―人間は食べ物―
あの妖怪はそう言った。
夏だった。これでもかってくらい夏だった。
全身全霊を込めて爆音を奏でるセミ達。灼熱の中、壊れたように笑いながらはしゃいでいる妖精達。人間の里ではお祭りが多くなり、ついでに妖怪も混ざって一緒に騒ぎ立てる。この季節はみんなが活発になる。
そんな中、わたしは今日も一人で森の中を当てもなくさまよっていた。森の外に出ると一応わたしを包んでる闇が太陽の光は遮断してくれるけど、地面から昇ってくる熱気はどうしようもないので結局は森に逃げ込む。森の中は少しじめじめしているけど、外に比べたら涼しくてかなり快適なのだ。
適当に森の中を漂ったわたしは、寝心地のよさそうな場所を見つけてそこに着地。ごろんと苔の絨毯の敷かれた岩の上に寝転んだ。わたしは森の匂いに包まれてすぐに昼寝を始める。
ふと目覚めた時には夜になっていた。
あんなに威勢のよかった太陽も今は影も形もなく、静かな闇がわたしを癒してくれる。春夏秋冬、太陽の光は気まぐれだけど、夜だけはいつもわたしに同じ顔を見せてくれた。
わたしは真っ暗な森の中で、昼寝をしていた大きな岩に座っていた。今日は新月なので、昼間わたしを包んでいた闇は今は引っ込んでいる。月に一度だけの闇のカーテンが晴れる夜。昼間闇超しに見たこの岩は黒い苔に覆われていたけれど、それが晴れた夜闇の中でもやっぱりただの黒い塊にしか見えない。試しに叩いてみると、確かに絨毯のような感触が手の平に伝わった。大きなあくびをしたついでに空を見上げてみる。黒く茂る森の天井が一面を覆いつくしており、細かく砕かれた空の欠片がちらほら見えるだけだった。
そんな黒い森の中、こちらに向かって光がゆっくりと近づいてくる。
「あ、食料発見」
―明かりを携えて夜を行くのは人間―
―明かりを持たず夜を行くのは妖怪―
光に照らされて大きい影と小さい影がゆらゆら揺れる。その二つは寄り添うように光にすがって時々一つの大きな影ができあがる。
わたしはそれまで腰を下ろしていた岩から飛び降りて彼らの目の前に着地する。実に三十日ぶりにわたしの姿が光に照らされた。
とすっ という音と一緒に足の裏に感じる柔らかい土の感触。その余韻に浸りつつ目の前の人間を見る。驚いた顔を浮かべる人間の少女と歩みを止める人間の女性。訂正、彼女らだった。
光に浮かぶシルエットでしか判断できないけど、二人とも肉付きはあまりよくないようだった。大きい方はひょろ長く、小さい方はわたしより背が低い。大きい方はまずそうだけど、子供は肉が柔らかいから少し痩せててもまぁいいか、とわたしは思い直す。
最近はこんな夜中に森に入ってくる人間なんてほとんどいなくなってしまった。だからこんな夜中に森に入ってくる意味をこいつらが知らないわけがない。寧ろ知らなかったとは言わせない。夜はわたし達妖怪の時間。それがここのルール。喰われるのが嫌なら大人しく集団の中に埋まっていればいいのだ。
わたしは周囲の闇を濃くする。
視界を奪い獲物を恐怖させ、こう告げた。
「あんたは食べてもいい人類?」
食料に出会った時にいつも口にするその言葉は、今ではある種の儀式のようなものになっていた。
わたしが何者なのか。私が何故ここにいるのか。その目的と意志。それらを纏めて伝達する言葉。
今までの経験からこの後の展開は大きく分けて三通りある。
武器を手にし、闇雲にわたしに向かってくるか。
踵を返し、闇雲にわたしから逃げていくか。
動くこともできず、その場で泣き出すか。
どれにしても次に向かう展開は同じだけれど。即ち、「いただきます」と。
だけど今回は違っていた。
「はい、そうです」
闇の中から凛とした声が返ってくる。
その言葉が目の前の人間から出されているものだと気付くのに少し時間がかかった。小さい方は怯えているのが何となくわかったので、大きい方が言ったに違いない。
あまりにもあっけない答えにわたしは少し戸惑った。
この人間は今自分が言った内容を理解しているのだろうか。わたしを超えるような力も感じられない、むしろ普通の人間に比べると明らかに弱々しそうなこの人間は。
それ以前にどうしてこのわたしに、この夜より暗い闇に恐怖しないのだろう。今は手に持つ明かりも闇に飲み込まれているはずなのに。
普段なら即座に頂戴するところだけど、わたしのこの問いに馬鹿正直に応えてくれた人間はこれが初めてだった。興味が湧いたのでわたしは聞いてみる。
「あんたって、ひょっとして馬鹿なの?」
ぷっ という声が聞こえる。目の前の人間に笑われたことに気付き、少し腹が立った。
「あぁ、ごめんなさいね。ひょっとしてあなたは噂に聞く闇を操る人食いさんかしら」
わたしも有名になったもんだ。
食べていいのなら遠慮することはない。どうやって食べようかと考え出したわたしに向かってさらに言葉が続けられる。
「意外と可愛らしい声ね」
気が抜けた。
「かあさま、何も見えないよ…」
子供が今にも泣きそうな声をあげる。
そう、
これが普通の対応だ。
こうやって泣き出した子供を優しく腹に収めるのがこれまでの日常だ。
なのに母親の方はなにをこんなに余裕ぶってんのかしら。
「娘の様子だと違いないようですね」
「その通りよ。そしてあんたはわたしの食料」
「わかってますよ」
絶対わかってないわ、こいつ。
「……ところで向日葵の綺麗な場所へ行くにはこの道で合ってるでしょうか」
いきなり話題を唯の世間話に変えられる。いくらなんでもこの唐突ぶりは不自然だった。そんなことでわたしの気は逸らせないわ。
「人の話は聞いてたの?」
「はい、私が食べられるということはよくわかりました」
「あんた本当はわかってないでしょ」
頭の螺子が飛んだような返事が返ってくる。
「ただ、二つお願いがあるんですが聞いてもらえますか?」
「わたしが食料の話を聞くとでも思ってるの?」
「一つ目はですね……」
無視された。
「私は食べてもいいですが、この娘は見逃してほしいのです」
「……かあさまっ!?」
子供の方が叫ぶ。
だけどわたしの方はそんなつもりはない。むしろ子供の方をくれるというのなら親の方は見逃してやってもよかった。わたし一人だと一度に食べきれないし、最初見たとき痩せこけててあまり美味しそうじゃなかったから。
「言うだけ無駄だと思っていいわよ」
「二つ目ですが、さっき言った場所に着くまで食べるのを待ってくれませんか?」
言いたいことだけ言うとそれっきりこの人間は黙った。
当然そんな願いは両方とも聞くわけもなく、獲物を料理するためわたしは闇を取り払った。わたしが本気で闇を張ると自分も周りがよく見えなくなってしまうためだ。途端に三人の姿が子供の持つ光に照らされて浮かび上がる。
今日は新月の夜。人間は月明かりを頼ることはできないが、この程度なら私には十分ものが見える。目の前の餌が動かないことを確認してわたしは二人に歩み寄る。
母親の着物に顔を埋めてしがみついている少女。弱い光に浮かび上がるピクリとも動かない母親。
二人の目の前まで来た私に向かって自然に、ごく自然に母親の手が伸びた。
なんの前触れも無く、なんの気配も出さずに。なのでわたしはその行動に対応することができなかった。
気付くとわたしは顔をぺたぺたと触られていた。
「っ!?」
思わず一歩飛び下がる。
……びっくりした。
さっきの会話は単に強がっていたものと思ってたけどそれは大きな間違いだった。
「さっきまでのは全部芝居だったのね」
殺気も妖気も霊気も感じさせなかった攻撃にわたしは思わず唾を飲み込む。
「うん、お顔の方も可愛らしいのね」
何を言っているのか、この人間は。
さっきの瞬間に何かされたのかと思って自分で自分の顔を撫でてみる。
「今まで馬鹿の振りをしていたからわたしの闇も気にしなかったわけね」
特に何かされた跡はわからなかった。
「それは違いますよ」
「じゃあ何だっていうのよ」
相変わらずこの人間からは何の力も感じられない。
「私の目では永久に太陽の光を見ることができないからです」
と、目の前の女は言った。
つまり……、私に会う前からこの人間は闇の中にずっといたわけだ。
「つまり私は目が見えないのです。なので失礼ながらお顔を触らせてもらいました」
いきなり言われて はいそうですか、と納得できるわけがない。まだ相手の力はわからないが、見た感じ隙だらけだった。体力勝負で人間が妖怪に勝てるはずはないので先手必勝。わたしは駆け出し、すぐにその距離が零になる。まだ相手は立ったままで動かず、空ろな瞳がわたしを向いている。獲物の頭部を砕くため、握り締めた拳をこの女の顔面に叩きつける。
が、あと僅かというところでわたしの手は止まった。風圧で女の前髪が微かに動く。
「……本当に見えてないの?」
当たったら人間の頭なんて吹っ飛ぶ威力のそれを向けられてもこの女は微動だにしない。
「止めて下さったのですね」
緊張していたのだろうか。光に照らし出された女の額に汗が浮かんでいる。
餌ではなく敵だと思っていたけど、これも完全な誤解のようだった。もしわたしを退治しようとしていたならば最初の接触で恐らく私は負けていた。今でさえ殺気も妖気も霊気も感じないのは本当に何も持っていないから、と言われた方がしっくりくる。
伸ばしっぱなしで疲れた腕を下ろす。下ろした先を見てみると少女の方は私を見て震えていた。
ごほごほ と咳き込む音がしたので、女をよく見てみると随分顔色が悪い。少なくとも食べて美味しそうだとは全然感じられなかった。
わたしは目を瞑ってみる。
光を断って、闇の世界に入っていく。
普段のわたしなら人間の目の前でこんなことは絶対にしない。
深く考えてなどいなかった。
ただ、少し気になっただけ。
今わたしの目に映っているのは瞼の裏。
外からの光を遮断しているはずなのに少女が手に持っている光源が暗がりの中はっきりと光っているのがわかる。
あぁ、多分これは違う。
こうじゃない。
わたしは目を閉じたまま闇を集めた。
さっきよりも濃く、深い深い闇がわたし達を溶かしていく感覚。
瞼の裏に見えた光が消え、いつもの黒色がわたしを迎える。
わたしの世界。
相手にこの世界を分け与えることもできるけど。心の底からこの闇を理解してあげられるのはわたしだけ。
頭の中が空っぽになり、わたしも闇に溶けていく。何もない世界。
この女はずっとこの世界の中で生きてきたんだろうか。
わたしはゆっくりと目を開く。
そこに待っていたのはさっきと同じような黒。
虫の鳴き声と少女のすすり声だけが今、この時間がついさっきまでの現実の続きだということを教えてくれる。
「何も見えないのに……」
闇の中わたしは呟く。
この女は向日葵の綺麗なところへ向かうと言っていた。行ったところで何も見えないのに。
「なんで太陽の畑に行くのよ」
そうわたしは聞いてみる。
「話に聞くとこの世のものとは思えない美しさということで、ただ単に一度行ってみたかっただけです。深い理由はありません」
女の声が聞こえる。なんだか答えをはぐらかされてるようだった。
わたしは闇を取り払い、世界が一転する。
森が現れ、人間が現れる。
「よろしければ一緒に行きませんか?」
太陽の畑は一度空の上から見たことがある。
行ったのが冬だったこともあるが、暗がりから見るそこはただ一面雑草の生えている何の面白みもない所だった。だけど今の季節なら大量の向日葵が生えている光景が拝めるらしい。急ごうと思えば夜明け前にはつく自信がある、しかしこの人間の足だと恐らく昼くらいまでかかるだろう。
だけど本当に何をしに行くのかしら。
「それに、そうじゃないとあなたにもう一度会えるかどうかわからないので」
この人間は自分が今ここで食べられるとは思ってないようだ。
なぜかわたしもこの場で食事をする気分じゃなくなっていた。
闇の中で生きているこの女が何を見に行くのか、わたしはそれが知りたかった。
「いいわよ。最後の望みくらい聞いてあげても」
別に行く途中に気が変わることもあるだろう。ただ単に今食べる気がないだけだ。
母親の方は安心したのか、急にその場に座り込んだ。隣で少女が「かあさま!?」と心配そうに叫んでいる。
「あはは……、ちょっと腰が抜けちゃったみたいです」
「そうでもしてくれないとわたしの威厳がなくなるわ」
女のペースに乗せられっぱなしだったわたしはその姿を見て少し満足した。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
真っ暗な森の中を一つの明かりが動いていく。
光が移動する毎に周囲の森が生き物のように変化していった。
あの後、私たちは少し時間をおいて森の出口に向かって歩き出した。私が先に歩き、それに連れて少女が母親の手を引いて後をついてくる。予想はしていたがこの人間達の歩みは遅かった。
最初は無言で歩いていたけど、先に口を開いたのはわたしの方だった。
「よく今まで無事だったわね」
夜は妖怪の時間。まして森の中は昼間でも妖怪や野犬がでてくるのに。
「ええ、一応魔除けの御札を持っていますので」
そういって母親は懐から一枚の護符を取り出す。そんなに強力なものではないけど、確かに魔除けの札だった。
「これのお蔭だと思いますが、これといって妖精や獣に襲われることはありませんでした」
「頭の悪い連中には効くんじゃないかしら」
本能に忌避感を訴えかけるような代物だったので、こういった連中には良く効くことはわかる。そのかわり少し力のある妖怪には効果が薄い。その証拠にわたしにとってその護符はなんの脅威にも感じられなかった。多分この符を渡した人間もこの親子がこんな森の中にまで来るとは考えてなかったようだ。
「まぁ妖怪には効かないけどね」
ふふん、と強がってみせる。
「やっぱり妖怪には効かないみたいよ」
「もらった時は妖怪にも効くって言ってたのに……」
見ると2人で話をしている。今ここで食べちゃおうか、と少し思った。
そんなこんなで森の道を行く。
人間が作ったのか妖怪が作ったのか、目的地までは踏み慣らされた道が出来上がっている。
「すみません、少し休みたいんですが」
振り返ったら母親が荒い息を上げて立ち止まっている。よくこんな状態でここまで来れたもんだ。
「別にいいけど」
5回目の休憩なのでもう慣れた。母親が木の根元に座り込んだので私もそっちに寄って行く。子供の方はわたしに怯えて母親の影に隠れている。
「聞きたいんだけどあんた達って心中しに行くの?」
親子の傍に立ってなんとなく思っていた疑問をぶつけてみる。
「まぁ、そんなものかもしれませんね」
荒い息を整えながら母親が答えた。
まぁ当然だろう。こういう道をいく時は普通なら人間の男がついてくる。いくら護符を持っていても、女2人だと「おいしい餌がここにいますよ」って言ってるようなもんだ。人間は何を考えているのかさっぱり分からない。
「珍しいわ、男が一緒じゃないなんて」
「えぇ、亭主は随分前に姿を消してしまったので」
「へー、そっちは美味しかったのかしら」
妖怪にでも食べられたんだろう。
「……あんなの、とうさまじゃないわ!」
適当に聞き流しているといきなり子供の方が叫んだ。
「こら、そんなこと口にしては駄目だと言ってあるはずです」
「だって、かあさまと私を捨てて行ったんでしょ!?」
「それ以上言ってはいけません」
母親の顔が急に強張る。なるほど、捨てられたのね。
「だからって子供連れて自分から餌になりにいくのはどうかと思うけどなぁ」
わたしがそう答えると、まだ何か言いたそうな子供を手で制止して母親がしゃべった。
「本当は私一人で行く予定だったんですが。この子もついてきてしまいまして」
「行こうって言ったのは私でしょ! だってかあさまもうすぐ死んじゃうんでしょ!?」
子供が泣きそうな声で叫んだ。あんまり大きな声出すと他の妖怪に見つかっちゃうかもれないんだけどなぁ。
「私が言い出したことなの、かあさまは悪くない!」
「ちょっとうるさいんだけど」
これ以上声を出されるのは色々と面倒くさかったので辺りを闇に染める。手元の光と子供の声が急に掻き消える。あ、今食べればいいんだ。そうすればこれ以上うるさくなくなるし、私のお腹も膨れる。
「というわけだから今食べちゃうことにするね」
そう言って闇を取り払った瞬間、パァン という音が鳴り響く。少しびっくりして二人を見ると、母親が子供を叩く音だったようだ。なんで顔のある場所がわかったんだろう。
私がぼーっとしていると、母親がしゃべった。
「すみません、二度と喋らないようにさせますので食べるのは待ってもらえませんか……?」
ひょっとして殺すってことかしら。食べるのと変わらない気がするんだけど。
「お願いします、もし娘を食べるようでしたら私から先に食べてください」
「……かあさま!?」
そう言った母親は頭と両手を地面につけた。何回か見たことがあるけど、たしか謝るときの格好だったかしら。その後みんな食べたけど。
今回もそうしようか思ったけど、ここで母親を食べると何を見に行くのかがわからなくなる。無視して子供を食べようかと思ったけど……。そうしたら多分母親もこれ以上進まなくなりそうだ。堂々巡り。
「着いたら食べることにするわ」
面倒くさくなったので、そう言ってわたしはそっぽを向いた。
「……ありがとうございます」
その後わたし達は道を進んだ。母親がいいつけたせいか、子供はそれっきり何もしゃべらなくなった。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
周りが明るくなり、鳥の声が聞こえるようになってきた。朝もやの立ち込める湿った森の匂いがし始める。ぽつぽつとセミの鳴く声も聞こえ出した。もう少ししたらまた騒がしい時間がやってくるみたいだ。すでにわたしは闇に包まれており、親子はわたしの闇に入らない程度に後ろを付いてきている。あの後は特に何も話らしい話はしていない。ただ黙々と歩き、時々休んだ。目的地もだいぶ近くなってきている。獣や妖精、他の妖怪にも特に会わなかった。まぁそれはお札以上にわたしがいるからなんだろうけど。
むこうに着いたらわかることなんだろうけど、ずっと気になっていたので聞いてみる。
「ねぇ、向日葵畑についたらあんたは一体何を見るの?」
「もちろん向日葵を見ますよ」
後ろから声が聞こえる。
ひょっとして馬鹿にされてる?
「あんた何も見えないんじゃないの?」
「二十年くらいこうなので、今では目で見えなくても少しはわかるんですよ」
あの時わたしの顔を撫でていたけど、今のあいつにはわたしの顔が視えているのかしら。
闇の中、自分の顔をぺたぺたと触ってみた。その感触を元に頭の中でわたしの顔を想像したけど、何も浮かんでこない。無理して想像したらなんかすごい変な顔ができあがった。
少ししてまた休憩をとる。
歩き出した時にはセミの声がかなりうるさくなっていた。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
気温がだいぶ上がってくる。もやも晴れ、セミの鳴き声が騒音になってきたころに、わたし達はもうすぐ目的地というところまで辿り着いていた。
「ひょっとして、太陽の畑はもうすぐですか?」
歩みを止めて後ろを振り返る。なんでわかったんだろう。
「そうだけど、なんでわかったの?」
「今までしなかった花の匂いが強くなってきたので」
向こうから歩いてくる女はそう答える。注意して匂いを嗅いでみても、わたしには苔と木の匂いしかわからなかった。試しに目を閉じて嗅いでみたけど結局同じだった。
「ずいぶん鼻がいいのね」
「まぁ今ではこれが目の代わりですので」
そんなもんなんだろうか。しばらく匂いに注意して歩いてみたけど、やっぱり森の匂いしかわからなかった。
遠くに森の切れ目が見える。
森の暗さに慣れていたためか、ぼぉっと白んでいるのが闇越しでもわたしにもよくわかった。さすがにここまで来るとこれまで気付かなかった花の匂いがわたしにもわかるようになってくる。この甘い香りがあの女にはずっと前から視えていたんだろうか。
「もうすぐ着くけど」
「それは助かります。実はもう足が棒の様になっていまして」
「最後に何か言っておきたいことはある?」
今度こそ女はちゃんと黙った。さすがに流す雰囲気じゃないってわかってもらえたみたいだ。
「よろしければ……」
落ち着いた声が聞こえる。
「後でこの娘を里の方まで送ってもらえないでしょうか」
馬鹿は死ななきゃ治らないのかしら。
「あんたを食べた後で考えることにするわ」
「よろしくお願いします」
いつもなら何か言ってくるはずの子供がしゃべらないので、後ろを見るとうつむいたまま歩いていた。まぁそんな願い聞くわけないけど。
森の切れ目から久しぶりに外に出る。
出口からは緩い斜面が続いていて、下の方には遠くまで続く向日葵の畑が一面に広がっていた。
闇色と黄色が混ざって灰色の海が揺らいでいる。
なんというか、予想通りの光景だった。
「よくこんなに沢山生えたもんだわ」
確かにすごかったけど、闇の中から見えるそこはただ向日葵が大量に生えているだけのものでしかなかった。
出口で待っていると親子がわたしに追いついた。わたしの闇を避けるように追い越して、畑が一望できるところまで歩いて立ち止まる。
「ここが、そうなんですね」
「そうよ、下の方にあんたの見たかったものが沢山生えているわ」
子供は完全に向日葵畑に目を奪われており、母親の横で立ち尽くしていた。口をぽかんと開けたまま固まっていて、間抜け面と言われればわたしはこの顔をまず思い描くだろうな、と思うくらい変な顔をしている。人間の見たこの光景の感動はわたしにはわからない。黒いカーテン越しに見えるそれらはゆらゆら揺れる水面みたいだった。
母親の方は2回深呼吸をするとわたしに言った。
「下の方に降りていってもかまいませんか?」
「いいけど探すのが大変だからあんまり中には入らないでね」
「大丈夫ですよ、もうこれ以上歩けませんから」
一瞬笑った後、母親は子供に手を引かれて斜面をゆっくり下っていく。
わたしはそれを見ながら踝くらいの高さの草の生える斜面に腰を下ろした。ここからだと見失うこともないだろう。柔らかい草の感触を確かめながら、わたしはもう一度向日葵畑を眺めてみる。風が吹いて畑が一斉に波打ち、強い花の匂いがわたしのところまで運ばれてきた。向日葵畑の周りの森からは相変わらずセミの声が聞こえてくる。森と山に囲まれるように広がっている畑の上空でセミ声がぶつかり合って、なんか変な感じだった。
下の方では花の境界まで2人が辿り着いている。母親の方は花を撫で、子供と一緒に畑の中に入り込んではしばらくするとまた出てくる。何回かそんなことを繰り返した後、斜面を少し登って畑の方を向いて2人並んで腰を下ろした。
今のあいつには何が視えてるんだろうか。
これで何回目になるかわからないけど、わたしは目を閉じて向日葵の匂いを嗅いでみる。
わたしは少しの間その光景を眺める。
……もうそろそろいいかな。
ぐる~
お腹が鳴る。
ここにくる途中であの女からもらった干し肉を食べてはいたけど、やっぱり物足りない。母親の方はわたしから逃げることなんてできないだろうから、子供の方をどうしようか。どっちかというと子供の方から先に食べたいんだけどなぁ。
「妖怪が人間の護衛なんて、珍しいわね」
え……?
いきなり頭の上から声がすると同時に絡みつくような妖気が私を包み込んだ。刺すような殺気でもなく、強い妖怪に感じるような圧迫感でもなく、体の表面になにかを塗りつけられていくような、ただ単に、気持ちが悪い。その妖気は徐々に徐々に、際限なく強くなっていき、息ができないくらい濃い妖気にわたしは覆われた。
「妖精がいきなりいなくなったからどうしたのかと思えば、こんな黒い塊に睨まれてたんじゃ逃げ出したくもなるわね」
くすくす という禍々しい笑い声。内臓がかき混ぜられるような感覚。なんで気付かなかったんだろう。こんな妖気、もしこの畑の向こうから出されていても気付くはずなのに。なんでいきなりこんなのが私の後ろに!?
後ろを振り向けない。
振り向いた瞬間殺されても全然おかしくない。
「どうしたの、私の声が聞こえてないのですか?」
今にも闇ごと覆い潰しそうなくらい妖気はその密度を濃くしていく。
自分がどこにいるのかさえわからない。
頭の中が恐怖でいっぱいになる。
カチカチと空しい音を立てているのはわたしの歯だ。
声自体は優しいはずなのに、まるで死刑宣告をされているかのようで。
「せっかくのお花畑なのに、その闇で隠してしまうのはもったいないとは思いませんか? 宵闇の妖怪、ルーミアさん」
名前を呼ばれた瞬間、本当に心臓を握りつぶされたかと思った。
「う……ぁああ!!」
後ろも振り向かずわたしは新たに生み出した闇を背後に叩きつけて上空に逃げた。
そのまま花畑の縁をなぞるように一気に森を目指す。
相手がなんなのか考えたくもない。ただ、あれ以上あそこにいたらダメだということだけが頭にあった。
すぐに森の壁が近づいてくる。
「いきなり攻撃してくるのはマナー違反ですよ?」
すぐ後ろからあの声が聞こえて思わず振り返ってしまう。
「……え?」
誰もいない。
さっきまでの妖気も嘘のようになくなっている。
「なんで……」
わたしは空中に停止してしまった。
目に映っている景色は、あれが出てくる前の静かな森と向日葵畑。
カチカチカチ
まだ鳴っている音はわたしの歯だ。
ふっ と風が吹き、さっきまで匂っていた花の香りが向日葵の海から運ばれてくる。
その中に少しだけ別の花の匂いが混じったような気がした。
いきなりわたしのすぐ後ろでさっきの妖気があふれ出し、全身にまとわりついた。
わたしの左の頬が触られてる。
後ろから手で、包まれている
背中に柔らかい感触が
「いきなり逃げないでほしいわ」
右の耳に温かく湿った吐息と同時に声が届く
視線を真横にずらすと、すぐ横でこっちを向いた女の右目がわたしを見ていた。
「ひ……ぁぁ」
体が動かない。動いたらそのまま頭を引きちぎられるかもしれない。
もう嫌だ! なんなのこれは!?
「暗くてよく見えなかったけど、可愛らしい顔をしてるのねぇ」
わたしの頬が舌先で舐められる。
抑えていた恐怖が一気に噴き出した。
「ぁああ!!」
がんっ
全力で頭をこの生き物に叩きつけた。
その途端私の顔が開放されたので、背中の悪夢から逃げるように前に飛び出した。
少し距離をおいて振り返る。耳の中ではわたしの血液がどくどくと脈を打って流れる音が聞こえていた。
「痛ったぁ……舌かんじゃったわ」
暗がりの向こうに見える何か言っているそいつは、ワンピースを着て手に折りたたまれた傘みたいなのを持っている。少なくともさっきの人間じゃなかった。
そういえば確かミスティアが話してたことがあった。
「随分な挨拶ねぇ」
普段なら咲きもしない花がそこらじゅうで満開になってたときの話だったはず。
「まぁ私だけがあなたの名前を知ってるのも失礼だと思うから言っておくわ」
(日傘を持った花を操る妖怪にひどい目にあったのよ)
「私は風見幽香といいます。今後ともよろしくね」
(見つかったら運が良くて半殺しだから気をつけなよ)
花のような笑顔を振りまいて幽香はそう言った。
冗談じゃないわ……。
あの後試しにミスティアに日傘をさして会いにいったら、いきなり半泣きになりながら土下座された記憶がよみがえった。噂によると山を消し飛ばす程度の力を持っているらしい。
そんな妖怪が今わたしの目の前にいる。
「それはそうとあなたの出している闇なんだけど、少し引っ込めてくれないかしら。ここは夜でも綺麗だけど昼間には昼間の愛で方というのがあるの。それを無理やり変えるのは不自然だと思いませんか?」
不自然なくらい丁寧な口調で語りかけられた。
「……この闇は、わたし一人じゃどうしようもないのよ」
「あら、そうだったの」
わたしがこの闇を抑えることができるのは新月の夜くらいだ。それ以外はどうやってもわたしの周りに闇は生まれてきてしまう。昨日が丁度新月だったから今だと普段よりかは自由に操れるけど、それでもやっぱり完全にこの闇を取り払うのは無理だった。
幽香は何か考え事をしているようだった。こういう妖怪の考えることに限ってろくでもないことが多い。―良くて半殺し― ミスティアが言っていた言葉を無意識に思い返していた。
「ならいい考えが浮かんだわ」
そう言った幽香の顔を見ると、明らかにろくでもないことを思いついたような嬉しそうな顔をしていた。
「本人が無意識にでもその力を使えないくらい衰弱させるというのはどうかしら?」
笑顔がなんか暗かったのは多分わたしの闇のせいだけじゃないはず。衰弱する本人のことなんて絶対に考えてないんだろう。どうしよう……、このままだと本当に半殺しになっちゃうわ。この状況のどの辺りが運がいいのかわたしには全然思いつかなかった。
必死になって考える。多分間違った答え方をすると終わる。最初は慎重にいった方がいいのかしら……
「……でも衰弱ってどうやって?」
幽香の目が怪しく光った気がした。わたしの闇とは質の違うどす黒い妖気が膨れ上がったので、どうやら1問目で完璧に間違ったことに気がついた。その証拠に幽香の手に1枚のスペルカードが現れる。
つまり、弾幕ごっこ。
「いつものように弾幕ごっこをすればいいのよ。ルールは私が貴方を蹂躙し尽くしたら終わり。どう、簡単でしょう?」
いきなり傍若無人な提案が飛び出した。いつから弾幕ごっこにそんなルールが追加されたのよ。確か弾幕ごっこはお互いが公平になるようなルールだったはずなのに。目の前のこいつには多分何を言ってもだめだと心の片隅で思いつつも、さっきより必死になってこの遊びをやめさせる方法を考える。だけど私の頭に浮かぶのは道中で想像した変な顔のわたしが大勢で同士討ちに明け暮れる姿だけだった。
「ちょっと待っ……」
「我が力を讃えし悠久の大地の恵みよ、我もまた心よりその美を慈しまん」
口上が始まった。
……今邪魔をしたらそれこそ問答無用で衰弱の幻想郷1周分くらい先まで吹っ飛ばされるに違いない。
これまで感じていた禍々しい妖気が一転して純粋な妖力へと生まれ変わる。
幽香の声は高く、この向日葵畑を覆い尽くすように強く柔らかく響く。
本当ならこんな口上はなくてもスペルカードは発動させることができる。わたしも生きて帰れたら今度まねしてみようかと少し思った。
「されば我が願いに耳を傾け、我が願いを聴き届けたまえ」
幽香の頭上にかざされたスペルカードが光り出す。
聞き惚れそうになるくらいの声色。そのスペルは多分幽香の中でもお気に入りのものなんだろう。じゃないとあんなに幸せそうな顔なんて普通できない。
「輪廻の輪を連ねる小さき命達よ、美しく誇り高き灯火よ」
カードの光はさらに強くなっていく。
甘い香りのする風がゆっくりと起こり、花弁が舞い上がる。
もう幽香はわたしのことなんて見ていない。
わたしも静かにスカートのポケットから1枚のスペルカードを取り出す。
「今こそその力強き輝きを示せ」
そこまで一息で言った幽香はわたしを見て、にっ と笑う。
いくら相手が常識の外の妖怪でも、ルールのある決闘ならもしかしたらわたしにも可能性があるかもしれない。
恐怖で埋め尽くされていた心がだんだんと晴れていく。
「……美しく散りなさい」
多分、絶対に敵わないだろうけど。
「花符、幻想郷の開花」
「行け!夜符、ナイトバード!」
同時にそう叫んだ瞬間、わたしのカードから真黒い闇が溢れ出す。始めはカードを中心とした闇だったが、それはすぐに何十羽もの黒鳥に変化した。わたしの周囲を黒く染め上げた黒鳥は闇を飛び散らせながら舞い上がり、獲物が何であるか最初から心得ているかのように翼はためかせて一斉に幽香へ向けて殺到する。
「なかなか見応えのある弾幕ね、だけど……」
獲物を覆い尽くすかにみえた黒鳥の群は幽香の目の前に到達するやいなや黒い飛沫を散らしながら消えていく。最後の一羽が断末魔を上げて消え去っても幽香に到達できたものは一つもなかった。
「残念、この通り少し力不足だったみたいね」
余裕の笑みを浮かべる幽香。あいつが宣言をした後、特にこれまでと何も変わらなったようにみえる。
なら、
「集まれ」
カードを中心にもう一度闇が膨らみ出す。大きく膨らんだそれはさっきの何十羽分の闇を一つにまとめあげたもの。始めは避けられると思ったから分散させたけど、多分こいつは絶対に避けない。なんだかそんな感じがした。だからわたしがまとっている闇の中ででもさらに黒い影を落とすこいつを全力で投げつける。わたしの支配から解放されたそれは漆黒の魔鳥となって一直線に幽香に向かって突き進む。
「へぇ、そんなこともできるのね」
予想通りそれを避けるそぶりも見せず手に持った傘で空中をなぎ払う。さっき嗅いだ甘い匂いのする風が巻き起こり、見えない壁にぶつかった魔鳥は砕けて消えていく。完全に光に溶けた魔鳥の向こうから表情の変わらない幽香の顔が現れた。
「だけどまだ足りないわ」
なによこの出鱈目な力は。正直何が起こっているのかもわからない。わたしの妖気が自慢できるほど強くないことは知っているけど、何もされずに勝手に消滅するのはさすがにおかしい。幽香が宣言してから変わったことと言えば、この甘い花の匂い。ここまで来てやっとわたしは「あ」と思った。
(日傘を持った花を操る妖怪にひどい目にあったのよ)
ひょっとしてわたしって馬鹿なのか? ミスティアから聞いて最初から知ってたことに今更気付くなんて。
そう。わたしのすぐそばを舞っているこの花びらが全部、幽香の弾幕。
「こないのなら次は私の番でいいのかしら?」
そう宣言した幽香はさっきのスペルカードを顔の前にかざし、軽く口付けをする。
風向きがいきなり変わり、わたしの顔に甘い空気が叩きつけられる。
「これで落ちないで頂戴ね、まだ開幕したばかりなんだから」
それまで空中をひらひらと舞っていた花びらが急に生き物のようにわたしに襲い掛かる。防ごうかと一瞬考えたけど、わたしのスペルを全部吹っ飛ばすようなものをいまさら防げるはずがない。わたしは急いでその場所から飛んで逃げ、幽香の上空に避難した。と、わたしの頬に風に乗って飛んできた花びらがくっつく。慌てて周りを見渡すと、密度はそんなにないけどそこら中に花びらが漂っていて。
「忠告しておくけど私の視界に入ってる間はその花弁からは逃げられないわよ」
わたしを仰ぎつつ話す幽香。四方八方を漂う花びら。しかも威力はさっき十分すぎるくらい見せてもらった。
「ついでにあなたって目立つから逃げてもすぐに捕まえちゃうわよ」
それもそうだ、昼間のわたしはかなり目立つ。黒くて丸いものが空を飛んでいたら多分それはわたしだ。
「じゃあその辺を解ってもらえた上で、次はどう避けるのかしら?」
今度はわたしを中心に花びらが渦巻きはじめた。幽香が手をかざすとそれは壁となって、わたしを包み込むような花びらの球面に閉じ込められる。こんなの……避けようがないじゃない! 焦っているうちにも壁はわたしを押し潰そうとゆっくり迫ってくる。
「散れ!」
まだわたしの手の中で闇を放つスペルカードから何十羽もの黒鳥を生み、目の前の花の壁に向かって放射した。それらは一斉に直撃し、一瞬だけど壁に細かい穴が開く。花吹雪の層が薄くなり、壁を挟んでわたしの丁度向かいにいた幽香と目が合って笑いかけられた。だけどその顔はすぐに花びらの流れに巻き込まれて消えてしまう。
……ひょっとしていけるかもしれない。今さっき確かに一瞬だけど穴が開いた。そうとわかれば急がないといけない。多分遅れるとそれだけ花びらの密度も濃くなってくるはずだ。わたしはすぐに漆黒の魔鳥をイメージする。
「集まれ」
さっきよりも力強い闇を一羽の魔鳥に凝縮する。なぜなら獲物はこの壁ではなく、その先で今も絶対余裕の笑みを浮かべてる風見幽香だから。黒く染め上げられた鳥が大きく羽ばたき、わたしはその体内で一つ深呼吸をした。
(多分今しか反撃のチャンスはない)
覚悟を固めたわたしは一羽の黒鳥となって壁に突っ込んだ。花の壁は意外とあっけなく打ち破られ、花吹雪を散らしながらわたしは牢獄から脱出する。花びらが晴れた先には、やっぱりわたしの行動を読んでいたようにこっちに向けて手をかざしている幽香が浮かんでいた。
「上出来よ。お次はどうかしら?」
その手から旋風と共に螺旋状の花流がわたしに放たれる。
幽香なら多分こうするな、とわたしにはなんとなくわかっていた。これが幽香の本命。面じゃなくて線、それもわたしと幽香を結ぶ直線。避けるのは簡単だろうけど、決めた覚悟の通りわたしは黒い弾丸となってそれに真正面から突っ込んでいく。闇と花流がぶつかり合って一瞬速度が落ちたけど、わたしは迷うことなく花の回廊を突き進んでいった。
「そうよ、そうこなくっちゃ面白くないわ!」
幽香の声と同時に旋風が暴風に変わる。花流は花龍へと姿を変え、荒れ狂う花吹雪の中わたしのまとった闇の魔鳥は妖気を帯びた花びらに削られてどんどん小さくなっていく。始めはわたしを包んでいた闇の三倍はあった黒鳥も今ではその半分以上が花の濁流に押し流されていた。だけど、これなら届かせることができる。
やっと幽香の全身が渦の向こうに見えてくる。わたしを守る黒い守護鳥はもうほとんど消えかかっていた。
「よくがんばったけど、どうやらここまでのようね」
花びらの隙間から幽香の勝ち誇った顔が一瞬だけ見えた気がした。
「闇符」
こうなることはわかってた。初めからこの黒鳥は攻撃のためのものじゃない。だけどこうでもしないとここまで幽香に近寄ることなんて絶対にできないと思った。わたしの本命は牢を破った時からずっと開放の瞬間を待ち望んでいる次の弾幕。
「ディマーケイション!!」
幽香の目の前でわたしを包んでいた闇が爆散しながら膨れ上がる。螺旋の花龍は体内から食い破られ、幽香を守る花びらを全て吹き飛ばす。至近距離からの面攻撃。闇は花だけでは飽き足らず、そのまま幽香を飲み込むべくその顎を打ち鳴らす。
いつの間にか幽香の手に光り輝く一輪の向日葵が握られていた。その輝く盾に闇の侵食は押しとどめられている。幽香の放つ光に消し去られはしてないけど、わたしの最後のスペルはそれ以上進むことができないでいた。
「惜しかったわね、何も考えず突っ込んできたのだから次があることくらい私にも予想はつくわ」
やっぱり幽香の方もわたしの本命を読んでいた。
だけどそのスペルの内容までは予想はできないはず。
このスペルの面攻撃は確かに本命、けどこれも攻撃のためのものじゃなく、目くらましのためのもの。
わたしの手の中に渦巻く闇の弾丸。これがこのスペルの本当の攻撃。
わたしはありったけの妖気を込めて最後の切り札を幽香に叩きつけた。
光と闇の境界面に黒い穴が開くと、それまで均衡を保っていた闇が雪崩のように境界内部に侵入し幽香を飲み込んだ。
わたしの手からスペルカードの光が消える。
「あ~」
幽香を包んでいた闇が内側から光に包まれて消えていく。
「けっこうがんばったんだけどな~」
もう妖力も空っぽだ。だけどまだわたしを薄く包む闇だけは晴れてない。
「痛いのはいやだなぁ」
光の中からは日傘をわたしに向けて開いた幽香が勝者の笑みを浮かべている。
「正直予想以上だったから、ついでに私のとっておきもお見せしてあげるわ」
あの日傘で防いだのかなぁ。本当、冗談にも程があるわ。
日傘の先端に妖力と魔力が集まり輝き始め……
「手加減し損なったらごめんなさいね」
舌をちょっと出してはにかんだ幽香の顔が見えた次の瞬間、わたしは光に包まれていた。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
目を空けたら空が見えた。
「あ~、ひょっとして死ん……あだだだっ」
全身から激痛が走ったおかげで一気に目が覚めた。ぴくりとも動きたくなかったので、仕方なくわたしは大の字で仰向けで寝転んだまま空を眺めた。わたしがこんな状態なのに相変わらず闇はそこにあって、いつものように空は薄暗かった。どうやら運良くわたしは半殺しで済んだみたいだった。風が吹いて甘い匂いがわたしに届く。その匂いに別の花の匂いが混ざったと思ったら急に視界が暗くなった。
「あぁ、起きたのね」
夏なのに全身に寒気が走った。
「どうやら私の勘違いだったみたいね。結局あなたの闇は消えてくれなかったわ」
視線を横にずらすと日傘をさした幽香がわたしの傍に立っている。始めに感じていた妖気は影も形もなく、こうして見ているとなんだか普通の人間みたいだった。
「あなたがここに来た理由は向こうにいた人間から直接聞いたわ」
なんだ、あの人間まだここにいたんだ。少し呆れてたら幽香の顔が急に近くなった。
「もう歩けるでしょう? あの女性が向こうで貴方を待ってるわよ」
え……? 待ってるってことはつまり、わたしに食べられるのを待ってるってこと?
「もう十分休んだはずよ。早く立ってくれないかしら」
頭が混乱してたところを急に腕を引っ張られてわたしは立ち上がった。痛む腕を押さえながら顔を上げると、すぐ傍にあの女が視にきたと言っていた背の高い向日葵が並んでわたしを見下ろしていた。なんとか宙に浮かぶことができたので、並んだ向日葵を横目に見ながらあの女のことを考えながら幽香の後ろについていった。
遠くにあの親子の姿が見えるまであの女がわたしに食べられるのを待っている理由について考えていたけど、結局わたしが納得できるような答えは思いつかなかった。馬鹿だった、というのが一番納得できる。
草むらの上にわたしと同じように仰向けに寝転がってるあの女。その横で座っている少女はわたし達に気付いてこっちを向いた。……本当に待ってたんだ。
二人のすぐ傍でわたしは着地した。足が地面に着いた途端に激痛が襲ってきて、少し泣きそうになった。
わたしの足元ではあの母親が仰向けに寝転がっている。見た感じだと起きてるのか寝てるのかわからなかったけど、わたしがこんなに近くに来てるのに気付かないとなると、多分寝てるんだろう。なんか最後まで色々と調子が狂わされる人間だった。
どうせこれが最後の会話になるから、と思ったわたしは声をかける。
「結局、何が視えたのよ」
闇に覆われたわたしには結局この向日葵畑の良さがわからなかった。
闇に生きるこの女はこの向日葵畑に何を想ったのだろうか。
わたしと同じ世界を持っているこの女は答えない。
わたしは母親を起こすために膝を折って座り、女の頬を叩く。ぺちぺち と叩いたその頬は、死体みたいに冷たかった。
「彼女、死んでるからもう起きないわよ」
幽香が言った。
「……ふーん」
なんだ、死んじゃってたんだ。
じゃあ最後までこの答えはわからないままなんだ。
わたしは彼女の横に腰を下ろした。あの時もたしかこんな感じで座ってた気がする。
正面を見たわたしの目に向日葵の壁が映る。薄暗い向日葵の列はどっちかというと少し不気味だった。
中途半端な闇の中から見ているのがいけないんだろうか。そう思った私は目を閉じる。
ここに来てからずっと嗅いでいる甘い匂いがするだけだった。ん、確かあの時は斜面に座って畑を見下ろしていた気がする。
そう思い直して私は宙に浮かぶ。全身の痛みは前に比べてかなりましになっていた。
「どこへ行くの?」
「すぐそこー」
幽香の声に返事をしながら斜面を登っていく。この辺でいいかな。
着地して後ろを振り返る。
昼間見たときと同じ光景だった。
夜の湖のように暗く波打つ向日葵畑。風通しは下よりよかったけど、やっぱり目を閉じても何もわからなかった。
仕方ないので3人のいるところに戻る。
少女は泣いていたのか、目の周りが真っ赤になって母親の横に座っていた。幽香は日傘をさして向日葵畑の方を向いて立っていた。
わたしはこの女の隣に立って、もう一度向日葵畑を眺めた。
「何してるの?」
日傘の向こうから幽香の声が聞こえる。
「早くお食べなさいな」
そう言われたとき、背筋が急に冷たくなった。
何でだろう、いつもなら何も考えずに飛びつくはずなのに。なぜか足が全然動いてくれなかった。
ゆっくりと首を動かし、彼女を見下ろす。そういえば最初そんな約束をしてたんだっけ。
「人間は食料なんでしょう? なら私にそれを止める権利はない」
顔を上げると幽香はふわりと舞い上がって少女の隣に着地する。
「これは彼女の遺言でもあるわ。そこの少女も一応納得してくれてる。だからなんの遠慮もないのよ」
そんな遺言を残す人間なんて始めて見たわ。相変わらず寝てるかのような女を見てそう思った。
「私達は向こうの方で待ってるわ」
少女を抱きかかえながらそう言った。
わたしもそうしてもらった方がありがたかったので黙って頷いた。
「かあさま……これであなたの鼻がよくなったらいいわねって……言ってた」
少女が私の方を見ずに掠れた声で途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
わたしは何も答えられなかった。
幽香達が飛んでいった後、わたしと女の遺体が残された。
わたし達は並んで闇の中にいた。
わたしは自分ではあまり制御できないこの能力を恨むことが時々ある。
例えば一人でいる時。
こう暗いとしょっちゅう木にぶつかるし、たまに自分がどこにいるのか分からなくなるときもある。夜中なんてただでさえ暗いのに、いつもわたしだけはもっと暗い。弾幕ごっこをする時もやっぱり見づらかったりする。まぁ今となっては結構慣れたもんだけど。
例えば大勢でいる時。
妖精に珍しがられて遊びに誘われたことがある。けどすぐに飽きられていつの間にかわたしは妖精達の輪から外れてた。他の妖怪と一緒に晩御飯を捕まえようとしたことがある。けど結局わたし達も獲物もみんな何も見えなくなって、すぐに仲間から追い出された。新月の夜くらいなら一緒にいられるんだけどね。まぁ今ではあまり他の妖怪とは関わらないようにしてる。
ざぁぁ と強い風が吹いて、あの匂いがわたし達を撫でていく。
濃くすることはできるんだけどなんで消せないんだろうね。
わたしは闇を濃くしていつもの世界を作り出す。
いつも薄暗い世界を作り出すわたしといつもこの真っ黒の世界にいるあんたとじゃあ、そりゃ少しは違うでしょうけど。闇の世界では、結局そこにいるのは自分1人ってことだけは一緒だと思うのよ。
だけどあんたはわたしには見えないものを視てた。
濃くしていた闇を元に戻す。
真っ黒じゃないけど薄暗い世界が戻ってきた。
この女は何を視たのか、もうしゃべってはくれない。
自分が死ぬとわかってたからあんな約束もできたんだろうか。
わたしは傍らで死んでいるその女をしばらく眺めてた。
結局わたしはその女を食べた。
何も考えないようにして食べた。
けどこの馬鹿な女はすぐにわたしの頭に浮かんでくる。
いつもの食事と違って全然楽しくなかった。
食べてるうちになんでか涙がぼろぼろこぼれてきた。
鼻水も出てきたので啜ったら濃い血の匂いがした。
自分が何をやってるかもわからなくなった。
お腹が一杯になったので食べるのをやめた。
けどなんか空しかった。
食べ終わってもわたしはしばらく泣いていた。
口の周りは袖で拭いたけどまだ所々血が固まってる。いつも着てる服は幽香にぼろぼろにされたけど、ほとんどが赤く染まってた。両手の血は固まってて黒くなっている。多分闇の外から見たら全身真っ黒なんだろうな。
ふらふらと向日葵畑の上を漂っていたら探していた2人はすぐに見つかった。
斜面に座って何か話をしてる2人に向かって飛んでいくと、わたしに気付いた2人の動きが止まった。
地面に着地して2人を見る。幽香は弾幕ごっこの最中に見せていた余裕のある顔で私を眺め、少女は私の全身が血で染まってるのに気づいたのか、私を見るなりうつむいてしまった。
「終わったようね」
「うん」
短い言葉を交わして少女の方に目を向ける。彼女のした約束は守ってあげようと思った。
「結局」
無意識にわたしはしゃべってた。
「あの女は何を視てたのかな」
本人は向日葵畑を見ると言っていた。だけど闇の中にはそんなものどこにもない。ただ黒があるだけ。
もう見る意味もないのについ向日葵畑の方を向いてしまう。やっぱりわたしには何も視えない。
「ルーミア、ちょっとここに座ってみなさい」
声のした方を見ると、足を伸ばして斜面に座っている幽香がスカート越しに太ももの辺りを指差していた。
今更なにをしようというのかしら。
わたしは力なくそこまで歩いていく。近づくにつれ、幽香がわたしの闇に飲み込まれていく。完全に幽香を飲み込んだわたしは、ふらふらとした足取りで幽香の上に腰を下ろした。
闇の中、二人並んで向日葵畑を見る。
すると、肩越しに両腕が伸びてきてなんか抱きかかえられてるような格好になった。最初はあんなに恐ろしかったのに、今はとても温かかった。
「今貴方には何が見えてる?」
「薄暗い向日葵畑」
「じゃあ少し目を閉じてみましょう」
目を閉じると何も見えなくなった。
「今貴方には何が見えてる?」
「何も見えないわ」
「じゃあ何か匂いはしないかしら」
「あの女の血の匂いしかしないわ」
なんで幽香は血まみれのわたしを抱いていられるんだろう。
ざぁぁぁ
強い風が吹いた。
わたしを覆ってたどす黒い血煙が全部流されてゆき、代わりにあの甘い匂いが運ばれてくる。
「甘い匂いがする」
「それは花、向日葵の香りです」
それくらいわたしにだって分かる。
「感じるのは匂いだけでしょうけど、それは紛れもなく向日葵の一部なの」
幽香の持っていた輝く一輪の向日葵が闇に浮かんだ。
「風が運ぶのは香りではないの。向日葵という命を運ぶのです。
花はすぐに枯れてしまいますが、だからこそ懸命に、全力でそれを咲かせるの。
あなたが感じているのは花が生きた証。花を咲かせるまでの一生なのです」
闇の中に1つの芽が生まれる。
それはゆっくりと成長して行き、大きな向日葵の花を咲かせた。
「花は1つ1つに命が宿っているわ。
それぞれに個性があり、同じものはないのよ。
貴方の感じる匂いの中に無数の命が宿っているのがわかりますか」
柔らかい風は吹き続ける。
運ばれてくる香りをわたしは必死に捕らえていく。
ふと、これまでずっと見ていた向日葵畑の光景を思い出す。
あの花全部に一つ一つ命が宿っているのなら。
今わたしの感じるこの香りの中には一体いくつの命が含まれているんだろう。
闇の中に無数の芽が生まれ、一斉に成長を始めた。
一面が緑に染まった瞬間、それら全てに大輪の花が咲いた。
「だけど花はやがてその命を終えるわ」
波打つ向日葵畑は急速に萎んで行き、
「そして自らを大地の糧として捧げ、また新たな命が生まれるのです」
後に残るのは茶色く湿った土。
その土から再び芽が生まれ、やがて花を咲かせる。
「人も妖怪も一緒です。死んだ後には必ず何かを残すのです」
ずきり と心が痛んだ。あの親子が遠くの方で手を繋いだままわたしを眺めていた。
「ではもっと注意深く感じてみましょう。
花の香りに混ざって別の香りがありませんか」
全神経を研ぎ澄ます。
強い花の香りの間に、微かにそれがあることに気付く。
わたしに馴染んだ香り。森の香り。
闇に強い生命力を宿した森が生まれる。
森の他にもまだいくつかの違う香りをわたしは見つける。
そのほとんどは弱く、頼りなかったが、その中から必死に一つの香りを手繰りよせる。
緑色の、だけど森とは別の、わたしがいる斜面に生えていた草の香り。
闇の中に草原が生まれた。
「耳を澄ませてみてください」
「……セミの声が聞こえる。あと風の音も」
「音を伝える空気の層が貴方にも視えるはずです」
うるさかったセミの鳴き声。
だけど今は一つ一つの音を聞き分ける。
大きく鳴り響く声はわたしのすぐ後ろから。
かすれそうなこの声は、空気の中を永い間旅してきたのだろうか。
直接耳に届くもの。反射して届くもの。混ざり合っているもの。
わたしは森の出口から眺めた景色を想像した。
闇に山が生まれ、草原は森へと続くなだらかな斜面になった。
「風の運ぶ香りを、花の命を感じられるかしら」
甘い、だけど力強い香り。
幽香の持っていたそれのように、明るく輝く花を想像する。
波打つ花の海が金色に輝き出した。
闇の世界に緑の大地に囲まれた、輝く向日葵畑が生まれていた。
セミの声もうるさい。
すぐ後ろからも、遠くの山からも聞こえてくる。
だけど、大切なものが何か欠けてる気がした。
「目を開けてごらんなさい」
闇に生まれた新しい世界に別れを告げ、わたしは目を開ける。
金色の海が輝いていた。
山の緑も森の緑も輝いていた。
そしてなにより、空が青く輝いていた。
いつもそこにあった闇は今、どこにもなかった。
わたしの着ている服の色、乾いた血の色、金色の髪が眩しく光る。
「これがあの女性が視ていたものよ」
わたしの世界に足りなかったもの。
全てを照らし、輝かせ、恵みを与える、あの空に浮かぶ太陽の光。
しばらく空を見ていたので目が痛くなってきた。
「闇が、ない……」
「貴方が寝てる間に色々と調べさせてもらったんだけど。どうやらそのリボンが貴方の闇を封じてるみたいだったのよ」
そうなのかぁ。
ってちょっと待って、色々って何を調べたのよこいつは!?
振り返ると幽香の頬がほんのりと赤くなっていた。これは聞いちゃだめだ、絶対後悔する。
「たしか貴方、新月の夜だけは闇をひっこめることができるのよね?」
「そうよ」
「これは推測だけど、新月の夜は妖怪の力が著しく低下するわ。だから貴方の中に潜んでる闇も効力が弱まって、そのリボンだけでも十分闇を抑えることができるんじゃないかしら」
「へぇ」
「そのリボンがある程度闇を抑えてくれるから、貴方は闇を制御できるようになる。と、考えたのよ」
幽香の手がわたしの頭に触れ、髪を撫でていく。
……こういうのって、ひょっとして初めてかもしれない。
「今は私が貴方の闇を直接押さえつけてる。つまりリボンの役目というわけね」
幽香の優しい声を聞きながら、わたしは明るい景色に見惚れていた。目を閉じても今のわたしには花の香りを、大地の温もりを、夏の空気を視ることができる。あの女性の言っていた世界が少しだけ理解することができる。
「あ……」
そういえばあの少女はどこにいるんだろうか。きょろきょろと周りを見てみると、斜面の上の方でこっちを眺めながら座っていた。
目が合って気まずくなったので顔を逸らしたら、それに気付いた幽香が少女に向かって手招きをする。そうしたら、意外にも少女はこちらへ向かって緑の斜面を下ってきて、そのままわたし達の隣へ腰を下ろした。
最初は食べる気満々だったけど、なんか今はそんな気分じゃなかった。
少しの間沈黙が続いた後、幽香が話し出した。
「あれでよかったのよ。気にすることはないわ」
そう言われてもやっぱり気になってしまう。
「かあさまは……いえ、母もそれを望んでました。私はまだ母の考えに納得はできませんが、今回はあれでよかったのかもしれません」
「あの女性は命の連鎖を重要視したのよ。人間は死んで土に還る。それは自然の摂理。妖怪が人間を食べるのも、一つの自然の摂理なのよ」
少女と幽香がそう言った。
言ってる意味はよくわからなかったけど、わたしが母親を食べたことは少女も一応納得しているみたいだった。わたしが食べた人間の子孫が、わたしに仕返しをしにくるというのは何度も経験したけど、親が妖怪に食われることを受け入れて納得する人間もいることをわたしは始めて知った。
「さあ、それじゃあそろそろ行きましょうか」
それまで感じていた温もりは消え、幽香が立ち上がる。それと同時にわたしから闇があふれ出し、三人を黒く染め上げた。わたしが座ってる横で幽香は急に暗くなって驚いている少女を抱き上げる。
少し残念な気持ちもあった。もう少し光に包まれた光景を眺めていたかったけど、今のわたしには目を閉じると闇の外の世界を視ることができた。香り、風、音を感じ取って命を想像することができた。
わたしはもうしばらくここで座っていることにした。
「何をしているの、貴方もくるのよ」
わたしにかけられた声だと気付いて目を開ける。闇の向こう側で幽香が少女を抱えて浮かんでいた。
「行くってどこへ?」
少女を送りに里にでも行くんだろうか。
「貴方が食べた女性のところよ」
その場所は綺麗な向日葵畑と対照的に黒く、赤く汚れていた。
わたし達は並んで地面に降り立ち、その食事現場に目を向ける。幽香に下ろされた少女は一度だけその光景を確認すると、黙って後ろを向いた。
これから片付けをさせられるんだろうか。
「ルーミア、こっちへいらっしゃい」
笑顔で手招きする幽香。わたしが言われたとおり幽香の傍まで近寄ると、後ろから抱かれ、わたしの頭に手が添えられた。
急に辺りが明るくなり、女性の遺体がはっきりと見えるようになる。
幽香はわたしの頭に手を添えたまま、もう片方の手で日傘を閉じる。
「人は大地に」
綺麗な声だった。
幽香の口からその言葉が出た途端、セミの鳴き声が止んだ。
静まり返る向日葵畑の中、遺体の周りに変化がおきた。
「……あれは?」
わたしは幽香に聞いてみたけど返答はない。
なのでわたしは『それ』に目を凝らす。
ゆっくりと大きくなっていくそれは、闇の世界に芽吹いた植物の芽だった。
みるみるうちに植物が成長し、わたしの背丈よりも大きくなる。
根元に目を向けると、無残な遺体はなくなっていて、女性の着ていたものだけが残されていた。
「魂は空に」
再び鳴り響く幽香の声。
急に風が巻き起こり、向日葵の花びらが一斉に空中に巻き上げられる。
わたしは呆然とその光景を見つめていた。
青く輝く空の中、金の破片が静かに空を舞って行く。
わたしはやっと気付く。
これはあの女性の葬式なんだ。
「全ての生物は死んだ後その想いを残します。貴方達に女性の想いが視えますか?」
あの女性を糧にして成長した植物に花が咲いていた。金色に輝く、太陽のように大きな向日葵だった。
「たまにここに来てもいいかな?」
わたしは幽香に聞いてみる。
「私は最初に何といいましたっけ」
幽香は笑ってそう答えた。
・―――・―――・エピローグ・―――・―――・
秋も深まるこの季節。涼しくなってきたので最近は森の外に出ることも多くなった。昼間わたしが里の近くをふらついてると、わたしに向かって手を振る人間がいた。珍しかったので近寄ってみると、向日葵畑に連れて行った時の少女だった。すぐ近くに着地したわたしは挨拶する。
「あんたは食べてもいい人類?」
「いえ、まだ食べごろではありません」
母親によく似た凛とした返事が返ってくる。
「じゃあ仕方ないわね」
わたしは少し笑って答える。
暗がりでよく見えなかったけど、なんかわたしが着ているような白いシャツに黒のスカートを穿いていた。聞いてみると、向日葵畑で幽香に抱えられてる姿がすごい綺麗だったから、らしい。あの時は血まみれだった気がするんだけど。
少し話をしてわたしは少女と別れた。
あの後、わたしに二つ習慣が増えた。
一つ目は今のような新月の夜、わたしは明かりをもって色々なところを見て回るようになった。光に照らされたものをよく観察して、わたしの頭に記憶する。闇の世界をいろんなもので彩っていく。
「闇を操る人食い妖怪はあんたのことか?」
わたしが地面にしゃがみこんで落ち葉を光に当てて観察していると、後ろの方から低い声がした。
立ち上がって振り向くと、人間の青年が手に包丁と松明を持ってわたしの方を睨んでいた。
いちいち答えるのが面倒くさかったので、わたしは二人を闇で包み込む。
「あんたは食べてもいい人類?」
手短に用件を話す。
「くそぉっ! 妹の敵っ!」
この前食べた女の兄弟らしい。闇の向こうから足音が近づいてくる。
二つ目の習慣。
「いただきます」
わたしは両手を合わせて心の底からこれから食料となる命に感謝した。
しかしゆうかりん何やったwww
よくある「いい話」に書いて無いのが良かったです。
『るみゃ』も好きですがこういう解釈のも大好きです。
ただ、それはそれとして、ていねいで出来のいい作品でした。
最後の部分の「いただきまーす」があるおかげで、ルーミアが人間っぽくなり過ぎないで済んでいるのが特にいいですね。ゆうかりんがちょっと優しいかなーとも思いますが。
良く分からないんだけど、テーマは見えてくる作品だった
そしてルーミアの能力の新解釈は面白かった
ゆうかりんの台詞回しがまた素晴らしい。
このような作品を送り出したくださった貴方に感謝を。
ごちそうさまでした