●序章『友達』
京から少し離れた山奥に、見事な桜があるとの噂を耳にして。
それなら是非そこで花見をしようと、離れた土地へ足を伸ばした。
澄み渡る夜空には、数多の星が競い合うように輝いている。
満月もそれらに負けじと攻撃的に輝いているように見えた。
「これはいけませんね、体が熱い」
「少し落ち着きなさい、藍……満月を見にきたわけではないし、お酒もほどほどになさい」
「いや……それだけではない気がするのです、この桜……」
輝く星々も真っ白い満月も、その桜の前では霞んで見えた。
巨大すぎる、美しすぎる。藍は先ほどから無意識のうちに九尾の毛が逆立つのを感じていた。
「そうね、この桜……」
「やはり私の思い過ごしではありませんか」
「この桜、人が見るには美しすぎる気がするわね、そしてこの満月は貴女が見るには美しすぎるわ」
「まったくです、目眩がする」
ギラギラと目を輝かせ、尻尾の毛を逆立てる藍を見て、紫はクスクスと笑う。
「とんだ夜桜になってしまった……これでは落ち着けませんね、申し訳ございません」
「別に良いわよ藍、たまにはこういうのも悪くないわ。そこらで人でも襲ってきたらどう?」
「ご冗談を、いたずらに人を襲うのは性に合いません」
「流石、私の藍ね」
紫は愉快そうにしているが、藍は体に感じる疼きを持て余している。
ただ満月を見ただけではここまではならない、やはりこの巨大な桜には何かしらの魔力があるのだろう。
藍がいつも以上に輝く瞳でその桜を見上げると、吸い込まれてしまうのではないかという錯覚さえ覚えた。
「どうにも、素直には楽しめない桜だが……」
「どうしたの?」
「やはり、この魔力に当てられている妖怪がこの周辺には多い」
「そうねぇ、今は引っ込んでしまっているようだけど」
「そして立地条件も考えると、人間はそう簡単に近寄れないでしょう」
「かしらね」
この夜桜の一等地、他の妖怪が寄ってこないのは紫と藍を畏れてのことだろう。
人間だって桜が大好きだから、この桜を見に来る者は居るかもしれないが……。
そのときは藍と違って躊躇無く人を襲うような、凶暴な妖怪に食われたりするかもしれない。
藍の傍らで紫も桜を見上げる。
月明かりに照らされて仄白く映るその顔から、薄ら笑いは消えていた。
そして呟く……それは消え入りそうな細い声なのに、藍の耳にはとても重苦しく響いた。
「けれど、真に恐れるべきはここに集まる妖怪などではないの」
急に真顔になった紫を見て、藍は気分の高揚が一気に冷めるのを感じた。
後にこの桜はおびただしい数の人間の墓標になり『西行妖』と名付けられることとなる。
それから一年近くが経った、桜も咲くか咲かぬかの時期。
紫は火鉢の前で大きなあくびをしている。
少し早く起きすぎただろうか、と微かな後悔が寝ぼけた頭の中に浮かんでいた。
「はぁ、ふ……まだ冷えるわねぇ……」
そう言って眠そうな目をこすり、火鉢の側で横になる。
寝起きの紫に食事を運んでくる藍は、それを見て眉をひそめた。
「何を言ってるんですか、ほら食べてください。冬の間にあったことも報告しなければいけませんし」
「二度寝させなさい、これは命令よ」
「ご冗談はおよしください、せっかくご飯作ったんですから……」
「んもぉー」
藍は紫の腕を引っ掴んでその身を起こそうとする。
久しぶりで寂しがっているのかしら、と思った紫は特に抵抗せずに身を起こした。
「では今年の冬、目に付いたことをご報告いたしますよ」
「食べながら聞いて良いのかしら?」
「ええ、どうぞ」
藍の話はどれもこれも大したことではなかった。
やれどこぞに小物の妖怪が棲みついたとか、偉い人間が病気で死んだとか。
およそ自分達には関係の無い話ばかりで、把握しておく必要があるのかすら危うい。
それでも藍は両手をそれぞれの袖に突っ込み、胸を張って紫へ報告を続ける。
心底退屈だな、と思いながら、紫は味噌汁を啜った。
「大したこと起きてないわねー……」
「まぁ一冬に起きる事など高が知れていますよ、人間も寒いからあまり動きたくないんでしょうかねぇ」
「ああ、今年の桜はどう? また行きたいじゃない、花見」
藍の大きな耳がピクリと動き、表情が強張った。
それを見て紫は何かまずいことでも言ったのかと思ったが、今の言葉にそんな心当たりは無い。
「最後に話そうと思っておりましたが」
「うん?」
「あの桜と似た霊力を感じる娘を発見いたしました」
「似てるって……どういうこと?」
「それが……」
藍にも上手く説明ができないようで、口元に手を当てて視線を泳がせている。
「感覚で似ていると感じた、そうとしか言えませんが……それだけが問題ではないのです」
「問題ねぇ」
「あの力は人間には少々大きすぎる。巫女や何かならあのぐらいの力を持っていても問題無いだろうが……」
「違うのね?」
「ええ、身分の高い者であることは確かなようですが」
「どのくらいの歳なの?」
「まだ幼児ですね、今のところは恐らく問題無いはず」
「心配しすぎじゃない? そんな悪そうな子だったの?」
「いえ、愛らしい普通の娘でしたよ……だが感じる霊気、いや妖気とでも言った方が的確かもしれない」
「それが嫌な感じだったと」
「あの桜に似ているのです。何か禍々しさがある」
「なるほどねぇ」
正直な話、紫はその話をそこまで深刻には捉えなかった。
しかしこの藍の様子は普通ではない、式神とはいえ妖怪としてはかなりの上位。
その藍がここまで警鐘を鳴らしているのだ、きっとただ事ではないのだろう。
紫は食事をとりながらだったため、藍とは目を合わせずに下ばかり向いて話していた。
だがそこまで話して黙り込んでしまった藍を見ると、何かを求める視線を自分に向けているのに気付いた。
「……お花見、行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」
ついでにその娘も見てくるか、と思い紫は箸を置いた。
食器の片付けを命じようと藍の顔を見ると、まだ神妙な面持ちで自分を見ている。
「……まだ何かあるの?」
「紫様、頬に米粒が」
「あらやだ」
藍はようやく表情を緩めると、食器を台所へと運んでいった。
少しの間桜の時期を待った。火鉢はもう片付けられている。
二人はまたあの桜の下に来ていた。前回と違うのはそれが昼時であることぐらいだろう。
月が出ていると興奮してまともに見られない、という藍の意見を汲んでのことだった。
満月の時期さえ避ければ良いような気もするが、たまには昼の桜も良いだろうと言う紫の意向もあった。
「やっぱりすごいわねー、この桜は」
「本当に、これほど見事な物は他に見たことがありません」
優しい春風が二人の髪を揺らす、花びらもはらはらと宙を舞った。
しかし二人の表情は硬い。
「力を増している」
「そうね」
自然界のものは長く生きれば力を蓄える。
人間もその例にもれない。もちろん妖怪もだ。
逆に言えば、それだけの潜在能力を持っていたから長く生きる権利を掴めたとも言える。
この桜の幹の太さ、枝葉の多さ、一体どれほどの年月を生きればここまでになるのだろう。
「この桜、ここに在ってはダメね」
「やはりそう思いますか」
二人と桜の間に、春の陽気に似つかわしくない冷えた風が流れた。
藍は思わずその拳を握り締め、紫は日傘を持ち直す。
「……嫌われてしまったみたい。行きましょうか、藍」
「ええ……」
この桜は意思を持っている。
そしてそれはこの雄大さに似合わず、随分と幼いようだ。
『ここに在ってはダメ』という紫の言葉は、短いようで多くの含みを持つ。
藍の言った立地条件や、この界隈を跋扈する小物妖怪の危険さ。
だというのに美しすぎるこの桜は人々を魅了し、呼び寄せるだろう。
たくさんの血が流れるのが目に見えるようだった。
そして運良く……いや、運悪く、か。ここまで辿り着いた人間はどうなるのだろう。
想像したくもなかった。
背を向けた二人に、桜から放たれた見えない刃が飛ぶ。
それは紫の結界に遮られ、パシッと小さな音を立てて弾け飛んだ。
「……あまり調子に乗るなよ」
藍が肩を怒らせて睨み付けると、桜の枝葉が轟々と空気を揺する。
そこにあるのはもうただの雄大な桜ではなく、力を持て余す禍々しい妖怪だった。
今度は件の少女を見に行くことになった。
とはいえ人里近いので昼間に行くわけにもいかない、二人は夜の帳が下りてから向かうことにした。
「ふわぁ~」
「時間になったら起こしますから、少しお休みになってはいかがです?」
「ん~? いいわよ、半端に寝るとかえって辛いの」
紫は仰向けに寝転がり、少し目をしばたたいてから呆けたように天井を眺め始めた。
何か考え事をしているのか、はたまたそのまま寝るつもりなのか、どちらにせよ邪魔するまいと藍は黙っている。
「あの桜……潰しておいた方が良いのかしらねぇ」
「潰す……のは少々やりすぎかもしれませんが、何か手は打った方が良さそうですね」
元来の穏やかな性格ゆえか、藍は人間のことが嫌いではない。
変に刺激しなければいろいろと便利なものも持っているし、気の良い人間もいる。油揚げも美味い。
だからあの桜が意味も無く人間を虐殺する存在になれば、排除もやむなし、と思う。
一方の紫は、あの桜に何らかの処置を行うことに明確な動機を見出せずにいた。
他の妖怪が多少人間を殺すようなことがあっても自分にはそこまで関係の無いことなのだ。
人間と妖怪の関係は、実に絶妙で曖昧なバランスを要求する。
長く生きる妖怪の身としては、そこを乱すようならあの桜には粛清が必要だろうと思う。
だがそれさえも、何も自分がやらずとも他の妖怪がやればいいのでは、と思わないでもない。
そしてあの桜をどうにかするには、相当な困難が付きまとうであろう事が予想できた。
放っておいても何も起きない可能性もあるわけだし、いきなり攻撃を仕掛けるのは自分勝手だろう。
本当に気に入らなければすぐにでも破壊するが、あの美しい桜を破壊するのは躊躇われる。
「どうしようかしらねぇ……」
「難しいところですね」
「人間同士が争って大量に死ぬのは別に良いんだけど……」
「妖怪が絡むと別ですか」
「妖怪がある程度世の中を操作するのは別に問題無いと思うの、人間はやたらに攻撃的でない限りは放置しておけば良いし」
「確かに、攻撃されては反撃せざるを得ません」
「そしてそれは人間側にしても同じことでしょ?」
「そうですね、彼らにだって生きる権利はあるでしょう。まぁ私にはよくわかりませんが」
「小物ならほっといても人間に退治されるから、これもまた放置で良いわけだし」
「あれは……大物ですね」
「そうなのよ~」
なんとかできそうな人間がいればわざわざ自分がどうにかすることもない……と思うのだが。
どうあれ、あの桜が問題を起こせば被害は並々ならぬものになるだろう。
「一口に大物とは言うけれど、大物ならもう少し腰を落ち着けてほしいものだわ」
そう言って頬を膨らませ、紫はごろんと寝返りを打った。
藍はそんな紫を見て、腰が落ち着きすぎるのもどうなんだろうなぁ、と思った。
「とりあえずは少し様子を見ましょうか。藍が言ってた娘のことも気になるし」
「そうですねぇ」
日は落ちたが動き出すにはまだ早い。
茶をいれに行っている間に紫は寝息を立てていた。
起こすのに苦労しそうだな、と思いつつ、藍は二人分の茶を啜った。
その後二人は宵闇に紛れて、藍の言っていた娘の住む屋敷へと向かった。
京から少し離れた町、田舎と言うにも都と言うにもどっちつかずで中途半端な規模。
だが案外この程度の土地の方が住みよいところもある。
その中にあって、この屋敷は立派だ、敷地も広い。これほどならばいくらかの従者も抱えているだろう。
紫は、広い庭でその娘が遊ぶ姿を想像してうっすらと微笑んだ。
「確かに大きな力を感じるわね」
「でしょう?」
「そしてあの桜に似ているということについても同感よ」
二人は音を立てずにスッスッと廊下を歩く。
「でももう一つ大きな力があるわね、これは何かしら?」
「ああ……言い忘れていました。少し変わった庭師がいるようです」
「どう変わってるの?」
「なんと言うんでしょう、他に類を見ないので説明が難しいですね」
「はぁ、なんか藍ったら最近そればかりね」
「す、すいません……で、庭師とは言え剣士のようでして、おそらくそちらが本業なのだと思うのですが」
「ふーん」
紫が気の無い返事をしたところで二人は立ち止まった。この部屋の中にその娘が居る。
「えい」
「ゆ、紫様……ダメですよ障子に穴を開けては」
「どれ、どんな可愛い子なのかしら」
「聞いてくださいよ……」
紫は目の前の障子に指を突っ込んで無遠慮に穴を開けた。
そしてぺろっと舌を出して嬉しそうにその穴を覗き込む。藍は後ろであたふたしていた。
中に居た少女は、真夜中だというのに起きていた。
そしてぱっちりとした目で障子の穴から覗く紫色の瞳を見つめていた。
布団から上半身を起こして、恐れる様子もなくただ不思議そうに。
「あ……バレていたみたいなの」
「……ぅー」
横で小さく呻いた藍をよそに、紫は躊躇うことなく障子を開けた。
少女は泣きも叫びもしない、歳は五歳になるかならないか……。
「狐さん」
「ん? あぁ……藍のことね」
「らん?」
なるほど、まるで無邪気な普通の少女だ。興味深そうに藍を眺める様子も可愛らしい。
しかしここまではっきりと目が覚めているということは、紫と藍に大分前から気付いていたということだろう。
そして紫がその身に感じる力、神職者などのものとは大分違う。
妖怪に近い……それも、あの妖怪桜にとてもよく似ている。藍が気にかけたのもわかる気がした。
「おい、よさないか……痛い、痛い」
「ふふふ、良いじゃないの藍」
耳を引っ張られたり、尻尾に抱きつかれたり。
気付けば少女はいつの間にか笑顔になっていた。
「子供向けの外見なのよ、藍は」
「外見に子供向けも大人向けもないでしょう……いたた」
「さて遊んでばかりもいられないわ、件の庭師が私達に気付いた」
「そのようですね……この子程じゃないが随分勘が良い」
「行っちゃうの?」
少女は藍の尻尾に抱きついたまま切なそうに問いかける。
藍はそんな少女を見て、紫が無遠慮に彼女の前に姿を現してしまったことを少し恨んだ。
「私、幽々子って言うの、お名前教えて」
「何故?」
「え……」
紫が冷たい調子で言い放つと、幽々子は涙ぐんだ。
藍の名前は先ほどのやり取りでわかっていたらしく、幽々子は紫を見つめてそう言ったのだが……。
「お友達が欲しいから……」
「そう」
素直な子だな、そう思い、紫は優しく微笑んで幽々子の頭を撫でる。
そして先ほどとは打って変わって穏やかな調子で語りかけた。
「紫よ、幽々子さん」
「ゆかり……」
「では、さようなら」
庭師の気配がどんどん近付いてくる、時間が無い……紫と藍は目を見合わせ、小さく頷いた。
そして空間に裂け目を作り、藍を先に行かせて、自分もその中へと。
そのとき、背後から小さな声が聞こえたような気がした。
「お友達に……」
紫は最後まで聞き取らなかったし、返事もしなかった。
つまりはそういうことなのだろう。
少しして到着した庭師は、鞘から抜いた刀を物々しく構えながら部屋に駆け込んできた。
初老の男性のようだがその体は鍛え上げられており、着物の上からでも逞しさが見て取れる。
「幽々子様!!」
「妖忌」
「何事です!? このおぞましい妖気……何がありました!?」
「何もなかったよ?」
「む、ぅ……?」
確かに周囲に残留する妖気は今まで感じたことのない強大なものだ。
だが幽々子は何ともないし、障子に一つ穴が空いているぐらいで何かが破壊されているわけでもない。
幽々子が嘘をついている様子もないし……それよりも、悲しそうな表情が気になった。
「誰かが来たのですか?」
「ゆかりとらんが来たよ」
「ゆかり? らん? 何者ですか?」
「よくわかんないの、でもらんは狐さんだった」
「狐……?」
なるほど、妖狐か……相当長い年月を生きてきたのだろう、そうでなければここまで強烈な妖気を残していくまい。
だが一体何の用で来たのか。長く生きて知能をつけた妖怪は人間に関心が無くなるか、気高き故か、あまり人を襲わなくなると聞く。
おそらくそういった類の妖怪が幽々子の元を訪れたのだろうが、なまじ何もされていない辺りに不安を感じる。
やはり幽々子の力に興味を持ったのだろう……それは幽々子が何か問題を起こすことを暗に示しているように感じた。
「ねぇ、妖忌」
「はっ」
「妖忌は私のお友達?」
「幽々子様の友人だなどと畏れ多い、私はただの庭師にございます」
「そうよね……」
言ってしまってから失敗したと思った。
嘘をついてやるべきだったか……庭師、魂魄妖忌は、胸にチクリと何かが刺さったような痛みを覚えた。
家に戻った二人は酒を酌み交わしていた。
藍は遠慮していたのだが、紫の強い勧めがあっては拒否しきれるものではない。
紫よりも幾分早く酒が回り、赤ら顔にトロンとした眼が垂れ下がっている。
「なるほど」
黙々と飲んでいた二人だったが、突然紫が神妙な面持ちで呟く。
藍は緩慢な動作で紫の方を向き、座った目で紫の顔を見つめた。
「尚更放っておけなくなったわ、あの桜」
「何故でしょう?」
「あの子の力は死霊を操るもの」
「……」
あの短い時間でそこまで見抜いたのか、やはり自分の主はすごい妖怪だ、と藍は再確認する。
それで一瞬目が覚めたが、すぐにまぶたは重くのしかかってきた。
「いずれ人を呪い殺すようになる」
「馬鹿な、あんな素直な子が」
「素直な子だからよ」
空になった藍のお猪口に紫が酒を注ごうとする、藍はやんわりと拒否したが無理矢理注がれてしまった。
そして無言で返杯を求め、藍にお猪口を突き出した。
「いけないわねぇ、あの性格にあの境遇」
「まぁ……そういうことにしておきましょう。しかしあの桜と何の関係が?」
「鈍いわねぇもう……あの桜は人を狂わせ、死に誘う力を持つの」
お猪口を口に付けたまま藍の動きが止まった。
そうか、似ていると思ったのはそれ故か……ようやく辻褄が合った。
紫は注いだばかりの酒をくいっと喉に流し込み、さらに続ける。
「藍」
「なんでしょう」
「あの子を見張りなさい」
「……わかりました」
やはりこうなったか、と思い、藍は少々乱暴にとっくりを掴もうとした。
だが紫がそれを制して、藍のお猪口に酒を注いでやろうとする。
「手酌なんて水臭いじゃないの」
藍は釈然としない様子で酌を受け「むぅ」と一言唸って黙り込んでしまった。
見れば紫はいつもの薄笑いを浮かべている。何を考えているのか藍には全くわからなかった。
「桜だけならば、どうするか悩んでばかりだったと思うの」
「あれは危険でしょう」
「確かに危険だけどね、それはまだ幼いからっていうのがあると思うわ」
力をつけて多少の問題は起こすかもしれないが、その後自ら沈静化する可能性もある。
若くして力をつけた妖怪なんて得てしてそういうものだ。紫はそれを身をもって知っていた。
それでもどうしようもない妖怪は、更なる強い力を持った妖怪に仕置きされ、しばらく監視下に置かれる。
今回はそういうケースだろうと紫は思っていたが、幽々子の登場によって雲行きが怪しくなった。
「まぁ、それはそうなんですが……」
「なんだかねぇ。藍、すっきりしないでしょう?」
「ええ……」
「私もまだよくわからないのよ。けど、ものすごく嫌な予感がするの」
「はぁ……?」
冗談抜きで困っている紫の表情は、久しぶりのものでとても新鮮に感じられた。
願わくば、紫の勘が当たらないでくれればいいのだが。
ともあれ藍は幽々子の監視をすることになったが、紫に「あまり近付いてはダメよ」と釘を刺された。
明確な理由は説明されなかったが、それが人間と妖怪の境界と言うことだろう。
酔いで体が火照っていたこともあって、その日は酷く寝苦しかった。
紫と藍の訪問から数日後、幽々子の身辺にも大きな変化が訪れていた。
「幽々子様を養女に?」
「そうだ、京の格式ある家柄だよ、きっとここにいるよりも豊かな生活を送れるだろう」
「しかし……」
そう言いながらも、男の服装を見るにこの家も並々ならぬ上流階級であることが窺える。
その男の前に跪いている銀髪の男の横には、何やら白い球体がぷかぷかと浮かんでいる。
銀髪の男はあの晩幽々子の元へ駆けつけた庭師、魂魄妖忌だった。
「妖忌、お前ほどの男がいつまでもこんな所に居るのも勿体無かろう」
「そのお気持ちはありがたいですが、何も私を気遣うことなどありませぬ」
「兄上に任されたあの娘……今に私の手には負えなくなる」
「……仰ることはわかります。ですがそれについては私が……」
「普通にしていれば愛らしい娘だとは思うのだ、成長する様を見守りたいとも思う……」
「だが、幽々子様には死霊が見える。その力の成長までも見守ることはできない、と?」
男は妖忌の目を直視することができなかった。
しかし妖忌もそんな男を強く責める事はできずにいる。
死霊は己の姿が見える者に近付き、訴え、救いを求める。
妖忌は庭師の仕事と並行して幽々子に近付く死霊を愛刀、白楼剣で切り捨てていた。
(最近はこの辺に随分死霊が増えた……)
自然に増えたものではないだろう。
死霊の間での噂で、自分の話を聞いてくれる人間がいるから……ということも無くはないかもしれない。
しかし、
(幽々子様が呼び集めているのだろう……)
妖忌が見るに、その仮説が一番有力だと思う。
死霊達は妖忌が現れても怯えず、抵抗することもなく、されるがままに切り捨てられるだけだった。
まるで己の意思を持たぬかのように、幽々子の側で虚ろに揺らめくのみだった。
幽々子が呼び寄せ、操っている……考えたくはないが、そう説明すると辻褄が合う。
死霊を集めてままごとをしていたときなど、恐怖で鳥肌が立った。
「どうした、妖忌……?」
「いえ、なんでもございませぬ」
「とりあえず今日のところはここまでだ……幽々子の様子を見てきてもらえるか?」
「はっ」
妖忌は男に一度頭を垂れて、すぐさま幽々子の元へと向かった。
庭で遊ばせておいたからそこに居るはずだ……妖忌の足取りは無意識に速くなる。
まだ幼い幽々子は、どれだけ危険なことかもわからずに死霊を玩具代わりにしてしまう。
幽々子に操られる死霊だけなら心配ないかもしれないが、それだけとは限らない。
(まさか、こんな少し目を離しただけで危険に見舞われてることもあるまいが……)
妖忌は駆け出した。
その手は白楼剣にかかっている。
幽々子は大人しく庭に居たようだが若干様子がおかしかった。
何をするでもなく、門外に視線を送って佇んでいる。
周囲に死霊は見当たらない、死霊遊びをしていたわけでもなさそうだ。
妖忌は訝しがりながら幽々子に駆け寄った。
「幽々子様」
「……」
「幽々子様、どうなさいましたか」
「あ、妖忌……あそこにお坊様がいるの、怖いから中に入る」
「ん……? あれは……」
妖忌が幽々子の言った方角に目を向けると、確かに一人の僧侶がいた。
門外から少し嬉しそうな、悲しそうな目で幽々子を見つめている。
距離としては大分遠くに居たのだが、幽々子の言葉が聞こえたのか、そそくさと立ち去っていった。
(……未だ未練は断ち切れませぬか……)
僧侶の居た場所に長い視線を送る妖忌の腕を、幽々子がぐいぐいと引く。
妖忌は幽々子の肩に優しく手を置いて、家の中へと連れて行った。
その男は有力武士の家系に生まれた。
そして、更に上流階級である有力貴族の精鋭に選ばれた。
文句の付けようのない地位、豊かな生活、周囲からの評判も良く出世も約束されていた。
妖忌はその男の部下として働いていた。出会いもそれによるものだった。
男は大らかで誠実、剣の腕もたつ。
ところがどこか不器用で愛嬌があった、妖忌はそんな男を見て自分に似たものを感じた。
男もそうだったのだろう。自然に二人の仲は深まり、男同士の付き合いをするようになった。
男は妖忌の生い立ちを聞いて、自分より遥かに長く生きる妖忌を人生における先輩として扱った。
片や妖忌は、その男を自分の上司として敬った。
誠実だが不器用な二人の付き合いは周囲からは滑稽なものに見えたかもしれない。
男は文武両道であった、武士としての確かな腕の他、歌や自然を愛する側面を持っていた。
彼の歌は技巧的に優れていると言うよりは、何か人の情に訴えかける温かみや儚さがあった。
妖忌も、常々そんな男の才覚に驚嘆していた。その才覚が何に由来するかなど考えたこともなかった。
ある日突然、男は世を捨てた。
原因は妖忌にもよくわからない。あれだけ親しかった妖忌にさえ話そうとしなかったのだ、誰にもわからないだろう。
何不自由ないはずだった、何もかもに恵まれていたはずだった、なのに何故?
心当たりが無いでもないが、本人の確認を取ったわけではないので不確かである。
男はどこか危なっかしさもあった、心が弱いとまで言うと過言だが、神経質で傷付きやすい性格だった。
世を捨てる前後に妻が急死したという話も聞いた、そこから人の儚さを見出した可能性もある。
そして何より、恵まれた生活に満足していない様子が多々見受けられた。
詳細については語ってくれなかったが、男は最後に頼みごとをした。
「この娘は私の弟に預ける事になっている、しかしどうか、お前も一緒に世話をしてくれないか」
と。
それだけの信頼を寄せられていることは妖忌にとっても光栄なことだった。
しかしどこか納得の行かない部分も残る……男が世を捨てる、すなわち出家する理由が明確にわからないのも一つだ。
とはいえそれについては言及するつもりもなかった、娘の面倒を見るという大義はあれど、頭の悪い男ではない。
妖忌にはそれを知る権利があったかもしれないが、疲れ果てた様子の男を見ていると、問い詰めるのは少々酷な気がした。
だが実際にその娘の身辺の世話を始めて、妖忌は事の重大さに気付く。
そして何故自分が選ばれたのか、ということも。
その男の娘、つまり幽々子は普通の人間には無い特殊な能力を持っていた。
死霊を操る力、まだ言葉もおぼつかないような娘でありながら、その力は既に大きなものだった。
男は他に友人がいないわけではなかったが、その中で妖忌を選んだ理由……。
それは家宝である白楼剣、そして妖忌の力を見込んでのことだろう。
友人の中で、もっとも信頼を寄せられていると言う自負も無いではなかったが。
男の身勝手さにいくらかの怒りも覚えた。
自分のことは良い。だがこの娘、幽々子はどうなるのだ、と……。
(このように未練がましく様子を見にくるぐらいならば、何故最初から出家などしたのですか……)
しかしそんな怒りは、男の悲しそうな顔を見て失せてしまった。
次の瞬間には、自分はただ幽々子を守るのだと言う使命感が燃え上がっていた。
「ねえ、ゆかりとらんはもう来ないのかな?」
「さぁ、わかりませぬな……良い子にしておれば来てくれるかも知れませぬぞ」
「ほんと?」
妖忌はそれに答えることができず、ただ微笑みを向けるだけだった。
たこだらけで無骨な自分の手を握る、小さくて瑞々しくて温かい手。
それはとても脆く、儚いものに思えた。
そして皮肉な話だが、幽々子が問題を起こさない限りは紫も藍も姿を現すことは無いだろう。
そう思うと妖忌は胸をきつく締め付けられる思いだった。
(すまんな……私はお前の友達にはなれないんだよ)
気配を殺して庭の片隅からこっそりと覗いていた藍も、悲しそうに溜息をこぼした。
それから数週後。
主人、つまりは幽々子の叔父の部屋に妖忌と幽々子が呼び出されていた。
養女として差し出す話を幽々子自身に伝えるためだ。
まだ幼い幽々子には少し難しい話だとも思ったのだが、意外にも即座に状況を理解した。
そして幽々子は目に涙を一杯溜めて拒否した。
「嫌だよ……ここに居たいよ」
「幽々子、とても良い話なんだよ」
「どうしても差し出さねばならぬのですか?」
そんな幽々子の意思を尊重するために妖忌も必死だった。
幽々子を任された責任感もあるし、幽々子自身への情も深い。
「相手方がその気になっている以上、こちらから断るわけにはいかん」
「ならば私がついていくことは……」
「向こうにはよく訓練された従者がたくさんいる。お前の話も聞かせたが、今更年寄りなどいらんと言われた」
「バカな! そこらの若者よりも働ける自信はあります!!」
「向こうはそうは見ていない、それが全てだ」
「くっ……」
「妖忌ぃ……」
友達ではないが、妖忌は幽々子にとって大切な家族だった。
叔父はどこか自分を避けているような態度だったが、妖忌は違う。
見つめるその目には「ついてきてよ」という哀願が込められている。
そんな幽々子を見ていると妖忌の額に脂汗が滲んできた。なんとかならないものか……。
「幽々子、向こうにはここと違ってたくさんの人間が居る」
「……」
「友達もできるかもしれないぞ?」
「えっ……?」
ただならぬ気配を感じた叔父が妖忌の方へ目をやると、今にも斬りかかってきそうな鬼気迫る表情で睨みつけていた。
こんな純粋な娘の弱みを衝く、汚い大人の気休めの言葉……妖忌には許し難かった。
しかし、そんな自分に怯えて、顔面蒼白になった幽々子の叔父を見て妖忌は我に返る。
そう、自分もまた異形の者で、力を持たない常人の気持ちなど理解できないのだと悟った。
妖忌の顔は見る見る悲しみに満たされ、申し訳なさげに、幽々子の叔父に頭を下げた。
(こうするしかないのか……)
僅かに希望を覗かせる幽々子の顔を直視できない。ギリギリと拳を握り締める。
力はあっても権力は無い……何のために磨いてきた剣術なのだろう。
何を守るための剣なのだろう。
そして幽々子が貰われることが正式に決まった。
もちろん一人きりである。
●第二章『人と妖』
「いらっしゃい幽々子……これからは私を母と呼んで頂戴ね」
優しい笑顔に迎え入れられた幽々子は、周囲の心配をよそに何不自由無く健やかに育った。
茶を楽しみ、歌を楽しみ、蹴鞠を楽しみ……美しく育っていたこともあり、恋も楽しんだかもしれない。
友人もでき、その能力ゆえの不審な挙動も見られなくなった。
特に問題なく数年の歳月は流れていった。
妖忌と違い、たとえ場所が変わっても監視を続けなければならない藍にしたら、それは望ましい退屈だったろう。
しかし、人間に化けて従者に混ざっている藍の表情は優れない。
養女になって数年間は何事も無いように思えたが、成長した幽々子の周囲にきな臭さが漂い始めた。
幽々子を見ていて面白くないと思ったのは、他ならぬ幽々子の養母だった。
血のつながりがないとは言え確かに娘は娘なのだが……幽々子が誉められるたびに、養母は幽々子に嫉妬した。
男達の噂話も幽々子の話題で持ちきり。納得がいかない。
養母は言うまでもなくその家のお嬢様だった、自分より偉い女など居なかった。
男達は皆自分の美しさを褒め称えてくれていた、なのに……。
幽々子が美しく育つであろう事はわかっていたし、そういう理由で養女として引き取った部分も無くはない。
だというのに、いざ育って自分を凌ぐようになったらそれはそれで面白くない。
覚悟や見通しが足りなかったと後悔するよりも、一人の女としての憎悪が先に立つ。
生まれてからのお嬢様育ちでどんくさい幽々子は、蹴鞠がそれほど上手ではなかった。
しかし、失敗してはにかむその様子がまた、たまらなく愛らしい。
そして蹴鞠とは打って変わって幽々子の歌はとても美しくて情緒がある。
それもまた周囲の人々を魅了し、同時に養母の怒りを買うことになった。
しかしそんな状況も、あることを機に大きく変わってしまう。
それは養母の嫁入りだった。
結婚もしていないのに養女を迎え入れるというのは妙な話に聞こえるかもしれないが、実際はそれほど珍しくもなかった。
特に貴族や上流階級は、子宝が望めなかった場合、血は繋がっていなくとも優秀な跡継ぎが必要になってくる。
男ならそのまま家督を継がせれば良いし、女なら政略結婚に使えば良い。
一見華やかな上流階級には、そんな残酷なやり取りが散見できる。
とはいえこの場合は幽々子が政略結婚に使われるというものではなかった。
多少婚期は逸したものの、養母自身の嫁入りである。
「お母様、おめでとうございます」
「あら、幽々子……ありがとう」
養母に向けられた幽々子の笑みは、まさに花のように可憐で優しかった。
養母はそんな幽々子の笑顔を見て眉をひそめそうになったが、ツイッと視線をそらしてごまかした。
急に視線をそらされた幽々子は、不思議そうに目をくりくりさせる。
だが、なんとなくわかっていた。
幽々子は、自慢の娘になるために精一杯の努力をしてきたつもりだった。
叔父や妖忌と離れることになってしまったのは確かに辛いことだったが、優しく迎えられ、
いろいろなことを教えてもらい、快適な生活に美味しい食事……優しかった養母の笑顔。
最近の養母が、自分に対して凍りつくような冷たい視線を投げかけているのは知っていた。
けれどそれが何故なのかが幽々子にはよくわからなかったし、訊くわけにもいかない。
きっと自分がだらしないからだろうと思い、いろいろなことを勉強したが、どうもそれさえも怒りを買ってしまうらしい。
物心つく頃には既に母はいなかった、父もいなかった。
優しくて頼りになる妖忌は、それでも従者としての姿勢を貫く男だった。
叔父は優しいし、想ってくれているのは感じるのだが、どうも自分に対して怯えるような様子があった。
あとは不思議な魅力を持った二人……名前はもう覚えていないが、あの二人が再度幽々子の前に現れることも無かった。
そんな幽々子にとって「お母様」と気兼ねなく呼べる存在は、他の者には想像もつかぬほど嬉しいものだったろう。
――もう一度、あの優しい笑顔で名前を呼んでほしいだけなのに。
それでも諦めず努力に励む幽々子の姿は、あまりにも健気で、悲しかった。
幽々子の身辺は決して幸せと言い切れるものではない。
それでも耐えている様子を見る分に、当分問題は起きないだろうと思い、藍は未だ見に徹している。
自室に篭って沈んでいる幽々子を覗き見るたびに、正体を明かして慰めてやりたくなった。
しかしそれは叶わない、藍に与えられた命は飽くまで隠密行動……越権行為になってしまう。
『あまり近付いてはダメよ』
紫の言葉を深く噛み締める……なるほどこれは確かに情が移る任務だ。
藍にできることは、せいぜいが幽々子の部屋を丁寧に掃除することぐらいだった。
藍が闇夜に紛れて報告に戻ると、紫は居間で酒を飲みながら、顎に手を当てたり首をひねったりしていた。
できるだけ簡潔に報告を済ませたい、紫もそれをわかっているのか途中で口を挟むことは無かった。
そして藍の話が終わると、紫はお猪口をちゃぶ台に置いて話し始めた。
「あまり良くない方向に進んでるわね」
「ええ……人間らしいと言えば人間らしいのですが」
「あの庭師は?」
「たまに様子を見に行っていますが、幽々子が養女に行って以来はずっと腑抜けています」
「頼りにならないわねぇ……」
「あれだけの力があるのにもったいない」と舌打ち混じりに呟き、紫は不愉快そうにズルズルと音を立てて酒を啜った。
「ですがあの状況はただの庭師にはどうしようもなかったでしょう」と藍は弁護する。
そして紫は少し考え込んだ後、顔をしかめながら呟いた。
「近いうちに第一波が来るでしょう」
「だ、第一波? なんと不吉な……」
「まったく最悪だわ、面白いと言えば面白いけれど」
紫はフンと鼻を鳴らして藍にお猪口を突き出した。
藍もほとんど家に戻っていないのでわからないが、紫が何もせずにこうして文句ばかり言ってるのだとしたら随分酷い話だ。
そしてやはり何もしてないような気がして、少々呆れ気味に苦笑しながら酌をした。
「藍」
「は、はい?」
ところが急に酔っ払いの顔から真顔になったので酷く狼狽した。
驚きのあまり酒を溢れさせてしまった藍、紫は不機嫌そうに指についた酒を舐めながら続ける。
「任意であの庭師の前に姿を現すことを許可するわ。だから、あの男に剣を」
「……剣?」
「前から持っているあれも死霊に対してかなりの力を持つようだけれど」
「はい」
「あれ、守り刀としての意味合いが大きいの。長さも大したことがないでしょう?」
「……確かに」
「あれでは有事のときにあの娘の能力に対抗できないわ」
「……」
「私達だけで手が足りない以上、あの男は有効利用するべきよ」
それには藍も同感だった。
あの男、魂魄妖忌は人を超えた力を持ち、対死霊戦に特化したあの剣も、幽々子の力を封じるためのものとさえ思える。
幽々子に対する忠誠心の強さも、身辺を警護する上で必要不可欠な要素だろう。
今は幽々子から離されて腑抜けてしまっているものの、何か事が起こったときには協力願いたい。
そしてあの剣、白楼剣と言ったか……紫の言う通り、死霊に対する威力の高さは申し分ない。
だがそれは飽くまで一対一、妖忌の剣の腕を考えればもっと増えても問題無さそうだが、幽々子の力は現時点でそれを上回る。
数十程度ならなんとかなるかもしれないが、やはりあれ一本では心もとない。
見に行く度に妖忌があの剣を握り締めて祈っていることも鑑みるに、確かに守り刀……何か精神的な側面を持つように感じた。
「剣を用意せよと仰るのですね」
「とびきりのやつを。対死霊に特化して構わないわ」
「了解いたしました」
「でも、任意とはいえすぐに渡してはダメよ……最後まで見定めなさい。
妖怪の作ったものを人間に渡すということはそれだけの危険性を孕んでいるの」
「御意に」
「どのようにして準備するかは貴女に全部任せるわ」
「はっ!」
さらにいくらかの月日が流れ、幽々子の養母の結婚も済んだ。
美しい衣装に身を包む養母の晴れ姿を、幽々子は終始優しい笑顔で見つめていた。
(いつか私にもあんな日が来るのかしら)
そう思うと頬が熱くなる。
祝いにやってきていた周りの貴族の男達の中にも、幽々子目当てで来ている者は少なくない。
養母の結婚で更に強い勢力を持った幽々子の家、そして美しい幽々子、こんな好条件そうはあるまい。
純な幽々子に対し、幽々子を見る男達の目は欲望にまみれている。
「チッ」
藍はいつも通り従者に紛れ、遠目にその様子を眺めていた。ああいう人間達は好きではない。
長いこと幽々子の監視をさせられて、どこか親心に近い感情を抱いてしまっていた。
あんなくだらん男達に幽々子をやるわけにはいかん、と思う。
『近いうちに第一波が来るでしょう』
紫の言葉……何が引き金になるかはわからないが、確かにそんな気配はある。
幽々子を取り巻く環境はここ数年で目まぐるしく変化している。
藍は妖忌の元へ足を運ぶことに決めた、だがあの剣はまだ渡すまい。
妖忌は相変わらず幽々子の叔父の家で庭師をしていた。
剣の修行は怠らないが、昔のように幽々子の集める死霊を斬る事はもう無い。
一仕事終えて縁側に座り込んでいた。
幽々子が居なくなってからと言うもの、何もかもに張り合いが無かった。
親友との約束も守れず、己の信念も貫けず……膝に置いた白楼剣をぼーっと見つめるその目は、酷く澱んでいる。
(幽々子様、音沙汰無いが、幸せにやっておられますか……?)
庭に目をやると、未だに幼い幽々子が一生懸命走り回っている姿が脳裏に浮かぶ。
妖忌の顔を見ると大喜びで駆け寄って来た。転んで泣いてしまったこともあったっけ……。
もう良い娘に育っていることだろう、一体どのような娘に育ったのだろうか……。
突如、一陣の風が吹いた。
舞った砂埃が目に入り、妖忌は思わず目を瞑る。
何事かと涙目をこじ開けると、そこには信じられない光景があった。
「九尾狐……?」
「突然訪ねて申し訳ない、少し話を聞いてもらいたい」
これがかつて幽々子が言っていた「らん」か。妖忌はそれを確信した。
確かに高い知性を感じる、物腰も落ち着いており敵意など一切感じられない。
「幽々子のことだが」
「……ッ!? 幽々子様はここにはおらぬ」
「知っている、私はあの夜以来ずっとあの娘を見守り続けているわ」
「なに……?」
妖忌の目から思わず涙がこぼれた。
言いようの無い感動……幽々子を見守ってくれている者がいたのだという喜びの涙だった。
「な、なんだ湿っぽいわね、剣士がそう簡単に涙を見せるんじゃない」
「すまぬ……しかしこれが泣かずにいられるか……」
藍は困ったようにぼりぼりと頭をかきながら、涙を流す妖忌を見下ろしていた。
しかし、みっともなく嗚咽を漏らして涙をこぼすその姿には、どこか同情と親近感が湧く。
「で、本題だ。泣くのはそれぐらいにしてほしい」
「う、うむ……」
「見守っているとは言えこのように妖怪の身、主の忠告もあり直接的に守ってやることはできん」
「……ああ」
「あの子を取り巻く状況がどんどん悪くなっている」
「……なんと」
藍は説明した。幽々子の生活は一見豊かだが養母に目を付けられていること。
養母が結婚をしたこと、そして周囲の男達の薄汚い眼差し。
「あの娘の力、わかっているな」
「ああ、わかっている」
「いざと言うときに側で守ってやらなければいけないのはお前よ」
「今更どの面下げて行けと言うのだ……」
「情けないことを言うな、幽々子は今だってここでの生活を思い出しながら耐えているんだ」
「……」
「お前がそんなことでどうする、剣士ならば死をも覚悟して幽々子を守ってやれ、良いな」
「そうだな……すまぬ、みっともないところを見せた」
「わかったらあの子の屋敷の側で待機していろ……はっきり言ってきな臭いぞ、いつ爆発するかわからん」
守ってやりたい、守ってやらなければいけない、なのに数々のしがらみが絡みついてままならない。
それは妖忌だけではなかった、藍も同様の辛さを味わっている。
「話はここまでだ、私は引き続きあの娘の周囲を監視する」
「藍……殿」
「……なんだ?」
名前を知っていたか……できるだけ素性は隠したかったのだが。
幼い幽々子が話してしまったのだろう。この屋敷で監視した数日の間にも、何度か自分の名前を口にしていた気がする。
「心より感謝する」
妖忌はそう言って藍の前に跪く。
藍が紫に対してよくやっていることだったが、自分がやられるとなんともこそばゆい。
「い、いい、やめろ……まだ礼を言うには早いだろう、まったく……」
頬を染めて照れる藍を見据える妖忌の顔は、迷いなどなく涼しげで頼もしい。
感謝しているのは何も幽々子のことだけではない、再び自分を剣士として立ち上がらせてくれたこと……。
捨てかけていた誇りを取り戻させてくれたこと……。
――何があろうと幽々子様を守る、剣士として。
白楼剣を握り締め、藍を見送る。
一刻も早く旅の準備をしなければ。
藍が妖忌に声をかけたのは絶好のタイミングだった。
そう、この直後に紫の予感が的中することになるのである。
結婚が済んだら次は身辺の整理が始まる。
物質的なもの……金品、衣類、家具、それだけのことではない。
嫁入りなので、幽々子の養母は結婚相手の家に乗り込むことになるのだ。
人間関係も整理されなければならない。それは主従関係であったり、血縁関係であったり。
養母はたくさんの侍女を連れて嫁ぐ。
藍はその中に抜け目無く潜り込むことができた。
そこまでは特に問題なかった。
「お母様、今なんて……」
「もう貴女は私の養女ではないと言ったのよ」
何度聞き返したって返ってくる言葉は同じ、変化と言えばただ養母の顔に苛立ちが募っていくだけ。
幽々子は青ざめ、震えながら……信じられないという表情でわなわなと崩れ落ちる。
「夫も言っていたわ、貴女を侍女にすると」
「なんで、お母様……なんでっ!?」
「もう私を母と呼ばないで!」
「ぅ、ぅ……」
立っているのも辛くて、ぺたぺたと四つん這いで養母に近付き、その服を掴む。
幽々子の哀願の眼差し、しかしその表情さえも美しく、養母の神経を逆撫でた。
「私、頑張りました! 辛かったけど……立派な娘になるために頑張ってきたんです!! なのに何故!?」
「……そういう態度が気に障ると言っている!! 寄るな! 汚らわしい!!」
パチンと響く音、養母が平手を放った音だった。
思い切り振り上げられたその平手に幽々子は跳ね飛ばされ、床に倒れ込む。
養母も長い間極度のストレスを感じていたため、若干気が触れていたのかもしれない。
般若のような顔、幽々子には劣るもののその美しい顔は、怒りに彩られると鋭さを何倍にも増す。
それでも幽々子は震えながら起き上がり、再び養母に近寄ろうとする。
「気に障ったのなら謝りますから……ご不満な点があればすぐにでも直しますから……!!」
――だから、もう一度あの優しい笑顔を……。
「ふ、ふーん、そう……本当になんでも言うことを聞くの?」
「はい、ですから……」
「一番気に入らないのはその顔よ」
そう言って、養母が懐から取り出したのは小太刀。
冷たい視線に冷たい刃。幽々子は震え上がった。
そこまで憎まれていたなんて……それすらわからず盲目的に愛を求めた自分を蔑んだ。
胸を埋め尽くす絶望、全てが闇の中へ落ちていく。
「なんでも言うことを聞く」とは言ったものの、髪と顔は女の命。
この養母の行いは、幽々子に「死ね」と言っているのとそう大きな差異は無かった。
助けを求めようにも周りに従者は居ない。
養母は最初からこのつもりで、二人きりでの話をしたのだろう。
全て仕組まれていた、幽々子を貶めるために。
養母は小太刀を握り締め、ゆっくりと幽々子に近付いてくる。
幽々子は心底怯えた表情でずりずりと後ずさっていたが、背が壁に当たってしまった。
「なんでも言うことを聞くんでしょう?」
「お母様お願い、やめて……」
「母と呼ぶんじゃない!!」
ついに養母が幽々子の髪を掴み、その頬に小太刀を近づけたとき……。
「いやぁーっ!!」
幽々子の自衛本能が働いた、長い間封印していた……妖忌や叔父が恐れていた力が。
養母は突然無表情になり、幽々子を振り落とし、自分の喉に小太刀を突き立てた。
鮮血がほとばしり、目の前の幽々子、そして部屋の中を真っ赤に染め上げる。
幽々子はしばし呆然としていたが、これは自分の力が引き起こしてしまったことだと気付いた。
未だ喉からドロドロと血を流す養母、不気味に痙攣を繰り返すその姿を見て、胃から酸っぱいものがこみ上げる。
「どうなさいました!?」
いくら二人きりになっていたとはいえ、部屋の外には従者が待機している。
幽々子がぎりぎりまで耐えずに、もっと早く叫んでいれば、このような最悪な事態は免れたかもしれないのに……。
最後まで養母を捨てられず、愛を求めてしまったために。
部屋には、喉から血を流して倒れる養母、床に落ちた血まみれの小太刀、頭を抱えてうずくまる幽々子。
「何を……」
「違う、違う……私じゃない!! もう嫌!!」
駆けつけた従者が突然、受け身も取らずに倒れ込む。
それだけではない、幽々子を中心としてじわじわと……屋敷の人間が死んでいく。
同時に、大量の死霊が呼び寄せられ、幽々子を守るように屋敷内を埋め尽くす。
幽々子の能力から逃れた者も、それら死霊に襲われて次々に命を落としていった。
「くっ……ついに始まったか……しかし、なんという邪気……」
大きな妖力を持つ藍は、自力で幽々子の力から身を守ることができた。
道すがら、倒れている者の首に手を当てては頭を横に振る。
「これではもう生存者も何もない……妖忌の到来を待ち、幽々子の暴走を止めなければ!!」
藍は、従者の一人として自分に与えられていた部屋へと駆けていく。
今こそあの剣を妖忌に渡すとき。
妙な気配を感じた妖忌が宿から出て来た時、既に街は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
幽々子の住んでいる屋敷の周囲には街が栄えており、それさえも包み込む幽々子の力は、余すところなく災厄を振りまいた。
悲鳴すら上げずに絶命する者、死霊に取り殺される者……。
霊力を持つ者は抵抗したりもしていたが、襲い来る死霊の絶対量に押しつぶされ、やはり命を落とす。
(数年目を離していただけで、ここまで強大なものになっていたのか……!!)
腰に携えた白楼剣は、キンキンと耳障りな音を立てて幽々子の力から妖忌を守っている。
こんな白楼剣は初めて見る……絶対に手放すまいと妖忌はそれを握り締め、幽々子の居る屋敷へと向かった。
妖忌が到着すると、恐ろしい数の死霊が屋敷を取り巻いていた。
屋敷に入る途中で見かけた門番を初めとした、全ての従者は既に息絶えていた。
屋敷の中に入れば、大部屋、小部屋、廊下、果ては台所や厠まで、どこを開けてみても死霊が徘徊している。
「幽々子様……!!」
混乱した幽々子が呼び寄せてしまった死霊の群れ。
妖忌は一刻も早く幽々子の元へと辿り着き、慰めてやらねばならないのだが……。
「痛ぅっ……! 無差別攻撃をしているのか……!!」
見ると死霊同士も殴り合ったり掴み合ったりしている、幽々子の霊力を身に受けて興奮しているのだろう。
無視しようとして突き飛ばされた妖忌は、早く幽々子の元へ向かわなければならないのだが、
道中にいる死霊達を斬り伏せねばそれが不可能であることを悟った。
「おのれ、面倒だ……」
白楼剣で死霊を斬り捨てつつ、妖忌は幽々子を探す。
しかし死霊の数が半端ではない、短い白楼剣ではどうにも分が悪い……。
「幽々子様ァーッ!! 妖忌です!! どうか鎮まってはいただけませぬか!!」
力いっぱい叫ぶ妖忌だったが、幽々子の反応は無い。そして死霊も増える一方で減る気配が無い。
広い屋敷だったがこの死霊の数。所狭しとひしめき合っていて、このままでは身動きさえ満足にできなくなりそうだった。
一本の白楼剣を一人の人間が持っていたところでどうしようもない。
「く……とりあえず広いところへ……」
幽々子を探すつもりだったが、それどころではなくなってしまった。
しかし諦めるわけにはいかない。妖怪の身で、表立って人と関わりを持てない藍の歯痒さ。
それでも出来る限りの努力をして幽々子を守ろうと努める姿。
そして妖忌自身の剣士としての誓い。その背には、あまりにも多くのものがのしかかっている。
妖忌は一度体勢を立て直すために、邪魔な死霊を乱暴に押しのけながら広い中庭へと転がり込む。
「……この広さの庭でもこれか!! しかもこの数……」
既に庭までも死霊で埋め尽くされていた。
それだけではない。なまじ視界が広がったために、この屋敷を包み込む恐ろしい数の死霊を目の当たりにしてしまった。
数百ではきかない、千数百か、数千か……。
「幽々子様……ッ!!」
進退窮まった、このままここに居れば妖忌自身も騒動に巻き込まれて命を落としかねない。
なんとかならないものかと、必死に思案を巡らせていたそのとき……。
金色の風が、白い尾を引きながら宙を駆け巡った。
白い尾が揺らめくたびに凄まじい数の死霊が消え去っていく。
そして瞬く間に妖忌の周辺にいる死霊を滅ぼすと、白い尾、そして金色の風の正体が明らかになった。
風と思われていたそれは、金色の髪、金色の九尾を持つ少女。
尾と思われていたそれは、その手に握られた一振りの長刀。
幽々子を見守る妖怪、八雲藍。
手にするのは死霊を討ち滅ぼす妖刀。斬った死霊の冷気をまとい、シュウシュウと音を立てて青白い煙を放っている。
藍はその長刀を鞘に納めると、金色の瞳で妖忌を見据えてそれを突き出した。
「これを使え。一振りで十は死霊を滅することができる」
「これは……」
「銘は打っていない。好きな名をつけるといい……お前ならばすぐに使いこなすだろう」
妖忌は若干訝しがりながらもその長刀を受け取り、半身ほど抜いてその刃の美しさに驚愕した。
長刀を受け取った妖忌を見て満足そうに笑った藍、しかしその表情は直後に引き締まる。
「幽々子の元へ急げ、ここは私が引き受ける」
「……感謝する」
妖忌の背中を見送り……フッと一瞬微笑むと、藍は大地を蹴って再び夜空を駆け巡った。
重力の存在など忘れたように流麗に宙を舞い、長刀の代わりに伸びた爪が紅い弧を描いて死霊を斬り刻んでいく。
まるで踊るように、しかし、確かに力強く。
妖忌は藍に背を預ける。二人の間には確かな信頼関係が築かれつつあった。
「お前達には何の罪もあるまい、だが、通してもらう!!」
大の男でさえ扱いに苦労しそうな長刀、しかし、妖忌はそれを片手で振り上げた。
そして渾身の力を込めて振り下ろすと、旋風が死霊の群れを飲み込んだ。
(これならば……道を切り開くことができる)
妖忌の力によりその霊力を増した長刀は、一振りで十以上の死霊を屠り去った。
右手に長刀、左手に白楼剣を握るその姿。それはとても即興とは思えない見事な二刀流だった。
迫り来る死霊の群れを斬り捨てて妖忌は幽々子の姿を探す。
屋敷の中も街に劣らず酷い状態だった、やはり生存者はいない。
そうでなければ侵入できなかったが、それを好都合と言ってしまうのはあまりにも不謹慎だろう。
この屋敷の者達が幽々子を追い詰めたのは確かだろうが、どうにもできない者も居ただろうし、無関係な者もいたはずだ。
その途中、妖忌は信じられないものを目にした。
生存者などいない、そう思っていたのだ。
死霊を滅するでもない、かき分けるでもない。死霊が自ら道を開け、僧侶の姿をした男の歩く道を作る。
男は悠然とそこを歩き、周囲を眺めては悲しそうな表情を浮かべていた。
「……西行寺様」
「……妖忌か」
およそ十余年ぶりの邂逅であろうか。
妖忌や藍だけではない……彼もまた、父として幽々子を見守っていたのだろう。
「笑ってくれ、妖忌」
「……」
自分がどれだけ身勝手か、男はわかっているのだろう。
こんな状況になってから出てきて……父ならばこうなる前になんとかできたかもしれないのに。
「私は弱い人間だよ」
「……真に強い人間などおりませぬ」
死霊だらけの屋敷なのに、この二人の周囲だけは死霊が退いている。
それは幽々子が死霊を避けたわけでも、白楼剣が死霊を避けたわけでもない、幽々子の父親自身の能力……。
つまり幽々子と同じ、死霊を操る能力によるものだった。
共に働いていた頃にはそんな素振りは見せなかったが、世を捨てたことで開眼したのだろうか。
それとも、その力を隠していたのだろうか……妖忌はこの状況下にあって、冷静にそんなことを考えていた。
「私とて、貴方との約束を守りきれておりませぬ」
「……お前の養女にしてやるべきだったと後悔している。迷惑かもしれんが」
「迷惑だなどと思わぬ……しかし貴方は身勝手だ、私が責められる立場ではないが」
「ああ、わかっている」
話途中で男は再び歩き始めた。血の繋がった親子として、幽々子の位置を捉えられるのかもしれない。
妖忌は黙ってその後をついていく。今の幽々子に父親を会わせてどうなるのだろう。
そして自分は幽々子にどんな目で見られるのだろう……どれも予想ができないが、今はただ幽々子の元へ向かう他無い。
男は迷うことなく幽々子の居場所を探り当てた。幽々子は部屋で一人、うつむいて泣いている。周りには死霊も居ない。
随分と大きくなったが確かに幽々子だった、昔見た面影がしっかりと残っていた。
「幽々子様!!」
真っ先に駆け出したのは妖忌だった。もう何も考えられない。
ゆっくりと顔を上げて妖忌を見る前に、幽々子は強く抱きしめられた。
「申し訳ございませぬ幽々子様!! 私が、私がもっとしっかりしていれば……!!」
「妖忌……?」
妖忌の顔は見えない……胸に顔を埋めて息を吸う、懐かしいにおいがした。
耳を澄ませれば、その声は昔聞いた優しい声、厳しい声。
背に手を回して……確かめるように、おそるおそる撫でた。
それは幼い頃に背負われた、逞しくて温かくて広い背中だった。
妖忌の背中だった。
「妖忌……妖忌ぃっ!!」
「幽々子様、申し訳ございませぬ……おぉ……うぉぉぉっ!」
幽々子は痛いぐらいに強くしがみついてきた、心細かったろう、怖かったろう、寂しかったろう。
ようやく……何の気兼ねも無く身を預けられる、優しい妖忌の胸に抱きしめられる。
妖忌もまた幽々子を強く抱きしめる、どれだけ歯痒かったことか、悔しかったことか、情けなかったことか。
抱きしめる幽々子の体は成長したとはいえまだ幼くて弱々しく、力を込めすぎれば折れてしまいそうだった。
死霊は少しずつ、幽々子の呪縛を離れて四散し始めた。
いつの間にか幽々子の父は姿を消していた。
こんな妖忌と幽々子の姿を見て、今更自分にできることなどないと思ったのだろうか。
二人はどれだけ長い時間抱き合い、涙を流しただろう。
死霊は相当にゆっくりと散っていったにも関わらず、その全てが居なくなってからもまだむせび泣いていた。
導師服をぼろぼろにされた藍はそんな二人を遠巻きに眺め、グスッと鼻を啜った。
目には涙が浮かんでいるのだろうか……しかし自分は表に出るわけにはいかない、すぐに立ち去ることにした。
だがあの美しい涙にごまかされてはいけない。
屋敷とその周囲の街にはたくさんの骸が転がっている。
それらは全て、幽々子が殺したのだ。
(だが、今ぐらいは忘れさせてやってくれ……)
とぼとぼと屋敷の中を歩く藍の足元には目を開けたまま絶命した侍女の死体。
建前とはいえ、藍と何度か顔を合わせたし、共に働きもした。
藍はそっとそのまぶたを下ろしてやり、目を閉じて祈りを捧げた。
何が悪いのかなんて、誰にもわかりはしない。
憔悴しきって戻ってきた久々の我が家に主は居なかった。
夜と言えば夜だったが、それでもまだ紫が起きるには早い時間である。
「はぁ……」
布団を敷く力すら湧いてこない、藍は心身共に疲れきり、倒れ込むように畳の上に寝そべった。
これから妖忌はなんとしてでも幽々子の側に居てやるだろう。
滅茶苦茶な経緯ではあるが、妖忌と幽々子の仲を引き裂いたあの貴族は全滅した。
あの状況では幽々子も死んだことになる可能性が高い。
隠れて暮らすことになるかもしれないが、妖忌と共に穏やかに暮らしてくれれば、と願う。
(罪悪感に押し潰されないようにな……)
不安があるとすればそこだった。あの純粋な幽々子が、己の起こした大惨事をどう受け止めるか……。
(もう考えるのも疲れた、私は神様ではないんだよ……)
藍はそっと目を閉じ、ぼろぼろの導師服を着替えることすらせずに眠りに落ちていった。
一方、例の桜を眺める紫。そしてその横にもう一人の少女が居た。
夜だというのに二人並んで日傘を差して……紫は神妙な面持ちで、その少女は冷たい笑顔で、桜を見上げている。
「知っていた? この桜のこと」
「もちろん」
少女が近寄ると桜の枝葉がざわめいた。まるでこれ以上近寄るな、と威嚇するように。
「……困った子ね」
「こんな大木を子供扱いするなんて、貴女らしいわ」
「綺麗ね」
「ええ」
少女は子供でもあやすときのような、柔らかな微笑を浮かべて桜へと歩み寄り、そっと手をかざした。
だが次の瞬間、鮮血がほとばしった。
桜から放たれた魔力が刃となって少女の腕を切り刻んだのだ。
「……貴女の能力でなんとかできないかしら」
「見ての通りね」
血まみれになった自分の手を珍しそうに眺めながら、少女は桜を離れる。
「これはもうただの花ではないから……制御するのは無理ね、破壊するのも難しそうだし」
「破壊ねぇ、力技はあまり好きではないのだけれど」
「それに可哀想だわ、こんな綺麗な子を破壊するなんて」
「そうね……でも危険だわ」
「放っておけばいいじゃない」
「気になるのよ」
その言葉を受けて、少女はその赤い目を紫に向けて冷たく微笑む。
紫は呆れたように溜息をつくと、自分の髪を何度も撫で下ろした。
「ここから動き回ることもできないでしょうし、別に貴女に関係ないじゃない」
「相変わらず残酷ねぇ」
「それは違うわ、私はあまり好奇心旺盛じゃないだけ」
「あら、年寄り臭い」
「この子を放っておけばたくさんの人間が死ぬでしょう」
「力を持て余しているわね、この桜」
「けど、私はそんなことどうでもいいのよ。貴女と違って」
「なんとも妖怪三昧ですこと」
噛み合っているようで噛み合っていない会話は、長く生きた者同士の以心伝心によるものなのか。
見た目は少女……花の妖怪、風見幽香は紫を冷たい目で見据えながら微笑んだ。
対する紫は、そんな幽香の視線を恐れる事もなくじっと見つめ返している。
「それで、結局この子をどうしたかったの?」
「貴女に管理してもらおうかと思ったの……でもダメねぇ貴女、使えない」
「随分酷いことを言うのね」
「貴女が管理したら余計に死人が出そうだし、そもそも管理できないみたいだし」
「なんで私が人間を守らないといけないのよ。理由が無いわ」
さらっと、ごく自然に幽香を否定する紫。
幽香は表情にこそ出さないものの、わざわざ呼び出されてこんな酷い扱いを受けたことが不愉快だった。
しかし紫は、威圧的に膨れ上がる幽香の妖気の中に身を置いてもたじろぐ事はない。
「神様気取りかしら? そんな能力を持っているからって調子に乗りすぎじゃないの? 紫」
「別にそんなわけじゃないの……でも人間を無闇に殺す理由も無いでしょ? だから逆に守ってみようかしら、と」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうね、この桜……やはり妖怪としては幼すぎる」
「……」
「過ぎたる力……いずれ暴走する」
「だーかーらー……放っておけば良いじゃない」
「貴女も花の妖怪なら、先輩らしく妖怪のルールでも教えたらどうなの?」
「反抗的すぎてダメよこの子、見てこの腕」
「まぁ、袖がぼろぼろね」
幽香はぼろぼろになった一張羅を見て眉をしかめる。
桜から受けた傷などとうに回復してしまっていた。
「そろそろ帰って良いかしら?」
「良いわよ、まぁいろいろ聞けたし無駄にはならなかったわ。ありがとう」
「どういたしまして……貴女はどうするの?」
「力ずくで破壊してみるわ」
「……妖怪とは言え元はこの子も花、私がそれを許すと思う?」
「許してぇ」
「……ま、この子私の事も敵視してるみたいだし。多分貴女でも破壊できないから、ここは見逃すわ」
「随分酷いことを言うのね」
「妖怪三昧だもの」
最後にまた冷たく笑って、幽香はゆっくりとその場を飛び去った。
紫の目の前には禍々しくざわめく彼の桜がある、来るなら来いと挑発しているようだった。
「大先輩にそれはないと思うの。悪い子にはお仕置きをしませんと」
紫は日傘を構えなおすと、姿勢良く桜の方へ歩いて行く。
紫と桜、双方の力がぶつかり合い、空間が歪んだ。
誰かが自分の体を揺すっている。
藍は目を閉じたまま眉間にしわをよせ、鬱陶しそうにその手を振り払った。
「まぁ、藍……反抗期?」
「……はぁっ!?」
紫の声が酷く懐かしいものに聞こえた。藍は驚いて飛び起き、紫の顔をまじまじと眺めてから頭を下げた。
「もも、申し訳ございません! こちらも大変でして、つか、つか……疲れておりまして!」
「あらら、藍もこっ酷くやられたのねぇ……」
そう言われて紫の全身を見ると、服があちこち引きちぎられているし血も流れている。
一体何があったのだろう、状況が掴めず藍は思わず大声を上げる。
「……紫様、お、お怪我をなさっているではありませんか! 一体何が!?」
「痛いわぁ、藍……慰めてぇ」
「……」
なんだ、余裕しゃくしゃくじゃないか。
怪我の理由はどうあれ、手当てなど必要無いと藍は思った。
疲れもあってイライラしているのかもしれない。
「藍こそ、目の下に隈ができてるわよ。まるでタヌキみたいなの」
「ほっといてください……」
ぶすっと膨れて、目の下を手でこすった。
紫は藍の様子を見て少時ニヤけていたが、一つ大きな息をついてから真剣な表情になる。
「……そっちも大変だったようね」
「ええ……第一波、強烈でしたよ」
「そう、何人ぐらい死んだ?」
「数えてはいませんが、街にも被害が及んだことを考えると数百はくだらないでしょうね」
「……まるで災害ね」
「災害と呼ぶのすら生温いですよ、あれはまさしく地獄でした」
「よく無事で帰ってきてくれたわ」
紫は身を乗り出し、藍の頭を優しく撫でた。
すると藍の耳が寝そべり、その表情が悲しく曇る。
「……力及ばずでした……皆が不幸になりました……」
「……」
「そして何が悪いのか私にはわかりません……だから……」
「自分が憎いのね」
「……はい」
「私のわがままに付き合わされて、恨んでいるかしら?」
「そういうわけでは……」
「藍、泣きたければ泣きなさい」
「……」
「けれどこれからはもっと辛くなるわ。もちろん私は貴女を休ませない」
紫に頭を撫でられるたび、あたかもそれがスイッチであるかのように、藍の目に涙が浮かぶ。
だが藍は耐えた、血が出そうなほどに強く自分の唇を噛み、拳を握り締めて。
「ついてきてくれるわね?」
「……はい」
「ありがとう……誇り高い私の式神」
「ぐ、ぅ、うぅっ……うぁぁぁぁ!!」
「あら、泣いちゃった……前言撤回ね」
「ふぇ!? ひ、酷いぃぃっ!!」
そんな冗談を交えながらも、ふとした瞬間に真顔になることが増えていた。
状況はどんどん悪化していく……一段落したように見える幽々子だって実際はまだまだ不安定なのだ。
紫はいつまでもグズっている藍を煩わしそうに眺めている。
キリが無さそうなので、話を始めることにした。
「泣きながらでいいから話を聞いて」
「は、はい……グスッ」
「私がどこに行っていたか、何故怪我をして戻ってきたか」
「……」
ほつれてしまった服の裾を物憂げにいじりながら紫は続ける。
「まぁ大体わかるでしょうけどあの桜の所に行っていたわ、幽香を連れて」
「何っ!? あいつにやられたのですか紫様!!」
「もう、そう興奮しないの……違うわよ、あれも結構めんどくさがりだから、用事が済んだらさっさと帰ったわ」
「ならば……あの桜にやられたというのですか?」
藍の涙はいつの間にか止まっている、たまにヒックヒックとしゃくり上げているが、桜のことも気になるのだろう。
「桜を破壊するって言ったらあいつまで喧嘩腰になって少し焦ったわよ。喧嘩っ早いのはいけないわ」
「して、あの桜……破壊できましたか?」
「痛み分けってところねぇ……半分ぐらい亜空間に引きずり込んでやったけど」
紫は白い手袋を引きずりおろし、右腕を藍に見せた。
手袋の中にあったのは、元の色白な美しい手ではなく、どす黒く変色した生気の無い手だった。
それを見た藍は思わず表情を険しくして「うっ」と呻く。
「こんなものはすぐ治せるから良いけど、ここまでされてしまったのがそもそもの問題なの」
そう言うと紫は変色した右腕に左手を添えて修復を開始する。
見る見るうちに右腕は血の気を取り戻し、元の白い腕に戻った。
それを見た藍は、これほどの力を持つ紫でさえ完全に破壊できなかった彼の桜に恐怖を覚えた。
「それでね、あいつでもあの桜の制御は無理なんですって」
「そうですか……」
「私は引き続きあの桜の様子を見るわ」
「引き続きって……今までもずっと様子を見てらしたんですか?」
「それはそうよ……藍ったら酷いわ、私が寝てばかりだと思ってた?」
「あ、いえ、そんな……」
「まったく失礼ねぇ、ちゃんと睡眠の合間に見に行ってたのに」
藍はろくに睡眠を取れていなかった。やはり主とは傲慢なものなのだなぁ、と思う。
「まぁいいわ……藍は引き続き幽々子の方をお願い。大きな動きがあったら教えて頂戴」
「は、了解いたしました」
「でも今日ぐらいはちゃんと寝ないとね、今後の為に」
「は、はい……」
思わず藍の表情が緩む、さっきから眠くて仕方なかったのだ、何度あくびを噛み殺したことか。
「それじゃ私は寝るわ、家が散らかってるから掃除しておいてね。あ、あと服もちゃんと直しておいてね」
「……はい……」
自分の事だけだったらしい。
藍は紫を見送ってからしばらく呆け、その後よたよたと掃除に取り掛かった。
京から少し離れた山奥に、見事な桜があるとの噂を耳にして。
それなら是非そこで花見をしようと、離れた土地へ足を伸ばした。
澄み渡る夜空には、数多の星が競い合うように輝いている。
満月もそれらに負けじと攻撃的に輝いているように見えた。
「これはいけませんね、体が熱い」
「少し落ち着きなさい、藍……満月を見にきたわけではないし、お酒もほどほどになさい」
「いや……それだけではない気がするのです、この桜……」
輝く星々も真っ白い満月も、その桜の前では霞んで見えた。
巨大すぎる、美しすぎる。藍は先ほどから無意識のうちに九尾の毛が逆立つのを感じていた。
「そうね、この桜……」
「やはり私の思い過ごしではありませんか」
「この桜、人が見るには美しすぎる気がするわね、そしてこの満月は貴女が見るには美しすぎるわ」
「まったくです、目眩がする」
ギラギラと目を輝かせ、尻尾の毛を逆立てる藍を見て、紫はクスクスと笑う。
「とんだ夜桜になってしまった……これでは落ち着けませんね、申し訳ございません」
「別に良いわよ藍、たまにはこういうのも悪くないわ。そこらで人でも襲ってきたらどう?」
「ご冗談を、いたずらに人を襲うのは性に合いません」
「流石、私の藍ね」
紫は愉快そうにしているが、藍は体に感じる疼きを持て余している。
ただ満月を見ただけではここまではならない、やはりこの巨大な桜には何かしらの魔力があるのだろう。
藍がいつも以上に輝く瞳でその桜を見上げると、吸い込まれてしまうのではないかという錯覚さえ覚えた。
「どうにも、素直には楽しめない桜だが……」
「どうしたの?」
「やはり、この魔力に当てられている妖怪がこの周辺には多い」
「そうねぇ、今は引っ込んでしまっているようだけど」
「そして立地条件も考えると、人間はそう簡単に近寄れないでしょう」
「かしらね」
この夜桜の一等地、他の妖怪が寄ってこないのは紫と藍を畏れてのことだろう。
人間だって桜が大好きだから、この桜を見に来る者は居るかもしれないが……。
そのときは藍と違って躊躇無く人を襲うような、凶暴な妖怪に食われたりするかもしれない。
藍の傍らで紫も桜を見上げる。
月明かりに照らされて仄白く映るその顔から、薄ら笑いは消えていた。
そして呟く……それは消え入りそうな細い声なのに、藍の耳にはとても重苦しく響いた。
「けれど、真に恐れるべきはここに集まる妖怪などではないの」
急に真顔になった紫を見て、藍は気分の高揚が一気に冷めるのを感じた。
後にこの桜はおびただしい数の人間の墓標になり『西行妖』と名付けられることとなる。
それから一年近くが経った、桜も咲くか咲かぬかの時期。
紫は火鉢の前で大きなあくびをしている。
少し早く起きすぎただろうか、と微かな後悔が寝ぼけた頭の中に浮かんでいた。
「はぁ、ふ……まだ冷えるわねぇ……」
そう言って眠そうな目をこすり、火鉢の側で横になる。
寝起きの紫に食事を運んでくる藍は、それを見て眉をひそめた。
「何を言ってるんですか、ほら食べてください。冬の間にあったことも報告しなければいけませんし」
「二度寝させなさい、これは命令よ」
「ご冗談はおよしください、せっかくご飯作ったんですから……」
「んもぉー」
藍は紫の腕を引っ掴んでその身を起こそうとする。
久しぶりで寂しがっているのかしら、と思った紫は特に抵抗せずに身を起こした。
「では今年の冬、目に付いたことをご報告いたしますよ」
「食べながら聞いて良いのかしら?」
「ええ、どうぞ」
藍の話はどれもこれも大したことではなかった。
やれどこぞに小物の妖怪が棲みついたとか、偉い人間が病気で死んだとか。
およそ自分達には関係の無い話ばかりで、把握しておく必要があるのかすら危うい。
それでも藍は両手をそれぞれの袖に突っ込み、胸を張って紫へ報告を続ける。
心底退屈だな、と思いながら、紫は味噌汁を啜った。
「大したこと起きてないわねー……」
「まぁ一冬に起きる事など高が知れていますよ、人間も寒いからあまり動きたくないんでしょうかねぇ」
「ああ、今年の桜はどう? また行きたいじゃない、花見」
藍の大きな耳がピクリと動き、表情が強張った。
それを見て紫は何かまずいことでも言ったのかと思ったが、今の言葉にそんな心当たりは無い。
「最後に話そうと思っておりましたが」
「うん?」
「あの桜と似た霊力を感じる娘を発見いたしました」
「似てるって……どういうこと?」
「それが……」
藍にも上手く説明ができないようで、口元に手を当てて視線を泳がせている。
「感覚で似ていると感じた、そうとしか言えませんが……それだけが問題ではないのです」
「問題ねぇ」
「あの力は人間には少々大きすぎる。巫女や何かならあのぐらいの力を持っていても問題無いだろうが……」
「違うのね?」
「ええ、身分の高い者であることは確かなようですが」
「どのくらいの歳なの?」
「まだ幼児ですね、今のところは恐らく問題無いはず」
「心配しすぎじゃない? そんな悪そうな子だったの?」
「いえ、愛らしい普通の娘でしたよ……だが感じる霊気、いや妖気とでも言った方が的確かもしれない」
「それが嫌な感じだったと」
「あの桜に似ているのです。何か禍々しさがある」
「なるほどねぇ」
正直な話、紫はその話をそこまで深刻には捉えなかった。
しかしこの藍の様子は普通ではない、式神とはいえ妖怪としてはかなりの上位。
その藍がここまで警鐘を鳴らしているのだ、きっとただ事ではないのだろう。
紫は食事をとりながらだったため、藍とは目を合わせずに下ばかり向いて話していた。
だがそこまで話して黙り込んでしまった藍を見ると、何かを求める視線を自分に向けているのに気付いた。
「……お花見、行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」
ついでにその娘も見てくるか、と思い紫は箸を置いた。
食器の片付けを命じようと藍の顔を見ると、まだ神妙な面持ちで自分を見ている。
「……まだ何かあるの?」
「紫様、頬に米粒が」
「あらやだ」
藍はようやく表情を緩めると、食器を台所へと運んでいった。
少しの間桜の時期を待った。火鉢はもう片付けられている。
二人はまたあの桜の下に来ていた。前回と違うのはそれが昼時であることぐらいだろう。
月が出ていると興奮してまともに見られない、という藍の意見を汲んでのことだった。
満月の時期さえ避ければ良いような気もするが、たまには昼の桜も良いだろうと言う紫の意向もあった。
「やっぱりすごいわねー、この桜は」
「本当に、これほど見事な物は他に見たことがありません」
優しい春風が二人の髪を揺らす、花びらもはらはらと宙を舞った。
しかし二人の表情は硬い。
「力を増している」
「そうね」
自然界のものは長く生きれば力を蓄える。
人間もその例にもれない。もちろん妖怪もだ。
逆に言えば、それだけの潜在能力を持っていたから長く生きる権利を掴めたとも言える。
この桜の幹の太さ、枝葉の多さ、一体どれほどの年月を生きればここまでになるのだろう。
「この桜、ここに在ってはダメね」
「やはりそう思いますか」
二人と桜の間に、春の陽気に似つかわしくない冷えた風が流れた。
藍は思わずその拳を握り締め、紫は日傘を持ち直す。
「……嫌われてしまったみたい。行きましょうか、藍」
「ええ……」
この桜は意思を持っている。
そしてそれはこの雄大さに似合わず、随分と幼いようだ。
『ここに在ってはダメ』という紫の言葉は、短いようで多くの含みを持つ。
藍の言った立地条件や、この界隈を跋扈する小物妖怪の危険さ。
だというのに美しすぎるこの桜は人々を魅了し、呼び寄せるだろう。
たくさんの血が流れるのが目に見えるようだった。
そして運良く……いや、運悪く、か。ここまで辿り着いた人間はどうなるのだろう。
想像したくもなかった。
背を向けた二人に、桜から放たれた見えない刃が飛ぶ。
それは紫の結界に遮られ、パシッと小さな音を立てて弾け飛んだ。
「……あまり調子に乗るなよ」
藍が肩を怒らせて睨み付けると、桜の枝葉が轟々と空気を揺する。
そこにあるのはもうただの雄大な桜ではなく、力を持て余す禍々しい妖怪だった。
今度は件の少女を見に行くことになった。
とはいえ人里近いので昼間に行くわけにもいかない、二人は夜の帳が下りてから向かうことにした。
「ふわぁ~」
「時間になったら起こしますから、少しお休みになってはいかがです?」
「ん~? いいわよ、半端に寝るとかえって辛いの」
紫は仰向けに寝転がり、少し目をしばたたいてから呆けたように天井を眺め始めた。
何か考え事をしているのか、はたまたそのまま寝るつもりなのか、どちらにせよ邪魔するまいと藍は黙っている。
「あの桜……潰しておいた方が良いのかしらねぇ」
「潰す……のは少々やりすぎかもしれませんが、何か手は打った方が良さそうですね」
元来の穏やかな性格ゆえか、藍は人間のことが嫌いではない。
変に刺激しなければいろいろと便利なものも持っているし、気の良い人間もいる。油揚げも美味い。
だからあの桜が意味も無く人間を虐殺する存在になれば、排除もやむなし、と思う。
一方の紫は、あの桜に何らかの処置を行うことに明確な動機を見出せずにいた。
他の妖怪が多少人間を殺すようなことがあっても自分にはそこまで関係の無いことなのだ。
人間と妖怪の関係は、実に絶妙で曖昧なバランスを要求する。
長く生きる妖怪の身としては、そこを乱すようならあの桜には粛清が必要だろうと思う。
だがそれさえも、何も自分がやらずとも他の妖怪がやればいいのでは、と思わないでもない。
そしてあの桜をどうにかするには、相当な困難が付きまとうであろう事が予想できた。
放っておいても何も起きない可能性もあるわけだし、いきなり攻撃を仕掛けるのは自分勝手だろう。
本当に気に入らなければすぐにでも破壊するが、あの美しい桜を破壊するのは躊躇われる。
「どうしようかしらねぇ……」
「難しいところですね」
「人間同士が争って大量に死ぬのは別に良いんだけど……」
「妖怪が絡むと別ですか」
「妖怪がある程度世の中を操作するのは別に問題無いと思うの、人間はやたらに攻撃的でない限りは放置しておけば良いし」
「確かに、攻撃されては反撃せざるを得ません」
「そしてそれは人間側にしても同じことでしょ?」
「そうですね、彼らにだって生きる権利はあるでしょう。まぁ私にはよくわかりませんが」
「小物ならほっといても人間に退治されるから、これもまた放置で良いわけだし」
「あれは……大物ですね」
「そうなのよ~」
なんとかできそうな人間がいればわざわざ自分がどうにかすることもない……と思うのだが。
どうあれ、あの桜が問題を起こせば被害は並々ならぬものになるだろう。
「一口に大物とは言うけれど、大物ならもう少し腰を落ち着けてほしいものだわ」
そう言って頬を膨らませ、紫はごろんと寝返りを打った。
藍はそんな紫を見て、腰が落ち着きすぎるのもどうなんだろうなぁ、と思った。
「とりあえずは少し様子を見ましょうか。藍が言ってた娘のことも気になるし」
「そうですねぇ」
日は落ちたが動き出すにはまだ早い。
茶をいれに行っている間に紫は寝息を立てていた。
起こすのに苦労しそうだな、と思いつつ、藍は二人分の茶を啜った。
その後二人は宵闇に紛れて、藍の言っていた娘の住む屋敷へと向かった。
京から少し離れた町、田舎と言うにも都と言うにもどっちつかずで中途半端な規模。
だが案外この程度の土地の方が住みよいところもある。
その中にあって、この屋敷は立派だ、敷地も広い。これほどならばいくらかの従者も抱えているだろう。
紫は、広い庭でその娘が遊ぶ姿を想像してうっすらと微笑んだ。
「確かに大きな力を感じるわね」
「でしょう?」
「そしてあの桜に似ているということについても同感よ」
二人は音を立てずにスッスッと廊下を歩く。
「でももう一つ大きな力があるわね、これは何かしら?」
「ああ……言い忘れていました。少し変わった庭師がいるようです」
「どう変わってるの?」
「なんと言うんでしょう、他に類を見ないので説明が難しいですね」
「はぁ、なんか藍ったら最近そればかりね」
「す、すいません……で、庭師とは言え剣士のようでして、おそらくそちらが本業なのだと思うのですが」
「ふーん」
紫が気の無い返事をしたところで二人は立ち止まった。この部屋の中にその娘が居る。
「えい」
「ゆ、紫様……ダメですよ障子に穴を開けては」
「どれ、どんな可愛い子なのかしら」
「聞いてくださいよ……」
紫は目の前の障子に指を突っ込んで無遠慮に穴を開けた。
そしてぺろっと舌を出して嬉しそうにその穴を覗き込む。藍は後ろであたふたしていた。
中に居た少女は、真夜中だというのに起きていた。
そしてぱっちりとした目で障子の穴から覗く紫色の瞳を見つめていた。
布団から上半身を起こして、恐れる様子もなくただ不思議そうに。
「あ……バレていたみたいなの」
「……ぅー」
横で小さく呻いた藍をよそに、紫は躊躇うことなく障子を開けた。
少女は泣きも叫びもしない、歳は五歳になるかならないか……。
「狐さん」
「ん? あぁ……藍のことね」
「らん?」
なるほど、まるで無邪気な普通の少女だ。興味深そうに藍を眺める様子も可愛らしい。
しかしここまではっきりと目が覚めているということは、紫と藍に大分前から気付いていたということだろう。
そして紫がその身に感じる力、神職者などのものとは大分違う。
妖怪に近い……それも、あの妖怪桜にとてもよく似ている。藍が気にかけたのもわかる気がした。
「おい、よさないか……痛い、痛い」
「ふふふ、良いじゃないの藍」
耳を引っ張られたり、尻尾に抱きつかれたり。
気付けば少女はいつの間にか笑顔になっていた。
「子供向けの外見なのよ、藍は」
「外見に子供向けも大人向けもないでしょう……いたた」
「さて遊んでばかりもいられないわ、件の庭師が私達に気付いた」
「そのようですね……この子程じゃないが随分勘が良い」
「行っちゃうの?」
少女は藍の尻尾に抱きついたまま切なそうに問いかける。
藍はそんな少女を見て、紫が無遠慮に彼女の前に姿を現してしまったことを少し恨んだ。
「私、幽々子って言うの、お名前教えて」
「何故?」
「え……」
紫が冷たい調子で言い放つと、幽々子は涙ぐんだ。
藍の名前は先ほどのやり取りでわかっていたらしく、幽々子は紫を見つめてそう言ったのだが……。
「お友達が欲しいから……」
「そう」
素直な子だな、そう思い、紫は優しく微笑んで幽々子の頭を撫でる。
そして先ほどとは打って変わって穏やかな調子で語りかけた。
「紫よ、幽々子さん」
「ゆかり……」
「では、さようなら」
庭師の気配がどんどん近付いてくる、時間が無い……紫と藍は目を見合わせ、小さく頷いた。
そして空間に裂け目を作り、藍を先に行かせて、自分もその中へと。
そのとき、背後から小さな声が聞こえたような気がした。
「お友達に……」
紫は最後まで聞き取らなかったし、返事もしなかった。
つまりはそういうことなのだろう。
少しして到着した庭師は、鞘から抜いた刀を物々しく構えながら部屋に駆け込んできた。
初老の男性のようだがその体は鍛え上げられており、着物の上からでも逞しさが見て取れる。
「幽々子様!!」
「妖忌」
「何事です!? このおぞましい妖気……何がありました!?」
「何もなかったよ?」
「む、ぅ……?」
確かに周囲に残留する妖気は今まで感じたことのない強大なものだ。
だが幽々子は何ともないし、障子に一つ穴が空いているぐらいで何かが破壊されているわけでもない。
幽々子が嘘をついている様子もないし……それよりも、悲しそうな表情が気になった。
「誰かが来たのですか?」
「ゆかりとらんが来たよ」
「ゆかり? らん? 何者ですか?」
「よくわかんないの、でもらんは狐さんだった」
「狐……?」
なるほど、妖狐か……相当長い年月を生きてきたのだろう、そうでなければここまで強烈な妖気を残していくまい。
だが一体何の用で来たのか。長く生きて知能をつけた妖怪は人間に関心が無くなるか、気高き故か、あまり人を襲わなくなると聞く。
おそらくそういった類の妖怪が幽々子の元を訪れたのだろうが、なまじ何もされていない辺りに不安を感じる。
やはり幽々子の力に興味を持ったのだろう……それは幽々子が何か問題を起こすことを暗に示しているように感じた。
「ねぇ、妖忌」
「はっ」
「妖忌は私のお友達?」
「幽々子様の友人だなどと畏れ多い、私はただの庭師にございます」
「そうよね……」
言ってしまってから失敗したと思った。
嘘をついてやるべきだったか……庭師、魂魄妖忌は、胸にチクリと何かが刺さったような痛みを覚えた。
家に戻った二人は酒を酌み交わしていた。
藍は遠慮していたのだが、紫の強い勧めがあっては拒否しきれるものではない。
紫よりも幾分早く酒が回り、赤ら顔にトロンとした眼が垂れ下がっている。
「なるほど」
黙々と飲んでいた二人だったが、突然紫が神妙な面持ちで呟く。
藍は緩慢な動作で紫の方を向き、座った目で紫の顔を見つめた。
「尚更放っておけなくなったわ、あの桜」
「何故でしょう?」
「あの子の力は死霊を操るもの」
「……」
あの短い時間でそこまで見抜いたのか、やはり自分の主はすごい妖怪だ、と藍は再確認する。
それで一瞬目が覚めたが、すぐにまぶたは重くのしかかってきた。
「いずれ人を呪い殺すようになる」
「馬鹿な、あんな素直な子が」
「素直な子だからよ」
空になった藍のお猪口に紫が酒を注ごうとする、藍はやんわりと拒否したが無理矢理注がれてしまった。
そして無言で返杯を求め、藍にお猪口を突き出した。
「いけないわねぇ、あの性格にあの境遇」
「まぁ……そういうことにしておきましょう。しかしあの桜と何の関係が?」
「鈍いわねぇもう……あの桜は人を狂わせ、死に誘う力を持つの」
お猪口を口に付けたまま藍の動きが止まった。
そうか、似ていると思ったのはそれ故か……ようやく辻褄が合った。
紫は注いだばかりの酒をくいっと喉に流し込み、さらに続ける。
「藍」
「なんでしょう」
「あの子を見張りなさい」
「……わかりました」
やはりこうなったか、と思い、藍は少々乱暴にとっくりを掴もうとした。
だが紫がそれを制して、藍のお猪口に酒を注いでやろうとする。
「手酌なんて水臭いじゃないの」
藍は釈然としない様子で酌を受け「むぅ」と一言唸って黙り込んでしまった。
見れば紫はいつもの薄笑いを浮かべている。何を考えているのか藍には全くわからなかった。
「桜だけならば、どうするか悩んでばかりだったと思うの」
「あれは危険でしょう」
「確かに危険だけどね、それはまだ幼いからっていうのがあると思うわ」
力をつけて多少の問題は起こすかもしれないが、その後自ら沈静化する可能性もある。
若くして力をつけた妖怪なんて得てしてそういうものだ。紫はそれを身をもって知っていた。
それでもどうしようもない妖怪は、更なる強い力を持った妖怪に仕置きされ、しばらく監視下に置かれる。
今回はそういうケースだろうと紫は思っていたが、幽々子の登場によって雲行きが怪しくなった。
「まぁ、それはそうなんですが……」
「なんだかねぇ。藍、すっきりしないでしょう?」
「ええ……」
「私もまだよくわからないのよ。けど、ものすごく嫌な予感がするの」
「はぁ……?」
冗談抜きで困っている紫の表情は、久しぶりのものでとても新鮮に感じられた。
願わくば、紫の勘が当たらないでくれればいいのだが。
ともあれ藍は幽々子の監視をすることになったが、紫に「あまり近付いてはダメよ」と釘を刺された。
明確な理由は説明されなかったが、それが人間と妖怪の境界と言うことだろう。
酔いで体が火照っていたこともあって、その日は酷く寝苦しかった。
紫と藍の訪問から数日後、幽々子の身辺にも大きな変化が訪れていた。
「幽々子様を養女に?」
「そうだ、京の格式ある家柄だよ、きっとここにいるよりも豊かな生活を送れるだろう」
「しかし……」
そう言いながらも、男の服装を見るにこの家も並々ならぬ上流階級であることが窺える。
その男の前に跪いている銀髪の男の横には、何やら白い球体がぷかぷかと浮かんでいる。
銀髪の男はあの晩幽々子の元へ駆けつけた庭師、魂魄妖忌だった。
「妖忌、お前ほどの男がいつまでもこんな所に居るのも勿体無かろう」
「そのお気持ちはありがたいですが、何も私を気遣うことなどありませぬ」
「兄上に任されたあの娘……今に私の手には負えなくなる」
「……仰ることはわかります。ですがそれについては私が……」
「普通にしていれば愛らしい娘だとは思うのだ、成長する様を見守りたいとも思う……」
「だが、幽々子様には死霊が見える。その力の成長までも見守ることはできない、と?」
男は妖忌の目を直視することができなかった。
しかし妖忌もそんな男を強く責める事はできずにいる。
死霊は己の姿が見える者に近付き、訴え、救いを求める。
妖忌は庭師の仕事と並行して幽々子に近付く死霊を愛刀、白楼剣で切り捨てていた。
(最近はこの辺に随分死霊が増えた……)
自然に増えたものではないだろう。
死霊の間での噂で、自分の話を聞いてくれる人間がいるから……ということも無くはないかもしれない。
しかし、
(幽々子様が呼び集めているのだろう……)
妖忌が見るに、その仮説が一番有力だと思う。
死霊達は妖忌が現れても怯えず、抵抗することもなく、されるがままに切り捨てられるだけだった。
まるで己の意思を持たぬかのように、幽々子の側で虚ろに揺らめくのみだった。
幽々子が呼び寄せ、操っている……考えたくはないが、そう説明すると辻褄が合う。
死霊を集めてままごとをしていたときなど、恐怖で鳥肌が立った。
「どうした、妖忌……?」
「いえ、なんでもございませぬ」
「とりあえず今日のところはここまでだ……幽々子の様子を見てきてもらえるか?」
「はっ」
妖忌は男に一度頭を垂れて、すぐさま幽々子の元へと向かった。
庭で遊ばせておいたからそこに居るはずだ……妖忌の足取りは無意識に速くなる。
まだ幼い幽々子は、どれだけ危険なことかもわからずに死霊を玩具代わりにしてしまう。
幽々子に操られる死霊だけなら心配ないかもしれないが、それだけとは限らない。
(まさか、こんな少し目を離しただけで危険に見舞われてることもあるまいが……)
妖忌は駆け出した。
その手は白楼剣にかかっている。
幽々子は大人しく庭に居たようだが若干様子がおかしかった。
何をするでもなく、門外に視線を送って佇んでいる。
周囲に死霊は見当たらない、死霊遊びをしていたわけでもなさそうだ。
妖忌は訝しがりながら幽々子に駆け寄った。
「幽々子様」
「……」
「幽々子様、どうなさいましたか」
「あ、妖忌……あそこにお坊様がいるの、怖いから中に入る」
「ん……? あれは……」
妖忌が幽々子の言った方角に目を向けると、確かに一人の僧侶がいた。
門外から少し嬉しそうな、悲しそうな目で幽々子を見つめている。
距離としては大分遠くに居たのだが、幽々子の言葉が聞こえたのか、そそくさと立ち去っていった。
(……未だ未練は断ち切れませぬか……)
僧侶の居た場所に長い視線を送る妖忌の腕を、幽々子がぐいぐいと引く。
妖忌は幽々子の肩に優しく手を置いて、家の中へと連れて行った。
その男は有力武士の家系に生まれた。
そして、更に上流階級である有力貴族の精鋭に選ばれた。
文句の付けようのない地位、豊かな生活、周囲からの評判も良く出世も約束されていた。
妖忌はその男の部下として働いていた。出会いもそれによるものだった。
男は大らかで誠実、剣の腕もたつ。
ところがどこか不器用で愛嬌があった、妖忌はそんな男を見て自分に似たものを感じた。
男もそうだったのだろう。自然に二人の仲は深まり、男同士の付き合いをするようになった。
男は妖忌の生い立ちを聞いて、自分より遥かに長く生きる妖忌を人生における先輩として扱った。
片や妖忌は、その男を自分の上司として敬った。
誠実だが不器用な二人の付き合いは周囲からは滑稽なものに見えたかもしれない。
男は文武両道であった、武士としての確かな腕の他、歌や自然を愛する側面を持っていた。
彼の歌は技巧的に優れていると言うよりは、何か人の情に訴えかける温かみや儚さがあった。
妖忌も、常々そんな男の才覚に驚嘆していた。その才覚が何に由来するかなど考えたこともなかった。
ある日突然、男は世を捨てた。
原因は妖忌にもよくわからない。あれだけ親しかった妖忌にさえ話そうとしなかったのだ、誰にもわからないだろう。
何不自由ないはずだった、何もかもに恵まれていたはずだった、なのに何故?
心当たりが無いでもないが、本人の確認を取ったわけではないので不確かである。
男はどこか危なっかしさもあった、心が弱いとまで言うと過言だが、神経質で傷付きやすい性格だった。
世を捨てる前後に妻が急死したという話も聞いた、そこから人の儚さを見出した可能性もある。
そして何より、恵まれた生活に満足していない様子が多々見受けられた。
詳細については語ってくれなかったが、男は最後に頼みごとをした。
「この娘は私の弟に預ける事になっている、しかしどうか、お前も一緒に世話をしてくれないか」
と。
それだけの信頼を寄せられていることは妖忌にとっても光栄なことだった。
しかしどこか納得の行かない部分も残る……男が世を捨てる、すなわち出家する理由が明確にわからないのも一つだ。
とはいえそれについては言及するつもりもなかった、娘の面倒を見るという大義はあれど、頭の悪い男ではない。
妖忌にはそれを知る権利があったかもしれないが、疲れ果てた様子の男を見ていると、問い詰めるのは少々酷な気がした。
だが実際にその娘の身辺の世話を始めて、妖忌は事の重大さに気付く。
そして何故自分が選ばれたのか、ということも。
その男の娘、つまり幽々子は普通の人間には無い特殊な能力を持っていた。
死霊を操る力、まだ言葉もおぼつかないような娘でありながら、その力は既に大きなものだった。
男は他に友人がいないわけではなかったが、その中で妖忌を選んだ理由……。
それは家宝である白楼剣、そして妖忌の力を見込んでのことだろう。
友人の中で、もっとも信頼を寄せられていると言う自負も無いではなかったが。
男の身勝手さにいくらかの怒りも覚えた。
自分のことは良い。だがこの娘、幽々子はどうなるのだ、と……。
(このように未練がましく様子を見にくるぐらいならば、何故最初から出家などしたのですか……)
しかしそんな怒りは、男の悲しそうな顔を見て失せてしまった。
次の瞬間には、自分はただ幽々子を守るのだと言う使命感が燃え上がっていた。
「ねえ、ゆかりとらんはもう来ないのかな?」
「さぁ、わかりませぬな……良い子にしておれば来てくれるかも知れませぬぞ」
「ほんと?」
妖忌はそれに答えることができず、ただ微笑みを向けるだけだった。
たこだらけで無骨な自分の手を握る、小さくて瑞々しくて温かい手。
それはとても脆く、儚いものに思えた。
そして皮肉な話だが、幽々子が問題を起こさない限りは紫も藍も姿を現すことは無いだろう。
そう思うと妖忌は胸をきつく締め付けられる思いだった。
(すまんな……私はお前の友達にはなれないんだよ)
気配を殺して庭の片隅からこっそりと覗いていた藍も、悲しそうに溜息をこぼした。
それから数週後。
主人、つまりは幽々子の叔父の部屋に妖忌と幽々子が呼び出されていた。
養女として差し出す話を幽々子自身に伝えるためだ。
まだ幼い幽々子には少し難しい話だとも思ったのだが、意外にも即座に状況を理解した。
そして幽々子は目に涙を一杯溜めて拒否した。
「嫌だよ……ここに居たいよ」
「幽々子、とても良い話なんだよ」
「どうしても差し出さねばならぬのですか?」
そんな幽々子の意思を尊重するために妖忌も必死だった。
幽々子を任された責任感もあるし、幽々子自身への情も深い。
「相手方がその気になっている以上、こちらから断るわけにはいかん」
「ならば私がついていくことは……」
「向こうにはよく訓練された従者がたくさんいる。お前の話も聞かせたが、今更年寄りなどいらんと言われた」
「バカな! そこらの若者よりも働ける自信はあります!!」
「向こうはそうは見ていない、それが全てだ」
「くっ……」
「妖忌ぃ……」
友達ではないが、妖忌は幽々子にとって大切な家族だった。
叔父はどこか自分を避けているような態度だったが、妖忌は違う。
見つめるその目には「ついてきてよ」という哀願が込められている。
そんな幽々子を見ていると妖忌の額に脂汗が滲んできた。なんとかならないものか……。
「幽々子、向こうにはここと違ってたくさんの人間が居る」
「……」
「友達もできるかもしれないぞ?」
「えっ……?」
ただならぬ気配を感じた叔父が妖忌の方へ目をやると、今にも斬りかかってきそうな鬼気迫る表情で睨みつけていた。
こんな純粋な娘の弱みを衝く、汚い大人の気休めの言葉……妖忌には許し難かった。
しかし、そんな自分に怯えて、顔面蒼白になった幽々子の叔父を見て妖忌は我に返る。
そう、自分もまた異形の者で、力を持たない常人の気持ちなど理解できないのだと悟った。
妖忌の顔は見る見る悲しみに満たされ、申し訳なさげに、幽々子の叔父に頭を下げた。
(こうするしかないのか……)
僅かに希望を覗かせる幽々子の顔を直視できない。ギリギリと拳を握り締める。
力はあっても権力は無い……何のために磨いてきた剣術なのだろう。
何を守るための剣なのだろう。
そして幽々子が貰われることが正式に決まった。
もちろん一人きりである。
●第二章『人と妖』
「いらっしゃい幽々子……これからは私を母と呼んで頂戴ね」
優しい笑顔に迎え入れられた幽々子は、周囲の心配をよそに何不自由無く健やかに育った。
茶を楽しみ、歌を楽しみ、蹴鞠を楽しみ……美しく育っていたこともあり、恋も楽しんだかもしれない。
友人もでき、その能力ゆえの不審な挙動も見られなくなった。
特に問題なく数年の歳月は流れていった。
妖忌と違い、たとえ場所が変わっても監視を続けなければならない藍にしたら、それは望ましい退屈だったろう。
しかし、人間に化けて従者に混ざっている藍の表情は優れない。
養女になって数年間は何事も無いように思えたが、成長した幽々子の周囲にきな臭さが漂い始めた。
幽々子を見ていて面白くないと思ったのは、他ならぬ幽々子の養母だった。
血のつながりがないとは言え確かに娘は娘なのだが……幽々子が誉められるたびに、養母は幽々子に嫉妬した。
男達の噂話も幽々子の話題で持ちきり。納得がいかない。
養母は言うまでもなくその家のお嬢様だった、自分より偉い女など居なかった。
男達は皆自分の美しさを褒め称えてくれていた、なのに……。
幽々子が美しく育つであろう事はわかっていたし、そういう理由で養女として引き取った部分も無くはない。
だというのに、いざ育って自分を凌ぐようになったらそれはそれで面白くない。
覚悟や見通しが足りなかったと後悔するよりも、一人の女としての憎悪が先に立つ。
生まれてからのお嬢様育ちでどんくさい幽々子は、蹴鞠がそれほど上手ではなかった。
しかし、失敗してはにかむその様子がまた、たまらなく愛らしい。
そして蹴鞠とは打って変わって幽々子の歌はとても美しくて情緒がある。
それもまた周囲の人々を魅了し、同時に養母の怒りを買うことになった。
しかしそんな状況も、あることを機に大きく変わってしまう。
それは養母の嫁入りだった。
結婚もしていないのに養女を迎え入れるというのは妙な話に聞こえるかもしれないが、実際はそれほど珍しくもなかった。
特に貴族や上流階級は、子宝が望めなかった場合、血は繋がっていなくとも優秀な跡継ぎが必要になってくる。
男ならそのまま家督を継がせれば良いし、女なら政略結婚に使えば良い。
一見華やかな上流階級には、そんな残酷なやり取りが散見できる。
とはいえこの場合は幽々子が政略結婚に使われるというものではなかった。
多少婚期は逸したものの、養母自身の嫁入りである。
「お母様、おめでとうございます」
「あら、幽々子……ありがとう」
養母に向けられた幽々子の笑みは、まさに花のように可憐で優しかった。
養母はそんな幽々子の笑顔を見て眉をひそめそうになったが、ツイッと視線をそらしてごまかした。
急に視線をそらされた幽々子は、不思議そうに目をくりくりさせる。
だが、なんとなくわかっていた。
幽々子は、自慢の娘になるために精一杯の努力をしてきたつもりだった。
叔父や妖忌と離れることになってしまったのは確かに辛いことだったが、優しく迎えられ、
いろいろなことを教えてもらい、快適な生活に美味しい食事……優しかった養母の笑顔。
最近の養母が、自分に対して凍りつくような冷たい視線を投げかけているのは知っていた。
けれどそれが何故なのかが幽々子にはよくわからなかったし、訊くわけにもいかない。
きっと自分がだらしないからだろうと思い、いろいろなことを勉強したが、どうもそれさえも怒りを買ってしまうらしい。
物心つく頃には既に母はいなかった、父もいなかった。
優しくて頼りになる妖忌は、それでも従者としての姿勢を貫く男だった。
叔父は優しいし、想ってくれているのは感じるのだが、どうも自分に対して怯えるような様子があった。
あとは不思議な魅力を持った二人……名前はもう覚えていないが、あの二人が再度幽々子の前に現れることも無かった。
そんな幽々子にとって「お母様」と気兼ねなく呼べる存在は、他の者には想像もつかぬほど嬉しいものだったろう。
――もう一度、あの優しい笑顔で名前を呼んでほしいだけなのに。
それでも諦めず努力に励む幽々子の姿は、あまりにも健気で、悲しかった。
幽々子の身辺は決して幸せと言い切れるものではない。
それでも耐えている様子を見る分に、当分問題は起きないだろうと思い、藍は未だ見に徹している。
自室に篭って沈んでいる幽々子を覗き見るたびに、正体を明かして慰めてやりたくなった。
しかしそれは叶わない、藍に与えられた命は飽くまで隠密行動……越権行為になってしまう。
『あまり近付いてはダメよ』
紫の言葉を深く噛み締める……なるほどこれは確かに情が移る任務だ。
藍にできることは、せいぜいが幽々子の部屋を丁寧に掃除することぐらいだった。
藍が闇夜に紛れて報告に戻ると、紫は居間で酒を飲みながら、顎に手を当てたり首をひねったりしていた。
できるだけ簡潔に報告を済ませたい、紫もそれをわかっているのか途中で口を挟むことは無かった。
そして藍の話が終わると、紫はお猪口をちゃぶ台に置いて話し始めた。
「あまり良くない方向に進んでるわね」
「ええ……人間らしいと言えば人間らしいのですが」
「あの庭師は?」
「たまに様子を見に行っていますが、幽々子が養女に行って以来はずっと腑抜けています」
「頼りにならないわねぇ……」
「あれだけの力があるのにもったいない」と舌打ち混じりに呟き、紫は不愉快そうにズルズルと音を立てて酒を啜った。
「ですがあの状況はただの庭師にはどうしようもなかったでしょう」と藍は弁護する。
そして紫は少し考え込んだ後、顔をしかめながら呟いた。
「近いうちに第一波が来るでしょう」
「だ、第一波? なんと不吉な……」
「まったく最悪だわ、面白いと言えば面白いけれど」
紫はフンと鼻を鳴らして藍にお猪口を突き出した。
藍もほとんど家に戻っていないのでわからないが、紫が何もせずにこうして文句ばかり言ってるのだとしたら随分酷い話だ。
そしてやはり何もしてないような気がして、少々呆れ気味に苦笑しながら酌をした。
「藍」
「は、はい?」
ところが急に酔っ払いの顔から真顔になったので酷く狼狽した。
驚きのあまり酒を溢れさせてしまった藍、紫は不機嫌そうに指についた酒を舐めながら続ける。
「任意であの庭師の前に姿を現すことを許可するわ。だから、あの男に剣を」
「……剣?」
「前から持っているあれも死霊に対してかなりの力を持つようだけれど」
「はい」
「あれ、守り刀としての意味合いが大きいの。長さも大したことがないでしょう?」
「……確かに」
「あれでは有事のときにあの娘の能力に対抗できないわ」
「……」
「私達だけで手が足りない以上、あの男は有効利用するべきよ」
それには藍も同感だった。
あの男、魂魄妖忌は人を超えた力を持ち、対死霊戦に特化したあの剣も、幽々子の力を封じるためのものとさえ思える。
幽々子に対する忠誠心の強さも、身辺を警護する上で必要不可欠な要素だろう。
今は幽々子から離されて腑抜けてしまっているものの、何か事が起こったときには協力願いたい。
そしてあの剣、白楼剣と言ったか……紫の言う通り、死霊に対する威力の高さは申し分ない。
だがそれは飽くまで一対一、妖忌の剣の腕を考えればもっと増えても問題無さそうだが、幽々子の力は現時点でそれを上回る。
数十程度ならなんとかなるかもしれないが、やはりあれ一本では心もとない。
見に行く度に妖忌があの剣を握り締めて祈っていることも鑑みるに、確かに守り刀……何か精神的な側面を持つように感じた。
「剣を用意せよと仰るのですね」
「とびきりのやつを。対死霊に特化して構わないわ」
「了解いたしました」
「でも、任意とはいえすぐに渡してはダメよ……最後まで見定めなさい。
妖怪の作ったものを人間に渡すということはそれだけの危険性を孕んでいるの」
「御意に」
「どのようにして準備するかは貴女に全部任せるわ」
「はっ!」
さらにいくらかの月日が流れ、幽々子の養母の結婚も済んだ。
美しい衣装に身を包む養母の晴れ姿を、幽々子は終始優しい笑顔で見つめていた。
(いつか私にもあんな日が来るのかしら)
そう思うと頬が熱くなる。
祝いにやってきていた周りの貴族の男達の中にも、幽々子目当てで来ている者は少なくない。
養母の結婚で更に強い勢力を持った幽々子の家、そして美しい幽々子、こんな好条件そうはあるまい。
純な幽々子に対し、幽々子を見る男達の目は欲望にまみれている。
「チッ」
藍はいつも通り従者に紛れ、遠目にその様子を眺めていた。ああいう人間達は好きではない。
長いこと幽々子の監視をさせられて、どこか親心に近い感情を抱いてしまっていた。
あんなくだらん男達に幽々子をやるわけにはいかん、と思う。
『近いうちに第一波が来るでしょう』
紫の言葉……何が引き金になるかはわからないが、確かにそんな気配はある。
幽々子を取り巻く環境はここ数年で目まぐるしく変化している。
藍は妖忌の元へ足を運ぶことに決めた、だがあの剣はまだ渡すまい。
妖忌は相変わらず幽々子の叔父の家で庭師をしていた。
剣の修行は怠らないが、昔のように幽々子の集める死霊を斬る事はもう無い。
一仕事終えて縁側に座り込んでいた。
幽々子が居なくなってからと言うもの、何もかもに張り合いが無かった。
親友との約束も守れず、己の信念も貫けず……膝に置いた白楼剣をぼーっと見つめるその目は、酷く澱んでいる。
(幽々子様、音沙汰無いが、幸せにやっておられますか……?)
庭に目をやると、未だに幼い幽々子が一生懸命走り回っている姿が脳裏に浮かぶ。
妖忌の顔を見ると大喜びで駆け寄って来た。転んで泣いてしまったこともあったっけ……。
もう良い娘に育っていることだろう、一体どのような娘に育ったのだろうか……。
突如、一陣の風が吹いた。
舞った砂埃が目に入り、妖忌は思わず目を瞑る。
何事かと涙目をこじ開けると、そこには信じられない光景があった。
「九尾狐……?」
「突然訪ねて申し訳ない、少し話を聞いてもらいたい」
これがかつて幽々子が言っていた「らん」か。妖忌はそれを確信した。
確かに高い知性を感じる、物腰も落ち着いており敵意など一切感じられない。
「幽々子のことだが」
「……ッ!? 幽々子様はここにはおらぬ」
「知っている、私はあの夜以来ずっとあの娘を見守り続けているわ」
「なに……?」
妖忌の目から思わず涙がこぼれた。
言いようの無い感動……幽々子を見守ってくれている者がいたのだという喜びの涙だった。
「な、なんだ湿っぽいわね、剣士がそう簡単に涙を見せるんじゃない」
「すまぬ……しかしこれが泣かずにいられるか……」
藍は困ったようにぼりぼりと頭をかきながら、涙を流す妖忌を見下ろしていた。
しかし、みっともなく嗚咽を漏らして涙をこぼすその姿には、どこか同情と親近感が湧く。
「で、本題だ。泣くのはそれぐらいにしてほしい」
「う、うむ……」
「見守っているとは言えこのように妖怪の身、主の忠告もあり直接的に守ってやることはできん」
「……ああ」
「あの子を取り巻く状況がどんどん悪くなっている」
「……なんと」
藍は説明した。幽々子の生活は一見豊かだが養母に目を付けられていること。
養母が結婚をしたこと、そして周囲の男達の薄汚い眼差し。
「あの娘の力、わかっているな」
「ああ、わかっている」
「いざと言うときに側で守ってやらなければいけないのはお前よ」
「今更どの面下げて行けと言うのだ……」
「情けないことを言うな、幽々子は今だってここでの生活を思い出しながら耐えているんだ」
「……」
「お前がそんなことでどうする、剣士ならば死をも覚悟して幽々子を守ってやれ、良いな」
「そうだな……すまぬ、みっともないところを見せた」
「わかったらあの子の屋敷の側で待機していろ……はっきり言ってきな臭いぞ、いつ爆発するかわからん」
守ってやりたい、守ってやらなければいけない、なのに数々のしがらみが絡みついてままならない。
それは妖忌だけではなかった、藍も同様の辛さを味わっている。
「話はここまでだ、私は引き続きあの娘の周囲を監視する」
「藍……殿」
「……なんだ?」
名前を知っていたか……できるだけ素性は隠したかったのだが。
幼い幽々子が話してしまったのだろう。この屋敷で監視した数日の間にも、何度か自分の名前を口にしていた気がする。
「心より感謝する」
妖忌はそう言って藍の前に跪く。
藍が紫に対してよくやっていることだったが、自分がやられるとなんともこそばゆい。
「い、いい、やめろ……まだ礼を言うには早いだろう、まったく……」
頬を染めて照れる藍を見据える妖忌の顔は、迷いなどなく涼しげで頼もしい。
感謝しているのは何も幽々子のことだけではない、再び自分を剣士として立ち上がらせてくれたこと……。
捨てかけていた誇りを取り戻させてくれたこと……。
――何があろうと幽々子様を守る、剣士として。
白楼剣を握り締め、藍を見送る。
一刻も早く旅の準備をしなければ。
藍が妖忌に声をかけたのは絶好のタイミングだった。
そう、この直後に紫の予感が的中することになるのである。
結婚が済んだら次は身辺の整理が始まる。
物質的なもの……金品、衣類、家具、それだけのことではない。
嫁入りなので、幽々子の養母は結婚相手の家に乗り込むことになるのだ。
人間関係も整理されなければならない。それは主従関係であったり、血縁関係であったり。
養母はたくさんの侍女を連れて嫁ぐ。
藍はその中に抜け目無く潜り込むことができた。
そこまでは特に問題なかった。
「お母様、今なんて……」
「もう貴女は私の養女ではないと言ったのよ」
何度聞き返したって返ってくる言葉は同じ、変化と言えばただ養母の顔に苛立ちが募っていくだけ。
幽々子は青ざめ、震えながら……信じられないという表情でわなわなと崩れ落ちる。
「夫も言っていたわ、貴女を侍女にすると」
「なんで、お母様……なんでっ!?」
「もう私を母と呼ばないで!」
「ぅ、ぅ……」
立っているのも辛くて、ぺたぺたと四つん這いで養母に近付き、その服を掴む。
幽々子の哀願の眼差し、しかしその表情さえも美しく、養母の神経を逆撫でた。
「私、頑張りました! 辛かったけど……立派な娘になるために頑張ってきたんです!! なのに何故!?」
「……そういう態度が気に障ると言っている!! 寄るな! 汚らわしい!!」
パチンと響く音、養母が平手を放った音だった。
思い切り振り上げられたその平手に幽々子は跳ね飛ばされ、床に倒れ込む。
養母も長い間極度のストレスを感じていたため、若干気が触れていたのかもしれない。
般若のような顔、幽々子には劣るもののその美しい顔は、怒りに彩られると鋭さを何倍にも増す。
それでも幽々子は震えながら起き上がり、再び養母に近寄ろうとする。
「気に障ったのなら謝りますから……ご不満な点があればすぐにでも直しますから……!!」
――だから、もう一度あの優しい笑顔を……。
「ふ、ふーん、そう……本当になんでも言うことを聞くの?」
「はい、ですから……」
「一番気に入らないのはその顔よ」
そう言って、養母が懐から取り出したのは小太刀。
冷たい視線に冷たい刃。幽々子は震え上がった。
そこまで憎まれていたなんて……それすらわからず盲目的に愛を求めた自分を蔑んだ。
胸を埋め尽くす絶望、全てが闇の中へ落ちていく。
「なんでも言うことを聞く」とは言ったものの、髪と顔は女の命。
この養母の行いは、幽々子に「死ね」と言っているのとそう大きな差異は無かった。
助けを求めようにも周りに従者は居ない。
養母は最初からこのつもりで、二人きりでの話をしたのだろう。
全て仕組まれていた、幽々子を貶めるために。
養母は小太刀を握り締め、ゆっくりと幽々子に近付いてくる。
幽々子は心底怯えた表情でずりずりと後ずさっていたが、背が壁に当たってしまった。
「なんでも言うことを聞くんでしょう?」
「お母様お願い、やめて……」
「母と呼ぶんじゃない!!」
ついに養母が幽々子の髪を掴み、その頬に小太刀を近づけたとき……。
「いやぁーっ!!」
幽々子の自衛本能が働いた、長い間封印していた……妖忌や叔父が恐れていた力が。
養母は突然無表情になり、幽々子を振り落とし、自分の喉に小太刀を突き立てた。
鮮血がほとばしり、目の前の幽々子、そして部屋の中を真っ赤に染め上げる。
幽々子はしばし呆然としていたが、これは自分の力が引き起こしてしまったことだと気付いた。
未だ喉からドロドロと血を流す養母、不気味に痙攣を繰り返すその姿を見て、胃から酸っぱいものがこみ上げる。
「どうなさいました!?」
いくら二人きりになっていたとはいえ、部屋の外には従者が待機している。
幽々子がぎりぎりまで耐えずに、もっと早く叫んでいれば、このような最悪な事態は免れたかもしれないのに……。
最後まで養母を捨てられず、愛を求めてしまったために。
部屋には、喉から血を流して倒れる養母、床に落ちた血まみれの小太刀、頭を抱えてうずくまる幽々子。
「何を……」
「違う、違う……私じゃない!! もう嫌!!」
駆けつけた従者が突然、受け身も取らずに倒れ込む。
それだけではない、幽々子を中心としてじわじわと……屋敷の人間が死んでいく。
同時に、大量の死霊が呼び寄せられ、幽々子を守るように屋敷内を埋め尽くす。
幽々子の能力から逃れた者も、それら死霊に襲われて次々に命を落としていった。
「くっ……ついに始まったか……しかし、なんという邪気……」
大きな妖力を持つ藍は、自力で幽々子の力から身を守ることができた。
道すがら、倒れている者の首に手を当てては頭を横に振る。
「これではもう生存者も何もない……妖忌の到来を待ち、幽々子の暴走を止めなければ!!」
藍は、従者の一人として自分に与えられていた部屋へと駆けていく。
今こそあの剣を妖忌に渡すとき。
妙な気配を感じた妖忌が宿から出て来た時、既に街は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
幽々子の住んでいる屋敷の周囲には街が栄えており、それさえも包み込む幽々子の力は、余すところなく災厄を振りまいた。
悲鳴すら上げずに絶命する者、死霊に取り殺される者……。
霊力を持つ者は抵抗したりもしていたが、襲い来る死霊の絶対量に押しつぶされ、やはり命を落とす。
(数年目を離していただけで、ここまで強大なものになっていたのか……!!)
腰に携えた白楼剣は、キンキンと耳障りな音を立てて幽々子の力から妖忌を守っている。
こんな白楼剣は初めて見る……絶対に手放すまいと妖忌はそれを握り締め、幽々子の居る屋敷へと向かった。
妖忌が到着すると、恐ろしい数の死霊が屋敷を取り巻いていた。
屋敷に入る途中で見かけた門番を初めとした、全ての従者は既に息絶えていた。
屋敷の中に入れば、大部屋、小部屋、廊下、果ては台所や厠まで、どこを開けてみても死霊が徘徊している。
「幽々子様……!!」
混乱した幽々子が呼び寄せてしまった死霊の群れ。
妖忌は一刻も早く幽々子の元へと辿り着き、慰めてやらねばならないのだが……。
「痛ぅっ……! 無差別攻撃をしているのか……!!」
見ると死霊同士も殴り合ったり掴み合ったりしている、幽々子の霊力を身に受けて興奮しているのだろう。
無視しようとして突き飛ばされた妖忌は、早く幽々子の元へ向かわなければならないのだが、
道中にいる死霊達を斬り伏せねばそれが不可能であることを悟った。
「おのれ、面倒だ……」
白楼剣で死霊を斬り捨てつつ、妖忌は幽々子を探す。
しかし死霊の数が半端ではない、短い白楼剣ではどうにも分が悪い……。
「幽々子様ァーッ!! 妖忌です!! どうか鎮まってはいただけませぬか!!」
力いっぱい叫ぶ妖忌だったが、幽々子の反応は無い。そして死霊も増える一方で減る気配が無い。
広い屋敷だったがこの死霊の数。所狭しとひしめき合っていて、このままでは身動きさえ満足にできなくなりそうだった。
一本の白楼剣を一人の人間が持っていたところでどうしようもない。
「く……とりあえず広いところへ……」
幽々子を探すつもりだったが、それどころではなくなってしまった。
しかし諦めるわけにはいかない。妖怪の身で、表立って人と関わりを持てない藍の歯痒さ。
それでも出来る限りの努力をして幽々子を守ろうと努める姿。
そして妖忌自身の剣士としての誓い。その背には、あまりにも多くのものがのしかかっている。
妖忌は一度体勢を立て直すために、邪魔な死霊を乱暴に押しのけながら広い中庭へと転がり込む。
「……この広さの庭でもこれか!! しかもこの数……」
既に庭までも死霊で埋め尽くされていた。
それだけではない。なまじ視界が広がったために、この屋敷を包み込む恐ろしい数の死霊を目の当たりにしてしまった。
数百ではきかない、千数百か、数千か……。
「幽々子様……ッ!!」
進退窮まった、このままここに居れば妖忌自身も騒動に巻き込まれて命を落としかねない。
なんとかならないものかと、必死に思案を巡らせていたそのとき……。
金色の風が、白い尾を引きながら宙を駆け巡った。
白い尾が揺らめくたびに凄まじい数の死霊が消え去っていく。
そして瞬く間に妖忌の周辺にいる死霊を滅ぼすと、白い尾、そして金色の風の正体が明らかになった。
風と思われていたそれは、金色の髪、金色の九尾を持つ少女。
尾と思われていたそれは、その手に握られた一振りの長刀。
幽々子を見守る妖怪、八雲藍。
手にするのは死霊を討ち滅ぼす妖刀。斬った死霊の冷気をまとい、シュウシュウと音を立てて青白い煙を放っている。
藍はその長刀を鞘に納めると、金色の瞳で妖忌を見据えてそれを突き出した。
「これを使え。一振りで十は死霊を滅することができる」
「これは……」
「銘は打っていない。好きな名をつけるといい……お前ならばすぐに使いこなすだろう」
妖忌は若干訝しがりながらもその長刀を受け取り、半身ほど抜いてその刃の美しさに驚愕した。
長刀を受け取った妖忌を見て満足そうに笑った藍、しかしその表情は直後に引き締まる。
「幽々子の元へ急げ、ここは私が引き受ける」
「……感謝する」
妖忌の背中を見送り……フッと一瞬微笑むと、藍は大地を蹴って再び夜空を駆け巡った。
重力の存在など忘れたように流麗に宙を舞い、長刀の代わりに伸びた爪が紅い弧を描いて死霊を斬り刻んでいく。
まるで踊るように、しかし、確かに力強く。
妖忌は藍に背を預ける。二人の間には確かな信頼関係が築かれつつあった。
「お前達には何の罪もあるまい、だが、通してもらう!!」
大の男でさえ扱いに苦労しそうな長刀、しかし、妖忌はそれを片手で振り上げた。
そして渾身の力を込めて振り下ろすと、旋風が死霊の群れを飲み込んだ。
(これならば……道を切り開くことができる)
妖忌の力によりその霊力を増した長刀は、一振りで十以上の死霊を屠り去った。
右手に長刀、左手に白楼剣を握るその姿。それはとても即興とは思えない見事な二刀流だった。
迫り来る死霊の群れを斬り捨てて妖忌は幽々子の姿を探す。
屋敷の中も街に劣らず酷い状態だった、やはり生存者はいない。
そうでなければ侵入できなかったが、それを好都合と言ってしまうのはあまりにも不謹慎だろう。
この屋敷の者達が幽々子を追い詰めたのは確かだろうが、どうにもできない者も居ただろうし、無関係な者もいたはずだ。
その途中、妖忌は信じられないものを目にした。
生存者などいない、そう思っていたのだ。
死霊を滅するでもない、かき分けるでもない。死霊が自ら道を開け、僧侶の姿をした男の歩く道を作る。
男は悠然とそこを歩き、周囲を眺めては悲しそうな表情を浮かべていた。
「……西行寺様」
「……妖忌か」
およそ十余年ぶりの邂逅であろうか。
妖忌や藍だけではない……彼もまた、父として幽々子を見守っていたのだろう。
「笑ってくれ、妖忌」
「……」
自分がどれだけ身勝手か、男はわかっているのだろう。
こんな状況になってから出てきて……父ならばこうなる前になんとかできたかもしれないのに。
「私は弱い人間だよ」
「……真に強い人間などおりませぬ」
死霊だらけの屋敷なのに、この二人の周囲だけは死霊が退いている。
それは幽々子が死霊を避けたわけでも、白楼剣が死霊を避けたわけでもない、幽々子の父親自身の能力……。
つまり幽々子と同じ、死霊を操る能力によるものだった。
共に働いていた頃にはそんな素振りは見せなかったが、世を捨てたことで開眼したのだろうか。
それとも、その力を隠していたのだろうか……妖忌はこの状況下にあって、冷静にそんなことを考えていた。
「私とて、貴方との約束を守りきれておりませぬ」
「……お前の養女にしてやるべきだったと後悔している。迷惑かもしれんが」
「迷惑だなどと思わぬ……しかし貴方は身勝手だ、私が責められる立場ではないが」
「ああ、わかっている」
話途中で男は再び歩き始めた。血の繋がった親子として、幽々子の位置を捉えられるのかもしれない。
妖忌は黙ってその後をついていく。今の幽々子に父親を会わせてどうなるのだろう。
そして自分は幽々子にどんな目で見られるのだろう……どれも予想ができないが、今はただ幽々子の元へ向かう他無い。
男は迷うことなく幽々子の居場所を探り当てた。幽々子は部屋で一人、うつむいて泣いている。周りには死霊も居ない。
随分と大きくなったが確かに幽々子だった、昔見た面影がしっかりと残っていた。
「幽々子様!!」
真っ先に駆け出したのは妖忌だった。もう何も考えられない。
ゆっくりと顔を上げて妖忌を見る前に、幽々子は強く抱きしめられた。
「申し訳ございませぬ幽々子様!! 私が、私がもっとしっかりしていれば……!!」
「妖忌……?」
妖忌の顔は見えない……胸に顔を埋めて息を吸う、懐かしいにおいがした。
耳を澄ませれば、その声は昔聞いた優しい声、厳しい声。
背に手を回して……確かめるように、おそるおそる撫でた。
それは幼い頃に背負われた、逞しくて温かくて広い背中だった。
妖忌の背中だった。
「妖忌……妖忌ぃっ!!」
「幽々子様、申し訳ございませぬ……おぉ……うぉぉぉっ!」
幽々子は痛いぐらいに強くしがみついてきた、心細かったろう、怖かったろう、寂しかったろう。
ようやく……何の気兼ねも無く身を預けられる、優しい妖忌の胸に抱きしめられる。
妖忌もまた幽々子を強く抱きしめる、どれだけ歯痒かったことか、悔しかったことか、情けなかったことか。
抱きしめる幽々子の体は成長したとはいえまだ幼くて弱々しく、力を込めすぎれば折れてしまいそうだった。
死霊は少しずつ、幽々子の呪縛を離れて四散し始めた。
いつの間にか幽々子の父は姿を消していた。
こんな妖忌と幽々子の姿を見て、今更自分にできることなどないと思ったのだろうか。
二人はどれだけ長い時間抱き合い、涙を流しただろう。
死霊は相当にゆっくりと散っていったにも関わらず、その全てが居なくなってからもまだむせび泣いていた。
導師服をぼろぼろにされた藍はそんな二人を遠巻きに眺め、グスッと鼻を啜った。
目には涙が浮かんでいるのだろうか……しかし自分は表に出るわけにはいかない、すぐに立ち去ることにした。
だがあの美しい涙にごまかされてはいけない。
屋敷とその周囲の街にはたくさんの骸が転がっている。
それらは全て、幽々子が殺したのだ。
(だが、今ぐらいは忘れさせてやってくれ……)
とぼとぼと屋敷の中を歩く藍の足元には目を開けたまま絶命した侍女の死体。
建前とはいえ、藍と何度か顔を合わせたし、共に働きもした。
藍はそっとそのまぶたを下ろしてやり、目を閉じて祈りを捧げた。
何が悪いのかなんて、誰にもわかりはしない。
憔悴しきって戻ってきた久々の我が家に主は居なかった。
夜と言えば夜だったが、それでもまだ紫が起きるには早い時間である。
「はぁ……」
布団を敷く力すら湧いてこない、藍は心身共に疲れきり、倒れ込むように畳の上に寝そべった。
これから妖忌はなんとしてでも幽々子の側に居てやるだろう。
滅茶苦茶な経緯ではあるが、妖忌と幽々子の仲を引き裂いたあの貴族は全滅した。
あの状況では幽々子も死んだことになる可能性が高い。
隠れて暮らすことになるかもしれないが、妖忌と共に穏やかに暮らしてくれれば、と願う。
(罪悪感に押し潰されないようにな……)
不安があるとすればそこだった。あの純粋な幽々子が、己の起こした大惨事をどう受け止めるか……。
(もう考えるのも疲れた、私は神様ではないんだよ……)
藍はそっと目を閉じ、ぼろぼろの導師服を着替えることすらせずに眠りに落ちていった。
一方、例の桜を眺める紫。そしてその横にもう一人の少女が居た。
夜だというのに二人並んで日傘を差して……紫は神妙な面持ちで、その少女は冷たい笑顔で、桜を見上げている。
「知っていた? この桜のこと」
「もちろん」
少女が近寄ると桜の枝葉がざわめいた。まるでこれ以上近寄るな、と威嚇するように。
「……困った子ね」
「こんな大木を子供扱いするなんて、貴女らしいわ」
「綺麗ね」
「ええ」
少女は子供でもあやすときのような、柔らかな微笑を浮かべて桜へと歩み寄り、そっと手をかざした。
だが次の瞬間、鮮血がほとばしった。
桜から放たれた魔力が刃となって少女の腕を切り刻んだのだ。
「……貴女の能力でなんとかできないかしら」
「見ての通りね」
血まみれになった自分の手を珍しそうに眺めながら、少女は桜を離れる。
「これはもうただの花ではないから……制御するのは無理ね、破壊するのも難しそうだし」
「破壊ねぇ、力技はあまり好きではないのだけれど」
「それに可哀想だわ、こんな綺麗な子を破壊するなんて」
「そうね……でも危険だわ」
「放っておけばいいじゃない」
「気になるのよ」
その言葉を受けて、少女はその赤い目を紫に向けて冷たく微笑む。
紫は呆れたように溜息をつくと、自分の髪を何度も撫で下ろした。
「ここから動き回ることもできないでしょうし、別に貴女に関係ないじゃない」
「相変わらず残酷ねぇ」
「それは違うわ、私はあまり好奇心旺盛じゃないだけ」
「あら、年寄り臭い」
「この子を放っておけばたくさんの人間が死ぬでしょう」
「力を持て余しているわね、この桜」
「けど、私はそんなことどうでもいいのよ。貴女と違って」
「なんとも妖怪三昧ですこと」
噛み合っているようで噛み合っていない会話は、長く生きた者同士の以心伝心によるものなのか。
見た目は少女……花の妖怪、風見幽香は紫を冷たい目で見据えながら微笑んだ。
対する紫は、そんな幽香の視線を恐れる事もなくじっと見つめ返している。
「それで、結局この子をどうしたかったの?」
「貴女に管理してもらおうかと思ったの……でもダメねぇ貴女、使えない」
「随分酷いことを言うのね」
「貴女が管理したら余計に死人が出そうだし、そもそも管理できないみたいだし」
「なんで私が人間を守らないといけないのよ。理由が無いわ」
さらっと、ごく自然に幽香を否定する紫。
幽香は表情にこそ出さないものの、わざわざ呼び出されてこんな酷い扱いを受けたことが不愉快だった。
しかし紫は、威圧的に膨れ上がる幽香の妖気の中に身を置いてもたじろぐ事はない。
「神様気取りかしら? そんな能力を持っているからって調子に乗りすぎじゃないの? 紫」
「別にそんなわけじゃないの……でも人間を無闇に殺す理由も無いでしょ? だから逆に守ってみようかしら、と」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうね、この桜……やはり妖怪としては幼すぎる」
「……」
「過ぎたる力……いずれ暴走する」
「だーかーらー……放っておけば良いじゃない」
「貴女も花の妖怪なら、先輩らしく妖怪のルールでも教えたらどうなの?」
「反抗的すぎてダメよこの子、見てこの腕」
「まぁ、袖がぼろぼろね」
幽香はぼろぼろになった一張羅を見て眉をしかめる。
桜から受けた傷などとうに回復してしまっていた。
「そろそろ帰って良いかしら?」
「良いわよ、まぁいろいろ聞けたし無駄にはならなかったわ。ありがとう」
「どういたしまして……貴女はどうするの?」
「力ずくで破壊してみるわ」
「……妖怪とは言え元はこの子も花、私がそれを許すと思う?」
「許してぇ」
「……ま、この子私の事も敵視してるみたいだし。多分貴女でも破壊できないから、ここは見逃すわ」
「随分酷いことを言うのね」
「妖怪三昧だもの」
最後にまた冷たく笑って、幽香はゆっくりとその場を飛び去った。
紫の目の前には禍々しくざわめく彼の桜がある、来るなら来いと挑発しているようだった。
「大先輩にそれはないと思うの。悪い子にはお仕置きをしませんと」
紫は日傘を構えなおすと、姿勢良く桜の方へ歩いて行く。
紫と桜、双方の力がぶつかり合い、空間が歪んだ。
誰かが自分の体を揺すっている。
藍は目を閉じたまま眉間にしわをよせ、鬱陶しそうにその手を振り払った。
「まぁ、藍……反抗期?」
「……はぁっ!?」
紫の声が酷く懐かしいものに聞こえた。藍は驚いて飛び起き、紫の顔をまじまじと眺めてから頭を下げた。
「もも、申し訳ございません! こちらも大変でして、つか、つか……疲れておりまして!」
「あらら、藍もこっ酷くやられたのねぇ……」
そう言われて紫の全身を見ると、服があちこち引きちぎられているし血も流れている。
一体何があったのだろう、状況が掴めず藍は思わず大声を上げる。
「……紫様、お、お怪我をなさっているではありませんか! 一体何が!?」
「痛いわぁ、藍……慰めてぇ」
「……」
なんだ、余裕しゃくしゃくじゃないか。
怪我の理由はどうあれ、手当てなど必要無いと藍は思った。
疲れもあってイライラしているのかもしれない。
「藍こそ、目の下に隈ができてるわよ。まるでタヌキみたいなの」
「ほっといてください……」
ぶすっと膨れて、目の下を手でこすった。
紫は藍の様子を見て少時ニヤけていたが、一つ大きな息をついてから真剣な表情になる。
「……そっちも大変だったようね」
「ええ……第一波、強烈でしたよ」
「そう、何人ぐらい死んだ?」
「数えてはいませんが、街にも被害が及んだことを考えると数百はくだらないでしょうね」
「……まるで災害ね」
「災害と呼ぶのすら生温いですよ、あれはまさしく地獄でした」
「よく無事で帰ってきてくれたわ」
紫は身を乗り出し、藍の頭を優しく撫でた。
すると藍の耳が寝そべり、その表情が悲しく曇る。
「……力及ばずでした……皆が不幸になりました……」
「……」
「そして何が悪いのか私にはわかりません……だから……」
「自分が憎いのね」
「……はい」
「私のわがままに付き合わされて、恨んでいるかしら?」
「そういうわけでは……」
「藍、泣きたければ泣きなさい」
「……」
「けれどこれからはもっと辛くなるわ。もちろん私は貴女を休ませない」
紫に頭を撫でられるたび、あたかもそれがスイッチであるかのように、藍の目に涙が浮かぶ。
だが藍は耐えた、血が出そうなほどに強く自分の唇を噛み、拳を握り締めて。
「ついてきてくれるわね?」
「……はい」
「ありがとう……誇り高い私の式神」
「ぐ、ぅ、うぅっ……うぁぁぁぁ!!」
「あら、泣いちゃった……前言撤回ね」
「ふぇ!? ひ、酷いぃぃっ!!」
そんな冗談を交えながらも、ふとした瞬間に真顔になることが増えていた。
状況はどんどん悪化していく……一段落したように見える幽々子だって実際はまだまだ不安定なのだ。
紫はいつまでもグズっている藍を煩わしそうに眺めている。
キリが無さそうなので、話を始めることにした。
「泣きながらでいいから話を聞いて」
「は、はい……グスッ」
「私がどこに行っていたか、何故怪我をして戻ってきたか」
「……」
ほつれてしまった服の裾を物憂げにいじりながら紫は続ける。
「まぁ大体わかるでしょうけどあの桜の所に行っていたわ、幽香を連れて」
「何っ!? あいつにやられたのですか紫様!!」
「もう、そう興奮しないの……違うわよ、あれも結構めんどくさがりだから、用事が済んだらさっさと帰ったわ」
「ならば……あの桜にやられたというのですか?」
藍の涙はいつの間にか止まっている、たまにヒックヒックとしゃくり上げているが、桜のことも気になるのだろう。
「桜を破壊するって言ったらあいつまで喧嘩腰になって少し焦ったわよ。喧嘩っ早いのはいけないわ」
「して、あの桜……破壊できましたか?」
「痛み分けってところねぇ……半分ぐらい亜空間に引きずり込んでやったけど」
紫は白い手袋を引きずりおろし、右腕を藍に見せた。
手袋の中にあったのは、元の色白な美しい手ではなく、どす黒く変色した生気の無い手だった。
それを見た藍は思わず表情を険しくして「うっ」と呻く。
「こんなものはすぐ治せるから良いけど、ここまでされてしまったのがそもそもの問題なの」
そう言うと紫は変色した右腕に左手を添えて修復を開始する。
見る見るうちに右腕は血の気を取り戻し、元の白い腕に戻った。
それを見た藍は、これほどの力を持つ紫でさえ完全に破壊できなかった彼の桜に恐怖を覚えた。
「それでね、あいつでもあの桜の制御は無理なんですって」
「そうですか……」
「私は引き続きあの桜の様子を見るわ」
「引き続きって……今までもずっと様子を見てらしたんですか?」
「それはそうよ……藍ったら酷いわ、私が寝てばかりだと思ってた?」
「あ、いえ、そんな……」
「まったく失礼ねぇ、ちゃんと睡眠の合間に見に行ってたのに」
藍はろくに睡眠を取れていなかった。やはり主とは傲慢なものなのだなぁ、と思う。
「まぁいいわ……藍は引き続き幽々子の方をお願い。大きな動きがあったら教えて頂戴」
「は、了解いたしました」
「でも今日ぐらいはちゃんと寝ないとね、今後の為に」
「は、はい……」
思わず藍の表情が緩む、さっきから眠くて仕方なかったのだ、何度あくびを噛み殺したことか。
「それじゃ私は寝るわ、家が散らかってるから掃除しておいてね。あ、あと服もちゃんと直しておいてね」
「……はい……」
自分の事だけだったらしい。
藍は紫を見送ってからしばらく呆け、その後よたよたと掃除に取り掛かった。
後編が楽しみだ
ゆかりんとゆゆさまがも少し絡んでくれるといいのですけど・・
後編も楽しみに読ませていただきます。
さてこのあとはどうなるか、早速後編へ行って来ます。