Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷創世記

2007/03/04 22:23:14
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「お招き頂き感謝致しますわ」
「来てくださいましたか」
「ええ、長らくお待たせしました。気が向きましたので立ち寄ってみましたの」
「私の願いを聞いてくださいますか?」
「拙速ですわね。聴くだけで宜しければ、勿論」
「是非とも、聴いて頂きたい」
「是非にあらず。熱烈なことですわ」
「あなたにこの世を去って頂きたいのです」
「つまり?」
「新たな秩序を、築き上げて頂きたいのです」
「……現人神もその座を降りると?」
「恐らくは。私の生あるうちではないでしょうが、いずれは」
「悲壮な決意ですこと。それでは民も浮かばれないでしょうに」
「この開国によって、幻想は朝露の如く消えてなくなります」
「事が成就すれば、日の本創始以来、最大の忌籠りとなりましょう」
「我が一族の霊威も衰えて久しい。これも全て、時勢なのでしょう」
「世の流れには誰も勝てませぬものね」
「球磨と贈於が去りて大和が産まれ、奈良を経て朝から幕へと権力が映り、そして年輪のように刻まれたこの国の歴史が三度、滅びと再生を迎える」

「しかし、私はこの美しくも残酷な世界を失うのが惜しい」
「今でこそ、寸での所。もう、多くの幻想が失われてしまった」
「それを八雲紫、あなたに委ねたい」
「望外の大役で御座いますわね。それを朝敵とまでいわれた私に?」
「どうか、任されて頂きたい」
「迫り来る外敵を打ち倒せとは申しませんの?」
「まさか」

「これは人の世の話です。貴方に頼む所か私が口に出すこと自体、不自然でしょう」

「殺し合って歩んではまた戻り殺し合ってきた人は、この先も殺し合うのでしょうね。それはもはや、人の性とも言えるべきもの」
「殺して殺して殺し尽くして、他人と自分との全てを殺し尽くす何かが産まれた時、人は振り上げた拳を不自然な位置で止め、同時に進化も手放す」
「人は遠からず、進化の絶頂を終えます。そのあとは緩やかな黄昏の如き猶予期間が待ち受けるのみ」
「人が神にならぬ世を迎えたその時、そして人が神であると錯覚したその時、同時に人の歴史は世界の一枚ではなく、人だけのものになる」
「それは、人の終わりを意味する」

「私の命で信頼できる数人の人間を派遣します。どうか彼らと協力して、後を任されて頂きたい」
「お引き受け致しますわ。この命に代えても」






   壱.晩餐会
      八雲紫


「引っ越し?」

 猫の額ほどしかないささやかな我が家の庭で、最愛の従者たる八尾の狐は竿に引っかけた物干し竿を高台に架けながら、素っ頓狂な声をあげて振り返った。
 そんな意外なこといったかしら、と頬に掌を当ててくいと小首を傾げて戯けてみせると、縁側に座る私の頭を上げ竿がぺしとはたく。この娘、自分の主を何だと思っているのかしら。
 私より目線二つは高い長身。豊満な肉体。白磁のような肌。お人形のような顔立ち。さっぱりとした金髪に勝ち気な表情は、この長年ですっかり市井が板に付いた。散々、もったいないとあれほど箴言を弄したにも関わらずあっさりと切り取られてしまった白金のような後ろ髪は、そのまま捨てるに忍びず、私が大事に保管している。
 全く本当にもったいない。そのままだったらまるで異国情緒溢れるお姫様だったというのに、ここまでさっぱりした性格になってしまったのは、やっぱり私の教育が間違っていたのでしょうか。

「どういう心変わりだ? 私が居着いてこの方、転居などという浮ついた話など欠片もなかったというのに」

 そうやってきかん坊を相手にしているような表情をしていると、まるでお母さんみたいだ。年齢からすれば、確かに藍の方が遙かに上のはずなので、手を引いて幼少の私を連れて歩く姿を想像してみる。
 背中を丸めながら襤褸を纏って寒空を行く藍。お腹が空いたと愚図る私を窘めながら、内職の筵や草鞋を売って回るのだ。一日を食いつなぐのもやっとという過酷な環境の中で私はすくすくと育ってそして――
 また、頭を小突かれた。そうやってすぐ、暴力に訴えるのはよくないと思うのだが、近頃の藍は言葉より先に手が出ることの方が多い。出会った頃の彼女はこんなではなかったので、やはり、私の教育が悪かったのだろうか。

「正直、お前が何を考えているか、私にはさっぱりわからん」

 声音は全く変わらなかったが、私の鋭い感覚が藍の温度を鋭く読みとる。まるで夕立前の空模様のように、ひやりと声音が数度、温度を下げた。
 この家には二人しかいないため、従って洗濯物の量もたかが知れている。籐の籠から数度、竹竿に洗濯物を架けると、それだけで物干し作業は終了だ。後に続く元のいえば。

「いきなり音信不通になったかと思えば、襤褸雑巾のようななりで帰宅、というのはここ数百年でざらにあったことだからな」

 まずは嫌み。濡れた手を割烹着の端で拭きながら、能面のようなのっぺりした顔でこちらに向かってくるのである。

「何だ? 私はそんなに信用がおけないか? 二人で物事に当たった方が解決も速いとは思わないのか?」

 その間、私は防戦一方だ。藍からしてみれば非常識極まりない行動と映るらしいのだが、私からすれば藍を思っての行動。事の発端が私であるいざこざに彼女を巻き込むのは忍びないし、何より全く関係のない事象で誰か他の存在が傷つくのは、私としても耐え難い。

「お前には散々、前科がある。洗いざらい話せ」

 だが、やはり藍にはそう映らないらしい。ずいと籠を片手に鼻を突きつけてくる。藍の高い鼻と私の鼻が正面衝突。
 息も触れる間隔。切れ上がった金色の瞳が私を正面から睨み付ける。
 それどころか、鼻が触れているというのにまだ顔を突き出してくる。いっそ口づけでもしてあげようかという思いがよぎるが、流石にこの表情の藍においたを致せば唯では済むまい。以前、冗談交じりで事に至った時は、煎餅布団を下に小半刻は説教をされ続けた。
 かといって、打開策があるのかと問われれば否。結局、目をそらすことになるのは私の方なのである。

「……内緒」
「怒るぞ? 本気で」
「ひらいひらい!」

 痛い痛いといいたかったが、真横に全力で引き延ばされた頬ではなかなか発音もままならない。

「さぁ、吐け! きりきり吐け! 今日こそ吐け!」
「ひらい! ひらい! ひいまふひいまふ!」

 限界を凌駕する限界。麺棒で伸ばされるうどん生地みたいに伸びる私の頬。きっとそのまま切り分ければ腰がある麺が出来上がることだろう。実に美味だ。
 而して解放される私の頬は既に桃のような赤みを帯び、ひりひりと空気を浴びるたびに熱を放射する。両手で包むように覆っても、結局は掌の熱が痛覚を増進させるのでさして意味はなかったりするのだ。
 この微妙な力加減。変なところばかり藍は達人になる。

「じゃあ、洗いざらい吐け。事の発端から運び、目的に至るまで全てだ」

 何か、私が悪事でも働いて尋問されているような錯覚を覚えたのだが、それが錯覚でないことを一番よく知っているのは藍だ。とすれば、これは立派な取り調べなのだろうか。
 さて、事の発端から運び、目的に至るまでの全てを告発せよと仰いますかお代官様。

「事の発端」
「うん」
「……言えません」

 にょろっと藍の額に血管が一本、浮き出した。

「事の運び」
「……うん」
「……まだ口にできません」

 ぴしっと、藍の口端が不自然に歪んだ。

「事の目的」
「…………。……うん」
「頃合いを見計らってお話ししま――ひらいひらい!」

 庇う両腕を巧みに取り払って再び引き延ばされる私の両頬は、既に餅の如し。何処までも何処までも引くだけ伸びるような有様は、本気で涙目になるくらい痛かった。いわなければ許してもらえないというのなら、私は永遠にこの責め苦から逃れられないことになる。何たることだろう。この無限地獄から逃れる術を、私は持ち合わせていないではないか。
 と、韜晦じみてみたところで痛いものは痛い。いっそ大泣きでもしてやろうかと投げ遣りになりかけたところで、地獄の万力は突如、弛められた。
 ようやく解放された両頬をさすりながら精一杯、恨めしげな視線を目と鼻の先に投げかけてやるが、その目と鼻の先はまるで仁王様。こんな形相の像が阿吽と両脇に立ってでもいたら、それだけで病魔退散だ。
 得物を頬肉から顔の側面に変えた藍の両腕は、ぎりぎりと今度は私の頭蓋骨を締め上げる。

「……いいか……」

 その獄卒が顔を軋ませて口を開く。息なんかもう、蒸気でも噴き出しそうな勢いで加熱していたし、実際、藍は炎の扱いに掛けては天下一品である。こんな状態で火など噴かれてはたまったものではない。

「……今度、行動する時は、絶対に私を連れて行け……」

 この顔を見ていると、手も触れず術も使わずに人を殺すことなど簡単のように思えてくる。このまま気絶できればとも思うが、唇に触れる荒い息が恐ろしいまでに私を現実へと引き戻す。

「返事ぃ!」
「はい!」

 もう、威厳も何もあったものではない。折檻された頬も涙目もそのままに、この地獄の一丁目から抜け出そうと私は必死に懸命に首を縦に振った。
 世界広しといえど、この八雲紫の頬をひっつかんで全力で伸ばすなどという暴挙に至ることができるのは、この藍くらいのものだろう。

「……よし……」

 ひとまずそれで満足したのか、ようやく解放される私の顔。はっきりいって怖かった。藍ってば日を追うごとに怖くなっていくわね。

「じゃあ、夕餉の支度をしてくるから、そこで大人しくしていろよ」

 そういって、藍は縁側からお勝手の側にのっしのっしと歩いていく。愛想笑いを浮かべて手を振る私に途中でぎんと振り返り、絶対だぞと念を押して、再びのっそのっそと歩いていくその様は、まさしく台風一過と表現してもおかしくないくらいの有様だった。
 そうして藍の姿が見えなくなって、盗聴されていやしないかと術の逆探知をかけて、聞き耳を立てていないかと風向きを確かめてから、重々、慎重に私はぼそりと呟く。

「……ごめんなさい……」



 ちょっと出かけてきます。
 数日は戻らないと思いますので、きちんとご飯を食べてくださいね。

 紫


 ぐしゃり。
「……あんの三枚舌ぁ……!」






   弐.孤島の邂逅
      八雲紫


 孤島。
 凪ぐ波から薫る潮風。外洋から押し寄せる波浪は岩を荒々しく削りだし、長き年月をかけて崖となし、それが四方からともなれば、島はさながら独房のように不可侵の要塞となる。
 人の姿もなく、行き着く動植物も少なく、そんな行き来の乏しい島を根城にするのは、精々が自由な翼を持つ海鳥たちくらいのものだ。
 渡る景色から拝めるのは地平線の向こうに湧き上がる積乱雲。そんな何処からも孤立した島の絶壁に、隻影がぽつりと南天の陽に影を受けていた。
 定期的に耳朶を打つ波濤の音と同じくして澄んだ海色の浴衣に、一層目を引く若草色の帯。草履も履かぬ健康的な素足がぷらぷらと崖から投げ出されて所在なげに揺れており、潮の香りを多分に含んだ風が肩で揃えられた緑色の髪を、この島の植生と同じくして荒々しく撫でて動かす。
 まるで断崖に咲く花のように、その存在は気高く美しくそこに存在していた。その一輪を以て島が完成しているといっても過言ではないほど、その存在は高潔で見るものを尽く虜にした。あるものは魔性の美しさと戦き、またあるものはその美しさと共に白波の露と消えて。

「こんにちは。八雲紫と申します。あらゆる植物を操る妖怪というのはあなたで宜しくて?」

 そこに添えられる花が一輪。島に咲く花が群生する薔薇だとしたら、まるで雨中に萌ゆる梅のような、ある意味で対極をなす美しさの花々が、一同に会する。

「鞍馬と鴉、両天狗の意見が合致した結果、あなたを我が幻想郷へと招致する事に致しました」

 だが、薔薇は梅の存在などまるで意に介さぬとでもいうように、紅玉のような瞳はゆったりと波間を見ている。

「ご同行願えませんか、風見幽香?」

 ざんと、大きく押し寄せた波が砕けて散る。荒れ狂う風が渦を巻いて、髪を攫っていく。
 しばらく、優しい時が過ぎた。音はあくまでもしなやかに鳴り響き、肌を涼やかに風が過ぎていく、とても穏やかな時が、ゆったりゆったりと流れていく。
 つと、薔薇が枝を梅に伸ばした。相変わらず、間延びした空間は馬鹿正直にあらゆるものを顕現し続ける。
 結果からすれば、その安寧を打ち破ったのは薔薇だったか梅だったか、その場を荒々しく立ち退いた足下から、烈風にも負けぬ勢いでせり出した蔓草が絡みつく。一歩二歩と下がる足下からも例外なく梅を絡み取らんと捕縛の手は容赦なく伸びた。
 植物との鬼ごっこ。まるで講談本の挿絵のように、亡者を奈落に引き込まんと湧き出す枝花。食虫花よりも獰猛で残忍極まりない意思、手にかかるもの全てを縊り、締め上げ、搾り殺すという明らかな殺意。それらが地に付ける足下から湧き上がり、得物を捕らえんとする。
 だが、次々と伸びる魔の手は永劫と思えるほどに数を増やすも、その手自身を休めることはない。その軌跡が下がるものから突如として進むものへと代わり、その間隔がじわじわと広くなる。直線から曲線へと移り、方角も逆から正へと向きを変え、やがて発生源と出現地が遂に重なる一歩手前、行く手を遮るように植物の壁が突如として植生した。まさしく、壁と表現して差し支えない、木やら草やらの繊維質が厚みを以て進路に立ちふさがる。
 無造作に叩き付けられる腕。それを絡め取る植物が、今まさに腕をひねり潰さんと圧力を掛けた瞬間。
 ごうっと音を立てるほどに火勢のある炎が多分に水を含むはずの植物を一瞬のうちに燃やし尽くした。余りの熱量に、あとには灰すら残らない。
 その業火が挙げた朱色が引く前に、私はそこを突っ切って風見幽香の所在を目指す。だが、その先にいるはずの存在は既にそこになく、遙か後方、大きな岩の上に優雅に腰掛け、先程とはうってかわって妖艶な笑みを浮かべながらこちらをさも楽しそうに眺めているのだった。

「私の名を知り、私の力を知り、逸話を知って尚、近寄ってきたのはあなたが初めてよ」

 背筋を走る悪寒。特に意識していないはずの嫣然とした声は、冷ややかな残響と共にねっとりと絡み付き、恐ろしいほどの存在感をともなって私の耳を貫くと、鼓膜を刺激し、脳へとよじ登っていく。
 感じられる妖力はそれほどまででもない。仕掛けられた攻撃もそれほどのものではない。それでも、ある種の神託めいた確信が私の第六感を刺激して止まない。
 こいつは、危険だと。

「別段、争いに来たわけではないのですが」

 じわりと掌に浮かんだ汗を気取られないように拭いながら笑みを返す。震えそうになりそうな心を鼓舞する。

「楽しませて頂戴」

 それが、合図となった。
 かざされる手。そこから吹き出す無数の茨。問答無用で仕掛けられる攻撃をかわし、短刀で捌きながら、私は風見幽香に向けて走る。
 余り考えたくはないが、それでもこちらの出方を楽しむような情け容赦ない残忍さを含んだ彼女の性格であるからこそ、この初手は極めて重要な意味を持ちうる。妖力を殻に収め、極めて人間的に攻撃へと対処しながら、その一瞬を蛇のように伺う。
 こちらからの攻撃を求めるからこそ必然的に生じる隙。尊大で貪欲な欲求から派生する隙間。
 周囲の木々から葉が舞い落ち、私の視界を覆い隠すと同時に、大地が軽く胎動し、そこからまるで蛇のように私を絞め殺さんと、太い幹が開く花弁のように伸び上がってくる。藍ならともかく、私如きが捕まれば瞬く間に全身の骨を砕かれてしまうだろう。丹田で練った霊力を足に巡らし、的を左右縦横に動きを散らし、絞らせずに私はひたすら慎重に前進する。
 そんな一方的な防戦がどれくらい続いたか、狂気を孕んだ笑顔がゆっくりと緩み、次第に瞳が胡乱げになり、時折、攻撃の合間に溜息が混じるようになった。目尻に浮かんだ涙を見ると、恐らくは懸命に欠伸を噛み殺しているのだろう。

「もう良いわ。あなた、退屈よ」

 遂に決別宣言。噛み殺すことも億劫になったのか、盛大に広げられる口から大量の吸気を伴うと同時に、ひらひらと動物でも追い払うような気軽さで手が振られ、大地が鳴動、一瞬後、私が立っていた一帯が鋭利な角度を持った竹で埋め尽くされた。
 上空高くまで持ち上がった竹は飽くなきまで得物を求め、上空を飛んでいた幾らかの海鳥達までもその手に掛けていた。
 幽香の妖気に当てられてか、敏感な動物たちはとうの昔に逃げ去り、怯えたように風も止んで、周囲はすっかり静寂に包まれていた。
 いや、静寂にはもう一つ理由があった。
 かざされた幽香の掌中央に、半ばまで埋められた一本の黒い針、上腕ほどもある太い黒塗りの、避雷針のような針がまるで活けられた花のように陽光を反射していた。それを、呆然と幽香自身が眺めている。
 一拍遅れて、雷にでも撃たれたかのように痙攣する幽香の身体。その四方を、地面に突き立てられた同様の針が即座に囲む。
 烈火の閃光。幽香に突き刺さった一本が頂点となって、五つの光点は世界を白色に染めた。
 妖気を孕んだ竹の合間で、結界に包まれた私は無言の印を結ぶ。
 ぐらりと身体が揺れるとそのまま背中から、下半身を黒こげにした幽香は地面に沈んだ。
 この一瞬を見計らって許容限界ぎりぎりの霊力を込めた結界針は狙い通りの効用をもたらした。不本意ではあるが、協力の意思がみられない以上は、このまま彼女を拘束して、本懐を遂げた後、別手段でこちらに帰して――

「あはははハはハハははは!」

 その時だった。すっかり妖力が消え去った幽香の身体がけたたましい高笑を上げたのは。

「素敵! 素敵よ、八雲紫!」

 結界を解き、急増の竹林を盾にして地面に伏せった幽香から距離を取ると、今度の声は突如、背後から聞こえた。
 思うより先に身体が動いた。できる限りの速さで自分の立ち位置を変えるために、咄嗟に右へと飛ぶが、その動きを私の左腕が阻止した。
 見ると、背後から伸びた手がしっかりと私の手首を握って離さない。手首を動かそうと試みるが、束縛の手を切ろうとした私の意志を反映しない。
 捕まれた箇所から皮膚に潜り込む気色の悪い感触。不思議と痛みはなかったが、蠢く細い触手のような何かが私の皮膚を食い破って、私を侵そうとしている。

「もっとよ! もっと私を楽しませて!」

 私を呑み込まんとする狂気、右手に握った短刀を振るって幽香の手首を切り落とすと、すっかり形が変わってしまった大地を跳ねるように移動して、動揺を押し殺しながら幽香から距離を取る。
 先程倒れた風見幽香らしきものは既に一の輪郭すら保っておらず、焼けこげた下半身の部分を除いて、茶やら緑やらの食物繊維が雪崩れていた。
 背後に回られた気配はまるでなかった。それどころかいつ、分身と入れ替わったのか見当もつかなかった。恐らく、持ち前の能力で何かをしたのであろうが、その何かが何であるか、皆目見当がつかなかった。
 海千山千、決して誇るわけではないが、それでも数多の激戦は私の血肉となってこの身にこびりついている。それでも、先ほどの攻防が一から十まで全て理解できない。私の知識、経験、勘すらも全て超越しているのだ。
 天然の妖怪で、此処までの実力を誇るものがいただなんてね。
 びっしりと根が張り巡らされた左腕は今でこそ自分のいうことをきくが、幽香の手から切り離された今も貪欲に肉を喰らい続けている。やがては芯まで潜り込まれ、完全に自由を失うことだろう。いや、それどころか、下手をすれば相手の意思を反映しかねない。
 決断から実行までわずか数瞬。即座に私は左腕の肘から下を切り落とす。どうも、私の左腕は強敵との相性がよくないらしい。
 ねじが抜けたからくり人形のように高笑し続ける幽香。その間にも、地は盛り上がり生い茂った森が陽光を隠したかと思うと、一瞬後にはぽっかりと消えて散る。幽香の気配が根本から絶たれたと思うと、次の瞬間には四方八方から妖気が滲み出る。そのせいでいとも容易く接近を許し、私の身体にはどんどん生傷が生成されていった。
 神出鬼没といわれる妖怪は、これまでに何度か相手取ったことがあった。泥に溶ける泥田坊。海に消える海座頭。寧ろ、退治した限りでいえば神出鬼没を謳われない妖怪の方が少ないくらいで、どの手合いも神が出でるように現れ、鬼が没するように消えていったものだ。
 だが、それらとは明らかに異なる未知の何かが私を追いつめている。久しく感じたことのない焦燥を背に負いながら霊力を練り脚に乗せ、鳴動する大地をひたすらに掛けて島の中央へと走る。
 明らかに誘導されている感がある。海がある沿岸部であれば幾分か植生の薄い島も、中心になればなるほど生命の色が濃くなるのは自明の理だ。常なる温暖な気候、長期に渡る雨期、獣すら姿の少ないこの島であればなおのこと、走れば走るほど私には不利になる。
 だが、それでも細い朝露のような希望を見て取り、私は針を投じながらひたすら道を走る。
 道服が乱れ、裂け、次第に面積を少なくしていく。それに応じて露出する肌も多くなり、帽子はとうの昔に脱げ去り、誠に以て不本意ながら、あられもない姿をさらしつつある。
 あてどもなく、全方位から晒される幽香の攻撃に辛うじて対応しながら、といっても、向こうが間違いなく私を猫のようにいびり倒すのが目的である以上、ある程度は対応できて、裏を返せば残された程度は身体に傷を負うのが確実な状態で、ひたすら走ってどれくらい経ったか、鬱蒼と覆う一欠片の陽光も通さない宵闇のような森の先に、一本の樹に行き着いた。
 人が十人、手を繋いでようやく幹を囲えるくらい、巨大な楡の木。匂い立つ神性、沈殿する神格が、森の中にあるはずのこの存在を際だたせている。
 太い根本まで駆け寄ると、幹に背を預け最大限、周囲に注意を払う。この樹の神威が及ぶ範囲なら、私の霊力も阻害される代わりに、幽香の妖力も幾らか削げ落ちるはずだ。
 地中にはこの木霊の根が張り巡らされている。よって地中から忍び寄られるという可能性は排除できる。来るのであれば、おおよそ間違いなく空から、それもなるべく私を驚かせる形か、さもなくばできる限りの恐怖を与えるように強襲、奇襲を企てることだろう。深く裂けて肩口からずり落ちるように垂れ下がる袖を引きちぎると、そのまま投げ捨てて短刀をしかと握り治す。
 身体を静止させたせいで余念が襲い、掌にじわりと汗が浮かぶ。唯、枝から飛び立つ鳥の羽音にすら、過剰に身体が反応してしまう。
 呼吸の音が嫌に耳に障り慌ててひそめると、すっかり喉にからんだ固唾を何とか呑み込み、改めて周囲を見返す。先程まで四方八方から刺すように襲ってきた幽香の妖気が、うってかわって静まりかえっていた。
 ざっと、梢を強い風が一度、大きく揺らし、生気を失った木の葉が数枚、不規則な軌跡を描いて頭上に舞い降りてくる。はらはらと舞い落ちるそのうちの一枚が目の前を過ぎようとしたそのとき、しかと顔の横から伸びた腕が木の葉をつかみ取った。
 事態を把握できずに硬直する私の首に巻き付く腕。ずるりと、背後から剣呑な脅威がはい出してくる感触。
 まさか――
 激流が岩にぶつかれば流れが裂けるのは道理だ。木の葉が水流に沿うのもまた道理であり、雨水が天ではなく地に向かって落ちるのも道理なれば、即ち理に外れる事象など何一つとしてありはしない。何一つとしてである。
 だとすれば、私は何か致命的な思い違いをしている。その証左がこの腕であり、感じられぬ妖気であり、存在を示す気配だ。
 首にかけられた腕の手首を掴みながら、肘を支点にして後方に回る。と同時に握った短刀で一拍おいて斬りつけると、腕は脆くも根本から崩れ去った。
 握った手元に残ったのは、見る見るうちに生気を失って萎んでいく幽香の腕。いや、腕ではない。腕に模していたそれは、朽ちて元の形を取り戻しつつあった。
 腕をかたどった、繊維の束。それが生の息吹を失って、ぼろぼろと朽ちていく。

「ほら! 呆けてる暇はないわよ!」

 振り返った私の胸元に当てられる切り落としたはずの腕。
 妖艶に歪む微笑は、神木からまるで宿り木のように生えた上半身より浮かんでいた。端から見れば何とも馬鹿馬鹿しい光景で、そもそも霊樹に寄生する妖怪などとは耳にしたことすらない。
 後方に飛ぶ私の動きにあわせて距離を詰めてくる幽香の掌に、強い光が集いだした。
 動きは私の方が速いため、じりじりと距離は広がっていくが、それを無に仕立て上げるほどに身の毛がよだつほどの妖気が、集う光の筋から球となって幽香の掌に蓄積されていく。
 まずい。
 警鐘を鳴らす第六感、泡立つ肌、渇く喉。考える間すら惜しんで、唇が言霊を紡ぎ手が印を結ぶ。
 視界一面が強烈な白色に染まる。眼を細めてすら尚、目蓋の内を焼く強烈な閃光。
 スキマでは、スキマごと焼き払われる。
 結界。
 円に構え多重に張り巡らせた結界が、衝突する霊力との摩擦で一層、激しく輝く。
 一枚。
 二枚。
 三枚。
 四枚。
 五枚巡らせた結界が、最後の一枚で辛うじて光の奔流に耐えきった。
 踏みとどまった。力場を熱量へと転換させた光は本流こそ防ぎきったものの、投下した力が結界内の温度を急上昇させていた。渾身の結界五段構えを首の皮一枚にまで肉薄するその力に、堪えていた息を一気に吐き出す。
 これほどまでに苛烈な攻撃を繰り出したのだ。追撃はあるまい。確証の下に霊力を込め、呪を展開しようとした私の視界を、何か動くものが横切っていった。
 悪寒。咄嗟に込めた霊力を丹田に回し、符を離して印を組みながら地を蹴りその場を離れ、身体を反転させる。
 そこにいたのは。

「王手ね」

 息も触れそうな距離でそこにいたのは、離れて前方に立っていたはずの幽香。そのとろけそうなくらい陶然とした笑みが、私の置かれている現状を何よりも雄弁に語っている。
 何故、どうして。それらに答える声はなく、唯、残酷なまでに現実は目の前に顕在している。
 退がる私の動きより早く、胸元にかかげられる掌。そこに収束していく光の筋が、球となり鞠となり見る見るうちに大きくなっていく。
 連綿に繰り出された先程までの攻撃が、まさか全て囮だというのだろうか。追いつめられ、完全に欺かれた現状が私をあざ笑う。
 あらかじめ力を二つにわけたからこそ、二度にわけて全力をつぎ込むことが出来る。一度の威力は半減するが、戦略的な盲点をつくことで完全に戦闘の主導権を奪取することができる。
 完全に狭まった距離では、間に薄い結界を一枚程度しか張ることが出来ない。
 しかも、これで少なくとも幽香は『半分』である。私が渾身の力を込めて張った結界も、その半分にすんでの所まで打ち破られた。
 『人』の力だけでは勝てない。
 まず解決すべきは、この現状。私の命は今や、風前の灯火だ。手始めとして、空気のように形のない特殊な結界を張り、身体にまとわりつかせる。
 極力、人間の力でなどと、甘いことを考えていられる相手ではない。幽香はこれまでに闘ったどの妖怪よりも狡猾で、間違いなくどの妖怪よりも凶暴だ。
 噛み締め、心を決めると、肺から空気を絞り出して、全力で『妖気』を解放する。
 泥のように纏った不可視の結界は、囲む一帯の時間を早める効果を持つ。一刻が結界の中では二刻に、二刻が結界の中では四刻に。結果として、そう人間と変わりない身体能力しか持たない私の身体は、韋駄天の如き速さを手に入れる。
 私の視界から時間差を持って遅れ出す景色。空を蹴り、宙を渡り、即座に幽香の背後に回ると、できる限りの妖気、霊気ではなく妖気をそこに集中させて呪を練り増幅させる。
 幽香の特殊な形態から、そもそもの妖力総量はどれほどの違いがあるか判別しないが、先程の閃光が幽香にはできて私にはできない理由。それは偏に、呪の構成にある。言霊、文字、音、霊力、妖力など万物を媒介として組まれる呪は果てに、世界すらも構成可能にするという、その複雑怪奇な法則はまさしく暗号に等しく、結局、他人への伝聞という点に置いて極めて不便だ。言の葉を放てばそれは力となり、文字を描けばそれは世界となるのだから、至極当然なことだ。あの威力は幽香が持つ呪であるからこそ発揮できるものであり、私では到底及びもつかない瞬発力である。
 それでも、私にしかない武器はある。
 人であろうが妖怪であろうが、何かを行使しようと思えば必ずそこに媒介と代償が伴う。樹になった林檎をもごうと思えば腕が必要だし、それ相応に力が必要となる。せせらぐ川に泳ぐ魚を捕ろうと思えば、それなりの道具が必要だし時間も、場合によっては危険が伴うこともある。
 能力に則さぬ術を扱おうと思えば、それもまたこの法則に従うことになる。代償は命の源となる霊力や妖力。媒介は言霊や文字、祝詞や舞など。複雑な術になればなるほど代償は多寡となり、危険性は加速度的に増す。力の制御と消費を両立させるという危険極まりないこの術という代物は、場合によるとほくちの一つで命を落としかねない。
 そこから、制御と消費の一部を簡略化させたもの。それがこの特殊な金属に祝詞を刻み込んだ呪符。あらかじめ、呪符を文字として書き込んだ特殊な金属は、霊力や妖力を注ぎ込むだけで自動的に呪の形成と消費霊力の安定を図ってくれる。
 その特殊な金属板のうちから、即効性を考慮した上で最大限の威力を誇る符を選び、指向性を持たせ、幽香の背中に向けて全力で爆発させる。
 一度で爆ぜる世界。
 耳をつんざく炸裂音と共に、崩れ落ちる幽香の身体。間髪おかずそこに、手足、頭を標的とする針を五本、的確に投げつけた。
 寸分の狂いなく刺さる針の威力は、先程の比ではない。今度こそ落雷のような轟音をともなって幽香が焼けこげた。
 どさりと、重い音を立てて地に伏せる幽香の身体。まるで落下するような勢いで、根やら岩やらで隆起した地面に横たわった。
 終わったのだろうか、などと甘い幻想は抱かない。これまでの経緯、禍々しいまでに滲む妖気、むせかえるような充満する殺気、警鐘を立てる私の五感、これら全てが未だ物語の終末を告げていない。
 確証の下に警戒を解くことなく睨め付けていた幽香の体がずるりと雪崩を起こすかのように溶けたかと思うと、幽香だったものは瞬く間に色褪せ、地面に吸い込まれて消えた。
 身構えた私を襲ったのは、気配もなく背後より忍び寄った軽い衝撃。慌てて腹部をさすってみると、ほんの石ころくらいのちっぽけな穴が馬鹿馬鹿しいくらいにぽっかりと空いていた。
 唖然と蓋をするように手を当ててみると、思い出したかのように血が溢れてくる。まるで現実味のないぬめりと暖かみが、掌を支配していく。
 再び、衝撃。今度は肩口を囓られたチーズのように削り取られた。次は右の太股を。その次は右の胸を。
 気管を塞ぐように溢れ出す血液が呼吸を遮り、意思を反映しなくなった足が地面から離れ、泳いだ身体が地面を嘗めると、視界が空を仰ぐ。
 その間にも削られていく私の身体。瞬く陽光のようにちかちかと閃光がきらめき、手を、足を、身体を刮ぎ落としていく。
 攻撃は、全方位から雨霰と行われていた。天を覆うように茂る木々が、地を隠すように茂る草花が、狂気を持って私に牙をむく。
 足掻く手で結界の符を握るが、符の発動に必要な妖力を集中させられるほど易しい状況ではない。
 死。
 これまでに幾度となく、ある時は自らの手で、ある時は他者の手を借りて覚悟してきた足音が、すぐそこまで聞こえてきていた。
 視界に帳がおり、意識が薄くかすんでいく。身体から痛覚が抜け、思考が鈍く停滞していく。
 ただ、衝撃だけが身体に伝わる中、もういいかと、諦観を込めた溜息で全てを締めくくろうとしたそのとき、脳裏を何かがよぎっていった。
 何だろうと、ぼんやりとした頭脳を引き絞って焦点を合わせると、薄い暗闇に耳が痛い静寂を伴って、そこには知った顔がずらりと並んでいた。
 何事かと目を見張ると、その誰もが涙を流し、恨めしそうにこちらをただ眺めている。恨み辛みの一言でもあればまた、違った様相になるであろうが、生憎と顔はただ整列して、こちらを眺めているだけである。
 だが、不思議といいたいことは分かった。彼らは未だに成仏できないのだ。私に、そちらに来る資格がないと、私にまだ生きろと、まだ悔いろと、視線だけで責め立てている。
 ああ、そうだった。私の背負っているものは簡単に投げ出すことなどできないのだ。途方に暮れた荷の重さに絶望したこともあったが、それでも私は今、こうして生きているのだ。だったら、どうして自らそれを手放すことなどできようか。
 そうよね、藍。私は生きなければならないのよね。
 手に再び、力が満ちると同時に、寝ていた方がましだったと思えるほどの痛覚が私の意識を現実に引き戻す。呼吸ができなくて苦しいが、生憎と妖怪は呼吸など必要としないのだ。
 死角のない攻撃から転げ回ることで何とか逃れ、その間になけなしの妖気を集中させるとすんでの所で結界を張る。
 所詮は間に合わせの結界、長くは持たないだろうが、その一瞬が今は実に貴重だった。
 これまで私が命中させた攻撃は、ことごとく幽香を殲滅した。にも関わらず彼女は未だ健在で、それどころか今現在、こうしてあらゆる方角から縦横無尽にこちらを攻撃している。
 これは、どういうことか。
 答えは明白だ。幽香は花を咲かせる。あらゆる植物を制御下に置くことができる。
 つまりは、幽香が溶けたこの島の植物は全て、彼女の指揮下にあるということなのだろう。否、それでも足りない。この島の植物全てが、彼女なのだ。
 どれだけ妖力があろうとも所詮単体でしかない私に対して、幽香はまさしく群体。人の形がそもそも仮の姿なのであり、恐らくは自分の意志が宿った植物の根が一本でもあれば、そこから再生、分裂が可能なのだろう。
 凄い力だ。このままであれば、まるで雀蜂にたかる蜜蜂のように、幽香は容易にこちらを殺戮することだろう。
 私の能力を以てしても、逃げる以外の方法が思いつかない。幽香の能力はその単純さ故にそれくらい圧倒的で、今もまさにこちらを圧殺せしめようと結界を集中砲火に晒している。もう、残りは首の皮一枚しかない。
 正直にいえば、勝てる気がしないこの勝負を放り出して、このままスキマを伝って逃げ帰りたかった。だがそれでは、本懐を成し遂げることがかなわない。
 なるほど。
 なるほど、だったら。

「この島の植物全てを消してしまえばいいのね」

 さてお立ち会い。この呪は他とは例外だ。言霊は一度口にすれば遮ること能わず自動書記。術は一度発動すれば途絶えること叶わず暴君搾取。

「掛けまくも畏き伊邪奈岐命、伊邪奈美命二柱の御前に、恐み恐みも申さく」

 私の力を持ってしても符にすること能わなかった、渾身の私をご覧あれ。

「守り恵み与え給え、尊み奉る八雲紫、参上がり来て御霊幣帛を捧げ奉り、御社の内外を祓い清めて拝み奉る」

 出来れば生き残って頂戴な。私も余り加減が出来ないから、あなたのがんばりに期待するしかないのよ。

「恵み幸はへ給へ、安く穏ひに諾ひ給へ、慎み敬ひも申す」

 八雲紫一世一代の秘術、とくとご賞味ください。

「神話『天の逆鉾』」

 耳が痛くなるような高周波が頭上から近くなってくるのが分かる。遙か天空から、何かが降り立ってくる圧力、天蓋が一瞬にして真っ二つに裂け、現実が俄に天空から迫ってくる。
 この一瞬に私はスキマを開くと、閃光を背にしてすんでの所で身を躍らせた。だが、それが精一杯だった。現実と虚実に『境界』を敷き、それをずらすことによって逃げ場を作ろうとするが、何よりも強い光が虚実を現実に戻し、あらゆるものを蹂躙していく。
 音のない爆風。翻弄される木の葉のように私の身体は上空に吹き飛ばされた。
 一転して襲う闇の世界の中、またあの顔達が居心地悪い空間をなしていた。ああ、そちらに行くにはまだ早いのだろう。いわれなくても起きるさ。
 だが、今度ははっきりと冴える意識に反して身体が動かない。指先一つ所か、目蓋一つ動かない。
 閉じた眦からは不思議とあの顔達の存在が窺い知れたが、居心地の悪いことに身体が動かないのだ。

――何をやっているんだ、まったく不器用だな

 あら、これでも随分と器用になったつもりだけれど。

――そうじゃない、お前が不器用だといっているんだ

 そうかしらね。それなりに立ち回ってきたつもりよ。

――判らないようなら、今日の夕餉はお前だけ抜きだな

 作るのは私じゃない。

――精々、食いっぱぐれないよう、ゆっくり悩むが良いさ

 顔に付く砂利の感触が蘇る。耳に優しいその音が波の寄せるものだと勘付くまで、しばしの猶予を要した。
 まるで投げ出すような体勢で、半分沈み込んだ身体を起こそうと腕を立てると、力を込めた腕ごと力を込めた方向にそのまま持って行かれた。べちゃりと、顔が冷たい砂浜と接吻をする。
 誠に不思議なもので、先程まで呼吸を必要としていなかった身体が意識を取り戻した瞬間にむせぶ喉を蘇らせた。体勢を保つ気力すら湧かず、吐き気を催す胸を下げて唯一残った片腕を辛うじて振り回し、苦しい砂面と泣き別れて何とか仰向けにひっくり返る。
 ひょうと一つ吹く風が肌に優しく、不思議と悔恨一つ残らぬ胸中に晴れ晴れした空が眩しかった。茜差す日が西に傾いている辺り、それなりの時間を眠りこけていたようだ。しばし、自分の置かれた状況を忘れてその景色を楽しむ余裕すらあった。
 さて、このままのんびりと寄せる波のように丸い地平に沈む太陽を楽しんでいても良いのだが、それでは些か悠長に過ぎるか。
 彼女はどうなっただろう。一向に起きる気を見せない身体に鞭を入れて、閉じそうになる目蓋をこじ開けると、影が西からの日を遮った。
 もはや、気配を探る気力も残っていなかった。目玉をきょろりと動かして、視界を上に向ける。
 ……信じ難いわね。逆鉾を受けて立っていられるなんて。
 さて、私の方は残念ながらもう煙も出ないけど、どこまでお付き合いできるかしらね?
 奇跡的に取り落とさなかった短刀を握りしめる。

「残念ながら、悔しいけど――」

 逆光の為、彼女の表情は判らない。雲一つない胸中に、彼女の澄んだ声が響き渡る。

「倒れるわよ」

 その大きな影がぐらりと揺れたかと思うと、視界がどんどん狭まっていく。
 どすん。

「……なによあれ、反則も良い所だわ……」

 先程まで天空から降り注いできた声は、今は私の胸元から聞こえる。
 全く、なんだというのか。唯の虚勢であるなら最後まで貫き通せばいいものを。わざわざ、上に倒れ込む為だけに私を見つけ出したのだろうか。
 唯、お互いの面目だけは保たれた。私は彼らに証を立てて、幽香はそれに屈した。禊ぎとも言える力は全て自分のものではなく、結果として私と幽香はこうして殺気も妖気もなしに浜辺に仲良く寄り添っている。

「……あの逆鉾をね、海底とか岩盤に突き刺すと、こういう風に陸が出来るのよ」

 一帯はすっかり装いを変えていた。鬱蒼とした濃緑は全て姿を消して、全く見通しの利かなかった大地は何処までも平坦に彼方まで広がっている。

「大概の術には限界強度というものが存在するんだけどね。この呪は例外で、力を込めただけ込めただけの威力、つまりそれだけ広い大陸が地脈付きで出来
るのよ」

 砂浜、土壌としては栄養も何もない乾いた大地だが、そこは生まれたての赤子のような柔肌に満ちた満々の砂浜、生まれたての大地だ。

「ふーん……。術なんて全く知らないからさっぱりだわ。それもあなたが考えたの?」
「残念ながら、これは神代から伝わる秘術よ」

 声だけは全く変わらぬ好奇心に満ちた様子、私はただ苦笑を返す。

「……純粋な能力の勝負だったら、きっとあなたの勝ちよ」
「やめてよ。下手な慰めだわ」

 決してそういうつもりではなく、本心からそう思ったからこそ口にした言葉なのだが。
 ざっと、肌に暖かい波が一度、背中を通って駆け抜けていく。幽香の身体がこぼれ落ちないよう、私はもう一度、体を起こし直して彼女の髪を撫でた。

「幻想郷って、いったっけ?」
「ええ、幻想郷。行き場を失った幻想が住まう風の終着点」
「あなたもそこに行く訳ね?」

 ああ、なるほど。
 これを話すために、人の形を取ったのか。
 わざわざ声で伝えずとも、他に幾らでも方法があろうに、全く酔狂なことだ。
 精根尽き果ててすら違えぬ噂通りの物好きさに、私は思わず苦笑したのだった。
 日はすっかり傾いて地平線を降りようとしていたが、暖かい空気はいつまでも私たちを包んでいた。






   参.珍客晩餐
      藍


「お友達の風見幽香よ」
「怒るぞ?」
「……ごめんなさい……」

 即座に答えてやったら、予想通りしょげ返った。
 掘っ立て小屋の玄関、居心地悪そうに肩を縮めながらたたきでしょんぼりする紫と、その斜め後ろにさも横柄な態度で立つ緑髪の女。
 紫は出て行った時の道服を着ているが、それだってどうしたものか。紫の手にかかれば服の再生など指を鳴らすより容易いことだからだ。
 念に念を押した上でのこの無断外泊。今度こそ、納得のいく説明をもらわねばこちらとて思うところがある。
 特に、後ろのちゃらちゃらした洋装はなんだ。けばけばしい。それでも大和に暮らす女か、恥を知れ恥を。

「……まぁいい。込み入った話になりそうだから、ここで話すのもなんだ。あがれ」
「……はい……」

 顎で室内を指すと、観念したような顔をした紫が一度だけ溜息をついた。
 うん、全くどちらが亭主かわかったものではないが、最近は家事全般に雑魚妖怪の間引きなどは全て私が請け負っている。加えて今回の一件は糾弾の余地がありありと見て取れる。
 ぎしぎしと軋む廊下を無言で歩く紫から放出される妖力、どうやら、あの幽香という女は相当に手強い相手であったらしい。隠そうと放出を最大に抑えているよう装っているが、根本から弱っているのは私から見れば明白だった。
 居間にはいると、卓袱台に差し向かって拳を握り、無言で親指を立てて畳を差す。上目遣いで正座する紫とその場で胡座をかく幽香。態度からして二人の性格が見て取れる。
 私はそのままお勝手に下がると、用意しておいたものを取り出してそのまま戻る。
 どすんと幽香の前に音を立てておかれたのは、今もほかほかと湯気を立てる一杯のお茶漬け。

「何コレ?」

 むぅ、私が昔暮らしていた京では初対面の人間が一杯目にぶぶ漬けを出されればそれがどういう意味か一発で悟ったものだが、そもそも幽香はそれの内示的な意味所か、それどころか茶漬けが食物であるという事実すら認識していない様子だった。出会い頭の一発目はこちらが高度に出過ぎてあちらに軍配か。強敵だわ、この娘。
 仕方ないので、そのままかまかけていた夕食の準備を再開する。炒り子でしっかり出汁を取った澄まし汁に、鯉のお造り、蕪の酢漬けに煮こごり、菜飯と、八雲家の食事は質素ながらきちんと二菜をつけるのが伝統だ。
 聴いて驚け、紫がいない日は私が二人分を平らげていたんだぞ。
 いわないけどさ。
 それにしても。

「三杯目のお代わりくらい、もっと控えめに差し出せ!」
「美味しいってこういう事をいうのね!」

 この嬉々として飯を掻っ込む幽香とかいう女は何とかならんのか。箸の握りは悪いし口にものを入れながら喋るし、一向に説教が進まない。

「何これ! 刺身って単なる魚でしょ!? どうしてそれがこんなに美味しくなるの!?」
「それは昆布を使ってだな――だぁ! 米粒を飛ばすな!」
「そもそも、御飯って何!? 何をどうしたら植物の種子がこんなに柔らかく美味しくなるの!?」
「魚を生で囓って植物も生で囓って、お前、そもそもどんな文明圏から来たんだ?」
「煮こごりって味の天国ね! 色んな歯ごたえも楽しめて、三拍子揃ってるわ!」
「器に口を付けるな! こう箸で挟んでだな――」
「いちいちうるさいわね、あなた。紫の下僕なんでしょ」
「下僕じゃない、式神だ」

 そんなこんなで、何百年かぶりに我が八雲家の食卓は実に賑わった。こんな慌ただしかったのは、そう、私が紫と暮らしはじめた以来だろうか。
 しかしまぁ、随分と食べ散らかしてくれたものだ。食卓がまるで戦のあとではないか。
 折角、ことのあらましを正そうとした出鼻を挫かれて、ぶつぶつと文句を垂れなが私は渋々と卓袱台を台ふきで拭う。布団を敷く前に御飯粒などを落とされてはことだ。

「藍」

 ようやっと後かたづけを終えて、満腹に任せて寝息を立てだした幽香の横で茶を片手に人心地付いたところに、紫が神妙な口調で切り出した。

「あらましは最後まで説明できないんだけれど」

 思わずその雰囲気に居住まいを正す。いつぞや、西行妖とやらが絡んだ一件の時の様な表情だった。

「八雲家は引っ越しをします」
「……ふむ」

 引っ越しをします、か。

「なら、色々と準備をしないとな」
「ええ、色々と準備をしないとね」
「うちが引っ越すとなると、色々とあとが面倒だからな」
「そうね、方々にも断りを入れておかないと」

 八雲が顕在したこの数百年の土地を離れる。
 それがどんな苦難を伴うことか、その言葉が何よりもそれを体現していた。






   肆.共に歩む
      八雲紫


 翌日、私は藍を伴って山を下り、麓の里に顔を出した。
 といっても、この数百年、戦があっては目をそらし妖怪が来ては調停しと、おおよそそこに住まう人間達の経済活動以外ではそれなりに手を出してきた村ではあるが、直接の面識は一度としてない。精々が禁を破って私の山に入った人間に、意図的に姿を見せたりして風聞を広めた程度だ。この里での私は、醜女の山神様である。
 大和の山里というものは同族意識が強く、外敵の侵入に敏感だ。そこに住まうもの達が意識を一丸にし、飢饉や病を乗り越えてきたのだから当然といえようが、精々が百数十人の村に得体の知れぬ異人風の人間が現れれば、文明開化からはほど遠く、未だ妖怪も多いこの山村では警戒されて然るべきだ。
 かくして、私たちは大人達の持つ槍に出迎えられ、大勢の男達に囲まれている。物騒であるというなかれ、現実に私たちからすればこの状況でも赤子の手を捻るように彼らを屠れてしまう。
 じりじりと包囲が狭まり、喉元に刃物の剣呑な輝きが近づいてくる。手慣れた妖怪退治の専門家なら間違っても暴発することはないが、彼らは生憎と普段から農業に勤しむ裏表ない農民だ。一つの間違いで恐怖が破裂してしまう恐れもある。
 だがその紙一重で静止となっている要因の一つが、伴っている藍であろう。どうも、様子を見る限り、神と見られているのは明らかに外見を異とする彼女の方であり、私の方はその付き人という程度としか受け止められていないようだ。
 まあ、それならそれで良いだろう。どちらがどうとしたところでこれまでが変わるわけでもないし、これからが変わるわけでもない。訂正したところで彼らは今後、私の庇護から離れる点に変わりはないのである。
 ああ、平蔵の家は子供が生まれたんだっけ。遠巻きに見守る一人の女性が赤子を抱いている。手前で槍を握っているのは字の弥平か。あれほどやんちゃだったきかん坊が妖怪にも喰われず元気に育ったものだ。千は菊三の元に輿入れしたんだったか。弥勒爺は最近、腰が痛いと頓にこぼしていたか。
 いつの間にか、私の一部になっていた村の存在に言葉を詰まらせる。幾とせを暮らし、何世代も交わり想いを募らせてきた彼らと、別れるのが辛い。
 いけない。目頭が怪しい。すっかり視界がぼやけてしまっている。

「じゃあ、山神様からあなた達にお言葉があるみたいだから、ご静聴御願いね」

 言うが早いか、私は即座に踵を返し、人の輪を飛び越えると一目散に森へと駆ける。
 この村と私はずっと共に歩いてきたのだ。悲しくないわけがない。例え想いが一方通行だったとしても、例え一方的に与える側であったとしても、それが愛情であったことには変わりないのだ。
 私は彼らに様々なものを与え、変わりに数え切れないほどのものをもらったのだ。
 声が枯れるまで泣いた。村はずれの神木に齧り付き、この数百年で類を見ないくらい、泣いて泣いて泣きこぼした。
 日が昇って、喉がかすれて、日が落ちて、涙が涸れても私は嗚咽をこぼし続けた。
 どれくらい時が経っただろう。鼻を啜って息をつく。口がすっかり渇いて水を欲していたが、生憎と井戸は近くにない。
 胸が空っぽになって、そんな空虚な気持ちを抱えて振り返ると、そこにはみんながいた。
 神木は回りに神域を作る。その際に沿うように、皆が私を取り囲んでいた。
 どういうことだろう。これほどの人数がここに来たということも察知できないほど狼狽していたのだろうか。事態を把握できずに、私はただその場に立ちつくす。
 先に口を開いたのは、藍の隣に立つ長老だった。

「儂らもその郷に連れて行ってくだされ」

 それは私が夢想したこと。余りに罪深い発言で、背負うものの重さの余り言葉を飲み下したもの。

「人は妖怪の食料であり、人は妖怪に叶わない」

 それは残酷なまでに事実である。人は未来永劫、妖怪に食べられる側にいるのであり、妖怪の園に人が入ればその凄惨さは見るに余ることとなるだろう。

「これまでと何が違いましょうや」

 現実を知らないのか、それとも私が温室育ちをさせすぎたのか、彼の言葉は正気を疑うに足りた。

「それに、行くといっても村の半数程度です」
「私は、あなた方を見捨てます。これまでのような守られた楽園はもう、何処にもないと知りなさい」
「それでも、我らはあなたと共にありたいのです」

 それでも、彼は笑っていた。それでも、人生に満ち足りた笑顔は自信満々にこんな時もいいきった。それでも、彼の言葉は力があった。
 隣では、藍が大きくこちらを向いて頷いた。
 さっと、風が流れた。初夏の潤いを含んだ山の風が、私の頬を撫でていった。





 そもそもが余り物を置かない我が家は、荷造りを終えてもそう印象が変わるわけでもない。
 藍の着衣を収めた大振りの衣装行李が一つ、私の襤褸を入れた小さい籠が一つ、それに鍋やら郎左衛門雛やらが収められた大きめの葛籠が一つ。
 ああ、それと忘れてはいけない陶製の小物入れ。これには、私が数百年に渡って使用してきた火が炭の中に封じられている。中で灰を被ってはいるが、この灰を払って新しい炭をくべれば、再び火は命を吹き返すだろう。新たな墨をくべては古い灯火を宿す一つの明かり。これを含めて、計四つの荷物が生じたのみ。
 しかし、それでも三畳一間しかない我が家の居住空間を逼迫させるには充分に事足りた。地震が来ないことを祈りながら家財を上に積み上げても、布団一組を敷くのがやっとだった。
 折角の見納めだ。眠る場所がないのなら移住の期日が来るまでの七日間、野宿でもしながらぶらりと辺りを巡ろうかとした所、意外にもカチコチな個人主義思想の藍の方から雑魚寝の許可が出た。幽香はというと、客人だというのに藍が追い出してしまったせいで森の中。ゴメンナサイ幽香。
 そういうわけで、私は今、一組の布団の中で、それこそ相手の息の根が聞こえる距離で枕を並べている。
 やや緊張して目が醒めてしまった私の横顔を、藍がにやにやしながら見つめているのが分かる。ここ数百年、誰とも枕を並べなかったツケがこういう形で回ってくるとは思いもしなかった。すぐ横にある仄かな温もりが、何よりもむず痒い。

「今後、こういう事がないように新居はせめて二間、欲しいな」

 そんな私を手玉に取るように、こつんと藍が額を当てる。
 全く、どういう女狐だろう。明らかに、これを言う為だけに今日のこの状況を許容したのは間違いなかった。
 だが、私の腹は既に決まっている。

「あら、藍は私と寝るのは嫌?」

 数度の改築を経たものの、あの陶製の小物入れに収められた炭火と同じく、この家も共に幾とせを過ごした大切なものだ。それを解体するだなんて、とんでもない話だ。

「嫌じゃないがね」

 もそりと、隣の塊がぞんざいそうに動く。

「私みたいな家族が今後、増えないとも限らないだろう?」

 言葉に詰まった。私の動揺は、ふれあった額から確実に藍へと伝わったことだろう。
 だが、私は藍以外にこれ以上、大切な人を作るつもりはなかった。大切な人はもう、藍だけで充分だ。
 そんな堅くなった体を、藍がぞんざいそうに抱きしめた。ぞんざいそうに女性を扱うとは何事だろうと思うし、闇を通さぬ私の目がどうして藍をぞんざいそうと見破ったかというとそれはやはりこれまでの付き合いというもので、結局の所、そこから先もこれまでの付き合いというものが見通してしまった。
 心通うというのは、ある意味でつまらないものであるかも知れない。そんな一夜。






   伍.発動
      八雲紫


「呉羽ぁ!」

 腹部に向けて突き出された大幣を、半身をずらして手首をかけて払いのけると、体が後方に大きく飛んでいった。
 私はその様な状態に陥ったことがないので今ひとつ判らないのだが、藍の感想からすると天にも昇る気持ちで一瞬後に仲良く地面とキスするらしい。彼女の反射神経を持ってしても受け身が取れないんだとか何とか。
 そんなことないんだけどなぁ。
 だが、後ろを振り返ってみると、大幣を取りこぼしてのたうち回る女性が一人。やはり受け身は取れなかったようだ。
 さて、唐突にうちかかってきた為、誰かの確認も取らずに問答無用で放り投げてしまったが、その娘が誰であるかはおおよそ見当が付いた。
 艶やかに光る黒い髪が後頭部で結わえられ、黒真珠のような瞳は涙でにじんでいる。顔にはある程度の愛嬌と年相応の幼さが見えるが、私と釣り合うようになるにはもう少し時を要するだろう。

「苦労が絶えないな、呉羽さん」

 藍は聡い。私と彼女の繋がりを、彼女は一合のうちに察してしまったらしい。
 嫌らしい性格だ。これではろくに感慨に耽る余裕もない。
 そう、希には私も慨嘆したいものなのだ。
 この、運命というものについて、涙を流したいものなのだ。
 だが、藍は聡い。それを理解した上で、この様な態度をしているのだろう。それは一方で好ましく、一方で疎ましくもあった。
 結局の所、私は向き合わなければならない。その点だけは変わりない。
 少女が飛び出してきた背後には、一つの人だかりが出来ていた。老若男女併せて十名ほどの群れが、私を視線の先に結んでいる。

「陰陽寮を追われながら、御門は内密に我らを支援してくださった」

 彼らがいないのなら、私は今この場で彼女に討たれても良い。だが、私達が出会うことで歯車は噛み合ってしまった。

「我らの命は今日、この日の為にあります」

 彼らがこの場にいるということを嬉しくも思い、また彼らがこの場にいること自体を悲しく思い、悲哀こもごも、感情は綯い交ぜとなる。
 私は結局、言葉を発すること能わなかった。私から語る言葉は何もない。

「正直なところ、あなたを憎く思ったこともあります」

 ただ、私に出来ることは彼らの言葉を聞くことのみだ。

「だが、それも昔の話です。我らも野に下って久しい」

 名を聴くことすら憚られるその文言は何よりも重く、私を戒める。
 いっそのこと、口汚く罵られた方が幾らかましだったかも知れない。清々しくさえある言葉尻は何処までも辛く悲しい。
 軸足を前にずらすと、おもむろに半身をひねり、振り下ろされた手首を掴むと上半身が巻き込むままに肩を腋の下に潜らせ、背後から一気に背負い投げる。この辛気くさい空気の中でこの唯一たる元気溢れる女性の殺気はむしろ好ましくあった。
 彼らが味わった辛酸は、この程度のものではあるまい。例え幾代に渡って血が薄まろうと、私の罪が消えてなくなるわけではないのだ。

「あなた達の名を聴く資格は、私にはないけれど」

 投げられても投げられてもめげない。若いだけあって相当に頑丈な身体をしているらしい。

「この娘の名前くらいは、聴いても構わないかしら?」

 顔面に向けて振り上げられた蹴り脚をかわし、返す脚で軸足を払う。意気軒昂としてなかなかに旺盛な戦欲は私の気を紛らわすのにもってこいだ。

「いやはや、根が未熟故に先祖に顔向けできぬ所です」

 といいつつも、止めない辺りがまたこの御仁の人の悪さとでもいおうか。昔の藍を思い出して少し、私の気が和んだ。

「更紗と申します。次代の博麗を継ぐことが決まっております」
「女だてらに博麗を?」
「あなた様も似たようなもので御座いましょう」

 振り下ろされた踵をするりとくぐり抜け、背後に回ると丹田に溜めた気を爆発させ、腰で更紗を押し出すと、面白いように弧を描いて飛んでいった。

「……時代も変わったのね」
「理でしょうな。我らの力も以前ほどの水準を保てなくなりました」

 幻想が幻想に変わりつつある今、私たちも今までのような生活を保てる保証は何処にもない。そのためのこれからであり、そのための決断であり、そのための私たちである。

「それでははじめましょうか」






   陸.斯道
      藍


 人と妖怪が円陣を組み、一心不乱に祝詞をあげている。人と妖怪が、というのは古今希に見る光景であり、一つの時代が到来したことを告げるような心境である。
 脇に控えているのは、私とあの更紗とかいう小娘に幽香、他は村人のみである。
 不用心なこと極まりない。こんな辺鄙な山奥で妖怪にでも襲われたらどうするつもりだ。それこそ幻想郷をどうにかするという話ではなくなる。

「幽香、御願いできるかしら?」

 現に、遠くから動く妖気の群れに幽香を裂かなければいけない状況だ。これで私たちの戦力は残すところあと二つ。
 しかし、どうして協力者を募らなかったのかとは敢えて問わない。紫は策を疎かにするほど浅慮ではないし、なす事をなさぬ程、怠け心を持つものでもない。結局は現状が最善なのであり、これ以上は望めなかったと考えるのが正しい。事の暴露、漏洩を嫌ったのか、それとも周囲にそれほどの期待をしていなかったのか。
 敵の数がそれほど多いわけでもないが、さりとてこちらも防衛に励めるほどの戦力がない。叩かれれば一度にして瓦解するのは想像に難くない。
 私は紫の式神だ。基本的には紫の指示を仰ぐものであり、今もこうして紫からの指示を待っている。

「今、あなたの使役に割けるほどの余力はないの。私の傍にいて頂戴」

 だが、こうして意見が対立すれば主とはいえ牙を剥くのが私たちの違うところだ。

「莫迦な。この戦力だ。守勢に廻れば一瞬にうちに餌食となるぞ」
「だから幽香に廻ってもらったのよ。彼女はあなたが思うほど弱くもなければ、愚かでもないわ」
「それは承知の上だ。だが、戦力を二分されたらどうするつもりだ。数の上では圧倒的にあちらが有利なんだぞ」

 わからん女だな。これだけ私が具申しても意見を曲げないなら、好き勝手にやらせてもらうぞ。

「藍。聞き分けなさい」
「お前のいうことには従わない。今、一手でも間違えれば私たちは間違いなく滅ぶぞ」

 そのまま上空に身を躍らす。防戦一手では間違いなく破滅であることは自明であり、光明は打って出ることのみ。紫は私が逸っていると思うだろうが、私こそ紫が思うほど愚かではないし、弱くもない。
 朗々と読み上げられる祝詞の中に、一筋だけ短く溜息が挟まれる。

「良いこと、これは殲滅戦ではなく防衛戦。相手を滅する必要はなく、遅延させるだけで構わないわ」
「判っている。無茶はしない」
「約束よ」






 想像以上に厳しいな。
 飛来する轆轤首の頭蓋を叩き割りながら、舌打ち混じりに私はひとりごちた。
 後方には幽香が居る。彼女の力を見る限り、討ち洩らした妖怪のことごとくは土壌の栄養となるだろうが、それでも油断はできるものではない。一点から攻められている現状であるからこそ我々は拮抗しうるのであって、鶴翼の如く陣を変えられて周囲から締め上げられれば、物量に勝る相手が敵であれば瞬く間に白旗を挙げるとこになるだろう。
 逆をいえば、陣地防衛戦と一点撃破の短期決戦を挑まれている今だからこそ、私にも付け入る隙がある。指揮が行き届いているこの流れに逆らって昇っていけば、自ずから指揮官を叩けるという方式だ。
 だが、これは一種の賭だ。指揮官が地声で指揮を飛ばしているという間抜けな状況を期待するのが先ず一つ。この妖怪の群れが意志を持って行動しているという期待が一つ。
 余り部の良い賭ではない。だが、こちらに与えられた時間から逆算すれば付け入る隙はそこしかない。
 振り下ろされる夜叉の刃を飛び抜け様にかわし、爪を入れながらひたすら私は前方に向けて駆ける。囲まれるという愚を避けつつ、最大限の速度を伴って私は前方を目指す。
 幸いにも敵は私を包囲せず、ひたすら物量に任せて漸進策を採っている。敵が幽香の戦力を今ひとつ掴んでいない証拠であり、その点は有り難かった。指揮官が無能なのか、まだ小手調べの段階なのか。脇目もふらずひたすら前進する妖怪達を尻目に、妖弾を放ち敵を攪乱しつつ適宜、前進する。
 どれくらい進んだか、山中の中腹から斜面がなだらかになり出したところで、ぱったりと敵の出足が止まった。
 びょうと、一度だけなま暖かい風が私の頬に吹き付ける。
 ちりちりと肌が焼けるような感触。全身の毛が逆立った。
 遠く、眼で確認できるくらいには近いその上空に、そいつはとぐろを巻いていた。
 森の上を、これだけ距離があるのに視認できる巨体であるとは一体、どういう事だろう。
 龍……!
 金色に輝く鱗。たゆたう長い髭。その圧倒的な存在感が、私の直感を刺激して止まない。
 震え駆けた口の付け根を噛み締めることで引き締め、緩みかけた私の意志を踏みとどまることで奮い立たせる。

『藍! 退きなさい!』
「……退く? 何処に退く場所があるというんだ?」
『それでもよ! 一旦、退却しなさい! あなた一人、突出してどうにかなるものでもないでしょう!? 幽香と合流して策を――』
「ここで下がったら、貴重な時間が割かれる。その間に、術者の所まで妖怪がなだれ込む」
『玉砕なんて認めませんよ! 藍! 良いから戻っていらっしゃい!』
「……やるしか、ないだろうがよ!」

 そう、やるしかない。どれだけ敵が強大だろうが、既に賽は投げられたのだ。
 そう、やるしかないのだ。その言葉を私自身に刻み込んで、私は一直線に空を駆ける。
 今も私たちを信じて待つ術者や村人の為にも、私は絶対に倒れない。

「私を信じろ、紫!」

 やってやろうじゃないか。龍がなんぼのものだ。こちとらあと一本で全盛の力を取り戻す八尾の狐だ。そう安くはないぞ。
 駆ける。駆ける。全力で駆ける。風に乗って、速度を増して、矢よりも光よりも早く駆ける。
 そうして、全速度が乗った拳を悠然と漂っていたそいつの頭頂めがけて振り下ろした。
 がつん。堅い感触が拳を通して衝撃となり、私を襲った。
 相手はといえば、私が全力を込めた拳を喰らっても見た目は平然と、相変わらず宙を漂っている。
 間髪入れず、身体を反転。殴った勢いを利用してそのまま今度は踵を落としてやる。
 今度は効いたのか、とぐろを巻いたそいつの身体が蹴られた方向に大きく吹き飛んだ。二発連続が意表をついたのか、唯単に足技が嫌いなだけか。
 丁度良い。こいつが頭なら即座に潰せばそれで終わりだ。落下しだしたそいつに取り付いて爪を振りかぶると、間髪入れずそいつが吠えた。
 咆哮。全身が眩く光り、一瞬遅れて衝撃波となった光が私を襲った。
 きりもみ状に飛ばされながら、空中で体勢を取り戻す。
 対峙。間が魔となってじりじりと私たちを支配する。
 邪魔はさせない。この舞台には私とあいつの二人だけだ。誰の指図も受けはしない。
 蠢動。大気が妖気を帯びて震える。
 刹那、龍の口が大きく開いた。吐き出されるのは七色に輝く光の本流。すさりと身をかわすと、脇を膨大な熱量が通過していく。
 疾走。三間ほどの間を一瞬にして詰めると、その勢いを利用して膝で顎を蹴り上げてやる。
 のけぞる龍に印を結び、両の掌を身体に押しつけて一気呵成に気合いを発する。爆発。圧縮された空間が爆ぜて眩く周囲が明暗に染まる。
 追撃に次ぐ追撃。息をつかせるつもりはないし、そんな甘い相手でもない。
 己の獣性に従って牙を剥く。それが畜生と成り下がった私の本来の姿であり、失われた本性といっても差し支えない。懐かしい感覚が私の背筋を駆け上ってくる。
 そうだ、思い出せ藍。私が如何にして他者を屠り、如何にして数多の生命を貪ってきたかを。
 それしか道はない。私が私を失うことが、今できる最大の努力だ。
 獣の如く咆哮する。命を喰らう為に、己が定めた禁忌を破る為に、本能に身を委ね、憎しみに手を任せ、一匹の獣と成り下がる。
 迫り来る相手の爪をかわし、逆にこちらの爪をねじ込む。鱗に弾かれて大した打撃にはならないが、それでも私は手数を加える。

『何故、汝らは日の本を見捨てる?』
「見捨てる訳じゃない。新しく見つけるんだ」
『それは詭弁だ。現に汝らは有力な手下を従えてこの地を脱しようとしているではないか』
「確かにそれはそうだ。だが、長い目で見ればそれこそが本来の目的でもある」
『何故にだ? 汝らが見捨てるものは汝らが愛したものであろう? 何故に割り切ることが出来る? 何故にそう容易く切り捨てることが出来る?』
「ああ、そうだ。お節介な世話焼きのせいで、私もこの地を愛するようになった。生きていること自体を好くことが出来た」
『手にした手中の珠を手放す阿呆が何処にいる? この地はまた汝らが育ててきたものでもあろう? 何故に我が子にも等しいこの大地を捨てることが出来る?』
「何処まで行っても平行線だ。ひび割れた珠を後生に抱えるものには、私たちの気持ちはわからんさ」

 もう何度目か、妖術が私の身体を打ち付ける。ボロボロになった身体は既に手足から感覚が抜け去り、剥き出しになった耳は外気が涼しい。着衣も所々が裂けてすっかりあられもない姿をさらしていた。
 そんな中、意識だけが不思議と健在だった。研ぎ澄まされた感覚はさざ波のように引いては返し、これまでの緩やかな生活が走馬燈のように走り抜けていく。

「結局の所、一人のエゴだ」

 そう、今こうしているのも、愛着ある全てのものを捨て去って新しい地に移り住むのも、結局は決定者のエゴに過ぎない。
 一人のエゴが多数の血を流させ、多くのものを傷つけるのは確かに傲慢かも知れない。過去にも一人の権力者が誤って多数の血を流させた例は数多くある。
 だが、きっとそれだけではないはずだ。何しろ、私が信じたあいつは妙なところで意地っ張りだし、変なところで強情だが、何より、私が心から信じたのだ。そいつがいうことなのだから、私も全身で傅いて全力を傾ける価値がある。

「一人のエゴが一人の人生をかけて貫かれようとしているんだ。同居人としてはそれを見届けてやらん限り、死んでも死にきれん」

 そう、生涯で数少ない、全霊をかけて守るべき、愛すべき同居人だ。彼女が信じたのだから、私が信じないでどうする。

「それが誰の意見だろうと構わない。私はあいつを信じ、あいつが何かを信じたのだから、大儀とかそんなつまらんものは捨て置くさ」

 紫が信じて、私が信じて、そうして道は開けていくんだ。今はそれだけで良い。それさえ信じられればいい。

「私が伴侶を信じたんだ。伴侶が私を信じなくてどうするよ」






   漆.鳴動
      風見幽香


 凄惨な現場。語彙に乏しい私にはそれしか浮かばないが、憐憫に似た気持ちは不思議と持ち合わせていた。
 大挙して押し寄せる妖怪の群れは、尽くが土塊の栄養と変わり果てた。ここにいるのは不幸にも己の力量をはかれなかった愚者か、撤退し損ねた臆病者か。逆に、ここにいないのは恐らく、懸命にも私を迂回して側面から回り込んだ賢者なのだろう。私がこうして一人で立っているのだから、それだけは間違いない。
 不思議にも、紫との一戦から周囲を冷静に見回せるようになった。以前なら激昂して周囲が見えなくなっているほどの猛攻だったが、何故かわたしは我を失わず、こうして立っている。

「攻撃が……」

 いや、それだけではない。先程までのとげとげしい殺気が、大いに繁った森から見事に消え失せている。私の眷属からも情報が一切入ってこない。

「止んだ?」






   八.使命
      呉羽


 村人を妖怪の群れから守る。それが今の私に課せられた使命であり、先には博麗の名を継ぐ宿命でもある。
 河童、鬼、土蜘蛛。日の本の郷に情も厚いとされる彼らが何故動員されているのか、そこが腑に落ちないところではあるが、我々の目論見を邪魔だてするなら容赦はしない。
 夜叉の振り下ろされた等身大の刃を辛うじて横に避けることでかわすと、すれ違い様に雷撃の符をありったけ放つ。
 春雷。初春の乾いた空気には紫電がよく合うらしい。直接、眼に映し込めば失明では済まない瞬きを、背を向けることでやり過ごす。この乱戦において一瞬でも目を閉じることは死を意味する。
 二方から飛びかかってくる牛鬼と女郎蜘蛛。そもそもが、種の違う妖怪がこれほどの連携を見せるなどと、古今東西、聴いたことがない。すかさず横っ飛び。一瞬おいて私が立っていたところに粘着質の糸が吐き出される。
 残るは牛鬼の大槌。隆々たる筋肉が軋み、最上段から凶悪な質量が振り下ろされる。
 背筋が冷たくなる感触。この圧倒的な体格の差。一度でも直撃を許せば、人間の身体など脆くも弾ける。
 一度も失態は許されない。八雲紫はこの重圧をこれまでかいくぐってきたのだと、長老連中から耳にたこができるほど聴かされてきたがなるほど、こいつはたまったものではない。私がこれまでにこなした調伏の何よりも厳しい現実がある。
 裏切り者を許すつもりは毛頭ない。それでも、ある種の場違いな感嘆が私の中に宿るのは避けられなかった。この死地にあって、遂に私の頭も狂い始めたか。
 あと瞬き数度で私の頭が砕け散る寸前、辛うじて防御の符が効果を発揮する。振り下ろされる金属の塊が私の脇に逸れてずしんと地にめり込んだ。
 効果を発揮したのなら、足を止めてしまう結界は即座に解除。これもまた、零落した博麗がこの世に生き残る為に編み出した乱戦の掟である。
 視界を覆い被さる牛鬼の腹に、袖から退魔針を取り出すと、込められるだけの霊力を込めて全力で突き刺す。脂肪と張りのある筋肉が連続して裂ける感触。気色が悪いと感じる暇さえもない。
 すかさず横の女郎蜘蛛が私に飛びかかる。下半身の蜘蛛の足が私を八方から襲う。
 防御の符は使えない。動きも牛鬼に針を突き刺したまま、止まっている。女郎蜘蛛は今度こそ、小うるさい巫女をしとめたと思っただろう。
 鋭い前足が私の首筋を襲ったその瞬間、私の身体が消えて失せた。
 幻想空想穴。博麗の奥義の一つだが、こういう使い方もあるのだと私はこの戦いで知った。
 女郎蜘蛛の背後上空から強襲。そのまま全力の霊力を込めて、頭を全体重で踏みつぶす。
 ぐしゃり。またまた気色の悪い感触が私の全身を駆けめぐる。どうにも、相手を殺すというこの感覚には未だ、慣れないでいた。
 一息つく間もなく、右手を見る。
 濡女、天狗、犬神、赤舌、ぬらりひょん。古今東西の妖怪がそろい踏みし、相手に事欠くことは先程から一瞬足りとてない。
 絶望に、心が挫けそうになる。高笑が、喉の奥からこみ上げてくる。
 これはもう、私だけではどうしようもないかも知れない。

「さぁこい! ここからは一歩も通さんぞ!」

 だが、そんなことはおくびにも口に出さない。私の背後には守るものがあるのだ。
 守るもの、博麗が心から望んだものがそこにある。ならば、私の死に場はここ以外の何処にもない。
 さあ、博麗の巫女、といっても襲名前だが、まあ良いだろう。博麗の巫女、一世一代の大立振る舞いだ。
 不退転の決意で、大幣を握り直すと左手に符を構える。ここから先は誰も一歩も通さな――
 ぐにゃりと、空間が歪む感触。例えるなら、幻想空想穴で空間を繋げた時の一瞬と似かよるものがあったが、それも何倍も不可思議な感触が私を襲った。そんな不可思議な私の人生初の感覚。
 一瞬後、あれほど雑多に多種多様を誇っていた目前の妖怪達が、忽然と消えて失せた。
 何が起こったのか、まるで判らないまま私は呆然と立ちすくむ。

「……ご苦労様」

 背後からの声。まるで気配をつかめず、慌てて振り返ると、そこには忌むべき相手、八雲紫が立っていた。
 何が起こったのか。それを口に出そうとして躊躇し、思いとどまる。
 疲労の色が濃い。肌は青白いを通り越して、土気色に変わっていた。表情こそ気丈で、声もしっかりしていたが、声の底にある張りがなくなっていた。

「幻想郷は成りました」

 八雲紫がここにいるということは、つまりそういうことなのか。俄には信じられぬその言葉に、私は眉をひそめる。
 果たして本当なのか。今ひとつ、言葉の真偽を確かめられぬまま、言葉を継ぐことも出来ずその場でまごついていると、上空から何か強大な気配が近づいてくるのを察した。
 その余りの強大さに、私は弾かれたように振り返る。
 開けた上空でとぐろを巻いていたのは、金色に輝く龍。日の本が誇る幻想中の幻想である。
 こいつが敵だったのか。先鋒に立った藍や幽香は何をしているのかと途中、なだれ込む妖怪の量に訝しんだものだが、なるほど、こいつが相手ならそれも合点がいく。その神々しさ、霊威、神威、何をとっても私が相手にした妖怪とは格が違う。

『あの拳は効いたぞ』

 その脇をふらつきながら飛んでいるのは、あの八尾の狐、藍。藍が龍を抑えていたのか。
 信じられなかった。幾ら八尾を持つ天狐とはいえ、神話の象徴たる龍を相手取って一歩も退かなかったというのか。

「……お疲れ様、藍」

 八雲紫の表情が緩む。心なしか、顔色も少し戻ったような気がした。

「本当に疲れた。もう百年は働きたくない気分だ」

 ふらりと、藍が上空から降りてくると、八雲紫の目前に立った。
 ふらりと、八雲紫の上体が沈む。
 ふらりと、崩れ落ちる八雲紫の身体を藍が支えた。
 不思議と、今まで抱いていた彼女に対する激しい憎しみが消えてなくなっていた。彼女も私たちと一緒だ。大切な人が傷つけば嘆き、大切な人がいなくなれば悲しむのだ。

『努々忘れるな。己らが誓った平和の約定、違えれば直々に我が天罰を下す』
「……藍。何を誓ったの?」
「……別に。ちょっと語らいあっただけさ」

 ふいと、藍が八雲紫から目をそらす。ちょっと照れくさそうに、顔が赤らんだ。

『それでは、我は往く』

 びょうと一陣の風が吹くと、龍にまとわりついた。

『汝らに、幸があらんことを』

 それで、完全に周囲から妖気が消え失せた。静寂の森が空気を取り戻しつつある。
 良かった。あのままであればこの森全体が焦土と化しても仕方がなかっただろう。自分が歩いてきた細い蜘蛛の糸のような道筋を、改めて見返し背筋を冷やす。
 今、こうしていられるのは一つの奇跡だ。この奇跡があるからこそ、私はこうしてここで息をしていられる。
 改めて、その奇跡の担い手を見やる。長身の藍にもたれかかり、人目も憚らず抱き合う二人。紫は眠そうに微睡みながら、藍の肩に顔を埋めている。

「……神社を一件、建てましょうか」

 ぽそりと、八雲紫の呟きが厳かに私の耳に届く。
 細い夜気に乗って、笛のような細い声が私の耳朶をくすぐる。その声は何処までも神々しくて、不思議な刻印を持って私の中に刻まれた。

「……幻想の郷とその創始者を祀る、小さな小さな神社を建てましょう」
 もう、本当に始めましてと言っても差し支えないくらいにお久しぶりです。希代の駄文書き、Myaと申します。本作、幻想郷創世記の着想が昨年の二月一日。実に一年越しの作品で御座います。
 本文で完全燃焼してしまう私は、後書きはいつまで経っても慣れません。とつとつと後々、付け加えながら後書きを記していこうと思います。
 本作品は作品集26「西行幽々夢」作品集32「白狐懐古録」の続作に当たる作品です。知らなくても読めるように物語は組んでありますが、もし宜しければそちらもご覧いただけたら幸いです。
 まず、この作品でのキーワードは「幽香vs紫」と「博麗神社の祭神は何か」という二点。前者はこの東方業界で知らぬものはおらぬと言うくらい著名な同人作家、茶戸氏の作品ですね。アレを私が焼き直したらどうなるかなと言うのが本作品のテーマであり、彼女たちくらい大きな妖怪だったら、幻想郷が出来る前から知り合いだったのではないかという妄想の元、幻想郷の起源と絡ませられないかとこういう形になりました。あれ、おかしいですね。もう少し、紫様が余裕を見せて闘うはずだったんですが、辛勝です……。
 もう一つのテーマ、それは博麗神社の祭神。幻想郷に一つしかない神社なのだから、それはもう大層な祭神なのだろうなと思っていたところ、昨年初めにとある場所で、土地自体を神として祭るという記載がありました。ああ、それなら博麗神社の祭神は幻想郷で良いじゃないかとゆきさんとかに広めて廻ったのが昨年のこと、それでも飽きたらず、こういった作品にしてしまいました。
 あと、幻想郷の作り方なんですが、割愛した方が文章のノリも良かろうと思ってごっそり削ってしまいました。本当は幻想郷が出来るタイムトライアルで刻々と藍様が闘ってボロボロになっていく様子を描こうとしたんですが、全部カットです。期待なさっていた方には大変、申し訳ないことをしました……。
 神主報で幻想郷の結界は発想の転換とも呼ぶべき様な概念的な結界に覆われていると書かれていましたが、作中では空間のひずみから一つの閉鎖された狭い世界を作り出し、それを概念結界で覆った上に、海だけしかない世界に天の逆鉾を突き立てて陸地を築き、幽香が植物を操って森林だらけにするという壮大な計画であります。
 幽香、藍様、カットしてゴメン……。
 さて、本作、幻想郷創世記は如何だったでしょうか? お叱り、御感想、どしどしお寄せください。またまた下手の横好きで使用した祝詞がおかしいとか、そういう些細なことでも構いませんので。
 御感想、お待ちしてます~。


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名前が無い程度の能力様 ■2007-03-05 19:26:36
 読了感謝です! 

>少し読むのに疲れましたが
 よく言われるんですよね、お前の文章は読んでいて疲れるって……。しかし、今回は私の不手際で行間の調整をしていなかった事に気づきまして、この御感想を戴いてよりあとは文章に多少の細工を施しました。これで少しは読みやすくなるはずです。

>藍Tueeee
 最強の妖獣ですし!
 それではもう一度、読了、ありがとう御座いました!

 無銘投稿の皆様も読了ありがとう御座いました。誠に遅筆ながら、物語は佳境へと移ります。次回作、続きますよー!
Mya
[email protected]
http://allsidescorridor.spaces.live.com/?lc=1041
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コメント



0.690簡易評価
7.80名前が無い程度の能力削除
少し読むのに疲れましたが
内容自体は楽しめました


藍Tueeee
12.90名前が無い程度の能力削除
こういう紫と藍もいいなぁ
17.100名前が無い程度の能力削除
九尾の、藍様のお力はいかほどでw