1.鬼穴に入らずんば酒を得ず――午後九時頃
「今宵は雪見酒と洒落こもうぜ」
勢いよく開けられた窓硝子から、粉雪が流れ込んでくる。
霧雨魔理沙は己の頬に触れたそれを、舌先でそっと拭った。
それはもはやただの水滴に過ぎなかったが、確かに冬の味がした。
「寒いから、早く閉めてくれると嬉しいわね」
この家の主であるアリス・マーガトロイドが、繊細な硝子細工のグラスを片手にため息をついている。
今日の気温は確かに低かった。
先走りの春がやってきてもおかしくない時期なのに、雪が降っている程である。
恐らくは、これが今冬で見られる最後の雪なのだろう。
――その折角の雪をお前と鑑賞したかったというのに、つれないヤツだぜ。
魔理沙は口を尖らせ、少々捻くれた発言を試みる。
「その悪趣味なグラスに入った酒を飲めば、温まって寒くなくなるはずだぜ。そうすれば、窓を閉めなくともそんなことを言うお前の口の方が閉まってくれる訳だ」
アリスは嘆息した後、グラスに可憐な唇をつけた。
白磁の小瓶のような喉が、こくりと動いた。
「匂いで予想がついたとはいえ、このお酒はやっぱり日本酒みたいね……とても美味しいわ。こんなに美味しいお酒は初めてかもしれない。高名な銘柄の大吟醸の中取りかしら? さて、私が飲んだらこの銘書きのない酒の詳細を教えてくれる約束よね」
アリスの顔からは、寒さに対する不満の色は消え失せていた。
それ程にその酒の旨さは格別のようだ。
アリスの目前の机の上には、透明な小振りの瓶が置かれている。
その瓶にラベルの類はなく、実際に飲むまでそれが酒であることさえ不確かだった。
「その酒の名前は『鬼の涙』だ」
「変わった名前ね。聞いたこともないわ」
アリスは目を丸くしながらも、『鬼の涙』の入ったグラスと幾度も口付けを交わしている。
「そりゃそうだ。何故なら私がつけた名前だからな」
アリスの方から、ごほごほとむせる音が聞こえてきた。
魔理沙が噴き出すのと、小柄の人形がお冷を持ってくるのは同時だった。
「はは、そんなに慌てて水を飲むほど酔いがまわったのか? お酒は自分のペースを把握して無茶しないよう飲むものだぜ」
「……お酒に関わらず、私のペースをいつも乱しているのは誰かしら。それで、この便宜上『鬼の涙』はどういった経緯で手に入れたものなの? まだ名前の付けられていないどこかの逸品でも分けて貰ったのかしら。それと、鬼の涙なんて大層な名前をつけた理由を知りたいわね」
うっすらと赤みがかった頬のアリスが、うろんげな視線を向けてくる。
魔理沙の胸は一瞬だけとくんと脈打った。
アリスと杯を酌み交わした事は多少なりともあるが、今日のアリスの雰囲気はいつものそれと若干異なっていた。
心なしか、いつもより頬の赤みが強いように見える。
――本当に飲むペースを見誤ったのかもな。
「その酒は萃香の所から勝手に借りてきたものだ。やたら大層に扱っていたから、ずっと気になっていたんだ。今頃文字通り鬼の目にも涙を浮かべているのかもな。だから『鬼の涙』と名付けたんだ」
アリスのほんのりと色づいた頬がハリセンボンのように急激に膨らんだかと思えば、その後ゆっくりとしぼんでいった。噴出しそうになった所を、酒の旨さによってどうにか堪えたのだろうか。
「勝手に借りたって、ようはかっぱらっただけじゃないの! それもよりにもよってあの鬼からだなんて……どうなったって私は知らないわよ」
アリスは額に手を当て、ため息をついた。
「知らないってお前、もう飲んでいるだろう。お前の言葉通りなら、お前はもう立派な私の共犯者じゃないか」
魔理沙はアリスに向けて、にかりと歯を見せて笑った。
アリスは陸にあげられた魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、言葉を発することはなかった。
「さて、晴れて共犯者になった私達の門出を祝って乾杯でもしようぜ」
魔理沙はアリスの目の前に置かれた『鬼の涙』の瓶を手に取った。
素面の状態でアリスをからかいたかったので、まだ一口たりとも口をつけてはいない。
速まる鼓動を抑えられないまま、瓶の口を傾ける。
芳しい液体がグラスに注ぎ込まれる。
たったの数秒で酒は流れてこなくなった。
魔理沙は目をまんまるに見開いて、酒瓶を上下に振るった。
数滴のしずくが垂れるばかりである。
「アリス。もしやお前、ほとんど残さず飲んだな?」
アリスが魔理沙に向けて、にかりと歯を見せて彼女らしくない笑みを見せてきた。
魔理沙は陸に上げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、言葉を発することは出来なかった。
とりあえず、グラスに2cmほど注がれた液体を口に含む。
その旨さは、筆舌につくし難かった。
グラスが空になるまでにさほどの時間はかからなかった。
逆さにしても、しずくも垂れてこない。
魔理沙は、己の目にうっすらと涙が溜まるのを感じた。
幕間 酒は天下の回りもの――午後九時頃
「寒いけど、雪と月を観賞しながらのお茶は風情があるわね。冷めるから早く飲んだほうがいいわよ」
博麗神社の縁側に腰掛けた博麗霊夢は、急須で二つの茶碗にお茶を注いだ。
粉雪が湯気の中にひらりと舞い降り、溶けてゆく。
「ありがと~。ほんとに雪月茶は日本の美観を表しているね」
霊夢の隣では、伊吹萃香が出されたお茶に舌鼓を打っている。
「まあ、確かにお茶も花は咲かすけれど……って今更だけど、こんな天気のこんな時間にわざわざ訪ねてきたのはどうしてなのかしら?」
「魔法の森に住む人間の魔法使いに、面白いものを盗まれてね。その人間の家に向かう途中に寄ったのよ」
お茶を一口すすり、一息ついてから霊夢は答える。
「取り返したいのなら、急いだ方がいいわね。盗まれた物が消費できるものだとしたら、なおさら。魔理沙はそれを使うことに躊躇いを覚えないわよ、きっと」
「使われる前に行きたいんじゃなくて、使われるまでここで待っているの。鬼からものを盗んで、ただで済むと思ったら間違いよ」
霊夢は眉間にしわを寄せ、小首を捻った。
萃香は満面の笑みを浮かべて言葉を続ける。
「私が盗られたお酒は、ただのお酒じゃないの。いわくつきのものなんだよ」
2.残り酒には福がある――午後十一時頃
「だからね、何度も言っているけどペーパーマッシュドールは広義の意味ではコンポジションドールに含まれるけど……って、ちゃんと聞いているの、魔理沙?」
――頼むから、日本語を話してくれ。
「あー、ちゃんと聞いているぜ。お前の言葉はしっかりと右の耳から入って左の耳から抜けているよ」
「そう、ならいいんだけど。それでね……」
――完全に酔いが回っているな、こいつ。
魔理沙は生焼酎を自分のペースで飲みながら、アリスの奇怪な言語を聞き流していた。
人形の話を振ったあたりが、間違いだったのだろうか。
いや、そもそもアリスが人の事を考えずに酒を飲み尽くしたあたりで気付くべきだった。
魔理沙とアリスでは見ている景色は同じでも、見ている世界は異なっているのだと。
「そうだ、アリス。ちょっと窓を開けて外でも見ないか。雪が強まって窓を閉めてから見ていないだろう。きっと積もっているぜ」
魔理沙はアリスの肩に手を添え、窓の方へ向かった。
アリスの足取りは若干頼りないが、足元がおぼつかないとまでは言えない。
おぼつかなくなる前に、アリスを夜風に当てて酔いを緩和したいのが本音であった。
勢いよく窓を開け放つ。
冷たい夜風が、うっすらと靄のかかっていたような魔理沙の思考をろ過していく。
夜空を染めていた降雪は退散していたが、アリス邸の庭には白い絨毯が敷かれていた。
「これはいいな」
考えるより先に、魔理沙の口が動いていた。
アリスに視線を送ると、彼女もまたじっと庭先を見つめていた。
あれだけ魔理沙にとって奇怪な言語を発していた口も、今は閉ざされている。
――やはり酔いには夜風が一番みたいだな。
「ねえ、魔理沙。庭に出ましょう」
どうやら、アリスは全身で夜風を浴びることをご所望らしい。
二人で白いキャンバスに足跡をつけながら庭先に出る。
足の裏に感じる雪の感触や、冷風が魔理沙の意識をきりりと引き締めてくれる。
これならば、アリスも口数を減らしてくれるだろうか。
当のアリスは雪の上に屈んでおり、俯いていた。
「アリス?」
返答はなかった。
アリスは白い地面をじっと睨んでいる。
「どうした、気分でも悪いのか?」
魔理沙はアリスの隣に屈み、顔色を伺う。
アリスの満面の笑みが、眩しかった。
「うわっ」
不意にアリスが魔理沙の手を取り、自分の体ごと後ろに倒れこんだ。
二人揃って雪の上に尻餅をついてしまった。
「ふふふふふ、魔理沙ってばお茶目さんなんだから」
「……お茶目さんって、それはお前の方だろうが」
アリスの笑顔のあまりの無邪気さに、魔理沙は怒りという感情を忘れてしまった。
胸中を占めるのは、互いの役割を見失ったような不思議な感覚だった。
「魔理沙は本当にしょうがないわね。付き合ってあげるから、この雪で人形を作りましょう」
――なんだそりゃ。
そこに到るまでにいったい幾つの会話が省略されているのだろうか。
アリスはとても嬉しそうな表情で、手近な雪を集めている。
いつものすました笑顔よりも、ずっと綺麗な笑顔だった。
だから、魔理沙は手近な雪を負けないように集めだした。
アリスはいざ人形作りにとりかかると、酔っているとは思えないほど真剣な眼差しを見せた。
魔理沙とて頑張るが、雪の扱いは非常に難しく、おおざっぱな人の形を模すだけでも骨である。
二人揃って時間を忘れて、雪を用いての人形制作に耽った。
「出来たわ」
長い沈黙を破ったのは、アリスの嬉しそうな一声だった。
魔理沙はその声にびくっと肩を大きく揺らし、あわてて製作中のものを腕で隠した。
アリスの作った雪人形は、実に見事なものだった。
純白のドレスを着た少女の姿が、魔理沙の目に映った。
雪と手だけで命を吹き込まれたものだとは、とてもじゃないが思えなかった。
魔理沙は一瞬、言葉を忘れて見とれてしまった。
「ま、まあまあだな」
精一杯の強がりだった。
「そうね。もう一度やり直せば、もっと良いものが作れる自信があるわ。さて、魔理沙が作ったのはどうなの? 見せて欲しいわね」
「わっ、ば、馬鹿! まだ途中だから見ちゃ……」
魔理沙の必死の制止も、酔っているアリスには通じない。
両手をアリスに掴まれた魔理沙は恥ずかしさから、己の作った人形から目を離した。
「あら……」
アリスの声に導かれるようにそれを見ると、やはりひどいものだった。
とてもじゃないが、鑑賞に堪えうる出来とは言えない。
それを題するなら、『直立するヒトデ』がうってつけだろう。
冷静に見てみれば腕らしき箇所の関節が変な角度に曲がっているし、右足と左足とで長さも異なっている。
とても人の形と言える代物ではなかった。
「何だよ。遠慮せず馬鹿にすればいいだろう」
魔理沙は目頭の熱さを感じながら、アリスの手を払った。
恐る恐る、アリスの表情を伺う。
アリスの満面の笑みが、そこにはあった。
「どうして馬鹿にしなきゃいけないのよ。こんなにも素敵なのに」
その言葉を聞いて、魔理沙は腹を立てた。
あまりにも見え透いたお世辞で、貶されるよりも悔しかったのだ。
「ふざけるのはよせ。これのどこが素敵だと言うんだ」
それでも、アリスの笑顔は曇らなかった。
「本当に素敵よ。私は人形に関してお世辞なんて言わないわ。確かに形は変わっているけど、この人形からは魔理沙の『人の形に近づけよう』という想いがひしひしと伝わってくるもの。そういう意味では、私の作った人形よりもずっと人に近いわ。貴女らしいとても強い心が詰まっているもの」
その言葉を聞いて、悔しさではなく嬉しさから魔理沙の頬を液体が伝った。
恥ずかしさのあまり顔を伏せたまま、言葉を返す。
「ありがとよ」
それから一分ほど待っても、アリスからの返答はなかった。
上目遣いでこっそりと様子を伺うと、アリスの目蓋は閉じられていた。
耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……何だよ。人がせっかく礼を言ってやったのに。こんな所で寝たら風邪ですめば良いほうだぜ」
言葉とは裏腹に、思わず魔理沙は笑っていた。
アリスの身体を抱きかかえ、家の中へと入っていく。
その途中で、一度だけ庭先を振り返ってみる。
バランスを崩した『直立するヒトデ』が、アリスの作った少女に寄りかかっていた。
補足 酒は友を呼ぶ――午前二時頃
「なるほど。これがそのいわくつきのお酒の効力ということね」
アリス邸の屋根の影に身を隠した霊夢が、月夜に向けて話しかけた。
その視線は、アリス邸の無人となった庭先に向けられている。
その言葉に応じて、霊夢の隣の空間に異変が起こった。
何もない空間から、萃まるようにして一人の少女が姿を現したのだ。
「あのお酒を飲んだ者は人妖を問わず、不思議なことに皆決まった酔い方をするの。普段酔わない人でも自分の欲求に素直になるというか、普段遠慮して言えないことを言ったり、出来ないことを平然とやってしまうのよ。それで、あの二人がお互いの悪口でも言って喧嘩してくれれば見ものだと思ったのに……」
萃香は不満そうな面持ちで、大口を開けて欠伸をした。
霊夢はくすりと笑った。
「私としては、喧嘩よりよほど面白いものが見られたからよしとするわ。普段あんなにも澄ましたアリスが魔理沙と一緒に雪で人形制作だなんてね」
萃香は眉間にしわを寄せ、首を傾げている。
「でも、納得できないのは魔理沙よ。結局あのお酒を飲まなかったのかな。変化が見られなかったもの」
霊夢は再び、くすりと笑って見せた。
「魔理沙はいつだって、自分の欲求に素直じゃない。それに、アリスと一緒に折角の雪を鑑賞したいとでも、こっそり思っていたのかもね」
了
だが…じっくりと傾けて酒だけで味わうには悪くない。
…阿呆な前置きはともかく、甘ッ!しかしそれがいい。
子供のようなアリスを鮮明に想像して幸せになってしまいました。
ええ…ヒトデ以外はorz
最後の霊夢の言葉に魔理沙をとてもよく理解してる事が感じられて良かったです。童心に返るアリスも可愛いです。
そうきますか……面白かったですよw
吹かずにいられないってww