幻想郷の里から数里、妖怪の山の中腹に、小さな池があるという
大きな山の小さな池に、棲むのは大層恐ろしい、巨大な蝦蟇であるという
池を冒涜した者は、一息に呑み込む蝦蟇という
しかしこの池小さな池の、水は霊験あらたかで、万病を治す水という
その為数多の人間が、徒党を組んで訪れて、その水をすくい取るという
しかしその道山道は、妖怪多く棲み遊び、大層危険であるという…
「着いた…ここかしら?」
暗い森が一瞬途切れ、その切れ間から青がこぼれていた。
「わぁ…」
私は一瞬息をのんで空を見上げる。白い雲がほわほわと浮かぶ空は、この場所の危険さを一瞬だけ忘れさせてくれた。
山に入ってから今まで、ずっと暗いところばかり歩いてきたものだから、空の明るい青が目にしみた。思わず立ち止まって目をかばったけど…考えてみたらそんなことをしている場合じゃなかった。どうやらまだ先があるらしいし…
「急がなきゃ…」
私は自分に言い聞かせて、道の先を睨んだ。
曲がりくねった道の先にかすかな水面が見える。たぶんあそこが目指す大蝦蟇様の池…
「よしっ!」
腕に力を入れてガッツポーズ、慎重に…だけど大急ぎ、池の大蝦蟇様に見つかるとまずいから、まずは木陰から池の様子を窺おう。
私は抜き足差し足忍び足、池へと静かに足を進める。せっかくここまで来たんだから…なんとしてでも池の水を持ち帰ってみせるんだから!
~朝~
「…ごめんね、明日になればよくなると思うから…ごめんね」
そう言うお母さんの顔は、普段にもまして真っ白だった。
昨日の晩、私にお話をしている時に突然倒れて、そのまま熱を出して寝込んでしまったのだ。
お母さんは身体が弱くてよく倒れるけど、今回はいつもと違ってそのまま寝込んでしまっていた。
何の病気かなんてわからない、お医者さんに頼んだけど、お母さんが何故倒れたのかはわからなかった…
きれいに片づけられた…閑散とした部屋の真ん中にお母さんは寝ている。
がらんとしたお部屋は、そのままお母さんもいなくなってしまいそうな気がして怖かった。
「ごめんね…」
お母さんの声はか細かった。いつもいつももの静かで、まず怒鳴るようなことがないお母さんだけどそれにしたってあんまりだった。
このままお母さんが死んじゃったらどうしよう…変な想像が頭をよぎるけど、私は頭を振ってそんな想像を打ち消した。
だけど…
「お母さん…」
怖くなった私は、そう言ってお母さんの手を握った。暖かな体温が私に伝わってきて、少しだけほっとした。
だけど、こんな時にもお母さんに頼り切っている自分が悔しかった。お母さんがこんなに元気がないのに…元気な私が励まされているなんて…
どうしよう…どうしよう…お母さんが死んじゃったらどうしよう…
お父さんもいない…お母さんと二人ぼっちの私…お母さんが死んじゃったら…
変な想像ばかりが頭を占領して怖くなった。
「あ…」
頭を…撫でられる。あったかな手のひらが私の頭を一回二回…
「…大丈夫、大丈夫だから…ね、泣かないで」
いつの間にか頬を涙が伝っていた。お母さんの心配そうな顔が、私の目の前にあった。
「…うん、ごめんなさい」
ごめんなさい、心配かけてごめんなさい…泣いちゃってごめんなさい…
役に立たなくてごめんなさい…
「あのね、手ぬぐいを水に浸してきてくれない?それが終わったら色々やってもらいたいことがあるんだから…ほら、泣いていちゃだめじゃない」
「あ…」
もう一回、頭に暖かな感触が来て、私は我に返った。
「ね、私のことはいいから…お願いね」
無理矢理なお母さんの笑顔に、私も無理矢理笑顔を返す。
「うん、頑張ってくるから…お母さんはゆっくり寝てて!」
お母さんは、弱々しい微笑みで私に答えてくれた。
「じゃあ手ぬぐいを濡らしてくるから、ちょっとだけ待っててね」
そう言うなり私は駆けだした。
「うんしょっと」
井戸から水をくんできて桶に入れる。
少しだけ重たかったけど、それぐらいどうってことなかった。
「冷たい…」
手ぬぐいを水に浸すと、冷たくて手が水に刺されたみたいだった。
これぐらいしか出来ない自分が恨めしいけど、せめて今できること位はやらないと…
ばしゃばしゃばしゃばしゃ…
水が少しはねて、土間にこぼれた。小さなしみができてじわじわと広がっていく。
「あ~あ。でも、ま、いっか」
どうせ水だし、下は土だからすぐに吸い込まれる。桶には水は一杯あるし、足りなければいくらでも汲める。
桶一杯の水…これが不思議なお薬だったらいいのに…夢みたいな事を私は考える。
もしこれがお母さんの病気を治してくれるお薬になってくれるなら、私はなんだってしてみせる。だけど、そんな都合のいいことはそうそう…
「そうよっ!」
そこで、思わず私は立ち上がった。桶に足がぶつかって水がこぼれたけど、そんなことは気にしてなんていられない。
私ったらなんで気がつかなかったんだろう!
「どうしたの?大丈夫?」
その時、居間からお母さんの声が聞こえてきた。失敗失敗…
「あ、ごめんごめん。ちょっと桶にぶつかって水こぼしちゃっただけだから、大丈夫」
不安そうな言葉にそう返し、私は急いで手ぬぐいをしぼった。慌ててしぼったから、土間はびしょびしょになっちゃったけど、今はそんな事を気にしている場合じゃなかった。
そう、何にでも効く桶一杯のお薬…あるじゃない!
~現在~
「そ~っと、そ~っと…」
小声で自分に言い聞かせながら、私は池へと近づいた。
朝、お母さんの看病をお手伝いさんに頼んで里を飛び出してから数刻、私は目的地まであとちょっとの所まで迫っていた。
ごめんねお母さん…私が帰るまで待っててね。
妖怪が棲む山の中腹、大蝦蟇様の池…そこの水は、霊験あらたかで万病に効くというのが、里に住む大人達のもっぱらの評判。
だけど、同時に山中の道は険しくて、妖怪も多く出るという話だった。
実際、よく腕自慢な大人達が集まって大蝦蟇様の池へと向かうのだけど、水を持ち帰るどころかたどり着けさえせず、ぼろぼろになって帰ってきていた。
ごくまれに水を汲んでこれた人は、道中の苦労を事細かに語りながら、その水を病に苦しむ人に売りつけていた。
確かに水の効果はてきめんらしいけど、そういつもいつもあるわけはなかった。
だから私は今ここにいる。買うのが無理なら自分で汲んでくればいい、力はないけど勘とすばしっこさには自信があるんだから!
「もうちょっと…」
私は、道を避けて、木に隠れながら先を目指す。道から離れると、下草が育ってきていて歩きにくかった。
でも、さっきまでひたすら上り坂だったのに、今はだんだん下り坂、間違いなく池は近いはず。
たまに風で木がざわめくのにもびくびくしながら、私は、はやる心を抑えてゆっくりと歩を進める。
握っている竹筒が、汗でだんだんと濡れていくのがわかった。
あとちょっと…ほら、林がきれてる…私は一歩足を踏み出し…
「っ!?」
危うく叫びそうになって口を押さえた。竹筒が落ちて、落ち葉の上にのっかった。
「はぁ…びっくりした…」
一瞬おいてほっと一息ため息ひとつ。私は地面から竹筒を拾い上げた、今度は落とさないように紐でくくっておこう。
さて、私を驚かせた『犯人』は小さなお社だった。いつもなら驚くようなものじゃないんだけど、こんな緊張している時に、いきなり今にも崩れそうなお社と出会ったらびっくりすると思うの。
「何でこんな所にお社が…?」
う~んと首を傾げたけど、よくわからない。
道から外れた木々の中にちょっとだけある小さな空間、お社が建っているのはそんな所だった。どう考えても何でこんな所にお社が建っているのかわからなかった。
池に向かう道からは何も分岐していないし、人が来た形跡もない。不思議なお社だった。
「えっと…でも一応拝んでおこう」
神様に聞かれていたらそれだけで神罰が下りそうな事を呟きながら、私はお社に近寄った。
嫌な雰囲気は感じないし、このまま素通りするのもなんか失礼な気がするし…それに、何より忘れられたようなお社が寂しそうで、少し同情してしまったのだ。
「えっと…神社って南無南無でよかったのかな」
なんか違う気がしたけど、よくわからないのでひとまず手を合わせる。
「どうかお水を汲んで帰れますように、お母さんの病気がよくなりますように…」
そう言って、私は南無南無とお祈りした。その時、すっと優しい風が吹いて、私の髪を撫でていった…お祈り…通じたのかな?
「あ…そうだ、何かお供えしないと…」
私はふと気がつく、お願いするのなら何かお供えをしないと失礼だ。私は、お昼ご飯にもってきたっきり、食べるのを忘れていたおにぎりをお社にあげた。
今はご飯を食べている時間も惜しいし、何より緊張しきっていておなかが空いていないし…
「ごめんなさい、これで許して下さい」
私はそう言って一礼すると、再び先を目指した。
なるべく音を立てないように、私は下草をかきわけていく。
一歩二歩と進むごとに、だんだんと草の丈は伸びていって小柄な私の身体を覆い隠してくれた。
草の種類が変わってきているし、足下がだんだん湿り出す。そろそろ池は近いはずだ。
私は勢い込んで先を目指した。
「あ…」
目の前の葦をかき分けたとき、視界が…ひらけた…
「ここが大蝦蟇様の…池?」
一瞬沈黙してから、私はぼんやりと呟く。
静かな…とても静かな水面にたくさんの蓮の葉が浮かび、所々に蓮の花が咲いていた。
木々の切れ間からは光が射し込み、蓮の合間の水面で反射する。
「綺麗…」
目的も、警戒するのさえ忘れて私はその景色を見つめていた。
里の近くでは見ることが出来ない、人間の手が入らない神秘的な景色…私は、ただ呆然と立ちすくんだ。
静かな時間が…過ぎる。
「っ!?」
その時、誰かが足を叩いたような気がして私は思わず飛び上がる。近くの葦が揺れて音を立てたけど、幸いにして大蝦蟇様は出てこなかった。
見れば、腰にくくりつけた竹筒が足の所で揺れていた。
紐で腰にくくりつけた竹筒は念のためしっかりと持っていたのだけど、景色に気をとられて落としてしまったみたい。
「よかった…紐でくくっておいて…」
これもさっきのお詣りのおかげかな。私はお社の方を振り向いてお辞儀した。
ほっと一息ついたあと、注意深く周囲を見回す。池も森も静かで、大蝦蟇様はおろか兎ですら出てきそうになかった…
「よし…」
それでもなお周囲を窺って、危険がないのを確認した後、私は竹筒の蓋を開けて池へと近づく…
綺麗な水…池の底は暗いけど、水はとても澄んでいた。私はそこへと手を伸ばし、竹筒にその水を入れる。
「お母さんの病気を治す為なんです、決してお金儲けに使ったりしないので、どうか見逃して下さい…」
水面に竹筒が触れて、小さな波紋が拡がる。竹筒が水を飲み込んだ。
やがて竹筒一杯に水が入ったことを確認した私は、しっかりと蓋を閉めて池に一礼した。
「よし、帰ろう」
目的を達成したなら長居は無用だ、私はくるりと向きを変え…かけてやっぱり振り返った。
だって…
「あの蓮の花…綺麗だな、お母さんも喜んでくれるかな」
駄目だっていうのはわかっている。神聖な池から蓮の花を盗っていくなんて…
だけど、あんまり綺麗だったし、こんなにたくさんあるんだもの…一つくらいいよね。
私は、再びそっと池に手を伸ばし、手近な蓮の花を手に取った。とても綺麗な蓮の花、里の近くにある蓮の花とは、とてもじゃないけど比較にならなかった。
「えへへ…」
思わず顔がにやける。このお水でお母さんの病気が治って…そうしたら一緒に蓮の花を見て…
「…?」
その時だった。不思議な視線を感じた私は、ふと水面に視線を移す…
「ひっ!?」
声が…出た…蓮の花は池へと落ちて、水面に咲いた。そして、私の視線の先にいたのは…
「……」
大蝦蟇様…私なんて一息に呑み込めそうな、おっきいおっきい大蝦蟇様が、じっとこちらを窺っていた。
「あ…あ…」
大蝦蟇様は、池を冒涜する者を許さない。
「…助け…」
池を冒涜し、荒らす者は、大蝦蟇様に一息に呑み込まれ、還ってくることはない。
「ごめ…ごめ…」
池の水を勝手に汲んで、蓮の花を盗もうとした私は…
大蝦蟇様が私に近づいてくる…水面が揺れ、葦がざわめく。
「ごめんなさいっ!!!」
私は一目散に駆けだした。
「はぁっはぁっ!!」
息が上がる、涙が出てくる、怖い…怖い…私はただひたすらに池から遠ざかる。
他の妖怪に見つかるとかそんな事は気にしていられなかった。
草をかき分け、私は必死に駆けた。お社の側を駆け抜けて、森の中を無我夢中に走り続けた。
どうにか里へ続く道に出た時、私の身体は草に切り刻まれて傷だらけだった。
唯一の救いは、ちゃんと竹筒は握っていたこと。これさえあれば…
「はぁっはぁっ…」
呼吸を整える間にも、足は勝手に進んでいく。怖くて…ただ池から離れたくて…足が勝手に進んでいく。
「はぁっ…はぁっ…」
呼吸はなかなか落ち着かない、身体を休めようにも、恐怖に占領されて足を止めることが出来ない。
もう池からは随分離れていた。大蝦蟇様もここまでは追ってこないはず…
だけど、なかなか心は落ち着かない。他の妖怪に注意しなきゃいけないのに、私は道の真ん中を必死になって『歩いて』いた。
息が苦しくて…だけど怖くて…
「助けて…助けて…」
お母さん…
息が苦しくなって…頭がふらふらしてきて…それでも足は進み続ける。
「苦しい…苦しいよ…お母さん…」
足が止まらない…止められない…今足を止めたら…きっと…
「離れなきゃ…お母さん…早く…」
自分でも何を言っているのかわからない、だけど…足だけが勝手に先に進む。
だけどその時…目の前が真っ白な霧に包まれた。
「え…?」
何で急に…?
そんなことを思う間もなく、体中から力が抜けて私は膝をつく、歩こうにも力が入らない。
「お母さん…?」
竹筒を届けないと…お母さんに届けないと…
その時、ぐらっと地面が揺れて、私の意識は遠くなる。
欲なんて出さなきゃよかった…水だけなら大蝦蟇様も許してくれたかもしれないのに…
小さな後悔が頭に浮かんだけど、もう遅かった…
「…ん?」
何かごつごつとした感触がして、私は目を覚ました。手を動かしてみると土に手が触れる…それはひんやりと冷たかった。
何で私こんな所で寝てるんだろう…っていうかここどこ?
「あ…う…?」
ぼんやりと景色が見えてくる。見慣れない森の景色、暗い暗い不気味な森…思考が戻ってきた。
「あっ!?」
私はがばっと立ち上がって、腰に手をやる。固い感触…
「よかった…」
私は胸をなでおろす、竹筒はしっかりとそこにあった。念のため振ってみたけど、ちゃんと中には池の水が入っている。
ついでに胸に手を当ててみたけど、心臓はしっかり動いてる。
私は、竹筒と自分の無事を確かめると、改めて周囲を見回した。
来るときに通った道…だけど、ほとんど景色が変わらないから正確な位置はわからなかった。
池からはかなり離れている…はず、よくわかんないけど。
どれくらい気を失っていたのかもやっぱりよくわからないけど、その間に妖怪に食べられなかったのは奇跡かもしれない。
「う~ん、わかんないことだらけ」
私は苦笑いして服についた土を払い落とす。ずいぶん汚れちゃったし傷だらけ…お母さん怒るかなぁ。
ただ、二つだけ確かなのは、私はちゃんと生きていて水も無事だっていうことだった。
「それだけあれば十分♪」
私は周囲に注意しながら歩き出す、もう呼吸も鼓動も元通り。もう大蝦蟇様も追ってこないだろう…
相変わらず森は暗く不気味だけど、行くときと違って足取りはとても軽かった。
思わず口笛を吹きそうになるのを押さえながら、私は先に進んだ。
行くときはよく妖怪…かなにか…の不気味な気配を感じて、その度にびくびくしていたのだけど、何故か今はそんな気配は感じなかった。これならそこまで用心しなくても大丈夫…
「だめだめ、油断したら…妖怪に見つかったら私なんてあっという間に食べられちゃう」
そこまで考えて、私は自分に自分で言い聞かせる。この山の妖怪は自分の領域を侵す者には容赦しないというし、油断して見つかったりしたら一巻の終わりだ。
力には自信があると言っているような大人達ですら、相手にもならずにぼろぼろにされたみたいだし…私なんかじゃ、妖怪の腕の一振りで身体はばらばらになってしまうだろう。いやだなぁ。
ただ、冗談めかして考えていたけど、実際だんだん暗くなっているみたいだし…ちょっと急いだ方がいいのかな。
ただでさえ暗い森はますます暗くなっていた。まだ里じゃ明るいのだろうけど、この森では、もうまもなく夜の…妖怪の時間だろう。
いくらなんでも、完全に夜になる前に森を抜けないと危ない…
それに、さっきからぽたぽたと雨が降ってきている…雨具持ってきてないのに…
「…よし、少し急ごう」
急いで注意力が落ちるのと、ゆっくり行って夜になるのなら…危ないのは間違いなく後の方。私は、ちょっとだけ歩調を速め、里を目指す。
ほとんど考えもなしに飛び出してきたものだから、灯りなんて持っていない…そもそも、夜の道で一人歩きなんて「私を食べてくれる方募集中♪ご遠慮なくどーぞ」なんて立て札を持って歩いているようなものだ。
私ごはん食べるのは好きだけど自分がごはんになるのはいやだし…そういえばおなか空いたなぁ。
ぐ~っと鳴ったおなかを押さえながら、私はてくてくと先を目指した。
てくてくてく
ぴょんぴょんぴょこん
てくてくてく
ぴょこぴょこぴょん
「…ん?」
おかしい、私の足音に合わせて何かの足音(かなぁ?)が聞こえた気がする。
でも、振り向いてみても薄暗い森には誰もいない、真っ暗黒い森があるだけ。
私を食べるつもりの妖怪だったら後に付いてきたりしてないで、とっとと襲いかかってくるだろうしなぁ。
気のせいかな?
私は再び歩き出す。
てくてくてく
ぴょんぴょんぴょこん
「ん?」
おかしい、やっぱり何か聞こえる…けど、振り向いても誰もいない…よ~し。
てくてく…さっ
ぴょこぴょ…べしゃ
歩く途中で振り返った私の視線の先にあったのは…
着地に失敗して、何か痛そうに座る蝦蟇の姿だった。
「……」
「……」
見つめ合う私と蝦蟇…蝦蟇?
「…あれ?」
蝦蟇…何で蝦蟇が私について来…私が首を傾げたその時、何かが目に映った。蝦蟇が何かを口にくわえている…それは…
「小さな蓮の…花?」
自分で、自分の血の気がひいていくのがわかる。さっきまでの明るい気持ちはどこかに吹き飛んだ。
追いかけて…きたんだ…
蓮の花を盗った私を…池を冒涜した私を…
大蝦蟇様は池を冒涜する者を決して許さないんだ。
「あ…あ…」
私は一歩、二歩と後ずさる。小さい小さい…どこにでもいるような蝦蟇が、何故かとても大きく見えた。
まるで、私を一息に呑み込めるような…そんな大きさに見えた。
「お母さ…」
ぴょん
もう一歩下がったときに蝦蟇が飛んだ、私の方に。
緊張の糸が…切れた。
「いやっ!!!!」
私は駆け出した。
「やだっ…助けてお母さんっ!!」
深くて暗い森の中を、私は必死に駆け抜ける。細くうねった道の先はもっと暗くて…でも大蝦蟇様はもっと怖くて…私はただただ走り続けた。
涙がぼたぼたとこぼれるけど、拭いたりする余裕なんてない、怖くて怖くて…もう何も考えられなかった。
何回も転んで…傷だらけになって…顔は木の枝に叩かれて…それでも私は走り続ける。
里まであとどれ位なのか…そもそもこの道で合っているのか…もしかしたら、もう大蝦蟇様に出口のない道にでも引き込まれたのかもしれない…
思考が戻ってくると、今度は恐怖もついてきた。嫌な想像がもっと嫌な想像を生んで…走っている先が、大蝦蟇様の池のような気さえしてきた。
「っ!?」
その時、尖った木の枝に頬が切り裂かれてどんどん血が出てくる。でも不思議と痛くない…私だって年頃の女の子なのに…場違いな思考が脳裏をかすめた。
ぴょんぴょんいう音がだんだんと遠ざかってきて、少しだけ…ほんの少しだけほっとして…無事にたどり着けるような気がしてきて…
ぴょんぴょん…
その時一瞬蝦蟇の足音が途切れて、思わず私は振り返った。振り切ったのかな…?
そしたら…
「~~~っ!?」
こっちに向かって飛んできている、視界一杯の蝦蟇が見えて…何かべとべとした感触と一緒に、私の世界は暗くなった。
ぽたん
暖かい雫が顔にかかって…誰かが私を呼ぶ声がして…
「…ん?」
私は目を覚ました。
「…っあ…あなたって子は…本当に…心配かけ…て…」
「お母さん…?」
目が覚めた私の視界に真っ先に飛び込んできたのは、今までで見たことのない位怒っていて…悲しそうで…そして優しいお母さんの泣き顔だった。
ぎゅ~っと抱きしめられて、お母さんの暖かさが伝わってきて…私はすごく安心した。
私がいつまで経っても帰ってこないので、お母さんはお手伝いさんに言って私を捜させたらしい。
そして、里から四半刻くらい行った所で、道の真ん中に倒れている私を見つけたとのことだった。
「あ…お水っ!!」
そこまで話を聞いて私は叫んだ。あんなに苦労して…そして怖い思いをして持ってきたお水…もし落としていたりしたら…
だけど、そんな私にお母さんは優しそうにこう言った。
「ええ、大丈夫よ。おかげでこうしてあなたの側にいられるのだから…」
「え…?」
お母さんの言葉に私は戸惑う…どういう意味だろう?
「…覚えていないの?」
私の言葉に、今度はお母さんが戸惑いがちに問い返してきた。
どうやら、私はこの部屋に連れてこられた時に「大蝦蟇様の…お水…お母さんに…」と、うわごとのように言っていたらしい。
何はともあれ…よかった…
「よかった…本当によかった…あなたが無事で」
私の目の前で、お母さんが幸せそうに泣いていた。
「ごめんね…ごめんなさい…」
私も涙がどんどん出てきて…お母さんと私は、抱き合いながら泣いていた…
~数日後~
「お母さん、もう大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう…」
「えへへ…」
お母さんの掌が頭を撫でて…私はお母さんにぴとっと寄り添った。
あの出来事から数日、私とお母さんは並んでお茶を飲んでいる。
あの後、私は生まれて初めてお母さんにこっぴどく叱られた。でも、叱られている以上にお母さんの泣き顔がつらかった。
心配かけてごめんね、でも私反省はしてるけど後悔はしてないよ?だって…今こんなに幸せなんだもん。
隣にいるお母さんはやっぱり優しくて…とっても暖かかった。
そして、お茶が載っている机の上には、一緒に桶が置いてある。その中には蓮の花…
私が見つかったとき、髪を飾るようにこの小さな蓮の花がさしてあったらしい。そして、手近な桶に入れられたのだけど…三日経っても四日経っても枯れなくて、ず~っと私とお母さんの目を楽しませてくれている。
それともう一つ不思議な事があった。私の身体は傷だらけになったはずなのに…その傷が全部消えていたのだ。
代わりに何かべとべとしたのが体中に塗ってあったけど…でもよかった♪
「大蝦蟇様が守ってくれたのかな」
私は呟いた。
私は怖がって逃げたけど、もしかしたら大蝦蟇様は私を守っていてくれたのかもしれない。だって…帰り道、二回も気を失って妖怪にも動物にも襲われないなんて…おかしいもん。
「そうね…」
お母さんも言った。
「きっと、あなたが池を冒涜したりするつもりがないってわかってくれたんじゃないかしら…」
「うん…」
私も短く応じる。そうじゃないと、今、私とお母さんが仲良く蓮の花を眺めることなんてできないはずだから…
あ、そうだ。一番凄いことを忘れてた。
蓮の花を入れた桶の水…いつまで経っても綺麗なまんまだったから、私がついなめてみたらほんのり甘くて…美味しかった。
お母さんにも勧めてみたんだけど、そしたら今まで倒れてばっかりだったお母さんの体調がよくなって、よく私と遊んでくれるようになった。
これもきっと大蝦蟇様のおかげなのかな…
「さて…と、ごめんね。そろそろお仕事しないと」
「えー」
私がそんなことを考えていたら、お母さんが急に立ち上がって言った。
心と身体の暖かさがなくなって、急に寂しくなる。
「ごめんね、だって大蝦蟇様の項を直さないといけないんだもの…また今度遊んであげるから、ね」
そんな風に優しく言われると…何も言い返せないよ。
「むー約束だよ」
傷一つ無い頬を膨らませながら、私はそう答えた。
「ええ」
にっこり笑ったお母さんは、そう言いながら私の頭を撫でてくれた。私はとっても幸せだった。
私は残念そうな顔をつくろうとするけど、たぶん今はにやけているんだろう。まぁ…いいけど。
そして、私はお母さんの顔を見て…言った。
「じゃあ仕方ないや…でも無理はしないでね『阿未お母さん』♪」
幻想郷の里から数里、妖怪の山の中腹に、小さな池があるという
小さく綺麗なこの池に、棲むのは巨大な蝦蟇という
池を冒涜した者は、一息に呑み込む蝦蟇という
しかしその蝦蟇大蝦蟇は、実は大層優しくて、加護を下さる蝦蟇という
敬意を払った人間に、小さな蝦蟇をつけてやり、里まで送ってくれるという
小さな蝦蟇がつく限り、里まで無事に着くという…
~数百年後の小さな余談~
幻想郷縁起では、稗田家の歴史にはほとんど触れられていない。
その為、なぜ稗田の娘は花の髪飾りをつけることが多いのか、また、何故御阿礼の神事の際に、大蝦蟇の池からわざわざ水を汲んでくるのか等々謎な話も多い。
また、その大蝦蟇の池への道が、かつてと違うという伝承もあるが、それが本当なのか、そして、本当ならば何故道が付けかえられたのかも全く不明である。
稗田家についての伝承は多く、他にも古びた桶が家宝とされているなどといった話もある。一説によると、かつて例外的に長命であった御阿礼の子にあやかったとのことであるが、その真偽については全くの不明である。
『おしまい』
優しい子が優しい目に遭う(なんだそれ)流れが好きです。
あと創作一周年おめでとうございます。
いつも楽しく読ませてもらってます。
ぜひぜひ、これからも続けていって欲しいなと勝手ながら思います。
今年もがんばってくださいw
女の子に引き込まれる感じです。
これだけでも充分に東方の世界が感じられました
すごいの一言です!
それと一周年おめでとうございます
これからも自分のペースで無理せず突き進んで下さい!
我々がよく耳にし声にして知る世界の「もう一つの素顔」、
当事者ではなく第三者から見た幻想郷の世界観が溢れていて、
感動しました。
これまでのアッザム氏の作品イメージとは異なり、
シンプルながらも所々息をのむような場面もあり、
紆余曲折を経て、それでも最後はやっぱり自然と笑顔になる暖かさ。
創想話一周年とのことですが、これからも読んだ人の心が温まるような、
そんな素敵なものを作り上げていけるよう、頑張って下さい。
なんて願いが早くも叶いましたよ
良い話、ありがとうございました。
>都様
私の場合、他人と視点がずれているのかも…(笑)
>アティラリ様
実は、求聞史紀を読んでいない方が先が読めず、面白いかもしれないです(えー)
>名前が無い程度の能力様
ありがとうございます~これからもこそこそと続けて参りますので、お暇な時にでも読んで頂けたら…と思います。
そして、私も優しいお話、優しい子のお話が大好きなのです♪
>SETH様
ありがとうございます♪まだまだ未熟ですが、今年も精一杯頑張ります~
>スカーレットな迷彩様
異常な人間って(笑)
女の子の心理描写は、今回一番こだわった所だったので、そう言って頂けると~♪
>二人目の名前が無い程度の能力様
そう言って頂けますと♪
>思想の狼様
やや、過分なお言葉ありがたい限りで…ww
でも東方の世界が感じられると言われてほっとしていたりww今年も去年と同じような感じで頑張りたいな、と思いますのでどうかよろしくお願いします。
>絶対無換算様
いつも心はぬくぬくと♪そんな感じで頑張りたいな~と思います。
『もう一つの素顔』…いい表現ですね。それが少しでも表せたなら…と。
>三人目の名前が無い程度の能力様
思わず…思わず大蝦蟇様に呑み込まれて(笑)
求聞史紀の大蝦蟇ってかなりカリスマありましたからねww
いや、ここまで発想力を膨らませつつ公式と違和感なく繋げたその愛情に賞賛を。実は、毎回楽しみに読んでおります。
(地面に掘った穴の中にぶつぶつ呟いてから埋めた)
…大ガマものは…近日中にぐもんしきを買ったら書くかも書かないかも?約束なんて未定ですよー。
ご感想と贈り物、ありがとうございますww大切に保管しておきまする~
>実は、毎回楽しみに読んでおります。
そんな事言われると喜んでしまいますよ?いえホントorz
そして、やはり愛がこのSSの原動力です。恐るべし大ガマへの愛ww
…大ガマSS読みたいな~(こら)