなく、家から漏れる光も弱々しいこの世界。
だけど、月明かりが雪を照らして、夜なのに不思議な位明るくて、歩くのには十分だ。どこが特別光るわけでもなく、だけどぼんやりと辺りを照らす光は、幻想的でとてもきれいだ。
「…お別れの贈り物かしら?」
「どうしたの蓮子?」
独語した私に、メリーの声が届く。私は慌てて誤魔化した。
「ううん、何でもないわ」
「さっきから蓮子変だよ?」
ますます首を傾げ、言うメリーに、私は答えてやった。
「変なのはお互い様」
「う…否定できないわ」
たじろぐメリーを横に見て、私はどんどん先を行く。近い家から聞いて回ったので、気がついたら里の反対側までやってきてしまったのだ。急がないと…
以前に比べればいくらか慣れたとはいえ、夜の雪道を歩くのはなかなか大変だ。
「あれ?何かしら?」
「誰か来てるみたいね」
夜の雪道氷を踏んで、と、里の中心部を通過した頃、メリーが道の先を指さした。薄闇の中へと伸びた指の先には、闇に浮かんだ小さな灯り。
それはぼんやりゆらゆら揺れながら、こちらに近づいてきていた。
灯りを持った人影は、だんだんと大きくなって、やがて見慣れた人の姿になった。
「あ、あれ…羽馬さん?」
「あ、本当だ」
薄い明かりの中に見えてきたその姿は、見慣れた羽馬さんの姿だった。
「羽馬さん?」
「あ、二人とも無事だったか…よかった…」
私の言葉に、本当にほっとしたような声が聞こえてきた。
あ、あんまり遅かったから心配かけちゃったのかしら?
「あ、ごめんなさい…ずいぶん遅くなっちゃって」
「そうそう、蓮子が遅刻魔だったせいで…」
「メリーが行く先々でお菓子もらってお茶してたからでしょ」
「蓮子だって楽しんでたじゃない」
いつも通りに言い争いを開始する私たちだけど、どうにも羽馬さんの様子がおかしい…
「怪我は…ないよな、生きてるよな」
羽馬さんは、泣いているような、震えているような声で私に言った。
「え、は…はい、大丈夫です」
「うう…蓮子のせいで心に傷が…痛い痛いっ!?」
メリーの頭をぐりぐりする私、でも、いつもならここで止めに入る羽馬さんの声がしない。
「羽馬さん…?」
羽馬さんが黙っているのに気がつき私はぐりぐりを途中で止めた。本当に…心配かけちゃったのかしら?
「あ、ごめんなさい。心配かけちゃったみたいで…」
「いや、いいんだ…無事ならいいんだ。さぁ帰ろう」
言いかけた私に手を振って、羽馬さんは言う。
明るい夜道の真ん中に、そんな羽馬さんの声が広がった。そして、羽馬さんの頬が光ったように見えた。
でも…
「あの…?」
「今夜のご飯は腕によりをかけて作ったんだ、筍づくしだぞ」
問いかけた私の言葉を止めるかのように、羽馬さんはいつも通りの明るい声でそう言った。
「え、本当ですか!?蓮子蓮子!早く帰ろうよっ!!」
「ちょ…あんたは復活早いわね」
「はっはっは、急がなくても筍はなくならないよ。なんてったって一番食べるのが二人ともここにいるじゃないか」
はしゃぐメリーに呆れる私、そして茶化す羽馬さん。たちまち空気は元通りだ。
「?」
色々明るい空気の中で、私たちは家路を急ぐ。これが最後の帰り道…そう思うと、やっぱりちょっと切ないわね。
「三人とも遅いわ、ほら…ごはんが冷めてしまうじゃない」
「「「ごめんなさい」」」
帰ってくると、待っていたのは玄関先に座ってこちらを睨む百合さんだった。
最大権力者の恐ろしさを知っている私たちは、素直に頭を下げて謝る。
「うん、よろしい…それじゃあ折角のごはんが冷めない内に頂きましょうか」
「筍っ!」
「あ、メリー!まず手を洗いなさいっ!!」
百合さんのお許しを得て、早速とばかりに駆け出すメリー。ほんと、仕方ないわねぇ。
「ほにょにゃけにょこほひひい」
「メリー、言いたいことがあるならちゃんと食べてから言いなさい」
この筍美味しいとでも言っているのか、幸せそうにこちらを向いたメリーに、私は言った。
「ほうはぁい」
「はぁ」
「のどに詰まらせないでね、ゆっくり噛んで食べるのよ」
「ふぁいふぁい」
「はぁ」
メリーは、そう言うなりもごもごと口に料理を詰め込んでいく。ほんと、これでいい年した女の子なのかしら?
「そうそう、急がなくてもまだまだたくさんあるんだから」
「はっはっは、いや、食欲があるのはいいことだよ。元気な証拠だ」
一方、羽馬さんと百合さんはそんなメリーを見て嬉しそうだ。あんだけ素直においしいおいしいと言ってもらえると、それは確かに嬉しいだろう。
私も、こちらにきて料理のお手伝いをしてみてわかったけど、苦労してつくったご飯に「おいしい」と言ってもらえる事はとても嬉しい。自分のしたことで喜んでもらえるっていうのはやっぱりいいわねぇ。
いつもは自分で作って、そして自分で食べていたから、こんな思いをしたことはなかったわ。
ちなみに、晩ご飯は、ごはんに汁物、おかずの一品一品に至るまで、全部が全部筍づくしだった。本当に筍料理のフルコースになってるわね…少しやりすぎな感もないではないけど、最後の晩だもの、これでいいかもしれない。
幸せいっぱいな表情で頬を膨らませるメリーを、私たちは笑って眺めていた。
そう、これが私たちみんなで食べる最後の晩ご飯。
明日の夜には、私たちは元の世界に帰って、そして、食べ慣れた合成食品を食べているだろう。
そう思うと少し寂しくなるのだけど、だけど、だからこそ今日は明るく食べたい。筍に魅入られたメリーはどうかわからないけど、羽馬さんと百合さんも同じ気持ちなんだろう。
泣くのはお別れの時だけで十分。悲しい時間と楽しい時間、それは間違いなく後者のが長い方がいいに決まっている。
「む…むぎゅ…」
その時、隣から変な声…見れば、メリーが顔を真っ赤にしてじたばたしていた。…慌てて詰め込んだせいで、のどに詰まらせたのね。だから言ったのに!
「あーもうっ!かっ込むから!!」
筍ご飯を口に詰め込んで、リスみたいになったメリーの背を叩く。本当にもう…世話がやけるんだから。
「けほっ…うう、ありがとう蓮子、危うく筍と刺し違えるところだったわ」
すんでの所で三途の川渡河作戦に失敗したメリーが、むせながら言った。
「筍と同じなんて…ずいぶんと安い命ね」
私は、そんなメリーへと皮肉の視線を向ける。
刺し違えるにしてももう少しまともなものを選んでもらいたいわ。いくらなんでも、墓碑銘に『筍と勇敢に戦い、そして刺し違えた我が友人、ここに苔むす屍となり眠る』なんて書くことになったら、恥ずかしくてお墓参りにも行けないじゃない。
「ひどいなぁ…筍はそんなに安くないわ」
「そうきたか…」
しかし、皮肉る私の言葉に対し、メリーの方は予想外の答えで応じてきた。あんたの命は筍より安くていいの?さすがは『天然者』ね。
「まだまだあるからな」
「そうそう、どんどん食べてね」
さて、そんな私たちを見て笑う二人は、次から次へとお皿を出してくる。お皿お皿に盛りつけられる筍料理…
「わ、凄い!」
「筍づくしですね…」
たちまち周囲は筍で埋め尽くされる、今夜あたり夢でうなされそうで怖いわね…竹林ならぬ筍林で迷う夢とか。
メリーは大喜びだけど、私の方はさすがに食傷気味。だけど、そんな私の心を見透かしたかのように百合さんから声がかかった。
「食べ飽きたら他のもあるから遠慮なくね」
「はて?私はこれしか作って…」
「保存食がいくらかあるわ。羽馬君は知らないけど」
「おいおい…」
この家の本当の主が誰かよくわかるような発言が聞こえてきて、羽馬さんが情けない顔をする。
羽馬さんを手玉にとる百合さん、余裕の笑みが大人の女性らしかった。いつかはああなりたいものね。
「蓮子~このお酒なかなかいけるわよ」
山のような料理も、そのほとんどが消滅し、場の空気がのんびりし始めた頃、メリーの方からなにやらお酒の匂いがしてきた。
「ちょっメリーいつの間に!?」
どこから見つけてきたのか、とっくり片手におちょこへとお酒を注ぐメリーは、既に顔が赤い。
「おおっ、わかってるじゃないか。今年のはできがよくてな、はっはっは」
おしてそれを見てはしゃぐ羽馬さん。こっちはもう真っ赤だ、ほんとにもう…
「羽馬君もほどほどにね」
「わかったわかった、はっはっは」
半分呆れた百合さんに答えつつ、羽馬さんはメリーとお酒を飲み交わす。
「それでですね、蓮子ったらいっつも…」
「はっはっは、実に愉快だ、愉快痛快はっはっは」
「遅刻ばっかりしてくるものだからもう…」
「全くもって面白い、はっはっは」
あれからしばらくして、メリーと羽馬さんはすっかり腕を組んで意気投合している。ちなみに、話は全くといっていいほどかみあっていない…正真正銘の酔っぱらいね。
「ごめんなさい、メリーったらすぐに酔っぱらって」
すでに会話になっていない会話をしているメリーを見て、私は百合さんに頭を下げる。
「こちらこそごめんなさい、羽馬君もそうなのよ」
呆れたような表情で百合さんも答えてくれた。たぶん、私の今の表情も、百合さんから見たらこんな感じなんだろう。
「じゃあお互い様ですね」
「そうそう、お互い様」
私たちはお互いの相方を横目に見つつ笑い合う。
「どう?私たちも」
その時、百合さんが一本のとっくりを頭上にかかげた。
「はい、いただきます」
一体どこに隠していたのか…やはり百合さんに畏れを抱きつつ、私は喜んでその申し出を受け入れた。
ちろちろと燃える囲炉裏端で開かれる二つの酒宴、片方がどんちゃんどんちゃん騒ぐのを見ながら、私たちはそれを肴にちびちびと飲む。
「本当、楽しそうですねぇ」
二人を見て言った私に、百合さんが相づちを打つ。
「そうそう、いつまで経っても子どもなんだから…」
そう言う百合さんの声はとても優しくて、何でこの二人が仲良くやっているのかの理由がよくわかる気がした。
「もう本当の親子みたいですね、まぁメリーは人とうちとけるのが早いんですけど…羽馬さんも」
羽馬さんがなにやら民謡を歌い出した頃、私は言った。
立ってなにやら歌っている羽馬さんと、それを見てはしゃぐメリーは、とても仲のよい父娘みたいだった。
そんな私に、百合さんは囲炉裏に炭を入れながら…ゆっくり呟く。
「羽馬君はね…いつか自分の子どもとお酒を飲むのが夢だって言っていたわ」
「あら、それじゃあもうすぐ…でもないけど叶うんじゃないですか?初めての子ども…おおはしゃぎする羽馬さんの姿が目に見える気がします」
私は微笑みながら答え、百合さんのおなかを見た。
視線の先…百合さんの膨らんだおなかからは、たぶんまもなく新しい命が生まれるだろう。そうすれば、きっと羽馬さんの夢は叶うはずだ。
「そうね…」
「どうかしたんですか?」
しかし、百合さんの表情はさえない、酔っちゃったのかしら…と、私は笑顔のまま尋ねた。
だけど、そんな私を見て、百合さんは少し悲しそうにこう言った。
「あのね…」
そこで一旦言葉が途切れて、そして炭が小さな音を立てる。
「私たちは、一回子どもを亡くしてるのよ」
「え…」
一瞬、メリー達の騒ぎ声が聞こえなくなって、うるさいはずの空間がとても静かに思えた。
たぶん、それは百合さんの言葉が『大きすぎた』から。他の何の音も耳に入らなくなったのだろう。
呆然とする私に、百合さんは続ける。
「私たちが結婚してすぐ生まれた子がいたの、元気な男の子。それはもう羽馬君は可愛がって可愛がって…毎日毎日つきっきりだったわ、私が妬ける位にね」
少し茶化したように言う百合さん、嫉妬する百合さんなんて想像できないけど…
「だけどね、その子は元気すぎたの…元気すぎて、羽馬君と一緒に里の外へ遊びにいってばっかりで…ある日帰らなかった」
もうメリー達の姿は目に映らなかった。小さく燃える火と、それに照らされた百合さんの顔だけが、私の視界に入っていた。
「その日はたまたま羽馬君が一緒にいなかったのよ、羽馬君は何度も悔やんでいたわ。私が一緒にいれば…って」
最初の、無理して明るくしていたような声はとっくになくなって、百合さんの素直な
声が私の心へとしみてくる。
ああ…だから今日羽馬さんはあんなに心配して、わざわざ追いかけてきてくれたのね…色々な疑問が少しづつ解けていく…
「羽馬君の名前の由来はね『破魔矢』からきているの、魔を破る…その名の通り、羽馬君は一度も妖怪に襲われたりはしなかった。里でも運のいい男として有名だったの、だけど…」
百合さんの頬に、何かが光った。
「だけど…いえ、だから妖怪に対して不用心だったのかもしれない、妖怪への対処法も、ちゃんと教えられなかった…」
一度出た涙は、容易には止まらない。百合さんの目からは、とめどなく涙がこぼれる。
「そして、羽馬君は…そして私は夢を亡くしたの」
囲炉裏の火はだんだんと小さくなって、だけど、私は炭を入れることはできなかった。
「あれからとても寂しくて…羽馬君は一日中あの子を探して山を歩き回ったわ。周囲に危ないと止められても、あの人は諦めきれなかった…亡骸が見つからなかったからなおさら…」
そんな私を見て、少しだけ笑顔をみせてくれた百合さんは、囲炉裏に炭を入れて再び口を開く。
「破魔…たしかにあの人は運がよかった。そんなことをしておきながら、一度も妖怪に遭わなかったのだから…普通の人なら、たぶん今頃妖怪のおなかの中にいるわ」
囲炉裏の火が少しだけ強くなり、再び百合さんの頬を照らした。
「でも結局駄目だった。あの子が着ていた服の切れ端が…どす黒く汚れて木に引っかかっていたのを見つけただけ」
そこでおちょこのお酒をくいっと飲んで、百合さんは上を見上げた。暖かな滴が、ぽとりぽとりと床に落ちていった。
「私は…そんな羽馬君をぼんやり眺めて、毎日を送るだけだった。毎日毎日…」
長い長い一瞬の間をおいて、百合さんは視線を元に戻して再び続ける。
「だけどね、ある日そのままじゃいけない、これじゃあ私たちもあの子も幸せになれない…そう思って、私たちは必死に明るくなろうと努力したの。変な言い方だけど、明るくなるように必死だった…明るくなるように頑張っていれば、いずれ自然に明るくなれるはずだから…そう信じて」
そう言う百合さんの表情は、悲しそうで、切なそうで、だけど力強かった。
「それで、また子どもを授かって…もう一度頑張ろうって二人で決めて…そんな時に来たのがあなた達だったのよ」
そこで、ようやく百合さんの表情が元に戻った。
「驚いたわ、突然夜に外の世界の人をしばらくいさせて欲しい…なんて言われたんだもの。慌てて支度をして…どんな人が来るかと思っていたら、明るい女の子が二人、家の前で大騒ぎしていたんだから」
「あう…」
いたずらげな、だけど優しい笑顔を見せてくれた百合さんに、私はようやく言葉を返せた。いや、言葉にはなっていなかったんだけど…う~ん、思い出すと恥ずかしいなぁ。
「あのね、あの晩あなた達を泊めたのはあの子の部屋だったの。どうしてもあそこだけは手をつけられなくて…ずっと昔のままだったあの子の部屋…」
「え…?」
再び言葉にならない言葉を返す私。まさか…そんな部屋を片づけさせちゃっただなんて…
「ごめ…」
「感謝しているわ」
だけど、言おうとした私の言葉は、予想外の百合さんの一言で封じられる。
「あの部屋は、どうしても振り切れなかった悲しさの象徴、だけど、あなたたちがあの部屋に入ってくれたおかげでそれも振り切れた。これで、あの子も私たちも未来に向かって進めるわ…そして、おなかの中の子も」
おなかをさすり、そう言う百合さんの表情には、もう悲しさの影はない。
「本当にありがとう。あなたたちと過ごした時間は、将来、こんな幸せを得ることができる…そんな未来からの約束、そう思ったわ」
まっすぐ私を見る百合さんの表情…それは、とても優しくてとても力強くて…そしてとてもとても希望に満ちていた。
「あ…あの…私は…」
長い長い話を聞き終えて、そして、私はどう答えればいいのかわからず、ただただ無意味な言葉を繰り返す。
「あ…」
その時、私は百合さんに抱かれ、黙り込んだ。二つの鼓動が、ゆっくりと伝わってくる。
「あのね、どうして私がこんな事を話したのかわかるかしら?」
耳元に…百合さんの声が聞こえてきた。
「え…いえ」
わからない、さっぱりわからない…ううん、あんまり驚くようなお話を聞いたせいで、頭が働かなくなっているみたい。
「あのね…」
百合さんはささやくように続ける。
「あなたがあの子に似ているから…優しくて、元気で…そして好奇心旺盛な子だからよ」
百合さんの表情は見えない、だけど…
「この世界では、さして多くはないにしろ妖怪に人が食べられた…そういう事件が起こるの。外の世界のことは知らないわ、それに、あなた達の持っている好奇心は大切だと思ってる。だけど、それにばかり気をとられて、そして危険に目を向けないようなことだけはして欲しくないの…あなたが死んでしまったら、悲しんでしまう人がいるのだから」
真剣に私たちのことを心配してくれているということだけはわかった。私はこくりと頷く。
のどかで、みんなが優しく幸せに過ごしている世界…そんな風に思っていたのは、少しだけ間違っていたのかもしれない。私たちの世界と同じように…いえ、むしろそれ以上に辛いことや危険なことがあるのだろう。
私は、最初こちらに来たときに異世界パックツアーと思っていたけど、まさにその通りだった。この世界の表面だけ、それだけを見て楽しんでいたのかもしれない。
私たちが未知のものに対する興味…好奇心を失うことは決してない、だって、そうしたら私たちが私たちでなくなってしまうのだから…
だけど、これからはもっと自分の身を大切にしよう、自分だけの為じゃなくて、自分の事を大切に思ってくれている人のためにも…
私が考えていることがわかったのだろう。
「ありがとう、向こうに行っても元気で、幸せにね…」
百合さんはそう言って私の頭を撫で、そして続けた。
「あの子の…八満の分まで」
「もう、メリーまだぁ?」
翌朝、青空の下、私は壁にもたれかかって友人の名を呼んだ。ここ数日、晴れの日が続いている…もう春が近いのかもしれない。
肌に感じる風はほんの少しだけやわらかく、空気の匂いも、どこか今までと違う気がした。
「あ、待って待って…うう、頭が痛いわ」
私の声に返事が届き、続いて扉から見慣れた顔がひょっこり出てくる。
「もう…昨日あれだけ飲むからよ」
頭を押さえ、へろへろと出てきた友人に、私はあきれ顔。本当にもう…昨日どれだけ飲んだのかしら?
「うう~飲み過ぎた」
「もう、飲み過ぎよ、羽馬君」
そして、続いて出てきた羽馬さんの方もやっぱりへろへろだ。あ~あ、百合さんにもたれかかっちゃってもう…
「大丈夫か?」
こちらの様子を見る慧音さんも、心配しつつも呆れているみたい。
「…もう、お別れはしたのか?」
慧音さんは続ける。
「はい」
「ふぁい」
私は答え、メリーも続く。
「…じゃあ、行こうか」
慧音さんの言葉に、私はこくりとうなずき、そして二人の方を振り返った。
「おおい、私もついて…うぷ」
「もう、羽馬君は無理よ。慧音さんがついてらっしゃるんだから大丈夫、諦めなさい」
「だけどなぁ…」
「諦めなさい」
「はい…」
どうにかついてこようとした羽馬さんは、百合さんにあっけなく従わされてこちらを向いた。
「二人とも、達者でな…いつかまた縁があったら…うぷ…うん、また会おう」
口元を押さえながら、羽馬さんが言った。ううん、感動のシーンにはほど遠いわね。
そんな羽馬さんをじとっと見た百合さんは、こちらを向き直ってこう言った。
「もう、羽馬君のせいで台無しになってしまったわ…二人とも、こんな男にひっかからないように気をつけるのよ…元気でね」
「百合!?」
どうしてこうもまた感動のシーンがコメディーになってしまうのか、口元を押さえながらこちらを見る羽馬さんと、すっかり呆れている百合さんに、来たときよりも暖かな風が吹き付けた。
「…ありがとうございました。どうか元気な子を生んで…そして幸せになって下さい」
でも、私には二人の気持ちがよくわかっている。だから、そう言ってしっかり頭を下げた。
「う…あう、ありがとうございました。筍…美味しかったです」
そして、メリーもお礼とともに頭を下げる。一言余計な気はしないでもないけど…あと、口押さえながら言ったら雰囲気ぶちこわしじゃない!
しかもそんな状態なのにお土産の袋持ってるし…中身は間違いなく筍の保存食ね。
「では、まだ話し足りないことはあると思うが…行こうか」
私が頭を上げた時、慧音さんが優しく言った。
…お別れだ。
「はい…」
私はその時、百合さんの目を見た。
何も言っていない…だけど、たくさんあった言いたいことは、全部伝わったと思う。そして、百合さんが言いたいことも…
「あっ!?蓮子ずるい~目と目で会話できてるなんて…うぷ」
「お~い、私は…うぷ?」
「「うるさい」」
私と百合さんの声が揃った。完全な連携口撃に、二人は黙り込む。
百合さんの視線が、さっきと同じ言葉を伝えてきた…お互い苦労しますね…って。
「二人とも…いや、メリー、大丈夫か?」
ふらふらゆらゆら…ぱっと見にも大丈夫じゃなさそうなメリーを振り返り、慧音さんが言った。
「う~あんまり大丈夫じゃな…うぷ…」
そう言って、メリーは雪からぴょこりと顔を出している石に座り込む。
「もう…まぁ着いたんだからいいけどね、あんたはしばらく休んでいなさい」
あきれ顔で私が言った時、慧音さんが尋ねた。
「ここで…いいのか?」
「はい、一時間…じゃなかった、半刻ほど時間をもらえますか?」
「ああ、大丈夫だ」
慧音さんのしっかりとした答えが返ってきて、私は準備を始めた。
さて、私たちは今目的地…博麗神社というらしい…ではなく、一番最初に来た、あの洞窟の前にいる。
本当に出発する時間よりもずいぶん早めに、私たちは家を出ていた。おかげで、慧音さんをずいぶん急がせてしまったのだけど、どうしてもしたいことがあったのだ。
いきなり百合さんとの約束を破るようで気が引けるけど、でも、どうしてもやらなければならない…大切なこと。
「じゃあちょっと行ってきます」
「…気をつけてな」
二本の縄と、そして麻袋を担ぎ、そして灯りを持った私に、慧音さんが言う。
なんでこんなことをするのか理由を聞かないのは不思議だった。まるで全部わかっているような…ま、そんなわけないか。
「蓮子~忘れ物?うぷ…」
そして、何もわかっていなさそうな声もまた、こちらに届く、メリーだ。
私は笑顔でこう言った。
「ええ、とても大切な忘れ者がいるから、とってくるわ」
「うっ…相変わらず狭いわ」
来るときにメリーが塞いだ小さな穴…そこに身を押し込んで、私は先へと進む。来るときよりも何かきついような気がするのは気のせいと信じたいわね。
「さて…と」
私は灯りをかかげて周囲を見た。暗いくらい『道』が、光の届かないはるか向こうまで続いていた。迷い込んだら出られない、そんなイメージ…
だけど、幸いにして目的の場所までは一本道だ。迷うことはないだろう。
「…行こう」
私はそう言って一歩足を踏み出した。
さほど時間を経ず、私は目的地へとついた。
目の前には、深くて暗い大きな穴。迂回路…と言っていただけに、私たちが見た側とは反対の方へ出るにはそんなに距離はなかったみたいだ。
「今迎えに行くからね」
真っ暗な闇の中へと、私はそう呟いて、近くの岩へと縄をしっかりくくりつけ、別な岩にもまた、同じようにくくりつける。万が一ということもあるわけだから…
「う~まだかしら…」
私は呟く。声が反響して戻ってきた。
縦穴は想像以上に深くて、なかなか足がつかない。縄は相当長いから、足りないということはないだろうけど、登るのは苦労しそうね。
硬い岩の感触を感じながら、私はするすると降りていく…と…
「あ…」
足が、やわらかな泥の感触を伝えてきて、私はゆっくりと着地した。すぐに、腰に結びつけていた灯りを持って、周囲を照らす。
「…凄い」
一瞬、私は息をのんだ。
目に映ったのは、大きな大きな地底湖…地下に、こんな大きな空洞があるなんて…あちこちから、おかしな形をした鍾乳石がぶらさがっていて、とても不思議な空間だ。
「おっと…」
思わず一歩進んだ私は、冷たい水を感じて、思わず足を上げた。
澄んだ水が足元まできていて、そこに足を踏み入れたみたいだ…
そして…
「…八満」
私は呟いた。
視線の先、岸からさして遠くない場所に、小さな骨が沈んでいる。あれが…
「姉ちゃん…」
その時、隣から声が聞こえる…聞き覚えのある男の子の声…私はそちらを見て、言った。
「そうよ、お姉ちゃんだから敬いなさい」
振り向いた先には、私たちを助け出してくれた男の子…八満の姿があった。
「危ないから来るなって言ったのに…」
「危ないとは聞いたけど来るなとは聞いてないわ」
「ちぇっ」
出っ張った石に、私たちは仲良く腰掛けて話す。八満が蹴った小石が、ぽっちゃんぼちゃちゃんと音を立て、水底へと沈んでいった。
「…なぁ、父ちゃんと母ちゃん…元気だった?」
小石が見えなくなって、音の反響もやんだ時、八満はゆっくりと私に聞く。
「ええ…元気すぎて、羽馬さんは二日酔いで百合さんに怒られてたわ」
「はははっ父ちゃんらしいや…よかった、落ち込んでたり…してなかったんだ」
とても嬉しそうで…そして少し寂しそうに言った八満の身体を、私は抱きしめた。
百合さんがそうしてくれたように…あのときのぬくもりを、冷え切った八満に伝えるように…
「ええ…とても落ち込んで…でも二人はそれを乗り越えたの。自分と、赤ちゃんと…そしてあなたのためにもね」
「そっか…よかった…って、え!?赤ちゃん!?」
八満の声が洞窟内に反射する。赤ちゃん赤ちゃんと洞窟が連呼して、私は笑顔でそれに続く。
「ええ、赤ちゃん…まだ生まれてはいないんだけどね」
「そっか…赤ちゃんか…弟かな、妹かな」
八満は、そう言ってまた小石を蹴った。
小石は、何度か水面を跳ねて、そしてまた沈んでいく。
「…ん?あれ?どうして姉ちゃんは俺の父ちゃんと母ちゃんの名前知ってるんだ?」
その時、八満が不思議そうに尋ねた。気づくの遅いわよ。
「反応鈍いわね」
「うっさいやい」
頬を膨らませて言った八満…子どもねぇ。
「それはあんたが羽馬さんとそっくりだからよ、明るくて、お調子者で、優しくて…ほんとそっくり」
「あ…そっか…うん、だって俺は父ちゃんの子だからな」
私の言葉に、嬉しそうに言う八満。羽馬さんが聞いたら喜ぶだろうなぁ…百合さんは苦笑いしそうだけど。
だけど、そんな八満に私は続ける。
「というのは嘘で、実は百合さんから聞いたのよ。八満っていう子がいたってね」
「げ…ちっくしょーっだましたな!」
いたずら笑顔の私に、八満は頬を膨らませる。
「あんただって、私たちのこと一回騙したでしょう?失敗したけど…でもお互い様よ」
「ちぇっ…まぁいっか、お互い様だしな」
「ええ、お互い様」
私はそう言って八満を見た。
本当に似てる、羽馬さんと…そして百合さんに…
再び沈黙がこの場所を包んで、時が過ぎる。
「あんた…どうしてこんなところにいたの?」
「ん…」
私の言葉に、八満は少し黙り込んで、ぺろりと舌を出す。
「いや…黒猫がさ、なんか妖怪に追われてたんだよ、川べりに追いつめられて…で、あんなもん俺が一発だぜって突っ込んでったら、逆に一発でやられちまってさ、どんぶらこっこと川下り…気がついたらそこで沈んでたんだ」
なんか自分が死んだっていうのに、八満は異様な位明るい。死なれた人間より死んだ人間の方が明るいっていうのはどうかと思う。
なんか真面目に相手する気なくなってくるわね…ま、人間だって十人いれば十人の性格があるんだから、幽霊だって人(?)それぞれでもおかしくはないか。
「なんか呆れればいいんだか誉めればいいんだか、叱ればいいんだかわかんないわね。仕方ないから全部言っておくわ。バカ、よくやった、なにやってんのよ」
「…同情はないのかよ?」
「ないわよ、自業自得じゃない。しかも羽馬さんと百合さんにあんだけ心配かけて…」
「ん…」
私の言葉に、八満は黙って頭をかく。少し…言い過ぎたかな?私は少しだけ言葉を和らげる。
「まぁあんたらしいわね、猫を助けてなんて…それなら墓碑銘に書いてもちゃんとお墓参りができるわ。自ら犠牲となって猫を助け、自らは水漬く屍となった勇士、ここに眠る…ってね」
筍と相討ちじゃあ情けないけど、これならあんまり情けなくない…と思う。
「あ、だろだろ、なんかかっこいいな俺」
私の言葉に、八満は胸を張る。本当…見知らぬ子どもの幽霊とじゃなくて、なんか出来の悪い弟と話しているような気がしてきたわ。
それにしても、皮肉も混じってたんだけどね…本人が満足ならそれでいっか。
「じゃ、行こっか」
あれから二三、お話をすると、私はそう言って立ち上がった。いつまでもいるわけにはいかなかった…
しかし、隣を見ると八満の姿はそこにはもうない。
「あれ?」
少し視線をずらすと…いた。八満は、自分の骸の上…水面に浮いていた。小さな光に照らされて、ぼんやり浮かぶ八満は、悔しいくらいきれいだった。
「…俺、こんなにみんなに迷惑かけて、きっと地獄行きだろうなぁ」
ぼんやり明るい水面の上、八満はそう言って上を見る。とても真面目で、寂しそうな表情、だけど…
「そうね、迷惑かけてばっかり…だけど、あんたはきっと天国に行けるわ。私が保証する」
私は力強く言う。
そう、猫を助けて、それで私たちまで助けてくれて…これでこの子が地獄に送られるんだったら、私は閻魔様の罷免を訴えるわ。弾劾裁判よ、署名でもなんでも集めてやるんだから…
「姉ちゃんに保証されてもなぁ」
「うるさい」
「ちぇっ」
再び明るくなった八満を見た後、私は、前へと歩き出した。
今度は、私があなたを助けてあげるわ、八満。
「慧音さん、メリー、遅くなってごめんなさい」
こちらにいる間に少し鍛えられたのか、私は思ったよりも早く穴から抜け出て、そして洞窟の外へと出た。
そこには、待ちくたびれた様子のメリーと、なんら変わらずこちらを見る慧音さんの姿。
「いやいや、大丈夫、まだ時間はある」
「むー蓮子遅いわ、おかげで二日酔いがさめてしまったじゃない」
「ならいいでしょうが…」
笑って言った慧音さんには私も笑顔を返し、メリーには冷たい視線を送っておいた。
「よくないわよ、二日酔いっていうのもお酒の…」
「大切な話があるんです」
でも、そこからいつも通りになりそうになった空気を私は無理矢理引き締めた。私の真剣な表情を見て、慧音さんもメリーも、真面目な顔でこちらを見た。
「…慧音さん、この子を羽馬さんの所へ送ってあげてくれませんか」
一瞬の間をおいて、私は麻袋を雪の上に置いた。中で骨がぶつかって、小さな苦情が聞こえた気がした。
「八満君の?」
「え…!?なんでメリー知って…」
だけど、その時メリーのいつも通りな声が聞こえて、私は慌てて問い返す。だってあのときメリーは酔っぱらって…
だけど、混乱状態にある私へと、メリーは追い打ちをかける。
「蓮子気がついてなかったの?私てっきり気づいてたとばかり思って…」
「は…はぁ?」
そう言って首を傾げるメリーへ、思わず間抜けな声で問い返してしまった。じゃああんたは相手が幽霊と知ってて普通に話していたわけ?
「もう、蓮子ったら鈍いんだから…」
メリーは言うけど、あれで気づく方が変だと思う。大体、なんであんたは基本的に鈍いのに、変なところで『だけ』鋭いのよ?
「…でもいいの?」
「へ?」
その時、メリーの声がすこし真面目なものになって、私は戸惑う。
「その子を羽馬さんの所に送っちゃって…」
「あ…」
私は、メリーの言葉に固まる。羽馬さん達は、せっかく未来へと進んでいる、だけど、そんな時に八満の骸が戻ってきたら…
「ね」
メリーの顔に、私は悩む。でも、それじゃあ八満があんまり可哀想で…
「その子洞窟が好きでそこにいるんでしょ、洞窟をこよなく愛してそこを死に場所に決めた洞窟霊なんでしょ?そこから無理矢理引き離して、縁も縁もない羽馬さんの家に送っちゃってもお互い困るわ。そうでしょう?」
「…」
「ね、だから…」
「でいっ!!」
「きゃっ!?」
悲鳴と共に雪上を吹き飛ばされていったメリーへ、私は叫んだ。
「こんのおとぼけ娘っ!」
「そうだそうだ!誰が洞窟霊だよ!好きであんなとこにいたんじゃないやい!」
そして、もう一つの声も私に続く。この声は…
「うう…ひどいわ。あ、八満君?」
「あ、本当…」
「あ、本当…ってなぁ…」
隣を見れば、いつの間にやら姿を現した八満が、呆れ顔でこちらを見ていた。
「大体そっちの天然姉ちゃんだって酷いけど、こっちの暴力姉ちゃんなんて人の骨でぶん殴るなよ、何本か折れちゃったじゃないか」
「あ…つい手頃だったから…」
八満の苦情に、私は慌てて弁解した。
そう、メリーを吹き飛ばした『兵器』は八満…の骨、なんかあの骨を入れた袋、重さといい手応えといい使いやすかったのよね。そういえば命中の瞬間音がしたわ…ボキとかパキとかいう…
「手頃だからって武器に使うなよ…」
「いいじゃん、他に使い道ないんだし」
「だから使うなっ!」
「むー私無視されてる…天然という言葉について削除と謝罪を要求する~」
「や、天然じゃん」
「うん天然」
「む、私について偏見と誤解が持たれているようね、正確なメリー知識をつけてもらわないと…」
「体重は…」
「わーわー!!」
「あ、そういえば私についての暴力女という発言について…」
「削除も謝罪もしない、だって合ってるし」
「うん、まったくもってその通りだね」
「む、私について正確な…」
「胸囲は…」
「待てぃ!」
「そもそも俺に対する洞窟霊っていうのは…」
「洞窟霊じゃない」
「洞窟霊ね」
「ひでぇ、これだよ」
「だから私は天然じゃ…」
会話は進まず、ただ回っているのみ。
しかし、永遠に続くかと思われた、幽霊一人、人間二人の口げんかは、やがておずおずと加わってきた声によって停止せしめられた。
「あーいいかな」
「「「あ…」」」
遠慮がちな言葉に、会話は止まって私たちは声の主へと振り向く。
その視線の先には、頭をかかえた慧音さんの姿…うん、若いのに白髪が多い理由がよくわかった気がしたわ。
「…いやいや、まるで姉弟みたいだな。と、それはいいとして…私は彼らの所へは骸を運んでやることはできない」
優しいけど、厳然とした声で慧音さんは言う。
「たぶん…わかっていると思うが、死者を悼むのは大切だ。だが、いつまでもそれを続けていては、死者も生者も未来を見られなくなってしまう。だから…」
「ああ、俺もそう思う」
慧音さんがそこまで言ったとき、八満が話を切った。慧音さんは、嬉しそうというよりも悲しそうに声を止めた。
「ありがとう。俺、もう行くよ…骨はそっちの姉ちゃんの言うとおり、もう使わないからさ…適当に捨てちゃっていいぜ」
八満の声に、私たちは黙り込む。林の木々が揺れて、何か優しい風がやってきた。
「…帰ると、離れられなくなりそうだからさ。俺…このまま逝くよ」
八満の身体が、少しづつ空に滲んでいく。
「…ごめんな、わざわざ持ってきてもらったのに」
そんなこと…ないのに…私は泣きそうになったから、だから笑ってこう言った。
「ううん、いいよ。お互い様」
そんな答えに、八満の顔が少し笑った。屈託のない笑顔。
「そっか、お互い様だな…」
八満の姿は、だんだん消えていく。
「待って!これおにぎり…長旅になりそうだから持っていって」
「え…」
その時、メリーが八満にまるいまるいおにぎりを押しつけた。戸惑ったような八満は、だけどおにぎりを頬張った。
「うまいや、母ちゃんのだ…」
「八満…」
その声に、景色が滲んで、八満の姿が滲んで…そして…消えた。
「…行こうか」
一瞬の…だけどとても長い時間を経て、慧音さんが言った。もう視界には何もなく、白い世界が広がるだけ。
ほんの少しだけ時間をおいて、私たちはしっかりと答えた。
「「はい」」
空は少しだけ曇ってきて、別れを惜しむかのように小雪を降らせる。
古く、固くなった雪は、だんだんと新雪に覆われていく。そして、もうすぐそれすらもなくなって、春がくるのだ。
季節は巡る、そして、命も巡る。もし、次に来ることがあったなら、その時は、きっとまた八満に会えるに違いない。名前が変わっていても、姿が変わっていても…きっと会えるに違いない。
「蓮子蓮子!駅!!駅が見えるわ!!」
広がる視界の真ん中を、メリーじゃ指さしはしゃぎ叫ぶ。うきうきした空気が、境内を包んでいた。
石段の上、神社の境内からは、いつか見た小さな駅が見える。石段を下りればすぐそこだ。
そして、駅の周囲には小さいながらも近代的な街並みが広がっている。間違いない、私たちは元の世界に帰ってきたのだ。
「…そうね、私にも見えるわ」
はしゃぐメリーに答え、そして私は続ける。
「さぁ…帰りましょう」
「ええ」
ゆっくりゆっくり私たちは石段を下っていく、雪が積もっていて、とても歩きにくいけど『あちら』で過ごした経験は無駄ではない。
一段一段、雪の階段を踏みしめて、ゆっくり、だけど確実に降りていく。
「…あ、幼稚園かしら?」
その時、メリーが呟いた。
ふと耳を澄ませば、明るい子ども達の声が聞こえる。どたどたばたばた騒ぐ音…これは、どこの世界でも変わらないわね。
「…蓮子が珍しく優しい顔してる」
その時、酷く失礼な一言が聞こえた。私はいつも優しいわよ、メリー以外には。
「うるさい」
「む、私には優しくない」
「当たり前」
「む~」
睨むメリーをあっさり無視して、私は最後の石段から地に降りた。もう目の前はあの駅だった。
ふと見れば、向こうから小さな灯りがやってくる。
「あ…列車来たよ」
「一日三本なのに…運がいいわねぇ。今何時?」
だけど、そんな私にメリーは首を振る。
「わかんない、時計…あげてきちゃったから。私が一番大切にしているものだから、形見にして下さいって」
「…ま、いっか」
形見という単語に少しひっかかったけど、まぁよしとしよう。時計も、メリーの元にいるよりは安心かもしれない。
「行こうメリー、これに乗り遅れたら下手したら野宿よ」
「うーん、それは避けたいわねぇ…氷漬けはごめんだわ」
私たちは駅へと歩き出す。向こうからは、薄く積もった雪をはね除け、列車がこちらへと進んできていた。
~?~
突風が一気に駆け抜ける。
吹雪が周囲を駆け抜ける。
紫の桜吹雪が駆け抜ける。
暗く明るく、狭く広い広場の中央。そこに、小柄な女性と、小さな少年が立っていた。
「あなたは、一番大きな罪を知っていますか?」
女性が尋ねる。
「人を殺したり、傷つけたりすることかな?」
少年が答え、しかし女性は黙って首を振る。
「人を騙したり、お金を盗んだりすること?」
言い直した少年に、女性は少し悩んで、答える。
「確かに、それらはどれもがとても重い罪ではあります。ですが、最も重い罪というわけではありません」
「う~ん…」
黙り込んだ少年に、ゆっくりと、しかし確実に女性は言った。
「最も重い罪…それは、他人を悲しませること。天寿を全うすれば、残された者は悲しみつつも、それを受け入れてくれるでしょう。でも、あなたはそうではない…」
少年は、何も言わない。言えなかった…
「あなたは、無茶な行動をして、死に…そして多くの人を悲しませた」
女性はそう言いきった。
「それに比べれば、あなたの行った善行はなきに等しい。あなたは、極楽に行くことはできません」
「…うん、わかってるよ」
ひときわ大きく桜が吹いて、少年は女性を真っ直ぐに見つめる。
「地獄行きだろ、覚悟…してるよ」
しかし、女性は首を振った。
「いいえ、あなたには地獄すら生ぬるい。自分を生んでくれた親を悲しませ、その大切な時間を無為に過ごさせた罪はあまりに重すぎる」
彼女は、少し憐れむような、しかし妥協を許さない声で少年に言葉を送る。
「じゃ…じゃあ俺はどうすれば…」
戸惑ったような少年の視線と、女性の視線がぶつかった。
「あなたにできることは一つしかない」
「…」
少年の瞳が、女性を見つめる。
「あなたは、一生をかけて親に償わなければならない。幸せに暮らし、子どもを生んで、親を看取り、そして天寿を全うすること。それがあなたにできるたった一つの善行です」
刹那、一面の桜吹雪が二人を包み込んで、そして、吹雪がやんだ時、少年の姿もまた消えていた。
「…これでまた始末書が増えましたね。私も小町に負けず劣らずの問題児なのかもしれません」
自嘲するような、しかし満足げな声が聞こえ、女性の姿もそこから消え去った。
「美味しいわねぇ」
「うん、同感」
流れゆく景色を見ながら、私たちはおにぎりをぱくつく。一口食べるごとに、おいしさと優しい気持ちが、口の中へと広がってきた。
百合さんお手製の山菜おにぎり…いつ赤ちゃんが生まれるかわからないようなときなのに、早起きして作ってくれたんだと思うとますます美味しい。
車内はとても暖かく、そして静かだ。
列車は、雪の重みなど存在しないかのように疾走する。明るい車内には何人かのお客さんがいる…皆顔なじみなのか、わいわいがやがやと会話に余念がない。
…内容はさっぱりわからないけど。
「来るときの列車もよかったんだけど…新型も来てたのね」
メリーが言った。
「そうね、明るいのはいいけど、前の方が『旅』っていう気がしてたわ」
私は答える。
ディーゼルの唸りなど聞こえない。かすかな振動だけで、この列車は山間を駆け抜けていた。
外と車内は完全に遮断されて、寒さなど全く感じなかった。暖かい空気、しかしぬくもりはどこにもない。
「…本当に元の世界に戻ってきたのね」
「そうね」
短い会話を終えて、長いもの思いにふける。
列車は、次々とトンネルを抜け、進んでいた。坂に入っても、全く速度は落ちない。音がないのと相まって、まるで走るというよりは滑っているような印象さえ受ける。
「蓮子」
その時、メリーの声が聞こえ、私は視線を向けた。
「次はいつ行く?」
時刻表を持つメリーの視線は、すでに次の休みへと飛んでいる。
「…夏、あの神社で『裂け目』を探すわよ」
私は答えた。一瞬、百合さんのため息が聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだろう…ごめんなさい。
「…そうね、帰ったらバイトしないとね」
メリーも応じる。大丈夫、月に行くよりは現実的だ。月より異世界の方が近いのだ。
「うん、私もバイト探し…」
「おぎゃあ」
「「え?」」
その時、私とメリーの声がそろった。
二人揃って車内を見回したのだけど、おしゃべりしている人たちはお年寄りばかりで、赤ん坊などどこにもいない。
「メリー、今…」
「うん…」
私たちは顔を見合わせ、そして、神社の方へと笑顔を向けた。
「「おめでとうございます。どうかお幸せに」」
どこからか、ありがとう…という、聞き覚えのある三つの声が聞こえた気がした。
列車は進む、音もなく
列車は進む、雪の中
列車は進む、未来へ向けて
山は険しく雪深く、それでもずんずん先に行く
どんなに先が苦しくて、どんなに先が険しくて、例えうんうん唸っても、それでもずんずん先へ行く
山があるならトンネル掘って、谷があるなら橋を架け、そしてずんずん先へ行く
止まっていても仕方がない、止まっているなら発車しよう
幸せ未来を夢に見て、汽笛一声発車しよう
列車はずんずん先へ行く
「ん?…ああ、この記事も古くなったな」
列車が去るのを見送った駅員は、そう独語し、目にとまった一枚の新聞記事を掲示板から剥がした。
数年前の日付のそれは、大きく変色し、もはや新聞としての役目を果たしてはいない。
『旧型ディーゼルカーが幼稚園へ』
3月18日、廃車となったディーゼルカーが、△駅近くにある幼稚園へ寄贈された。
この同車は、新型車両の投入により引退したもので、駅近くの△幼稚園(園児10名)から譲渡の要望を受け、同園への無償譲渡が決まった。
同園の石見園長は、長年子ども達の足として活躍してきたディーゼルカーをスクラップにするのは惜しく、保存を受け入れたと語っている。
尚、同車は、今後園児達の遊び場として『発車』する予定である。
「さて…と、帰るか」
駅員は伸びをして、手を伸ばす。
彼が駅の電気を消すと、一瞬だけ生きていた駅舎は、再び眠りにつく。
ふわふわと降る雪の中、小さな駅はのんびりのんびり次の列車を待っていた。
『おしまい』
東北の山の中ってたしかに幻想的ですよね。
しかしこの二人、いつから境界を越えていたんだろう……。ひょっとして海岸の時点?
あと、後編後半の「ぶんん殴る」→「ぶん殴る」ではないでしょうか。
違っていたらすみませんが。
最後に、良い幻想を垣間見せていただいたことに感謝を。
また彼女らが幻想の郷を訪れることを祈って
流れが微妙想像できるところもありましたが、だからこそ面白かったですw
これはこれで十分きれいな締めですが…
120点満点です!
あと、キャラの作り方がうまい。メリーの筍好きなどの特徴づけが、キャラを引き立てています。
勝手なことを書かせて頂きましたが、とても面白かったです。次回作も期待しています。
食べ物がおいしそうすぎましたがw
心理描写等、他がしっかりと出来ているので、そういう点が利点になっているように思います。
少しばかり中だるみもしましたが、きちんと最後まで読める出来でした。お見事。
少しばかりご都合主義でも、その「幻想らしさ」を私は買います。
…ああああっ、こんなの見せられちゃ、今書いてるの、もっとまともにしてからじゃなきゃ投稿出来ねぇっ!(自爆した)
>言ってもらえっる
>私いついての
そして、ご意見、ご指摘、そしてご感想ありがとうございます。
>名前が無い程度の能力様
わ、趣味が合いますねww
はい、あのあたりはとても不思議な空間ですね。二人が『幻想郷に入った』のは、横穴から落っこちた時と想定しています。
でも、個人的に東北の山の辺りは、境界が曖昧になっているんじゃないかと思ったり…昼間に堂々ともののけ列車が走ってないかなぁ…
あと、誤字のご指摘ありがとうございました。間違いなく間違って(?)おります、修正して参りました。
>二人目の名前が無い程度の能力様
そう言って頂けますと幸いに思いますww
>三人目の名前が無い程度の能力様
そう言って頂けますと、とてもありがたいです。
>四人目の名前が無い程度の能力様
大変嬉しいお言葉、ありがとうございます。
>五人目の名前が無い程度の能力様
根が単純なもので(笑)
でも、それで満足していただけたのなら幸いです。
>六人目の名前が無い程度の能力様
なるべく、音とか情景描写とかを文字で『映像化』できるよう、出来ないなりに頑張ってみましたので…そう言って頂けますとありがたいですww
>七人目の名前が無い程度の能力様
アドバイスとご感想ありがとうございます。
確かに、ラストが駆け足になってしまったと思います。これからは、もっとそういう部分に気をつけていこうと思います。
>BIG-Y様
おおっ、そう言って頂けますとww
>ドライブ様
過分なお言葉、本当にありがとうございます。
描写についてですが、以前苦手にしていて、それをどうにかよくしようと頑張ってきていたので、そう言って頂けて、とても嬉しいです。これからも、もっといいものが書けるように頑張りたいと思います。
メリーは…どうしても、ブックレットを読んでの第一印象が『筍』だったのでww
>SETH様
あらがとうございます。私も食べたい…(笑)
>翔菜様
目指したものが的確に突かれていますねww目指した形としては本当にそういうものだったので…
…うん、的確すぎてお返事が思い浮かばないので一言、ありがとうございました。
>翼様
幻想らしい幻想…うまいですね。
そして、そう言って頂けるとこちらも嬉しいですww
>八人目の名前が無い程度の能力様
こちらこそ、嬉しいお言葉をありがとうございます。
>九人目の名前が無い程度の能力様
そう言って頂けますと本当にありがたいです。
ご都合主義はやはり私の力不足です。ありえない位に幸せな結末を、ご都合主義に感じられないように書くこと…それが私の将来的な目標なのですが、その道は遙かです。
えっと、念のため、上の文は皮肉とかではありません。自分でもどうしてもそう感じてしまう…そういった部分を突かれて、とてもありがたく思っています。いつかはちゃんと書けるように頑張ります。
要所要所で補充されてあったので読み切る事が出来ました。
そして舞台裏で誰が動いているのか、想像する楽しみもありました。
最後、グッと来ました!ありがとうございました。
オリキャラが結構立っている作品でしたが・・・
メリー・蓮子の漫才などいい味出してました!
八満 羽馬 百合 これからの人生に幸あれ!
>真十郎様
た…確かに不足気味だったかもしれないですねorz
グッときたとか言って頂けますと、こちらの方がグッときます。
>十人目の名前が無い程度の能力様
やはりですか、里の普通の人…と考えた時に、どうしてもオリキャラになってしまいまして…ふむむ。しかし、そう言って頂けましたなら感謝感謝なのですよ♪
ありがとうございました
この二人の旅はやっぱり読んでいて面白いです。
素晴らしい作品でした。