日向ぼっこの語源はさておき、魔理沙は気持ちよさそうに太陽の光を全身に浴びていた。
全体的に黒が多めの服装は、人より多く熱を集めてくれる。真夏日には天敵だが、肌寒い日の中にふいに訪れる温かい日には、何よりも味方になってくれる頼もしい服装だ。
湖のほとりの大岩。その岩のうえに寝そべりながら、夢と現の境界で行ったり来たりを繰り返す。
顔を覆う三角帽子が良い具合に光りを遮り、それがまた魔理沙の眠りを深くする。
昼間は霧が深まる湖も、この日に限っては何故だか霧も姿を現さない。不思議だが、快適であるので問題はなかった。
その眠りを妨げるように、一筋の風が吹いてきた。
「んぁ?」
鳥肌が立ちそうな冷たい風に襲われ、思わず、他人には聞かせられないような間抜けな声を出してしまう。
「……随分と優秀な目覚ましだぜ。これで操作できれば申し分ないんだが」
帽子をあるべき場所に置き、身体も起きるよう背伸びをする。格段疲れるようなことをしたつもりはないが、まだ少し身体が重たい。
ひょっとしたら寒さのせいで筋肉が固くなっているだけなのかもしれないが、今後の予定を鑑みると、動きが鈍くなるのは非常に困る。
この後は、紅魔館に行って、今夜読む分の本を借りて帰る予定だったのだ。
まぁ、ただそれだけなら往復分を飛ぶだけの体力で済むのだが、いかんせん図書館の司書が本を貸してくれそうにない。その為、毎回のように忍び込まなくてはいけないのだ。
そうなった原因は、魔理沙の返却率がロイヤルストレートフラッシュが出る確率より低いからなのだが、本人に罪の意識は全くない。
「それじゃあ、準備運動にでも行くか」
準備運動の後に特別な運動をするわけでもないのだが。
そんな魔理沙の熱を冷まさんと、再び冷気を孕んだ風が吹く。
「おおっと。日も出てるってのに、今日はいやに冷え込むな」
冬用の長袖を着ているものの、寒さを防ぐには紙十重で及ばない。カーディガンでも持ってくるんだったと後悔した。
だが、それにしたって今日の寒さは異常である。冬も深まり、もうすぐ年が明けるとはいえ、ここまで冷え込むのは少しおかしい。
本を貸してもらうついでに、パチュリーに今日の気温でも訊いてみようか。そんなことを考えながらホウキを手に取ったところで、ようやく魔理沙は目の前のソレに気がついた。
そして、朧気ながら寒さの原因に気がついたのだ。
「こりゃぁ……かき氷何杯分だ?」
スケートリングのように、湖はあますとこなく綺麗に凍っていた。
暮れも差し迫るこの時期。紅魔館はいつも以上に慌ただしい。
レミリア宛に届けられるお歳暮の数々。年末大掃除。年賀状。吸血鬼の世界も色々と大変なのだと、紅魔館のメイド達はこの時期になると思い知らされる。
もっとも当の本人である館の主人ことレミリア・スカーレットは今日も雑事を部下に任せて優雅にお茶会を楽しみつつ、博霊神社に足を伸ばしていた。
このことに対し、一部の者達から不満があがり、やがて門番の紅美鈴と司書補佐の小悪魔を筆頭とした革命組織が立ち上がる。
職場環境の向上と待遇改善を要求に掲げた革命組織は三日三晩に渡り必死になって闘ったが、メイド長の十六夜咲夜による単独の武力行使により鎮圧。
小悪魔はパチュリーに本の角で叩かれ、美鈴は一ヶ月間の休憩を全て剥奪された。
そんな混乱も治まった頃、紅魔館である一つの事件が起きていた。
「魚の質が落ちている? 単にあなた達に目利きが出来ていなかっただけじゃないの?」
咲夜の厳しい指摘に対し、買い出し担当のメイド達は揃って首を横に振った。彼女らの話を信じるのならば、他の市場でも魚の質は総じて落ちているらしい。
実際に彼女達が買ってきた魚を見てみたが、確かに身は少なく、張りもない。メイド達のまかないなら、特に質は気にしないのだがレミリアの舌はどこぞの美食家並に鋭い。こんな物を出せば、静かに笑いながら作った料理人の首を撥ねかねない。
これが一日で済めば良いのだが。嫌な予感が頭を駆け巡る。
「わかったわ。この件に関してはパチュリー様に任せてもらうから、あなた達は次の作業をやっていなさい」
そう言って、咲夜はパチュリーがいる図書館へと足を運んだ。
無駄骨で終わるなら、それで良し。忙しい時期だが、時間を自在に操れる咲夜だけは余裕を持っていたのだ。
途中、小悪魔に呼び止められたが今は忙しいと言って断っておく。大方、また美鈴の罰を軽減してほしいという嘆願だろう。さすがに一ヶ月間ずっと休憩なしのままにしておくつもりはないが、しばらくは灸をすえる意味で放っておくことにしていたのだ。
小悪魔と別れ、図書館へと入る。
「咲夜……ここは魚介類禁止よ」
屹立する本棚の間から、顔色の悪いパチュリーが現れる。図書館は年末だからといって仕事が忙しくなるはずがないのだが、何故だがパチュリーの顔色は普段よりも悪い。
「実はお願いがあるのですが。お忙しいようなら後にしましょうか?」
「別にいいわよ。疲れてはいるけど、もう終わったから」
「ならいいんですけど。あのですね……」
それから咲夜は魚の質が落ちたことを説明し、その原因を調べて欲しいのだとお願いした。
したはいいのだが、パチュリーは何故だが反応を全く返してこない。微動だにせず、彫刻のように固まってしまった。
病的に白い肌を、一筋の汗が流れ落ちる。
「わ、わ、わかったわ。調べてみる。その代わりに……」
パチュリーは机の上の置いてあった二枚の紙に何かを書き込み、咲夜に手渡した。
「この手紙を永琳と慧音に渡して頂戴。至急、急いで」
「は、はい」
意味が重複するほど慌てているパチュリーを見るのは、これが初めてだった。
そうまで動揺するなか、書いた文面が気になるが、どうやらかなり急ぎの事態らしい。
しかも、相手は八意永琳と上白沢慧音。パチュリーと交流しているのは見たことがあるものの、何をしているのか具体的に聞いたことはない。
だが、この急ぎの事態に彼女たちの名前が出てきた。関係していないわけがない。そして、関係しているならこれほど恐ろしい連中もそうはいない。八雲紫の次に恐ろしい。
魚の質が落ちた原因を聞きに来ただけなのに。何やら恐ろしい事態が裏では巻き起こっているのではないか。
そんな懸念を抱きつつ、咲夜は紅魔館を後にした。
結果として、その懸念は大当たりしているのだが、咲夜は後にも先にも知ることはなかったという。
氷の冷気が風と混じり合い、地上に押しつけがましい寒さを運んでいる。だからだろうか、空の空気は思ったより寒くなかった。
鏡のように乱反射する湖面に、ホウキにまたがった黒い魔法使いの姿が映る。困ったように頬を掻きながら、魔理沙は湖の上を漂っていた。
「こういうのを異常事態って言うんだろうな」
困ったようでありながら、どこか楽しげでもある。自分に害さえ及ばなければ、よしんば及んだとしても首をつっこみたがるのが霧雨魔理沙の長所と短所だ。
この異常事態とて、放っておけば誰かが解決してくれるだろう。それが博霊の巫女なのか他の誰かなのかは不明だが、関わらなくてもいいことに代わりはない。
そう思いつつも、魔理沙は元凶を求めて湖の上を飛び回る。
しかし、特にこれといった物は見つからなかった。それどころか、生物の片鱗すら存在していない。まるで湖の生き物が全て死滅してしまったかのようである。
それに加え、いつもなら鬱陶しいぐらい見える妖精の類も姿を見せない。
明らかに異常事態である。原因はわからないが。
「まぁ、それもいつものことか」
皮肉げに顔を歪め、魔理沙は探索を続けた。
そして五分後。
元凶と出会った魔理沙は少しだけ後悔することになる。
「やっぱ関わらなきゃ良かったかな?」
悔いる言葉と共に出た冷や汗も、一瞬にして凍り付いた。
「この三人が集まったということで、大体は察してくれると思うけど、時間も無いので単刀直入に言うわ」
あれから一時間。図書館にパチュリーと永琳と慧音の三人が集っていた。だが、その顔色は一様に暗く、死刑宣告を受けた受刑囚もかくやという有様だ。
慧音に至ってはトレードマークともいえる帽子をかぶり忘れている。それほど慌てて飛び出してきたであろう事がうかがえる。
咲夜はお使いから帰ってくると、調査をよろしくお願いしますと言って持ち場に帰っていった。もっとも、調査を手伝いますと言っても追い返しただろうが。
三人としては、出来る限り外部に漏らしたくはなかったのだ、この事件を。それは、小悪魔すらも図書館から放り出すぐらいの厳重体勢だった。
「アレが外に漏れだしているわ。それも、おそらくは川を伝って」
「完成品の保管は完璧よ。私以外はウドンゲだって触れられないようになっているし、漏れだしたとしたら試作品かしら?」
「そういえば、実験の最中に妹紅と輝夜の弾幕合戦があって試作品が一本だけ消失したことがあったな。あれが何らかの形で川に流れ出したのではないか?」
パチュリーは苦い顔で頷いた。
「おそらくそうでしょうね。今の今まで何の影響も出てこなかったから気にはしてなかったけど、ここにきて影響が出はじめたの。これを見て」
年代物の机の上に広げられたのは、五枚の写真。そのうち、四枚には身の細々とした魚が映し出されている。
「烏天狗に頼んで撮ってもらった写真よ。当然、この写真の魚以外も軒並みに弱体化してるわ」
「自然現象ではないな。明らかに不自然な弱り方だ。やはり、アレか?」
「認めたくないけど、九十六パーセントでアレの影響でしょうね」
慧音は、パチュリーの答えに軽い目眩を覚えた。わかっていたとはいえ、しでかした罪はあまりにも重い。
「ただ、幸いなことに試作品だけあって人体や妖怪には影響してないわ。何故だか魚類だけが被害を受けているそうよ」
写真を手に取りながら、永琳が尋ねた。
「魚から他の種族への感染は?」
「勿論ないわ。まぁ、それがせめてもの救いでしょうね」
その言葉で、場の空気が若干軽くなる。被害はけして軽くないが、人や妖怪に影響がないならまだ対処しようはある。
「ただ、一つだけ気になることが」
表情の和らぐ永琳と慧音と違い、パチュリーの顔はまだ冴えない。日頃から冴えないが、体調不良によるものではないように思えた。
差し出された一枚の写真を見る。その写真の意味するところがわからず、二人とも首を捻った。
「この写真がどうかしたの?」
紅魔館のほとりにある湖。写真ではその湖が完膚無きまでに凍っていた。二人とも、それは来るときに見ていたから知っている。
この時期に湖が凍るのは珍しいことだが、この件とは何の関係もないはず。
「調べてみたらこの湖もアレの流出先だったのよ。弱った魚もいくつか発見されたわ。それに何故だか霧も出ていない」
「では、アレが湖自体を凍らせて、霧を抑えていると?」
そんな都合の良いことがあるだろうか。自分で言っておきながら、慧音はその考えは間違っていると思っていた。
よしんば、そういう効果があったとしても他の流出先も同じように凍り付くはずである。たまたま、この湖にアレを変化させる何かがあったとしても魚は凍らないというのは不自然だ。
パチュリーも、慧音の質問を否定した。
だとしたら、パチュリーは何を言いたいのだろうか。慧音と永琳の視線に、確証はないけどと付け加えながら、パチュリーは血色の悪い口を開いた。
「アレは試作品だった。その為、失敗して変な効果をもたらすかもしれない。私は魚のみに影響しているといったけど、もしかしたら例外が存在するかもしれないのよ」
神妙な面持ちで告げるパチュリーは、おもむろにもう一枚の写真を取り出した。
その写真を見て、二人もようやく事態の異常さに気づくこととなった。
「これは……」
「……そういうわけか」
思い思いの反応で眺める写真には、一人の女性が映し出されている。ただ、少女の状態は普通ではない。まるで彫刻か何かのように、氷の中に閉じこめられていたのだ。
「妖怪を弱体化させる薬。私の推測が正しければ、おそらくその例外は効果も逆に影響しているんでしょうね。つまり、能力強化」
「該当するのは……思い付く限りでは一人か」
「能力に見合うだけの精神を持っているとは思えないわ。おそらく今頃は暴走している頃でしょうね」
三人の意見が一致する。そして、すべき事も自ずとわかった。
「チルノを捕獲しましょう」
霧雨魔理沙の悲惨な姿を目に焼き付け、三人はそう決意するのだった。
門番という職業に暇はない。ちょっとでも持ち場を離れれば、招かれざる者が掃除機に吸い込まれるように押し寄せてくる。
紅美鈴という妖怪に暇はない。ちょっとした出来心で起こした事件の罰として、スケジュールから休憩という文字が消えた。それこそ掃除機に吸い取られたかのように。
別に休憩がないのはいつものことだったが、今回の指す休憩とは食事休憩や睡眠といったありとあらゆる休憩のことである。はっきりいって拷問と呼んでも差し支えない。
働き続けて早一週間。妖怪の世界にギネスがあるなら、是非申請したいところだ。ただ、動機がいかんせん一般受けしそうにないので、そこは未知への挑戦とか格好良い感じへ直してもらいたい。烏天狗が受け付けていそうな仕事だ。
暇がない割に、門番という仕事をしていると考え事が多くなる。
無駄に鍛えられたせいでスタミナだけは紅魔館でもトップクラスに入る美鈴。足の疲れはそれほどないが、精神的にはかなり辛いものがあった。
欠伸を噛み殺しながら、今日も平和な紅魔館の門を守る。門番という職業に暇はないが、紅魔館の門番には腐るほど暇があるのだ。主人が畏怖されすぎるせいで。
「今日は魔理沙も来ないみたいだし、日光浴でもしたいなぁ」
噂の魔理沙が日光浴しているとも知らず、美鈴は門柱にもたれかかり空を見上げた。冬空に申し訳程度の雲がちらほらと見える。快晴だ。
「美鈴さーん、そろそろお昼にしませんか?」
館の方から一人の少女が小走りにこちらへとやってくる。少女といっても、頭の両側と背中にはコウモリのような羽がついており、一目で人間でないことがわかる。
こうなった原因の片割れにして、近頃の美鈴にとっての恨みの対象である小悪魔は右手にバスケットを持っていた。最初は何のつもりかわからなかったが、小悪魔は小悪魔なりに罪の意識を感じているらしく、こうして昼になると美鈴に食事を届けてくれていたのだ。
ちなみに、小悪魔が来るまでの数日はひたすら飢餓に耐えていた。うっかり厨房に忍び込もうものなら、そこは既に十六夜咲夜の領域。ナイフが頭部を貫通することは免れない。実体験からそう学んだ。
「うー、体力は問題ないんですが精神的にそろそろ限界ですよ。咲夜さんはまだ怒ってましたか?」
「えっと、なんかそれどころかないらしくて取り合っても貰えませんでした」
申し訳なさそうに言うならまだしも、何故か照れ笑いを浮かべながら小悪魔が首を傾げた。共に待遇改善の為に戦った同士として殺意が芽生えたが、同僚として考えたとしてもやっぱり殺意が芽生えた。
もともと、門番と司書補佐との間に接点など大してない。単に美鈴と小悪魔の気が合っただけのこと。そんな個人的な間柄の為に、互いの役割で疎遠になるようなことはない。
時には現状に不満を言い合ったりするし、咲夜とパチュリーのどちらが可愛いかで殴り合いの喧嘩にまで発展することもある。二人はそういう仲だった。
「別に誰かが侵入したわけじゃないのに、何かあったんですか?」
「詳しくは知らないんですけど、パチュリー様達の話では何でも魚や湖がどうとか……」
湖という単語がひっかかった。何か大切な事を忘れているような気がする。
美鈴はそれが記憶を呼び覚ます鍵であるかのように、湖という単語を何度も繰り返し声に出した。
「美鈴さん?」
小悪魔が不思議そうに美鈴の顔を覗き込む。
そこでようやく、美鈴は自分が犯したもう一つの所行について思い出した。
待遇改善の為に紅魔館で起こした革命運動。その騒動の最中に、対レミリア用として作り上げた物があったのだ。結局、使うことなく咲夜に鎮圧されたわけだが、まだ後始末をしていなかった。
つまり……
「ま、まずい事になりそうです!」
全速力で館の中へと駆け出した。背後で自分を呼ぶ声がするが、今は構っている暇はない。
もし、これが最悪の事態を引き起こしたとしたら、スケジュールから永遠に休暇という単語が消えてなくなることだろう。
だから美鈴は走った。己の為に、休暇の為に。
これで連敗記録に黒星がまた追加される。
忌々しげに歯を噛みしめ、光線でも放たんばかりの目つきで妹紅は歩いていた。永遠亭からの帰りだった。
いつものように輝夜に喧嘩をふっかけ、いつものように殺し合いに発展し、いつものように敗北する。いい加減、この螺旋構造から抜け出したいのだが、自分と相手がそうさせてくれない。
「くそっ!」
乱暴に地面を蹴る。渇いた土が宙を舞った。
再戦しようにも、慧音から喧嘩をふっかけていいのは一日一回までと厳重に注意されている。別に守る必要などないのだが、守らないと慧音を敵に回すこととなる。それは避けたい事態だった。
しかし、当の慧音はいきなり現れた咲夜に呼ばれて紅魔館に行っている。再戦してもばれないのではないだろうか。
だが、困ったことに輝夜の従者である永琳と慧音はそこそこ親しい。再戦したら、間違いなくばれるだろう。
そういえば、今日は永琳の姿も見なかった。いつもなら輝夜の後の方で何をするでもなく、ただ控えているはずなのに。殺し合いには手を出してこなかったから、妹紅は今の今まで気づかなかった。
そうこうしているうちに、慧音の家へとたどり着いた。主は不在なのだが、特に行く当てがあるわけでもない。しばらく待たせてもらうことにした。
「ん?」
扉を開けると、見慣れた物が置き去りにされていた。本来は慧音の頭の上にあるはずのそれが、今は囲炉裏の側で自分こそが主だと主張するかのように座っている。
「珍しいな、忘れていったのか?」
特に思い入れがあるわけではないらしいのだが、これを外して慧音が外に出るのを妹紅は見たことがない。
「……そういえば慧音の奴、かなり慌ててたな」
ひょっとしたら、何かとんでもない事態に巻き込まれているかもしれない。ただいつもなら、慧音自身で解決するだろうと妹紅も特には気にとめなかった。
しかし、置き去りされた帽子が嫌が上にも妹紅の不安を駆り立てる。帽子を拾い上げ、クルクルと回して弄ぶ。どうしたものか。
数瞬ほど考え、帽子を回すことを止めた。
「行ってみるか」
目的が決まったとはいえ、三人による会議はなかなか前へ進もうとしなない。
それもそのはず。原因が全くわからないのだ。
仮に薬が原因だったとしても、それが失敗作による予期せぬ効果だとしたら手の打ちようがない。それに、そうだとしても何かしらの作用がチルノの体内で起こったはずなのだ。
できれば薬以外の不審な物が湖から出てくれば対策が練り易いのだが、水質を調べても大気を調べても薬以外の不審な点は全く見あたらなかった。
唯一、魔力の流れが若干おかしな動きを見せていたが、これはチルノが暴走している為だとわかり、直接は関係ないことが判明する。
こうなると、残るはチルノを直接捕まえるだけだ。とはいえ、魔理沙を氷漬けにできるような相手と真っ向から戦うのは得策ではない。
「やはり咲夜に応援を頼むしかないのかしら」
「だが、できれば外部には漏らしたくないな。あの薬はあまり知られていい存在ではない」
「でも緊急事態なんだから、そうね永遠亭からの何人か救援を頼むべきかしら」
パチュリーの弾き出した計算によると、今のチルノの戦闘力は0.6八雲に相当するという。ちなみに、1八雲が八雲紫と同等らしい。
「考えたのだが、こういう時にこそ使うべきではないのか。あの薬を」
慧音の言葉にパチュリーは首を横に振った。
「駄目よ。少なくともチルノがこうなった原因の一つはあの薬よ。ここで薬を使ったとしたら、どんな効果が現れるかわからない」
「む、それもそうか」
幻想郷を脅かすほどの驚異が現れた時の為に開発した妖怪弱体化の薬。それが皮肉にも、一介の氷精を驚異に押し上げてしまうとは。そこにいる誰もが、笑うに笑えない状況に唇を噛みしめていた。
そんな時だった。紅美鈴が現れたのは。
「あ、あの……パチュリー様。ちょっといいですか」
「忙しいから駄目よ。話があるなら小悪魔に伝えておいて」
そう言ったものの、美鈴は図書館から出て行こうとしない。話が話だけに、出て行って貰いたいのだが、美鈴は何故か気まずそうな顔でこちらを見ていた。
仕方なく、パチュリーは話を聞いてあげることにした。口を開いたものの、美鈴は躊躇うように言葉を呑んだ。
だがやがて、ビルからビルへ飛び移るような勢いで言葉を吐き出した。
「湖の事について調べてるって聞いたんですけど、ひょっとして私の弄った地脈のことですか!」
疑問系の文章なのに感嘆符がつきそうな大声だった。
三人はしばし呆気にとられたあと、同時に口を開き、同じ言葉を美鈴にぶつけた。
「は?」
たった一文字の答えに、電流が流れたかのように身体を震えさせる美鈴。目には既に軽く涙が溜まっており、悪いことをして叱られる子供のように縮こまっている。
「で、ですから……この前の革命運動の時にお嬢様対策として地脈を弄ったのがバレたんじゃないかと……あれ、違うんですか?」
「ちょっと待って。あなた、どこの地脈を弄ったの?」
恐る恐る、美鈴は言った。
「霧の湖ですけど。水の上は操りやすいし、何よりお嬢様も近寄れないし」
机に突っ伏し、呻くようにパチュリーは呟いた。
「……減休一年」
美鈴の安息は音速で逃げ去っていった。
美鈴から聞いた話と、自分達の把握する限りでの出来事を総合して考えてみた結果、パチュリーはようやく事件の全体像が見えてきた。
まず、対レミリア用として美鈴が湖の気の流れを操る。かなり難易度が高い作業ながらも、そこは気を操る程度の能力。難なくこなしてしまったようだ。
パチュリーがそう評価すると、美鈴は照れたように微笑んだ。腹が立ったので殴った。本の角で殴った。
「そこへ我々の開発した薬が流入し、運悪く気の流れと同じように散っていってしまったというわけか」
悶絶する美鈴を視界に隅に置き、冷静に分析している慧音。
「いえ、おそらく偶然ではないでしょうね。おそらく美鈴が張った気の流れもレミリアの力を弱める作用があったんだと思うわ。そうでしょう、美鈴」
額を押さえながら、美鈴は涙目で頷く。若干頬をひきつらせた永琳が、馬鹿げてるとばかりに掠れた声で訊いてきた。
「それで、まさか弱体化する薬と弱体化させる気の流れが反発し合って、逆の性質に変わったとでもいうわけ? マイナスとマイナスがかけられたように」
「そうと判断するしかないわ。現状で影響を受けてるのがチルノ一人だから、おそらくピンポイントの地点のみの作用だと思うけど。なんにしろ、まずはその地点を破壊しておくこが先決ね。二体目が出てこられたら困るもの」
チルノ一人でも対応に困っているというのに、二人目が出ようものなら幻想郷の終焉もそう遠くはない。
「とにかく、原因は判明したことだし現場に行ってみましょう。ほら、行くわよ美鈴」
「え、私もですか?」
美鈴は不思議そうな顔で自分を指した。
「当たり前でしょ。いずれにせよ、気の流れを変えなきゃいけないのは間違いないんだから。あなたがやらなきゃ誰がやるの!」
子猫を扱うように、首根っこを掴むも体力の無さで逆に引っ張られるパチュリー。慌ててそれを受け止めた美鈴は、わかりましたとパチュリーをお姫様抱っこで抱えたまま図書館を出て行った。永琳と慧音も後に続く。
その不思議な四人組を見た咲夜は、先頭を走る美鈴に職務に戻れと注意することすら忘れ、ただただ首を傾げるのであった。
「魔理沙のことは放っておいて良いのかしら?」
素朴な疑問だったが、今や答える者は誰もいない。
浴場に置かれた中身入り氷のオブジェを脳裏に浮かべ、メイド長はしばし考えた後、お湯を沸かしに食堂へと向かった。
最初は無視しようと思っていた。
だけどいきなり攻撃されたので、撃墜してやろうと思った。
しかしその攻撃もことごとく封じられ、今では殺してやりたいとさえ思っている。
「ちっ、何なんだよコイツは!」
悲鳴にも似た声をあげながら、まさしく必殺の攻撃が妹紅の横を通り過ぎていった。氷柱の形をしたそれは、炎の羽を纏う妹紅に恐れることなく、弓矢のように飛んでくる。
一つならば、大して問題にはしない。数が多すぎるのだ、あまりにも。
両手では数え切れないほどの氷柱が、自分の五六倍の大きさをして迫ってくる。一回目や二回目は炎で溶かしていたものの、やがて数に圧されて避けることが精一杯になった。
ならばと、攻撃に転じてみても相手は微動だにせず片手を振り上げるばかり。しかし、それで妹紅の放った炎の鳥は役目を果たすことなく、その身を芸術的に凍らせていく。
五匹同時に出した炎の鳥を一瞬にして凍らされた瞬間、妹紅は自分の攻撃が通用しないのだと完膚無きまでに思い知らされた。
「……………………………」
それでいて、相手からは何の反応もない。これが頻繁に殺し合う輝夜ならば、惨めに逃げまどう妹紅に嘲りと愉悦に満ちた笑いをぶつけてくるだろう。それは妹紅の炎に油を注ぎ、更なる力を発揮させるのだ。
しかし、この相手にはそれがない。まるで、邪魔な石ころを蹴るかのように無造作に、それでいて攻撃対象は妹紅を明確に捉えている。
足下の凍った湖を最初に見たときは何事かと思ったが、今となっては目の前のやつが凍らせたのだと確信を持って言える。これほどの奴ならば、湖を凍らせることなど造作もないことだ。
「いい加減に……しろっ!」
裂帛の気合いと共に吐き出された炎の波は、降り注ぐ氷の雨を溶かし、発生源である青い少女へと向かった。指揮者がタクトを振るように腕を動かすと、またしても炎は氷へと姿を変える。
だが、これも予想していたこと。妹紅は氷となった波にあえて突っ込み、波にどでかい穴をぶち開け、氷精目がけて炎を纏った拳を突き上げる。
「……………………………」
湖面より蒼い瞳がこちらを向いたかと思うと、あろうことか少女は波を凍らせた腕をこちらに向けた。少女の顔や腕にまとわりついていた霜が、その動きで湖面にパラパラと雪のように舞い落ちる。
「馬鹿か、お前はっ!」
妹紅が振るう拳の炎は、これまでの物とは桁が二つほど違う。鳥の形をした炎はあくまで広い範囲への攻撃方法。凝縮した炎の一撃とは比べ物にならない。
まさしく妹紅のもてる全てを出し切った一撃と言えよう。自分の身体も熱と冷気でただでは済まないだろうが、不死であるがゆえにそれは大して気にならない。
「……………………」
妹紅の勢いがこれまでと違うのは、誰の目にもわかる。それでも、少女は何をするでもなく、ただ腕を妹紅に向けるだけ。冷気も氷も、そこからは出てこない。
「なめるな!」
鳥のクチバシの如く研ぎ澄まされた一撃が、少女の腕に真っ向勝負を挑みかける。
炎の先端が少女の腕に触れた瞬間、妹紅が我が目を疑った。
全てを出し切った一撃は、少女の冷気に一瞬にして敗北し、腕と共に砕け散った。
「な、な……」
言葉もなく、妹紅は消えた自分の右腕を凝視する。その刹那、腹部に鋭い衝撃が走った。
顔をおろすと、巨大な氷柱が自分の胸から下を貫いているではないか。胸からこみあげる血液を吐き出し、妹紅は力無く湖面へと落下していく。
そんな妹紅を見つめる少女の瞳には、勝利の喜びも生存に対する安寧も何もなく、無と表現するしかない感情だけが宿っていた。
凍った湖面に叩きつけられる間際、妹紅は少女と目が合い、久々に身体が震えた。
それは長らく忘れていた、恐怖という感情だった。
弱いことに劣等感はなかった。でも、悔しくて泣いた日はあった。
そんな悔しさも、友達と遊んだり、蛙を凍らせていたらいつのまにか忘れてしまう。
誰かを倒す力はなくとも、日々を楽しく過ごすことはできる。
橙やリグル達と遊ぶのは楽しかった。
レティが現れる季節までの日を、指を折って数えるのが楽しかった。
凍らせた蛙を道行く兎に見せて、泣きながら逃げるのを追っかけるのが楽しかった。
でも、今は――
足下に広がるのは広大な氷の大地。
落下していくのは氷に負けた少女。
そのいずれもが、自分のやったことである。
腕にまとわりつく霜が、何よりの証拠だ。
力など欲しくなかった。
こんな自分は大嫌いだ。
それでも、チルノにはどうすることもできない。
湖よりも、黒い少女よりも、何よりも真っ先にチルノが凍らせたモノ。
己の心は、少女の炎を持ってしても、溶けることはなかった。
「やっぱり、写真で見るのと現物とでは迫力が違うわね」
凍り付く湖面を見たパチュリーの第一声はそれであった。初見の美鈴も、同様に驚きの声をあげている。
壮観と言えるが、原因を考えると素直に感心ばかりしてられない。
「さて、どうするか。私としてはまず、その気の流れを変えてしまうことが望ましいと思うのだが」
「私も同感ね。薬をどうにかするのは不可能だし、この際魚への影響は目をつぶるとしましょう。でも、薬と気による反作用だけはどうにかしなくてはならないわ」
慧音と永琳の言葉に、パチュリーも頷く。しかし、この三人が集まったとしても気の流れに関してするべき事はない。ただ、命ずるのみである。
「というわけで美鈴、気の流れを元に戻しなさい」
「いやぁ、これは無理ですね」
即座に返された答えにパチュリーは納得したとばかりに首肯するも、すぐに表情を怒りに変え、本を弾丸に見立てて発射した。額に命中した。
「無理ってどういうことなの! これはあなたが弄ったものでしょうが!」
「いや、我々にも責任はあるわけで……それにそんなに怒ったら身体に差し支えるぞ」
慧音に静止されるものの、パチュリーの怒りは治まらない。そんな様子を見て、美鈴が慌てて弁解を始めた。
「そりゃあ湖が正常な状態だったら、私だって責任を感じてますからすぐに戻しますよ。でも今は無理です」
「例え湖が物理的に凍っていても、気の流れには影響しないんじゃないの?」
永琳の問いかけはもっともだ。しかし、美鈴は気まずそうに答えた。
「ただの湖なら問題はないんです。でも、今の湖にはパチュリー様達が作った薬が混ざっているんです。多分、最初は気の流れが薬の動きを操っていたと思うんですけど、今は逆で薬が気の流れを固定しているんです。だから、気の流れを操るにはまず湖をどうにかしないと」
「氷が溶ければどうにかなるの?」
「薬の流れをかき回すか、あるいは薬と気の流れが反発しあってる点を物理的に破壊すれば解決すると思います。せめてその点から薬を取り出さないと駄目ですね」
「凍ってることが裏目に出たな。ところで、チルノの方はどうすればいいのだ? その地点を破壊したからといって力が戻るわけでもないだろう」
慧音の疑問に、美鈴は必要以上にボリュームのある胸を張った。
「その点は安心してください。おそらくチルノちゃんの強さはその地点から供給されているんだと思います。だから、破壊さえできれば力は元に戻るはずです」
「なんだ、結局は力任せか。妹紅を連れてくるんだったな」
「まぁ、それよりも湖が普通だったら適当に湖面をかき回すだけで終わりなんですけどね」
美鈴の最後の一言に、それまで暴れていたパチュリーが急に大人しくなる。何か考え込むような仕草でうつむき、恐る恐るといった感じで顔をあげた。
「もしも、意図的に湖を凍らせたとしたら?」
ただでさえ静かだった湖畔に、更なる静寂が舞いおりる。ただ美鈴だけは意味がわかっていないようで、静かになる周りを小動物のように見回している。
「湖からの力の供給を永続的なものにするために、チルノがあえて湖を凍らせたのだとしたら。果たして、彼女は私達のことを見逃してくれるかしら」
「え、でもチルノちゃんは暴走してるんですよね。だったらそんな事に拘るとは思えないんですけど」
美鈴の言うことにも一理ある。パチュリーの話は仮説の域を出ないし、チルノにそれだけの力を扱える器があるとも思えない。暴走しているのは間違いないはずだ。
それでも、パチュリーの胸には何か言いようのない不安があった。数多の書物から得た知識と経験が、パチュリーの思考しない部分で働いているのかもしれない。
そのメカニズムはさておき、こういった不安がする時は大抵ロクでもないことが起こる時である。
「まぁ、不安もあるだろうが今は解決に専念するとしよう。とにかく、その地点とやらを探して破壊すればいいんだな」
「といっても、その地点を見つけるのは簡単ですよ。気の流れが特に強い所が一カ所だけありますから、多分そこです。問題は、これだけの氷をどうやって破壊するかです。気の流れもありますから、並大抵の弾幕じゃ傷つきませんよ」
美鈴が言うには、レミリアなら壊せるはずだと言う。つまり、それぐらいの実力がないと壊せないということだ。
生憎とここに集まった四人には、そこまで凄い力はない。唯一、永琳が可能性を秘めているものの、美鈴曰く五分五分だそうだ。
せめて魔理沙のマスタスパークか、氷と相性のより炎を使える妹紅がいればどうにかできたと言う。しかし、魔理沙は既に氷漬けになっているし、妹紅は永遠亭に出かけていないらしい。
こうしていてもらちが明かないと、四人はとりあえずその地点とやらに向かうことにした。
「館に戻ってレミリアを連れてくる? 多分、こんなことじゃ動かないと思うけど」
淡々と言うパチュリーに、美鈴が苦笑いを浮かべる。
「それよりも先に巫女が出張って何もかも解決してくれたら楽なのだがな。今日ほどそう思った日はない」
「無理よ。少なくとも薬と気の反発を抑えないことには解決しないわ。今のチルノはコンテニュー無限よ。さしずめ、仮染の不死と言ったところかしら」
不老不死の永琳の言葉なだけに、その言葉には皮肉と苦労がふんだんに盛り込まれている。
先の見えない会話を繰り返しているうちに、四人は全ての原因である地点へとたどり着いた。恐ろしい力が渦巻くとはいえ、感じられるのは美鈴ばかり。
景色としては他の地点と大して違いもない。
そのはずだった。
「妹紅!」
まず目についたのが、氷の上に横たわる藤原妹紅の無惨な姿。まるで巨大な槍で突かれたように、下半身に大きな穴が空いている。
その姿を目にし、慧音が血相を変えて飛んでいった。しかし、残る三人は微動だにできない。
湖面を名前と同じく紅に染める妹紅の上で、何をするでもなく淡々と浮き続ける一人の少女。
いつもの脳天気な外見と違うのは、無感情な顔つきと瞳、そしてまとわりつく霜だけ。後は全て、いつものチルノと大差ない。
そのはずなのに、少女が放つ圧倒的な雰囲気が戦意を徐々に失わせていく。
「失念していたわ。暴走にも二種類あるってことを」
思わず漏れだしたパチュリーの言葉に、反応するものは誰もいない。
「激しい暴走と静かな暴走。激しい暴走は力こそ凄いものの、考えることを放棄しているから動きが単純になる。静かな暴走は理知的に動けて力が長続きするものの、瞬発的な力で劣る」
しかし、今のチルノには無尽蔵に力が送り込まれていく。
すなわち、静かな暴走と激しい暴走の長所だけを取り込み、短所を取り除いているのだ。
「舐めていたわね……これは勝てない」
その敗北宣言に、異論の意を唱える者は誰もいなかった。暴走する氷精を前にして、皆の気持ちは一つしかない。
この存在に勝つことなどできない。
戦意すらも凍らされてしまったのだ。
お湯では歯が立たなかった。
思ったよりも氷は分厚く、そして手強い。ノミやナイフで削ろうともしたが、そちらも文字通り歯が立たなかった。
まるでダイヤモンドの結晶である。
後は溶けるのを待つか、圧倒的な力で破壊するしかない。
後者を選ぶとすれば、妹様ことフランドールの元へ持っていけば即座に解決する。氷の中身をいたく気に入っているフランドールなら、喜び勇んで破壊してくれることだろう。
ただ一つの欠点があるとすれば、中の魔理沙も一緒に砕けるということだ。
となれば、残る選択肢は一つしかない。
「とはいえ、これが全部溶けるのはいつの日になるのかしら。少なくとも一年以上はかかりそうね」
熱気に溢れる浴場にあっても、その氷は微々たる量しか溶けていかない。その様子を見る限りでは、おそらく咲夜が老婆になった頃に魔理沙が脱出できる見込みになる。
そうなっては、パチュリーもフランも悲しむだろう。そんな二人を咲夜は見たくなかった。
それに、本を盗む者がいなくなるのは良いことだが、寂しくなるのも事実だ。
仕方なく、咲夜は氷の表層から順に時間の流れを操ることにした。そこだけ時間を急激に早めれば、溶ける速度が上がるということだ。
ビデオの早送りのように、みるみるうちに氷は小さくなっていく。しかし、気を付けないとうっかり魔理沙の時間を操ろうものなら瞬時に老婆になってしまう。
その点にだけ気をつけながら、数分後、魔理沙を老婆にすることなく、無事に取り出すことができたのだ。
「おわっ、なんだ! もう夏か」
浴場の熱気を肌で感じ、急激な温度の変化に魔理沙は驚いた。
「ここは常夏だけど外は相変わらずの冬よ。それよりも、どうやったらあんな芸術的な姿になれるのか教えてもらえる?」
「冷蔵庫にでも入ったらどうだ。モデルが良ければ私以上の芸術作品になれるぜ」
そう言いながら顔を合わせようとしない魔理沙。その態度で、咲夜は魔理沙が話をはぐらかそうとしている事に気が付いた。
どうやら凍った原因についてはあまり触れられたくないらしい。
ホウキの水気を払い、魔理沙は帽子をかぶり直して浴場から出て行こうとする。原因を問いつめたかったが、訊いても答えないだろうから止めた。
脱衣場への扉に手をかけたところで、ふいに魔理沙が振り向いた。
「パチュリーは何か言ってたか?」
突然の質問に咲夜は目を丸くした。そして慌てて記憶を探るも、伝言は受け取っていない。
「いいえ。ただ、何か凄く慌ててはいたわね」
それが自分の持ってきた魚の弱体化に関することなのか知らないが、あそこまで慌てたパチュリーを見るのは久しぶりのことだった。
魔理沙はしばらくの間だけ動きを止め、
「そうか」
とだけ言い残して浴場を去っていった。
対抗策と思っていた妹紅の敗北。それはパチュリー達に想像以上の絶望を与えることとなった。
これはもう悠長な事を言ってる場合ではない。レミリアなり紫なりをテコでも使って動かさない限り、目の前の少女を倒すことなどできるはずがない。
かつて、これと似たような雰囲気をパチュリーは味わったことがある。
一度だけ目にしたレミリアの本気。その時に放っていた雰囲気こそ、まさしく今のチルノが放つそれと瓜二つだった。
殺気すら超越した圧力に、誰もが動くことすらできない。妹紅の側に駆け寄った慧音も、息絶え絶えの妹紅を抱きかかえ上空のチルノを睨むばかり。
せめてもの救いは、チルノにも動きがないことだろうか。
「悪い予感はあたったようね。どうやらチルノは意図的に湖を凍らせたようよ」
声を出してから、パチュリーは自分が震えていることに気がついた。
「どうやら力の発生源を守っているみたいね。防衛本能とでも言うのかしら」
「で、でもチルノちゃんがそうする意味は……」
美鈴の声をパチュリーは遮る。
「防衛本能が働いているのは、チルノを暴走させている力の方よ。だから自分が永続的に働くように湖を凍らせた。おそらくチルノ本人の意志なんて、とうに封じ込まれているでしょうね」
「そんな……」
一切の説得は通じない。なにせ、相手はチルノの姿を借りているだけで本体は純粋な力なのだ。防衛本能があるとはいえ、意志が伝わるとは思えない。
ただ、自分に危害を加えようとする者には容赦ない。妹紅はただ力の発生源の近くを飛んだだけ。それなのに、チルノは妹紅を撃墜させた。どこまで発生源に近づけば攻撃してくるのか不明だが、迂闊に近寄ることはできなくなった。
「どうするのパチュリー。ここは一度撤退して改めて対策を練るのが一番だと思うけど」
現状ではそれが一番のように思えた。苦渋の選択だが仕方ない。
パチュリーも同意しようかと思ったとき、唐突に美鈴が「あ」という間抜けな声をあげた。
「どうしたの、美鈴」
「ち、力の発生源の位置がずれました」
恐る恐る告げられた言葉に、パチュリーは息を呑んだ。
「なんですって!」
「ほんの数メートルですけど、ちょっとずれました。それも、こちらよりに」
その意味を悟り、恐々と顔をチルノに向ける。無感情な瞳は相変わらずだったが、右腕はゆっくりとこちらに向かって振り上げられている。
「て、て、撤退!」
パチュリーの言葉を合図に、永琳も美鈴も、妹紅を抱えた慧音も、それぞれの全速力でチルノから離れる。
にも関わらず、チルノは執拗にパチュリー達を追いかけてきた。手からは次々と非常識な大きさの氷柱が作られ、弾丸のように飛んでくる。
「発生源から離れてるのに、なんで攻撃してくるんですか!」
「わからないわよ!」
一度攻撃対象として捉えた獲物は逃さないのか、それとも何か別の理由があるのか。命の危機でなければ、それについてじっくりと考えていたことだろう。
鋭い唸りをあげて、頬のすぐ隣を氷柱が掠めていく。振り返りざまにアグニシャインを放つものの、児戯だと言わんばかりに瞬時に凍らされていく。足止めにすらならない。
このままでは追いつかれしまう。パチュリーの頬に嫌な汗が流れた。
と、いきなり美鈴が前へ飛ぶことを止め、チルノが迫る後方へ向き直った。
「多分、このまま逃げ続けてもいつかは追いつかれます。だから、私が囮になってチルノちゃんを食い止めます。その隙に、パチュリー様は発生源を何とかしてください」
普段の暇そうな態度からは想像できない美鈴の力強い言葉。しかしながら、身体は若干震えていた。
恐怖を押さえ、気丈に自分達を守ると言ってくれている想いを、どうして否定することができようか。
パチュリーは多くを語らず、ただ「頼んだわ」とだけ伝えた。
たったそれだけの言葉だったが、美鈴にとってこれほどまでに頼もしい言葉はなかった。
「戻るわよ」
「だが、どうする。我々では発生源を壊すことはできないし、妹紅もこの有様だ」
慧音の言葉に嘘はない。現状を的確に捉えた、とても残酷な言葉ではあるが。
それでも、このまま何もしないわけにはいかなかった。
「だったら私が賢者の石で増幅させたロイヤルフレアをぶち込むわ。一度じゃ無理でも、何発か喰らえば氷だって溶けるはずよ」
「だけど、そんなことをしたら体力が持たないでしょう」
「それでも!」
自分にあるまじき熱い言葉。顔色は依然として悪いし、体調だって優れない。
だが、託された責任を放棄することだけはできなかった。
「何とかするしかないでしょう。ここにはレミリアも霊夢も紫もいないんだから」
誰も解決する者がいない以上、頼れるのは己と仲間のみ。美鈴が囮になるというのなら、自分にできることは一つしかない。
パチュリーはそう言うや否や、発生源の方へと飛んでいった。
「まぁ、今回の事件は自分の製造物が引き起こしたことでもあるし。責任はとらないと問題よね」
「妹紅をこんな目に遭わしてしまって、それで自分は何もしないというのも酷だ」
そんなことを呟きながら、二人はパチュリーの後を追う。全てを解決するんだという、決意を胸に秘めながら。
格好良いことをいったものの、何か対抗策があるわけではない。有体に言えば、無策だった。
幸いにも氷柱の速度は咲夜のナイフよりも遙かに遅く、数も少ない。避けることは苦にならなかった。その点は咲夜に感謝してもいい。
しかしながら、相手は弾数も残機も無限にあるという半ば化物みたいな存在である。持久戦に持ち込めば、いつかは自慢のスタミナも切れる。
「ひいっ!」
現に僅かではあるが、次第に動きが鈍くなってきた。だが、美鈴に託された任務はチルノを倒すことではない。
あくまで、ここに引き留めておくことだ。
そう言った意味では、持久戦はむしろありがたいと言ってもいい。
「…………………………」
無機質な瞳が美鈴の動きにそって、上下左右に動いている。
普段のおてんばな姿を知っているだけに、機械的なチルノは美鈴の心を酷く揺さぶる。できれば早く元に戻してあげたい。
だが、自分のできることと、すべきことを混同してはいけない。美鈴がすべきことは囮役。それを全うすべく、美鈴はただただ必死に弾幕を避け続ける。
「とはいえ、さすがに疲れますね……ってあれ?」
気が付くと、あれほどあった氷柱が空中から消えていた。そしてチルノの姿も。
まさかパチュリー達に気がついたのか。焦燥感が募ってくるが、奇妙な気の流れを感じ取り、上空を見上げた所でチルノを再発見した。
数多の氷柱を作り上げた右手にはいま、まるでレミリアのグングニルを模写するかのような氷の槍が握りしめられていた。
もしも、あれがグングニルの模倣だとしたら。本物に劣るとしても、その速度はメイド長のナイフの比ではない。
美鈴は構えるよりも速く、無情な右腕はいとも容易く振り下ろされた。
想像は運悪く当たり、美鈴は受け流す暇もなく、氷の槍の餌食となった。
名前は知らないが、炎の鳥を作った少女がとても強いことをチルノは知っていた。
名前は忘れたが、中国っぽい少女がそれなりに強いことをチルノを知っていた。
でも、その二人は自分の力の前に敗れてしまった。
氷の大地からもうもうと巻き上がる氷の欠片の霧を見ても、チルノの瞳には何の感情も宿りはしない。
ただ、チルノの心は必死に止めてと叫んでいた。
しかし、その声はどこにも届かず、ただただ起こる惨状を眺めるしかない。
いつしかチルノ声は、止めてではなく、助けてへと変わっていった。
しかし、その声も届くことなく、制御しきれない力はやがて自分の発生源に危機が迫っていることを感知した。
それはチルノにとって、このうえない朗報だった。
だが、自分が知ってしまったからには、きっとその人達も倒される。
朗報を知るということは、同時に悲劇の始まりでもあるのだ。
呼吸はとうに切れていた。飛ぶのも辛く、身体は氷の上にあった。
それでも、パチュリーは何度目かのロイヤルフレアを撃ち込んだ。多少は削れているものの、破壊にはまだ遠い。
慧音も永琳も全力を出しているものの、相性が悪いのか氷はあまり削れていない。
「やっぱり火に属する攻撃じゃないと、あまり効き目がないようね」
珍しく息の上がった永琳の言葉を返す余裕もない。もしも上手くいったとしても、一週間以上寝込むことは間違いない。
いっそ自分も発生源から力を貰えればと思ってしまう。しかし、そうなれば自分とてあれだけの力を扱う器ではない。暴走する人が増えるだけだ。
再びロイヤルフレアを放とうとパチュリーが準備を始めたところで、見えてはいけないものが見えてしまった。
蒼空を飛ぶ、一人の少女。
その少女がこちらに来てしまったということは、すなわち美鈴の敗北を意味する。そして、自分達の敗北も。
「永琳、何か策はある?」
「逃げる以外にあると思う?」
万策尽き果てた。まさにその言葉を象徴するかのような状況だ。
自分を支えていた何かは、音を立てて崩れていった。もう、どうすることもできないのか。
諦めきっていただからだろうか。パチュリーにはその姿が酷く頼もしく、そして最後の希望のように見えてしまった。
遠く、チルノの遙か向こうから飛んでくる黒い影。
「魔理沙……」
霧雨魔理沙はまだ諦めていなかった。
今日の空は、いつもよりも寒い。
疾走するホウキにまたがりながら、魔理沙は目標を発見した。案の定、その近くにはパチュリーや永琳達もいる。
チルノが隠された力に目覚めたのでないとしたら、恐らくパチュリー達が関わっているのだろうという推測は見事に当たったようだ。
「ビンゴ賞でも貰いたいとこだが、先にやらなきゃいけないことがあるんだよな」
こちらを凝視するチルノ。紛れもなく、先程自分が負けてしまった相手である。
チルノは魔理沙に向かって腕をあげるが、それよりも速く魔理沙は懐からスペルカードを取り出して発動させた。
無数の星が辺りに撒き散らされ、飛んできた氷柱を細かく刻んでいく。その星々の間を器用にすりぬけ、驚異の速度で魔理沙はチルノへと迫った。
「……!」
無感情のはずの顔が、僅かに動いた。飛んでくる氷柱の数が増えてくるも、魔理沙はそのことごとくを避けた。
そしてチルノに数メートルと迫り、接触するかと思われたが、魔理沙はまるでチルノを無視するかのようにその横を通り過ぎていった。
「魔理沙!」
下の方からパチュリーの声が聞こえてくる。そちらに顔を向けることなく、魔理沙は思いきり振り向いてミニ八卦炉をチルノに向けた。
「マスタースパーク!!」
あのままだったらパチュリー達がいるから撃てなかったからこその、すれ違い様のマスタースパーク。
圧倒的な火力はチルノを飲み込み、姿すら確認させてくれない。
「さすがにこれは効いただろ」
火力の蹂躙が治まったとき、そこにはチルノの影も形もなかった。吹き飛んだのかと思いきや、氷の大地にその姿があった。咄嗟に避けていたらしい。なんという反射神経か。
驚きはそれだけではない。チルノの右手には、透明な氷の槍が握りこまれていたのだ。
前回の戦いのときに、その恐ろしさは存分に味わった。咄嗟にホウキを操るものの、とてもじゃないが間に合わない。
そして放たれた非情の槍。空気を切り裂き、魔理沙に向かって一直線に突き進む。
伝説の名を冠する氷のグングニルはしかし、横から襲ってきた同一の存在によって見事に方向を逸らされた。誰もいない方向へ、愚直にもグングニルは突き進んでいった。
「油断しすぎですよ。なんで紅魔館に侵入する時の方が真剣なんですか」
もう一本のグングニルが飛んできた方を見ると、そこには見当違いの怒り声をあげる美鈴の姿があった。服は追いはぎにあったかのようにボロボロだったが、傷はそれほどない。
「よくあれを撃ち落とせたな。見直したぜ。だから今度からは本気で門を破ることにしよう」
「やめてください!」
本気で悲痛な声をあげる美鈴だったが、今は長く相手をしている暇はない。チルノの手には二本目のグングニルが握りしめられていた。
「魔理沙! あの地点に思い切りマスタースパークを撃って!」
そう言ったのはパチュリーだった。指さす方向には何もない。
「何でだ? あそこに撃ったらボーナス点でも貰えるのか?」
「ボスの弱点だからよ。だからこそ、お願い」
パチュリーがそういうからには、本当なのだろう。魔理沙はずり下がり気味の帽子を直し、持てる限りの最高の速度でその地点へと向かった。
させまいと放たれた二本目のグングニル。しかし、それも魔理沙を捉えることはできない。
炎の鳥が、氷の槍を飲み込んだ。
「……これで……借りは返したぞ……」
それは酷く弱った言葉だったが、とても満足そうだった。意識を失う妹紅を、慧音が優しく抱き留める。
その間に、魔理沙は発生源までたどり着いていた。チルノを暴走させる力にとって、それは最大の危機である。
無感情など捨て去り、必死の形相で発生源へと飛ぶチルノ。
しかし、その口から漏れた一言は全く逆のものであった。
「撃って!!」
「ははっ、霧雨魔理沙さんに任せときな!」
巫山戯た口調と共に吐き出された、視界を奪う白い閃光。それは固く凍った湖面を破壊し、チルノの心も解放したのであった。
それからしばらく。
まるであの事件など無かったかのように、幻想郷はいつも通りだった。
チルノは元気に遊んでいるし、三人組はまた何か企んでいるようだし、妹紅も変わらず輝夜に挑んでいる。
魚の質に関してはどうすることもできず、紅魔館ではしばらく魚類が食卓に並ぶことはなかったが館の主人は大して気にしなかったそうだ。上質の血さえあれば、それでいいらしい。
美鈴の休憩剥奪がパチュリーの温情により免除されたぐらいで、後は至っていつも通りだった。
しかし、幻想郷とはそういう所である。
変わらないもの代表ともいえる魔理沙は、今日もお気に入りの岩の上で日光浴を楽しんでいた。
冬の風は厳しいものの、たまには温かい日だってある。幻想郷も全く同じ。
厳しい時もあれば、温かい日だってあるのだ。
大切なのは、流されること。
流されているうちに、次第とやるべきことが見えてくる。その辺を、何にも影響されることのない巫女にも考えてもらいところだが。
そんなことを考えていると、ふいに霊夢の容れたお茶が飲みたくなった。
「思い立ったが大吉だったかな」
暗幕代わりの帽子をどかし、身体を起こす。ちょっとした違和感を感じ、目をこすってみた。不思議なことに、そうしてみても周りの視界は一向に冴えない。
夜雀の影響かとも思ったが、歌声は耳に届いてこない。だが何にしろ、異常事態であることに代わりはない。
「次はルーミアあたりだな」
楽しそうにそう言いながら、傍らに置いてあったホウキを手にとる。そして視界の悪い空へ向かって、ロケットのように飛んでいった。
霧雨魔理沙の日常は、今日もこうして始まっていくのである。
全体的に黒が多めの服装は、人より多く熱を集めてくれる。真夏日には天敵だが、肌寒い日の中にふいに訪れる温かい日には、何よりも味方になってくれる頼もしい服装だ。
湖のほとりの大岩。その岩のうえに寝そべりながら、夢と現の境界で行ったり来たりを繰り返す。
顔を覆う三角帽子が良い具合に光りを遮り、それがまた魔理沙の眠りを深くする。
昼間は霧が深まる湖も、この日に限っては何故だか霧も姿を現さない。不思議だが、快適であるので問題はなかった。
その眠りを妨げるように、一筋の風が吹いてきた。
「んぁ?」
鳥肌が立ちそうな冷たい風に襲われ、思わず、他人には聞かせられないような間抜けな声を出してしまう。
「……随分と優秀な目覚ましだぜ。これで操作できれば申し分ないんだが」
帽子をあるべき場所に置き、身体も起きるよう背伸びをする。格段疲れるようなことをしたつもりはないが、まだ少し身体が重たい。
ひょっとしたら寒さのせいで筋肉が固くなっているだけなのかもしれないが、今後の予定を鑑みると、動きが鈍くなるのは非常に困る。
この後は、紅魔館に行って、今夜読む分の本を借りて帰る予定だったのだ。
まぁ、ただそれだけなら往復分を飛ぶだけの体力で済むのだが、いかんせん図書館の司書が本を貸してくれそうにない。その為、毎回のように忍び込まなくてはいけないのだ。
そうなった原因は、魔理沙の返却率がロイヤルストレートフラッシュが出る確率より低いからなのだが、本人に罪の意識は全くない。
「それじゃあ、準備運動にでも行くか」
準備運動の後に特別な運動をするわけでもないのだが。
そんな魔理沙の熱を冷まさんと、再び冷気を孕んだ風が吹く。
「おおっと。日も出てるってのに、今日はいやに冷え込むな」
冬用の長袖を着ているものの、寒さを防ぐには紙十重で及ばない。カーディガンでも持ってくるんだったと後悔した。
だが、それにしたって今日の寒さは異常である。冬も深まり、もうすぐ年が明けるとはいえ、ここまで冷え込むのは少しおかしい。
本を貸してもらうついでに、パチュリーに今日の気温でも訊いてみようか。そんなことを考えながらホウキを手に取ったところで、ようやく魔理沙は目の前のソレに気がついた。
そして、朧気ながら寒さの原因に気がついたのだ。
「こりゃぁ……かき氷何杯分だ?」
スケートリングのように、湖はあますとこなく綺麗に凍っていた。
暮れも差し迫るこの時期。紅魔館はいつも以上に慌ただしい。
レミリア宛に届けられるお歳暮の数々。年末大掃除。年賀状。吸血鬼の世界も色々と大変なのだと、紅魔館のメイド達はこの時期になると思い知らされる。
もっとも当の本人である館の主人ことレミリア・スカーレットは今日も雑事を部下に任せて優雅にお茶会を楽しみつつ、博霊神社に足を伸ばしていた。
このことに対し、一部の者達から不満があがり、やがて門番の紅美鈴と司書補佐の小悪魔を筆頭とした革命組織が立ち上がる。
職場環境の向上と待遇改善を要求に掲げた革命組織は三日三晩に渡り必死になって闘ったが、メイド長の十六夜咲夜による単独の武力行使により鎮圧。
小悪魔はパチュリーに本の角で叩かれ、美鈴は一ヶ月間の休憩を全て剥奪された。
そんな混乱も治まった頃、紅魔館である一つの事件が起きていた。
「魚の質が落ちている? 単にあなた達に目利きが出来ていなかっただけじゃないの?」
咲夜の厳しい指摘に対し、買い出し担当のメイド達は揃って首を横に振った。彼女らの話を信じるのならば、他の市場でも魚の質は総じて落ちているらしい。
実際に彼女達が買ってきた魚を見てみたが、確かに身は少なく、張りもない。メイド達のまかないなら、特に質は気にしないのだがレミリアの舌はどこぞの美食家並に鋭い。こんな物を出せば、静かに笑いながら作った料理人の首を撥ねかねない。
これが一日で済めば良いのだが。嫌な予感が頭を駆け巡る。
「わかったわ。この件に関してはパチュリー様に任せてもらうから、あなた達は次の作業をやっていなさい」
そう言って、咲夜はパチュリーがいる図書館へと足を運んだ。
無駄骨で終わるなら、それで良し。忙しい時期だが、時間を自在に操れる咲夜だけは余裕を持っていたのだ。
途中、小悪魔に呼び止められたが今は忙しいと言って断っておく。大方、また美鈴の罰を軽減してほしいという嘆願だろう。さすがに一ヶ月間ずっと休憩なしのままにしておくつもりはないが、しばらくは灸をすえる意味で放っておくことにしていたのだ。
小悪魔と別れ、図書館へと入る。
「咲夜……ここは魚介類禁止よ」
屹立する本棚の間から、顔色の悪いパチュリーが現れる。図書館は年末だからといって仕事が忙しくなるはずがないのだが、何故だがパチュリーの顔色は普段よりも悪い。
「実はお願いがあるのですが。お忙しいようなら後にしましょうか?」
「別にいいわよ。疲れてはいるけど、もう終わったから」
「ならいいんですけど。あのですね……」
それから咲夜は魚の質が落ちたことを説明し、その原因を調べて欲しいのだとお願いした。
したはいいのだが、パチュリーは何故だが反応を全く返してこない。微動だにせず、彫刻のように固まってしまった。
病的に白い肌を、一筋の汗が流れ落ちる。
「わ、わ、わかったわ。調べてみる。その代わりに……」
パチュリーは机の上の置いてあった二枚の紙に何かを書き込み、咲夜に手渡した。
「この手紙を永琳と慧音に渡して頂戴。至急、急いで」
「は、はい」
意味が重複するほど慌てているパチュリーを見るのは、これが初めてだった。
そうまで動揺するなか、書いた文面が気になるが、どうやらかなり急ぎの事態らしい。
しかも、相手は八意永琳と上白沢慧音。パチュリーと交流しているのは見たことがあるものの、何をしているのか具体的に聞いたことはない。
だが、この急ぎの事態に彼女たちの名前が出てきた。関係していないわけがない。そして、関係しているならこれほど恐ろしい連中もそうはいない。八雲紫の次に恐ろしい。
魚の質が落ちた原因を聞きに来ただけなのに。何やら恐ろしい事態が裏では巻き起こっているのではないか。
そんな懸念を抱きつつ、咲夜は紅魔館を後にした。
結果として、その懸念は大当たりしているのだが、咲夜は後にも先にも知ることはなかったという。
氷の冷気が風と混じり合い、地上に押しつけがましい寒さを運んでいる。だからだろうか、空の空気は思ったより寒くなかった。
鏡のように乱反射する湖面に、ホウキにまたがった黒い魔法使いの姿が映る。困ったように頬を掻きながら、魔理沙は湖の上を漂っていた。
「こういうのを異常事態って言うんだろうな」
困ったようでありながら、どこか楽しげでもある。自分に害さえ及ばなければ、よしんば及んだとしても首をつっこみたがるのが霧雨魔理沙の長所と短所だ。
この異常事態とて、放っておけば誰かが解決してくれるだろう。それが博霊の巫女なのか他の誰かなのかは不明だが、関わらなくてもいいことに代わりはない。
そう思いつつも、魔理沙は元凶を求めて湖の上を飛び回る。
しかし、特にこれといった物は見つからなかった。それどころか、生物の片鱗すら存在していない。まるで湖の生き物が全て死滅してしまったかのようである。
それに加え、いつもなら鬱陶しいぐらい見える妖精の類も姿を見せない。
明らかに異常事態である。原因はわからないが。
「まぁ、それもいつものことか」
皮肉げに顔を歪め、魔理沙は探索を続けた。
そして五分後。
元凶と出会った魔理沙は少しだけ後悔することになる。
「やっぱ関わらなきゃ良かったかな?」
悔いる言葉と共に出た冷や汗も、一瞬にして凍り付いた。
「この三人が集まったということで、大体は察してくれると思うけど、時間も無いので単刀直入に言うわ」
あれから一時間。図書館にパチュリーと永琳と慧音の三人が集っていた。だが、その顔色は一様に暗く、死刑宣告を受けた受刑囚もかくやという有様だ。
慧音に至ってはトレードマークともいえる帽子をかぶり忘れている。それほど慌てて飛び出してきたであろう事がうかがえる。
咲夜はお使いから帰ってくると、調査をよろしくお願いしますと言って持ち場に帰っていった。もっとも、調査を手伝いますと言っても追い返しただろうが。
三人としては、出来る限り外部に漏らしたくはなかったのだ、この事件を。それは、小悪魔すらも図書館から放り出すぐらいの厳重体勢だった。
「アレが外に漏れだしているわ。それも、おそらくは川を伝って」
「完成品の保管は完璧よ。私以外はウドンゲだって触れられないようになっているし、漏れだしたとしたら試作品かしら?」
「そういえば、実験の最中に妹紅と輝夜の弾幕合戦があって試作品が一本だけ消失したことがあったな。あれが何らかの形で川に流れ出したのではないか?」
パチュリーは苦い顔で頷いた。
「おそらくそうでしょうね。今の今まで何の影響も出てこなかったから気にはしてなかったけど、ここにきて影響が出はじめたの。これを見て」
年代物の机の上に広げられたのは、五枚の写真。そのうち、四枚には身の細々とした魚が映し出されている。
「烏天狗に頼んで撮ってもらった写真よ。当然、この写真の魚以外も軒並みに弱体化してるわ」
「自然現象ではないな。明らかに不自然な弱り方だ。やはり、アレか?」
「認めたくないけど、九十六パーセントでアレの影響でしょうね」
慧音は、パチュリーの答えに軽い目眩を覚えた。わかっていたとはいえ、しでかした罪はあまりにも重い。
「ただ、幸いなことに試作品だけあって人体や妖怪には影響してないわ。何故だか魚類だけが被害を受けているそうよ」
写真を手に取りながら、永琳が尋ねた。
「魚から他の種族への感染は?」
「勿論ないわ。まぁ、それがせめてもの救いでしょうね」
その言葉で、場の空気が若干軽くなる。被害はけして軽くないが、人や妖怪に影響がないならまだ対処しようはある。
「ただ、一つだけ気になることが」
表情の和らぐ永琳と慧音と違い、パチュリーの顔はまだ冴えない。日頃から冴えないが、体調不良によるものではないように思えた。
差し出された一枚の写真を見る。その写真の意味するところがわからず、二人とも首を捻った。
「この写真がどうかしたの?」
紅魔館のほとりにある湖。写真ではその湖が完膚無きまでに凍っていた。二人とも、それは来るときに見ていたから知っている。
この時期に湖が凍るのは珍しいことだが、この件とは何の関係もないはず。
「調べてみたらこの湖もアレの流出先だったのよ。弱った魚もいくつか発見されたわ。それに何故だか霧も出ていない」
「では、アレが湖自体を凍らせて、霧を抑えていると?」
そんな都合の良いことがあるだろうか。自分で言っておきながら、慧音はその考えは間違っていると思っていた。
よしんば、そういう効果があったとしても他の流出先も同じように凍り付くはずである。たまたま、この湖にアレを変化させる何かがあったとしても魚は凍らないというのは不自然だ。
パチュリーも、慧音の質問を否定した。
だとしたら、パチュリーは何を言いたいのだろうか。慧音と永琳の視線に、確証はないけどと付け加えながら、パチュリーは血色の悪い口を開いた。
「アレは試作品だった。その為、失敗して変な効果をもたらすかもしれない。私は魚のみに影響しているといったけど、もしかしたら例外が存在するかもしれないのよ」
神妙な面持ちで告げるパチュリーは、おもむろにもう一枚の写真を取り出した。
その写真を見て、二人もようやく事態の異常さに気づくこととなった。
「これは……」
「……そういうわけか」
思い思いの反応で眺める写真には、一人の女性が映し出されている。ただ、少女の状態は普通ではない。まるで彫刻か何かのように、氷の中に閉じこめられていたのだ。
「妖怪を弱体化させる薬。私の推測が正しければ、おそらくその例外は効果も逆に影響しているんでしょうね。つまり、能力強化」
「該当するのは……思い付く限りでは一人か」
「能力に見合うだけの精神を持っているとは思えないわ。おそらく今頃は暴走している頃でしょうね」
三人の意見が一致する。そして、すべき事も自ずとわかった。
「チルノを捕獲しましょう」
霧雨魔理沙の悲惨な姿を目に焼き付け、三人はそう決意するのだった。
門番という職業に暇はない。ちょっとでも持ち場を離れれば、招かれざる者が掃除機に吸い込まれるように押し寄せてくる。
紅美鈴という妖怪に暇はない。ちょっとした出来心で起こした事件の罰として、スケジュールから休憩という文字が消えた。それこそ掃除機に吸い取られたかのように。
別に休憩がないのはいつものことだったが、今回の指す休憩とは食事休憩や睡眠といったありとあらゆる休憩のことである。はっきりいって拷問と呼んでも差し支えない。
働き続けて早一週間。妖怪の世界にギネスがあるなら、是非申請したいところだ。ただ、動機がいかんせん一般受けしそうにないので、そこは未知への挑戦とか格好良い感じへ直してもらいたい。烏天狗が受け付けていそうな仕事だ。
暇がない割に、門番という仕事をしていると考え事が多くなる。
無駄に鍛えられたせいでスタミナだけは紅魔館でもトップクラスに入る美鈴。足の疲れはそれほどないが、精神的にはかなり辛いものがあった。
欠伸を噛み殺しながら、今日も平和な紅魔館の門を守る。門番という職業に暇はないが、紅魔館の門番には腐るほど暇があるのだ。主人が畏怖されすぎるせいで。
「今日は魔理沙も来ないみたいだし、日光浴でもしたいなぁ」
噂の魔理沙が日光浴しているとも知らず、美鈴は門柱にもたれかかり空を見上げた。冬空に申し訳程度の雲がちらほらと見える。快晴だ。
「美鈴さーん、そろそろお昼にしませんか?」
館の方から一人の少女が小走りにこちらへとやってくる。少女といっても、頭の両側と背中にはコウモリのような羽がついており、一目で人間でないことがわかる。
こうなった原因の片割れにして、近頃の美鈴にとっての恨みの対象である小悪魔は右手にバスケットを持っていた。最初は何のつもりかわからなかったが、小悪魔は小悪魔なりに罪の意識を感じているらしく、こうして昼になると美鈴に食事を届けてくれていたのだ。
ちなみに、小悪魔が来るまでの数日はひたすら飢餓に耐えていた。うっかり厨房に忍び込もうものなら、そこは既に十六夜咲夜の領域。ナイフが頭部を貫通することは免れない。実体験からそう学んだ。
「うー、体力は問題ないんですが精神的にそろそろ限界ですよ。咲夜さんはまだ怒ってましたか?」
「えっと、なんかそれどころかないらしくて取り合っても貰えませんでした」
申し訳なさそうに言うならまだしも、何故か照れ笑いを浮かべながら小悪魔が首を傾げた。共に待遇改善の為に戦った同士として殺意が芽生えたが、同僚として考えたとしてもやっぱり殺意が芽生えた。
もともと、門番と司書補佐との間に接点など大してない。単に美鈴と小悪魔の気が合っただけのこと。そんな個人的な間柄の為に、互いの役割で疎遠になるようなことはない。
時には現状に不満を言い合ったりするし、咲夜とパチュリーのどちらが可愛いかで殴り合いの喧嘩にまで発展することもある。二人はそういう仲だった。
「別に誰かが侵入したわけじゃないのに、何かあったんですか?」
「詳しくは知らないんですけど、パチュリー様達の話では何でも魚や湖がどうとか……」
湖という単語がひっかかった。何か大切な事を忘れているような気がする。
美鈴はそれが記憶を呼び覚ます鍵であるかのように、湖という単語を何度も繰り返し声に出した。
「美鈴さん?」
小悪魔が不思議そうに美鈴の顔を覗き込む。
そこでようやく、美鈴は自分が犯したもう一つの所行について思い出した。
待遇改善の為に紅魔館で起こした革命運動。その騒動の最中に、対レミリア用として作り上げた物があったのだ。結局、使うことなく咲夜に鎮圧されたわけだが、まだ後始末をしていなかった。
つまり……
「ま、まずい事になりそうです!」
全速力で館の中へと駆け出した。背後で自分を呼ぶ声がするが、今は構っている暇はない。
もし、これが最悪の事態を引き起こしたとしたら、スケジュールから永遠に休暇という単語が消えてなくなることだろう。
だから美鈴は走った。己の為に、休暇の為に。
これで連敗記録に黒星がまた追加される。
忌々しげに歯を噛みしめ、光線でも放たんばかりの目つきで妹紅は歩いていた。永遠亭からの帰りだった。
いつものように輝夜に喧嘩をふっかけ、いつものように殺し合いに発展し、いつものように敗北する。いい加減、この螺旋構造から抜け出したいのだが、自分と相手がそうさせてくれない。
「くそっ!」
乱暴に地面を蹴る。渇いた土が宙を舞った。
再戦しようにも、慧音から喧嘩をふっかけていいのは一日一回までと厳重に注意されている。別に守る必要などないのだが、守らないと慧音を敵に回すこととなる。それは避けたい事態だった。
しかし、当の慧音はいきなり現れた咲夜に呼ばれて紅魔館に行っている。再戦してもばれないのではないだろうか。
だが、困ったことに輝夜の従者である永琳と慧音はそこそこ親しい。再戦したら、間違いなくばれるだろう。
そういえば、今日は永琳の姿も見なかった。いつもなら輝夜の後の方で何をするでもなく、ただ控えているはずなのに。殺し合いには手を出してこなかったから、妹紅は今の今まで気づかなかった。
そうこうしているうちに、慧音の家へとたどり着いた。主は不在なのだが、特に行く当てがあるわけでもない。しばらく待たせてもらうことにした。
「ん?」
扉を開けると、見慣れた物が置き去りにされていた。本来は慧音の頭の上にあるはずのそれが、今は囲炉裏の側で自分こそが主だと主張するかのように座っている。
「珍しいな、忘れていったのか?」
特に思い入れがあるわけではないらしいのだが、これを外して慧音が外に出るのを妹紅は見たことがない。
「……そういえば慧音の奴、かなり慌ててたな」
ひょっとしたら、何かとんでもない事態に巻き込まれているかもしれない。ただいつもなら、慧音自身で解決するだろうと妹紅も特には気にとめなかった。
しかし、置き去りされた帽子が嫌が上にも妹紅の不安を駆り立てる。帽子を拾い上げ、クルクルと回して弄ぶ。どうしたものか。
数瞬ほど考え、帽子を回すことを止めた。
「行ってみるか」
目的が決まったとはいえ、三人による会議はなかなか前へ進もうとしなない。
それもそのはず。原因が全くわからないのだ。
仮に薬が原因だったとしても、それが失敗作による予期せぬ効果だとしたら手の打ちようがない。それに、そうだとしても何かしらの作用がチルノの体内で起こったはずなのだ。
できれば薬以外の不審な物が湖から出てくれば対策が練り易いのだが、水質を調べても大気を調べても薬以外の不審な点は全く見あたらなかった。
唯一、魔力の流れが若干おかしな動きを見せていたが、これはチルノが暴走している為だとわかり、直接は関係ないことが判明する。
こうなると、残るはチルノを直接捕まえるだけだ。とはいえ、魔理沙を氷漬けにできるような相手と真っ向から戦うのは得策ではない。
「やはり咲夜に応援を頼むしかないのかしら」
「だが、できれば外部には漏らしたくないな。あの薬はあまり知られていい存在ではない」
「でも緊急事態なんだから、そうね永遠亭からの何人か救援を頼むべきかしら」
パチュリーの弾き出した計算によると、今のチルノの戦闘力は0.6八雲に相当するという。ちなみに、1八雲が八雲紫と同等らしい。
「考えたのだが、こういう時にこそ使うべきではないのか。あの薬を」
慧音の言葉にパチュリーは首を横に振った。
「駄目よ。少なくともチルノがこうなった原因の一つはあの薬よ。ここで薬を使ったとしたら、どんな効果が現れるかわからない」
「む、それもそうか」
幻想郷を脅かすほどの驚異が現れた時の為に開発した妖怪弱体化の薬。それが皮肉にも、一介の氷精を驚異に押し上げてしまうとは。そこにいる誰もが、笑うに笑えない状況に唇を噛みしめていた。
そんな時だった。紅美鈴が現れたのは。
「あ、あの……パチュリー様。ちょっといいですか」
「忙しいから駄目よ。話があるなら小悪魔に伝えておいて」
そう言ったものの、美鈴は図書館から出て行こうとしない。話が話だけに、出て行って貰いたいのだが、美鈴は何故か気まずそうな顔でこちらを見ていた。
仕方なく、パチュリーは話を聞いてあげることにした。口を開いたものの、美鈴は躊躇うように言葉を呑んだ。
だがやがて、ビルからビルへ飛び移るような勢いで言葉を吐き出した。
「湖の事について調べてるって聞いたんですけど、ひょっとして私の弄った地脈のことですか!」
疑問系の文章なのに感嘆符がつきそうな大声だった。
三人はしばし呆気にとられたあと、同時に口を開き、同じ言葉を美鈴にぶつけた。
「は?」
たった一文字の答えに、電流が流れたかのように身体を震えさせる美鈴。目には既に軽く涙が溜まっており、悪いことをして叱られる子供のように縮こまっている。
「で、ですから……この前の革命運動の時にお嬢様対策として地脈を弄ったのがバレたんじゃないかと……あれ、違うんですか?」
「ちょっと待って。あなた、どこの地脈を弄ったの?」
恐る恐る、美鈴は言った。
「霧の湖ですけど。水の上は操りやすいし、何よりお嬢様も近寄れないし」
机に突っ伏し、呻くようにパチュリーは呟いた。
「……減休一年」
美鈴の安息は音速で逃げ去っていった。
美鈴から聞いた話と、自分達の把握する限りでの出来事を総合して考えてみた結果、パチュリーはようやく事件の全体像が見えてきた。
まず、対レミリア用として美鈴が湖の気の流れを操る。かなり難易度が高い作業ながらも、そこは気を操る程度の能力。難なくこなしてしまったようだ。
パチュリーがそう評価すると、美鈴は照れたように微笑んだ。腹が立ったので殴った。本の角で殴った。
「そこへ我々の開発した薬が流入し、運悪く気の流れと同じように散っていってしまったというわけか」
悶絶する美鈴を視界に隅に置き、冷静に分析している慧音。
「いえ、おそらく偶然ではないでしょうね。おそらく美鈴が張った気の流れもレミリアの力を弱める作用があったんだと思うわ。そうでしょう、美鈴」
額を押さえながら、美鈴は涙目で頷く。若干頬をひきつらせた永琳が、馬鹿げてるとばかりに掠れた声で訊いてきた。
「それで、まさか弱体化する薬と弱体化させる気の流れが反発し合って、逆の性質に変わったとでもいうわけ? マイナスとマイナスがかけられたように」
「そうと判断するしかないわ。現状で影響を受けてるのがチルノ一人だから、おそらくピンポイントの地点のみの作用だと思うけど。なんにしろ、まずはその地点を破壊しておくこが先決ね。二体目が出てこられたら困るもの」
チルノ一人でも対応に困っているというのに、二人目が出ようものなら幻想郷の終焉もそう遠くはない。
「とにかく、原因は判明したことだし現場に行ってみましょう。ほら、行くわよ美鈴」
「え、私もですか?」
美鈴は不思議そうな顔で自分を指した。
「当たり前でしょ。いずれにせよ、気の流れを変えなきゃいけないのは間違いないんだから。あなたがやらなきゃ誰がやるの!」
子猫を扱うように、首根っこを掴むも体力の無さで逆に引っ張られるパチュリー。慌ててそれを受け止めた美鈴は、わかりましたとパチュリーをお姫様抱っこで抱えたまま図書館を出て行った。永琳と慧音も後に続く。
その不思議な四人組を見た咲夜は、先頭を走る美鈴に職務に戻れと注意することすら忘れ、ただただ首を傾げるのであった。
「魔理沙のことは放っておいて良いのかしら?」
素朴な疑問だったが、今や答える者は誰もいない。
浴場に置かれた中身入り氷のオブジェを脳裏に浮かべ、メイド長はしばし考えた後、お湯を沸かしに食堂へと向かった。
最初は無視しようと思っていた。
だけどいきなり攻撃されたので、撃墜してやろうと思った。
しかしその攻撃もことごとく封じられ、今では殺してやりたいとさえ思っている。
「ちっ、何なんだよコイツは!」
悲鳴にも似た声をあげながら、まさしく必殺の攻撃が妹紅の横を通り過ぎていった。氷柱の形をしたそれは、炎の羽を纏う妹紅に恐れることなく、弓矢のように飛んでくる。
一つならば、大して問題にはしない。数が多すぎるのだ、あまりにも。
両手では数え切れないほどの氷柱が、自分の五六倍の大きさをして迫ってくる。一回目や二回目は炎で溶かしていたものの、やがて数に圧されて避けることが精一杯になった。
ならばと、攻撃に転じてみても相手は微動だにせず片手を振り上げるばかり。しかし、それで妹紅の放った炎の鳥は役目を果たすことなく、その身を芸術的に凍らせていく。
五匹同時に出した炎の鳥を一瞬にして凍らされた瞬間、妹紅は自分の攻撃が通用しないのだと完膚無きまでに思い知らされた。
「……………………………」
それでいて、相手からは何の反応もない。これが頻繁に殺し合う輝夜ならば、惨めに逃げまどう妹紅に嘲りと愉悦に満ちた笑いをぶつけてくるだろう。それは妹紅の炎に油を注ぎ、更なる力を発揮させるのだ。
しかし、この相手にはそれがない。まるで、邪魔な石ころを蹴るかのように無造作に、それでいて攻撃対象は妹紅を明確に捉えている。
足下の凍った湖を最初に見たときは何事かと思ったが、今となっては目の前のやつが凍らせたのだと確信を持って言える。これほどの奴ならば、湖を凍らせることなど造作もないことだ。
「いい加減に……しろっ!」
裂帛の気合いと共に吐き出された炎の波は、降り注ぐ氷の雨を溶かし、発生源である青い少女へと向かった。指揮者がタクトを振るように腕を動かすと、またしても炎は氷へと姿を変える。
だが、これも予想していたこと。妹紅は氷となった波にあえて突っ込み、波にどでかい穴をぶち開け、氷精目がけて炎を纏った拳を突き上げる。
「……………………………」
湖面より蒼い瞳がこちらを向いたかと思うと、あろうことか少女は波を凍らせた腕をこちらに向けた。少女の顔や腕にまとわりついていた霜が、その動きで湖面にパラパラと雪のように舞い落ちる。
「馬鹿か、お前はっ!」
妹紅が振るう拳の炎は、これまでの物とは桁が二つほど違う。鳥の形をした炎はあくまで広い範囲への攻撃方法。凝縮した炎の一撃とは比べ物にならない。
まさしく妹紅のもてる全てを出し切った一撃と言えよう。自分の身体も熱と冷気でただでは済まないだろうが、不死であるがゆえにそれは大して気にならない。
「……………………」
妹紅の勢いがこれまでと違うのは、誰の目にもわかる。それでも、少女は何をするでもなく、ただ腕を妹紅に向けるだけ。冷気も氷も、そこからは出てこない。
「なめるな!」
鳥のクチバシの如く研ぎ澄まされた一撃が、少女の腕に真っ向勝負を挑みかける。
炎の先端が少女の腕に触れた瞬間、妹紅が我が目を疑った。
全てを出し切った一撃は、少女の冷気に一瞬にして敗北し、腕と共に砕け散った。
「な、な……」
言葉もなく、妹紅は消えた自分の右腕を凝視する。その刹那、腹部に鋭い衝撃が走った。
顔をおろすと、巨大な氷柱が自分の胸から下を貫いているではないか。胸からこみあげる血液を吐き出し、妹紅は力無く湖面へと落下していく。
そんな妹紅を見つめる少女の瞳には、勝利の喜びも生存に対する安寧も何もなく、無と表現するしかない感情だけが宿っていた。
凍った湖面に叩きつけられる間際、妹紅は少女と目が合い、久々に身体が震えた。
それは長らく忘れていた、恐怖という感情だった。
弱いことに劣等感はなかった。でも、悔しくて泣いた日はあった。
そんな悔しさも、友達と遊んだり、蛙を凍らせていたらいつのまにか忘れてしまう。
誰かを倒す力はなくとも、日々を楽しく過ごすことはできる。
橙やリグル達と遊ぶのは楽しかった。
レティが現れる季節までの日を、指を折って数えるのが楽しかった。
凍らせた蛙を道行く兎に見せて、泣きながら逃げるのを追っかけるのが楽しかった。
でも、今は――
足下に広がるのは広大な氷の大地。
落下していくのは氷に負けた少女。
そのいずれもが、自分のやったことである。
腕にまとわりつく霜が、何よりの証拠だ。
力など欲しくなかった。
こんな自分は大嫌いだ。
それでも、チルノにはどうすることもできない。
湖よりも、黒い少女よりも、何よりも真っ先にチルノが凍らせたモノ。
己の心は、少女の炎を持ってしても、溶けることはなかった。
「やっぱり、写真で見るのと現物とでは迫力が違うわね」
凍り付く湖面を見たパチュリーの第一声はそれであった。初見の美鈴も、同様に驚きの声をあげている。
壮観と言えるが、原因を考えると素直に感心ばかりしてられない。
「さて、どうするか。私としてはまず、その気の流れを変えてしまうことが望ましいと思うのだが」
「私も同感ね。薬をどうにかするのは不可能だし、この際魚への影響は目をつぶるとしましょう。でも、薬と気による反作用だけはどうにかしなくてはならないわ」
慧音と永琳の言葉に、パチュリーも頷く。しかし、この三人が集まったとしても気の流れに関してするべき事はない。ただ、命ずるのみである。
「というわけで美鈴、気の流れを元に戻しなさい」
「いやぁ、これは無理ですね」
即座に返された答えにパチュリーは納得したとばかりに首肯するも、すぐに表情を怒りに変え、本を弾丸に見立てて発射した。額に命中した。
「無理ってどういうことなの! これはあなたが弄ったものでしょうが!」
「いや、我々にも責任はあるわけで……それにそんなに怒ったら身体に差し支えるぞ」
慧音に静止されるものの、パチュリーの怒りは治まらない。そんな様子を見て、美鈴が慌てて弁解を始めた。
「そりゃあ湖が正常な状態だったら、私だって責任を感じてますからすぐに戻しますよ。でも今は無理です」
「例え湖が物理的に凍っていても、気の流れには影響しないんじゃないの?」
永琳の問いかけはもっともだ。しかし、美鈴は気まずそうに答えた。
「ただの湖なら問題はないんです。でも、今の湖にはパチュリー様達が作った薬が混ざっているんです。多分、最初は気の流れが薬の動きを操っていたと思うんですけど、今は逆で薬が気の流れを固定しているんです。だから、気の流れを操るにはまず湖をどうにかしないと」
「氷が溶ければどうにかなるの?」
「薬の流れをかき回すか、あるいは薬と気の流れが反発しあってる点を物理的に破壊すれば解決すると思います。せめてその点から薬を取り出さないと駄目ですね」
「凍ってることが裏目に出たな。ところで、チルノの方はどうすればいいのだ? その地点を破壊したからといって力が戻るわけでもないだろう」
慧音の疑問に、美鈴は必要以上にボリュームのある胸を張った。
「その点は安心してください。おそらくチルノちゃんの強さはその地点から供給されているんだと思います。だから、破壊さえできれば力は元に戻るはずです」
「なんだ、結局は力任せか。妹紅を連れてくるんだったな」
「まぁ、それよりも湖が普通だったら適当に湖面をかき回すだけで終わりなんですけどね」
美鈴の最後の一言に、それまで暴れていたパチュリーが急に大人しくなる。何か考え込むような仕草でうつむき、恐る恐るといった感じで顔をあげた。
「もしも、意図的に湖を凍らせたとしたら?」
ただでさえ静かだった湖畔に、更なる静寂が舞いおりる。ただ美鈴だけは意味がわかっていないようで、静かになる周りを小動物のように見回している。
「湖からの力の供給を永続的なものにするために、チルノがあえて湖を凍らせたのだとしたら。果たして、彼女は私達のことを見逃してくれるかしら」
「え、でもチルノちゃんは暴走してるんですよね。だったらそんな事に拘るとは思えないんですけど」
美鈴の言うことにも一理ある。パチュリーの話は仮説の域を出ないし、チルノにそれだけの力を扱える器があるとも思えない。暴走しているのは間違いないはずだ。
それでも、パチュリーの胸には何か言いようのない不安があった。数多の書物から得た知識と経験が、パチュリーの思考しない部分で働いているのかもしれない。
そのメカニズムはさておき、こういった不安がする時は大抵ロクでもないことが起こる時である。
「まぁ、不安もあるだろうが今は解決に専念するとしよう。とにかく、その地点とやらを探して破壊すればいいんだな」
「といっても、その地点を見つけるのは簡単ですよ。気の流れが特に強い所が一カ所だけありますから、多分そこです。問題は、これだけの氷をどうやって破壊するかです。気の流れもありますから、並大抵の弾幕じゃ傷つきませんよ」
美鈴が言うには、レミリアなら壊せるはずだと言う。つまり、それぐらいの実力がないと壊せないということだ。
生憎とここに集まった四人には、そこまで凄い力はない。唯一、永琳が可能性を秘めているものの、美鈴曰く五分五分だそうだ。
せめて魔理沙のマスタスパークか、氷と相性のより炎を使える妹紅がいればどうにかできたと言う。しかし、魔理沙は既に氷漬けになっているし、妹紅は永遠亭に出かけていないらしい。
こうしていてもらちが明かないと、四人はとりあえずその地点とやらに向かうことにした。
「館に戻ってレミリアを連れてくる? 多分、こんなことじゃ動かないと思うけど」
淡々と言うパチュリーに、美鈴が苦笑いを浮かべる。
「それよりも先に巫女が出張って何もかも解決してくれたら楽なのだがな。今日ほどそう思った日はない」
「無理よ。少なくとも薬と気の反発を抑えないことには解決しないわ。今のチルノはコンテニュー無限よ。さしずめ、仮染の不死と言ったところかしら」
不老不死の永琳の言葉なだけに、その言葉には皮肉と苦労がふんだんに盛り込まれている。
先の見えない会話を繰り返しているうちに、四人は全ての原因である地点へとたどり着いた。恐ろしい力が渦巻くとはいえ、感じられるのは美鈴ばかり。
景色としては他の地点と大して違いもない。
そのはずだった。
「妹紅!」
まず目についたのが、氷の上に横たわる藤原妹紅の無惨な姿。まるで巨大な槍で突かれたように、下半身に大きな穴が空いている。
その姿を目にし、慧音が血相を変えて飛んでいった。しかし、残る三人は微動だにできない。
湖面を名前と同じく紅に染める妹紅の上で、何をするでもなく淡々と浮き続ける一人の少女。
いつもの脳天気な外見と違うのは、無感情な顔つきと瞳、そしてまとわりつく霜だけ。後は全て、いつものチルノと大差ない。
そのはずなのに、少女が放つ圧倒的な雰囲気が戦意を徐々に失わせていく。
「失念していたわ。暴走にも二種類あるってことを」
思わず漏れだしたパチュリーの言葉に、反応するものは誰もいない。
「激しい暴走と静かな暴走。激しい暴走は力こそ凄いものの、考えることを放棄しているから動きが単純になる。静かな暴走は理知的に動けて力が長続きするものの、瞬発的な力で劣る」
しかし、今のチルノには無尽蔵に力が送り込まれていく。
すなわち、静かな暴走と激しい暴走の長所だけを取り込み、短所を取り除いているのだ。
「舐めていたわね……これは勝てない」
その敗北宣言に、異論の意を唱える者は誰もいなかった。暴走する氷精を前にして、皆の気持ちは一つしかない。
この存在に勝つことなどできない。
戦意すらも凍らされてしまったのだ。
お湯では歯が立たなかった。
思ったよりも氷は分厚く、そして手強い。ノミやナイフで削ろうともしたが、そちらも文字通り歯が立たなかった。
まるでダイヤモンドの結晶である。
後は溶けるのを待つか、圧倒的な力で破壊するしかない。
後者を選ぶとすれば、妹様ことフランドールの元へ持っていけば即座に解決する。氷の中身をいたく気に入っているフランドールなら、喜び勇んで破壊してくれることだろう。
ただ一つの欠点があるとすれば、中の魔理沙も一緒に砕けるということだ。
となれば、残る選択肢は一つしかない。
「とはいえ、これが全部溶けるのはいつの日になるのかしら。少なくとも一年以上はかかりそうね」
熱気に溢れる浴場にあっても、その氷は微々たる量しか溶けていかない。その様子を見る限りでは、おそらく咲夜が老婆になった頃に魔理沙が脱出できる見込みになる。
そうなっては、パチュリーもフランも悲しむだろう。そんな二人を咲夜は見たくなかった。
それに、本を盗む者がいなくなるのは良いことだが、寂しくなるのも事実だ。
仕方なく、咲夜は氷の表層から順に時間の流れを操ることにした。そこだけ時間を急激に早めれば、溶ける速度が上がるということだ。
ビデオの早送りのように、みるみるうちに氷は小さくなっていく。しかし、気を付けないとうっかり魔理沙の時間を操ろうものなら瞬時に老婆になってしまう。
その点にだけ気をつけながら、数分後、魔理沙を老婆にすることなく、無事に取り出すことができたのだ。
「おわっ、なんだ! もう夏か」
浴場の熱気を肌で感じ、急激な温度の変化に魔理沙は驚いた。
「ここは常夏だけど外は相変わらずの冬よ。それよりも、どうやったらあんな芸術的な姿になれるのか教えてもらえる?」
「冷蔵庫にでも入ったらどうだ。モデルが良ければ私以上の芸術作品になれるぜ」
そう言いながら顔を合わせようとしない魔理沙。その態度で、咲夜は魔理沙が話をはぐらかそうとしている事に気が付いた。
どうやら凍った原因についてはあまり触れられたくないらしい。
ホウキの水気を払い、魔理沙は帽子をかぶり直して浴場から出て行こうとする。原因を問いつめたかったが、訊いても答えないだろうから止めた。
脱衣場への扉に手をかけたところで、ふいに魔理沙が振り向いた。
「パチュリーは何か言ってたか?」
突然の質問に咲夜は目を丸くした。そして慌てて記憶を探るも、伝言は受け取っていない。
「いいえ。ただ、何か凄く慌ててはいたわね」
それが自分の持ってきた魚の弱体化に関することなのか知らないが、あそこまで慌てたパチュリーを見るのは久しぶりのことだった。
魔理沙はしばらくの間だけ動きを止め、
「そうか」
とだけ言い残して浴場を去っていった。
対抗策と思っていた妹紅の敗北。それはパチュリー達に想像以上の絶望を与えることとなった。
これはもう悠長な事を言ってる場合ではない。レミリアなり紫なりをテコでも使って動かさない限り、目の前の少女を倒すことなどできるはずがない。
かつて、これと似たような雰囲気をパチュリーは味わったことがある。
一度だけ目にしたレミリアの本気。その時に放っていた雰囲気こそ、まさしく今のチルノが放つそれと瓜二つだった。
殺気すら超越した圧力に、誰もが動くことすらできない。妹紅の側に駆け寄った慧音も、息絶え絶えの妹紅を抱きかかえ上空のチルノを睨むばかり。
せめてもの救いは、チルノにも動きがないことだろうか。
「悪い予感はあたったようね。どうやらチルノは意図的に湖を凍らせたようよ」
声を出してから、パチュリーは自分が震えていることに気がついた。
「どうやら力の発生源を守っているみたいね。防衛本能とでも言うのかしら」
「で、でもチルノちゃんがそうする意味は……」
美鈴の声をパチュリーは遮る。
「防衛本能が働いているのは、チルノを暴走させている力の方よ。だから自分が永続的に働くように湖を凍らせた。おそらくチルノ本人の意志なんて、とうに封じ込まれているでしょうね」
「そんな……」
一切の説得は通じない。なにせ、相手はチルノの姿を借りているだけで本体は純粋な力なのだ。防衛本能があるとはいえ、意志が伝わるとは思えない。
ただ、自分に危害を加えようとする者には容赦ない。妹紅はただ力の発生源の近くを飛んだだけ。それなのに、チルノは妹紅を撃墜させた。どこまで発生源に近づけば攻撃してくるのか不明だが、迂闊に近寄ることはできなくなった。
「どうするのパチュリー。ここは一度撤退して改めて対策を練るのが一番だと思うけど」
現状ではそれが一番のように思えた。苦渋の選択だが仕方ない。
パチュリーも同意しようかと思ったとき、唐突に美鈴が「あ」という間抜けな声をあげた。
「どうしたの、美鈴」
「ち、力の発生源の位置がずれました」
恐る恐る告げられた言葉に、パチュリーは息を呑んだ。
「なんですって!」
「ほんの数メートルですけど、ちょっとずれました。それも、こちらよりに」
その意味を悟り、恐々と顔をチルノに向ける。無感情な瞳は相変わらずだったが、右腕はゆっくりとこちらに向かって振り上げられている。
「て、て、撤退!」
パチュリーの言葉を合図に、永琳も美鈴も、妹紅を抱えた慧音も、それぞれの全速力でチルノから離れる。
にも関わらず、チルノは執拗にパチュリー達を追いかけてきた。手からは次々と非常識な大きさの氷柱が作られ、弾丸のように飛んでくる。
「発生源から離れてるのに、なんで攻撃してくるんですか!」
「わからないわよ!」
一度攻撃対象として捉えた獲物は逃さないのか、それとも何か別の理由があるのか。命の危機でなければ、それについてじっくりと考えていたことだろう。
鋭い唸りをあげて、頬のすぐ隣を氷柱が掠めていく。振り返りざまにアグニシャインを放つものの、児戯だと言わんばかりに瞬時に凍らされていく。足止めにすらならない。
このままでは追いつかれしまう。パチュリーの頬に嫌な汗が流れた。
と、いきなり美鈴が前へ飛ぶことを止め、チルノが迫る後方へ向き直った。
「多分、このまま逃げ続けてもいつかは追いつかれます。だから、私が囮になってチルノちゃんを食い止めます。その隙に、パチュリー様は発生源を何とかしてください」
普段の暇そうな態度からは想像できない美鈴の力強い言葉。しかしながら、身体は若干震えていた。
恐怖を押さえ、気丈に自分達を守ると言ってくれている想いを、どうして否定することができようか。
パチュリーは多くを語らず、ただ「頼んだわ」とだけ伝えた。
たったそれだけの言葉だったが、美鈴にとってこれほどまでに頼もしい言葉はなかった。
「戻るわよ」
「だが、どうする。我々では発生源を壊すことはできないし、妹紅もこの有様だ」
慧音の言葉に嘘はない。現状を的確に捉えた、とても残酷な言葉ではあるが。
それでも、このまま何もしないわけにはいかなかった。
「だったら私が賢者の石で増幅させたロイヤルフレアをぶち込むわ。一度じゃ無理でも、何発か喰らえば氷だって溶けるはずよ」
「だけど、そんなことをしたら体力が持たないでしょう」
「それでも!」
自分にあるまじき熱い言葉。顔色は依然として悪いし、体調だって優れない。
だが、託された責任を放棄することだけはできなかった。
「何とかするしかないでしょう。ここにはレミリアも霊夢も紫もいないんだから」
誰も解決する者がいない以上、頼れるのは己と仲間のみ。美鈴が囮になるというのなら、自分にできることは一つしかない。
パチュリーはそう言うや否や、発生源の方へと飛んでいった。
「まぁ、今回の事件は自分の製造物が引き起こしたことでもあるし。責任はとらないと問題よね」
「妹紅をこんな目に遭わしてしまって、それで自分は何もしないというのも酷だ」
そんなことを呟きながら、二人はパチュリーの後を追う。全てを解決するんだという、決意を胸に秘めながら。
格好良いことをいったものの、何か対抗策があるわけではない。有体に言えば、無策だった。
幸いにも氷柱の速度は咲夜のナイフよりも遙かに遅く、数も少ない。避けることは苦にならなかった。その点は咲夜に感謝してもいい。
しかしながら、相手は弾数も残機も無限にあるという半ば化物みたいな存在である。持久戦に持ち込めば、いつかは自慢のスタミナも切れる。
「ひいっ!」
現に僅かではあるが、次第に動きが鈍くなってきた。だが、美鈴に託された任務はチルノを倒すことではない。
あくまで、ここに引き留めておくことだ。
そう言った意味では、持久戦はむしろありがたいと言ってもいい。
「…………………………」
無機質な瞳が美鈴の動きにそって、上下左右に動いている。
普段のおてんばな姿を知っているだけに、機械的なチルノは美鈴の心を酷く揺さぶる。できれば早く元に戻してあげたい。
だが、自分のできることと、すべきことを混同してはいけない。美鈴がすべきことは囮役。それを全うすべく、美鈴はただただ必死に弾幕を避け続ける。
「とはいえ、さすがに疲れますね……ってあれ?」
気が付くと、あれほどあった氷柱が空中から消えていた。そしてチルノの姿も。
まさかパチュリー達に気がついたのか。焦燥感が募ってくるが、奇妙な気の流れを感じ取り、上空を見上げた所でチルノを再発見した。
数多の氷柱を作り上げた右手にはいま、まるでレミリアのグングニルを模写するかのような氷の槍が握りしめられていた。
もしも、あれがグングニルの模倣だとしたら。本物に劣るとしても、その速度はメイド長のナイフの比ではない。
美鈴は構えるよりも速く、無情な右腕はいとも容易く振り下ろされた。
想像は運悪く当たり、美鈴は受け流す暇もなく、氷の槍の餌食となった。
名前は知らないが、炎の鳥を作った少女がとても強いことをチルノは知っていた。
名前は忘れたが、中国っぽい少女がそれなりに強いことをチルノを知っていた。
でも、その二人は自分の力の前に敗れてしまった。
氷の大地からもうもうと巻き上がる氷の欠片の霧を見ても、チルノの瞳には何の感情も宿りはしない。
ただ、チルノの心は必死に止めてと叫んでいた。
しかし、その声はどこにも届かず、ただただ起こる惨状を眺めるしかない。
いつしかチルノ声は、止めてではなく、助けてへと変わっていった。
しかし、その声も届くことなく、制御しきれない力はやがて自分の発生源に危機が迫っていることを感知した。
それはチルノにとって、このうえない朗報だった。
だが、自分が知ってしまったからには、きっとその人達も倒される。
朗報を知るということは、同時に悲劇の始まりでもあるのだ。
呼吸はとうに切れていた。飛ぶのも辛く、身体は氷の上にあった。
それでも、パチュリーは何度目かのロイヤルフレアを撃ち込んだ。多少は削れているものの、破壊にはまだ遠い。
慧音も永琳も全力を出しているものの、相性が悪いのか氷はあまり削れていない。
「やっぱり火に属する攻撃じゃないと、あまり効き目がないようね」
珍しく息の上がった永琳の言葉を返す余裕もない。もしも上手くいったとしても、一週間以上寝込むことは間違いない。
いっそ自分も発生源から力を貰えればと思ってしまう。しかし、そうなれば自分とてあれだけの力を扱う器ではない。暴走する人が増えるだけだ。
再びロイヤルフレアを放とうとパチュリーが準備を始めたところで、見えてはいけないものが見えてしまった。
蒼空を飛ぶ、一人の少女。
その少女がこちらに来てしまったということは、すなわち美鈴の敗北を意味する。そして、自分達の敗北も。
「永琳、何か策はある?」
「逃げる以外にあると思う?」
万策尽き果てた。まさにその言葉を象徴するかのような状況だ。
自分を支えていた何かは、音を立てて崩れていった。もう、どうすることもできないのか。
諦めきっていただからだろうか。パチュリーにはその姿が酷く頼もしく、そして最後の希望のように見えてしまった。
遠く、チルノの遙か向こうから飛んでくる黒い影。
「魔理沙……」
霧雨魔理沙はまだ諦めていなかった。
今日の空は、いつもよりも寒い。
疾走するホウキにまたがりながら、魔理沙は目標を発見した。案の定、その近くにはパチュリーや永琳達もいる。
チルノが隠された力に目覚めたのでないとしたら、恐らくパチュリー達が関わっているのだろうという推測は見事に当たったようだ。
「ビンゴ賞でも貰いたいとこだが、先にやらなきゃいけないことがあるんだよな」
こちらを凝視するチルノ。紛れもなく、先程自分が負けてしまった相手である。
チルノは魔理沙に向かって腕をあげるが、それよりも速く魔理沙は懐からスペルカードを取り出して発動させた。
無数の星が辺りに撒き散らされ、飛んできた氷柱を細かく刻んでいく。その星々の間を器用にすりぬけ、驚異の速度で魔理沙はチルノへと迫った。
「……!」
無感情のはずの顔が、僅かに動いた。飛んでくる氷柱の数が増えてくるも、魔理沙はそのことごとくを避けた。
そしてチルノに数メートルと迫り、接触するかと思われたが、魔理沙はまるでチルノを無視するかのようにその横を通り過ぎていった。
「魔理沙!」
下の方からパチュリーの声が聞こえてくる。そちらに顔を向けることなく、魔理沙は思いきり振り向いてミニ八卦炉をチルノに向けた。
「マスタースパーク!!」
あのままだったらパチュリー達がいるから撃てなかったからこその、すれ違い様のマスタースパーク。
圧倒的な火力はチルノを飲み込み、姿すら確認させてくれない。
「さすがにこれは効いただろ」
火力の蹂躙が治まったとき、そこにはチルノの影も形もなかった。吹き飛んだのかと思いきや、氷の大地にその姿があった。咄嗟に避けていたらしい。なんという反射神経か。
驚きはそれだけではない。チルノの右手には、透明な氷の槍が握りこまれていたのだ。
前回の戦いのときに、その恐ろしさは存分に味わった。咄嗟にホウキを操るものの、とてもじゃないが間に合わない。
そして放たれた非情の槍。空気を切り裂き、魔理沙に向かって一直線に突き進む。
伝説の名を冠する氷のグングニルはしかし、横から襲ってきた同一の存在によって見事に方向を逸らされた。誰もいない方向へ、愚直にもグングニルは突き進んでいった。
「油断しすぎですよ。なんで紅魔館に侵入する時の方が真剣なんですか」
もう一本のグングニルが飛んできた方を見ると、そこには見当違いの怒り声をあげる美鈴の姿があった。服は追いはぎにあったかのようにボロボロだったが、傷はそれほどない。
「よくあれを撃ち落とせたな。見直したぜ。だから今度からは本気で門を破ることにしよう」
「やめてください!」
本気で悲痛な声をあげる美鈴だったが、今は長く相手をしている暇はない。チルノの手には二本目のグングニルが握りしめられていた。
「魔理沙! あの地点に思い切りマスタースパークを撃って!」
そう言ったのはパチュリーだった。指さす方向には何もない。
「何でだ? あそこに撃ったらボーナス点でも貰えるのか?」
「ボスの弱点だからよ。だからこそ、お願い」
パチュリーがそういうからには、本当なのだろう。魔理沙はずり下がり気味の帽子を直し、持てる限りの最高の速度でその地点へと向かった。
させまいと放たれた二本目のグングニル。しかし、それも魔理沙を捉えることはできない。
炎の鳥が、氷の槍を飲み込んだ。
「……これで……借りは返したぞ……」
それは酷く弱った言葉だったが、とても満足そうだった。意識を失う妹紅を、慧音が優しく抱き留める。
その間に、魔理沙は発生源までたどり着いていた。チルノを暴走させる力にとって、それは最大の危機である。
無感情など捨て去り、必死の形相で発生源へと飛ぶチルノ。
しかし、その口から漏れた一言は全く逆のものであった。
「撃って!!」
「ははっ、霧雨魔理沙さんに任せときな!」
巫山戯た口調と共に吐き出された、視界を奪う白い閃光。それは固く凍った湖面を破壊し、チルノの心も解放したのであった。
それからしばらく。
まるであの事件など無かったかのように、幻想郷はいつも通りだった。
チルノは元気に遊んでいるし、三人組はまた何か企んでいるようだし、妹紅も変わらず輝夜に挑んでいる。
魚の質に関してはどうすることもできず、紅魔館ではしばらく魚類が食卓に並ぶことはなかったが館の主人は大して気にしなかったそうだ。上質の血さえあれば、それでいいらしい。
美鈴の休憩剥奪がパチュリーの温情により免除されたぐらいで、後は至っていつも通りだった。
しかし、幻想郷とはそういう所である。
変わらないもの代表ともいえる魔理沙は、今日もお気に入りの岩の上で日光浴を楽しんでいた。
冬の風は厳しいものの、たまには温かい日だってある。幻想郷も全く同じ。
厳しい時もあれば、温かい日だってあるのだ。
大切なのは、流されること。
流されているうちに、次第とやるべきことが見えてくる。その辺を、何にも影響されることのない巫女にも考えてもらいところだが。
そんなことを考えていると、ふいに霊夢の容れたお茶が飲みたくなった。
「思い立ったが大吉だったかな」
暗幕代わりの帽子をどかし、身体を起こす。ちょっとした違和感を感じ、目をこすってみた。不思議なことに、そうしてみても周りの視界は一向に冴えない。
夜雀の影響かとも思ったが、歌声は耳に届いてこない。だが何にしろ、異常事態であることに代わりはない。
「次はルーミアあたりだな」
楽しそうにそう言いながら、傍らに置いてあったホウキを手にとる。そして視界の悪い空へ向かって、ロケットのように飛んでいった。
霧雨魔理沙の日常は、今日もこうして始まっていくのである。
ルーミアはやっぱ普通にEXモードになるんですかねぇ~
幻想郷始まったな、弾幕少女よ永遠に
なんて終わらせさせる気は毛頭無い、良いぞもっとやれ
良いぞもっとやれ。
>怒り声をあげる美鈴の姿あった→姿があった
続きをお待ちしています!