ある日の夜。
寝付けずに歩き回っていた私は、縁側に座っている姫を見つけた。
珍しく真剣な顔をして、宙を見つめている。
あの方角には何かあるのだろうか。ふと、好奇心がわいた。
「姫? 何を見ているのですか?」
「……月を見ているの」
姫はそれきり黙ってしまう。仕方がないので同じ方角に目を走らせると、確かに月が見える。何の変哲もない、いつもと同じ月がそこにあった。
「……あそこでは今も、地上人と月の民が戦っているのよね?」
「ええ。ウドンゲの言葉を信じるなら、ですが」
急に何の話だろう。
姫はずいぶんと長い間、月の話題を避けてきた。
先の一件のような場合を除いて、滅多なことでは口にしない。聞いただけで不機嫌な顔になったものだ。
「永琳は信じていないの?」
「……どうでしょう。月の都に地上人が攻め込んだという話なんて、信じたくないと言った方が正しいのかもしれません」
事実、私は今でも鈴仙の話に懐疑的だ。
鈴仙を連れ戻すための口実ではないか、そう思っている。
しかし、それは姫も同じことだと思う。
あの月の都に地上人が攻め込み、しかも優勢に戦いを進めるなどとうてい考えられない。
地上人の軍など、例え万いようが月の兵士百人にも及ばないだろう。
月の科学はそれほどまでに進んでいる。今の地上の技術も、月の技術に比べれば時代遅れ程度ではすまないはずだ。
とは言え、戦場から逃げ出した鈴仙にまで交信してきたくらいだ。よほど戦況が良くないのだろう。
圧倒的な戦力を持ちながら、一方では逃亡兵まで戦場に駆り出そうとする。
この矛盾の答えはどこにあるのか。
「ま、私たちにとってはどうでもいい話だけどね」
「そうですね」
だが、口ではどうでもいい話と言いながらも、姫は月から目を離そうとしなかった。
目を擦ったり首を傾げたりしている。
「……姫?」
「ねえ、永琳。月ってあんなに汚かったっけ?」
「……は?」
汚いとはどういう事だろう。
もう一度月を見るが、私の目にはいつもと同じ様にしか見えなかった。
「私にはいつもと同じ月にしか見えませんが……」
「そう? なんだか濁っているって言うか……嫌な色してるわ」
「……」
姫は大真面目だ。つまり、姫の目には私には見えない何かが見えているのだろう。
私はただ頷くことしかできなかった。
(月で何が起こっているのかしら……)
床に入っても、疑問は頭から離れることはなかった。
鈴仙の受け取った月からの信号は、鈴仙を連れ戻すための嘘か、それとも――考えられないことではあるが、真実なのか。
謎ばかりで手掛かりが見つからない。
でも、だからこそ面白い。頭脳労働こそ私の最も得意とするところ。
どんな謎だろうが解いてやろうじゃない!
「ぁ……ふ」
「……」
「……」
「何よ」
「……その、お師匠様が欠伸なんて珍しいなって」
「――お飲物をお持ちしましょうか?」
鈴仙とてゐ、二人の反応はそれぞれ違った。
鈴仙は思ったことを素直に、てゐは相手を気遣う言葉を。これで裏側に何もなければてゐは本当に良い娘なんだけど……。
「そうね。てゐ、悪いけど珈琲を淹れてきてもらえるかしら。上質の、それも目が覚めるくらい濃いのをお願いね」
「はーい、お任せ下さい」
「ウドンゲは腕立て百回」
「え!? どうしてですか?」
「じゃ二百回」
「増えた!?」
「さん……」
「――やります! 鈴仙・優曇華院・イナバ、腕立て二百回やらせていただきます!」
「あらそう。頑張ってね」
「頑張ってね、鈴仙」
「――っ!」
鈴仙は部屋を出て行くてゐを狂気の瞳で一睨みした後、上着を脱いで本当に腕立て伏せを始めた。律儀な娘だ。
どうでもいいことだが、てゐはきっと廊下で転ぶだろう。
――ふぎゃっ?!
ほらやっぱり転んだ。
鈴仙の能力は以前よりも格段に強くなっている。てゐの平行感覚を狂わせるくらい造作も無いはずだ。
そして、てゐはそろそろ気づく頃だろう。この永遠亭に珈琲豆など存在しないことに。
珈琲豆を手に入れるなら人里へ降りるしかない。
しかし、私が頼んだのは上質なもの、即ち高級品。そんじょそこらの安物では私の舌は誤魔化せない。
よって、あらゆる可能性を考慮するなら、高級志向の紅魔館へ行くのが一番早いかもしれない。
嘘つきより正直者の方が好かれるということを、身を以て知りなさい。
「――百九十九、二百! 師匠、終わりました!」
(……意外と早かったわね)
考え事をしている内に、鈴仙はノルマをクリアしてしまった。欠伸を見られた腹いせに多少多めに言ったつもりだったけど、私の思いつきなんてこの程度か。
よし、次からは千回と言ってみよう。
そんなことを考えながら、汗を拭いて上着を羽織る鈴仙を見ていた。
「……師匠?」
着替え終わった鈴仙が不安げな目で私を見ている。
何かに怯えているような……ああ、そうか。私が何も言わないから不安なのだ。
「何でもないわ」
「……えぇ?」
だから優しく微笑んでやったのに、余計に不安そうな顔をされた。
腹が立ったのでスクワットを千回ほどやらせた。
「それでね……ウドンゲ、聞いてるの?」
「……聞いてます。立てないだけです」
汗だくになりながら床に倒れ伏したまま、鈴仙は呻いた。相当足にきたらしい。
現在九百七回。この程度でへばるとは我が弟子ながら情けない。
どれ、私が手本を見せてあげるとしよう。
……ポキン。
長らく使っていなかった膝関節が不吉な音を立てる。
もう一度。
……パキン。
やめよう。
私の本分は頭脳労働。汗臭い肉体労働など不肖の弟子に任せておけばいい。
そして無駄な筋肉の付いた足をスカートの下から晒すがいい。
「……師匠」
震える膝を押さえて立ち上がった鈴仙が憐れむような目で私を見ていた。
「――憤!」
直後、私は雷光の如き蹴りを鈴仙の太腿に見舞っていた。
宙で横に回転し、鈴仙は床に落ちる。白目を剥いて口から泡を吹いていたがまあ気にすることもない。
因果応報。己の犯した行為はいつか返ってくるものだ。
「それでね……ウドンゲ、聞いてるの?」
「……聞いてます。動けないだけです」
どこかで聞いたようなやり取りだ。
床に倒れた鈴仙は恨みがましい目で私を見ている。
「何? 何か言いたいことでもあるの?」
「ありますけどやめておきます。ろくな事にならないのは目に見えていますから」
「あらそう」
思ったことをそのまま口に出すとどうなるか、少しは学習したと見える。方法や状況はどうあれ、弟子の成長は師匠にとって嬉しいことであった。
「じゃあ本題に入るけど」
そう。
私は鈴仙に聞きたいことがあったからわざわざてゐを屋敷から追い出したのだ。
てゐは最近、何かにつけて鈴仙と行動を共にしている。
普段なら特に気にも留めないのだが、今回ばかりはそうもいかない。
出来れば誰にも知られたくない事だからだ。
「月のことを聞きたいの」
「……月の、ですか」
声のトーンが落ちる。
鈴仙の目から感情が抜け落ち、代わりにどろりと、濁ったような色が浮かび上がる。
(なるほど、姫が月に見たのはこの色、か)
その異様さは、私でさえ鳥肌が立つほど。今この場に私や姫以外の誰かがいようものなら、まず間違いなく発狂するほどの狂気が、鈴仙を中心に渦巻いていた。
「ごめんなさい。辛いのはわかるけれど、どうしても知りたいことがあるの」
「……何を知りたいって言うんですか」
鈴仙の口が小さく動くのを私は見逃さなかった。
――私をここに縛り付けた貴方が。
見えなかった方が良かったのかも知れない。声にこそ出さなかったが、その言葉には計り知れない憎しみが込められていた。
鈴仙が内に秘めていた、黒い感情。
これが百年、二百年先だったなら、また状況は違っていたかも知れない。
だが、鈴仙の傷が癒えるには、今はまだ早すぎたのだろう。私の行為は塞がりかけた傷口を無理やり広げるようなものだ。
きっと鈴仙は私を許さないに違いない。
それでもいい。
これは、“この疑問が生まれたのがたまたま今だった”という、ただそれだけのこと。
私は知りたいことがあるなら、それを先延ばしにしたりはしない。
必要なら犠牲を払うし、自分自身が犠牲になる覚悟もある。鈴仙には気の毒だと思うが、それが足を止める理由にはならない。
だから、静かに、鈴仙の目を見つめる。
その瞳に込められた憎しみと、悲しみと、狂気を、残らず受け止める。
どれくらいの時間が経っただろうか。
私を見つめる鈴仙の目に、光が戻っていた。
「……すみません」
起き上がって深々と頭を下げる鈴仙に、少し戸惑う。
「何を謝るの?」
私の言葉に、鈴仙は顔を上げて、言った。
「私は師匠が憎かったわけではありません。確かに私はここに残りました。……月に残っている同胞を見捨てて、此処にいることを選びました。でも……」
鈴仙は目を閉じて、言葉を切る。言うべき言葉を探して、必死に考えているようだった。
「でも、それは強制されたからではありません。師匠は月からの追っ手を防ぐために、月との通路を塞ぎました。でも師匠は……私に「月に帰るな」とは言わなかった。どんな考えがあったにせよ、最後の決断は私に任せてくれました。だから、此処に残ったのは私の意志です。それを誰かのせいにするなんて、正しいことではありません」
目に一杯に涙をためて、鈴仙はそう言った。
不覚にも視界が涙で滲んだ。
思えば、この娘は初めて、私に心の内を晒したのではないだろうか。
姫にも、てゐや兎たちにもずっと隠し通してきた自分の心を見せてくれたのではないだろうか。
そう思うと、涙が勝手に流れ落ちた。
だがそれは鈴仙も同じようだった。
「でも、でも……少しだけ泣いてもいいですか……? 気持ちが落ち着いたら話しますから……今だけは泣いてもいいですか……?」
涙を拭いながら途切れ途切れに言う鈴仙を、そっと抱きしめる。
途端に、堰を切ったように声を上げて鈴仙は泣いた。
今まですっと溜め込んできたものをはき出すように、涙と一緒に押し流そうとするように、いつまでも泣き続けた……。
「……どう? 少しは落ち着いた?」
「……はい」
と言ったものの、鈴仙は私から離れようとしなかった。
しかし、それでもいいかなと思ってしまう。
私の服は涙やら鼻水やらでそれはもう酷いことになっていたが、不思議と、鈴仙に離れてもらおうという気にはならなかったからだ。
結局、先に離れたのは鈴仙だった。
が、離れたら離れたで、自分の長い耳を弄ったり、あちこちに視線をさまよわせて私と目を合わせようとしない。
……どうやら照れているらしい。
「ウドンゲ」
「――ひゃ!?」
声を掛けたら大げさに驚かれた。あんまり派手に驚くものだからこっちまでびっくりした。
ため息を一つ吐く。先ほどまでの名残惜しさがどこかへ行ってしまいそうだ。
「え、えーと……月のことを話すんでしたっけ?」
「そうね。覚えていてくれて嬉しいわ」
「あぅ……」
項垂れる鈴仙。まあ、これくらいは我慢してもらおう。私だっていろいろあるのだ。
「さて、今度こそ本題に入りましょうか。それで、ウドンゲ、貴方がいた頃の月はどんな感じだったの?」
「私がいた頃、ですか……」
鈴仙は宙に視線を向ける。
何せ数十年も昔の話だ。思い出すにも時間が掛かるのだろう。
私は何も言わず、待つことにした。
それから少しして、鈴仙は言った。
「そうですねえ……おかしな人が増え始めた頃だと思います」
「……おかしな人?」
「はい。何でも……えーと……確か「化け物を見た」って言う人です」
「“化け物”ねぇ……」
化け物と聞いて初めに思い当たるのは、この幻想郷に住む妖怪たちだ。
人と同じ外見を持つものから、そうでないものまで多種多様。中には神に匹敵する力を持つものもいるという。
その彼らが月に現れた?
いや、それは有り得ない話だ。
聞いた話では、妖怪は結界の外に出て人を攫うことはあっても、その遙か向こうにある月にまで行くことはしない。何でも昔に、月に攻め入った妖怪が大敗を喫して以来、そんな不文律が出来上がっているのだとか。
それが確か数百年前。鈴仙のいた時代のより遙かに前のことだ。
「だけど、おかしいんです」
「……おかしいのはその人じゃなくて?」
しかし、鈴仙は首を横に振った。
「違います。化け物を見たって言う人は何人もいたのですが、その肝心の“化け物”が見つかることはなかったんです」
鈴仙はまたおかしなことを言う。
増え始めたと言うからには、化け物を見た人間は一人や二人ではないはずだ。
それなのに、月の科学を以てしても化け物を発見することが出来ないなど……いや、思い当たる節が一つあった。
「ウドンゲ、それってもしかして……」
「はい。おそらく師匠の考えている通りだと思います」
「……幻覚?」
「はい。調査に当たっていた人も同じ結論を出しました」
やはりそうか。
化け物を見た人間が何人もいて、しかしその化け物はどこにもいない。
それなら真っ先に挙げられる仮説は一つだけだ。
何らかの原因があって、複数の人間が同じような幻覚を見た、ということ。
「……今になって思えば、地上人との戦闘が起こり始めたのはその辺りからだったのかもしれません」
「……え?」
鈴仙の言葉に、私は耳を疑った。
「ちょっと待って。ウドンゲ、それはどういうこと?」
「いえ、ですから、月の軍の中にも化け物を見たという兵士がいたんです。それも基地内部で。それからしばらくして発砲事件があって、被害も出て、これは本格的な地上人の侵略ではないかって……あれ?」
そこまで言って、鈴仙は首を傾げた。
どうやら私の言いたかったことに気づいたらしい。
過去に一度、妖怪が月に攻め込んでいる以上、月に於いて“化け物=地上人”という図式が成り立つのはそうおかしな話ではない。
そもそも月ではこの星を、穢れた星として教えている。穢れた星には穢れた民が住んでいると。
だから一般的な教育を受けた月の民なら、特に疑いもせずに信じたはずだ。
ところが、一方では化け物の存在は否定されている。
姿を見た者はいるのに、誰も化け物を見つけることが出来ない。
それは月にある全ての監視システムを潜り抜けて行動する――映像・音声・熱源・質量、最低でもこの四つを同時に誤魔化し続ける――ことが不可能である以上、幻覚であると言わざるを得ない。
つまり、特定の状況下において複数の人間が見た幻だと、結論が出されていた。
では何故、軍の基地内部で発砲事件が起き、被害が出たのか?
都の治安を司る彼らがその情報を知らないはずがないのに。
「……よくよく考えてみれば、おかしな話ですね」
「そうね」
月の都で何が起きていたのか。
化け物はいたのか、それともいなかったのか。
肝心なピースが一つ足りない感じだ。
頼みの鈴仙もこれ以上の情報は持っていないらしく首を横に振るだけ。なかなか思った通りに事は運ばないものだ。
「……仕方ないわね。ウドンゲ、出かけるから準備をしなさい」
「わかりました」
鈴仙の返事を聞きながら服を脱ぎ、クローゼットを開ける。適当な服を見繕っていると、背中に視線を感じた。
「……あの、師匠、どうして服を脱ぐんですか?」
鈴仙の目には疑問符が浮かんでいた。どうやら本気らしい。
「あのねぇ……私の服を汚したのはどこの誰かしら? それから貴方も着替えてきなさい。汗臭いお供は必要ないわ」
「ぁ――き、着替えてきます!」
鈴仙は顔を真っ赤にして部屋を飛び出して行った。
やれやれ。我が弟子よ、その素直さは時としてマイナスに働くことを身を以て知りなさい。
「何? 捕虜の交換でもしに来たの?」
紅魔館の魔女、パチュリー・ノーレッジは会うなりそんなことを言った。
その目は私の足元に向けられている。正確には、私の足元にいる全身包帯でぐるぐる巻きになった黒白魔女に。
「交換ねぇ……」
私はパチュリーの後ろへと目を向ける。
同じように縄で全身ぐるぐる巻きにされたてゐが天井から吊り下げられていた。
私の予想通り、やはり此処に来ていたらしい。
非合法な手段で目的を果たそうとしたのか、それとも表で捕まえた黒白に時間稼ぎに利用されたのか。おそらく後者だろうが、せっかくの交渉材料が無駄になってしまった。
「違うの?」
「……違わないわ」
会話の間に黒白は這いずって逃げようとしていたが、至近距離から鈴仙に睨まれて動かなくなった。
それを片手で持ち上げて放り投げる。
パチュリーは受け止めるかと思いきや、身を引いてかわすという無慈悲な行動を取った。肉体労働は苦手らしい。
その代わりと言っては何だが、小さな悪魔が出てきて、黒白を引きずりながら奥へと消えていった。
「交渉成立ね。ウドンゲ、てゐを連れて先に帰りなさい」
「わかりました。師匠は?」
「私は調べることがあるから……それくらいは構わないわよね?」
「ええ。こっちよ」
そう言ってパチュリーは奥へと進んでいく。
こういう時、頭の回転が速い相手は話も早くて助かる。
――ほら、てゐ。早く帰ろう?
――あーうー鈴仙ちゃんが二人に見えるー。
そんな二人の会話を聞きながら、私はパチュリーの後を追った。
「それで、何を聞きたいのかしら?」
手にしていた本を開きながらパチュリーは言う。とりあえず興味はない、といった素振りだ。
「貴方には……隠し事はしない方が良さそうね」
「別にしてもいいわよ。私は困らないもの」
この魔女、私より遙かに年は若いがなかなかどうして、一筋縄ではいかない相手のようだ。
どこまで話すべきか迷ったが、結局、そんなことに意味は無いという結論に達した。
彼女とて、人が秘密にしている情報を誰かに漏らすということがどれほどのリスクを背負うことなのか、理解できないわけでもないだろう。
「……わかったわ。じゃあ隠し事はなしでいきましょう」
「そうしてもらえるとこちらも助かるわ。中途半端は嫌いなの」
パタンと、何の躊躇いもなく本を閉じる。彼女は本を読むふりをしていただけ――私は試されていたということか。
「私が聞きたいのは、月の事よ」
パチュリーの目がわずかに開かれる。驚いた、ということだろうか。
それはそうだ。何せ、行ったこともない場所のことを、そこに住んでいた人間に聞かれるのだから。
が、パチュリーは別に気分を害したわけではないようだった。頷いて、続けるように促してくる。
「貴方のことだから、月に地上人が攻め込んだことは知っているわね?」
「ええ。そんな話を……お嬢様がしていたわね」
「それならいいわ。先に断っておくと、これは数十年前の話よ。ウドンゲ――私に付いてきた兎のことだけど、あの娘の話だと、月に現れたのはどうやら地上人というより……化け物らしいの」
「化け物?」
パチュリーは少し考えていたようだが、やがて納得がいったらしくぽつりと言った。
「……ああ、“妖怪”ってことね」
「話が早くて助かるわ。ただ、化け物は目撃されるだけで、捕まえたりすることは出来なかった。それで、初めはその化け物は一種の幻覚だろうという調査結果が下されたの。これは、月の監視システムには異常がなかったからよ」
「……続けて」
「でも、それからしばらくして、月の軍の基地内部で発砲事件が起こったわ。被害も出たみたいね。そして、おそらくはそれを切っ掛けにして、月の民と地上人との戦闘が行われるようになった」
「……おかしな話ね。軍の人間なら、化け物が幻だと知っていたはず。それなのに何故、発砲事件が起きたのかしら?」
「私もそこがわからないの。幻と知っていながら、何故その兵士は発砲したのか? 幻でないとしたら、初めの調査結果は何だったのか?」
「そうね。本当は月に行って直接調べるのが一番確実だけど……」
「残念だけど、それは出来ない相談だわ」
そもそも月に行けるならここに来ることもない。
パチュリーはそんな私の心を読んだのか、苦笑していた。
「笑わないでちょうだい。私一人の知的好奇心を満たすためだけに、姫を危険に晒すわけにはいかないでしょう?」
「ごめんなさい。無神経な発言だったわね……私の悪い癖だわ」
そのお詫びにと、パチュリーは一つの仮説を話し始めた。
「私は、全ての原因は月そのものにあると思うの。月は魔法の源、魔力の塊のようなものだわ。つまり、貴方たちはその巨大な……魔力場とでも言えばいいかしら? とにかく、その上で暮らしていたわけね。でも、どんな力も限界を超えれば負荷が掛かるように、何の対策も立てないまま魔力の濃い場所でずっと過ごしていれば、必ず何かしらの影響が出てくるわ」
「……でも、それなら月の民は今までどうやって暮らしてきたの?」
「そこなのだけど……今の月には無いものが、貴方の時代にはあったはずよ。いえ、“居た”と言うべきかしら」
「居た? 誰……まさか……?」
「そう――蓬莱山輝夜、月の姫よ。彼女はこう言ったそうね。「我々月の民は、地上人を魔物に変えて、地上人の穢れを調節してきた」。それはつまり“月から得られる余剰分の魔力を地上に棄てていた”とも考えられるわ。もしかしたら、故意に妖怪に力を与えることで、人間が勢力を伸ばすことを防ごうとしたのかもしれないわね。そして、それを行っていたのが『月の姫』と呼ばれる人物。でも、今の月には『月の姫』がいない。やがて、逃げ場を無くした膨大な魔力は月の民の精神や肉体を蝕んでいった」
「それなら……月で起こっているのは……」
「私の説を基にするなら、ただの同士討ちね」
一瞬、意識が遠のいた。
ただの仮説に過ぎないというのに、パチュリーの言葉は私の心を酷く揺さぶる。
そう言えば、力のある妖怪が人前から姿を消し始めたのはいつだ?
鬼や、天狗や、吸血鬼……彼らを凌ぎ、人が勢力を拡大していったのは?
……約千年前。
姫が、地上に落とされた後ではなかったか。
待て待て、これは仮説だ。探せば色々なところから矛盾が見つかる不完全なものだ。
でも……パチュリーの説は、私が考えたどんな説よりもしっくり来る。
化け物が目撃されても捕まらなかったのは、精神を蝕まれた人間の見た幻覚だから。
被害が出たのは、精神だけでなく肉体も蝕まれた人間が現れたから。
地上人の兵器が近代的だったのは、自分たちと同じ武器を使っていたから。
地上人が数を増していったのは、その正体が肉体を蝕まれた月の民だから。
姫が……『月の姫』が大切にされていたのは、膨大な月の魔力をコントロールできる唯一の人物だから。
でも、私がそれを知らなかったように、月の姫に関する記述は、永い時の中で徐々に失われていったのではないだろうか? だから彼らは何が何でも姫を連れ帰ろうとはしなかったのではないか?
(ち、ちょっと、待って……)
誰か、誰か嘘だと言って欲しい。こんなのは作り話で、全部嘘で、真実は別にあると言って欲しい。
(そうでなければ……私の……)
――私のしたことはいったい何だ?
姫を助けたために、償いをしたために、私は月の民を……殺し合わせている?
そうとは知らない姫に同族殺しの罪を負わせている?
それでは償いどころか私のしていることは――
――目を覚ましなさい。
声が聞こえ、遅れて頬に鋭い痛みを感じた。
触れてみると、痛む場所が熱を持っていた。パチュリーに叩かれたらしい。
「落ち着きなさい。私が言ったことはあくまで仮説に過ぎないわ。全てが嘘とは言わないけれど、全てが真実であるとは限らない。それに、もしこの仮説が当たっていたとしても、貴方が今、責任を感じる必要なんてどこにもないわ。未来のことなんて誰にもわからないのだから」
「……そうね、その通りだわ」
パチュリーの言葉で心が落ち着きを取り戻していく。
もしかしたら、私は鈴仙の狂気にやられていたのかもしれない。
疲れが溜まっていた上に、長い時間、正面から向き合っていたのだ。決して有り得ない話ではないだろう。
「……迷惑を掛けたわね」
「そうでもないわ。話のわかる人と過ごしたのは久しぶりだから、楽しかったわ」
「……私もよ。良ければ、また来てもいいかしら?」
「ええ。貴方ならいつでも歓迎するわ」
最後にパチュリーと握手をして、私は紅魔館を後にした。
結局、この話は誰にもしていない。
鈴仙は私の心の内を察してくれたのか、何も聞かずにいてくれる。
姫は月を眺めることに飽きてしまったらしく、今ではまた例の蓬莱人と弾幕ごっこに興じる毎日を送っている。
そういえばあの日、姫はこんな事を言っていた。
――月がどうなったのかって? どうでもいいわ。だって“私たち”は、もう月の民ではないのだから。
“私たち”。
そう言う姫は、とても優しく、気高い目をしていた。
まるで全てを受け入れて、赦すような――私の都合の良い解釈かもしれないが、私にはそう見えた。
きっと、その言葉に私は救われたのだと思う。
だから、私は決めたのだ。
真実がどうあれ、これは未来永劫、私の胸の内に秘めておくことにしようと。
もしそうなら今頃は最後の一人も狂ってしまっているのか。自分達が何をしているのかすらわからなくなって自然と滅んでいくのか。はたまた魔力の問題に気付き、自己解決しているのか。色々と妄想を膨らませていただきました。
あと師匠は少しは運動した方がいいと思うw
久しく感じたことのない寒気を覚えました。
月がたどった結末は明確に語られることはないでしょうが、だからこそ怖い。
というか私は反論を探してしまいますw
文章で気になる点が。
凹む、は新語として一応辞書登録されていますが、若者語で非常用漢字なので、あまり使わないほうがいいと思います。
次回作も期待しています。
修正が必要かと
まずそんなに大切に育てられていた『月の姫』を処刑するのか。そのあと死なないから地上に落としたのだけど、普通に考えれば次の『月の姫』がいるからこそそういったことをしたんだと思います。
次に、地上人が月に旗を立てたり共存の協議をしたりと、実際に月の民は地上人と具体的に会っています。
レイセンに波動を送ったときも、基地を作り始めると言い出したから全面戦争を仕掛けるわけだし、この話で言っている『化け物・幻覚』の類ではありません。
兵器については、『卯酉東海道』の小説を見る限り、とても発達したものだと思います。そして、『結界』という非現実がこの中では現実視されている世界なので、外の人間が月の魔力を扱う術を身に付けた、もしくは開発したとしても不思議ではないので、『戦力は我々の方が若干不利に見える。敵の近代兵器
は我々の想像をはるかに越えていたのだ』もうなずけます。
したがって、この考察は基本設定にまったく即していない物だと思います。
長々と書きましたが、話としては面白かったです。ただタイトルに考察と書いてあるので、真っ向から反論してみました。
下にもありましたが、私もこういうのは反論してみたくなるのでw
特定の人間同士が口裏を合わせて居もしない化け物の目撃証言をでっち上げて
発砲事件はその「幻覚」を利用した政治的な意味での「暗殺計画」だったとか
「化け物(地上人)が出る」という事件性そのものを利用して世論(?)や軍部を
自分達に有利な方向(地上人との開戦とか)に動かしたかったとか、、、
ちょっと考えてみたくなりました、、、。
おおお…覗いてみればこんなにたくさんのコメントが…。
嬉しいので少しばかりレスを。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 06:18:47)
興味深い内容と言ってもらえるとは嬉しい限りです。
ちなみに師匠は運動するようになったみたいです。
草木も眠る丑三つ時、人目を盗んでこっそりと。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 07:50:20)
>久しく感じたことのない寒気を覚えました。
ありがとうございます。筆者にとって最高の褒め言葉です。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 08:36:45)
>凹む、は新語として一応辞書登録されていますが……
…知りませんでした。変換したら出たので良いのかなと…。
ご指摘、ありがとうございます。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 11:59:43)
>修正が必要かと。
花映塚をやって以来、どうもてゐは状態異常に弱いイメージがあるもので…。
これは単なる相性の問題だと思ってもらえればありがたいのですが、
気分を害されたのでしたら申し訳ありません。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 16:31:57)
非常に興味深い意見、ありがとうございます。
『月の姫』に関しては、本質が失われて形だけが残った風習のようなものだと解釈しています。
次に、この話はあくまでも『永琳の視点』で書いているため、
鈴仙に送られてきた波動に関しては疑いを持つ方向で進めています。
それ以前に、不利な状況でわざわざ地上にいる逃亡兵一人を連れ戻すために割く人員があるとも思えません。
どちらかと言えば、自分たちが逃げるために鈴仙を利用しようとしたのではないかと。
戦力についてですが…これは千年以上の遅れを取り戻すのはかなり難しいと思います。
地上は鎧兜に刀の時代に、月ではマシンガン(?)やらミサイルがあったわけですから。
>したがって、この考察は基本設定にまったく即していない物だと思います。
とりあえず、この一行は消してもらえませんか?
確かに無理を通した部分はありますが、自分の作品に愛着がある以上、これは暴言としか取れません。
>名前が無い程度の能力氏(2007-03-12 21:48:25)
かなり深いところまで当たっている発言が…。
心の内を読まれた気分です。
引き続きご意見、感想等、お待ちしています。
名前が無い程度の能力 ■2007-03-12 11:59:43
>。てゐくらいなら、目を合わせなくても狂わせることができるくらい造作も無いはずだ。
修正が必要かと
これは意味上ではなく、表現の上で修正が必要だとの指摘ではないかと思います。
最後がちょっと物足りない気がしたのでこの点数で。
ご指摘、ありがとうございます。
表現に修正を加えてみました。
>名前が無い程度の能力(2007-03-12 11:59:43)
的外れな返答をしてしまい、申し訳ありませんでした。
名前が無い程度の能力(2007-03-14 05:27:41)
>悪くないなぁと。前半のノリも好きですけどね。
そう言っていただけると嬉しいです。
>最後がちょっと物足りない気がしたのでこの点数で。
…永遠の課題です。努力します。
パチュリーの仮説が出るのが早い気がします。もっと焦らせば話として深みが出たのでは。
あと、なにげにてゐが可愛いなぁw