「アリス、起きて、アリス、アリス!」
こんなシャンハイの声で目を覚ますのが、最近ではすっかり日常の事になってしまっていた。
私の顔を覗き込んでいるシャンハイを、かすかに視界に収める。
「ふぁ、シャンハイ? おはよー」
どうやらその返事では不満だったらしく、シャンハイは私のみぞおちの上に飛び乗ってきた。
「挨拶は起きてからするの! もー目が開いてないー髪ボサボサー挙げ句の果てにヨダレ痕ー、そんなんじゃ都会派に指差して笑われるよ」
多分、都会派でなくても指差して笑うと思う。
カーテンの下の隙間からは、かなり昼寄りの朝日が差し込んでいた。昨日は夜遅くまで頑張っちゃったからなあ。というか、シャンハイと二人で住むようになってからは、ずっとこんな感じかも。実家暮らしから一人暮らしになると、往々にして生活はダレるけど、一人暮らしが二人暮らしになると、往々にして生活はもっとダレる。仕方ないよね。
いそいそと身を起こす。服が昨日のままだった。気持ち悪いのでまず着替えた。それで顔と頭を洗った辺りで、ようやく意識が覚醒してきた。
その間には、シャンハイが既に食事を用意してくれていた。見た目はちょっと不格好だけど、美味しかった。物を食べる事が出来ないシャンハイだから、見よう見まねで料理をしているはずで、普通に考えれば見た目はいいけど味がついてない、みたいな物が出来そうに思えるけど。不思議。
「本当に、ずいぶん上手になったわね、シャンハイ」
頭を撫でてあげると、シャンハイはえへへーと笑った。
ああもう本当に、可愛いなあシャンハイ。
食事を終えて、お茶の時間をひとしきり楽しんで、さて昨日の研究のやり残しに手をつけようか、と思ったら、
「おーっす、今日もまた邪魔するぜ」
とか言いながら、いつものウィッチハットに金髪の白黒コスチュームな人間が、他人様の家屋に侵入してきた。今日もまた魔理沙。何日目かしら。
「魔理沙だ、魔理沙ー、アリス魔理沙来たよー!」
シャンハイも、毎日のことなのに一々はしゃがないでよろしい。
「シャンハイ、お友達が来たみたいよ、遊んであげなさい」
「なあアリス、お前だんだんつれなくなってないか?」
だって毎日の事だもん。
「まあいいや、シャンハイ、二人で遊んでようぜ」
という魔理沙の誘いに
「え? いいの? アリスぅー」
とか言って名残り惜しげなシャンハイを割と無視して、研究用具を広げ始める。
さて。
「ほらーシャンハイつかまえてやるぞー」
とか早速、隣の部屋から雑音が聞こえてくるが、その程度で気は散らされない。
「あははー魔理沙ーこっちだよー」
と、いざ二人になってみるとノリノリなシャンハイの声にも気は散らされない。
「きゃっ、ちょっと魔理沙、どこ触ってるのよー」
と、何か事故があったようだが、気は散らされない。
「あのさ、シャンハイ……」
魔理沙がその名を口に出したきり、二人の間にしばし無言の時間が流れたようだが、気は……
「魔理沙、うん……いいよ」
ダンっ!
私の座っていた椅子の倒れた音が、部屋に響く。その音を認識する頃には、私は体当たりで隣の部屋のドアをこじ開けていた。形式的にノブは捻ったが、変な音がした気がする。まあ今はそれどころではないので、後で直しておこう。
で、部屋に突入してみると。
ありのままに、今起こった事を話すわよ。
『魔理沙もシャンハイも居なくて、
代わりに、足元に、バナナの皮が落ちていた』
多分、何を言っているのか分からないと思うけど。比喩表現とかそういうチャチなものじゃなくて、本当に黄色くて若干しなびたバナナの皮。何で? マリオカート以外では、もうこのネタは許されないはずよ。とっくの昔に幻想郷入りのハズなのに。
幻想郷入り。ああそうか、だからここに落ちてるんだ。
ずるべしゃあぁぁぁっ!
てな擬音は誇張表現だけど、前に出した方の足はバナナの皮を真芯で捉えると、想定外に小さな動摩擦係数に本来のグリップ力を発揮できず、踏み抜くように体の後方に流れる。
支えを失った私の体は、飛ぶ矢のように顔面から床に突き刺さった。
痛い。すっごく痛い。
後方に、魔理沙とシャンハイの気配を感じた。ドアの両脇に身を潜めていたみたい。さあ、笑って。見事なトラップに敬意を表して、今日だけはいっしょに遊んであげるわ。弾幕で。
けど、そんな私の澄み切った想いとは裏腹に、いつまで経っても笑い声は起きなかった。
気まずそうな視線が注がれているのを感じる。
主に、すっ転んだ拍子に全開になった私のスカートの中に。
「何というか……想定外だ」
「アリス……それは色々アレだから止めたほうがいいって何度も……」
握った私の拳が震えるのを感じる。止められない。それどころか、辺りの空気すらもピリピリと振動を始めたようだった。ヤバげな雰囲気を察知して、そろそろとその場を去ろうとする魔理沙と上海人形の後ろ姿。
――ん、シャンハイ……人形? シャンハイ……
激発前に一瞬だけ冷静になった頭が、この平和すぎる日常に含まれるものに、ふと何か違和感を覚えた。――
けど、次に意識が戻ったときには、一区画が崩壊した私の家と、焼け焦げてぐったりとした人間および素性のよく分からない小さな人型生物と、なぜか天に向かって咆哮をあげていたらしい私自身を認識したのみ。
まあいいや、こんな日もたまにはあるわよね。
「ねえ、アリス、もっと魔理沙と仲良くしなくちゃ駄目だよ」
夕食の時間に、ふとシャンハイは真剣な顔になって私にそう言った。
「そうね、そういうのも良いわね。向こうの態度がもう少し良くなったら」
「もうっ、アリスってば!」
シャンハイが、座っていた幼児用の椅子の上に立ち上がる。
「ごちそうさま」
そんなシャンハイを割とそっけなくあしらいつつ、内心は幸せな微笑み全開な私。
シャンハイ、別に、私と魔理沙はそんなに仲が悪いわけじゃないのよ。利用したい時はお互いきっちり利用させて頂くし。魔法使い同士としては、結構良好な関係と言えるんではないかしら。家に来るのも、たまになら良い気分転換になるし。あまり何日も顔を見ないと、逆に不安になるのよね。
シャンハイは膨れっ面のまま言った。
「じゃあさ、私が魔理沙取っちゃってもいいんだよね」
うっわ、どうしよう、可愛すぎる。あれよね。「お父さんとお母さん仲良くしてよー」って駄々こねる子供の心理よね。そんでお父さん取っちゃうよーってどこぞの心理学者はこのケースにエレクトラコンプレックスなんていう無味乾燥な名前を付けちゃったりしてるけど冒涜よ冒涜、こんなに無垢なお子様にそんな汚らしい論理を持ち込まないで欲しいわぁいや本当。
ストップ。論理展開はともかく、いつの間にか私と魔理沙が夫婦になってる。
食後の後片付けを始めたシャンハイだが、ふと振り返って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「本当に、取っちゃうよ?」
もしかして本気?
いや、意外と隅に置けないかもしれないわ、上海人形。
――まただ、また、あの感じ――
シャンハイは人形やマジックアイテムの手入れも手伝ってくれた。
狭苦しい部屋の中で、シャンハイの体は小さくて邪魔にならなかった。仕事の覚えも早い。というか、まるで作業の内容を元々見て知っていたような感じを受けた。
――まるで――
「シャンハイ、私に何か隠し事してない?」
「え……する訳ないよ。アリスどうしたの?」
そうね、どうかしてた。この子を疑ってはいけない。
――擬似人格魔法の持続条件は、自分が人形であると、人形自身が認識しないことなのだから――
駄目だ、シャンハイとまともに顔を合わせられない。作業に没頭していないと。
私は一つのナイフを手に取って磨き始めた。漆黒の刀身に血管のような赤い紋様が浮き出たそれは、名前を生皮剥ぎのナイフという。見た目も名前もエグいが、用途はといえば生き物の皮を、それ自体もその下の組織も一切傷つけずに剥ぎ取ることが出来るという便利アイテムである。なるべく綺麗な毛皮が必要な時など重宝している。もともとはちょっとアレな貴族が使用人の生皮を剥いで鑑賞したり、妻が寝ている夫の生皮を剥いで翌朝鏡を見た彼をショック死させたり、敵国の重臣の中身をくりぬいて中にスパイを入れたりに使われていたとかで。
あ、やっぱり用途も結構エグいや。
「ねー、アリスー」
「な、何かしら?」
シャンハイの呼び掛けに、私は顔を上げずに応じた。
「この蓬莱人形の隣、空いてるけどどうして?」
ああ、本当だ。シャンハイが来てからの数日間ずっと空きっぱなしのスペースがあった。どうして今まで気付かなかったんだろう。
そこにあるはずなのは、私のお気に入り。
――そこにあるはずなのは、上海人形。
「アリス、自律して動く人形の研究は進んでいるの?」
少し前、ヴワル図書館でお茶の時間に、日陰の魔女パチュリーは私にそう問うた。
「ええ、順調よ。どうして?」
おせっかいかも知れないけど、とパチュリーは続けた。
「『自律』っていうのは『自ら律する』って書く訳よね。あら、新聞には立つ方の『自立』で書いてあったかしら。まあどっちでも良いわ」
一旦言葉を切って紅茶を一口含んだ。勿体ぶりすぎでないかしら。
「あなたは『律する』ことに関する研究をずいぶん重ねているようだけど、肝心の『自』の方をおろそかにしているように見えるの。どうなのかしら?」
ああ、そのことね。むしろ、よくぞ聞いてくれました。私は得意になって話し始めた。
「実は、ひとつ当てがあるのよ。その実験をしなくてはいけないんだけど、当然ある程度動く人形がないと実験にならない訳で。それでここ何年か『律する』方を研究していたのね」
言うとパチュリーは露骨につまらなそうな顔をしながら、
「ふうん、どんなの? 興味あるわ」
どっちよ。話すけど。
「普通の魔法生物っていうのは、いわばそれ自身を生物であると騙すことによって、あたかも生物のように振舞わせる技術よね」
まあ、ここら辺は基礎知識である。当然、パチュリーもその問題点を即座に指摘してくる。
「けど、それが可能なのは自分が造られた物だと認識できないような程度の低い知性か、あるいは箱庭のような限定された空間の中だけよ。その魔法生物自身に自己認識を制限するような仕掛けをすることは出来るけど、他者が存在する環境では、その他者が接する態度によって、否応なく自身が造り物であると認識させられる事になる」
まあ、それはその通りで、今回の解決案も抜本的にその点を解決することは出来ない。
「実験だし。とりあえず、この方法が人形サイズで使えるかを試すために、ちょっとばかり大きな箱庭を作ってみようとね」
「……なるほどねえ」
要するに、いっそその他者の方にも認識を制限する魔法をかけちゃえーという、非常に大ざっぱな解決なのであった。
「どう? 行けると思わない? そろそろ実行しようかなと思ってたんだけど」
「まあ、実験というレベルでは悪くはないわね。広域精神操作に関してなら名著といわれるのが3冊くらいあるから、後で持っていくといいわ」
と、ここまで思い出した――
「ねえ、アリス?」
やっぱり、精神操作にも限界があるわね。元の人形と関わりが深い私だけに、解けるのが早かったらしい。けど、私が態度に出さなければ、もう少しだけは……
「アリスってば!」
上海人形が耳元で叫んだ。ずっと無視する形になってしまっていたらしい。その拍子に、私は持っていたナイフを落としてしまった。
「あっ!」
刀身が床に当たるとカチンという音を立てて刃が一箇所欠けた。するとそこから波紋が広がるように血管のような紋様が消えていき、やがてそれはただのナイフになってしまった。
上海人形は床に降りてその様子を硬直したまま見届けると、やがて私の方に顔を上げ、
「ごめん……なさい」
と、かすれた声で言った。
しかしその唇の状態には開と閉の2種類のパターンしかなく、それらが切り替わる度にカタカタと乾いた音が鳴った。
「あ、大丈夫よ、このナイフ確か2本持ってるわ」
ええと、もう一本は何処にあったかしら。
ここから回想。
『あー、なんだ、このナイフ2本あるじゃないか。じゃ、2本もらっていくぜ。え、ちょっとまて論理的におかしい? 仕方ないな、慈悲深い私だからお前に一本譲ってやろう。って痛い痛い蹴るな蹴るな』
回想おわり。
「あー、魔理沙の所か」
「……」
上海人形は無言でこちらを見上げる動作をした。
しかしその眼球は青いガラス玉で、焦点というものが存在しなかった。
駄目だ、これはキツいわ。
「ごめんなさい、ちょっと一人にしてくれるかしら」
そう言って、私は上海人形に背を向け歩き出した。
「アリスぅー」
顔を見なければ、その声は生き生きと動くシャンハイそのものなのだけれど。
別に、人形が恐いという訳ではない。人形は好き。ただ、さっきまでのシャンハイとのギャップに、少し戸惑っただけ。
作業部屋に戻ると、上海人形はそこにはいなかった。やがて夜が近付いても、戻ってこなかった。
「あの子……!」
私に嫌われたとでも思ったのかしら。行き先はひとつしか思い当たらない。
嫌な予感を感じつつ、私は魔理沙の家に急いだ。
魔理沙の家は玄関から正面奥の書斎まで戸が開け放たれていた。誰かが忍び込んでいる最中であるかのように。私は息を潜めて、外から様子を窺った。
「これでアリスと、仲直り……」
上海人形はうず高く積まれたマジックアイテムの中から、もう一本の生皮剥ぎのナイフをちょうど捜し出したところだった。
魔理沙の姿は見えない。と思ったら。
「動くな!」
地下室の入り口から魔理沙の声が響いた。作業を中断して探し物でもしていたのだろう。
上海人形はその声を聞くなり、びっくりしてその場から飛び去ろうとした。ああ、それは違う。魔理沙は動くと危険だから動くなと言ったの。別に上海人形を泥棒と間違えた訳じゃない。
机の上には、赤熱した金属のような、見るからに危なそうなプレートが置かれていた。上海人形のスカートの裾が、そのプレートに触れると。
ボンという音とともに火球が膨れ上がり、上海人形を飲み込んだ。
そこから先は、よくできた人形劇だった。
「あ、熱いよ、魔理沙、アリス、助けて!」
服に引火し火だるまになった上海人形が、部屋の床を転げ回る。
「っ、そったれ!」
魔理沙の処置は迅速だった。危ない薬品をひっくり返しでもしたら大変だと判断したのだろう。自分の胸でのしかかるようにして上海人形の服の炎を消すと、非常用に用意してあったと思しきバケツの水を全身にまんべんなくかけた。上海人形は、下半身と左腕から胸にかけてが黒こげになっていた。手足は交換、その他も焦げた部分は大々的な補修が必要そうだ。
「アリス、何つっ立ってるんだ!」
魔理沙がふいにこっちを向いて叫んだ。無意識に私は部屋の中まで足を進めていたらしい。言葉と裏腹にというか、言葉どおりにというか、魔理沙は泣きそうな顔をしていた。状況的に、魔理沙に非はない。けど、一般的な心情としてはそんな物よね。
心証表現にも抜かりは無い。いい人形劇だ。
「アリス、動けよ、シャンハイ死んじまうだろ、アリス!」
アリスアリス五月蝿い。
「え、私死んじゃうの?」
上海人形が首を起こそうとする。
「シャンハイ、傷口は見るな! 大丈夫だ、大丈夫だから!」
魔理沙はただ慰め、ショックを和らげようと努めた。それしか出来ることがないのだ。私は、たとえ生身の親友が同じ事態になったとしても、やはりここで突っ立っている事しか出来ないだろう。人妖は皮膚の何パーセントを失ったら生きられない等の資料を読んだことがあるような気がするが、あれはどう見てもその限界を超えている。
「魔理沙、ごめんなさい……アリス、ごめんなさい……」
うわ言のように呟きつづける上海人形の傍らで、魔理沙は部屋の中を必死に見回していた。普通の手段では助からない。普通の手段では。しかしここにはいかがわしいマジックアイテムが散乱している。あるいは、もしかしたら。
魔理沙の目が、いまだ上海人形の右手に握られているナイフに止まった。
生皮剥ぎのナイフ。
魔理沙はそれを強引にもぎとると、迷うことなく自らの左腕めがけて振り下ろし……
もういい。この人形劇はあまりにも出来が良すぎる。見ていられない。
「やめなさい!」
私は魔理沙の手からナイフをはたき飛ばした。ナイフは放物線を描いて壁にぶつかり、さきほどのもう一本と同じように魔力を失った。
続いて私は上海人形の傍らに膝をつくと、その右腕を両手で包むように持ち、くるくると捻った。ネジ式になっていた上海人形の腕は容易に外れた。
魔理沙から見れば、私が上海人形の腕をねじり切ったように見えるのだろう、呆気に取られている。
一方、上海人形はその意味を正しく理解したようだ。
「ナンダ、ワタシ、ニンギョウ……」
上海人形は、ひとしきり自分の体の各部を改めながら、そう片言を発した。その後、人形の仕掛けの範囲で表情を笑顔に戻すと、ひょこりと立ち上がった。右腕が無いせいでバランスを崩したので、無言で手を差し出して手助けしてあげた。魔理沙は気を失っていた。目を覚ましたら、きっとシャンハイとの事は綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「ホラ、イタクナイ、ダイジョウブ」
上海人形は両腕をぶんぶんと振った。片方は焼け焦げ、もう片方は根元の関節しか残っていないが、滑らかに動いた。
私はそんな上海人形を抱きしめてあげることができず、ただ俯くだけだった。
「ナカナイデ、アリス、ナカナイデ……」
そこまで言って、上海人形の体はカタンという小さな音を立てて、力なく床の上に投げ出された。糸が切れたようなという表現がこれほどぴったり来る事例は、今まで生きて来た中で初めてだった。
結局、最後の最後で実験は失敗した。
あのままシャンハイが「死ね」ば、シャンハイは生き物として生き、生き物として死んだ事になるはずだったのだ。死んだ後無機物に戻るのは瑣末ごとである。人間だって、火葬されたり白骨化したりすれば無機物になるのだから。
私が出来すぎた人形劇を止めたのは、魔理沙の腕のため? そんな事を言う者がいたら可笑しい。私は妖怪である。例え魔理沙であっても、人間の腕一本程度のために自分の実験をご破算にする事など考えられない。一方魔理沙は人間である。人間皆が魔理沙のように思い切りが良い訳でもないだろうが、自分の腕一本と他人の命なら、最終的には後者を選ぶだろう。まあ、人形に皮膚を移植しても、助けることは出来なかったであろうが。
私は、人形遣いとして当然の事をしたまでだった。人形が傷ついたら直してあげて、いつも綺麗に大切にしてあげる。苦しそうにしていたら、スイッチを切ってあげればいい。
そういう態度こそが、生き物への冒涜であった。
擬似生命による自立人形の実現のためには、私が人形遣いであることを止めなくてはいけない。得られたのは、こんな結論だった。
今後の研究課題である。以上、研究レポート終わり。
それから、何度目の朝だろうか。
「おはよう、シャンハイ」
出窓に腰掛けて、まだ低い朝日に後ろから照らされている上海人形に、私はいつものように朝の挨拶をした。
「ふふ、すっかり私が先におはようを言うようになっちゃったわね」
私はシャンハイを抱き上げた。実験のときのように、シャンハイが挨拶を返してくれることはない。それでも、これは私の大切な上海人形であり、シャンハイだった。
ねえ、シャンハイ。私、最近はちゃんと寝るとき着替えてるのよ。
「え、そのネグリジェは無いだろうって? シャンハイってば相変わらず固い事言いなさるのね」
人形のシャンハイと、人形遣いとしての私で、笑って話せる、そんな未来を実現するために。今はまだ、私からこうして話しかける事しか出来ないけれど。
「大好きよ、上海人形」
そう言って、私はシャンハイにやさしくキスをした。
ふと、後ろを振り返った。
「え、あ、いや、おはようアリス」
魔理沙がいた。
「な、何も見てない、見てないから!」
言葉とは裏腹にというか、言葉どおりというか。魔理沙はあたかも、ケバいネグリジェを着て人形に寝起きのハイテンションで語りかけ、セルフ突込みを入れて照れ笑いしたあと熱いキスをするちょっぴりアブナイ夢を見る少女を目撃したかのような顔をしていた。
「じゃ、じゃあ、たった今急用が出来たぜ今日はこの辺にしておいてやるか覚えてやがれthank you, ev'rybody!」
その他思いつく限りの捨て台詞を残し、どっかに飛んでいった。
……どうしよう。
こんなシャンハイの声で目を覚ますのが、最近ではすっかり日常の事になってしまっていた。
私の顔を覗き込んでいるシャンハイを、かすかに視界に収める。
「ふぁ、シャンハイ? おはよー」
どうやらその返事では不満だったらしく、シャンハイは私のみぞおちの上に飛び乗ってきた。
「挨拶は起きてからするの! もー目が開いてないー髪ボサボサー挙げ句の果てにヨダレ痕ー、そんなんじゃ都会派に指差して笑われるよ」
多分、都会派でなくても指差して笑うと思う。
カーテンの下の隙間からは、かなり昼寄りの朝日が差し込んでいた。昨日は夜遅くまで頑張っちゃったからなあ。というか、シャンハイと二人で住むようになってからは、ずっとこんな感じかも。実家暮らしから一人暮らしになると、往々にして生活はダレるけど、一人暮らしが二人暮らしになると、往々にして生活はもっとダレる。仕方ないよね。
いそいそと身を起こす。服が昨日のままだった。気持ち悪いのでまず着替えた。それで顔と頭を洗った辺りで、ようやく意識が覚醒してきた。
その間には、シャンハイが既に食事を用意してくれていた。見た目はちょっと不格好だけど、美味しかった。物を食べる事が出来ないシャンハイだから、見よう見まねで料理をしているはずで、普通に考えれば見た目はいいけど味がついてない、みたいな物が出来そうに思えるけど。不思議。
「本当に、ずいぶん上手になったわね、シャンハイ」
頭を撫でてあげると、シャンハイはえへへーと笑った。
ああもう本当に、可愛いなあシャンハイ。
食事を終えて、お茶の時間をひとしきり楽しんで、さて昨日の研究のやり残しに手をつけようか、と思ったら、
「おーっす、今日もまた邪魔するぜ」
とか言いながら、いつものウィッチハットに金髪の白黒コスチュームな人間が、他人様の家屋に侵入してきた。今日もまた魔理沙。何日目かしら。
「魔理沙だ、魔理沙ー、アリス魔理沙来たよー!」
シャンハイも、毎日のことなのに一々はしゃがないでよろしい。
「シャンハイ、お友達が来たみたいよ、遊んであげなさい」
「なあアリス、お前だんだんつれなくなってないか?」
だって毎日の事だもん。
「まあいいや、シャンハイ、二人で遊んでようぜ」
という魔理沙の誘いに
「え? いいの? アリスぅー」
とか言って名残り惜しげなシャンハイを割と無視して、研究用具を広げ始める。
さて。
「ほらーシャンハイつかまえてやるぞー」
とか早速、隣の部屋から雑音が聞こえてくるが、その程度で気は散らされない。
「あははー魔理沙ーこっちだよー」
と、いざ二人になってみるとノリノリなシャンハイの声にも気は散らされない。
「きゃっ、ちょっと魔理沙、どこ触ってるのよー」
と、何か事故があったようだが、気は散らされない。
「あのさ、シャンハイ……」
魔理沙がその名を口に出したきり、二人の間にしばし無言の時間が流れたようだが、気は……
「魔理沙、うん……いいよ」
ダンっ!
私の座っていた椅子の倒れた音が、部屋に響く。その音を認識する頃には、私は体当たりで隣の部屋のドアをこじ開けていた。形式的にノブは捻ったが、変な音がした気がする。まあ今はそれどころではないので、後で直しておこう。
で、部屋に突入してみると。
ありのままに、今起こった事を話すわよ。
『魔理沙もシャンハイも居なくて、
代わりに、足元に、バナナの皮が落ちていた』
多分、何を言っているのか分からないと思うけど。比喩表現とかそういうチャチなものじゃなくて、本当に黄色くて若干しなびたバナナの皮。何で? マリオカート以外では、もうこのネタは許されないはずよ。とっくの昔に幻想郷入りのハズなのに。
幻想郷入り。ああそうか、だからここに落ちてるんだ。
ずるべしゃあぁぁぁっ!
てな擬音は誇張表現だけど、前に出した方の足はバナナの皮を真芯で捉えると、想定外に小さな動摩擦係数に本来のグリップ力を発揮できず、踏み抜くように体の後方に流れる。
支えを失った私の体は、飛ぶ矢のように顔面から床に突き刺さった。
痛い。すっごく痛い。
後方に、魔理沙とシャンハイの気配を感じた。ドアの両脇に身を潜めていたみたい。さあ、笑って。見事なトラップに敬意を表して、今日だけはいっしょに遊んであげるわ。弾幕で。
けど、そんな私の澄み切った想いとは裏腹に、いつまで経っても笑い声は起きなかった。
気まずそうな視線が注がれているのを感じる。
主に、すっ転んだ拍子に全開になった私のスカートの中に。
「何というか……想定外だ」
「アリス……それは色々アレだから止めたほうがいいって何度も……」
握った私の拳が震えるのを感じる。止められない。それどころか、辺りの空気すらもピリピリと振動を始めたようだった。ヤバげな雰囲気を察知して、そろそろとその場を去ろうとする魔理沙と上海人形の後ろ姿。
――ん、シャンハイ……人形? シャンハイ……
激発前に一瞬だけ冷静になった頭が、この平和すぎる日常に含まれるものに、ふと何か違和感を覚えた。――
けど、次に意識が戻ったときには、一区画が崩壊した私の家と、焼け焦げてぐったりとした人間および素性のよく分からない小さな人型生物と、なぜか天に向かって咆哮をあげていたらしい私自身を認識したのみ。
まあいいや、こんな日もたまにはあるわよね。
「ねえ、アリス、もっと魔理沙と仲良くしなくちゃ駄目だよ」
夕食の時間に、ふとシャンハイは真剣な顔になって私にそう言った。
「そうね、そういうのも良いわね。向こうの態度がもう少し良くなったら」
「もうっ、アリスってば!」
シャンハイが、座っていた幼児用の椅子の上に立ち上がる。
「ごちそうさま」
そんなシャンハイを割とそっけなくあしらいつつ、内心は幸せな微笑み全開な私。
シャンハイ、別に、私と魔理沙はそんなに仲が悪いわけじゃないのよ。利用したい時はお互いきっちり利用させて頂くし。魔法使い同士としては、結構良好な関係と言えるんではないかしら。家に来るのも、たまになら良い気分転換になるし。あまり何日も顔を見ないと、逆に不安になるのよね。
シャンハイは膨れっ面のまま言った。
「じゃあさ、私が魔理沙取っちゃってもいいんだよね」
うっわ、どうしよう、可愛すぎる。あれよね。「お父さんとお母さん仲良くしてよー」って駄々こねる子供の心理よね。そんでお父さん取っちゃうよーってどこぞの心理学者はこのケースにエレクトラコンプレックスなんていう無味乾燥な名前を付けちゃったりしてるけど冒涜よ冒涜、こんなに無垢なお子様にそんな汚らしい論理を持ち込まないで欲しいわぁいや本当。
ストップ。論理展開はともかく、いつの間にか私と魔理沙が夫婦になってる。
食後の後片付けを始めたシャンハイだが、ふと振り返って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「本当に、取っちゃうよ?」
もしかして本気?
いや、意外と隅に置けないかもしれないわ、上海人形。
――まただ、また、あの感じ――
シャンハイは人形やマジックアイテムの手入れも手伝ってくれた。
狭苦しい部屋の中で、シャンハイの体は小さくて邪魔にならなかった。仕事の覚えも早い。というか、まるで作業の内容を元々見て知っていたような感じを受けた。
――まるで――
「シャンハイ、私に何か隠し事してない?」
「え……する訳ないよ。アリスどうしたの?」
そうね、どうかしてた。この子を疑ってはいけない。
――擬似人格魔法の持続条件は、自分が人形であると、人形自身が認識しないことなのだから――
駄目だ、シャンハイとまともに顔を合わせられない。作業に没頭していないと。
私は一つのナイフを手に取って磨き始めた。漆黒の刀身に血管のような赤い紋様が浮き出たそれは、名前を生皮剥ぎのナイフという。見た目も名前もエグいが、用途はといえば生き物の皮を、それ自体もその下の組織も一切傷つけずに剥ぎ取ることが出来るという便利アイテムである。なるべく綺麗な毛皮が必要な時など重宝している。もともとはちょっとアレな貴族が使用人の生皮を剥いで鑑賞したり、妻が寝ている夫の生皮を剥いで翌朝鏡を見た彼をショック死させたり、敵国の重臣の中身をくりぬいて中にスパイを入れたりに使われていたとかで。
あ、やっぱり用途も結構エグいや。
「ねー、アリスー」
「な、何かしら?」
シャンハイの呼び掛けに、私は顔を上げずに応じた。
「この蓬莱人形の隣、空いてるけどどうして?」
ああ、本当だ。シャンハイが来てからの数日間ずっと空きっぱなしのスペースがあった。どうして今まで気付かなかったんだろう。
そこにあるはずなのは、私のお気に入り。
――そこにあるはずなのは、上海人形。
「アリス、自律して動く人形の研究は進んでいるの?」
少し前、ヴワル図書館でお茶の時間に、日陰の魔女パチュリーは私にそう問うた。
「ええ、順調よ。どうして?」
おせっかいかも知れないけど、とパチュリーは続けた。
「『自律』っていうのは『自ら律する』って書く訳よね。あら、新聞には立つ方の『自立』で書いてあったかしら。まあどっちでも良いわ」
一旦言葉を切って紅茶を一口含んだ。勿体ぶりすぎでないかしら。
「あなたは『律する』ことに関する研究をずいぶん重ねているようだけど、肝心の『自』の方をおろそかにしているように見えるの。どうなのかしら?」
ああ、そのことね。むしろ、よくぞ聞いてくれました。私は得意になって話し始めた。
「実は、ひとつ当てがあるのよ。その実験をしなくてはいけないんだけど、当然ある程度動く人形がないと実験にならない訳で。それでここ何年か『律する』方を研究していたのね」
言うとパチュリーは露骨につまらなそうな顔をしながら、
「ふうん、どんなの? 興味あるわ」
どっちよ。話すけど。
「普通の魔法生物っていうのは、いわばそれ自身を生物であると騙すことによって、あたかも生物のように振舞わせる技術よね」
まあ、ここら辺は基礎知識である。当然、パチュリーもその問題点を即座に指摘してくる。
「けど、それが可能なのは自分が造られた物だと認識できないような程度の低い知性か、あるいは箱庭のような限定された空間の中だけよ。その魔法生物自身に自己認識を制限するような仕掛けをすることは出来るけど、他者が存在する環境では、その他者が接する態度によって、否応なく自身が造り物であると認識させられる事になる」
まあ、それはその通りで、今回の解決案も抜本的にその点を解決することは出来ない。
「実験だし。とりあえず、この方法が人形サイズで使えるかを試すために、ちょっとばかり大きな箱庭を作ってみようとね」
「……なるほどねえ」
要するに、いっそその他者の方にも認識を制限する魔法をかけちゃえーという、非常に大ざっぱな解決なのであった。
「どう? 行けると思わない? そろそろ実行しようかなと思ってたんだけど」
「まあ、実験というレベルでは悪くはないわね。広域精神操作に関してなら名著といわれるのが3冊くらいあるから、後で持っていくといいわ」
と、ここまで思い出した――
「ねえ、アリス?」
やっぱり、精神操作にも限界があるわね。元の人形と関わりが深い私だけに、解けるのが早かったらしい。けど、私が態度に出さなければ、もう少しだけは……
「アリスってば!」
上海人形が耳元で叫んだ。ずっと無視する形になってしまっていたらしい。その拍子に、私は持っていたナイフを落としてしまった。
「あっ!」
刀身が床に当たるとカチンという音を立てて刃が一箇所欠けた。するとそこから波紋が広がるように血管のような紋様が消えていき、やがてそれはただのナイフになってしまった。
上海人形は床に降りてその様子を硬直したまま見届けると、やがて私の方に顔を上げ、
「ごめん……なさい」
と、かすれた声で言った。
しかしその唇の状態には開と閉の2種類のパターンしかなく、それらが切り替わる度にカタカタと乾いた音が鳴った。
「あ、大丈夫よ、このナイフ確か2本持ってるわ」
ええと、もう一本は何処にあったかしら。
ここから回想。
『あー、なんだ、このナイフ2本あるじゃないか。じゃ、2本もらっていくぜ。え、ちょっとまて論理的におかしい? 仕方ないな、慈悲深い私だからお前に一本譲ってやろう。って痛い痛い蹴るな蹴るな』
回想おわり。
「あー、魔理沙の所か」
「……」
上海人形は無言でこちらを見上げる動作をした。
しかしその眼球は青いガラス玉で、焦点というものが存在しなかった。
駄目だ、これはキツいわ。
「ごめんなさい、ちょっと一人にしてくれるかしら」
そう言って、私は上海人形に背を向け歩き出した。
「アリスぅー」
顔を見なければ、その声は生き生きと動くシャンハイそのものなのだけれど。
別に、人形が恐いという訳ではない。人形は好き。ただ、さっきまでのシャンハイとのギャップに、少し戸惑っただけ。
作業部屋に戻ると、上海人形はそこにはいなかった。やがて夜が近付いても、戻ってこなかった。
「あの子……!」
私に嫌われたとでも思ったのかしら。行き先はひとつしか思い当たらない。
嫌な予感を感じつつ、私は魔理沙の家に急いだ。
魔理沙の家は玄関から正面奥の書斎まで戸が開け放たれていた。誰かが忍び込んでいる最中であるかのように。私は息を潜めて、外から様子を窺った。
「これでアリスと、仲直り……」
上海人形はうず高く積まれたマジックアイテムの中から、もう一本の生皮剥ぎのナイフをちょうど捜し出したところだった。
魔理沙の姿は見えない。と思ったら。
「動くな!」
地下室の入り口から魔理沙の声が響いた。作業を中断して探し物でもしていたのだろう。
上海人形はその声を聞くなり、びっくりしてその場から飛び去ろうとした。ああ、それは違う。魔理沙は動くと危険だから動くなと言ったの。別に上海人形を泥棒と間違えた訳じゃない。
机の上には、赤熱した金属のような、見るからに危なそうなプレートが置かれていた。上海人形のスカートの裾が、そのプレートに触れると。
ボンという音とともに火球が膨れ上がり、上海人形を飲み込んだ。
そこから先は、よくできた人形劇だった。
「あ、熱いよ、魔理沙、アリス、助けて!」
服に引火し火だるまになった上海人形が、部屋の床を転げ回る。
「っ、そったれ!」
魔理沙の処置は迅速だった。危ない薬品をひっくり返しでもしたら大変だと判断したのだろう。自分の胸でのしかかるようにして上海人形の服の炎を消すと、非常用に用意してあったと思しきバケツの水を全身にまんべんなくかけた。上海人形は、下半身と左腕から胸にかけてが黒こげになっていた。手足は交換、その他も焦げた部分は大々的な補修が必要そうだ。
「アリス、何つっ立ってるんだ!」
魔理沙がふいにこっちを向いて叫んだ。無意識に私は部屋の中まで足を進めていたらしい。言葉と裏腹にというか、言葉どおりにというか、魔理沙は泣きそうな顔をしていた。状況的に、魔理沙に非はない。けど、一般的な心情としてはそんな物よね。
心証表現にも抜かりは無い。いい人形劇だ。
「アリス、動けよ、シャンハイ死んじまうだろ、アリス!」
アリスアリス五月蝿い。
「え、私死んじゃうの?」
上海人形が首を起こそうとする。
「シャンハイ、傷口は見るな! 大丈夫だ、大丈夫だから!」
魔理沙はただ慰め、ショックを和らげようと努めた。それしか出来ることがないのだ。私は、たとえ生身の親友が同じ事態になったとしても、やはりここで突っ立っている事しか出来ないだろう。人妖は皮膚の何パーセントを失ったら生きられない等の資料を読んだことがあるような気がするが、あれはどう見てもその限界を超えている。
「魔理沙、ごめんなさい……アリス、ごめんなさい……」
うわ言のように呟きつづける上海人形の傍らで、魔理沙は部屋の中を必死に見回していた。普通の手段では助からない。普通の手段では。しかしここにはいかがわしいマジックアイテムが散乱している。あるいは、もしかしたら。
魔理沙の目が、いまだ上海人形の右手に握られているナイフに止まった。
生皮剥ぎのナイフ。
魔理沙はそれを強引にもぎとると、迷うことなく自らの左腕めがけて振り下ろし……
もういい。この人形劇はあまりにも出来が良すぎる。見ていられない。
「やめなさい!」
私は魔理沙の手からナイフをはたき飛ばした。ナイフは放物線を描いて壁にぶつかり、さきほどのもう一本と同じように魔力を失った。
続いて私は上海人形の傍らに膝をつくと、その右腕を両手で包むように持ち、くるくると捻った。ネジ式になっていた上海人形の腕は容易に外れた。
魔理沙から見れば、私が上海人形の腕をねじり切ったように見えるのだろう、呆気に取られている。
一方、上海人形はその意味を正しく理解したようだ。
「ナンダ、ワタシ、ニンギョウ……」
上海人形は、ひとしきり自分の体の各部を改めながら、そう片言を発した。その後、人形の仕掛けの範囲で表情を笑顔に戻すと、ひょこりと立ち上がった。右腕が無いせいでバランスを崩したので、無言で手を差し出して手助けしてあげた。魔理沙は気を失っていた。目を覚ましたら、きっとシャンハイとの事は綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「ホラ、イタクナイ、ダイジョウブ」
上海人形は両腕をぶんぶんと振った。片方は焼け焦げ、もう片方は根元の関節しか残っていないが、滑らかに動いた。
私はそんな上海人形を抱きしめてあげることができず、ただ俯くだけだった。
「ナカナイデ、アリス、ナカナイデ……」
そこまで言って、上海人形の体はカタンという小さな音を立てて、力なく床の上に投げ出された。糸が切れたようなという表現がこれほどぴったり来る事例は、今まで生きて来た中で初めてだった。
結局、最後の最後で実験は失敗した。
あのままシャンハイが「死ね」ば、シャンハイは生き物として生き、生き物として死んだ事になるはずだったのだ。死んだ後無機物に戻るのは瑣末ごとである。人間だって、火葬されたり白骨化したりすれば無機物になるのだから。
私が出来すぎた人形劇を止めたのは、魔理沙の腕のため? そんな事を言う者がいたら可笑しい。私は妖怪である。例え魔理沙であっても、人間の腕一本程度のために自分の実験をご破算にする事など考えられない。一方魔理沙は人間である。人間皆が魔理沙のように思い切りが良い訳でもないだろうが、自分の腕一本と他人の命なら、最終的には後者を選ぶだろう。まあ、人形に皮膚を移植しても、助けることは出来なかったであろうが。
私は、人形遣いとして当然の事をしたまでだった。人形が傷ついたら直してあげて、いつも綺麗に大切にしてあげる。苦しそうにしていたら、スイッチを切ってあげればいい。
そういう態度こそが、生き物への冒涜であった。
擬似生命による自立人形の実現のためには、私が人形遣いであることを止めなくてはいけない。得られたのは、こんな結論だった。
今後の研究課題である。以上、研究レポート終わり。
それから、何度目の朝だろうか。
「おはよう、シャンハイ」
出窓に腰掛けて、まだ低い朝日に後ろから照らされている上海人形に、私はいつものように朝の挨拶をした。
「ふふ、すっかり私が先におはようを言うようになっちゃったわね」
私はシャンハイを抱き上げた。実験のときのように、シャンハイが挨拶を返してくれることはない。それでも、これは私の大切な上海人形であり、シャンハイだった。
ねえ、シャンハイ。私、最近はちゃんと寝るとき着替えてるのよ。
「え、そのネグリジェは無いだろうって? シャンハイってば相変わらず固い事言いなさるのね」
人形のシャンハイと、人形遣いとしての私で、笑って話せる、そんな未来を実現するために。今はまだ、私からこうして話しかける事しか出来ないけれど。
「大好きよ、上海人形」
そう言って、私はシャンハイにやさしくキスをした。
ふと、後ろを振り返った。
「え、あ、いや、おはようアリス」
魔理沙がいた。
「な、何も見てない、見てないから!」
言葉とは裏腹にというか、言葉どおりというか。魔理沙はあたかも、ケバいネグリジェを着て人形に寝起きのハイテンションで語りかけ、セルフ突込みを入れて照れ笑いしたあと熱いキスをするちょっぴりアブナイ夢を見る少女を目撃したかのような顔をしていた。
「じゃ、じゃあ、たった今急用が出来たぜ今日はこの辺にしておいてやるか覚えてやがれthank you, ev'rybody!」
その他思いつく限りの捨て台詞を残し、どっかに飛んでいった。
……どうしよう。
>人形のシャンハイと、人形遣いとしての私で~
それはそれで上海はアイデンティティの危機を乗り越えねばならんな…
とか考えると、結局神綺様に行き着いてしまう俺思考。