十六夜咲夜は人間である。彼女は、悪名高き吸血鬼の館において数多のメイドを束ねる長であるが、それでも人間であることに変わりはない。
人間でありながら人間味の薄い彼女とて、人間らしく悩むことがある。
人間的な悩みとは何か。一般的には、情愛の悩みであったり、金銭の悩みであったり、はたまた己の生き方について悩むということもあるだろう。
時として、人間の肉体そのものが悩みの種となることもある。今まさに、十六夜咲夜が抱える悩みは、肉体的なそれである。
幻想郷の住人は多くが人間以外である。妖怪妖精の類は、おおむね怪我に強く病苦を知らない。
紅魔館においてもそれは例外ではなく、十六夜咲夜の人間的な苦悩は彼女本人にしか持ち得ず、彼女以外の誰にも知り得なかった。
そして、十六夜咲夜の悩みの場は、主として一畳ほどのブースの中となる。
出ない。
彼女の悩みは、その一言に尽きる。
人として生きている限り、摂るべきものを摂り、出すべきものを出す。それが摂理である。しかし、彼女は今、その摂理の狂いに直面していた。
出ない。
もう一週間以上になる。
出るのは溜息ばかりだ。いきんでも出ないものは出ない。
日頃、人間としては健康な咲夜である。体調管理は仕事の基本。これまで大病にも罹らず激務を勤め上げてきたのだ。まさか、お通じが悪いという程度で苦しむことになろうとは、彼女自身、思ってもみなかった。
出ないということは、すなわち、溜まるということである。
溜まると、重い。
そして、苦しい。
直面したことのない苦しみであった。
実のところ、人間の女性にとって、この苦しみは珍しいことではない。体の構造上、これは女性の宿痾といってもいい。むしろ、これまで咲夜が悩まなかったのは、日々の体調管理の賜物であり、多少の幸運のおかげである。
しかし、彼女、十六夜咲夜は、十六夜咲夜ゆえに苦しんでいた。
「咲夜」
主であるレミリア・スカーレットが、十六夜咲夜を呼ぶ。
「はい」
咲夜は応える。
従者は常に主につき従うもの。そして、主の命を忠実に行うことこそ従者の務め。
「美味しいわ」
「ありがとうございます」
レミリアは、咲夜が淹れた紅い液体を満足げに味わう。主の賞賛は従者にとって至上の喜び。
だが、今の咲夜は素直に受け入れられない。
便意を堪えているからである。
顔色ひとつ変えないが、咲夜は訪れた便意をやり過ごしている。
催したので気張ってきます、とは流石に従者として憚られるのである。たいていの場合は、なにかしら離れる理由をつけて、そのついでに用を足すのだ。
だが、最近、彼女の主たるレミリアは活発である。
主な理由は、外へ遊びに出ることが多くなったためだ。普段、昼は寝て夜に起きる真性の夜行性であるレミリアが、わざわざ昼間に神社に出かけたりするのである。活動時間が長くなり、そうなると、咲夜としても主につき従う時間が増えるのも当然のこと。
咲夜の自由な時間は減る道理である。
さて、ここで、読者諸氏は考えるかもしれない。
十六夜咲夜の十六夜咲夜たる所以。その特殊能力を使えばよいではないか、と。
十六夜咲夜は時間を操る。
時間を止めて用を足すなど、造作も無いことだろう。彼女の能力を知る者は、誰もがそう思う。
だが、それはできないのだ。
そう、これは咲夜が主にすら隠している、自身の能力の弱点であった。
彼女は、時間を止めながら、気張れない。
気張れないのだ。
咲夜は、時間を止めている間、緊張状態にある。その時、彼女の括約筋にもぎゅっと力が入っているのである。
生き物は、用を足す時は緩める。だが、それを行えば時間操作は解けてしまう。彼女の自慢の能力は、ことその用途においては、まったくクソの役にも立たないのであった。
そして咲夜は、役目上、その能力を多用する。
掃除ひとつとっても、彼女の仕事振りには隙が無い。
「流石メイド長よね。掃除した後、曇り一つないわ」
「本当、メイド長が掃除した後って、はっきりわかるわよね。輝きが違うもの」
そういった部下達の賞賛を、当たり前に受ける彼女である。咲夜がメイド長として君臨しているのは、決して彼女の時間操作能力のためだけではない。その仕事への姿勢こそ、評価されるべきであろう。
だが、その完璧ぶりを支えているのは、やはり時間操作能力である。
お嬢様の身の回りの世話は言うに及ばず、館内の諸所雑事、侵入者の排除にまで、彼女の能力は活用範囲が非常に広い。
ゆえに、十六夜咲夜の病状は更に悪化する。
十六夜咲夜は瀟洒である。
彼女の容姿は、人妖雑多な紅魔館の中でも際立っている。怜悧な美貌とスレンダーな肢体。それに加えて、年齢らしからぬ落ち着いた物腰。仕草の一つひとつには無駄が無く品がある。
紅い館の中で佇む姿は、銀髪と青い衣装のコントラストが映えて、見る者がため息をつくほど美しい。館内のメイドには固定のファンも付き、隠し撮りされた彼女の写真がブロマイドとなって出回っていると噂される。
咲夜はもちろん、自分がそう見られることを意識している。その姿も、立ち居振舞いも、全て彼女の瀟洒を表現する手段である。
そんな彼女としては、知られるわけにはいかない。
瀟洒の二つ名で呼ばれる彼女が、まさかお通じが悪くて悩んでいるなどとは。知られれば世間の笑いものである。プライドの高い咲夜にとって、そのような事態は許せるはずもなかった。
主はもちろんのこと、部下にも同僚にも、誰にも知られてはならないのだ。
「あれ、メイド長、もうお食べにならないんですか」
館の食堂で給仕を務めるメイドが、咲夜の膳を見て声をかける。
「ええ、もう十分いただいたから。ごちそうさま」
そんな部下へ、嫣然として応える咲夜。実のところ、下腹が重くて食欲が無いだけなのだが、事情を知らぬ部下は、ははぁと変に感じ入る。
「さすが、メイド長ですねぇ。やっぱりスタイル保つには、日頃の節制が大事なんですねぇ」
私なんて、つい食べすぎちゃうんですよねぇ、と笑いながら皿を下げるメイドに対して、ふふふ、大事なのは食べることよりも、適切にカロリーを使うことなのよ、なんてことをクールに応えつつ、テーブルの下でナイフを弄ぶ咲夜である。
宿便以外にも、いろいろと溜まっているのであった。
なにしろ、最近は食欲が無いために、大好きなスイーツすら喉を通らない有様なのである。この館にいるのは妖怪ばかり。人間丸かじりなぞ平気でやらかす連中だっているくらいだ。
お前ら、それだけばかすか食うのに、出ない苦しみと無縁とはどういうことだ。
膨満感のおかげで、好物すらも厭わしく思う気持ちが理解できるか?
いっぺん、お前らの腹の中に石でも詰めてみるか?
世界の不公平ぶりを嘆くあまり、心の中で、給仕のメイドに赤ずきんの狼役をやらせて溜飲を下げる咲夜である。
「咲夜さん、どこか身体の調子でも悪いんですか?」
そんな咲夜を前に、更に不公平感を煽る者が一名。
紅魔館で門番を務める中華風妖怪娘、紅美鈴である。
デザートのプリンをいただきつつ、対面の咲夜の顔を覗き込む美鈴。彼女は、この館において随一の健康優良無病息災元気溌剌娘である。冬場で雪に埋まっても風邪一つひかない頑健さは、自称病弱っ娘を主とする悪魔の館において、最も病に縁遠い存在と言えよう。
「昨日もあまり食べてなかったみたいだし。それじゃあ足らないでしょう」
美鈴は鋭いところを突いてきた。自身は病気に縁が無いくせに、他人の身体についてはよく気が付くのである。もちろん、彼女の言葉は、純粋に同僚の身体を慮ってのことなのだが、正直なところ、今の咲夜にとってその配慮は重い。
「大丈夫よ。心配には及ばないわ」
ああ、美味そうに食ってやがるなプリン。そういう思いをおくびにも出さず、同僚へ微笑む十六夜咲夜。ここ二日ほど、デザートを味わえないことに涙しつつ、自室で一人、密かに蒟蒻ゼリーを食す咲夜である。
「確かに疲れてるけど、ただの寝不足なの。最近、お嬢様が元気だから」
咲夜の言葉に、美鈴は苦笑した。レミリアお嬢様の外出が多いことを、門番である彼女はよく知っている。
「でも、気をつけて下さいね。なんだか顔色悪いですよ。咲夜さん、働き過ぎなんだから、もっとしっかり休まないと……」
なおも心を砕こうとする美鈴を振り切るように、咲夜は席を立った。
「ありがとう。ご忠告に従って休むから、貴女も務めを果たしてね。魔理沙が入ってきて私の手を煩わせないように」
それは言いっこ無しですよ、と肩をすくめる美鈴へ手を振って、咲夜は食堂を後にした。
このままでは良くない。
その事を、誰よりも咲夜自身がわかっているのである。今はまだ食欲が無い程度で済むが、いずれ仕事に障りが出るようになるだろう。それまでに、事態の解決を図らねばならなかった。
それでも、この頃はまだ、彼女は余裕があったと見るべきだろう。
彼女の仕事の完璧ぶりは変わらなかったし、その瀟洒な姿に一点の曇りもなかった。むしろ、館内の彼女のファンから見れば、最近のメイド長はいつにも増して憂い顔が堪らない、と更に人気が高くなる始末であった。
だが、事態は急変する。
「あんた、太ったんじゃないの?」
引き金を引いたのは、博麗神社の巫女、博麗霊夢であった。
主であるレミリア・スカーレットは、この人間の少女、博麗霊夢がお気に入りである。
闇の眷属であるにもかかわらず、わざわざ霊夢が起きている昼間に神社をおとなうくらいには気に入っている。
その主に付き添うのが咲夜の務め。今、咲夜は縁側で涼む霊夢と並んで座り、霊夢の後ろからはレミリアがじゃれついている。
そんな和やかな状況での何気ない発言であった。
「今、とても失礼なことを言わなかったかしら」
知らず、右眉が跳ね上がる咲夜。横に座る霊夢を睨むが、霊夢は憎らしいほどに動じない。
「なんとなく、よ。なんとなく動きが鈍いわ。見た目じゃわからないけど、太ったんじゃないの?」
なんとなく、か。このアマ。勘だけでそんなことを言いやがるか。
「動きが鈍い。そういえばそうかしら。言われないと気付かないくらいだけど」
しかも、レミリアまでもが同調する。レミリアは霊夢の肩に頭を預けながら、咲夜の腹の辺りを見やる。
「太った?」
無遠慮な一言を従者に向けて言い放った。
太ってねぇよ。
喉元まで出てきた言葉を、瀟洒に塗りつぶす。
実は、便秘のせいで腹まわりがきついのだが、そこは日頃鍛えた瀟洒な着こなしでカバーしている咲夜である。それだけに、二人の指摘は血が出るほどに痛い。
違う。太ったんじゃない。違うんだ。
そう、声を大にして反論したいところだが、本当の理由を知られるのは更に辛い。
咲夜は煩悶した。
時間を止めて煩悶した。
乙女としての尊厳をかけた、長い葛藤だった。
そう、自分は決して、決して太ったわけではない。
腹の中にヤツが溜まっているからなのだ。
ヤツがいなくなれば、標準体重よりも軽いんだ。
ヤツがいなければ、確実に一キロは違うんだ。
貴様もその腹の中にヤツが居座ったら、そんな涼しい顔をしていられなくなるんだ。
ひとしきり、我が身を呪い、霊夢に怨嗟を浴びせ、霊夢の下着のゴムをナイフで切ってから、咲夜はやっと落ち着いた。
瀟洒スマイルと瀟洒小首角度、これで完璧という瀟洒スタイルを作って、咲夜は時間を解放する。
「お言葉ですが、別に太っているわけではありません」
そして、時間を止めた間に考えた言葉を連ねる。
「あまり自分の欠点は言いたくないのだけど、私は特に動きが速いわけじゃありません。時間操作と空間操作のおかげで、相手からすれば一瞬に見えるのでしょうけど、私自身は人間の能力をそれほど超えておりませんわ。お嬢様からすれば、たいていの人間の動きは遅く感じるでしょう。もっとも、霊夢よりは鍛えている自信があるから、あなたに鈍いなんて言われるのは心外だけど」
もちろん、詭弁である。
二人は、ふーん、と気の無い頷き方をして、
「ま、どうでもいいけどね」
「ま、どうでもいいわね」
これでこの話題は軽く流れた。そう、思った。
内心、危機が去ったことに咲夜は安堵した。
甘かった。
そこで、霊夢はぼそりと言った。
「便秘なら早く治したほうがいいわよ」
紅魔館に戻った咲夜は、考えていた。
あの霊夢の発言以降、なぁんだぁ咲夜ったら便秘なのぉあっはっは、などと大笑いしたレミリアを抱え、咲夜は全速で紅魔館への帰路を急いだ。出掛けに時間を止め、箪笥の中の全ての霊夢の下着は念入りに切り刻んだ。これで、今度霊夢が空を飛んだ時が、彼女の乙女的生命の終わる時だ。さようなら博麗霊夢。そのスカートの下の青春のメモリアルを天狗にしっかりフォーカスされるがいい。
咲夜にがっちりと抱きかかえられたレミリアは、帰途の間、終始落ち着かなかった。
「べべべべべべべべべべんぴなんてしらないわ。きかなかったわ。ほんとうよさくや」
道中、無言で日傘にナイフを入れる咲夜へ、レミリアは壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返した。悪魔のくせに涙でかすれた声で何度も繰り返した。しかし、咲夜はその言葉に応えず、ただ黙々とナイフを動かした。その度に、日傘の傷から漏れた日光がレミリアを焼き、その度に、レミリアは悲鳴をあげて同じ台詞を叫んだ。
紅魔館に着くなり、レミリアはしゃにむに咲夜をふりほどき、
「わわわわわわわわたしはいまからねるからっ。ねるっ。へやにはいってくるな! こないで!」
慌てすぎて、壁や扉や歩くメイドにぶち当たり、高価な花瓶や家具を台無しにしながら、レミリアは自室に篭って鍵をかけた。部屋の中で、どすんがしゃんと何かが壊れたり倒れたりする音がして、不安に思った近くのメイドが扉を叩いたが、レミリアからの返事は無かった。
取り残された咲夜は、考えていた。
知られて、しまった。
我が主に、知られてしまった。
自分が完璧ではないことを、瀟洒ではないことを。
恥ずかしい秘密を知られてしまった。
周囲は、思わぬ事件に遭遇したメイド達が、仕事をしている振りをしてちらちらと咲夜へ視線を向ける。
取り乱すレミリアも珍しいが、自失した態(てい)で立ちすくす咲夜も珍しい。
何が起こったのか、これからどうなるのか、そういった好奇に満ちた視線が、レミリアから去られた咲夜に刺さる。
普段、娯楽に乏しい館内のこと。噂話は油紙に火を点けるが如く速く広がる。
咲夜の密かな悩みは、遠からず、部下達が知ることになるだろう。
咲夜は、考えていた。
大丈夫、大丈夫だ。まだ、挽回のチャンスはある。
咲夜は昏い目つきで考える。
こと、ここに及んでは、事態の解決が急務だろう。
こうなっては、四の五の言ってられない。ここは一つ、逃げずに立ち向かっていくべきだ。
多少の時間のロスは仕方が無い。手をこまねいていては、なお大きな失敗を招く。
そういう判断であった。
もっとも、主に対して非道に及んで口止めを強要した時点で、それ以上大きな失敗などありはしない。既に手遅れである。
咲夜も心の内では、そのことに気付いている。
だが、認めるわけにはいかない。
十六夜咲夜として、それはあってはならないからだ。
まだ、やり直せる。
咲夜から迸る鬼気を感じて、遠巻きにしていたメイド達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
最早、出るまで一歩も退かぬ。
その心意気でトイレに臨んだ咲夜であったが、いざ、と踏ん張っても出てくれない。悩みの元凶は、頑として咲夜の腹中から動かず、いくら脂汗をかいても腹の中はぴくりともしない。
それも当然だった。それくらいで済むならば苦労などしない。
便秘において、重要なのは時間である。
長く留め置かれるほど、それは水分を失って固くなっていく。
なるべく水分を多めに摂ることが予防に繋がるのだが、なにぶんにも腸は長い。常に補給線を維持するくらいでなければ効果は薄い。
今の咲夜は、時間が経ちすぎていたのだ。
流石の咲夜も焦った。
根っこでも生えているのか。そう思うほどの不動っぷりだった。
どうにか自分の中で動きを招こうと、いろいろと体勢を変えてみた。その姿を、事情を知らぬ誰かが見れば、いかな豪の者でも裸足で逃げ出すに違いない。それほどに鬼気迫る光景であった。
しかし、狭いブースの中、汗だくになるまでアクロバティックを試したにもかかわらず、成果は出ない。
小一時間ほど粘った挙句、ついに咲夜は諦めた。
手を洗いながら、咲夜は鏡の中の自分と視線を合わせる。
普段の完璧で瀟洒なメイドはどこにもいなかった。虚ろな眼をした呪われた女がそこにいた。
もう、自分は一生コイツを腹に抱えて生きていくのかもしれない。
自虐的に力なく笑う咲夜だった。
誰か、この腹の中の邪魔者を何とかしてくれたら、どんな代価だって支払ってやる。
そう思いつめるほどに、深刻だった。
腹の中を洗い流して欲しい。何か、そういう薬でもないのかしら。
薬と考えて、竹林の奥の屋敷で妖しげに微笑む薬師の女を思い出す。
駄目だ。
長い生に厭いた宇宙人に身を任せるのは、どうにも気が進まない。
それに、なんといっても知られたくない。
いかに咲夜が追い詰められているとはいえ、事態はせめて紅魔館の中だけにとどめたかった。それだけは譲れない。
何か、他に方法は。
何か方法を知っていそうな者といえば、この紅魔館が誇る知識人、パチュリー・ノーレッジはどうだろうか。
人間でないくせに持病を抱える彼女は、今の咲夜を救ってはくれないだろうか。
そこで、咲夜はかぶりを振る。
駄目だ。
確かに、パチュリーは、知識の量だけなら幻想郷でも指折りかもしれない。
だが、悲しいかな、彼女の知識が役立つことは、ほとんど無い。
本だけで得る彼女の知識には、実が無い。そのことを咲夜は知っている。方法は知っているかもしれないが、実践にはからきし弱いのである。
先日、体調を崩した小悪魔に対して、パチュリーは世にも恐ろしい民間療法フルコースを施した。
酸鼻を極める光景であった。
治療と称する拷問だった。
小悪魔の悲鳴が今でも耳に残っている。あんな目に遭うくらいなら、自分で首をかっ切って死んだ方がマシだと咲夜は思う。
トイレから出て、咲夜は重いため息をつく。
案が浮かばなかった。
数々の修羅場をくぐり抜けた彼女の心を、絶望が塗りつぶしていく。
たかが一巻き程度のそれが、いまや最強の敵として咲夜の前に立ちはだかる。
どだい、この魔窟で人の病をどうにかしようというのが。
「……愚かなのかもね」
ふと、弱い考えが口をつく。
壁に背中をつけて、力なく座り込もうとした、その時。
「咲夜さん!」
声が、飛んだ。
紅美鈴が、そこにいた。
「……どうして、ここに」
咲夜が呟く。
「今日は非番です。昼番の子から咲夜さんの様子がおかしいって聞いたので」
何があったんですか、そう言いながら、美鈴が咲夜に駆け寄る。
咲夜を案ずる声であった。
その声に、咲夜の張り詰めていた何かが切れた。
咲夜は、無言で美鈴の肩に自らの頭を預けた。
「これがそうなの?」
咲夜は美鈴が持つ大きい丼を見た。丼は顔が入るほどに大きい。その中には、枯草色の液体がなみなみと満ちていた。
咲夜の問いに、美鈴が頷いた。
「これを全て飲んで下さい。一気には飲まなくてもいいですけど、必ず全部、一刻の間に飲み切って下さい」
「……わかったわ」
美鈴の部屋である。咲夜からその窮状を聞き出した美鈴が、まかせてください、と彼女を連れてきたのだ。
紅魔館の門の警護は、ハードな職場である。元々この館に勤める者は、多少の荒事もこなせる技量を持つが、門の警護ができる者は限られている。無礼な訪問者を積極的に排除するのが務めなのだ。当然、それなりの強さが求められる。
ゆえに、門番担当のシフトは厳しい。代わりが少ないのだ。人一倍体調管理には煩い部署である。
そして、その体調管理を支えているのが、彼女、紅美鈴なのだった。
漢方である。紅美鈴は言った。
「私達みたいな妖怪は、多くの自然を取り込んで、自分の力にします。でも、自然の力には波があります。一番わかりやすいのは月ですね。力の強さが月の満ち欠けで決まってしまう。常に変わらずベストの状態を保つには、波に左右されない別の形で力を取り込まなくちゃいけません」
だから、これです。美鈴は数々の薬液を見せる。
「漢方の基本は、体の状態をあるべき姿に保つことです。弱っているところを強くして、強いところは弱めてあげます。バランスが大事なんです。今の咲夜さんは、おなかが頑張りすぎて疲れてます。だから、おなかに栄養を与えて、あんまり頑張らないようにするんですよ」
そう言って用意したのが、丼一杯の液体であった。
その薬液は、人肌程度に温められていた。見るからに苦そうで、立ち上る臭気は鼻に皺を寄せるほどに強い。
だが、これを飲むだけで、腹の中の頑固者どもを一掃出来るなら簡単なことだ。決心して丼を持って口をつけようとした咲夜を、美鈴が止める。
「待ってください。これ、一応人間用に調合しましたけど、それでもかなり強い薬なんです。もし飲んでる途中で気分が悪くなったら無理しないで……」
なおも続けようとした美鈴を、咲夜は遮った。
「大丈夫。この程度で、この私がどうにかなるもんですか」
そう、十六夜咲夜は揺るがない。
あらためて丼を持ち。
そして、淵に口をつけ。
咲夜はそれを飲み干した。
ひどい味だった。
苦いのでも酸っぱいのでも甘いのでもしょっぱいのでもなく、ただ、不味かった。
普段の咲夜なら、一口含んだだけで廃棄処分だ。無論、作った者も含めて。
だが、その代わり。
効果は劇的だった。
最初は、腹の奥で何かが蠢く感覚だった。
ごろごろと鳴動した。
「お」
つい、咲夜が声を漏らす。
ごろごろ。
ぐるぐる。
久しく覚えてなかった感覚だった。
ごろごろごろごろ。
ぐるぐるぐるぐる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
咲夜らしからぬ雄叫びであった。
拳を握り締めて、咲夜は咆哮する。
来た。
来た。
来た。
来たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!
待ちかねていた感覚であった。
求めていた感覚であった。
ヤツが。頑として動かなかったヤツが。
ついに動いた、証である。
「美鈴、ありがとう。本当にありがとう」
咲夜は美鈴の手を取り、固く握った。
いくら感謝しても足りない。美鈴のおかげだ。彼女は、咲夜の未来を取り戻してくれたのだ。
いつしか、咲夜の目から涙が流れる。心にあるのは、ただ美鈴への感謝。
「そんな、咲夜さんってば。礼を言うのはまだ早いですよ」
困惑しつつも嬉しそうな美鈴が、さあ、と咲夜を促す。
「行ってきて下さい。これからが本当の勝負ですよ」
そうだ。まだこれからなのだ。
これから、ヤツと決着をつける。
それでこそ、咲夜は本当に全てを取り戻せるのだ。
「そうね、行ってくるわ。美鈴、帰ったら何か奢らせてちょうだい」
いいですよ、そんな気を遣わなくっても、と手を振る美鈴に別れを告げて。
咲夜は、手近のトイレへ向かった。
しかし、えてして、こういう時に限って空いていないものである。
薬の効き目は確かだった。それ故に、長く堪えることはできそうにない。
他のトイレへ向かう時間は残されていなかった。
だが、咲夜は動じない。
ヤツとの決着に際して、このような瑣事は全く問題にならない。
咲夜は、時間を止めた。
そして、手近なドアをナイフでこじ開け、今まさに用を足さんとしゃがんでいた新米メイドを外に引きずり出し、我が戦場を確保。先ほど壊してしまったドアをナイフで閂代わりにして、これでOK。
委細準備万端整ったところで、咲夜は時間を解放した。
これからの時間、何人たりとも邪魔はさせない。
その意志、不退転の咲夜である。
普段、我が物顔に時間を扱う咲夜だが、これから咲夜が過ごす時間の濃密さに比べれば、あらゆるものに価値が無い。
「きぇよわぁあああぁぁあああ」
今しがた放り出したメイドが、状況を把握できずに悲鳴を上げている。
その悲鳴に、すわ何事かと、周囲の個室が騒がしくなる。
ただ事ならぬ様子に、衣擦れや紙の音もそこそこに個室を出る者もいるようだ。
どんどんと、咲夜の戦場を隔てるドアを必死で叩く音がする。先ほどのメイドだろうが、もちろん咲夜は取り合わない。
「うおおおおおおおおッ!!!!」
勝利を確信して、咲夜は鬨の声をあげる。その裂帛の気合に、ひぃとメイドがドアから飛び退った。他のドアもばたばたと開き、どたどたと淑女らしからぬ足音を響かせて、みな我先にとトイレから逃げ出す。
左様、戦場にすくたれ者は要らぬ。尻を曝すことはすなわち戦いであると知れ。
先ほどの薬で、疲弊していた兵站が復活し、兵に活気が戻った。
今や咲夜の軍勢はとどまるところを知らず。これまで手をこまねいていた敵へ果敢に攻め入り、その防衛線を次々に突破していく。
無論、敵の抵抗は激しい。重厚で鉄壁の戦艦が並ぶ単縦陣。咲夜がどれほど挑み、そして苦杯を嘗めさせられたか。
だが、咲夜は怯まない。今、この時をおいて勝利は無いのだ。
咲夜の顔に笑みが戻る。
獰猛で凶悪で一方的に殺戮する勝利者の顔であった。
そこに、日頃エレガントに無駄なく戦う十六夜咲夜はいない。
闘争本能を剥き出しに、流れる汗すら拭わず血走った目でトイレの壁を睨む、ただの戦鬼が其処にいた。
そして、ついに、敵の敗走が始まる。
最初の脱落の後は速かった。勝利を知らせるトランペットが鳴り響き、侵略者はことごとく咲夜から落ちてゆく。
雌雄は、決したのだ。
ほう、と息をついて、咲夜は勝利の余韻に浸る。
ふと気付けば、遠くで何か重い音が響いていた。悲鳴や怒号も風に乗って聞こえてくる。
知らぬ間に、トイレの外でも戦いが起こっているらしかった。
ああ、なるほど、神社の巫女が怒りにまかせて突撃してきたか。果たしてどういう格好でここまで来たのか。
その様を思って、くすりと咲夜は笑う。
そういったことを考えられるほど、彼女には余裕が戻ってきていた。
さすがに部下達には巫女の相手は荷が重かろう。ここは丁重にもてなしてお帰り頂かねば。
熾烈な戦いを終えた咲夜だが、勝利の疲労は心地良い。戦後処理をしながら、次の戦いへ思いを馳せたところで。
咲夜は気付いた。
これまで経験したことの無い、鈍い痛みに。
ぬるりと尻を伝わるその感覚に、聡明な咲夜は何が起こったかを把握した。
敵は強大だった。堅牢で重厚で、長太かった。
戦いには勝利したが、無傷というわけにはいかなかったようだ。
しばらくぶりに使われた咲夜の、その部分は。
『カグヤ大黒堂は、貴方の悩みを優しく治します』
天狗の新聞に載る、その広告が咲夜の脳裏に蘇った。
後に、文々。新聞のとある広告に、S.Iなる人物の体験談が載ることになるが、紅魔館の彼女との関わりについては定かではない。
…フィクションか
でも、同じ苦しみを味わった経験者ならば誰だって理解できるし、笑えないんだ……。
……ふぐぐっ!
不覚にもワラタww
教条的に幻想少女に対する名誉毀損罪-10点だけは加算させてもらうが、後は満点を進呈させていただくw
ヤマイダレに寺の状態になったのか!?
自分もそうなった経験あるよ!
一発で分かるようなタイトルにしてくださった貴方に百十点をささげたい!
>この話はフィクションです
・・・フィクションか
>強敵は去った。しかしこれが最後とは思えない。第二第三の敵が必ずや現れるであろう
誰だ、俺の日々を綴ったのは
一日の食う量が1kg以上に到達すると、排出する度に痔になる・・・慣れるよ、慣れたくないけど
だが一難去ってまた一難。
血管収縮剤 塩酸テトラヒドロゾリン配合、痛みをおさえるリドカインなど八種類の有効成分が患部を癒すアレが必要ですね。
……ようするに出す時に凄い音がしたんですね。表現に萌え。
日ごろすぐ腹を下して日に何度も個室に駆け込む俺とは対極の恐怖か……
便秘は下痢より辛いのだろうか?
なんか妙に感想に実感がこもってるのが多いが
完璧で瀟洒でも人間であった咲夜さんの限界を
まざまざと見せ付けてくださった氏にコレを……
ノシ狂った目を持つ兎の薬
P.S.
そういえば霊夢は……あ、そもそも入るものが少なす(陰陽玉と針
既出だけど「うどんげ呼んでこーい!」
参りました。
ところで痙攣し過ぎた腹筋に効く薬ってありませんかね?
藤村氏のアレかwあの咲夜さんもハジけてたなぁ。
つーか、あの後って、立つことすらままならないんだよね。誰が買いに行くんだ?
ここでも失敬してる。
いやーしかし面白かった。ネタもさる事ながら、緊迫感を煽る地の文がまた見事。何というかワニトカゲギスみたいなグロい深海魚を、当店の一流シェフがプロヴァンス風に調理しました、みたいな。
うん、本当に面白かったですぜw
取りあえず明日からの咲夜さんの周りの評価が物凄く気になります。
でも笑いが止まらない、味わったことがあるんだけど、でも、笑いが止まらなかったんだっ……!
咲夜さんは人知れず頑張る人だと思います。なぜか気張る話になりましたが。
次回作、あるとすればシリアス、だろうと思います、多分。
あー、霊夢の格好が気になる。天狗はしっかりフォーカスしたんだろうな?
おい、誰かその日の文々。新聞もってないのか?
どうやったら、こんな文章書けるんだw
>フィクションです
フィクションか、なら仕方ねえや
……痔は二十歳くらいでなっちゃうよね。けっこう。
幻想郷にウォシュレットの導入を。
咲夜さんwwwwwwwwwwww
>気張れないのだ。
クソ吹いたwwwww
まったくだなwwwww
一人の瀟洒なメイドの仁義なき戦いを綴った記録である。
敵軍の隊伍の厚さに、さくやの最終関門は決壊しちまったんですね。
いたた。