板扉の向こうでは長い冬が終わりかけていた。
降りてくる雪は名残雪。冬の名残を留めるかのように、白く白く、幻想郷の森を雪で染めようとしていた。明日の朝日が昇れば、恐らくは全て溶けてしまうだろう。長い冬が幻であったかのように、春の日が訪れるに違いない。
最後の雪だ。
これで、見納め。
そう思うと、昨日とさして変わらぬ名残雪が、なにか貴重なものであるように思えた。自分の現金さに呆れつつ、霖之助は盃を傾けた。冬を尊び、春を歓迎するのは酒だけだ。季節の変わり目には、酒を呑む。去る季節を労わって。来る季節に喜んで。長い間繰り返してきた、変わることのない季節の変化を、霖之助自身も変わることなく迎えていた。
昨年も、こうして酒を飲んでいた。
一昨年も、こうしていたように思う。
一昨々年もそうしていたはずだが、もはや記憶にはなかった。滔々と流れる月日は区別がつきにくい。停滞したようで、ゆるやかに流れる幻想郷の時間は、その変化を住人に知らせない。昨年と一昨々年の区別など、ないに等しかった。
それでも、ずっとずっと昔から、こうしてきたように霖之助は思う。こうして椅子に座って、窓から降り込む雪を見ながら、酒を飲んでいたはずだ。
冬の去らなかった年はなく。
春の訪れなかった年もない。
変わることなく繰り返す一年を、霖之助は、変わることなく香霖堂の窓から見届けていた。
「ストーブはつけていないのか?」
板扉から入るなり、開口一番魔理沙が言った。視線の先にあるのは、こちら側のものではない、結界の向こう側から流れついた石油ストーブだ。燃料を入れることによって暖をもたらす、便利なようで不便な暖房器具。それでもその温もりは、囲炉裏や火鉢を主とする幻想郷においてはかけがえのないものだった。それだけを目的に、こうして店を訪れる者があるように。
「石油、だったっけ? 切れてるとか?」
霖之助にではなく、ストーブに話しかけるようにして魔理沙は一歩店内へと踏み込む。いつものように遠慮なくどこかへ座るのではなく、ストーブへと近づいてく。その動作に、この店の主がストーブなのか自身なのか、霖之助は迷ってしまう。
まるでそれが生き物であるかのように、魔理沙はストーブへと話しかけた。
「おい、動いてないぞ香霖。とうとう死んだのか、これ」
こんこんとストーブの蓋を叩いて魔理沙が言う。普段のそこはヤカンの特等席なのだが、今はただ、虚しく空席をさらすのみだ。
「死んだ、とは穏やかではないね」
答えて、霖之助は盃を傾けた。お湯でも水でも氷でも割っていない。純粋な、命の水。幻想郷の米から作られた、幻想郷の酒だ。住み慣れた土地の水と土の味がする。身体に流れる血液と親和するような酒は、いくら飲んでも苦にはならなかった。もっとも強い酒なので、一度に呑み干すことはせず、ゆっくりと減らしていた。
空になった盃を机の上に置く。ことんと、木と触れて良い音がした。
「最後の日くらい――冬の寒さを楽しもうと思ってね」
霖之助の答えに、魔理沙は「そっか」と納得したように頷いた。
「もう、冬も終わるんだな」
そうかそうかと頷き、魔理沙は子供でもあやすかのように、ストーブの蓋を軽く叩いた。片手に持っていた箒を、ストーブへと立てかける。
一冬の間働き続けたストーブを労い、踵を返しかけて、
「あ。香霖」
「何だい」
「扉、開けとくか?」
入ったきり、開けたままだった板扉を指差して魔理沙は言う。開いた板扉の向こうでは、名残雪が緩やかな風に舞っていた。真冬ほど雪が重くないのか、時折、下から上へと雪が舞う。吹雪いてはいないが、無風でもない。冷気を孕んだ穏やかな風が、外から室内へと入り込んできていた。いつもならばストーブの熱気がそれらを押し返すのだが、それが沈黙している今、冷気たちは遠慮なく香霖堂に滞在している。
冬の寒さだ。
去っていく、冬の寒さだ。
「いや、いいよ。開けたままでいい。吹き込むようなら後で閉めよう」
「そっか。じゃ、そうするぜ」
扉はさっきまで閉められていたが、窓はずっと開いていた。店の中の温度は外とそう大差ない。「おお寒いぜ」と大仰に身を震わせながら、魔理沙は店の奥へと踏み込む。
台所にでも行くのかと思ったが、違った。
いつものように、適当な物の――もっともそれは、立派な店の売り物なのだが――の上に座るのでも、冷えた床に座るのでもなく。
入り口から向かって正面、客を迎え入れるための場所にある机と椅子。
その椅子に座る霖之助の膝の上に、平然と座った。
「…………」
「香霖、小さくなったか?」
胸の中に居座る魔理沙が、下から覗き込むように言った。膝と胸に、魔理沙の重みと、同量の温もりが伝わってくる。
霖之助は、
「魔理沙――」
言いかけて、言葉を止めて。
はぁ、と、呆れたようにため息を吐いた。
疲れたような、仕方がないなと笑うような。親しさのあるため息だった。
「魔理沙が、大きくなったんだ」
「香霖は長生きしてるくせに大きくならないんだな」
「成長期は過ぎたからね」
答える霖之助の手を、膝の上に座った魔理沙がつかんだ。つかんだ両の手を、自分の下腹の辺りにまで引っ張る。霖之助に、自身を後ろから抱きかかえるような形にさせて、魔理沙はその上に手を重ねた。
霖之助よりも、小さな手だった。
霖之助よりも、柔らかな手だった。
霖之助よりも――温かな手だった。
「ほら香霖、あったかいだろ」
「……何が?」
「私が、だぜ」
あはは、と魔理沙は子供のように笑った。眼下で金の髪が波打ち、体が隙間なく触れ合っているせいで、笑うたびに魔理沙の体から揺れが伝わってくる。
揺り籠を抱きしめているようだ、と霖之助は思う。実際には、この状況だと自身こそが揺り籠なのだろうけれど、胸の中で揺れる魔理沙を感じているとそんなことを思ってしまう。
「そして私もあったかい。一石二鳥だな」
満足げに魔理沙は笑って、体の力を抜いた。弛緩したのが、触れたところから伝わってくる。力の抜けた魔理沙の体がずり落ちないように、霖之助は腕の位置を変えて、しっかりと魔理沙を抱きかかえた。
「落ちるよ」
「大丈夫」魔理沙は笑い、「落ちたら、香霖が拾ってくれるからな。いっつもどっかから拾ってくるみたいに」
「君は――売り物じゃないよ」
「そうだな。非売品だぜ」
嬉しそうに、魔理沙は笑った。
その笑みを見て、霖之助は思う。
――昔も、こんなことをしたな、と。
ずっと昔、何年も前にこうして魔理沙を膝の上に乗せた覚えがある。あの時の魔理沙は、片手で持ち上げられそうなほどに小さかった。店の陳列棚の上に置けば、大き目の人形にさえ見えただろう。深い蒼の瞳と黄金の髪は、まるでビスクドールのようだったから。
あの時のような軽さは、もうない。
それはきっと、時間の重みだ。
降り積もる雪のように、積もり続けた、時の重さだ。
「……暖かいね」
「だろ? ストーブがなしなら、八卦炉もなしだぜ」
人肌だけさ、と笑って、魔理沙は霖之助の膝の上で蠢き、座りなおす。めくれかけていたスカートを前へと送り、より深く、より霖之助に触れるように座りなおした。
その間中、霖之助は魔理沙の体が落ちないように、彼女の細い腰を抱きかかえて続けていた。
その手を魔理沙はちらりと見下ろして、ぼそりと呟いた。
「――太くなった、とか思うなよ」
「思ってないよ」
「重くなった、とかは」
「それは思った。大きくなった、ともね」
「…………。殴りたいぜ」
「仕方ないよ」
霖之助はため息混じりの笑みを浮かべ、
「君は大きくなったからね」
「まだ大人じゃないぜ」
「そうだね。子供から、女の子に変わった。そんなところかな」
「ふうん――」
納得したような、納得していないような、曖昧な返事を魔理沙は返す。彼女が何を言いたいのか分からなかったけれど、霖之助は組んでいた手を外し、片方で魔理沙を抱えたまま、もう片方を机へと伸ばす。
盃をつかんだところで、それが空になっていたことを思い出した。盃の隣に置いてある瓶へと手を伸ばしなおし、
「――香霖は、変わらないな」
魔理沙の言葉が、霖之助の手を止めた。
「…………」
変わらない。
昨日も。
一昨年も。
一昨々年も、こうしていたように。
人でも妖怪でもない森近 霖之助は、ずっとその姿のままだ。
魔理沙が幼い頃から――少なくとも魔理沙の記憶の中では、霖之助の姿は変わってはいない。
そのことについて、霖之助が何を思うよりも早く。
「けど、」
魔理沙が、言葉を続けた。
「中身は、少しずつ変わってんだろうなって、今思った」
「…………?」
霖之助が首を傾げる。魔理沙はそれを下から見上げて、意地の悪そうに笑った。
「私は女の子だぜ」
「――知っているよ、勿論」
知っている。男のような言葉遣いが混ざるとしても、魔理沙はきちんと少女なのだと、霖之助は認識している。
抱きしめた魔理沙の身体から伝わってくるのは、蜂蜜酒のような少女の臭いだ。まるでそこだけ一足早く春が訪れているかのように、甘い香りが鼻腔に漂う。抱きしめた身体の柔らかさも、膝に乗る重みも、可愛らしいその姿形も、全てが少女だった。
それは、知っている。
それが、どう話に繋がるのか、霖之助には分からない。
変わらず首を傾げ続ける霖之助に、魔理沙はにやにやと笑いを送り、上半身を乗り出して酒の瓶へと手を伸ばした。
そして、瓶を傾け、盃に酒を注ぎながら魔理沙は言う。
「ずっと昔は、子供だって思ってたんだろ?」
「そう――だね」
思い返す。ずっと昔の魔理沙は、小さな子供だった。膝に乗った体は軽く、身体つきは少年のそれを大差なかった。もし髪を短く切っていれば、少年と見間違えたかもしれない。そういう年頃だった。
「そういうことさ」
その一言で、話をまとめて。
魔理沙はくい、と、盃に注いだ酒を、霖之助に渡すことなく――自身で一気に飲み干した。
「あ」
という暇もなかった。波々と注がれた酒を、魔理沙はひと息で、全て飲み干してしまった。
飲み干した魔理沙が「うぉあ」と小さな声をあげる。その声が何なのか、霖之助には分かっていた。
「それ、かなり強いお酒だから、一気に飲まないほうがいいよって言おうとしたんだけど」
「速く言えそういうことはあー」
「言う暇もなく魔理沙が飲むからだろう」
うあー、うあー、と胸の中で魔理沙が呻く。一発で酔い潰れるほど酒に弱くはないが、さすがに喉にきたらしい。盃を机の上に置いて、体重を再び霖之助へと預ける。
「一気に飲まなきゃよかった……」
「そうだね」
「でも、美味かった」
「それは良かった」
はぁ、と息を吐いて魔理沙がさらに弛緩する。その息から酒の臭いがするのは、霖之助の気のせいではないだろう。盃一杯にさえ長い時間をかけてちまちまと飲んでいたのだ。一気飲みをした魔理沙の衝撃は筆舌に尽くしがたいだろう。
それでも、目が潰れたり死んだりするほどのものではない。呑みすぎなければ、酒は薬だ。
「美味しい酒は、ゆっくり飲むものだよ」
「ふうん。私は宴会の方が好きだけどな」
「あれは楽しいお酒だろう?」
「そう――なのかな。よく、分からないぜ」
――だって私は、今も楽しいからな。
魔理沙はそう言葉を結んで、抱きかかえてくる霖之助の手に、自身の手を重ねた。
小さな手で、大きな手を、暖かく包む。
その指は、子供のように丸くはない。少女のように、細い指だ。
――ああ。
霖之助は思う。魔理沙が先に言ったことを、ようやく実感する。
魔理沙のことを、子供ではなく。
少女と見ている、自分がいることに。
姿は変わらずとも、心はゆっくりと変わっていくのだと。外に雪が降り積もるように、心に時間が――思い出が積み重なっていくのだと思う。
記憶の中の魔理沙は、小さな子供だった。
今、膝の上にいる魔理沙は、可愛らしい少女だ。
いつかは――大人の女性になるのだろう。
それとも今のまま、魔法使いにでもなるのか。それは霖之助にもわからない。
ただ。
ずっと未来、遠い先にも。
今日と変わらぬ雪を見ながら、同じように時間を過ごせたら――それが幸せというものなのかもしれないと、霖之助は、思った。
すぅ、と。
胸元から、吐息が聞こえてくる。見れば、魔理沙が頭を肩に預けるようにしてうとうとと眠ろうとしていた。酒が入ったのと、触れたところから伝わる体温の温もりが、眠気を誘ったのだろう。こっくりと、頭が船をこぐ。眠るまいとしているのは分かるのだが、だんだんと、瞼が下りてきていた。
霖之助は、苦笑混じりの、ため息を吐いて。
「そうだね」
そう、頷いて。
酒瓶へと伸ばそうとしていた手を止めて、代わりに、魔理沙の頭を撫でた。波打つ金の髪を、父親のように優しく撫でてやる。子供をあやすかのように――霖之助は、魔理沙の頭を撫でる。
魔理沙は――嬉しそうな、幸せそうな顔をして。
自分の意志で、瞼を閉じた。
体を預けてくる魔理沙の頭を霖之助は撫で続ける。力を込めず、優しく。
寝息が聞こえ始めるのに、そう時間は必要としなかった。
すぅ、と魔理沙が眠る。
頭を撫でていた手を、そのまま下へと滑らせる。形のいい耳の側を通り、魔理沙の頬に手を当てる。
大きくなった、と思う。
もう、子供ではない。
膝の上で眠る魔理沙は――少女だった。
信頼しきったように、無防備な姿を見せる少女に対して、霖之助は。
「…………はぁ」
ため息を吐いて、魔理沙を抱きなおした。両手でしっかりと魔理沙を抱きかかえ、自身の背を椅子の背もたれに預ける。
正面の板扉は開いている。外に見えるのは名残雪。繰り返す冬の終わりの姿だ。
もうすぐ、春がくる。
やがて、夏がきて、秋がきて、また冬は来るだろう。
同じような、それでいて違う、新しい冬が。
この冬とは――これでお別れだ。
冷気が外から流れ込んでくる。それでも寒くはない。触れた魔理沙の体温が、何よりも暖かい。
心にまで触れるような、温もりだった。
開けた板扉の向こう。
魔理沙を抱きしめたまま、霖之助はいつまでも、いつまでも、飽きることなく去り行く冬を見つめていた。
(了)
……春、ですなぁ。
今年は黒幕さんがあまり動かなかったのか、あまり冬という自覚もないままリリーの出てくる季節になりそうです。
ところで、そこで眠りこけてる魔理沙をくd(ここから先は擦り切れていて読めない
森に振る→森に降る
これだから人比良さんはっ!
閑話休題
子供が成長するのは早いっす。知らん間に大人になってるし、それがまた自分より大人に見えたりして、まぶしかったりする。
今年の冬も終わるのか。人生早いよ。
最後にまた元の話題(?)に
・窓から振り込む→降り込む ごめんちょっとだけ銀行窓口連想しましt
・寸断なく触れ合っているせいで→ちょっと日本語的におかしいです。
「寸断」は道路が切れたりする、ああいう様子を表す単語です。「寸断なく」という日本語は、恐らく無いかと。
ギギギ
誤字の指摘、ありがとうございます。修正しておきました。
寸断なくは完全に造語というか、造使用法なので、こちらも一応修正。
だが香霖殺す。
冬の終わりの暖かい一コマ。思わず頬が緩みましたw
状況からして閉めるなのでは
オチもまたしっかりと。
しかしながら、
>身体つきは少年のそれを大差なかった。
それと大差なかった、ではないかと。
オチも含めていいお話でしたよ、ホント。
>状況からして閉めるなのでは
扉の開閉については、本文中に
>入ったきり、開けたままだった板扉を指差して魔理沙は言う。
とあるし、会話の状況からすると直前の
>「最後の日くらい――冬の寒さを楽しもうと思ってね」
という発言からきての言葉と思われるので、
状況としてはよろしいかと