此処に訪れようと思ったのは、いつもと同じようにただの気まぐれだった。
夜の静かな風が運んでくる花の匂いを嗅ぎながら、ルナチャイルドはゆったりとした歩調で歩く。
今は夜の里に出向いた帰り。
ルナチャイルドは成果である珈琲豆がたくさん入った紙袋を大事に抱えながら、そのまま上機嫌に散歩気分で、住処である森とは正反対の場所にある無名の丘を訪れていた。
何故上機嫌なのか。
そう問われれば、おそらくルナチャイルドはこう答えるだろう。
「理由なんてないわ。ただなんとなくよ」、と。
ようはただの気まぐれなのだ。確固たる理由があるわけではなく、些末な事象の変化に心を躍らせるのだ。
それは例えばこの花の匂いはおいしそうだな、とか。
それは例えば歩くたびに紙袋がころころと鳴って楽しいな、とか。
それは例えば今夜も月の光が優しいな、とか。
大抵の妖精がいつもそうであるように、この時のルナチャイルドもまた、上機嫌だった。
「ねぇ、ちょっとそこの妖精さん」
少なくとも、この時までは。
「ねぇ、そこの妖精さんったら」
二度掛けられる背後からの声。
ルナチャイルドは右へ左へと視線を動かし、自分以外に妖精が居ないのを確認した後、
「残念。ここに妖精さんはいないみたいよ」
と返した。
「だから、今喋ってるあなたよっ!」
「え、私?」
ルナチャイルドは心底意外そうに(本当に意外だったのだが)きょとんとした声をあげ、次第に現状を理解していく。
現状その一、私は今一人で散歩中である。
現状その二、背後から何者かに話し掛けられた。
現状その三、つまり逃げるが勝ち!
回れ右をして180度回転。そのままだっ!と全力疾走!
「きゃっ!?」
…すれば当然、後ろから話し掛けていた何者かにぶつかるわけで。
妖精は総じて頭が弱いのである。
「いった~…くない?」
むしろ感触としては胸に抱いた紙袋に何かが当たった程度のもの。
「つまり走り続けても支障なし!」
大方花の妖精か何かの悪戯だろう。
ここには鈴蘭の花がたくさん咲いているし。
そう判断して、走り続けることにする。
「と、止まってくれないとこの紙袋に噛み付いてやるんだからねっ!」
「それは困るわ」
ぴたっ。
「わきゃっ!?き、急停止は反則っ!」
「それを言うなら注文通りに止まったのに文句をつけてくるあなたが反則。あんまりうるさいと音を消しちゃうわよ」
「う。それは困るわ。だって音を消されちゃったらお話ができなくなっちゃうもの」
「なら少し黙ってなさい」
「は~い」
そして訪れる静寂。
数秒待ってもその静寂が破られないのを確認してから、ルナチャイルドはほっと胸を撫で下ろす。
どうやら花の妖精の悪戯は去ったようである。
「よし、それじゃあもうそろそろ帰ろうかしら。やっぱり夜の一人歩きは危険ね。昼の一人歩きのほうがもっと危険だけど」
そんなことを呟きながら、再び上機嫌に――鼻歌まで歌いながら、もときた道を帰り始める。
「うぅ~」
だけど何者かの泣きそうな声と服の裾を引っ張られる感触に、悪戯はまだ去っていないことを知る。
随分としつこい妖精だなぁ、と思う。普通ここまできたら諦めるか飽きるかの二択なのに。
「でもその粘り強さは認めるけれど、しつこい妖精は嫌われるわよ」
諦めてくれることを期待して発した言葉は、
「あぁ、それは大丈夫。だって――」
期待はずれの弾んだ声で返された。
不意に引っ張られる感触が消え、わずかにスカートが舞う音が聞こえる。
「こんばんは、妖精さん。はじめまして、妖精さん。私の名前はメディスン。メディスン・メランコリー。ただのしがない毒を使う程度の能力をもつ妖怪よ。以後お見知りおきを」
そしてそれはルナチャイルドの目の前に現れて、咲き誇る花のような笑顔でもって丁寧にお辞儀をしてきた。
「ひっ、妖怪っ!」
妖怪とは妖精とは異なり、人を襲い喰らう存在だ。
逃げるのではなく、捕縛して、喰らう存在。
すなわち妖精よりも強い!
「逃げろっ!」
だっ!
「きゃっ!?ま、またさっきと同じ展開っ!?」
「と、思ったんだけど」
ぴたっ。
「だ、だから急停止は反則っ!」
「ねぇ、ちっちゃくて可愛らしい妖怪さん。私よりもちっちゃな妖怪さん。一つだけ聞いてもいいかしら」
「わっ、なんだか言葉のキャッチボールが出来てない予感?むしろキャッチアンドリリース?受け止められて、流されてる!?」
「私よりもちっちゃなその体で、どうやって人間を食べることが出来るの?」
人間だって限りある資源。喰らうからには食べきるのが妖怪界のマナー、とどこかで聞いたことがあるのを思い出して、そう訊ねる。
「へぇ。人間って食べるものだったのね」
だが返ってきたのは期待していた答えではなく、そんな素っ頓狂な言葉。
「…なんだかちぐはぐな妖怪さんね」
妖怪にしてはちっちゃすぎ、妖怪として必要な知識を持たず、横文字などのような不必要な知識ばかりを持つ。しかしいくら不必要な知識をたくさん持っていようと、必要な知識がなければそれは無知となんら変わることはない。
「まるで赤ちゃんみたいね」
妖精とはまた違った無垢さを持つメディスンを、ルナチャイルドはそう称した。
メディスンの在りようはまるで生まれたての赤ん坊。本能を忘れた人間の赤ん坊。
「む。たしかに私は生まれたばかりだけど、赤ちゃんのようっていう形容のされ方は心外。私だってきちんと知識は持ってるもの。…ただ、こっちの世界のルールを知らないだけで」
さて…こっちの世界。それはどこを指しているのか。
幻想郷のことか、それでも妖怪の世界のことか。
…あれ?私ってこんなキャラだったかしら?
いつの間にか考えこんでいた自分に気がついて、ルナチャイルドはそんなことを心の中でぼやく。
まぁ、他にすることもないし、もう少し考えてみることにしよう。
「本当、私を捨てた連中も中途半端なやつらよね。…特に、あのちっちゃかった女の子っ!何よ、自分だってたいして字が読めないくせにお姉さんぶっちゃって。お勉強してあげるなんて言って分厚い辞書なんて持ってきちゃってからに。あんな途切れ途切れな言葉じゃあ、覚えられるものも覚えられないっていうものよ」
う~ん。最近は三人で行動することが多かったから、単独行動中の自分のキャラ性というものをすっかり忘れてしまっている。
というか、単独行動中の自分のキャラを思い出そうとすると、鼻歌を口ずさみながらのんびりと夜のお散歩をしている光景しか出てこないのはどういうことだろう。
「まぁ、それのおかげである程度の知識は手に入ったのだけれど…どうせだったら常識も教えてくれればよかったのに」
ふははははっ!貴様のような小妖怪、耳が聞こえなくさせてくれるわっ!
…違う。私はこんな熱血系のキャラじゃなかったはず。
「それにしても、ここにはいろんなものがいるのね。妖怪や妖精さん。魔法使いに巫女っ!ちょっと前に氷の妖精さんは見たけれど、あなたは違うみたいね。ねぇ、妖精さん。私よりもほんのちょっとだけ大きな妖精さん。あなたの名前を教えてくれるかしら?あなたは一体どんな妖精さんなのかしら?」
お願いします、妖怪さん!私には養わなければいけないものが二人もいるのです!私が帰らなければ二人は飢えて悲しむことでしょう…お願いです、命だけはご勘弁を!
…って、何キャラよ、これは。こんなキャラした妖精がいるなら見てみたいものね。
お友達にはしたくないけど。
「…ねぇ、妖精さん。私の話、聞いてる?」
ていうかそもそも養わなきゃいけない二人って誰よ。もしかしてサニーとスターのこと?そ、そりゃああの二人は私がいなくちゃ何も出来ない子達だけど、だからってそんないきなりお母さんになれだなんていわれても困る。
「あ、もしかして無視?そんな無視ばっかりしてるとスーさんの毒を投げつけちゃうんだからねっ!」
「残念。妖精に自然の毒はあんまり通用しないのよ」
えっへん。
…あ、そうそう。たしかこんなキャラだったはず。よかった、よかった。ようやく思い出せた。
「じゃあ、自然の毒じゃなければいいのねっ♪」
「自然以外の毒っ!」
キャラを思い出して早々聞こえてきた不穏な言葉に反応して、だっと駆け出す。
…いぁ、まぁ、うん。こんなキャラだった気もしないではないし。
「うきゃっ」
だがもとからよく転ぶ体質のルナチャイルド(間違っても運動音痴などではない)は慣れない場所ということもあり、盛大に足を取られてしまう。
…いや、むしろルナチャイルドを知る人物ならばようやく転んだか、という感じなのではあるけれど。
「ぶっ」
胸に抱いた紙袋を庇うように転ぼうとして、顔から地面にぶつかってしまうルナチャイルド。
しばらく右へ左へと悶えた後、ルナチャイルドはようやく立ち上がり、
「今日の服はお気に入りだったのに…」
と、ちょっとだけ泣きの入った声で呟く。
どうやら顔から突っ込んだ事実はなかったことにされたらしい。
「落ち込むことはないわ。だってスーさんの毒がついていっそう素敵になったもの」
「そ、そうかしら」
急に誉められて、ちょっと照れながらもポーズを決めてたり。
「あくまでも服は…だけど」
「これであの巫女とかも悩殺できるかしら?」
メディスンの呟きなどもはや聞こえてもいない。
「スーさんの毒で倒れない人間なんていないわっ!」
「よし、今から行ってちょっと試してく――」
「でも今行ったら泣くわよ」
「誰が?」
「主に私とあなたが」
「うわぁんっ!…よし、泣いたからもう帰っていいかしら?」
「待って!まだ私が泣いてないわ」
「じゃあ泣きなさい。今すぐ泣きなさい。…っていうか、キャラも思い出せたし、そろそろ本当に帰らせて」
「まぁ、まぁ。落ち着いて、まずはお名前を聞かせてくれないかしら」
「妖精に名前を聞くときにはまず自分から名乗らないと」
「ふふ、妖精さんとお話すると本当に話が進まないのね。なんだか楽しすぎて、本当に泣きたくなってきたわ」
「あまり興奮しすぎて毒を撒き散らさないでよ?」
「大丈夫。スーさんの毒は体内に取り込まない限り無害よっ♪」
「もう撒き散らしてるっ!逃げろっ!!」
「慌てるとまた転ぶわよ」
「ぷにゃっ」
「ほら、やっぱり」
そしてやっぱり顔から。
左へ右へと悶えるルナチャイルドを眺めながら、メディスンが心底楽しそうに微笑む。
「やっぱり妖精さんは素敵ね。あの本にあったとおり、本当に愉快で、可愛らしくて。…きっと毎日が楽しいでしょう?」
今度は痛みが治まっても立ち上がらず、仰向けに寝転がるルナチャイルドの顔の隣でちょこんと横たわり、メディスンが訊ねる。
「…あなたは楽しくないの?」
そんなメディスンの声は妖怪らしくない…どこか夜の三日月の声のように聞こえてしまう、ルナチャイルドは思わずそう聞き返してしまう。
だって、それは――
「…わからない」
「わからないの?」
「…うん。スーさん達と一緒にいると楽しいはずなのに、あなたや氷の妖精さんを見ていると感じる楽しいとは、なんだか違う気がするの」
――それはサニーミルクとスターサファイアに出会う前の自分と、酷く似ている気がして。
「…ねぇ、毒はきちんと制御することは出来るの?」
「え?えぇ。それはもちろん、できるけど」
それがどうしたの、と言いたげな瞳が、ルナチャイルドの瞳を覗き込んでくる。
純粋な、とても綺麗な蒼色の瞳。
それは妖怪というよりも、妖精のそれにとても似ていて。
「私と一緒に、楽しいをしない?」
その瞳をさらに、輝かせてやりたかった。
「楽しいを…する?」
「そう!あなたが感じた私達の楽しいを、一緒にしない?」
例えば…と続けたルナチャイルドの口から零れてきたものは、様々な方法の悪戯たち。
今思いついた悪戯。昔やって大失敗だった悪戯。引っかかった人間がものすごく慌てた悪戯。思い出せる限り全ての悪戯。
「すごい、すごい!それ、私もやってみたいわ!」
案の定、興味津々で食いついてきたメディスンに、でもね…とルナチャイルドが付け足す。
「人間を殺しちゃうような悪戯は、思いついたとしてもやっちゃ駄目だからね?」
それは妖精達の間でのルール。
「…え?なんで…?」
妖怪とは一線を画する、妖精と人間の間での暗黙の約束事。
だって――
「だって、つまらないじゃない」
そう、つまらないのだ。
「私達は悪戯に引っかかった人間の反応が楽しくて、その悪戯が里の人間や妖精達の間で噂になるのが楽しくて、やってるんだもの。…間違えちゃいけないの。悪戯そのものが楽しいわけじゃあ、ないの。そこに至るまでの過程。そしてその結果こそが楽しいのよ」
引っかかった人間が死んでしまえば反応を見ることも、噂されることもない。
それではまるで本末転倒だ。
そんなものはもはや妖精の仕業ではなく、妖怪の仕業だ。
目の前の小さな小さな少女は妖精ではなく妖怪ではあるけども…
ルナチャイルドはなんとなく、この子が人を殺すようになるのは嫌だな、と思った。
「だから、人を殺しちゃ駄目なの」
ルナチャイルドがわかった?と念を押すと、メディスンは悪戯は奥が深いのね、と感心した。
その言葉を聞いて、確証なんてどこにもないのに、ルナチャイルドはほっと胸を撫で下ろした。
きっともう大丈夫。彼女は人を殺さない。
確証?そんなものは、必要ない。
だって私の勘がそう告げているんだもの。
だから、信じよう。
「もっとも、死にかける程度の悪戯だったら、全然大丈夫だけどね」
自分の勘と、この少女のことを。
「でも、悪戯をする前に…そうね。まずは今夜出会えた新しいお友達に、私達の隠れ家を見せてあげる。…それから、珈琲もご馳走してあげるわ」
「…こーひー?」
だから、まずは教えてあげる。
「おいしいの?」
「えぇ。とってもとってもおいしい飲み物よ」
「飲みたいっ!」
「ふふ…それじゃあ、今から私達はお友達。これから、よろしくね」
「うんっ!」
「あぁ、それにしても本当に楽しみね。珈琲」
「うんっ!楽しみだねっ!」
――悪戯をするっていうことの意味を…ね。
毒人形がコーヒーを苦く思うかな?
三月精が楽しみになってきました