冬に雪が降りても、年が明けて世を見ても、竹林は変わらず緑のままだった。
迷いの竹林と俗称されている一帯は、幻想郷のほかの場所に比べても四季の変化が薄い。
筍が生えたり、陽射しに炙られてみたり、遠くから色づいた紅葉が飛んできたりなどとい
う部分を除けば、自分から変化することはほとんどない。せいぜい竹の花を咲かせるくら
いだが、それにしても稀なことだし、ここらの竹は不思議なことに花を咲かせた後も青々
としたまま伸びつづけるので、余計にそう感じるのかも知れない。
そんな、春先に筍目当てに来るのと、医者に用事がある者以外はほとんど立ち寄らない、
うら寂れた竹林を、人間の子供が一人だけで歩いている。
「…………」
齢は十を越えて、そろそろ頬に紅を差すような年頃の女の子だが、その表情は暗く、終
始俯き加減で、歩く足取りも重い。あまり目の前を見ていないのか、ときどき現れる竹に
ぶつかりそうになりながら、あてもなく獣道を辿っている。
―――彼女にしては、竹林に来た意味などない。
正月早々に父親と喧嘩して、そのほとぼりを冷ます為に外へ出てきただけだ。理由は本
当にどうでもいいものだった、と自分でも思っている。どうしてそんなことで喧嘩したの
かが分からなくて、思い出したくもなかった。
その足が自然と人の寄り付かない場所に向いたのは、そんな考えのせいだったのかも知
れない。親に見つかったらさっきの続きになるかもしれない。何より自分の中でも整理が
ついていない。だから、身を隠して自分を静める。
ただ、それでもこれだけ奥に踏み込む必要はない。
ふと顔を上げて、彼女はそれに気づいた。
「……はあ、なにやってんだろ」
戻ろう。
ちょうど行きと帰りとで、いい塩梅にほとぼりは冷めるだろう。あとは里の外れで空で
も眺めながら時間を潰していれば、向こうから探しに来てくれる。その後は……まあ、誰
が悪いわけでも無し、悪いようにはならないだろう。
明確にそう考えたわけではないが、それでも彼女は両親のことが好きだったし、両親も
娘のことを愛している。なれば、こんなことで仲が壊れるはずはない。謝って、笑って、
それで終わりだ―――
「あいたっ」
気が抜けたのか、竹の根に足を取られて転んでしまった。
「あはは……なにやってんだろ」
痛くはないが、何となく笑みが零れる。
ひゅう、と甲高い音を立てて風がゆるやかに竹の間を通り過ぎた。
もう、わだかまりはすっかり消えている。
ざあざあと笹の葉や竹がこすれ合う音が続く中、彼女は立ち上がろうとして、また転ぶ。
「あれ」
首を傾げながらまた立とうとするが、右足が何かに引っかかっていて上手く動かない。
靴を竹の根にでも引っ掛けたか、と彼女は体をよじって足元を見ようとする。こういう
とき、振袖は動き辛い。普通の服に着替えてから出て行けばよかっただろうか、などと考
えながらうつ伏せから仰向けへと体を転がし―――息を呑んだ。
引っかかっていたのではない。節くれだった細い指が、信じられないほどの強靭さで足
首まで絡みついていたのである。
「―――やだ、なにこれ」
声がか細く、ひゅうひゅうと出る。こんな声を聞くのは自分でも初めてだったが、何か
得体の知れない状態に怯え始めているのは、不思議と冷静なまでに実感できた。
がしがしと足を振り回して引きちぎろうとするが、それは決して剥がれることはなかっ
た。それどころか引き摺りあげるように力を増していき、それがさらに少女の背筋を気持
ち悪く逆撫でする。
どうにかして逃れようと、その手段を探そうと、少女は必死で周囲を見回し―――さら
に絶望を叩き込まれる。
「きゃあああああああ!!」
そのおぞましさに、とうとう悲鳴が上がった。
ざあざあと竹がこすれ合う音は、風のせいではなかった。
覆い被さるように天から伸びて落ちてくる、無数の手と手と手。それは竹の節をきしき
しと動かしながら、少女を手招いている。あるいは、喰らいつこうとしているのかも知れ
ない。少なくとも、長さも大きさも太さも全く違う全ての腕が、何かの意思で統一されて
動いていることは、子供心にも見て取れた。
それはよく見れば、竹や笹の茎や葉で出来ていたのだが、彼女にそこまで気づく余裕は
なかった。
妖怪、という言葉が、少女の中で浮かぶ。
最近は妖怪もあまり人を食べなくなったし、この辺りで妖怪が出ただの人が襲われて死
んだだの、という話は聞かないのだ。不思議なことに竹林へはあまり妖怪が近づかず、最
近は筍を取りに行くのも随分気楽なものになったらしい。だから、少女の中では妖怪に出
くわす危険性を忘れ捨てていた。
しかし、それは確率がゼロになったということではない。幻想郷においては妖怪の数の
方がはるかに多い以上、こんな風に突然襲われることもあって然るべきことだ。
そして、それに人間は決してかなわないということも、少女は良く知っていた。
一人では、決して助からない。
「うふふ、久しぶりに獲物がかかったわね」
気味悪く笑う甲高い声。突然降って来たそれに、少女はまた悲鳴を上げそうになった。
その悲鳴が形にならなかったのは、不意を突かれたのと、上でがさがさと揺れていた竹の
手が、一気に覆い被さってきたからだろう。もがく両手両足をつかみ、体を縛り上げる様
は、少女を蜘蛛の糸に捕まった昆虫の姿のように見せている。
「って、子供かぁ。ちょっと足りないかな。あ、でもおいしそうだしいいか」
声がぶつぶつ呟きながら、ようやく少女の視界のところまで降りてくる。その姿に、少
女はしばし呆然とした。その妖怪が、里を普通に歩いているような少女と全く変わらない
造形をしていたからだ。明るい緑をメインにしたスカートやブラウスの上にコートらしき
ものを引っ掛けているその姿は、おそらく一見しただけでは絶対に妖怪と気づかない。
彼女を妖怪だと示している唯一の特徴は、手や足から伸びている細長い竹の枝だろう。
それは周囲の竹全てと繋がっていて、魔力と神経を通し、あたかも体の一部のように竹を
支配下に置いている。
「……いい顔ねー。大丈夫よ、痛くしないから」
怯えた表情の少女に顔を近づけて、妖怪は意地悪くささやく。
「ちょっと精気を貰うだけ。干からびるかも知れないけどね」
けらけらと、笑いが響く。年頃の少女が笑うのと同じことだったが、少女にはその顔が
これ以上なく邪悪に見えた。
だから、少女は耐え切れずに目を閉じた。諦めた、と言い換えても通じるかも知れない。
何度となく暴れようとしても、指先一つ動かせなくなっている状況をひっくり返すことは
出来なかった。そのことが、抗う気力さえ縛り付けていく。
覚悟を決めたと見てか、妖怪は笑みを浮かべ、わざとらしくスカートやブラウスを調え
ると、そっと繭のように包まれた少女を抱き上げた。
「それじゃ、頂きます―――」
そうやって、神経を全て少女の方に向けたものだから、妖怪は気づくのに数秒を要した。
自分の末端が圧し折られる音と、そこから吹き荒れる痛覚に。
「ひぎっ!?」
びくん、と妖怪の体がはね、地面に転がる。同時に統率の取れていた竹の群れが一気に
解け、少女を取り落とす。どしゃ、と地面を叩く音が二つ、辺りに響いた。
「い、う、ああ、あああ……痛い、痛いよぉ……」
妖怪の方はぼろぼろと涙を流しながら身をよじっていた。まるで全身の痛覚を縫い針で
一斉につつかれたような痛みが、その身を苛んでいる。
先ほどとは全く違う、無様ともいえるその姿は、突然襲ってきた激痛が妖怪を直撃して
しまったからだろう。必死で荒い呼吸を繰り返して、痛みを外へ逃がそうとするその姿は、
少女の冷静さを取り戻すには十分だった。
けれど、少女はその場から走り去ろうとしなかった。
尻餅をついたまま、唖然として妖怪を見つめている。正確には、妖怪がいた方向だろう
か。視線は妖怪にあっておらず、そこから上を通り過ぎるように伸びている。
「…………やれやれ、懲りないねお前も」
そこには、一人の少女がいた。手の中で竹の枝を弄びながら、しかしその視線は妖怪か
ら外れていない。年のころは、少女よりも背が高く、大人びて見えることからなんとなく
推測は出来る。三つか四つ、年上といったところだろう。
「ああ、覚えておいた方がいい。竹を操る妖怪――万年竹の類は操ってる枝を折られると、
ものすごく痛がって逃げるんだ。昔からある対処法だよ」
彼女は、視線を少女に向けると、天気の話でもするかのように告げた。
ただ、少女を釘付けにしていたのはまったく別の要因である。
まず目に入って衝撃的だったのは、地面につきそうなほど長い銀髪と、雪のように白い
肌、そして赤い瞳だった。里でも見たことがないその姿は、昔話で聞いたことのある白子
そのままの姿だった。
しかし、そこに脆さや儚さは感じられない。むしろしなやかで力強い印象を、その顔や
立ち姿からは受ける。浮かんでいる笑みには影や病といったような印象は欠片もなく、ど
こか不敵な感触さえ覚えた。
「あ、あんた…………なんで」
「前にも言ったろ。ここら一帯は私の結界だ。誰かが入り込んだらすぐ気づく。……で、
こっちが見てるそばで人が食われるのは後味が悪いのさ」
まだ悶えている妖怪へつまらなさそうに言い捨てると、その銀髪の姿はへし折った竹を
投げ捨て、少女のもとまで寄ってきた。
近くで見ると、白い少女の服装が良く観察できる。ブラウスとやや大き目のズボンをは
いている。そのいでたちはそれほど奇妙ではなかったが、そこにつけられた意匠や髪を結
んでいるリボンは、よく見るとなんとお札だった。
妖術使いだろうか、と少女が考え込んでいると、そっと雪のような手が差し伸べられる。
「あ―――」
「怪我はないみたいね」
その手を取ると、意外に強い力で引っ張り上げられ、少女はようやく立ち上がることが
出来た。あちこちについた泥を軽く払われて、少女は思わず白い少女の顔を見上げる。
少女から見ても美人と思えるような面立ちが、すぐそばにある。それは面倒くさそうな
無表情だったが、あまりにも優しく見えたので、場違いにも少女は警戒を解いてしまった。
「ちょ……っと、無視するなー!!」
そこに怒声が飛んできたので、また体をこわばらせることになった。
一緒に振り向くと、ようやく動けるようになったのか、先ほどの妖怪が顔を真っ赤にし
ながら立ち上がっていた。いかにも怒り心頭といった様子で、ばたばたと両手両足を振り
回して暴れている。
白い少女は冷ややかな視線を送ると、同じく冷ややかな言葉を送る。
「なんだ。帰ったんじゃないのかよ。帰れ」
「うわ酷い。そっちが手出してきたくせに!!」
「そりゃお互い様だ。ここは私の縄張りなんだから他所でやれ。ここで何かされると結界
が反応して煩いんだよ。まったく、枝折られたんだからこの前みたいにとっとと尻尾巻い
て逃げろよ。そんで寝てろバカ」
「うわ、自己中心的過ぎる!? ……ああもういいわよ、とりあえずあんたからだ!!」
「……帰れって言っただろ。どっちが自己中だ」
呆れ顔で見つめるが、妖怪は構わずまた四肢を竹と接続して、操り始めた。
ざああ―――
通り雨のようなざわめき。死んだように静まっていた竹は、再び主を得てうごめきだし
た。あるものは手に、あるものは槍にと、先ほどよりも鮮明に敵意を剥き出しにした姿と
なり、ざわざわと妖怪の下僕が数を増やしていく。
強烈な妖気の放射に、少女は息を呑んだ。
血の気が引くような重圧。それは、人間の持つ根源的な畏怖―――
「……ちょっと下がってな。たぶん熱いよ」
それを、先ほどと何ら変わらぬ口調で、白い少女は受け流した。
え、と声を洩らしてかすかに少女は戸惑ったが、やがて言われたとおりにする。
少しだけ遠ざかった世界に、ざく、と足音が一つ。白い少女が前に出たのだ。
「ほほう、これだけの数を相手にして前に出るなんていい度胸ね! この前は油断したけ
ど今度はそうは行かないわよ。すぐ八つ裂きにして―――」
「百年も生きてない竹のバケモノの分際で調子こいてんじゃねえぞ、馬鹿」
「なんですってえええええ!? あんたこそ人間でしょうが!!」
信じられないことに、彼女は妖怪に対して全く臆していなかった。少女がときどき薄め
で垣間見るその背中には、負の感情は全く見られない。むしろからかうような口調で、妖
怪を挑発してすらいる。
「……でも、まあ」
もう一歩、白い少女が前に出る。
「……ガキをしつけるのも、“年長者”の勤めよね」
ぼそりと呟いて、腕をゆっくりと持ち上げた。体は半身に、安定感のある立ち姿となる。
まるで鷹匠のようなその姿に、少女は不思議な安堵感を覚えていた。
―――何故だか知らないけれども、この人はこの妖怪には“絶対に負けない”。
そんな直感があった。
「な、なにを……」
「安心しな、一瞬だ。その後は火傷した頭で反省しろ」
そして、持ち上げた腕が発火した。
眩い閃光が竹林を走り抜ける。
その輝きに、少女は思わず目を固く閉じて、さらに両腕でかばった。
そこまでしなければ遮れないほどの煌めき。
「―――ッ!?」
それは妖怪も同じだったが、荒事慣れしているのか異変が起きたと同時に、自らの増え
た「手足」へ瞬時に指令を送っている。
命令は単純。ただ襲い、貫け。
一瞬感じた攻撃の気配に反応しての、反射的な一斉攻撃。
―――それが、あっさりと焼き払われた。
何かが爆発するような轟音。
そのことにびっくりして少女が目を開けると、なんと竹林の風景が一変している。
白い少女を起点に、妖怪の所まで、扇状に竹林が根こそぎ焼き潰されていた。真っ黒に
染まった地面と、飛び散って燻っている竹が、彼女が放った威力を暗示している。襲い掛
かった妖怪の「手足」は、もちろん跡形もなかった。
「な、なによこれ……こんなの聞いてない、知らない……」
呆然と、焼け跡を前にして妖怪が呟く。もはや痛覚すら届かない。彼女の手駒は、完全
に滅ぼされてしまい、通した魔力も神経も、等しく炎の中に消えてしまっている。それは
つまるところ、痛みを感じる間もなく焼き殺されたようなものだ。それほどの熱量。
そしてそれを操る、白い少女の力量。
「そりゃそうだ。最初は思いっきりお前の“手足”へし折って気絶させてやっただけだし、
こんなの使うまでもなかった。知らなかったか? 竹林には火の鳥が住む―――」
彼女は言葉を切ると、再び腕が持ち上げる。
ふと、風を感じた。常ならぬ空気の流れ。それは彼女の掲げる腕へと集い、同時に大気
を加熱させていく。その圧力に、少女は思わず一歩下がってしまう。だが、今度は目を開
いてその光景を見つめている。恐怖心よりも眼を焼く光よりも強く、少女はその先に何が
あるのかを知りたかった。
「あ、あんたいったい何者よ!? 本当に人間なの!?」
「別にたいしたものじゃあない。―――健康マニアの」
そして、少女は今度こそ見た。
風が巻きつき、火の粉が踊る、彼女の腕。
そこに、燃え盛る巨大な翼が降り立つ、その光景を。
―――フェニックス。
「焼き鳥屋サンよ!!」
荒れ狂う転生の炎が、再び竹林を焼き払う。召喚された膨大な妖力は全て熱量へと転じ、
妖怪もろとも竹林を吹き飛ばしていった。
冷たい、冬の風が吹き抜ける。
後に残ったものは、かすかな熱と、黒く焼け焦げた土肌と竹だけだった。
「……死んだの?」
「いや、妖怪はこのくらいじゃ死なない。そして普通は殺せない」
少女が不安げな声で聞くと、即座に否定が返ってきた。
それを立証するように―――ぼこり、と地面が盛り上がって、何かが姿を見せる。
「ぶはっ!!」
なんと先ほどの妖怪である。ほとんど全身を真っ黒に焦がしているが、生きている。
ただ、その体から発される妖気はほとんど失われ、酷く弱々しいものである。
「…………う」
妖怪は、二名分の視線を感じると、小さくうめき、
「お、覚えてなさい!!」
そんなことを言い捨てて、風のようにその場を逃げ去っていった。呼び止める暇も、追
うような理由もなかった。
白い少女はただそれをどうでもよさそうな顔で見送り―――
「妹紅」
「え?」
「ふじわらの、もこう。私の名前だよ。そういえばすっかり忘れてた」
そういって、藤原妹紅は少女に微笑みかけた。
まるで、先ほどの闘いが何でもないことだった、というように。
―――ようやく、終わった。
その実感が、今さらのように少女の中を駆け抜けていく。忘れていた肌寒い風も、あち
こちを打った痛みも戻ってきて、わずかに苦痛を感じる。……感じている。
助かった。
そのことをようやく心も体も理解した時、少女は妹紅に抱きついていた。
溜め込んでいたありったけの情動を込めて、彼女は泣いていた。
かすかにしゃくりあげる声。
ごめんなさい、という誰に向けられているのかわからない謝罪の声。
少女にしてみれば両親に対する想いの現れだったかも知れないが、少女の事情を知らな
い妹紅にはわからない。
ただ、妹紅は少し困惑したような顔を見せたものの、その後は笑みを浮かべて、そっと
少女の頭を撫でていた。彼女が落ち着くまで、ずっと。
§
「いいか? もうひとりでこんなところを出歩くんじゃないぞ? 最近大人しいったって、
妖怪が物騒なことには変わりないんだから」
ひとしきり泣いてすっきりした少女は、その言葉に深く頷いた。
竹林を出ると、目の前にはまだ雪を残す広い草原と、ゆらゆらと伸びている茶色の道が
開けていた。その遠く先に見えるのは、少女が住んでいる人間の里。時間は昼を下ったと
ころだろうか。空の太陽は、冬の日和には珍しく暖かい。
その道を、妹紅は少女を伴ってのんびりと歩いている。
遠近法を巧みに駆使した絵画のような風景だが、これは現実のものだ。そんなに広くは
ない幻想郷だが、こうした風景があちこちに在るせいか、まるで別の世界か、油絵の中に
入り込んだような気分になる。外の世界ではとうに幻想になった、広大な色彩。
少女はかすかに赤らんだ目で、その透明なキャンバスを見つめている。その足取りは少
し重いが、妹紅は気にせず歩調を合わせている。先ほどの警句から、何も言葉にしていな
いままで。
「……怒ってるかな」
「ん?」
ぽつりとこぼれた少女の呟きを、唐突に妹紅が拾い上げた。別に、少女へ関心がなかっ
たわけでない。ただ自分から何かを話すことはほとんどないから、必然的に他人の話を聞
くような形で対話を成立させることになるからだ。ある意味では、少女から何か話し始め
るのを待っていたとも言える。
「その……お父さんやお母さん、お兄ちゃんも」
ため息のような声で、自分の家族を並べていく少女。しかしそこに怒られることを恐れ
るような感情はなく、ただただ透明な言葉となって、風に流れていった。
「怒るさ。大事な家族なんだから」
あるかないか程度の微笑が、妹紅の顔に浮かんだ。風に流れる雲のように自然に、そっ
と手を持ち上げると、少女の頭を軽く撫でる。滑らかな光を帯びた、栗色のセミロング。
彼女の母親が丁寧に手入れをしてくれていることが、容易に感じられる感触だった。
「……うん、怒られてくる。その後で、ちゃんと仲直りするね」
「ん。それでいいさ」
妹紅は軽く頷くと、ふと何かに気が付いたように、随分と近づいた里を指さした。
「あれ、お前の親御さんじゃないか?」
「―――あ」
その指の先には、服の裾を乱して走り回っている二人の壮年の男女の姿がある。
なんとなく、母親の方は少女と面影が似ていた。妹紅が気づいたのはそのためだ。
「…………ええっと」
少女は少し躊躇うと、妹紅を見上げた。あまりにも早く再開が訪れたので、戸惑ってい
るように見える。このまま、行ってしまっていいのだろうか。それとも―――
「ほら、行ってきな」
かすかに迷う少女へ、妹紅はそう囁いた。
最後に軽く頭を撫でて、背中を押してやる。
「……うん、ありがとうお姉さん。じゃあ、行ってくる」
その勢いに載せて、少女は一気に駆け出した。
「お父さん、お母さん!!」
大きな声で呼びかけると、動きを止めた両親に突っ込んで、強く強く抱きしめた。
―――ごめんなさい。
その呟きを妹紅は聞き取って、くるりと背を向けた。後は、見なくても分かるとでもい
うように。そしてそれは実際そのとおりで、後ろから無事に娘を見つけられた両親が、大
きな声で喜んでいるのが聞こえている。勝手に家を出た娘を怒ることなどすっかり忘れて
しまったらしい。それだけ、本人もばつが悪かったのかも知れない。
それを記憶にとどめながら、妹紅は微笑を浮かべ―――
「いいのか、行かなくて」
呼び止められ、その足を止めた。
苦笑しながら振り向くと、そこには見慣れた姿がある。
青を混ぜた鮮やかな銀色の髪に、大きなレースを裾に刻んだスカートと、弁当箱(こう
いうと彼女は怒るが)のような帽子。知性を宿しつつも厳つさのないその容貌は、妹紅と
同じく微笑を浮かべている。
上白沢慧音。白澤をその身に宿す、里の守人にして幻想郷の歴史家。
妹紅とは、彼女が幻想郷を訪れて間もない頃からの旧知だった。
「ああいうところに居合わせるのは慣れてないんだ」
「そうか、相変わらずだなあ。……ありがとう、また色々と助かった」
静かに頭を下げて礼を言う慧音に、妹紅は何故か視線をはずした。
「……気が向いただけだよ。いつもじゃない」
「それでもさ」
竹林を訪れる人間で、彼女に助けられなかったものはいない。
そのことを慧音はよく知っていた。
「私はあまり里を離れられないからな。前は、それで護れぬ命も多かった」
視線を上げ、遠くを見るような表情で、慧音は長く続く道を、その先の竹林を見ていた。
ただ、実際に見ているのはその風景ではなく、過去のことなのだろう。
「そりゃ昔の話だろ? 私は知らないが、まだ妖怪が元気だった時代の」
「それもそうだったが、医者に困ることもあったからな。お前が道案内してくれているよ
うだから、里の人間も助かっているよ」
幻想郷に住む人間にとって、一番の大敵は妖怪だが、二番目は病気だ。体が丈夫だった
り薬が十分にあればまだいいが、もし不作が重なって体力が落ちたり、薬が足りなくなっ
たり、普通の薬が効かない病気に罹ったのであれば、その人間の助かる確率は妖怪に襲わ
れたときよりも低くなる。
そういった不慮の死が減少し、里が安定した人口を保ちながら緩やかに発展できている
のは、最近から里に出入りするようになり、竹林の奥に医院を開いている薬屋のおかげだ。
妹紅もよく知っているその薬師は、医師としても遜色ない腕を持ち、どんな病気でもたち
どころに治してしまうと、里では評判になっている。
「……別に、それだってたまたま行き会ったときだけだよ。慣れてるやつなら迷わないで
いけるしね。それじゃ」
「おいおい、気が早いな」
私の話は終わりだ、といわんばかりに立ち去ろうとした妹紅だが、さりげなく慧音に引
き止められた。別段無視してもよかったが、足を止めたのは相手が他ならぬ慧音だからだ。
少なくとも、引き止めるのを無下にするほど妹紅は不義理ではなかった。
「ん、何か用? 話? お茶なら付き合うけど」
「話か。そういえば、稗田の娘がお前に興味を持っていたぞ? 私の話を聞いてから、ど
うも気になってしょうがないらしくてな。あとで取材したいとか何とか」
「……あー、健康マニアの焼き鳥屋、とでも言っといて。好きじゃないんだそういうの」
「そんなこと言ったら、あの娘は本当にそう書くぞ?」
「だったら屋台でも引くか。たぶん夜雀が因縁つけてくるだろうけどさ」
たまらず、慧音は吹き出してしまった。妹紅の顔があまりにも本気に見えたのと、屋台
を引きながら抗議しに飛んでくるであろう、夜雀の姿をついつい想像してしまったからだ。
「やれやれ……少なくとも悪くは書かんだろうし、一度会ってみたらどうだ?」
「また今度ね。今日はそれよりお茶が怖い。……ちと家にも戻りづらいし」
「む……何かやったのか?」
「あの娘―――えーと、しまった名前聞き忘れた」
「皐月のことか。糸屋の源五郎の愛娘だ」
「ああ、どおりで可愛いわけだ。ありゃ将来目で殺せるようになるね。……で、その娘さ
ん助けるときにちょいと血の気が多い妖怪とゴロ巻いてね。まああんな若造に負けること
は私が死んでもありえないけど、寝込みを襲われたら面倒だからさ。ほとぼり冷ましに」
「ああ、私の家に泊まるか。それならかまわん。かまわんが―――」
慧音はそこで考え込むようなそぶりを見せた。いや、実際に考えているのかもしれない。
ともあれ、別段どちらもそれぞれの家に泊ること自体がよくあることなので、こうして躊
躇うのは珍しいと言えた。
「問題あるなら、別のあて探すけど。神社とか」
「確かにあそこは賽銭入れれば泊めてくれそうだがな。別段問題はないんだ。ないんだが、
今はちょっと客人が来ていてな」
「お客さんかい? 私は気にしないけど……あ、向こうさんが気にするかな」
「いや、私も向こうも気にしないとは思うが、むしろお前の方が気にするかも知れない」
「私?」
どうにも歯切れが悪い。
いつもの慧音らしからぬ様子に、妹紅はかすかに眉を上げた。どうにも不思議―――は
幻想郷では当たり前なのであまり意味のない修飾だが、そんな客人を迎えているようだっ
た。気難しいか、単純に付き合いづらそうな人物を妹紅はイメージする。もちろん、その
程度で妹紅は困るはずもない。人との付き合い方や人生経験では、たいてい妹紅のほうが
上になる。そういった手合いの扱い方も知っているのだ。
だが、
―――早めに退散するかね。
あまり慧音を困らせてもいけない。そう思った妹紅は口を開こうとして、
「誰が、ややこしくするのでしょうか?」
凛、とした涼やかな言葉に遮られた。聞いただけで背筋が伸びるような、そのくせ柔ら
かい口調の声。飛んできた位置は―――慧音の後ろ側。
「あ、いや、そういうわけではなくて」
「別に私は誰が来ても迷惑はしませんよ」
ざっと見た限りでは、小柄な少女といった印象を妹紅は覚えた。だがどことなく雰囲気
が違う。というより、存在しているだけで何かが変わって行っているような、奇妙な空気
がその場には漂っている。服装のせい、もあるかも知れない。部分部分からはゆったりし
た印象を受けるものの、総合的には儀礼的な硬さを纏っている。
その正体は、彼女の口から語られた。
「初めまして、四季映姫・ヤマザナドゥと申します。幻想郷において裁判長を生業とさせ
て頂いております。この度は休暇をとって、上白沢さんのお宅にお邪魔させて頂いている
ところなのですよ」
柔和な笑みを浮かべ、映姫は挨拶を口にすると、軽く一礼。
反射的に妹紅も会釈を返した。ややぎこちなくなったのは、状況と意識がうまくかみ合
っていないからであろう。やや遅れて、慧音のどこか渋るようなそぶりと、目の前にいる
地獄の裁判官がようやく噛み合って、妹紅に一つの言葉を思い出させた。
―――閻魔。
そういえば、何度か慧音の口に上った記憶がある。
だが、こうして実際に会うのは初めてだった。
「藤原妹紅さん、ですね? お話はかねがね聞いております。ぜひ一度、お話したかった
ところなのです。良ければ、お付き合い頂けますか?」
§
ずず、と湯飲みに口をつけて、なんとなく間抜けな音だな、と場違いなことを妹紅は考
えた。もちろんこんなことは普段から考えてなどいない。一種、現実逃避のようなものだ。
結局、慧音の家に厄介になることになってしまった。その経緯については良くわからな
いが、四季映姫なる人物がてきぱきと決めてしまったせいかも知れない。正直、妹紅には
記憶している余裕が無かったのであまり明確には思い出せなかった。
卓袱台を挟んだ目の前には、清楚なしぐさでお茶を頂いている閻魔様がいる。もちろん
正座して背筋も伸びている。ただそれだけの格好だというのに、妹紅はその姿に色気さえ
覚えるのが不思議だった。
「……ちっちゃいのになあ」
「何か言いました?」
「ああいやなんでも」
―――閻魔イヤーは地獄耳。
うかつな発言は命にかかわると、妹紅は肝に銘じた。
「お待たせした」
三人分のお茶を用意して、茶菓子も準備した慧音がようやく席に着いた。
ちなみに茶は玉露。どこぞの巫女が聞いたら憤死しそうな贅沢ぶりだった。
「……そういえば、なんで慧音の家に閻魔様が?」
とりあえず会話の糸口として、妹紅は疑問をいくつかぶつけてみることにした。
休暇でこっちに来たのは分かる。まあ羽を伸ばすには地獄より万倍いいだろう。水は美
味いし景色は綺麗だ。ところにより温泉もある。
それに比べると、地獄にあるのはたぶん、血の池と針山と油風呂。
休暇を取ったとしてもむしろ殺伐とした気分になりそうな印象があった。
「……私の家は彼岸の方にありますから、ここまでいちいち通うのが大変なのですよ。で
すから休暇を頂いている間は、色々な方のところでお世話になっているのです。特に慧音
さんは、いつも快く承諾してくださるので助かっています」
確かに、地獄の裁判長を泊めようという酔狂な人間や妖怪は少ないだろう。閻魔は怖い
ものと相場が決まっているわけだから、わざわざその怖いものを家に入れて歓待しようと
は―――
「……あれ。泊めた方がいいような気もする。ほら、善行って感じで」
「そうですね。誰かを助けることは常に善行の基本です。ですが私も立場上、色々と振る
舞いによる影響が大きいので、普通の方の家でお世話になることはできないのですよ。も
し泊めてくださった方に悪い影響が出てしまったら、それこそ顔向けが出来ません」
「だから、大体私が請け負っているんだよ。私なら、閻魔様が来ても問題はない立場にい
るし、家も何人か泊められる程度には広い」
苦笑する映姫に続いて、慧音がそんなことを妹紅に教えてくれた。
確かに、里の代表者、というか守護者みたいな立場にいる慧音であれば、閻魔様が尋ね
てきても口さがなく言われることはないだろう。むしろ尋ねて来ては世話になることで、
それは逆説的に慧音が人格者であることの証明にもなり、ますます信頼は強固になる。
やや打算的だが、結果として誰かに不利益を被らせることはない。
「……大変だね。裁判長も」
「ええ。ですが、だからこそ誇りを持って仕事をしております」
柔和な笑みで、映姫は頷いた。この表情を見ている限りでは、怖いという印象は微塵も
ない。むしろ妹紅から見ても魅力的に見える女性だ。年が若すぎるような気もするが。
「それでまあ、大体予想はつくけど。どこで羽根伸ばしてるの?」
「……妹紅。それはちょっと失礼じゃないか?」
慧音がややとがめるような口調で言ったが、映姫はやんわりと慧音を制止して、相変わ
らずの笑みで答える。
「ああ、いえ。たぶんご想像の通りですよ。散歩したり、美味しいものを食べたり、温泉
で疲れをとったりもします。後は……道行く人や妖怪を捕まえて説教したり」
―――後半が予想外だった。
「……あー、説教、趣味なのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……でも基本的に好きでやってますね」
筋金入りだった。
「……映姫様。好きでやってたんですか。私はてっきり仕事の一環かと」
「慧音さんまでそんなことを……これでも公私は区別しているんですよ? 休むべきとき
にはちゃんと休まないと、良い仕事は出来ませんから。説教はまあ、その、癖みたいなも
のです。罪を背負っている人がいたりするとついつい」
「……趣味だね。間違いない」
照れるように笑う映姫に、妹紅は呆れ顔をしていた。
いやまあ、確かに裁判長という職にはぴったりあつらえ向きかも知れないが。
その後は他愛もない話がいくつか続いて、里の近況や最近の地獄の様子などが話の種に
上げられていっている。妹紅はそのあいだ聞き役に回って、ただ茶をすすっていた。元々
そんなに会話が上手いわけではないので、自分に話が振られない限りはくちばしを挟まな
い心算だ。
ただそれも、唐突に映姫が顔を引き締め、妹紅に視線を向けることで終わる。
「さて……藤原さん?」
「妹紅でいいよ。何でしょ」
「貴女は死なないお人だとか」
「ん……まあ、そうだね」
何気なく、慧音の方をちらりと見るが、彼女は僅かに首を振った。
「……なるほど、閻魔様は総てお見通しってことか」
肩をすくめる。
映姫は静かに微笑んだまま、涼やかな声で言葉を紡ぐ。
まるで心の奥底に染みこむような、沈みこむような、言葉。
「生きているのに死んでいる。死んでいるのに生きている。この相反する現象を貴女はど
う捉えていますか?」
「え?」
「……生がなければ死はなく、逆に死がなければ生はない。この二つの概念は、常に対と
なって森羅万象に宿っているのです」
茶飲み話にしては定規がでかすぎないだろうか。
思わず、妹紅はそんな感想を抱いていた。
禅問答の一種だろうか、とさえも思った。
「生と死は同時に発生し表裏の関係を成しています。死から生は生まれ、生は死して新た
な生を生む。輪廻転生はもっと複雑ですが、基本的にこの二極が朝と夜のように繰り返さ
れているわけです。これはご存知ですよね、貴女なら」
「……それは、まあ」
「……付け加えるならば、生きるということはそれだけですでに多くの罪を重ねているの
です。長く生きれば生きるほど、その罪は降り積もってゆきます」
「―――や、ちょっと、その、なんだ、待て。いきなり喧嘩売られる覚えも、説教される
謂れもない、と思うんだけど、私」
さすがにいきなりこれはたまらないと、妹紅が声を上げるが、映姫はまったく気にせず
に話を続けている。その様子を見ながら、慧音は新しい玉露を用立てながら苦笑した。
「諦めて話を聞いたほうがいい。映姫様を言い負かせる者など幻想郷には居らぬ」
「……失礼な。私は正論を言っているだけですよ。真実と正義は究極でなくてはなりませ
んから、法をつかさどる私がそれを遵守するのは至極当然の義務です」
「……あー、うん。まあ諦めるとして。とりあえず本題に入って欲しいんだけど。説教と
かあまり好きじゃないんだよ」
ことり、と静かに湯飲みが並べられ、卓袱台の様相は世間話をしていたときとまったく
同じになる。違うのは、話の内容だけだ。
「苦痛に耐えるのも時には善行となります。例えば有難いお話を聞くときの眠気や足の痺
れも、耐えることができるなら功徳です。……そうですね。はっきり言ってしまえば貴女
は少し、長生きが過ぎます。先ほども言いましたように、生きることはそれ自体が罪とな
り、ゆえに相応の功徳を積む必要が出てくるのです。特に不老と長生、あるいは不死を目
指す仙人であれば、それは膨大なものとなります。こちらから何度か刺客を送るのも、正
しく功徳を積んでいるか、修行を怠っていないかを確認するための大切な仕事です。生を
より長く、より若く過ごすという欲求は、人間の持つ暗い部分と引き合えば無限大に罪と
悪意を増やすこととなります。そのための選別、というわけなのですよ。天人まで生きた
まま至れる人間はごくわずか、完全に欲を掌握し、受け流すことのできる人間だけです。
それ以外の人間―――特に欲深い者が不老や長生を手にしようとすれば、それは他者にと
って害となります。このことは貴女の方がよく知っていると思いますが」
「長い。……まあ、時の権力者が不老不死求めてろくなことしなかった、ってのは物語で
も現実でもあったこと、ってのは否定しないよ。その後もろくでもないことになった、っ
ていうのもね。文字通り、生きる者は普通に生を全うすべきなのさ。その方が楽で、穏や
かに生きられる。私も時々そう思うよ。自分に対してね―――もっと楽に生きられる道が
あったんじゃないのか、って」
やはり長くなった言葉に顔をしかめつつも、妹紅は聞き流したりはしていないようで、
きちんと答えを返している。
それは、ある意味では自省の言葉だろうか。過去の自分の行いを、千年前から掘り出し
て眺めているような顔で、妹紅は映姫の顔をじっと見つめていた。
「ではなぜ、その楽な道を選ばなかったのです? 言いづらいのであれば、こちらが勝手
に見せてもらいますが」
「ああ、そういや閻魔だし、鏡があるか。でも勘弁。自分で言うよ。余計なことまで覗か
れたくはないしね」
閻魔の持つ鏡はその人物が今まで送ってきた人生すべてを映し出し、嘘を看破するとい
う。逆に言えば、それは使われた者のプライバシーを完全に破壊されるということでもあ
る。誰でもいい気はしない。それなら、自分から包み隠さず話した方がまだマシだろう。
「では、お話し願えますか?」
「……ああ。……結局、説教になるのか。やっぱり趣味でしょ」
「いいえ、この程度は説教の内にも入りませんよ。ただの世間話と、私の“興味”です」
興味、という言葉に妹紅は思わず目を丸くした。慧音も何かこの世ならざるものを見た
ような表情で振り向いている。それほどまでに、目の前の比類なき裁判長から飛び出た言
葉は強烈に意外だった。例えるなら敗訴から一転逆転勝訴した直後に裁判所が爆発したよ
うな衝撃だろうか。
「……いけませんか? 私はなぜ貴女が天人でもないのに不死を得て、仙人としての修行
をしていないのかを知りたいだけです」
憮然として、映姫が湯飲みを煽る。まだ熱かったのか、飲み終わった後には少し涙目に
なっていた。その姿に、妹紅は場違いにも親近感とか和みとか、そんな柔らかい印象を覚
えてしまった。実際は鉄よりも硬い法の番人だというのに。
―――でも、同じ幻想郷に生きてるんだよな。
ふと妹紅は、そんなことを考えた。人間であれ妖怪であれ目の前の閻魔であれ、ここに
在って生きていることには変わりない。どうでもいいことだったが、だが大事なことのよ
うな気がした。
そんな妹紅の心境を知ってか知らずか、映姫の話は続いている。
「少なくとも、私の知っている中では仙人として修行もせず、天人として生きることもな
く、不老不死を得て人間のままでいる人間などいないのですよ。ほとんどは妖怪となるか、
仙人のような変わり者となるか、です。でも貴女は、まるで普通の人と変わりがない」
そこで一息つくと、お茶菓子を一口食べる。まるで、妹紅自身に問いの答えを出させよ
うとするかのような間の空け方だった。その間に、三杯目のお茶が淹れられていた。
「……どんな形であれ、不老不死を得たものは普通の人間の範疇には納まらない。少々言
い方は悪いですが、どこかしら歪むものです。流れぬ水が澱むように、死に向かわない生
はいびつになるのですよ。でも、貴女は何れともその在り方を違えている―――」
「……私に私が私である理由を答えろ、ってことかよ。そんな哲学的な……そういうのは
プラトンかソクラテスかアリストテレスにでも聞けよ。デカルトやカントでもいい。最澄
や空海も悪くない―――そっちにゃ、そういうのがごろごろしてるんじゃないのか?」
「いませんよ。転生してるんですから。……よしんば居たとしても、他人の言葉で自分を
語ることはできない。どんな方法を使うにしても、貴女が貴女である理由を語れるのは貴
女しかいませんよ。貴女の人生は貴女しかすべてを知り得ないものなのですから」
「てことは、純粋に私の在り方に興味があるってことか……参ったな。人に誇れるような
代物じゃないんだけど」
「それはどういう意味です」
「私が不死の身を得るに至った動機は―――復讐だよ」
ぽつり、とつぶやいた言葉に、映姫はかすかに目を開いた。
意外だったのだろうか、と思いつつ、妹紅は淡々と言葉を続けた。何故だか知らないが、
そうしないといけない気がした。自分の中に焦げ付いている何かを刺激しないために。
「千年近く前のこと。都が飛鳥にあった時の話だ。
―――私は、父親をこれ以上ないほどに愚弄された」
相手の名を、妹紅はあえて出さなかった。その辺りを触れると、それこそ一日中かかる
ほどに―――恨み辛みも含めれば―――長くなる。ここで重要なのは相手が誰だったかで
はなく、なぜ不死になったか、というその理由だ。もともとくすぶっている程度の復讐な
のだから、いまさら余計に火をつけることもない。
「死んだわけじゃないが、そのことがきっかけで失踪して、それきり。二度と会うことは
なかった。それで復讐しようと思ったんだが、一度、しくじってね。果たすどころか、危
うく死にかけた。それがどうしたことか、わけのわからん薬を飲んだせいで生き返ってし
まった、というわけさ。それも復讐相手の残した置き土産だったんだがね」
言葉に出せばずいぶんと短い。
しかし、そこには妹紅の一生分の憎悪や苦悩が込められている。
溶けた鉛を流し込めば、そのまま形になって固まりそうなほどの、重く、冷たい言葉。
「……復讐は、何も生み出しませんよ。負の連鎖を連ねて罪を重くしてゆくだけです」
「知ってる。いや、知った、かな。そのとおり、不毛ってことは確かだ。それでも、間接
的にしろたった一人の家族を奪われておいて、どうにかなるわけはない。どうにもならな
い―――そう、どうにもならなかったんだ」
ため息のように、言葉を吐く。
映姫は何もいわず、ただ静かに見つめていた。同情も、憐憫もない。真摯に話へと耳を
傾けている。まるで懺悔を聞く神父みたいだ、と妹紅はその姿に宗旨違いな印象を覚えた。
話しやすい相手だった。すでにはるか過去の出来事に対して、勝手に同情されたりして
も困るだけだったからだ。映姫が黙して話を聞いている様は、まさに懺悔の場所そのもの。
憐憫も糾弾もすることなく、中立として告解を聴き、入れていく。
「私は、元々忌み子ってやつでね。半分幽閉されてるようなものだった。母親の顔も知ら
なかった。ほとんど外に出ることもなかったし、仲のいい相手もいなかった。そんなだか
ら―――その頃の私は、父様だけが全てだったんだ。色んなことを教えてくれて、一緒に
遊んでくれる父様が、ね。母親が誰なのかも、なぜ外に出せないのかも口にはしなかった
けれど」
―――思い返せば、星の見方も、歌の詠み方も、大陸の言葉も、そして笛の扱い方も、
全ては父から学んだものだった。自分の父がどんな立場にいたのかを妹紅は知らなかった
が、その知識は全て一流のもので、子供心に父の位の高さを実感していた。
かつての妹紅の誇りであり、もっとも大きな存在だった父親。
その想いを、映姫はひしひしと感じ取っている。
それが失われるのは本当に突然だったと、妹紅は絞り出すような声で言った。
「……ある日、ぱったりと父様は来なくなった。何日か空けることはあったけど、それで
も長すぎた。一月、二月、三月―――数えるのを止めた頃に、終わりは来た。枕元に手紙
と小さな葛篭がおいてあってね。手紙にはこう書いてあった。『顔も見せず去ってしまう
ことを許して欲しい。私は取り返しのつかぬ恥を負ってしまった』とね。葛篭の中には、
綺麗な木の枝が入ってた。金や銀、宝石をちりばめたこの世のものではない枝がね」
その真相は、乳母が町から噂を聞いてきたことでようやく分かった。
『かぐや姫という美しきこと比類なき姫君に、五人の貴族が求婚したが、いずれも難題を
果たすことが出来ず、敗れた』
その貴族が父で、失踪した理由がその出来事のせいだと悟るのに、時間は要らなかった。
「……それは、もしや」
「そう。竹取物語の原典で、私の原点さ。結末とか、不死の薬の行方とか、色々と違っち
ゃいるけど。間違いなく、私はその昔話に出てくる人物の血縁者だよ。というか、娘だね。
かつて栄華を極めた一族の、最も古い血が私には流れているんだ―――」
そこで、妹紅は笑みを浮かべる。視点は下を向いて、湯飲みを見つめている。
その表情に、慧音はかすかに動揺した。
「ただ、そんなのにもう意味はない。あの薬を飲んで、生きたいと願った時点で、私は背
負ってた全てのしがらみを捨てることになったんだから……」
どこまでも自嘲的で、どこまでも虚ろ。
慧音がかつて見たことのない、そのまま泣き出してしまいそうな表情だった。
「……妹紅」
「……おいおい、変な声出すなよ。全ては昔の話さ。思い出すと嫌な気分がするだけで、
今とかかずらうわけじゃない。昔の私はとっくに死んでいて、今の私は新しい私なんだ」
顔を上げて、妹紅は苦笑した。そこにさっきの影は残っていなかった。
映姫はその様子をずっと眺めていた。
何か、難しいことを考えているような、眉根を寄せた表情で。
「……どうして生まれ変わったと? 復讐は終わっていないのでしょう」
「……燻っちゃいるけど。今はほとんどどうでも良くなってる。
―――なにせ、向こうも死なないんだ。死なない人間同士が殺しあうことほど不毛で無
意味なこともない。幻想郷に来て、そいつを見かけた瞬間、なにもかもどうでもよくなっ
ちゃったんだよ。月に帰ったのも嘘で、天人の迎えに乗ったのも嘘。あいつも、結局は普
通の人間だった―――まあ実は違うらしいけど、それは後で知ったこと。あのときの私に
は関係なかった。……そう、関係なかった」
「……復讐することを止めたと?」
「分からない。とりあえず殺し合いは今もたまにやってる。向こうが先に殺してきたから
こっちも殺し返して、後は惰性ね。お互い、死なないってことを知ってるから手加減抜き
で遊んでるようなものだよ。こっちも殺されて黙ってられるほど人間できちゃいないし」
そういって、妹紅は肩をすくめると湯飲みを手に取った。
時間の経った湯は、ちょうどいい程度にぬるまっている。
「……でも、復讐より上に、ここで静かに暮らしたいって想いが出てきた。ここは綺麗で、
優しい連中の多い場所だ。里の人も、慧音も、みんな私と普通に接している。私が死なな
い人間だって知っててもだ。当たり前みたいに買い物したり、話したりしてる。ただそれ
だけのことだけど、私は、とても嬉しかったんだ。普通の人間として見てくれることが、
とても嬉しかったんだ。……物騒な身の上だから、傍で生きることは出来ないとしても」
そこまでぼそぼそといって、妹紅は一気に茶を煽った。
照れくささを隠すためだったようだが、さすがに熱かったか、咳き込んでしまう。
その様子に、映姫は知らず笑みをこぼしていた。意を得た、あるいは悟りを開いたかの
ような、柔和な表情。
「……なんとなく分かりました。貴女の在り方は、人間らしくあることを望んだ結果なの
ですね。仙人のように超越せず、天人のように悟入することもなく、そして他の不死者の
ように自分の存在にこだわることすらなく」
「……たぶん、そうなるかね。私は彼岸にわたるのも、欲に傾くのも、自分が続いていく
ことも求めなかった。ただ普通の人として生きることを求めた。不老不死でも変わるとこ
ろは変われるんだよ。普通の人間や妖怪とも同じように。永遠は、決してそのままの姿で
世界の終わりまで在るという意味じゃない。世界とともに変わりながら、ただ生と死を通
過することなく流転していくだけのことなんだ、と思う」
「……ええ。だからこそ、私たちは仙人や天人の存在を許容しています。生と死を乗り越
えるということは、ある意味では人間が新たな世界に旅立つことと同じです。だからどち
らも普通の人間から見れば変人に見える。でもそれは異なる常識、異なる目で回りを認識
しているわけですから、彼らにとってはそれが普通なのです。
そしてそれは、必然でもあります。今はごくわずかですが、やがて全ての人間が天人た
ちと同じ場所に立ち、また新たな領域に昇ることとなる。精神的な進化、と言い換えても
良いですが、これは自然の摂理です。だから、それを先取りしようと生きている間にたゆ
まぬ努力を重ねた人や、善行を積み続けて、死後に天人となる資格を得た人間たちを、私
たちは評価するのです。
あなたの場合は、普通の人間の常識を持ったまま、いきなり新しい世界へ踏み出したか
ら、そのような在り方になったのでしょうね。ある意味では、驚くべきことです。普通、
不老不死を得た人間はその重みで心が歪んでしまいますから。いい方向にも悪い方向にも。
……ですが貴女は、見事に人間のままで不老不死を得ています」
そこで映姫は言葉を切った。
そのまま視線を妹紅へと合わせ、
「……それでは、最後に一つだけ。貴女は不死を先取りしてしまいましたが、修行を積み
仙人から天人へと至ることは、今からでも出来ます。そのつもりは?」
その質問に妹紅は天を仰いで考え込んだ。
数秒か、数十秒か。それだけの時間をとり―――
「ないよ。私は、私がそう思う限り人間で在りたい。世界が終わるまで」
笑って、まっすぐにそう答えた。
ふと外を見ると、すでに日は半分以上沈んでいた。
赤い夕日が、鮮やかな緑に雪の白をちりばめた草原や、さまざまな色で彩られていた里
の町並みを全てやさしい橙色で染め上げていく。
「……ずいぶんと長く話し込んでしまいましたね。興味深いお話でした」
それを見ながら、深くため息をついて、映姫は正座を崩した。
これで話は終わった、ということなのだろう。
「なに、詰まらない昔話を真剣に聞いてくれたんだから、それで帳消しだよ。……で、閻
魔様。質問を返すが、そっちから見て私は裁けるかい?」
「残念ながら生きている人を裁くことは出来ないのですよ。説教をすることで性根を変え
させることはできても。……あなたの場合は、その必要もなさそうですけれどね」
その言葉に、妹紅は首をかしげた。
「……まあ、閻魔様相手に嘘をついても仕方ないから言うけど。これでも結構後ろ暗いと
ころたくさんあるわよ?」
「そう思うのであれば、進んで善行を積むべきです。例えば人助けとか、その辺りが模範
的でよろしいと思いますけど」
「……え?」
色々と唐突な話だった。特に人助けという具体的な部分が。
何か含みのある笑みを浮かべている映姫に、どう反応したものかと視線を迷わせると、
ふと慧音が笑みを見せているのが目に入った。
「……そこ。なんで笑ってるのさ」
「いやなに、自警隊でもやってみたらどうかと思ってな」
妹紅が半眼で告げると、しかし慧音は笑みを消さぬまま、妹紅の前に何かを置いた。
茶色の漆を塗られた、地味だが温かみのある色をした櫛だった。
「あの娘からの、礼だそうだ。映姫さまとの話で忙しそうだったから代わりに受け取って
おいたが、後で顔を見せてくるといい」
「そっか……うん」
胸の奥が暖かくなったような感覚。
妹紅はそっと櫛を手に取ると、丁重に懐へとしまった。
その様子を見ている間、閻魔様は柔らかく微笑んでいた。
「……情けは人の為ならず。与えた善は、自分にも善として返ってくるものですよ。貴女
が住んでいる竹林は“迷いの竹林”といわれているほど物騒な場所です。貴女が道案内を
してくれるのならば、たくさんの人が助かることでしょう。そしてそれは、やがて貴女に
も戻ってきます」
「あ、いや、あれは……」
「永遠亭までの道を知ってるのも、私の他には妹紅くらいだろう。里を長く空けることは
出来ないし、私からもお願いしたい」
柔和な笑みを浮かべる映姫と、丁寧に頭を下げてくる友人の慧音。
そして妹紅にも、ことさら断る理由はなかった。
「……まあ、出来るときだけになるけど、それでもいいなら」
眉根を寄せた、少し迷いの残る表情ながらも、承諾する。
「ありがとう」
「では私からも、特に言うことはありませんね。貴女の心に何らかの影が差していたのな
ら、この場で裁いておくつもりだったのですが、どうも色々と予想を裏切られてしまいま
したので」
「……生きてるのは裁けないんじゃなかったのかよ」
「その通りです。ですが、生者を裁いて心を入れ替えさせることで、よりよい生が歩める
のでしたらその限りではありません。現状のままでは地獄に行ってしまうと知れば、誰も
が善行を積むでしょう?」
「……そりゃ脅迫って言わないか?」
「釈迦も方便です」
済ました顔で答える閻魔に、妹紅は苦笑するしかなかった。
「私は、罪を背負っている者を見て放っておけるほど無関心ではいられないのですよ」
「なるほど、そりゃ面倒だ。……でも優しい人だよ、あんたは」
そこで、映姫は驚いたように妹紅の顔を見た。
「な、なんだよ」
「ああ、いえ……優しいなどと言われたのは初めてですから、少し驚いてしまったもので。
大体は説教臭いとか怖いとかで敬遠されますし」
そっと視線をそらしながら、映姫はぼそぼそとそんなことを言っている。
なるほど、と妹紅は心の中でだけ頷いた。確かに、怖がられなければ仕事にならないし、
説教がないなら改心させることも出来ない。とすれば必然として嫌われがちにもなる。職
業が職業だから仕方ないのかもしれないが。
「大丈夫ですよ、分かってくださる方も大勢いますから。貴女や慧音さんのように」
妹紅の心中を見通したように、映姫は微笑んだ。
「さて、これで私の話も終わりにしようと思うのですが……その前に一つだけ忠告を」
「……なんだい?」
話の全ては、決着がついたのではないのだろうか。
そう思っていた妹紅には、意表を突かれた形で飛び出してきた言葉だった。
「…………貴女は先ほど復讐は終わっていない、止めていないと言いましたが、その部分
に関しては、いつしか良くないことの発端になる危険が大きい。貴女自身のためにも、こ
のまま惰性で生きていくのではなく、何らかの形で決着をつけるべきです。生まれ変わっ
たとしても、その業を引きずっている限り、いつしか災いが訪れるかも知れません。人の
恨みと憎しみとは常に他人を害する恐ろしい感情です。燻らせたままでは、貴女自身のた
めにもなりません。いわば、爆弾を抱えているようなものです。
―――貴女の復讐に、貴女が一番納得できる形で決着をつけること。
それが、今、あなたの出来る善行、ですよ」
真剣な眼差しで、映姫は妹紅を見つめている。
まるで未来さえ見えているような、冴えた輝きの瞳に、妹紅はかすかに冷たいものを感
じた。それと同時に、触れられるはずのなかった自身の中の焦げ付きが、かすかに疼いた。
―――この胸の奥の傷は、一体いつ埋まる?
自問するが、答えは出ない。
ただ、自覚はしている。
降り積もる日常の中で隠れていても、実際の傷は消えていないのだ。
そう、例え現状で怒りをむき出しにすることがなくても、未来は分からない。この生き
方に何らかの形で変革が起きたのなら、天秤が負へ傾いたなら、またあの復讐に身を焦が
す苦界に墜落するのかも知れない。
―――それは杞憂だ。杞憂のはずだ。
しかし妹紅には、否定が出来なかった。
「……ああ、正直耳が痛いね。でも、今の私にはどう決着をつければいいのか、良く分か
らない。あいつを殺しても意味がない、いまさら止めることさえも出来ないのなら、どん
な形で復讐を終わらせればいいのか、分からない」
「それは、貴女が探すことです。ですが、全ての物事には始まりと終わりがあります。ど
んな結末であれ、終わらない物語は在りませんよ―――」
その言葉を、妹紅は目を閉じて聞いていた。何を考えているのか、何を想っているのか。
それを探るには、あまりにも静かな表情だった。
千年を超えた物語の果ては、どこに通じるのか。
それを決めるのは、妹紅自身だ―――
「…………」
やがて、目を開いたときの妹紅の表情は、何か決意のようなものを宿している。
「……いつになるかは分からないけれど。私なりに決着をつけるよ」
そう告げて、妹紅はゆっくりと立ち上がった。
「……では、貴女が、過去の妄執から解放されることを祈っておきます」
妹紅の言葉を、映姫はただ静かに受け止めて、それだけを言った。
しかし、その顔には確かに、安堵の色があった。
§
「……んじゃ、顔出してくるかな。櫛もらったお礼、言ってこないと」
「ああ、では案内しよう。……あ、映姫様はどうなさいますか?」
「そうですね……少し散歩でもしましょうか。付き合います」
三人連れ立って外に出ると、何故か妹紅が一歩先んじて歩き始めた。まるで後ろの二人
を避けているように、歩調も早い。夕暮れの中、帰り支度や夕食の買い物をする人並みの
中をくぐりながら、徐々に遠ざかっていくその様子を映姫は不思議に思ったが―――
「色々あったから、一人で考えたいだけですよ、映姫さま」
「……そうですか。確かに、ちょっと話を性急にしすぎたかもしれません」
「けれど、妹紅は真正面から受けていました。大丈夫でしょう」
「ずいぶんな自信をお持ちですね」
「友人ですから。付き合いも長いんですよ」
誇るように、照れるように、笑みを浮かべる慧音。
「いい友人をお持ちですね。ぜひ大事に―――あら?」
映姫がそう言いかけたときだった。
妹紅が誰かを引っ張ってきている。その姿は身なりのいい、気品のある老人そのものだ
ったが、杖すらも持たず、信じられないほどの速さで走っている。むしろ妹紅が抜かれそ
うになるほどの速度。
「慧音、なんか、重大な用事だって」
老人の剣幕―――あるいは迫力だろうか、それに困惑しているのか、妹紅は眉根を寄せ
て、膝に手を付いて肩で息をしている老人を見ている。
「け、慧音様!!」
「……これは、長老殿。どうかなさったのか?」
「ど、どうもこうも……里の入り口で妖怪が徒党を組んで。なにやら銀髪の女を出せ、と
叫んでいるようで、おかげで里の人たちが通れなくて―――」
あせっているのか、それとも息が切れたか、老人の声が切れ切れとなって出る。その内
容に、慧音は眉をしかめ、すぐに向かおうとしたときだった。
―――紅い風が舞う。
「……こ、これは」
老人が、驚いたようにつぶやく。
ちらちらと輝くのは、火の粉だった。
その源は、妹紅の背。炎を纏う翼にある。
「―――やれやれ。撒いた種がこんなところで来たか」
苦笑とともに、肩をすくめる。それに合わせて、ゆらりと背の羽が動いた。
「さて、さっそく自警隊の出番か。私一人しかいないがね」
「……いいのか?」
「約束だろ? きちんと追い払ってくるさ」
慧音のやや呆気にとられたような顔に、妹紅は片目を閉じて見せた。
そして次の瞬間には、熱気をはらんだ風が地を叩く。
妹紅が、赤い線を引いて空を飛んでいく。
「……なんと、慧音様、あれは……」
「友人だ。さっき話していてな、竹林の案内と自警をしてくれることになった。安心して
いいぞ」
「―――は、はい」
慧音の苦笑めいた言葉に長老はうなずくものの、その視線は鮮やかな飛行の軌跡に釘付
けとなっている。
夕闇に絡む紅い一条の線は、早着した星のような輝きを散らし、ゆっくりと消えていっ
ている。その光景は、地上の人々の視線もひきつけていた。
「……やれやれ。血の気の多いことです」
映姫はそんな様子に苦笑して、空を見上げている。
「でも、あいつがこうして自分から何かをしていくのは、いいことだと思います。初めて
出会ったときの頃は、人と触れ合うことを極端に忌避していたのですが……」
「……意外ですね。私は千年間、ああして真っ直ぐ生きていたのかと思いました」
「いえ、それは間違いないと思います。現に、今はこうして立ち直っているんですから。
……きっと、あいつはまた、乗り越えられると思いますよ」
「同意させていただきますね」
慧音の言葉に、映姫は静かにうなずいた。
お互いの表情は、お互いに見ずともなんとなく分かっていた。
視線の先で、再び紅の翼が広がる。妖怪との勝負に入ったのだろう。
再び広がっていく闇を照らす赤い輝きに、地上では歓声が巻き起こっていた。
「“紅の自警隊”……なかなか格好いいじゃないですか、慧音さん?」
閻魔の呟きに、里の守護者はどこか楽しげに頷いた。
四季様もですが、妹紅の言葉にもちゃんとした厚みがあって、じわりじわりと効いてくる、そんな感じを受けました。
本音同士の会話というのは、きっとこういうもののことを言うのだろうと思います。
……ところで妹紅さんや、焼き鳥屋だと夜雀さんが文句を言ってくるので、いっそタイヤキ屋さんにしてはいかがでしょう。
それで今度は竹林で困ってる人を通りすがりに助ければ完璧です(何が)
随所に出てくるラブリーなえーきさまが可愛いすぎるよ
そしてなにより妹紅がカッコいい
映姫様もただの説教狂かと思ってましたが、考え改めます。
読み飛ばすなんてとんでもねぇ、楽しく読ませて頂きました。
素敵な物語をありがとう<(_ _)>
外見からイメージされるただの少女としての彼女たちではなく、その重ねた年月を想像させられる重みの乗った言葉に痺れました。
良いお話をありがとうございますw
あと、映姫は可愛いけど怖いのです。
こないだも花でラストジャッジメント発動の瞬間に、モニターを下から覗き込もうとしたら撃ち落されましたし。
妹紅と映姫はなかなか組み合わせ辛いながら、それぞれの個性が没しておらずグッドでした。
※)誤字
キャンパス→キャンバス
本文は勿論の事、後書きも読み余すところ無く全て読ませてもらいましたよ。
妹紅にしても映姫様にしても二人とも『らしさ』が出ているし、序盤からの物語に引き込まれていくような文章力の高さ……いやはや脱帽です。
そして、妹紅カッコイイ。映姫様可愛い。
あと、一つ誤字らしきものが。
起こる→怒る
よい妹紅、よい映姫様でした。
珍しい、かつどこか相性の悪そうな組み合わせをここまでしっかり書ききった事には敬服するしかありませぬ。
お見事でありました。
個人的には、筆者様のやられた内丹修行に興味がありますがw
あんまりにもあんまりに会話が長過ぎる事に加えて
終始どうにも自分の思想語りから脱却仕切れていないなぁ。という印象。
この二つがあいまってなんだかあまり読みたくない文章になってしまっている気がします。
まぁ、説教話なんてものはそんなもんなんだろうとは思いますが。
しかしそれでも最後まで読ませる技量には感心させられました。