――――プリズムリバー――――
――――あなたたちは――――
――――はい、もう――――
「……夢、起きなさい妖夢」
魂魄妖夢は、いつもとは違う穏やかな声で目を覚ました。
薄く目を開けると、そこには美しい女性がいた。
「起きたみたいね。おはよう妖夢」
「? おはようございま……」
「これ妖夢、お嬢より遅く起きるとは何事か」
聞こえてきた厳しい声は、妖夢の師匠、妖忌のものだ。
寝ている場合ではない。
妖夢は飛び跳ねるようにして布団から抜け出た。
「もぅ、妖忌ってば厳しいんだから」
慌てて着替え始めた妖夢を、その女性は微笑みながら見つめていた。
優しさにあふれた、柔らかい笑顔だ。
「どうかしら妖夢。ここにはもう慣れたかしら?」
「は、はい、おかげさまで」
妖夢はようやく思い出した。ここは白玉楼だ。
先日お師匠様に連れてこられたのである。
「はい、ではない。全くそんなことでは西行寺家の専属庭師として……」
「もういいじゃない。それに妖夢はまだ来たばかりなんだからしょうがないわよ」
魂魄家は代々、この屋敷に住む西行寺家に仕えている。
妖夢も数日前から、見習いとしてここで修行をしているのだ。
「それじゃあ顔を洗っていらっしゃい。朝ご飯にしましょ」
「はい」
そしてこの美しい女性が、屋敷の主。
「幽々子様」
あまり時間をかけているとまた怒られてしまう。
妖夢は駆け足で水場へ向かった。
深い井戸から水を汲むのに苦労したが、なんとか朝の行事を済ませて食卓へと急いだ。
既に二人とも正座をして待っていた。
「お、遅くなって申し訳ありません」
「あらあら、そんなに緊張しなくてもいいのよ」
妖夢は幽々子の顔を見ると少し安心できた。
だがもちろん、妖忌の顔は直視できなかった。
「頂きます」
今日の朝食は野菜の味噌汁と焼き魚。
どうやら作ったのは妖忌のようだ。
そうでなければ、こんなに大きな人参が入っているわけがない。
実は妖夢は人参があまり好きではない。もう少し小さくしてほしいと思った。
「妖夢」
「はい?」
声が裏返ってしまった。
妖夢は焦げかけた焼き魚をつついていた箸を慌てて止めた。
「食べ終わったら、お庭にいらっしゃい」
「はぁ」
「今日は素敵な人たちを呼んであるの」
いつもなら、この後は剣のお稽古の予定である。
しかし幽々子の口ぶりからすると、今日は別の予定があるようだ。
あの厳しいお稽古が無いなんて、何ヶ月ぶりのことだろうか。
妖夢はいつもの数倍の早さで朝食を済ませ、軽い足どりで庭へと出た。
「幽々子様、素敵な方々は」
「慌てないの…………来たわ」
視線を追って空を見上げると、人の形をした何かが三つ、こちらに飛んできていた。
「あれは……?」
「騒霊。ポルターガイストの一種よ」
三人の騒霊は妖夢たちの上まで来ると、ゆっくりと地面に降り立った。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
中央――――鮮やかな金髪に黒服の少女が深く頭を下げた。
両隣の二人もそれに倣う。
「いつもお世話になっています、幽々子嬢。そちらは?」
「この子は妖夢。うちの新しい庭師よ」
「そうですか」
その少女は一呼吸置いて妖夢に向き直ると、再び頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私たちは騒霊楽団プリズムリバー三姉妹。私はルナサ」
次いで右――――淡い水色髪に薄桃色の服の少女が笑顔で挨拶した。
「私はメルラン。よろしくね、妖夢ちゃん」
左――――艶のある茶髪に赤い服の少女も帽子をとった。
「私はリリカ。リリカ、でいいよ」
それぞれと握手を交わした後、妖夢は敷いてあった茣蓙の上に座らされた。
これから何が起こるのだろう。
しばらく見ていると、三人の手元に楽器が現れた。
ルナサにはヴァイオリン。メルランにはトランペット。リリカにはキーボード。
ルナサがマイクを手にとった。
「それでは自己紹介代わりに一曲演奏させていただきます。曲名は――――」
その日は妖夢にとって、とても素敵な一日になった。
三人の演奏は、今までにないほど興奮するものだった。
音と音とが交錯し、ぶつかり合う。
音がいくつも重なり合い、曲を創り出す。
たった三つの楽器から生み出される音の神秘。
それはとても幻想的で、騒がしかった。
「……以上をもちまして、今日の演奏は終了させていただきます」
我に返って周囲を見回すと、もう日が暮れかかっていた。
楽しい時間が過ぎるのは早いものだ。
「あの」
妖夢は帰ろうとする三人を慌てて呼び止めた。
「また……来てくれますよね」
つい泣きそうな表情になってしまう。
そんな妖夢に、三人は笑顔で応えてくれた。
「もちろん!」
微笑んでくれた。微笑んで、指切りをしてくれた。
三人は遠くから手を振ってくれた。
妖夢もいつまでも、空に向かって手を振った。
いつまでも、三人の演奏が耳に残っていた。
それ以来、妖夢は彼女たちと会うことが楽しみになった。
月に数度しか会えないが、その分いつも有意義な時間を過ごしている。
共に演奏してみたり、歌ったり――――
時には一緒に夕飯を食べて、いろいろ話したり――――
妖夢は彼女たちが大好きだった。
***
咲きかけの桜の花弁が、風に揺られて青空に舞った。
白玉楼の広大な庭の一角に設けられたステージ。
その周囲を無数の霊魂が埋め尽くす。中には人妖もぽつりぽつり。
主役が現れた。
観客が拍手と声援を送る。音も無く騒ぎ出す会場。
三人が楽器を手に取った。
静まる会場。張り詰める空気。
妖夢は、ふと隣に居る我が主人を見上げた。
「……?」
幽々子は不安な目をしていた。何か、何かを心配している――――
妖夢は声をかけるべきか迷ったが、演奏が始まりそうなのでやめておいた。
視線を舞台へと戻す。
赤い服の少女が二本の棒を叩いた。
カッ
三回叩いたら演奏開始。
カッ
さぁ始まる。
…………
…………
少女の手が震え出した。
三回目を叩こうと必死なのが、誰の目にもわかる。
しかしそれが叶わない。
…………カラン
白玉楼に乾いた音が響いた。
「――――!」
信じられない、という表情で黒い服の少女が後ろを振り返る。
ガシャン
続いて、その少女の手からヴァイオリンが落ちた。
「姉さ…………」
バリン
もう一人の少女のトランペットも砕け散った。
無音のどよめきが、舞台でうずくまる三人の少女を包み込んでいた。
「妖夢」
振り向く。
「ルナサ・プリズムリバーを、あとで私の所へ」
哀れみなのか悲しみなのか、それとも何なのか。
そんな、主の表情だった。
***
「あー」
間の抜けた声を出したのは一番下の妹、リリカ。
服をかなりはだけた状態でソファに横になっていた。
「今日は調子が悪かったなー」
「ほんとねぇ」
やや大袈裟に頷くのは次女、メルラン。
壊れてしまったトランペットを大事そうに抱えていた。
「それにしてもメル姉」
「ん?」
「なんか最近体が重いんだけど……」
「そうねぇ」
三女に倣って肩を回す次女。
同時に首も捻る。やはり重いようだ。
「ルナ姉は?」
「うん、少しね」
長女、ルナサも首を捻ってみる。やはり重い。
そのせいか妙な脱力感もある。
今日ヴァイオリンを落とした時もそうだった。
突然体に力が入らなくなり……
「そっかー」
「みんな風邪でもひいたのかしらね」
背伸びをするリリカ。
欠伸をするメルラン。
それを見守るルナサ。
「まぁいいじゃん。ところでメル姉、今日の晩御飯は?」
「んー今日ぐらいは簡単なものでいいわよね」
「うぇ~それじゃいつもと一緒じゃん」
いつもと一緒。
「我侭言わないの。たまには姉孝行しなさい」
「それ、ずっと前から言ってるじゃん。もう聞き飽きましたぁ」
ずっと。
「リリカ! いつまでも甘えないの! 永遠に子供のままでいる気!?」
「わけがわからないよメル姉~」
いつまでも。
永遠に。
「本当にあなたは昔からそうなんだから! ちっとも変わらない!」
「……いい加減殴るよ?」
ちっとも変わらない。
変わらない。
そう、変わらない筈なのだ。
いつもと一緒。
ずっと。
いつまでも。
永遠に。
変わらずに。
「あれ? どうしたの姉さん」
「…………いや」
突然立ち上がったルナサを、妹達は不思議そうな目で見つめる。
何も知らない目。とても眩しくて愛しい――――それがルナサには辛い。
「なんでもないっ…………」
ルナサは走って部屋に飛び込んだ。
「…………」
部屋の明かりも点けずに、冷たい床に座り込んだ。
(一緒なのに)
(妹達はいつもと一緒なのに)
(妹達はいつも通りに泣き、笑い、喧嘩して)
(何も、変わらないのに)
「ううっ…………」
口から、僅かな嗚咽が漏れた。
(変わらない。だから言えない)
(言えるわけが無い)
(だっていつもと一緒だから)
(妹達は変わらないのだから)
(だから)
(だから)
「…………うわぁぁっ!」
それはすぐに叫び声に変わった。
ルナサは一度、思い切り床を叩いた。
そしてもう一度拳を振り上げようとして……泣いた。
(言えるわけが無いだろう?)
(私達がもうすぐ消滅するなんて)
***
「……幽々子様」
「あら、どうしたの妖夢」
どうした、ではない。
妖夢は間を空けずに言った。
「これは一体どういうことで……」
「立ち聞きはよくないわよ。部屋に戻っていなさい」
幽々子は振り向きもせずに言い放った。
いつもの妖夢ならばこの一言で片がつく。
申し訳ありません、と言って襖を閉じてしまう。
だが今日の妖夢は違う。
「幽々子様」
譲れない物がある。
「ご説明をしていただけますか」
***
重い。
ルナサはなんとか起き上がったものの、立ち上がることはできなかった。
窓から見える空は暗く、夜はまだ明けていないように見える。
とりあえず自分はまだ「在る」ようだ。
どうせなら寝ている間にいってしまえばよかったのに。
ルナサは少しだけ、そう思った。
「あ……」
窓の外から聞こえてきた音色で、ルナサの頭はようやく目覚めた。
「メルラン」
別段不思議なことではなかった。
メルランは、時折一人で演奏をする。
夜中に、決まってヴァイオリンを。
ルナサは常々思っていることだが、メルランは上手い。
それを主旋律とする自分にも劣らないくらいに。
しかしルナサには、今日の演奏は少しだけ音が低く聞こえた。
「ふぅ……」
ルナサはなんとか部屋を出たが、体調が悪いことに変わりは無かった。
いつも下りている階段が、今日はとても急傾斜に見える。
一段下りる度に響く足音ですら、大きな雑音に聞こえた。
息を切らしつつも、ルナサはリビングまで辿り着いた。
とりあえず二番目の棚、薬入れを開ける。
取り出した黒い小瓶。永遠亭の薬師に譲ってもらったものだ。
効果の程はよく知らないが、飲んでおくにこしたことはない。
水を汲みにキッチンへ足を向けると、そこにはメモと共に皿が置いてあった。
『ルナ妹のぶん』
思わず苦笑が漏れた。
おいおいリリカ、姉という字ぐらい書けないのか?
ルナサは呆れつつも皿に乗っていたサンドイッチを口にする。
美味い。素直にそう思った。
「――――ん」
音が止んだ。
階段を下りる音が聞こえてくる。
どうやら、今日のソロライブは終了のようだ。
顔を合わせるのがなんとなく嫌だったので、ルナサは外出することにした。
行き先は未定。帰る時間も未定。
見つからないように窓から外へ。
薬を飲み忘れたことに、外に出てから気がついた。
***
「そんなことがっ…………」
「あるのよ」
妖夢は言葉が出なかった。
文字通り、絶句。
「あの三人はある人間の強力な思念によって生み出された存在よ。それは知っているでしょう?」
そうなのだ。
プリズムリバー三姉妹は人間でも妖怪でも亡霊でもない。
思念によって存在する生命体、ポルターガイスト。騒霊である。
「そしてその人間はとうの昔に亡くなり、その思念も弱まってきている」
妖夢は静かに頷く。
「さらにあの三人は自分たちの存在理由すらわかっていない」
これも頷くしかない。
「力も、存在理由も失ってしまった騒霊はどうなるか。わかるわよね?」
「…………」
認めたくなかった。
だが妖夢がいくら下唇を噛もうとも、現実は変わらないのだ。
「…………消滅…………します」
***
『ルナサ・プリズムリバー』
ルナサの頭に、あの時言われたことが甦ってきた。
『あなたは自分が今、何故ここに存在しているかわかっているの?』
わからなかった。
四女――――レイラ・プリズムリバーによって生み出されたのは知っている。
しかしそれは家族と一緒にいたい、というレイラの純粋な想いによるものだったはず。
ならば自分達の役目は、レイラと一生を共にすること。
レイラが亡くなった今となっては、役目は終わったようなものだ。
『そう……わからないのなら仕方が無いわね』
そして幽々子は告げた。
三人の演奏会での失態、三人の身体に圧し掛かる倦怠感。
その全ての元凶を。
『あと数日かしら。まぁ有意義に在りなさい』
その言葉の意味を理解するのに、数刻を要した。
呆けた表情のルナサに、とどめの一撃。
『わかる? あなたたちは消滅するのよ』
消滅。
消える。滅する。消滅。
消滅。消え去ること。
死とは違う、恐怖。
体が震え出した。
嫌だ。
消えたくない。
『二人にも伝えておきなさいね』
無理だ。
こんなに恐ろしいことを、伝えられるわけがない。
消えることは恐ろしい。死ぬことよりもずっと。
怖い。怖い。恐ろしい。
嫌だ。
「メルラン…………リリカ……」
ルナサの目からまた涙が溢れ出した。
何故まだ涙が出るのだろうか。
さっき出し尽くした筈なのに。枯れている筈なのに。
「レイラ……」
その場にうずくまった。
自分がどこにいるのかもわからない。
とにかく怖かった。
今この瞬間に無くなるかもしれない。
全てが消え去るかもしれない。
それはもう言いようの無い恐怖で――――
「珍しい顔だな」
「え?」
ルナサが振り向くと、そこには一人の人間がいた。
「なんで貴方がここに……」
「ここは私の家だぜ」
ルナサは慌てて周囲を見回した。
そこでようやく、自分がいるのが森だということに気がついた。
眼前には一軒の家がある。『霧雨』の文字がプレートに書かれていた。
「んー、まぁあがってけよ。こんな時間だが茶くらいは出すぜ?」
ルナサは曖昧に頷いた。そして魔理沙に連れられるまま霧雨邸へと入った。
本来、こんな場所を訪ねるつもりなどなかった。
だがもうどうでもいい。
家に帰らない理由ができた。それだけのこと。
「とりあえずそれでも飲んでてくれ。私は少しやることがあってな」
そう言うと、魔理沙は別の部屋に入っていった。
魔理沙は茶と言ったが、目の前にあるのは明らかに水の入ったグラス。無味無臭である。
ルナサはそれでも一応飲んでみた。やはり味は無かった。
「唸れ~スパーク~~」
部屋から元気な歌声が聞こえる。
それは、ルナサがまだ聞いたことの無いリズムだった。
世の中にはこんな曲もあったんだな…………知らなかった。
自分が知らないことなんて、まだたくさんあるのにな…………
ルナサの手元のグラスに、波紋が広がった。
まだ、消えたくない。
「魔理沙!」
ルナサは思い切りテーブルを叩いて立ち上がった。
何事かと魔理沙が部屋から飛び出してくる。
「おい、どうし……」
「聞きたい事がある」
ルナサは静かに歩み寄った。
「貴方ならどうする」
「は」
「貴方のとても大切な人……そうだあの紅白……」
霊夢の名が出た瞬間、魔理沙の表情が一変した。
半笑いを作っていた口元が引き締まり、目に光が灯る。
本気だ。
「博麗霊夢が、なんらかの理由であと数日の命だとする。そしてその事実を貴方は知ってしまう」
張り詰める空気。互いの緊張感が痛いぐらいに伝わる。
静かに息を呑む。
「しかし霊夢自身は何も知らずに過ごしている。貴方はどうする? そのまま黙っているか……」
「言うぜ」
「え?」
「全部伝えるぜ。ありのままに」
即答だった。
ルナサは思わず魔理沙の顔を見つめた。
何の疑問もない、さも当然と言うかのような魔理沙の表情。
迷いなど一切感じられない。
「…………どうして」
どうして、どうして。
純粋な言葉が、ルナサの心を締め付ける。
痛い。猛烈に痛い。
「どうしてそんな簡単に言えるの?」
魔理沙の胸倉を掴んだ。
「あと数日で死ぬなんて怖いじゃない! そんな思いを大切な人にさせるの!」
もう何がなんだかわからない。
「気が狂うかもしれないのよ! 心は痛まないの! そうか、他人のことだから……」
「馬鹿か!」
魔理沙の大声に、ルナサの体が仰け反った。
同時に力が抜ける。
ルナサは、積んであったガラクタにそのまま頭から突っ込んだ。
魔理沙の言葉は続いていた。
「私はただ…………信じているだけだ!」
信じる。
「あいつはそんなやつじゃない。あいつなら、受け止めてくれる」
受け止める。
「そう信じている。だから私は真実を話す」
真実を。
「あいつもきっと……それを望むはずだ」
望む。
「……っと大丈夫か?」
「うん」
ルナサは差し出された手を掴んだ。
力強く。
「……ごめんなさい」
「構わないぜ」
魔理沙が拾ってくれた帽子をかぶり直した。
「少しは落ち着いたか?」
「うん」
魔理沙が視線を向けてくる。
ルナサははっきりと頷いた。
「ありがとう」
にいっと笑った魔理沙の笑顔が眩しかった。
「ん……」
窓から光が差し込んでくる。夜が明けるようだ。
そろそろ帰ることにしよう。
ルナサは今一度魔理沙に礼を言い、霧雨邸を後にした。
信じよう。
もうルナサに迷いはなかった。
***
「うん、だいぶ上手くなった」
「そうかな?」
「そうよ。やっぱり妖夢ちゃんはすごいわ」
「ねぇねぇ、次はみんなで弾いてみましょうよ!」
「そうだね――――」
とてもいい日差しが差し込んできている。
妖夢を囲んでいるのは、ルナサ、メルラン、リリカ。
三人は、とても優しく微笑んでいた。
「ねぇルナサ」
「なぁに?」
「もう一度、お手本を見せてくれない?」
「わかった。それじゃいくよ、メルラン、リリカ!」
「OK姉さん!」
妖夢は思った。
彼女たちにはこの姿が一番似合っている。
それぞれが自分の得手である楽器を構え、時を待つその姿。
空気、風、空――――その全てが彼女たちと合致する。
その瞬間を、待ち続けている姿。
「綺麗……」
口から自然と漏れた。
本当に、綺麗な光景だった。
目を閉じるルナサ。全身の神経が研ぎ澄まされている。
空気を肌で感じ、その流れを感じる。この世界を感じる。
自分の交わる感覚を忘れないように。
同じく目を閉じるメルラン。こちらは聴覚に精神が集中している。
風の音を聴き、その言葉を聴く。この世界を聴く。
自分の交わるタイミングを聞き逃さないように。
同様に目を閉じるリリカ。目蓋の下の瞳には確かな輝きを持っている。
空間を見つめ、その向こう側を見据える。この世界を見つめる。
自分の交わる姿を見失わないように。
最近は妖夢にも少しわかるようになった。
その瞬間が近づいてきている。
「……メルラン?」
その時、妖夢は違和感を感じた。
最初はメルランからだった。
いつもと違う。次いでルナサ、リリカからも。
妖夢は始まらない演奏に耳を傾けるのを止めた。
声をかけた。いつもと同じように、ごく自然に。
しかしその声は自然と震えていた。
「ねぇメル……」
メルランの肩に置こうとしたその手が、空を切った。
「ルナ……リリ……」
妖夢が掴んだのは虚空のみ。
届かなかった。目の前にいるのに、誰も居なかった。
「おい、冗談は」
妖夢はもう一度手を伸ばした。しかし何も無かった。
騒霊でも温かい筈の彼女たちの体を、その右腕が貫いていた。
ぬくもりなど微塵もない。ただ冷たい外気の温度だけ。
彼女たちの瞳には何も映っていなかった。
空虚なモノが、そこには広がっていた。
そして次の瞬間。
彼女たちの命は落下した。
妖夢は地面に転がったそれに目を向ける。
そしてそれを拾おうとして……やめた。
視線を上げる。
そこにはもう、何も無かった。
「あ…………」
薄く、細く、淡く、静かに、彼女たちは消えていった。
妖夢は言った。
「待って……」
言った。
「待って」
言った。
彼女たちの命に縋りつきながら。
叫んだ。
「待ってよ――――――――!」
妖夢は目を覚ました。
今まで自分が縋りついていた楽器――――もとい枕は、驚くほど湿っていた。
余りにも嫌な夢だった。思い出したくもない。
「……くっ」
それでも妖夢は、寝て忘れてしまおうとする体を無理矢理立ち上がらせた。
忘れてしまうのは危険だ。今のは本当に…………
「お暇を頂きます!」
静まりかえった白玉楼にそう叫び、妖夢は明け方の空の下へ飛び出した。
寝巻き姿のまま、刀も持たずに。
あられもない今の姿はスクープものだったが、悠長なことは言っていられない。
このままでは危険だ。本当に夢なのだろうか。
いや、夢であってほしい。
そう願いながら飛び続けるしか、妖夢にはできなかった。