暦はとうに立秋を過ぎ、軌道が下がり始めてきた太陽はまるで四六時中西日が射しているかのように暑苦しい。
残暑真っ只中の白昼。
誰もが日陰を通るためには多少の回り道も辞さないような炎天下、それは妖精にとっても例外ではなかったし、氷精であるチルノなら尚のことだった。
湖近くの木陰に腰掛けながらぼんやりと水面を見つめるチルノ。
霧に覆われた湖畔はさながら球の中に閉じ込められたようで、一定の範囲から先を遮って映さない。
それでも寝転がってしまえば上下がわからなくなるくらい、空も水も澄んでいた。
その答えを知っているのは、時折吹き抜けて湖面を揺らす風くらいなものだろう。
地面に付いた手や尻からはじりじりと蒸し暑い空気が立ち昇っているのに対して、水面で冷やされた風はひんやりと心地よかった。
「あら、氷精さんはこんなところでまた独りぼっち? ただでさえサムいのにこんなところでじっとされたら陰気で仕方がないじゃない。」
「……そうそぅ、アンタは騒々しいのだけが、取得なんだから。天気関係なく、精々暴れ回りなさいなぁ……」
「考え事なんておバカな氷精さんには似合わないわよー?」
その静寂の時間を破り捨てるように姦しい声が上空から降りてくる。
「………………………はぁ。」
チルノはただ呆れたように溜息を一つ吐いて、その声を無視する。
いちいち確認しなくても声の主たちが誰なのかチルノにも覚えがあった……が、だからといって付き合ってやるような相手でもなかった。
「なによっ、そのやる気のない態度は! わざわざ話し掛けてやっているんだから恭しく受け答えしなさいよね。」
両手をブンブンと振り回して憤慨するサニーミルク、左右で束ねた髪の毛も体の動きに合わせて上下に大きく揺れていた。
「……そうよぉ、こんな日差しの中で、あんたのために足を止めて、いるんだから、感謝しなさいよねぇ……」
サニーミルクとは対照的に肩をがっくりと落したまま憔悴したような声を出すルナチャイルド、くるくると巻かれた髪の毛も伸びきったバネの様に勢いがない。
「話し掛けてくれた相手の顔ぐらい見るのが礼儀よー。」
言葉少なく簡潔に喋っているのは残りのスターサファイア……のはずだが、声はすれども姿が見当たらない。
直射日光を真正面から浴びながら影ふたつ――と声ひとつ――が、チルノを見下ろすように佇んでいた。
チルノはもう一度これ見よがしに溜息を吐くと、不機嫌そうな表情を全面に押し出して面倒くさそうに視線を湖面から声の方へと向ける。
その半眼に近い目線にルナチャイルドは軽く後ずさるが、サニーミルクの方は腰に手を当てたまま終始不敵な笑みを浮べていた。
チルノはその好対照な二人を全く感慨のない表情でしばらく見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「アンタたち暑くないの?」
「暑いわよ! でも、サニーが木陰に入らせてくれないのよ……。」
チルノの言葉に半ば逆ギレ状態で頷くルナチャイルド。
普段なら落ち着いた印象を受ける黒いリボンが今日に限っては暑苦しく見える。
ルナチャイルドもそれを自覚しているのか、どことなくげっそりした空気をまとっていた。
「あらっ、そうだったのルナ? こんなにいい陽気だもの外にいないと損よー? お肌だってツヤツヤになるんだから。」
「それはサニーだけよっ! 私もスターも辛いんだから……って、あれ、スター?」
こちらも暑そうな長い黒髪を持つ星の光の妖精に同意を求めようと振り返るルナチャイルド。
……だが、生憎彼女にもスターサファイアの居場所がわからないのだろう、きょろきょろと辺りを見回していた。
「スターもそうなの?」
そのルナチャイルドの行動を全く意に介していないのだろう、サニーミルクはのんびりとした口調で行方不明の妖精に話し掛ける。
日の光の妖精の視線は、何故か忙しなく首を廻らせている月の光の妖精の方に真っ直ぐ注がれていた。
「確かに私とルナにとって直射日光は堪えるわー。だから私は物陰に隠れているんだけどね。」
そして、その声は至極当たり前のことのようにルナチャイルドの背中から発せられる。
「姿が見えないと思ったら私の影に隠れていたのね、スター!」
ルナチャイルドが首だけではなく全身を使って後ろを向くと、回転扉の要領でルナチャイルドの影に隠れているスターサファイアが姿を現した。
「仕方がないじゃない、近くにある物陰なんてルナとサニーしかいないんだし。それにサニーは日光集めてるから余計暑いし。他に選択肢がなかったの。」
「私の拒否権はどこいったのよっ!」
「ほらぁ、あんまり動かないでよー。影がなくなっちゃうじゃない。」
怒り心頭といった表情でスターサファイアを見つけようとくるくると回り続けるルナチャイルド。
しかし、傍目からは自分の尻尾を追い回し続ける犬のような滑稽で微笑ましい光景となっていた。
「どうでもいいけどさ……アンタたち何しに来たの?」
そのほのぼのとした雰囲気を氷精らしく氷点下の一言で一刀両断にするチルノ。
静かに考え事をしたい気分に完全に水を差されたのだ。
元々妖精付き合いがあまり良くないチルノではあるが、いつもにも増して態度に険があった。
「用がないのにアンタみたいなおサムい妖精にわざわざ話し掛けるもんですか。ちょっとした噂を耳にしたから確かめにきたのよ。」
「そうそう。」
この中で一番元気があるサニーミルクが腰に当てて仁王立ちのポーズでチルノを指差した。
それに続くようにルナチャイルド――ではなくて、スターサファイアが同意の声をあげる。
先程のやりとりで力尽きたのか、ルナチャイルドは腹話術の人形みたいにぐったりしていた。
「噂ってなにさ?」
どのみち悪い噂だろう。頬杖を付きながら興味なさそうにチルノは聞き返した。
――妖精のほとんどは春を謳い、陽気を愛す。
同時に冬を嫌い、曇天を憂い、陰気を忌避する。
それが妖精の本質というわけではないが、マジョリティの前にマイノリティが淘汰されるように内外問わず妖精に対する通念となっている。
一方でマイノリティ扱いをされた妖精たちはというと……特に大きな不満を示すことはなかった。
陰気を好む妖精たちはその性質の通りに静かでひっそりとした場所を好んでいたし、妖精同士で騒ぎ立てることが性に合わなかったのだ。
そもそも陰と陽、夜と昼、活動場所も時間も異なるため、日の向こうで何を囁かれようとどうでもよかったというのが彼女たちの本音であった。
しかし、それも所詮はマイノリティの中のマジョリティの意見に過ぎない。
チルノのように昼間も活動する妖精はやはり白い目で見られ、加えて負けん気と腕っ節だけは他の妖精以上のチルノは自然と妖精間で腫れ物のような扱いを受けるようになっていた。
……だから、これもどうせ悪い噂だろう。
身に覚えがなくとも憶測だけで噂は広がる。
そして、そういう噂は邪推から始まることをチルノは経験から嫌というほど知っていた。
「アンタが『死について考えている』なんて妙な噂なんだけどさ、本当なの?」
一番元気なサニーミルクが尊大な態度を崩さないまま本題を口にする。
それに合わせて尻尾のようなツインテールがふわりと再び動くが、今度はサニーミルクが腕を振り回したのではなく首を軽く傾げたからであった。
チルノに関する噂話というのは最も簡潔な言い方をするならば、根も葉もない悪口に他ならない。
曰く、「蛙を凍らせてはその生き血を啜っている。」
曰く、「蛙だけではなくて、妖精も凍らせている。」
曰く、「あの氷精が強いのは他の妖精の生き血を啜っているからだ。」
こんな例を挙げていったらキリがない。
ただ逆に考えてみるならば、そこには妖精らしい真っ直ぐを通り越して『天真爛漫』といってもいいくらいの明確な悪意が存在していた。
だからこそ、今回流れている「氷精が死について考えている。」という噂の端は善意からなのか悪意からなのか意図の汲み取りにくい――妖精にとっては『妙な』噂なのだった。
それがサニーミルクが首を傾げている理由であり、わざわざ三人がチルノのところに訪れた理由でもあった。
……もっとも、妙な噂だからといって本人に直接真相を問いただす者など普通はいない。
それがあの悪名高き氷精なら尚のことである。
その点でいうならこの三人の妖精も稀有な存在であった。
陰気の妖精でありながら日中にも活動する妖精と、陽気の妖精でありながら夜の光を求める妖精。
どちらも似たような立場にありながら境遇はほぼ対極に位置していた。
それはマイノリティの中のマイノリティとマジョリティの中のマイノリティという違いが原因でもあったし、単にチルノの社交性の問題であったのかもしれない。
「ああ、そのことか……。」
苦虫を噛み潰したような、それでいてどことなく気恥ずかしそうに視線を逸らすチルノ。
同時にこの噂が妖精的に『妙』であった理由も合点が行った。
「なにアンタひとりで納得しちゃってるのよ、私にもちゃんと説明しなさいよね!」
束ねた髪をぱたぱたと振りながら頬を膨らませるサニーミルク。
この場に居る妖精の気力を全て足したところで彼女には対抗できないだろう。爛々と光を反射するその赤い衣服に負けないくらいサニーミルクは元気に溢れていた。
「遠路遥々出向いたんだから、それくらいサービスしてくれてもいいと思うわよ。」
一方で日陰にいても辛いのか、スターサファイアは気だるげに口を添える。
「……………………………………………わよ。」
日傘代わりの三人目は唇がかすかに動いただけで、何を言っているのか誰も聞き取れなかった。
「わかったわかった、それに答えたらさっさとどっかに行ってよね。あたいはあんたらほど暇じゃないの。」
目を合わすのも面倒だといわんばかりにそっぽを向いたままチルノは不機嫌そうに言葉をこぼす。
姦しい妖精たちも流石に真相を前にすると一刻も早く知りたいのだろう。チルノの態度に反論することなく、目をキラキラさせながら黙って頷いた。
「あれはね、単に噂の発端が妖精じゃないからよ。間違いなく天狗だと思う。新聞記事になったら直接記事の感想を聞いてくるようなヤツなのにそれがないってことは、きっと誰かがアイツの独り言を聞いたんじゃないの? 独り言が多いヤツだからね。……わかった? じゃあ、とっとと帰ってよ。」
チルノは大きく息を吸うと、反論も質問も一切受け付けないよう一息でそう捲くし立てる。
「 「 「…………………………………………………………………」 」 」
それに対して三人の妖精はしばし無言で、ポカンと立ち尽くしていた。
各々が――ぐったりしていたルナチャイルドでさえ――手で口元を押さえ、目を大きく見開いている。
その視線には驚きが半分、残りは奇異と不審といったものがごちゃごちゃと織り交ざっていた。
「……なにさ?」
予想とは違う空気に耐え切れなくなったチルノが困惑したような声で問い掛ける。
三人はお互いに目配せしたあと、サニーミルクがおずおずと口を開いた。
「アンタにしては論理的な答えが出てきたからね、びっくりして心臓が止まりそうだったのよ。」
「あんたら今すぐぶっ飛ばす!」
流石に腹に据えかねてチルノが立ち上がる。
真面目に返答した分、怒りと羞恥で真っ赤になった顔。
それとは対照的に氷結した水蒸気が白いベールとなってチルノの周りを包んでいた。
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ! 別にアンタを馬鹿にしたわけじゃないわ。」
「そ、そうそう、良い意味で驚いたんだから。」
「いくら私たちだって正面からアンタに喧嘩は売らないわよー。」
後退りながらも、代わる代わるチルノを宥めようとする三妖精。
それがチルノと他の妖精たちの力の差を如実に表していた。
「…………………ふん。」
悪気があっての発言ではなかったことを雰囲気から察したのか、チルノは不機嫌そうな表情はそのままにしながらも、ドカッと再び腰を下ろした。
その様子に三妖精は安堵の溜息を吐く。
彼女らは特別チルノを恐れているわけではない。寧ろからかい相手としては丁度良いとすら思っていた。
ただ、それはあくまでもピンポンダッシュと同じような感覚であり、逃げる心構えもなしにこのような事態になるのは好ましくなかったのである。
「まだ何かあるの?」
一向に立ち去る気配をみせない三妖精を上目遣いに睨め付けるチルノ。
その反応を待っていたかのように三妖精はお互いに目配せして頷き合った後、ゆっくりと間を置くようにサニーミルクが口を開いた。
「噂の出所はわかったけど、……じゃあ、アンタは本当に『死について考えている』わけ?」
人間からしたらそれは改めて問い掛けるような質問ではないし、ましてや噂として発展するほど物珍しい話題でもない。
そんなことは『生きている者』ならば誰もが一度ならず思いを馳せたことがあるはずだから。
しかし――
「そ、そうよ! なんか文句ある?」
「 「 「…………………………………………………………………」 」 」
顔を赤らめて肯定するチルノに対して、三妖精は再び押し黙る。
ただし、今回沈黙を破ったのは三妖精の方であった。
「あーっはははは! サムいサムいと思ってたけどここまでサムいなんてね!」
「……ぷっ、陰気もここまできたら、あはっ、立派だと……くくっ、思うわよ。」
「私たち妖精が死ぬはずないのにねぇ、無駄な時間を使っちゃって……くすくすくす。」
各々が腹を押さえ身を捩じらせながら言葉を吐き出す。
その場にいた者全てがぷるぷると小刻みに肩を震わせていた。
そこには意味合いは異にするが、チルノも例外ではなく……。
「あ、アンタたち、今度はゼッタイにぶっ飛ばす! ついでに泣かしてやるっ!」
自分の頭の大きさを優に超える氷塊を抱え上げ、チルノは高らかに宣言する。
それを合図に――こっちは事前に打ち合わせしていたのだろう――三妖精が一斉に逃げ出した。
妖精は力ない種族であるが、それだけに逃げ足だけは速い。
特にこういう場合は予備動作なしの不意を付いて距離を稼ぎ、あとは各々の能力を使って逃げ切るのが三妖精の常套手段だった、のだが……
「あっ…………なんていつもの手に引っかかると思うなよ!」
常套手段だけにチルノもいい加減学習したのだろう、わかっていたとばかりに氷塊を投げ捨てて迷いなく一点に向かって突き進む。
その先にはくるくる巻き毛の月の光の妖精の姿があった。
「ち、ちょっと、何で私なのよっ! 一番憎まれ口叩いてたのはサニーでしょ!?」
「一番弱っている者を狙うのが狩りの基本! アンタはほりょ、ついでにぎゃくたいよ!」
意味をきちんとわかって使っているのか定かではないが、日光で消耗気味のルナは確かに他の妖精よりも速度が遅く、チルノとの距離がどんどん縮まっていく。
「な、なんか物凄い不穏当な発言しているんだけど……、サニー、スター、どうにかしてよー」
たまらず仲間に助けを求めるルナチャイルド。
その言葉で既に安全圏まで逃れたサニーミルクとスターサファイアが静止して、渦中にいる残り二妖精に声を掛ける。
「チルノ! アンタがルナを捕虜にしようと、どれだけ虐待しようと、私は助けに行かないわよ! それだけは覚えておきなさい。策略とかそういう含みなしの本気、自分でもびっくりするくらい本気の本音よ!」
「これは裏切りでもイジメじゃなくて、良い意味でツンデレだからねー。」
「じゃあ、アンタたちは悪い意味で最高よ!」
内輪で揉めている間にチルノは自分の射程範囲内まで接近していた。
「どっちの意味でいいから、とりあえずアンタから泣かすからね。」
両手に拳くらいの大きさの雹を握り締めて、チルノは冷たい声色で告げる。
その声でルナチャイルドの血色が気温同様に急激な勢いで冷めていく。
「弱っている者を狙うなんて卑怯よ!?」
「………………」
後退りながら、それでも声だけは近づいて来る氷精を牽制するように張り上げるルナチャイルド。
でも、チルノは聞く耳を持たないといわんばかりに口をきつく結んだまま距離を詰めていく。
「お、可笑しいことを素直に笑って何が悪いのよ!」
「………………」
「こ、今度、スターが秘蔵にしているこんぺいとうをこっそり分けてあげるから、……ね?」
「………………」
「じゃ、じゃあ、サニーがすっごく気にしてる黒子の位置を教えてあげる! ……これでもダメ?」
「………………」
単なる力比べではこの氷精には勝てないことは重々承知で、ルナチャイルドは刑の執行を延ばすように矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
ただ、その言葉が重なれば重なるほど、チルノの手の平の上にある氷塊も肥大化していくのであった。
「えっと、あっと、うぅー……」
泥沼の様相を呈してきたこの状況もルナチャイルドの言葉の弾切れを合図に終わりを告げようとしていた。
お互いの距離はとうに手の届く範囲であり、再び子供の頭大になった氷塊をチルノはゆっくりと振り上げる。
「だ、大妖精に言いつけてやるんだから!」
「!!」
……それも簡単に言ってしまえば、窮地に立たされた月の光の妖精が咄嗟に並べ立てたその場凌ぎの言葉のひとつ。
しかし、その言葉に今まで釣りあがっていた氷精の目が大きく見開かれた。
同時に振り上げていた手をさっと下ろして、取り繕うように辺りをきょろきょろと見回す。
傍から見れば悪さしているところを担任教師に目撃されたような、そんなバツの悪そうな空気がチルノから発せられていた。
大妖精――それは若葉を清水に溶かし込んだような翠緑の髪と、絹を編んで作られたような銀翼を持つ、妖精の間で知らない者などいない妖精の中の妖精。
全ての妖精に分け隔てなく接し、美しく凛々しい外見から誰からも羨まれ、優しさと大らかな性格で誰からも慕われている緑髪の貴人。
それ故に我の強い妖精たちの中で唯一、喧嘩の仲裁から井戸端会議の議事進行まで一手に引き受ける役を担うことのできる流麗なる調停者。
『Noble』、『Grand』、『Elder』といった様々な尊称付きで呼ばれるうちに、いつの間にか全部をひっくるめて『大妖精』という名で彼女は呼ばれていた。
『無頼の徒』、『鉄砲玉』などなど対照的な呼ばれ方をされているチルノであるが、この大妖精だけには得意の力比べですら一度も勝てた試しがない。
勿論、聡明な大妖精からチルノに手を上げることはなく、チルノが勝手に突っ掛かっていったり、非のある行動をとったりしたときのお仕置きの一環として、制裁への抵抗を試みるチルノと何度か対決したことがあるのだった。
「……って、今回、あたいは全然悪くないじゃないさっ!!」
問題児の宿命というか、反射的に身構えてしまったチルノが状況を再確認して抗議の声をあげる――が、
逃げ足が命の妖精がこの絶好の機会を逃がす筈もなく、目の前にはただ湖だけが広がっていた。
「チッ! こんなとこにも『抜け道』があるなんてね……。」
吐き捨てるように呟くチルノ。
しかし、先の行動に対する恥ずかしさがまだ糸を引いているのか、その声は怒気よりも照れ隠しの色の方が濃く含まれていた。
あっさりと身を翻してもといた木陰に戻るチルノ。『抜け道』を通られたら追跡が不可能なことは妖精であるチルノ自身が熟知していた。
他の種族よりも非力な妖精が、平気で悪戯を行うのは妖精独自の逃走路が確保されているからである。
人間が語る御伽噺では『妖精の輪』『妖精の丘』『妖精の塚』と名付けられた妖精の国へと通じるとされる路。
ここを抜ける間は誰の目にも付かず、距離や空間、時間といったものの目さえ欺いてしまう。
大妖精や春を運ぶ妖精が人間を相手にして神出鬼没な行動をとることができたのも、この『抜け道』が存在したからであった。
チルノも妖精だから『抜け道』を通ることは当然可能である。
ただ、『抜け道』は簡単に見つかるものではなく、また発見された抜け道はその妖精の手によって巧みに隠されてしまう。
だから基本的に『抜け道』は一見さんお断りであり、妖精たちは他の妖精に紹介してもらうことで『抜け道』の数を増やしていく。
妖精との交流が圧倒的に少ないチルノにとって、知っている『抜け道』の数=自分の発見した『抜け道』の数であり、それは自分の指の数よりも少なかった。
◆ ◆ ◆
「………………はぁ、まったくもぅ……」
木の根元にゆっくりと腰掛けると、幹にコツンと後頭部を軽く打ち付けてチルノは溜息を漏らす。
チルノは別段、三妖精に笑われたことや逃げられたことは気にも留めていなかった。
表立ってにせよ、陰でこっそりにせよ、笑われることには慣れている。
それにあの妖精たちが笑うことも無理はないことくらいはチルノも十分承知していた。
――妖精は死なない。
春先に出会った死神が「妖精には寿命がない。」とあっさり告げたくらい、それは妖精たちにとっての常識中の常識であり、チルノだってそのあと閻魔様に説教されなかったら馬鹿らしいと一笑に付していただろう。
『死』について考えるのは自分がいつか死ぬからであって、死なないものにとっては『想像』ですらない『妄想』や『幻想』と同じ突拍子もない考えである。
しかし、チルノはあのとき閻魔を名乗る少女に、自身の『死』を示唆された。
妖精が強すぎる力を持つことは自然ではなく、いつしか自然の力で元に戻れないダメージを負って――死ぬかもしれない。
そのフレーズはチルノにとって妄想や幻想でしかなかったはずの『死』を想像するに足らせる理由であったし、そのことについて非力な他の妖精に理解してもらおうとは最初から思っていなかった。
御覧の通り、正面から笑われて綺麗に流せるほどチルノは温厚でも大人でもなかったわけだが……。
「うーん……」
ボールペンをカチカチといじるように、机をコツコツと指で叩くように、コツンコツンと一定のリズムで木の幹に軽く頭をぶつけながらひとり唸るチルノ。
頭の中には一人の人物が浮かんでいた。
あの三妖精のように大多数の非力な妖精には理解できないだろう、でも、チルノと同等、否、それ以上の力を持つ妖精はどうなのだろうか?
そんな簡単なことも月の光の妖精が口に出すまですっかり失念していた。
「……大妖精はどうなんだろう。」
無意識にポツリと口から零れ落ちる言葉。
それが自分の耳に入った瞬間、チルノは顔を赤らめて歯噛みした。
先程、大妖精の名前だけで動揺したことが気恥ずかしいということもあるが、基本的にチルノは二点において大妖精が苦手であった。
一点は優しく、凛々しく、頼り甲斐があり、そこにいるだけで自然と妖精が集まってくる大妖精と、嫌われ、煙たがられ、恐れられ、誰一人好んで声をかけてくることのない氷精。
全く正反対の相手だけに妬まくも眩しく、疎ましくも憧れる……。
そのハッキリとしない感情の振幅がチルノにはとても不快で、結局は突っ掛かってしまう。
とどのつまりチルノは大妖精が苦手なのではなく、大妖精を前にしたときの自分自身が苦手なのだろうが、流石にチルノはそこまで自覚できていなかった。
そして、もう一点は――
「あたしのことを呼んだかな? チーちゃん。」
不意に梢の間から玲瓏な声が響いてくる。
芯の一本通った理知的で力強い、聞いていて安心するような声。
しかし、チルノは再び苦々しげな表情を浮かべた。
「いつから聞いていたのよ?」
「そういうセリフの使い方は正しくないね。あたしはチーちゃんが木陰で物思いに耽る前からここにいたんだから。」
梢のざわめく音と共にクツクツと屈託のない笑い声が返ってくる。
「じゃ、じゃあ、あの三バカとのやり取りも見てたってワケ?」
それとは対照的に顔を再燃させてチルノは問いを重ねた。
「そうね。まあ、別に告げ口されたところでチーちゃんをどうこうするつもりはなかったよ。主観の相違だからね、あたしにできることは示談を手伝うことくらい。アンタたちの場合なら喧嘩した方が手っ取り早いし、後腐れないでしょう? だからずっと静観するつもりだったんだけど――」
そこで今まで上空から響いていたはずの声が突然、チルノの真横から発せられる。
「――チーちゃんったら、可愛い反応をしてくれちゃってね。お姉さん不覚にも笑っちゃったよ。」
クツクツとからかうような笑声なのに、どこまでも爽やかで涼しげな音色を含んでいた。
隣に誰が佇んでいるのかわかっていながらも、チルノはいやいや笑い声の発生源に視線を向ける。
そこにはいたのは大きくても子供くらいの大きさの妖精の中で、人間の少女と同じくらいの背を持つ異例の存在。
玲瓏な声に違わぬ、スラリとした体型に大人びた端正な顔立ち、そして綺麗な銀翼と緑の髪を持つ少女――それは紛うことなき大妖精と呼ばれる人物であった。
「こんな短距離で『抜け道』を使う必要がどこにあるのよ?」
目の前にいる妖精に半眼で皮肉をたっぷり込めて文句を言うチルノ。
しかし内心では、そんな瑣末事にいちいち突っ掛かっている自分に首を傾げていた。
『抜け道』自体にはチルノは興味がない。確かに便利ではあるが、あそこは風を肌で感じることもなければ、景色も見えない今一つ味気ない場所なのだ。
ただ、先程何気なく『抜け道』を使って移動していたが、そんな丁度良い塩梅に出没を繰り返せるのは大妖精が沢山の『抜け道』を知っていることに他ならない。
妖精にとって秘密基地同然の『抜け道』を沢山知っているということは、同時に数多の妖精に慕われ心許されている確固たる証拠でもあった。
嫉妬か羨望かその感情が判別できないチルノには単に大妖精の先の行動が嫌味で気に食わないと感じていた。
「こうでもしないとチーちゃん、すぐにここから飛び立とうとしたでしょう?」
そんなチルノの雑然とした内心をどことなく察しながらも、腰に手を当てて茶化すように返答する大妖精。
思わぬ反撃に俯き気味だった顔をパッと上げてチルノは大妖精の方を見た。
「そ、そんなこと!! ……ふ、ふん、当然じゃない。あたいは暇じゃないの、大妖精も用があるのならさっさといいなよ。」
大妖精のペースにのまれかけていることを自覚したのか、一呼吸置いてツンケンした衣を纏いなおすチルノ。
一方の大妖精は氷精の必死の百面相が微笑ましくてついつい頬が綻んでしまっていた。
それを敏感に察したチルノが唇を噛み締めて大妖精を鋭く睨みつける。
「なによっ! どうせアンタもあたいのことを笑いにきたんでしょう?」
羞恥で頬を朱色に染め、声は少なからず震えながらも、顔を背けることなく真っ直ぐに大妖精を射抜くチルノの瞳。
それは氷細工のように透明で、綺麗で、気丈で、……そして脆いことを大妖精は誰よりもよく知っていた。
だから、大妖精はわざとらしく心外そうな表情を浮かべて、首をゆっくりと横に振る。
「まったく、チーちゃんは失礼だなぁ……。違うよ、あたしはお祝いに来たの。」
「……お祝い?」
大妖精の言葉が完全に予想の外のものだったのだろう、呆然とした表情で鸚鵡返しに聞き返すチルノ。
「そう、そしてこれが祝物。」
その反応にゆっくりと頷くと、どこから取り出したのか大妖精はチルノに漆塗りの施されたお重を手渡した。
チルノの手には中身がぎっしり詰まっていることを感じさせる確かな重さと、ひんやりとした漆の感触が残る。
「これを……あたいに?」
開けてもいいのかと目で訴えかけるチルノに大妖精は再び頷いてみせた。
嬉しさと好奇心、疑念と不可解の全てを噛み潰したような表情で恐る恐る重箱の蓋を開くチルノ…………
「…………………………ぇ?」
…………だったが、蓋を開けた時点で氷精でありながら自分自身の表情が見事に凍りつく。
そして瞬間湯沸かし器というよりも核融合レベルで瞬時に顔を真っ赤にさせて大妖精を睨みつけた。
「お赤飯って! アンタもやっぱりあたいをバカにしてるんじゃないさっ!」
お重にぎっしりと敷き詰められている赤飯を見せながらチルノは大妖精に怒気をぶつける。
それに対して大妖精は何がおかしいのかわからないといわんばかりに、首を軽く捻って溜息を吐いた。
「女の子のおめでたい日といったら定番はお赤飯じゃないか。それも大人になったお祝いにこれ以上適当なものがあるのかい? ……もしかして紅白饅頭の方が好きだったっけ?」
「どっちも好きよっ! ……って、そうじゃない。『おめでたい』って、『大人』って、一体どういうことなのさ?」
このまま怒っていいのかどうか状況がますますわからなくなって、チルノは何度も目を瞬かせる。
その様子に大妖精は優しく微笑むと
「チーちゃん、飲もっか?」
どこからともなく酒瓶を並べて、そう爽やかに告げたのだった。
「なんで、あたいが大妖精と一緒に仲良くおしゃべりしなきゃいけないのさっ!」
突然の誘いに更にワケがわからなくなったチルノは、全ての思考を切り捨てて『大妖精が苦手だ』という最も簡単な理由に則って断りの言葉を発する。
「まあまあ、いいじゃないさ。別にお酌しろってわけじゃないし。チーちゃんはそのお赤飯食べてくれれば良いから、ね?」
酒瓶の他にジュースの入った紙パックを掲げて大妖精は笑みを崩さない。
「だからお赤飯もいらないって! あたいは忙しいの。大妖精とのんびりする気なんてさらさらないの!」
ブンブンと頭を何度も横に振って全身で拒絶の意を表すチルノ。
「そんなこといわないでさ、チーちゃん。折角チーちゃんのためにお赤飯作ったんだし、食べ物を粗末にするともったいないお化けが出てくるよ? ほら、チーちゃんも耳にしたことがあるでしょう? 桜色の髪の毛で和服を着た幽霊でさ、食べ物を粗末にする子供の前に現れては蝶と一緒に魂を何処かに連れて行っちゃうんだよ?」
ニコニコとお化けのジェスチャーをしながら大妖精は泰然と語る
「それはもったいないお化けじゃないし! あーもうっ、付き合ってらんない。」
頭をガシガシと掻き毟るとチルノはそっぽを向いて飛び立つ準備に入る。
「いいからいいから、座りなさいなチルちゃん。」
それを遮るように、背後から相変わらず笑みを孕んだ大妖精の声がやんわりと響いていた。
あくまでもどこまでも『やんわり』と――ただし、確かなプレッシャーを加味して……。
「うっ……」
チルノもその微妙なニュアンスに気が付いたのか、大妖精に背を向けたまま動きが止まる。
「座りなさいな。チルノちゃん。」
声調も言葉の内容も先程とほとんど変わっていないにもかかわらず、チルノは背筋に刃を突きつけられたかのように完全に凍り付いていた。
『チーちゃん』は青信号、『チルちゃん』は黄信号、『チルノちゃん』は赤信号。
それは幾度となく大妖精と接してきたチルノが条件反射になるくらい記憶に刻み込んだ事柄である。
「うぅ~~……」
チルノの頭が恐怖を動力に目まぐるしく回転し、これ以上大妖精の機嫌を損ねるのは得策じゃないという結論を弾き出す。
立ち去るのならともかく、追いかけられたら逃げ切れないことくらい無数の試行の結果からチルノはイヤというほど熟知していた。
そして、ふと『逃げる』という言葉が当たり前のように自分の脳裏を飛び交っていたことに舌打ちをする。
あれは大妖精のわがままであって、チルノ自身大妖精の顔色を窺う筋合いはない。
だからといって、ここまで強引に誘われて逃げるように断るのも負けたような感じがして不快だった。
「……わかったわよ。大妖精がどうしてもっていうんだから顔を立ててあげる。」
その場面だけ見れば尻餅と勘違いするくらいの勢いでチルノは腰を下ろす。
チルノの頭の中では“これは言葉通りのお情けで、あたいは大妖精のわがままに付き合ってあげてる寛大な氷精”という言葉が繰り返し再生されていた。
……もっとも、それは頭の中だけで、自称“寛大な氷精”は胡坐の上に頬杖を付いて極上に不貞腐れた表情を浮かべていた。
「ありがとう、チーちゃん。」
対して大妖精はチルノのそのベニヤ板よりも薄い虚勢を見抜いているといわんばかりに、クツクツと目尻を細めて微笑む。
慈愛に満ち妖精たちには母や姉のように慕われている大妖精だが、何故かチルノに対してだけはこのような意地の悪い行動を取ることが多々あった。
「ふんっ!」
頬杖を付いたままプイっと大妖精から顔を背けるチルノ。
……そういう態度をとられるから大妖精は苦手なのだ、と改めてチルノは思うのであった。
「チーちゃんは何か飲む? ミルクもあるよ。」
甘い香りのする蒸留酒とオレンジジュースをグラスに注ぎながら、からかうような口調で大妖精はそっぽを向いたままの氷精に話し掛ける。
「………………」
チルノは横目でお酒を作る工程を見つめながら、お酒が2でジュースが8の比率の大妖精だって十分子供だと内心思っていた。
もっともチルノはお酒が全く飲めない。宴会のときに紅魔館のメイド長に葡萄酒を砂糖水で何倍にも薄めてもらって漸く飲めたのだが、紅魔館館主にはそれでは単なる葡萄ジュースだと溜息を吐かれたくらいであるから、大妖精を笑うことはできなかった。
「じゃあ、牛乳を貰おうかな。小豆にはやっぱり牛乳でしょ?」
一呼吸置いて、大妖精の提案を素直に受けるチルノ。
その反応には大妖精も少し驚いたように眉を上げたが、素直に笑ってミルクを差し出した。
チルノも大妖精が意外そうな表情をしたのに満足したのか、鼻息荒く差し出されたグラスを受け取った。
「チーちゃんさ、あたしマドラーを忘れてきたんだけど、この山から汲んできた水を使って氷柱を作ってくれないかな?」
チルノが勝ち誇った様子で上機嫌になったところを見計らって、すかさずお願い事を口にする大妖精。
普段なら絶対に大妖精の願い事を素直に聞き入れないチルノであるが、持ち上げられた瞬間だけは無防備になるのであった。
「お安い御用だよ、ほいっ」
「ありがとう。」
礼の言葉と共に氷柱を受け取って、鼻歌混じりでグラスを掻き混ぜ始める大妖精。
チルノはその鼻歌の意味を理解してないのか踏ん反り返ったままだったが、……まあ、知らない方がお互い円満で良いのかもしれない。
「そろそろお赤飯食べてもらえないかな? チーちゃん用だから最初から冷めているとはいえ、風合いとか悪くなっちゃうしね。」
「言われなくても食べてあげるわよ。そのために残ったんだから。」
そんなことを言いながら、再びお重の蓋を開けるチルノ。
よくよく見てみると、小豆には皺一つなく丁寧に煮られたものであったし、風合いを気にすることが謙遜にしか聞こえないくらい赤飯は綺麗な小豆色をしていた。
一瞬目を大きく見開いたチルノだが、表情を改めるとそのまま無言でお重に添えられた箸で赤飯を取って口に運ぶ。
「………………」
「ど、どうかな? 冷めることを前提に作ったからちょっと砂糖を多めに入れてみたんだけど……。」
いつもなら泰然自若としている大妖精だが、今回ばかりはそわそわとチルノよりも先に沈黙を破った。
丹精込めて作られた赤飯と、若干緊張の孕んだ大妖精の表情。
流石のチルノも大妖精がお祝いで持ってきたのが本心からのことだったのだと悟らざるをえなかった。
「大丈夫、おいしいよ。…………ありがとう。」
最後の言葉は俯き加減で重箱に告げるようになっていたが、大妖精は嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、どういたしまして。全部食べてくれると嬉しいな。」
「ふんっ、言われなくても食べるわよ。」
「あっ、ついでに食べ終わったら湖の水に浸しておいてね。洗って返さなくてもいいからさ。」
氷柱の柄を持ってカラカラとグラスを掻き回しながら、所帯じみた発言をする大妖精。
その辺りまで気を配るところが木目細やかというか、しっかりものとして妖精たちに慕われる所以かもしれない。
リスも目を見張るくらい頬を膨らませて赤飯を掻き込むチルノとは大きな違いであった。
言葉が出るほどの余剰が口に存在しないのか、無言で掲げた重箱ごと頷くチルノ。
大妖精は流れるような所作でグラスの中身を舐めるように口にしながら、そんなチルノの様子を眩しいものでも見るように目を細めて、微笑ましげに眺めていた。
◆ ◆ ◆
「……ふぅ、ごちそうさま。」
「お粗末さまでした。」
ミルクの入ったグラスを一気に飲み干すと、チルノは満足気な表情を浮かべて湖面の方へと歩いていく。
チルノがお重をすすいでいる間に大妖精は空になったチルノのグラスを手に取り、再びミルクを注ぎ足した。
「あっ、ありがとう。」
「いえいえー。」
ごく自然な動作でグラスを受け取り木の根に腰掛けるチルノ。
グラスには文字通り乳白色をしたミルクと、それに負けず劣らず風がいくら吹いても決して晴れることのない白く濁った霧の湖畔。
沈黙の代わりに辺りには硝子と氷のまじわる涼しげな音が響く。
そして、この濃い霧の中でも色褪せることないエメラルド色の妖精が、相も変らぬ優雅さでチルノの目の前に佇んでいた。
どこを見つめるでもなく舐めるようにお酒を嗜む大妖精。
あまりお酒が強くないこともあり既にうっすらと瞳が潤み、グラスを口から放すときには艶のある息が零れ落ちる。
同じ妖精であるチルノでさえ、目の前の人物が絵画の中の住人なのではないかと錯覚してしまうほど大妖精の仕草は艶麗であった。
それに比べてチルノ自身は口の周りにでかでかと白い跡を残していることを不意に意識する。
何となく大妖精に対抗して見様見真似でグラスを口に運んでみる……が、なんだか犬猫がミルクを飲んでいるようでチルノとしてはあまり美味しく感じられなかった。
やはりお酒じゃないといけないのか、それとも一見しただけではわからない特殊な技法が隠されているか、チルノは首を傾げて――
「……あっ。」
――と、ずいぶんと寛いでしまっていることを自覚した。
恥ずかしさで周りの霧が微細な氷の粒に変化していることを知りつつも、チルノは表情を押し殺して横目でチラリと大妖精の様子を窺う。
そこには全てお見通しといわんばかりに、したり顔で笑う大妖精の姿があった。
その瞬間、呻き声と共に必死に押し殺していた顔が真っ赤に転化する。
すぐさま大妖精からの言葉の追撃に身構えるチルノ。
普段なら「チーちゃんは可愛いねぇ。」とクツクツクツ笑うのが大妖精である。
だが、大妖精は顔こそは笑みを浮べていたが特に何も言うことなく氷柱を持ち替え、片手で酒瓶を操りながら空になったグラスを満たしていく。
その笑みもグラス内の液体が増加するのに反比例して、静かで厳かな眼差しへと変わっていった。
視線の先は一応グラスに注がれる液体を捉えているが、本当はもっと遠く、またはもっと内側を見ていることは大妖精の表情をみれば一目瞭然だった。
酒瓶を置く音、
氷柱が再びグラスを叩く音、
風が梢を揺らす音、
音は変わらず絶えず発せられているのに空気はどこまでも重い。
ほんのりと涼しかったはずの霧は無数の濡れ布巾のように肌に纏わりつくような気がしたし、自分の唾を飲む音が信じられないほど大きく聞こえた。
チルノは不意に訪れた沈黙を破る術を持たず、くるくると渦を巻くカクテルを眺めている大妖精をただただ注視することしか出来なかった。
「ねえ、チーちゃん。」
突然訪れた沈黙は、これもまた唐突に破られる。
グラスを見つめたままの不意な呼びかけは、別段チルノ返事を期待してのものではなかったのだろう。
チルノがあたふたと口を開く頃には、次の言葉が既に大妖精から紡がれていた。
「閻魔様にお会いになったんでしょ?」
先程の沈黙と重苦しい雰囲気が霧の見せた一時の幻のように感じられるほど軽やかに、まるで悪戯を咎められたのをからかうような口調で大妖精は問い掛ける。
しかし、その言葉はチルノにとってはそんな軽いものではなく、くりくりとした瞳が零れ落ちんばかりに見開かれていた。
「えっ!? ど、どうしてそのことを?」
そして世界から空気がなくなったかと錯覚するくらい、必要以上に口をパクパクさせながらチルノはなんとか言葉を搾り出す。
確かに『死について考えている』ということは噂になるくらいだからブン屋や他の人物に漏らしたことがあるかもしれない。
でも、そのきっかけが閻魔様との出会いであることは誰にも話したことがなかった。
『天下のチルノ様が閻魔の説教を気にしている』と告白するのは流石にチルノにとっては気恥ずかしかったのである。
だからこそ大妖精の何気ない言葉は最早予想外という単純な驚きではなく、心の中を見透かされたのではないかと思うほどの衝撃なものだった。
「ふっふっふっ、大妖精は何でも知っているのです。特にチーちゃんのことならね。」
そんなチルノの驚愕も大妖精にしてみれば想定の範囲なのか、今度はグラスにではなく傍らにいる氷精の方をきちんと向いてさらりと微笑む。
口調と表情こそはふざけてはいるがチルノを見つめる瞳はどこまでも真摯で、鎌をかけたわけではないことはすぐに見て取れた。
よくよく考えてみると先の言葉も『問い掛け』なのではなく、自分の経験と照らし合わせた『確認』だったのではないかと思えてくる。
自分に都合良く考えれば考えるほど、自分と同じ境遇の者が目の前にいることに心が温かくなり、同時に自分と同じ筈なのにこうも飄々としているのがどうしてか気に食わなかった。
「茶化さないでよ!」
「強ち嘘じゃないんだけどねぇ……。」
結局、チルノから先に出てしまった言葉はこちらの方で、対して大妖精はちょっとションボリしたような苦笑いを浮かべる。
自分の口が招いたこととはいえ、両方の気持ちとも本心なだけに大妖精の表情を陰らせてしまったことに罪悪感も覚えてしまうチルノ。
だからといってチルノには謝る気はさらさらなかったけれども。
「………………」
「………………」
再三訪れる沈黙。
俯き加減に、だけどマイペースにグラスを傾ける大妖精と、もにもにと落ち着きなさげに自分の手を弄り回すチルノ。
頭の中ではプライドとか、タイミングとか、感情とか、雰囲気といったものが次々と秤にかけられていた。
あんなことをつい口走ってしまってはいるが大妖精に訊きたいことは山ほどある。
しかしながら、今まで散々大妖精と一緒にいることを嫌がっていた自分が手の平を返して矢継ぎ早に質問をするのも格好悪いようにも思える。
だからといって、場を改めて後日訊くには穿ちすぎた質問のような気がするし、今よりもすんなり話してくれるとは思えなかった。
沈黙は時間を吸えば吸うほど重くなる。
そして、タイミングは手放した風船のように物凄い勢いで逃げていく……。
「えっとさ、……あ、あのさぁ、なんというかねー……」
それに耐え切れず、つい言葉を間に挿んでしまったチルノ。
無意識のことだったのか一番驚いた表情を浮かべているのはチルノ自身であったが、口から放たれた言葉はもう戻ってはこない。
現に大妖精もチルノの方を向いていた。
ここまできてしまうとプライドも何も関係ない、沈黙を破ってしまった時点で残された選択肢は一つなのである。
チルノもそのことは理解しているのだろう、腹を括ったように大きく息を吸い込むと口を開いた。
「そ、そのっ! ……だ、大妖精自身はどうだったのさ?」
「どうって? 何が?」
「だから、『死について考えなかったのか?』ってこと。大妖精だって同じような説教されたんでしょ?」
一気に捲くし立てるだけ捲くし立てて大妖精の返答を待つ。
その間、成り行きに任せた自分自身を責めるかのように「うぅ~」と唸りながらも、上目遣いでチラチラと大妖精を窺っていた。
大妖精はチルノよりも強い力を有している。ならばきっと――否、絶対に同じようなことを思い、悩み、考えたはずである。
チルノからの期待のこもった熱視線とは裏腹に、大妖精は特に間を持たすこともなくあっさりと、
「チーちゃん、閻魔様が嘘吐きの舌を抜くのは迷信なんだって知ってる?」
――そして、チルノの期待とは全く違う答えを口にした。
「なにそれ?」
拍子外れも良いところの返答に気の抜けた言葉を返すチルノ。
しかしながら大妖精は茶化すわけでも誤魔化すわけでもなく、真っ直ぐにチルノの目を見据えて涼やかに言葉を重ねていく。
「つまりさ、閻魔様の言葉が単なる脅し文句で妖精は相変わらず死ない存在だとしても、それでもチーちゃんは死について考えるのかな?」
「へっ? それって………………え?」
大妖精から何気なく発せられる言葉の威力にチルノの頭がぐらりと揺れた。
チルノが死について考えるきっかけとなったのは、死なないはずの自分が死ぬかもしれないと警告されたからである。
それは過去を改竄しない限り動かない、紛れもない事実。
なのに、そのきっかけ自体が偽りだったとしたら……。
「あたしたち妖精は最初から生まれていないし当然死ぬこともない、だって誰の子供でもないからね。まあ、強いて親の名前を挙げるなら『星』の子供、いや、『因果律』の子供かな? あたしたちは既に森羅万象の最初から『いて』、最後まで『いた』ことになっているの。それは閻魔様でも覆せない絶対真理なんだよ。」
茫然としているチルノから少しも瞳を反らさず大妖精は淡々と述べる。
チルノはまるで面を被ったかのように表情を固めたまま、ただただ自分の足元をじっと見つめていた。
「要するにあたしたちは『自然』という生き物の中を流れる血液みたいなものさ、妖精ひとりひとりが赤血球やリンパ球だと思えばいい。自然が鼓動を打つ頃から存在し、自然が鼓動を打つのを止めるまで居続ける。もっとも、そんな昔のことなんて誰も覚えてはいないけどね。」
微笑みを交えて軽やかに、そしてわかりやすく噛み砕いて話す大妖精。
しかしながら、大妖精の言葉も目の前が真っ暗になっているチルノにはほとんど届いていなかった。
「故にあたしたちは永遠。時間の姉妹にして時間という直線と並行して走る存在。他の生物は線分、あの蓬莱人たちは半直線といったところかな?」
相変わらず次々と言葉を積み上げていく大妖精だが、チルノはもうそんなことに構っている暇はなかった。
足場が突然崩れたような喪失感と、スタート地点も着地点も見失った空虚感が胸の中に去来する。
嘘だった、無駄だった、単なる徒労だった……。
言葉にすればあまりにも簡素な文句。それこそ非の打ち所のない全否定。
――だというのにもかかわらず心がモヤモヤと、この湖の霧のように晴れないことがチルノに気になって仕方がなかった。
「だからね、時間と共にあるあたしたちにとって時間という概念は存在しないの。ある程度活動を規定する時刻、時季というものは確かに存在するけどね。例えば『昼間』という時刻、『春』という時季という活動条件さえあれば、それが一年後の同じ時刻時季でも、百年後でも、それこそ一億と二千万年後であっても、そんなことはあたしたちにとって取るにも足らない些末事なのよ。」
グラスをチルノに向かって掲げ、挑発するようにクツクツとちゃらけ半分の口調で大妖精は話し続ける。
それでもチルノは全く動かなかった。
そう、純粋に不快なだけならば、大妖精の言葉を「嘘だ!」と決め付けてすぐさまケンカを売ればいい。
単純に騙されたというのならば、先の三妖精を相手取ったように自分をコケにした閻魔に怒りをぶちまけてやればいい。
いつもならそれで解決するはずなのに、それではモヤモヤとした気持ちにおさまりが付かない気がしていた。
自分自身、納得いかないことはわかっている。
すごく不快で、気に入らないこともわかっている。
なのに、それが何なのかだけは霧の中に包まれていた。
その中で大妖精は俯いたまま自分の話を完全に聞き流しているチルノに憤慨するでもなく、寧ろ嬉しそうに微笑みを浮かべて見つめていた。
先程まで見せていたどの表情とも違う、チルノの胸の内で何が起こっているのかを悟っているかのように、まるで我が子を見守るような優しい眼差しで眺め続ける大妖精。
時間にしてみればそれほど長いものではない。
『沈黙』と『話の間』の境界線といった程度の時を置いて、大妖精は再び表情を作りかえる。
今までとは打って変わって、厳格にして冷淡な表情。そして――
「ねえ、チーちゃん。誰かの『死』だって同じだとは思わない? ちょっと眠って気がついたら過ぎ去っている些末事。だから死について考えるなんて無駄。」
――冷たく鋭い、決して聞き流すことのできないほど力強い口調で大妖精は断言した。
「ち、ちがう!」
それに一瞬の間を置くこともなく否定の言葉を口にするチルノ。
電撃のような速さの反論に一番驚いたのはやはりチルノで、それこそ自分自身が雷に撃たれたかのように目をパチクリさせていた。
そんな様子のチルノを酷薄なまでの眼差しで見据えて、大妖精は淡々と口を開く。
「そう? あたしたちの物差しからすれば他の生き物の物差しは短すぎる。だったら、あたしたちはあたしたち妖精だけの物差しで暮らした方がずっと気楽で、無意味なことに思い悩まなくてもいいと思わない?」
「そんなことない! ……そんなこと」
間髪いれず、首を何度も横に振って大妖精の言葉を強く強く否定する。
何故そんなにムキになるのかチルノ自身にも全くわからないが、ただ胸の中のモヤモヤが大妖精の言葉でムカムカに変わったことだけは確かだった。
「どうして? あたしたちは死なないんだから、死について考えるなんて単なる徒労じゃないさ。」
表情ひとつ変えず繰り返し断言する大妖精。
その言葉を合図にチルノの中でカチリと何かスイッチが入った。
「無駄じゃない! 無意味じゃない! 徒労じゃない! 確かにきっかけは嘘の脅し文句だったかもしれないけど……。でもでもっ、それは大妖精アンタが決めることじゃない! あたいはそうは思わないよ、あたいたちは死なない存在かもしれないけど、あたいの周りにいる他の生き物はいつか死んでしまうんでしょ? たまに話し相手になってくれる巫女とか白黒とかメイドはもちろん、冬に相手してくれるレティや喧しく付きまとってくるブン屋も、蛙やあの大蝦蟇のヤツだって……。だったら、それは無駄じゃないっ! どこまでわかるかわかんないけど、あたいがきちんと知って考えないと……そうじゃないと納得できないし、気に食わないじゃないさ!」
言葉にできなかった反動か、チルノは途切れることなく整理することなく、溢れるに任せて持てる限りの感情を一気に吐き出す。
その代わり、結局自分が何にモヤモヤしていたのかも全部吐き出してしまったためにわからなくなってしまっていた。
ただ、引き金となった相手はわかっているのだろう、荒く息を吐きながら大妖精をキッと睨みつけるチルノ。
それに大妖精は目を細めて心の内を見透かすような鋭い視線で相対する。
視線の圧力も纏っている空気の重さも大妖精の方が比較にならないほど強く大きく、先に睨みつけたにもかかわらず、じりじりと気圧されているのはチルノの方であった。
それでも、自分の言っていることは間違っているなんて欠片も思ってはいないチルノは、負けじと唇を更にきつく結んで上目遣いに睨みつける。
大妖精はそのチルノの必死の顔すら微風だといわんばかりに淡々と見下ろして――――不意に表情を綻ばせた。
「ふふっ、やっぱりチーちゃんは優しい子だね。」
空気を一変させて心底愉快そうに笑いながら、大妖精は優しくチルノに話し掛ける。
それは先程までの表情や雰囲気が幻覚だったのか、それとも大妖精が二人いるのではないかと思ってしまうくらい見事な変化であった。
「えっ? ちょっ、……どういうこと?」
流石にそこまでの緩急に対応できないのか、チルノは今まで吊り上げていた目を何度も瞬かせる。
大妖精はそれに答えるため笑顔のままで口を開いた。
「チーちゃんにお祝いを持ってきてよかったってことかな?」
その言葉に更に目が点になるチルノ。
最早、どっちの大妖精の言葉を信じれば良いのか全くわからなくなっていた。
「どこまでが本当のこと? というか、あたいのことを試してたの?」
「試していたというのは語弊のあるねぇ……。あたしは確認したかったんだよ、チーちゃんの気持ちを。」
やんわりと包み込むような笑顔で大妖精は答えるが、チルノは点になっていた目を再び三角に吊り上げる。
大妖精の手の上でまんまと踊らされたのだから気分も害すというのは当然だが、どちらかというと氷精らしからぬ熱弁をふるってしまった照れ隠しの方が強かった。
「それで大妖精サマからみて合格だったのかな? あたいは。」
「うわっ、険のある言い方だ。でも、実際合格も不合格もないよ。ただ……」
不貞腐れたような言い方のチルノ。
一方の大妖精は全くペースを乱すことなく、諭すようなゆったりと余裕のある口調を続けていた。
「ただ?」
「チーちゃんが思ったとおり、思いやりのある優しい子だってことはよくわかったよ。」
「う、うるさいな!」
照れ隠しだったことを白状するように、チルノは真っ赤な顔で反論する。
結局のところ、話術にしてみてもチルノよりも大妖精の方が何枚も上手だった。
「これも色々な人々に触れてきたお陰なのかな? チーちゃん今まで霧の湖に引きこもりっきりだったからね。閻魔様も『様々な所へ出かけ、世間を知ること。』なんておっしゃられてたしね。」
クツクツとからかうような笑い声をあげて、上機嫌に手に持ったままの氷柱を指揮棒よろしく優雅に操っている。
大妖精としてはここでもう一度真っ赤になって必死に否定するチルノを予想していたのだが、チルノは腰に手を当てて溜息を吐いただけだった。
「……よく言うわよ。大妖精が最初にあたいの所へ巫女と白黒を連れてきたんじゃない。」
「あれ? そんなことあったかな?」
そんな予想外のチルノの反撃に大妖精はふいっとグラスに視線を移す。
「とぼけたってダメ。霧の湖で『抜け道』を利用して巫女たちを翻弄させているように見せかけて、ちゃっかり紅魔館へ誘導していたじゃない。」
「単に悪戯をしていただけだよ。偶然偶然。」
思ったよりも鋭いチルノの指摘に、逆に大妖精の方が圧され気味になっていた。
チルノはジト目でいまだに誤魔化し続ける大妖精を見つめて、もう一度溜息を吐く。
「嘘、アンタほどの力のある妖精がスペルカードを使用しないどころか、ご丁寧にお土産まで置いて行く始末。不思議に思わない方がおかしいよ。……でもさ、実際のところ、大妖精が本気を出せば巫女たちを追い返せるだけじゃなくて、紅霧異変も解決できたんじゃない?」
ここまで根拠を挙げれたら流石に白を切り通せないと判断したのか、大妖精はグラスを一気に呷ると苦笑いを浮べた。
「それは買い被り過ぎだよ、あの紅い悪魔をどうこうできる力を持っているわけないじゃないか。それにお互いに役割というものがあるからね、あたしの出る幕じゃない。まあ、紅霧には沢山の妖精から苦情が来ていたしね、ちょっとくらいサービスはしたけれど。」
「ほら、やっぱりワザとだったんだ。」
腰に手を当ててやれやれといった仕草で、チルノはもう一度わざとらしく溜息を吐く。
――紅霧が幻想郷を覆ったあの事件の日。
陽気な妖精たちは太陽が遮られて元気をなくしていたあの日。
そんな中でチルノは自分のことを遠巻きにひそひそと喧しく噂する妖精たちの姿が見えなくなり、寧ろ好ましく思っていた。
普段なら他の妖精たちが井戸端会議を開いているはずの湖の中央も気軽に散歩できたし、この程度の変化で参ってしまう妖精たちをざまぁ無いと思っていた。
だからこそ、チルノはこの霧を晴らそうとする人間を目の前にして素通りさせることはできなかった。
今にして思えば、これが数奇な縁の始まりだったのかもしれない。
春が訪れない異変のときにもチルノは同じ人間の前に立ちはだかったし、その後も気が向けば神社や紅魔館を訪れるようになっていた。
時折白黒からは夏の宴会に誘われるようにもなり、花の陽気に誘われて遠くまで足を延ばしてみれば閻魔にも説教をされた。
ついで新たな遊び場を見つけたが大蝦蟇に毎度毎度飲み込まれ、暇な天狗には今でもしつこく付きまとわれている。
それら全ては大妖精の気紛れから始まった。
そう考えていくと不満やらなにやら色々……言いたいことは山のように積み上がっていき、尽きることはない。
だけど、最も言いたいことを選んでチルノは何気ない体を装って口を開いた。
「ま、まあ、大妖精が何を考えていたかなんて興味はないけど、悪い気はしなかったわよ。ぁ、ありがとぅ……。」
その言葉を何気なくチルノは言ったと思っていたし、実際にもう少し風が強かったらチルノの耳にしか届かなかっただろう。
しかし、チルノの発言の直後、カラカラとグラスを掻き混ぜていた音は止まり、大妖精の緩やかな笑みも凍りついたように固まった。
「……えっ? あっ、だ、大妖精?」
ここは聞き流されるはずだったのに、予期せぬ沈黙の到来に辺りをキョロキョロと見回しながら恐る恐る話し掛けるチルノ。
時間か心臓のどちらかが止まったとしか思えない、最早『何気ない』では済まされない大妖精の反応にチルノはただおどおどするばかりだった。
おおよそ一分ほど完全凍結していた大妖精だが、何の前触れもなく身体を小刻みに揺らしはじめて――
「あーっははははは!!」
大口を開けて大爆笑する。
品行方正、容姿端麗、笑うときも決して歯を見せたりしない大妖精がこんな笑い方を見せたことに、チルノはしばらく呆気にとられていた。
それからハッと我に返って、慌てて眉を吊り上げる。
「な、なによっ! せっかくお礼を言ったのに!」
「ごめんごめん、すっごく嬉しくてさ。」
目尻に溜まった涙を拭いながら、笑いの間に言葉を挿む大妖精。
「全然説得力ないよっ!」
クツクツと普段の意地の悪い笑い方に戻りつつある大妖精に、チルノはすぐさま反駁した。
大妖精が泣くほどおかしいことだったかと思うと、やっぱり言うんじゃなかったと耳が熱くなる。
「ほんとにほんとさ。誤解させたお詫びとお礼の返事を兼ねて……じゃあ、ちょっとだけあたしについての話をチーちゃんに聞かせてあげる。」
上目遣いでどことなくささくれた感じの唸り声をあげているチルノに、諭すような穏やかな笑みを浮べて話す大妖精。
よくよく見ると白磁のような肌はいまだほんのりと上気していて、何度も擦ったのか目尻もちょっと赤らんでいた。
「ほ、ほんとに!?」
先ほどまでの不機嫌もどこ吹く風か、素っ頓狂な声をあげて身を乗り出すチルノ。
大妖精のそんな些細な様子に気が付く余裕など存在してはいなかった。
それも仕方がないといえば仕方がないことではある。
大妖精は謎が多いのだ。
ひょっこりと現れて、気が付いたらどの妖精からも大妖精と呼ばれ慕われていた。
どこに住んでいるのか、大妖精と呼ばれる以前は何をしていたのか、全くの不明なのである。
好奇心旺盛な妖精たちが大妖精本人から何度も聞き出そうとしたが、そういう話題になると極上の笑みと聞き上手のスキルを活用されてやんわりと避けられてしまっていた。
その大妖精がちょっとだけとはいえ身の上話をするというのだから、チルノじゃなくても妖精なら誰でも驚いたに違いない。
「うーんと、そうだねぇ……」
ジュースと蒸留酒を適当に入れたグラスを掻き回しながら、思案気に視線を上に向けている。
チルノは無意識に正座になっており、膝の上に作った握り拳に自然と力をこめていた。
「そうそう、チーちゃんはさ、あたしのことを何の妖精だと思ってる?」
上を向いたまま、天気の話題でもするくらいの唐突さと気軽さで大妖精はポツリと問い掛ける。
「何のって……大妖精は大妖精でしょ?」
てっきり大妖精が滔々と語ってくれるとばかり思っていたチルノは、あたふたと思いついたことをそのまま口にした。
そのチルノの返答に大妖精は唇を尖らせる。
「ブー、大ハズレ。それじゃあ、あたしは『他の妖精よりも力が大きい程度能力』を持つ妖精になっちゃうじゃない。そんな能力の妖精がいると思う?」
「う、……た、確かに変だね。」
赤点の生徒を指導するような表情で人差し指を立てたまま、ずいっと詰め寄ってくる大妖精。
それにチルノは気圧されるように頷くと、今度はニッコリと優しげに微笑んだ。
「そう、それは不自然。さっきも言ったけどあたしたちの能力は自然に則してないといけないわ。……だって、それが妖精なんだもの。」
「じゃあ、大妖精は何の妖精なのさ。」
この話の流れから生まれる当然の質問。
大妖精もその質問がチルノの口から出たことに満足そうに頷くと、ちょっとだけ考える仕草を見せて――
「それはヒ・ミ・ツ」
と、笑いながらあっさりとのたまった。
「ちぇっ、けちん坊。」
今度はチルノの方が唇を尖らせて呟く。
チルノ自身もそこまで聞けるとは期待していなかったが、話の展開からちょっと期待していたこともまた事実だった。
「それならさ、大妖精は何で大妖精なの?」
ヒミツといったら大妖精は絶対に口を開かない。
早々に気持ちを切り替えて、チルノは次の質問を口にした。
「うーん、それはなかなかに哲学的な質問だねぇー。」
「違う違う、何で大妖精は強い力を持ってるのかってこと。それについては大妖精の方があたいよりもよっぽど不自然じゃない。」
はぐらかすような態度をとる大妖精を逃がさないようにすかさず言葉を重ねるチルノ。
それに大妖精はニコニコと微笑みながら頷いた。
「そうだね、あたしの存在は不自然だ。じゃあ、なんで不自然なのかわかるかな?」
相変わらず何かの授業でもしているかのような口振りで大妖精はチルノに問い掛ける。
「……強い力を持っているからじゃないの?」
そんなやりとりがなんとなく落ち着かないチルノだが、段々と慣れてきたこともあり問い掛けにきちんと反応していた。
「半分正解。妖精に力なんて必要がない。天敵云々以前に死なないから、強い力を持つこと自体が不自然。それは紛れもない事実だからね。」
ここで言葉を切り、褒めるようにニコリとチルノに微笑みかける大妖精。
そして今度は表情を少し改めて、教鞭代わりに氷柱で宙を指した。
「そしてもうひとつは、あたしが『大妖精』と呼ばれるようになったということ。」
清々しいくらいにきっぱりと断言する大妖精だが、チルノはよくわからないといった顔で首を傾げる。
大妖精もわざと迂遠な言い方をしたのだろう、教え子の芳しくない反応を待っていたといわんばかりに大きく頷いた。
「つまり、『大妖精』という妖精は後天的なの。最初その妖精は『大妖精』なんて呼ばれていなかった。……だから不自然。」
首を傾げていたままだったチルノは大妖精の言葉にハッと首を持ち上げる。
そして目の前の妖精を頬を膨らまして、半眼で見据えた。
「さっきまで難しい言葉を並べてあたしたちは『不死』とか『不変』とか散々言ってたくせに……、アンタは自分が『成長した』とか『後で強くなった』とか言いたいわけ?」
表情に負けず憮然とした声色で問い掛けるチルノ。
それは今までの会話を全て引っ繰り返しかねない矛盾した言葉なのだから無理もない。
大妖精の言葉を借りるなら、妖精は最初から『いて』、最後まで『いた』ことが決定している故に不死なのである。
逆にいうならば、妖精は不死である限り絶対に成長しないし、無論、妖精が軽々と成長なんて出来はしない。
それこそ因果律に逆らい、時間を歪めることに等しい行為なのだから……。
「そう、だからあたしは不自然なの。」
だが、大妖精はチルノの言葉に実にあっさりと頷いた。
それも教え子の察しの良さに至極嬉しそうな表情を浮かべて。
◆ ◆ ◆
じりじりと熱を放っていた日は、赤みを帯びてきて湖をゆっくりと炎上させていく。
一向に晴れることのない霧はまるで火の粉のように二人の妖精の間を漂っていた。
熱を放ち終えた地面は、今度は風を吸い込んでひんやりと冷たくなっていく。
チルノの傍らに置かれた水の張った重箱は、斜陽の光を反射して慎ましく輝いていた。
「……うそつき」
ぼんやりと重箱を見つめたまま、チルノがぽつりと呟く。
大妖精は返事の代わりに氷柱でグラスを一回軽く叩いた。
氷柱もほとんど溶けており、涼やかというには少々鈍い音が響く。
「うやむやにされちゃってたけど、やっぱり大妖精だって『死について考えた』ってことでしょ?」
少し間を置いて、再びグラスの音がひとつ。
チルノは一人頷いて、視線を重箱に戻した。
大妖精が『大人になったお祝い』なんてわけのわからないことをいって持ってきたこの重箱も、今なら何となくその意味がわかる気がする。
自分自身だって孤独を感じていたのだ、大妖精も今まで同じだったに違いない。
静寂に押されるように、チルノは重箱を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「……もしかしてさ、大妖精はあたいに『大妖精』を継いで欲しいとか、そんなことを思っているの?」
何となく思いついただけで根拠はない。
だから、それ以上に言葉を紡ぐこともなく、相手の返事の待つ無言の間が訪れる。
重苦しい沈黙というわけではないが、時が経過するごとにチルノ自身が恥ずかしいことを言ったのではと不安になってきていた。
口から出た言葉は戻らず、何気ない空気は針のようにチクチクと痛い。
それにもかかわらず、大妖精からは一向に答えが返ってこなかった。
「ちょっと、大妖精! なんとか言いなさいよ。」
流石に耐え切れなくなったチルノは沈黙を保ったままの大妖精の方へ視線を上げる。
そこには肩を震わせて、何かを必死に堪えている大妖精の姿があった。
明らかな既視感を覚えるチルノ。
そして案の定、そのあとの大妖精の行動は――
「あーっははははは!!」
本日二度目の大妖精の爆笑であった……。
「チ、チーちゃんが、大妖精!? そんなバカな、それこそ幻想郷最大の事件になるよ。い、いや、その前に幻想郷最大のジョークだね。あっはははは!!!」
前のときよりも更に激しく、お腹を抱えて半分くらい蹲るように笑う大妖精。
下を向いているので笑い声はどこまでも高らかに響くが、顔はほとんど見えなかった。
「そ、そんなに笑うことないでしょっ!?」
大妖精の反応と、勢いに任せて余計なことを口走った自分自身の両方の要因で真っ赤に茹で上がるチルノ。
「だ、だってねぇ、妖精が妖精を継ぐなんて……人間の家業じゃあるまいし。」
自分で言ったことが面白かったのか、また大妖精は吹き出した。
「でも、あたいたちは不死とは限らないんだよ!? それは大妖精だってわかっているんでしょ?」
真っ赤な顔のまま、恥ずかしさを押し隠すためにチルノは反論を試みる。
大妖精も落ち着いてきたのか、呼吸を整えながらゆっくりと顔をあげた。
「だけど、チーちゃんに『大妖精』の座をあたしから譲ることはないね。これは断言していいよ。」
「何でそこまで断言するのさ!」
呼吸が整っても相変わらずな大妖精と、今度は違う要因で顔を真っ赤にするチルノ。
「それはヒ・ミ・ツ。……そうだね、チーちゃんが絶賛連敗中の大蝦蟇に勝てたらその理由を教えてあげる。」
落ち着き払った笑みを再装着しながら、大妖精は諭すような声色でチルノに優しく告げる。
「ホントに?」
「うん、本当。ついでにあたしの本名も教えてあげる。」
歯医者の帰りにおもちゃ屋に寄ってあげると言っている母親と同じトーンで続ける大妖精。
それにパッと顔を輝かせるチルノもチルノであった。
「ゼッタイに?」
「うん、絶対に。」
目をキラキラさせて確認するチルノと、優しい笑みで身を固める大妖精。
「ホントにホント?」
「うん、本当に本当。」
ちょっと懐疑的になって、もう一度念を押すチルノと、優しい笑みで完全武装する大妖精。
微塵も綻びを見せない大妖精の笑みに、逆にチルノの表情が更に懐疑的になる。
「うそでしょ?」
「うん、嘘だよ。」
大妖精はどこまでも優しい笑みを崩さず頷いた。
それにチルノはがっくりとうな垂れる。
「……大妖精はあたいのこと嫌いでしょ?」
質問というよりはこれも確認のニュアンスが強く、諦めたようにチルノは問い掛ける。
だが、大妖精は首を静かに横に振った。
「そんなことはないよ。でも……」
「でも?」
顔をあげて大妖精の方を向くチルノ。
大妖精は頬に手を当てて、しばしの時間言葉を選ぶと、見惚れるほど爽やかな笑顔を浮かべて、
「ついつい、からかいたくなるね。」
と軽やかに述べた。
「バカっ!」
チルノは反射的に叫んで、飛び立つ。
恥ずかしさとか怒りとか、照れとかお赤飯が美味しかったりとか、頭の中は色々な感情でごちゃごちゃになっていてよくわからなかった。
「チーちゃん、言い忘れてたんだけどさー」
そこに彼方から大妖精の声が響く。
追いかける気はないのだろう、チルノは無視するように飛ぶスピードを上げた。
ごちゃごちゃする頭の中を振り切るように速く速く飛んでいるはずなのに、それでも無意識に大妖精の声に耳を傾けてしまう。
……何を言い忘れてたんだろうか?
どうしても好奇心が鎌首をもたげてしまう。
しかし、待望していた大妖精の言葉は――
「今は蛙の産卵期だから、藻の扱いには気をつけるんだよー」
「うるさいなっ!」
だから大妖精は苦手なんだ……。
全力で叫び返して、チルノは今度こそ脇目もふらずに飛び去った。
◆ ◆ ◆
「ふぅ……チーちゃんはたまに鋭くなるから困りものだね。」
ひとり取り残された大妖精は軽く息を吐きながら、ぽつりと呟く。
まあ、今回は自分もしゃべり過ぎた。
思ったよりも減っていない酒瓶を指でつついて、何となく八つ当たりする。
それから先程までチルノのいたところに視線を向けた。
チルノの感情の高ぶりを示すように、大きな霜柱がいくつもできていた。
流石にちょっと最後はからからい過ぎたかもしれない。
少しばかりの反省を胸に視線をずらすと、霜柱が唯一発生していないところに水の張った重箱がひとつ安置されていた。
「チーちゃんは『大妖精』を継げないよ。」
そっと微笑みを浮かべて大妖精は呟く。
雑談会も主役の退場にて閉会。後片付けのためにグラスを地面に置くと
――カラン
とグラスを叩く音が湖畔に響いた。
チルノが作った氷柱がグラスの中を転がり回る。
大妖精が会話中一度も手放さず、ずっと掻き混ぜ続けられていた氷柱はほとんどが溶けてなくなっていた。
「だって、……ねえ?」
グラスの中の氷柱をまるで共犯者のように親しげに見つめて、大妖精はクスリと笑う。
視線の先にある氷柱、グラスの中で踊る溶けかけの氷柱は、
大妖精が片時も放さず握っていた部分だけ少しも溶けずに原型を留めていたのであった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
幻想郷にある妖怪の山の中腹に大きな池がある。
蓮の花々が淡色を湛えている、風光明媚な池。
霊験あらたかな神水が滾々と湧きいづる、神聖な池。
だが、幻想郷の者たちからは蛙がたくさんの棲む、大蝦蟇の池と呼ばれていた。
「っぷはぁ~~~」
その水面から蛙ではなく、突如チルノの顔が出現する。
岸にへばり付いたまま、肩で大きく呼吸を繰り返していた。
秋とはいえ日差しは高く、気温は茹だるように暑い。
一方で秋の気配が全くないというわけでもない。
風は徐々に冷気を帯び、水は我先にと寒気を帯びはじめる。
気温が高いとはいえ、この季節に水浴びをする勇者は幻想郷を見渡してもそうはいない。
「あんの大蝦蟇めぇーー!!」
悔しそうにチルノは岸辺を何度も叩く。
別にチルノが自ら進んで大蝦蟇の池に飛び込んだわけではなく、大蝦蟇に戦いを挑んで池に引き摺り込まれただけなのであった。
もっとも、池からすぐに這い上がらないで浸かっていられるのは、チルノが氷精だからに他ならないのであるが。
「これでついに50黒星ですかー。どうです? チルノさんとしては何か一区切りみたいなものはありますか?」
パシャパシャとシャッターを切りながら、文は実に楽しげに話し掛けてくる。
「そんなのあるわけないでしょ! 次こそは倒してやるんだから。」
「なるほど、不屈の精神でリベンジを新たに誓う……と。素晴らしいです。」
ニコニコと営業スマイルを浮べながら紙にペンを滑らせていく文。
(50連敗しても懲りずに連敗記録更新を目指す。)
……その紙の上には全く違う文章が書き込まれていた。
「そろそろ上がるからどいてちょうだい。」
岸上でしゃがんでインタビューを取っていた文に声を掛けて、漸く陸地に這い出るチルノ。
池の底から泳いできただけに、体中に藻が付着して全身が緑色に染まっていた。
「うわー、壮絶ですね……。」
先程のインタビューと比べて、わかりやすいくらいに距離を取ってシャッターを切りながら文は感想を述べる。
「なんか光合成できそうですよ?」
「嬉しくない。」
その様相は流石のおてんば娘であるチルノも、閉口してしまうほどであった。
「『藻の妖精、誕生の瞬間』って感じがします。」
「全然嬉しくない。」
嬉々として色々なアングルからファインダーを覗いていく文に、チルノは溜息を吐いてから、一度全身をくまなく見渡す。
服も腕も見事なほどに緑に染まっていて、目が普通に開いたことの方が不思議なくらいであった。
頭も重いから、おそらく髪の毛にも絡まっていることだろう。
「あっ……」
ぼんやりとそう考えていると、ファインダーを覗いていた文が何かに気がついたのか声を漏らす。
「何よ? 今度はどんな発見があったっていうの?」
背中を見ようと必死に首を回しながら、チルノは大分ぞんざいな調子で声を掛けた。
文のこんな態度は見慣れていたし、往々にしてどうでもよい発見だったりすることをチルノは熟知している。
実際、文の方も半ば以上独り言なのでチルノの反応を全く気にしていなかった。
「不思議ですねぇ、髪が緑色になっただけでなんとなくチルノさんが大妖精さんに似ているような気がします。緑髪の妖精なんて他にもたくさんいるんですけどねー。」
そう呟きながらカメラごと小首を傾げる文。
一方で、チルノはあからさまに顔を顰めた。
「それこそ冗談じゃないっ!!」
勿論文は事情を知らないが、今のチルノにとって『大妖精』は一番の禁句である。
文はキョトンとするくらいの大声で怒鳴ると、反射的に頭に乗っているはずの藻を引き剥がそうと手を伸ばす――が、
『今は蛙の産卵期だから、藻の扱いには気をつけるんだよー』
不意に大妖精の言葉が脳裏を過ぎった。
「…………………………」
伸ばしかけていた手を下ろし、池の方へ再び歩いていくチルノ。
池の底は藻が多いが、水面は鏡のように澄んでおり、ひょっこりと出てきたチルノの顔を綺麗に映し出した。
そこには日の光に照らされて、透き通るような緑色の髪の妖精が一人。
唇を噛み締めて不機嫌極まりない表情であったが、確かに大妖精の面差しと良く似ていた。
優しく、凛々しく、頼り甲斐があり、そこにいるだけで自然と妖精が集まってくる大妖精と、
嫌われ、煙たがられ、恐れられ、誰一人好んで声をかけてくることのない自分。
全く正反対だったと……昨日までは思っていた。
でも、実際は所々似ていて、それがチルノの胸をこそばゆくさせる。
あの優しくて意地悪く、綺麗で嘘吐きで、強くてやっぱり意地悪な、……大妖精。
こそばゆいのは嬉しいからなのか、不快からなのか、結局今になってもチルノにはわからなかった。
だから――
水面に映った妖精はゆっくりと髪に絡みついた藻を慎重に剥がす。
そして、優しい手つきで池の中に藻を差し込んだ。
差し込まれた手は波紋を描き、そこに映っていた緑髪の少女の像はゆっくりと揺れて消える。
それをチルノは無言で見つめて、
「あたいは嫌いだよ、あんなヤツ……。」
そう、ポツリと小さく呟いたのだった。
こういう大妖精もアリだと思います。チルノだし。
こういうちょっと不思議なお話もアリだと思います。
幻想郷ですし。