十六夜咲夜は廊下に紙の束が落ちていることに気付いた。
拾い上げてみるとそこには文々。新聞の文字。すぐ傍の廊下の窓が開いている事から、鴉が放り込んで行ったのだろうと容易に想像はついた。
まぁ、古新聞には使い道があるし…ただでくれる限りには別に良いかと思いながら、何の気はなく新聞を開いた。
そこにはインフルエンザ蔓延の勧告を告げる記事が記されていた。
レミリア・スカーレットは遅い朝食を終え、食後のティーを楽しんでいた。
レミリア以外にも、パチュリー・ノーレッジとフランドール・スカーレットもテーブルに着き紅茶を飲んでいる。
「レミリアお嬢様、少しよろしいですか?」
レミリアの傍で控えていた咲夜が突然そう切り出した。
「何かしら?」
レミリア以外の二人の視線も咲夜に集まる。
「今日は、予防注射を受けていただきます」
…忠実なるメイド、十六夜咲夜は主君レミリアにそう言った。
「……?」
一瞬、誰も咲夜の言った言葉を理解できなかった。
「…予防…何?」
代表してか、パチュリーが短くそう聞き返した。
「予防注射ですわ、パチュリー様」
咲夜がパチュリーの方を向いて答える。
「今日、この新聞がうちに投げ込まれていました」
言いながら咲夜はエプロンのポケットから折りたたんだ新聞を取り出し、パチュリーに示した。
「…どれどれ…?」新聞を受け取るパチュリー。
「一面ですわ」と咲夜。
「…文々。新聞号外…見出し…広まる妖怪インフルエンザ…」
ぶつぶつと小さい声に出して新聞を読むパチュリー。一応、皆を思っての配慮だろう。
「…最近、妖怪が病気に倒れるという異変が続発している…異変の原因究明に乗り出した永遠亭の八意永琳率いるウサギチームは、これが新型のインフルエンザによるものだと発表した…この新型インフルエンザはどういうわけか妖怪や妖精等にしか感染せず…はぁ…人間の被害は現在のところ確認されていない…」
パチュリーはいったん言葉を切り、気だるそうに再び続けた。
「感染すると発熱、吐き気、目眩、関節痛などの症状があらわれ…飛行すらも困難になるという…非常に厄介なものである…しかしウイルス調査を続けたウサギチームは病気の原因に合わせてワクチンを作り出すことに成功したことも発表した…まだ感染していない方は、これさえ打っておけば感染の心配はほぼ百パーセント無くなるらしい…かく言う私も注射を打って貰ったが、そのお陰か体調はすこぶる好調だ…すでに感染してしまったのにも十分効果を発揮するので…まだの方ももうなった方も、取り急ぎ注射をすることをお勧めする…注射は永遠亭に行けばほぼ無料で打ってもらえる上に、事態が事態なので連絡さえすれば出張サービスも行っているそうだ…なお、このようなウイルスが突然発生した原因についても、続き調査を進めることをウサギチームは発表した…」
パチュリーはそこまで詠んで新聞をたたんだ。
「…というわけです。私は人間だから大丈夫だし、パチュリー様とフラン様は外出しなから多分平気ですが…レミリアお嬢様は予防注射をしておいた方が良いでしょう?」
なるほどとパチュリーが言おうとした瞬間…
「ちゅ…注射なんてしないわよっ!」
悲鳴に近い声と共に椅子の倒れる音が室内に響いた。…皆の視線がいっせいに、立ち上がっているレミリアに向く。
「…今の…お嬢様ですか?」
咲夜の不審そうなそうな顔に、レミリアはハッとしたような顔をする。こほん、と小さく咳払いをして、何事も無かったかの様に腰を下ろすが…
どてん!…と、床に転がる。先ほど椅子を倒しているのだから当然だ。
「お…お嬢様!?」
「あはははっ!お姉さま面白いっ!」
妹に爆笑されながらも、動じずぽんぽんとお尻を払いながら立ち上がり、椅子を起こしてそこに座った。その動作はあくまでも優雅…なんだと思う。
咲夜はなにやら様子のおかしいレミリアが心配になった。
「…だ…大丈夫ですか…?お嬢様…」
それだけの言葉に、レミリアはまたぎょっとしたような顔をする。
「だ…大丈夫に決まっているわ!誰が注射何かを恐れるのよ!」
「…いえ、注射のことじゃなくて…今こけた事ですけど…」
「え…!?…あ…あぁ!そっちの話ね。そんなの平気だわ。全く、咲夜は心配性ね…」
髪の毛をさらりと手で払いながら優雅に足などを組んでみせるレミリア様。…さっき転んだことを差し引いても、優雅だ。これぞ貴族の風格!
「それでね、咲夜…さっきの注射の話だけど…」
と、レミリアは何でもない事を話すように言った。
「…それは妖怪に感染するものなんでしょ?私は高貴なる吸血鬼なのよ?…そんなウイルスにやられたりは絶対にしないと思うのよね…」
「レミィ、『妖怪や妖精等』だから解らないわよ…」
パチュリーが新聞を示しながら言う。…よ…余計な援護を…。
「でも……あれよ…私としては永遠亭の連中なんかに借りを作りたくないのよ!この紅魔館の主である私が永遠亭の連中に頭を下げて注射をしてもらっただなんて世間にばれたりしたらそれこそ面子の丸つぶれだわ!」
レミリアはもう一度髪をさらりと払う。
「そ…それはありますが…」
そういう理由では、さすがに咲夜も強制は出来ない。
「でも、それではレミリア様のお身体の方が…」
心配する咲夜にレミリアは優しく微笑みかける。
「良いのよ、咲夜…貴族は誇りに生きて誇りに死ぬものなのよ…」
「うぅ、お嬢様おいたわしや…」
二人がそんなやり取りをしていると、パチュリーが再び言った。
「それなら、注射器と薬だけを盗んでくればいいわ」
咲夜がその提案に手を打って喜ぶ。
「あぁ!なるほど!それなら面子も保てて一挙両得!簡単なことですね!それじゃ、私が軽く盗んできますわ!」
「……」何が起こっているのか一瞬理解し損ねたレミリアが叫ぶ。
「ちょ…ちょっと待て~!何故そうなるの!?」
「…?そうなるとは…?」
咲夜がきょとんとして聞き返す。
「あの…もし盗みに行ったことがバレでもしたら面倒じゃない!?」
「大丈夫ですよ」咲夜は笑う。
「もともと無料で配布してるような薬なんですから、そんなに厳重に管理もしてないでしょう。私だったら盗まれたことすらも気付かないうちに盗んでみせます」
…その自信…確かに咲夜ならばそれぐらいはしてのけるだろう…しかし…
「で…でもよしんば盗みに成功したからって…その注射は誰が私に打つの!?」
「それは私がしてもいい…」
と、手を上げるのはパチュリー。
「パ…パチェが注射するって!?あなた注射なんてしたことあるの?」
「無い…けどやり方は知ってるわ。腕に刺すのよね」
「そうですね。それじゃ注射の方はパチュリー様にお願いして…」
「いやいや!そんな注射を腕に刺すものなんて認識してる奴に任せられないわよっ!」
「大丈夫よレミィ、私注射の失敗はしたことがないから」
「したことがないからでしょ!言葉のマジック!?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ(主にレミリアが)三人を、それまで静観していたフランドールがぽそりと言った。
「…って言うか、お姉さま単純に注射が恐いんでしょ?」
その言葉が部屋の空気を止めた。
「…な…な…」
レミリアがわなわなと震える。
「この私が注射ごときを恐れているですって!?銀のナイフに心臓を抉られることすら恐れないこのレミリア・スカーレットを掴まえて…!」
「でも、その割には注射すること嫌がってるじゃない」
そう言ってフランはふふんと笑う。ぐっと言葉に詰まるレミリアを見て、咲夜が呟く。
「お…お嬢様…まさか本当に…」
「な…っ!咲夜、何よその目っ!あなたまで私があんな細い針一本の注射を恐れているなんて思っているの!?ば…馬鹿馬鹿しい…っ!」
レミリアは吐き捨てるように言って残っていた紅茶をぐいと飲み干した。
「お姉さまの恐がり~、恐がり~」
フランが囃す。
ぷちん。
レミリアは切れた。
「誰が恐がってるのよ!えぇ、えぇ良いわ!注射だろうが何だろうが、受けて立とうじゃない!私はレミリア・スカーレットよ!」
そういう訳で、レミリアお嬢様は注射を受けることになりました。
永遠亭は沢山の妖怪でごった返していた。宴会でもないのにこんなに妖怪が集まるのも珍しいのではなかろうか。
「お嬢様、どうして結局永遠亭で注射を受けることにしたんですか?別に私が盗んできましたのに…」
「…その…ほら、盗みは良い事ではないでしょ?極力さけるべきなのよ…」
「はぁ…」
何か今更なセリフだなぁと咲夜は思う。
実際のところ、レミリアとしてはどうせ注射をされるなら少しでも腕の立つ人にしてもらったほうがましだろうという足掻き的発想であった。
「あ、お嬢様。受付がありましたよ。あそこで申し込みましょう」
咲夜は受付の案内表示の掛かった小窓に近寄る。
「すいません」
「はいはい」
小窓を覗き込むと中には鈴仙・優曇華院・イナバの姿があった。
「インフルエンザの予防接種を受けたいのですが…」
「それじゃ氏名をご記帳の上で整理券を配布します。…現在大変に込み合っていますので少々時間が掛かるかもしれませんが…」
「…な…なら日を改めましょうか、咲夜…」
「ここまで来て何を言ってるんですかお嬢様」
咲夜がさらさらと記帳する。そこにはレミリア・スカーレットの文字…なんとも情けない…注射も嫌だが単純に注射をうけること自体がみっとも無い気がしてきた…しかもまるで保護者同伴…
咲夜が鈴仙から整理券を受け取る。
「番号が呼ばれましたら奥の診察室までお入り下さい。…順番はそこの待合室でお待ち下さい」
鈴仙は事務的に言う。…もう相当やってるなという感じだ。
「お嬢様、行きましょう」
「…えぇ…」
仕方なくレミリアは咲夜の後に続いた。
待合室は更なる混沌だった。
「席が無いですね」
咲夜がキョロキョロしていると、見知った顔を見つけた。
八雲藍とその式神、橙である。…どういうわけか、橙は主人の膝にしがみ付いている。
「あら、あなたたちも予防接種を受けに来たのかしら?」
咲夜が声をかけると藍が顔をこちらにむけた。
「ん?あぁ、誰かと思えば…レミリアと咲夜か…。そりゃこんなところに居る以上は注射を受けにきたのさ。私は大丈夫と言ったのだが紫様が受けておけと言うし…」
藍は視線を自分の膝にしがみ付く橙に落とした。
「橙には予防接種させといた方がいいだろうと思ってな」
「……」
あの普段は元気だけがと取り得としか言えないような橙だが、今は藍の膝の上で固まって黙り込んでいる。藍は苦笑いを浮かべる。
「ところがどういうわけか注射を恐がってな…こうしてここにつれてくるまでに一苦労だった…」
「注射いや…藍様嫌い!」
顔を伏せったまま橙はそう言った。
「この調子だ…」
「情けないですね…ねぇ、お嬢様」
咲夜は軽く笑ってレミリアに振った…が、レミリアは答えない。
「…お嬢様?」
それもそのはず、そのときのレミリアの心中は混沌を極めていた!
(…ちょ…ちょっと…なに、この狐の余裕は…!注射を全然恐れてないじゃない…びくびくしてるのは…猫だけ…。それってもしかして私、猫と同レベルってことなの?この高貴なるレミリア・スカーレットがこのアホ猫と…いや!いやいや!そんなことより!や…やっぱり注射って恐ろしいわ…あの普段騒がしいだけが取り得の猫がこんなに緊張するなんて…そうね!どうせあの狐だって虚勢張ってるに決まっているわ!…あぁ!どうしよう…絶対いや!絶対いや!)
だらだらと冷や汗流れるレミリアの様子に、咲夜は首を傾げる。
「それより」と、藍が言った。
「お前は人間だろう?どうしてこんなところに居るんだ?必要ないじゃないか」
「あぁ、それはレミリア様が一人では注射が嫌だと言うもので…」
「ちょ…!ちょっと待ちなさい咲夜!」
はっとしてレミリアが割り込む。これではレミリアが頼んで咲夜について来てもらったかのようではないか!…実際ほぼその通りなのだが…それを外部にそのまま教えるのではあまりにもレミリアのカッコがつかない。
「従者を従えるのは当然のことじゃない。別に注射なんか恐れてないわよ」
殊更どうってことなさそうに髪などを掻き揚げ余裕を演じるレミリア。しかし藍は「ははぁ」と白い目を向けた。そして自分の膝で固まる橙に言う。
「…よかったな、橙。お前の仲間がいたぞ」
その言葉に橙がゆっくりと顔を起こす。そしてレミリアのほうを伺う。
「な…仲間ってどういう意味よ!そして誰が仲間よ!」
レミリアはそう喚き散らすが、橙は藍の膝から離れてレミリアに寄ってきた。そして、少しだけ「えへへ」と笑った。
「注射恐いの?」
「こ…恐くなんかないわよ…!」
ストレートに質問されて一瞬どきりとしたが、レミリアはそう答えた。しかし…
「ふぅん…私と一緒だ」
橙はそう言って笑った。
「なっ…!どこが一緒なのよっ!私は恐くないのよ!?あなたは恐いんでしょ!?逆じゃない!全然一緒じゃないわ!」
「え~、一緒だよ~」
「一緒じゃな…!」
怒鳴りかけてレミリアは言葉を止めた。
(待って…。これは…上手くすれば使えるわ…!私はこのアホ猫に合わせて恐がってやっているというフリをすれば良いのよ!そうすれば後々実際に…その、こ…恐くなって悲鳴なんて上げちゃったときの言い訳に出来るじゃない!そう、私はこの哀れな臆病猫が独り恐がっていることを不憫に思って、安心させてやるためにも仲間を演じてやっているあくまでも大人な立場なのよ!…こ…これだわ!これなら私の名誉に傷はつかない…!)
冷静に考えれば「ん?あれ、そうなのか?」と思えるような理論展開だが、生憎とレミリアは冷静ではなかった。
「え…えぇ、私も注射が恐いわ!仲間ね!」
レミリアは胸を反らせて橙に言う。
「わ~、やっぱりっ!」
橙がにこっと笑う。
「え?お…お嬢様!?ほ…本当に注射が…!?」
うろたえる咲夜にレミリアは小声で言う。
「咲夜、これは芝居よ。だってこうでも言ってあげないとこの猫が哀れでしょう?」
咲夜は感動したように言う。
「あぁ!なるほど!さすがお嬢様…っ!すばらしい心遣いですわっ!」
レミリアは殊更小声で釘を刺す。
「で…で、よ咲夜。ここからが肝心なのよ?いい?この先、もしも私が注射を恐がってるそぶりを見せたとしても、それは全部お芝居なの!解った?…私の演技力があまりにも真に迫りすぎてて、あるいは本気かもしれないと思うかもしれないけど…それもこれも全部芝居なの!」
傍から聞くと不必要なまでに力の入ったセリフに違和感を感じるだろうが…そこはもとよりレミリアに恐いものがあるなんて思ってもいない咲夜のことである、特に疑問を抱くことも無く了承した。…これで最悪、咲夜への権威が失墜することはない…。後は…
「でもいい、咲夜。いくら真実がそうでも、そこいらの愚昧なる妖怪たちには私の演技を見破ることは出来ないのよ」
「まぁ!それではレミリア様が本当に注射が恐いと思われてしまいますわ」
レミリアはぴん、と人差し指を立てる。
「そこよ!いくら大人な私でもそんなヘタレのレッテルを貼られるのは嬉しくはないわ。だから、咲夜は世間の奴らが勘違いしないように、私が恐がっているのは全部演技なんですよっていう態度を周囲に示しなさい!解った?」
「え…?演技とわかる態度…ですか?」
そんな曖昧なことを言われてピンとくる奴はそうそう居ないだろう。
「いい!?絶対よ!」
しかしレミリアはそうごり押すのだった。…結局面倒な役回りは何気に全部咲夜に回す辺りが狡猾だ。
レミリアがこれで一安心と胸を撫で下ろした瞬間…
「ひああぁああ~~~~!」
「ひっ!」
「わあっ!」
診療室から大きな悲鳴が響いた。
「な…!?何なに!?今の悲鳴っ!」
レミリアは驚きのあまり咲夜の腕にすがり付いている。
「誰かが注射を受けたんですね」
咲夜はこともなげに言う。
「まだ、二人の仲間がいたということだな」
藍はふふふと笑った。
「ふ…ふあ~…ビックリした…」
驚きのあまり縮み上がっていた橙の尻尾がゆる~っと弛緩する。…ふと、レミリアのほうに視線をやると…
「あ~!レミリアの方が恐がってる~!」
「な…何ですって!?」
レミリアは怒鳴る。…が、咲夜にすがり付いているレミリアと、尻尾を縮み上げつつも何とか一人で堪えた橙とではどちらがビビッていたかは明白である。
「あっ!」
気付いてぱっと咲夜から離れるレミリア。
(し…しまった!本当にびっくりしちゃったじゃない!…でも、これはあれよ!演技!そう!演技なのよ!)
レミリアの狙い通り、咲夜はレミリアが本当にびびったとは微塵も考えていない顔だ。さすがお嬢様!演技も達者ですわ!…とでも言いたげ。わずかな差で保険が利いた。
(ひとまずは安心…でも…)
いくら咲夜は騙せても、自分の心は真実を知っている。…実際のところ、本当に橙よりもビビッてしまったのだ。
(…これは…かなりヘコムわ…)
その時、注射を終えたのであろう西行寺幽々子と魂魄妖夢が診察室から出てきた。
「う…うぅ~…幽々子様~…」
半泣きの妖夢。…つまり先ほどの悲鳴は彼女のものだったのだ。
「もう…妖夢は…普段あれだけ刀を振り回してるのにどうしてあんな針一本が怖いかしら…本当にまだまだね…」
「注射は別なんですよ~…あれは…なんて言うか…本能を直接刺激してくる恐怖とでも言いますか…もう理屈なんて超えてるんです!」
「はいはい。解ったから早く帰るわよ」
言いながら部屋を出て行く二人。
妖夢の意見には賛同するところ大のレミリアなのだが…
(あのポンポコ幽霊ども…!あんたらのせいで余計な恥を…っ!)
心の中で呪詛を吐きかける。…なんともせせこましいレミリアであった。
「番号128番の八雲藍様~、129番の橙様~、130の番レミリア・スカーレット様~、順番が来ましたので診察室へどうぞ~」
因幡てゐが診察室から顔を覗かせる。
(来た!終にこの時が…っ!)
どくん!と、レミリアの中の血流が一気に早まる。
「あら、偶然ね。番号が並びだったなんて…さ、レミリア様、早く行きましょう」
咲夜は硬直して動かないレミリアの手をとって診察室に向かった。
「よかったな、橙。お前の仲間も一緒だぞ。これなら大丈夫だな?」
「う…うん…」
橙も不安げに頷きながら、藍に手を引かれている。
診察室には白衣を身に纏った八意永琳が黒い回るビニール椅子に腰掛けていた。これぞ女医という容貌だ。…そしてその手にはキラリと光るあれが…
「ご…ごくり…」
ミリアと橙は一緒に息を呑んだ。
「あら、これは豪奢な顔ぶれね」
と、永琳は軽く笑う。
「うん、まぁ世話になる」
藍は言いながら永琳の前に置かれているもう一つの椅子に腰掛けた。そして平然と腕を差し出す。
永琳はその差し出された腕にぷすっと注射を刺す。
「はい、終わり」
「あぁ、ありがとう」
藍はそう言って席を立つ。…「え?」と思ってしまうほどあっさりとした出来事だった。
(こ…この狐…本当に恐がってなかったのね…)
とか思うレミリア。
「次の人」
「はっ…はいっ!」
永琳に呼ばれ、橙に緊張が走る。ぎくしゃくとした足取りで椅子に座る。
「橙、私のを見ていただろう?注射なんて恐くないぞ」
後ろから藍が励ます。それを聞いて永琳は橙の腕を取りながらにこりと笑みを浮かべる。
「あら、あなた注射が恐いの?」
「は…あのっ…えぇと…」
緊張のあまり軽くパニックになる橙。
「安心して、痛くないから」
…言いながら、永琳はいかにもいま気付いたような調子で言った。
「あら、あなたの帽子、よく見るとすごく可愛いわね」
「え?」
突然の言葉に注意を逸らされる橙。
(馬鹿!それは罠よ!あんたの注意を逸らしているんだわ!)
レミリアが心の中で恫喝する…が、
「はい、おしまい」
永琳はその間に注射を終わらせていた。
「え?」
橙には何が起こったのかも解らないほどの早業であった。
「よく我慢できたな。えらいぞ橙」
後ろから藍が橙の頭を撫でる。それで橙はようやくもう注射が終了したことを理解できた。
「え…えへへ~。藍様に褒められた~」
嬉しそうに笑う橙。
「…さて、次は…」
永琳の視線がレミリアに向く。
「さ、やっとお嬢様の番ですよ」
咲夜に背中を押されて椅子に座るレミリア。
「わ…」
レミリアの鼓動が早まる。
「私はあんな猫みたいに簡単にやられはしないわよっ!」
「…え?」
突然意味不明の言葉を言うレミリアに永琳は眉根を寄せる。
「さ…っ!刺せるもんなら刺してみなさい!その前にこっちが刺してやるわ!あの程度で誤魔化されるレミリア・スカーレットじゃないわっ!」
喚き散らすお嬢様。…そう、無意識のうちに恐怖のストレスを怒りで誤魔化そうとしているのだ!
「ちょ…ちょっとお嬢様?」
さすがに咲夜はレミリアの肩を後ろから押さえる。
「何よ咲夜!演技って言ったじゃない!これもそれも、ぜ~んぶ演技なのよっ!」
仕舞いには駄々っ子のように椅子の上で両手を振って暴れだした。
「あぁなると惨めなもんだな…」
後ろで見ていた藍がなんとも言えない微妙な半笑いでそう呟いた。…決して大きな声ではなかったが、レミリアの頭を冷やすには十分な一言だった。
(そ…そうよ…!私はレミリア・スカーレット…!こんな注射一本で暴れるなんて無様を曝せはしない!)
呼吸を整え、レミリアは優雅に足などを組んでみせる。
「…そう…お遊びはこの辺でいいわね…!あなたの注射とやら…受けてたとうじゃない!」
なんという優雅さだろうか!覚悟を決めたお嬢様はかくも美しいのだ!
「注射とやらってね…」
永琳は呆れる。何なんだ…たった一人相手でこの疲労感…。
ともかく今がチャンス。永琳はレミリアの腕を取った。そして、注射を近づける。
(っ……っ!)
レミリア様の超動体視力は注射の接近を見逃さない。
迫り来る注射…!
されど、逃げることは適わない!本能を、誇りで自制する!
来るっ!来るっ!来るっ!く…
永遠とも思える刹那のスローモーションのような世界の中…レミリアの緊張は究極の所まで達した。
「はい、終わり」
永琳はすっと針を引き抜いた。
「ご苦労様。お嬢様、終わりましたよ」
永琳に礼を述べつつ、咲夜はレミリアの肩を揺らした。
「…?」
しかし、お嬢様は動かない。
「お…お嬢様!?」
咲夜はレミリアを更に揺り動かすが、その頭はまるで張子の虎のようにがくがくとされるがままに揺れている。
「ま…まさか…っ!そんな……!」
咲夜はレミリアから思わず飛びのく。
その様子を見ていた藍は、目を伏せて呟いた。
「巨星堕つ……か…」
「お…お…お嬢様ぁああ~~!」
咲夜の悲鳴が永遠亭に響き渡った。
「あはははははははははははははははははははははは!」
フランドール・スカーレットはこれぞ抱腹絶倒というような形で笑い転げた。
「お姉さま最高!面白い!あはははははは!」
「うるっさいわよ!フラン!あれは演技だって言ったでしょ!」
レミリアは一喝すると、すぐにそっぽを向いた。恥ずかしいのだ。
「でもさすがお嬢様ですわ。演技で気絶するなんて…素晴らしいです!私、感動しましたわ!」
咲夜はそんなことを言いながら紅茶を運んでくる。
そう、レミリアはあの注射の最中気絶をしてしまったのだ…。咲夜はそれが演技だと信じて止まないようだが…この場合は逆にそれが不味かった。
失敗という意識が無いから誰彼構わずに喋ってしまうのだ。
『お嬢様は凄いのよ!芝居の達人だわ!』『へぇ、初耳だなぁ』『だって、注射を受けに入って本当に気絶をするほどなのよ!』『……へ~…』
本当に気絶したのならそれは演技ではないだろう…と、その話を聞いた人は必ずレミリアに半笑いの生暖かい視線を向けてくるのだ。自慢のつもりの咲夜の手前、激情に駆られて掴みかかることも出来ない…地獄だ。
当然のように館中にその事実は広がり…こうして妹にすら笑いものにされている始末である。
「ま…まぁいいわっ!注射っていう目標は達成したもの!これで私は病気しらずね!」
それぐらい言っとかないとやってられない。
「その話だけど…」
…と、目の前で珍しく新聞などを読んでいたパチュリーが言った。
「それも無駄骨になりそう…」
「え!?」
パチュリーは記事を読み上げる。
「先日お伝えしたインフルエンザに関しての続報……幻想郷に蔓延しているインフルエンザ菌だが、近日中にその存在にも終止符が打たれ目処が立った。伊吹萃香が疎と密を操る能力を持つことは割と有名だが、その彼女がインフルエンザ菌を一箇所にあつめてまとめて消そうと考えているのだ。なぜそのような考えに及んだのかという質問に対し、彼女は「え~、だってあれのせいで宴会の頻度が落ちてるしね~…何か邪魔なんだ」と答えている…彼女の能力の前ではウイルスもひとたまりも無いだろう…しかしすでに体内に入っているウイルスまではあつまらない可能性も高いので、その場合は別途に永遠亭に足を運ぶ必要があるだろう…もし、伊吹嬢に何かお礼がしたいと思うのなら、宴会に積極的に参加して一緒に盛り上がってあげるべきだろう…彼女に対してはそれが一番のお礼になるのだから…」
ふぅ、と息を吐いてパチュリーは新聞をたたんだ。
「……それ…どういうこと?」
「…だから、注射は無駄骨だったみたいね…」
パチュリーはそう言って紅茶を一口…
「……」
「……」
「…ふっ」
「…」
「……ふふ…ふ…」
「…」
「あはははははははははははは!」
「…」
「ちくしょう!」
「ちゃんちゃん」
人生、ままならぬが常なり。
《BADEND》
―一方紅魔館門前…
「…なんか…身体がだるいんだけど…頭も痛いし…どうなってるんだろう…咲夜さん?…咲夜さ~…ん……」
《BADEND》
拾い上げてみるとそこには文々。新聞の文字。すぐ傍の廊下の窓が開いている事から、鴉が放り込んで行ったのだろうと容易に想像はついた。
まぁ、古新聞には使い道があるし…ただでくれる限りには別に良いかと思いながら、何の気はなく新聞を開いた。
そこにはインフルエンザ蔓延の勧告を告げる記事が記されていた。
レミリア・スカーレットは遅い朝食を終え、食後のティーを楽しんでいた。
レミリア以外にも、パチュリー・ノーレッジとフランドール・スカーレットもテーブルに着き紅茶を飲んでいる。
「レミリアお嬢様、少しよろしいですか?」
レミリアの傍で控えていた咲夜が突然そう切り出した。
「何かしら?」
レミリア以外の二人の視線も咲夜に集まる。
「今日は、予防注射を受けていただきます」
…忠実なるメイド、十六夜咲夜は主君レミリアにそう言った。
「……?」
一瞬、誰も咲夜の言った言葉を理解できなかった。
「…予防…何?」
代表してか、パチュリーが短くそう聞き返した。
「予防注射ですわ、パチュリー様」
咲夜がパチュリーの方を向いて答える。
「今日、この新聞がうちに投げ込まれていました」
言いながら咲夜はエプロンのポケットから折りたたんだ新聞を取り出し、パチュリーに示した。
「…どれどれ…?」新聞を受け取るパチュリー。
「一面ですわ」と咲夜。
「…文々。新聞号外…見出し…広まる妖怪インフルエンザ…」
ぶつぶつと小さい声に出して新聞を読むパチュリー。一応、皆を思っての配慮だろう。
「…最近、妖怪が病気に倒れるという異変が続発している…異変の原因究明に乗り出した永遠亭の八意永琳率いるウサギチームは、これが新型のインフルエンザによるものだと発表した…この新型インフルエンザはどういうわけか妖怪や妖精等にしか感染せず…はぁ…人間の被害は現在のところ確認されていない…」
パチュリーはいったん言葉を切り、気だるそうに再び続けた。
「感染すると発熱、吐き気、目眩、関節痛などの症状があらわれ…飛行すらも困難になるという…非常に厄介なものである…しかしウイルス調査を続けたウサギチームは病気の原因に合わせてワクチンを作り出すことに成功したことも発表した…まだ感染していない方は、これさえ打っておけば感染の心配はほぼ百パーセント無くなるらしい…かく言う私も注射を打って貰ったが、そのお陰か体調はすこぶる好調だ…すでに感染してしまったのにも十分効果を発揮するので…まだの方ももうなった方も、取り急ぎ注射をすることをお勧めする…注射は永遠亭に行けばほぼ無料で打ってもらえる上に、事態が事態なので連絡さえすれば出張サービスも行っているそうだ…なお、このようなウイルスが突然発生した原因についても、続き調査を進めることをウサギチームは発表した…」
パチュリーはそこまで詠んで新聞をたたんだ。
「…というわけです。私は人間だから大丈夫だし、パチュリー様とフラン様は外出しなから多分平気ですが…レミリアお嬢様は予防注射をしておいた方が良いでしょう?」
なるほどとパチュリーが言おうとした瞬間…
「ちゅ…注射なんてしないわよっ!」
悲鳴に近い声と共に椅子の倒れる音が室内に響いた。…皆の視線がいっせいに、立ち上がっているレミリアに向く。
「…今の…お嬢様ですか?」
咲夜の不審そうなそうな顔に、レミリアはハッとしたような顔をする。こほん、と小さく咳払いをして、何事も無かったかの様に腰を下ろすが…
どてん!…と、床に転がる。先ほど椅子を倒しているのだから当然だ。
「お…お嬢様!?」
「あはははっ!お姉さま面白いっ!」
妹に爆笑されながらも、動じずぽんぽんとお尻を払いながら立ち上がり、椅子を起こしてそこに座った。その動作はあくまでも優雅…なんだと思う。
咲夜はなにやら様子のおかしいレミリアが心配になった。
「…だ…大丈夫ですか…?お嬢様…」
それだけの言葉に、レミリアはまたぎょっとしたような顔をする。
「だ…大丈夫に決まっているわ!誰が注射何かを恐れるのよ!」
「…いえ、注射のことじゃなくて…今こけた事ですけど…」
「え…!?…あ…あぁ!そっちの話ね。そんなの平気だわ。全く、咲夜は心配性ね…」
髪の毛をさらりと手で払いながら優雅に足などを組んでみせるレミリア様。…さっき転んだことを差し引いても、優雅だ。これぞ貴族の風格!
「それでね、咲夜…さっきの注射の話だけど…」
と、レミリアは何でもない事を話すように言った。
「…それは妖怪に感染するものなんでしょ?私は高貴なる吸血鬼なのよ?…そんなウイルスにやられたりは絶対にしないと思うのよね…」
「レミィ、『妖怪や妖精等』だから解らないわよ…」
パチュリーが新聞を示しながら言う。…よ…余計な援護を…。
「でも……あれよ…私としては永遠亭の連中なんかに借りを作りたくないのよ!この紅魔館の主である私が永遠亭の連中に頭を下げて注射をしてもらっただなんて世間にばれたりしたらそれこそ面子の丸つぶれだわ!」
レミリアはもう一度髪をさらりと払う。
「そ…それはありますが…」
そういう理由では、さすがに咲夜も強制は出来ない。
「でも、それではレミリア様のお身体の方が…」
心配する咲夜にレミリアは優しく微笑みかける。
「良いのよ、咲夜…貴族は誇りに生きて誇りに死ぬものなのよ…」
「うぅ、お嬢様おいたわしや…」
二人がそんなやり取りをしていると、パチュリーが再び言った。
「それなら、注射器と薬だけを盗んでくればいいわ」
咲夜がその提案に手を打って喜ぶ。
「あぁ!なるほど!それなら面子も保てて一挙両得!簡単なことですね!それじゃ、私が軽く盗んできますわ!」
「……」何が起こっているのか一瞬理解し損ねたレミリアが叫ぶ。
「ちょ…ちょっと待て~!何故そうなるの!?」
「…?そうなるとは…?」
咲夜がきょとんとして聞き返す。
「あの…もし盗みに行ったことがバレでもしたら面倒じゃない!?」
「大丈夫ですよ」咲夜は笑う。
「もともと無料で配布してるような薬なんですから、そんなに厳重に管理もしてないでしょう。私だったら盗まれたことすらも気付かないうちに盗んでみせます」
…その自信…確かに咲夜ならばそれぐらいはしてのけるだろう…しかし…
「で…でもよしんば盗みに成功したからって…その注射は誰が私に打つの!?」
「それは私がしてもいい…」
と、手を上げるのはパチュリー。
「パ…パチェが注射するって!?あなた注射なんてしたことあるの?」
「無い…けどやり方は知ってるわ。腕に刺すのよね」
「そうですね。それじゃ注射の方はパチュリー様にお願いして…」
「いやいや!そんな注射を腕に刺すものなんて認識してる奴に任せられないわよっ!」
「大丈夫よレミィ、私注射の失敗はしたことがないから」
「したことがないからでしょ!言葉のマジック!?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ(主にレミリアが)三人を、それまで静観していたフランドールがぽそりと言った。
「…って言うか、お姉さま単純に注射が恐いんでしょ?」
その言葉が部屋の空気を止めた。
「…な…な…」
レミリアがわなわなと震える。
「この私が注射ごときを恐れているですって!?銀のナイフに心臓を抉られることすら恐れないこのレミリア・スカーレットを掴まえて…!」
「でも、その割には注射すること嫌がってるじゃない」
そう言ってフランはふふんと笑う。ぐっと言葉に詰まるレミリアを見て、咲夜が呟く。
「お…お嬢様…まさか本当に…」
「な…っ!咲夜、何よその目っ!あなたまで私があんな細い針一本の注射を恐れているなんて思っているの!?ば…馬鹿馬鹿しい…っ!」
レミリアは吐き捨てるように言って残っていた紅茶をぐいと飲み干した。
「お姉さまの恐がり~、恐がり~」
フランが囃す。
ぷちん。
レミリアは切れた。
「誰が恐がってるのよ!えぇ、えぇ良いわ!注射だろうが何だろうが、受けて立とうじゃない!私はレミリア・スカーレットよ!」
そういう訳で、レミリアお嬢様は注射を受けることになりました。
永遠亭は沢山の妖怪でごった返していた。宴会でもないのにこんなに妖怪が集まるのも珍しいのではなかろうか。
「お嬢様、どうして結局永遠亭で注射を受けることにしたんですか?別に私が盗んできましたのに…」
「…その…ほら、盗みは良い事ではないでしょ?極力さけるべきなのよ…」
「はぁ…」
何か今更なセリフだなぁと咲夜は思う。
実際のところ、レミリアとしてはどうせ注射をされるなら少しでも腕の立つ人にしてもらったほうがましだろうという足掻き的発想であった。
「あ、お嬢様。受付がありましたよ。あそこで申し込みましょう」
咲夜は受付の案内表示の掛かった小窓に近寄る。
「すいません」
「はいはい」
小窓を覗き込むと中には鈴仙・優曇華院・イナバの姿があった。
「インフルエンザの予防接種を受けたいのですが…」
「それじゃ氏名をご記帳の上で整理券を配布します。…現在大変に込み合っていますので少々時間が掛かるかもしれませんが…」
「…な…なら日を改めましょうか、咲夜…」
「ここまで来て何を言ってるんですかお嬢様」
咲夜がさらさらと記帳する。そこにはレミリア・スカーレットの文字…なんとも情けない…注射も嫌だが単純に注射をうけること自体がみっとも無い気がしてきた…しかもまるで保護者同伴…
咲夜が鈴仙から整理券を受け取る。
「番号が呼ばれましたら奥の診察室までお入り下さい。…順番はそこの待合室でお待ち下さい」
鈴仙は事務的に言う。…もう相当やってるなという感じだ。
「お嬢様、行きましょう」
「…えぇ…」
仕方なくレミリアは咲夜の後に続いた。
待合室は更なる混沌だった。
「席が無いですね」
咲夜がキョロキョロしていると、見知った顔を見つけた。
八雲藍とその式神、橙である。…どういうわけか、橙は主人の膝にしがみ付いている。
「あら、あなたたちも予防接種を受けに来たのかしら?」
咲夜が声をかけると藍が顔をこちらにむけた。
「ん?あぁ、誰かと思えば…レミリアと咲夜か…。そりゃこんなところに居る以上は注射を受けにきたのさ。私は大丈夫と言ったのだが紫様が受けておけと言うし…」
藍は視線を自分の膝にしがみ付く橙に落とした。
「橙には予防接種させといた方がいいだろうと思ってな」
「……」
あの普段は元気だけがと取り得としか言えないような橙だが、今は藍の膝の上で固まって黙り込んでいる。藍は苦笑いを浮かべる。
「ところがどういうわけか注射を恐がってな…こうしてここにつれてくるまでに一苦労だった…」
「注射いや…藍様嫌い!」
顔を伏せったまま橙はそう言った。
「この調子だ…」
「情けないですね…ねぇ、お嬢様」
咲夜は軽く笑ってレミリアに振った…が、レミリアは答えない。
「…お嬢様?」
それもそのはず、そのときのレミリアの心中は混沌を極めていた!
(…ちょ…ちょっと…なに、この狐の余裕は…!注射を全然恐れてないじゃない…びくびくしてるのは…猫だけ…。それってもしかして私、猫と同レベルってことなの?この高貴なるレミリア・スカーレットがこのアホ猫と…いや!いやいや!そんなことより!や…やっぱり注射って恐ろしいわ…あの普段騒がしいだけが取り得の猫がこんなに緊張するなんて…そうね!どうせあの狐だって虚勢張ってるに決まっているわ!…あぁ!どうしよう…絶対いや!絶対いや!)
だらだらと冷や汗流れるレミリアの様子に、咲夜は首を傾げる。
「それより」と、藍が言った。
「お前は人間だろう?どうしてこんなところに居るんだ?必要ないじゃないか」
「あぁ、それはレミリア様が一人では注射が嫌だと言うもので…」
「ちょ…!ちょっと待ちなさい咲夜!」
はっとしてレミリアが割り込む。これではレミリアが頼んで咲夜について来てもらったかのようではないか!…実際ほぼその通りなのだが…それを外部にそのまま教えるのではあまりにもレミリアのカッコがつかない。
「従者を従えるのは当然のことじゃない。別に注射なんか恐れてないわよ」
殊更どうってことなさそうに髪などを掻き揚げ余裕を演じるレミリア。しかし藍は「ははぁ」と白い目を向けた。そして自分の膝で固まる橙に言う。
「…よかったな、橙。お前の仲間がいたぞ」
その言葉に橙がゆっくりと顔を起こす。そしてレミリアのほうを伺う。
「な…仲間ってどういう意味よ!そして誰が仲間よ!」
レミリアはそう喚き散らすが、橙は藍の膝から離れてレミリアに寄ってきた。そして、少しだけ「えへへ」と笑った。
「注射恐いの?」
「こ…恐くなんかないわよ…!」
ストレートに質問されて一瞬どきりとしたが、レミリアはそう答えた。しかし…
「ふぅん…私と一緒だ」
橙はそう言って笑った。
「なっ…!どこが一緒なのよっ!私は恐くないのよ!?あなたは恐いんでしょ!?逆じゃない!全然一緒じゃないわ!」
「え~、一緒だよ~」
「一緒じゃな…!」
怒鳴りかけてレミリアは言葉を止めた。
(待って…。これは…上手くすれば使えるわ…!私はこのアホ猫に合わせて恐がってやっているというフリをすれば良いのよ!そうすれば後々実際に…その、こ…恐くなって悲鳴なんて上げちゃったときの言い訳に出来るじゃない!そう、私はこの哀れな臆病猫が独り恐がっていることを不憫に思って、安心させてやるためにも仲間を演じてやっているあくまでも大人な立場なのよ!…こ…これだわ!これなら私の名誉に傷はつかない…!)
冷静に考えれば「ん?あれ、そうなのか?」と思えるような理論展開だが、生憎とレミリアは冷静ではなかった。
「え…えぇ、私も注射が恐いわ!仲間ね!」
レミリアは胸を反らせて橙に言う。
「わ~、やっぱりっ!」
橙がにこっと笑う。
「え?お…お嬢様!?ほ…本当に注射が…!?」
うろたえる咲夜にレミリアは小声で言う。
「咲夜、これは芝居よ。だってこうでも言ってあげないとこの猫が哀れでしょう?」
咲夜は感動したように言う。
「あぁ!なるほど!さすがお嬢様…っ!すばらしい心遣いですわっ!」
レミリアは殊更小声で釘を刺す。
「で…で、よ咲夜。ここからが肝心なのよ?いい?この先、もしも私が注射を恐がってるそぶりを見せたとしても、それは全部お芝居なの!解った?…私の演技力があまりにも真に迫りすぎてて、あるいは本気かもしれないと思うかもしれないけど…それもこれも全部芝居なの!」
傍から聞くと不必要なまでに力の入ったセリフに違和感を感じるだろうが…そこはもとよりレミリアに恐いものがあるなんて思ってもいない咲夜のことである、特に疑問を抱くことも無く了承した。…これで最悪、咲夜への権威が失墜することはない…。後は…
「でもいい、咲夜。いくら真実がそうでも、そこいらの愚昧なる妖怪たちには私の演技を見破ることは出来ないのよ」
「まぁ!それではレミリア様が本当に注射が恐いと思われてしまいますわ」
レミリアはぴん、と人差し指を立てる。
「そこよ!いくら大人な私でもそんなヘタレのレッテルを貼られるのは嬉しくはないわ。だから、咲夜は世間の奴らが勘違いしないように、私が恐がっているのは全部演技なんですよっていう態度を周囲に示しなさい!解った?」
「え…?演技とわかる態度…ですか?」
そんな曖昧なことを言われてピンとくる奴はそうそう居ないだろう。
「いい!?絶対よ!」
しかしレミリアはそうごり押すのだった。…結局面倒な役回りは何気に全部咲夜に回す辺りが狡猾だ。
レミリアがこれで一安心と胸を撫で下ろした瞬間…
「ひああぁああ~~~~!」
「ひっ!」
「わあっ!」
診療室から大きな悲鳴が響いた。
「な…!?何なに!?今の悲鳴っ!」
レミリアは驚きのあまり咲夜の腕にすがり付いている。
「誰かが注射を受けたんですね」
咲夜はこともなげに言う。
「まだ、二人の仲間がいたということだな」
藍はふふふと笑った。
「ふ…ふあ~…ビックリした…」
驚きのあまり縮み上がっていた橙の尻尾がゆる~っと弛緩する。…ふと、レミリアのほうに視線をやると…
「あ~!レミリアの方が恐がってる~!」
「な…何ですって!?」
レミリアは怒鳴る。…が、咲夜にすがり付いているレミリアと、尻尾を縮み上げつつも何とか一人で堪えた橙とではどちらがビビッていたかは明白である。
「あっ!」
気付いてぱっと咲夜から離れるレミリア。
(し…しまった!本当にびっくりしちゃったじゃない!…でも、これはあれよ!演技!そう!演技なのよ!)
レミリアの狙い通り、咲夜はレミリアが本当にびびったとは微塵も考えていない顔だ。さすがお嬢様!演技も達者ですわ!…とでも言いたげ。わずかな差で保険が利いた。
(ひとまずは安心…でも…)
いくら咲夜は騙せても、自分の心は真実を知っている。…実際のところ、本当に橙よりもビビッてしまったのだ。
(…これは…かなりヘコムわ…)
その時、注射を終えたのであろう西行寺幽々子と魂魄妖夢が診察室から出てきた。
「う…うぅ~…幽々子様~…」
半泣きの妖夢。…つまり先ほどの悲鳴は彼女のものだったのだ。
「もう…妖夢は…普段あれだけ刀を振り回してるのにどうしてあんな針一本が怖いかしら…本当にまだまだね…」
「注射は別なんですよ~…あれは…なんて言うか…本能を直接刺激してくる恐怖とでも言いますか…もう理屈なんて超えてるんです!」
「はいはい。解ったから早く帰るわよ」
言いながら部屋を出て行く二人。
妖夢の意見には賛同するところ大のレミリアなのだが…
(あのポンポコ幽霊ども…!あんたらのせいで余計な恥を…っ!)
心の中で呪詛を吐きかける。…なんともせせこましいレミリアであった。
「番号128番の八雲藍様~、129番の橙様~、130の番レミリア・スカーレット様~、順番が来ましたので診察室へどうぞ~」
因幡てゐが診察室から顔を覗かせる。
(来た!終にこの時が…っ!)
どくん!と、レミリアの中の血流が一気に早まる。
「あら、偶然ね。番号が並びだったなんて…さ、レミリア様、早く行きましょう」
咲夜は硬直して動かないレミリアの手をとって診察室に向かった。
「よかったな、橙。お前の仲間も一緒だぞ。これなら大丈夫だな?」
「う…うん…」
橙も不安げに頷きながら、藍に手を引かれている。
診察室には白衣を身に纏った八意永琳が黒い回るビニール椅子に腰掛けていた。これぞ女医という容貌だ。…そしてその手にはキラリと光るあれが…
「ご…ごくり…」
ミリアと橙は一緒に息を呑んだ。
「あら、これは豪奢な顔ぶれね」
と、永琳は軽く笑う。
「うん、まぁ世話になる」
藍は言いながら永琳の前に置かれているもう一つの椅子に腰掛けた。そして平然と腕を差し出す。
永琳はその差し出された腕にぷすっと注射を刺す。
「はい、終わり」
「あぁ、ありがとう」
藍はそう言って席を立つ。…「え?」と思ってしまうほどあっさりとした出来事だった。
(こ…この狐…本当に恐がってなかったのね…)
とか思うレミリア。
「次の人」
「はっ…はいっ!」
永琳に呼ばれ、橙に緊張が走る。ぎくしゃくとした足取りで椅子に座る。
「橙、私のを見ていただろう?注射なんて恐くないぞ」
後ろから藍が励ます。それを聞いて永琳は橙の腕を取りながらにこりと笑みを浮かべる。
「あら、あなた注射が恐いの?」
「は…あのっ…えぇと…」
緊張のあまり軽くパニックになる橙。
「安心して、痛くないから」
…言いながら、永琳はいかにもいま気付いたような調子で言った。
「あら、あなたの帽子、よく見るとすごく可愛いわね」
「え?」
突然の言葉に注意を逸らされる橙。
(馬鹿!それは罠よ!あんたの注意を逸らしているんだわ!)
レミリアが心の中で恫喝する…が、
「はい、おしまい」
永琳はその間に注射を終わらせていた。
「え?」
橙には何が起こったのかも解らないほどの早業であった。
「よく我慢できたな。えらいぞ橙」
後ろから藍が橙の頭を撫でる。それで橙はようやくもう注射が終了したことを理解できた。
「え…えへへ~。藍様に褒められた~」
嬉しそうに笑う橙。
「…さて、次は…」
永琳の視線がレミリアに向く。
「さ、やっとお嬢様の番ですよ」
咲夜に背中を押されて椅子に座るレミリア。
「わ…」
レミリアの鼓動が早まる。
「私はあんな猫みたいに簡単にやられはしないわよっ!」
「…え?」
突然意味不明の言葉を言うレミリアに永琳は眉根を寄せる。
「さ…っ!刺せるもんなら刺してみなさい!その前にこっちが刺してやるわ!あの程度で誤魔化されるレミリア・スカーレットじゃないわっ!」
喚き散らすお嬢様。…そう、無意識のうちに恐怖のストレスを怒りで誤魔化そうとしているのだ!
「ちょ…ちょっとお嬢様?」
さすがに咲夜はレミリアの肩を後ろから押さえる。
「何よ咲夜!演技って言ったじゃない!これもそれも、ぜ~んぶ演技なのよっ!」
仕舞いには駄々っ子のように椅子の上で両手を振って暴れだした。
「あぁなると惨めなもんだな…」
後ろで見ていた藍がなんとも言えない微妙な半笑いでそう呟いた。…決して大きな声ではなかったが、レミリアの頭を冷やすには十分な一言だった。
(そ…そうよ…!私はレミリア・スカーレット…!こんな注射一本で暴れるなんて無様を曝せはしない!)
呼吸を整え、レミリアは優雅に足などを組んでみせる。
「…そう…お遊びはこの辺でいいわね…!あなたの注射とやら…受けてたとうじゃない!」
なんという優雅さだろうか!覚悟を決めたお嬢様はかくも美しいのだ!
「注射とやらってね…」
永琳は呆れる。何なんだ…たった一人相手でこの疲労感…。
ともかく今がチャンス。永琳はレミリアの腕を取った。そして、注射を近づける。
(っ……っ!)
レミリア様の超動体視力は注射の接近を見逃さない。
迫り来る注射…!
されど、逃げることは適わない!本能を、誇りで自制する!
来るっ!来るっ!来るっ!く…
永遠とも思える刹那のスローモーションのような世界の中…レミリアの緊張は究極の所まで達した。
「はい、終わり」
永琳はすっと針を引き抜いた。
「ご苦労様。お嬢様、終わりましたよ」
永琳に礼を述べつつ、咲夜はレミリアの肩を揺らした。
「…?」
しかし、お嬢様は動かない。
「お…お嬢様!?」
咲夜はレミリアを更に揺り動かすが、その頭はまるで張子の虎のようにがくがくとされるがままに揺れている。
「ま…まさか…っ!そんな……!」
咲夜はレミリアから思わず飛びのく。
その様子を見ていた藍は、目を伏せて呟いた。
「巨星堕つ……か…」
「お…お…お嬢様ぁああ~~!」
咲夜の悲鳴が永遠亭に響き渡った。
「あはははははははははははははははははははははは!」
フランドール・スカーレットはこれぞ抱腹絶倒というような形で笑い転げた。
「お姉さま最高!面白い!あはははははは!」
「うるっさいわよ!フラン!あれは演技だって言ったでしょ!」
レミリアは一喝すると、すぐにそっぽを向いた。恥ずかしいのだ。
「でもさすがお嬢様ですわ。演技で気絶するなんて…素晴らしいです!私、感動しましたわ!」
咲夜はそんなことを言いながら紅茶を運んでくる。
そう、レミリアはあの注射の最中気絶をしてしまったのだ…。咲夜はそれが演技だと信じて止まないようだが…この場合は逆にそれが不味かった。
失敗という意識が無いから誰彼構わずに喋ってしまうのだ。
『お嬢様は凄いのよ!芝居の達人だわ!』『へぇ、初耳だなぁ』『だって、注射を受けに入って本当に気絶をするほどなのよ!』『……へ~…』
本当に気絶したのならそれは演技ではないだろう…と、その話を聞いた人は必ずレミリアに半笑いの生暖かい視線を向けてくるのだ。自慢のつもりの咲夜の手前、激情に駆られて掴みかかることも出来ない…地獄だ。
当然のように館中にその事実は広がり…こうして妹にすら笑いものにされている始末である。
「ま…まぁいいわっ!注射っていう目標は達成したもの!これで私は病気しらずね!」
それぐらい言っとかないとやってられない。
「その話だけど…」
…と、目の前で珍しく新聞などを読んでいたパチュリーが言った。
「それも無駄骨になりそう…」
「え!?」
パチュリーは記事を読み上げる。
「先日お伝えしたインフルエンザに関しての続報……幻想郷に蔓延しているインフルエンザ菌だが、近日中にその存在にも終止符が打たれ目処が立った。伊吹萃香が疎と密を操る能力を持つことは割と有名だが、その彼女がインフルエンザ菌を一箇所にあつめてまとめて消そうと考えているのだ。なぜそのような考えに及んだのかという質問に対し、彼女は「え~、だってあれのせいで宴会の頻度が落ちてるしね~…何か邪魔なんだ」と答えている…彼女の能力の前ではウイルスもひとたまりも無いだろう…しかしすでに体内に入っているウイルスまではあつまらない可能性も高いので、その場合は別途に永遠亭に足を運ぶ必要があるだろう…もし、伊吹嬢に何かお礼がしたいと思うのなら、宴会に積極的に参加して一緒に盛り上がってあげるべきだろう…彼女に対してはそれが一番のお礼になるのだから…」
ふぅ、と息を吐いてパチュリーは新聞をたたんだ。
「……それ…どういうこと?」
「…だから、注射は無駄骨だったみたいね…」
パチュリーはそう言って紅茶を一口…
「……」
「……」
「…ふっ」
「…」
「……ふふ…ふ…」
「…」
「あはははははははははははは!」
「…」
「ちくしょう!」
「ちゃんちゃん」
人生、ままならぬが常なり。
《BADEND》
―一方紅魔館門前…
「…なんか…身体がだるいんだけど…頭も痛いし…どうなってるんだろう…咲夜さん?…咲夜さ~…ん……」
《BADEND》
と言っても数年前は目茶目茶病弱っ子やってたせいで注射に慣れてしまったけど。
本当に幼少時代は注射ってのはひとつのトラウマになりかねないイベントですからねぇ
素晴らしい演技力
>ミリアと橙は一緒に息を呑んだ
レが抜けてます
あんな細い針が何故あんなにも不安を掻き立てるのか…
あと、取って付けたような中国にワロタwwwwwwww
とても良い空回りでした。
今でも注射の針が入る瞬間とか緊張します。あとこのお嬢様に献血の針を見せたらどうなるのやら。
僕は普通の注射は怖くない子でした。
点滴注射は怖かったですが。
刺したままとか……刺したままとか……(つд`)
仕舞いには再流行(主に紅魔館)の発生源にもなる予感w
体の丈夫な美鈴の中で頑張ったウィルスって、突然変異とかしていそうだな。
は、早く美鈴を病院に連れてかないとバイオハザードが起こ…かゆうま
注射怖いっていうネタはもしかしたら全世界共通で共感しやすいネタなのかもなー。
今じゃ献血用のぶっとい針もこわかないですけど。でも貧血は怖い。
普通の注射で気絶しちゃうんならハンコ注射されたらどうなるんだろう
親に聞くと、「お前を連れて行くのは本当に辛かった」とのこと。
いやほんと当時迷惑かけてごめんなさい。
めーりんwwwwwwwwwwwwwwww
何だかやり取りが目に浮かんで来ましたよ~。
楽しめました。
>感染してしまったのにも
>外出しなから多分
『者にも』と『しないから』ですね
そしてレミリア、注射嫌いそこまでいくと感心するわw
僕は、注射や点滴は怖くありませんね。
昔から注射器や点滴が刺さる瞬間から抜く迄を全部ガン見してたらしいのです。
点滴の時、二、三回ぶっ刺されたことがあります。
フランちゃん、ぴんち。