●第三章『父親』
幽々子はあれ以来元の屋敷に戻り、平穏な毎日を過ごしていた。
叔父は相変わらずどこか怯えているようだったが、幽々子が笑っている間は嬉しそうだった。
虚栄心、支配欲、名誉欲……幽々子はあまりに汚い貴族の生活の中で汚れきった。
他人への信用を失いかけていた……だが、ここでの穏やかな生活はそれらをゆっくりと洗い流してくれるようだった。
「妖忌、頼んだ物買ってきてくれた?」
「あ、幽々子様……ええ、こちらに。後でお届けしようと思っていたのですが」
「ありがとう、仕事が早いわね」
あの日あったことなど忘れてしまったかのように幽々子はよく笑う。
妖忌への甘えも以前より増し、体ばかり成長してきたのではないかと少々呆れてしまうほどだった。
だが、きっと幽々子は必死に取り戻そうとしているのだろう。
悲運な少女時代に得られなかったものを。
「ねえ妖忌、仕事なんか良いから一緒にお茶でも飲みましょうよ」
「それはなりませぬ、少しお待ちいただければもうじき終わる。どうか我慢なさってください」
「もー、妖忌ったら真面目すぎるわよ」
自分の性格をわかっていて、からかっているような節がある。
妖忌の袖を掴んで体を揺する幽々子の姿はまさに幼子そのものだ。
(あの日のこと、忘れてはいまい)
幽々子の引き起こした惨劇。大量虐殺。
忘れてあっけらかんとしていられるような娘ではない……これは空元気ではあるまいか。
薄汚れた生活空間で人の顔色を窺うことを覚えた幽々子が、心配させまいとしているのではあるまいか。
絶対に守ってやるという覚悟はあるが、すっきりしない事も多い。
「いいもん、一人で読むから、これ」
「本当にすぐ済みますゆえ、少々お待ちいただけませんか」
妖忌は少し食い下がり、幽々子と一緒にお茶をしたい素振りを見せる。
そんな妖忌の困った顔を見て、幽々子は満足気に笑った。
「早くしてくれないと先に読んでしまうからね! 早く済ませてね!」
「はい」
妖忌が幽々子に買ってきてやったのは歌集だった。
このような楽しみを覚えてきたことだけは、あの家に養女にやった収穫と言えるだろう。
放っておいても一人で歌集を読んだり、歌を詠ったりしている。
(血は争えぬか)
妖忌が買って来た歌集には、幽々子の父の歌が多く含まれている。
幽々子は父と知らずにその歌人を好んでいるし、妖忌が見る限りでは作風も似ているように感じた。
「よし」
庭の手入れも済んだ、幽々子が待っている。
「ふぁ……」
紫はあくび混じりに山道を歩く。
あの桜の周辺を改めて散策してみようと思ってのことだ。
人間とは比べ物にならないほどの寿命を持つ紫は、年月の流れに無頓着なところがあった。
たまに空間を裂いて幽々子を見てみたりもしたが、いつの間にあんなに成長したのだといつも驚く。
そんなわけで、自分が気付かない間にこの界隈も変化しているかもしれない。
山道が整理されて人が来易くなっていたりしたら、こっそりと荒らしたりしようと思っていた。
幸いそんなことはなかったが、一箇所だけ気になるところを見つけた。
(やっぱりねぇ……)
桜の側にばかりいたので気が付かなかったが、少し離れた所に庵が作られていた。
こういう物好きは絶対出てくるだろうと予想していた、そして、そういう人間があの桜の犠牲になることも。
「お邪魔します」
人間が居たら脅かして追い払っても良いし、居なければどういう人物が住んでいるのかゆっくり調べてやろう。
鍵は掛かっていなかったがそれは当然だろう、妖怪に対して鍵なんか意味が無いし、こんなところに人は来るまい。
(よく食われずに済んでるわねぇ)
部屋に残留する霊気と、部屋にある物から僧侶であることが推測できた。
妖怪に対抗する力を持っているのだろう。
部屋にあった物の中で一番紫の興味を引いた物は書物だった。
いくつか手にとって眺めてみると、それは歌集であったり雑記であったり……。
大量の書を片っ端から読んでいくと、十数年前に出家していることがわかった。
随分と気の弱い男のようだ、いや、感性豊かすぎると言った方が的確かもしれない。
娘がいたようだがそれを親友に託し、愛する自然に囲まれて歌を詠む生活を選択した。
出家した理由は明確でないが、手がかりのようなものはいくつかあった。
まず目に付いたのは、汚れた貴族社会に身を置くことに嫌気がさした、といったことを思わせる部分。
どうも京に仕官していたらしい。が、明記はされていない、こうして誰かに読まれる可能性を考慮していたのだろうか。
(欲深いわねえ)
随分と恵まれた生活であったらしいことが伺えるのだが、満足していなかったようだ。
というよりは、恵まれすぎていたからこそ、汚い部分が余計に見えてしまったのだろう。
そして妻の急死。そこから人の脆さを悟り、死することに恐怖を覚えた。
元来の弱さも相まって仏による救済を求めた。己自身の精神鍛錬も考えていたのだろうか。
さらに読み進めると、徐々に最近の内容に近づいてくる。
(なるほど、これはいけないわ)
ここに住んでいるのは幽々子の父親か、紫はそれを察した。
――願わくば……。
そして、じきに死ぬ。
それもあの桜の下で死ぬつもりだ。
『なんだかねぇ。藍、すっきりしないでしょう?』
『私もまだよくわからないのよ。けど、ものすごく嫌な予感がするの』
ずっと引っかかっていた嫌な予感はこれか。
今の状態が続くのであれば、桜と幽々子がそれぞれに問題を起こすことはあっても……とは思っていたが。
あれだけの力を持つ娘ならば、血縁関係をもっと調べておくべきだった。
もう幽々子の側に居ないから、と、完全に放置していた。
父がかすがいとなり、死を操る力を持つ人妖を繋ぐ。
人間だけを心配していたが、それだけでは済むまい。
次々に人を呼び込み、血を吸って成長していく桜。
呪い殺す能力については幽々子も桜もまだ中途半端だ。少し力を持った妖怪ならやられない。
だがそれが自由自在に、どんな相手でも簡単に殺せるようになってしまったらどうなる?
自分もそうだが、大物妖怪はこういうときに阻止に入ることがある。
幽香の冷たい微笑が頭に浮かんだ、幽香だけではない、天狗、鬼……。
危険を感じたたくさんの妖怪が集い、そして討ち死にすることもありえる。
藍も、そして自分自身も。
(でも……)
同時にもう一つの考えが浮かんだ。
(もしかするとあの娘は……)
いや、最初からわかりきっていた。
これまで自分と藍がやってきた全ての努力を否定する手段だが……。
どことなくそれをわかっていて、それでも尚逆らおうとしていた。
それは幽々子の力と桜の力をぶつけ合い、相殺すること。
――お友達に……。
幼かった頃の幽々子の声が頭の中に響く。
「お友達は守らなきゃね」
書物を元の場所に戻すと、スカートを翻してあの桜の下へ戻る。
自分達はここまで首を突っ込んだのだ、毒を食らわば皿まで。
……これからはもっと辛くなるわ。
縁側で夕日を浴びながら、幽々子と妖忌は並んで茶を飲んでいた。
妖忌は嬉しそうに歌集をめくる幽々子を横目で眺めている。
「この人の歌が大好きなのよ。儚くて、優しくて……たまに泣いてしまうの」
そう言った直後に、幽々子の目に涙が浮かんだ。
そして少し鼻声で朗読を始める。素晴らしい歌だと妖忌に教えたいのだろう。
妖忌はわかっている、それが幽々子の父の歌だと。
どの歌も素晴らしいとは思うが、その歌もそういう印象の歌なのだろうと思った。
「願わくば、桜の下にて……」
鳥肌が立った。
それはけして感動によるものではない。
その歌から漂う死の香り。
湯飲みを持つ手が震えた、幽々子に悟られぬよう、もう片方の手で支えた。
「少し悲しいけど良い歌よね。私も、死ぬときは桜の下がいいわ」
「……」
「もし私が死ぬことがあったら……そのときは側に居てね、妖忌」
「何を仰るのですか!!」
「妖忌……?」
「す、すいませぬ……」
これを書いた歌人……幽々子の父親は自殺するのか、はたまた死期を悟ったのか、それはよくわからない。
だが妖忌にはわかった、その歌からは何か魔力のようなものも感じた。
父親は幽々子と同じ力を持っていた。また何かが起こる、確かな感覚がある。
(藍殿……見ているか? また何か起きるかもしれぬ、気をつけてくれ……)
幽々子と妖忌の様子にそれほど変化は無い、二人とも概ね平穏に暮らしている。
それゆえ藍は以前よりも家に帰る回数が多くなった。
逆に気になるのは紫の様子……藍が帰っても家に居ることはほとんど無い。
(もう冬だ……紫様は冬眠してしまうだろう)
こんなに寒くなっているのに紫が未だ冬眠していないことも不安をかきたてるが、
何よりも冬眠中は藍だけで動かなければいけない、紫の指示を仰ぐことも不可能だ。
不安で仕方がなかった、紫が寝ている間に何も起きないことを祈るしかない。
手持ち無沙汰になった藍は家の中の掃除を始めた。
疲れて帰ってくるであろう紫が、少しでも快適に過ごせるように。
しかし時間が経過するにつれ不安が増していく。
まさかあの紫がそう簡単にやられたりはしないだろうが、何か帰ってこられない状況に陥っているのではないか。
冷静に考えれば、自分が呼び出されていないぐらいだから、それほどの危機に直面しているとは考えにくい。
だが普段なら紫がとっくに冬眠に入っているこの時期……。
力が落ちて、自分を呼ぶことすらできないような状況になっていたりすることはないだろうか……。
箒を落とし、そのまますぐに駆け出していた。
居ても立っても居られなくなった。
紫が無事ならそれで良い、しかし何か困った状況になっていたら加勢しなければいけない。
藍は家を飛び出し、宵闇の中へと溶けていった。
桜が吠えていた、その半身以上が崩れ落ちている。
音なのか音ではないのか、響きのようなそうでないような、魂に直接伝わってくる不気味な音。
「げほ……げほっ……」
一方の紫も無事ではなかった。
貫かれた胸を手で押さえ、おびただしい量の血を流している。
ぼろぼろの服を見るに、何度も攻撃を受け、そして再生したのだろう。
「ふぅ、ふぅ……」
胸に開けられた風穴は瞬く間に埋まっていった。
呼吸を整え、気だるそうな目で桜を睨みつける。不気味な咆哮が頭の中に響く。
「しぶといわねぇ……」
紫は距離を置いて手をかざし、桜の周囲に結界を張ってその中に閉じ込めようと試みた。
しかしそれも叶わない、あの桜の大きすぎる魔力を包み込むには並大抵の結界ではいけない。
一瞬だけ包み込めたものの、結界はすぐに音を立てて粉砕された。
「うっ……?」
地面から飛び出した桜の根が紫の足に絡みつき、動きを封じる。
迂闊だった、空中から戦いを挑むべきだったか。
「もうっ!!」
力任せに足を振り上げて根を引きちぎると、桜が再び苦しそうに吠えた。
「木は生命の力を司る……」
総合的に考えれば紫の方が有利だった。
体積や質量の違いによる攻撃手段の幅、それについては桜に敵わず、攻撃を受けてしまうこともある。
だが今見たように、単純な『パワー』においては紫が上回っており、単発の攻撃はものともしない。
魔力そのものの容積は大きい、結界の力が通用しないのはそのためだが、これもまだ紫に分がある。
しかし互いに決定打を放てない。
再生力は紫も相当なものだが、これは明らかに桜の方が強かった。
母なる大地に根を張っているとはいえ今は冬、真冬だ、だというのにこの再生力は……。
紫自身も連日の無理が祟って本調子でないのは確かだが……。
「紫様!!」
足取りがおぼつかず、日傘を杖代わりに歩く紫。
到着した藍が紫を抱きかかえて大きく跳躍すると、その直後に地面から槍のような鋭い根が突き上げる。
それは回避できたものの、勢い余った藍は上手くスピードを殺せずに、そのまま側にあった木に突っ込んだ。
しかし紫の体は離さない。体をねじり、自分をクッションにして紫が木に直撃するのは免れた。
「ぐぅっ!!」
「藍……」
「何故私を呼んでくださらないのです!」
「大丈夫よ別に……このぐらいで死んだりしないわ」
紫の体には傷一つない、確かに殺されはしないだろうが……藍の目には酷く力なく映る。
ただ単に寝るのが好きだからと寝てばかりいるわけではないのだろう。
紫は半日寝る、だがきっとそれが紫のあるべき生態なのだ。
なのにここしばらく無理をしていた、腕の中の紫から感じる妖力は未だかつてないほど萎んでいる。
「ぐあっ!!」
「藍……!」
紫の心配ばかりしていられる状況ではなかった……藍の背に桜の根が突き立っている。
藍は苦しげに歯を食いしばり、紫を抱きかかえたまま呟いた。
「逃げましょう……!!」
「大丈夫よ、藍だけで逃げなさい……それに私はここに来いなんて一度も言ってないわ」
「紫様……!!」
無理をしている。貴女らしくないではないですか。
そんな貴女も悪くはないが、私は貴女の僕としてこの状況を見過ごすことはできない。
「幽々子の状態は落ち着いています、どうせ冬場はこの桜もまともに動けません」
「だから今潰すのよ……!!」
「そして紫様もまともに動けません……冬の間は私がこの桜を見張ります、だからここは退きましょう」
「貴女、いつから私に命令する立場に……」
だが紫は藍の目を見て驚いた。
それは間違いなく従者の目、自分を慕い、自分の盾になる者の目。
ドスン、ともう一度衝撃があった、藍の背にもう一本桜の根が突き立てられていた。
しかし藍は表情一つ歪めずに、真っ直ぐ紫の目を見つめている。
(そう……私らしくなかった、そうね……)
「ならば連れて帰って……流石にもう疲れたの」
「はっ!」
刺された箇所が悪かったのか、口から血を垂らしながらも藍は声を張って返事をした。
空を飛んで少し距離を離してしまえば桜は追撃することができない。
遠くから悔しげな咆哮が響く、それを聞いた藍は表情を歪めた。
紫は自分の持つ空間移動能力を使うことすらせず、藍に抱かれてうなだれていた。
目を閉じているのは考え事をしているからなのか、それとも寝ているのか、藍にはわからない。
二人とも限界に近かった。全身に絡みつく疲労に耐えて、幽々子と桜を見守っていた。
何故自分達はここまでして戦っているのだろう、辛くなったとき、ふと疑問に思うこともある。
それでも藍は紫の命に従わなければいけないと思っているし、幽々子や妖忌への情で説明もつく。
しかし紫は何故これほどにあの桜と幽々子を気にかけるのだろう?
ただ危険視しているだけにしては、先ほどの紫はどうも『らしくない』ように思う。
ずり落ちてきので抱きなおすと、紫はうっすらと目を開けてまたすぐに閉じた。
やはり眠っていたのだろう……藍は導師服の袖で包み込み、冷たい風から守ってやった。
そしてその冬の間は藍が桜を監視する……はずだった。
男、幽々子の父親は自分の庵で座り込み、自分の体のあちこちを眺めていた。
「潮時か」
腕、脚、体の隅から黒い斑紋で埋め尽くされていく、斑紋は重なり合い、体を黒く塗りつぶしていく。
黒くなった部分には感覚が無い、動くところはまだあるが動かないところもある。
もう胸や腹まで黒く染まり、首元まで……頭に達するのも時間の問題だろう。
(花の季節まではもってほしかったが……)
あの日、幽々子のことが心配で……何もできないことがわかっていながら、幽々子の元を目指した。
途中妖忌に会った。妖忌は白楼剣に守られていたようだ、今も健康に過ごしていることだろう。
だが自分はそうはいかなかった、幽々子と同じ能力を持っているとは言え、その強さは段違い……。
男の周りを黒い蝶が飛び回っていた。
フッとそのうちの一匹が男の体に張り付き、そのまま黒い斑になった。
(妖忌……幽々子を頼む)
あの時、妖忌に抱かれて泣く幽々子を見て……。
今更自分が「父親だ」などと言って出て行くのはあまりに勝手なことだと痛感した。
既に自分が幽々子にできることなど何もなかった、せいぜい妖忌を幽々子の元へ導くことぐらいだったろうか。
しかし妖忌は白楼剣のみならず、随分と死霊に強い剣をもう一振り持っていた。
導くことさえも、本来は必要としなかったのかもしれない。
男は立ち上がり、棒のようになった脚に鞭打って歩き始めた。
幽々子が無差別に振りまいた死の力は、黒い蝶の形を成して男にまとわりついていた。
初めはたくさんいたそれも、もはや数匹を残すのみ。これが全て張り付いたとき自分は死ぬのだろう。
外に出ると、太陽はまだ頭をほんの少し乗り出している程度。空にはまばらに雲が浮かんでいる。
快晴とまではいかずとも、晴れた日になりそうだ。
肌を刺すような冷たい山の空気も、もうほとんど感じることができない。
(これでは歌を詠むこともできん)
歩き続ける、幾度も転びながら。
途中、雪を拾い上げた、その手は冷たさを感じることができない。
だからそっと頬に押し当てると、わずかに冷たさと、ざらざらした感触が伝わった。
男は思わず笑顔になる。
(自然は……良いな)
人の世は窮屈だった。楽しいことよりも苦しいことの方が多かった。
人間関係、権力争い、恨み、嫉妬、憎悪……そんな貴族社会の中で唯一の収穫は、妖忌に出会えたことだったろう。
正直で、不器用で……初めて妖忌を見たとき、岩のような印象を抱いたことを思い出す。
あの桜の木が見えてきた、相変わらず見事だ。
花が咲いていれば言うことなしだったが、それは自分の周りを飛ぶ蝶が許してはくれまい。
妻を失った。
残された娘は、まだ歩くこともできないというのに自分を超える資質を持っていると感じた。
疲れ果てていた自分にはその娘を守りきる自信が無かった。
妖忌に任せて逃げてしまった。
(父親失格だな……)
世を捨て、娘も友も捨てたつもりが、いつまでもその様子を見に行ったりしている自分が情けなかった。
けれどどうしても気になって仕方がなかった、結局自分は何一つ捨てることができなかったんだろう。
なんとか桜の根元まで辿り着くことができた。
(この身で何ができるだろうか)
父親らしいことなんて何一つできなかった自分。
もっと早くこの桜のことに気付くべきだった。
「お前は私達に似ているな、同じ力を持っている」
桜の幹に手を当て、呟く。
突然、息も絶え絶えな男の表情が硬くなり、それを察知した桜の枝葉が揺れた。
男の背後から、ゆらゆらと黒い腕が生え、桜の幹に向かって伸びていく。
(宿命的なものを感じるのだ。いつか幽々子がここに引き寄せられるような気がしてならん)
それは弱くて身勝手な幽々子の父親が最期に振り絞った勇気。
この側に庵を構えたのは、桜を楽しみたいのが一つ、そしてこの桜を監視していたのが一つ。
どうせ死ぬならば、不安な要素は取り除いておきたい。
(美しい桜だ、ただ咲いていてくれるだけだったならば、絶対にこんなことはしなかった)
黒い腕が桜の幹に絡みつき、締め上げた。
殺された樹皮がぼろぼろと崩れ落ち、途端に桜が轟々と空気を揺すり始めた。
桜からすれば、黙っていても根元で勝手に死ぬと思っていた男の不意打ち。
何もせずに更なる力を得られると思ったが、男の行動は桜の狙いを完全に裏切る形になった。
だが、紫や藍でさえ手に負えないこの桜が、死にかけの幽々子の父親にどうにかできるはずはない。
勝負は一瞬だった。
殺す相手が、先に桜に殺されてしまって、数匹の黒い蝶は行き場を失った。
ひらひらと頼りなく宙をさまよっていた蝶は、桜の根で木っ端微塵突き砕かれ、霧散した。
そして桜は男の血を吸い、更なる力を得て、春を待たずにその花を咲かせた。
邪気は瞬く間に山を包み込み、その麓までを侵蝕していく。
更なる生贄を求め、人里まで。
最初に妙な気配に気が付いたのは幽々子だった。
自分は何もしていないのに何故だろう、庭に出て不安そうに辺りを見回す。
「幽々子様、いかがなされましたか?」
「あ……ううん、なんでもないの」
予感や何かではない、確実に、感覚に訴えるものがある。
訝しがる妖忌に不自然な微笑を送ってから、幽々子は家の中へ入った。
自室に戻った幽々子は突っ立ったまま考えを巡らせていた。
妖忌は気付いていない……かなり遠い所からの力で、これそのものが人を殺せるわけではない。
妖忌が気付いていないのは、距離によって力が薄まっているから感じられないということが一つ。
そして妖忌自身の力が無意識の内にその邪気を払っているからというのもあるだろう。
(なんで……?)
幽々子は無闇に人を殺してしまわないように、力をコントロールする術を身につけていた。
それでも完全に、というわけにはいかず、それがあのときの騒動に繋がってしまったわけだが……。
とにかく、これは自分が無意識にやっているというものではない。
(こんな物騒な力を使うなんて、誰なの?)
自分と同じ、死を操る力。
だが幽々子はできれば関わり合いになりたくない、もうこの力を使いたくないからだ。
せっかく、たくさんのものを犠牲にしてこの平穏な生活を手に入れたのに。
少しのわがままも許されないというのだろうか、心底不愉快だった。
(知らない……私には関係無い……)
だがきっとそんなわがままは許されないのだろう。
何故だかわからないが自分が行かなければどうにもならないような気がした。
怖くて体が震える、目から涙がこぼれ落ちる。
意地でも行くまい、幽々子はそう心に誓って黙殺することに決めた。
次々に人が行方不明になり始めた。
妖忌が買い物に出るたびに、あの人がいなくなった、この人がいなくなったと騒いでいる。
夫の安否を心配して泣き叫ぶ女、親がいなくなって腹を空かせる子供。
買い物籠をぶら下げてそれを眺める妖忌も、初めは何が起こっているのかわからなかった。
何かが起こっているのは確実だったが幽々子からは何も感じない。
幽々子の父親がこのようなことをするとは思えないし、幽々子ほどの力も持っていないように感じたのだが……。
妖忌には知る由もなかったが、あの桜が人を呼び寄せ、その根元に到達した者の血を吸っている。
時折白楼剣が警鐘を鳴らすようになった、キンキンと耳障りな音を立てる。
幽々子が暴走したあの時と同じ現象……そのぐらいになると、妖忌にも徐々にわかってきた。
幽々子に元気が無いのは感じていたが、妖忌はあえて声をかけないようにしていた。
あの日のことを思い出させたくなかったし、この一件に幽々子を絡ませたくなかった。
幽々子の叔父や、妖忌以外の従者に至るまでが行方不明になった。
里の人間も半数以上が消え、生活に必要な物資を揃えることさえ困難になった。
流石に静観ばかりしていられなくなった妖忌は、ついに幽々子に確かめることを決意した。
「申し訳ありませぬ幽々子様、給仕をしていた者も行方不明で……」
「……いいのよ」
妖忌が作った不恰好な料理が幽々子の前に差し出された。
幽々子は微笑んでいるが、その目からはまったく活力が感じられない。
「お食事の前に一つ話があるのですが、良いですか?」
「何?」
「次々に里の者が行方不明になっております」
「……」
幽々子はうつむいて何も話そうとしない。
だがそれは裏を返せば幽々子が何かしらの手がかりを掴んでいるということだろう。
その後妖忌は、どこの誰が居なくなったと、それら一人一人のことを幽々子に伝える。
知った名もあっただろう、幽々子の膝にぽたぽたと涙がこぼれる。
「どうやらこの里に何かが起きているようです、調べてないからわかりませぬが、近隣の里も似たようなものかもしれぬ」
「……ええ」
妖忌は正義感の強い男だ。
一人で原因を調べに行くと言い出すかもしれない。
そう思うと幽々子は震えが止まらなくなった、死んでゆくこの里に一人で取り残されてしまうのではないか。
幽々子は涙を流すだけに留まらず、ついにはガタガタと震え始めた。
「ですから幽々子様」
「……」
「私と共に逃げましょう、どこか遠くへ」
「えっ……?」
妖忌の口から出てきた言葉は予想だにしないものだった。
だが妖忌は誓ったのだ、何があっても幽々子の側に居て守り通すと。
かつて幽々子の起こした大惨事は、自分が側で守っていれば防げたもの。
あんな後悔は二度と味わいたくない。
「妖忌、本当……?」
「ええ、この一件に幽々子様は関係ありませぬ、里の者を見捨てるのは心苦しいが、私は幽々子様の従者です」
その妖忌の言葉を聞いて、幽々子は一つの決心をした。
「ありがとう、妖忌……」
幽々子の震えは止まり、その顔には柔らかい微笑みが戻った。
それを見た妖忌も胸を撫で下ろす。
(これでいいのだ、これで……)
悲しみに暮れる里の者達の顔が脳裏に浮かぶ。
だが自分が最優先して守らなければならないのは幽々子なのだ。
妖忌は白楼剣の鞘に手を当て、目を閉じた。
その晩幽々子が居なくなった。
翌朝、妖忌はただ一人広い屋敷に取り残されて呆然としていた。
藍は胸を押さえ、額に脂汗を滲ませながら、床の上でうずくまっていた。
「ぐっ……はぁ、はぁ……」
桜とやり合ったあの日以来体調が優れない。家事すらまともにできないほどだ。
藍は今日も家を出ようとしたが、玄関で膝をついた。
食欲も湧かない、疲れているのにろくに寝られない、死に至るほど辛いわけではないのだが、外出は無理だった。
たまに、眠っている紫の様子を見ると、自分ほどは酷くないようだが随分うなされている。
苦しそうに悶え、胸をかきむしり……藍が額に滲む汗を拭って手を握ってやると、強く握り返してくる。
あそこまで苦しんでいる紫を見るのも初めてのことだった。
なんだかわからないが、涙がとめどなく溢れてきた。
「桜の呪いか……」
壁にもたれかかって下を向くと、自分の胸の動きが驚くほど大きい、息が荒い。
だがすぐにそれどころではなくなった。表から凄まじい妖気を感じる、これは……。
「随分と苦戦しているみたいじゃない」
澄んだ声は恐ろしく冷たい響きを持つ、それはまるで鼓膜が凍りつくような印象だった。
紫に匹敵する妖気、だがそれは慣れ親しんだ紫のそれとは違い、肌がじりじりと焼けつく。
「風見幽香か……何をしにきた」
あいつが自分から出てくるなんて珍しい。
いや、もう珍しい事だらけだ、初めて目にする事だらけだ。
長く生きたつもりだったが、自分がここまで未熟で経験不足だとは思わなかった。
そんな藍にまったく気遣う様子も無く、幽香は戸を開けて家の中へと入ってきた。
そして自分に向けられる鋭い眼光を鼻で笑い飛ばす。
「ふん、そんな格好ですごまれても怖くないわ、無理せず横になったら?」
「……何をしにきた」
「貴女達が怠けてる間にすごいことになってるわよ?」
「なんだと!? まだそこまで経ってはいないはずだろう!!」
「運が悪いわね貴女達……本当に」
何があったのかわからないが、幽香が嘘をついていると信じたい。
それまで鋭い目で睨みつけていた藍は、途端に不安になって情けない表情に変わる。
「残念ながら私は嘘なんかついてないわよ」
「ならば、何があったんだ……?」
「あの子の根元で一人の男が死んだ」
「ただの男ではなかったのか」
「西行寺幽々子の父親」
「……父親……?」
「娘には及ばずとも、死霊や死を操る能力を持っていた」
「そんな……」
「それを取り込んであの子は更に力を増した。そして各地で人間の行方不明が多発しているわ」
「行方不明……あの桜の元へ?」
「そう、あの子の下で人間が次々に死んでいる。そしてあの子は血を吸う度に満開に近付いていく」
「この時期にか」
「もうじき満開になってもおかしくないわ、さぞかし美しいでしょうね」
「嘘だ……」
藍の全身から力が抜けていく。藍は幽々子の父親について紫から何も聞かされていない。
幽々子と桜だけを見張れば良いと思っていたが、こんなところで出てきて問題を起こすとは思ってもいなかった。
「それにしても……紫の奴、本当にらしくないわね、他にいくらでもやりようはあったでしょうに」
「何のことだ……紫様は尽力なされた、愚弄することは許さんぞ」
「別に愚弄じゃないわよ、でも不思議でねぇ……破壊なんて、一番難しい手段なのに」
「……」
心当たりが無いでもなかった。
見た感じでは紫は物理的な破壊にこだわっていたように見える。
「例えば私と紫が戦ったとして、すぐに決着がつくと思う?」
「……いや、つくまい」
「ましてあの子の生命力には私や紫でさえ及ばない。木ってすごいのよ、そしてあの子の持つ力。
あれは死を操るもの、死を操ることができれば、生にもある程度干渉できる」
「……」
「殺せる者を殺さないと言うことは、その者を『生かす』ことに他ならないわ」
「話が見えないな、さっさと要点を話せ」
「あまり調子に乗らない方が良いわよ、私は紫みたいに甘くはないから」
「そんな話をしにここに来たわけでないことぐらいはわかっている、勿体つけるな」
「……まぁいいわ、自分で来て自分でご破算にするのも面白くないし。それより中に入れてよ」
「……わかった、話を聞かせてほしい」
藍は、有力な情報を持っている幽香に頭を下げるしかなかった。
今回のことについての紫の動機もよくわからない。幽香ならばわかるのかもしれない。
負けを認めた藍を満足そうに見下して、幽香は家の中へと招き入れられた。
藍の体調が優れないにも関わらず、幽香は茶を要求した。
早く話を聞きたいところだが、それならば逆に従うしかない。
本当に扱いの難しい奴だと思いつつ、藍は茶をいれて幽香に差し出した。
「紫の能力がどの程度まで及ぶのかはよく知らないけど」
茶から立ち上る湯気を見つめながら幽香は話を始める。
「境界を弄ればなんとかなるはずよ」
「何の境界を?」
「それでも一人では無理でしょうけど」
質問に答える気は無いらしい、藍は黙って話を聞くことにした。
「私が今回あの子の様子を見に行ったのは、紫があまりにしつこくあの子を破壊しようとしていたから。
最初はどうせ無理だからと目を瞑って、試しに挑ませてみたけど。本気で壊そうとしてるなら私はあの子の味方」
「あれがどれほど危険かわからんのか?」
「人間にとってどれほど危険かなんて知ったことじゃないわ、これは紫にも言った」
「……」
「でも紫は言ったもの『人間を殺す理由も無いから守ってみようと思っただけ』ってね。
なら、花の妖怪である私が花を守ろうとするのは当然だと思わない?」
言えている。幽香の理屈には筋が通っていた。
妖怪の視点から見て不自然なのは明らかに紫と藍だろう。
だが幽香はわかっていて揚げ足を取っているだけだ、まさか本当に紫がそんな理由だけであそこまで戦ったとは思えない。
「最近では妖怪も食われ始めたわよ。危険を感じてあの子を攻撃しているみたい」
「やはりな」
「妖怪の味方をするつもりもないけどね、ただ、どうも落ち着かない」
「何がだ?」
「まだ弱い奴ばかりで返り討ちだけど、紫を初めとした強力な妖怪がよってたかってあの子をいじめ始めたら許さない」
「……そうか、一理ある」
幽々子のことが頭に浮かんだ。
守るものこそ違えど、幽香もこれに近い感情をあの桜に対して抱いているのではないか。
初めに紫を見逃したのも、そのときの紫が本気で破壊するつもりがないのをわかっていたのでは。
いや、破壊するつもりがないのではなく、破壊できないのがわかっていた。幽香も紫も。
「だから、早い段階で私自身が始末をつけようと思ってここに来たの」
「始末?」
「あの子を冥界に隔離する」
「隔離、隔離か……破壊ではなく隔離」
「冥界に生きた人間は居ないから被害は出ない、あの子も美しく咲いていられる、良い妥協案だと思わない?」
「……流石だ、賢いな」
「まぁ、冥界だと見に行くのに少し骨が折れるけどそれぐらい……破壊されるかどうかひやひやするよりはずっと良いもの」
「それで我々に協力を依頼しに来たのか?」
「ええ、悪い話じゃないでしょう?」
「ああ、少なくとも私は問題ない」
しかしながらどうも釈然としない。
「そんなに上手くいくだろうか」という思いが藍の胸にわだかまっていた。
それに幽香はまだ何か隠している気がする。
今言ったことだって、賢いとは思ったが紫が気付かないほどの案ではない。
「そんなに簡単なことではないわよ」
突然襖を開けて紫が出てきた。
紫は幽香の接近を感じたとき既に半覚醒状態になっていたが、あえてそのまま寝ていた。
だがあまりに長く幽香が居座っているので妙だと思い、隣の部屋で話を聞いていた。
「紫様、起きてらしたのですか? お体の方異常ありませんか!?」
「このぐらいなんてことないわ、ほら藍、こっちへ来なさい」
「おはよう、紫」
「いらっしゃい、幽香」
寝巻きのままの紫は、藍に札を貼り付けたり、手をかざしたりして呪いの除去を開始する。
少しずつ藍の顔色が良くなり、それに伴って姿勢も良くなってきた。
「顕界と冥界の境界を薄くして、あの子を結界で包み、転移させてしまえばいい」
「顕界と冥界の境界はまだ弄っていないけど、結界で包むのがまず難しいの」
「だから手伝うんじゃない、私が」
「転移させるのも並じゃない、自分から移動しようとする者や意志の無い物を送るのは簡単だわ、けどあの桜はあそこに居座ろうとしてる」
「そうね」
「強制的に送るには物理的な方法では不可能なの、それは今までやってよくわかった」
「スキマに引きずり込んで冥界に送っても」
「切り離された体の一部が物質として送られるだけ」
「あの子の本体、魂、精神は残る」
「ええ」
「簡単なことよ、あいつを使えば良い、西行寺幽々子を」
「……」
「魂や精神への干渉能力は素晴らしく高いわ、大物妖怪でもあそこまでのはそう居ないわよ」
「バカね、それじゃ私が今まで何のために幽々子を守ってきたのかわからないじゃない」
「バカはあんたよ、さっさとこの方法をやっていればこんなに死人が出ることもなかったでしょうに。
私とそこの狐があの子を物理的に押さえ込む、その隙に西行寺幽々子があの子の生命力を奪う。
あとは弱ったあの子をあんたが冥界に送って終わり、大団円よ」
「そういう手があるのか、紫様、やりましょう……妖忌とは顔見知りだ、幽々子は呼べるはずです」
「はぁ……暢気ね」
修復を終えた紫は藍から札をはがし、溜息をついて座り込んだ。
「妖怪三昧ねぇ、幽香」
「人間を守る気など元からないわ」
「結局、幽々子はこうなる運命だったのかしらね」
「え? え?」
「耐えられるわけないじゃない、前からだって幽々子だけでは不足だったのに」
「では、今の作戦は……」
「自分の全てを力に変えるぐらいでなければ、幽々子はあの桜の生命力を奪えない」
「全て……つまり」
「幽々子が命を投げ打つ覚悟で、それでもなお成功するかどうか」
藍は鈍器で頭を殴りつけられた気分だった。
紫があえて回りくどい方法を取っていたのはそのためだったのか。
幽々子を巻き込まずにあの桜をなんとかするのはそれほどに困難だったのか。
そして結局どうにもならず、事態は最悪の状態になった。
幽々子を巻き込む、いや、幽々子を犠牲にしなければあの桜はどうにもならない。
たくさんの人間を犠牲にしてまで幽々子を守ろうとしたのに、その行為が結果的に傷口を広げることになった。
「私は一体何をしていたんだ、何をできたんだ……」
藍はうつむき、そのまま黙り込んだ。涙すら出ない。
「藍は何も悪くないわ、元々、これは私達の使命でもなんでもない」
「……」
「私の気まぐれ、わがままよ」
「本当ね……貴女、主は選んだ方が良いんじゃないの?」
「私達は確かに何一つ防ぐことはできなかった、全てを失っていくばかり」
「西行寺幽々子も?」
「……そうね、もう背に腹は変えられないわ。私達も安全地帯から引きずり下ろされた」
無闇に人を殺す行為は自分の首を絞める。
今大物妖怪と言われる者達は、長い年月をかけてそれを悟った者達。
あの妖怪桜の所業は捨て置けない、暗黙の掟を作ってきた者達が粛清しなくてはいけない。
私情を捨てて、多少の犠牲には目を瞑り……人の世、そして同時に妖怪の世の脅威を取り除かなければならない。
「紫様……どうにかならないのですか……」
「もう無理よ、藍」
「紫様ならば、なんとかできるのではないですか!!」
「無理よ、無理と言ったら無理……私だって神様じゃないもの」
「……!!」
かつて自分が胸に抱いた絶望、それが紫の胸にも去来していたというのか。
『もう考えるのも疲れた、私は神様ではないんだよ……』
幽々子の悲しい人生が、自分の走馬灯であるかのように藍の頭の中を駆け巡る。
自分にじゃれつく幽々子。耳を引っ張ったり、尻尾に抱きついたり。
一人きりで遊ぶ幽々子。妖忌が来ると嬉しそうに駆けて行く、ときには転んだりもした。
一人きりで養女にもらわれる幽々子。幸せそうな様子とは裏腹に、一人になると悲しそうな表情を見せる。
小間使いにされそうになり、養母に傷付けられそうになり、ついに悲しみが爆発した。
妖忌に抱かれて、養女にもらわれてからの数年分の涙を流す幽々子。
悲しい歴史を幾つも刻み、ようやく平穏が訪れたはずだったのに。
藍は四つん這いのまま紫にしがみつき、大粒の涙をこぼしながら訴えた。
「お願いします!! 紫様!! どうか、どうかあの娘を……!!」
「……」
紫は返事をしなかった、藍はそのままずるずると滑り落ち、突っ伏して嗚咽を漏らす。
幽香はそんな様子を見て「理解できない」とでも言いたげに表情を歪めてから、視線を紫へと移した。
「で、西行寺幽々子を使う、それでいいのね?」
「紫様……紫様ァ!!」
……ええ、それでいいわ。
三人はちゃぶ台を囲んで話し合っている。
正確には話し合っているのは紫と幽香だけで、藍は泣き止んだがずっと黙りこくっていた。
「まず一人は桜への道を封鎖し、これ以上人間が食われるのを阻止すると同時に、邪魔が入らないようにするの」
「で、それは誰が?」
「藍にやらせましょう、良いわね?」
「……」
藍は虚ろな視線を紫に向けると、何も言わずに小さく頷いた。
紫はそんな藍の様子を見て難しい顔をしたが、すぐに幽香の方を向き直って話を続ける。
「もう一人は桜の見張り、そして最後の一人が幽々子を連れてくる」
「そう、貴女があの子を見張りなさい。私が幽々子を連れてくるから」
「ダメよ、それは私がやるわ」
紫と幽香がにらみ合う。
「移動が早いからなんてつまらないこと言わないでよね、あんたはどうも信用できない」
「ここまで来て今更裏切ったりしないわ、ちゃんと連れてくるわよ」
「あれだけ人間の娘に情をかけておいてよく言う、信用できないったら信用できないわ」
「あんたこそ、連れてくるとか言いながら途中で殺したりしないでしょうね?」
「さっきの言葉そっくりそのままよ、今更裏切って何の得があるの?」
「そう思うなら私に任せなさい」
「ダメよ、情にほだされて逃げられても困るから」
「無理矢理連れてきたって、あの桜と戦ってくれるかどうかわからないじゃないの」
「……」
「幽々子のことを大して知らないあんたに幽々子が説得できて? この作戦は幽々子の力に大きく左右されるの」
「……気に入らないけどまぁいいわ、あの子のためだもの」
「あんたなら必要以上にあの桜を傷付けることもないでしょう」
「詭弁ね」
幽香はこの期に及んで紫が幽々子を連れて逃げるのではないかと心配していた。
しかし紫の言う通り、この計画は幽々子のモチベーションが成功率を大きく左右する。
詭弁とは言ったが、紫が先走って、あの桜を必要以上に破壊するのも確かに気に入らない。
言い包められた感じがして気分が悪いが、幽香は紫に従うしかなくなった。
「あんたはどう思うの?」
幽香が突然藍に声をかける、藍はゆっくりと顔を持ち上げて小さく呟いた。
「お前がなんと思おうと、私達だって妖怪だ……今更情けをかけてはいられない」
「そう」
藍は、自分で言って腹が立った。
人間と妖怪、何故そこまで明確に分けなければいけないんだろうと。
藍も長く生きる上でそんなことはわかっているのだが、今回の件でまた疑問を抱いていた。
一時的な感情だというのもわかっている、わかってはいるのだが……。
「私が山道を封鎖し、幽香が桜を見張り、紫様が幽々子を連れてくる……ということでいいのですね?」
「ええ、そのように」
「何度も言うけど、幽々子を連れて逃げたりしないでよ」
「わかってるわよ、しつこいわね……準備ができたら呼ぶわ、藍」
「わかりました」
「それからは幽香と協力して桜を押さえ込みなさい」
「はい」
三人は立ち上がった、これが正真正銘最後の戦いになるだろう。
紫が作った空間の裂け目をくぐれば、もうそこはあの桜が生えている山だ。
●終章『約束』
藍は山道……と言っても獣道程度の不細工な道だが、人が通れそうなところを破壊して回っていた。
それでも完全に道を絶つことはできないが、これは飽くまで下準備にすぎない。
人間はどうしたって歩きやすい道を選ぶのだ、それを一本に絞り込み、自分がそこに立ちはだかる。
途中で見つけた人間は脅すことで桜の呪縛を断ち切り、追い払った。
「これでほとんどの人間はここを通ることができないだろう」
だが藍には一つの確信があった。
遠くから一人の人間が駆けてくる、見覚えのある人間。
守り刀白楼剣と、藍が与えた長刀を携えて駆けてくる。
「来たか、魂魄妖忌」
「……藍殿?」
妖忌の腰に付いた白楼剣がキンキンと鳴っている。
そればかりではない、強い振動を起こしていて今にも鞘から抜け落ちそうだった。
「やはりこっちか……藍殿も嗅ぎつけたようだな、幽々子様が……」
「幽々子がどうかしたのか?」
「ああ……ここに何かがある、藍殿は知っているかもしれないが……幽々子様と似た力を持つ何かだ」
「それは桜だよ」
「桜……!?」
妖忌はここに来てようやく、幽々子の父親が詠った歌の意味を理解した。
きっと桜の下で死に、その桜が幽々子の父親の力を吸収した……。
それだけでこれほどの力を持つのは何故か、などの疑問はまだ残っていたが。
「ここには妖怪と化した桜があった」
「藍殿、ゆっくり話している暇はない、幽々子様はその桜の下へ行こうとしていると思われる」
「それは好都合だ、幽々子には協力してもらう」
「……なんだと?」
藍の目は冷たく、澱んでいた。
かつての幽々子を見守る温かい目ではない。
妖忌は思わず刀に手を掛ける。
「幽々子の父を吸収する前から相当な力を持っていた。いや、正確に言うと生命力が強すぎて滅ぼせなかった」
「……そんなことをしていたのか」
「紫様がどうお考えだったかは私にもわからん」
「ゆかり……」
あのとき幽々子が言っていたもう一つの名……言動から察するに、藍の主なのか。
「だが紫様は阻止しようとしていたんだろうと思う」
「阻止?」
「一度幽々子を見に行ってからの紫様の様子は、ずっと変だったよ」
「あの晩か……」
「幽々子とあの桜は似ていた、死霊を操り、人を死に誘い、今ではすぐにでも殺すことができよう」
「ああ、そうだろうな」
「紫様は幽々子と会った時に一つの方法を思いついたに違いない」
「……それは?」
「あの桜と幽々子を戦わせ、その力を相殺する」
「バカな……そのために幽々子様が成長するまで守っていたと言うのか!!」
妖忌が声を張り上げた瞬間、それに呼応して藍の表情が怒りの形相に変わる。
「そんなことは知らん!! 紫様が何を考えていたのかは私にも完全にわからん!! 考える余裕も無い!!」
「……」
「だが私は……こんなことはしたくなかったわよ、幽々子を守ってやりたかった、心から……」
「……通せ」
「紫様だって、同じ気持ちだったんだと思う……」
「通せ!!」
「それはできない」
妖忌が長刀に手を掛け、藍は爪を伸ばす、両者がにらみ合った。
「幽々子を守りたい気持ちはあるが主の命もある。そしてこれはもはや我々の私情を挟む問題ではない」
「幽々子様を守れと言ったのは貴女だろう、この刀だってそのためによこしたもののはずだ」
「ああそうだ、お前の役目は何も変わってはいない。私は長く生きる妖怪として、人間と妖怪双方の平和の為に戦う。
それが私の定めだ、お前の定めが幽々子を守ることならば、遠慮なくその刀で私を斬り伏せるが良い」
「どちらが本当の藍殿なのだ……」
「もはや自分の意志は殺した、ただ主の命に従うのみだ……さあかかってこい魂魄妖忌!! 私はここを死守する!!」
「ならば通る!! 幽々子様を守るのが私の定めだ!!」
互いに迷いは断ち切れていない。
藍はああ言ったものの、幽々子に対する情が完全に捨てきれたわけではない。
自分の気持ちと紫の命令の狭間で苦しむ藍、人間と妖怪双方の平和を考えると妖忌を通してはいけないのはわかる。
頭ではわかる、だが幽々子には死んでほしくない……藍は涙ながらに爪を振り下ろす。
一方の妖忌も、幽々子を守るためにはここを通らなければいけないのだが、太刀筋が冴えない。
自分が何もできなかった間、藍は人間と妖怪の境界に苦しめられながらも、幽々子を見守ってくれていた。
あの大惨事の日、幽々子の元へ向かう自分に素晴らしい剣を与えてくれた。
桜を滅ぼすための生贄として幽々子を守っていただなんて考えられない。
何よりも、藍はまるで「私を斬ってここを通り、幽々子を助けてやってくれ」とでも言っているように感じられる。
俊敏な動作に鋭い爪、妖忌にできたほんの僅かな隙を藍が見逃すはずはないのに……。
攻撃に移ろうとした瞬間に藍が踏み止まる、その一瞬の動作の鈍りを妖忌は見逃さなかった。
だが妖忌もその隙に斬りつける事ができない。
このままでは幽々子が危ないとわかっているのに……藍の悲しい表情が妖忌の覚悟を鈍らせる。
「何を手加減している!! そんな者を斬る剣は持たぬ!!」
「そう思うならもう一つの剣を抜けばいいだろう……自分で鍛えた剣で斬られるほど間抜けではない!」
「本気で殺しに来い……そうでなければ貴女を斬れぬ……」
「……悲しいな、妖忌」
「……次は完全に迷いを断つ、貴女の迷いもだ」
「……ええ」
妖忌が白楼剣を抜いた。
妖忌の顔が引き締まり、藍の目から澱みが消える。
両者本気の戦いが始まる。
桜の下に向かった幽香は、その惨状を見て思わず息を飲んだ。
桜の根元に積み重なる死体の山、山、山。
人間のものだけではない、歯向かった妖怪達……。
中には人間と同様に能力に屈し、抵抗すらできずに死んだ者もいよう。
逆に、人間の中にも歯向かった者がいたかもしれない。
それらを皆殺しにし、自分の根元に積み上げ、血を吸い続ける桜。
空中にはまだ抗戦を続けている妖怪も居た。
誰も彼も傷だらけだ、それに対して桜は傷一つついていない。
幽香の存在に気がついた妖怪達はその場を去り始めた。
幽香が桜の味方をすると思って撤退したのか、もしくは幽香に任せようと思ったのか。
いずれにせよその行動は幽香の持つ力を恐れてのことだろう。
「綺麗……」
そうとしか形容できなかった、どんな言葉もその桜を表せないと思った。
そう、桜は既に満開になっている。
「落ち着いて、今安全な所へ……あなたが咲き誇ることを、誰も邪魔しない所へ連れて行ってあげるから」
桜に歩み寄る幽香の微笑みは、今まで紫や藍の前で見せた冷たいものとは違う。
家族でも見守るような温かい目……だが。
「……えっ?」
桜はその根で幽香の腹を刺し貫いた。
幽香は苦しみもせず、不思議そうに自分の腹部を見下ろしている。
「……そう」
幽香は小さく呟き、桜の根を乱暴に引きちぎって投げ捨てた。
なんて凶暴な桜だろう……やはり紫や藍だけに任せてはおけない。
幽香は口から垂れる血を布で拭き取る。腹部に開けられた風穴はもう閉じている。
「これだけ強くなってもまだまだ子供なのね」
日傘を開き、今度は冷たく笑って桜に歩み寄る。
幽香に気圧された桜は再び根を突き上げての攻撃を仕掛けた。
しかし幽香は、風に舞い上げられる花びらのように緩やかな動きでその攻撃を避け、空中で静止した。
「なんて幼稚な攻撃かしら」
幽香の小さな掌から宵闇を打ち払う眩い閃光が放たれ、突き出した桜の根を焼き払った。
地中深くまで大穴を空けるその凄まじい威力、桜の根はいくつも焼き切られ、悲鳴のような地響きが鳴る。
あの金髪の少女に匹敵する力を持つ目の前の少女。
さっきから全力で死の能力を使っているのに、ニヤニヤと不気味に笑っている。
花びらを舞い散らせて攻撃しても、日傘がそれを防いでしまう。
「言うことを聞かない子は好きじゃないわ」
桜が吠える、風も無いのに花びらを撒き散らし、触手のような根が地上を支配した。
死の能力が通用しないならば花びらで叩き落して、根でズタズタにしてやろうと猛っている。
「遊んであげる」
幽香の周りに無数の向日葵が浮かび上がる。
その表情は冷たく笑ったまま。
幽々子の父親が住んでいた庵、そこで幽々子は涙を流していた。
父親が残したたくさんの書……最初はこれが自分の父親のものだなんてわからなかった。
「お父様の歌だったのね……」
自分の心にあんなに届いたのは、それは幽々子に宛てられたメッセージが多いから……。
今まで見てきたどの歌も新鮮に感じられる、新しい感動がある、だから悲しかった。
手記を見れば、今までずっと自分を気にかけてくれていたことがわかる。
あの大惨事の日も自分を気にして側まで来てくれていたのだ。
「顔を見せてくれれば良かったのに……」
父親がどう思っていようが、血を分けた肉親に会いたくないわけがない。
幽々子はさらに手記をめくり、驚愕することになる。
――願わくば、花の下にて……。
父親はまだ死すべき運命ではなかったのだ。
あの日幽々子のことが心配でかけつけた父親は、幽々子の能力から身を守りきることができなかった。
その手記には、あの日から黒い蝶に囲まれて父親が弱っていく様子が記してあった。
「お父様は……」
「そう、貴女が殺した」
突然背後から聞こえた声に驚き、幽々子の体が跳ねる。
振り向くと、遠い記憶の中にある少女がそのままの姿で立っていた。
「貴女は……」
「紫よ、幽々子さん」
紫……そうだ、確かそんな名前だった。
あのときはわけもわからずに「友達になって」と頼んだが、紫は最後まで聞き届けずにその場を去った。
酷く寂しい思いをした記憶がある。
だが紫は幽々子の思惑など意に介さず話を続ける。
「貴女の父親も同様に強い霊力を持っていたからすぐには死ななかったのでしょうね」
「……」
「貴女が全てを恨んだとき、その中に身を置いた貴女の父親」
「やめて……!!」
「こうなることはわかっていたでしょうね。それでも貴女のことが心配で、居ても立っても居られなかった」
涙が止まらなかった。
自分を心配して駆けつけた父親に会うこともなく、逆に殺してしまっていたなんて。
だが紫は間髪入れず、次々に残酷な事実を突きつける。
「貴女の父親も貴女も、純粋すぎるわ」
「何が……」
「自分を捨てたのならばどこで死んだって大して変わらないでしょうに、美しい桜の根元を死地に選び……
その血は、桜の魔力を何倍にも強くした」
「桜……」
「そして彼の詩もまた強い魔力を持ち、その桜を巨大で美しい墓標にしてしまった」
――春死なむ。
幽々子はへたり込み、そのまま顔を抑えて震え始めた。
「そう、全て貴女達親子のせいなの」
「いやぁぁぁっ!!」
わかってはいるが一番言われたくない言葉だった。
いつだってあの日のことを悔やまないことはなかった、何度も枕を濡らした。
養母が目の前で自刃した瞬間は今でも網膜に焼き付いている。
「世捨て人とは言うけれど」
「やめて……」
「子を捨てきれず、世を捨てきれず、自分を捨てきれず……世捨て人と言われる人間こそ、自分を捨てきれないもの。
自分を捨てているのは、汚れた世の中で、汚れて生きる強さを持っている者達」
幽々子の頭に、今までの辛い出来事が次々と浮かび上がる。
自分をたらい回しにした叔父、自分を小間使いにしようとした養母……。
悲しみと恐怖に汚れた目、欲望と憎悪に支配された目。
幽々子はくずおれ、うつろな目で虚空を見つめた。
今まで見てきたたくさんの汚れた目が、その虚空に映っているかのようであった。
室内であるにも関わらず、紫は手にしていた日傘を開き、頭上に掲げた。
それを見た幽々子はただならぬ威圧感を感じて身を固める。
「さあ責任を取りましょう」
「何がしたいの……? 貴女は誰なの……?」
「私は八雲紫、しがない妖怪でございます。今日は貴女に頼みがありまして」
「頼み……?」
「ええ、貴女の父親の血を吸った例の桜、貴女の力で……」
殺してほしいの。
「殺す……って……」
紫は薄ら笑っている。
そんなこと言われたってどうしたらいいのか幽々子にはわからない。
「親子二代に渡って振りまいた災厄」
「……」
「さあ、責任を取りましょう」
「どうすればいいのよ……」
「簡単なことよ、前にたくさん人を殺したんだからわかるでしょう?」
「その話はやめて!!」
紫はわざとらしく幽々子の心の傷をえぐる。
それは何よりも、幽々子に使命感を植えつけるためだった。
「まぁそんなに心配しなくても、私もお手伝いするわ」
「……そんな物騒な桜、私だって無くなってほしいけど……」
「契約成立ね」
幽々子がまだ戸惑っているのは明らかだが、紫の言う通りにするつもりはあるらしい。
紫はそれがどんなに危険なことかを話していない、話したら幽々子を連れて行くのに苦労するかもしれない。
上手く行けば幽々子を死なせずに済む可能性もあるが、今の幽々子と桜を比べる分には望み薄だった。
ほぼ確実に幽々子はその命を賭けて桜に立ち向かうことになる。
薄ら笑いの消えた紫を見て、幽々子は怪訝そうな顔をした。
しかし紫の表情はすぐに元に戻り、空間に裂け目を作って幽々子をそこに導く。
「ここを通ればすぐ桜の下へ行けるわ。あまり時間が無いの、急ぎましょう」
「……」
幽々子を先に行かせ、紫が後に続く。
ついにあの桜と決着をつけるときがきた。
しかし紫も幽々子も知らない一つの事実があった。父親が手記に記すことさえしなかった、最期の勇気。
そう……父親もまた、幽々子を守ろうと最後の力を振り絞って桜に立ち向かったこと。
そして結果的に、それが裏目に出て幽々子を桜へ近づけることになってしまったこと。
悲しいことに、誰一人運命から逃れられなかった。
桜は誇らしく咲き狂っている。
数多の魂を吸って膨らんだ魔力は、その周囲一帯を包み込んでいる。
「酷い……」
幽々子はその根元に散らばるたくさんの死体を見て口元を押さえた。
幽香との戦いの中で吹き飛ばされ、原型を留めぬような死体もあった。
「ああ、あまり見てはダメ。お嬢様には刺激が強いわ」
「うっ……」
紫は幽々子の目を手で覆い隠し、その背をさすってやった。
上空で戦っていた幽香は二人に気付いて高度を下げる。
「ちゃんと連れてきたのね」
「そりゃもう」
「それじゃ、藍が到着次第、本格的に取り掛かるわ」
「ええ、それまでもう少しお願いね。私は幽々子を守っているわ」
幽香は再び舞い上がり、桜の注意をひきつける。
紫は幽々子に寄り添って強力な結界を引き、藍を呼び寄せた。
きっとすぐに駆けつけることだろう。
絶え間なく鋭い音が響いていた。
妖忌の白刃が弧を描き、藍の爪が赤い軌跡を残す。
ぶつかり合った霊気が空気を震わせる。
「どけっ!!」
体をひねって振り下ろされた妖忌の太刀を、藍はあっさりと両手で挟んだ。
そのまま間髪入れずに放たれた前蹴りで妖忌は蹴り飛ばされ、坂道を転げ落ちる。
「ぐぅっ!!」
「あの一瞬に身を引いたのか、大した身体能力だよ」
転がりながら姿勢を直して妖忌は立ち上がり、藍を睨みつける。
今まで会ったときはここまで強力な力は感じなかったと言うのに、これが本気だと言うのだろうか。
その原因は常に紫が側に居ることにあった。藍の力は普段よりも増されている。
しかしそれを知らない妖忌にとっては単なる脅威でしかなかった。
強い、多少の傷はすぐに癒えてしまうし……自分とは根本的に体の作りが違う。
不意に藍の耳がピクリと動いた、そして後方を見上げ、目を細める。
「……準備が整ったようだ」
「なに……?」
「ここでの私の務めは終わりよ。私は主の元へ向かう、お前もあとは好きにすると良い」
「ま、待てっ!!」
藍は大地を蹴り、疾風のように山道を駆け上って行く。
妖忌は藍との戦いによる負傷と疲れから、その速度に追いつくことができない。
それでもようやく通れるようになった道を全力で駆け上る。
最後まで諦めてはいけない、幽々子を助けて連れ帰らねば……。
幽々子は紫に抱きついて震えている。
幽々子に気付いた桜が、幽香よりも幽々子を優先して狙うようになったからだ。
全ての攻撃は紫の引いた結界に阻まれているが、それでも幽々子は気が気ではなかった。
「助けて、助けて妖忌……!!」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、私の結界はそう簡単に破られないもの」
根が結界にぶつかり、ドカンドカンと大きな音を立てる。
その度に幽々子は震え上がり、悲鳴を上げて紫にしがみついた。
「紫様!!」
「藍、来たのね」
「幽香はちゃんとやっているようですね、私もこのまま奴を押さえ込みにかかります!」
「お願いね……さぁ幽々子、出番よ」
「ひ、ひぃっ……む、無理よ、私にこんな……」
藍は飛び上がり、術を使用して桜の破壊にかかった。
宙を回転しながら飛び、無数の光の球を撒き散らす。
それで藍の到着に気付いた幽香も、手加減をやめて本気で桜の破壊に移行する。
「きゃあっ!!」
「モタモタしていられないわ、行くわよ」
「や、やっぱりできないわ……」
「やらなければやらないで、ここに居る全員があの桜に殺されて終わりよ」
それを聞いた幽々子が青ざめる、しかしそれは紫がついた嘘である。
幽々子はここに放置されたら殺されてしまうだろうが、紫と藍、そして幽香は逃げることぐらいできるだろう。
「それだけではない、私達の力を吸収してあの桜はさらに強大になり、もっと広い範囲の人間を呼び寄せる」
「でも……」
「貴女の力無しには成功しない作戦なの……お願い、協力して」
「……」
「何度も、何度も挑んだわ……けれどダメだった、あの桜は生命力が強すぎる。
生命力そのものを直接奪う貴女の力が無くてはどうにもできない」
薄ら笑いの消えた紫の悲しそうな眼差しが、幽々子の心を揺さぶる。
「あれは人の世も妖怪の世も乱す存在、私がその危険性に気が付いたときには既に遅かった……。
そしてそれとほぼ同時期に見つけたのが貴女よ」
「あの夜のこと……?」
「そう、あの頃ね……貴女の存在はまるで、あの桜を封印するためのもののように感じたわ」
「私があの桜を……」
「けれど、そうはさせたくなかった、私達だけでなんとか……」
紫がそう言いかけたとき、攻撃し続けられていた結界についにヒビが入った。
「紫様!! 危ない!!」
「くっ!?」
「きゃぁっ!!」
紫はとっさに幽々子を突き飛ばして身代わりとなった。
幽々子に突き刺さるはずだった桜の根は紫の胸を貫通し、そこからドロドロと血があふれ出す。
しかし慌てた風も無く、紫は再び幽々子に歩み寄って結界を引きなおした。
結界で無理矢理切断された桜の根を胸から引き抜き、口から血を垂らしながらも紫は続ける。
「こんなことは……ゴホッ! 力を持つ者達がなんとかすればいい……」
「いや……いやっ、無理しないで!!」
「こんな傷はすぐ治るのに、こんな攻撃はものともしないのに」
そう言って紫は悔しそうに根を投げ捨てる。胸に空いた穴はみるみるうちに埋まっていく。
「なのに……あの桜を封印することができないなんて、何のための力なのかしら、笑っちゃうわよね」
紫が何を言いたいのか幽々子にはよくわからなかった。
けれどその真剣な眼差しから目をそらすことができない、涙ながらに頷くことしかできなかった。
「私があの桜の根元まで貴女を導くから……お願い」
「……」
なにやらよくわからない、だが、この妖怪達は今まで人知れず戦っていたのだろう。
妖怪の側に偏った考えもせず、かといって人間の側にも寄らず……。
相当強力な妖怪だろう、今まで困ったことがあっても自分達の力で解決してきたに違いない。
そんな彼女達が血まみれになりながら戦っている、血を吐きながら頭を下げている。
「よくわからないけど……言う通りにすれば良いのね?」
「ええ……」
紫と幽々子は手を繋ぎ、桜に向かって歩き出す。
上空では藍と幽香が必死に桜を破壊している。そのせいか、桜による攻撃は大分緩和されていた。
それでもしつこく繰り出される桜の攻撃を結界で防ぎながら、二人はどんどん桜との距離を詰める。
傍らに転がるたくさんの死体、幽々子はそれを直視しないようにしながらも、こう呟いた。
「今まで、この能力を持っていて良い事なんて無かった、けど……こんな惨劇を止める事ができるなら、
それが私の使命だったって思うのも、悪くないのかもしれない……」
「……そう」
紫は何も言えなかった、まだ幽々子に明かしていないことがある。
それは桜の封印をする上で、幽々子の命を捨てなければそれが叶わない可能性が非常に高いこと……。
様々な思惑が交錯する。
空中で戦う幽香も、藍も。
桜へ歩み寄る紫も、幽々子も。
傷付いた体に鞭打ってここに向かっている妖忌も。
ついに二人は桜の根元へと到着した、手を伸ばせばその幹に触れることもできる。
「人を呪い殺すときと同じ要領で大丈夫なはず……それをこの桜だけに絞ってくれればいいわ」
「……ええ」
幽々子は桜に向かって力を解放する。忌まわしい力……散々自分を苦しめたその力を。
体と共に成長したその力は、今では誰が見てもくっきりと見える黒い蝶の姿になって舞い上がる。
おびただしい数の蝶が次々に桜に張り付き、その生命力を奪っていった。
苦しみもがく桜がどこからか悲鳴を上げる、幽々子はそれを聞いて表情を歪めながらも攻撃の手を休めない。
「いいわ……その調子よ」
自分から使ったことなんてほとんど無い力、恐ろしくて震える肩を紫がそっと抱いてくれた。
ほんの少し安心することができた。
『紫よ、幽々子さん』
そういって名前を教えてくれたときの、紫の優しい笑顔はいつまでも心に残っていた。
肝心の名前の方は忘れてしまっていたが……。
「ゆ、紫……」
「どうしたの?」
「こんなときにごめんなさい、でもずっと気になっていたの」
幽々子は攻撃の手を休めぬまま紫に問う。
悲鳴を上げっぱなしの桜は、隅からジワジワと枯れていく、満開だった花もどんどん散っていく。
「あの夜……どうして私の質問に答えてくれなかったの? 人間と妖怪だったから?」
「……」
――お友達に……。
「すごく寂しかった記憶があるのよ……」
「バカね、あんなの口約束することじゃないでしょう」
紫は幽々子の肩をさらに強く抱く。
何も知らない人間の娘。
望まぬ力を持って生まれてきた。
その力ゆえに恐れられ、数々の不幸に見舞われた。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫……?」
幽々子は滝のように汗を流しながら、力の無い微笑を紫に送る。
紫は幽々子の体を見て狼狽した。体の随所がどす黒く変色し始めている。
桜が幽々子に抵抗し始めた、既に上空にいる幽香や藍は相手にされていない。
「ふぅ、ふぅ……」
「幽々子……」
紫は崩れ落ちそうになる幽々子に肩を貸す。
幽々子の体から飛び立つ蝶の数が段々減っている、しかしまだ……これでは桜を冥界へ送るには早い。
本能的にそれを察知していた幽々子は、紫が良いと言うまで力を使うつもりだった。
「幽々子……」
「良いの……」
美しかった白い肌は、既に大部分が黒く塗りつぶされている。
それでも幽々子は攻撃をやめない、だがもうほとんど蝶は出ていない。
「蝶は……どれぐらい出てる?」
「もうほとんど……」
「……なら」
幽々子は懐から短刀を取り出し、鞘を口で咥えて片手でそれを抜いた。
紫は驚いた、言われるまでもなく幽々子が自分からそうするなんて思ってもいなかったから……。
「ゆ、指の感覚がもうほとんど無いの……手を添えてほしい……」
「何をするつもり?」
「生命を力に換える……良いの、もとよりここで死ぬつもりだった……」
「……」
「いつまでも妖忌を縛り付けたくなかった。あの日たくさん人を殺したときから、生きる気力なんてほとんど無かった。
でも妖忌の顔を見たら、ほんの少し意地汚く生きてみたくなった」
紫と妖忌に面識があるかどうかは幽々子の知ったところではないはずだ。
意識が朦朧としているのだろう、幽々子はまるでうわ言のようにぼつぼつと呟く。
「無理矢理忘れようとしていたあの日のこと……でも、この桜が暴れ始めてからは……。
ほんの一瞬忘れることさえもできなくなった」
幽々子は無理矢理に作ったぎこちない笑顔を紫に向ける。
「ありがとう、紫のおかげで私が生まれてきた意味がわかった気がしたよ」
「……これが貴女の生まれた意味であるはずがないわ」
望んでもいないのに先天的に大きな力を持って生まれてしまうということ。
平穏に暮らせればどれだけ幸せだったろう?
紫は妖怪だったが、幼い頃は常々自分の力に疑問を持っていた。
何故こんな力を持って生まれてきたのだろう、私は誰に何を望まれているのだろう。
数々の疑問は長く生きるうちにどうでも良くなった、妖怪として生きる上で邪魔になるものでもない。
しかし幽々子を見たときそれらの疑問が再び心の中に蘇った。
人間である彼女は一体どんな生き方をするのだろう? 不幸は約束されているようなものだ。
普通の人間が負うにしては重すぎる宿命、何故だか助けてやりたくなった。
「幽々子様!!」
ようやく追いついた妖忌は、遠目に見える黒ずんだ幽々子の顔を見て落胆した。
(遅かったか……)
幽々子は妖忌にも笑顔を送る。妖忌と幽々子の位置関係では表情までは確認できないだろう。
それでも、今まで自分を想い続けてくれた優しい妖忌に、そうせずにはいられなかった。
「良かった、最期に妖忌にも会えて……」
「これだけ桜が弱っていれば何とかなるかもしれないわ……」
「嘘よ……汚れた社会で生きてきたからかしら、嘘を見破るのは得意になってしまったのよ。
紫はもともとここで私を死なせてでも桜を封印するつもりだった、そういう嘘も、わかってる」
「……」
「でも恨んでいないわ……紫も、私と同じなのね」
「……違うわよ、人間と妖怪だわ」
「重い宿命を背負って生まれてきてしまった……」
「違うわ……!」
比べるべくもない。紫は自分が死んでまで何かをしようなどと思ったことはない。
暢気に生きてたって平和だ、幽々子のようにはならない。
幽々子は震える手で短刀を握り、喉元へと当てる。
「紫……お願い、手を添えて……怖くて刺せない」
「……わかったわ」
「苦しみたくはないから、一思いに……」
紫がそっと幽々子に手を重ねる。
そしてゆっくりと喉に突き刺さる短刀、幽々子は力が入らないので一息に刺す事ができなかった。
だから紫は目を瞑り、手に力を込めた。
「幽々子様ァーーッ!!」
駆け出した妖忌は突風のような力の壁に吹き飛ばされる。
幽々子の喉から噴出した血は、飛び散ることもなく黒い蝶へと姿を変えて桜にまとわりつく。
倒れそうになる幽々子を抱きかかえ、紫は桜を睨みつけた。
「ごめんなさい……私では無理だったの、けれど、誰かがやらなければいけなかった……」
懺悔する紫に幽々子は優しく微笑みかけた。
喉からは蝶が飛び立ち続けている、黒ずんだ体は元の白さを取り戻している。
紫は伸ばされた幽々子の手を強く握り、頬に押し付けて目を閉じた。
喉から飛び出す蝶の数も徐々に少なくなっていく、紫は桜の根元に幽々子を寝かせ、距離をとった。
満開だった花は完全に散り、桜にはもはや攻撃を繰り出す力すら残っていない。
紫は、桜に向かって手をかざす。
「藍! やるわよ! 手伝いなさい!!」
離れた所に居た藍も、涙を一杯溜めたまま、それでも凛とした眼差しを紫に向けて頷いた。
藍の横では幽香がくたびれた様子で腰を下ろし、二人に向かってひらひらと手を振っている。
藍は桜を挟んで紫と対角に陣取ると、同じようにして桜に手をかざす。
妖忌は幽々子が死んだ今、何をすることもできず、ただ涙を流しながら呆然とそれを見守るのみだった。
守る者が無くなった以上、この害のある桜の排除を妨害する理由など何一つ無い。
桜の根元に横たわる幽々子から最後の蝶が舞い上がった。幽々子が完全に死んだ。
硝子のような結界が桜の四方を囲み始める。
幽々子にあれだけやられてもなお、桜はじわじわと再生しつつあった。
急がなければ幽々子の死を無駄にする、そればかりかさらにたくさんの被害を生む。
「……囲んだっ!! 紫様!!」
「冥界へ……!!」
結界内の空間を切り取り、そのまま冥界へと送り込む。
今まで何度やっても成功しなかったことだったが……予想通り、幽々子を犠牲にすることで成功した。
その場には呆然とする妖忌とくたびれた幽香のみが残された。
「いやー……相変わらずすごい能力ね」
あれだけ巨大な桜が根元からまるごと転移させられたせいで、地面も大きくえぐり取られている。
日傘も服もぼろぼろのまま、幽香はその窪みの周りをなんとなく一周してみた。
「どうするのかしらね、これ」
地面は大きくえぐれているし、死体の山はそのままだし。
「まぁ、私の知ったことではないわ」
クスッと笑って幽香もその場を飛び去った。
そんな幽香を呆然と眺めていた妖忌もゆっくりと立ち上がる。
せめて幽々子の亡骸は置いていってほしかった、埋葬ぐらいしてやりたかったというのに……。
(私はこれからどうすればいいのだ……)
思えばいつも人に従って生きてきた。
守るべき主を失った自分はこれからどう生きるべきなのだろうか……。
そんなこと想像もつかぬままに、妖忌はとりあえず幽々子と共に住んでいた家へと戻ることにした。
荷物をまとめて旅にでも出よう、仕官続きで長らく会っていなかった家族のことも気になる。
冥界での事後処理も終えて、紫と藍はようやく訪れた平穏を肌に感じながら、しんみりと酒を飲んでいた。
ぐいぐいと飲む紫に対して藍は不満そうな表情である。
「紫様、不謹慎ですよ……」
「疲れてしまってわけがわからないのよ、辛いことは飲んで忘れるに限るわ」
「まぁ、ゆっくり酒を飲む時間すら無かったのは認めますけども……」
お猪口に唇を当ててずるずると酒を啜る藍を見て、紫は眉をしかめる。
「下品よ」と言われて藍も眉をしかめた。自分だってやるくせに。
なんだかこうしていると、つくづく自分も妖怪なのだな、と藍は思う。
やはり残酷で冷酷なところがあるのだろう、あれだけ想っていた幽々子だというのに、死んで数日でこの有様だ。
悲しくないわけではないが、死んでしまった者を生き返らせることもできない。
幽々子を犠牲にすると決まった時だって、自分達は思いのほか早く割り切れた気がする。
「幽々子の分まで生きなければいけないということなのかなぁ」
「なに月並みなこと言っているのよ」
「結局私達は幽々子の運命を何一つ変えられなかったですね」
「運命ねぇ……」
あるかもしれないし、ないかもしれない。
自分で覗くことができない以上、必要以上に意識しても仕方が無いだろう。
「もう考えるのも疲れたわ……まだやることもあるし」
「そうですねぇ……」
「いつもならまだ冬眠してるのに、ここ数年は本当に忙しかったわ」
「これを期に朝型にするというのも」
「まさか」と一言呟いて、紫はお猪口を傾けた。
あの後妖忌は幽々子と住んでいた屋敷に帰り、物思いに耽りながらそこで暮らしていた。
残されたいくつもの幽々子の痕跡が、抑えていた悲しみを呼び起こす。
庭を見ればまだ幼い幽々子が駆け回っていた幻影が、縁側を見ればそこで詩を詠んでいる幽々子の幻影が。
(これからどうすればよいのだ)
旅に出て、家族の顔でも見れば気も紛れるだろう。
しかし不完全燃焼の思いは消えはしない、自分はこの数年間一体何をしていたのか。
幽々子を宿命から解き放つこともできず、最後の最後には何の役にも立てなかった。
縁側に座り庭を眺める、ふと、傍らに立てかけた長刀が視界に入った。
藍が、幽々子を守らせるために与えた長刀。
そういえば名前もまだつけていない。
「お前も私と同じだな……」
鞘から半身ほど抜く。相変わらずよく鍛えられた刀だ、白い刀身からは冷ややかな霊気が感じられる。
(狡兎死して走狗烹らる、か)
自分も、この長刀も、一体どれほど役に立ったのだろう。
結局何もかも運んだのはあの妖怪達で、自分は幽々子の力とあの妖怪達の思惑に振り回されてばかりだった。
気がつけば残ったのは無意味な力のみ、この力を使ってできることはあるだろうが、一体何を為せば良いのか。
目を閉じると、暖かな春風が庭木を揺する音が聞こえた。
「妖忌」
「……貴女はいつも風と共に現れるのだな」
目を閉じたまま呟く。
それほど多くの言葉を交わしたわけではないが、彼女の言葉の一つ一つが、いつでも思い返せるほどに耳にこびりついている。
目を開くと藍が土下座をしていた、九つの尻尾が春風を受けて揺れている。光を浴びて、金色をこぼしている。
「すまない、本当にすまない」
「……過ぎたことだ」
「時が過ぎても気は済まない」
「頭を上げてくれ……許せはしないが、不本意だったことぐらいわかっている」
「……」
肩に手を置き、立ち上がらせる。
藍は小さく震えていた、妖忌の前に顔を出すのはどんなに勇気の要ることだったろう。
誇り高い九尾の狐、こんな老人に土下座をするのはどれほどの屈辱だろう。
立ち上がった藍は服についた砂を払い、バツが悪そうに目をそらした。
「私の力が足りなかっただけだ。貴女達は自分の為すべきことを為したのだろう」
「……確かに平和にはなったよ、しかし……」
「貴女達も大きな宿命を背負って生きているのだな」
「宿命……?」
藍には妖忌の言っていることがよくわからなかった。
「まぁ、いい……して、今日は何の用だ? まさか謝りにきただけではあるまい」
「……察しがいいわね」
それまで居心地悪そうにしていた藍の表情が変わり、真剣な眼差しを妖忌に向ける。
妖忌は黙って藍の目を見つめ、その先にある言葉を催促した。
「幽々子は死に、今は冥界にいる。あの桜と共にな」
「そうか、幽々子様は達者でやっておられるか? ……いや、死人に達者も何もないか」
「死んだというよりは、生まれ変わったと言った方が的確かもしれない。幽々子には生前の記憶が全く無いよ」
「……消極的な見解かもしれぬが……」
「ええ、生きていた頃よりも、ずっと幸せにやっている」
それを聞いて妖忌は少し悲しそうに微笑んだ。
幽々子を救うには……死なせるしかなかったというのだろうか。
「幽々子の遺体はあの桜の根元に埋めた……大した力だよ、死んでいるにも関わらずあの桜を封印している」
「そうか……」
「掘り起こせばまた同じ悲劇が繰り返されるかもしれない、だから幽々子は転生もできないだろう」
「……」
「おそらく、これから幽々子はあの力を使って冥界を統治することになる」
「死霊を操る力か」
「ええ」
二人は視線をそらし、妖忌が手にした長刀を見つめた。
幽々子の引き寄せたたくさんの死霊を斬った長刀を。
「そこで妖忌、考えてほしい話がある」
「なんだ?」
藍は妖忌の傍らを漂う半霊を見つめた。
そして開かれた口から出てきた言葉は、予想通りといえば予想通りで、けれども驚かずにはいられない内容だった。
春が訪れた。顕界にも冥界にも。
紫は冥界送りにされた彼の桜、西行妖の前に立ち、咲ききらぬその花を見上げている。
冥界の春風が紫の頬を撫でた。自慢の長髪がさわさわとくすぐったい。
「いくらかは丸くなってくれたのね」
西行妖に話しかける。あの後、根元に幽々子の遺体を埋めた。
死してからも幽々子の体は死の力を持ち、これからも未来永劫西行妖を縛り付けてくれるはずだ。
振り返ると楼が見える。
何も覚えていない幽々子が、わけもわからずに暮らしているだろう。
「隔離、ねぇ……」
西行妖も幽々子も、冥界が安住の地のようで、本当に死ぬために生まれてきたのではないか、と思える。
幽々子の力は冥界の管理にはうってつけだろうし。
必死になって幽々子を宿命から解き放ってやろうとしていたのに、宿命に従った方が幸せになれたというのだろうか。
「でもお友達を殺さなきゃいけないなんて、残酷じゃない?」
もっとも、もう幽々子は紫のことも覚えていないだろう。
なんとも皮肉なものだな、と思い、紫は溜息をついた。
桜の根元に座って、空を見上げようとしても。
視界を埋め尽くす花、枝葉。日傘なんか必要なかった。
家に準備しておいたとっくりとお猪口に、空間の裂け目から手を伸ばす。
「冥界の空は眩しすぎなくて良いわ、気持ちが落ち着く」
長年に渡り……いや、妖怪からすればそれほど長い年月ではないのかもしれないが。
幽々子が幼い頃から、成長して自刃するまでの間戦い続けた、紫と西行妖。
長きに渡る膠着状態、それもようやく停戦……西行妖は自分の根元に寄りかかる紫を黙って見下ろしている。
「やっぱり無闇に争うものではないと思うの。あなたはどう? 冥界は落ち着くかしら?」
西行妖の枝葉が風も無いのに揺れた。
舞い散った花びらの一枚がお猪口の中へ、そして酒に浮かぶ。
「あら、風流じゃない」
久々にのんびりとした花見だった。西行妖はまだ随分大きな力を持ってはいるが、冥界にある限り大したことはできまい。
下で眠る幽々子に力を削られているせいか、暴れる気も失せたようだ。
「世の中に、たえて桜のなかりせば……」
つい口ずさむ。
本当に、本当に、この桜には気持ちを乱された。
「……春の心は、のどけからまし」
「……あら?」
続きを言われてしまった。
酒気で赤らんできた顔を上げると、ひらひらと優雅な着物を揺らし、亡霊となった幽々子が歩み寄ってくる。
「見事でしょう? うちの桜」
「ええ、本当に」
佇む幽々子は桜の花びらのように淡い色。
生前の艶やかな黒髪は桜色に、白くて美しかった肌は、さらに、透けるように白くなっていた。
記憶ももう無い。
妖忌と藍がそんな様子を遠目に眺めていた。
妖忌は変わり果てた幽々子の様子に驚いていたが、表情や仕草は生前の頃のまま。
外見が変わり記憶を失っていても、幽々子は幽々子だ、と妖忌は言う。
「このようになることさえも見えていたのか?」
「いや……まぁ、死んだら冥界に行くであろうことは私にも予想できたが、紫様がどこまで計算ずくだったのかは……」
「……貴女の主はいつもそうなのか?」
「え、ええ……大体は行動原理が不明よ」
藍は苦笑しながら頬をかいた。
妖忌も困ったように微笑む。
「だが……ものすごく奥の深い方だ、気まぐれなように見えて、先の先まで見ている」
「そうか、藍殿はそれを信頼しているのだな」
「行動の末に出た結果にはいつも感動させられる……だから敬愛している。
……まぁ、今回のように上手く行かないこともあるが、この結果だって狙ったものなのかどうか……」
「ふむ……もしかするとこの剣」
「ん?」
「私が冥界で幽々子様に再び仕える事も、想定していたのかもしれんな」
「……どうかしらね、私にはそこまでわからない」
「打ったのは藍殿か?」
「相槌だけ、私はそこまで万能じゃないよ」
そこまで話して二人の間に沈黙が流れる。
幽々子が生きて幸せを掴む方法はあったのだろうか?
自分が顕界で立ち振る舞った全ての行動が間違っていたようにさえ感じられる。
西行妖が存在してなかったら幽々子は長生きしただろうか? 妖忌も藍も、同じことを考えていた。
「そうだ」
「どうした?」
「この剣の銘を考えた」
「ほう? どんな?」
妖忌は楼を眺める。自分はこれからこの楼とそこに住む幽々子を見守る存在。
そしてそんな自分が振るう剣が白楼剣、そしてこの長刀……。
「楼を観る、と書いて楼観剣」
「ははっ、なるほどお前らしい」
……楼観剣。
笑われて少し戸惑った妖忌だが、藍の顔には嘲った様子など微塵もない。
「良い銘だ。顕界ではろくに出番が無かったが、これから存分に役立ててほしい」
それはまるで妖忌自身。その穏やかな、優しい目で幽々子と楼を見守っていくのだろう。
結局、紫が何を考え、何をしたくてこの一連の事件に首を突っ込んだのかははっきりしない。
本人の発言と前後の状況を整理すると、
「なんとなく」「友人を見捨てておけない」「人間と妖怪双方の平穏を保つため」
こういった理由に集約されてくる。
そして三番目の理由が一番筋が通っていると藍は考える。
ところが一番目の理由と考えると、これまたしっくりくる。
二番目は……果たして幽々子が紫にとって「友人」と呼べるほどの存在であったかが問題になってくる。
藍は、自分自身の動機もこの三つに集約されると思う。
ただ、幽々子に対しては友人という認識は薄かった。単に情のうつった人間、と言った方が的確だろうと思う。
最終的に藍は三番目、人間と妖怪双方の平穏を守るため、を動機として妖忌の行動を妨害するに至った。
紫がそう命令したという部分も大きい。もしそう命令されなければ……紫が己の主でなかったとしたら。
そのときは妖忌と共に、紫と幽香を相手にする羽目になっていたかもしれない。
(勝ち目はないわね)
紫か幽香、どちらか片方を二人で相手したとして手に余る。
まして両方などお話にならない。妖忌共々、行く先は地獄かはたまた冥界か。
(この結果も、紫様の望んだものなのか?)
ここまで……幽々子が死んで、冥界に留まるところまで見越していた可能性は大いにある。
藍でさえ予測できていた状況だ、紫にわからないはずはないだろう。
そしてこの状況が幽々子にとっての平穏であることもまた、紫にはわかっていたかもしれない。
しかし、ならば何故あそこまで必死に抗ったのか……紫は、疲れたり、血みどろになったりするようなことは嫌う性格だ。
のんびりと構え、小手先の能力で情勢をコントロールするのを好む性格だ。
西行妖がからんだことにより、それの封印も考慮に入れたとして……。
それでも、幽々子を守ろうと動いたことに説明がつかない。
あんな幼い頃から藍に見張らせ、時には妖忌をも利用し、果ては自分で西行妖を監視したりして……。
(まぁ、それでもついていくしかないのですけれども……)
考えるだけ無駄なのかもしれない。
紫が見通しているのは数年先という次元ではないのか、数十、数百年先まで……。
そんな紫と幽々子は西行妖の元で二人、並んで座っている。
「死人じゃない人が冥界にいるなんて珍しいわ」
「死人じゃないけど人でもないの、妖怪だから」
再度空間の裂け目に手を伸ばし、幽々子にもとっくりとお猪口を渡す。
幽々子は着物の袖で少し口元を隠し、目で笑ってからそれを受け取った。
「面白いことができるのね、ふふ」
「いえいえ、貴女ほどじゃないわ」
幽々子に酌をする。変わってしまったものだ。
ましてやこのように酒を酌み交わす日が来ようとは思いもよらなかった。
「私は八雲紫って言うの、貴女のお名前も教えてもらえないかしら?」
「私の名前? 幽々子、西行寺幽々子よ、紫さん」
「お友達になりませんか?」
それを聞いた幽々子は目を丸くして少し呆然とした後、口元に指を当てて空中に視線を泳がせた。
「どうかしたの? お友達になるの、嫌かしら?」
「ううん、そういうわけじゃないけれど」
お猪口に口を付けながら、ふと思い出したように幽々子の眉がぴくりと動いた。
そしてお猪口から口を離し……まるで詠うように、澄んだ声で呟く。
『そんなの、口約束することじゃないでしょう?』
「……幽々子……?」
「なんだか、どこかで聞いたことがある言葉」
幽々子が微笑み、手を伸ばす。紫はそれにそっと手を合わせた。
幽々子の手はとても冷たかったのに、とても温かく感じた。
幽々子はあれ以来元の屋敷に戻り、平穏な毎日を過ごしていた。
叔父は相変わらずどこか怯えているようだったが、幽々子が笑っている間は嬉しそうだった。
虚栄心、支配欲、名誉欲……幽々子はあまりに汚い貴族の生活の中で汚れきった。
他人への信用を失いかけていた……だが、ここでの穏やかな生活はそれらをゆっくりと洗い流してくれるようだった。
「妖忌、頼んだ物買ってきてくれた?」
「あ、幽々子様……ええ、こちらに。後でお届けしようと思っていたのですが」
「ありがとう、仕事が早いわね」
あの日あったことなど忘れてしまったかのように幽々子はよく笑う。
妖忌への甘えも以前より増し、体ばかり成長してきたのではないかと少々呆れてしまうほどだった。
だが、きっと幽々子は必死に取り戻そうとしているのだろう。
悲運な少女時代に得られなかったものを。
「ねえ妖忌、仕事なんか良いから一緒にお茶でも飲みましょうよ」
「それはなりませぬ、少しお待ちいただければもうじき終わる。どうか我慢なさってください」
「もー、妖忌ったら真面目すぎるわよ」
自分の性格をわかっていて、からかっているような節がある。
妖忌の袖を掴んで体を揺する幽々子の姿はまさに幼子そのものだ。
(あの日のこと、忘れてはいまい)
幽々子の引き起こした惨劇。大量虐殺。
忘れてあっけらかんとしていられるような娘ではない……これは空元気ではあるまいか。
薄汚れた生活空間で人の顔色を窺うことを覚えた幽々子が、心配させまいとしているのではあるまいか。
絶対に守ってやるという覚悟はあるが、すっきりしない事も多い。
「いいもん、一人で読むから、これ」
「本当にすぐ済みますゆえ、少々お待ちいただけませんか」
妖忌は少し食い下がり、幽々子と一緒にお茶をしたい素振りを見せる。
そんな妖忌の困った顔を見て、幽々子は満足気に笑った。
「早くしてくれないと先に読んでしまうからね! 早く済ませてね!」
「はい」
妖忌が幽々子に買ってきてやったのは歌集だった。
このような楽しみを覚えてきたことだけは、あの家に養女にやった収穫と言えるだろう。
放っておいても一人で歌集を読んだり、歌を詠ったりしている。
(血は争えぬか)
妖忌が買って来た歌集には、幽々子の父の歌が多く含まれている。
幽々子は父と知らずにその歌人を好んでいるし、妖忌が見る限りでは作風も似ているように感じた。
「よし」
庭の手入れも済んだ、幽々子が待っている。
「ふぁ……」
紫はあくび混じりに山道を歩く。
あの桜の周辺を改めて散策してみようと思ってのことだ。
人間とは比べ物にならないほどの寿命を持つ紫は、年月の流れに無頓着なところがあった。
たまに空間を裂いて幽々子を見てみたりもしたが、いつの間にあんなに成長したのだといつも驚く。
そんなわけで、自分が気付かない間にこの界隈も変化しているかもしれない。
山道が整理されて人が来易くなっていたりしたら、こっそりと荒らしたりしようと思っていた。
幸いそんなことはなかったが、一箇所だけ気になるところを見つけた。
(やっぱりねぇ……)
桜の側にばかりいたので気が付かなかったが、少し離れた所に庵が作られていた。
こういう物好きは絶対出てくるだろうと予想していた、そして、そういう人間があの桜の犠牲になることも。
「お邪魔します」
人間が居たら脅かして追い払っても良いし、居なければどういう人物が住んでいるのかゆっくり調べてやろう。
鍵は掛かっていなかったがそれは当然だろう、妖怪に対して鍵なんか意味が無いし、こんなところに人は来るまい。
(よく食われずに済んでるわねぇ)
部屋に残留する霊気と、部屋にある物から僧侶であることが推測できた。
妖怪に対抗する力を持っているのだろう。
部屋にあった物の中で一番紫の興味を引いた物は書物だった。
いくつか手にとって眺めてみると、それは歌集であったり雑記であったり……。
大量の書を片っ端から読んでいくと、十数年前に出家していることがわかった。
随分と気の弱い男のようだ、いや、感性豊かすぎると言った方が的確かもしれない。
娘がいたようだがそれを親友に託し、愛する自然に囲まれて歌を詠む生活を選択した。
出家した理由は明確でないが、手がかりのようなものはいくつかあった。
まず目に付いたのは、汚れた貴族社会に身を置くことに嫌気がさした、といったことを思わせる部分。
どうも京に仕官していたらしい。が、明記はされていない、こうして誰かに読まれる可能性を考慮していたのだろうか。
(欲深いわねえ)
随分と恵まれた生活であったらしいことが伺えるのだが、満足していなかったようだ。
というよりは、恵まれすぎていたからこそ、汚い部分が余計に見えてしまったのだろう。
そして妻の急死。そこから人の脆さを悟り、死することに恐怖を覚えた。
元来の弱さも相まって仏による救済を求めた。己自身の精神鍛錬も考えていたのだろうか。
さらに読み進めると、徐々に最近の内容に近づいてくる。
(なるほど、これはいけないわ)
ここに住んでいるのは幽々子の父親か、紫はそれを察した。
――願わくば……。
そして、じきに死ぬ。
それもあの桜の下で死ぬつもりだ。
『なんだかねぇ。藍、すっきりしないでしょう?』
『私もまだよくわからないのよ。けど、ものすごく嫌な予感がするの』
ずっと引っかかっていた嫌な予感はこれか。
今の状態が続くのであれば、桜と幽々子がそれぞれに問題を起こすことはあっても……とは思っていたが。
あれだけの力を持つ娘ならば、血縁関係をもっと調べておくべきだった。
もう幽々子の側に居ないから、と、完全に放置していた。
父がかすがいとなり、死を操る力を持つ人妖を繋ぐ。
人間だけを心配していたが、それだけでは済むまい。
次々に人を呼び込み、血を吸って成長していく桜。
呪い殺す能力については幽々子も桜もまだ中途半端だ。少し力を持った妖怪ならやられない。
だがそれが自由自在に、どんな相手でも簡単に殺せるようになってしまったらどうなる?
自分もそうだが、大物妖怪はこういうときに阻止に入ることがある。
幽香の冷たい微笑が頭に浮かんだ、幽香だけではない、天狗、鬼……。
危険を感じたたくさんの妖怪が集い、そして討ち死にすることもありえる。
藍も、そして自分自身も。
(でも……)
同時にもう一つの考えが浮かんだ。
(もしかするとあの娘は……)
いや、最初からわかりきっていた。
これまで自分と藍がやってきた全ての努力を否定する手段だが……。
どことなくそれをわかっていて、それでも尚逆らおうとしていた。
それは幽々子の力と桜の力をぶつけ合い、相殺すること。
――お友達に……。
幼かった頃の幽々子の声が頭の中に響く。
「お友達は守らなきゃね」
書物を元の場所に戻すと、スカートを翻してあの桜の下へ戻る。
自分達はここまで首を突っ込んだのだ、毒を食らわば皿まで。
……これからはもっと辛くなるわ。
縁側で夕日を浴びながら、幽々子と妖忌は並んで茶を飲んでいた。
妖忌は嬉しそうに歌集をめくる幽々子を横目で眺めている。
「この人の歌が大好きなのよ。儚くて、優しくて……たまに泣いてしまうの」
そう言った直後に、幽々子の目に涙が浮かんだ。
そして少し鼻声で朗読を始める。素晴らしい歌だと妖忌に教えたいのだろう。
妖忌はわかっている、それが幽々子の父の歌だと。
どの歌も素晴らしいとは思うが、その歌もそういう印象の歌なのだろうと思った。
「願わくば、桜の下にて……」
鳥肌が立った。
それはけして感動によるものではない。
その歌から漂う死の香り。
湯飲みを持つ手が震えた、幽々子に悟られぬよう、もう片方の手で支えた。
「少し悲しいけど良い歌よね。私も、死ぬときは桜の下がいいわ」
「……」
「もし私が死ぬことがあったら……そのときは側に居てね、妖忌」
「何を仰るのですか!!」
「妖忌……?」
「す、すいませぬ……」
これを書いた歌人……幽々子の父親は自殺するのか、はたまた死期を悟ったのか、それはよくわからない。
だが妖忌にはわかった、その歌からは何か魔力のようなものも感じた。
父親は幽々子と同じ力を持っていた。また何かが起こる、確かな感覚がある。
(藍殿……見ているか? また何か起きるかもしれぬ、気をつけてくれ……)
幽々子と妖忌の様子にそれほど変化は無い、二人とも概ね平穏に暮らしている。
それゆえ藍は以前よりも家に帰る回数が多くなった。
逆に気になるのは紫の様子……藍が帰っても家に居ることはほとんど無い。
(もう冬だ……紫様は冬眠してしまうだろう)
こんなに寒くなっているのに紫が未だ冬眠していないことも不安をかきたてるが、
何よりも冬眠中は藍だけで動かなければいけない、紫の指示を仰ぐことも不可能だ。
不安で仕方がなかった、紫が寝ている間に何も起きないことを祈るしかない。
手持ち無沙汰になった藍は家の中の掃除を始めた。
疲れて帰ってくるであろう紫が、少しでも快適に過ごせるように。
しかし時間が経過するにつれ不安が増していく。
まさかあの紫がそう簡単にやられたりはしないだろうが、何か帰ってこられない状況に陥っているのではないか。
冷静に考えれば、自分が呼び出されていないぐらいだから、それほどの危機に直面しているとは考えにくい。
だが普段なら紫がとっくに冬眠に入っているこの時期……。
力が落ちて、自分を呼ぶことすらできないような状況になっていたりすることはないだろうか……。
箒を落とし、そのまますぐに駆け出していた。
居ても立っても居られなくなった。
紫が無事ならそれで良い、しかし何か困った状況になっていたら加勢しなければいけない。
藍は家を飛び出し、宵闇の中へと溶けていった。
桜が吠えていた、その半身以上が崩れ落ちている。
音なのか音ではないのか、響きのようなそうでないような、魂に直接伝わってくる不気味な音。
「げほ……げほっ……」
一方の紫も無事ではなかった。
貫かれた胸を手で押さえ、おびただしい量の血を流している。
ぼろぼろの服を見るに、何度も攻撃を受け、そして再生したのだろう。
「ふぅ、ふぅ……」
胸に開けられた風穴は瞬く間に埋まっていった。
呼吸を整え、気だるそうな目で桜を睨みつける。不気味な咆哮が頭の中に響く。
「しぶといわねぇ……」
紫は距離を置いて手をかざし、桜の周囲に結界を張ってその中に閉じ込めようと試みた。
しかしそれも叶わない、あの桜の大きすぎる魔力を包み込むには並大抵の結界ではいけない。
一瞬だけ包み込めたものの、結界はすぐに音を立てて粉砕された。
「うっ……?」
地面から飛び出した桜の根が紫の足に絡みつき、動きを封じる。
迂闊だった、空中から戦いを挑むべきだったか。
「もうっ!!」
力任せに足を振り上げて根を引きちぎると、桜が再び苦しそうに吠えた。
「木は生命の力を司る……」
総合的に考えれば紫の方が有利だった。
体積や質量の違いによる攻撃手段の幅、それについては桜に敵わず、攻撃を受けてしまうこともある。
だが今見たように、単純な『パワー』においては紫が上回っており、単発の攻撃はものともしない。
魔力そのものの容積は大きい、結界の力が通用しないのはそのためだが、これもまだ紫に分がある。
しかし互いに決定打を放てない。
再生力は紫も相当なものだが、これは明らかに桜の方が強かった。
母なる大地に根を張っているとはいえ今は冬、真冬だ、だというのにこの再生力は……。
紫自身も連日の無理が祟って本調子でないのは確かだが……。
「紫様!!」
足取りがおぼつかず、日傘を杖代わりに歩く紫。
到着した藍が紫を抱きかかえて大きく跳躍すると、その直後に地面から槍のような鋭い根が突き上げる。
それは回避できたものの、勢い余った藍は上手くスピードを殺せずに、そのまま側にあった木に突っ込んだ。
しかし紫の体は離さない。体をねじり、自分をクッションにして紫が木に直撃するのは免れた。
「ぐぅっ!!」
「藍……」
「何故私を呼んでくださらないのです!」
「大丈夫よ別に……このぐらいで死んだりしないわ」
紫の体には傷一つない、確かに殺されはしないだろうが……藍の目には酷く力なく映る。
ただ単に寝るのが好きだからと寝てばかりいるわけではないのだろう。
紫は半日寝る、だがきっとそれが紫のあるべき生態なのだ。
なのにここしばらく無理をしていた、腕の中の紫から感じる妖力は未だかつてないほど萎んでいる。
「ぐあっ!!」
「藍……!」
紫の心配ばかりしていられる状況ではなかった……藍の背に桜の根が突き立っている。
藍は苦しげに歯を食いしばり、紫を抱きかかえたまま呟いた。
「逃げましょう……!!」
「大丈夫よ、藍だけで逃げなさい……それに私はここに来いなんて一度も言ってないわ」
「紫様……!!」
無理をしている。貴女らしくないではないですか。
そんな貴女も悪くはないが、私は貴女の僕としてこの状況を見過ごすことはできない。
「幽々子の状態は落ち着いています、どうせ冬場はこの桜もまともに動けません」
「だから今潰すのよ……!!」
「そして紫様もまともに動けません……冬の間は私がこの桜を見張ります、だからここは退きましょう」
「貴女、いつから私に命令する立場に……」
だが紫は藍の目を見て驚いた。
それは間違いなく従者の目、自分を慕い、自分の盾になる者の目。
ドスン、ともう一度衝撃があった、藍の背にもう一本桜の根が突き立てられていた。
しかし藍は表情一つ歪めずに、真っ直ぐ紫の目を見つめている。
(そう……私らしくなかった、そうね……)
「ならば連れて帰って……流石にもう疲れたの」
「はっ!」
刺された箇所が悪かったのか、口から血を垂らしながらも藍は声を張って返事をした。
空を飛んで少し距離を離してしまえば桜は追撃することができない。
遠くから悔しげな咆哮が響く、それを聞いた藍は表情を歪めた。
紫は自分の持つ空間移動能力を使うことすらせず、藍に抱かれてうなだれていた。
目を閉じているのは考え事をしているからなのか、それとも寝ているのか、藍にはわからない。
二人とも限界に近かった。全身に絡みつく疲労に耐えて、幽々子と桜を見守っていた。
何故自分達はここまでして戦っているのだろう、辛くなったとき、ふと疑問に思うこともある。
それでも藍は紫の命に従わなければいけないと思っているし、幽々子や妖忌への情で説明もつく。
しかし紫は何故これほどにあの桜と幽々子を気にかけるのだろう?
ただ危険視しているだけにしては、先ほどの紫はどうも『らしくない』ように思う。
ずり落ちてきので抱きなおすと、紫はうっすらと目を開けてまたすぐに閉じた。
やはり眠っていたのだろう……藍は導師服の袖で包み込み、冷たい風から守ってやった。
そしてその冬の間は藍が桜を監視する……はずだった。
男、幽々子の父親は自分の庵で座り込み、自分の体のあちこちを眺めていた。
「潮時か」
腕、脚、体の隅から黒い斑紋で埋め尽くされていく、斑紋は重なり合い、体を黒く塗りつぶしていく。
黒くなった部分には感覚が無い、動くところはまだあるが動かないところもある。
もう胸や腹まで黒く染まり、首元まで……頭に達するのも時間の問題だろう。
(花の季節まではもってほしかったが……)
あの日、幽々子のことが心配で……何もできないことがわかっていながら、幽々子の元を目指した。
途中妖忌に会った。妖忌は白楼剣に守られていたようだ、今も健康に過ごしていることだろう。
だが自分はそうはいかなかった、幽々子と同じ能力を持っているとは言え、その強さは段違い……。
男の周りを黒い蝶が飛び回っていた。
フッとそのうちの一匹が男の体に張り付き、そのまま黒い斑になった。
(妖忌……幽々子を頼む)
あの時、妖忌に抱かれて泣く幽々子を見て……。
今更自分が「父親だ」などと言って出て行くのはあまりに勝手なことだと痛感した。
既に自分が幽々子にできることなど何もなかった、せいぜい妖忌を幽々子の元へ導くことぐらいだったろうか。
しかし妖忌は白楼剣のみならず、随分と死霊に強い剣をもう一振り持っていた。
導くことさえも、本来は必要としなかったのかもしれない。
男は立ち上がり、棒のようになった脚に鞭打って歩き始めた。
幽々子が無差別に振りまいた死の力は、黒い蝶の形を成して男にまとわりついていた。
初めはたくさんいたそれも、もはや数匹を残すのみ。これが全て張り付いたとき自分は死ぬのだろう。
外に出ると、太陽はまだ頭をほんの少し乗り出している程度。空にはまばらに雲が浮かんでいる。
快晴とまではいかずとも、晴れた日になりそうだ。
肌を刺すような冷たい山の空気も、もうほとんど感じることができない。
(これでは歌を詠むこともできん)
歩き続ける、幾度も転びながら。
途中、雪を拾い上げた、その手は冷たさを感じることができない。
だからそっと頬に押し当てると、わずかに冷たさと、ざらざらした感触が伝わった。
男は思わず笑顔になる。
(自然は……良いな)
人の世は窮屈だった。楽しいことよりも苦しいことの方が多かった。
人間関係、権力争い、恨み、嫉妬、憎悪……そんな貴族社会の中で唯一の収穫は、妖忌に出会えたことだったろう。
正直で、不器用で……初めて妖忌を見たとき、岩のような印象を抱いたことを思い出す。
あの桜の木が見えてきた、相変わらず見事だ。
花が咲いていれば言うことなしだったが、それは自分の周りを飛ぶ蝶が許してはくれまい。
妻を失った。
残された娘は、まだ歩くこともできないというのに自分を超える資質を持っていると感じた。
疲れ果てていた自分にはその娘を守りきる自信が無かった。
妖忌に任せて逃げてしまった。
(父親失格だな……)
世を捨て、娘も友も捨てたつもりが、いつまでもその様子を見に行ったりしている自分が情けなかった。
けれどどうしても気になって仕方がなかった、結局自分は何一つ捨てることができなかったんだろう。
なんとか桜の根元まで辿り着くことができた。
(この身で何ができるだろうか)
父親らしいことなんて何一つできなかった自分。
もっと早くこの桜のことに気付くべきだった。
「お前は私達に似ているな、同じ力を持っている」
桜の幹に手を当て、呟く。
突然、息も絶え絶えな男の表情が硬くなり、それを察知した桜の枝葉が揺れた。
男の背後から、ゆらゆらと黒い腕が生え、桜の幹に向かって伸びていく。
(宿命的なものを感じるのだ。いつか幽々子がここに引き寄せられるような気がしてならん)
それは弱くて身勝手な幽々子の父親が最期に振り絞った勇気。
この側に庵を構えたのは、桜を楽しみたいのが一つ、そしてこの桜を監視していたのが一つ。
どうせ死ぬならば、不安な要素は取り除いておきたい。
(美しい桜だ、ただ咲いていてくれるだけだったならば、絶対にこんなことはしなかった)
黒い腕が桜の幹に絡みつき、締め上げた。
殺された樹皮がぼろぼろと崩れ落ち、途端に桜が轟々と空気を揺すり始めた。
桜からすれば、黙っていても根元で勝手に死ぬと思っていた男の不意打ち。
何もせずに更なる力を得られると思ったが、男の行動は桜の狙いを完全に裏切る形になった。
だが、紫や藍でさえ手に負えないこの桜が、死にかけの幽々子の父親にどうにかできるはずはない。
勝負は一瞬だった。
殺す相手が、先に桜に殺されてしまって、数匹の黒い蝶は行き場を失った。
ひらひらと頼りなく宙をさまよっていた蝶は、桜の根で木っ端微塵突き砕かれ、霧散した。
そして桜は男の血を吸い、更なる力を得て、春を待たずにその花を咲かせた。
邪気は瞬く間に山を包み込み、その麓までを侵蝕していく。
更なる生贄を求め、人里まで。
最初に妙な気配に気が付いたのは幽々子だった。
自分は何もしていないのに何故だろう、庭に出て不安そうに辺りを見回す。
「幽々子様、いかがなされましたか?」
「あ……ううん、なんでもないの」
予感や何かではない、確実に、感覚に訴えるものがある。
訝しがる妖忌に不自然な微笑を送ってから、幽々子は家の中へ入った。
自室に戻った幽々子は突っ立ったまま考えを巡らせていた。
妖忌は気付いていない……かなり遠い所からの力で、これそのものが人を殺せるわけではない。
妖忌が気付いていないのは、距離によって力が薄まっているから感じられないということが一つ。
そして妖忌自身の力が無意識の内にその邪気を払っているからというのもあるだろう。
(なんで……?)
幽々子は無闇に人を殺してしまわないように、力をコントロールする術を身につけていた。
それでも完全に、というわけにはいかず、それがあのときの騒動に繋がってしまったわけだが……。
とにかく、これは自分が無意識にやっているというものではない。
(こんな物騒な力を使うなんて、誰なの?)
自分と同じ、死を操る力。
だが幽々子はできれば関わり合いになりたくない、もうこの力を使いたくないからだ。
せっかく、たくさんのものを犠牲にしてこの平穏な生活を手に入れたのに。
少しのわがままも許されないというのだろうか、心底不愉快だった。
(知らない……私には関係無い……)
だがきっとそんなわがままは許されないのだろう。
何故だかわからないが自分が行かなければどうにもならないような気がした。
怖くて体が震える、目から涙がこぼれ落ちる。
意地でも行くまい、幽々子はそう心に誓って黙殺することに決めた。
次々に人が行方不明になり始めた。
妖忌が買い物に出るたびに、あの人がいなくなった、この人がいなくなったと騒いでいる。
夫の安否を心配して泣き叫ぶ女、親がいなくなって腹を空かせる子供。
買い物籠をぶら下げてそれを眺める妖忌も、初めは何が起こっているのかわからなかった。
何かが起こっているのは確実だったが幽々子からは何も感じない。
幽々子の父親がこのようなことをするとは思えないし、幽々子ほどの力も持っていないように感じたのだが……。
妖忌には知る由もなかったが、あの桜が人を呼び寄せ、その根元に到達した者の血を吸っている。
時折白楼剣が警鐘を鳴らすようになった、キンキンと耳障りな音を立てる。
幽々子が暴走したあの時と同じ現象……そのぐらいになると、妖忌にも徐々にわかってきた。
幽々子に元気が無いのは感じていたが、妖忌はあえて声をかけないようにしていた。
あの日のことを思い出させたくなかったし、この一件に幽々子を絡ませたくなかった。
幽々子の叔父や、妖忌以外の従者に至るまでが行方不明になった。
里の人間も半数以上が消え、生活に必要な物資を揃えることさえ困難になった。
流石に静観ばかりしていられなくなった妖忌は、ついに幽々子に確かめることを決意した。
「申し訳ありませぬ幽々子様、給仕をしていた者も行方不明で……」
「……いいのよ」
妖忌が作った不恰好な料理が幽々子の前に差し出された。
幽々子は微笑んでいるが、その目からはまったく活力が感じられない。
「お食事の前に一つ話があるのですが、良いですか?」
「何?」
「次々に里の者が行方不明になっております」
「……」
幽々子はうつむいて何も話そうとしない。
だがそれは裏を返せば幽々子が何かしらの手がかりを掴んでいるということだろう。
その後妖忌は、どこの誰が居なくなったと、それら一人一人のことを幽々子に伝える。
知った名もあっただろう、幽々子の膝にぽたぽたと涙がこぼれる。
「どうやらこの里に何かが起きているようです、調べてないからわかりませぬが、近隣の里も似たようなものかもしれぬ」
「……ええ」
妖忌は正義感の強い男だ。
一人で原因を調べに行くと言い出すかもしれない。
そう思うと幽々子は震えが止まらなくなった、死んでゆくこの里に一人で取り残されてしまうのではないか。
幽々子は涙を流すだけに留まらず、ついにはガタガタと震え始めた。
「ですから幽々子様」
「……」
「私と共に逃げましょう、どこか遠くへ」
「えっ……?」
妖忌の口から出てきた言葉は予想だにしないものだった。
だが妖忌は誓ったのだ、何があっても幽々子の側に居て守り通すと。
かつて幽々子の起こした大惨事は、自分が側で守っていれば防げたもの。
あんな後悔は二度と味わいたくない。
「妖忌、本当……?」
「ええ、この一件に幽々子様は関係ありませぬ、里の者を見捨てるのは心苦しいが、私は幽々子様の従者です」
その妖忌の言葉を聞いて、幽々子は一つの決心をした。
「ありがとう、妖忌……」
幽々子の震えは止まり、その顔には柔らかい微笑みが戻った。
それを見た妖忌も胸を撫で下ろす。
(これでいいのだ、これで……)
悲しみに暮れる里の者達の顔が脳裏に浮かぶ。
だが自分が最優先して守らなければならないのは幽々子なのだ。
妖忌は白楼剣の鞘に手を当て、目を閉じた。
その晩幽々子が居なくなった。
翌朝、妖忌はただ一人広い屋敷に取り残されて呆然としていた。
藍は胸を押さえ、額に脂汗を滲ませながら、床の上でうずくまっていた。
「ぐっ……はぁ、はぁ……」
桜とやり合ったあの日以来体調が優れない。家事すらまともにできないほどだ。
藍は今日も家を出ようとしたが、玄関で膝をついた。
食欲も湧かない、疲れているのにろくに寝られない、死に至るほど辛いわけではないのだが、外出は無理だった。
たまに、眠っている紫の様子を見ると、自分ほどは酷くないようだが随分うなされている。
苦しそうに悶え、胸をかきむしり……藍が額に滲む汗を拭って手を握ってやると、強く握り返してくる。
あそこまで苦しんでいる紫を見るのも初めてのことだった。
なんだかわからないが、涙がとめどなく溢れてきた。
「桜の呪いか……」
壁にもたれかかって下を向くと、自分の胸の動きが驚くほど大きい、息が荒い。
だがすぐにそれどころではなくなった。表から凄まじい妖気を感じる、これは……。
「随分と苦戦しているみたいじゃない」
澄んだ声は恐ろしく冷たい響きを持つ、それはまるで鼓膜が凍りつくような印象だった。
紫に匹敵する妖気、だがそれは慣れ親しんだ紫のそれとは違い、肌がじりじりと焼けつく。
「風見幽香か……何をしにきた」
あいつが自分から出てくるなんて珍しい。
いや、もう珍しい事だらけだ、初めて目にする事だらけだ。
長く生きたつもりだったが、自分がここまで未熟で経験不足だとは思わなかった。
そんな藍にまったく気遣う様子も無く、幽香は戸を開けて家の中へと入ってきた。
そして自分に向けられる鋭い眼光を鼻で笑い飛ばす。
「ふん、そんな格好ですごまれても怖くないわ、無理せず横になったら?」
「……何をしにきた」
「貴女達が怠けてる間にすごいことになってるわよ?」
「なんだと!? まだそこまで経ってはいないはずだろう!!」
「運が悪いわね貴女達……本当に」
何があったのかわからないが、幽香が嘘をついていると信じたい。
それまで鋭い目で睨みつけていた藍は、途端に不安になって情けない表情に変わる。
「残念ながら私は嘘なんかついてないわよ」
「ならば、何があったんだ……?」
「あの子の根元で一人の男が死んだ」
「ただの男ではなかったのか」
「西行寺幽々子の父親」
「……父親……?」
「娘には及ばずとも、死霊や死を操る能力を持っていた」
「そんな……」
「それを取り込んであの子は更に力を増した。そして各地で人間の行方不明が多発しているわ」
「行方不明……あの桜の元へ?」
「そう、あの子の下で人間が次々に死んでいる。そしてあの子は血を吸う度に満開に近付いていく」
「この時期にか」
「もうじき満開になってもおかしくないわ、さぞかし美しいでしょうね」
「嘘だ……」
藍の全身から力が抜けていく。藍は幽々子の父親について紫から何も聞かされていない。
幽々子と桜だけを見張れば良いと思っていたが、こんなところで出てきて問題を起こすとは思ってもいなかった。
「それにしても……紫の奴、本当にらしくないわね、他にいくらでもやりようはあったでしょうに」
「何のことだ……紫様は尽力なされた、愚弄することは許さんぞ」
「別に愚弄じゃないわよ、でも不思議でねぇ……破壊なんて、一番難しい手段なのに」
「……」
心当たりが無いでもなかった。
見た感じでは紫は物理的な破壊にこだわっていたように見える。
「例えば私と紫が戦ったとして、すぐに決着がつくと思う?」
「……いや、つくまい」
「ましてあの子の生命力には私や紫でさえ及ばない。木ってすごいのよ、そしてあの子の持つ力。
あれは死を操るもの、死を操ることができれば、生にもある程度干渉できる」
「……」
「殺せる者を殺さないと言うことは、その者を『生かす』ことに他ならないわ」
「話が見えないな、さっさと要点を話せ」
「あまり調子に乗らない方が良いわよ、私は紫みたいに甘くはないから」
「そんな話をしにここに来たわけでないことぐらいはわかっている、勿体つけるな」
「……まぁいいわ、自分で来て自分でご破算にするのも面白くないし。それより中に入れてよ」
「……わかった、話を聞かせてほしい」
藍は、有力な情報を持っている幽香に頭を下げるしかなかった。
今回のことについての紫の動機もよくわからない。幽香ならばわかるのかもしれない。
負けを認めた藍を満足そうに見下して、幽香は家の中へと招き入れられた。
藍の体調が優れないにも関わらず、幽香は茶を要求した。
早く話を聞きたいところだが、それならば逆に従うしかない。
本当に扱いの難しい奴だと思いつつ、藍は茶をいれて幽香に差し出した。
「紫の能力がどの程度まで及ぶのかはよく知らないけど」
茶から立ち上る湯気を見つめながら幽香は話を始める。
「境界を弄ればなんとかなるはずよ」
「何の境界を?」
「それでも一人では無理でしょうけど」
質問に答える気は無いらしい、藍は黙って話を聞くことにした。
「私が今回あの子の様子を見に行ったのは、紫があまりにしつこくあの子を破壊しようとしていたから。
最初はどうせ無理だからと目を瞑って、試しに挑ませてみたけど。本気で壊そうとしてるなら私はあの子の味方」
「あれがどれほど危険かわからんのか?」
「人間にとってどれほど危険かなんて知ったことじゃないわ、これは紫にも言った」
「……」
「でも紫は言ったもの『人間を殺す理由も無いから守ってみようと思っただけ』ってね。
なら、花の妖怪である私が花を守ろうとするのは当然だと思わない?」
言えている。幽香の理屈には筋が通っていた。
妖怪の視点から見て不自然なのは明らかに紫と藍だろう。
だが幽香はわかっていて揚げ足を取っているだけだ、まさか本当に紫がそんな理由だけであそこまで戦ったとは思えない。
「最近では妖怪も食われ始めたわよ。危険を感じてあの子を攻撃しているみたい」
「やはりな」
「妖怪の味方をするつもりもないけどね、ただ、どうも落ち着かない」
「何がだ?」
「まだ弱い奴ばかりで返り討ちだけど、紫を初めとした強力な妖怪がよってたかってあの子をいじめ始めたら許さない」
「……そうか、一理ある」
幽々子のことが頭に浮かんだ。
守るものこそ違えど、幽香もこれに近い感情をあの桜に対して抱いているのではないか。
初めに紫を見逃したのも、そのときの紫が本気で破壊するつもりがないのをわかっていたのでは。
いや、破壊するつもりがないのではなく、破壊できないのがわかっていた。幽香も紫も。
「だから、早い段階で私自身が始末をつけようと思ってここに来たの」
「始末?」
「あの子を冥界に隔離する」
「隔離、隔離か……破壊ではなく隔離」
「冥界に生きた人間は居ないから被害は出ない、あの子も美しく咲いていられる、良い妥協案だと思わない?」
「……流石だ、賢いな」
「まぁ、冥界だと見に行くのに少し骨が折れるけどそれぐらい……破壊されるかどうかひやひやするよりはずっと良いもの」
「それで我々に協力を依頼しに来たのか?」
「ええ、悪い話じゃないでしょう?」
「ああ、少なくとも私は問題ない」
しかしながらどうも釈然としない。
「そんなに上手くいくだろうか」という思いが藍の胸にわだかまっていた。
それに幽香はまだ何か隠している気がする。
今言ったことだって、賢いとは思ったが紫が気付かないほどの案ではない。
「そんなに簡単なことではないわよ」
突然襖を開けて紫が出てきた。
紫は幽香の接近を感じたとき既に半覚醒状態になっていたが、あえてそのまま寝ていた。
だがあまりに長く幽香が居座っているので妙だと思い、隣の部屋で話を聞いていた。
「紫様、起きてらしたのですか? お体の方異常ありませんか!?」
「このぐらいなんてことないわ、ほら藍、こっちへ来なさい」
「おはよう、紫」
「いらっしゃい、幽香」
寝巻きのままの紫は、藍に札を貼り付けたり、手をかざしたりして呪いの除去を開始する。
少しずつ藍の顔色が良くなり、それに伴って姿勢も良くなってきた。
「顕界と冥界の境界を薄くして、あの子を結界で包み、転移させてしまえばいい」
「顕界と冥界の境界はまだ弄っていないけど、結界で包むのがまず難しいの」
「だから手伝うんじゃない、私が」
「転移させるのも並じゃない、自分から移動しようとする者や意志の無い物を送るのは簡単だわ、けどあの桜はあそこに居座ろうとしてる」
「そうね」
「強制的に送るには物理的な方法では不可能なの、それは今までやってよくわかった」
「スキマに引きずり込んで冥界に送っても」
「切り離された体の一部が物質として送られるだけ」
「あの子の本体、魂、精神は残る」
「ええ」
「簡単なことよ、あいつを使えば良い、西行寺幽々子を」
「……」
「魂や精神への干渉能力は素晴らしく高いわ、大物妖怪でもあそこまでのはそう居ないわよ」
「バカね、それじゃ私が今まで何のために幽々子を守ってきたのかわからないじゃない」
「バカはあんたよ、さっさとこの方法をやっていればこんなに死人が出ることもなかったでしょうに。
私とそこの狐があの子を物理的に押さえ込む、その隙に西行寺幽々子があの子の生命力を奪う。
あとは弱ったあの子をあんたが冥界に送って終わり、大団円よ」
「そういう手があるのか、紫様、やりましょう……妖忌とは顔見知りだ、幽々子は呼べるはずです」
「はぁ……暢気ね」
修復を終えた紫は藍から札をはがし、溜息をついて座り込んだ。
「妖怪三昧ねぇ、幽香」
「人間を守る気など元からないわ」
「結局、幽々子はこうなる運命だったのかしらね」
「え? え?」
「耐えられるわけないじゃない、前からだって幽々子だけでは不足だったのに」
「では、今の作戦は……」
「自分の全てを力に変えるぐらいでなければ、幽々子はあの桜の生命力を奪えない」
「全て……つまり」
「幽々子が命を投げ打つ覚悟で、それでもなお成功するかどうか」
藍は鈍器で頭を殴りつけられた気分だった。
紫があえて回りくどい方法を取っていたのはそのためだったのか。
幽々子を巻き込まずにあの桜をなんとかするのはそれほどに困難だったのか。
そして結局どうにもならず、事態は最悪の状態になった。
幽々子を巻き込む、いや、幽々子を犠牲にしなければあの桜はどうにもならない。
たくさんの人間を犠牲にしてまで幽々子を守ろうとしたのに、その行為が結果的に傷口を広げることになった。
「私は一体何をしていたんだ、何をできたんだ……」
藍はうつむき、そのまま黙り込んだ。涙すら出ない。
「藍は何も悪くないわ、元々、これは私達の使命でもなんでもない」
「……」
「私の気まぐれ、わがままよ」
「本当ね……貴女、主は選んだ方が良いんじゃないの?」
「私達は確かに何一つ防ぐことはできなかった、全てを失っていくばかり」
「西行寺幽々子も?」
「……そうね、もう背に腹は変えられないわ。私達も安全地帯から引きずり下ろされた」
無闇に人を殺す行為は自分の首を絞める。
今大物妖怪と言われる者達は、長い年月をかけてそれを悟った者達。
あの妖怪桜の所業は捨て置けない、暗黙の掟を作ってきた者達が粛清しなくてはいけない。
私情を捨てて、多少の犠牲には目を瞑り……人の世、そして同時に妖怪の世の脅威を取り除かなければならない。
「紫様……どうにかならないのですか……」
「もう無理よ、藍」
「紫様ならば、なんとかできるのではないですか!!」
「無理よ、無理と言ったら無理……私だって神様じゃないもの」
「……!!」
かつて自分が胸に抱いた絶望、それが紫の胸にも去来していたというのか。
『もう考えるのも疲れた、私は神様ではないんだよ……』
幽々子の悲しい人生が、自分の走馬灯であるかのように藍の頭の中を駆け巡る。
自分にじゃれつく幽々子。耳を引っ張ったり、尻尾に抱きついたり。
一人きりで遊ぶ幽々子。妖忌が来ると嬉しそうに駆けて行く、ときには転んだりもした。
一人きりで養女にもらわれる幽々子。幸せそうな様子とは裏腹に、一人になると悲しそうな表情を見せる。
小間使いにされそうになり、養母に傷付けられそうになり、ついに悲しみが爆発した。
妖忌に抱かれて、養女にもらわれてからの数年分の涙を流す幽々子。
悲しい歴史を幾つも刻み、ようやく平穏が訪れたはずだったのに。
藍は四つん這いのまま紫にしがみつき、大粒の涙をこぼしながら訴えた。
「お願いします!! 紫様!! どうか、どうかあの娘を……!!」
「……」
紫は返事をしなかった、藍はそのままずるずると滑り落ち、突っ伏して嗚咽を漏らす。
幽香はそんな様子を見て「理解できない」とでも言いたげに表情を歪めてから、視線を紫へと移した。
「で、西行寺幽々子を使う、それでいいのね?」
「紫様……紫様ァ!!」
……ええ、それでいいわ。
三人はちゃぶ台を囲んで話し合っている。
正確には話し合っているのは紫と幽香だけで、藍は泣き止んだがずっと黙りこくっていた。
「まず一人は桜への道を封鎖し、これ以上人間が食われるのを阻止すると同時に、邪魔が入らないようにするの」
「で、それは誰が?」
「藍にやらせましょう、良いわね?」
「……」
藍は虚ろな視線を紫に向けると、何も言わずに小さく頷いた。
紫はそんな藍の様子を見て難しい顔をしたが、すぐに幽香の方を向き直って話を続ける。
「もう一人は桜の見張り、そして最後の一人が幽々子を連れてくる」
「そう、貴女があの子を見張りなさい。私が幽々子を連れてくるから」
「ダメよ、それは私がやるわ」
紫と幽香がにらみ合う。
「移動が早いからなんてつまらないこと言わないでよね、あんたはどうも信用できない」
「ここまで来て今更裏切ったりしないわ、ちゃんと連れてくるわよ」
「あれだけ人間の娘に情をかけておいてよく言う、信用できないったら信用できないわ」
「あんたこそ、連れてくるとか言いながら途中で殺したりしないでしょうね?」
「さっきの言葉そっくりそのままよ、今更裏切って何の得があるの?」
「そう思うなら私に任せなさい」
「ダメよ、情にほだされて逃げられても困るから」
「無理矢理連れてきたって、あの桜と戦ってくれるかどうかわからないじゃないの」
「……」
「幽々子のことを大して知らないあんたに幽々子が説得できて? この作戦は幽々子の力に大きく左右されるの」
「……気に入らないけどまぁいいわ、あの子のためだもの」
「あんたなら必要以上にあの桜を傷付けることもないでしょう」
「詭弁ね」
幽香はこの期に及んで紫が幽々子を連れて逃げるのではないかと心配していた。
しかし紫の言う通り、この計画は幽々子のモチベーションが成功率を大きく左右する。
詭弁とは言ったが、紫が先走って、あの桜を必要以上に破壊するのも確かに気に入らない。
言い包められた感じがして気分が悪いが、幽香は紫に従うしかなくなった。
「あんたはどう思うの?」
幽香が突然藍に声をかける、藍はゆっくりと顔を持ち上げて小さく呟いた。
「お前がなんと思おうと、私達だって妖怪だ……今更情けをかけてはいられない」
「そう」
藍は、自分で言って腹が立った。
人間と妖怪、何故そこまで明確に分けなければいけないんだろうと。
藍も長く生きる上でそんなことはわかっているのだが、今回の件でまた疑問を抱いていた。
一時的な感情だというのもわかっている、わかってはいるのだが……。
「私が山道を封鎖し、幽香が桜を見張り、紫様が幽々子を連れてくる……ということでいいのですね?」
「ええ、そのように」
「何度も言うけど、幽々子を連れて逃げたりしないでよ」
「わかってるわよ、しつこいわね……準備ができたら呼ぶわ、藍」
「わかりました」
「それからは幽香と協力して桜を押さえ込みなさい」
「はい」
三人は立ち上がった、これが正真正銘最後の戦いになるだろう。
紫が作った空間の裂け目をくぐれば、もうそこはあの桜が生えている山だ。
●終章『約束』
藍は山道……と言っても獣道程度の不細工な道だが、人が通れそうなところを破壊して回っていた。
それでも完全に道を絶つことはできないが、これは飽くまで下準備にすぎない。
人間はどうしたって歩きやすい道を選ぶのだ、それを一本に絞り込み、自分がそこに立ちはだかる。
途中で見つけた人間は脅すことで桜の呪縛を断ち切り、追い払った。
「これでほとんどの人間はここを通ることができないだろう」
だが藍には一つの確信があった。
遠くから一人の人間が駆けてくる、見覚えのある人間。
守り刀白楼剣と、藍が与えた長刀を携えて駆けてくる。
「来たか、魂魄妖忌」
「……藍殿?」
妖忌の腰に付いた白楼剣がキンキンと鳴っている。
そればかりではない、強い振動を起こしていて今にも鞘から抜け落ちそうだった。
「やはりこっちか……藍殿も嗅ぎつけたようだな、幽々子様が……」
「幽々子がどうかしたのか?」
「ああ……ここに何かがある、藍殿は知っているかもしれないが……幽々子様と似た力を持つ何かだ」
「それは桜だよ」
「桜……!?」
妖忌はここに来てようやく、幽々子の父親が詠った歌の意味を理解した。
きっと桜の下で死に、その桜が幽々子の父親の力を吸収した……。
それだけでこれほどの力を持つのは何故か、などの疑問はまだ残っていたが。
「ここには妖怪と化した桜があった」
「藍殿、ゆっくり話している暇はない、幽々子様はその桜の下へ行こうとしていると思われる」
「それは好都合だ、幽々子には協力してもらう」
「……なんだと?」
藍の目は冷たく、澱んでいた。
かつての幽々子を見守る温かい目ではない。
妖忌は思わず刀に手を掛ける。
「幽々子の父を吸収する前から相当な力を持っていた。いや、正確に言うと生命力が強すぎて滅ぼせなかった」
「……そんなことをしていたのか」
「紫様がどうお考えだったかは私にもわからん」
「ゆかり……」
あのとき幽々子が言っていたもう一つの名……言動から察するに、藍の主なのか。
「だが紫様は阻止しようとしていたんだろうと思う」
「阻止?」
「一度幽々子を見に行ってからの紫様の様子は、ずっと変だったよ」
「あの晩か……」
「幽々子とあの桜は似ていた、死霊を操り、人を死に誘い、今ではすぐにでも殺すことができよう」
「ああ、そうだろうな」
「紫様は幽々子と会った時に一つの方法を思いついたに違いない」
「……それは?」
「あの桜と幽々子を戦わせ、その力を相殺する」
「バカな……そのために幽々子様が成長するまで守っていたと言うのか!!」
妖忌が声を張り上げた瞬間、それに呼応して藍の表情が怒りの形相に変わる。
「そんなことは知らん!! 紫様が何を考えていたのかは私にも完全にわからん!! 考える余裕も無い!!」
「……」
「だが私は……こんなことはしたくなかったわよ、幽々子を守ってやりたかった、心から……」
「……通せ」
「紫様だって、同じ気持ちだったんだと思う……」
「通せ!!」
「それはできない」
妖忌が長刀に手を掛け、藍は爪を伸ばす、両者がにらみ合った。
「幽々子を守りたい気持ちはあるが主の命もある。そしてこれはもはや我々の私情を挟む問題ではない」
「幽々子様を守れと言ったのは貴女だろう、この刀だってそのためによこしたもののはずだ」
「ああそうだ、お前の役目は何も変わってはいない。私は長く生きる妖怪として、人間と妖怪双方の平和の為に戦う。
それが私の定めだ、お前の定めが幽々子を守ることならば、遠慮なくその刀で私を斬り伏せるが良い」
「どちらが本当の藍殿なのだ……」
「もはや自分の意志は殺した、ただ主の命に従うのみだ……さあかかってこい魂魄妖忌!! 私はここを死守する!!」
「ならば通る!! 幽々子様を守るのが私の定めだ!!」
互いに迷いは断ち切れていない。
藍はああ言ったものの、幽々子に対する情が完全に捨てきれたわけではない。
自分の気持ちと紫の命令の狭間で苦しむ藍、人間と妖怪双方の平和を考えると妖忌を通してはいけないのはわかる。
頭ではわかる、だが幽々子には死んでほしくない……藍は涙ながらに爪を振り下ろす。
一方の妖忌も、幽々子を守るためにはここを通らなければいけないのだが、太刀筋が冴えない。
自分が何もできなかった間、藍は人間と妖怪の境界に苦しめられながらも、幽々子を見守ってくれていた。
あの大惨事の日、幽々子の元へ向かう自分に素晴らしい剣を与えてくれた。
桜を滅ぼすための生贄として幽々子を守っていただなんて考えられない。
何よりも、藍はまるで「私を斬ってここを通り、幽々子を助けてやってくれ」とでも言っているように感じられる。
俊敏な動作に鋭い爪、妖忌にできたほんの僅かな隙を藍が見逃すはずはないのに……。
攻撃に移ろうとした瞬間に藍が踏み止まる、その一瞬の動作の鈍りを妖忌は見逃さなかった。
だが妖忌もその隙に斬りつける事ができない。
このままでは幽々子が危ないとわかっているのに……藍の悲しい表情が妖忌の覚悟を鈍らせる。
「何を手加減している!! そんな者を斬る剣は持たぬ!!」
「そう思うならもう一つの剣を抜けばいいだろう……自分で鍛えた剣で斬られるほど間抜けではない!」
「本気で殺しに来い……そうでなければ貴女を斬れぬ……」
「……悲しいな、妖忌」
「……次は完全に迷いを断つ、貴女の迷いもだ」
「……ええ」
妖忌が白楼剣を抜いた。
妖忌の顔が引き締まり、藍の目から澱みが消える。
両者本気の戦いが始まる。
桜の下に向かった幽香は、その惨状を見て思わず息を飲んだ。
桜の根元に積み重なる死体の山、山、山。
人間のものだけではない、歯向かった妖怪達……。
中には人間と同様に能力に屈し、抵抗すらできずに死んだ者もいよう。
逆に、人間の中にも歯向かった者がいたかもしれない。
それらを皆殺しにし、自分の根元に積み上げ、血を吸い続ける桜。
空中にはまだ抗戦を続けている妖怪も居た。
誰も彼も傷だらけだ、それに対して桜は傷一つついていない。
幽香の存在に気がついた妖怪達はその場を去り始めた。
幽香が桜の味方をすると思って撤退したのか、もしくは幽香に任せようと思ったのか。
いずれにせよその行動は幽香の持つ力を恐れてのことだろう。
「綺麗……」
そうとしか形容できなかった、どんな言葉もその桜を表せないと思った。
そう、桜は既に満開になっている。
「落ち着いて、今安全な所へ……あなたが咲き誇ることを、誰も邪魔しない所へ連れて行ってあげるから」
桜に歩み寄る幽香の微笑みは、今まで紫や藍の前で見せた冷たいものとは違う。
家族でも見守るような温かい目……だが。
「……えっ?」
桜はその根で幽香の腹を刺し貫いた。
幽香は苦しみもせず、不思議そうに自分の腹部を見下ろしている。
「……そう」
幽香は小さく呟き、桜の根を乱暴に引きちぎって投げ捨てた。
なんて凶暴な桜だろう……やはり紫や藍だけに任せてはおけない。
幽香は口から垂れる血を布で拭き取る。腹部に開けられた風穴はもう閉じている。
「これだけ強くなってもまだまだ子供なのね」
日傘を開き、今度は冷たく笑って桜に歩み寄る。
幽香に気圧された桜は再び根を突き上げての攻撃を仕掛けた。
しかし幽香は、風に舞い上げられる花びらのように緩やかな動きでその攻撃を避け、空中で静止した。
「なんて幼稚な攻撃かしら」
幽香の小さな掌から宵闇を打ち払う眩い閃光が放たれ、突き出した桜の根を焼き払った。
地中深くまで大穴を空けるその凄まじい威力、桜の根はいくつも焼き切られ、悲鳴のような地響きが鳴る。
あの金髪の少女に匹敵する力を持つ目の前の少女。
さっきから全力で死の能力を使っているのに、ニヤニヤと不気味に笑っている。
花びらを舞い散らせて攻撃しても、日傘がそれを防いでしまう。
「言うことを聞かない子は好きじゃないわ」
桜が吠える、風も無いのに花びらを撒き散らし、触手のような根が地上を支配した。
死の能力が通用しないならば花びらで叩き落して、根でズタズタにしてやろうと猛っている。
「遊んであげる」
幽香の周りに無数の向日葵が浮かび上がる。
その表情は冷たく笑ったまま。
幽々子の父親が住んでいた庵、そこで幽々子は涙を流していた。
父親が残したたくさんの書……最初はこれが自分の父親のものだなんてわからなかった。
「お父様の歌だったのね……」
自分の心にあんなに届いたのは、それは幽々子に宛てられたメッセージが多いから……。
今まで見てきたどの歌も新鮮に感じられる、新しい感動がある、だから悲しかった。
手記を見れば、今までずっと自分を気にかけてくれていたことがわかる。
あの大惨事の日も自分を気にして側まで来てくれていたのだ。
「顔を見せてくれれば良かったのに……」
父親がどう思っていようが、血を分けた肉親に会いたくないわけがない。
幽々子はさらに手記をめくり、驚愕することになる。
――願わくば、花の下にて……。
父親はまだ死すべき運命ではなかったのだ。
あの日幽々子のことが心配でかけつけた父親は、幽々子の能力から身を守りきることができなかった。
その手記には、あの日から黒い蝶に囲まれて父親が弱っていく様子が記してあった。
「お父様は……」
「そう、貴女が殺した」
突然背後から聞こえた声に驚き、幽々子の体が跳ねる。
振り向くと、遠い記憶の中にある少女がそのままの姿で立っていた。
「貴女は……」
「紫よ、幽々子さん」
紫……そうだ、確かそんな名前だった。
あのときはわけもわからずに「友達になって」と頼んだが、紫は最後まで聞き届けずにその場を去った。
酷く寂しい思いをした記憶がある。
だが紫は幽々子の思惑など意に介さず話を続ける。
「貴女の父親も同様に強い霊力を持っていたからすぐには死ななかったのでしょうね」
「……」
「貴女が全てを恨んだとき、その中に身を置いた貴女の父親」
「やめて……!!」
「こうなることはわかっていたでしょうね。それでも貴女のことが心配で、居ても立っても居られなかった」
涙が止まらなかった。
自分を心配して駆けつけた父親に会うこともなく、逆に殺してしまっていたなんて。
だが紫は間髪入れず、次々に残酷な事実を突きつける。
「貴女の父親も貴女も、純粋すぎるわ」
「何が……」
「自分を捨てたのならばどこで死んだって大して変わらないでしょうに、美しい桜の根元を死地に選び……
その血は、桜の魔力を何倍にも強くした」
「桜……」
「そして彼の詩もまた強い魔力を持ち、その桜を巨大で美しい墓標にしてしまった」
――春死なむ。
幽々子はへたり込み、そのまま顔を抑えて震え始めた。
「そう、全て貴女達親子のせいなの」
「いやぁぁぁっ!!」
わかってはいるが一番言われたくない言葉だった。
いつだってあの日のことを悔やまないことはなかった、何度も枕を濡らした。
養母が目の前で自刃した瞬間は今でも網膜に焼き付いている。
「世捨て人とは言うけれど」
「やめて……」
「子を捨てきれず、世を捨てきれず、自分を捨てきれず……世捨て人と言われる人間こそ、自分を捨てきれないもの。
自分を捨てているのは、汚れた世の中で、汚れて生きる強さを持っている者達」
幽々子の頭に、今までの辛い出来事が次々と浮かび上がる。
自分をたらい回しにした叔父、自分を小間使いにしようとした養母……。
悲しみと恐怖に汚れた目、欲望と憎悪に支配された目。
幽々子はくずおれ、うつろな目で虚空を見つめた。
今まで見てきたたくさんの汚れた目が、その虚空に映っているかのようであった。
室内であるにも関わらず、紫は手にしていた日傘を開き、頭上に掲げた。
それを見た幽々子はただならぬ威圧感を感じて身を固める。
「さあ責任を取りましょう」
「何がしたいの……? 貴女は誰なの……?」
「私は八雲紫、しがない妖怪でございます。今日は貴女に頼みがありまして」
「頼み……?」
「ええ、貴女の父親の血を吸った例の桜、貴女の力で……」
殺してほしいの。
「殺す……って……」
紫は薄ら笑っている。
そんなこと言われたってどうしたらいいのか幽々子にはわからない。
「親子二代に渡って振りまいた災厄」
「……」
「さあ、責任を取りましょう」
「どうすればいいのよ……」
「簡単なことよ、前にたくさん人を殺したんだからわかるでしょう?」
「その話はやめて!!」
紫はわざとらしく幽々子の心の傷をえぐる。
それは何よりも、幽々子に使命感を植えつけるためだった。
「まぁそんなに心配しなくても、私もお手伝いするわ」
「……そんな物騒な桜、私だって無くなってほしいけど……」
「契約成立ね」
幽々子がまだ戸惑っているのは明らかだが、紫の言う通りにするつもりはあるらしい。
紫はそれがどんなに危険なことかを話していない、話したら幽々子を連れて行くのに苦労するかもしれない。
上手く行けば幽々子を死なせずに済む可能性もあるが、今の幽々子と桜を比べる分には望み薄だった。
ほぼ確実に幽々子はその命を賭けて桜に立ち向かうことになる。
薄ら笑いの消えた紫を見て、幽々子は怪訝そうな顔をした。
しかし紫の表情はすぐに元に戻り、空間に裂け目を作って幽々子をそこに導く。
「ここを通ればすぐ桜の下へ行けるわ。あまり時間が無いの、急ぎましょう」
「……」
幽々子を先に行かせ、紫が後に続く。
ついにあの桜と決着をつけるときがきた。
しかし紫も幽々子も知らない一つの事実があった。父親が手記に記すことさえしなかった、最期の勇気。
そう……父親もまた、幽々子を守ろうと最後の力を振り絞って桜に立ち向かったこと。
そして結果的に、それが裏目に出て幽々子を桜へ近づけることになってしまったこと。
悲しいことに、誰一人運命から逃れられなかった。
桜は誇らしく咲き狂っている。
数多の魂を吸って膨らんだ魔力は、その周囲一帯を包み込んでいる。
「酷い……」
幽々子はその根元に散らばるたくさんの死体を見て口元を押さえた。
幽香との戦いの中で吹き飛ばされ、原型を留めぬような死体もあった。
「ああ、あまり見てはダメ。お嬢様には刺激が強いわ」
「うっ……」
紫は幽々子の目を手で覆い隠し、その背をさすってやった。
上空で戦っていた幽香は二人に気付いて高度を下げる。
「ちゃんと連れてきたのね」
「そりゃもう」
「それじゃ、藍が到着次第、本格的に取り掛かるわ」
「ええ、それまでもう少しお願いね。私は幽々子を守っているわ」
幽香は再び舞い上がり、桜の注意をひきつける。
紫は幽々子に寄り添って強力な結界を引き、藍を呼び寄せた。
きっとすぐに駆けつけることだろう。
絶え間なく鋭い音が響いていた。
妖忌の白刃が弧を描き、藍の爪が赤い軌跡を残す。
ぶつかり合った霊気が空気を震わせる。
「どけっ!!」
体をひねって振り下ろされた妖忌の太刀を、藍はあっさりと両手で挟んだ。
そのまま間髪入れずに放たれた前蹴りで妖忌は蹴り飛ばされ、坂道を転げ落ちる。
「ぐぅっ!!」
「あの一瞬に身を引いたのか、大した身体能力だよ」
転がりながら姿勢を直して妖忌は立ち上がり、藍を睨みつける。
今まで会ったときはここまで強力な力は感じなかったと言うのに、これが本気だと言うのだろうか。
その原因は常に紫が側に居ることにあった。藍の力は普段よりも増されている。
しかしそれを知らない妖忌にとっては単なる脅威でしかなかった。
強い、多少の傷はすぐに癒えてしまうし……自分とは根本的に体の作りが違う。
不意に藍の耳がピクリと動いた、そして後方を見上げ、目を細める。
「……準備が整ったようだ」
「なに……?」
「ここでの私の務めは終わりよ。私は主の元へ向かう、お前もあとは好きにすると良い」
「ま、待てっ!!」
藍は大地を蹴り、疾風のように山道を駆け上って行く。
妖忌は藍との戦いによる負傷と疲れから、その速度に追いつくことができない。
それでもようやく通れるようになった道を全力で駆け上る。
最後まで諦めてはいけない、幽々子を助けて連れ帰らねば……。
幽々子は紫に抱きついて震えている。
幽々子に気付いた桜が、幽香よりも幽々子を優先して狙うようになったからだ。
全ての攻撃は紫の引いた結界に阻まれているが、それでも幽々子は気が気ではなかった。
「助けて、助けて妖忌……!!」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、私の結界はそう簡単に破られないもの」
根が結界にぶつかり、ドカンドカンと大きな音を立てる。
その度に幽々子は震え上がり、悲鳴を上げて紫にしがみついた。
「紫様!!」
「藍、来たのね」
「幽香はちゃんとやっているようですね、私もこのまま奴を押さえ込みにかかります!」
「お願いね……さぁ幽々子、出番よ」
「ひ、ひぃっ……む、無理よ、私にこんな……」
藍は飛び上がり、術を使用して桜の破壊にかかった。
宙を回転しながら飛び、無数の光の球を撒き散らす。
それで藍の到着に気付いた幽香も、手加減をやめて本気で桜の破壊に移行する。
「きゃあっ!!」
「モタモタしていられないわ、行くわよ」
「や、やっぱりできないわ……」
「やらなければやらないで、ここに居る全員があの桜に殺されて終わりよ」
それを聞いた幽々子が青ざめる、しかしそれは紫がついた嘘である。
幽々子はここに放置されたら殺されてしまうだろうが、紫と藍、そして幽香は逃げることぐらいできるだろう。
「それだけではない、私達の力を吸収してあの桜はさらに強大になり、もっと広い範囲の人間を呼び寄せる」
「でも……」
「貴女の力無しには成功しない作戦なの……お願い、協力して」
「……」
「何度も、何度も挑んだわ……けれどダメだった、あの桜は生命力が強すぎる。
生命力そのものを直接奪う貴女の力が無くてはどうにもできない」
薄ら笑いの消えた紫の悲しそうな眼差しが、幽々子の心を揺さぶる。
「あれは人の世も妖怪の世も乱す存在、私がその危険性に気が付いたときには既に遅かった……。
そしてそれとほぼ同時期に見つけたのが貴女よ」
「あの夜のこと……?」
「そう、あの頃ね……貴女の存在はまるで、あの桜を封印するためのもののように感じたわ」
「私があの桜を……」
「けれど、そうはさせたくなかった、私達だけでなんとか……」
紫がそう言いかけたとき、攻撃し続けられていた結界についにヒビが入った。
「紫様!! 危ない!!」
「くっ!?」
「きゃぁっ!!」
紫はとっさに幽々子を突き飛ばして身代わりとなった。
幽々子に突き刺さるはずだった桜の根は紫の胸を貫通し、そこからドロドロと血があふれ出す。
しかし慌てた風も無く、紫は再び幽々子に歩み寄って結界を引きなおした。
結界で無理矢理切断された桜の根を胸から引き抜き、口から血を垂らしながらも紫は続ける。
「こんなことは……ゴホッ! 力を持つ者達がなんとかすればいい……」
「いや……いやっ、無理しないで!!」
「こんな傷はすぐ治るのに、こんな攻撃はものともしないのに」
そう言って紫は悔しそうに根を投げ捨てる。胸に空いた穴はみるみるうちに埋まっていく。
「なのに……あの桜を封印することができないなんて、何のための力なのかしら、笑っちゃうわよね」
紫が何を言いたいのか幽々子にはよくわからなかった。
けれどその真剣な眼差しから目をそらすことができない、涙ながらに頷くことしかできなかった。
「私があの桜の根元まで貴女を導くから……お願い」
「……」
なにやらよくわからない、だが、この妖怪達は今まで人知れず戦っていたのだろう。
妖怪の側に偏った考えもせず、かといって人間の側にも寄らず……。
相当強力な妖怪だろう、今まで困ったことがあっても自分達の力で解決してきたに違いない。
そんな彼女達が血まみれになりながら戦っている、血を吐きながら頭を下げている。
「よくわからないけど……言う通りにすれば良いのね?」
「ええ……」
紫と幽々子は手を繋ぎ、桜に向かって歩き出す。
上空では藍と幽香が必死に桜を破壊している。そのせいか、桜による攻撃は大分緩和されていた。
それでもしつこく繰り出される桜の攻撃を結界で防ぎながら、二人はどんどん桜との距離を詰める。
傍らに転がるたくさんの死体、幽々子はそれを直視しないようにしながらも、こう呟いた。
「今まで、この能力を持っていて良い事なんて無かった、けど……こんな惨劇を止める事ができるなら、
それが私の使命だったって思うのも、悪くないのかもしれない……」
「……そう」
紫は何も言えなかった、まだ幽々子に明かしていないことがある。
それは桜の封印をする上で、幽々子の命を捨てなければそれが叶わない可能性が非常に高いこと……。
様々な思惑が交錯する。
空中で戦う幽香も、藍も。
桜へ歩み寄る紫も、幽々子も。
傷付いた体に鞭打ってここに向かっている妖忌も。
ついに二人は桜の根元へと到着した、手を伸ばせばその幹に触れることもできる。
「人を呪い殺すときと同じ要領で大丈夫なはず……それをこの桜だけに絞ってくれればいいわ」
「……ええ」
幽々子は桜に向かって力を解放する。忌まわしい力……散々自分を苦しめたその力を。
体と共に成長したその力は、今では誰が見てもくっきりと見える黒い蝶の姿になって舞い上がる。
おびただしい数の蝶が次々に桜に張り付き、その生命力を奪っていった。
苦しみもがく桜がどこからか悲鳴を上げる、幽々子はそれを聞いて表情を歪めながらも攻撃の手を休めない。
「いいわ……その調子よ」
自分から使ったことなんてほとんど無い力、恐ろしくて震える肩を紫がそっと抱いてくれた。
ほんの少し安心することができた。
『紫よ、幽々子さん』
そういって名前を教えてくれたときの、紫の優しい笑顔はいつまでも心に残っていた。
肝心の名前の方は忘れてしまっていたが……。
「ゆ、紫……」
「どうしたの?」
「こんなときにごめんなさい、でもずっと気になっていたの」
幽々子は攻撃の手を休めぬまま紫に問う。
悲鳴を上げっぱなしの桜は、隅からジワジワと枯れていく、満開だった花もどんどん散っていく。
「あの夜……どうして私の質問に答えてくれなかったの? 人間と妖怪だったから?」
「……」
――お友達に……。
「すごく寂しかった記憶があるのよ……」
「バカね、あんなの口約束することじゃないでしょう」
紫は幽々子の肩をさらに強く抱く。
何も知らない人間の娘。
望まぬ力を持って生まれてきた。
その力ゆえに恐れられ、数々の不幸に見舞われた。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫……?」
幽々子は滝のように汗を流しながら、力の無い微笑を紫に送る。
紫は幽々子の体を見て狼狽した。体の随所がどす黒く変色し始めている。
桜が幽々子に抵抗し始めた、既に上空にいる幽香や藍は相手にされていない。
「ふぅ、ふぅ……」
「幽々子……」
紫は崩れ落ちそうになる幽々子に肩を貸す。
幽々子の体から飛び立つ蝶の数が段々減っている、しかしまだ……これでは桜を冥界へ送るには早い。
本能的にそれを察知していた幽々子は、紫が良いと言うまで力を使うつもりだった。
「幽々子……」
「良いの……」
美しかった白い肌は、既に大部分が黒く塗りつぶされている。
それでも幽々子は攻撃をやめない、だがもうほとんど蝶は出ていない。
「蝶は……どれぐらい出てる?」
「もうほとんど……」
「……なら」
幽々子は懐から短刀を取り出し、鞘を口で咥えて片手でそれを抜いた。
紫は驚いた、言われるまでもなく幽々子が自分からそうするなんて思ってもいなかったから……。
「ゆ、指の感覚がもうほとんど無いの……手を添えてほしい……」
「何をするつもり?」
「生命を力に換える……良いの、もとよりここで死ぬつもりだった……」
「……」
「いつまでも妖忌を縛り付けたくなかった。あの日たくさん人を殺したときから、生きる気力なんてほとんど無かった。
でも妖忌の顔を見たら、ほんの少し意地汚く生きてみたくなった」
紫と妖忌に面識があるかどうかは幽々子の知ったところではないはずだ。
意識が朦朧としているのだろう、幽々子はまるでうわ言のようにぼつぼつと呟く。
「無理矢理忘れようとしていたあの日のこと……でも、この桜が暴れ始めてからは……。
ほんの一瞬忘れることさえもできなくなった」
幽々子は無理矢理に作ったぎこちない笑顔を紫に向ける。
「ありがとう、紫のおかげで私が生まれてきた意味がわかった気がしたよ」
「……これが貴女の生まれた意味であるはずがないわ」
望んでもいないのに先天的に大きな力を持って生まれてしまうということ。
平穏に暮らせればどれだけ幸せだったろう?
紫は妖怪だったが、幼い頃は常々自分の力に疑問を持っていた。
何故こんな力を持って生まれてきたのだろう、私は誰に何を望まれているのだろう。
数々の疑問は長く生きるうちにどうでも良くなった、妖怪として生きる上で邪魔になるものでもない。
しかし幽々子を見たときそれらの疑問が再び心の中に蘇った。
人間である彼女は一体どんな生き方をするのだろう? 不幸は約束されているようなものだ。
普通の人間が負うにしては重すぎる宿命、何故だか助けてやりたくなった。
「幽々子様!!」
ようやく追いついた妖忌は、遠目に見える黒ずんだ幽々子の顔を見て落胆した。
(遅かったか……)
幽々子は妖忌にも笑顔を送る。妖忌と幽々子の位置関係では表情までは確認できないだろう。
それでも、今まで自分を想い続けてくれた優しい妖忌に、そうせずにはいられなかった。
「良かった、最期に妖忌にも会えて……」
「これだけ桜が弱っていれば何とかなるかもしれないわ……」
「嘘よ……汚れた社会で生きてきたからかしら、嘘を見破るのは得意になってしまったのよ。
紫はもともとここで私を死なせてでも桜を封印するつもりだった、そういう嘘も、わかってる」
「……」
「でも恨んでいないわ……紫も、私と同じなのね」
「……違うわよ、人間と妖怪だわ」
「重い宿命を背負って生まれてきてしまった……」
「違うわ……!」
比べるべくもない。紫は自分が死んでまで何かをしようなどと思ったことはない。
暢気に生きてたって平和だ、幽々子のようにはならない。
幽々子は震える手で短刀を握り、喉元へと当てる。
「紫……お願い、手を添えて……怖くて刺せない」
「……わかったわ」
「苦しみたくはないから、一思いに……」
紫がそっと幽々子に手を重ねる。
そしてゆっくりと喉に突き刺さる短刀、幽々子は力が入らないので一息に刺す事ができなかった。
だから紫は目を瞑り、手に力を込めた。
「幽々子様ァーーッ!!」
駆け出した妖忌は突風のような力の壁に吹き飛ばされる。
幽々子の喉から噴出した血は、飛び散ることもなく黒い蝶へと姿を変えて桜にまとわりつく。
倒れそうになる幽々子を抱きかかえ、紫は桜を睨みつけた。
「ごめんなさい……私では無理だったの、けれど、誰かがやらなければいけなかった……」
懺悔する紫に幽々子は優しく微笑みかけた。
喉からは蝶が飛び立ち続けている、黒ずんだ体は元の白さを取り戻している。
紫は伸ばされた幽々子の手を強く握り、頬に押し付けて目を閉じた。
喉から飛び出す蝶の数も徐々に少なくなっていく、紫は桜の根元に幽々子を寝かせ、距離をとった。
満開だった花は完全に散り、桜にはもはや攻撃を繰り出す力すら残っていない。
紫は、桜に向かって手をかざす。
「藍! やるわよ! 手伝いなさい!!」
離れた所に居た藍も、涙を一杯溜めたまま、それでも凛とした眼差しを紫に向けて頷いた。
藍の横では幽香がくたびれた様子で腰を下ろし、二人に向かってひらひらと手を振っている。
藍は桜を挟んで紫と対角に陣取ると、同じようにして桜に手をかざす。
妖忌は幽々子が死んだ今、何をすることもできず、ただ涙を流しながら呆然とそれを見守るのみだった。
守る者が無くなった以上、この害のある桜の排除を妨害する理由など何一つ無い。
桜の根元に横たわる幽々子から最後の蝶が舞い上がった。幽々子が完全に死んだ。
硝子のような結界が桜の四方を囲み始める。
幽々子にあれだけやられてもなお、桜はじわじわと再生しつつあった。
急がなければ幽々子の死を無駄にする、そればかりかさらにたくさんの被害を生む。
「……囲んだっ!! 紫様!!」
「冥界へ……!!」
結界内の空間を切り取り、そのまま冥界へと送り込む。
今まで何度やっても成功しなかったことだったが……予想通り、幽々子を犠牲にすることで成功した。
その場には呆然とする妖忌とくたびれた幽香のみが残された。
「いやー……相変わらずすごい能力ね」
あれだけ巨大な桜が根元からまるごと転移させられたせいで、地面も大きくえぐり取られている。
日傘も服もぼろぼろのまま、幽香はその窪みの周りをなんとなく一周してみた。
「どうするのかしらね、これ」
地面は大きくえぐれているし、死体の山はそのままだし。
「まぁ、私の知ったことではないわ」
クスッと笑って幽香もその場を飛び去った。
そんな幽香を呆然と眺めていた妖忌もゆっくりと立ち上がる。
せめて幽々子の亡骸は置いていってほしかった、埋葬ぐらいしてやりたかったというのに……。
(私はこれからどうすればいいのだ……)
思えばいつも人に従って生きてきた。
守るべき主を失った自分はこれからどう生きるべきなのだろうか……。
そんなこと想像もつかぬままに、妖忌はとりあえず幽々子と共に住んでいた家へと戻ることにした。
荷物をまとめて旅にでも出よう、仕官続きで長らく会っていなかった家族のことも気になる。
冥界での事後処理も終えて、紫と藍はようやく訪れた平穏を肌に感じながら、しんみりと酒を飲んでいた。
ぐいぐいと飲む紫に対して藍は不満そうな表情である。
「紫様、不謹慎ですよ……」
「疲れてしまってわけがわからないのよ、辛いことは飲んで忘れるに限るわ」
「まぁ、ゆっくり酒を飲む時間すら無かったのは認めますけども……」
お猪口に唇を当ててずるずると酒を啜る藍を見て、紫は眉をしかめる。
「下品よ」と言われて藍も眉をしかめた。自分だってやるくせに。
なんだかこうしていると、つくづく自分も妖怪なのだな、と藍は思う。
やはり残酷で冷酷なところがあるのだろう、あれだけ想っていた幽々子だというのに、死んで数日でこの有様だ。
悲しくないわけではないが、死んでしまった者を生き返らせることもできない。
幽々子を犠牲にすると決まった時だって、自分達は思いのほか早く割り切れた気がする。
「幽々子の分まで生きなければいけないということなのかなぁ」
「なに月並みなこと言っているのよ」
「結局私達は幽々子の運命を何一つ変えられなかったですね」
「運命ねぇ……」
あるかもしれないし、ないかもしれない。
自分で覗くことができない以上、必要以上に意識しても仕方が無いだろう。
「もう考えるのも疲れたわ……まだやることもあるし」
「そうですねぇ……」
「いつもならまだ冬眠してるのに、ここ数年は本当に忙しかったわ」
「これを期に朝型にするというのも」
「まさか」と一言呟いて、紫はお猪口を傾けた。
あの後妖忌は幽々子と住んでいた屋敷に帰り、物思いに耽りながらそこで暮らしていた。
残されたいくつもの幽々子の痕跡が、抑えていた悲しみを呼び起こす。
庭を見ればまだ幼い幽々子が駆け回っていた幻影が、縁側を見ればそこで詩を詠んでいる幽々子の幻影が。
(これからどうすればよいのだ)
旅に出て、家族の顔でも見れば気も紛れるだろう。
しかし不完全燃焼の思いは消えはしない、自分はこの数年間一体何をしていたのか。
幽々子を宿命から解き放つこともできず、最後の最後には何の役にも立てなかった。
縁側に座り庭を眺める、ふと、傍らに立てかけた長刀が視界に入った。
藍が、幽々子を守らせるために与えた長刀。
そういえば名前もまだつけていない。
「お前も私と同じだな……」
鞘から半身ほど抜く。相変わらずよく鍛えられた刀だ、白い刀身からは冷ややかな霊気が感じられる。
(狡兎死して走狗烹らる、か)
自分も、この長刀も、一体どれほど役に立ったのだろう。
結局何もかも運んだのはあの妖怪達で、自分は幽々子の力とあの妖怪達の思惑に振り回されてばかりだった。
気がつけば残ったのは無意味な力のみ、この力を使ってできることはあるだろうが、一体何を為せば良いのか。
目を閉じると、暖かな春風が庭木を揺する音が聞こえた。
「妖忌」
「……貴女はいつも風と共に現れるのだな」
目を閉じたまま呟く。
それほど多くの言葉を交わしたわけではないが、彼女の言葉の一つ一つが、いつでも思い返せるほどに耳にこびりついている。
目を開くと藍が土下座をしていた、九つの尻尾が春風を受けて揺れている。光を浴びて、金色をこぼしている。
「すまない、本当にすまない」
「……過ぎたことだ」
「時が過ぎても気は済まない」
「頭を上げてくれ……許せはしないが、不本意だったことぐらいわかっている」
「……」
肩に手を置き、立ち上がらせる。
藍は小さく震えていた、妖忌の前に顔を出すのはどんなに勇気の要ることだったろう。
誇り高い九尾の狐、こんな老人に土下座をするのはどれほどの屈辱だろう。
立ち上がった藍は服についた砂を払い、バツが悪そうに目をそらした。
「私の力が足りなかっただけだ。貴女達は自分の為すべきことを為したのだろう」
「……確かに平和にはなったよ、しかし……」
「貴女達も大きな宿命を背負って生きているのだな」
「宿命……?」
藍には妖忌の言っていることがよくわからなかった。
「まぁ、いい……して、今日は何の用だ? まさか謝りにきただけではあるまい」
「……察しがいいわね」
それまで居心地悪そうにしていた藍の表情が変わり、真剣な眼差しを妖忌に向ける。
妖忌は黙って藍の目を見つめ、その先にある言葉を催促した。
「幽々子は死に、今は冥界にいる。あの桜と共にな」
「そうか、幽々子様は達者でやっておられるか? ……いや、死人に達者も何もないか」
「死んだというよりは、生まれ変わったと言った方が的確かもしれない。幽々子には生前の記憶が全く無いよ」
「……消極的な見解かもしれぬが……」
「ええ、生きていた頃よりも、ずっと幸せにやっている」
それを聞いて妖忌は少し悲しそうに微笑んだ。
幽々子を救うには……死なせるしかなかったというのだろうか。
「幽々子の遺体はあの桜の根元に埋めた……大した力だよ、死んでいるにも関わらずあの桜を封印している」
「そうか……」
「掘り起こせばまた同じ悲劇が繰り返されるかもしれない、だから幽々子は転生もできないだろう」
「……」
「おそらく、これから幽々子はあの力を使って冥界を統治することになる」
「死霊を操る力か」
「ええ」
二人は視線をそらし、妖忌が手にした長刀を見つめた。
幽々子の引き寄せたたくさんの死霊を斬った長刀を。
「そこで妖忌、考えてほしい話がある」
「なんだ?」
藍は妖忌の傍らを漂う半霊を見つめた。
そして開かれた口から出てきた言葉は、予想通りといえば予想通りで、けれども驚かずにはいられない内容だった。
春が訪れた。顕界にも冥界にも。
紫は冥界送りにされた彼の桜、西行妖の前に立ち、咲ききらぬその花を見上げている。
冥界の春風が紫の頬を撫でた。自慢の長髪がさわさわとくすぐったい。
「いくらかは丸くなってくれたのね」
西行妖に話しかける。あの後、根元に幽々子の遺体を埋めた。
死してからも幽々子の体は死の力を持ち、これからも未来永劫西行妖を縛り付けてくれるはずだ。
振り返ると楼が見える。
何も覚えていない幽々子が、わけもわからずに暮らしているだろう。
「隔離、ねぇ……」
西行妖も幽々子も、冥界が安住の地のようで、本当に死ぬために生まれてきたのではないか、と思える。
幽々子の力は冥界の管理にはうってつけだろうし。
必死になって幽々子を宿命から解き放ってやろうとしていたのに、宿命に従った方が幸せになれたというのだろうか。
「でもお友達を殺さなきゃいけないなんて、残酷じゃない?」
もっとも、もう幽々子は紫のことも覚えていないだろう。
なんとも皮肉なものだな、と思い、紫は溜息をついた。
桜の根元に座って、空を見上げようとしても。
視界を埋め尽くす花、枝葉。日傘なんか必要なかった。
家に準備しておいたとっくりとお猪口に、空間の裂け目から手を伸ばす。
「冥界の空は眩しすぎなくて良いわ、気持ちが落ち着く」
長年に渡り……いや、妖怪からすればそれほど長い年月ではないのかもしれないが。
幽々子が幼い頃から、成長して自刃するまでの間戦い続けた、紫と西行妖。
長きに渡る膠着状態、それもようやく停戦……西行妖は自分の根元に寄りかかる紫を黙って見下ろしている。
「やっぱり無闇に争うものではないと思うの。あなたはどう? 冥界は落ち着くかしら?」
西行妖の枝葉が風も無いのに揺れた。
舞い散った花びらの一枚がお猪口の中へ、そして酒に浮かぶ。
「あら、風流じゃない」
久々にのんびりとした花見だった。西行妖はまだ随分大きな力を持ってはいるが、冥界にある限り大したことはできまい。
下で眠る幽々子に力を削られているせいか、暴れる気も失せたようだ。
「世の中に、たえて桜のなかりせば……」
つい口ずさむ。
本当に、本当に、この桜には気持ちを乱された。
「……春の心は、のどけからまし」
「……あら?」
続きを言われてしまった。
酒気で赤らんできた顔を上げると、ひらひらと優雅な着物を揺らし、亡霊となった幽々子が歩み寄ってくる。
「見事でしょう? うちの桜」
「ええ、本当に」
佇む幽々子は桜の花びらのように淡い色。
生前の艶やかな黒髪は桜色に、白くて美しかった肌は、さらに、透けるように白くなっていた。
記憶ももう無い。
妖忌と藍がそんな様子を遠目に眺めていた。
妖忌は変わり果てた幽々子の様子に驚いていたが、表情や仕草は生前の頃のまま。
外見が変わり記憶を失っていても、幽々子は幽々子だ、と妖忌は言う。
「このようになることさえも見えていたのか?」
「いや……まぁ、死んだら冥界に行くであろうことは私にも予想できたが、紫様がどこまで計算ずくだったのかは……」
「……貴女の主はいつもそうなのか?」
「え、ええ……大体は行動原理が不明よ」
藍は苦笑しながら頬をかいた。
妖忌も困ったように微笑む。
「だが……ものすごく奥の深い方だ、気まぐれなように見えて、先の先まで見ている」
「そうか、藍殿はそれを信頼しているのだな」
「行動の末に出た結果にはいつも感動させられる……だから敬愛している。
……まぁ、今回のように上手く行かないこともあるが、この結果だって狙ったものなのかどうか……」
「ふむ……もしかするとこの剣」
「ん?」
「私が冥界で幽々子様に再び仕える事も、想定していたのかもしれんな」
「……どうかしらね、私にはそこまでわからない」
「打ったのは藍殿か?」
「相槌だけ、私はそこまで万能じゃないよ」
そこまで話して二人の間に沈黙が流れる。
幽々子が生きて幸せを掴む方法はあったのだろうか?
自分が顕界で立ち振る舞った全ての行動が間違っていたようにさえ感じられる。
西行妖が存在してなかったら幽々子は長生きしただろうか? 妖忌も藍も、同じことを考えていた。
「そうだ」
「どうした?」
「この剣の銘を考えた」
「ほう? どんな?」
妖忌は楼を眺める。自分はこれからこの楼とそこに住む幽々子を見守る存在。
そしてそんな自分が振るう剣が白楼剣、そしてこの長刀……。
「楼を観る、と書いて楼観剣」
「ははっ、なるほどお前らしい」
……楼観剣。
笑われて少し戸惑った妖忌だが、藍の顔には嘲った様子など微塵もない。
「良い銘だ。顕界ではろくに出番が無かったが、これから存分に役立ててほしい」
それはまるで妖忌自身。その穏やかな、優しい目で幽々子と楼を見守っていくのだろう。
結局、紫が何を考え、何をしたくてこの一連の事件に首を突っ込んだのかははっきりしない。
本人の発言と前後の状況を整理すると、
「なんとなく」「友人を見捨てておけない」「人間と妖怪双方の平穏を保つため」
こういった理由に集約されてくる。
そして三番目の理由が一番筋が通っていると藍は考える。
ところが一番目の理由と考えると、これまたしっくりくる。
二番目は……果たして幽々子が紫にとって「友人」と呼べるほどの存在であったかが問題になってくる。
藍は、自分自身の動機もこの三つに集約されると思う。
ただ、幽々子に対しては友人という認識は薄かった。単に情のうつった人間、と言った方が的確だろうと思う。
最終的に藍は三番目、人間と妖怪双方の平穏を守るため、を動機として妖忌の行動を妨害するに至った。
紫がそう命令したという部分も大きい。もしそう命令されなければ……紫が己の主でなかったとしたら。
そのときは妖忌と共に、紫と幽香を相手にする羽目になっていたかもしれない。
(勝ち目はないわね)
紫か幽香、どちらか片方を二人で相手したとして手に余る。
まして両方などお話にならない。妖忌共々、行く先は地獄かはたまた冥界か。
(この結果も、紫様の望んだものなのか?)
ここまで……幽々子が死んで、冥界に留まるところまで見越していた可能性は大いにある。
藍でさえ予測できていた状況だ、紫にわからないはずはないだろう。
そしてこの状況が幽々子にとっての平穏であることもまた、紫にはわかっていたかもしれない。
しかし、ならば何故あそこまで必死に抗ったのか……紫は、疲れたり、血みどろになったりするようなことは嫌う性格だ。
のんびりと構え、小手先の能力で情勢をコントロールするのを好む性格だ。
西行妖がからんだことにより、それの封印も考慮に入れたとして……。
それでも、幽々子を守ろうと動いたことに説明がつかない。
あんな幼い頃から藍に見張らせ、時には妖忌をも利用し、果ては自分で西行妖を監視したりして……。
(まぁ、それでもついていくしかないのですけれども……)
考えるだけ無駄なのかもしれない。
紫が見通しているのは数年先という次元ではないのか、数十、数百年先まで……。
そんな紫と幽々子は西行妖の元で二人、並んで座っている。
「死人じゃない人が冥界にいるなんて珍しいわ」
「死人じゃないけど人でもないの、妖怪だから」
再度空間の裂け目に手を伸ばし、幽々子にもとっくりとお猪口を渡す。
幽々子は着物の袖で少し口元を隠し、目で笑ってからそれを受け取った。
「面白いことができるのね、ふふ」
「いえいえ、貴女ほどじゃないわ」
幽々子に酌をする。変わってしまったものだ。
ましてやこのように酒を酌み交わす日が来ようとは思いもよらなかった。
「私は八雲紫って言うの、貴女のお名前も教えてもらえないかしら?」
「私の名前? 幽々子、西行寺幽々子よ、紫さん」
「お友達になりませんか?」
それを聞いた幽々子は目を丸くして少し呆然とした後、口元に指を当てて空中に視線を泳がせた。
「どうかしたの? お友達になるの、嫌かしら?」
「ううん、そういうわけじゃないけれど」
お猪口に口を付けながら、ふと思い出したように幽々子の眉がぴくりと動いた。
そしてお猪口から口を離し……まるで詠うように、澄んだ声で呟く。
『そんなの、口約束することじゃないでしょう?』
「……幽々子……?」
「なんだか、どこかで聞いたことがある言葉」
幽々子が微笑み、手を伸ばす。紫はそれにそっと手を合わせた。
幽々子の手はとても冷たかったのに、とても温かく感じた。
個人的には意外に思えた登場でありながら、
あくまでも妖怪三昧な幽香と言い、お見事です。
十分に楽しませていただきました。
冥界の統治に絡めて、映姫様がちょこっとでも出てきてくれたら嬉しかったなぁ~
どのキャラも原作のイメージ(主観ですが)を壊さず、それでいて原作にはないシリアスな物語
全く調和しないような二つが見事に合わさっていて
思わずこんな時間まで読んでしまうほどのめり込んでしまいました。
お見事。
あ、でも俺の記憶では
生前から紫と幽々子は親友だったはずなのでそこの描写がもう少しほしかったです
関係が少々薄すぎる気がしないでもないです
それとも藍サイドのときとかに普通に会ってたとかでしょうか?
見落としてる場合もあるのでその時はご勘弁をー
幽々子に親心のようなものを抱いたりと何処か人間臭さのある藍が個人的にツボでした。
ゆうかりんの絡ませ方もとてもうまいと思います。
徹夜した甲斐があった!
泣けた
でもどうしても妖忌×藍な雰囲気に見えてしまう自分は汚れているのだろうか?
自分で言っててなんですが、妖忌×藍なんてまずないしなあ……。
紫については違和感大きかったですが
これ以上言いようがありません
悲しかったけど、終わり方に優しさを感じました。
藍さまはやっぱり藍さまなのですね
そういえば、実際に西行法師は預けた自分の子供の様子を見に行くも親の顔を知らぬ子供に「怖い人がいる」といわれていたらしいですね。
うーむひょこっと現れる実際の西行法師の話+幻想という組み合わせに脱帽するばかりです。
前の方と被る部分も出てきてしまいますが、各キャラがとても上手く関係していて、読了後の余韻も最高でした。
感動する作品をありがとうございます。
ここまでくると、ありがとうございました。っていうべきかもしれません。
幽々子様と紫様の思い、紫様と幽香の関係と見ごたえありました
ブラボー、おおブラボー・・・
幽々子様が死ぬ間際に友人となった二人、
死してからまた友人となった二人に乾杯
所々に未熟な部分が見え隠れする妖忌がすごく良かったです。
主のために奔走するところが、まるで妖夢のようで。
残念だったのは、前の感想のとこにも書きましたが、生前のゆかりんとゆゆ様の絡みが少なかったことかな。これだとゆかりんが西行妖を力ずくで破壊しようとした動機が薄いというか。
まぁ、なんとなくっていうのも、ゆかりんらしいといえばらしいのですが。
良い作品をありがとう!感動をありがとう!
次回作も期待して待っています!
最後にもう一度、「ありがとう」
実在する和歌を使うとは……お見事です。
素晴らしい作品をどうもありがとうございました。
読了したときはスタッフロールのさくらさくらが脳内再生するほどに。
幽香との絡みも上手かったです。
素敵な作品をありがとうございました!
ゆゆさまーーーー!