私には、世界を灰色に変える力があった。
それはまるで緻密に描かれた絵画の様。
私が念じれば、いつだって世界は動きを止めた。
それはまるで粛然と佇んだ彫刻の様。
水は流れるのを止め、何も語らない。
風は吹くことを戒め、香りはしない。
音は響くことを諦め、静寂を織成す。
光は帯状に身を留め、とても無機質。
しかし、その世界には色彩が欠けていた。
林檎も、空も、鳥も、人も、友達も、パパも、ママも。
ひとたび私が止まれと思うと、時計の針は仕事を投げ出す。
世界から色が失われる。
ただひとつだけ、この灰色がかった世界にも色のついているものがある。
この私自身、だ。
それが、この灰色しかない世界において、私だけが動ける秘密なのかもしれない。
全てが灰色に染まったこの世界で、私は独り仲間外れ。
そこでの私は何だって出来た。
一を教われば十で返す。
時間は私を束縛しない。
そこでの私は孤独だった。
動かぬ両親を前にひとり泣く。
時間は皆を束縛する。
この力を使えば何だって出来る。
幼い私は純粋だった。
この頃の私は、常に灰色の世界と共にあった。
幼い私はそれが当たり前だと思っていた。
何故皆はこの力を使わないのだろう。
幼い私はそう思った。
この力を使えば、皆もっと楽が出来るのに。
幼い私は何も知らなかった。
=========
友達が出来ると、外でもよく遊ぶようになった。
この頃、私たちの間で流行っていた遊びが鬼ごっこだった。
その日は私が鬼。
何ら問題はない。
鬼ごっこで私が気を付けなきゃいけないことは、数を数え間違わないようにすることだけ。
私が十を数える間にみんな思い思いの方向に散らばる。
――――はーち、きゅーう、じゅーう。
さて、だれを捕まえようか。
あの灰色の世界に行けば、人を捕まえるのなんて簡単だ。
時よ止まれ。
別に相手はだれでもいい、速い足など必要ない。
このとき私の目にとまったのは、十数メートル先にいた男の子。
あの子にしよう。
私は悠々と歩いてその子に近づく。
時よ戻れ。
つかまえた。
私がそう言うと、男の子は吃驚したようにこちらを見た。
はい、鬼こーたい。
男の子は、おかしいなぁと呟きながら首を傾げた。
そんなとき、私はふと思ったのだ。
みんながこの力を使わないのは、しちゃいけない事だからなのかもしれない。
あの絵画と彫刻しかない世界で、私の他に動いてる人を見たことがないもの。
きっとそうだったに違いない、これは使ってはいけないものだったのだ。
みんながしないなら――――私もしない。
その日から私は、もう灰色の世界に行くのをやめにした。
だが、私は知ることになる。
灰色の世界、それは私だけが持つ特別な力だということに。
=========
ある時、みぃがいなくなった。
みぃとは仔猫の名前。
その可愛らしい鳴き声から、みぃという名で呼ばれていた。
野良猫なのだが、とても人懐っこく愛嬌がある。
その黒い毛並みをした仔猫は、たちまち街中の人気者になった。
街のみんながみぃにミルクを飲ませに集まり、時に食べ物をあげたりもした。
みぃのおかげで、みんなその日を笑顔で過ごせた。
みぃは街のみんなに愛されていた。
私もみぃが大好きだった。
だから、大人も子供も一緒になって、みんなでみぃを探した。
みぃはすぐに見つかった。
木に登ったまま降りられなくなっていたのだ。
そこは、町外れにある銀杏の木だった。
木というよりも、むしろ樹木と言った方が正しいのかもしれない。
銀杏といえどもその幹は太く、そして何より大きかった。
私のパパのパパ、そのまたパパよりも長生きしてるのだ。
一番下の枝でさえ、牛舎の屋根よりも高い。
その樹の上でみぃは、『みぃー、みぃー』と絶え間なく鳴き続けている。
懸命にこちらに助けを求めているように思えた。
この時、既にみぃがいなくなってから半日以上が経過している。
このままでは、いつ力尽きてしまってもおかしくなかった。
次第に人も集まりだした。
太陽も傾き始め、夕日は世界を朱に染めようとしていた。
みぃが木に登ってから、もうかなりの時間が経っている。
みぃも時より思い出したように『みぃー…』と、弱々しく鳴くだけ。
その小さな身体がもう限界なのは明らかだった。
みぃを助ける為、一人の男の子が木に登ると言い出した。
その子のママは「お願いだからやめてちょうだい」と泣きながら懇願する。
落ちれば怪我では済むまい。
しかし、事態はもう一刻の猶予も無い。
誰かがやらねばみぃは助からない。
そこにいる全員が解っていた。
かといって大人の体重では枝が耐え切れないのだ。
だったらお前がやってみなさい、その子のパパは優しく言った。
なるほど確かに男の子は木登りが上手かった。
みぃがいるのは、そこらの軒先より遥かに高い銀杏の樹木の枝。
だが男の子がそこまでたどり着くのに、ものの一分とかからなかった。
しかし、怖がるみぃは寸での所で枝の先へと逃げてしまう。
後を追うように男の子も枝へと足をかけた。
枝が大きく撓る。
「ひっ」
私の隣にいたおばさんが声を漏らした。
幹に対し、枝はあまりにも細い。
あんなにも細い枝だ、いまに折れてもおかしくはない。
男の子が腕を伸ばすも、みぃはするりとその手から逃れる。
そしてその体躯をさらに枝先へと進めた。
枝がみしみしと軋みだす。
隣のおばさんが悲鳴をあげた。
泣き出してしまう女の子もいる。
男の子のママは、もう見ていられないと両手で顔を覆っていた。
みんなが取り乱す中、私は妙に冷静だった。
私には分からなかった。
どうして男の子が力を使わないのかを。
だって、時を止めてる間に助ければいいだけのことじゃない!
みぃは落ちた。
まる一日近く鳴き続け、もう歩くことすら覚束無かったのだ。
男の子は、「みぃ、こっちだ! 戻るんだ!」と、必死に叫んでいた。
みぃは、そんな男の子の方をちらりと見て――――そしてバランスを崩した。
力なんか使わなくても、それはスローモーションのような光景だった。
みぃはゆっくりと地面に吸い寄せられていく。
男の子が何かを大声で叫んでいた。
おばさんの悲鳴は、もはや声になっていなかった。
何故、使っちゃいけないの?
何故、だれも助けようとしないの?
何故、みんなは灰色の世界に行かないの?
何故、みんなは――――みぃのことを見捨てるの?
何故、何故、何故、何故 何故、何故、何故、何故、何故、何故
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない
わからない。
わかりたくもない!
誰もやらないなら――――私がやってやる!!
そして私は使ってしまった。
私だけが使えた特別な力。
世界を灰色に変える力。
呪われた力。
世界が静止する
舞い散る銀杏の葉が重力を無視する
女の子の涙はもう頬を濡らしはしない
おばさんの悲鳴は耳に届かない
樹上の男の子も腕を伸ばしたまま固まっている
全てのものが動くことを放棄していた
誰も彼もが灰色をしていた。
「ぐすっ――ひっく――――ひっく」
私は、自分が泣いているのに気付いた。
周りにはこんなにも沢山の人がいるのに、私はまた独りぼっち。
誰も私を見てくれない。
誰も私に応えてくれない。
この、彩を失った世界で私は思う。
あの男の子も、結局最後まで時を止めようとはしなかった。
みぃに会えなくなってしまうというのに、だれも時を止めなかった。
私は声をあげて泣いた。
もう抑えることは出来なかった。
泣き声は誰にも届かない――
そうまでして使ってはならないこの力は何なのですか。
そんなにも悪いことなのですか。
私はいけない子なのですか。
わからない、わからない、わからない。
わかりたくもない。
みぃは、地面から数十センチのところに浮いていた。
まさに間一髪。
まばたき一回分。
きっと自分の身に何が起きたのかも分かっていないのだろう。
動かぬみぃの瞳は、沈む夕日をじっと見つめていた。
幼いこの仔猫は、生き死にというものが分かっているのだろうか。
いや、分からないだろう。
私にだって分からない。
だけど、これだけは自信を持って言える。
みぃは死ぬべきではない。
それだけは分かる。
私はみぃに触れた。
その頬にそっと口づける。
ひょっとすると、みぃもこの世界で動けるようになるんじゃないか。
そんな儚い期待を込めて。
しかし私の持つ色は、みぃの灰色と混ざり合うことはなかった。
涙なんてさっきので全部だと思っていたのに、僅かに視界がぼやけた――
それから私は、しっかりとみぃを抱きしめる。
まずは慣性を殺さないと。
あとは世界を戻すだけ。
あぁ、何だか身体がくたくただ。
午前中はみぃを探して街中を走り回った。
そういえば、お昼ご飯も食べていない。
力を使ってしまったことをみんなに謝ったら、お家に帰ってぐっすり眠ろう。
怒られるような事をしたとは思っていない。
力は使ってしまったが、おかげでみぃは助かったのだ。
きっとみんなも許してくれる。
そして明日、元気なみぃに会いに行くのだ。
それはとても素晴らしいことのように思える。
うん、そうしよう。
そう呟いた私は、みんなの待つ世界に戻った。
そして私は自分が他人とは違うということを知った
みんなには灰色の世界が視えないということを知った
大人たちは私を虐げた
友達は口を利いてくれなくなった
両親は目も合わせてくれない
それからの私は本当に独りぼっちだった
涙は出てこなかった
みぃを抱えて戻った私を迎えたのは、人々の奇異の眼差しだった。
大人たちは口早に捲くし立てる。
いったい何が起きたのか、と。
何故みぃは無事なのか、と。
お前はさっきまで私の隣にいたじゃないか、と。
そして。
いったい――お前は何をしたのか、と。
それからのことはあまり憶えていない。
思い出すのも辛かった。
しかし、街の長の言葉だけは、今もはっきりと耳に残る。
『業に入らば業に従え。その業からお前は自ら進んで出て行った。
可哀想だが、もうお前をこの街に置いておく訳にはいかない』
そうして私は居場所を失った。
=========
――――あの日から、もう幾年かの歳月が過ぎていた。
私はいま、月の光も満足に届かぬ鬱蒼とした森の中を歩いている。
故郷を追われ、あてもなかった私は各地を放浪とした。
背だって伸び、かつてのあどけなさも残っていない。
そろそろどこかに落ち着くのも悪くないかもしれない。
もう人前であの力は使わないと決めたのだ、居場所くらいは見つかるだろう。
しかし、行けども行けども森は終わらない。
そろそろ森を抜けてもよい頃なのだが……。
おかしい。
霧まで出てきた。
少し急ぐべきだろう。
そう思ったとき、急に森がひらけ、私は大きな湖畔に出会う。
それは幻想のような光景。
雲間の月は目も眩むような紅。
湖面は月を飲み込み、まるで血のようにも見える。
ここはどこなのだろう。
この森に、このような場所があるという話は聞いたことが無かった――
『彼女は迷い込んだのだ』
遠くの岸辺には、煉瓦で出来たような赤い建物が見える。
このまま湖岸に沿って進めば行けないこともない。
仕方が無い、今晩はあそこに泊めてもらおう。
私は歩き出す。
『彼女は迷い込んだのだ』
『彼女が探していたのは、居場所では無かったのかもしれない』
『彼女は知らず知らずのうちに、死に場所を求めていたのかもしれない』
『彼女は辿り着いたのだ』
『幻想の地、悪魔が棲む古城』
『――紅魔館に――』
近くで見ると、その館は予想を上回る大きさだった。
これだけ立派なお屋敷だ、空きのベッドもあるかもしれない。
一時はどうなるかと思ったが案外道にも迷ってみるものだ。
そう思い門をくぐろうとしたとき、背後から声がかかった。
「こんばんは、可愛らしいお嬢さん。紅魔館に何か用かしら?」
気配は――しなかったと思う。
驚いた私が振り返ると、そこにいたのはまだ幼い少女だった。
私よりも幾つか年下に見える。
この館の娘なのだろうか。
そう思って私はおずおずと切り出す。
「道に迷ってしまったのです。今晩だけでも置いて頂けないでしょうか」
断られても仕方がないと思っていた。
しかし、返ってきたのは肯定でも否定でもない。
少女の言葉に私は耳を疑った。
「――貴女――人間にしては随分と怖いもの知らずなのね――」
私は見た。
少女の背に一対の暗い翼が在るのを。
「ヒトじゃ……ない」
少女が笑うのが分かった――
次の瞬間、世界はもう止まっていた。
それは初めて味わう未知の恐怖から。
それは初めて味わう生命の危機から。
だから、私は世界を灰色へと変えた。
――灰色の景色に風が吹き抜ける。
静止した世界が、徐々に色で満ちていく。
時間が動き出す。
世界が彩を取り戻したとき、少女の脇には一本のナイフが生えていた。
見ず知らずの土地を、さすがに丸腰で彷徨う訳にいかなかった私が護身用に持っていたものだ。
よもや役に立つ日がこようとは思ってもみなかったが。
ナイフは臓器までは達していない。
すぐさま死に至るようなものではない。
かと言って、放っておいて良いものでもないが。
自分の脇腹に、いつの間にかナイフが刺さっていたというのに少女は至極落ち着いていた。
「時間操作だなんて、人間のくせになかなか便利な力を持ってるのね」
あろうことか自らそのナイフを引き抜こうとする。
「死ぬ気? 出血多量を甘く見ない方がいいわよ」
そう、すぐさま死に至らないというのはこのまま適切に処置をすればの話。
いまナイフを引き抜けば、どうなるかは目に見えていた。
「そう……思うでしょ?」
妖艶に微笑んだ少女は、ナイフを一気に引き抜いた。
血は――出なかった。
「ど、どうして!?」
「時間操作がすごい力なのは認めるわ。けどね、それじゃあ私には勝てない」
『何故なら、私が操るのは運命そのもの』
そう言った少女の瞳は、血のような紅に濡れていた。
噂くらいは聞いたことがある。
「ヴァン……パイア……」
「御名答」
「まさか、こんなとこで会えるとはね。私は夢でも見てるのかしら」
「夢と現を区別して考えるのは人間の悪い癖よ」
「いったい今まで何人の人間を殺してきたの?」
「そう言う貴女は、自分が食べ残したパンの数を覚えてる?」
「ゼロ枚よ。パン派の私はパンを残したりしないもの」
何が可笑しかったのだろう。
少女は腹を抱えけらけらと笑い出した。
「いいわ、貴女気に入ったわ。ねぇ、私と賭けをしない?」
「賭けですって?」
「そう、賭けよ。私が勝ったら貴女の血を頂こうかしら」
「吸血鬼が血だなんて、いかにも過ぎて流行らないわ」
「私は貴女が欲しいのよ」
「じゃあ、私が勝ったら何をくれるの?」
「懐中時計――なんてどうかしら」
「時計?」
「えぇ、うちの魔女の特製よ。必ず貴女の助けになると思うわ」
「――のったわ」
=========
少女が夜空に舞う。
紅色をした満月が幼い少女の横顔を照らす。
さすがに理を弁えているようだった。
私の武器はナイフだけ。
いくら時間を止めれても、私には空を飛ぶ翼が無い。
あの高さでは投げるしかない。
だが、とも思う。
少女の方はどうだ?
少女は何も持っていなかった。
「いつまでそこに居るつもり? 降りてこなきゃ私を倒すことは出来ないわよ」
「遠慮するわ。私はここで十分」
少女のまわり、その大気が紅く歪んだ。
「なに――?」
その力はどこまでも人間離れしていた。
少女の周囲に突如現れた紅色は、球を成し地へと降り注ぐ。
耳を覆いたくなるような爆音。
目を瞑りたくなるような砂煙。
視界が晴れたとき、目の前には大きなクレーターが出来ていた。
「ね、ここで十分でしょ?」
確かにそのようだった。
少女の攻撃は続く。
私は衝撃に巻き込まれないよう地面を走らされた。
危ないと思えば時間も止めた。
そして、隙あらば反撃に出る。
けれど、時間を止めれる私と空を飛べる少女とでは、戦いの相性が悪い。
どちらも決定的な攻撃を与えられない。
埒があかないまま、時間だけが過ぎていく。
かと言って、両者は攻撃を休める気など毛頭無かった。
どんなに凄まじい攻撃さえも、当たらなければ意味は無い。
弓の鏃も鉛の凶弾も、私は見てから避けられる。
無限の時間は私のイージス。
少女の放つ攻撃さえ、私には触れることすら叶わない。
「ねぇ、貴女には聴こえるかしら?」
突然攻撃の手を休め、少女が喋り出した。
「聴こえてくるでしょう? 星たちの声が」
「星たちの――声?」
星が語りかけてきた。
私は耳を貸してしまった。
刹那、紅に煌く星たちは、その淡い光でもって私を拘束した。
「しまった!」
攻撃が来るのは解っていても、逃れる場所が残されていない。
これでは次を避けることは出来ない。
『スターオブダビデ』
ダビデの星とは言ったものだ。
点でしかなかった星々を結んだ紅の線は、さながら六芒星にも見える。
動けない私を少女の放つ紅が襲った。
利き足の自由を持ってかれた――
凄まじい力に弾き飛ばされ、地面を数度弾み、全身を強かに打ちつけた。
あまりの痛みで泣きそうになった。
しかし、痛がってる暇は無い。
今度は私が攻める番。
折れた足ではもう走ることは叶わなかったが、幸いまだ歩ける。
灰色の世界では速さは何の意味も持たない。
私はまだ戦える。
――何かがおかしかった。
――何かが根本からずれていた。
当たらない、当たらない、ナイフは少女に掠りもしない。
そんな筈は無い、避ける隙など与えていない。
「無駄よ、運命とは言うなれば可能性。
そして可能性を有しているのは何も生物だけじゃないの。
水にも、風にも、音にも、更には光にだって可能性は宿っている。
勿論そのナイフにだって。
ナイフが私に当たる可能性、私はそれを好きに出来るの。
そのナイフは、もう私を傷つけない。そのナイフは――もう私に刺さる運命に無い」
私が、何故武器にナイフを選ぶのか、少女も気付いているようだった。
戦いの最中、一度手を離れたナイフを回収するのは至難の業。
だが私は違う。
時間を自由に止めれる私にとって、そんな作業は造作もない。
外したからどうだと言うのだ。
手持ちが尽きたからどうだと言うのだ。
そんなことは関係ない。
ナイフを回収する手間など、私にとっては無いにも等しい。
少女もそれが解っているからだろう。
私の放ったナイフをことごとく粉砕していく。
このままでは、じきに私に打つ手は無くなる。
闇雲に投げていては当たらない。
かと言って、退く訳にもいかなかった。
一気に方を付けるしかなさそうだ。
私は、手始めにナイフを一本上空へと放った。
当たる何て思ってはいない。
そもそも当てる気がないのだから。
しかし、少女の意識は一瞬そのナイフへと向かう。
――いまだ――
残されたナイフの全てを、私は少女に向けて投擲した。
如何にその能力が化け物じみていようと、これは避けれまい。
無意識が作り出す一瞬の隙を突いたのだ。
こっちの意図に気付いた時にはもう手遅れ。
しかし、それは起こった。
文字通り、ナイフが私に刃向かった。
少女を目掛け飛んでいた筈のナイフが、その標的を私へと変える。
何をされたかは検討が付いた。
ナイフの運命を書き換えたのだ。
攻に廻っていた私は、途端に守を命じられた。
ナイフは弧を描き私に迫る。
そのゆったりとした動きは、さながらパヴァーヌを踊っているようだ。
「何を考えている? そんなものが当たるものか」
どうやら、さすがにナイフが持つ慣性までもを思い通りには出来なかったのだろう。
時間を停止させるまでもない。
私は、紙一重でナイフを避けようとする。
そして、少女の口元――その端がうっすら上がるのを見た。
――私は思い出す。
少女はさっき何と言った?
思い出せ、思い出せ、思い出せ。
少女はこう言わなかったか?
『私にかかれば、風や音、光までもが思い通り』
少女は確かにそう言ったのだ。
自然までもが彼女の意のままなのだ。
そんな彼女が、慣性を自由に出来ない――そんな事がある訳無い。
いけない、まだ何かある。
パヴァーヌが隣をすり抜けた時、それは紅い火球を伴った。
あと数瞬……あと数瞬それに気付くのが遅れていたら、私の命は無かっただろう。
何とか時を止めることに間に合った私は、すぐさまその場から飛び退いた。
火球は、先程まで私がいた地点を目掛け着弾する。
大地は捲れ上がり、地に刺さるべきナイフは衝撃で跡形も無かった。
ナイフは尽きた――
「残念だったわね。どうやら今ので打ち止めだったのかしら?」
――だが、私にはまだ保険があった。
先ほど少女の注意を奪うのに使った一本のナイフ。
その本当の狙い。
やがて勢いを失ったそれは、いずれ重力に負け地に帰る。
『ミスディレクション』
ナイフが少女の片翼を抉った。
――しかし、それでも少女は堕ちなかった。
「……油断したわ、面白い事を考えるわね」
そう言って、刺さったナイフを私の足元へ放った。
「どういうつもりだ」
「もっと貴女と遊んでみくなったわ。奇術師さん、次は何を見せてくれるのかしら?」
「……次は……貴女を殺してみせるわ」
自分に残されたナイフはこの一本だけ。
これを失えば、もう少女を倒す手段はない。
だが、灰色の世界にはまだ秘密があった。
それは、仕込みの要らないとっておきの手品。
ふたたび私は世界を越える――
ナイフが先ほどまでそこに在ったという、その現象自体を停止させる。
そしてナイフをちょっと動かす。
すると、そこに存在する事を義務付けられたナイフはその場に残る。
あとはその繰り返し。
ナイフはもう一本じゃない。
現象は幻象へ。
何度目だろうか、ふたたび世界が動き出した時、幾重ものナイフが少女を取り囲んでいた。
あらゆる角度から刃が少女を目掛け邁進する。
「――驚いた、そんなことまで出来るのね」
こんな時ですら、少女は何故か落ち着いていた。
更にこう続ける。
「けど、それももう終わりよ。
貴女の放つナイフは、もう私には当たらない。
いま私が弄ったのは貴女自身の運命。
これで、増えたナイフの運命なんかどうでもよくなったわね?」
ありえない光景を見た。
ナイフが少女を避けたのだ。
ナイフの進路がぐにゃりと曲がる。
少女はその場を動いてすらいない。
この時、運命というものに生まれて初めて恐怖した。
私の投げるナイフは――もう少女に当たらないらしい。
その事実が怖かった。
運命は偉大だった。
少なくとも、私の力ではどうしようもない程には。
その後も何度となく攻撃を試みたが、やはりナイフは当たらない。
私の放つナイフは少女を拒む。
そろそろ折れた足にも限界が来ていた。
これ以上攻撃を避け続けるのは厳しい。
この戦いも、もう長くは続かない。
決着の時が近づいていた。
――殺るか――殺られるか。
私は前者を選んだ。
実は、まだ一度も試していないことがある。
存在の停止と進行。
ナイフを増やす魔法の手品。
果たしてこの魔法は、動かぬ物だけにしか効かないのだろうか。
この灰色の世界には、たった一つだけ動くものがある――――この私自身。
幻象で、私を創り出すことは出来ないだろうか。
幻象が創り出した私。
それはもう私とは違う私だ。
運命の操作を振り解く。
少女の攻撃はもう目前にまで迫っていた。
迷っている暇は無さそうだ。
灰色の世界が創り出した私は、与えられた役目を終えると姿を消した。
やはり無機物と違って、ずっと……という訳にはいかない様だ。
だが、やるべき事はやってくれた。
さながらそれは刃で作られた密室。
抜け出す隙間は存在しない。
あの部屋を作ったのは私じゃない私。
そのナイフは少女を拒まない。
密室が閉じる。
一点に収束。
幾重もの刃が少女を飲み込んだ。
紅い少女はまるで薔薇。
生えるナイフは棘のよう。
少女は堕ちた。
=========
けれど、これで終わりではなかった。
それは私も同じことだったのだ。
私の眼前、そこには少女が放った最後の紅があった。
ここに存在するという事象で自らを縛った私は、この場を動けなかったのだ。
あの幻象はまさに捨て身の策なのだから。
だがあの方法でしか、もう少女を倒す手段は残されていなかった。
回避できる被害を回避しなかったのは初めてじゃないだろうか。
紅い衝撃をまともに喰らった私は、弾け飛び、地面に叩きつけられる。
骨が折れる音を聞いた。
血が溢れ出し、額から流れる血は視界を塞ぐ。
身体が言うことを利かない。
もはや痛いという感覚さえ無かった。
だが、私は知っている。
はやくトドメを刺さなければ。
私は知っている。
あれくらいで吸血鬼が死なないことを。
しかし、折れた私の足は動いてはくれない。
動いているものを静めるのは得意だったが、動かぬものを動かすことが私には出来ない。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け――動けっ!!
――駄目だった。
ここまで自分を不甲斐無く思ったことは無い。
悔しくて涙が零れる。
お願い、動いて――
血を流しすぎたのかもしれない。
途端に全身から力が抜け、私はその場に倒れこんだ。
はやく、はやくトドメを刺さなければ――――
=========
『――――――ジャリッ』
何かが地面を引き摺るような音で、私の意識は闇から浮上した。
『――――――ジャリッ』
どうやら、気絶していたらしい。
『――――ジャリッ』
どれくらい倒れていたのだろうか。
『――――ジャリッ』
あまり時間は経っていないとは思うのだが。
『――ジャリッ』
音がする…。
『――ジャリッ』
少女が近づく音がする。
運命は、やはり少女に味方するようだ。
力を振り絞り、半身を起こした私の眼前に、いまナイフを手にした少女が立っている。
殺される。
どうやら私は、ここで終わるらしかった。
こんなところで殺されるのも癪だったが、とりわけ思い残すことも見つからなかった。
こうなることも、また私の運命だったのかもしれない。
静かに眼を閉じその時を待った――
――眼を閉じてから、どれくらい経っただろうか。
待てども待てども最期の攻撃はやってこない。
時間なんか止めちゃいない。
「……どうした、殺すなら早く殺せ」
堪らずそう言って少女を睨み付けた。
「……では、そうさせてもらうわ」
――少女の攻撃は優しかった。
ゆっくりと、ただゆっくりと指で額を突付かれただけ。
そして死合が終わったことを告げられた。
「はい、これで被弾みっつ。貴女の負けよ?」
言葉の意味が分からなかった。
「なっ、なにを訳の分からないことを。
私はまだ生きている――――まだ戦えるんだ!」
「だれが殺してやるもんですか。業に入らば業に従え、よ。
ここではこれがルール。命のやり取りだなんて、そんな重いものは邪魔になるだけ」
『業に入らば業に従え』
かつての私は、そうやって居場所を奪われたのだ。
どうみても私の完敗だった。
「さて…と、じゃあ貴女。早速うちへ来てもらいましょうか?」
――あぁ、そうだった。
「血を……約束だものね」
眷族にされ、それこそ一生こき使われるのだろう。
私の唯一の救いといえば、時が止まるのはあちら側の世界のみだけだということ。
死ねない身体とはどんなものなのだろうか。
多分それは、変化が訪れないということ。
こちらの世界も、あちらの世界になってしまうということ。
それだけは嫌だった。
舌を噛み、やはりここで死んでしまおうか。
それも良いのかもしれない。
夢とも現ともつかないここにも、私の居場所は無かったのだ。
もう私には、どこにも居場所なんて無いのかもしれない。
それなら死ぬのも悪くない――
ここは死に場所に悪くない――
「あら、そういう約束だったかしら。あれはいいわ、忘れてちょうだい」
「――――え?」
「吸血鬼が血だなんて、いかにも過ぎて流行らない――そう思わない?」
「じゃあ……、一体何が望みなの?」
「貴女にはうちで働いてもらうのよ、眷族としてじゃなく――――ただのメイドとしてね?」
私の居場所が決まった。
もう歩くことすら出来なかった私は、少女に背負われていた。
「――いけない、忘れるとこだったわ、お互い自己紹介がまだだったわね。
私はレミリア・スカーレット、一応ここの主人をやってるわ。
それで、貴女のお名前は?」
「咲夜です――――レミリアお嬢様」
そして、死ぬまで貴女にお供しますと、私は声に出さずに誓った。
「咲夜か、いい名前ね。これからよろしく頼むわ、咲夜」
灰色しかなかった私の世界に紅が混ざる。
話も文も、考えて書き続けていればよくなってくるものなので、今後の成長に期待します。
次の作品、お待ちしております。
私は長い戦闘だとすぐに飽きて読み飛ばしがちなのですが、この作品の戦闘に限っては違ったのも良かったです。
でも長い文に馴れるのにシンプルな話を創るのは良いと思います。
次回に期待。
↓↓アドバイスが無いのであれば感想で良い訳で、それさえ無いのなら簡易評価で良いのでは? 之悪しからず
誤字ではなく異字で同義のことわざですか? 読んでて気になってしまいました。
お話は起伏を抑え目にしてあってハードボイルドな感じ。いや、ハードボイルド小説なんて良く知らないんですが。
きれいにまとまっていて読みやすく、読後感がよかったです。
■2007-03-20 05:56:47の奴は、下のコメの奴に言ってるように感じる。