人が倒れていた。
「………………」
雪を人型に溶かすようにして倒れている少女を、上白沢 慧音は無言で見下ろしていた。見覚えのない人間だった。それが本当に人間なのか、幻想郷においてははっきりと断言できないけれど、人型であるのは確かだった。足まであるような銀の髪をお札で結び、Yシャツとぶかぶかの赤いモンペという、見ているだけで寒そうな格好をしていた。
行き倒れていた。
生き、倒れていた。死んではないように見える。雪をぽっかりと人型に押し込むようにして倒れている。元々倒れていたところに雪が降り積もったのか、雪が積もっている上にぱったりと倒れたのか、慧音には判別がつかない。ただ、周りには誰の足跡もついていないから、前者だとは思う。朝起きてすぐ散歩に出たから、新雪には慧音の足跡以外は何も残っていない。
つまり、この少女は昨日の夜からこうして倒れていることになる。
「……生きてる、のかな……」
恐る恐る、おっかなびっくり慧音は少女に近寄る。相手は自分よりも頭二つは大きい。いきなり跳ね上がって襲っていたらきっと負けるだろう。けれど――見捨てて家に帰ることは、慧音にはできなかった。
八歳の慧音にとって――それは初めて出合う、見知らぬ誰かなのだから。
慎重に、ゆっくりと慧音は歩み寄る。倒れている少女と同じ銀の髪がかすかに揺れる。慧音の頭の上には何も乗っておらず、雪の反射光を更に反射して、朝焼けにきらきらと輝いてみてた。
しゃがみ込んで、細く小さな指先で、倒れた少女を突いてみる。ちょん、と触れ、慌てて慧音は指を引っ込める。突いた頬っぺたは温かく、弾力があり、死体には思えなかった。右手に草を、左手に花を握り締めている。飢えて食べようとしていたのかもしれない。
生きている、と思う。
それでも確信が持てず、慧音はもう一度指を伸ばした。先よりも大胆に、少しだけ強く押す。ニ、三度、ぷにぷにと頬を押しても少女は目を覚まさない。気絶しているのだろうかと思い、少女の顔を見るべく手の平をそっと少女の頬に沿え、
――その手を、がしりと捕まれた。
「ひゃわぃ!?」
素っ頓狂な声をあげて慧音はこけた。不安定な姿勢だったせいで逃げることもできず、新雪の上に尻餅をつく。逃げようにも、足が絡まって立てなかった。そしてそれ以上に――捕まれた手を、少女は離してくれなかった。うつぶせに倒れたまま、少女は慧音を逃がすまいと、細い手首をしっかと握って離さない。
殺される。
きっとこの人は妖怪で、わたしは頭からバリバリと食べられてしまうんだ。こうして雪の中で倒れていたのもエサを待つための手段なんだ。本気でそう思った。
けれども――それ以上、少女は動かなかった。手を握り締めたままぴくりともしない。
動かないままに、きゅるるるるるるるると、お世辞にも可愛らしいとは言い難い音が少女の腹から響き渡った。
「………………」
予想外の対応に、慧音は戸惑う。逃げるべきか笑うべきか悩んでしまう。どう考えても、今のは腹の音だろう。
悩んだ末に――慧音は、歩み寄ることにした。
「……お腹、空いてるの?」
恐る恐る、慧音は問う。『ああ空いてるよお前を食べちゃうぞ』と言われるような気がして逃げ出したくなるが、小さなお尻が積もった雪にはまって立つことすらできない。
少女は――
器用にも、倒れ付したまま、こくりと頷いた。
† † †
藤原 妹紅と名乗った少女は、慧音が驚くくらいに大食漢だった。もっともお握り一つだけで満腹になる慧音が小食漢なだけで、普通はお握り四つくらいぺろりと食べてしまうのかもしれない。幻想郷という隔離された世界の中で、さらに隔離されて生きている慧音には――その辺りの『普通さ』加減がよく分からなかった。
「あー生き返った生き返った」
何故か愉快そうに笑いながら妹紅は言い、満腹だと言いたげにお腹をさすった。洋服の都合上ヘソが見えているのだが少しも寒そうではない。それどころかついさっき手を握られた時に分かったのだが、妹紅の体温は慧音よりもずっと高かった。
そのことを慧音は不思議に思いながら、
「お腹いっぱい? まだ食べる?」
「ありがと。とりあえず大丈夫そうかな。それより茶が呑みたい」
土間にあぐらをかいて妹紅が言う。聞き方によっては図々しい注文だが妹紅が言うと不思議と横暴に感じない。年下の慧音の方が『面倒を見てやらなきゃ』と思ってしまうような、そんな雰囲気が妹紅にはあった。初めて出会ったのに警戒心を抱かないのはそのせいなのかもしれない。
「はいはい、ちょっと待っててね」
ぱたぱたと台所を慧音は駆ける。いつもの服の上に着ているエプロンは大人用のものなので、正面から見たらエプロンだけしか着ていないように見える。
あらかじめ釜戸にかけておいたお湯を使って慧音はお茶を淹れた。先ほど妹紅のためにおにぎりを造った手際といい、妙に手馴れている。そのことに気付いた妹紅が、
「立派なもんだな」
と感嘆した。慧音の歳でこういうことを出来るのは凄い――と素直に褒めたつもりだったのだ。
が、慧音の反応は、妹紅の予想外のものだった。
湯飲みを妹紅に手渡し、どこか、寂しそうな笑みを浮かべて慧音は言う。
「お母さん、いないから。わたしがしっかりしないと」
「…………」
その笑顔と、手渡された湯飲みを見比べて。
ずずずずず、と妹紅はお茶を啜った。ひと息で全てを呑み乾し、空になった湯飲みを慧音へと返し、暗い空気を吹き飛ばすような笑顔を浮かべて妹紅は言う。
「美味かった。これは淹れ方がいいに違いないね。よかったらもう一杯くれるか?」
「……うんっ!」
妹紅の笑顔を見て――慧音もまた笑い、湯飲みを大事に両手で抱えて踵を返した。茶を入れ直す慧音の後ろ姿を見ながら、ほぅ、と深く深くため息を吐く。
明らかに、安堵していた。
慧音にもそれが分かった。朝、屋敷の庭の果てでであったときは、明らかに妹紅は消耗していた。お腹が空いているのもあっただろうが、周りに対して何か警戒している風があったことに慧音は気付いていた。
何かに終われていたのかもしれない、と慧音は思う。
何か、妖怪か何かに襲われて、必死で戦って、必死で逃げて、逃げて逃げて、その果てに力尽きて庭で倒れていたのかもしれない。
どこか鋭い所のある妹紅には、そんな理由が相応しいような気がした。
だから慧音は、余計なこととは思いつつも、訊ねた。
「……怪我、してない?」
「ん?」妹紅は不思議そうな顔をして、次いで納得がいったとばかりに頷き、「身体が痛くて頭ががんがんして指先を動かすのも辛いけど――不思議なことに、怪我一つないのさ」
そう言って、妹紅はにやりと笑って肩を竦めて見せた。誰かに酷い目に合わされたけれど、怪我一つないのだと妹紅は主張する。その意味は、慧音にはよく分からない。分からないけれど、
「なら、良かった」
「んんん?」
「怪我がなくて、良かった、って思って」
言って、慧音は二杯目のお茶を妹紅に差し出した。妹紅は、差し出されたお茶と、慧音の瞳を見比べて、
「お前は良い子だなぁ」
笑いながら、慧音の頭をくしゃくしゃと撫で回した。母親のように、というよりは、父親のように粗雑で、けれど温かみのある行為。
それは――慧音にとっては。
「…………あ、」
父が居らず、母と触れ合うこともできない慧音にとっては―――この上なく、嬉しいことだった。
「あり……がとう」
真っ赤になった顔を伏せて、しぼりだすように慧音は言う。照れているのか、耳のあたりまで真っ赤だった。その様子が気に入ったのか、妹紅は「お礼を言うのは私の方さ」と言いながらさらに慧音を撫で回す。指先が髪を絡めるたびに、慧音はさらに俯き、顔を赤くした。
楽しそうに、妹紅は頭を撫でる。
嬉しそうに、慧音は頭を撫でられる。
遠い昔にしか撫でられたことのない少女と、一度として撫でられたことのない少女にとって――それは、幸せすぎる触れ合いだった。
◆ /2 ◆
上白沢 慧音にとって、父親とは話の中にのみ存在するものであり、母親とは触れられぬ場所にいる存在だった。
そもそも――『上白沢』という苗字は、慧音にのみあるものだ。今慧音が暮らす屋敷は、まったく別の苗字を持つ血筋のものだ。幻想郷でも有数の名家において、慧音と母親は、忌避すべき存在だった。
――妖怪に襲われた不義の女と、呪われた子供。
それが、慧音に与えられた評価だった。慧音の母親はどこの誰とも知らぬ妖怪の男と姦淫し、慧音を生んだ。そのことについて慧音は詳しいことは知らない。ただ、母と男との間に、何らかの愛情があったことだけは母の様子から気付いていた。男が『ハクタク』だと分かったのは、子供である慧音が生まれてからだ。
人とハクタクの子供――ワーハクタクの、上白沢 慧音。
そんなモノが普通に扱われるはずはない。かといって、産まれた直後に殺してしまうほどに、幻想郷は惨酷ではない。結果、稗田家は『よそ者』と姦淫した母親を軟禁し――建前上は、神とまぐわった女性を崇め――慧音を、腫れ物を扱うようにして引き取った。満月の夜が来るたびに、何故か地下牢に軟禁される以外は、不自由のない生活だった。
そこには――人との触れ合いというものは、一切なかったけれど。
だから、慧音は母と父の愛情を知らなかった。家族どころか、他人と巡りあうことすらなかった。稗田の屋敷で一日を過ごし、誰とも話すことなく、自分のことを自分でやるだけの日々。
そんな中に突如として現れた藤原 妹紅は――言うならば、慧音にとって始めての友達だったのかもしれない。
「……何してるんだ?」
畳の上でごろりと寝そべり、頬杖をついたまま妹紅が訊ねた。あの日、森の中で行き倒れていたところを救って以来、妹紅は慧音の家に居付いていた。食い扶持が一人や二人増えたところで慧音の家にとって変わりはない。むしろ、扱いづらい子供の相手をしてくれる人間が現れたことに喜んでいる節があった。
妹紅はといえば「そういうわけにはいかない」と断ったのだが、雪の中で寝てたら凍死してしまう、と本気で心配する慧音に説得され、冬を越すまでは滞在することになった。
もっともこれは後で分かることだが――凍死など、妹紅にとっては心配の意味のないことだった。だから、妹紅は純粋に慧音の心を嬉しく思って滞在を決意したのだろう。
だが、それが判別するのはまだ先のことだ。今の慧音にとっては、妹紅は『ちょっと変なお姉さん』でしかない。
「勉強。妹紅も読む?」
読んでいた本を掲げて慧音がいった。出会ったときは『妹紅さん』と呼んでいたが、妹紅が恥かしそうに断るのと、ここしばらくのぐーたらぶりがあいまって、いつのまにか親しく名前だけで呼んでいた。
妹紅はずりずりずりと畳の上を這い、慧音の肩に後ろから抱きつくようにして顎をのせて本をのぞき見た。こういう何気ないスキンシップを平気で行えるのは妹紅だからこそだろう。
「んー? 何の本だこれ?」
妹紅の問いに、慧音は少しだけ頬を赤めつつ、
「幻想郷縁起。歴史書、かな」
「……頭が痛くなりそうな本か」
「いや、そういうわけでもないよ。面白い本だよ――本当に勉強になるし」
えっへん、と正座したまま器用に胸を張る慧音。幼いので胸を張ってもまだ少ししか山がない。
「……慧音は勉強熱心なんだな。ちっこいのに賢いし、凄いもんだ」
「そうでもないよ。私より、お母さんや叔母さんの方がずっと色々なこと知ってる」
「いやいや、私が慧音くらいの歳には、本を読んだりなんてしてなかったな」
「妹紅は勉強しないの?」
慧音の率直な問いに妹紅は苦笑して、
「昔から勉強は嫌いなんだ。身体を動かす方が性にあっててね」
そう言って慧音から離れ、よっ、と軽い掛け声とともに逆立ちした。そのまま腕一本で逆立ちし、畳を思い切り突き飛ばすようにして飛び上がった。宙でくるりと半回転し、格好よく足から着地する。
おー、と慧音が拍手を送り、妹紅は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「とまあ、こんなところだ」
「私にもできる?」
「練習すればね」
「どれくらい練習したらできる?」
「そうさね――」
羨ましそうな顔をして問う慧音に、妹紅は笑って答える。
「――千年くらいかな」
† † †
外では雪が降っている。豪雪というほどではない。厳しい冬の寒さを知らしめるべく、氷精と冬妖怪が遊びまわっているのかもしれない。辺りを白く染めるほどに量の多い――けれど穏やかに降り積もる雪だった。
冬の始まりはもはや遠く、冬の終わりは彼方にある。冬の只中において、その寒さを凌ぐため、人間は様々なものを作り出す。
火鉢もその一つだった。
「見てな……ほら、よっと!」
妹紅が指先を沈黙する火鉢の中に突っ込み、ぱちりとうちならした。途端――指先から炎が噴き出て、たちまちに火鉢の中を満たす。指から出た炎は指を燃やすことはなく、的確に炭だけを燃やしていた。
ゆっくりと指を引き抜くと、火傷の跡などどこにもない。ぱちぱちと音を立てながら火鉢が熱を放つのみだった。
「凄い……」
慧音は目を丸くして素直に感嘆した。幻想郷の中にはそういうことができる人間がいるというのは知っていたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。魔法と聞くと年老いた『魔女』を想像するが、側にいる妹紅はそう歳が離れてるように見えない。
「凄いだろ」
褒められて嬉しいのか、妹紅は笑って胸の中にいる慧音の頭をなでた。位置としてはあぐらをかいた妹紅の上に慧音が座る形になっている。日本家屋の設計上隙間風は避けられないので、二人羽織りのようにしてハンテンを羽織っているのだ。慧音が小さいからできることだが、互いの体温があるのでかなり温かい。
「どうやったの?」
後ろから下腹のあたりに回された妹紅の手に、自身の小さな手を重ねて慧音が問うた。手だけ見れば、普通の人間の手と変わりはない。
「種も仕掛けもありません――ってね」
もう片方の手を伸ばし、妹紅はふたたびぱちんと指を鳴らした。指先から生まれた炎は、この度は蝶の形をとって、ふわふわと生きているかのように飛んだ。目を丸くする慧音の見る中、炎の蝶はふわりと火鉢の中に舞い降りる。ぱちり、と一層強く火が弾けた。
「これも、練習したらできる?」
「いやあーこれは練習してもできないかな……」妹紅は頭を掻き、「慧音は、慧音にしかできないことをやればいいさ」
「私にしかできないこと?」
首を傾げる慧音を妹紅は撫で、
「そ。きっとあるさ」
「きっと?」
「間違いなく、な」
私が保証するのも変だけどさーと妹紅は笑い、つられて慧音も笑った。
広い屋敷の中で、一人でいるときには見せない――心の底から楽しそうな笑顔。
† † †
穏やかな日々は、ゆっくりと、ゆっくりと続く。
「風呂に入るなんて久し振りだ……」
六角風呂を前にして、妹紅が感動の声をあげた。涙こそは流していないものの、今にも感極まって泣きそうな顔だった。わが人生ここに極まれり、という感じである。もっとも全裸なのでまったく様になっていないが。
そんな妹紅を慧音は呆れたように見つつ、
「……。妹紅、今までどうしてたの?」
「いや、川で行水とか」
「鴉じゃないんだし……ゆっくりつからないと駄目だよ?」
「うん、そうする――ああ、お湯なんて久し振りだな!」
子供のようにはしゃぎつつ風呂桶に飛び込もうとする妹紅を、
「妹紅っ!」
という声と共に、文字通りに後ろ髪をひっぱって慧音が引き止めた。「ぐえ」とつぶれた蛙のような声を漏らして妹紅が止まる。長い銀髪をひっぱられ、首がぐきりと嫌な音を立てた。骨くらい折れたかもしれない。
恐る恐る、慧音は問う。
「……大丈夫?」
「――。死ぬかと思った」
いや、死なないけどさ、と冗談めかして妹紅は続け、慧音は安堵のため息を吐いてから、
「かけ湯、しないと」
「そっか、そういうのがあるの忘れてたな。……でも一日中外出てないしさ、それくらい」
「駄目。ちゃんとしなきゃ、駄目」
「……はい」
叱られた子供そのものだった。しゅん、とうな垂れる妹紅を見て慧音はくすくすと笑い、手桶にお湯を注ぐ。まずは自分の裸身にそれをかけ、それからちょっと背伸びをして、妹紅の身体にお湯をかけた。外が寒いせいかすぐに湯気が立ち、妹紅と慧音の裸体を覆い隠す。
「それじゃあ遠慮なく」
声に混じる喜色を隠そうともせずに妹紅は風呂に飛び込んだ。体積の分だけ溢れたお湯が洗い場に零れる。慧音は呆れたように――そしてどこか微笑ましく思いながら――微笑み、妹紅の後に続く。
石と木で出来た風呂場はそう大きくない。とはいえ、しっかりとした造られた風呂場が家にあるだけ凄いとも言える。二人が手足を伸ばせるほど広くはないが、向かい合ってのんびりつかれるくらいには広い。
あー、と妹紅が声を出した。風呂場に反響する声を楽しんでいるらしい。慧音はくすくすと笑い、窓から入ってくる風を感じて「くちゅん」とくしゃみをした。
「肩までつからないと駄目だぞ」
今度は妹紅がお姉さんぶって言い、肩どころか顎のあたりまで湯の中につかった。天井を扇ぎながら「極楽極楽」と言っている姿はどこをどう見てもまごうことなきオヤジである。
注意されたのが嬉しいのだろう。慧音は笑って「はい」と答え、同じように首まで湯につかった。
お湯は澄んでいるので、互いの身体がはっきりと見える。慧音は少し恥かしそうにしているが、妹紅は照れたところがまったくない。それどころか、上機嫌に鼻歌まで唄う始末だった。
「お風呂、気持ちいい?」
「――極楽にきた気分だ。いや、極楽鳥になった気分だ」
妹紅の答えが面白かったのか、慧音はくすくすと笑った。その顔を、ふと妹紅は真面目な顔で見る。
――会った時は、無表情な子供に見えたのにな。
それは、妹紅の嘘偽らぬ本音だった。出会ったばかりの慧音は、今ほど表情豊かではなかった。いや、今だって決して豊かとは言いにくい。こうして笑ったりすることもあるが、それでも何か欠けてるように思える。
それが何なのか、短い付き合いでは、妹紅には分からない。
ただ、短い付き合いでも――その原因くらいは妹紅にも理解ができた。
この家は、冷たいのだ。
隙間風が吹いている。どこか、冷たいものが存在する。違う苗字、姿を見せない両親、微妙な一線を引いている大人たち。
その空気は、かつて妹紅が味わったことのあるものだ。それはそう――遠い昔、父親が死んだ後の家のような。擦り切れた感情で、あの女に復讐を誓ったときのような――――
「………………」
それが分かっているからこそ。
妹紅には――慧音を、この出会ったばかりの小さな少女を、放っておくことができなかった。
「わ、わ、何?」
いきなりくしゃくしゃと頭を撫でられて慧音が困惑したように言う。それでも、嫌がってはいない。こうした触れ合いを、喜んでいるのは確かだった。
「いーや、別にー」妹紅は笑って、「それより飯食って寝て早く大きくなれよ。頭でっかちなだけじゃ駄目だぞ」
くわんくわんと撫でた頭を回して、おどけるように妹紅は言う。
「大きく……?」
ちらりと、いぶかしむように慧音は妹紅を見る。正確には妹紅の一点を。歳が離れているというのに、大して差のない胸板を慧音は見比べて、
「……大きく?」
繰り返すように、そう問いかけた。
その頭に――妹紅は憤然と手刀を振り下ろした。
† † †
幻想郷の夜は深く、暗い。電気の通るところなどなく、蝋燭の明かりが主な幻想郷では、夜の暗闇を照らすものは月と星しかない。だからこそ、幻想郷の村人は月に感謝する。それがなければ、夜道で近づいてくる妖怪に気付くことはないのだから。
しかし、何事にも例外はある。この場合の例外は――慧音だった。
「…………ん」
微かな物音で、妹紅は目を覚ました。野宿を繰り返しているうちに、すぐに目を覚ます癖がついてしまった。闇夜にゆっくりと瞳が馴染み、すぐに部屋の中を見渡せるようになった。
慧音の部屋、二つ並べられた蒲団。開いた障子の向こうには夜の世界が広がっている。雪は降っていないものの、寒さによって積もった雪は溶ける気配を見せなかった。
空には月がかかっている。限りなく満月に近い月。明日にでも、完全な真円になるのだろう。
こんな夜には妖怪も活発だろう――そう思いながら、妹紅は音の主を探す。慧音が起きたのかと思ったのだ。
「――――」
そして、妹紅は絶句した。
起きた、どころではなかった。慧音は寝ていなかった。寝ることもできずに、部屋の隅で膝を抱えて、脅えるように――月を見ていた。
それがまるで親の仇でもあるように、月を見て、慧音は震えていた。
「慧、音……?」
その光景が信じられず、妹紅は弱々しい声を投げた。夢かと思った。夢であってほしいと思った。
罪のない少女が、こんなにも脅えなければならない事実が、現実にあってほしくなかった。
「う、うぅ……」
がちがちと鳴りかねない歯を押さえるように、慧音はうめきをもらしながら、視線をどうにか月から外して妹紅を見た。
視線がからみ合い、慧音の瞳の中に、妹紅ははっきりと脅えを見た。
慧音は、月を、そして夜を恐れていた。
その瞳の前に、妹紅は「どうしたんだ」とすら言えない。何を言うこともできない。そして慧音は、妹紅に何を言われるもなく、自身の恐怖を吐露した。
「夜が……月が、怖い、怖いの」
月が――怖い。
泣きそうな声で、慧音はそう言う。恐らく、寝る前に満月に近い月を見て――それから、眠ることができなかったのだろう。
「わた、私……満月の夜は、外に出ちゃいけないって……いっつも、鍵がある部屋にいれ、いれら、れるの」
「あれは――まだ満月じゃない」
出来る限り、脅えさせないように、優しい声で妹紅は言う。これ以上、慧音を脅えさせたくなかった。
慧音は歯をがちがちと、がちがちがちと鳴らしながら、
「でも……月は、怖い」
何かが変わってしまいそうで、怖くてたまらない――そう言って、慧音は膝の中に顔を埋めた。ぽたりと、伏せた顔から雫が落ちる。
妹紅は。
月を脅えて泣く慧音に、妹紅は微笑んだ。
怖くないよと、そう信じさせるように妹紅は笑った。
「――慧音」
言って妹紅は立ち上がり、襖をぴしゃりと閉めた。そしてその足で部屋の対岸までいき、座ったままの慧音を、ひょいと抱きかかえる。
「、あ……」
驚き、顔をあげる慧音に対し、妹紅は変わらぬ不敵な笑みを送り、
「今日は一緒に寝るか」
返事もきかずに、御姫様のように抱きかかえて、慧音を自分の蒲団に寝かせた。そして、抱きしめるようにして、自身も蒲団に入る。
慧音の小さな身体を――蒲団の中で、抱きしめてやる。
「夜も月も怖くないさ」妹紅は笑み、「慧音を怖がらせるもんなんて――全部燃やしてやるよ」
冗談めかして言って、妹紅は、小さな炎を出した。不思議と熱くない炎は、二人の顔を温かく照らす。ふわりと人魂のように炎は妹紅の手から離れ、空いた手で、妹紅はそっと慧音の涙を拭ってやる。
拭った涙が、炎によって蒸発する。涙なんていらないと言わんばかりに。
な? と妹紅が笑い――慧音は、その胸元に飛び込んだ。背中に手を回し、強く、強く抱きつく。離れることのないように。
その慧音を、妹紅は母親のように優しく見つめ、頭を撫でてやった。
慧音から健やかな寝息が聞こえるまで、ずっとずっと、妹紅は撫で続けた。
◆ /3 ◆
平和――だったのだろう。
穏やかな共同生活はどこまでも幸せに満ちていた。それが永遠に続けばいいと慧音が願ってしまうほどに。妹紅までもが、心のそこで願ってしまうように。幸せで、穏やかで、満ち足りた日々が、いつまでも続く。それは誰もの望むものだった。
けれど、妹紅は知っていた。
自分を知る妹紅は、いつまでも同じところに滞在できないことを、深く誰かと付き合ってはいけないことを知っていた。
知っていたのに――あまりにも居心地が良くて、つい、離れられなかった。
知っていたのに。
竹林で用心棒のように暮らすべきだと知っていたのに。いくら争いが形骸化したとはいえ、いくら復讐の憎しみが消えたといえ、いくら長い長い長い時間が過ぎたとはいえ――宿敵同士であることに変わりはないと知っていたのに。
だからこそ、当然のように終わりはやってきた。
「…………」
雪に埋まる庭を見て、妹紅は一歩も動けずにいた。その場に広がる景色を見て、妹紅の心は凍り付いていた。いつかは来るとは思っていた。ひょっとしたらこないかもと思っていた。けれど、どうやら相手はそこまで甘くはないらしい。あの日、行き倒れになっていた日。中途半端になっていた決着を――相手はつけたがっている。
そのことを、妹紅はひしひしと感じ取っていた。
雪に染まる庭。
その中に、ただの一本だけ――向日葵が咲いていたのだ。
真冬の庭に咲く向日葵。
それは――明確な、《彼女》からの挑戦状だった。
今夜決着をつけようと、向日葵は無言で主張していた。こなければこちらから襲うだけだ、とも言っていた。
選ぶべき道は、一つしかなかった。
妹紅は素足のまま雪の上へと踏み出した。さくりと、軽い音を立てて雪に足が沈む。まだ誰にも跡をつけられていない雪に、一つ、また一つと足跡を刻みながら、妹紅は向日葵の側まで歩む。雪を割るようにして地面から生えている向日葵。それを妹紅は握りしめ――
握りしめた瞬間に、向日葵は燃え、そのまま燃え尽きた。
灰さえも残らなかった。一瞬で花から根までを燃やし尽くされ、向日葵はその姿を消した。だというのに、雪は微塵も溶けていない。残ったのは、握りしめた妹紅の拳だけだ。
決着を、つけるしかないのだろう。
幸いにも――幸いだと、思いたくはなかったが――今夜は慧音がいない。どんな結末になろうとも、慧音に見られることはない。
戦いは怖くない。怖いはずがない。
自分が死ぬところを慧音に見られて、嫌われ、恐れられるのが怖かった。
向日葵を睨む妹紅の拳は、血がにじむほどに固く握られていた。
† † †
昼になっても庭先の雪が溶けることはなかった。それどころか、はらりひらりと、寒さを増しながら粉雪が降ってきた。風がないせいで、どこか穏やかな光景に見える。雪が音を吸い込んでいくせいで――屋敷の中は妙に静かだった。単純に、慧音の周りに人がよってこないせいかもしれない。
くしゅん、と慧音が鼻をすすった。縁側で降る雪を見ていた妹紅が、慧音の存在を思い出したかのように肩越しに振り返った。
「ん……寒かったか? 何なら閉めるけど」
「ううん、大丈夫。うん、だいじょ……ふぇ、ふぇ、」
ふぇくしゅ、とくしゃみをして、慧音は火鉢の側に置いてあるハンテンを羽織った。やっぱり寒かったらしい。大人用のハンテンなので、すこしだぼついているのが余計に可愛らしかった。暖かそうにハンテンを着た自身の体を抱きしめ、幸せそうな顔をする慧音。その様子を、妹紅は微笑ましく見守った。
と、
「――妹紅は?」
ふと顔をあげ、慧音がそう問うた。何のことか分からず、妹紅は眼を丸くする。
「妹紅は、寒くないの?」
「いや……特には」
嘘偽りなく、正直に妹紅は答えた。寒いことは寒いが、気になるほどでもない。炎を使えるということもあるが、それ以前に長く鍛えているので平気になっている部分がある。むしろ、開襟シャツにもんぺという姿は、見ている方が寒さを感じてしまう。
「…………」
それを見かねたのだろう。慧音は無言で立ち上がり、とたとたと部屋を縦断して、縁側に座り込む妹紅の側まで駆け寄る。そしてその勢いのままに――後ろから、妹紅に抱きついた。
羽織るには大きすぎるもんぺを妹紅にかぶせるようにして、ぴったりとくっつく。顎を肩に載せ、後ろから妹紅の顔を覗き込むようにして、慧音は言った。
「えへ、あったかいね」
「……そうだね」
それもまた――嘘と偽りのない、妹紅の本音だった。触れた肌から伝わる体温はどこまでも暖かく、心にまでしみこむような温もりだった。一緒にいたのは短い時間だけれど、この温もりを妹紅は大事に思う。
だからこそ、離れなければならないと思うのだ。たとえ今日《彼女》を撃退しても――ずっとここにいれば次の刺客がくるかもしれない。そのとき、慧音を巻き込まない保証はないのだ。
妹紅は心中でひそやかに決意する。今夜決着をつけ、その足で去ろう、と。
思いが、顔に出ていたのだろうか。慧音がふと、不安げな顔をして、
「妹紅……お腹いたいの?」
お腹、と聞いて妹紅は思わず笑いそうになる。初めて会った時にお腹を空かせていたせいだろうか、どうにも『腹』についてよく言われるような気がする。
意識して笑って、妹紅は「なんでもないさ」と言って慧音の頭を撫でた。不安げな顔をしていた慧音も、撫でられて幸せそうに笑う。
二人は幸せそうに笑いあい、
「――慧音さん」
笑顔を裂くような、冷たい声がした。
「…………」
妹紅は押し黙り。
「……はい」
慧音は笑顔の消えた、能面のような顔で振り返った。そこに立っていたのは、和服姿の上品な女性だった。それなりに歳を取っているのを、白粉でごまかしている。血縁上は《祖母》になるらしいが――この家にきてから、女性の方から慧音に話しかけるところを、妹紅は一度として見たことがなかった。それどころか、あからさまに眼をそらし、見ようとすらしていなかった。初めから、いないものと扱うように。
そんな女性が、自身から声をかけてきたのだ。その内容が良いものであるはずがない。
「今宵は満月ですから――おいでなさい」
言って、慧音の返事も聞かずに女性は踵を返す。ついてくるのが当然だと、思っているようだった。事実、その通りなのだろう。慧音は黙って、その女性の後ろに続くべく、ハンテンを脱いで立ち上がる。
深い考えがあったわけではなかった。
何も考えずに、ただ、反射だけで――妹紅は、立ち去ろうとした慧音の手を握っていた。
「……あ」
握ってから、自分がしたことに気付き、妹紅は驚きの声をあげる。そうしている間にも女性は歩みを止めず、手を握られている慧音はその後を追うことができない。
――私は、引き止めたいのか?
自身の心に妹紅は問いかけてみるも、答えはでなかった。ただ、満月の夜を怖がっていた慧音の顔が、頭に浮かんで消えた。
慧音は。
慧音は――寂しそうに笑って、ふるふると、首を横に振った。
それは駄目だよ、と慧音は無言で主張する。
妹紅は――手を離さなかった。手を離さずに立ち上がり、手を繋いだまま歩き出す。手を引いて歩む妹紅を、慧音は首を傾げて見上げた。
「途中まで一緒。せっかくだから見送ってやるよ」
そう言って、ぶんぶんと、照れ隠しのように妹紅は手を振る。繋いだ慧音の腕もつられて前へ後ろへと揺れた。
よっぽど意外だったのだろう。慧音は眼を丸くしたまましばらく硬直していた。妹紅は恐る恐る、
「……嫌か?」
劇的な反応があった。ぶんぶんと、慧音は激しく首を横に振る。長い銀の髪が尻尾のように左右に揺れた。
「なら、一緒だ」
手を繋いだまま、妹紅と慧音は歩き出す。妹紅は少しだけ恥かしそうに。そして慧音は、先までの無表情からは考えられない、歳相応の笑みを浮かべて。
二人は手を離すことなく女性の後を追い――辿り着いた部屋の前で、手を離した。
殺風景な部屋だった。
三方を壁で囲まれた、窓のない部屋。畳こそあるものの、それは牢屋と変わらないように妹紅には思えた。そこまで歩いていく際に分かったことがある。この部屋は屋敷の中央にあって――つまりは、外に面していないのだ。
何かを閉じこめるための、部屋。
その部屋に、慧音は女性から何を言われるまでもなく入った。これまでにそうしていたように。満月の日が来るたびに、慧音はこうして狭い部屋の中で一晩を過ごすのだろう。
その理由を、妹紅は知らない
けれど――どんな理由があるにしても、慧音の笑みを殺ぐようなことは、あってはならないと思った。他人の家のことに口を挟めはしないけれど。
自分にできることは、精々、笑って別れることくらいだ。
部屋に入り、扉の方を振り返った慧音に向かって、妹紅は精一杯の笑みを浮かべて手を振った。
「――またな」
別れの言葉は、それだけだった。長く生きていれば、いつかは会えるさ――そう心中で呟き、女性が扉を閉める最後の瞬間まで、妹紅は慧音に笑いかけた。
少しだけ寂しげな、慧音の笑みが、閉じた扉の向こうに消える。
ぱたん、と扉が閉まれば――慧音の姿は、見えなくなる。
女性がその場を無言で立ち去っても、妹紅はしばらくの間、沈黙し続ける扉の前に立ちすくんでいた。
そして――夜が降りてくる。
◆ /4 ◆
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!」
始まりを告げたのは、気の利いた言葉でも洒落た掛け合いでもなく、割れんばかりの笑い声だった。夜半、満月が昇るころ、雪を踏み現れた妹紅を見て――その妖怪は、笑い声で出迎えた。緑を基調にしたチェックの服を着て、雨も雪も降らないのに、花を模した傘をさしていた。
妖怪は。
数日前、藤原 妹紅と痛み分けをした妖怪は。
花を操る妖怪、風見幽香は――笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑って、笑いながら――飛び掛ってきた。
躊躇も遠慮もない、乾坤一擲の一撃だった。挨拶の言葉をかけようと和やかに手をあげかけた妹紅は、あげかけたその姿勢のままに傘で横殴りにされて吹き飛んだ。細い体が軽々と宙を舞い、十尺ほど飛んで太い樹にぶつかって跳ねた。その身が地面に落ちるよりも早く、
「――花符『幻想郷の開花』」
問答無用で、スペルカードを叩き込んだ。
避ける暇も防ぐ余裕もありはしなかった。樹にぶつかった衝撃で、肺の中の空気は残らずしぼり出されている。何か行動をしたければ呼吸をする必要があり、風見 幽香はひと呼吸の間も与えようとはしなかった。何もないところから生まれた冬の向日葵が、くるくると回りながら妹紅の体に突き刺さる。
雪を埋め尽くす、黄色の向日葵。
戦いが始まって、五秒と経たぬうちに――文字通りに、妹紅は『花葬』された。花びらに隠されて、白と紅の姿が見えなくなる。こんもりと山になった向日葵の群れを満足げに見て、風見 幽香は傘をさしなおした。
空には満月。強過ぎる月光を、傘によって遮ろうとしているかのようだった。
そして、妹紅は。
「いきなり何しやがんだああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
幽香が笑ったのと対照的に――感情を露わにして、大声で、怒鳴りつけた。叫びと共に、妹紅の姿を覆い尽くしていた向日葵たちが一瞬で燃え上がり、燃え尽きる。一秒にも満たないファイヤーストーム。朝、妹紅の手の中で向日葵が燃え尽きたように、今もまた弾幕の山が炎となって消えた。
後には、灰すらも残らない。
「――驚いたわ。本当に死なないのね」
その光景を見て、幽香は大して驚いた風もなく言う。明らかに、最初から殺せると思ってはいなかったようだ。弾幕自体は――死んでもおかしくない勢いで襲い掛かったというのに。
体についた土と雪を払い、妹紅はようやく深呼吸をして、
「死ぬかと思った」
安堵のため息と共に吐き出した言葉に、幽香が首を傾げた。
「え? 死なないんでしょう?」
「……それを知ってるってことは、やっぱりアイツの刺客か」
数日前のことを妹紅は思い出す。竹林で寝ているところにいきなり襲い掛かってきた変な妖怪。血気盛んな妖怪か、物取りかと思ったが――やはり違ったらしい。前回は三日三晩戦った挙句決着がつかず、話す暇もなかったので、相手の真意などわかりようがなかったのだ。
風見 幽香はおどけたように傘を掲げ、
「そういうこと。暇つぶしに付き合ってくれたら竹の花をくれるって言うから、ね」
あんな貴重なもの、そうないのよ――そう言って幽香は笑うが、妹紅は取り合わずに、
「……暇つぶしとは、よく言ってくれる」
「あら、そうでしょう? あなた達、千年以上も暇してるって聞いたけど?」
「たちっていうなたちって。アイツと一緒にするなよ」
ぶんぶんと首を振る妹紅。冗談でも一緒にされたくはなかった。確かに、まあ似たようなものといえば似たようなものだが、それでも宇宙人と地球人では38万キロほど差異がある。
幽香は肩を竦めて、
「私にしてはどちらも一緒。それにね――」
言って、くるりと傘を回す。傘が触れた雪の部分から、向日葵の花が生えてくる。季節も成長速度も無視した、でたらめな生まれ方だった。あれが――風見 幽香の弾幕なのだと、妹紅は経験から知っている。
だから、構えた。両脚を開き、かすかに膝をまげ、いつでも飛びかかれるようにする。その様子を見て幽香は満足そうに笑う。
「私も暇を持て余しているのよ。花が咲く季節になるまで、相手してくれないかしら?」
言って――とん、と地面を突き。
花たちが、一斉に妹紅へと飛び出した。向日葵の茎から離れた花が五つ、ゆるやかな孤を描くようにして妹紅へと飛ぶ。森の外れは広く、樹が途切れているところが待ち合わせ場所だったため、避けるのに苦労はしない。
「遅い! 先手必勝ォ――!」
弾幕ごっこは、避けて打つ遊びだ。あたらなければどうということはない、という理論に従い、それを手腕か、あるいは力押しで相手の体に弾幕をあてる。力つきたら勝負は終わり。運が悪ければ死ぬこともあるが、実力の拮抗した妖怪同士の弾幕遊びなら何時間も続くことはある。前回がそうだった。
だからこそ、妹紅は今度は、速攻で決めようと思ったのだ。
その焦りが、出ていたのかもしれない。
「いえ――遅いのは、貴方」 ・・・・・・・
妹紅が弾幕を放つよりも早く、向日葵が爆ぜた。
向日葵の花は単一の花びらで出来てはいない――円状に並ぶ数多くの花びらと、数えるのも馬鹿らしくなるほどの種で出来ている。それが五つ全て同時に爆ぜ、雨あられと妹紅に降り注いだのだ。一発一発の威力は落ちるとはいえ、避けることなどできない弾幕に足を止めざるをえない。
駆け出そうとした動きが、幽香によって無理矢理にとめられる。妹紅は姿勢を大きく崩し、転げそうになりながらもどうにか体勢を立て直そうと地面に手をつき顔を上げ、
「――――!?」
如何なる目の錯覚か。
畳んだ傘の先を、銃口のように妹紅へと向ける幽香の姿が――二人に見えた。
二人の風見 幽香は、傘を妹紅に向けたまま、まったくの同じ動きで、同じ声を吐く。
「「デュアルスパーク」」
声は――重なって聞こえた。
そして次の瞬間に、声をかきけすような大質量の光が来た。空気を、魂をも振動させるような光によって、周囲の木々が根こそぎ地面から剥ぎ取られる。音が大きすぎて「音」として認識が出来ない。空気が震えていることを肌で感じる。二条の光は一直線に妹紅へと伸び、その延長線上にあるものを一つ残らず掻き消していく。
二条の光が――月を目指すかのように、空の彼方へ消えていく。どこまでも伸びる光は途絶えることがない。撃った幽香本人ですら、撃った威力を完全に消すことができずに後ずさる。
ひとたまりも、なかった。
空からこの光景を見れば、綺麗に線上に『何もなくなっている』のが見えるはずだ。光が消えた後には――妹紅の姿は、ありはしなかった。
誰もいなくなったのを満足げに見て、幽香は笑う。笑う幽香の姿が蜃気楼のように一つに戻った。
「早く決着をつけたかったのは、私も同じよ。この歳になると、色々辛くてねぇ」
冗談めかして、くすくすと幽香が笑う。長く生きている、というのは本当だが、それを差し置いてでも早期決着をつけたかったのだろう。不死の妹紅は、長く戦うには厄介な相手だから。
くるりと傘を回し、開いて肩にかける。丸い傘の分だけ、地面に影が出来た。
「どうせまた生き返るんでしょうけど――生き返った瞬間に、またやってあげるわ」
貴方が疲れるまでね、と幽香は言い、その言葉に答えるように、先まで妹紅がいた地点に異変が起きた。
地面から――翼が生えてきたのだ。
一対二枚の、炎で出来た不死鳥の翼。復活を意味するそれが、大きく羽ばたくように、地面から宙へと広がる。辺りの雪を溶かすことのない、魂の炎。羽根の一枚一枚までが燃えるその美しさに、幽香は思わず息を呑む。
妹紅が、復活しようとしている。
「……いつまでも見ていたいけれど、そういうわけにもいかないわね」
やれやれ、と幽香は肩を竦め、再び、傘を前へと構える。今度は何のスペルカードを叩き込もうか、少しずつ大きくなる翼を見ながら考える。
思考という隙が、わずかに生まれる。
その、隙とすら言えないような、わずかな隙に。
――妹紅はするりと滑り込んだ。
「こっちだバカタレッ!」
・・ ・・・・・・
声は、後ろからした。
「な――!」
驚いて振り向こうとした幽香の顔を、後ろから伸びた手ががしりとつかむ。強制的に固定された後頭部に、思い切り――妹紅は膝を打ち込んだ。
ジャンピングニーキック。弾幕も糞もない、力任せの一撃。頭を固定されているせいで逃げ場もなく、力を逃すこともできずに幽香は衝撃を全て喰らう。さすがにぐらりと足がよろけ、それでもどうにか振り返り、
幽香は見た。
宙を飛ぶ土と雪まみれの妹紅と――足元に空いた、炎で溶けた大きな穴を。
「ミミズじゃあるまいし――!」
「せめてモグラって言え――!」
怒号する幽香に、妹紅は楽しそうに笑いながら宙でさらに舞った。膝を叩き込んだ姿勢から、足をさらに手前に引き、くるりと身を回しながら足の裏を幽香の顔に添えて、
力一杯に、足を伸ばしきった。
ローリングソバットともいう。普通は胴にするものだが、容赦なく顔面に叩き込むのが妹紅らしい。最初の会合とは正反対に、今度は幽香が地面をニ、三度はねながら十数メートルを転がり、樹にぶつかってようやく止まった。
「いきなり一方的にしかけるんじゃないこの馬鹿妖怪!」
妹紅は、止まらなかった。叫びながら転がる幽香を追い、地面に倒れる幽香に向かってヤクザキックを繰り出す。
「この――大昔の野蛮人!」
繰り出そうとして、樹木から勢いよく横向きに生えてきた向日葵に殴り飛ばされ、妹紅もまた跳ね飛ばされる。生えた向日葵の首が折れ、弾幕となって妹紅目掛けてとび、
「うるさいドライフラワー野郎!」
叫びを合図に、地面から生えっぱなしだった炎の翼が爆ぜた。羽根は炎となり、さらに勢いを増しながら一枚一枚が火の鳥となり――
「月のいはかさの呪いッ!!」
幽香の花を、全て燃やし尽くした。
それだけに止まらず、炎たちは意志を持ったかのように、上へ下へと複雑に羽ばたきながら身を起こした幽香へと迫る。当たればただではすまない攻撃に対し、幽香は傘ではなく、何も持たない手の平を向けた。
止めて、と言うように。
その行為に妹紅は笑い、
「――幻想郷の、開花」
口から出た言葉は、停止の呼びかけではなかった。静かなスペルカード宣言。
言葉と共に――花が咲く。
宙を飛ぶ炎から、炎の花が咲く。炎の鳥を食い尽くすようにして炎の花は咲き誇り、自身をも燃やして、花火のように爆発して消えた。
あとには、何も残らない。
おびただしい後の破壊の後が、残るだけだ。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
よろよろと立つ妹紅を見て、風見 幽香は嬉しそうに笑う。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
よろよろと立つ幽香を見て、藤原 妹紅は楽しそうに笑う。
そして、二人は。
「殺す!」
「やってみなさいよ!」
まったく同時に、拳を握りしめて――互いへと駆け出した。
† † †
なにか凄まじい音がして、浅い眠りについていた上白沢 慧音は目を覚ました。わずかに遅れて、空気を震わすような振動が訪れる。頑丈に作られた屋敷の戸が、がたがたと衝撃で震えた。
遠くで、何が起きている。
そのことはすぐに分かった。満月の夜だったのが幸いしたのかもしれない、慧音の思考能力は、寝起きだというのにはっきりしていた。満月の夜は、心がざわざわして、深く眠りにつけないのだ。神経が過敏になっていることを、幼い慧音ははっきりと自覚していた。
だからこそ、先ほどの『音』に気付けたのかもしれない。
実際には、何の音もしなかったのだろう。何の音もしないほどに、強力な何かが起きたのだと、慧音は心のどこかで気付いていた。屋敷に住むほかの人は、強い風が吹いたくらいにしか思わなかったかもしれない。
どこかで、何かが起こっている。
起こったのではない。今もなお、それは続いているのだと、慧音の本能が囁いてた。
「………………」
だからどうした――とも、思う。
そんなことは全然自分には関係のないことのはずだ。実際、三方を壁に、一方を扉にふさがれた部屋においては、外の様子など窺えるはずもない。何が起きていたとしても知るすべはないし、それが自分に関係するようなことなら、まず屋敷の人間が反応するはずだ。
だから、自分には関係ない。
自分には関係ない――けれど。
――自分以外には?
「………………」
慧音は考え込む。もしこれが一ヶ月前の満月の日ならば、慧音は考えることも悩むこともなく、再び寝床に戻っていただろう。『満月を見てはいけません』という忠告を、その理由について考えることなく、愚直に守っていただろう。上白沢 慧音という少女にとって、世界とは屋敷の中だけであり、自分以外の全ては『関係のないもの』だったのだから。狭い、閉ざされた世界で、眠るように生きていたからだ。
今は、違う。
『自分以外』の誰かのことを、慧音は知っている。まだ短い付き合いだけど、一緒にいて楽しいと思える相手のことを。
――妹紅。
頭の中に浮かぶのは、最後に見た藤原 妹紅の笑顔だ。どこか寂しげな、一度としてみたことのない、妹紅の笑み。
――あれは、別れを告げるものではなかったのか?
――今、妹紅の身に何かが起こっているのではないのか?
――今日の妹紅は、何か変じゃなかったか?
そんな、考えてもきりのない疑惑が、悪魔のように心の奥底から沸いてくる。否定しようにも、否定するだけの材料が慧音にはなかった。今日の夜を最後に、妹紅がいなくなってしまうことだって、ありえるのだ。
「………………」
何かが、起こっている。
その直感を――慧音は、否定しきれなかった。
行動には覚悟が要った。その覚悟を、慧音は三つ深呼吸する間に固めた。
「……うん」
心の中にいる誰かに対して頷いて、慧音は恐る恐る立ち上がり、扉に手をかけた。鍵はついているものの、いつも施錠されているかどうか、慧音は一度として試したことはない。
開いていることを祈りながら、慧音は取っ手を引く。
かちゃんと、小さな音を立てて、あっさりと扉は開いた。
「…………やった」
小さな笑みを口端に浮かべて、慧音は牢獄のような部屋を出す。
――鍵は、かかっていたのだ。
そのことに慧音が気付かなかったのも無理はない。誰も彼女に教えてくれなかったのだ。
上白沢 慧音が、何をできるのかというのを。
鍵がかかっているという歴史を隠すことくらい、造作もないのだと、誰も彼女には――教えてくれなかったのだから。
それが、上白沢 慧音の身を襲った悲劇の原因だということを、彼女はまだ知らない――
部屋を出て、まず最初に向かったのは自身の部屋だった。いつもならば妹紅が寝ている部屋。この時間にもなれば月は空高くにあがっているので、偶然眼に入る心配はない。それでも出来る限り下を見て、空を見上げないようにして慧音は歩く。走って音を立て、屋敷の人間に見つかったら、問答無用で今度こそ鍵のついた部屋に閉じ込められると思ったからだ。
できる限り急いで歩き、部屋に戻る。
部屋には――
「…………いない」
誰も、いなかった。
部屋はすっかり冷え切っていた。それは、火鉢が長い時間使われていないことを、この部屋に人がいないことを暗に証明していた。蒲団は敷かれてすらいない。
妹紅の姿は、どこにもない。
影も形も、ありはしなかった。
漠然とした予感が――明瞭な不安へと移り変わるのに、時間はかからなかった。
――音がしたのは、森の方だった。
その方向を慧音ははっきりと分かっていた。なぜならば、それは、
「……妹紅と、出会った場所」
竹林に近い、森の方角。そこで慧音と妹紅は出会った。
確信があった。
そこに、いるのだと。
「………………」
今度は、覚悟を決めるのにもう少しだけ時間が必要だった。夜に屋敷の外へ出ること、言いつけを全て破ること。満月の下に出ること。妹紅の側には、きっと危険な何かがいるという事実。
それでも。
それでも――行かないわけには、いかなかった。
上白沢 慧音にとって、藤原の妹紅とは。
初めて出来た、友達なのだから。
「……行こう」
自身にそう約束して上白沢 慧音は駆け出す。縁側で靴をはき、地面だけを見て、決して空を見上げないようにして走り出す。もう音を気にする必要はなかった。一度森の中に入ってさえしまえば、屋敷まで音が届くことはない。
それよりも、森が怖かった。
人を飲んでしまいそうな森が怖かった。
だから慧音は急ぐ。妖怪に出会わぬうちに、一刻も早く、妹紅の元へ辿り着くために。
それよりも、月が怖かった。
人を変えてしまいそうな月が怖かった。
だから慧音は急ぐ。満月を見てしまわないように。なぜ怖いのかも分からないままに。
それよりも、何よりも。
妹紅と――別れてしまうことが、怖くてたまらなかった。
だから慧音は急ぐ。こけそうになっても、逃げ出したくなっても、歯を食い縛って、足に力を込めて走り続ける。
たちまちのうちに森は様相を変えた。長く長く線上に樹がなくなっている場所に突き当たったのだ。
――この先に、妹紅がいる。
実感としてそれを確信し、走りやすくなったソレの上を、慧音は疾走する。地面が抉れているおかげで、迷うことなく、それだけを目指して走ればいい。
案の定、走りぬいた先に、いた。
その姿を見た瞬間――慧音は、何も考えずに、気付けば叫んでいた。
「――妹紅ぉ!」
樹がぽっかりとなくなった広場では、見知らぬ妖怪が妹紅の上でマウントポジションをとって殴りかかろうとしているところだった。
いきなり名前を呼ばれて妹紅は驚き、それ以上に突然の闖入者に幽香もまた驚いた。
「隙だらけだ、風見 幽香!」
その隙をついて、妹紅は足をマウントポジションから抜き、背中で地面を叩くようにして両足で幽香を蹴り上げた。驚愕の顔のまま、幽香はエビ反りになって宙を舞い、頭から地面に落ちた。
そのまま、ぴくりとも動かない。
幽香が動かなくなったことを確認し、妹紅は立ち上がり、慧音のもとへと駆け寄った。広場の入り口まで辿り着いた慧音は、そのまま妹紅へと駆け寄り、
「妹紅、妹紅、もこう……ッ!」
泣きながら、妹紅に抱きついた。
なぜ泣いているのか、慧音自身にもわからなかった。それは今まで抱えていた不安とか、ぼろぼろで傷だらけの妹紅への心配だとか、道筋の恐怖とか、そういったものもあったけれど。
それ以上に――再び会えたことが嬉しくて、気付けば、慧音は泣いていた。
「も、もこ、妹紅……妹紅……」
涙は止まらず、慧音にはただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
泣きじゃくりながら名前を呼んでくる慧音を、妹紅は愛しそうな見つめた。
置いてきた、つもりだったのだ。
未練ごと、感情ごと、全て置いて立ち去るつもりだったのだ。けれども、慧音が現れた瞬間――妹紅ははっきりと、安堵し、不安にかられていた。
こんな場所にまで一人でやってきた慧音に対して不安を覚え。
無事にその顔を見れたことに。
再び、慧音の顔を見れたことに――確かに、安堵していた。
会えてよかったと、嘘偽りのない本音で、そう思ったのだ。
「……慧音……」
優しく名前を呼びながら、妹紅は慧音の頭を撫でる。髪の一本一本に指を走らせるように、優しく、親しみを込めて。指先の動きからでもそれが分かるのだろう、慧音は袖で涙を拭い、笑顔を浮かべて、妹紅の顔を見上げた。
そして――見た。
妹紅の奥に浮かぶ――――――――――――――――――――綺麗な満月を、慧音は見た。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あ。」
決定的だった。
決定的なまでに、致命的な、行為だった。
満月を見ては駄目だと、屋敷の人間はいった。
満月を見るのが怖いと、慧音は思っていた。
一度として、見たことはなかった。
だから、この瞬間、上白沢 慧音は――生まれて初めて、満月を見た。
見て、しまったのだ。
「……あ?」
笑顔が固まり、急に目が虚ろになった慧音に、妹紅は戸惑いを隠せずにいた。てっきり再会の喜びの言葉がくるかと思ったのに、言葉どころか何一つ反応が返ってこない。魂が抜けたように、慧音の瞳は何も映さない。
瞳には、ただただ、満月が映るばかりだ。
「……何、その子……?」
ようやく復帰した風見 幽香が、向日葵を杖代わりに使って立ち上がった。散々の殴り合いでもはや真っ直ぐ立つことができないらしい。興を削がれたのか、疲れきった表情で抱き会う妹紅と慧音を見ていた。
「いや、私にもよくわから――」
なんて答えようか迷う。慧音について説明すればいいのか、どうしてここにいるのか説明すればいいのか、今のこの状況について説明すればいいのか。特に説明するべきことだとは思わなかったし、説明のしようがないことだったし、説明のつかないことだった。それでも何かを言おうと思って、妹紅は振り向こうとしたのだ。
振り向こうとして、振り向けなかった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あ?」
今度の呟きは、妹紅だった。慧音の放心した声とは違い……純粋な、驚きの声だった。
無理もない。振り向こうとした自分の体に――角が突き刺さっていたのだから。
心臓を、貫通していた。
まごうことなき、致命傷だった。
そして――それだけでは、終わらなかった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
慧音が叫ぶ。頭蓋を割るようにして生えてきた、二本の角を手で押さえながら慧音は痛みのあまりに叫んだ。めりめりと、頭を割るようにして角はさらに伸び、妹紅の心臓を抉っていく。目の前で起きた突然の異変に幽香は何も言えず、心臓を突き刺された妹紅は即死していた。生暖かい肉の塊がだらんと垂れ、その肉を抉るようにさらに角は伸びる。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――――」
叫びに応えるように角が伸び続ける。変わったのはそれだけではなかった。青味を帯びた銀だった髪の毛の色が、さぁと、水に溶かすように色を変えていく。
青から、緑へ。
髪だけではない。歴史を塗り替えるように、青から、緑へと、彼女の服が変わっていく。瞳の赤が、狂気の度合いを示すように濃くなる。病気のように充血したように狂ったように真っ赤な慧音の瞳から、際限なくぼたぼたと、ぼたぼたぼたと、ぼたぼたぼたぼたと涙が零れ落ちる。頭が痛くて何も考えられない。角が伸びきり、頭を伸ばしていた手が、妹紅の体に触れる。慧音は痛みを、体の中の痛みを、自分が別のものに変わっていくという心の痛みを、
「――――痛い!」
叫びと共に、外へと出した。
それはまるで、悲鳴のように。
痛みは全て力となり、慧音の手から外へと出た。即ち――触れている、妹紅の体へと。
妹紅の背を裂いて剣が生えた。弾が、鏡が、光が、ありとあらゆるものが一斉に妹紅の身体を介して外へと出てくる。命を持たない肉の塊が、命を持たない肉の欠片の群へと変わる。首が落ち、落ちた首が弾幕に砕かれ、その破片が光に掻き消された。デュアルスパークのような明快な一撃ではない。壊したものをさらに壊し、弾幕同士が衝突するような理性なき力。制御できないがゆえに、もっとも近い対象に痛みをぶつける、ただの暴走だ。
初めて――そんな力を、慧音は使った。
初めて使うということは、制御の仕方すら知らないということに他ならない。妹紅の体を壊すのに比例して痛みは消え、殉じるように理性が戻り、
理性が戻って見たのは――初めて出来た友達を殺す、自身の姿。
「やめてやめてやめてやめてやめて!! お願いお願いお願いお願いだからお願いだから! お願いだから妹紅を妹紅を殺さないで殺さないで殺させないで――!」
悲痛の叫びが森を裂いて響く。それでも破壊は止まらない。今までの鬱憤を、封じられていた全てを外に出すまで破壊は止まらない。自身の角を折ろうとでも考えたのか、慧音は思い切り角をつかむ。それでも角は軋みすらせず、気を失うほどに頭が痛むだけだ。
いっそ、気を失ってしまえば楽なのに。
それすらもできない。その手にははっきりと、妹紅を殺す感触がある。初めて使う弾幕で、魔力で、スペルカードで、塵の一つも残さずに妹紅を殺しつくす感触が、手にこびりついて離れない。
「妹紅――、妹紅、妹紅――! お願い、お願い、だから……」
死なないで、と言おうとしたのか。
殺させないで、と言おうとしたのか。
口から言葉は出てこなかった。慧音は力を失い、膝ががくんと折れた。角にも、手にも、妹紅の感触は残っていなかった。
もう、何もない。
妹紅は――消えて、しまった。
藤原 妹紅は、何処にも、いはしなかった。
初めからそんな人間はいなかったのだと言わんばかりに。
「……妹紅、もこぉ……」
地面に伏せて――慧音は、泣いた。再会を喜んだときの涙とは違う。
再会したせいで、永遠に別れることになったことを、悔い悲しんで、慧音は泣く。涙は地面に零れ、雪に触れて消えていった。
「初めて……初めての、友達だったのに……」
泣いてもどうにもならない。それでも涙はとまらない。雪景色が涙に滲んで朦朧となる。
殺して、しまった。
初めて出来た友達を――自分の手で、殺してしまった。
どうして戒めを守らなかったのだろう。満月の夜に外出してはいけないと、満月を見てはいけないと、屋敷の人間はいっていた。それは真実だったのだ。こういうことになると知っていたから、彼らは止めたのだ。ハクタクの血が半分流れる、上白沢 慧音。妖怪の動きがもっとも活発になる夜に、その血が浮き上がることは、考えてみればわかったはずなのに。
思慮のなさが、妹紅を殺した。
だから、上白沢 慧音は泣く。自身の愚かさと、友人との永遠の別れに。
「……なんて言ったらいいかわからないけど……」
泣き崩れる慧音に、どこか気恥ずかしそうに、幽香が頬をかきながら言う。慧音は顔をあげずに泣き崩れているため、幽香がどんな顔をしているのか、見ることができない。
幽香は踵を返し、歩き出した。もうここにいる必要はないと、これ以上はデバガメだと言わんばかりの潔さだった。最期に、別れの挨拶のように、幽香は振り返ることなく言葉を投げかける。
「……それだけ泣いてもらえるって、幸せだと思わない? ねえ――藤原 妹紅」
そうだな、と誰かが答えた。
幽香のものでも、慧音のものでもない、誰かの声。聞き覚えのある、優しい声。
二度と聞けなくなったはずの声だ。
信じられなかった。空耳だと思った。
「もっとも、私は泣き顔よりも――笑顔の方が好きなんだがな――」
二度目の声は、よりはっきりと答えた。空耳ではありえなかった。慧音は涙を拭うことも忘れ、ゆっくりと、ゆっくりと、顔をあげる。
そこには誰もいない。笑いながら去っていく幽香の後ろ姿と、ぽっかりと浮かぶ満月があるだけだ。
そして――
――――――――――――――――――――――――――――――――リザレクション。
どこからともなく、そんな声を、慧音は聞いた。
声は宣言だった。声は断言だった。私はここにいるよと、私はここに還ってくるよと、声はその内に主張していた。お前が泣くのなら、私は地獄からだって帰ってきてやろうじゃないかと、声は笑っていた。聞き間違えるはずもない。優しい――大好きな、友人の声だ。
声だけではない。声に応えるように。声に従うように。
――炎が、生まれた。
何もない空間が燃え上がった。それが魂の頬なのだと、覚醒した慧音の知識が教えていた。豆粒ほどの炎は、空気を取り込むようにして瞬く間にこぶし大の炎へと進化し、それでもなお満足せずに膨れ上がった。小さな太陽の如き明かりが、満月の光を押し返すように夜の森を照らしだす。
炎の塊に――翼が生える。
羽が全て炎で出来た、赤く赤く赤く赤い、命のように赤い真っ赤な翼。生命の力に満ちた翼は、誕生を喜ぶように一度大きく羽ばたいた。
火の粉が、雪のように舞い上がる。
白い世界を――赤い力が、塗り替える。
正しく、幻想と呼ぶに相応しい光景だった。翼は羽ばたくたびに大きくなり、炎は力強く燃え上がり、赤を越えて白にすら達しようとしていた。白と紅の炎の中に――慧音は。
愛しい、友人の姿を見た。
だから、慧音は――その名を呼んだ。万感の思いを込めて、月にも届かんばかりの声で。
彼女の名前を、慧音は叫ぶ――
「――――妹紅!!」
瞬間――炎が爆ぜた。
人よりも巨大になっていた炎が、白く加熱しながら爆発した。火の粉は重力を忘れたように空へと舞い上がり、雪のように虚空に溶けていった。炎の中から生まれ出たのは、一糸纏わぬ姿の妹紅だった。
死すらも乗り越えて。
藤原 妹紅もまた、涙を携える少女の名を、呼んだ。
「慧音――」
名前を呼ばれ、慧音はがむしゃらに抱きついた。角に刺されないように、妹紅は身を屈めて慧音の体を抱き上げる。強く強く、離れないように強く、慧音は妹紅の体を抱きしめた。
「妹紅、妹紅!」
「泣くなよ慧音、言っただろ、私は笑ってるヤツがすきなんだ」
「でも――妹紅だって、泣いてるもん、だから、私も、」
うわぁあん、と抱きつきながら、慧音は子供のように――初めて、子供らしく――大声をあげて泣き叫んだ。妹紅もまた、恐る恐る、自分の頬を触る。
頬は、濡れていた。
空を見ても雨は降っていない。頬をぬらすのは、瞳から零れる雫だ。
そのことが、妹紅には信じられない。
「……はは、私、泣いてるのか――」
――一体、何年ぶりだと言うのだろう。
何十年ぶりだと、何百年ぶりだというのだろう。笑うことはあった。怒ることもあった。弾幕遊びのなかで苦痛を呻くことも、死の痛みに叫ぶこともあった。
けれど――
別れと、再会で。
誰か他人のことを思ってなくのは、千年以上生きていて――忘れていたことだ。
人と触れ合わずに、竹林で生きている間に、必要のなかった感情だ。
泣いていることが信じられない。それでも、涙は後から後から、際限なく沸いて出てきた。
「なんで、泣いて――るんだ、ろ」
涙を拭うことなく、妹紅は独り言のように言う。
涙を拭い、鼻を啜り、慧音は。
「――嬉しい、から、だよ。私は、妹紅が生きてて、嬉しいから、泣くの――」
「私は――慧音と、あえて――」
慧音と出会えて。
慧音と別れなくて。
それが、藤原 妹紅にとってはたまらなく――
「ああ――私は、嬉しいんだな――」
気付けば、もう堪えることはできなかった。妹紅は膝をつき、子供のようにむせびないた。自分よりも千歳は年下の少女を抱きしめ、妹紅はとめどなく号泣する。そんな妹紅を、慧音もまた優しく抱き返しながら泣き続けた。
満月が、二人を見下ろしている。
千年生きて――大切なものを、再び造った少女と。
生まれて初めて――大切なものを知った、少女を。
満月だけが、二人を、いつまでも見守っていた。
◆ /エピローグ ◆
――十数年後、迷いの竹林にて。
「……妹紅、妹紅!」
名前を呼ばれて、藤原 妹紅は目を覚ました。月見酒を飲んで、すっかり寝入っていたのだ――野晒しの中で寝たため、体は冷え切っていた。冬に野宿をすれば誰だってそうなる。
「うう、寒い……」
呟きながら妹紅は身を起こし、指先から炎を起こした。たちまちのうちに生まれた炎が、冷えた妹紅の体を暖める。
周りは暗い。夜の竹林は恐ろしいほどに静かで、星の見える空は遠く高くにあった。
浮かぶ月は、綺麗な真円。
あの日と変わらない、変わることのない満月だった。
「どうした妹紅。何を考えてる?」
起きるなり空を見上げた妹紅を不審に思ったのか、慧音がそう声をかけた。妹紅は「なんでもないよ」と苦笑し、頬をかく。ずっと昔の夢を見たとは、恥かしくて言えなかった。
目の前に立つ慧音は、あの日の面影をどこか残していた。けれど、もはや小さな子供ではない。歳相応の『少女』に慧音は成長している。あれだけあった身長差も、今では並んでしまった。お姉さんぶりだしたのはいつのことだったか――もう思い出そうとしても、思い出すことができない。
「酒を飲んで寝ると風邪をひくぞ? そもそもだな、一緒に月見をしてるのに、いきなり膝を貸せというから何かと思えば――寝るとは思わなかったぞ寝るとは」
「いい酒を飲んで、月を見ながら寝るなんて幸せだねー」
あっはっは、と笑う妹紅を、じと目で睨みつける慧音。視線が怖くて妹紅はつい目をそらしてしまう。
「それより夜も更けた。そろそろ帰るぞ」
「帰るって――どこに」
まだ夢から覚め切っていなかったのだろう。深く考えずに、妹紅はそう訊ねた。
慧音は、はぁぁぁぁぁ、とあからさまにため息を吐いて肩を起こし、
「妹紅。ちゃんと起きてるか?」
「起きてる起きてる」
「まったく……風邪をひくから、冬は家にこいと言ってるだろう。ほら、」
言って、慧音は妹紅へ手を差し出した。
「行くぞ」
一緒に帰ろう、と。
妹紅は――その手を、まじまじと見つめた。
大きくなった慧音。屋敷を出て、村を守るように一人で暮らし始めた慧音。自身の力をきちんと使いこなせるようになった慧音。家とのわだかまりも、少しずつ解消されてきている。全てはゆっくりと移ろいゆく。
それでも、夜空に浮かぶ月のように、変わらないものもそこにはある。
妹紅は。
それを確めるように――
「――慧音」
彼女の、名前を呼んだ。
「何だ?」
慧音は応える。慧音は、そこにいる。
名前を呼べば――君は其処にいる。
「いや、なんでもない」
妹紅は笑って、慧音の手を握った。同じくらいの大きさになった手を握り締め、ぶんぶんと、前へ後ろへと振って歩き出す。いきなり歩く妹紅に引っ張られるように――どこか嬉しそうに――慧音はその後に続いた。
「なんだ、変な妹紅だな――」
「変なのは慧音だって一緒だろ――」
二人は手を繋ぎ、笑いあいながら竹林を後にする。
空には満月。変わらない月が、変わることのない、少女たちの絆を見下ろしていた。
(了)
求聞史記との設定の差異が少し気になりましたが(慧音の獣人化は後天性)、二次創作で堅い事を言う気も無いので、特に点数には反映してません。
これは感動しました。
誤字です
終われている
ゆうかりんが刺客になる代価が実にそれっぽいですね。
ともあれべそけぇねうぎぎw
欄外を併せて読むと後天性でほとんど間違いない気がしないでもなく
かといってエフェメラリティ137の作者コメントだと親が云十万(ry
けど前段が慧音視点なのだから最後も慧音視点で帰着してほしかった。
正面から見たらエプロンだけしか着ていないように見える。
正面から見たらエプロンだけしか着ていないように見える。
空気を読まないにもほどがある俺参上!もうだめぽ('A`)
あえて言葉を付け足すとしたら、羨ましいほどに文章が巧い。完璧に取り込まれましたね。平和な日々、別れの合間、戦いの時、再会の涙。どれも見習いたいなと思いました。
しかし、誤字がちゃんとあるところに、ほっとした。
>何かに終われていたのかもしれない、と慧音は思う。
最終的に言うと慧音がちっさくて可愛かった。
GJ
ニヤニヤが止まりません!
姉貴な妹紅とロリけーねが最高でした。