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例え体の半分が幽霊だとしても、そこにある精神は人間や妖怪と同じもの。だから同じように喜怒哀楽があり、そして同じように悩みを抱える事もある。
兎角その日から私――魂魄・妖夢は、ある一つの事しか考えられなくなり、他の事を思考出来無くなるという事態に陥っていた。
不安とも緊張とも付かぬ焦燥感に鼓動は乱れ、任されている仕事も思うように進まない。
だからといって他の事を行って気を紛らわせようとしても、気付けばその事を考え、手が止まってしまっている。このままでは、幽々子様を護衛する事にすら不調をきたしてしまうだろう。
このままじゃ駄目だ。落ち着け、落ち着くんだ。
「……」
――でも、
「……はぁ」
そう自分自身に暗示を掛けた所で結局駄目で。静かな白玉楼の庭の中、私は一人溜め息を吐いた。
この心のもやもやは一体何なのだろうか。四六時中私を悩ませ、焦らせ、縛り付ける。
辛い。
「……まぁ、思い当たる節が無い訳じゃないけど」
青い空を見上げつつ、小さく呟く。
私自身、それが答えなのだろうという事が解っていた。というより、僅かに残る冷静な部分がそう判断していた。
目を閉じる。
その暗闇の中に浮かぶものが、私を悩ませる答えだという事に気付いている。
目を開く。
けれど私はそれを認める気にはなれなくて、ただただ溜め息の回数だけを増やしていく。
「……認められる訳、ない」
いや、認める訳にはいかない。
落とした視線の先には、強く握り締める二本の剣。今までに幾度と無く振るい、そしてこれからも共に歩んでいく私の相棒。
止まっていた剪定の手を再開させながら、思う。自分が今まで積んで来た鍛錬を、歩んで来た剣の道を、思う。
「……」
私の役目は、主である西行寺・幽々子様を護る事。
王子様に護ってもらう、か弱いお姫様ではないのだ。
だから、
だから。
「認められない」
この胸にある、不安とも緊張とも付かぬ焦燥感の正体を。
1
事の発端は、幽々子様から任された買い物を行う為、里へと降りたあの日まで遡る。
その日、普段のように買い物を行いながら、私は閻魔様から頂いた言葉を思い出していた。
『貴女には冥界の者としての自覚が足りません』
……あれ以来、自分がそうであると自覚しながら生きていると、私自身では思っている。
けれど顕界が刺激で溢れているのも確かで、それらに興味を惹かれる度、まだまだ冥界の者である自覚が足りないと感じる。こんな調子ではいけないというのに。
「……でも」
両手に持った荷物を持ち直しつつ、私は足を止めながら呟いた。
活気に溢れるこの場所は、本当の意味での別世界だ。ふとした瞬間に、心を奪われてしまいそうな程に。
こんな時、祖父はどうやって自分を戒めるのだろうか? そんな事を思いながら、私は止まっていた足を動かし始め、
「ん? あれは……」
視線の先にある商店に、見慣れた綺麗な黄金色があった。品物を選んでいるのだろうその特徴的な後姿へと私は近付き、
「こんにちは、藍さん」
「こんにちは、妖夢。偶然だな」
「ええ。偶然ですね」
振り返って答えた妖狐――八雲・藍へと頭を下げる。見れば、彼女は豆腐を選んでいる最中のようだった。
「お豆腐ですか?」
「ああ。今晩の味噌汁に使おうと思ってね」
微笑んで答え、藍は豆腐二丁と油揚げ三枚を買い、
「妖夢は何を買いに来たんだ?」
「幽々子様に頼まれまして、新しい茶筅と茶葉、それと茶菓子を買いに。……あと、この前はお蜜柑を有難う御座いました」
先日、八雲邸へと遊びに行っていた幽々子様が大量に蜜柑を頂いて来ていたのだ。その事に頭を下げる私に、藍は微笑んで、
「いや、構わないよ。今年も沢山取れていたし……それに、うちは私しか蜜柑を食べないから、どうしようか困っていた所でもあったんだ」
「そうなのですか?」
私の言葉に、藍は苦笑と共に頷いて、
「この時期、紫様は大概眠っておられるし、橙は猫だから柑橘類を食べられないんだ。だから、どうしてもね」
例え妖獣といえど、その種族固有の弱点がある場合は、妖怪化していても弱点になってしまうのだろう。
私はその言葉に頷きつつ、半分は人間で良かったと何気なく思う。どんな物でも、好き嫌いさえしなければ食す事が出来るのだから。
「……そうだ。お豆腐も買っていこうかな」
だからという訳は無いが、水の中に沈む豆腐を見ながら小さく呟く。まだ寒さも続いているし、今夜は湯豆腐にするのも良いかもしれない。
「――決めた。すみません、私にもお豆腐を――」
豆腐屋の主人にそう告げた瞬間、里の奥から大きな歓声と喝采が上がった。突然のそれに驚き、小さく体を震わせると、主人は笑みと共に、
「おぉ、今日も繁盛してんだなぁ」
「は、繁盛、ですか?」
思わず問い掛けた私に、主人は視線を背後へと向けつつ、
「ええ。つい此間から、演劇ってヤツをやってるんですよ。これが面白いって評判でしてねぇ。山場になると、ああやって歓声があがるんでさぁ」
「そうだったんですか……」
全く知らなかった。なんとなく里を歩く人々の姿が少ないとは思っていたけれど、まさか演劇が行われていたとは。
と、そんな事を思っていると、
「なんだ、妖夢は知らなかったのか」
「はい。最近は、里に降りていませんでしたので」
「そうだったか」
そして、藍も歓声の上がった方へと視線を向け、
「主人が言う通り、あの演劇は評判が良い。人間は元より、私達妖怪にも」
そう言うと、藍が説明してくれた。
演目のベースになっているのは大衆向けの時代劇。正義の味方が、人々を苦しめる悪を倒す……という、所謂勧善懲悪もの。そして主人公に人間、悪役に妖怪を持って来たのがその演劇なのだという。
「聞いた話では、慧音を含めた幾人かの妖怪がシナリオに携わっているらしい。だから、人間にあまり知られていない妖怪側の視点で話が進む場面もあるらしく、話題になっているんだ」
そしてそれは人間だけではなく妖怪の関心も引き、演劇を盛り上げる一要素となった。
他にも見所はあるらしいのだが……それを差し置いても、主役の人気が高いのだという。所謂二枚目で、容姿端麗で演技も上手く、一躍有名になったのだそうだ。
結果、定期的に行われる演劇は、今や常に満員状態。更には主役の男性を見る為に、何度も足を運ぶ女性も居るとの事。
「凄いのですね」
関心と共に呟く。知識はあっても実際にそれを見た事が無い私には、少々想像し難い世界だった。
その言葉が聞こえたのか、豆腐屋の主人は気の良さそうな笑みと共に、
「なんなら、見に行ってみてはどうです? 流石に中に入る事は叶わないでしょうが、外からでも中の様子を窺えますんで」
溢れてしまった観客の為に、そういった措置が取られているのだという。でも、私は主人へと小さく首を振り、
「お心遣い感謝します。しかし、私は買い物を終わらせなければいけないので」
演劇を覗き見る事が障害になるとは思わないけれど、しかし今は幽々子様に頼まれて里に降りている身の上だ。別の事に気を取られ、任された仕事を疎かにする訳にはいかなかった。
私の言葉に少し残念そうに頷く主人に軽く頭を下げ、豆腐を三丁頂く。代金と引き換えに商品を受け取ったのち、私は藍へと向き合い、
「それでは、私はこれで失礼します」
「解った。だが、本当に見に行かないのか?」
「興味はありますが、今はそれを目的にしていませんので」
「そうか、なら仕方が無いな。それじゃあ、道中気を付けて」
はい、という言葉と共に頭を下げて、私はゆっくりと歩き始めた。
固い者だと言われても仕方が無い、とは思う。しかし私は冥界の者で、ここは顕界なのだ。こういった所から戒めていかないと、また閻魔様に御説教を頂く事になってしまうに違いない。
そんな事を思いつつ、私は少しだけ歩くペースを上げた。
……
「……売り切れか」
店から出つつ、思わず呟く。
一応買うべきものは全て買い終わっているのだが、それとは別に買おうと思っていた羊羹が売り切れていた。とはいえ指定された茶菓子は買ってあるので、大丈夫といえば大丈夫なのだが……客人用としての買い置きが無いと不便なのも事実。頻繁に来客があるという訳ではないが、やはりあれば安心なのだ。
だがこの店に売っていないとなると、もう里の中で羊羹を扱っている店は無い。少し残念に思いながら、私は白玉楼へと戻る為に歩き出し……ふと、里に外れにもう一軒菓子屋がある事を思い出した。
「でも、確か少し高かったような……」
一度しか訪れていないが、少し値が張った為に買うのを諦めた記憶があった。しかし、過去と今では値段に変化があるかもしれないし、私はその店へと向かう事にした。
とはいうものの、然程広くない里の中、すぐに目的の店近くまで辿り着き……視線の先に、派手な外観の建物と人だかりが出来ているのが目に入った。
建物は奥に広く造られており、幾つもののぼりや横断幕がはためき、大きな絵が飾られていた。……記憶違いでなければ、ここには普通の屋敷が一軒あっただけだった気がするのだけれど。
と、そんな事を思いながら、何やら文字と数人の人間が描かれた絵に視線を向けると――不意に、建物の中と周囲から大きな歓声があがった。その声は、豆腐を買った時に聞いたものと同じような調子で、
「……ああ、ここで演劇をやってるのか」
思わず私は呟いていた。
意外にも外と舞台が近い構造になっているのか、開け放たれている大きな扉の向こうからは役者の声が聞こえて来ている。しかしそれを遮るように立つ人々の数は予想以上に多く、確かにこれは繁盛しているといえるだろう。
同時に好奇心が首をもたげ始め……私は小さく首を振った。ここで立ち止まってしまったら、豆腐屋の前で否定した意味が無い。
だから私は劇場から視線を外し、そのまま菓子屋へと向けて歩き続け――
「そこのお嬢さん」
声が、
「そう、そこの貴女。ちょっと道を尋ねたいのだが……」
その声に引き止められるように、私の足は自然に止まっていた。そして何気ない動きで声の主を探し……辿り着いたのは人だかりの先にある舞台の上。
「――」
そこには、少し長い黒髪を持った男性が立っていた。その姿とは少々距離があるけれど、その容姿が整っているのは解る。
そして、明るい照明の向こうに立つその人が、何気ない動きで私へと視線を向け、
「……」
眼が合った、気がして、
「――ッ」
鼓動が一つ、跳ね上がる。
え? と思った時にはもう遅かったらしい。脳が何かを考え、理解し、そして結果を導き出す前に、心の奥から熱を持った何かが一気に湧き出して、私の身体を支配する。
その人の声は続く。
人だかりの向こう。演劇は続いている。
もう、その姿は見えない。
見えないのに。
それなのに、
「……」
何故か、その姿が脳裏に浮かんで離れない。
たった一瞬目にし、ほんの少し声を聞いただけなのに。
その容姿も仕草も表情も、しっかりと確認出来た訳ではないのに。
まるで魔法。
まるで呪い。
自分でも理解出来ない程一瞬で、私は彼に魅了されていた。
2
そんな事があってから、今日で早一週間。
色々と、考えてみる。
あの人の姿を見たのは一瞬。しかしその一瞬で、私の心は彼に支配されていた。いくら忘れようと努めても、その姿が脳裏に浮かんで離れない。
これが一目惚れというものなのだろうか? でも、何か違うような気がしないでもない。
そう、例えるならそれは、ずっと思い描いていた王子様が目の前に現れたかのようで――
「……馬鹿な。絵本の中のお姫様じゃあるまいし」
小さく首を振り、否定する。
そもそもお姫様というのは、護られる立場の存在だ。中にはアクティブなお姫様も居るのかもしれないが……私が子供の頃に読んだ絵本に登場するお姫様は、全て護られる立場だった。そして彼女達は、恋に落ちた王子様と必ず結ばれていた。
そんな物語の登場人物として自分を当て嵌めるとしたら、私はお姫様になる事は無いだろう。何故ならば私は、護られる方ではなく戦う方だ。どちらかといえば、王子様の方だろう。
お姫様の危機に颯爽と現れて、その身を救い、悪い魔女を打ち倒し――って、待て待て待て。どうして王子様になるんだ私。違うだろう? 私は戦う者。いうなれば、お姫様を護る兵士だろうに。
「……はぁ」
溜め息が漏れる。
王子様への願望は、裏返せばお姫様への願望にもなるだろう。つまるところ王子様もお姫様も、『相手と一瞬で惹かれ合い、恋に落ちる』という意味では、そこに違いなど無いのだろうから。
だから、それを望む私は――
「……はぁ」
嗚呼、どんどん幸せが逃げていく。
しかし、いくら溜め息を吐いた所で胸の想いは減ってくれない。それどころか、時間と共に高まっていく始末。
考える。
「……これが恋、なんだろうか」
そしてこれが、『好き』という感情なのだろうか。
……こんなにも苦しくて辛いものが?
良く解らない。
でも、もしこれが『好き』という感情ならば、
「……ならば私は……その、なんだ」
嗚呼、思考が変化して来ている。
でも、良いや。今日は、考えた事の無いところまで考えてみよう。
「……えっと、その、」
あの人と夫婦になり、あの人の子を生したいと思うのだろうか?
「そ、それは考え過ぎか……」
考えるのは良いが、思考が飛躍し過ぎた気がする。落ち着け私。
そして考えろ。
私は、あの人と……
「一緒に居たいと、思うのだろうか?」
どうなんだろう。
どうなんだろう?
「……解らない」
自分の感情すら理解する事が出来ていないのだ。答えなんて出る筈が無い。けれどそういう思考に辿り着いたという事は、少なからず思う所があるという事なのだろう。
……でも、
「認められない……。認めちゃ、いけない」
ここで認めてしまったら、私はただの女に……王子様を求めるお姫様になってしまう。本来ならばそれが、恋をしたいと思うのが正常な姿なのかもしれないが、私はこの西行寺家に使える庭師で、幽々子様をお護りする役目を持っている剣士なのだ。名前も素性も何もかも解らない男性に現を抜かしている程、暇ではない。……それが例え、待ち望んでいた王子様だったとしても。
それに、そもそも私は冥界の者で、彼は顕界の者なのだ。その溝は、まさしく死と同等に深い。結ばれようだなんて考えこそが、間違っているのだ。
「……」
――だけど、湧き出す想いが止まらない。同時に、少しずつ思考が肯定的になっている自分が怖い。このままじゃ、自分ではない自分になってしまいそうで。
一体、どうしたら良いんだろう。
……
次の日。
私は里へと買い物に降りてきていた。目的は、切れた調味料や米の買出し。でも、実際に自分が何を望んでいるかなんて事は、もう考えなくても解っていた。
だからこそ、私は里の奥へと向かう事はしないように買い物を行った。もう一度彼の姿を目にしてしまったら、この苦しさが増すだけだという事は、理解出来ていたから。
けれど……皮肉にも米屋は里の奥近くにあって、尚且つ米を貯蔵している倉は、演劇が行われている劇場の斜向かいにあった。
その事実を忘れていた筈は無かったのに、どうして米も買おうと計画して来たのだろう、私は。
「……駄目なのに」
「ん? 何か仰りましたか?」
「い、いえ、何でもありません」
聞いてくる米屋の主人に慌てて言葉を返す。
そして考える。
丁度店にある取り起きが底を付き、倉まで米を取りに行くという米屋の主人。それに付いて歩いている私はなんなのだろうかと。普段なら、こんな事はせずに店の中で待っている筈だ。恰幅の良い米屋の主人は力持ちで、私に手伝える事は何も無いのだから。
なんだか、自分の行った判断が良く解らない。
否定して否定して否定して。それでもまだ、心は王子様を求めているのか。
私は、そこまでしてあの人に逢いたいのだろうか。
無意識とはいえ、そこまで求めてしまう自分自身が理解出来ない。
「……ッ」
辛い。
それでも歩く度鼓動は高まり、してはいけない期待が高まっていく。……ゆっくりと歩を進める主人の歩調に、軽い苛立ちを覚えてしまう程に。
そして――倉へと続く最後の角を、劇場へと続く最後の角を曲がった瞬間、私の緊張は一気に高まり、
「……あれ?」
情けない声が出た。
視線の先には劇場があるのだが、しかしそこには黒山の人だかりなど欠片も無く、まるで取り残されてしまったかのように閑散としていた。
一体どういう事なのかと混乱が高まり、無意識に足が止まる。
いや、理解はしているのだ。ただ、それを受け止める事が出来ない。
人が居ないという事は、演劇が行われていないという事。つまりそれは、もうあの人に逢う事が――
「どうかしましたか?」
声に視線を上げれば、米屋の主人が心配そうな顔でこちらを見ていた。
多分私は今、とてもとても情けない顔をしているに違いない。
それを止めようと思うのに、どうしても自分の感情をコントロールする事が出来ない。
不味い。このままじゃ、涙が、
「……いえ、何でもありません」
主人から視線を逸らし、何とか堪える。
すると主人は私が視線を向けていた方へと体を向け、
「ああ、演劇ですか?」
「……はい」
不審がられぬようになんとか言葉を返すと、主人は笑みと共に、
「そう悲しそうな顔をしないで下さい。何があったのかは存じませんが、今日はお休みなだけですから」
「……やす、み?」
「ええ。週に二日程、役者さん方のお休みが入るんです。その間に、少し演技の内容が変わったりしているんですよ」
「そう、でしたか」
一気に体から力が抜ける。安堵が体を満たして、一瞬前まで感じていた不安はどこかに吹き飛んでしまっていた。
現金だな、と思う冷静な私はほんの一部で、『またあの人に逢えるかもしれない』という想いが一気に胸を満たしていく。
それでは、駄目なのに。
……でも、それでも安心出来たのは確かで。また普段通りの表情を浮かべる事が出来たのも確かで。
「……すみません。倉へ向かってください」
顔を上げ、私は主人を安心させるように微笑んだ。
そして倉へと入り、米を頂く。作業があるという主人に頭を下げてから、私は少し重いそれを胸に抱えて今来た道を戻り始めた。
歩きながら思うのは、自分の浮き沈みの激しさだ。どれだけ否定を重ねて沈んでも、あの人と逢える可能性があると解っただけで簡単に浮上してしまう。これでは、精神的な余裕など皆無じゃないか。
それに、今の自分が悪い気分で無いのが気に入らない。
あと、口元に自然と笑みが浮かび、足取りが軽くなってしまっているのがもっと気に入らない。
こんな姿を祖父に見られたら、一体どんな言葉を受けるだろうか? ……想像するだけでも恐ろしい。
そもそも、他者への想いがここまでウエイトを占める事自体初めてなのだ。もっと冷静になって、自分の想いを確認していかなければいけない筈なのに……って、あれ?
「……始めて、だっけ?」
胸の奥に何かが引っ掛かっている感覚。
手を伸ばせば消えてしまいそうなそれに意識を集中させて、私はゆっくりとそれに触れ……忘れていた筈の記憶の残滓を思い出していく。
そう、確か、昔にもこうやって誰かを想った事が――
「――」
結論が出ようかという刹那、不意に足に痛みを感じ、私の体は前のめりになった。
ん?
ああ、躓いたのか。
……。
……って、冷静になっている場合じゃない!
「――ッ!!」
無意識に手が伸びているが、抱えている米俵のせいで上手く動かせない。その事に一瞬思考が停止し、思わずそのまま目を瞑ってしまい――
「危ない!」
「ッ?!」
誰かに抱き止められた。
しかし、
「……お、おぉぉ?!」
私自身+剣二本+米俵=かなり重たい。その重さに耐え切れなかったのか、驚きの声を上げて相手が尻餅を付いた。
痛い。
同時にふにゃりと柔らかい相手の胸の感触に一瞬自分の現状を忘れ、しかし咄嗟に顔を上げると、
「だ、大丈夫ですか?!」
「あ、ああ、私は大丈夫だ。妖夢こそ、怪我は無いか?」
「はい、大丈夫です。助かりました、慧音さん」
言いながら起き上がり、そのまま米俵を地に置くと、私は立ち上がろうとする相手――上白沢・慧音の手を取った。
そして立ち上がった慧音は、スカートの尻部分を軽く叩きつつ、
「いや、気にするな。しかし、妖夢が転げそうになるというのは珍しい。……何か考え事をしていたのか?」
「まぁ、その……はい。少し、考え事を」
「そうか。だが、重い物を抱えている時は注意するんだぞ? 両手が塞がっていたが為に、顔などに傷が残るような怪我をしてしまっては大変だからな」
「気をつけます。……でも、怪我に違いなどあるのですか?」
顔だろうが腕だろうが足だろうがどこだろうが、怪我は怪我だ。その程度にもよるだろうが、そこに違いは無いだろうに。
そう思っての言葉に、慧音は少し驚きを持ちながら、
「当然だ。男だったならまだしも、妖夢は女なんだから。女らしくあれ、とまでは言わないが、自分の体はもっと大切にした方が良い」
実際それを気にしていては弾幕勝負など出来ないのだが、慧音はそれを解って諭してくれているのだろう。白玉楼に近付く者に対して剣を振るう私にとって、怪我は身近なものでもあったから。
私は慧音の言葉に頷き、そして米俵を抱えなおし……何気なく慧音へと視線を向けた。
「……」
整った目鼻立ちに長い髪。私よりも高身長な体には大きめの胸と細い腰。そしてすらりと長い手足が伸びる。
知的な美人。そしてそこにあるのは母親のような優しさ。魅力的であると、正直に思う。
「……」
対する私は童顔でおかっぱあたま。小さな背に薄い胸。腕や足には筋肉が付いていて、女性的な慧音のそれとは全然違う。
肉体的成長の遅い、半分幽霊の半人前。魅力なんて、欠片もない。
「……ッ」
思わず米俵を抱える腕に力が籠って、その瞬間、普段ならば考える事が無い事実に結構傷ついている自分に驚いた。そして、そんな事を考えてしまっている事にも。
嫌になる。
他者と自分を比べてみてしまっている理由なんて、一つしか無い。
『私はあの人に相応しいのだろうか?』
だた、それだけ。
そしてそれは嫉妬というものに繋がって、正面に立つ女性への不快感を生み出していく。
……本当に、辛い。
相手は慧音だ。普段から良くしてもらっているし、今も助けてもらった相手。嫌う要素など何一つ無い。ありはしない。
でも……でも、考えてしまう。彼と慧音が一緒に居る姿、一緒に過ごしている風景を。
想像の中、彼の顔は不鮮明だけれど、慧音の笑顔は容易に想像出来る。そして想像出来るという事は、胸が痛むという事だ。その結果胸の痛みは更なる嫉妬を生み出し、私の心を蝕んでいく。
一体何なんだ。慧音の事は好きだし信頼しているのに……どうして嫌いになろうと、排他しようとする方向にばかり思考が及ぶのか。
解らない。解った所で、理解したくない。
もう嫌だ。この先もこんな事を繰り返さなければいけないのなら、彼を想う気持ちなど消えてしまえば良いのに!
そうすれば、私は今まで通りの私に――
「……ッ」
戻れ、無い。
だって、知ってしまったから。誰かを好きになる、という気持ちを。
だから、想いは消えてくれない。どれだけ否定を重ねても、重ねた分だけ高まっていく。相手は、ただ一瞬しか見る事が出来なかった人だというのに。
「……」
「……妖夢? 一体どうしたんだ?」
心配げな声と共に、慧音の手がそっと頬に触れた。そしてその細い指が、優しく私の目元を拭う。
「あ……」
そこで初めて、私は涙を流している事に気付いて、
「う、あ……」
気付いてしまったら、もう止まらなくて。
二本の足だけで体を支えられなくなった私は、そのままその場に崩れ落ちた。
……
「……落ち着いたか?」
「はい。……ありがとうございます」
差し出されたお茶を受け取りながら、少し視線を下げつつ答える。あの後慧音は私を自宅へと運んでくれると、そこで私が泣き止むまでずっと側に居てくれた。
そして、
「辛い時は、全て吐き出してしまえば良い」
という言葉をくれて……私はその言葉に甘えて、全てを吐き出した。それこそ、慧音に嫉妬を覚えてしまった事まで、全て。
どれが告げて良い事で、どれが悪い事なのか、その分別すら出来ない程に私の心は弱りきっていて、それでも慧音はその全てを受け止めてくれた。けれどその包容力にすら嫉妬が芽生えて、少しだけではない醜態まで晒した。……そして、そこまで真剣に想ってしまっている自分を、もう否定する事は出来ないと悟った。
そんな私の言葉を聞き終えた後、慧音は何も言わずに私を抱きしめてくれた。弱り切った私はその優しさに甘え、抱かれた腕の中で再び泣いてしまい……気付けば、そのまま眠ってしまったらしい。目覚めた時には、もう夕方になっていた。
精神的に不安定になっているのかもしれないが、流石に恥ずかしい事をしてしまった。私は、茜色に染まる室内で一口お茶を飲んでから、慧音へと向けて深く頭を下げ、
「……ご迷惑をお掛けしました」
「そんな事は無いさ。誰だって、人を好きになる事があるんだから」
「……そう、ですね」
姿勢を正しつつ、答える。
問題はこの気持ちとどうやって向き合っていくか、だ。『彼を好き』という気持ちが強いのは確かだが、これからどうして行けば良いのかが解らない。まぁ、最終的に目指すべきは告白なのだろうけれど。
と、そう思考が動き出した所で、慧音から意外な言葉が来た。
「しかし、妖夢があの男に惚れるとは」
「え? どういう事ですか?」
「実はな、私もあの演劇には一枚噛んでいるんだ。まぁ、実際に舞台に立つ役者では無く、裏方だがな」
そういえば、藍からそんな話を聞いたような気がする。
という事はつまり、
「……あの人と、知り合い、なのですか?」
「ああ、そうなる」
「ほ、本当ですか?!」
思わず大きな声を上げてしまう。まさかこんな風に、彼へと関係のある人物が現れるとは思わなかったからだ。
嬉しさに気持ちが高揚し、私は慧音へと掴みかからん勢いで言葉を重ねた。
「あ、あの人はどんな人なのですか?! えっと、性格とか、年齢とか、好みとか――」
「待て待て妖夢、少し落ち着け。彼の話をする前に、里で演劇が行われるようになった理由を話そう」
その言葉を皮切りに、慧音の説明が始まった。
それは今から半年以上前の事。定期的に行われる里の集会に参加していた慧音の元に、突然紫様が現れた。彼女は驚く人々に笑顔を向け、一冊の本を差し出すと、
『演劇とかどうかしら?』
そう、脈絡無く切り出した。
どういう事かと聞き返しながら、慧音が受け取った本を開くと、それは演劇用の台本だった。どうやら外の世界から流れてきた物らしく、それを読んだ紫様が興味を示したらしい。
突然の事に動揺はあったが、しかし、里に娯楽が増えるというのは歓迎すべき事だった。平穏な生活の中にも、刺激は必要なものだからだ。
そして……話し合いの結果演劇を行う事が決まり、里の中で役者志望の者が集め出され始めた。それと平行して使われていなかった屋敷を改装し、劇場にするという計画も進んで行く。
そんな中、主役として紫様が連れて来たのが彼だったのだという。
だが、
「彼は人間では無かったんだ」
なんでも、彼は外の世界から来た妖怪で、この幻想郷にやって来る以前から演劇に興味があったのだという。しかし、幻想郷の中では演技を磨く事は出来ても発表する機会が無い。そんな時に紫様と出逢い、想いを打ち明け、結果的に里での演劇の主役として抜擢される事になった。
当初は反対意見もあったらしいのだが、その外見と演技力の高さは素晴らしく、すぐに受け入れられるようになったのだという。そして紫様が持参した台本を元にシナリオが書かれ……発表された演劇は、人々の喝采を浴びるものとなった。
「とりわけ彼の人気は高いが、妖夢程惚れ込んでいるのは少ないだろうな」
「そ、そうですか」
思わず顔が赤くなる。自分でも行き過ぎだと思う程なのだから、ある意味当然の結果なのかもしれない。
だが、私程ではないにしろ、あの人に惚れ込んでいる人が他にも居るという――って、待て待て私、それはもう解っていた筈じゃないか。だってあの日、私は藍から『彼目当ての女性も多い』という話を聞いているのだから。
「……」
どこまでも自分本位に考えていた事に凹む。そんな私に、慧音は少し意外そうに、
「しかし、一瞬見ただけで良くそこまで……いや、一目惚れだからこそ、か」
「どうなんでしょうか……。自分でも、良く解りません」
「まぁ、人を好きになる理由なんてそんなものさ。……だが、聞いてきた話から察するに、今までに誰かを好きになった事は無かったのか?」
「それは……」
多分、初めての事だろう。でも、何か忘れているような気がして、返す言葉が遅れてしまう。そんな私に、慧音は更に質問を投げ掛けてきた。
「それに、妖夢はどんな人が好みなんだ? まぁ、一目惚れ中の彼に関しては、どこが好き、というのは無いかもしれないが……」
「うーん……」
考え、頭に浮かんだのは彼の姿で、いくら頭を捻ってもそれ以外のイメージを思い浮かべる事が出来なかった。
それは今現在彼の事が好きだからなのか、或いは彼が私の好みど真ん中だったのか、どちらなのだろうか。……というか、流石に私にも『自分の好み』というものくらいはあると思っていたのに、どうやらその予想は外れたようだ。
しかし、もし彼が私の好みど真ん中だったとしても、流石にこれは出来過ぎている。これじゃあまるで、絵本の中のお姫様だ。ずっと思い描いていた白馬の王子様が、本当に目の前に現れてしまったのと同じ状況に、今の私は存在しているのだから。
「……王子様」
そう、王子様。
私の為に存在する、私だけの王子様。
「……馬鹿な」
そんな事、現実に在り得る訳が無い。
だからそう、ただ単に彼は私の好みや理想に近かっただけ。それを勝手に王子様と勘違いしているだけに違いない。
うん、違いない。
そもそも、彼は私だけの王子様では無いし。
「……」
でも、一つ疑問が浮かぶ。
その理想は、一体どこから生まれたのだろうか?
好みの男性像すら、私の中には無かったというのに。
3
夜。
夢を、見た。
そこに居るのは、幼い頃の自分。厳しい祖父の教えに耐える事が出来なくて、いつも泣いてばかりいた自分。
遠い日の、きおく。
その日も私は泣いていて、けれどそんな私を慰めてくれる誰かがいた。
その人はいつも私の側に居てくれて、泣いている私を励ましてくれた。
でも、それが誰なのかが解らない。
肝心の顔が、霞の向こうに隠れたみたいに、良く見えない。
けれど、私はその人の事が大好きで、とてもとても大切なのだ。
将来の夢はその人のお嫁さんとか、そんな風に考えてしまう程に。
そして夢はいくつもの風景を繰り返し、しかし私はその人の前で泣いてばかり。
いつもいつも、泣いてばかり。
そんな時、ふと、
「妖夢」
その人に名前を呼ばれた。
だから視線を上げた。
そこには、
「――」
そこには、想像の中の彼の微笑みがあって、
「――――ッ!!」
飛び起きた時、夢の内容は全て記憶から吹き飛んでいた。
どんなに思い出そうとしても何も思い出せず、しかし、胸の中に熱い熱だけが残る。
何故か、強い哀しさと共に。
……
それから何日経っても、胸の想いは消えずに募り、もうどうにもならない状態にまで陥ってしまっていた。慧音からアドバイスを貰ってはいたが……食事すら満足に取れない状況なのだ。確実に、重症となってしまっているのだろう。
「……仕方ない」
この気持ちを認めた以上、どうにかして解消する方法を探していかなければいけない。このまま一人悩み続けても、事態が変化する事は在り得ないのだから。
だから私は、敬愛する主へと、己の現状を告白する事にした。
「――幽々子様、少々宜しいですか?」
「ええ、良いわよ。入ってらっしゃい」
その言葉を聞いてから、静かに襖を開く。すると、幽々子様はコタツに入りながら蜜柑を食べていた。
私は一度座してから襖を閉め、その正面へと。そこで正座をし姿勢を正すと、不意に幽々子様が笑みを漏らし、
「そんなに畏まらないの。何か、私に伝えたい事があるんでしょう?」
「ど、どうしてその事を?」
少々の驚きを持って問い掛ける私に、幽々子様が優しく微笑んで、
「ここ最近、妖夢の様子が変だったもの。病気では無さそうだから詳しくは聞かなかったけれど……もし悩んでいる事があるなら、妖夢から話してくれるのを待っていたの。悩み事とというのは、心の整理が付くまでは話し難いものだから」
「そうだったのですか……」
その心遣いに驚き、そしてこんな自分の事を心配してくれていたという事が嬉しかった。
だから、考える。この想いをどうやって説明していこうかと。
「えっと、ですね……」
思い出す。まず、一番最初。
「幽々子様から頼まれました買い物の為に顕界に降りた時、里には劇場が出来、演劇が行われていました。
買い物途中、私はその横を通り過ぎようとしたのですが……そこから聞こえて来た声に足を止め、劇場の方へと視線を向けてしまったんです。……そこで、ある人に……その、一目惚れをしてしまいました」
ただ声を聞き、一瞬姿を見ただけ。ただそれだけだというのに、どうしようもなく惹かれ、心奪われた。
まるで、絵本に出てくる王子様が現れたかのように。
「自分でも、こんなにも心が惑わされてしまっている理由が良く解りません。ですが……あの人を好きだというのは、確実なのだと思います。
しかしこのままでは、庭師として、そして幽々子様を護る者としての勤めが勤まりません。……私は、一体どうしたら良いのでしょうか……」
「そうね……」
私の言葉を静かに聞いてくれた幽々子様は、少し何かを考えて、
「……妖夢は、その人に逢ってみたい?」
「え、あ……その、出来る、事なら……」
理想と現実が違う事ぐらい解っている。だからこそ彼と直接話が出来れば、この気持ちを少しは落ち着ける事が出来るかもしれない。
そう思って答えた私に、幽々子様は微笑みと共に、
「じゃあ……明日にでも、一緒にその演劇を見に行ってみましょうか」
「よ、宜しいのですか?」
「ええ。実際に逢ってみれば、その人となりが解ってくるでしょうし……妖夢がどんな人に恋をしたのか、私も気になるから」
4
次の日。
里に降りた私達は……というか私は、早速驚きを得る事になった。
「ほ、本日千秋楽……」
タイミングが良いのか悪いのか、本日でこの演劇は終了、というのぼりが幾つも並び、風に吹かれて揺らめいていた。しかし開演まで一時間以上という時間からか、流石に人の入りはまばら。どうやら劇場内で演劇を見る事が出来そうだ。
と、そわそわとしながら歩く私に、隣から楽しげな声が来た。
「あらあら。やっぱり少し急ぎ過ぎたみたいね」
「す、すみません、幽々子様……」
顕界へと降りるのが早かった理由は、私が焦る心を治める事が出来なかったからだ。そして今も、落ち着く事すら出来ていない。
そんな私に、幽々子様は優しく、
「構わないわ。楽しみを待つ時間というのも、良いものだもの。……でも」
「……でも?」
「……ううん、何でもないわ。後で解る事だから」
「?」
何か言いたそうにしつつも、しかし幽々子様は微笑みのまま。しかし、そこに少しだけ真剣な色を見た気がして、私は首を傾げた。
だが、それ以上に心が焦る。
浮かんだ疑問は頭の隅に追いやりつつ、私は幽々子様を引き連れて、劇場の中へ入る為に歩き出し――不意に、
「……全くこんな時に!」
という声と共に、劇場の裏から慧音が飛び出してきた。
その顔には普段見慣れぬ焦りがあり、一体何事なのだろうかと私は首を傾げ、
「――! 妖夢か?!」
見つかった。
そして彼女は一瞬で私の正面へと走り寄ると、少し上がった息を整える事もせず、
「丁度良い所に! ちょっと来てくれ!!」
「え、えぇー?!」
声を上げるがもう遅い。
慧音に手を掴まれた私は、そのまま劇場の中へと吸い込まれた。
……
「……つまり、こういう事ですか? 役者さんの一人が怪我をしてしまって、代役を探しても見つからない。そんな時、私を見つけて声を掛けたと」
実際には拉致という感じだったが。
兎も角慧音や他の人々から聞いた話を総合すると、今呟いた通りの事が起こっているらしい。
少し戸惑いのある私に、しかし慧音は必死な表情のまま、
「ああ、その通りだ」
「ですが、私は演技なんで出来ません……」
今までそれに触れ合う機会すら無かったのだ。いきなり本番の舞台に、しかも千秋楽の日に立ち会えなどと、無謀以外の何者でもない。
しかし、慧音は私を安心させるように言葉を選びながら、
「大丈夫。主人公が殺陣を行うシーンがあるんだが、そこでの切られ役なんだ。少々立ち回ってもらうが台詞も無いし、出番も少しだけだから」
「ですが……」
「頼む! 人数合わせなら誰でも出来るが、実際に剣を……練習無く剣を扱えるのは、今この場では妖夢しか居ないんだ……」
「……」
頭を下げる慧音に、しかし言葉を返せない。
出来るなら頷きたい。というより、普段の私なら頷いている所なのだろう。こうも必死に頼まれたら、断る事など出来ない。けれど……けれど、今はあの人の姿を見たいという気持ちが強いのだ。
慧音もその事には気付いている筈。それでも尚頭を下げるのは、里の皆が楽しみにしている演劇だからこそ、なのだろう。
一体どうしたら……そう悩み始めた私の背後から、不意に声が来た。
「慧音」
瞬間、鼓動が跳ね上がる。
一瞬で固まってしまった私の横を、彼がゆっくりと通り過ぎる。そして慧音の頭を上げさせ、少し言葉を交わすと、こちらに振り向い、た。
私より身長が高く、細い体。少し長く癖のある黒髪。舞台に立つ為か化粧をしているその顔は中性的で、
「――ッ」
一瞬ちらりと見ただけで、私はもう彼の顔を見る事が出来なくなった。
顔が熱い。恥ずかしい。早鐘を上げる鼓動が、耳に五月蝿い。もっとしっかりその顔を見つめたいのに、高まり続ける緊張に体が動かない。
けれど彼は、そんな私へと覗き込むようにしながら、
「キミが、妖夢さん?」
その声はすんなりと耳を通り脳へ突き抜け全身を満たす。
私の名前を呼んでくれた。ただそれだけの事なのに、この体は壊れてしまいそうで。けれど彼はそんな私の動揺や緊張に気付く事無く、真剣みを持って言葉を続ける。
「慧音から話は聞いたよ。突然こんな事を頼まれては、迷惑なのは解っている。でも、どうか――」
私に協力を仰ごうと、彼の言葉が続く。
唯一正常に動いていると思う耳から入ってくるその声は、どうしてか思い描いていたものとそっくりで。ただその声を聞いているだけで思考は廻らず、緊張は止まらず、壊れそうな体は今にも倒れてしまいそう。
嗚呼、もう少し上手く立ち回れると思っていたのに。
と、
「……妖夢さん?」
「は、はい!」
響いてきた心配げな声に、物凄く素っ頓狂な声が出た。それでも視線は上げられなくて、そんな私に彼は諭すように、
「頼む。引き受けて頂けないだろうか?」
自分がこれからどうして良いのかが解らない。でも、これを否定したら、彼に嫌われてしまうかもしれない。
――それだけは、駄目だ。
「えっと、その……ほ、本当に、私、なんかで……?」
「ああ。キミの協力が必要なんだ」
「わ、解り、ました……」
小さな声でそう答えて頷くのが、今の私の精一杯。
でもこれで、完全に逃げ道が無くなった。
私は、この人が好きなのだ。
心の底から、自分でも理解出来ないぐらい、強く。
……
そうしてOKを出した私は急いで楽屋へと連れて行かれ、軽い化粧を施された後、大急ぎで着替えを行う事となった。しかし、着慣れぬ衣装と舞台に立たなくてはいけないという緊張、そしてあの人の近くに居るという興奮が私から冷静さを失わせていく。
けれど慧音から模擬刀を二本受け取り、それを構え始めたら、少しだけ落ち着く事が出来た。普段使い慣れている楼観剣と白楼剣とは重さも尺も違うけれど、しかし剣を構えている時は無意識に意識が切り替わる。その切り替えは完璧なものではないが、それでも先程までの状態に比べたら、十分過ぎる程に冷静になる事が出来ていた。
これも鍛練のお蔭だろうか。だが、想い人の近くに居るだけでこうなってしまうようでは、まだまだ精神的に未熟過ぎる。改善しないと。
軽く剣を振りながらそんな事を考え、しかし急かされるようにして、私への演技指導が始まった。
台詞も無く、ただ殺陣に参加するだけとはいえ、立ち回るのは然程広い訳ではない舞台の上。一歩間違えば怪我をする可能性もあるし、最悪観客に怪我をさせてしまう可能性だってある。そうならない為の最低限の動きを教えられ、実際に軽く型を行い、それを何度か繰り返していた所で……興奮を帯びた観客の声と共に、幕が上がった。
そして私は最後にもう一度動きの確認をして、あとは出番を袖で待つ事となった。
体を動かした事で、かなり落ち着きを取り戻す事が出来ていた。だが、すぐ目の前で演技を行う彼の声を耳にする度、心が大きく震えていく。
立ち振る舞う彼の声は朗々たるもの。少し強めの照明の下で動き回っている為にその顔を確認する事は難しいが、けれどその動きはとても生き生きとしているように思えた。
そして、
「妖夢、出番だ」
「はい」
聞こえて来た慧音の声に頷いて、大きく深呼吸。そして私は役者達の中に混じり、舞台へと歩き出した。
物語の内容は、妖怪に襲われている娘を、彼が……主人公が助け出す所から始まる。
助けた娘は近くにある村に住んでいた。是非お礼がしたいという娘に案内されて主人公が村へとやってくると、何かがおかしい。実りが多く豊かそうに見える村なのにも拘らず、どうも村人達に覇気が感じられないのだ。
訝しんだ主人公が娘にそれを問いただすと、実は妖怪が村を牛耳っているのだという。妖怪達はせっせと働いた村人の蓄えを、その力を使って搾取していたのだ。
それに怒った主人公は妖怪退治に繰り出し、村に害成す妖怪達を倒すべく奮闘していく。
その最中、妖怪に操られた人間が主人公と戦うシーンがあり……そこが、私の出番となっていた。
照明が暗くされ、夜という設定になった舞台。他の役者達と一緒に袖から出ると、観客席から声が上がった。もう何度も切り倒されている彼等の登場は、お決まりだからこそ応援したくもなるのだろう。
けれどその中には、少々驚きの声も混ざっていた。半霊と一緒に居るせいか、私の姿が目立ってしまっているのかもしれない。
それを思ったら一気に緊張が高まり出し……しかしそれを遮るように、先頭に立っていた男性が彼へと向けて啖呵を切った。
「やいやいやい! てめぇかぁ?! ここいらで調子こいてる野郎ってのは?!」
打ち合わせ通りなら、挑発から始まり主人公がそれを軽くあしらい、しかし妖怪に力を与えられている男は刀を抜き、
「お前ら! この生意気な野郎を殺っちまえ!!」
男性の声と共に全員が刀を抜き、それを習うように私も刀を抜き、構える。
そして彼が刀を抜くのを待ってから、
「おらぁ!!」
最初の一人が切り掛かった。
後は、切られる順番を待つだけだ。けれどこの待っている最中も観客に見られている為、気を引き締めていなければいけない。更に男達もすぐに負けてしまう訳では無い為、少しずつ間合いを取り、立ち回らなければ――
「ぎゃあ!」
ぎゃあ?
そんな台詞聞いてない、と思う私の目の前で、五人居る男達が一瞬の内に切り伏せられていく。流石に負けるのが早すぎるだろうと混乱し始めた私へと、彼がゆっくりと間合いを詰めて来た。
そして振り下ろされた剣を受け止め、弾き返して後方へ下がる。対する彼は私と同じように後方へと下がると、脇差しを抜き二刀での構えを取った。そして静かに、容赦なく私へと距離を詰める。
「くッ!」
一体どういう事なのか。威力を込められた一撃を受け止め、弾き返し――無意識に打ち返す。
混乱が拡がり、しかし体に染み付いた剣の心得は打ち込まれる刀を次々に受け止めていく。その度に観客からは声が上がり、私達を包み込んでいく。恐らく、これも演出の一つだと思われているに違いない。
だが、狭い舞台の上で、尚且つ暗い状況で戦わされている身にもなって欲しい。彼の表情を窺おうにも、その長い髪と暗さに隠れて良く解らない。
と、そう思考を挟んでしまっていた為か、一瞬の隙を付いて彼の剣が振り上げられた。それを受け止めた私は、しかし普段とは勝手の違う模擬刀に力加減を誤り、
「ッ!」
瞬間、刀は手から弾き上げられ、観客席の方へと吹き飛んだ。しかし、観客席へと落ちてしまう可能性があったそれは、舞台と観客席の間に生まれた見えない壁に防がれ、落ちた。
突然の事に観客から驚きと混乱の声が上がる。それは当然私も同じだった。
「……結界?」
どうしてそんなものがこんな所に? というか、あるならあるで、どうして教えてくれなかったんだろう?
殺陣の最中だというのにそんな事を考え――次の瞬間、相対していた彼が振るった剣の一撃をぎりぎりのところで受け止めた。どうやら、彼は殺陣を中止するつもりは無いらしい。
彼の刀を弾いて間合いを取り、柄を両手で握ると、私は彼へと再び相対した。
体に冷静さが生まれていくのが解る。それはドキドキしてはいるけれど、しかし感じている緊張は別のものに変化した。
劇は続く。戦いは続く。負けて死ぬ事は無いけれど、怪我はするかもしれない。だったら、もっと真剣にならなくては。
「――ッ」
深呼吸と共に息を整え、地を蹴った。
彼の立ち回りは予想していたものよりも遅く、剣筋もそこまで速いものでは無い。それに、私の剣と流儀が似ているのか、攻撃の流れはある程度予測出来ていた。あとは小回りを聞かせて立ち回れば……負けは無い!
一度は混乱した観客も、一対一の殺陣の様相に再び興奮を高めていく。まるで、それが彼の狙いであるかのように。
そして幾度かの打ち合いのあとに彼と間合いを取り、息を整えた時――不意に、私はある事に気が付いた。
「……負けなきゃ」
いつの間にか本気になりかけていたが、主役は彼で私は斬られ役なのだ。そろそろ負けてしまわないと不味いだろう。
そう判断した私は、彼へと突っ込む勢いはそのままに、彼の刀を受ける為に敢えて遅れて斬り掛かった。
しかし、それが間違いだった。
攻撃のタイミングを遅らせた私に対し、彼の攻撃は先程までと同じ速さだった。その結果、腕を下ろす体勢のまま、私は彼の攻撃射程に入り、
「ッ?!」
切り上げていた彼の刀が私の左腕を打ち付け、その衝撃で袈裟に斬り込んでいた私の剣筋がブレた。しかし動き出したベクトルは止まらず、私の刀は彼の顔面へ。彼は咄嗟にそれを回避しようとし――次の瞬間、大きな音を上げて後方に倒れた。
剣を振り上げていた所で体を逸らせたのだ。踏ん張りが効かなくなってしまったに違いない。
妙に冷静な頭でそう思い、刹那、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
「ど、どうしよう……」
彼に怪我を負わせてしまったかもしれない、という事もさる事ながら、まだこの先にも演劇は続いていくのだ。しかも、妖怪が人間の村を襲い始めた理由などの、エンディングに関わって来るような重要な展開が待っている。
だが、私が彼を倒してしまった事で、そこから先の物語が滅茶苦茶になってしまった。よりにもよって、今日は千秋楽だというのに。
どうしようどうしようどうしよう……。
混乱と動揺が全身を包み込み、刀を持ったまま突っ立つ事しか出来ない。観客達は何が起こったのか理解出来ていないのか、呆気に取られた顔で私を見ていた。
このままじゃ駄目だと思うのに、何をしていいのか全く解らない。真っ白になってしまった思考では、もう考える事すら出来ないのだと知った。
と、そんな時だ。まるで私に救いの手を差し伸べるかのように、突如女性の笑い声が響き渡った。
5
その瞬間、劇場を包んだのはざわめきと驚きだった。
「よくぞその男を倒してくれたわ」
楽しげな声と共に現れたその女性は、私の頬をそっと撫でながら妖艶に微笑んだ。
だが、私には何が起こっているのかが全く解らない。
どうして……どうして貴女がここに居られるのですか?
「紫様……」
突如隙間を開いて現れた女性――八雲・紫は、優雅な動きで観客席へと体を向けると、
「これで邪魔者は消え去ったわ。この村は、今度こそ私のものになる」
そう、まだ演劇が続いてる事を告げた。
だが、紫様の登場という状況に驚いていない者は居ないのだろう。静けさに包まれた劇場で、誰一人声を発する事が出来ずに居た。
当然私もその中の一人で、これからどうして良いのかが解らず、助けを求めるように紫様を見上げ……私のすぐ側で、不意に声が上がった。
「……まだ、終わっていない」
それは彼の……声? いや、何か違う。何かが、違う。何故なら少し低めだったその声は、今や少し高めの声に変わっていたのだから。
それに混乱する私の目の前で彼がゆっくりと立ち上がり、そして着ていた着物に手を掛けた。
同時に紫様が私達と距離を取り……彼はそれを待ってから、
「今度は、本気で相手をしよう!」
ドン、と。
まるで照らし合わせたかのように鳴り響いた太鼓の音と共に、暗かった照明が完全に落とされ、舞台が暗転。しかし太鼓の音は続き、その激しさを増して行く。
そして……その腹に響くその音色が最高潮に達した瞬間、一際大きく響いた音と共に一斉に照明が灯され――現れたのは、儚い影。
「――この姿で」
太鼓が鳴り響く。
いつの間にか天井から舞い始めた花びらの中、私の正面に立った彼――いや、彼女の顔は、普段見慣れぬ凛々しいもの。
直後、太鼓がもう一度大きな音を上げ、乱打が終わる。
再び訪れた奇妙な程の静けさの中、優雅に舞い散る花の中、幽々子様は私へとそっと手を差し出し、
「妖夢、手伝いなさい」
6
遠く、声が聞こえる。
「! 貴方達、仲間だったの?!」
「そう。今までの姿も、そして今の戦いも、全ては貴女を倒す為の嘘!」
太鼓の音が響く。
彼はもう居ない。
動き始めた演劇に、歓声が上がる。
声が聞こえる。
「かくなる上は……!」
結界で区切られた舞台の上、紫様の隙間から魑魅魍魎が溢れ出す。
対する幽々子様は、優雅に舞うように、死蝶霊を生み出していく。
太鼓が鳴り響く。
戦闘が始まる。
歓声が上がる。
彼はもう居ない。
死蝶霊に触れた魑魅魍魎が砂へと変わる。
歓声が上がる。
歓声が上がる。
彼はもう居ない。
太鼓が鳴り響く。
太鼓が鳴り響く。
彼はもう居ない。
戦闘が続く。
戦闘が続く。
彼はもう居ない。
……。
……。
彼はもう居ない。
……。
……。
……彼が、居ない。
彼は、居ない。
気付けば、演劇は終わっていた。
7
本番終了後、紫様の力を使って楽屋へと移動する事となった私は、やり遂げた顔をしている二人へと声を放った。
「……一体、どういう事なんですか」
私の言葉に、二人の動きがぴたりと停止したかと思うと、私の表情を窺いつつ、
「あはは……。怒らないで、ね?」
「今日の事は、私と幽々子で決めた事なのよ」
そう幽々子様に続くように紫様が口を開き、そしてこの演劇のタネ証しが始まった。
「私が男役をやっているのを知っていたのは紫だけ。他には誰にも教えていないの」
「それで、着替えや移動は、私の力を使って時間を省略したの。冥界から直接だと、妖夢に見つかってしまうから」
「でも、妖夢が気付いていなかったとは思わなかったのよぅ」
「私も、妖夢なら気付くと思っていたんだけど……」
「……すみません」
小さく頭を下げて呟いた私に、しかし幽々子様は首を振り、
「謝るような事じゃないわ。何も言わなかった私達も悪いんだもの」
そして……化粧を落としていないままの顔で、幽々子様は聞いてきた。
「そうそう、聞きそびれていたけれど……妖夢は一体、誰を好きになったの?」
――その、瞬間、
「――――」
何かが、ぴしりと、割れるような音が、聞こえて、
――――――――――――――――――――――――――――
その瞬間、大きな音を上げて扉を開け、慧音が楽屋へと飛び込んできた。
「紫! 幽々子!!」
「……じゃあ、私はこれでー」
「ま、待て!!」
そう慧音が叫び、伸ばした手の先に居た紫は、笑みを持って隙間の向こうへと消えていた。
「逃がしたか……!」
悔しげに呟き、空を掻いた手を下ろす。しかし次の瞬間視線を上げると、慧音は幽々子へと強い視線を向け、
「何かするなら、一言ぐらい言っておいてくれ……。妖夢にやられた時はどうしようかと思ったぞ……」
「ごめんなさいね。物語の黒幕が紫なら、最後にこういうどんでん返しも必要かと思って」
「全く……」
呆れと共に慧音が言葉を返す。けれどその言葉に怒りは無く、結果的に大盛況に終わった事への喜びもあるのだろうと幽々子は感じた。
だが、慧音は表情を改めると、
「しかし、お前が男装をして来るとは……。皆、彼が西行寺・幽々子だったとは気付いていなかったから、かなり驚いていたよ」
「それはもう、見抜かれないように頑張ったもの。それに、今日は最初からああするつもりだったの。太鼓や花びらの演出も、ずっと考えていた事だから」
微笑んで幽々子が告げ、そしてタネ証しの続きを始めていく。
「まず……」
全ての始まりは半年以上前に遡る。
外の雑誌を読んでいた紫が、突然『これよ!』という声と共に西行寺家へと現れた。突然の事に驚く幽々子に紫が差し出した雑誌には、ある演劇が紹介されていた。
だがその演劇は一風変わっていて、どうやら登場人物全員が女性で構成されており、男役も女性が行うのだという。
面白い試みだとは思いつつ、しかしそれがどうしたのだろう、と首を傾げる幽々子に、対する紫はとてもとても楽しそうな笑みを浮かべ、
『普段はおっとりしている幽々子が凛々しい男性を演じたら、一体どんな演技が見られるのかしら』
という、少々無謀に思える言葉を告げた。
「始めはすぐに正体が解ってしまうからって、相手にしなかったの。でも……」
紫が用意した黒髪のカツラに、身長を高く見せる厚底の靴。更に化粧をして肌の色を明るくした結果、姿見の向こうに居たのは西行寺・幽々子ではない別人の姿だった。
更に声を作り、歩き方を変え仕草を変え……といった事を繰り返していく内に、少しずつ幽々子も乗り気になっていた。
そして紫が台本を持って里へと向かい、演劇を行うという話が進んでいく。
「それでも、里に下りるまではすぐに見抜かれてしまうかと思っていたけど……存外平気だったのには驚いたわ」
実際、幽々子が男として舞台に上がっているとは、役者を始め誰一人として思ってはいなかった。
中には幽々子と面識があり、似ていると思う者は存在した。
しかし、そう思う者達程、
『まさか、彼女がそんな事をする筈が無い』
そう判断し、疑う事が無かった。
何故ならば、普段の幽々子を……あの掴み所の無い、柔らかく微笑む彼女を知っているからこそ、凛々しく朗らかに笑う彼とを結び付ける事が出来なかったのだ。
「あと、演技は紫と一緒に猛勉強したの。剣の勉強もその時に。まぁ、元々剣の嗜みは持っていたから、然程苦ではなかったわ。……少しは様になっていたでしょう?」
妖夢へと視線を向けつつ、幽々子は微笑む。一応は剣の指南役である妖夢相手にあれだけ立ち回る事が出来たのも、過去にも剣の指南を受けていたからこそだ。だが幽々子自身、まさかこんな風に役に立つとは思っていなかった。
「何事もやってみるものね」
「だが、次は事前に言ってくれよ?」
確認するように問い掛ける慧音に、幽々子は微笑み、
「ええ、解っているわ。今回は、妖夢にも迷惑をかけてしまったもの。……本当、今日はご苦労様、妖夢」
――――――――――――――――――――――――――――
幽々子様が何か言っている。けれど今の私には、その言葉の欠片も耳に入っては居なかった。
「……ハ」
なんだか、一気に体から力が抜けてしまった。
壊れてしまいそうな程に想い焦がれていた相手は、敬愛すべき主だったのだ。
想い人は消えた。そもそも存在してすら居なかった。これで悩みも解消、だ。
今まで通り、幽々子様を護る剣として、西行寺家の庭師として働く事が出来る。
これで全部元通り。
全てが、元通り。
「……」
……本当に?
深く深く、心にヒビが入ってしまったのに?
「……ッ」
力が抜ける。
目頭が熱い。
嗚呼、
嗚呼。
嘘だ。
元通りになんて、なる筈が無い。
視界が歪む。
涙が溢れる。
熱い。
苦しい。
今心に浮かんでいる感情は、一体何なのだろう。
「……」
私は、あの人に恋をしていた。
まるで、王子様に恋焦がれるお姫様のように。
王子様。
そう、王子様。
「……幽々子様」
彼は、私の理想だったのだ。
叶う事の無い、しかしどこかで願っていた、
「……私だけの、王子様」
思い出した。
それは『if』の向こう側。叶う事の無い、くだらない夢。
でも、だからこそ、ずっと消える事が無かった、儚い夢。
その人は、私がこの世に生を受けた時から傍に居てくれた、大切な人だった。
私はその人が大好きで大好きで大好きで、とてもとても大切だった。
将来の夢はその人のお嫁さんとか、そんな風に考えてしまう程に。
けれど、成長していくにつれて、私は気付いていく。
私とその人は同性で、そして主従の関係で。お嫁さんになんて、なれる訳がなかった。それに……小さな頃の私は、お嫁さんという言葉の意味を、良く理解出来ていなかったに違いない。
だから芽生えた感情は呆気なく消え去って、私はそれを受け入れた。
――でも。
想いの残滓は心の奥底に残っていて、いつしか叶う事が無い幻想を作り出した。
『もしも、あの人が男性だったなら』
それはただの夢物語。叶う事が無い、ただの夢。
でも、だからこそ消えずに残り続けた、私の夢。
あの人の、お嫁さん。
多分、『痛い事を考えていたな、私は』とかそんな感じで終わる、小さな夢。
でも、それでも、私は、
……私は!
「――ッ」
……見付けて、しまったのだ。
あの日、あの瞬間、舞台に立っていたあの人を。
絶対に存在する事が無い、けれどずっと忘れる事も出来なかった、王子様の姿を。
あんな一瞬でも、魅了されるには十分過ぎた。
だってこの心は、無意識に、あの人を求め続けていたのだから。
涙が止まらない。
こんなにも一方的に、私の恋は終わった。
8
無言のまま屋敷へと戻った時には、もうすっかり夜の世界になっていた。
二人きりで居る事は辛いが、もうどうしようもない。夕餉の仕度とお風呂の準備をしたら、今日は先に眠らせてもらおう。
そう考えながら私は玄関を開き、帰り際から無言だった幽々子様と共に廊下へと上がった。
そして明かりを灯そうとした所で、不意に背後から服を掴まれた。
「……幽々子様?」
失礼ながら、今日はもう何も考えたくない。
そう思いながら視線を向けると、暗い廊下に立ちながら、幽々子様は沈んだ表情で、
「――ごめんなさい、妖夢」
「ッ。……いえ」
「でも、ごめんなさい」
「……そんな事はありません。大丈夫です」
何について謝っているのかなんて、言われなくても理解出来る。恐らく、私が傍に居ない時……他の役者に挨拶をしている時にでも、慧音から聞いたのだろう。
それに……幽々子様も、まさか自分が一目惚れの対象になっていただなんて、想像もしていなかったに違いない。男装した自分に逢えば、私がすぐに気付くと思っていたぐらいなのだから。
……まぁ、気付けなかったからこそ、私はそこに王子様を見つけたのだけれど。
でも、今このタイミングで謝られても、どうにもならないのだ。
例え体の半分が幽霊だとしても、そこにある精神は人間や妖怪と同じもの。だから同じように喜怒哀楽があり、そして同じように悩みを抱える事もある。時には恋をして、そして失恋を知る事だってあるのだ。
そして私はこの西行寺家に使える庭師で、剣士で、
「……」
女だった。
どれだけ自分を戒めようと、鍛え上げようと、その事実だけは変わらない。変わりようがない。
でも、だからって、こんなに辛い思いをする事になるなんて思わなかった。恋愛のアレコレなんて良く解らないけれど、失恋がこんなに悲しいものだとは思わなかった。
相手が相手だった分、理想が現実になってしまった分、その衝撃が大きかったのかもしれない。
そんな事を考えていたら、なんとか大丈夫だと答えたのに、押さえつけていた涙が再び溢れ出してきた。
もう嫌だ。
これ以上、何も考えたくない。何もしたくない。
「失礼、します……」
涙を見られぬよう俯いて告げて、幽々子様の手を振り払うように歩き出す。でも、それよりも早く、私の体は幽々子様に抱きしめられていた。
「ゆ、幽々子様……?」
一体何をするのかと問い掛ける私に、返って来た声は辛そうな響きで、
「……辛い時は、泣いて良いの。我慢するだけ、苦しいだけだから」
「……ッ」
「こんな事、貴女を騙していた私が言えた事じゃないけどね……」
そう告げる幽々子様に何か言葉を返そうとしたけれど、でも、溢れ出す涙はその言葉をかき消した。
そうしたらもう止まらなくなって、どうしようもなくなって。
「……ぅ、うぅ」
全身から力が抜けて、ただ子供みたいに。
私は、声を上げて泣いた。
色々と考えるのは、今は止めてしまおう。
明日から、またいつもの私に戻れるように、今だけは。
私は――魂魄・妖夢は、王子様に護られるか弱いお姫様では無く、お嬢様を護る剣士なのだから。
だって、そう。
私が恋したあの人は、この世界には存在しないのだから。
夢を見るのは、もうお終い。
涙と一緒に、流してしまおう。
全部、全部。
辛く悲しい、この気持ちと一緒に。
でも、それでも。
最後に、一つだけ。
「大好きでした。王子様……」
end
あと紅魔館でやるならぜひ美鈴が男やk(ry
東方でこういう話ってなんだかアレですね
でも良かったです
男装した幽々子様はかっこよさそうです
妖夢かわいいよ妖夢
あと演技始まる辺りの描写がもう、それはそれは物凄くそれっぽくて、胸が高鳴らされて、ああもう!
あ、心使いはどちらかと言えば遣いの方がいいと思います。
他の方々も仰っていますが切ない…。
幽々子様には男装と言うイメージが無かったので新鮮でよかったです。
あと誤字らしきものを発見したので一応報告を。
その顔は中世的で、→その顔は中性的で
ご指摘、ご感想、有難う御座います。
初々しかったです。
宝塚歌劇団がモチーフとは・・・・
目の付け所が素晴らしかったです。
初恋はほろ苦いものなのですね。
すらすら読ませる文章力は流石ですね。光景が見えてくるようでした。
タイトルと作者様を失礼ながら忘れてしまって、必死に探してやっとこさ見つけたという^^;
その甲斐あってやはり切ないけれど素晴らしい物語でした。
ありがとう。
始終、こちらの胸が苦しくなってました。
あんな、予想外があるなんて。