「なあ、お客さん」
声に振り向くと、そこには血のように赤い髪の女がいた。少しばかり金を持った家柄の、気っ風の良い一人娘といった風体の少女だ。白の服の上から紺青色の羽織を被り、腰元に白布を巻き銅銭を一枚付けている。そして、その手には明らかに異質な、巨大な挙句に畸形にねじ曲がった鎌が握られていた。
さながら絵巻物に出てくる死神を半端に真似たかのような少女は、つと視線の向きを変えた。遠くが見通せないほどに広い川、その向こうへと。
「まだ渡らないのかい? ……こっちとしては、とっとと渡ってもらわないと仕事にならないんだがねえ」
自身、さして困ってなさそうな口調でそう言うと、手近な石の上を手で払い声を立てて座り込む。
薄靄が立ちこめていた。空も、川も、道も、その向こうが朧に霞む世界の中、少女はこちらをじっと見つめている。
どうやら返答を待っているようだ。そう見当を付けると、溜息交じりに言葉を返す。少女というよりその手中の鎌を見ながら、
「そう言う割には……先程から、あまり熱心に仕事をしているようには見えないのだが?」
逆に返した問いに、少女はにやりと笑った。決して嫌味な笑いではなく、豪放といった表現がよく合う笑み。それから一呼吸の後には、大口を開けての笑いの声も来た。
「あっはっは! ぼんやりと座り込んだまま、何をするでもないお客さんに言われるとは思わなかったよ。……いや、今日はあたいにしては随分と働いてる方さ。ほら、こうやってなかなか渡ろうとしないお客さんを熱心に説得しているところだ」
どうだかな、と言葉を返す。少女の言葉遣いは明らかに乱暴だったが、それは単純に邪気が無いからこそ出てくる直情的なものであり、含みや図りとは無縁である。
礼節も遠慮も無い少女の態度に、しかし不思議と悪い気は抱かなかった。
じゃらり、という砂利を擦り合わせるような音。見れば、少女が手の中で小さな巾着を弄んでいた。音はその中から聞こえ、その巾着に恐らく銭が入っているであろう事が窺えた。
「お客さんからはもう、貰うもんも貰った。あんたは金を渋りもしなければ、礼儀に欠けてもいなかった。見たところ、この銭の重さの示すところ、徳の無い人間って訳でも無さそうだ。渡るってんならすぐにでも向こう岸まで着ける」
少女の言葉に苛立ちなどは無く、単純にこちらを気遣ってのものだという事が分かった。基本的に気さくな性格らしい。
だがその言葉には頷かず、少女から視線を外し、元々見ていた方へと向き直る。薄靄の向こう、川のある側とは反対。川縁で何をするでもなく座り込んだまま、そちらをじっと見つめ続ける。
「……すまんな、もう少しだけ待たせてくれないか」
と、少女の雰囲気が変わった。気遣うような気配から、怪訝なものへ。
「……あんた、ひょっとしてとは思うんだが……生き返りでも信じてるのかい? 稀にいるんだよ、そういう輩が。死んだって事が分かっても、何か奇跡みたいなものでも信じてそういうのを待つ者が。死と生は陸続きなものじゃあない。言ってみれば、雲上の社と大地みたいなもんだ。一度落ちてしまえば、もう社に戻る事は適わない。普通の人間は、空なんて飛べないからね。だが、時に死んでからも、自分が飛べるという幻想を抱く人間がいて困る。ある種、そういうのが一番質が悪いんだが」
「いや」
やや説教じみた少女の言葉を、素直に否定する。
「確かに自分は死んだ。そして、恐らくは裁きを受け、転生を待つ身なのだろうな。その位は、こんな所にいれば分かる。しかし、もう少しばかり待って貰えないか……ただ、人を待っているのだ」
薄靄の向こうから、何者かが近付いてくる気配。一瞬の淡い期待を抱いて見ていたが、残念ながら待ち人ではなかった。見た事もない老人が、遠くの川縁へと歩んでいく。そして、やはり畸形的な鎌を持った、眼前で石に座っている少女とは別の若竹色の羽織の少女と何事かを話し始めた。
老人はやがて懐から巾着を取り出し、まるでその重さに驚いたかのような表情を見せた後、躊躇う風も無く若竹色の羽織の少女へと手渡した。少女は一度頷くと、川縁に停めてあった一艘の小舟へと老人を案内した。
そして少女が竹竿を持ち、人力で渡し船を漕ぎ始める。船は幾許かの時間の後、霧の向こうへと消えた。
「普通は、大体ああやってすぐに船に乗るもんだ。さして渋る事も無く、な」
言って、少女が辺りを見回してみせた。薄靄に覆われた世界は、彼岸と呼ばれる彼方の岸だ。
「待ち人って言うからには……お客さんと前後して死ぬ人なのかい? まさか、単純にその人の寿命が尽きるまで待とうって言うんじゃあ無いよな? さすがにそこまで待ってると、あたいより先に閻魔様がお怒りになる」
ぶらぶらと、足を前後に振りながら少女が言う。
この鎌を持った少女は、死神だ。といっても、今はただの船頭だが。本人がそう自己紹介した訳ではなかったが、見た途端に理解出来た。あらかじめ、総ての人が無意識に知っている存在なのかもしれない。
ともあれ、その死神の少女が質問をしてきている。答えを考え、虚空を見、
「……戦があったのだ」
ぽつりと言った。
突然話題を逸らされた事に少女が怒るかもしれないとも思ったが、どうやら話をする事自体が嫌いでは無いらしく、少なからず死神の少女はこちらの話へと興味を持った様子だった。振っていた足を止め、鎌を地につけ聞く姿勢を整えた。
「自分はその戦に参加したのだ。敵は多勢だった。何百いたのかも知れない。対する味方は、せいぜい村一つ程度の規模の人数しかいなかった。勝敗など、最初から決まり切っていたようなものだ……そして」
霞む空を、振り仰ぐ。待ち人の事を、大事な人の事を思い浮かべる。
「自分は……約束を守れなかったのだ。守りきると……例え現世にいようと、隠世にいようと、共にいると……そう約束したというのに」
「……大事な人を置いて、自分だけが先に逝ってしまったって訳かい?」
さすがに察しが良く、少女が話の先を繋げた。まさしく言うとおりだったので、首肯を一つ。
「あの敵勢だ……考えたくはないが……恐らく、保つまいと思う。生きているのに越した事はないが……もしも、こちらに来たとしたら」
再び、頷く。今度は少女に対してというより、自分に対して。
「今度こそ、共にあろうと思う」
隣の少女へと視線を戻す。茶化すでもなく、嘲るでもなく、少女はこちらの話に静かに聞き入っていた。
「なるほどねえ……。ありふれた約束だが、確かにお客さんのその表情は……本物だ。……よっと」
掛け声と共に、少女は石の上から身軽に飛び降りた。手中の巾着を軽く上下させ、
「宵越しの銭はもう頂いたんだ。一晩を越す程度の時間は、待ってやらないといけないな」
だが、と言葉を繋ぐ。少しだけ目を細め、眉を立てる。険しい表情。
「そろそろ……お客さんのいた辺りでは、夜が明ける頃合いだ。あんたが来てから過ぎた時間は、もう随分と多くなる。正直、こういう事は言いたくは無いんだが……」
少女は初めて言葉に詰まった。それまで常にさばさばとした態度だっただけに、その変化は顕著だ。
暫く言葉を選んでから、少女は言いにくそうに口を開いた。
「その待ち人というのがここまで来ないとすると……、理由は幾つか考えられる。なんとか勝利したか、逃げ延びたか、……或は、……生け捕りにでもされたか」
「……」
少女の言いたい事は、分かる。
「……確かに、少々長居し過ぎたか」
言って立ち上がるこちらを、少女は本当に申し訳なさそうに見てくる。
ここまで待っても来ないのだ。何とか助かったと、そう思いたかった。
「……すまないね」
それ以上は言葉もなく、連れだって歩き出す。川縁に停められた、一艘の小舟へと。
少女が先に小舟へと乗り、備えてあった竹竿を手に取る。従い、小舟の中へと乗り込む。
「あんたはどうも、名家と縁でもあったのかな。相当に金を持っていたじゃないか。死後の財産は己の財産ではなく、自身を慕ってくれていた人間の財産の合計だ。その点お客さんは、随分人に慕われていたようだ。……船旅はそう長くないだろう」
船出は静かに行われた。人力船だというのに、船頭が手慣れているためか存外早い。あっという間に川縁から離れ、霧の中へと入っていく。
「この三途の川はな……川幅や深さが定まっていないんだ。いつだって、まるで人の世のように目まぐるしく変化している。まあ、変化させてるのは主にあたいなんだが」
霧の中でも少女の操船に淀みはない。行き先を見失わず、真っ直ぐに進んでいく。
「お客さんの場合は、かなり短いだろうね。人によっては数日経っても辿り着かせないんだが、今日はあたいの心ばかりの便宜だ。……ほら、もう対岸が見えてきた」
唐突に霧が晴れると同時、呆気なく岸が見えた。少女は静かに竹竿を動かし、小舟を岸へと着ける。
と、岸に立ちこめた薄靄が揺れ、到着した岸の向こう側から気配が近付いてくる。
霧中の姿が見えるより早く、言葉も来た。
「……まったく、いつまで経っても連れて来ないと思ったら……」
「え……!」
聞こえた声に聞き覚えは無かったが―――何故か、後ろで死神の少女が震え上がるような気配を発し、突然狼狽え始める。
「え、そんな。何故、こんな所まで。あ、いや……きょ、今日は割と真面目にやってますって! 確かに多少話し込みもしましたけど、川幅も短かったですから、いつもと大して変わってないですって!」
先程までの肝の据わった態度を何処へかなぐり捨てたのか、見ていて情けなくなるほどの慌てぶりを晒す。
だが、薄靄の中の声は僅かに苛立った様子を隠そうともせず、
「……いいですか、小町。あなたにとってのいつも通りは、即ち怠慢なのですよ。あなたは普通が遅いというのに、それと変わらないというのは……、もう遅延以外の何物でもありません」
「あぁぁぁ、すみませんすみません!」
恥も外聞も無く、死神の少女―――小町が平謝りを始めた。
その矛先の声の主が、やがて薄靄の中から姿を顕した。
風変わりな格好の少女だった。体躯こそ大きくない、年端もいかぬ少女といった風体。しかし、纏っている雰囲気がどこか風格と威厳を漂わせていた。階位の高さを匂わせる、装飾性に富んだ道服と冠。
―――閻魔様。
脳裏に、その単語があまりにも自然に浮かんだ。
自然に圧倒され押し黙っていると―――新たに顕れた少女の視線が、こちらへと向いた。
閻魔。死者の罪を裁くと言われている、人の世の最も初期の死者である神。
その閻魔と思しき少女が見せた表情は、しかし柔和な笑顔だった。慈愛に満ちた、人間味の強い微笑み。
「ようこそ、死者を裁き、転生の輪へと送る地、彼岸へ。……しかし、あなたの行き先は夜摩天でも、冥界でも、……ましてや地獄でもありません」
その言葉に反応を示したのは、こちらではなく小町だった。
「え……四季様、それは一体……」
小町の問いかけに、閻魔と思しき少女―――四季は答えない。ただ、黙ってこちらを指さしてくる。
正しくは、こちらではなく、その更に後ろ。川縁に立つ自分からすると、丁度川の辺り。
そこには、先程まで無い物があった。
それを見た小町が息を呑む音が、鮮明に聞こえてくる。続いて、四季が静かに語りかけてきた。
「……見えますね? その下り階段が。その先が何処へ通じているのか、どういう事なのか、それは残念ながら言えませんが……。しかし、これだけは言えます。あなたの行き先は、間違いなくそこです」
川縁に突如として顕れていたその下り階段は、川に浸かっている筈だというのに、丁度その位置だけ水が避けているかのように隙間が出来ていた。
「この階段……は……」
急下りな階段の先は見えない。まるで、それこそ地獄の底―――奈落に通じているかのような印象さえ受けた。
「振り向かないで。何も考えず、その階段を下りるの。……大丈夫、決して悪い事にはならないわ」
四季という少女の声が、こちらを突き動かす。何故かは分からないが、無心のうちに従い足が動き始めていた。
「あなたは未だ私の裁きを受けない。いつか、自身が裁きを受けるべきと判断したら、……再びこの彼岸までいらっしゃい。その時こそ、私があなたの罪を映してあげる。……ただし、一つだけ憶えておいて。これだけは胸に刻んで貰わないと困るの」
追い打つような声。足先は既に階段の一段目を踏みしめており、更には二段目へと次の足が動き始めていた。
「決して―――目を背けない事。それが、今のあなたに出来る善行よ。例え何があっても、事実を直視し、受け入れなさい。自棄になったり、悲嘆に暮れる事などは後からいくらでも出来る」
体は水に浸からない。ただ、階段の奥へと盲目的に進んでいく。何が起こっているのか、分からない。分からないままに、しかし言葉がこちらの内部にまで浸透してくる。
「大切なのは、今をどうするかです。大丈夫、あなたは今をどう動くべきか、本当は分かっているから。だから、決して目を背けない事」
言葉が遠くなっていく。奈落のような漆黒の中へと、体が沈んでいく。
意識が薄らいでいく感覚は、まるで死の感覚のようだ。永遠の眠りは、永遠の夜明けに近い。
「……死ぬんじゃないぞ!」
死神の一言に追われて、妖忌は階段を下りた。
~~~~~~~~~~~~
最初に感じた物は、光だった。
「……ぬ……」
夜明けに感じる覚醒の感覚。それに近似した感覚に頭を支配され、呆然と物思いをする。
朝は、日課の早朝の修練をしなければならない。毎日欠かさず続けてきただけに、目覚めと同時に考える事はそれである。
だが、一瞬の後には早朝の修練の事など忘れ去った。差し込む光の眩しさに目が眩み、無我夢中で伸ばした指先が手に馴染んだ柄の感触を掴んだ。冷えたその感触に意識が揺さぶられ、妖忌は文字通り跳ね起きた。
「これ……は……!」
気付くべき事は、あまりにも多い。
まず、夜が明けていた。その事もあってか、まるで永い夢に微睡んでいたのではないかと錯覚するようだった。だが、大地を埋め尽くす屍の群れが、否応無しに真実を突きつけてくる。
と。眼前で、何かが舞っていた。あまりにも近くを舞っていたためにすぐには分からなかったが、次第にその姿をはっきりと捉える。
それは紫の色を持った、二色の蝶。蝶が群れをなして、妖忌を取り囲んでいた。
「蝶……?」
混乱する脳裏を駈け巡るのは、幾つもの言葉。それぞれが断片的な思いと、一つの繋がりを得ていく。
戦。鬼道衆。富士見。父上。白楼剣。嘉実。西行妖。
―――幽々子。
「幽々子様!」
慌てて見回す。見渡す限りは屍の山で、動く人影は一つとして無い。代わりと言うように、妖忌の周囲には多くの死蝶。そして空には何羽もの黒鴉が舞っていた。
その時になって、自分の両手が二振りの刀を握り締めていた事に気が付いた。倒れていながらも手放していなかった、大切な二本の刀。
と、もう一つ気付いた。どこか感覚がおかしい。具体的にどうと問われたなら答えられないが、自身の体の感覚が一変しているようだった。
体が軽い。ともすれば宙すら舞えそうなほどに、自身の体に重みを感じない。
そして、何より一番の変化が目に付いた。
「これは……?」
妖忌のすぐ側。まるで付き従うように、白の色を持った球体がそこにいた。代わりにいつの間にか蝶の群れは消えていた。
その球体からは何の意思も感じない。と言うよりも、寧ろ自分の手足の延長のような感覚だった。指一本から特別な意思を感じないのと同様、あって当然のような感覚。
「一体……何が起こっているのだ……!」
あまりにも分からない事ばかりだった。だが、一つだけ。焦がすように絡みついてくる単語がある。
「幽々子様は……御無事なのか!」
視線を屋敷の方へと向けたところで、更に異変が目に入った。
「な……」
それは―――満開の桜。
屋敷の外からでもその威容が窺えるほどに巨大な妖怪桜。それが、夏場の筈だというのに拾分咲きに乱れていたのだ。
人を容易く死へと誘う妖怪桜の魅力は、この瞬間を差し置いて以上は存在しないだろう。それほどなまでに見事な満開だった。
だが、見とれるのは刹那の間だ。すぐに焼け落ちた屋敷が目に留まり、妖忌の心は焦った。
「屋敷が!」
無我夢中で駈け出す。とにかく、進まねばならないという意思の元に足を動かした。やはり、先程も感じたとおりに身体が軽い。強く一歩を踏み出し、大地を蹴ると―――
身体は、浮いた。
「―――!」
あまりにも自然に、妖忌の身体は大地に擦れるような高さで風を切っていた。突然の目覚めと共に分からない事だらけで、頭がおかしくなりそうだった。
だが、速い。人間の走りとは比べ物にならないような速度が出ていた。
今は迷っている場合ではない。とにかく一刻も早く西行妖の許、幽々子の許へ。
焼け落ちた屋敷の上を滑り、燃え尽きた並木桜の下をかいくぐり、妖怪桜の許へと急ぐ。
途上には赤の波があった。ただし、それは静止した波だ。見れば多くの鬼道衆が、その殆どが外傷もないままに倒れ―――絶命していた。
訳が分からなかった。一体何が起こったというのか。
「あれ……は……!」
やがて見えてきた妖怪桜の根本には、二つの人影。それも鬼面ではない。更にはどちらにも見覚えがあった。
「小努! 弥疋様!」
名を叫び、地に降りる。そのままの勢いを伴ったまま、二人の許へと駈け寄った。
「……妖忌……様……?」
信じられぬ物を見た、とそういう顔で、小努がこちらに気づき目を瞠った。続いて、左腕に傷を負っている弥疋もこちらの姿を認め目を見開く。
「妖忌……なのか!」
明らかに驚き、戸惑っている様子の二人の許へと駈け寄る。両手に持っていた楼観剣と白楼剣、それらを納刀しながら、
「一体……何が起こっているのですか! 皆は……西行妖は……!」
周囲を見回す。いるべき筈の人が、いなかった。
「幽々子様は、何処に……!」
二人は、どちらからともなく視線を合わせた。驚きの表情は、やがて苦虫を噛み潰したかのような辛そうな物となる。
まさか、という思いが奔った。背筋にぞくりとするような冷たい汗が流れる。
「幽々子様は……幽々子様は、一体何処に! 御無事なのですか……!」
必死の問いかけに、しかしすぐには答えが返ってこない。だが、幾許かの時間の後に桜を乗せた風が吹いた。
妖怪桜が、その身を一度揺らした。
『……近舶妖忌。その問いには……儂が、答えよう』
妖怪桜、西行妖は訥々と語った。
妖忌が倒れたという報せが届いてからの、戦の成り行きを。押し寄せた鬼道衆と相対した幽々子達の奮戦を。火にかけられた西行妖と、その最後の拾分咲きを。
そして、怨気の解放を防ぐために、贄となり自尽した幽々子を。
時折小努や弥疋の補足も付け加えられながら語られた顛末に、妖忌は愕然の思いを隠す事が出来なかった。
沸き起こる感情は名状しがたい。哀しみとも、絶望とも、怒りとも取れた。
「何故……何故なのだ、西行妖! あなたが付いていながら……何故、幽々子様が!」
聞き終えるなり、妖忌は幼子のように喚き散らした。覚束無い足取りで妖怪桜へと歩み寄ると、西行妖は反論も否定もせず、ただ一言を答えた。
『……すまない』
「―――!」
握り締めた拳も止まらなかった。噛み締めた歯が軋みの音を立てる。瞳を赤に染めながらも、感情の奔流はなお抑えきれず、妖忌は拳を振りかぶる。
「待て! 妖忌!」
後ろで弥疋が叫ぶが、今更止まる事などは出来なかった。とにかく、沸き立つ感情が完全に暴発しかけていた。
だが、妖忌の拳は西行妖へと届く事はなかった。
「……そこをどくんだ! 小努!」
突きだした拳は、西行妖を庇うように妖忌の前に立ち塞がった小努の鼻先に触れるかという所で止まり、震えた。
対する小努も、眼前に迫った拳に震えていた。しかし、開かれた口から紡がれる言葉は強い。
「……どきませぬ!」
震えているというのに。眼前に迫った暴力に、瞳は怯えの色を隠していないというのに。
小努の言葉は、棘のように鋭かった。
「どうしても……どうしても、その激情を抑え切れぬというのでしたら……その拳を、この小努にぶつけください! 幽々子様を……大事な主を守り通せなかった、この小努に!」
強い語気で、強い意志が語られた。
―――小努を、殴る?
小努の言葉に、一瞬の眩暈を感じた。
―――誰が?
その問いかけの答えは考える必要すらない。
―――……自分が、か?
急速に自身の頭が冷えていくのが分かった。拳の震えは更に増し―――静かに、下ろされた。
どういう顔をしたら良いのか分からない。どういった表情に落ち着けば良いというのだろう。分からないまま、憮然とした顔で頭を下げた。
「……すまない。どうか……していた」
そうして下げた頭を、不意打ち気味に抱き締められた。
「―――」
不思議と抵抗は感じなかった。小努の体の震えと、自身の体の震えとが合わさる。
柔らかさと温もり。冷え切っていた体が、純粋に心地よさを感じた。
「すみません……私達がついていながら、幽々子様をお守り出来ず……」
抱かれた外から届く言葉は、謝罪だ。
「ですが……あの場は、それ以外に道が無かったのです。そして、幽々子様は―――総てを受け入れ、安らかな心で逝かれたのです。どうか、その死に様を……他ならぬ妖忌様自らが汚す事の無きよう……」
「……すまん……」
小さな謝罪。万感の思いを込めた一言だった。それを聞き、小努が抱き締める腕を放した。解放され、妖忌は一歩を下がると再び頭を下げる。
「有り難う、小努。……自分は、自ら過ちを犯してしまうところだった」
それから視線をゆっくりと動かし、西行妖の―――その根本を見た。
あの下に。僅かな土の下には、幽々子の亡骸が眠っているのだという。
一瞬だけ胸に去来するのは幽々子が舞を踊ってくれた時の事だ。あの時、死蝶を握り締め自尽しようとした幽々子を止める時、妖忌も死蝶を握ってこう言ったのだ。
お供する、と。
どうだろうか。今は、追うべきなのだろうか。
だが、それこそがまさに幽々子の死を汚す事になるのではないかと、そう思えてしまった。そう思うと容易く決められることではない。
「……ところで妖忌よ。先程からお前が随伴させている……まるで霊魂のようなそれは、何なのだ」
弥疋の言葉にその存在を思い出した。見下ろすと、確かにそこにあった。
尾の生えた球形。淡い白の燐光を放つそれは、確かに言われてみれば話に聞く霊魂のような形だった。
「自分にも分からないのです……。と言うより、確か自分は……」
―――妙な船頭に連れられるまま、三途の川を渡った。
「……嘉実との戦いの直後……死んだ、筈なのですが……何故か、このように……」
『……甦ったというのか』
少し、疲れているような西行妖の声。失った霊力とやらは、やはり相当に大きいのだろうか。
『……或は、西行寺幽々子の力なのかもしれん』
「……幽々子様の?」
言われた言葉はすぐには信じる事が出来なかった。
確かに幽々子は西行妖の力分けを受け、異形の力を宿していた。だが、その力は―――
「莫迦な……幽々子様の力は、人を死に誘う力の筈」
間違っても人を甦らせる力ではなかった筈だ。もしそのような力だったとしたら、あの幽々子の苦悩はあるはずがない。
だが西行妖は言葉を改めない。寧ろ自身の言葉を裏付けるように、
『だからこそ、だ』
西行妖の声は直接頭の中に響くようだ。その声が、続きを紡いでくる。
『つまり、西行寺幽々子は……死した其方に、死を与えたのだ』
桜が数枚舞った。風の力を受けるだけの無力な花びらは、やがて地に落ちた。
「死んだ自分に……死を与えた? ……西行妖よ、言っている意味がよく分からないのだが……」
理解出来ない、と妖忌は言う。既に死した者に死を与えたとて、何が起こるというのか。
だが、はっとしたように唐突に顔を上げた者がいた。思い至ったという風な顔の弥疋が、
「生者必滅の、理……」
『……左様。生きるというのは、即ちいずれ死す事に他ならない。つまり、避けられない死へ向けて船を漕ぎだすという事こそが、まさに生きるという事』
漸く、妖忌にも理解が出来た。つまり、幽々子は一度死んだ筈の自分を甦らせ、
「再び、いつか死を迎えるように……」
『恐らく、自尽に伴い儂の花びらを喰らい……その死の間際に、特に強い力を得たために出来たのだろう……』
注目が白の球体に集まる。
『……だが、勿論完全な蘇生が出来る筈も無かったのだろう。結果として其方は……半分死に、そして半分生きているという、曖昧な存在として反魂したのではないだろうか』
「とすると……この霊魂のような物は」
試しに動かそうとしてみると、それは妖忌が思った通りに動いた。
『恐らくは、其方の半身……なのだろうな』
思い出す。目覚めた自分を囲むように、包むように飛び交っていた蝶達を。この半身と引き換えにいつの間にか消えていたあの蝶の群れこそが、妖忌に再びの死を与えた反魂蝶なのではないだろうか。
幽々子の最後の力。たった一度だけの、反魂。未熟で、不格好だが、それはまるで、
「……自分は……」
呻く。ともすれば零れそうな涙を堪えて、
「自分は、花を散らせた幽々子様が最後に成らせた……実、なのか……」
「それで……これからどうしますか?」
怨気が解放される事はなんとか抑えられた。だが、それは完全な解決を意味してはいない。
残された者、それはあまりにも少ない。更には屋敷さえもが失われてしまったのだ。
「出来れば……私は、一度讃岐の方へと赴きたい」
左腕に布を巻き付けて応急処置とした弥疋が、そう言った。
「彼の地に住まう僧達は、我々の事情を知る者だ。さすがに全面的な協力は難しいかもしれないが……恐らく、何らかの助力は貰える事だろう」
前向きな提案。だが、
「ですが、弥疋様。鬼道衆の手により、我々の船は総て……。それに村人の話によりますと、彼らが乗ってきた小舟も総て燃やされたとの話で……」
「鬼道衆の本隊が乗ってきた巨大船は……さすがに一人では動かせぬ、か。……それに、僧達や途上の港で要らぬ騒ぎを起こしてしまうだろうな。……何より、奴らの船に乗る気は……起きぬな」
船が無ければ讃岐まで行く事も出来ない。妖忌が単身で飛んで行こうにも、僧達と面識が無い彼では要らぬ警戒を抱かれるだろうし、何より場所が分からない。
そして新たに船を造ろうにも、人手も時間も足りない。
「八方手塞がりなのか……?」
考え込んで、暫く。弥疋の視線が西行妖を見た。
「……西行妖よ。今、私が其方の力分けを受ける事は……可能か?」
突然の問いかけに、誰もが弥疋を見た。西行妖も、神妙に枝を数度打ち合わせる。
『……ああ、今まで力分けを受けていた西行寺幽々子が没したために……可能だ』
「そうすると、再び其方が霊力を失う事にはならないのか?」
『いや……。霊力は、そもそも儂が与えたものではない。儂は一人の者に異形の力を与えるだけで、その原動力となる霊力は……力分けをした相手が、元来持つ物だ。西行寺の血を引く者はその誰もが霊力に秀でており、それ故に代々力分けを受けてきた……例え分家だろうと、西行寺の血を引く其方ならば充分に素質がある』
答えるうちに西行妖も理解したようだ。妖忌にも、弥疋の質問の意図に何となくだが予測がついた。
そしてその予測は、次の問いかけによって確信へと変わった。
「その異形の力の中に……海を越える事が出来る力は、あるか?」
逡巡は短い。だが、妖怪桜は確固たる口調で答えた。
『ある。……人が乗れる程度の大きさの丸太さえあれば、死霊達の力を借り、即席の船とする事も可能だ。多少時間はかかるかもしれぬが、決して不可能ではない筈』
居合わせていた者達の表情が、僅かに綻ぶ。しかし、その喜びは続く言葉に遮られる事となった。
『ただし……それ以前の問題がある』
迷うような間を置いて、西行妖は言う。
『儂の力分けを受けた者が……儂より離れた地でその力を使ったならば……その身は一年(ひととせ)と保たずに、例外なく果てる』
恐らく海を渡る時点でもう駄目だろうと、西行妖は言った。
元々人の手に余る力ゆえの制約なのだろう。
何とも言えない空気が広がる。だが、当の弥疋は全く気にした風も無く一言を尋ねた。
「……それだけか?」
一種冗談のようにも聞こえるその問いかけは、だが続く言葉によって本気である事が伝わってきた。
「愛子が決意を旨に自尽したのだ。一年もの猶予がつくというのに、私が躊躇う必要などどこにある?」
弥疋はそのまま、先程小努が集めていた桜の残りへと近付く。
彼の本気が痛いほどに伝わってきた。だからこそ、妖忌はそれを引き留めた。
「弥疋様! そのように命を徒(いたずら)に捨てられては……! 何か、他にも策がある筈です! どうかお考え直しを!」
「……死は、或は泰山よりも重く、或は鴻毛よりも軽いのだ」
弥疋は桜を掴む。
「命はみだりに捨てるべきではないが……だが、場合によっては進んで差し出すべき時がある。……他に策があるというのなら、既に思いついている。だが……他に道は無いのだ。我らには時間も、助けの手も足りていない」
「……」
妖忌は引き下がる。ここまでの決意を見せられてなおも引き留めるのは無礼以外の何物でもない。その事がよく分かっていたから。
弥疋は桜を手に、辺りを見回した。西行妖の桜はそのままでは喰らえない。もしそのまま喰らったならば、幽々子と同様に命を落とす事となる。
かまどのように熱を与える物か。或は熱を持った液体で、その性質を薄める必要があった。
「……妖忌、白楼剣を貸してくれないか」
迷いを断つという、短刀を。
唐突と言えば唐突の言葉。だが妖忌は戸惑いながらも白楼剣を鞘ごと外し、弥疋へと手渡す。
「あ……はい。しかし、一体何に……」
言う間に弥疋は短刀を引き抜き、その刃を己の左腕の傷口へと押し当てた。
僅かな力を込め―――引く。
「弥疋様……!」
小努が慌てて駈け寄ってくるのを、しかし弥疋は視線で制する。
白楼剣は弥疋の左腕、元から傷があった場所に再び小さな浅い切り傷を作った。鮮血が滴り落ちる。
彼は白楼剣を鞘へとしまう。そして滴る血を桜へとかけた。
乳白色の輝きを湛えていた桜の花は、瞬く間に赤の色に染まっていった。
「……これで良い。妖忌よ、すまなんだな」
驚きの顔をしたままの妖忌へと、白楼剣を返す。
桜の花によく血を通し、混ぜる。こうする事で、この桜の性質は顕界の物で薄まる。
『……自らの血で、薄めるとは……』
「つまらぬ迷いも断てたわ」
さて、と弥疋は前置きする。いよいよ昇りつつある陽を、巨大な妖怪桜を、そして妖忌と小努を見る。
空気が変わる。まるで元服を迎える時のような儀式的な空気へと。
そして弥疋は妖忌を凝視し、おもむろに宣言した。
「……妖忌。今この時をもって、そなたの近舶の姓を剥奪する」
妖忌が何か反応を示すよりも早く、弥疋の言葉が続く。
「そして、富士見の一族はここにてその役目を総て終えた事を、当主代理弥疋の名をもって宣言する」
その言葉は―――あまりにも意味を持ちすぎた。
「な……弥疋様! いきなり、一体何を仰るのですか!」
元々切れ者である弥疋が突発的に物事を言うのは、決して珍しくはない。
だが、今回はあまりと言えばあまりの内容である。妖忌の叫びも当然のものだろう。
弥疋は手中の桜に血を染み込ませる事を続けながら、横目で妖忌を見てくる。彼の切れ長の瞳は普段と変わらず理知的な輝きを湛えており、決して狂言の類ではない事が察せられた。
「其方達とて分かる筈だ。もう、富士見の一族などという束縛はその意味も必要性も無い。地も、人も、総てを失っているのだから」
彼は決して自棄になっている訳ではない。ただ、家族を慈しむような眼差しでもって妖忌と小努を交互に見た。
「これ以上縛めを受けて生きる必要はない。其方達は、もう自由なのだ。我が愛子、幽々子の最大の友である小努、そして幽々子が最後に成らせた実である妖忌。其方達はもう、総ての束縛から解き放たれるべきなのだ。……これ以上は個人の領分だ」
弥疋は抱えた桜を、西行妖を見る。
「この後も西行妖を守り奉る事を続けようと思うならば、止めはしない。だが、これだけは忘れないでくれ。もはや、其方達はこの地に縛られる必要は無いのだ。もしもこれ以降も護国に付き合うと言うのならば……それは、其方達が自分自身で決め、行ってくれ」
それはつまり、
「護国も、富士見の一族も、この地の事も総て忘れ、どこかで秘かに生きても良い。私がこれから向かう先の僧達の力添えがあれば、ある程度はどうにかなるだろう。……幽々子の願いなのだ。其方達には幸せになる権利がある。この地の事で胸を痛める必要は無い。自分のしたいと思うように、生きてくれ」
弥疋は見せつけるように桜を持ち上げる。血に染まった花びらは鮮烈で、しかし美しかった。
「私の事も忘れて良い。私がこうして護国を続けるのは、偏に私自身がそうしたいと願うからだ。其方達も、自身がそうしたいと思うように生きてくれ」
弥疋は背を向ける。海のある方角へ、自身の行きたいと思う方へと歩き出す。
「では……さらばだ。恐らく、私はこの地に帰っては来ない。今生の別れだ」
声が―――出なかった。
弥疋の言葉が理解出来なかった訳ではない。言う事も、逐一納得は出来る。確かに、たかだか二人が残って護国を続けようとしたところで、何が出来る訳でもない。ならばと自由に生きる選択肢を与える事は、分かる。
「無責任な大人ですまないな……。では……達者で暮らせよ」
弥疋は返事を待たない。求めてすらいない。ただ、生まれ育ったこの地を去りゆく。転がった亡骸で埋まった地を歩き、焼け落ちた桜並木の間を抜け、瓦礫と化した屋敷を踏み分け、やがて―――見えなくなった。
後には何も残らなかった。縛めも、枷も。
「……」
言葉すらも。
『……儂も、そろそろ眠りにつかせてもらうぞ』
弥疋が見えなくなるまで待ってから、西行妖がそう言った。
『何年か……何十年か。或は何百年か。失った霊力はやはり大きい。ともすれば、もはや其方達とは再び見えぬかもしれない。だが、西行寺幽々子の命を無駄にせぬためにも……儂は眠りにつき、力を取り戻そう』
何と答えるべきか。弥疋から言われた言葉にすら答えが出ていない妖忌は、惑う。
『……気の利いた別れなど、思いつかない。西行寺幽々子の別れの言葉を借りて、今は眠ろう。……どうか、幸せにな』
桜が、舞った。
~~~~~~~~~~~~
「……玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争える、高き、卑しき、人の住まいは、世々経て尽きせぬものなれど」
足音。地を踏みしめる感触を愉しむかのように、わざわざ立てなくても良い足音を立てて歩を進める。
風が凪いでいた。小山に立ち並ぶ若木の群れは騒ぎ立てず、時折囁くように葉を擦り合わせるのみだ。
「これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり」
幾度の雨風と、幾度の雪がこの景色を埋めたのだろうか。
景色は変わるもの。特に、人の手が加わった地となれば尚更だ。
「或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。……住む人もこれに同じ」
人の世の変化は目まぐるしい。渦中にいる者達は日々の暮らしに追われ、その変化を実感する暇も無いだろうが、遠くから見ているとそれをよく感じる。
国で一番偉い者というのも目まぐるしく変化する。全く同じ人間の天下が百年続いた試しすらない。必ず、子や分家の者へと取って代わる。それが人の世の常。
「所も変わらず、人も多かれど、古に見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり」
連れはいない。家で帰りを待たせている。だから少女は、かつての地を独りで歩む。
懐古や郷愁は感じない。そもそも、この地は彼女にとっての故郷ではない。多少、思い出深い地であるというだけに他ならない。
「朝に死に、夕べに生まるるならい、ただ水のあわにぞ似たりける」
人間の一生はあまりにも短い。人の世が目まぐるしいのは、人間が目まぐるしく生まれ、目まぐるしく死んでいくからに他ならない。人間はただ生まれてくるだけだというのに、その道中で必ず目的を探す。そのため、人の世は変遷していくのだろう。
「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる」
つま先が何かに触れかける。見れば、それは一輪の小さな花。誤って踏めばそれだけで失われてしまうような、無力で、しかし確かにそこに咲いた命。
ふっと、少女は笑んだ。多くの血が流れ、人の命が失われた地にも花は咲く。誰の霊を宿したかは知らないが、今はただ無常の中でその花を無邪気に揺らす。
「……その、主と住処と、無常を争う様、言わば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残ると言えども朝日に枯れぬ」
花は、弱い。強風や豪雨、旱魃(かんばつ)に晒されるか、生き物に喰われるだけで無抵抗に死んでいく。
少しの波で消え去る泡沫だというのに、飽かずに咲く。咲き乱れ、そしてその儚い命を潰えさせる。
「或は花萎みて露なお消えず。消えずと言えども夕べを待つ事、無し」
そこまでを諳んじ、少女は自ら一つ頷く。再開した歩みは、花を避けた進み。
奇異な様相の少女だった。存在感はあるのだが、どこか虚ろで捕え処がない。
まるで金花のように鮮やかな金の髪を棚引かせ、少女―――八雲紫は歩く。白と紫を基調にした、大陸系を彷彿とさせる服装も相俟ってどことなく胡散臭さを醸し出していた。
「……まったく。あの方もよく分からない事を言うわ」
口ではそう言いつつも、どこかこの状況を楽しんでいる様子だった。気が逸るかのように、進む足取りも軽く、だが楽しみを後に取っておくかのように急ぎすぎない。
「善行にはあまり興味ないけれど……あの子達がどうなったのかには興味あるわね」
かつては富士見の地と呼ばれていた地を紫は歩く。
戦の形跡などは、もう殆ど残ってはいない。風雨や積雪、そして人の手が加わり、総てを埋め尽くしてしまったようだ。
「……あれね」
やがて、紫の行く手を阻む物があった。
いくつもの縦長の石柱。明らかな目的意識の元に、それらが等間隔に、見渡す限りに配置されている。
石柱同士の間には注連縄が二重にも三重にも張り巡らされ、また幾つもの呪文が書かれた符が下げられていた。
石柱の向こう側は、特に何ら変哲のない風景が広がっていた。普通に野があり、木が生え、青空がそこにある。
だがそれが目眩ましに過ぎない事を、八雲紫は知っている。
紫は片眉を上げる。感心したように、呆れたように、
「……こんなに厳重に封じちゃって。遠くからだと分からない訳だわ。ここまで近付かないと、あの木の存在すら見えないじゃないの」
明らかに、低級妖怪では触れる事すら困難なほどに厳重な結界だった。境界を操る能力を持つ紫ですら何の苦もなく通り抜けられるという訳にはいかないようだ。
「結界を壊しちゃ、さすがに悪いわね。……一番結界が薄いところは……と」
結界の周囲を歩く事、しばし。目処を付けて立ち止まり、結界によって封じられた中空に触れる。
「開きなさい」
紫が触れた所が僅かに歪み、拉げるような音を立てて道が開いた。
先程まで見えていた、何でもない光景。紫によって開かれた部分から垣間見えたそれには、大きな変化があった。
あまりにも―――あまりにも巨大な、桜の木。開かれた結界の向こうに、それが姿を顕していた。
紫は躊躇いもなく結界の内側へと入っていく。窮屈そうに身を屈め開いた結界を通り、閉じた。
そして、あらためてその巨大な桜の木を見上げる。由旬に及ぶのではないかと思えるほどのその妖怪桜は、しかし春先だというのに花びらの一枚も葉の一片もつけてはいなかった。
かつて妖怪桜を囲うように建てられていた屋敷も、今ではその跡形すらない。代わりというように、妖怪桜の側に小さな小屋が見えた。
「……」
紫は再び歩みを再開する。
かつては庭園で、桜並木の道でもあった庭園。そこには、今ではたくさんの若木が生えていた。
あと数年ほどしたら、それらも立派な桜へと成長するのだろうか。
「千本桜とは言わないけれど……よくもまあ、これだけの量の桜を植えたわね」
見渡す限りの若木の中を、紫は進んでいく。急ぐ必要は無いというのに、我知らず歩調が早まっていた。
やがて巨大な妖怪桜へと近付いてきた頃―――その根元に、二つの姿を見つけた。
一瞬、立ち止まる。僅かに驚いたような顔を作り、しかしすぐに歩みを再開。妖怪桜の根元で動く影へと、真っ直ぐに近付いた。
人影だった。片方は妖怪桜に背を向け、一心不乱に刀らしき物を振っている。もう片方は、妖怪桜に背を預けて座り込み、何かを抱きかかえている。その二つの人影がこちらの姿に気付かない訳ではなかっただろうが、こちらが声をかけるまで彼が振り下ろす手を止める事はなかった。
「……お久しぶりね」
長刀を振り下ろしていた者の手が止まるそれは、若い男だった。
長髪を紐で結わえ、背中へと垂らしている。白緑の直垂の上から若竹色の羽織をまとった姿。歳は二十近くかと見える、精悍な顔つき。背中には長刀の鞘を背負い、腰には短刀を佩いている。そして、その傍らには―――霊魂のような、白の色を伴った半透明の球体が浮かんでいる。
「いえ……そこのあなたは、寧ろ、初めましてかしら? 見ない間に、随分と私達に近しい存在になったのね」
僅かに笑みさえ湛えて、紫は言った。
彼は右手一本で振り下ろし続けていた長刀を仕舞うでも無く、ただ紫の事を見返している。一文字に結ばれていた唇が開き、
「……八雲紫、だったか。随分と久しいな」
緊張している風でもなく、気負う風でもなく。ただ事実を確認するように、彼は言った。
「……あなたは、確か……幽々子様のご友人の、紫様。お久しゅうございます」
刀を振っていた男の傍ら、木の幹に背を預けて座り込んでいた白の服を着た女が、こちらを見てそう言った。
女の腕の中には、まだ年端もいかぬ赤子が布に包まれていた。穏やかな顔で、寝息を立てている。
「お久しぶりね、可愛い赤ちゃんじゃないの。確か……小努だったかしら? なんだか、少し痩せたわね?」
視線は、再び男へと動いた。
「そして、あなたとは随分と前に一度会って、それっきりだったわね。元気だったかしら?」
懐から扇子を引き抜き、口許を隠した。男は目元だけに笑みを残した紫から視線をずらし、自らの隣に浮かぶ球体を見る。
「御覧の通りだ。半分ばかり元気だが、半分は死んでいる。歳を取るのも、随分とゆっくりになった。……だが、概ね元気であるとは言えるか」
苦笑い、それに分類される表情を男は浮かべる。
「あなた、名前はなんと言ったかしら……確か、近舶……近舶妖忌だったかしら?」
「残念ながら、違う」
即座の否定。男は肩を竦め、
「言の葉では違いは分からないかもしれないが、自分はもう近舶妖忌ではない。魂魄妖忌だ」
言葉の上では、同じ。
だが、それを敢えて語る彼―――魂魄妖忌の表情は、その違いを雄弁に物語っていた。
「あれは……聞くまでもないかもしれないけど、あなたの子かしら?」
紫の視線が、再び小努の腕の中の赤子へと向いた。赤子には、よく見ればおかしな点があった。寄り添うように、小さな白い霊魂のような物が浮かんでいるのだ。
「……親に似てしまったよ」
妖忌はそう答えた。
そう、と一言呟き、紫は話題を切り上げ妖怪桜を見上げる。まるで枯れ木のように、葉も蕾すらもつけていないその様を眺め、
「西行妖はどうしたのかしら? もう春も盛るというのに、一向に花をつける気配が無いじゃない」
倣い、妖忌も西行妖を振り仰ぐ。その表情が一瞬だけ、悲哀のそれへと変わった。が、すぐに気のせいだったとでもいうように、元の憮然とした表情へと戻る。
「眠っている。かれこれ、十年近くか。……讃岐から結界を施しに来た僧達の話に依ると、どうやら封印に近い状態らしい」
「封印?」
鸚鵡返しに言葉を返し、
「……そういえば、幽々子は何処へ行ったのかしら? 大体、あなたの側にいたと思ったのだけれど」
思い出したかのように問いかけると、妖忌は再び笑った。今度は苦笑いではなく、どことなく嬉しそうに、
「幽々子様か? 幽々子様ならば……」
西行妖の幹に、手を触れた。
「ここにおられる」
一瞬、気でもふれたのかと思ったが―――どうやらそうでもないらしい。小努が、穏やかな表情で頷いている。続く妖忌の言葉が、彼の言動の意味を教えてくれた。
「いざ、西行妖の怨気が解放されそうになった時に……幽々子様は、幽明境を分かたれた。自らの身体を、霊力を贄として、西行妖の根本へと入られたそうだ」
語る彼の顔に悲しみの色はない。言うなれば、誇るかのような表情。小努も同じだだ。
自分の主君が、どれだけ立派であるかを語るような、そういった顔だ。
「幽々子が……贄に?」
問うと、妖忌は強く深く頷いた。慈しむように幹を数度掌で叩き、
「僧達が調べたところによると、……もう、西行妖は贄を必要としないらしい。幽々子様の霊力は強く……たったお一人で、西行妖の根に溜められた怨気を、今も封じ続けておられるのだ」
と、そこで僅かに顔を下げた。
「残念ながら、同時に西行妖の意識も深い眠りに沈み、再び花をつける事は無くなったが―――」
僅かな間。何かの思いを内包した、逡巡。それを振り払うように、彼は言葉を続ける。
「だが、良いのだ。西行妖は自分が度々贄を必要としていた事を嘆いていたが、もうその必要もない。ずっと、安らかに、静かに微睡んでいられるのだ」
花一つつけない西行妖を見上げる妖忌と小努の表情は、しかし誇らしげで、満足しているようだった。
そう、彼らの表情は―――有り体に言えば、幸せそうだった。
「……なるほどね」
合点がいった。
何故、夜摩天ともあろう者が直接紫へと言葉を与えに来たのかという疑問があったが、どうやら彼女のいつもの慈悲らしい。
つくづく、人を裁く立場に向かない者だと紫は思った。もう少し冷淡になるくらいで丁度良いのだが。……しかしそれも彼女の美徳なのかもしれないと、そう思い直す事にした。
ともあれ、紫はその意図を正しく汲み取った。最後の決定権を一見こちらに委ねているように見えて、その実断る余地など無い辺り、やはり敵わない。
「……その僧達の事なのだけれど。私がここに来るまでに見た限り、阿波の勢力が讃岐へと侵入した際の騒乱で……虜囚となったみたいよ」
その言葉が、非情な響きを伴っている事は紫にも分かっていた。
たちまちというように、二人の表情が凍り付く。誇らしげな色は一瞬で形を潜め、緊の一文字に支配された。
「……それは……真か?」
「生憎だけれど、今回ばかりは私は嘘を吐かないわ。そういうのをこの上なく嫌っているお方の勧めるままに、ここへ来たのだから」
恐らく、今妖忌が想像している事態は、かつて紫が話した事態と同じだろう。
かつて乱世の頃、西行妖の力を取り違え、ただの異形の力と思った人間達がこの地へと押し寄せた時の事を。
修行を積んだ僧達が簡単に口を割るとは思えないが、権力に目が眩んだ人間がどれだけ非道な尋問をするかは計り知れない。そして、もし口が割れたならばそれで最後、
「……またしても……この地が戦火に覆われるというのか……!」
「妖忌様、落ち着いてください……!」
狼狽える、などという程度ではない。絶望に打ち拉がれるような妖忌と、自身も混乱しながらも懸命にそう言い添える小努を、紫は見た。
独り言を呟くように、
「……妖怪は、本来人の世の争い事などには介入しない。ただ日々を楽しむ事を考えて、生きるだけ」
それは、人間が物を食べて生きるのと同じくらい当然な事。
だから、紫は決して人間同士の戦には参加しない。例え気に入った相手がそれに巻き込まれていようと、必要以上に関わったりはしない。
だが、
「ねえ、あなた達。幻想郷って、知ってるかしら?」
唐突に投げかけられた言葉に、二人の動きが止まった。
小努は目を何度か瞬かせ、知らない風。
だが、妖忌は動きを止め、思案するように虚空を見た。彼の半身がくるりと回る。
「……噂程度には、聞いた事がある。忘れ去られた者達が住む、人と妖の楽園というものが何処かの里にあると……確か、その名前が……幻想郷」
弾けるような音。紫が扇子に音立てて開き、妖忌へとかざしたのだ。
「ご名答。……人も踏み知らぬ山奥深く、多くの妖怪と、僅かばかりの人間が住まう無何有(むかう)の郷。そこの境界向こうにある冥界、白玉楼なのだけどね……」
くすり、と笑いを浮かべる。
「けっこう、空いてるのよ。この結界の内側を、そっくりそのまま移せるくらいの場所が、ね」
そうした方が―――面白いと思ったから。だから、紫は続けて告げる。こちらの言葉を聞くしかない二人へと、
「そして……何とも運の良い事に、あなた達の目の前にいる妖怪は、境界を自由にするだけの能力を持っているわ。……以前、ここに来た時の私とは違うわ。今や、私に操れない境界なんて存在しない」
扇子を持つ手をそのまま掲げ、顔を半ば隠すように動かした。
「あなた達が望むのなら……私が、招待するわよ。戦も脅えもない冥界、白玉楼へと」
「紫殿……何故、そこまで自分たちに?」
それまで話を黙って聞いていた妖忌が、もっともな疑問を口にした。
「そうです、紫様……。確かに、見ず知らずとまでは言いませんが……何故、そこまで私達を気にかけてくれるのですか?」
座ったままの小努が、か細い声で問うてくる。
……この娘は、何かの病気かもしれない。紫はそう思い直す。先程痩せているという印象を受けたが、改めて見ると、あまりにも痩せすぎている。顔色もどことなく青いままで、握れば折れてしまいそうな小枝のようですらある。
以前見た時はこんな風には思わなかった。それどころか、薙刀を持つ手に迷いもなく、震えすら無かった筈だ。
少し見ぬ間にこうまで変わるには、何か理由がなければおかしい。例えば、あまりにも強い死の魅力に当てられるなどというような。
―――気にするべき事では、ない筈だ。
人間など、どの道早くに死んでしまう生き物なのだ。たかだか数十年の死期の違いなど、妖怪の寿命から考えれば一度の夜明けの違いのようなものだ。
「……そうね……」
扇子で半分隠した視界の中、問いかけてくる二人の顔を順に見た。
この地に行けと指図した夜摩天の言葉を借りれば、善行だろうか。いや、そのような物に紫は興味がない。死後の事などを考えるのは人間くらいのものだ。
細かい理由なら、そのように幾つかは見つけられた。知らぬ仲でもない二人。西行妖の怨気は、捨て置くには危険。
が―――反して思い出されたのは、初めて幽々子と会った夜の事。侮辱や挑発をしてみたけれど、その総てを笑って去なした少女を相手に、紫は本心から笑顔を向ける事が出来た。
世辞も抜きに、良い友人になれるという気がしていた。
西行妖を―――幽々子が眠る木を見た。痛みを痛みとも感じない、辛さを辛さとも感じないと言われる理想郷、華胥氏の国。そこで遊ぶように、安らかに、何にも邪魔されずに良い気持ちで眠る幽々子。
だが、それも妨げられようとしているのだと、そう思った。
「……幽々子の頼みだから」
我知らず、言葉が出ていた。
「しょうがない子。ただ、ゆっくり眠っていたいなんて。そんな事、誰だって望むというのに……。でも、いいわ。あなたはあの夜、私を拒まなかった。だったら、私も……」
扇子が降りる。自分の表情など、見えなかった。
「あなたの頼みなら、拒まないわ」
~~~~~~~~~~~~
冥界。迷いや未練を持ったままにその命を終えた者が、閻魔の裁きを受けた後に転生を待つ地である。死後の人間は暢気になるものなのか、白玉楼で何か異変が起こる事など稀である。それも大概、余所から何者かが現れた際に起こる異変が精々だ。
珍客が現れたのは、そんな浄刹(じょうせつ)のような白玉楼が冬の季節を迎え始めていた時の事だ。
「……こんにちは」
穏やかな、包容力のある少女の声。どことなく聞き覚えがあるように感じて、顔を上げる。
屋敷の縁側、柱に背を預けて瞑想に耽っていたのは痩身の男―――妖忌だ。顔を上げた彼の動きと同様、側に浮かんでいた半霊が鎌首をもたげるように舞った。
「あなたは……」
慌てて、妖忌は板敷に手をつき頭を下げる。白が交じり始めた髪が垂れ、視界の端で揺らめいた。
「お久しゅう御座います」
一度だけ、彼女の姿を見た記憶がある。意識さえも霞のようだった、霧深い彼岸の記憶。人を待ち続け、そして死神と言葉を交わした三途の川。
「閻魔様」
冥界にあってもなお超然とした様子の少女へと、妖忌は恭しく挨拶をする。
「ええ、お久しぶりです。それから、私の名前は四季。四季映姫と言います。そちらで呼んでください」
少女―――四季映姫は微笑みを浮かべながらそう言った。
緑青(ろくしょう)の色を基調にした道服と冠。装飾性に富んだその姿は、見る者に威厳を与えて止まない。
「どうですか? 善行は積んでいますか? ……と、貴方に対してこれは愚問ですね」
「勿体ないお言葉です、……四季様」
恭しく頭を下げたまま妖忌は答え、上目遣いに辺りを見回した。
「……今日は、お一人ですか?」
「ええ。今日は仕事ではなく、私用で来ましたので」
人を裁く立場にあるとは思えないほど柔和な笑みを浮かべて、四季が言う。
「……私用、ですか?」
少し驚く。
閻魔様に私情が存在しないと思っていた訳ではない。単純に、閻魔様ともあろう者がこの白玉楼に私用でやって来るという事に驚いたのだ。
「御覧の通り、ここには何も御座いませんが……。多少の桜と、花をつけぬ妖怪桜がある程度。更に今の季節は初冬、花見にはまだ早いかと……」
四季がゆっくりと頭を振る。否定の仕草。
「……用があるのは、貴方ですよ。魂魄妖忌」
言ってから、四季が妖忌へと歩み寄る。そのまま妖忌の隣に座ると、荒涼とした風景に染まりつつある庭園へと視線を向ける。
「自分に……?」
ええ、と庭園を眺めながら四季が頷きを返してくる。一瞬の逡巡の後、
「貴方は……幸せですか?」
「―――」
突拍子もない質問を受け、妖忌は僅かに言葉に詰まった。
幸せであるかと。死後の人間の幸福を左右する権利を持つ者がそう訊いてきたのだ。意図する所が無い訳もないだろう。
幾許かの逡巡。幾許かの戸惑い。
立ち並ぶ桜並木の群れを眺め、薄靄に覆われた空を見上げ、それから四季の端正な顔を見、
「……ええ」
小さく頷いた。
問いかけた四季にもその言葉は届いただろうが、何も反応を返してこない。ただ、庭園をじっと見つめたままだ。
「未だに半分は人であるこの身では……時には寂しさも感じる事もあります。娘夫婦は壮健であるとはいえ、滅多に顔も見せませんから。また、かつての……数百もの年月の彼方に思いを馳せる事もあります。自分の半生を……いや、一生を過ごしたあの地での記憶、そして今は亡き者達に微かな思いを巡らす事も」
妖忌は四季から視線を外す。向けられた視線の先では、何処からともなく吹く風が庭園の花無き桜を揺らし、その物寂しい枝を遊ばせていた。
「ですが……」
繋ぐ言葉と共に定められた目線の先には、決して花を咲かせぬ巨大な妖怪桜がある。
「自分は、まだ幽々子様を守り続ける事が出来ます。……これ以上の幸福など、現世と隠世総てを探しても、あるものでしょうか」
今までも、これからも。妖忌が幽々子の盾としての役目を終えるその日まで、守り続けるのだろう。
この地に埋もれた、数多の約束を。
妖忌は、誇らしげな表情を隠そうともしなかった。
「……よろしい」
声に振り向くと、さっきまで隣に座っていた筈の四季の姿がなかった。
が、気配の動きはあった。庭園、縁側から数歩を進んだ先。そこに感覚を配すれば、閻魔はいた。
「用も済みましたので、私はそろそろ帰りますね」
黒の短い裾を寒気の滲む風にはためかせながら四季が振り返り、そう言った。その表情に人を安堵させるような微かな微笑みを湛えて、だ。
「もう、用が済んだのですか?」
早すぎる、という言葉は出ない。そもそも、何が用なのかも見当が付いていないのだから。
「ええ……」
しばし、彼女は迷うように視線を泳がせる。白玉楼は屋敷の庭園、そこにそびえ立つ妖怪桜の方へと。
「……私が幻想郷の夜摩天(ヤマザナドゥ)として職を遂行するにおいて、一人、裁くに裁けない者が存在します」
唐突な言葉は、まるで独り言のようだった。
「其の者は二度と苦しみを味わう事の無いよう、永久に転生する事を忘れ、ただただ華胥の永眠に微睡み続けている事でしょう」
続いている夜摩天の言葉に、妖忌は反応を返せない。ただ、彼女の言葉が示している人物が、自分の知る誰かを暗示しているような―――そんな、漠然とした錯覚を覚えた。
「ただ……世は生者必滅にして会者定離なれど、待ち人を待たせたままで眠り続けるのは感心しませんね。……幸い、封印も安定してきているようです。隠世という環境も適していますし」
「あの、四季様……一体何を……?」
四季の言葉はこちらに聞かせるためのものではなく、四季自身へと向けられた言葉であるものらしい。そのためか、紡がれた言葉の総てが理解出来ない。大事な部分が理解しきれない。
四季は視線ごとこちらへと向き直る。超然とした笑みはそのままだ。
「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)。……もうすぐ、蝶が舞う季節になるという事ですよ」
春を恋い焦がれ待つ、冬の季節の事だった―――
~~~~~~~~~~~~
「一で一の谷」
無邪気に手鞠が跳ねた。
手鞠をつく手つきは、傍から見ていても拙い。まず両手で同時についている時点で何かがおかしい。
だが、妖忌は何も言わない。厳しい顔つきこそそのままだが、下げた目尻でその様を見ているだけだ。
「二で庭桜」
手鞠歌に誘われるように、庭に咲き乱れる桜並木を見た。見渡す限り一面の桜の海は絶景という言葉以外に言いようも無く、どれだけの回数を眺めても飽きる事はない。
妖忌がこの地へとやって来た年も。小努が幸せそうな表情のまま、最後の息を引き取った年も。育った娘が下界に住まうと言い出した年も。閻魔がこの白玉楼にやって来た年も。それから幾百の回数、日付を改めても。
春は毎年と変わらずに、断りも無しに訪れていた。数百年間、一度たりとも春が訪れなかった事はない。恐らくこれから先も、春は必ずやって来る事だろう。誰かが桜の花びらをどこかに隠しでもしない限りは、春などというものは等しく総てに訪れる。桜並木が、それを教えてくれる。
「三で下がりふじ」
桜並木を一頻り楽しんでから、妖忌は手鞠歌の主へと目を動かした。
屋敷の縁側からほど近い位置で、一人の童女が手鞠をついていた。満月のように丸い、小さな手鞠を。
……一人という表現は、厳密には正しくない。童女の隣に浮かぶ半霊が、その幼子に含まれる人間の割合が半分である事を何よりも物語っている。
「四で獅子牡丹」
まだ言葉を使えるようになったばかりの時分。おそらく、手鞠歌の意味など全く理解してはいないだろう。
だが、それでも構わなかった。ただ、元気に手鞠をついてさえいれば。咲き誇る桜並木の中で、無邪気に過ごしていればそれでいい。
「五つ井山の千本桜」
無邪気に遊んでいる童女の両親―――妖忌の娘夫婦は、生まれたばかりの彼女を残して逝ってしまった。あまりにも呆気なく。まだこの幼子に名前を付けてすらいない間に逝ってしまったため、妖忌一人でこの子を育てなければならない。
童女には未だ名前が無い。誰もが愛でるような、良い名前を付けたいとは思っている。だが、そう思えば思うほどに悩んでしまい、今の今まで付け倦ねている。
「六つ紫いろいろ染めて」
そういえば、最近はこの白玉楼を訪う者もめっきり減ってしまった。以前は、すきま妖怪や、その式、その更に式が遊びに来る事も稀ではなかったのだが。
―――いや、紫殿が訪れる事は稀だったか。
この白玉楼に来てからというもの、紫は滅多に来なくなった。特に、冬場にその姿を見た記憶はない。彼女の式の話によると、あまりにも強い力を使ってしまい、それをのんびりと回復させるために一日の半分ほどを寝ているとの事だった。
紫にだけは頭が上がらない。
「七つ南天」
今日も白玉楼は静かなものだ。見事に咲き乱れる庭園の桜を見に来る亡霊は少なくないが、しかし彼らは不要に騒ぎ立てたりもしない。妖忌が目を光らせているというのが大きいだろう。
「八つ山桜……あっ」
声。続けて、手鞠が跳ねる無邪気な音。
見れば、先程まで童女がついていた筈の手鞠が向こうへと転がって行ってしまっていた。両手を使って弾ませていたためか、かなり勢いがついている。
「あっ……」
童女が慌てた様子で手鞠を追う。ともすれば転びそうな走りで、見ているだけで危なっかしい事この上なかった。
「む……」
縁側から降りて、妖忌も後を追う。さすがに白玉楼の庭で大事が起こるとは思えないが、だからといって孫の歳を考えれば心配しすぎという事は決してない。
「こら、走っては駄目だ。待ちなさい!」
呼び止めるが、童女は立ち止まらない。完全に跳ねる手鞠に気を取られており、こちらの声など耳にも入っていないようだった。
こういう時に、未だに名前を付けていない事が悔やまれた。名前なら、大声で呼べば或は気付くかもしれない。
立ち並ぶ桜並木が生んだ桜吹雪を越え、小さな背中に追い縋る。
「……?」
童女は立ち止まっていた。その手に手鞠は無く、手鞠は勢いこそ失ったものの未だに転がり続けていた。
手鞠のその先へと視線を向けた時、その理由が分かった。
「お爺ちゃん……どうして、あの桜だけ全然咲いてないの?」
童女がその小さな指先を向けたのは、庭の中央を大きく占める位置にある巨大な桜の木だった。
ただし、その言葉通り、その木だけがまるで枯れ木のように桜の花を一枚たりとつけていなかった。
「ああ……」
白玉楼の庭には、自慢の巨大な妖怪桜―――西行妖がある。だが、この西行妖が白玉楼において花を咲かせた事は一度たりとも無い。
「お爺ちゃんは、この桜が咲いたのを見た事があるんだよね?」
童女がこちらを見上げてくる。その無垢な瞳を見つめ返して、妖忌は僅かに目許を綻ばせる。
「ああ……。この桜……西行妖が、見事な花を咲かせたのを見た事なら何度もある。だが……そんな物とは比べ物にならない、本当の……拾分咲きを見たのは、ただの一度きりだ」
それは、散り際の花が最後に実をならせた時の事。
「それは凄い桜だったが、……もう二度と咲く事はないだろう」
ふうん、という孫の声を聞いた。想像もつかないといった様子だ。
妖忌はただ無言で瞑目し、両手を合わせた。多くの人に疎んじられていた西行妖。人との約束を守ろうと誰よりも純粋に生き、そして永遠の眠りに微睡んでいる。
妖忌が妻とした女、小努も、本人たっての強い希望により西行妖の下に眠っている。死に蝕まれながらも微笑みを絶やさなかった彼女にも、安らかに眠るよう祈りを捧げる。
そしてもう一人―――西行妖の下に今なお眠る一人の少女を思い、妖忌は悼む。
封印の春眠に耽る姫君は、果たして何を思っているのだろうか。
物思いに記憶が呼び起こされる。生前、彼女は郷を忘れても良いのは我を失った時だけだと、そう言っていた。生憎と、妖忌はまだ半分ほどしか我を失っていない。だが今では本当に我を失った彼女は、きっと郷も忘れ、安寧という水面に揺蕩(たゆた)っている事だろう。
彼女にはそれだけの権利がある。誰にも邪魔されず、華胥の永眠に微睡むだけの権利があるのだ。さまよい、自らの宿罪に悩み、道無き道の果てに自尽を迎えた亡我郷の姫君。
年を経る毎に霞む記憶の中でも、彼女の微笑みだけは―――未だ、霞む事がなかった。
そして妖忌は、童女の言葉を聞いたのだ。
「あ……蝶々」
思わず、目を見開いた。そうして開かれた視界の中に、紛う方無きそれは映り込んできた。
「これ……は……!」
牡丹色と、紫苑色の二色の蝶。淡い燐光を放つそれらが、西行妖の根から一斉に羽ばたき―――満開の西行妖の上まで、一気に舞い上がったのだ。
死の魅力を持ち、そして胸を締め付けるようなその存在は死蝶。
何を思うなどという、そんな暇は無い。
ただ、眼前で起こった、あまりにも美しい死蝶の舞に圧倒されるだけだ。
『―――』
続けざまに、妖忌は声を聞いた。
人間の発する音ではない。人間の発する音は、こんな、鼓膜の中に直接響くような響き方をしない。
妖忌が知る限り、このような声を出すのは一本、いや、一人しかいない。
「西行妖!」
叫ぶ妖忌の言葉は、迷いを含んだ物ではなかった。ただ、彼が今再び放った一言に対しての返答。返答としての、問いかけ。
彼は、妖忌の主がある時に聞いた一言を、今一度だけ放ったのだ。
―――約束は、果たされた。
「自分は……! 約束は……!」
守れたのか。
問いかけは言葉にならない。
無我夢中に一歩を踏み出し、その妖忌の足が何かにぶつかった。それは、転がっていた手鞠。手鞠は妖忌に蹴られた事によりまた衝撃を受け、西行妖の脇へと転がっていく。
そして、視線を戻せば、―――西行妖は既に元の枯れ木に戻っていた。
まるで白昼夢のように。刹那に見た、それこそ華胥の夢のような儚い幻想。泡沫の幻でも見たのだろうか。
夢から覚めたような感覚。一瞬なれど、永遠に続いていた夢が終わったかのような、淡い寂寥感。
―――ああ、夢だったのだろうか。
自身の言葉に落胆する。何を期待していたかも知れないが、だが結局はただの夢に過ぎなかったのだ。夢など、……夢など、所詮覚めてはお終いの物だ。
弾かれた手鞠が、西行妖の突き出た根に躓くように当たり―――無邪気に跳ねた。
そして、彼女は手鞠を拾い上げた。
「……これ、は……?」
妖忌の声ではない。童女の声でもない。その声は、邪気も穢れもない少女の声だ。
妖忌は瞬きをする事すら忘れ、巨大な妖怪桜の裏から唐突に顕れたその少女を凝視していた。もし一度でも目を瞑れば夢が覚めてしまうような、そういう恐怖に駆られて。
だが、一度確かめるように瞬きをしても、この夢は終わらなかった。
言葉を失い、何も考えられずに、ただただ呆然と、西行妖の裏から歩み出てくるその少女を見ていた。
視界の端を、蝶が過ぎった―――気がした。
「その手鞠……」
童女が、手鞠を拾い上げた少女へと駈け寄っていく。この童女には―――本当は、先程の蝶の大群と西行妖の満開が見えていなかったのではないのか。そう思えるほど、ごくごく自然な所作だった。
「これ……あなたの?」
手鞠を拾い上げた少女が、少し戸惑ったような表情をしながらも、腰を屈めて童女と視線を同じくし、微かな微笑みを湛えて手に持った手鞠を差し出す。
「うん、あたしのなの。ありがとう、お姉ちゃん」
童女は手鞠を受け取り、礼の言葉を述べた。だが、それからすぐに小首を傾げて、
「でも……。お姉ちゃん、だあれ? どこから来たの?」
無垢な質問は、しかし少女を戸惑わせた。
「え……? 私……は……」
少女の姿が滲む。そのままぼやけて消えてしまいそうなほどに、霞んだ。
だから、妖忌は消えてしまわぬように。夢が覚めてしまわないようにと、きつく抱き締めていた。止め処なく流れる涙も、嗚咽も隠さない。ただただ、少女がそこにいるという事を確かめていた。
突然抱き締められて、少女が更に戸惑ったような顔をする。その、記憶と全く変わらない姿の少女へと、妖忌は言う。これは夢ではないと、夢である訳がないと言うように、誰もに言い聞かせるように、
「……お早う御座います、幽々子様……」
言葉の殆どは、嗚咽に呑まれてはっきりとは言えなかった。だが、彼女には聞こえている風だった。はっきりと、腕の中の少女の強張りが解けたのだ。
少女―――幽々子に、嫌がる気配は無かった。逆に、肩が下がり、落ち着いたかのような感覚を感じた。
変わっていない。何もかも、記憶の中にある幽々子のそれと変わっていない。記憶の中と同じ、まだ少しだけあどけなさを残したその顔を見る。
涙は変わらず止め処ない。だが、妖忌は確かめるように、言葉を続けた。
「……よく、眠れましたか?」
あやすような言葉。愛子をあやし、慈しむ言葉。
その言葉を受け、ややあってから幽々子は頷いた。
「……うん。おはよう」
それが、すべてだった。
今はただ、この夢が決して覚めぬようにと。それだけを、願った。
~~~~~~~~~~~~
そして。
子には、西行妖を悼むと共に、
夢が永く続くよう、
『妖夢』と名付けられた。
声に振り向くと、そこには血のように赤い髪の女がいた。少しばかり金を持った家柄の、気っ風の良い一人娘といった風体の少女だ。白の服の上から紺青色の羽織を被り、腰元に白布を巻き銅銭を一枚付けている。そして、その手には明らかに異質な、巨大な挙句に畸形にねじ曲がった鎌が握られていた。
さながら絵巻物に出てくる死神を半端に真似たかのような少女は、つと視線の向きを変えた。遠くが見通せないほどに広い川、その向こうへと。
「まだ渡らないのかい? ……こっちとしては、とっとと渡ってもらわないと仕事にならないんだがねえ」
自身、さして困ってなさそうな口調でそう言うと、手近な石の上を手で払い声を立てて座り込む。
薄靄が立ちこめていた。空も、川も、道も、その向こうが朧に霞む世界の中、少女はこちらをじっと見つめている。
どうやら返答を待っているようだ。そう見当を付けると、溜息交じりに言葉を返す。少女というよりその手中の鎌を見ながら、
「そう言う割には……先程から、あまり熱心に仕事をしているようには見えないのだが?」
逆に返した問いに、少女はにやりと笑った。決して嫌味な笑いではなく、豪放といった表現がよく合う笑み。それから一呼吸の後には、大口を開けての笑いの声も来た。
「あっはっは! ぼんやりと座り込んだまま、何をするでもないお客さんに言われるとは思わなかったよ。……いや、今日はあたいにしては随分と働いてる方さ。ほら、こうやってなかなか渡ろうとしないお客さんを熱心に説得しているところだ」
どうだかな、と言葉を返す。少女の言葉遣いは明らかに乱暴だったが、それは単純に邪気が無いからこそ出てくる直情的なものであり、含みや図りとは無縁である。
礼節も遠慮も無い少女の態度に、しかし不思議と悪い気は抱かなかった。
じゃらり、という砂利を擦り合わせるような音。見れば、少女が手の中で小さな巾着を弄んでいた。音はその中から聞こえ、その巾着に恐らく銭が入っているであろう事が窺えた。
「お客さんからはもう、貰うもんも貰った。あんたは金を渋りもしなければ、礼儀に欠けてもいなかった。見たところ、この銭の重さの示すところ、徳の無い人間って訳でも無さそうだ。渡るってんならすぐにでも向こう岸まで着ける」
少女の言葉に苛立ちなどは無く、単純にこちらを気遣ってのものだという事が分かった。基本的に気さくな性格らしい。
だがその言葉には頷かず、少女から視線を外し、元々見ていた方へと向き直る。薄靄の向こう、川のある側とは反対。川縁で何をするでもなく座り込んだまま、そちらをじっと見つめ続ける。
「……すまんな、もう少しだけ待たせてくれないか」
と、少女の雰囲気が変わった。気遣うような気配から、怪訝なものへ。
「……あんた、ひょっとしてとは思うんだが……生き返りでも信じてるのかい? 稀にいるんだよ、そういう輩が。死んだって事が分かっても、何か奇跡みたいなものでも信じてそういうのを待つ者が。死と生は陸続きなものじゃあない。言ってみれば、雲上の社と大地みたいなもんだ。一度落ちてしまえば、もう社に戻る事は適わない。普通の人間は、空なんて飛べないからね。だが、時に死んでからも、自分が飛べるという幻想を抱く人間がいて困る。ある種、そういうのが一番質が悪いんだが」
「いや」
やや説教じみた少女の言葉を、素直に否定する。
「確かに自分は死んだ。そして、恐らくは裁きを受け、転生を待つ身なのだろうな。その位は、こんな所にいれば分かる。しかし、もう少しばかり待って貰えないか……ただ、人を待っているのだ」
薄靄の向こうから、何者かが近付いてくる気配。一瞬の淡い期待を抱いて見ていたが、残念ながら待ち人ではなかった。見た事もない老人が、遠くの川縁へと歩んでいく。そして、やはり畸形的な鎌を持った、眼前で石に座っている少女とは別の若竹色の羽織の少女と何事かを話し始めた。
老人はやがて懐から巾着を取り出し、まるでその重さに驚いたかのような表情を見せた後、躊躇う風も無く若竹色の羽織の少女へと手渡した。少女は一度頷くと、川縁に停めてあった一艘の小舟へと老人を案内した。
そして少女が竹竿を持ち、人力で渡し船を漕ぎ始める。船は幾許かの時間の後、霧の向こうへと消えた。
「普通は、大体ああやってすぐに船に乗るもんだ。さして渋る事も無く、な」
言って、少女が辺りを見回してみせた。薄靄に覆われた世界は、彼岸と呼ばれる彼方の岸だ。
「待ち人って言うからには……お客さんと前後して死ぬ人なのかい? まさか、単純にその人の寿命が尽きるまで待とうって言うんじゃあ無いよな? さすがにそこまで待ってると、あたいより先に閻魔様がお怒りになる」
ぶらぶらと、足を前後に振りながら少女が言う。
この鎌を持った少女は、死神だ。といっても、今はただの船頭だが。本人がそう自己紹介した訳ではなかったが、見た途端に理解出来た。あらかじめ、総ての人が無意識に知っている存在なのかもしれない。
ともあれ、その死神の少女が質問をしてきている。答えを考え、虚空を見、
「……戦があったのだ」
ぽつりと言った。
突然話題を逸らされた事に少女が怒るかもしれないとも思ったが、どうやら話をする事自体が嫌いでは無いらしく、少なからず死神の少女はこちらの話へと興味を持った様子だった。振っていた足を止め、鎌を地につけ聞く姿勢を整えた。
「自分はその戦に参加したのだ。敵は多勢だった。何百いたのかも知れない。対する味方は、せいぜい村一つ程度の規模の人数しかいなかった。勝敗など、最初から決まり切っていたようなものだ……そして」
霞む空を、振り仰ぐ。待ち人の事を、大事な人の事を思い浮かべる。
「自分は……約束を守れなかったのだ。守りきると……例え現世にいようと、隠世にいようと、共にいると……そう約束したというのに」
「……大事な人を置いて、自分だけが先に逝ってしまったって訳かい?」
さすがに察しが良く、少女が話の先を繋げた。まさしく言うとおりだったので、首肯を一つ。
「あの敵勢だ……考えたくはないが……恐らく、保つまいと思う。生きているのに越した事はないが……もしも、こちらに来たとしたら」
再び、頷く。今度は少女に対してというより、自分に対して。
「今度こそ、共にあろうと思う」
隣の少女へと視線を戻す。茶化すでもなく、嘲るでもなく、少女はこちらの話に静かに聞き入っていた。
「なるほどねえ……。ありふれた約束だが、確かにお客さんのその表情は……本物だ。……よっと」
掛け声と共に、少女は石の上から身軽に飛び降りた。手中の巾着を軽く上下させ、
「宵越しの銭はもう頂いたんだ。一晩を越す程度の時間は、待ってやらないといけないな」
だが、と言葉を繋ぐ。少しだけ目を細め、眉を立てる。険しい表情。
「そろそろ……お客さんのいた辺りでは、夜が明ける頃合いだ。あんたが来てから過ぎた時間は、もう随分と多くなる。正直、こういう事は言いたくは無いんだが……」
少女は初めて言葉に詰まった。それまで常にさばさばとした態度だっただけに、その変化は顕著だ。
暫く言葉を選んでから、少女は言いにくそうに口を開いた。
「その待ち人というのがここまで来ないとすると……、理由は幾つか考えられる。なんとか勝利したか、逃げ延びたか、……或は、……生け捕りにでもされたか」
「……」
少女の言いたい事は、分かる。
「……確かに、少々長居し過ぎたか」
言って立ち上がるこちらを、少女は本当に申し訳なさそうに見てくる。
ここまで待っても来ないのだ。何とか助かったと、そう思いたかった。
「……すまないね」
それ以上は言葉もなく、連れだって歩き出す。川縁に停められた、一艘の小舟へと。
少女が先に小舟へと乗り、備えてあった竹竿を手に取る。従い、小舟の中へと乗り込む。
「あんたはどうも、名家と縁でもあったのかな。相当に金を持っていたじゃないか。死後の財産は己の財産ではなく、自身を慕ってくれていた人間の財産の合計だ。その点お客さんは、随分人に慕われていたようだ。……船旅はそう長くないだろう」
船出は静かに行われた。人力船だというのに、船頭が手慣れているためか存外早い。あっという間に川縁から離れ、霧の中へと入っていく。
「この三途の川はな……川幅や深さが定まっていないんだ。いつだって、まるで人の世のように目まぐるしく変化している。まあ、変化させてるのは主にあたいなんだが」
霧の中でも少女の操船に淀みはない。行き先を見失わず、真っ直ぐに進んでいく。
「お客さんの場合は、かなり短いだろうね。人によっては数日経っても辿り着かせないんだが、今日はあたいの心ばかりの便宜だ。……ほら、もう対岸が見えてきた」
唐突に霧が晴れると同時、呆気なく岸が見えた。少女は静かに竹竿を動かし、小舟を岸へと着ける。
と、岸に立ちこめた薄靄が揺れ、到着した岸の向こう側から気配が近付いてくる。
霧中の姿が見えるより早く、言葉も来た。
「……まったく、いつまで経っても連れて来ないと思ったら……」
「え……!」
聞こえた声に聞き覚えは無かったが―――何故か、後ろで死神の少女が震え上がるような気配を発し、突然狼狽え始める。
「え、そんな。何故、こんな所まで。あ、いや……きょ、今日は割と真面目にやってますって! 確かに多少話し込みもしましたけど、川幅も短かったですから、いつもと大して変わってないですって!」
先程までの肝の据わった態度を何処へかなぐり捨てたのか、見ていて情けなくなるほどの慌てぶりを晒す。
だが、薄靄の中の声は僅かに苛立った様子を隠そうともせず、
「……いいですか、小町。あなたにとってのいつも通りは、即ち怠慢なのですよ。あなたは普通が遅いというのに、それと変わらないというのは……、もう遅延以外の何物でもありません」
「あぁぁぁ、すみませんすみません!」
恥も外聞も無く、死神の少女―――小町が平謝りを始めた。
その矛先の声の主が、やがて薄靄の中から姿を顕した。
風変わりな格好の少女だった。体躯こそ大きくない、年端もいかぬ少女といった風体。しかし、纏っている雰囲気がどこか風格と威厳を漂わせていた。階位の高さを匂わせる、装飾性に富んだ道服と冠。
―――閻魔様。
脳裏に、その単語があまりにも自然に浮かんだ。
自然に圧倒され押し黙っていると―――新たに顕れた少女の視線が、こちらへと向いた。
閻魔。死者の罪を裁くと言われている、人の世の最も初期の死者である神。
その閻魔と思しき少女が見せた表情は、しかし柔和な笑顔だった。慈愛に満ちた、人間味の強い微笑み。
「ようこそ、死者を裁き、転生の輪へと送る地、彼岸へ。……しかし、あなたの行き先は夜摩天でも、冥界でも、……ましてや地獄でもありません」
その言葉に反応を示したのは、こちらではなく小町だった。
「え……四季様、それは一体……」
小町の問いかけに、閻魔と思しき少女―――四季は答えない。ただ、黙ってこちらを指さしてくる。
正しくは、こちらではなく、その更に後ろ。川縁に立つ自分からすると、丁度川の辺り。
そこには、先程まで無い物があった。
それを見た小町が息を呑む音が、鮮明に聞こえてくる。続いて、四季が静かに語りかけてきた。
「……見えますね? その下り階段が。その先が何処へ通じているのか、どういう事なのか、それは残念ながら言えませんが……。しかし、これだけは言えます。あなたの行き先は、間違いなくそこです」
川縁に突如として顕れていたその下り階段は、川に浸かっている筈だというのに、丁度その位置だけ水が避けているかのように隙間が出来ていた。
「この階段……は……」
急下りな階段の先は見えない。まるで、それこそ地獄の底―――奈落に通じているかのような印象さえ受けた。
「振り向かないで。何も考えず、その階段を下りるの。……大丈夫、決して悪い事にはならないわ」
四季という少女の声が、こちらを突き動かす。何故かは分からないが、無心のうちに従い足が動き始めていた。
「あなたは未だ私の裁きを受けない。いつか、自身が裁きを受けるべきと判断したら、……再びこの彼岸までいらっしゃい。その時こそ、私があなたの罪を映してあげる。……ただし、一つだけ憶えておいて。これだけは胸に刻んで貰わないと困るの」
追い打つような声。足先は既に階段の一段目を踏みしめており、更には二段目へと次の足が動き始めていた。
「決して―――目を背けない事。それが、今のあなたに出来る善行よ。例え何があっても、事実を直視し、受け入れなさい。自棄になったり、悲嘆に暮れる事などは後からいくらでも出来る」
体は水に浸からない。ただ、階段の奥へと盲目的に進んでいく。何が起こっているのか、分からない。分からないままに、しかし言葉がこちらの内部にまで浸透してくる。
「大切なのは、今をどうするかです。大丈夫、あなたは今をどう動くべきか、本当は分かっているから。だから、決して目を背けない事」
言葉が遠くなっていく。奈落のような漆黒の中へと、体が沈んでいく。
意識が薄らいでいく感覚は、まるで死の感覚のようだ。永遠の眠りは、永遠の夜明けに近い。
「……死ぬんじゃないぞ!」
死神の一言に追われて、妖忌は階段を下りた。
~~~~~~~~~~~~
最初に感じた物は、光だった。
「……ぬ……」
夜明けに感じる覚醒の感覚。それに近似した感覚に頭を支配され、呆然と物思いをする。
朝は、日課の早朝の修練をしなければならない。毎日欠かさず続けてきただけに、目覚めと同時に考える事はそれである。
だが、一瞬の後には早朝の修練の事など忘れ去った。差し込む光の眩しさに目が眩み、無我夢中で伸ばした指先が手に馴染んだ柄の感触を掴んだ。冷えたその感触に意識が揺さぶられ、妖忌は文字通り跳ね起きた。
「これ……は……!」
気付くべき事は、あまりにも多い。
まず、夜が明けていた。その事もあってか、まるで永い夢に微睡んでいたのではないかと錯覚するようだった。だが、大地を埋め尽くす屍の群れが、否応無しに真実を突きつけてくる。
と。眼前で、何かが舞っていた。あまりにも近くを舞っていたためにすぐには分からなかったが、次第にその姿をはっきりと捉える。
それは紫の色を持った、二色の蝶。蝶が群れをなして、妖忌を取り囲んでいた。
「蝶……?」
混乱する脳裏を駈け巡るのは、幾つもの言葉。それぞれが断片的な思いと、一つの繋がりを得ていく。
戦。鬼道衆。富士見。父上。白楼剣。嘉実。西行妖。
―――幽々子。
「幽々子様!」
慌てて見回す。見渡す限りは屍の山で、動く人影は一つとして無い。代わりと言うように、妖忌の周囲には多くの死蝶。そして空には何羽もの黒鴉が舞っていた。
その時になって、自分の両手が二振りの刀を握り締めていた事に気が付いた。倒れていながらも手放していなかった、大切な二本の刀。
と、もう一つ気付いた。どこか感覚がおかしい。具体的にどうと問われたなら答えられないが、自身の体の感覚が一変しているようだった。
体が軽い。ともすれば宙すら舞えそうなほどに、自身の体に重みを感じない。
そして、何より一番の変化が目に付いた。
「これは……?」
妖忌のすぐ側。まるで付き従うように、白の色を持った球体がそこにいた。代わりにいつの間にか蝶の群れは消えていた。
その球体からは何の意思も感じない。と言うよりも、寧ろ自分の手足の延長のような感覚だった。指一本から特別な意思を感じないのと同様、あって当然のような感覚。
「一体……何が起こっているのだ……!」
あまりにも分からない事ばかりだった。だが、一つだけ。焦がすように絡みついてくる単語がある。
「幽々子様は……御無事なのか!」
視線を屋敷の方へと向けたところで、更に異変が目に入った。
「な……」
それは―――満開の桜。
屋敷の外からでもその威容が窺えるほどに巨大な妖怪桜。それが、夏場の筈だというのに拾分咲きに乱れていたのだ。
人を容易く死へと誘う妖怪桜の魅力は、この瞬間を差し置いて以上は存在しないだろう。それほどなまでに見事な満開だった。
だが、見とれるのは刹那の間だ。すぐに焼け落ちた屋敷が目に留まり、妖忌の心は焦った。
「屋敷が!」
無我夢中で駈け出す。とにかく、進まねばならないという意思の元に足を動かした。やはり、先程も感じたとおりに身体が軽い。強く一歩を踏み出し、大地を蹴ると―――
身体は、浮いた。
「―――!」
あまりにも自然に、妖忌の身体は大地に擦れるような高さで風を切っていた。突然の目覚めと共に分からない事だらけで、頭がおかしくなりそうだった。
だが、速い。人間の走りとは比べ物にならないような速度が出ていた。
今は迷っている場合ではない。とにかく一刻も早く西行妖の許、幽々子の許へ。
焼け落ちた屋敷の上を滑り、燃え尽きた並木桜の下をかいくぐり、妖怪桜の許へと急ぐ。
途上には赤の波があった。ただし、それは静止した波だ。見れば多くの鬼道衆が、その殆どが外傷もないままに倒れ―――絶命していた。
訳が分からなかった。一体何が起こったというのか。
「あれ……は……!」
やがて見えてきた妖怪桜の根本には、二つの人影。それも鬼面ではない。更にはどちらにも見覚えがあった。
「小努! 弥疋様!」
名を叫び、地に降りる。そのままの勢いを伴ったまま、二人の許へと駈け寄った。
「……妖忌……様……?」
信じられぬ物を見た、とそういう顔で、小努がこちらに気づき目を瞠った。続いて、左腕に傷を負っている弥疋もこちらの姿を認め目を見開く。
「妖忌……なのか!」
明らかに驚き、戸惑っている様子の二人の許へと駈け寄る。両手に持っていた楼観剣と白楼剣、それらを納刀しながら、
「一体……何が起こっているのですか! 皆は……西行妖は……!」
周囲を見回す。いるべき筈の人が、いなかった。
「幽々子様は、何処に……!」
二人は、どちらからともなく視線を合わせた。驚きの表情は、やがて苦虫を噛み潰したかのような辛そうな物となる。
まさか、という思いが奔った。背筋にぞくりとするような冷たい汗が流れる。
「幽々子様は……幽々子様は、一体何処に! 御無事なのですか……!」
必死の問いかけに、しかしすぐには答えが返ってこない。だが、幾許かの時間の後に桜を乗せた風が吹いた。
妖怪桜が、その身を一度揺らした。
『……近舶妖忌。その問いには……儂が、答えよう』
妖怪桜、西行妖は訥々と語った。
妖忌が倒れたという報せが届いてからの、戦の成り行きを。押し寄せた鬼道衆と相対した幽々子達の奮戦を。火にかけられた西行妖と、その最後の拾分咲きを。
そして、怨気の解放を防ぐために、贄となり自尽した幽々子を。
時折小努や弥疋の補足も付け加えられながら語られた顛末に、妖忌は愕然の思いを隠す事が出来なかった。
沸き起こる感情は名状しがたい。哀しみとも、絶望とも、怒りとも取れた。
「何故……何故なのだ、西行妖! あなたが付いていながら……何故、幽々子様が!」
聞き終えるなり、妖忌は幼子のように喚き散らした。覚束無い足取りで妖怪桜へと歩み寄ると、西行妖は反論も否定もせず、ただ一言を答えた。
『……すまない』
「―――!」
握り締めた拳も止まらなかった。噛み締めた歯が軋みの音を立てる。瞳を赤に染めながらも、感情の奔流はなお抑えきれず、妖忌は拳を振りかぶる。
「待て! 妖忌!」
後ろで弥疋が叫ぶが、今更止まる事などは出来なかった。とにかく、沸き立つ感情が完全に暴発しかけていた。
だが、妖忌の拳は西行妖へと届く事はなかった。
「……そこをどくんだ! 小努!」
突きだした拳は、西行妖を庇うように妖忌の前に立ち塞がった小努の鼻先に触れるかという所で止まり、震えた。
対する小努も、眼前に迫った拳に震えていた。しかし、開かれた口から紡がれる言葉は強い。
「……どきませぬ!」
震えているというのに。眼前に迫った暴力に、瞳は怯えの色を隠していないというのに。
小努の言葉は、棘のように鋭かった。
「どうしても……どうしても、その激情を抑え切れぬというのでしたら……その拳を、この小努にぶつけください! 幽々子様を……大事な主を守り通せなかった、この小努に!」
強い語気で、強い意志が語られた。
―――小努を、殴る?
小努の言葉に、一瞬の眩暈を感じた。
―――誰が?
その問いかけの答えは考える必要すらない。
―――……自分が、か?
急速に自身の頭が冷えていくのが分かった。拳の震えは更に増し―――静かに、下ろされた。
どういう顔をしたら良いのか分からない。どういった表情に落ち着けば良いというのだろう。分からないまま、憮然とした顔で頭を下げた。
「……すまない。どうか……していた」
そうして下げた頭を、不意打ち気味に抱き締められた。
「―――」
不思議と抵抗は感じなかった。小努の体の震えと、自身の体の震えとが合わさる。
柔らかさと温もり。冷え切っていた体が、純粋に心地よさを感じた。
「すみません……私達がついていながら、幽々子様をお守り出来ず……」
抱かれた外から届く言葉は、謝罪だ。
「ですが……あの場は、それ以外に道が無かったのです。そして、幽々子様は―――総てを受け入れ、安らかな心で逝かれたのです。どうか、その死に様を……他ならぬ妖忌様自らが汚す事の無きよう……」
「……すまん……」
小さな謝罪。万感の思いを込めた一言だった。それを聞き、小努が抱き締める腕を放した。解放され、妖忌は一歩を下がると再び頭を下げる。
「有り難う、小努。……自分は、自ら過ちを犯してしまうところだった」
それから視線をゆっくりと動かし、西行妖の―――その根本を見た。
あの下に。僅かな土の下には、幽々子の亡骸が眠っているのだという。
一瞬だけ胸に去来するのは幽々子が舞を踊ってくれた時の事だ。あの時、死蝶を握り締め自尽しようとした幽々子を止める時、妖忌も死蝶を握ってこう言ったのだ。
お供する、と。
どうだろうか。今は、追うべきなのだろうか。
だが、それこそがまさに幽々子の死を汚す事になるのではないかと、そう思えてしまった。そう思うと容易く決められることではない。
「……ところで妖忌よ。先程からお前が随伴させている……まるで霊魂のようなそれは、何なのだ」
弥疋の言葉にその存在を思い出した。見下ろすと、確かにそこにあった。
尾の生えた球形。淡い白の燐光を放つそれは、確かに言われてみれば話に聞く霊魂のような形だった。
「自分にも分からないのです……。と言うより、確か自分は……」
―――妙な船頭に連れられるまま、三途の川を渡った。
「……嘉実との戦いの直後……死んだ、筈なのですが……何故か、このように……」
『……甦ったというのか』
少し、疲れているような西行妖の声。失った霊力とやらは、やはり相当に大きいのだろうか。
『……或は、西行寺幽々子の力なのかもしれん』
「……幽々子様の?」
言われた言葉はすぐには信じる事が出来なかった。
確かに幽々子は西行妖の力分けを受け、異形の力を宿していた。だが、その力は―――
「莫迦な……幽々子様の力は、人を死に誘う力の筈」
間違っても人を甦らせる力ではなかった筈だ。もしそのような力だったとしたら、あの幽々子の苦悩はあるはずがない。
だが西行妖は言葉を改めない。寧ろ自身の言葉を裏付けるように、
『だからこそ、だ』
西行妖の声は直接頭の中に響くようだ。その声が、続きを紡いでくる。
『つまり、西行寺幽々子は……死した其方に、死を与えたのだ』
桜が数枚舞った。風の力を受けるだけの無力な花びらは、やがて地に落ちた。
「死んだ自分に……死を与えた? ……西行妖よ、言っている意味がよく分からないのだが……」
理解出来ない、と妖忌は言う。既に死した者に死を与えたとて、何が起こるというのか。
だが、はっとしたように唐突に顔を上げた者がいた。思い至ったという風な顔の弥疋が、
「生者必滅の、理……」
『……左様。生きるというのは、即ちいずれ死す事に他ならない。つまり、避けられない死へ向けて船を漕ぎだすという事こそが、まさに生きるという事』
漸く、妖忌にも理解が出来た。つまり、幽々子は一度死んだ筈の自分を甦らせ、
「再び、いつか死を迎えるように……」
『恐らく、自尽に伴い儂の花びらを喰らい……その死の間際に、特に強い力を得たために出来たのだろう……』
注目が白の球体に集まる。
『……だが、勿論完全な蘇生が出来る筈も無かったのだろう。結果として其方は……半分死に、そして半分生きているという、曖昧な存在として反魂したのではないだろうか』
「とすると……この霊魂のような物は」
試しに動かそうとしてみると、それは妖忌が思った通りに動いた。
『恐らくは、其方の半身……なのだろうな』
思い出す。目覚めた自分を囲むように、包むように飛び交っていた蝶達を。この半身と引き換えにいつの間にか消えていたあの蝶の群れこそが、妖忌に再びの死を与えた反魂蝶なのではないだろうか。
幽々子の最後の力。たった一度だけの、反魂。未熟で、不格好だが、それはまるで、
「……自分は……」
呻く。ともすれば零れそうな涙を堪えて、
「自分は、花を散らせた幽々子様が最後に成らせた……実、なのか……」
「それで……これからどうしますか?」
怨気が解放される事はなんとか抑えられた。だが、それは完全な解決を意味してはいない。
残された者、それはあまりにも少ない。更には屋敷さえもが失われてしまったのだ。
「出来れば……私は、一度讃岐の方へと赴きたい」
左腕に布を巻き付けて応急処置とした弥疋が、そう言った。
「彼の地に住まう僧達は、我々の事情を知る者だ。さすがに全面的な協力は難しいかもしれないが……恐らく、何らかの助力は貰える事だろう」
前向きな提案。だが、
「ですが、弥疋様。鬼道衆の手により、我々の船は総て……。それに村人の話によりますと、彼らが乗ってきた小舟も総て燃やされたとの話で……」
「鬼道衆の本隊が乗ってきた巨大船は……さすがに一人では動かせぬ、か。……それに、僧達や途上の港で要らぬ騒ぎを起こしてしまうだろうな。……何より、奴らの船に乗る気は……起きぬな」
船が無ければ讃岐まで行く事も出来ない。妖忌が単身で飛んで行こうにも、僧達と面識が無い彼では要らぬ警戒を抱かれるだろうし、何より場所が分からない。
そして新たに船を造ろうにも、人手も時間も足りない。
「八方手塞がりなのか……?」
考え込んで、暫く。弥疋の視線が西行妖を見た。
「……西行妖よ。今、私が其方の力分けを受ける事は……可能か?」
突然の問いかけに、誰もが弥疋を見た。西行妖も、神妙に枝を数度打ち合わせる。
『……ああ、今まで力分けを受けていた西行寺幽々子が没したために……可能だ』
「そうすると、再び其方が霊力を失う事にはならないのか?」
『いや……。霊力は、そもそも儂が与えたものではない。儂は一人の者に異形の力を与えるだけで、その原動力となる霊力は……力分けをした相手が、元来持つ物だ。西行寺の血を引く者はその誰もが霊力に秀でており、それ故に代々力分けを受けてきた……例え分家だろうと、西行寺の血を引く其方ならば充分に素質がある』
答えるうちに西行妖も理解したようだ。妖忌にも、弥疋の質問の意図に何となくだが予測がついた。
そしてその予測は、次の問いかけによって確信へと変わった。
「その異形の力の中に……海を越える事が出来る力は、あるか?」
逡巡は短い。だが、妖怪桜は確固たる口調で答えた。
『ある。……人が乗れる程度の大きさの丸太さえあれば、死霊達の力を借り、即席の船とする事も可能だ。多少時間はかかるかもしれぬが、決して不可能ではない筈』
居合わせていた者達の表情が、僅かに綻ぶ。しかし、その喜びは続く言葉に遮られる事となった。
『ただし……それ以前の問題がある』
迷うような間を置いて、西行妖は言う。
『儂の力分けを受けた者が……儂より離れた地でその力を使ったならば……その身は一年(ひととせ)と保たずに、例外なく果てる』
恐らく海を渡る時点でもう駄目だろうと、西行妖は言った。
元々人の手に余る力ゆえの制約なのだろう。
何とも言えない空気が広がる。だが、当の弥疋は全く気にした風も無く一言を尋ねた。
「……それだけか?」
一種冗談のようにも聞こえるその問いかけは、だが続く言葉によって本気である事が伝わってきた。
「愛子が決意を旨に自尽したのだ。一年もの猶予がつくというのに、私が躊躇う必要などどこにある?」
弥疋はそのまま、先程小努が集めていた桜の残りへと近付く。
彼の本気が痛いほどに伝わってきた。だからこそ、妖忌はそれを引き留めた。
「弥疋様! そのように命を徒(いたずら)に捨てられては……! 何か、他にも策がある筈です! どうかお考え直しを!」
「……死は、或は泰山よりも重く、或は鴻毛よりも軽いのだ」
弥疋は桜を掴む。
「命はみだりに捨てるべきではないが……だが、場合によっては進んで差し出すべき時がある。……他に策があるというのなら、既に思いついている。だが……他に道は無いのだ。我らには時間も、助けの手も足りていない」
「……」
妖忌は引き下がる。ここまでの決意を見せられてなおも引き留めるのは無礼以外の何物でもない。その事がよく分かっていたから。
弥疋は桜を手に、辺りを見回した。西行妖の桜はそのままでは喰らえない。もしそのまま喰らったならば、幽々子と同様に命を落とす事となる。
かまどのように熱を与える物か。或は熱を持った液体で、その性質を薄める必要があった。
「……妖忌、白楼剣を貸してくれないか」
迷いを断つという、短刀を。
唐突と言えば唐突の言葉。だが妖忌は戸惑いながらも白楼剣を鞘ごと外し、弥疋へと手渡す。
「あ……はい。しかし、一体何に……」
言う間に弥疋は短刀を引き抜き、その刃を己の左腕の傷口へと押し当てた。
僅かな力を込め―――引く。
「弥疋様……!」
小努が慌てて駈け寄ってくるのを、しかし弥疋は視線で制する。
白楼剣は弥疋の左腕、元から傷があった場所に再び小さな浅い切り傷を作った。鮮血が滴り落ちる。
彼は白楼剣を鞘へとしまう。そして滴る血を桜へとかけた。
乳白色の輝きを湛えていた桜の花は、瞬く間に赤の色に染まっていった。
「……これで良い。妖忌よ、すまなんだな」
驚きの顔をしたままの妖忌へと、白楼剣を返す。
桜の花によく血を通し、混ぜる。こうする事で、この桜の性質は顕界の物で薄まる。
『……自らの血で、薄めるとは……』
「つまらぬ迷いも断てたわ」
さて、と弥疋は前置きする。いよいよ昇りつつある陽を、巨大な妖怪桜を、そして妖忌と小努を見る。
空気が変わる。まるで元服を迎える時のような儀式的な空気へと。
そして弥疋は妖忌を凝視し、おもむろに宣言した。
「……妖忌。今この時をもって、そなたの近舶の姓を剥奪する」
妖忌が何か反応を示すよりも早く、弥疋の言葉が続く。
「そして、富士見の一族はここにてその役目を総て終えた事を、当主代理弥疋の名をもって宣言する」
その言葉は―――あまりにも意味を持ちすぎた。
「な……弥疋様! いきなり、一体何を仰るのですか!」
元々切れ者である弥疋が突発的に物事を言うのは、決して珍しくはない。
だが、今回はあまりと言えばあまりの内容である。妖忌の叫びも当然のものだろう。
弥疋は手中の桜に血を染み込ませる事を続けながら、横目で妖忌を見てくる。彼の切れ長の瞳は普段と変わらず理知的な輝きを湛えており、決して狂言の類ではない事が察せられた。
「其方達とて分かる筈だ。もう、富士見の一族などという束縛はその意味も必要性も無い。地も、人も、総てを失っているのだから」
彼は決して自棄になっている訳ではない。ただ、家族を慈しむような眼差しでもって妖忌と小努を交互に見た。
「これ以上縛めを受けて生きる必要はない。其方達は、もう自由なのだ。我が愛子、幽々子の最大の友である小努、そして幽々子が最後に成らせた実である妖忌。其方達はもう、総ての束縛から解き放たれるべきなのだ。……これ以上は個人の領分だ」
弥疋は抱えた桜を、西行妖を見る。
「この後も西行妖を守り奉る事を続けようと思うならば、止めはしない。だが、これだけは忘れないでくれ。もはや、其方達はこの地に縛られる必要は無いのだ。もしもこれ以降も護国に付き合うと言うのならば……それは、其方達が自分自身で決め、行ってくれ」
それはつまり、
「護国も、富士見の一族も、この地の事も総て忘れ、どこかで秘かに生きても良い。私がこれから向かう先の僧達の力添えがあれば、ある程度はどうにかなるだろう。……幽々子の願いなのだ。其方達には幸せになる権利がある。この地の事で胸を痛める必要は無い。自分のしたいと思うように、生きてくれ」
弥疋は見せつけるように桜を持ち上げる。血に染まった花びらは鮮烈で、しかし美しかった。
「私の事も忘れて良い。私がこうして護国を続けるのは、偏に私自身がそうしたいと願うからだ。其方達も、自身がそうしたいと思うように生きてくれ」
弥疋は背を向ける。海のある方角へ、自身の行きたいと思う方へと歩き出す。
「では……さらばだ。恐らく、私はこの地に帰っては来ない。今生の別れだ」
声が―――出なかった。
弥疋の言葉が理解出来なかった訳ではない。言う事も、逐一納得は出来る。確かに、たかだか二人が残って護国を続けようとしたところで、何が出来る訳でもない。ならばと自由に生きる選択肢を与える事は、分かる。
「無責任な大人ですまないな……。では……達者で暮らせよ」
弥疋は返事を待たない。求めてすらいない。ただ、生まれ育ったこの地を去りゆく。転がった亡骸で埋まった地を歩き、焼け落ちた桜並木の間を抜け、瓦礫と化した屋敷を踏み分け、やがて―――見えなくなった。
後には何も残らなかった。縛めも、枷も。
「……」
言葉すらも。
『……儂も、そろそろ眠りにつかせてもらうぞ』
弥疋が見えなくなるまで待ってから、西行妖がそう言った。
『何年か……何十年か。或は何百年か。失った霊力はやはり大きい。ともすれば、もはや其方達とは再び見えぬかもしれない。だが、西行寺幽々子の命を無駄にせぬためにも……儂は眠りにつき、力を取り戻そう』
何と答えるべきか。弥疋から言われた言葉にすら答えが出ていない妖忌は、惑う。
『……気の利いた別れなど、思いつかない。西行寺幽々子の別れの言葉を借りて、今は眠ろう。……どうか、幸せにな』
桜が、舞った。
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「……玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争える、高き、卑しき、人の住まいは、世々経て尽きせぬものなれど」
足音。地を踏みしめる感触を愉しむかのように、わざわざ立てなくても良い足音を立てて歩を進める。
風が凪いでいた。小山に立ち並ぶ若木の群れは騒ぎ立てず、時折囁くように葉を擦り合わせるのみだ。
「これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり」
幾度の雨風と、幾度の雪がこの景色を埋めたのだろうか。
景色は変わるもの。特に、人の手が加わった地となれば尚更だ。
「或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。……住む人もこれに同じ」
人の世の変化は目まぐるしい。渦中にいる者達は日々の暮らしに追われ、その変化を実感する暇も無いだろうが、遠くから見ているとそれをよく感じる。
国で一番偉い者というのも目まぐるしく変化する。全く同じ人間の天下が百年続いた試しすらない。必ず、子や分家の者へと取って代わる。それが人の世の常。
「所も変わらず、人も多かれど、古に見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり」
連れはいない。家で帰りを待たせている。だから少女は、かつての地を独りで歩む。
懐古や郷愁は感じない。そもそも、この地は彼女にとっての故郷ではない。多少、思い出深い地であるというだけに他ならない。
「朝に死に、夕べに生まるるならい、ただ水のあわにぞ似たりける」
人間の一生はあまりにも短い。人の世が目まぐるしいのは、人間が目まぐるしく生まれ、目まぐるしく死んでいくからに他ならない。人間はただ生まれてくるだけだというのに、その道中で必ず目的を探す。そのため、人の世は変遷していくのだろう。
「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる」
つま先が何かに触れかける。見れば、それは一輪の小さな花。誤って踏めばそれだけで失われてしまうような、無力で、しかし確かにそこに咲いた命。
ふっと、少女は笑んだ。多くの血が流れ、人の命が失われた地にも花は咲く。誰の霊を宿したかは知らないが、今はただ無常の中でその花を無邪気に揺らす。
「……その、主と住処と、無常を争う様、言わば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残ると言えども朝日に枯れぬ」
花は、弱い。強風や豪雨、旱魃(かんばつ)に晒されるか、生き物に喰われるだけで無抵抗に死んでいく。
少しの波で消え去る泡沫だというのに、飽かずに咲く。咲き乱れ、そしてその儚い命を潰えさせる。
「或は花萎みて露なお消えず。消えずと言えども夕べを待つ事、無し」
そこまでを諳んじ、少女は自ら一つ頷く。再開した歩みは、花を避けた進み。
奇異な様相の少女だった。存在感はあるのだが、どこか虚ろで捕え処がない。
まるで金花のように鮮やかな金の髪を棚引かせ、少女―――八雲紫は歩く。白と紫を基調にした、大陸系を彷彿とさせる服装も相俟ってどことなく胡散臭さを醸し出していた。
「……まったく。あの方もよく分からない事を言うわ」
口ではそう言いつつも、どこかこの状況を楽しんでいる様子だった。気が逸るかのように、進む足取りも軽く、だが楽しみを後に取っておくかのように急ぎすぎない。
「善行にはあまり興味ないけれど……あの子達がどうなったのかには興味あるわね」
かつては富士見の地と呼ばれていた地を紫は歩く。
戦の形跡などは、もう殆ど残ってはいない。風雨や積雪、そして人の手が加わり、総てを埋め尽くしてしまったようだ。
「……あれね」
やがて、紫の行く手を阻む物があった。
いくつもの縦長の石柱。明らかな目的意識の元に、それらが等間隔に、見渡す限りに配置されている。
石柱同士の間には注連縄が二重にも三重にも張り巡らされ、また幾つもの呪文が書かれた符が下げられていた。
石柱の向こう側は、特に何ら変哲のない風景が広がっていた。普通に野があり、木が生え、青空がそこにある。
だがそれが目眩ましに過ぎない事を、八雲紫は知っている。
紫は片眉を上げる。感心したように、呆れたように、
「……こんなに厳重に封じちゃって。遠くからだと分からない訳だわ。ここまで近付かないと、あの木の存在すら見えないじゃないの」
明らかに、低級妖怪では触れる事すら困難なほどに厳重な結界だった。境界を操る能力を持つ紫ですら何の苦もなく通り抜けられるという訳にはいかないようだ。
「結界を壊しちゃ、さすがに悪いわね。……一番結界が薄いところは……と」
結界の周囲を歩く事、しばし。目処を付けて立ち止まり、結界によって封じられた中空に触れる。
「開きなさい」
紫が触れた所が僅かに歪み、拉げるような音を立てて道が開いた。
先程まで見えていた、何でもない光景。紫によって開かれた部分から垣間見えたそれには、大きな変化があった。
あまりにも―――あまりにも巨大な、桜の木。開かれた結界の向こうに、それが姿を顕していた。
紫は躊躇いもなく結界の内側へと入っていく。窮屈そうに身を屈め開いた結界を通り、閉じた。
そして、あらためてその巨大な桜の木を見上げる。由旬に及ぶのではないかと思えるほどのその妖怪桜は、しかし春先だというのに花びらの一枚も葉の一片もつけてはいなかった。
かつて妖怪桜を囲うように建てられていた屋敷も、今ではその跡形すらない。代わりというように、妖怪桜の側に小さな小屋が見えた。
「……」
紫は再び歩みを再開する。
かつては庭園で、桜並木の道でもあった庭園。そこには、今ではたくさんの若木が生えていた。
あと数年ほどしたら、それらも立派な桜へと成長するのだろうか。
「千本桜とは言わないけれど……よくもまあ、これだけの量の桜を植えたわね」
見渡す限りの若木の中を、紫は進んでいく。急ぐ必要は無いというのに、我知らず歩調が早まっていた。
やがて巨大な妖怪桜へと近付いてきた頃―――その根元に、二つの姿を見つけた。
一瞬、立ち止まる。僅かに驚いたような顔を作り、しかしすぐに歩みを再開。妖怪桜の根元で動く影へと、真っ直ぐに近付いた。
人影だった。片方は妖怪桜に背を向け、一心不乱に刀らしき物を振っている。もう片方は、妖怪桜に背を預けて座り込み、何かを抱きかかえている。その二つの人影がこちらの姿に気付かない訳ではなかっただろうが、こちらが声をかけるまで彼が振り下ろす手を止める事はなかった。
「……お久しぶりね」
長刀を振り下ろしていた者の手が止まるそれは、若い男だった。
長髪を紐で結わえ、背中へと垂らしている。白緑の直垂の上から若竹色の羽織をまとった姿。歳は二十近くかと見える、精悍な顔つき。背中には長刀の鞘を背負い、腰には短刀を佩いている。そして、その傍らには―――霊魂のような、白の色を伴った半透明の球体が浮かんでいる。
「いえ……そこのあなたは、寧ろ、初めましてかしら? 見ない間に、随分と私達に近しい存在になったのね」
僅かに笑みさえ湛えて、紫は言った。
彼は右手一本で振り下ろし続けていた長刀を仕舞うでも無く、ただ紫の事を見返している。一文字に結ばれていた唇が開き、
「……八雲紫、だったか。随分と久しいな」
緊張している風でもなく、気負う風でもなく。ただ事実を確認するように、彼は言った。
「……あなたは、確か……幽々子様のご友人の、紫様。お久しゅうございます」
刀を振っていた男の傍ら、木の幹に背を預けて座り込んでいた白の服を着た女が、こちらを見てそう言った。
女の腕の中には、まだ年端もいかぬ赤子が布に包まれていた。穏やかな顔で、寝息を立てている。
「お久しぶりね、可愛い赤ちゃんじゃないの。確か……小努だったかしら? なんだか、少し痩せたわね?」
視線は、再び男へと動いた。
「そして、あなたとは随分と前に一度会って、それっきりだったわね。元気だったかしら?」
懐から扇子を引き抜き、口許を隠した。男は目元だけに笑みを残した紫から視線をずらし、自らの隣に浮かぶ球体を見る。
「御覧の通りだ。半分ばかり元気だが、半分は死んでいる。歳を取るのも、随分とゆっくりになった。……だが、概ね元気であるとは言えるか」
苦笑い、それに分類される表情を男は浮かべる。
「あなた、名前はなんと言ったかしら……確か、近舶……近舶妖忌だったかしら?」
「残念ながら、違う」
即座の否定。男は肩を竦め、
「言の葉では違いは分からないかもしれないが、自分はもう近舶妖忌ではない。魂魄妖忌だ」
言葉の上では、同じ。
だが、それを敢えて語る彼―――魂魄妖忌の表情は、その違いを雄弁に物語っていた。
「あれは……聞くまでもないかもしれないけど、あなたの子かしら?」
紫の視線が、再び小努の腕の中の赤子へと向いた。赤子には、よく見ればおかしな点があった。寄り添うように、小さな白い霊魂のような物が浮かんでいるのだ。
「……親に似てしまったよ」
妖忌はそう答えた。
そう、と一言呟き、紫は話題を切り上げ妖怪桜を見上げる。まるで枯れ木のように、葉も蕾すらもつけていないその様を眺め、
「西行妖はどうしたのかしら? もう春も盛るというのに、一向に花をつける気配が無いじゃない」
倣い、妖忌も西行妖を振り仰ぐ。その表情が一瞬だけ、悲哀のそれへと変わった。が、すぐに気のせいだったとでもいうように、元の憮然とした表情へと戻る。
「眠っている。かれこれ、十年近くか。……讃岐から結界を施しに来た僧達の話に依ると、どうやら封印に近い状態らしい」
「封印?」
鸚鵡返しに言葉を返し、
「……そういえば、幽々子は何処へ行ったのかしら? 大体、あなたの側にいたと思ったのだけれど」
思い出したかのように問いかけると、妖忌は再び笑った。今度は苦笑いではなく、どことなく嬉しそうに、
「幽々子様か? 幽々子様ならば……」
西行妖の幹に、手を触れた。
「ここにおられる」
一瞬、気でもふれたのかと思ったが―――どうやらそうでもないらしい。小努が、穏やかな表情で頷いている。続く妖忌の言葉が、彼の言動の意味を教えてくれた。
「いざ、西行妖の怨気が解放されそうになった時に……幽々子様は、幽明境を分かたれた。自らの身体を、霊力を贄として、西行妖の根本へと入られたそうだ」
語る彼の顔に悲しみの色はない。言うなれば、誇るかのような表情。小努も同じだだ。
自分の主君が、どれだけ立派であるかを語るような、そういった顔だ。
「幽々子が……贄に?」
問うと、妖忌は強く深く頷いた。慈しむように幹を数度掌で叩き、
「僧達が調べたところによると、……もう、西行妖は贄を必要としないらしい。幽々子様の霊力は強く……たったお一人で、西行妖の根に溜められた怨気を、今も封じ続けておられるのだ」
と、そこで僅かに顔を下げた。
「残念ながら、同時に西行妖の意識も深い眠りに沈み、再び花をつける事は無くなったが―――」
僅かな間。何かの思いを内包した、逡巡。それを振り払うように、彼は言葉を続ける。
「だが、良いのだ。西行妖は自分が度々贄を必要としていた事を嘆いていたが、もうその必要もない。ずっと、安らかに、静かに微睡んでいられるのだ」
花一つつけない西行妖を見上げる妖忌と小努の表情は、しかし誇らしげで、満足しているようだった。
そう、彼らの表情は―――有り体に言えば、幸せそうだった。
「……なるほどね」
合点がいった。
何故、夜摩天ともあろう者が直接紫へと言葉を与えに来たのかという疑問があったが、どうやら彼女のいつもの慈悲らしい。
つくづく、人を裁く立場に向かない者だと紫は思った。もう少し冷淡になるくらいで丁度良いのだが。……しかしそれも彼女の美徳なのかもしれないと、そう思い直す事にした。
ともあれ、紫はその意図を正しく汲み取った。最後の決定権を一見こちらに委ねているように見えて、その実断る余地など無い辺り、やはり敵わない。
「……その僧達の事なのだけれど。私がここに来るまでに見た限り、阿波の勢力が讃岐へと侵入した際の騒乱で……虜囚となったみたいよ」
その言葉が、非情な響きを伴っている事は紫にも分かっていた。
たちまちというように、二人の表情が凍り付く。誇らしげな色は一瞬で形を潜め、緊の一文字に支配された。
「……それは……真か?」
「生憎だけれど、今回ばかりは私は嘘を吐かないわ。そういうのをこの上なく嫌っているお方の勧めるままに、ここへ来たのだから」
恐らく、今妖忌が想像している事態は、かつて紫が話した事態と同じだろう。
かつて乱世の頃、西行妖の力を取り違え、ただの異形の力と思った人間達がこの地へと押し寄せた時の事を。
修行を積んだ僧達が簡単に口を割るとは思えないが、権力に目が眩んだ人間がどれだけ非道な尋問をするかは計り知れない。そして、もし口が割れたならばそれで最後、
「……またしても……この地が戦火に覆われるというのか……!」
「妖忌様、落ち着いてください……!」
狼狽える、などという程度ではない。絶望に打ち拉がれるような妖忌と、自身も混乱しながらも懸命にそう言い添える小努を、紫は見た。
独り言を呟くように、
「……妖怪は、本来人の世の争い事などには介入しない。ただ日々を楽しむ事を考えて、生きるだけ」
それは、人間が物を食べて生きるのと同じくらい当然な事。
だから、紫は決して人間同士の戦には参加しない。例え気に入った相手がそれに巻き込まれていようと、必要以上に関わったりはしない。
だが、
「ねえ、あなた達。幻想郷って、知ってるかしら?」
唐突に投げかけられた言葉に、二人の動きが止まった。
小努は目を何度か瞬かせ、知らない風。
だが、妖忌は動きを止め、思案するように虚空を見た。彼の半身がくるりと回る。
「……噂程度には、聞いた事がある。忘れ去られた者達が住む、人と妖の楽園というものが何処かの里にあると……確か、その名前が……幻想郷」
弾けるような音。紫が扇子に音立てて開き、妖忌へとかざしたのだ。
「ご名答。……人も踏み知らぬ山奥深く、多くの妖怪と、僅かばかりの人間が住まう無何有(むかう)の郷。そこの境界向こうにある冥界、白玉楼なのだけどね……」
くすり、と笑いを浮かべる。
「けっこう、空いてるのよ。この結界の内側を、そっくりそのまま移せるくらいの場所が、ね」
そうした方が―――面白いと思ったから。だから、紫は続けて告げる。こちらの言葉を聞くしかない二人へと、
「そして……何とも運の良い事に、あなた達の目の前にいる妖怪は、境界を自由にするだけの能力を持っているわ。……以前、ここに来た時の私とは違うわ。今や、私に操れない境界なんて存在しない」
扇子を持つ手をそのまま掲げ、顔を半ば隠すように動かした。
「あなた達が望むのなら……私が、招待するわよ。戦も脅えもない冥界、白玉楼へと」
「紫殿……何故、そこまで自分たちに?」
それまで話を黙って聞いていた妖忌が、もっともな疑問を口にした。
「そうです、紫様……。確かに、見ず知らずとまでは言いませんが……何故、そこまで私達を気にかけてくれるのですか?」
座ったままの小努が、か細い声で問うてくる。
……この娘は、何かの病気かもしれない。紫はそう思い直す。先程痩せているという印象を受けたが、改めて見ると、あまりにも痩せすぎている。顔色もどことなく青いままで、握れば折れてしまいそうな小枝のようですらある。
以前見た時はこんな風には思わなかった。それどころか、薙刀を持つ手に迷いもなく、震えすら無かった筈だ。
少し見ぬ間にこうまで変わるには、何か理由がなければおかしい。例えば、あまりにも強い死の魅力に当てられるなどというような。
―――気にするべき事では、ない筈だ。
人間など、どの道早くに死んでしまう生き物なのだ。たかだか数十年の死期の違いなど、妖怪の寿命から考えれば一度の夜明けの違いのようなものだ。
「……そうね……」
扇子で半分隠した視界の中、問いかけてくる二人の顔を順に見た。
この地に行けと指図した夜摩天の言葉を借りれば、善行だろうか。いや、そのような物に紫は興味がない。死後の事などを考えるのは人間くらいのものだ。
細かい理由なら、そのように幾つかは見つけられた。知らぬ仲でもない二人。西行妖の怨気は、捨て置くには危険。
が―――反して思い出されたのは、初めて幽々子と会った夜の事。侮辱や挑発をしてみたけれど、その総てを笑って去なした少女を相手に、紫は本心から笑顔を向ける事が出来た。
世辞も抜きに、良い友人になれるという気がしていた。
西行妖を―――幽々子が眠る木を見た。痛みを痛みとも感じない、辛さを辛さとも感じないと言われる理想郷、華胥氏の国。そこで遊ぶように、安らかに、何にも邪魔されずに良い気持ちで眠る幽々子。
だが、それも妨げられようとしているのだと、そう思った。
「……幽々子の頼みだから」
我知らず、言葉が出ていた。
「しょうがない子。ただ、ゆっくり眠っていたいなんて。そんな事、誰だって望むというのに……。でも、いいわ。あなたはあの夜、私を拒まなかった。だったら、私も……」
扇子が降りる。自分の表情など、見えなかった。
「あなたの頼みなら、拒まないわ」
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冥界。迷いや未練を持ったままにその命を終えた者が、閻魔の裁きを受けた後に転生を待つ地である。死後の人間は暢気になるものなのか、白玉楼で何か異変が起こる事など稀である。それも大概、余所から何者かが現れた際に起こる異変が精々だ。
珍客が現れたのは、そんな浄刹(じょうせつ)のような白玉楼が冬の季節を迎え始めていた時の事だ。
「……こんにちは」
穏やかな、包容力のある少女の声。どことなく聞き覚えがあるように感じて、顔を上げる。
屋敷の縁側、柱に背を預けて瞑想に耽っていたのは痩身の男―――妖忌だ。顔を上げた彼の動きと同様、側に浮かんでいた半霊が鎌首をもたげるように舞った。
「あなたは……」
慌てて、妖忌は板敷に手をつき頭を下げる。白が交じり始めた髪が垂れ、視界の端で揺らめいた。
「お久しゅう御座います」
一度だけ、彼女の姿を見た記憶がある。意識さえも霞のようだった、霧深い彼岸の記憶。人を待ち続け、そして死神と言葉を交わした三途の川。
「閻魔様」
冥界にあってもなお超然とした様子の少女へと、妖忌は恭しく挨拶をする。
「ええ、お久しぶりです。それから、私の名前は四季。四季映姫と言います。そちらで呼んでください」
少女―――四季映姫は微笑みを浮かべながらそう言った。
緑青(ろくしょう)の色を基調にした道服と冠。装飾性に富んだその姿は、見る者に威厳を与えて止まない。
「どうですか? 善行は積んでいますか? ……と、貴方に対してこれは愚問ですね」
「勿体ないお言葉です、……四季様」
恭しく頭を下げたまま妖忌は答え、上目遣いに辺りを見回した。
「……今日は、お一人ですか?」
「ええ。今日は仕事ではなく、私用で来ましたので」
人を裁く立場にあるとは思えないほど柔和な笑みを浮かべて、四季が言う。
「……私用、ですか?」
少し驚く。
閻魔様に私情が存在しないと思っていた訳ではない。単純に、閻魔様ともあろう者がこの白玉楼に私用でやって来るという事に驚いたのだ。
「御覧の通り、ここには何も御座いませんが……。多少の桜と、花をつけぬ妖怪桜がある程度。更に今の季節は初冬、花見にはまだ早いかと……」
四季がゆっくりと頭を振る。否定の仕草。
「……用があるのは、貴方ですよ。魂魄妖忌」
言ってから、四季が妖忌へと歩み寄る。そのまま妖忌の隣に座ると、荒涼とした風景に染まりつつある庭園へと視線を向ける。
「自分に……?」
ええ、と庭園を眺めながら四季が頷きを返してくる。一瞬の逡巡の後、
「貴方は……幸せですか?」
「―――」
突拍子もない質問を受け、妖忌は僅かに言葉に詰まった。
幸せであるかと。死後の人間の幸福を左右する権利を持つ者がそう訊いてきたのだ。意図する所が無い訳もないだろう。
幾許かの逡巡。幾許かの戸惑い。
立ち並ぶ桜並木の群れを眺め、薄靄に覆われた空を見上げ、それから四季の端正な顔を見、
「……ええ」
小さく頷いた。
問いかけた四季にもその言葉は届いただろうが、何も反応を返してこない。ただ、庭園をじっと見つめたままだ。
「未だに半分は人であるこの身では……時には寂しさも感じる事もあります。娘夫婦は壮健であるとはいえ、滅多に顔も見せませんから。また、かつての……数百もの年月の彼方に思いを馳せる事もあります。自分の半生を……いや、一生を過ごしたあの地での記憶、そして今は亡き者達に微かな思いを巡らす事も」
妖忌は四季から視線を外す。向けられた視線の先では、何処からともなく吹く風が庭園の花無き桜を揺らし、その物寂しい枝を遊ばせていた。
「ですが……」
繋ぐ言葉と共に定められた目線の先には、決して花を咲かせぬ巨大な妖怪桜がある。
「自分は、まだ幽々子様を守り続ける事が出来ます。……これ以上の幸福など、現世と隠世総てを探しても、あるものでしょうか」
今までも、これからも。妖忌が幽々子の盾としての役目を終えるその日まで、守り続けるのだろう。
この地に埋もれた、数多の約束を。
妖忌は、誇らしげな表情を隠そうともしなかった。
「……よろしい」
声に振り向くと、さっきまで隣に座っていた筈の四季の姿がなかった。
が、気配の動きはあった。庭園、縁側から数歩を進んだ先。そこに感覚を配すれば、閻魔はいた。
「用も済みましたので、私はそろそろ帰りますね」
黒の短い裾を寒気の滲む風にはためかせながら四季が振り返り、そう言った。その表情に人を安堵させるような微かな微笑みを湛えて、だ。
「もう、用が済んだのですか?」
早すぎる、という言葉は出ない。そもそも、何が用なのかも見当が付いていないのだから。
「ええ……」
しばし、彼女は迷うように視線を泳がせる。白玉楼は屋敷の庭園、そこにそびえ立つ妖怪桜の方へと。
「……私が幻想郷の夜摩天(ヤマザナドゥ)として職を遂行するにおいて、一人、裁くに裁けない者が存在します」
唐突な言葉は、まるで独り言のようだった。
「其の者は二度と苦しみを味わう事の無いよう、永久に転生する事を忘れ、ただただ華胥の永眠に微睡み続けている事でしょう」
続いている夜摩天の言葉に、妖忌は反応を返せない。ただ、彼女の言葉が示している人物が、自分の知る誰かを暗示しているような―――そんな、漠然とした錯覚を覚えた。
「ただ……世は生者必滅にして会者定離なれど、待ち人を待たせたままで眠り続けるのは感心しませんね。……幸い、封印も安定してきているようです。隠世という環境も適していますし」
「あの、四季様……一体何を……?」
四季の言葉はこちらに聞かせるためのものではなく、四季自身へと向けられた言葉であるものらしい。そのためか、紡がれた言葉の総てが理解出来ない。大事な部分が理解しきれない。
四季は視線ごとこちらへと向き直る。超然とした笑みはそのままだ。
「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)。……もうすぐ、蝶が舞う季節になるという事ですよ」
春を恋い焦がれ待つ、冬の季節の事だった―――
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「一で一の谷」
無邪気に手鞠が跳ねた。
手鞠をつく手つきは、傍から見ていても拙い。まず両手で同時についている時点で何かがおかしい。
だが、妖忌は何も言わない。厳しい顔つきこそそのままだが、下げた目尻でその様を見ているだけだ。
「二で庭桜」
手鞠歌に誘われるように、庭に咲き乱れる桜並木を見た。見渡す限り一面の桜の海は絶景という言葉以外に言いようも無く、どれだけの回数を眺めても飽きる事はない。
妖忌がこの地へとやって来た年も。小努が幸せそうな表情のまま、最後の息を引き取った年も。育った娘が下界に住まうと言い出した年も。閻魔がこの白玉楼にやって来た年も。それから幾百の回数、日付を改めても。
春は毎年と変わらずに、断りも無しに訪れていた。数百年間、一度たりとも春が訪れなかった事はない。恐らくこれから先も、春は必ずやって来る事だろう。誰かが桜の花びらをどこかに隠しでもしない限りは、春などというものは等しく総てに訪れる。桜並木が、それを教えてくれる。
「三で下がりふじ」
桜並木を一頻り楽しんでから、妖忌は手鞠歌の主へと目を動かした。
屋敷の縁側からほど近い位置で、一人の童女が手鞠をついていた。満月のように丸い、小さな手鞠を。
……一人という表現は、厳密には正しくない。童女の隣に浮かぶ半霊が、その幼子に含まれる人間の割合が半分である事を何よりも物語っている。
「四で獅子牡丹」
まだ言葉を使えるようになったばかりの時分。おそらく、手鞠歌の意味など全く理解してはいないだろう。
だが、それでも構わなかった。ただ、元気に手鞠をついてさえいれば。咲き誇る桜並木の中で、無邪気に過ごしていればそれでいい。
「五つ井山の千本桜」
無邪気に遊んでいる童女の両親―――妖忌の娘夫婦は、生まれたばかりの彼女を残して逝ってしまった。あまりにも呆気なく。まだこの幼子に名前を付けてすらいない間に逝ってしまったため、妖忌一人でこの子を育てなければならない。
童女には未だ名前が無い。誰もが愛でるような、良い名前を付けたいとは思っている。だが、そう思えば思うほどに悩んでしまい、今の今まで付け倦ねている。
「六つ紫いろいろ染めて」
そういえば、最近はこの白玉楼を訪う者もめっきり減ってしまった。以前は、すきま妖怪や、その式、その更に式が遊びに来る事も稀ではなかったのだが。
―――いや、紫殿が訪れる事は稀だったか。
この白玉楼に来てからというもの、紫は滅多に来なくなった。特に、冬場にその姿を見た記憶はない。彼女の式の話によると、あまりにも強い力を使ってしまい、それをのんびりと回復させるために一日の半分ほどを寝ているとの事だった。
紫にだけは頭が上がらない。
「七つ南天」
今日も白玉楼は静かなものだ。見事に咲き乱れる庭園の桜を見に来る亡霊は少なくないが、しかし彼らは不要に騒ぎ立てたりもしない。妖忌が目を光らせているというのが大きいだろう。
「八つ山桜……あっ」
声。続けて、手鞠が跳ねる無邪気な音。
見れば、先程まで童女がついていた筈の手鞠が向こうへと転がって行ってしまっていた。両手を使って弾ませていたためか、かなり勢いがついている。
「あっ……」
童女が慌てた様子で手鞠を追う。ともすれば転びそうな走りで、見ているだけで危なっかしい事この上なかった。
「む……」
縁側から降りて、妖忌も後を追う。さすがに白玉楼の庭で大事が起こるとは思えないが、だからといって孫の歳を考えれば心配しすぎという事は決してない。
「こら、走っては駄目だ。待ちなさい!」
呼び止めるが、童女は立ち止まらない。完全に跳ねる手鞠に気を取られており、こちらの声など耳にも入っていないようだった。
こういう時に、未だに名前を付けていない事が悔やまれた。名前なら、大声で呼べば或は気付くかもしれない。
立ち並ぶ桜並木が生んだ桜吹雪を越え、小さな背中に追い縋る。
「……?」
童女は立ち止まっていた。その手に手鞠は無く、手鞠は勢いこそ失ったものの未だに転がり続けていた。
手鞠のその先へと視線を向けた時、その理由が分かった。
「お爺ちゃん……どうして、あの桜だけ全然咲いてないの?」
童女がその小さな指先を向けたのは、庭の中央を大きく占める位置にある巨大な桜の木だった。
ただし、その言葉通り、その木だけがまるで枯れ木のように桜の花を一枚たりとつけていなかった。
「ああ……」
白玉楼の庭には、自慢の巨大な妖怪桜―――西行妖がある。だが、この西行妖が白玉楼において花を咲かせた事は一度たりとも無い。
「お爺ちゃんは、この桜が咲いたのを見た事があるんだよね?」
童女がこちらを見上げてくる。その無垢な瞳を見つめ返して、妖忌は僅かに目許を綻ばせる。
「ああ……。この桜……西行妖が、見事な花を咲かせたのを見た事なら何度もある。だが……そんな物とは比べ物にならない、本当の……拾分咲きを見たのは、ただの一度きりだ」
それは、散り際の花が最後に実をならせた時の事。
「それは凄い桜だったが、……もう二度と咲く事はないだろう」
ふうん、という孫の声を聞いた。想像もつかないといった様子だ。
妖忌はただ無言で瞑目し、両手を合わせた。多くの人に疎んじられていた西行妖。人との約束を守ろうと誰よりも純粋に生き、そして永遠の眠りに微睡んでいる。
妖忌が妻とした女、小努も、本人たっての強い希望により西行妖の下に眠っている。死に蝕まれながらも微笑みを絶やさなかった彼女にも、安らかに眠るよう祈りを捧げる。
そしてもう一人―――西行妖の下に今なお眠る一人の少女を思い、妖忌は悼む。
封印の春眠に耽る姫君は、果たして何を思っているのだろうか。
物思いに記憶が呼び起こされる。生前、彼女は郷を忘れても良いのは我を失った時だけだと、そう言っていた。生憎と、妖忌はまだ半分ほどしか我を失っていない。だが今では本当に我を失った彼女は、きっと郷も忘れ、安寧という水面に揺蕩(たゆた)っている事だろう。
彼女にはそれだけの権利がある。誰にも邪魔されず、華胥の永眠に微睡むだけの権利があるのだ。さまよい、自らの宿罪に悩み、道無き道の果てに自尽を迎えた亡我郷の姫君。
年を経る毎に霞む記憶の中でも、彼女の微笑みだけは―――未だ、霞む事がなかった。
そして妖忌は、童女の言葉を聞いたのだ。
「あ……蝶々」
思わず、目を見開いた。そうして開かれた視界の中に、紛う方無きそれは映り込んできた。
「これ……は……!」
牡丹色と、紫苑色の二色の蝶。淡い燐光を放つそれらが、西行妖の根から一斉に羽ばたき―――満開の西行妖の上まで、一気に舞い上がったのだ。
死の魅力を持ち、そして胸を締め付けるようなその存在は死蝶。
何を思うなどという、そんな暇は無い。
ただ、眼前で起こった、あまりにも美しい死蝶の舞に圧倒されるだけだ。
『―――』
続けざまに、妖忌は声を聞いた。
人間の発する音ではない。人間の発する音は、こんな、鼓膜の中に直接響くような響き方をしない。
妖忌が知る限り、このような声を出すのは一本、いや、一人しかいない。
「西行妖!」
叫ぶ妖忌の言葉は、迷いを含んだ物ではなかった。ただ、彼が今再び放った一言に対しての返答。返答としての、問いかけ。
彼は、妖忌の主がある時に聞いた一言を、今一度だけ放ったのだ。
―――約束は、果たされた。
「自分は……! 約束は……!」
守れたのか。
問いかけは言葉にならない。
無我夢中に一歩を踏み出し、その妖忌の足が何かにぶつかった。それは、転がっていた手鞠。手鞠は妖忌に蹴られた事によりまた衝撃を受け、西行妖の脇へと転がっていく。
そして、視線を戻せば、―――西行妖は既に元の枯れ木に戻っていた。
まるで白昼夢のように。刹那に見た、それこそ華胥の夢のような儚い幻想。泡沫の幻でも見たのだろうか。
夢から覚めたような感覚。一瞬なれど、永遠に続いていた夢が終わったかのような、淡い寂寥感。
―――ああ、夢だったのだろうか。
自身の言葉に落胆する。何を期待していたかも知れないが、だが結局はただの夢に過ぎなかったのだ。夢など、……夢など、所詮覚めてはお終いの物だ。
弾かれた手鞠が、西行妖の突き出た根に躓くように当たり―――無邪気に跳ねた。
そして、彼女は手鞠を拾い上げた。
「……これ、は……?」
妖忌の声ではない。童女の声でもない。その声は、邪気も穢れもない少女の声だ。
妖忌は瞬きをする事すら忘れ、巨大な妖怪桜の裏から唐突に顕れたその少女を凝視していた。もし一度でも目を瞑れば夢が覚めてしまうような、そういう恐怖に駆られて。
だが、一度確かめるように瞬きをしても、この夢は終わらなかった。
言葉を失い、何も考えられずに、ただただ呆然と、西行妖の裏から歩み出てくるその少女を見ていた。
視界の端を、蝶が過ぎった―――気がした。
「その手鞠……」
童女が、手鞠を拾い上げた少女へと駈け寄っていく。この童女には―――本当は、先程の蝶の大群と西行妖の満開が見えていなかったのではないのか。そう思えるほど、ごくごく自然な所作だった。
「これ……あなたの?」
手鞠を拾い上げた少女が、少し戸惑ったような表情をしながらも、腰を屈めて童女と視線を同じくし、微かな微笑みを湛えて手に持った手鞠を差し出す。
「うん、あたしのなの。ありがとう、お姉ちゃん」
童女は手鞠を受け取り、礼の言葉を述べた。だが、それからすぐに小首を傾げて、
「でも……。お姉ちゃん、だあれ? どこから来たの?」
無垢な質問は、しかし少女を戸惑わせた。
「え……? 私……は……」
少女の姿が滲む。そのままぼやけて消えてしまいそうなほどに、霞んだ。
だから、妖忌は消えてしまわぬように。夢が覚めてしまわないようにと、きつく抱き締めていた。止め処なく流れる涙も、嗚咽も隠さない。ただただ、少女がそこにいるという事を確かめていた。
突然抱き締められて、少女が更に戸惑ったような顔をする。その、記憶と全く変わらない姿の少女へと、妖忌は言う。これは夢ではないと、夢である訳がないと言うように、誰もに言い聞かせるように、
「……お早う御座います、幽々子様……」
言葉の殆どは、嗚咽に呑まれてはっきりとは言えなかった。だが、彼女には聞こえている風だった。はっきりと、腕の中の少女の強張りが解けたのだ。
少女―――幽々子に、嫌がる気配は無かった。逆に、肩が下がり、落ち着いたかのような感覚を感じた。
変わっていない。何もかも、記憶の中にある幽々子のそれと変わっていない。記憶の中と同じ、まだ少しだけあどけなさを残したその顔を見る。
涙は変わらず止め処ない。だが、妖忌は確かめるように、言葉を続けた。
「……よく、眠れましたか?」
あやすような言葉。愛子をあやし、慈しむ言葉。
その言葉を受け、ややあってから幽々子は頷いた。
「……うん。おはよう」
それが、すべてだった。
今はただ、この夢が決して覚めぬようにと。それだけを、願った。
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そして。
子には、西行妖を悼むと共に、
夢が永く続くよう、
『妖夢』と名付けられた。
> 倒れていながらも手放していなかった、大切な日本の刀。
お話は非常に面白かったです。b
妖忌が格好良い!
私の好みをピンポイントで突いてくる作品だったので、続編にも期待してます。
戦の描写が特によかった
西行妖喋りまくり・オリキャラ出まくり・独自設定出しまくりなのに原作とリンクしてて幽々子の生前の話として読んでて嫌にならなかったしまったく違和感がなかった。もう俺の中の妖々夢の設定はこれでもいいやw
これがたった1000ポイントしかないとか信じられんのだが……作者様の努力に敬意を表せざるを得ない。この3部作以外の投稿も楽しみにしていいのだろうか。
おそらく東方分が低いのがネックだと思われるのですが、それを補って余りあるこの設定の説得力、ストーリー展開の素晴らしさ、描写の美しさ、そして少年妖忌と少女ゆゆ様の愛らしさ、健気さ。
本当に、この大作を描き上げた作者様に心から敬意を表したい。
ボキャブラリが少ない私からしたらそれ以外言葉が見つかりません。
特に中篇の武士の戦いは圧巻でした。
自分も妖々夢大好きなんだけど、そこから独創的な世界を膨らませる作者様の力量には降参。
しかしこの西行妖、すごいインパクト……。
数年ぶりにふらっと自分の作品を見直しに来てみたら……数年の間に、いくつもの勿体ないお言葉を頂いていたようですね……。感無量さえも通り越し、ただただ申し訳ない気持ちで胸がいっぱいです。
感想を下さった皆様にお返ししたい思いは、千や万の言葉を尽くしても到底足りるものでもありません。ゆえに、この一言に万感の思いを込めます。
ありがとうございます!