Coolier - 新生・東方創想話

西行あやし【中編】

2006/12/23 12:22:57
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「一で一の谷」
 昼下がりの陽光を受け、手鞠が跳ねた。無邪気に、奔放に、風土と戯れるように。
『どういった宗旨替えだ? 富士見の眷属よ。其方は儂を嫌っていたのではなかったのか?』
 戸惑ったような声が、包み込むように辺りから響いてきた。
「二で庭桜……と」
 跳ねてきた手鞠を捕らえ、少年は歌を交えて跳ねさせる。少しぎこちなく、歌と速調をやや乱しながらも、なんとか手鞠を返す。
 肩口で髪を切り揃え、白緑の直垂を着込んだ上から若竹色の羽織を纏い、長刀を背負った姿は妖忌だ。彼は横手にある巨大な妖怪桜―――西行妖を仰ぎ見て、
「いや……妖怪と言えど、一枚岩ではないという事も思い知ったのでな。それに常々お嬢様にも、西行妖と仲良くしろと叱られていたというのもある」
 言って、正面に向き直る。巨大な庭園の一角、西行妖がある一帯には二人の人物がいた。妖忌と、
「三に下がりふじ」
 幽々子が手鞠をついた。紫苑の着物という軽装に身を包み、短髪に単純な作りだが可愛らしい簪を挿した姿。今ひとつ西行寺家の当主としての貫禄や威厳などといった物は感じられないが、これで良いと妖忌は思う。幽々子は、これで良いのだ。
「妖忌? 西行妖と仲良くするのもだけど、人の目が無い時はお嬢様って呼ばないようにも言ってるでしょう?」
 言葉と共に手鞠が来る。妖忌は苦笑する。
「四……に、獅子牡丹」
 危うく手鞠をつき損ねそうになる。が、なんとか持ち直し、幽々子へと返す。
「そうでしたね……。なえ―――幽々子様。ですが、もう当主様なのですから……」
 自重してください、と言いかけて―――やめた。幽々子が柔らかく微笑んでいたからだ。
 やり取りを静観していた西行妖が、僅かに枝葉を揺らした。伝わってくるのは笑みの気配だ。
『なんとも……元服を越してからは揃って何やら緊張状態にあったと思ったのだが、一体何があったというのだ? 以前よりも仲睦まじく見えるぞ』
「五つ井山の千本桜」
 手鞠をつきながら、幽々子が西行妖を笑みでもって見上げる。屈託ない笑いに、小さく西行妖は唸る。
 二人が口ずさんでいる手鞠歌は、本来は大人達が舟渡をする際などに歌ったと言われる物で、情の意識が強いものである。だが幼少の妖忌は、この歌を初めて耳にした時すぐに気に入ってしまった。庭桜、下がりのふじ。忘れ草との別名もある獅子の牡丹はこの庭園の一角に植えられており、千本とはいかないが庭の桜は膨大な数もある。歌っていて、この富士見の地を思い出すには充分な歌なのだ。親近感が沸くのも当然だろう。
「六つ紫いろいろ染めて」
 そういえば、と妖忌は思いつく。
「西行妖よ。あなたは紫という妖怪を知っておられるか?」
 手鞠を幽々子へと返してから、そう問いかけた。
 あの自称すきま妖怪は、かなり昔からこの富士見の一族と交流があるような事を言っていた。更には西行妖の事も知っていたようであった。逆に西行妖もあの妖怪を知っている可能性は十二分にある。
『……紫だと?』
 伝わってくるのは、少し驚いた風の気配。
『ああ、知っておるぞ。もう随分会っていない気がするが……、あれは、決して頭の悪い妖怪ではない。この富士見の一族を、と言うよりも儂を時折監視に来ては怨気が漏れていないかなどを見ておった』
 と、そこで気配を変える。枝葉をくすぐるように擦り合わせ、
『初対面でいきなり、あなたは危険ね、と言われた記憶がある』
 気がつくと、手鞠歌が止まっていた。見ると、幽々子が手鞠を抱えたまま西行妖を見上げていた。
 幽々子はそのまま、無邪気な声で問いかけた。
「……西行妖は、何故根に怨の気を蓄え始めたの?」
『―――』
 一瞬の沈黙。妖怪桜は枝葉を揺らすのを止め、
『さてな……歌聖が一人、我が根で朽ちた所為だと儂も聞いてはいるが』
「それは裳着の時にも、幼少の時にも聞いたわ。でも、本当なの? いくら凄い歌聖だろうと、たかだか一人の人間の血を吸い上げただけでそこまで変わるものとは思えないのだけれど……」
 西行妖はまた枝葉を揺らめかす。今度は、ゆっくり、ゆっくりと。記憶を探るように。
『……儂も昔の事はよく憶えておらぬ。このように人と言葉を交わせるようになったのと同様、儂の記憶もこの地で奉られている事が当然になっている時から始まっている。気がついたら、既に根には途方もない量の怨気が蓄えられていた』
「……そういうものなのか?」
 横合いから妖忌が訊ねると、西行妖の意識がこちらへと向いたのを感じた。
『人間とて、あまりにも幼少期の出来事は憶えておらぬらしいではないか? それと大して差異の無い事ではないかと思うのだが』
 むう、と妖忌は唸る。釈然とはしないが、反論の余地はない。
 と。
 手鞠が落ちる音がした。落ちた手鞠は庭の砂利の上を無邪気に跳ね、軽快な音を鳴らす。何事かと思ってそちらに目をやると―――幽々子が、一筋の涙を流していた。
「ゆ、幽々子様……?」
 幽々子は応えない。覚束無い足取りで西行妖へと、数歩を寄る。彼女だけが感じている痛みに顔を引きつらせ、
「それじゃあ……それじゃあ。西行妖は、まるで生きている、それだけで危険だと言われているみたいじゃないの……。私達が息をしているのと、生き物の肉を喰らって生きているのと、それと同じ事をしているだけで、それなのに……」
「―――」
 言葉も、無かった。まるで鋭い槍で胸の無防備な部分を一直線に突き抜かれたような、そんな感覚だった。
 それは西行妖も同じようで、明らかな動揺の気配が伝わってきた。続いて、何かを言おうとする気配。しかし言葉は形作られず、伝わってこない。
 代わって、妖忌が何か言わねばならない気がした。しかし、言葉は作れない。開いた口はその行き場を見失い、あ、の音を漏らすだけだ。
 そうこうしている間に、幽々子は西行妖の太い幹に両手を回す。大きな妖怪桜の半分、いや、四分の一ほども掻き抱けぬまま、
「こんなに……こんなに、人と一緒にいられるあなたなのに……」
 その言葉は鋭利な刃物の如く、妖忌と西行妖を刺し貫いて。
「こんなに優しいあなたなのに……ただ居る事すら疎まれるなんて……可哀想……」
 雫が幹を伝い、地に落ちる。その無垢の水はやがて西行妖の根が吸い上げる事だろう。純粋な言葉と共に。
 妖忌はその光景から目を逸らした。あまりにも眩しすぎたからだろうか。自身にも理由は分からなかった。ただ、
 ……危険。幽々子は、そう言ったのだ。
 ふと、邪推してしまう。手鞠歌にある一の谷とは、源氏と平氏の熾烈な合戦の舞台。平家がその戦で大敗したのが切っ掛けとなり、滅亡への道を歩み始めた地。
 手鞠歌がこの地を謡っているような錯覚を感じるならば―――いつかこの地も一の谷と同じくなるのだろうか。
「幽々子様!」
 ふと、声。続いて砂利を踏み分ける音と、息を切らす音も聞こえてくる。その音の主は西行寺の屋敷の方から、一直線にこちらへとやって来ている。
「……小努?」
 富士見の一族、特に西行寺家に仕えている従者だ。妖忌達と同い年くらいだが、小努の家は特に伝来の力もなく、幼名と実名とで分けてもいない。
「あ、……お取り込み中失礼します」
 近寄ってきた小努が、こちらの様子を見てそう頭を下げた。幽々子は未だ西行妖を抱き涙を流している。
「用向きならば、自分が伺います」
「あ、ええ、すみません」
 慌てた様子の小努が寄り、まだ少し荒い息で用件を伝えてきた。その内容は聞き捨てならないもので、
「……!」
「あ、妖忌様!」
 皆まで聞かず、小努の声を背中に受けながら妖忌は駈け出していた。
 西行寺の屋敷。富士見の一族を執り仕切るそこに、
 客が来たらしい。



 滅多に使われる事のない桜見の間。だが、今日は少し違った。本来の目的である接客、その用途が発揮されているのだ。
「失礼します。遅れて申し訳ございません」
 身なりを確認する。正装というには少々不足だが、失礼な佇まいではない。正式な接客においては背の長刀は置いてくるべきだろうが、しかしこの楼観剣を一時でも手放す気にはならなかった。仕方なく、上から布を巻いて措置とした。
 襖を開け桜見の間へと入る。室内には人影が一つあった。
「……村長殿。本日は、どのような御用向きでしょうか?」
 村長という肩書きの割には若い男だった。村の中では若頭を務めているのだろうと思えるくらい。目に見える武器こそ持っていないが、目の底に宿った剣呑な光は警戒するに値する。妖忌はそう判断した。
 男―――村長は、室内で一人茶を啜っていた。作法などを無視した右手だけを使った無遠慮な飲み方で、座り方も形を崩した胡座。村長の仕事より、寧ろ畑仕事や獣の狩りなどをしていた方が似合いそうな、筋骨隆々とした無頼漢といった風体。
 男は室内へ入った妖忌を無遠慮に睨め回すと、こちらに聞こえるほど大きな舌打ちをした。
「ち。なんだ、坊主ではないか。暫く知らぬ間に、富士見の一族は話をしに来た者に対して当主どころか大人も出さぬほどに礼節を欠いたのかね?」
 言葉の端々から滲み出る嫌味を隠そうとすらしない。完全に妖忌を舐めてかかっている態度だが、男の言葉通り、こちらに失礼が無い訳でもない。妖忌は眉一つ動かさずに男の正面に座すると、一度頭を下げてから答えた。
「当主様はお忙しいお方。特に最近は焔神との異称を賜る凶悪な妖の襲撃もあり、大人達は連日式の打ち直しや対策の会談に追われています。どうかご理解下さいませ」
 これは半分ほど嘘だ。こういった緊急の事態に慣れている富士見の一族は、既に会談を終え実際に対策を施行する所にまで漕ぎ着けている。ただ幽々子や妖忌など、そういった加護などの霊力を持たない者達はその役目も無く、概ね日常を取り戻し始めている。勿論、警戒の門兵の数や見回りの人員は増えているが。
 それに、と妖忌は胸中で繋げる。今は会談を開いていないとはいえ、昨日の今日までは開いていたのだ。当主代理の弥疋や当主である幽々子などもそれで疲れているというのに、更にこのような俗物との会話に出すのは酷だという判断もあった。
 早々に用件だけを聞き出して追い返してしまうのが最上。それでなくても、日を改めさせられれば僥倖。主に降りかかる総ての懊悩を振り払う事も、側侍の役目なのだから。
 が、村長を名乗る男はそれでは満足しないらしく、眉を吊り上げ妖忌を睨んできた。
「質問に答えていないではないか。私は、富士見の一族は礼儀を失ったのかと訊ねたのだ。忙しかろうと、客が来たならば当主が出る。これは公家や高僧達の血を引く富士見の一族が一番分かっている事ではないのかね」
 どうやら男にも退く気はないらしく傲然とした態度で言い放ってくる。
 妖忌は平静を装いながらも、内心歯軋りするような思いでそれを聞く。これはある種一番厄介な手合いだ。目的の相手が出るまで、話に入るつもりすら無いらしい。
 だがしかし、唯々諾々と従う訳にもいかない。
「しかし、そう申されましても、出せないものは出せません。ここはどうか……」
「良いのだ、妖忌」
 再び襖が開き、声と共に悠然とした足取りの初老―――弥疋が入ってきた。幽々子と同じ西行寺の姓を持つ、しかし分家の当主だ。こういった客との対談などは、まだ若い幽々子を出す事に幾つか問題もあるので弥疋が出る事が多い。紋付きの袴姿に怜悧な風貌の彼は、急く事のない歩調で妖忌の隣へ。
 妖忌は黙って席を譲り、一礼。横目で弥疋の姿を盗み見る。粛然とした佇まいだが、やはりどこか窶れているようにも見えた。
「先ずは当方の非礼を詫びよう。だが既にこちらの妖忌から説明があったと思うが、今富士見の家は少しばかり慌ただしい。寛大な心を持って赦免される事を望む」
 言ってから、妖忌が先程まで座していた所へと腰を下ろす。当主代理の名に恥じぬ佇まい。
「して、村長よ。此度は如何なる用で参られた?」
「その前に」
 男が、語気を荒らげた。
「何度も言わせないでくれないか。富士見の一族は、客が話し合いに来たのに当主を出さないというのか?」
 弥疋を見ていないその言葉の意味は、明確だった。
 対外的には、弥疋が富士見の一族の当主という事になっている。実際、弥疋にはそれだけの権限も与えられている。だがその弥疋を前にして、当主を出せという事はつまり、
「……妖忌よ、幽々子様を呼んでくれ」
「な! しかし……!」
 弥疋の言葉に妖忌は動じた。この俗物に幽々子を会わせる。それだけは避けたいと思っていたという事だというのに。
「……側侍よ。どうやら知らないようだから教えてしんぜよう」
 男が胸を張り、威張るかのように言う。
「私達の村は富士見の一族の分家で構成されている」
 言葉に詰まる。信じがたいという気持ちよりも、信じたくないという気持ちの方が先行していた。
「……妖忌、そういう事なのだ。幽々子様を呼んできてはくれないか」
「……御意」
 男の顔をこれ以上見たくないと言わんばかりに、妖忌は即座に退室した。
 妖忌を向き頼んだ弥疋の顔は、苦虫を噛み潰したような色を見せていた事が、最後の救いのような気さえしていた。



「お待たせ致しました。私が西行寺家が当主、西行寺幽々子に御座います」
 即興で正装へと着替えてきた幽々子が桜見の間へと入る。相変わらず礼節を欠いた座り方をしている男に一瞬眉を顰めるが、しかし何も言わずに正面へと座した。
 幽々子が座るのを待たずして、男が口を開いた。
「やれやれ……漸く当主様との対談と相成りましたな。ここまで面倒をかけるくらいなら、わざわざ分家だの本家だのに拘らず一番年長の者を代表の当主にしておいて欲しいものだ」
 嫌味を微塵も隠そうとしない、横柄な口調。正式に対談しに来た富士見の分家の村長という肩書きさえ無ければ、今すぐ斬り捨てててしまいたいという気持ちにすら駆られる。
 その感情を察したとでもいうのか、男の目がこちらを見た。あからさまに目を細め、
「当主様。どうも先程から、そちらの側侍が私を見る目が恐ろしいのだ。今にも刀に巻かれた布を破り捨てて、私を斬り捨ててしまいそうに思える。下がらせてはくれないか?」
「近舶妖忌はとても優秀な側侍です。相手が本当に非礼を働かない限り、刀を抜く事など御座いません。礼節を説くあなたが相手ですから、まさかそのような事はあり得ないでしょう」
 幽々子が何か言うより早く、その隣に控えた弥疋が答える。流石に当主代理を務めるだけあって、発する言葉に淀みがない。
 男はまたこれ見よがしに舌打ちをした。
 妖忌は思う。これではまるで―――獣相手の対談ではないか。
「……まあいい」
 男は音を立てて頭を掻きむしった。鮮やかな畳に小さな塵や雲脂(ふけ)が舞い落ちた。
「西行寺の当主様や。いきなり本題に入らせて頂きますがね。……おたくで飼っている妖怪桜の事なのだが―――」
 場の空気が変わるのを感じた。仮にも富士見の一族と縁ある者なら、確かに西行妖の事を知っていてもおかしくはないだろう。
 だが、今更西行妖に何の用があるというのか。我知らず、手が僅かに後ろへと回っていた。即座に抜刀するのが困難な長刀なだけに身に付いた癖だ。見れば、幽々子も弥疋も共に顔色を険しくしていた。
 こちらの動きには気付いていないのか、男は無防備に右の掌をひらひらと振りながら言う。
「あんたら一族は、どう考えたっておかしい。間違いなく、あの妖怪桜に魅入られてるんだ。富士見の地から離れた所へと移り住んだ私達だから分かる」
 本当に狂った者達を見るかのような目つきで場の三人を眺め回した後、男が幽々子の方へと少し身を乗り出した。
「最近ここや私達の村に妖怪が来るのだって、あの妖怪桜が招いているのだ。そうとしか考えられない。あの妖怪桜の正体は護国の木でも何でもない。妖怪どもの親玉に違いないんだ」
「貴様!」
 いよいよ妖忌が楼観剣へと手をかける。が、布を巻いていた事に気付いて臍を噬む。それを見て、我が意を得たりとばかりに男が下卑た笑いを浮かべた。
「そら見た事か。あんな事を言っておきながら、妖怪桜の悪口を言った途端、これだ。これこそがまさに魅入られている証拠だ」
 男の瞳が、ぎらりと鈍く光る。いよいよ本性を顕した獣の笑みで、
「うちの村で話し合って出した結論だ。―――あの妖怪桜に、火を放って欲しい」
 緊の一文字に支配されていた空気が、とうとう険へと変わる。幽々子が顔全体で渋面を作り、弥疋も眉を縦にし反論する。
「いきなり何を言い出すのだ、村長。元を辿れば、其方達も富士見の一族の分家。この富士見の地から離れた海寄りに集落を建て、何も知らない漂流者には事情を伝え、そして妖の動向を探る。延いては西行妖を奉り、護国のために身命を捧げた身の筈だ」
 早口で捲し立て、しかし波が収まらないのか、掌で卓を強く叩く。
「村長よ。其方は……いや、村の民はもはや一族の誓いを忘れてしまったのか?」
 その言葉に少しは思うところがあったのか、男は先程までの勢いを消した。途端に沈痛な面持ちになり、しかし頭を振る。
「……西行寺の。このままでは私達は安心して日々の暮らしを営む事すら出来ないのだ。理想や大義名分が皆に支えられていた時代は終わったんだ」
 よく見ると、剥き出しになっている男の左腕には、黒ずんだ大きな古傷が見えた。普通に暮らしていたのではつかないと思える、妖怪に与えられたであろう傷が―――
「怨気だの、護国だの。富士見の約定だの。……そんなものは、既に化石となったのだ、西行寺の。先ずは妖怪桜を焼き討つんだ。そもそもあの妖怪桜が枯れれば怨気が解放され、日の本が脅威に晒されるだのという話は信じるに足りない。本当にそんな事がある訳がない。誰かが試した訳でもないだろうに。寧ろ……」
 一呼吸。これが止めだと言わんばかりに、
「あの妖怪桜の存在自体が祟りなのだ」
 と、それまで黙っていた幽々子が口を開いた。聞いた妖忌が驚くほど感情の抜け落ちた声で、
「……あなたは、護国の志を忘れてしまったとでもいうの?」
 はっとした。感情が消えただけに思える言葉だが、その根底には震えがあった。この期に及んで、幽々子はまたしても己の信じた支えを失いかけている。
 危険だった。あと一押しで、幽々子は、
 殺めてしまう。
「幽々子様! ……村長、止めるんだ!」
 間に合わない―――
「護国より先に、先ずは村を守って貰えないかね」
「―――!」
 ごとり。
 男が最後に立てた言葉は、壺を倒したような音だった。比重の大きな人間の頭が総ての支える力を失って木製の卓へと落ち、軽薄な音を立てる。
 一切の意志を失ったその躯は、もはや完全に事切れていた。
 失われたのだ。まとわりついてくる蚊に対して手を振り払うような、そういった原初の防衛行動によって。
「あ……」
 幽々子が、呆然とした声を発した。目の前で何が起きたのかが理解しきれない、そういう声だ。
 咄嗟に弥疋が動いた。最低限の挙動で、幽々子の後ろ首へと鋭く手刀を入れる。こ、という息の漏れる音と共に、幽々子は気絶した。
 応じるように、妖忌は男の脈を調べる。だが男が命潰えているのは火を見るより明らかで、事実、男が先程まで行っていた筈の生命活動は完全に停止していた。
「弥疋様……その、これは……」
 幽々子が死霊を操る能力を得ている事は既に周知だが、死へと誘う能力は誰にも話していない。小努にさえ。
 どう説明すべきか―――そう考えた矢先に、言葉が来る。
「言うな。……私とて、西行寺の血を分けた者だ。死へと誘う能力の存在も知っている。少し考えれば、何が起こったかなど分かる……」
 怜悧な当主代理は即座に状況を理解していた。元々の知識もそれを助けたようで、彼はすぐに立ち上がった。妖忌も続く。
「弥疋様。この度の責任は自分が被ります。この男が暴言を吐いたため、自分が激昂して斬りかかったと、表向きそのように……」
 一歩を進み出る妖忌。
 幽々子の義父でもある弥疋は、しかしそれを良しとしない。
「ならん。……この子は、お前の事をいたく気に入っている。もしもお前を罰したら、私はこの子から恨まれるだろう。……第一、体面を繕うために身内を切り捨てて、何が護国か。富士見の一族は常に如何なる事態にも力を合わせねばならんのだ」
 自身に言い聞かせるように呻き、弥疋は倒れた男に近付く。
「……それに、どうやら如何なる言い訳をしたところで無駄のようだ」
「は? それは、どういう……」
「見よ。この男の、この傷を」
 男の左腕を指し示す。言われるままに見ると、
「これは……」
 先程は軽く見ただけで古傷だと勝手に判じていた傷だが、しかしそうではなかった。
 確かに生傷ではなかった。
 もはや、男の左腕は完全に壊死していたのだ。
「……!」
 あまりと言えばあまりの光景に、妖忌は吐き気すら催した。
「見やれ。この男、既に肩口といわず心の臓の近くまでが壊死している。既にいつ死んでもおかしくない状態だ」
 弥疋は疲れたように吐息を一つ漏らす。
「最初から仕組まれていたのだ。西行寺家の当主が出るまで決して話をしようとしなかったのも、我々をわざと挑発するような話しぶりをしたのも。……恐らく、この男は本来村長でもなんでもないのだろう。単純に死期も差し迫っていて、自ら進み出て死に役を務めたのだろう」
 男が何によってここまでの重傷を負ったのかは分からない。男がこの役を買って出た経緯も知れない。
 だが、一つだけ明確過ぎるほどに分かる事がある。
「この男は村の人間が出してきた。……という事は……村は、完全に我々と袂を分かったのですね」
 無言の頷き一つが返ってくる。
 妖忌は閉ざされた襖へと近づき、開け放つ。富士見の地の巨大な庭園が眼前に広がり、遠くには西行妖の姿も拝める。
「……一で、一の谷」
 手鞠も、相手もいないが手鞠歌の出だしを口ずさんだ。西行妖の下で感じた、先程の懸念は胸中で更に大きく膨れあがっていた。
 風が吹いた。遠くで西行妖の葉が揺れる。ここまで音が聞こえる筈もないが、妖忌の耳には何か差し迫るような怪しい音律が聞こえてくるような気がした。
 それだけを感じ、妖忌は男へと向き直る。男の腕を見た時に感じた吐き気や嫌悪感はもう引いていた。
「……この男の遺体を、丁重に供養してきます」
 男の肩に腕を回し、担ぐ。先の対談中にあれだけ嫌悪感を感じた男だというのに、いざ死んでしまうと今ひとつ怒りや恨みも薄れてしまった。掻き立てられた感情が矛先だけを失い蜷局(とぐろ)を巻く。
 部屋を出る間際、弥疋の呟きが耳へと入ってくる―――
「……富士見の一族ですら、西行妖の事実と約定を忘れつつあるのか……」



 夕刻だというのに、富士見の屋敷内は先日の妖怪の襲撃の比ではない混乱に包まれていた。各家の当主は会議を始めており、そうではない者達は屋敷内を右往左往し、好き勝手な憶測を交わしあっている。
 憶測の殆どは根も葉もないもので、やれ妖怪の悪戯だとか、やれ別の国が日の本を揺るがすために放った奸計であるとか、そんなものばかりだ。
 だが時には鋭い意見も飛び出す。
「……何にせよ、戦の支度をしなければならないのかもな」
 何かが起こる可能性があり、備えが必要であると言う者もいた。
 そんな中、妖忌は屋敷の庭園へ向かっていた。先程までは村長を名乗っていた男の供養をしていた。亡骸を村にほど近い緑多き野に埋め、冥福を祈っていた最中に弥疋が来て、こう言ったのだ。
―――幽々子が目を覚ました。手鞠をついた場所でお前を待っていると言っていたぞ。
 彼は無言でそのまま墓前に花を供え、両手を合わせて祈りを始めた。長い間そうしていて、やおら小さな呟きも交えた。
―――父が娘との逢瀬を認めているのだ。早く行かぬか。
 その言葉にはっとして、妖忌は墓前で慌てて頭を下げた。
 幽々子と手鞠をついた場所と言えば一つしか無い。西行妖の前。妖忌はそこへと急いだ。
 しかし、急ぎながらも、少しだけ安堵する気持ちもあった。
 確かに、幽々子は初めて人を殺めてしまった。その事はとても悲しく、痛ましい。その心の傷は容易には癒せないだろう。時間をかけて、少しずつ順応させるしかない。
 だが、前回のように幽々子は心を閉ざす事をしなかった。自らの総てを否定して、他者を拒む事をしなかった。それどころか、自ら妖忌との会話を望んだのだ。
 足は意識せずとも庭園へと急いた。一歩を歩くのももどかしくなり、屋敷を出た途端に駈け出す。
 屋敷を出るなり背中の楼観剣の布を解いた。妖怪によって鍛えられたと言われる、まさに伝家の宝刀。それが留め具と擦れ、僅かに立てる金属音が妖忌の心へ心地よい落ち着きを呼んだ。
 庭園に立ち並ぶ桜の樹木の合間を、羽織の袖を振って駈けた。いよいよ文月に入ろうかという季節。桜は九分葉桜をとうに越えて、翠緑の色へと移い終えている。
 彼方に見える西行妖の向こうへと残陽が沈み行く。その朱に照らされ、開花時期を終えた筈の葉桜達が再び返り咲いたかのようにその枝葉を紅に染め上げていた。
 朱に照らされた葉は紅に。影に隠れた葉は翠に。浮き世のものとは思えない、彼岸の景色を妖忌は行く。
 次第に妖怪桜のその姿がはっきりしていくにつれ、妖忌は見た。
 西行妖が、燃えていた。
「な……!」
 愕然とし、足が止まる。だがすぐに自分の見間違いに気付く。西行妖は燃えてなどいない。ただ、西行妖の葉の隙間という隙間から夕陽が顔を見せていたためにそのような錯覚を感じたのだ。改めて見直すと、西行妖が残陽を覆い隠し、その威容の総てが紅の炎を掻き抱いているようであった。見まごうのも無理はない。
「……」
 美しい、と柄にもなくそう思った。一日の終わり際の陽に照らされて、西行妖は死の魅力に満ち溢れている。富士見の一族は幼少の頃から西行妖に慣れ、耐性を得ているが、それでも思わず心を揺るがされ、
 死へ誘われかねない。
 はっと意識が立ち返る。自分がその場で食い入るように西行妖を眺めていた事に気付き、慌てて止まっていた足に喝を一つ入れ、再び駈け出す。
 遠くに見ていた西行妖の姿が鮮明になるにつれ、妖忌の目には一つの光景が映り込んできた。
 死の力を持った桜の木の下で―――一人の少女が、舞を踊っていたのだ。
「幽々子様……?」
 その姿は、間違いなく彼の仕える主、西行寺幽々子のものであった。先の会談から着替えていないらしく、正装のままで舞を踊っていた。
 舞の心得の無い妖忌の目から見ても、それはどこか稚拙な舞だった。基本の旋回動作や摺足は出来ているのだが、一つ一つの動きの合間には流れるような繋がりが薄い。しかし、そのためかどこか童心をくすぐるような純粋な舞となっていた。
 幽々子は目を瞑ったまま、駈け寄ってきた妖忌には気付いていないかのように舞い続ける。桜の紋様を散らした黒塗りの扇子を振り、広げ、かざし、閉じ、突き出す。決して激しい動きではなく、神妙に、静淑に、靖寧な舞は続く。
 と、舞に誘われたかのように、何処からともなく何かの気配が集まり始めた。それも一つではない。無数の気配が幽々子の周囲から出てくるのだ。眉を顰めてその玲瓏と光る気配を凝視していると、それはやがて白く球形の形を取り始めた。
「死霊……」
 忌まれる存在である死霊達が、舞に誘われたかのように辺りから涌出し始めているのだ。
 顕れた死霊達は幽々子の舞に合わせるように粛々とした動きで飛び、回り、そしてやおら蝶の形へと変じた。
「!」
 白く、半ば透けた姿だった筈の死霊達が、牡丹色と紫苑色の二色の美しい蝶へと一瞬で変化したのだ。まるで幽々子の一人舞を彩るかのように。
 血のように紅い西行妖を背に、正装に身を包んだ一人の少女が背伸び交じりの拙い舞を演じる。観客は妖怪桜と、艶やかに舞う二色蝶と、そして一人の側侍。
 それで充分だと言えた。
 技術は必要ない。樂も必要ない。ただ、この西行妖という舞台と幽々子さえいれば、この舞は完成されたものなのだと、妖忌はそう思った。
 西行妖もどこか安らいだ気配を見せている。妖忌も先程までの焦りを忘れ、この最果ての地で演じられる静かで秘かな舞に見入る。
 やがて終わり目も秘やかに、幽々子がかざしていた扇子が音を立てて閉じられる。続いて、こちらへと一礼を送ってくる。妖忌も深く返礼を返す。
「素晴らしい舞で御座いました」
 幽々子は屈託無く笑む。僅かに頬を朱に染め、恥じ入るように呟いた。
「ごめんね、稚拙な舞で……」
『いや、見事な舞であった』
 本当に満足したという事を、西行妖が穏やかに末葉を擦り合わせて顕した。幽々子はそれを見上げて、儚げに呟く。
「西行妖……有り難うね」
 死蝶が舞う。幽々子の周囲を、宴のようにふらふらと。
「本当に、有り難う」
 少女が顔を傾げ、側侍を見る。その瞳は、本当にどこか寂しそうで―――
「……妖忌。今まで、有り難うね。……この言葉だけ、伝えたかった……」
「……幽々子様?」
 冷たいものが胸中を駆け抜けた。駄目だ、と思い知らずに一歩を踏み出す。だが何が駄目なのかが分からない。分からない、が。身は急いた。
 だがそれより早く、幽々子の手が伸び―――牡丹色に輝く死蝶を一匹、その手の中に握り込んだ。
「幽々子様!」
 二色の蝶は、死霊が化けた物。それに生者が触れたならば、たちまち命を貪られる事だろう。それが分からない幽々子ではない筈だ。分かっていたからこそ、握り込んだとでもいうのか。
 愕然としたように、西行妖が葉を揺らすのを止めた。刻が止まったような錯覚を感じながらも、妖忌は躊躇なく幽々子の元へと駆け寄った。
「妖忌……来ないで」
 柔らかな拒絶。仕えるべき主のその言葉に、しかし妖忌は頷かない。
「なりませぬ、幽々子様!」
 幽々子は握りしめた手を開こうとしない。頑なに閉じ、自ら死に喰われようとしている。生を貪られ始めているのか、整った顔の色が徐々に白んでいく。
 駆け寄り、無我夢中で妖忌は掴んだ。
「もしも……」
 力無く、呟く。だが手は確かな意思を宿し、伸ばされ、掴んだ。
 紫苑色の死蝶を。
「もしも本当に逝かれるというのなら……自分もお供致します」
 握りしめた途端、全身を刺し貫くような痛みが掌を焼いた。間髪入れずに壮絶な虚脱感に見舞われ、早くもうっすらとした眩暈を感じた。
「妖忌! あなた、何を!」
 自尽する事を止められるとは思っていたのかもしれないが―――まさか、妖忌まで死蝶を掴むとは予想だにしていなかったらしい。幽々子は焦りと驚きとを綯い交ぜにした色に顔を染める。
 力無く一歩を踏み出し、
「やめなさい、妖忌! 手を放しなさい! 妖忌! やめて!」
 いっそ悲壮とも言える声で幽々子が叫んでくる。既に死蝶を掴む手も顔も、白を通り越して青ざめ始めているというのに、語調は強い。
 対照的に妖忌は落ち着いていた。自らの生が磨り減っていく感触を感じながらも、
「なれば……幽々子様がおやめ下さい」
 告げると同時、脱力感が増した。呻き声と共に膝を折る。やはり、死霊を操る本人よりも周りの者に対しての方が効果が高いのだろうか。
 幽々子が小さく悲鳴を上げる。が、構わない。
「近舶家の役目は富士見の一族と、西行妖、そして西行寺家を守り抜く事。そして何より、それこそが自分の望み。……例え幽々子様が現世にいようと、隠世にいようと、自分は常にお側におりましょう」
 自らの動悸が弱まっていくのを、驚くほど冷静に理解した。く、と苦悶の声を一つ上げる。しかし、握りしめた手からは力を抜かない。死蝶を強く握り込んだままだ。
 それを見て、妖忌の言葉を聞いて、幽々子が更に狼狽する。死蝶を掴む自分の手を、禍々しい物を見るかのように見て、
「わ、分かった、放す、放すから!」
 言葉の通り、死蝶を放した。握り締められていた死蝶は潰れてもおらず、掌の中で一度、二度と羽ばたき、再び幽々子の周りを舞い始めた。
 それを見て安堵のため息を吐く。続くように、妖忌も震える手を開き死蝶を放した。二人の手中から解放された二色の蝶が、互いを追うように宙を舞い始める。
 二人の間に走っていた緊張が僅かだが緩和され、西行妖が僅かに弛緩した気配を漂わす。
 それを合図とするように、幽々子の身体が支えの糸を失ったかのように頽れる。既に四つ足をついていた妖忌の眼前の地に手をつくと、感情のうねりを吐露した。
「どうして……」
 疑問の声が、妖忌を捕らえた。
「どうして……どうして、一人で死なせてくれないの、妖忌……? 私はもう、僅かなきっかけさえあれば誰でも殺めてしまうのに……。それこそ富士見の家の人だって、お義父様も、小努も、」
 目の端から哀しみの色の涙が零れ始める。最初は雫でも、やがて涙は滂沱と流れて彼女の正装を濡らした。
「……あなたでさえも、殺めてしまうかもしれないのよ!」
 彼女は叫ぶ。伝わらない思いを必死に伝えようとする赤子のように。
「私は誰も死に誘いたくなんてない。殺めたくないのよ! ねえ、お願い妖忌。もう誰も殺める事の無きよう、私をここで果てさせて!」
 ぎり、と妖忌の歯が軋むような音を立て、同時に、未だかつて幽々子に見せた事のない憤怒の表情を作った。
「死んで花実がなるものですか!」
 それまで黙っていた妖忌が激昂する。自ら意識せず、聞き分けのない幼子を叱りつけるように、幽々子の瞳を正面から見据えて言葉をぶつけていた。
「幽々子様。我々は未だ二十の年すら生きておりませぬ。いわば、まだ花を開かせ始めたばかりの若木。実をならせてもいないのです。だというのにこんなにも早く命を絶って、如何なされるというのです!」
 一息。心を落ち着かせるように強く一息を吸う。
 宙を舞う二色の蝶が二人の周りを音もなく舞い続け、紅く燃える西行妖が二人を見下ろしている。浮世とは思えない光景。浮世とは思えない世界。
「……幽々子様がもう人を殺めたくないと仰るのでしたら、自分がその役を担いましょう」
 妖忌が憤怒の表情を少しだけ和らげ、決然と言った。言葉の意味が理解しきれず、幽々子は戸惑う。
「……妖忌? あなた、一体何を……?」
「幽々子様が殺めねばならないような者が顕れたならば、自分が斬り捨てましょう。幽々子様を蔑む者がいたならば、その者の得心がいくまで自分が説き伏せましょう。幽々子様が死を厭わぬ従者をお求めにならば」
 妖忌は幽々子から目を離さない。幽々子も、妖忌から目を離す事が出来ずにいる。それを改めて確認してから、妖忌は目尻に笑みを浮かべる。幼子をあやすように、
「自分がいつまでもお側におりましょう」
 本心からの言葉だった。嘘偽りの無い言葉を、曇りのない眼差しと意思でもって送る。
 僅かな間だけ、妖忌は瞳を閉じる。全身にはまだ鈍い鈍痛とも言える感触が残っているが、耐えきれない程ではない。休んでさえいれば次第に治るだろう。
 再び瞳を開いた時―――眼前には、泣き腫らした幽々子の顔があった。ただし表情は、哀しみというよりも嬉しそうな、しかし少し不思議そうなもの。
「妖忌は……」
 流した涙を拭おうともせず、震える唇で問いかけの言葉を作る。
「妖忌は、どうしてそんなに私のために尽くしてくれるの……?」
「―――」
 咄嗟には、言葉が出なかった。
 妖忌にとって、物心ついて以来常に幽々子の側にいたという事はどう足掻いてもねじ曲げられなく、また否定する必要も無い事実だ。
 確かに、歳が同じだという事もある。富士見の家を代々守護してきた近舶の家柄という事もあるだろう。ただ守護するだけでなく、側付としての役目を担うにはこれ以上ない存在だったから、流されるままに側侍を始めたという事も確かだ。
 しかし、それでも。
 幽々子が微笑んでいると、妖忌も楽しくなる。幽々子が泣いていると、妖忌も悲しくなる。幽々子が自分を頼ってくれる事を、これ以上ないほど嬉しく思う。常に側にいる自分を、厭う事なく笑顔で受け入れてくれる幽々子の事を、誰よりも有り難く思う。
 その気持ちは、決して誰かから与えられた物ではない。その確信があった。
 例えその気持ちが、状況が生みだした必然だろうとも―――
 それが、すべてなのだ。
「……自分にとって」
 思いを代弁するように、言葉が出ていた。
 胸中で言葉は作られない。自分が何を言っているのかは分からない。だが、思いは奔る。
 無邪気に笑い合う、幼かった日々を映すように。
「自分にとって、幽々子様のいない世などは考えられません」
 言い切り、幽々子の瞳の奥を、その本音を推し量るように覗き込む。
「……この答えでは、ご不満ですか?」
 慌てたように、幽々子が首を横に振った。
「よう、き……」
 弱々しい呟き。どこか呆然としたようなその声音から感情は察する事が出来なかったが―――
 すぐに、何かの決意を宿した瞳で妖忌を見返してきたのだ。
 決意の瞳が宿るのは、泣き笑いの表情。哀しみではない涙を滂沱と流し、しかしそれを拭おうともしない幽々子が妖忌を真っ直ぐ見据えていた。
「……妖忌。私……花が実をならせるまで、生きようと思うの―――」
 それが、紛れもない答えだと思った。



 ~~~~~~~~~~~~



「―――幽々子様は、変わられましたね」
 唐突に、小努がそう言った。
 幽々子の朝は、小努に起こされて始まる。その後、着替えをこなしてから、髪に櫛を入れて貰う。その最中に小努が放った一言だった。
「え? いきなりどうしたの、小努?」
 髪に櫛をかけてもらっている最中なので、小努の方には振り向けない。心持ち振り向いたつもりで幽々子は訊ねた。
 小努の櫛使いは優しい。母が娘を慈しむような梳き方で、丁寧に髪を整えてくれるのだ。小努の櫛使いは幽々子の髪に手慣れたもので、恐らく彼女は幽々子の髪に関してなら本人以上に熟知しているだろう。
 小努は櫛を動かす手を止める事無く、言葉を探すように僅かに逡巡。
「その……裳着を終えてからというもの、最近の幽々子様は何処か元気がありませんでした。何と言いましょうか……。自分が生きる事や死ぬ事に対して、自棄的になっていたような……」
 ですが、と続ける。櫛が髪の上を滑り、小努が笑みを浮かべた事を気配が教えてくれた。
「最近になって、幽々子様は昔のような元気な様子を取り戻されました。お側で見ていて、生き抜こうという強い意志が感じられるほどに」
 幽々子たっての要望で作られた窓際の手摺、その向こうの庭園から湿った朝霧が入ってくる。朝霧の侵入を受け入れる室内は西行寺の当主という肩書きの割には静かな佇まいだ。目立った美術品や陶芸品も無く、どちらかというと実用的な物の方に比重が置かれている。
 室内には装飾が施された座布団もあるのだが、幽々子が敢えて円座を好んでいる事も実用的な色を強くしている。
 幽々子は円座の上で足を組み替える。小努の言葉を二度反芻してから、
「……昔、西行寺家の人間が死霊を操る能力を受け継ぐ事を、初めて聞かされた時の事なんだけど」
 唐突に話題がすり替わった事に驚いたのか、幽々子の髪を梳いていた小努の手が一時止まる。
「その時ね。私、それが一体どういう事か分からなかったの。そもそも、何故死霊なんて扱う必要があったのかさえも。……一人で手鞠をつきながら、ずっとその理由を考えていたの」
 小努の表情は見えない。それと同じように、小努には幽々子の表情が見えない事だろう。
「ある日、いつものように手鞠をついていた時、西行妖の幹についていた蝉が一匹、呆気ないくらいあっさりと地に落ちて、そのまま動かなくなったの。……生き物の死を見たのは、それが初めて。その時になって、漸く私は理解したのよ。……お父様も持っていたというあの力は、誰かを殺めるための力なんだって」
 小努が後ろで息を詰める気配を感じながら、幽々子は抑揚を抑えながら言う。
「私、驚いたの。私達は護国を旨とした一族だというのに、なんでその当主自らが誰かを殺めるための力を手に入れるのか分からなかった。……確かに暴れる妖怪から西行妖を守る必要はあったけど、何も死霊を操らなくたって良いんじゃないかって」
 それが過ぎた力だという事は、幼心にも容易に察しがついた。しかしそれを拒否する事は出来なかった。昔から、西行寺家の当主となるべき人間はそうしてきたのだから。もし自分一人が否定の叫びをあげたら、その力を得てきた者達を、亡き父親すらも否定する事となる。それは出来なかった。
「それで答えは出ないまま、……とうとう私も西行妖の桜を喰らい、力を得た。でも、裳着の時に私は秘かに決めたの。……私は絶対に、この力で誰も殺めないって。国と一族と西行妖を守るためって言い訳で誰かの命を奪うなんて、絶対に間違ってると思ったから」
 だが、僅か数日でその決意も呆気ないほど簡単に打ち砕かれてしまった。荒ぶる妖怪の襲撃と、その死によって。
「あ……」
 小努が呼気を漏らした。言葉にならない言葉。彼女の櫛を持つ手が僅かに動きかけるが、しかし震えを伴って静止した。
「妖怪を殺めた時、私は恐ろしくなった。絶対に殺めたくないと思っていたのに、そう強く自分を戒めていた筈なのに、それでも私の少しの驚きや怯えに反応して、私の力は誰かを死へと誘ってしまった。妖も、人さえも」
「幽々子様、それ以上は……」
 小努が話を止めようとするが、幽々子は聞かない。
「もう自分がどうすべきなのか分からなくなった。私は誰も殺めたくないのに、それなのに殺めてしまう。私が誰かを殺めたなんて、そんな事認めたくなかった。受け入れられる訳が無かったの。それでね、私は……」
「幽々子様……!」
 悲壮な声と共に肩を強く掴まれる。幽々子は振り向くことなくその手を握り返す。小努は驚きも恐れもしなかった。
「私を、殺めようと思ったの。私さえいなくなれば、もう誰も殺めないで済むって思ってしまった。……でもそれは、逃げる事と同じだったの。妖忌に叱られて、色々考え直して、漸く私は自分でその事に気付けたのよ」
 そこまで言ってから、振り向いた。そこにあった、気遣わしげな色を湛えて泣きそうな小努の顔を微笑みで見つめ返した。
「私、もう逃げない。例え誰かに疎まれたって、こうして私の側には誰かがいてくれたから。それが、すべてだから。でもね……」
 ふと、幽々子の表情に翳りが差した。不安そうに、
「小努。私にとって、あなたは従者とかそんな相手じゃない。もっと大事な友なの。だから、お願い」
 刹那の間の迷い。その逡巡を踏み越えて、幽々子は言葉を紡いだ。
「どうか私から離れて。私は何かの拍子に、大事な小努さえ失わせてしまうかもしれない。小努だって、今この瞬間にも理不尽に殺されてしまうなんて、そんなの受け入れたくは無いでしょう? だから、どうか……」
「幽々子様、それ以上は」
 静かな衣擦れの音と共に、温もりを感じた。
 小努が後ろから抱き締めてきたのだという事が、眼前に棚引いた髪の匂いで漸く理解できた。
「人はいずれ死ぬものです。遅かれ、早かれ」
 言葉はどこまでも優しい響きをもって、幽々子の内へと浸透してくる。
「それに……失礼なお言葉ですが、死を恐れて大事な人を、主を見捨てる最低の従者などという謗りを私は受けたく御座いません」
 決然とした言葉は一片の迷いすら感じさせない。
「幽々子様は誰かの死と向かい合う決意をなされました。ご立派な事です。だというのに、私だけ逃げるだなんて……、まるで置いていかれたようじゃないですか」
 抱かれる腕に力が込められた。小努の腕に、震えは無い。
「置いていかないで下さいませ、幽々子様。私は幽々子様をお慕いこそすれ、決して恐れたりなどはしませんよ」
「でも……でも。私はきみひ―――妖忌を」
 言ってから、はっとした。何故、妖忌の事を口にしたのだろうと。
 言ってはならない事を言ってしまったような心持ちで、幽々子は慌てて口を噤んだ。しかし、小努は幽々子が言いかけた言葉を理解したようで、
「……それ以上駄々をこねられますと、私は従者として幽々子様をお叱りせねばなりませんよ?」
 続く言葉は、だから、という優しい結び。
「どうか今は安寧の中で微睡み下さい」
 小努が身体を離す。先程幽々子が送った微笑みと同じ種類の表情がそこにあった。ただし、その目はどこか寂しそうな色を必死に隠そうともしている。長い付き合いのせいもあって、幽々子にはそれが分かってしまった。
 小努が好いた妖忌は、小努ではなく、幽々子と共にある事を望んだのだから。
「……ごめん、ね……」
 ぽつりと、俯き力無く呟いた。頭の上に小努の手が乗り、数度優しく撫でてきた。
「今日だけは……、そのお言葉を、謹んでお受け致します」
 朝霧の中、僅かに隠れていたが。しかし幽々子は見たのだ。
「ごめん……ごめんね」
 霧の向こうに消えてしまいそうな小努に、必死に謝り続けた。
 例え何があったとしても、彼女を失わせてはならない。そう思った朝だった。
 小努が涙を隠した、朝だった。



 ~~~~~~~~~~~~


 村へと寄越した使いが芳しくない結果と共に戻ってきたという報せは、瞬く間に屋敷内に広がっていた。西行妖を焼くべきだという結論は確かに村人の総意に近いものであったという事。屋敷に来たあの若い男の死を村人達に告げると、彼らは一様に顔をしかめて見せた事。まるで事前に打ち合わせたかのようなその様子に、どうやら富士見の一族と袂を分かったのは間違いないと、そう使いは思ったらしい。
 村長を名乗った男の死から二日が経っていた。その報せが入ったのは、会談の内容がいよいよ戦が起きた時の行動の確認に及んでいた頃だ。報せを聞くなり、会談の頭を務めていた弥疋はこう言った。
「皆、……心構えを」
 何の、とは言わなかった。だが集まった当主達は皆、それこそ打ち合わせたかのように頷きを交わし合った。
 遅ればせながら会談に出席していた幽々子も沈痛な面持ちで、義父である弥疋の言葉を聞いていた。
 令が飛び、蔵に蓄えられた食料、武器、及び現在の富士見家の人員などが確認された。村の方が人間の数は多いが、武器や設備などはこちらの方が遙かに上。奇襲を受けないように物見の数も増員され、見回りの頻度も増やす事となった。
 戦支度が進んでいた。



 嵐の前の静けさとは言わないが、穏やかな薄暮だった。幽々子と妖忌はそれぞれ西行妖の幹に背を預け、果てに消え行く夕陽をただ眺めていた。
 何を話すでもなく。
 何を為すでもなく。
 ただ、在る平和を噛み締めるように、佇む事を是としていた。
『……話は弥疋殿から聞いた』
 躊躇いがちに西行妖が切り出した。一度だけ、枝葉を緩やかに揺らす。
『例え我が身が枯れて、多くの者が犠牲になろうとも、其方らは生きるべきだ』
 溜めるような、間。
『……頼む。生きてくれ』
 妖忌が僅かに眉を歪めながら、西行妖の幹を見上げる。巨大な妖怪桜は、夕陽を受けて紅葉のように染まっていた。
『富士見の一族は報われこそすれ、厭われるべきではないのだ。其方らは遠くの地へ移り住み、儂の怨気に備えてくれ』
 一言一言、言葉を選ぶように間を空けながら西行妖が告げてくる。その言葉を受け、妖忌が何かを言おうと口を開きかける。が、それを幽々子が制した。夕陽から目を離さず、毅然とした態度で拒否の意を示しながら、
「駄目よ。富士見の誓いはそんな独善的な誓いでは無いの。富士見の誓いは、護国の誓い。国を軽視し、多くの人や仲間、そして何よりあなたを見捨てて行く事は絶対に駄目。郷を忘れても良いのは、我を失った時だけよ」
 言う幽々子の周りを、ふわりと何かが舞った。余りにも純粋過ぎる、死の輝きとしては全くもって相応しくない牡丹色と紫苑色の二色の蝶。紫の色が死を示すものとはいえ、死蝶の輝きは無垢に過ぎた。
 幽々子は布に音立て腕を伸ばし、右の手指を夕陽へとかざす。群れの指揮を執るかのように伸ばされた手を追い、蝶達が紅い陽の光を受けてくるりと回った。
「―――この子達のように」
 霊は生きている者ではない。とは言え、存在しない訳ではない。ただ、生命という最重要の我を失っただけの存在に過ぎない。
 幽々子はそう言い、ふと表情の険を消した。少しだけ穏やかな顔つきを作り、
「ねえ、西行妖。私達はまだ我を失ってはいない。郷を忘れるにはまだ早いの。だから……だから、自分が枯れた時の話なんてしないで」
 伸ばした手を、祓うような仕草で振り抜く。その手に合わせて死蝶達が一斉に空へと飛び立った。
 茜色の空で、まるで透けるように美しい二色の蝶が舞い、交差し、幻想的な舞踊を演じ始める。幽々子は視線を上げる。その舞を眺めるというよりも、それより更に遠くを見ながら幽々子は言う。
「私自身が、そうなる事を望んでいないのよ」
『しかし―――』
 西行妖が何かを言いかけて、止まる。今の今まで背をもたれ掛からせていた妖忌が、やおら身体を離し、見上げてきていたのだ。
「西行妖よ。……これまでの自分がしてきた数々の非礼を、先ずは詫びよう」
 突然の謝罪の言葉を告げると、深々と頭を下げる。かつての頃より僅かに伸びた髪が、小さな音をたてて垂れた。
「護国の桜、西行妖よ。一つだけ、唯一つだけ、貴殿に頼み事があるのだ」
「妖忌、……いきなり畏まっちゃって、一体どうしたの?」
 幽々子の疑問に、妖忌は答えない。彼は、ただ案山子のように棒立ちし、西行妖に頭を下げたままだ。
『……富士見の眷属よ。顔を上げてくれ。男児がそうそう頭など下げるものではない筈だ』
「いざという時に頭も下げられずして、富士見の一族は名乗れませぬ」
 妖忌は頑として譲らない。両手を腿につけたまま、ただただ庭園の砂利に顔を向け続けている。
 妖怪桜から唸るような気配が伝わってくる。それから一拍の間を置き、
『……近舶妖忌よ。頼み事とやらを言ってくれ』
 妖忌は頭を上げない。俯いたまま西行妖へと歩を進め、幹に手をつく。
「西行妖よ。もしもだが、これから先……この地は戦火に見舞われるかもしれない。我々近舶の一族、いや、富士見の一族は皆身命を賭して其方を守護してみせる。……何を今更ぬけぬけと、そう思われる事だろうが……」
 幽々子も、西行妖も何も言わない。ただ、驚きの色でもって妖忌を見ている。
 彼は、誰のために涙しているのだろう?
「どうか、どうか西行寺の一族を……幽々子様を」
 声は悲壮な色を隠そうともしていなかった。かつては幽々子に世間体を説いていた妖忌だというのに―――今は一目を憚る事もなく、まるで稚児のように涙を流している。
 言葉を繋ぐように聞こえてくる、嗚咽。ひ、という、肺腑へと詰まった息を吸引する音の直後に、
「幽々子様を……お守り下さい」
 初夏だというのに、妖怪桜が一枚の葉を散らした。散った葉は妖忌の頭を掠め、その悲痛な願いに応えるように肩へと落ちた。



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 陽が沈まぬ日など、これまでに人間が刻んだ歴史上で存在した試しは無い。同様に、夕刻の後が夜の帳に包まれなかった日も存在しない。
 泰平の後が乱世にならなかった歴史も、無い。
「なあ。……本当にこれで良かったんかなあ?」
 夜の静寂に言葉が生まれる。その不安そうな男の声音は、闇夜を照らす灯火の近くから響いていた。
 月が満ちていた。妖達が普段よりも強い力を得ると昔から伝えられている禍つ夜である。このような時間に動くのは妖魔か、或は訳ありでも無い限り、莫迦な人間くらいである。
 そして彼らは、訳ありだった。
「仕方あるまい。最近(とみ)に妖怪達の動きが活発になってきておる。このままただ手を拱いているだけじゃあ、村はもう長く保たんだろうて」
 先の声に答える形で、老人の声。
 満月の明かりと、小さな篝火、そして灯火によって照らされている地の名は海岸である。小波が打つ砂浜には、手に手に灯火を持った者達が窶れたような顔を突き合わせていた。
「だがよ。村長……じゃねえ、長老」
「もう村長で良いぞ。……儂の孫は、代役を立派に務めて果てたからな」
 立ち並ぶ者達の間に悔やむような空気が流れる。だがその空気も、それより重い一言が発される事で打ち消される事となった。
「村長や。……我々はまだ、富士見の一族という縛めの中にいるんじゃないのか」
 誰もが薄々と感じていた事なのか、皆一様に押し黙った。
「我々がこうやって講じた手立ても……富士見の一族の繋がりを利用したものに過ぎんのだから」
 返る言葉も、続く言葉もない。言った本人も、力無く項垂れるだけで発言による影響を求めていない様子である。
 彼らの村はもはや進退窮まっていた。度重なる妖怪の襲撃に怯え、傷つき、畑も荒らされ、緩慢な滅びの道を歩みつつあった。彼らには富士見の地に住まう者達ほどの武芸が無ければ、異形の力も無い。
 元々、富士見の一族の中でも特に力を持たない者達が少し離れた地に集落を作り、農作業などの営みを始めたのが村の最初だ。彼らもこの島に住まう富士見の一族として、遠回しながら護国に尽力してきた。尽力してきたのだ。
 だが、長い苦労の日々もいよいよ限界を迎えようとしていた。既に村に残された道は、滅びか、
「……来たぞ。鬼道衆だ」
 叛乱しかなかったのだ。
 月明かりの輝きを返す黒の海の中から十艘程度の小型船が近付いてきていた。一艘毎に人影が六名乗っており、中央の一艘だけは一人多く七名だ。更にその一艘の先端には人影が一つ、仁王立ちするように悠然と立っていた。
 船団が近付くにつれ、海岸の篝火に照らされてその姿がより明らかになる。
 それは異形の者達だった。皆一様に酒呑童子の顔を模した仮面を付けており、全身も赤系列の僧服に包んでいる。中央に立つ一人の鬼面に至っては、頭から突き出た二本の角の装飾まで為されている。
「あれが鬼道衆か。……幕府や朝廷の権力に左右されず、ただ国に仇なす災いの種を摘む事だけを目的とする集団がいるとは聞いていたが。だが、本当に存在したのか……」
「五十は下らないあの数……そしてあの異形の姿だ。大江山衆との異名も頷けるな……」
「聞いた話によると、鬼道衆の数はあんなものじゃあ無いらしい。その気になれば大名達とも渡り合えるとの事だ」
 声を潜めて囁き交わす彼らの元へ、鬼道衆を乗せた船団はゆっくりと接近する。やがて中央の一艘が砂浜へと乗り上げ、立ちそびえていた男が降りてくる。それに続き、他の船も砂浜へと乗り上げた。
 一際体格が大きい、角をつけた仮面の男の元へと村長と呼ばれた老人が歩み寄っていく。
 老人が小柄だという事を差し引いても、すぐにその角の仮面の男が偉丈夫と分かるほどに体格が大きい。まさに鬼という形容が相応しいと言えるだろう。
「其方らが鬼道衆か」
 村長の問いに、異形達の頭目と思しき偉丈夫が鷹揚に頷いてみせる。
「いかにも。自分こそが、かつて大江山の鬼を退治した渡辺家の分流、鬼道衆の頭を務める渡辺嘉実(よしざね)だ」
 偉丈夫―――嘉実の名乗りに、富士見の者達がにわかにざわめいた。嘉実はそちらへちらりと顔を向ける。
「我々の一族は源平の合戦にさえ関わらず、浮世の事に携わる事の無きよう歴史の暗部に生き、影から日本を守護してきた。本来ならばこのような地へ赴く事など無いのだが……」
 船から次々と降りてくる鬼道衆が素早い動きで装備や時間の確認を行う。それが終わると即座に嘉実を中心として陣形を組んだ。
 嘉実が村長を見下ろす。鬼面に覆われ表情が見えない中で唯一見る事の適う、凶眼とも呼べる瞳が底冷えのするような威圧を発した。
 それに物怖じしたのか、村長達は僅かに身を退いた。だが、それを追うように嘉実の言葉が来る。
「西行妖の話は我々も聞き及んでいる。よくよくあやしいとは思ってはいた。だが、其方らとて歴史ある富士見の一族。見識ある高僧や公家の者達の末裔であるから、我々が介入するべきでもないと思っていたが」
 と、そこで小馬鹿にしたかのように鼻息を一つ。
「どうやら護国ごっこもお終いらしいな。やはりあの妖怪桜は災いでしかなかった。あまつさえ身内に離反者が出るとは、富士見の一族も地に落ちたものよ。いや……そもそも、富士見の一族など志の無い下賤の集団だったのだな」
「貴様! 言わせておけば!」
「ま、待つのだ!」
 村長の静止も聞かずに、一人の若い男が灯火を捨てて嘉実へと食ってかかる。草鞋で砂浜を勢いよく二歩進み、袈裟切りになって倒れた。
「……な」
 事態が飲み込めなかったのか、村長達の動きが止まる。突然に過ぎる出来事に動く事さえままならず、視線だけで倒れた男を見る。袈裟切りにされ俯せに倒れた男は、まだ生きているようだったが―――まるで抑えるところを間違えた笛のような音が聞こえてくる所から察するに、喉も切られたらしい。長くは保たないだろう。
 そのまま、彼らは辿るように視界を持ち上げる。そこには角の付いた鬼面を被り唐紅色の変形型僧服に身を包んだ偉丈夫渡辺嘉実と、その左手にある血に染まった打刀。
 嘉実は刀に付いた血を払おうともしない。ぱっと見た限りでも上等の物のようだが、しかし彼は血を拭わなかった。
 まるで、これからもっと沢山の血を吸うのだから拭くだけ無駄だと言わんばかりに。
「な……何も、斬り捨てる必要までは無かったのでは……」
 完全に腰が退けた様子で、村長が力無く呟いた。その言葉を切っ掛けとして、嘉実の気配が変異する。
「……斬り捨てる必要が無かった、だと?」
 瞳と、刀の切っ先が村長へと向いた。ひ、という呻きが漏れるが、嘉実は構わない。
「莫迦を言うな」
 言葉が終わらぬうちに、再び刀が振るわれ、砂浜に散る血が増やされた。
「む、村長!」
 斬り倒された村長へ駆け寄った男が、嘉実の返す刀で斬り捨てられた。か、という断末魔の声を皮切りに、いつの間にか村人達を囲っていた鬼道衆も、各々の武器を手に取り無言で攻撃を開始した。
 攻撃に加減は無い。間違いなく、彼らは殺すために武器を振るっていた。
「わ……渡辺殿! 一体、これはどういうつもりか!」
 いや、それは攻撃などという生易しいものではない。村人達はそもそも武装してすらいないのだ。更にここにいる人数も、鬼道衆に比べても明らかに少ないというのに、それを囲み武器で斬り捨てる。これはまさに、
「気でも触れられたか! このような……虐殺など!」
 彼らは迫る刃から逃げ惑い、転び、まろびながらも意思を問いかけた。
 同時に。遠くから、遠雷のような爆音が響いた。何事かとそちらに顔を向けた村人達は、森を挟んだ所にあるもう一つの海岸の方で、夜目にも鮮やかな紅蓮の炎が舞い上がっているのを見た。
「別働の衆も着いたな」
 人をまた一人斬り殺しながら、至極冷静な声音で嘉実が言った。彼の言葉を聞いたか聞かないか、村の者は動揺に滲んだ叫びを上げた。
「あれは……村の船がある方か!」
 海岸にて火の手が上がる理由など、そこにある物から考えれば一つしかない。
 そして人を殺しながらも船を燃やす理由など一つしかない。―――相手を逃がさないためだ。
「鬼道衆よ! 目的を違えたか! 本気で……本気で虐殺をするつもりなのか!」
 岩場へと追いつめられた男が蒼白な顔をして叫ぶ。と、漸く嘉実が言葉を返した。
「―――目的を違えた、だと? それは違うぞ、富士見の一族よ」
 男の喉元に真紅に染まった切っ先が突きつけられた。もうあと僅かの力を込められただけで男はその生命を絶たれるだろう。それが分かり、彼は全身から汗を滲ませ、震えた。
「な……何が違うのだ……一体、何が違うというのだ……!」
「お前達が思っている事が違うのだ。―――良いか?」
 嘉実は僅かに身を起こす。返り血を受けて更に紅の色を増した鬼面を振り、同様に赤黒くなった長髪を棚引かせ、海岸にいる全ての者に聞こえるよう声を張り上げた。
「此度の我が衆の任は、傾国の原因となる憎き妖怪桜・西行妖と、それを知る者総てを滅ぼす事にあり! 国も、人も、誰もが知らぬうちに、歴史の闇に追放するのだ!」
 宵闇の中、鬼道衆がやって来た海原の方に巨大な影が顕れた。それも一つではない。富士見の屋敷の一つにも匹敵する大きさの物体が、四つばかり黒の海の上を滑ってくるのだ。
 それは船だ。軍船と言っても過言ではないような堅牢な作りの巨大な船が四艘、この島へとやって来ている。船の先端に赤黒い鬼の顔の装飾が為された巨大な船は、
「鬼道衆の船団……? 莫迦な。鬼道衆総てが動いたとでも言うのか……! 本気で、本気で総てを滅ぼすつもりだとでもいうのか!」
 村人の必死の問いに、嘉実は刀で答えた。



 突如として海岸から響いた爆音は富士見の屋敷にまで届いた。当主幽々子の許可と弥疋の令により事態の確認が取り急ぎ行われた。その間、屋敷内の者は皆起こされ、何が起こっても良いように蔵から武器を取り臨戦態勢を整える。
 村人達が富士見の地へと逃げ込んできたのはその最中だった。その殆どは子供か女。逃げ込んできた皆は這々の体で、中には刀傷を負っている者までもがいた。
 彼らは屋敷近くの別館へと案内された。別館では既に富士見の一族が集まり、いざ布陣した時の陣形の最終確認などを行っている最中だった。
「やられた……完全に奇襲を喰らった形だ。我々の船は恐らく全滅、海へと逃げる事は出来なくなった。我々を逃がすために残った奴らもそろそろやられている頃だろう……。もう逃げ場が無いんだ!」
 比較的冷静だった者が状況を説明し終えた途端に、片腕を斬り落とされていた男が半狂乱で叫び始めた。
 見張りを兼ねていた衛兵が、それを聞き咎め手に持った素槍の石突を一度、苛立ったように強く地に打ち付け、怒鳴りを返した。
「何を言うか! 今更、逃げ場などと……。元はと言えば、お前達が招いた事態だろうが!」
「だが、我々は妖怪桜を焼き討つ事だけを頼んだのだ! 人を殺してくれなどとは一言も言っていない!」
「言わせておけば……! そもそも、鬼道衆などという外部の力に頼るから、このような事になったのだぞ!」
「やめないか! 今は責任を押しつけ合っている場合ではない!」
 叫び合う衛兵と村人とを黙らせたのは直垂を隙無く着込んだ弥疋だ。彼は鋭い眼光で別館に集まった者達を見回し、一つ重く頷いた。
 富士見の一族のほぼ総てと、僅かな村人。女も、男も、子供も、老人もいる。幽々子や妖忌、その父妖禍、小努の姿もある。
 一種壮観とも言える人員の量だが―――鬼道衆には到底及ばない数だろう。実戦経験の差も歴然としている。鬼道衆はこういった荒事専門の集団なのだから、場数は圧倒的に不利であろう。
 視線を巡らす弥疋は、幽々子で目を止めた。僅かに一礼し一歩を譲る。
「西行寺家当主、幽々子様。……如何致しますか?」
 弥疋の重い一言に、自然と囁き合う者達が押し黙った。続き視線という視線が幽々子へと注がれる。
 或る者は不安の込められた視線で。
 或る者は期待の込められた視線で。
 或る者は諦観の込められた視線で。
 或る者は信頼の込められた視線で。
 対する幽々子は、即座に判断を下せずに迷った。ここで自らが下す決断一つで多くの血が流れ、知った人間の命すら果てる事になりかねない。
 だが、逃げる事だけは駄目だと、そう思った。船が総て燃やされたとはいうが、それ以前に逃げる事自体を許す訳にはいかないのだ。例え人間が逃げられても、西行妖が鬼道衆の脅威に晒されては元も子もない。西行妖は必ず守り抜かないといけない。
 話し合いは―――恐らく不可能だろう。村人達も、何の交渉も無しに唐突に惨殺されていったと言う。更に船を焼いた事や、鬼道衆総員を仕向けている事から鑑みて、講話は困難を極めているように思う。それに、もし話し合いを行えたとして、失敗した時の事を考えなければならない。
 残された選択肢は、一つしかないのだ。
 鬼道衆は刃を向けてきているのだ。一方的に刃を振りかざす相手に対して最も有効な対応など、年端もいかぬ幽々子ですら分かる。
「……弥疋」
「はい」
 側に控える義父へと幽々子は訊いた。問いはただ一言。
「勝てるの?」
「そう御命令なされれば」
 弥疋の解答に淀みは無い。あらかじめ答えを用意していたかのようですらある。
 幽々子は頷きも応えもしない。そのまま妖禍へと顔を向けた。
 柳染の色を基調にした、活動性が重視された羽織袴に身を包んだ妖忌の実父。腰に短刀を佩き、手には七尺近くの素槍。
「妖禍、あなたが指揮する騎馬衆はどれだけ戦える?」
「は」
 妖禍は軽く一礼。彼の動作に合わせるように羽織袴が衣に音立てて震えた。
 近舶家の者は基本的に甲冑等を着ない。かつて幽々子が妖忌にその理由を尋ねたところ、近舶家は元々甲冑以上に強力な加護の力を宿した一族なのだと教えて貰ったが、本人もその辺りにあまり詳らかでは無いらしい。
「近舶家、島嵜(しまざき)家の騎馬衆は合わせて百近く。誰もが常に戦場に出られます。聞くところに依ると鬼道衆はその殆どが歩兵で、刀を使っているとの事。我々騎馬衆は有利に戦えましょう」
 槍の石突を一度、力強く床に打ち付ける。
「強襲を御命じ下されば、見事鬼道衆の勢いを削ぎ、時を稼いで御覧に入れます」
 やはり彼にも迷いは無い。妖禍が騎馬衆を率いて訓練している姿は、幽々子もよく見かけていた。その実に洗練された動きを思い出すに、彼の言葉に嘘は無いだろう。
 だが、幽々子はまだ頷かない。迷うように視線を彷徨わせる。本当に決断して良いのだろうか。その思いにどうしても囚われてしまう。
 一人や二人どころの問題ではないのだ。百、否、下手をすれば千を越える人間達の命が自分の判断によって失われかねないという恐怖。容易く決める事が出来る訳がない。
 縋るような心情を出来るだけ表面に出さないよう、妖忌を見た。長刀の鞘の先に一枚の葉を括り付けた妖忌は幽々子の眼差しを正面から受け、視線を逸らしもせずに一つ、静かに頷いた。
 ……それが、すべてだった。
「皆さん、戦の準備を」
 異論を唱える者など一人もいなかった。ただ、応という力強い返答が総ての者達から返ってきた。
 即座に、誰もが淀みなく、躊躇なく自分の持ち場へと動き出した。途端に別館の中は人を呼ぶ声や命令の声、多くの人間が移動する騒音の渦に包まれた。その中には誰一人として泣き言を発する者はいない。
 もう逃げ場などが無い事を、皆が知っていたからだ。



「弓の心得がある者は弓を持て! 鬼道衆は我らの完全な根絶やしが目的なのだ! 女子供も武器を持て! 武器が扱えない者は屋敷の屋根瓦を外し、敵が押し寄せた時に投げ落とすのだ! 屋敷などはいくらでも建て直せる!」
 指令と吼声とが飛び交い、それに伴い人も駈ける。あまりにも突然の戦闘とはいえ、誰もがうっすらとこの日を予感していたのだろう。各々が自らに出来る事を考え、行動に移していた。
「父上」
 騒然とした屋敷の周囲、妖忌は実父の元を訪っていた。
 妖忌は妖禍の実子だが、父が指揮する騎馬衆には属していない。馬の扱いが下手という訳ではなく、幽々子の側侍を旨とするためだ。よって、戦場では同じ所に立つ事は少なくなる。
 騎馬衆は先駆けし、敵にぶつかる。そこでもし押し返され圧壊したならば―――恐らく、もう会う事はなくなる。
 だが、一人だけで泣き言を言う訳にもいかない。妖忌に限った事ではなく、屋敷にいる者達総てが同じような恐怖を抱いているのだ。縁のある者を失うかもしれないという最大限の恐怖。
 妖忌は馬上にいる最低限の防具に身を包んだだけの父へと問いかける。
「勝てますか?」
 先程、幽々子が自身の義父である弥疋へ問いかけていた言葉。それを妖忌も口にしていた。
「……勝たねばならぬ」
 多くの人の目はこちらに向いていない。だからこそ、本音を語るように妖禍は言った。その表情は苦虫を噛み潰したかのようで、妖忌の質問の答えを言葉以上に顕していた。
「妖忌よ。私は準備が整い次第、近舶家、島嵜家の騎馬衆を率いて鬼道衆へ強襲をかける。彼奴らは大軍。隊列を崩さねば、我々が押し潰されてしまうだろう」
「ならば……自分もお供致します」
 彼の言葉に、しかし父は首肯しない。厳格な顔つきのまま、慌ただしさを倍加させゆく屋敷を見た。
「ならぬ。其方は此処に構え、屋敷まで押し寄せてきた敵を倒すのだ」
 と、父は馬を動かし妖忌へと向き直った。僅かに声を大きくし、周りで走る者達に届くほどの声量で告げる。
「近舶妖忌。其方をこれより富士見の家の戦衆の長に命じる。降りかかる火の粉を払う役目、任せた」
「っ……」
 突き放されたような感覚。何かを言い返したい衝動に見舞われるも、妖禍の大声での任命を耳に入れた者達がこちらを見ているのでそうもいかない。
 出来る事は一つ、無言の首肯。
 それを待っていたかのように背後から金属音が聞こえた。
「妖禍殿。準備整いました」
 甲冑に身を包んだ、十文字型の大きな鎌槍を軽々と持った大男が妖禍の近くへと馬を動かし、出陣の準備が整った事を報せる。大男は妖禍が小さく頷き返した事を確認すると、妖忌へと顔を向けた。
「妖忌殿。御心配には及びませぬぞ。我々島嵜家と、妖禍殿が指揮する騎馬衆はそうそう簡単にやられるものではありませぬ。必ずや、父君をお守り致しましょう」
 だから、と言うように、大男―――島嵜家当主は厳つい顔を破顔させ、頭を下げてきた。
「妖忌殿には、この屋敷をお頼み申します」
 断れない。人の目があるという事以上に、一家の当主を担う人間が頭を下げてきているという事実が妖忌には重い。
 先程の突き放された感覚とはまた違う感覚。島嵜の善意が分かるだけに、妖忌も相応の対応で返さざるを得ない。
 馬上の島嵜へと、真っ直ぐ頭を下げて請い願う。
「父上を、宜しくお願い致します」
「お任せくだされ」
 島嵜が返礼を返すと同時、妖禍が声を張り上げる。
「騎馬衆総員に告ぐ! これより鬼道衆へ突撃するぞ!」
 その声に応え、島嵜の背後に控えていた百近い数の騎馬衆員が一斉に武器を掲げ打ち合わせた。進発の合図だ。
 撃蹄の音が響く中、通り過ぎざまに妖禍がこちらをちらりと見た。
「……西行妖を……幽々子様を、頼んだ」
 反応すら待たず、妖禍は行く。突撃の役を帯びた騎馬衆は振り返らない。速度を出し惜しみする事もなく前へと消えていく。
「……」
 妖忌は無言でそれを見送った。父の背中を凝視し、記憶に留めようとする。
 百近い精鋭の騎馬衆。それすらも、鬼道衆は突破してくるというのだろうか。



 漆黒の空には描いたような真円の月が浮かんでいる。満月の月明かりに照らされ、西行妖はよりあやしく炯々と輝いていた。
 あやし―――
 以前の夜に倒れた鬼子の言葉を瞬間的に思い出し、幽々子は少し息に詰まる。
 結局、何故あの鬼子が幽々子の事を『あやし』と呼んだのかは分からず終いだった。幽々子自身があの夜の事を話すのを忌避したという事もあるが、明らかになった時の事実が恐ろしいという事もある。
 富士見の屋敷の人間が幽々子を見て言う、『あやし』。それは決して悪い意味ではないと聞かされてきたというのに、あの夜に鬼子が言い捨てた『あやし』はどう考えても悪い意味を込めた様子だった。
 明らかにしたい。明らかにするのが怖い。
 分からずに今までいられた事だからこそ、これからもそうやっていられる筈だ。そう自分に強く言い聞かせる。
「幽々子様」
 声に揺り戻され、幽々子は慌てて振り返った。
「小努……」
 手に小振りな薙刀を持ち、白の軽装に身を包んだ小努は、軽く一礼。
「幽々子様、私は幽々子様のお近くで、共に西行妖を守らせて頂きます」
 宜しいですか、とは訊いてこなかった。ただ、小努は守ると言ったのだ。
 幽々子は僅かに顔を俯かせ、しかし不器用に笑顔を形作ると、唇だけの動きで有り難うと伝えた。それを見た小努が、分かっているという風に微笑を浮かべた。
 幽々子と小努は西行妖の傍らにいる。僅かに離れた所には弓を抱えた弥疋と、少ないながらも護衛の姿も見える。
 幽々子達がわざわざこんな場所にいるのは、敵が伏兵や奇襲を仕掛けてこないとも言い切れないためだ。勿論屋敷の全包囲は厳重に警戒されており、ほぼ杞憂に終わる事だろうが、念には念である。
「幽々子様。妖忌様が見えています」
 小努が掌で示す方向を見ると、確かに妖忌がこちらへ向かって歩いてきていた。
 宵闇に僅かに映える白緑の直垂の上に若竹色の羽織。短く切り揃えた髪と、厳然とした顔つき。不相応に大きな長刀―――楼観剣を背負った姿は、妖忌以外にいない。
 先程、幽々子達にも報せは届いた。戦をする人間の戦場での指揮権が、妖禍から妖忌へと正式に引き継がれたという報だ。
 妖忌と妖禍の間でどんな会話が為されたのかは分からない。だが、妖忌が重圧を感じていたらなんとかして励まそうとも、幽々子は思った。
 気が付くと、小努が弥疋の傍らに移動し、何事かを話していた。少しばかり距離が離れているのと、屋敷が騒然としている所為で、何を話しているのかまでは判然としない。
 それはつまり、こちらが何かを話しても向こうには届かないという事だ。
 気を遣われたという事を素直に有り難く感じた。胸中で、親友の従者へと礼を送る。
「……妖忌」
 近付いてきた少年の名を呼ぶと、彼はこちらへ一礼。離れた所にいる弥疋と小努に一度だけ視線を配してから、言葉を紡いだ。
「幽々子様。……護衛の数が少なくはありませぬか?」
 言われて見回すと、確かに弥疋が数名の護衛を伴っているだけで、当主と命綱である西行妖を守るというには手勢が少ない。
 が、幽々子は静かに頭を振る。本当に必要ないと言いたげな様子で、
「ここに人数を回すよりも……屋敷の側の方の守りが大事だから。一応、西行妖は全ての方向を屋敷に囲われて守られている訳だし……それに」
 幽々子は片手を持ち上げる。指を一度擦り合わせると、その動きに呼応するかのように白い虚ろな影が舞い始めた。
 影は僅かに球形を保った後、唐突に弾け、赤紫と青紫の二色の死蝶へと変じた。
 牡丹色の死蝶が幽々子の周りを二度回り、紫苑色の死蝶が頭上を緩やかに旋回する。その穏やかな飛び方がどこか仰々しく、しかし不思議と安堵を呼ぶ。
「私が、いるから」
 妖忌はその言葉に応えない。飛び回る死蝶を眺めるだけだ。
「それで……妖忌」
 沈黙を守る妖忌に、幽々子は語りかけた。
「一つ、命令があるのだけれど」
 命令。
 当主である幽々子が側侍である妖忌へと命令する事自体は、さほど異常な事ではない。
 だが、幽々子がそれをした事は殆ど無い。幼い頃から共に過ごしてきた期間は長く、主従という言葉では解決できないような絆があるからだ。
 その幽々子が命令すると言ったのだ。妖忌は傍目から見ても表情を張りつめ、緊の雰囲気を作る。
「は。何でしょうか」
 途端、丁寧な口調。元から幽々子に失礼をかけまいとしていた妖忌の口調だが、命令の一単語を前にして、更に輪をかけて丁寧なものとなっていた。
 幽々子はその事に気付いても何も言わない。
「死ぬな、なんて言わない。今の富士見の屋敷にいる者に、死を恐れる人間がいてはいけないから」
 ただ、命じる。
「ただ、私よりも先に死ぬ事を禁じるわ」
 二人の間を、二色の死蝶が交錯した。
 はらり、と葉が舞い落ちた。唯一、二人の話を立ち聞きする事を許された西行妖の葉だ。
「幽々子様、それは……」
 虚を突かれたような、妖忌の声。
「駄目とは言わせないわ。―――私に生きる覚悟をくれたのは、あなた。私は……妖忌がいるから、頑張れる。だからどうか、……生き抜いて」
 透き通るような瞳で、妖忌を見た。視線に刺し貫かれた妖忌は、本当に僅かな時間だけ虚空を仰ぎ見る。
「……ならば、もう一つ。お命じ下さい」
 掠れそうな声で告げてくる。
「幽々子様。自分に……敵を防げと、幽々子様達を守り通せと、……そうお命じください」
 死蝶が踊る。戦に備えて焚かれた篝火の明かりが立ち並ぶ葉桜を、そびえる西行妖を、鮮やかに舞う死蝶を、詞を交わす二人を朧に照らしていた。
「……妖忌」
「お命じ下さいませ、幽々子様」
 逡巡した幽々子に、妖忌が小さく頭を下げた。躊躇を伴い、幽々子は命じる。
「……近舶妖忌。あなたに、命じます。この富士見の屋敷を、西行妖を、……私を、凶刃から守り通しなさい」
 妖忌は―――笑んだ。こちらに安堵を感じさせる、幼さのような実直さを包んだ笑みで、頷いたのだ。
「お任せ下さい。顕界一硬い盾、御覧に入れましょう」



 怒号が、響いた。
「始まった……」
 地鳴りのような鳴動。動物達の雄叫びのような怒号。断末魔のような悲鳴。
 幽々子は、いよいよ戦いが始まったのを音で聞いた。加えて、微かにだが幽々子の元にまで戦の余波が伝わってくる。
 恐らくは妖禍の率いる騎馬衆が敵に突撃を行ったのだろう。出来れば話し合いをするようには伝えたが―――
「やっぱり、戦は避けられなかったのね……」
「仕方ありません、幽々子様。責任を感じる必要もありませんよ。先に刃を向けてきたのはあちらなのですから」
 隣に立つ小努が気丈に言い添えた。だが、よく見れば薙刀を握る手が僅かに震えている。
 そっと手を伸ばし、掌を握り締めた。触れられた瞬間、従者の身体が強張る。が、すぐに力を抜いて安らぐ。
 何か、小努を安心させられる一言を発しなければ。そう思って口を開いた時に―――それは来た。
「……お取り込み中、失礼するわ」
 姿より先に、後ろ、西行妖の側から言葉が届いた。振り向くという行動に移る頃には視界の隅に人影が顕れていた。
「こんばんは。―――良い満月ね」
 ごくごく自然な動きで、しかし異常な雰囲気をまとった少女が二人の隣に立ち並んだ。
「な……く、曲者?」
 何処かで聞いたような台詞を、何処かで聞いたような音程で小努が発した。慌てて薙刀を構えるが、顕れた少女は既に二人の傍らにいる。薙刀で戦うには接近されすぎている。
 虚を突かれたというよりも、その少女が持つ異常性に呆然としていたというのが正しいだろう。その少女と相対しただけで分かる。勝つか負けるかという以前に、相手にならないと。
 突如として顕れた少女は、異常性と胡散臭さを奇妙な割合で混合させたような風体だ。日の本ではあまり見ない、恐らく大陸の方で着られているような服装であろうが、とにかく珍奇な服装である。歳は二人よりも僅かに上といったところだろうか。全身の動きが人間を超越した完全性で統一されたかのように淀みがなく、更にはさも当然のように浮かべられた薄嗤いの顔。彼女を形作る総てが胡散臭く、怪しかった。
「お前……は!」
 少し離れた所にいる弥疋が、目を見開いていた。知り合いなのだろうか、と幽々子は思う。
 幽々子だけは、突如顕れた少女と同様に落ち着き払っていた。片手で小努の薙刀を抑え、その胡散臭い少女へと向き直る。
 と、異色の髪の少女が、幽々子の視線に気付いたらしく小さく口元に笑みを浮かべた。だがすぐに、懐からごくごく自然な所作で扇子を取り出し、口元を隠してしまった。
「あらあら。今度は直に会いに来たっていうのに。やっぱり私の事が他には伝わっていないのね」
「八雲……紫……」
 呆然とした声が、少女の名を呼んだ。西行寺家の表向きの当主、弥疋のものだ。紫は扇子で口元を隠したまま、横目で弥疋を、西行妖をちらりと見る。
 西行妖が枝葉を揺らした。
 紫はすぐに視線を外す。取り合う必要が無いとでも言いたげに。晩春の空模様のように光彩の安定しない瞳は屋敷の向こう、鬼道衆のいるであろう方へと向けられた。
「まったく……西行妖を討ち滅ぼそうとするなんてね。本当に……、莫迦な人間達」
 遠く、再び怒号が響いた。かなり大きい。妖禍の騎馬衆か、鬼道衆かは判然としない。出来ればこちらの側の声であって欲しい、と幽々子は思う。
 ふと、紫の目が細められる。
「やはり、彼らも魅入られたのかしら?」
 西行妖の死の魅力に魅入られた者は自ら命を絶ってしまうという。鬼道衆の者達も、死の魅力に取り憑かれてしまったのではないか、と紫は揶揄する。国を巻き込んでの自尽など、迷惑極まりないとも付け加えた。
 満月の明かりと同じ色の髪のすきま妖怪が、再び顔を動かした。その瞳が向くのは、今度は幽々子だ。
 促されるように言葉を発した。
「それで、紫。……一体何をしに来たの?」
 怪しい瞳に射竦められそうになりながらも、幽々子は呑まれない。このすきま妖怪に喰われないのだ。
 扇子に覆われた顔の中、唯一見える紫の目元が綻びた。
「聡い子は好きよ」
 扇子が下ろされる。胡散臭いすきま妖怪は、微笑みを既に消していた。代わって浮き出た感情は、寂寥のような色。
「誤解無きように先に言っておくわ。私はこの戦に介入しない。残念だけど、ね。妖怪は本来そういうもの。人間同士の争いに参加したりはしないのよ」
 本当に僅かに口の端を噛んでみせる。
 遠くに何度となく響いていた雄叫びや、人間の悲鳴の頻度が減りつつあった。それはつまり、騎馬衆の突撃の回数が少なくなりつつあるという事だ。
 想像していたよりも遙かに早い。仮に騎馬衆が敵を打ち倒したにしては、あまりにも早すぎる。だが、逆に騎馬衆が負けたにしても、この早さは異常だ。度々妖禍が訓練していた精鋭の騎馬衆がいとも容易く負けるなどという事が、俄には信じ難い。
「……幽々子様」
 案じるように、小努が力無く呟いた。
 幽々子達の懸念を知ってか知らずか、紫は言葉を続ける。
「それに……鬼道衆は対妖怪戦闘の訓練も豊富よ。当然ね、本職はそっちなのだから。例え私が戦っても、せいぜい五人と相討てれば僥倖というところかしら」
 いくらなんでも多勢に無勢だと、紫は結んだ。続いて、こちらと同様に戦場を遠くに見つめる。
 もう、紫は何も表情を示していなかった。笑みも、矜持も、寂寥も、全てを洗い流してしまったかのように。
「お別れをね、言いに来たのよ。……どう考えても、奇跡でも起きない限りこの人数で鬼道衆に勝てる訳が無いわ」
「……紫、殿」
 弥疋が続けて口を開きかけ―――止めた。否定するだけ詮無いと思ったのか、他に何か思うところがあったのか。
 紫は、弥疋を見ない。
 そういえば、と幽々子は思い出す。紫は二十年前後前にも、この地を訪っていたらしい。その時に弥疋と会っていたとしても、何ら不思議は無いだろう。
「……幽々子。私はあなたの事、結構気に入っていたのだけれど。残念ね」
「光栄よ、紫。……でもあなたは大丈夫なの? 西行妖から解放された怨気は、恐らく日の本総てを覆い尽くすわよ?」
 あれほど響いていた戦場の音が、気が付けば殆ど聞こえなくなっていた。
「本当に西行妖の怨気が解放されたら、相当酷い事になるでしょうね……。でも、何とか生き延びてみせるわ。妖怪なんていうのは、しぶとく生きるものだから」
 音が聞こえなくなった代わりに遠くに微かに見える物があった。屋敷よりも向こう、灯火の明かりが揺れている。
 恐らくは鬼道衆。やはり騎馬衆は壊滅してしまったのだろうか。
「幽々子様! 敵が!」
 小努の叫び。慌ててそちらへ目を向けると、夜の闇の中を駈けてくる幾つかの影が遠目に見えた。立ち並ぶ桜によって出来た回廊を走る姿は三つ。位置的には屋敷の横手、正面に比べると守りが薄い位置だ。数から察するに、別働。少ない数で守備の目をかいくぐってきたのだろうか。
 即座に弥疋が弓矢を構えた。慣れた手つきで引き絞り、狙いをつけて射る。
 一瞬の風を切る音。放たれた矢は吸い込まれるように影の一つへと突き立った。悲鳴は無い。木に突き立つような快音一つだけと共に、影が倒れた。
 続くように弥疋の護衛達が前に出て、素槍で突いた。だが駈ける鬼道衆の走りはあまりにも速い。容易く避けられ、逆に通り過ぎざまの一太刀で一人が倒された。
 幽々子は懐から扇子を引き抜く。桜の柄があしらわれた黒塗りの一品だ。それを地に対して水平に広げ、迫る影へと向ける。
「……」
 異形だった。月明かりに照らされた影の姿は、文献に出てくる酒呑童子の顔を模した鬼面をつけた出で立ち。全身を赤の僧服に包んでおり、手には既に刀が握られている。一見して妖怪と見まごうようだ。
 相手は人という意識が、その異形によって僅かに薄らぐ。手の先に、視線に力を込め、影の一つを強く睨め付ける。何という間もなく、それは誘われた。
 残った一つが、倒れた二つの影に構う事なく真っ直ぐに幽々子目がけて突撃してくる。誰が一番の脅威であるか分かっているかのように。
「幽々子様!」
 それを阻むべく、小努が前に出た。ぎこちない動きながらも、懸命に薙刀を振るう。横薙ぎの一閃はしかし、鬼道衆の左腕部分を浅く切り裂くに留まった。
 鬼道衆は躊躇なく、小努に構わずに突撃する。自身の命などどうでも良いという風に、ただ幽々子の首を狙って走る。
 間に合わない。今から死に誘うにも、小努が再び薙刀を振るうにも。弥疋の矢も、ここまで懐に入られてしまっては誤射の危険があまりにも高い。
 それでも幽々子は動きを止めない。持った扇子を再び影へと向け、意識を集中させながら後ろへ跳ぶ。眼差しを強く、意思を込める。だが―――間に合わない。
 後、数歩。あまりにも少ない時間の中で、影が数歩を踏み出せば幽々子は凶刃を受けるだろう。
 しかし、影の踏み込みは唐突に途絶えた。その足下に、人一人分程度の黒い境界が発生したのだ。底の見えない、黒と透明が溶け合ったような境界は瞬く間に影を絡め取り、引き込んだ。そこで始めて唸るような悲鳴を上げ、最後の鬼道衆の姿は消えた。
「―――私の力はこの程度」
 手を打ち合わせたような快音。紫が持っていた扇子を閉じた音だ。妖しげな目つきで鬼道衆が消えた辺りを見つめていたすきま妖怪は、吐息を一つ。
「小さな境界に引き込む事くらいよ。あなた達から見ると異形の力にも見えるだろうけれど……でも実際のところ、幽々子の力には遠く及ばない」
 言って、紫は足音もなく西行妖へと歩み寄る。或は空中を歩いているのではないかと思えるほど、気配や空気の動きを感じさせない歩みだった。
「……もっと強くならないと駄目ね……」
 その呟きも、風に呑まれて消えた。
 西行妖の幹に手をつき、長衣の裾を波打たせ振り返る。眉尻を下げた笑顔で、
「さ、……巻き添えで死ぬのだけは御免被るわ。本来なら人と人との争いに妖怪が手を出すのは御法度。さっきのが私の精一杯の善意よ」
 言葉と共に、紫は手を振り人が入れる程度の大きさの境界を開く。渾然とした色合いの境目の向こうが何処に通じているのかは知れないが、恐らくは遠く、彼方の地だろう。
 紫は身を進ませ、足先を境界へと入れる。そのまま半身を入れた辺りで、問うてきた。
「―――来る?」
 簡潔な一言は、それでも迷いを抱き込んでいた。
 紫は一緒に来るかと訊いたのだ。この戦場にいて、生き残れる確率は皆無と言っても良いかもしれない。だから、せめて生き残る確率が高い選択肢を与えたのだろう。
 紫の心遣いは痛いほどに分かった。だからこそ、幽々子は苦笑を返した。
「申し出は有り難いけれど……遠慮しておくわ。死を恐れて大切な人達を見捨てる最低の当主などという謗りを、私は受けたくないのよ」
 話を黙って聞いていた小努が、はっとしたように顔を上げた気配が伝わってきた。幽々子は小さく一つ頷く。
「……そう」
 少しだけ、本当に少しだけ残念そうな紫の声。
 だが真の感情が殆ど見えないすきま妖怪の、その残念そうだと判別がつく声音は強く印象に残るものだった。
「仕方ないわね。……健闘を祈るわ。―――それじゃあ、縁があったら、また会いましょうか」
 紫はこちらに背中を向け、更に一歩を進める。幽々子はその去る姿に笑みを送る。
「ええ、そうね。……(ゆかり)があれば、また会いましょう」
 紫は、一拍だけ立ち止まったが、すぐに後ろ手を振って応えた。
 やがて境界が閉じ、紫の姿は向こう側へと消えた。
 八雲紫との別れは、そのようなものであった。



 妖忌は戦場を感じていた。吠声と激突音。互いの武器を打ち合わせる剣戟の音。それによって生まれる悲鳴や地響き。果ては破裂音のような音も。それが幾度も交錯した後、尚も残ったのは―――進軍の音。
 馬が駈ける音ではない。人間、それも大勢が足早に進む音だ。騎馬衆の突撃によって隊列は乱されているのか、足並みに揃いは無い。それでも、数が多い事には違いがなく、敵は迷いもなくこちらへと向かってきている。
 篝火の爆ぜる音がした。閉眼し戦場に集中していたため気付かなかったが、既に屋敷の喧噪も殆ど収まっているようだ。突然の強襲だったが、妖禍達のお陰でどうにか態勢を整えられたらしい。
 瞳を開き、状況を確認する。手に手に得物を持った味方の数は二百近く。もっともその殆どが女子供や戦いをした事も無い者達で、数を鵜呑みにするのはあまりにも危険だろう。
 後方、屋敷の上には武器を持つほど身体の強くない者達が幾らか居る。傍らには引き剥がした屋根瓦が積まれており、いざという時に投げ落とす準備が整っている。
 幾らかの弓矢集も屋敷の内と外に居るが、あてにして良い数ではない。
 対する鬼道衆は、遠くに映る灯りの数や進軍の音から察するにこちらの歩兵の倍近い人数がいるようだ。加えて敵は精強。練度でも、数でも負けていると言わざるを得ないだろう。
 だが、それでも勝つ。負けるなどという事をそもそも考える必要は無い筈だ。妖忌は盾。顕界一硬い盾として、この地を守り抜くと約束したのだから。
 勝たねば、ならないはずだ。
 いよいよ灯りが強く見え始めた。見渡す事の出来る平野の彼方に多くの人の気配がある。そしてそれらは、勢いを増してこちらへと突進してくる。
「……ん?」
 妖忌の耳が、蹄音を拾った。続いて視界の中、駈けてくる姿がある。
「射るな! 味方だ!」
 こちらへと走ってくるその姿が騎馬であると気付くや否や、妖忌は叫んでいた。後ろで弓に矢を番えていた兵が慌てたような声を出すのを聞いたが、構わず駈け出す。
 駈けてくる姿は一つ。満月と、僅かな灯りに照らされた馬上の影は、
「島嵜殿!」
 馬上にいても尚大きいその姿は、紛れもなく島嵜家の当主。だが、様子がおかしい。
 手に持っていた筈の鎌槍は既に無く、着込んでいた甲冑もその殆どが割れ砕け、乗る馬も最初に彼が乗っていった馬ではなく、部下が使っていた馬。
 そして、彼の左腕も無かった。
 そこまで確認すると同時、島嵜の身体が力無く崩れ、落馬した。速度だけがついていたためか、巨体が惰性のみでこちらまで転がってくる。
「すまん、水だ! 水を持ってきてくれ!」
 後ろにいる者へと叫び、妖忌は駈ける。興奮極まり背の主を失っても走りを止めない馬を避け、頽れた偉丈夫の傍へ。
「島嵜殿! しっかりなされよ!」
「……妖忌殿、か?」
 仰向けに臥した身体は、片腕を失っていて大の字にもなれない。よく見れば全身からは夥しい量の血が流れている。恐らく、もう長くは保たない。だが彼の瞳には強い意志が宿っており、危殆に瀕しながらもこちらへと言葉を送ってきた。
「申し訳ありませぬ、我ら騎馬衆は全滅……お父上、妖禍殿を……お守り出来ませんでした」
 もはや意識も坐臥を繰り返し定かではない筈だというのに、彼の言葉は強く、鮮明だった。
「いえ、島嵜殿が謝る必要などありませぬ。父も、……死を覚悟していたでしょうから」
 安心させるためにそう答えたのだが、しかし島嵜は続けて謝ってきた。
「本当に、申し訳ありませぬ。……ですが、どうしても伝えなければならない事があり、こうして私一人で……」
 言葉の途中で、くぐもった音がした。口の中に血が戻ってきたのか、彼は噎せるように咳き込んだ。
「島嵜殿!」
 彼の言葉を、遮るべきか。治療に任せるべきか。
 一瞬の逡巡を経て、妖忌は胸中で頭を振った。どう見ても、彼はもう長くない。更に、彼ほどの武士が敵に背中を向けてまで何かを伝えに戻ってきたのだ。
 止める訳にはいかなかった。
「島嵜殿、お聞き致します。一体何があったのですか!」
 騒ぎに気づき、二人の近くに人が集まった。島嵜の傷にあからさまに驚く者もいたが、すぐに彼らも静かに話に耳を傾ける。
 こちらの言葉が聞こえているかどうかも既に怪しい所だ。こちらを力強く見るその瞳にまだ光が残っているかどうかも疑わしい。
 だが島嵜の口は確かに言葉を紡いだ。
「敵は……怪しげな武器を用いております。数こそ少ないですが、破裂音と共に物凄い速度の弾丸を射出する武器です……。恐らく噂に聞く、鉄砲という物かと思われます……」
「鉄砲……」
 弥疋から聞いた事がある。小さな筒に火薬を込め、高速で鉛を撃ち出す武器があると。確かそれの名前が、鉄砲。
「破裂音に馬が驚き、また弾丸のあまりの速さと威力ゆえ、甲冑ごといとも容易く砕かれ……。我ら騎馬衆は総ての力を発揮できず……。妖禍殿の奮戦もあり、かなりの数を蹴散らす事は出来ましたが、それでも……」
 戦においては、惑った方が負ける。一瞬の判断の差が命取りとなるのだ。だから戦をする者は奇策を凝らし、敵の虚を突こうとするのだ。
 それは武器においても同じ事が言える。片方の知らない武器を相手が使えば、そちらは少なからず惑う。それが強力な物であればあるほど、より顕著だ。
「お気を付け下され。鉄砲の存在……皆に、お伝えくださいませ」
 妖忌は後ろで話に聞き入っていた者達へと顔を向け、一つ頷きを送る。意を汲み取った者達はすぐに踵を返し、各地へ走り去る。鉄砲の存在を味方に伝えるためだ。
「それと……父上から、これを」
 島嵜の右手が持ち上げられた。その時になって初めて気付いたが、震える右手が掴んでいるのは、
「……短刀?」
 鞘は無い。抜き身の刀身は泥土や血に汚れながらも、尚も白に迷い無く輝いていた。
 一目で業物と分かる短刀だ。貫くような輝きに竦められるような錯覚すら覚える。
「……失礼致します」
 島嵜の声と同時、白光が奔った。
「!」
 瀕死の身体の右腕。注視していた筈のその手が突然跳ね上がったのだ。手中に、白刃を握り締めたままに。
 短刀は一度掲げられた後、真っ直ぐにこちらへ振り下ろされてくる。あまりにも突然の事態に反応が遅れ、更に相手が島嵜だという事も迷いを呼んだ。反射的に手は楼観剣の柄を握るが、抜かれる事はなかった。
 辛うじて条件反射で身を反らす事は出来たが、地に膝をついていた態勢だったので跳ぶまでは及べない。回避運動としてはあまりにも拙いが、最大限の反応だった。
 しかし、短刀は妖忌に突き刺さるどころか、掠りもしなかった。元々当てるつもりも無かったのか、短刀は落ちるような軌道でもって妖忌の足下の地へ。
「……!」
 眼前の空を薙いだ白刃に、心がごっそり奪われたような感覚。次いで自分の影へと刺さった刃を、呆然と見下ろしていた。見下ろす事しか出来なかった。
「……この短刀、名を白楼剣と申します」
 雨が降り続いた地面が崩れ落ちるような音がした。
「楼観剣と並び……近舶家に伝わる銘刀で……人の、迷いを断つ事の適うものとお聞きしております……」
 島嵜の身体が力を失って、再び頽れる。
「突然の事で驚かれたでしょうが……妖禍殿から、妖忌殿の迷いを断てと命ぜられました……。ご理解ください」
 語調はまだはっきりしているというのに、彼の身は冷たくなり果てていく。
「妖禍殿、は、私に鉄砲の存在を伝えさせる役目を与え……そしてこの白楼剣を……託しました」
 島嵜の手が短刀―――白楼剣の柄から滑り、地に落ちた。
 彼の傷は―――銃弾。見れば、足と言わず腹と言わず、各所に火傷のような円形の傷痕があった。
 恐らく、本当に乱戦だったのだろう。使命を帯び、全力で脱出を図っても銃撃を免れられないくらいに。
 命の代償は、価値ある情報。そして一本の短刀だけだ。
 遠くにあった地響きが、気付けば既にかなり近付いてきている。猶予は無かった。だがそれ以上に、島嵜の命の灯火も弱まっていた。
 唐突に響く、か、という音。その二度目の喀血を契機に、島嵜の身体は力を失った。
「島嵜殿!」
 後ろで成り行きを見守っていた者達が叫ぶ。見れば、妖忌が水を持ってこいと命じた者もいた。しかし、彼らは叫ぶ事しかできない。今の彼らには島嵜を死の淵から救う方法も、余裕も無いのだ。
「……よう、き、どの。刀を……白楼剣を、お持ちください……」
 妖忌は迷いも無く、地に刺さった白楼剣の柄を握り込む。初めて握るはずのその短刀は、恐ろしいほどに手に馴染んだ。
 それがもう見えているのかは怪しい所だったが、気配で察知したのだろう。島嵜が、口元だけを不器用に歪めた。穏やかな、笑みを形作るべく。
「富士見の一族を……西行妖を……。幽々子様、を……」
 まるで海原に浮かべた小さな帆船が大きな波に呑まれるように、彼の命は揉まれ、流され、
「我らの、志を……おたのみ……し、まし……た……」
 篝火にくべられた薪が爆ぜるように。
 潰えた。



 ~~~~~~~~~~~~



「―――皆」
 金属音を立てて刀を抜きはなった。長刀の鞘の先に括り付けたたった一枚の葉が、不思議と安堵を与えてくれていた。
 妖忌は掲げる。近舶の家に伝わるという二振りの刀、楼観剣と白楼剣を。それぞれを馬手と弓手に構え、頭上で打ち合わせる。
 刃と刃が擦れ合う音は、まるで鈴の音のようだ。それに象徴されるかのように妖忌の心は澄み渡っていた。迷いが断たれているというのはこういう事だろうか。
 妖禍。島嵜。騎馬衆の者達。彼らを悼むにはまだ早い。妖忌はこの戦に生き残らなければならないのだ。幽々子との約束を違える訳にはいかない。
 妖忌達は屋敷より少し手前に構えている。屋敷を挟むようにして対峙するという意見もあったが、それでは無理矢理に西行妖まで抜かれる危険性が高まるし、火矢を放たれればそれだけで屋敷に篭って戦う事も出来なくなってしまう。危険が過ぎる。
「残念だが、富士見の長い歴史は、今宵に終える事だろう。例えこの戦で勝ちを得たとしても、富士見の一族にはもはや再起を図る余力が残されていない」
 だが、と言う。
「今ここで我らが退いたならば、富士見の一族どころか、日の本の存亡すら危うい。我らは護国を旨としてきた。ならば何があっても、それだけは許してはならない」
 得たばかりの白楼剣を振り下ろす。今まで使っていた得物が長大な楼観剣であったというのに、この白楼剣は短刀であるという事を差し引いてもよく手に馴染む。充分に使いこなせるという確信は、振り下ろしに伴う風切り音が代弁していた。
 振り下ろす先は、鬼道衆。既に肉眼で確認出来るほどに接近している。間もなく訪れるのは、激突。
「我らはここで勝ち、生き残らなければならない。そして、何としてでも西行妖の真実と、護国の志を外に伝えねばならない」
 それは容易くはないだろう。しかし、それ以外に道はないのだ。
 妖忌を中心として武器を構えた皆も、それを理解しているのだろう。神妙な頷きが返ってくる。
「皆。父を、母を、子を、妻を、夫を、大事な者達を守り抜くのだ。そして己が瞳で、戦のその後を見届けるのだ。富士見の歴史が終わろうと、我らはここで終わる訳にはいかない。ましてや、刀を振らずに終わる事を絶対に許してはいけない」
 弦を引き絞る音。弓矢衆が構える音だ。
「―――斬って、真実を白日に晒すのだ。斬れば、分かる。我らの行くべき道が。辿りつくべき郷が。真実が」
 楼観剣を振り下ろす。それを合図に、斉射が行われた。開戦の狼煙。
「いざ、突撃せよ!」
 進軍を意味する回数だけ陣太鼓が叩かれ、飛ぶ矢の後を追うようにして妖忌は駈け出した。容赦ない雄叫びと共に、皆も迷いなく戦場へと向かう。
 情報の通り、敵勢に弓兵や槍兵は多くない。殆どが刀を持っている。だが、ところどころに身を隠し、灯火の近くに佇む兵も見つけられた。
 ―――鉄砲衆。
 飛ぶ矢は満月に照らされ、銀弧を描き鬼道衆へと降り注ぐ。返ってくる矢はやはり多くないが、油断は出来ない。敵には矢以上に恐ろしい物があるのだ。
 互いに整列し、向かい合ってでの合戦では鉄砲衆によって押し潰されてしまう。それを許さないためにも、鉄砲衆を先に倒すためにも、こちらは乱戦に持ち込まなければならない。
 楼観剣と白楼剣を前に構え、飛んできた矢を弾く。防ぎきれなかった矢が頬を掠め、後ろで肉に刺さる音がする。味方に当たったらしい。だが、取り合わず妖忌は命じる。
「振り向くな! 立ち止まるな! 混戦に持ち込め!」
 大軍、しかも強力な飛び道具を保有した敵を相手にする以上、正攻法は危険極まりない。犠牲を厭わずに突撃を敢行する以外に道はない。
 まず倒すべきは鉄砲衆。もし鉄砲衆を幽々子の元まで通してしまった時の事を考えると、最も危険である事は間違いない。
 妖忌が伝え聞いていた話だと、鉄砲は相当に強力な武器との話だった。弥疋が訪問先で見せて貰ったという鉄砲は、火縄に火をつけておき、火蓋を切って引き金を引けばすぐに弾丸が発射されるという代物だったらしいが、鬼道衆の銃はそれとは少し違うようだ。
 逃げる直前に鉄砲を見たという村人の話を信じるならば、鬼道衆の鉄砲は本当に発射ぎりぎりの時までに手許に火が無い限り使用出来ないらしい。また、点火から弾丸発射までの時間も短くはない。廉価品か模造品かの事情は分からないが、そこにつけ込む隙がある。火を必要とする鉄砲衆がいるのは灯火の近く。だが当然のように、灯りの近くには敵が多い。しかし妖忌は先立って渦中へと斬り込んでいく。
「今こそ、現世(うつしよ)を斬る!」
 掛け声と共に、刀を構えた鬼道衆の一人目がけて楼観剣を大振りに振り下ろす。意表も何も無い単純な斬撃。ただし、楼観剣の大きさに見合わないほどの速さで。
 妖が鍛えたという楼観剣は、普通の長刀と勝手が全く違う。力さえ込めれば、斬撃を受け止めようとした鬼道衆の刀を圧し折り、勢いそのままで鬼面ごと相手を切り伏せる事すら可能なほどだ。
 鬼道衆の刀が粗悪品だったという訳ではない。単純に著しく速い剣速と、楼観剣の力に依る結果だ。
「散開しろ! 敵に飛び道具を使わせるな!」
 斬り潰した相手には目もくれず、号令を発しながら周囲へと視線を配する。夜闇の中にあってもなお赤い出で立ちの鬼道衆、その三人ほどがこちらへと向かっている。うち一人は妖忌の護衛との鍔迫り合いを始めたため、残りは二人。
 大振りした楼観剣の隙を縫うように、白楼剣で一人の刀を受ける。僅かな衝撃を受けるが、押されるほどではない。そうして横合いに刀を受け止めたまま、斬り終えた楼観剣を引き抜き前へと跳ぶ。もう一人の斬撃が浅く肩を掠めるが、殆ど痛覚も無い。これが近舶家に与えられた加護の力という物だろうかとも思うが、油断は出来ない。果たしてどれだけの攻撃を防げるかは分かっていないのだ。
 跳ぶ正面、灯火を背に大太刀を構え赤の甲冑を着た鬼道衆がいた。恐らく、小頭。
「その首頂戴いたす!」
 彼はこちらが攻撃の動作を行うよりも早くに大太刀を振りかぶり、横薙ぎにしてくる。妖忌の後ろには、あしらっただけでまだ健在な鬼道衆がいるために下がれない。しかしこのまま進めば横薙ぎを受ける事となる。
「―――!」
 判断は一瞬だ。妖忌は身を屈めると、更に加速した。だが多少姿勢を低くしても、大太刀の通るであろう軌跡からは逃れられていない。それは相手にも分かっているようで、そのままの振りで狙ってくる。
 そのまま受ければ、加護の力などを抜かれ間違いなく取られる。だから妖忌は楼観剣を浅く寝かせ、大太刀の軌道上へと置く。そして自身の身を滑らせ、楼観剣よりも低い姿勢に。
 響いた剣戟の音は一度。大太刀と楼観剣がぶつかり合う事によって生まれた音だ。
 いかな楼観剣とはいえ、勢いが無い状態で大太刀を割るだけの力はない。しかし、辛うじて太刀筋を上方へと曲げる事は出来る。大太刀はそのまま唸りを上げ、極端に姿勢を低くしていた妖忌の頭上を通り過ぎる。斬撃によって生まれた風が妖忌の髪を数本奪ったが、それだけだ。
 大太刀を受けた衝撃で楼観剣は一度引かざるを得ないが、白楼剣を握った手は空いている。しかし、相手は鈍重な甲冑を着込んでいるため、白楼剣の一撃で倒せるかは怪しい。
 だから妖忌は、重装備のその敵に対し基本に忠実になる事にした。こちらが低い姿勢であることと、敵が大太刀を振り抜き態勢を半ば崩していることから生まれる利点。恐らく外す事など一切想定していなかったであろう大振りの代償は、無防備の足許だ。
「おぉぉ!」
 腕に巻き付けた簡素な大袖を、内側の足首に打ち当てるようにして払う。甲冑の鬼道衆が転ぶまいと耐えるのも一瞬で、すぐに身を崩し倒れ込む。
 甲冑の最大の弱点は、全身を包むように装着するために損なわれる俊敏さだ。また重量も相当なもので、一度転べば致命的とも言える隙を晒す事になる。
 念のため、大太刀を一蹴し反撃の手口を損なわせてから、妖忌は姿勢を戻す。甲冑の男の真後ろへ通り抜けた形で構えを戻し、前のめりに倒れた事により生まれた隙間目がけて楼観剣を真っ直ぐに突き落とす。
「―――が!」
 鈍い悲鳴と共に、骨肉を砕く感触が刀を通して伝わってくる。首のある部位を貫いたのだ。即死だろう。反動で身が一度軽く跳ね、男は甲冑とぶつかり最後の音を生んだ。
「鉄砲衆を探すんだ! 鉄砲こそが鬼道衆の切り札! それを封じるのだ! 鉄砲は火が無いと撃つ事が出来ない! 火の近くを探せ!」
 妖忌は立ち止まらない。立ち止まる訳にはいかなかった。眼前に置かれた灯火が炎をちろりと揺らしたのを合図に、身を反らし馬手の側へと跳ぶ。その勢いで引き抜いた楼観剣で一度空を薙ぎ、血を払う。
 見境もなく跳んだ訳ではない。先程確認した限り、こちらが突撃するのに応じるように灯火から離れるいくつかの影があった。その後を追う形だ。
 全力で動き続けているというのに、身体は尚も軽かった。初めての大規模な戦に妖忌は緊張する事なく、静かな昂揚だけを感じていた。迷いは無く、ただ幽々子との約束を果たすという思いにのみ駆られた。
 果たして妖忌の読みは当たっていた。跳躍の方向には、見慣れない長筒を持った鬼面が数名いた。これこそが、鉄砲衆だろう。
 彼らは大太刀を持っていた小頭がやられるとは思わなかったらしく、明らかに動揺していた。灯火から一旦退却していたため、鉄砲が使えないという事もそれに拍車をかけていた。
「くっ……妖の僕めが!」
「鬼面がよく言う!」
 罵倒に罵倒で応え、妖忌は鉄砲衆へと踏み込んでいく。各々が自衛用に簡素な短刀を持ってはいるが、妖忌の敵ではない。一閃で強引に一人を斬り倒し、返す刀で更に一人。鬼道衆が着込んでいる赤の僧服が、更に深い赤へと染まっていった。
 狼狽していた鉄砲衆の最後の一人を倒した時、妖忌は声を聞いた。
「鉄砲衆を守れ! 鉄砲衆無くして、富士見の主は倒せん!」
 その声に従うように、赤の波が動いた。
「数人組で戦い、散開した敵を各個に倒せ! 一匹残らず、富士見の妖どもを根絶やしにするんだ!」
 合戦の音が響く戦場の中でもよく通る野太い男の声。そう遠くはなかった。
 指揮する声から察するに、恐らくは頭目階級。ひょっとすると、村人から聞いた渡辺嘉実とかいう鬼道衆の長かもしれないと思い、妖忌はそちらを見やる。が、混戦状態になっているため遠くまで見る事が適わない。
 幾許かの呼吸分の時間だけ、混戦の模様を俯瞰する。味方の士気は損なわれていないが、いかんせん数の不利は否めない。今はまだ劣勢に陥ってこそいないが、決して優勢になる事の出来る様子でもない。
 敗色とまでは言わないが、この戦はあまりにも厳しい。
「……頭目さえ倒せば……!」
 或は、この趨勢を覆す一手となるかもしれない。
 妖忌は進撃の方向を変える。先程の号令の方へと。
 戦場において最も重要な要素が、前線で指揮を執る人間の存在である。象徴や鼓舞といった精神的な意味合い、戦場における最新の状況の察知、指令による足並みの揃え、敵方に与える畏怖など。恩恵は大きいが、しかしそれ故に、逆にそれが失われた時の反動は大きい。失った側は動揺を、失わせた側は勝勢を得る。
 勿論、それは妖忌にも同じ事が言える。妖忌も既に戦衆の長としての役目を帯びているのだ。仮に自分が倒れたとしたら、味方はそれこそ総崩れになるだろう。ただでさえ近舶の名を任せられている上、二振りの銘刀を携えているのだ。戦っている自身が、その凄まじさを一番分かっている。
 捨て鉢になる訳にはいかない。妖忌は幽々子と約束したのだ。生き残ると。
「だからこそ……」
 味方と敵の長同士が戦い、勝ったとなれば。加わる勢いはより顕著なものとなるだろう。それに、楼観剣と白楼剣という力がある妖忌でなければ、敵陣に斬り込む事は困難に違いない。
 灯火の熱と明りに照らされた、手中の白楼剣を見下ろした。迷いを断つ刀。父が遺した力。
「だからこそ、斬る。この白楼剣で」
 決意は固まった。勝利を得るために、生き残るために最善を選んだつもりだ。
「……妖忌様、御無事でしたか」
 妖忌が圧倒的な勢いで先行していたために遅れていた護衛が三人、漸く追いついてきた。小頭を倒した影響か、この付近ではどうやら味方が優勢になりつつあるようだ。
 妖忌が護衛として選んだ男達は、いざという時の突撃の事も考えられた、いずれも力のある者達だ。全員が妖忌よりも年嵩だというのに、躊躇なく従ってくれる様には頭が下がる思いだ。
「……これより自分は、この苦境を覆すために敵の頭目へ向けて突撃をします。あなた方には、その掩護をお頼み申します」
 護衛の男達も流石に驚いた顔になり、しかし辺りを軽く見回した。彼らにも、この戦場の様相は理解出来ている筈だ。
 このままでは、数で劣るこちらが不利。そしてその状況は簡単には覆らないという事が。
「……お供致しましょう」
 三人の中でも最も老齢である初老が、顎髭を一度撫でてから言った。続き、他の二人も一様に頷いてみせた。
 妖忌自身が、彼らにした命令の意味を一番理解していた。だから、僅かに俯き呟いた。
「……すみませぬ」
 その言葉を否定する者も、宥める者もいなかった。



 嘉実は内心舌打ちするような思いで戦場に立っていた。ともすれば押し返されてしまいそうな味方に檄を飛ばしながらも、自ら敵へと斬りかかる。
「陣形を崩すな!」
 嘉実が斬りかかった相手は、長刀を持った若い女である。大方人数合わせと踏んで力の込めた一太刀を振り下ろした筈が、器用に去なされ反撃の糸口を与える事となった。
 その事に更に舌打ちし、嘉実は女の一突きを袖に仕込んだ鉄で防ぐ。女の攻撃には鉄を砕くほどの威力こそ無いが、こちらの喉元を狙う正確さと突き崩すような速さがあった。ただの数合わせと思って甘く見た事を、嘉実は心中で戒める。
 女は攻撃の勢いそのままにこちらの脇へと抜けた。灯火の近くで袖を回し、向きを変える。
 女の攻撃によって生まれた隙を逃さず、近くにいた味方が背後から斬りかかる。が、女はすぐに身を転がしこちらの包囲を脱した。
 その動きの始まりはあまりにも早い。後ろに目でもあるのではないかと思えるほどだ。よもや、これも富士見の一族が持つという力の一環なのだろうか。
「―――妖めが!」
 毒づき、嘉実は自ら追撃する。今度は手を抜かず、全力だ。舐めてかかると痛手を貰うのはこちらという事がよく分かった。
「嘉実様! いけません!」
 慌てたような部下の声。虚を突かれ、嘉実は立ち止まる。が、何がまずいのか分からない。退くのも進むのも止まり、思考停止に陥る。周囲に女以外の敵の姿はなく、また迫る矢の存在なども確認できないというのに、今の部下の叫びは何だというのか。一瞬気配を探るが、こちらへと向けられる殺気も、背を向け逃走する女以外からは感じられない。
 ―――待て。
 はっとする。何故、あの女は逃げているのだ。逃げる向こうに味方がいる訳でもなく、撹乱が目的だとしてもいずれは完全なる包囲が完成する。それ以前に、背中を向けて逃げている相手に追撃を行わない者がいるだろうか。だというのに逃げるとなると―――
 足許。まさかという思いで見下ろすそこには、火花を散らす拳大の黒塗りの球体があった。
「嘉実様!」
 衝撃。護衛の一人が、横合いから体当たりで嘉実の身体を突き飛ばしたのだ。何が起こったのか理解が及ばないうちに数歩分を突き飛ばされ、嘉実を突き飛ばした護衛の姿は刹那の間に爆炎に消えた。
「な……」
 爆発は決して大きくはなかったが、逃げる女を追撃しようとしていた他の衆をも巻き込んでいた。
 やられた、という思いで逃げる背中を見送る。手を抜かないと思った途端にこれだ。恐らく、先程灯火の近くで身を翻した時に、忍ばせていた爆弾に火を点け、そして地を転がる際に置いたのだろう。嘉実ともあろう者が全く気が付けなかった。
 もしあのまま追撃し、護衛の助けが無ければ、嘉実が爆炎に消えていたところだ。
「……深追いするな! 奴らは相当に手練れだ! 油断するとこちらがやられるぞ!」
 女と思って甘く見た自分の過ちだ。臍を噬みながらも嘉実は令を送る。これ以上、相手に好き勝手にさせる訳にはいかない。
 富士見の屋敷まではまだ遠い。が、屋敷の向こうに威容が見えた。満月の明りに照らされ朧な光を弾く、信じがたいほど巨大な桜の木。恐らくあれこそが西行妖だろう。
「童歌に由旬に及ぶとはよく謡ったものだな……」
 由旬というには些か誇大が過ぎるが、確かに巨大だ。並の桜とは明らかに一線を画している。
 傾国の妖怪桜という自らの言葉を思い出す。そしてあらためて、あの妖怪桜は危険であると再認識する。捨て置くにはあまりにも危険が過ぎる。あの妖怪桜に魅入られた富士見の一族は、斯様なまでに異形の力に染まっているのだ。
 と。各地に設置した灯火のうち、比較的近場にある一つが大きく揺れた。何事かとそちらを見やると、鉄砲の発射音が何度か響いた。だが、すぐにその鉄砲を発射した味方が地に倒れる事となった。
「なんだあれは……」
 続けざまに鉄砲衆が倒されていく。次々に鬼道衆を斬り伏せていくその姿は、あまりにも疾い。人外と言っても過言ではない動きだ。
「……っ。鉄砲衆! 構えよ!」
 近くに率いていた鉄砲衆へと命じる。とにかく、危険な予感がした。



 それは鬼神の如き戦いぶりだった。一振りを重ねるごとに楼観剣と白楼剣は妖忌の手に馴染み、勢いだけが増していく。
 人を斬る昂揚感がある訳ではない。さりとて悲壮な覚悟がある訳でもない。ただ、静かな炎の輝きのような感情だけがある。
 眼前、鉄砲を持った鬼面が慌てたように構えを取る。灯火から火を受け、砲身をこちらへと向ける。
 対峙して初めて分かったのだが、鬼道衆の鉄砲は精度が低いようだ。また点火から発射までにかかる時間も相当だ。鉄砲を構えている間、敵が殆ど身動きが取れない事も考えると決して不利にはならない。
 疾く駈け、疾く斬る。銃撃が行われるよりも素早い楼観剣による斬撃は、構えられていた銃を持つ鬼面を一撃で無力化し、更にもう片手の白楼剣で隣の鬼面の銃を斬り落とす。次いで銃を取り落とした鬼面の襟を掴み、銃撃の準備をしていた鉄砲衆の眼前へと突き飛ばす。
 妖忌が姿勢を低くするのと、銃撃の音が奔るのはほぼ同時だった。くぐもった悲鳴と共に赤の姿が跪く。それを合図として、妖忌は盾にした鬼面の影から飛び出し鉄砲衆へと駈ける。
 鉄砲には、予め聞き及んでいた弱点がある。一度銃撃を行ってしまうと、次の銃撃までにかなりの時間を要する。狙うはその隙だ。
 後顧の憂いは無い。後方で聞こえてくる剣戟の音が、妖忌の元まで敵を通すまいという意思を代弁しているからだ。
 鉄砲衆は自らの危険を察し、後退しようとしているが、しかし妖忌の方が速い。それこそ瞬く間に距離を詰めると、容赦ない太刀を浴びせた。
「おのれ……富士見の国賊どもめ!」
 最後に斬り捨てた鉄砲衆が、苦悶の声と共にそう言い残した。
「……」
 刀に付いた血を一振りして僅かに払い、鬼面の最後の言葉を反芻する。
 元はと言えば、鬼道衆も護国を旨としている集まりの筈だ。そしてそれは、富士見の一族も同じだ。
 目指す所は同じだというのに、今はこうして正面から対立している。
 どこで、どちらが道を違えたのだろうか。
 思案は刹那。戦場の只中で呆然とする訳にはいかない。
 真後ろで鳴り響いていた剣戟の音が止んだ。妖忌の視線を受け、駆け寄ってくる姿は二人。
「申し訳ありません。茂直は……」
 彼らの視線の先を追うと、一人の青年が俯せになり地に臥していた。鬼面ではなく、見覚えがある姿。流れている血から察するに、彼はもう失われている。
「……そうか」
 低く、呟く。予想はしていた。一人だけでは済まない可能性も充分にあった。嘉実がいると思しき方に行くにつれて、敵の布陣は当然のようにより堅牢なものとなっている。稀に散開した味方と連携も取れるが、殆どは敵の渦中である。勿論、これでもまだ少ない方である。少ない人数での突撃は味方の掩護を受けにくいが、敵にも察せられにくい。集団による包囲だけはまだ受けていない。
「……茂直。このような地では適わぬかもしれないが……どうか、安らかに眠ってくれ」
 許された僅かな時間だけ、黙祷を捧げる。護衛二人もそれに倣う。
 だが、黙祷はすぐに打ち破られる事となった。
「鉄砲衆! 構えよ!」
 聞こえた声は先程と比べてもかなり近くからだった。剣戟の音に負けじと放たれたその声に応じて、一つ向こうの灯火の鉄砲衆が一斉に構えを取る。
 狙いは―――こちら。
「散れ!」
 妖忌の声が放たれるより早く、三人は別々の方向へと跳んでいた。
「撃て!」
 飛びすさる妖忌達を見たのか、慌てたような号令。それに続く破裂音が破壊の効果を伴い空を過ぎた。狙いを外した銃弾は流れ弾となり、混戦の中の人間にいくつかの悲鳴を生んだ。
「妖忌殿……!」
 護衛の初老が刀を一度鳴らした。彼が言いたい事は妖忌にも分かっている。
「敵は冷静さを欠いている……! 今こそ好機! 突撃するぞ!」
 鬼道衆は荒事専門の集団の筈。しかし今、何の理由に依るものか彼らは混乱に近い状態になっている。現に今、大して距離も離れていないというのに不用意な射撃を行って隙を晒している。
「……鉄砲衆、弾を込めつつ後退! 付近の鬼道衆は集結しろ! 敵の突撃を何としてでも阻め!」
 嘉実の吠声に応え、敵の気配がこちら目がけて詰まってくる。だが妖忌達は構わない。今を逃せばもう機会は無いだろう。
「妖忌殿達は先へ! ここは私が!」
 混戦から一転して包囲を狭める敵へと、護衛の壮年が向き直った。確かにこのまま突撃を続けたならば、完全に包囲されて逃げ場を無くす事になるだろう。一人が残って耐えるだけでも、時間の余裕はかなり生まれる。
「……すまない、惟敏!」
 駈ける足を緩める事もなく、妖忌は言葉を送った。唯一の救いは迂闊にも嘉実が発した一令だ。完全に敵陣と自陣との境界が入り乱れた混戦の只中で発した彼の言葉は、鬼道衆だけではなく富士見の者達にも一つの事実を伝える事となったのだ。
 即ち、正念場。今を措いて他に力を尽くす場面の無い事を否応なしに悟らせたのだ。状況を把握した者達が一人、また一人と妖忌の突撃を掩護するために集まってくる。鬼道衆の数に比べると圧倒的に心細い人数だが、貴重な戦力だ。
 強く、一歩を望む。道に立ち塞がる鬼面の刀をなんとか弾き道を作り、更に一歩を踏み込む。続くように戟を担いだ甲冑が顕れるも、白楼剣で牽制を入れた隙を護衛の初老に斬らせる。勢いを抑える事無く突撃を続け、横合いから奇襲を仕掛けてきた鬼面に右肩に浅い攻撃を受けながらも、返しの太刀で手首を叩き斬る。
 僅かに肩から血が垂れる感触。浅い斬撃とはいえ、確かに身に傷が刻まれたようだ。近舶の加護とやらがあるおかげか、傷自体においてはさして致命とは言えない。だが痛覚は揺さぶられた。
 そして、それは致命へと繋がる。
「妖忌殿!」
 護衛の声にはっとする。瞬時に視線を巡らすと―――居た。
「……くっ!」
 慌てたように身を跳ばす。ぎりぎりになって漸く気付いた、鉄砲衆。既に狙いはこちらに定められていて、更には火が点けられていた。
 敵の襲撃に対応していたため、走り自体が単調になってしまっていたらしい。それはつまり、銃撃に対しての警戒が緩かったという事でもある。単調な走りは簡単に狙われる。
 間に合うか、と汗を滲ませた所で、鉄砲衆との間に立ち入った影があった。
「桐継殿!」
 妖忌の護衛を務めていたその初老は、妖忌に背中を向けながら吠えた。
「止まりなさるな! 意志が潰えるまでは!」
 無情な破裂音が一つ、弾けた。呆気ないほど容易く桐継の体が震え、倒れていく―――
「……すまない!」
 自身が未熟がために、部下を殺める結果となってしまった。本当なら立ち止まり、一頻り自責の念に囚われたいとも思うが、今はそれすらも許されない。
 走りの勢いを上げる。最早誰にも追いつかれないよう、迷いのないよう。
「お首級(しるし)頂戴いたす!」
「退け!」
 姿勢を低く、疾走の態勢のまま駈け、先を阻む鬼面へ楼観剣を振り抜く。百、いや、二百の由旬をも一瞬で駈け抜けよという思いを込めた一閃は確かな手応えを返してくる。妖忌は斬り捨てた敵には目もくれず、振り向きも立ち止まりもしない。ただひたすらに先へと身を進ませる。
「……!」
 重いと供に、駈け抜けた。赤の波が消える。
 阻む者はいなかった。もはや、敵の姿は眼前にまで迫っている。
 妖忌が辿り着いたのは、巨大な満月が一望出来る、そういう広い場所だった。敵の陣の悉くを突破し、その目で見たのはやはり鬼面。
 ただし、その鬼面は他と風体が違っていた。あまりにも大きく、そしてその頭部には象徴的な二本の角があった。明らかに他とは違うその姿は、
「……貴殿が、渡辺嘉実殿か!」
 疾走の勢いそのままに、妖忌は偉丈夫へと問いかける。鬼面に覆われたその表情は窺い知れないが、確かに歯を軋ませる音が聞こえた。
「たった一人でここまで来るとはな……」
 その声は、先の妖忌の問いかけに対する否定ではなかった。彼―――嘉実を取り巻く鬼面の数は四つと、そう多くない。やはりここも混戦の影響を受けたのか、味方と敵と言わずに倒れた屍が転がっていた。中には黒く焦げた鬼面の姿も何体かあった。
 敵は鉄砲衆三人と、刀を持った鬼面が一人。加えて嘉実である。正面から戦えば、あまりにも分が悪い。更には後方にも余裕はなく、時間が経てば更に増える事だろう。
「鉄砲衆、散れ!」
 と、そこで嘉実の号令に従い、鉄砲衆がそれぞれ別々の方向へと展開した。弾込めが終わっていないのか、或は狙撃をするつもりなのか。
 躊躇っている暇は無かった。とにかく眼前の敵の数は減ったのだ。包囲され銃撃されるのはあまりにも危険だが、だからと言って退く訳にはいかない。
 死、というものがあまりにも近くにあった。斬撃一発。銃撃一発。それだけでも、人の身は果てる。しくじれば、ここが己の死に場所となるだろうという漠然とした思い。幽々子との約束を違えてしまうかもしれないという事だけが、怖かった。
「西行寺が盾、近舶妖忌、参る!」
 突撃の勢いを乗せ、嘉実へと楼観剣で一突きを付きだした。狙いは身ではなく、手中の刀。刀さえ弾いてしまえば、いかに精強な武士が相手でも優劣が決まる。
 嘉実にもそれが分かっているのだろう。刀を傾け、逆に妖忌の楼観剣を弾くべく動いてくる。
 更にはその間を縫うように、嘉実の護衛がこちらの白楼剣を持つ手目がけて突きを繰り出してくる。だが、そこは短刀である白楼剣の長所が生きる。最低限の挙動で迫る刀を打ち返し、事なきを得た。
 そして嘉実との間に生まれたのは、互いに長刀を強く打ち付け合う事による鍔迫り合い。だが、長くは続かない。嘉実が左足をごく僅かに後ろへ戻すと同時、妖忌が後方へと跳んだのだ。
 それらを合図とするように、二人の中間を高速で何かが通り過ぎた。続く破裂音は、まるで一呼吸遅れて耳に届いたような錯覚を感じさせる。
「ちっ」
 嘉実が赤黒い鬼面の奥で舌打ちをした。
 ―――やはり、包囲しての銃撃が狙い。
 鍔迫り合いなどでこちらの足を無理矢理に止め、そして控えた鉄砲衆の銃撃で仕留める。そういう魂胆なのだろう。しかも周到に、放たれた弾丸は一発だけであった。散った鉄砲衆が三人だった事を鑑みるに、また次にこちらが足を止めたら射撃をしてくるつもりだろう。
 気が抜けないどころの話ではない。いや、逆に気を込め過ぎて、一瞬でも足を止めれば即座に危険が飛来するのだ。否応なしに銃撃に対して警戒をせざるを得ない。
「嘉実殿! 我らに時間を与えてはくれぬか!」
 過度の動きは厳禁。細かい見せかけだけの動作を交えながら、再び妖忌は嘉実へと突撃を始める。
「富士見の一族も、鬼道衆も、互いに護国を志す者同士! 僅かなりとも時間をくだされば、西行妖の真実を御覧に入れてみせる!」
「元より話し合いなどする気はない! 一刻も早くあの妖怪桜を討ち滅ぼさねば、危険なのだ!」
 互いの主張は交わらず、猛獣が矮小な虫を相手にしないように、嘉実は妖忌の言葉を歯牙にもかけようとさえしない。
 妖忌は半身を反らし、嘉実の脇へと回る。護衛を務める鬼面からの攻撃を受けない位置を取り、嘉実目掛けて白楼剣を直上から振り下ろす。その攻撃が当たる瞬間に、そのまま体を半回転させ、もう片手に持った楼観剣で斬り上げる。
 二刀流ならではの攻撃に、しかし嘉実は冷静に対処をした。大袖で白楼剣の一撃を受け止め、もう片方の手に持った刀で楼観剣の斬撃を受け、その勢いを受けて後ろへと小さく跳んだのだ。
 同時に嘉実の大袖が砕け、僅かに妖忌の手に肉を浅く斬る感触が伝わってくる。だが妖忌が追撃を行う寸前に、嘉実が退いた事によって生まれた道を護衛の鬼面がこちらの首目掛けて薙ぐような一撃を入れてくる。
 勢いを殺された楼観剣をそのまま力任せに持ち上げ、際どいところで護衛の刀を強打する。無理をしたためか右肩の刀傷が痛むも、構わない。無理矢理に繰り出された直下からの衝撃に護衛の手が耐えきれず、彼は刀を手放す事となった。ただ一本だけの武器が宙を舞い、その護衛は無防備となる。
 これ以上ない好機だというのに、妖忌は次いでの攻撃を諦め、また大きく一歩を下がる。狙い澄ました銃弾は、今度は妖忌の足許があった位置で爆ぜた。
「だが、其方とて一つの衆を預かる身。無益に血を流す事を望んではいない筈だ! 双方のためにも、ここは退いてくだされ!」
 後方で剣戟。こちらへ追いすがる敵へと、味方が救援に来てくれたようだ。特にどちらが押すでもない様子で、幾許かの時は稼いでくれるだろう。
「出来る訳が無かろう! お前達は危険なのだ! 既に妖に魅入られ、その身は既に人のそれとは違う! そのまま捨て置けば、確実に災いの種となるのだ!」
 妖忌の必死の懇願も、嘉実は頑として受け入れない。ここまで戦が進み、人の血が流れた現状で兵を退かせる事が困難な事は妖忌とて理解している。
 しかし、それでも叫ばずにはいられなかった。
「我らは決して国へ牙を向けない! 常に護国の志を忘れず、日々を雑念なく過ごしているのだ!」
 再三、突撃。今度は嘉実とその護衛、両者の中間へと。
 まだ護衛の手には刀が戻っておらず、彼は慌てた様子で脇差しを抜き放つ。嘉実も嘉実で、楼観剣によって受けた衝撃の影響もあり護衛よりも少し遠くで足が止まっていた。
「信じるに値すると思うか! あの巨大な妖怪桜の威容! 更には、お前達富士見の一族に内部に離反者が出たのも既に知っているだろう! そのような一族を信じられるとでも思っているのか!」
 嘉実は刀を横に寝かせる。いい加減に業を煮やしたのか、先程までの防戦の構えではなく、迎撃の構え。
 対する妖忌は何度か目眩ましに身を左右へと振りながらも、止まる事無く突撃を続ける。
「厳しい冬を越してこそ、桜は見事な花をつけるのものだ! 今暫く、我らに花が実をならせるまでの時間を!」
「くどい! 話し合いをする気はないと言った筈だ!」
 白楼剣と楼観剣、それぞれを護衛と嘉実へと振る。速度を伴った白楼剣の一振りは護衛の脇差しを容易く弾き、勢いそのままに腕を斬り落とした。
 肉と骨、その諸共を斬る感触は形容しがたい。ぬかるんだ土に石突を突き立てた時に感じるような、ゆっくりと吸い込まれる感触が一瞬。しかしすぐに抵抗を感じ、更に力を込めて振り抜いた時の感触は木を切り倒すそれに近い。
 悲鳴を一つ上げ、しかし護衛は倒れない。失った腕を押さえながらも身を前へと倒し、こちらの動きを封じに来た。
「くっ!」
 動きを堰き止められた妖忌の一振りと、嘉実の一振りはぶつかり合う事も無かった。互いの一刀は互いの身を狙い、水平に交錯する。
 このまま斬り合うには、危険に過ぎた。突撃を阻まれ勢いを削がれ、更には回避もままならないのだ。加えて、この交錯を凌いでも銃撃の危険が残る。対する嘉実は、何も無理を押してまでこちらに一刀を入れなくても大丈夫なのだ。対峙している妖忌の身は自由が利かなく、更に追撃の機会もある。
 嘉実の一太刀が、楼観剣の下を潜るようにこちらへと迫る。対するこちらの斬撃は、このままの軌道では半身を反らした嘉実の大袖に阻まれ充分な威力が見込めない。
 判断は、一瞬だった。
「つあ!」
 苦し紛れの咆哮。態勢を崩しながらも、無理矢理に右膝を打ち上げ嘉実の刀へ打ち据えた。
 突き刺すような痛みと共に、まるで火傷したかのような熱を感じる。どろりとした液体の感触は、恐らく自分の血。
 続くように響いたのは、刀と刀がぶつかる硬質の金属音。妖忌の蹴り上げによって持ち上げられた嘉実の刀が、楼観剣とぶつかり合い不協和音を奏でたのだ。
 接触の結果は軌道の修正だ。互いの勢いが削がれ、失速。前へと向かう力がねじ曲げられ、刀が腕から打ち上げられる。妖忌はそのまま遠心力を利用し、全身を後ろへと跳ばす。無理矢理につけた勢いは強く、妖忌の動きを止めようとしていた護衛の身体を引きずり倒した。
 着地と共に激痛が走った。痛みが生まれたのは右膝。無理矢理に刀身へと叩きつけただけに、深手となったらしい。
 膝を守りながらも、身を屈めて更に一歩を退く。距離を離すためでもあるが、未だ飛来していない三発目の銃撃を警戒しての事だ。しかし今回ばかりは勘が外れたのか、破裂音は響かなかった。
「嘉実殿! 其方達のためにも、今一度言う! 退いてくれ! 西行妖が倒れれば、日の本は怨気に包まれ天変地異に覆われ、凶悪な魑魅魍魎が跋扈する事となる! 災厄はこの地だけに済まないのだ!」
「本性を顕したか! そのような妖怪桜を後世にまで残し続ける事の何処が護国か! 仮に妖怪桜を討滅させた時に魑魅魍魎が沸こうと、我ら鬼道衆が務めに従い全て討ち滅ぼしてくれるわ!」
 叫ぶ嘉実の元へと矢が飛んだ。隙を突いて放たれた味方の狙撃はしかし、彼の護衛が最後の力を振り絞って身を挺したために阻まれる。今度こそ命潰え地に臥す護衛を見た嘉実が、再び歯を軋ませた。
「―――消してくれる……! 妖怪桜を、お前達を、歴史の闇へと葬り去ってくれる!」
「西行妖がその根に湛えた怨気が解放されれば、人の手などでは対処しきれる訳がない! 嘉実殿、今一度考え直されよ!」
「くどいと言った!」
 四度目となる、突撃。妖忌は右膝に痛手を負っているために先刻までと同様の速度が出ておらず、嘉実も二度目の突撃に際して受けた傷が浅くはないらしく、大袖の下を伝い血が滴り落ちている。伴い全身の動きが僅かに遅れている。
 互いに手負いな状況で生まれたのは、再びの鍔迫り合いだ。妖忌の楼観剣と嘉実の打刀とが正面から拮抗し合い、引き絞るような音を立ててぶつかり合う。
「やはり退いてはくれぬのか!」
 銃撃を警戒して、妖忌は細かな跳躍を織り交ぜ嘉実と位置を幾度となく入れ替える。右膝からは次第に力が抜け始めており、左足を主体にした均衡の悪い跳躍となっている。だが、恐れずに隙を突いては白楼剣で刀を握る嘉実の手許を狙いに行く。
「今、俗世は再び乱世へ入ろうとしているのだ! ただでさえ多くの血が流れ、日の本が混乱するこの時期にお前達妖の一族が決起でも起こしてみろ! 防ぐ力を失った国は瞬く間に潰え、日の本は妖怪の国となってしまう! それだけは避けねばならぬのだ!」
 対する嘉実も片腕に力が入らないためか、両手で握っている刀でも鍔迫り合いを押し切る事が出来ない。なんとか優勢を取るべく、幾度となく手許を狙う白楼剣をなんとか去なしながらも足を伸ばし、妖忌の無事な左足を払いに来る。
「もはや言葉は通じぬか……!」
 一進一退。どちらかの一撃が入れば、その時点で勝敗が決する。
 銃も矢も、刀も槍も彼らの邪魔は出来ない。目まぐるしく位置を入れ替える二人に対して射撃を行えば、下手をすると同士討ちになりかねない。また、二人を囲むように布陣した両陣営が互いに牽制し合っており、突出して掩護を試みた者は即座に矢や銃弾に阻まれる事となる。
 一対一の状況の中で、妖忌は叫びを上げた。刀に強く意志を込め、
「ならば、斬って分からせる!」
 足を払いに来た嘉実の足を逆に強く踏み返し、磨り潰すように捻った。嘉実の態勢が崩れる。
「剣が、白楼剣が真実を教えてくれる!」
 鍔迫り合いの状態での態勢の崩れは、致命となる。一瞬だけ嘉実の刀が宙を泳ぎ、その隙を逃さずに妖忌の楼観剣が跳ね、嘉実の長刀を弾いた。
 見守っていた双方の陣営の動きが静止する。勝敗が決した瞬間だった。嘉実の刀は彼の手を離れ、空を舞う。妖忌はすかさず白楼剣を強く握り込み、高速で突き出した。
 業風を伴った神閃の一突きは、いとも容易く鎧の隙間を穿ち嘉実の肉を抉り、臓腑を引き裂き骨を断った。確かな手応えは、生き物を殺めた手応えだ。
 白楼剣が、鬼を斬ったのだ。
 周囲からざわめきが漏れる。誰が見ても嘉実の負けで、そして彼は間違いなく死に至る。
 鬼道衆の長が、富士見の戦衆の長に負けたのだ。戦の趨勢がここに決したと言っても過言ではない。
 だが一瞬の後、表情を豹変させたのは嘉実ではなく、妖忌だった。
 引き抜こうとした白楼剣、だがそれを握る左手を嘉実が両手で抑え込んでいたのだ。
「な……離せ!」
 身体の内側を突き破られているにも関わらず、信じがたい握力でもって彼は妖忌を捕らえていた。更には、本当ならもう即死していてもおかしくないというのに、彼は不敵に笑ってすらもいた。
「……良かろう、私の負けだ」
 そう、彼は嗤っていた。鬼面の隙間から血を戻しながらも、確かに嘲るような嘲笑の気配を滲ませていたのだ。
「だが……、今更になって退く事は出来ない。お前が信じた護国、確かに空虚な形骸では無いようだが……しかし、我々にも我々が信じた護国がある。もはや引き下がる事など、出来る筈もない……」
「は、離せ! 離すのだ!」
 狼狽え、右手の楼観剣を再び振るい嘉実の左腕を薙ぐ。内腑すら引き裂かれていた嘉実の口からはもう悲鳴すら零れず、ただ鮮血が撒き散るのみだ。次いで右の腕目掛けて斬撃を入れようとしたところで、妖忌の眼前にいる鬼が吠えた。
「撃て! 妖の支配する永い夜を!」
 吠声が幕を引き下ろしたかのように、世界から音が消えた。驚くほど時間の歩みが遅くなる。眼前で絶命し、頽れていく嘉実の身体を呆然と眺め続けた。
 戦場に吹き荒ぶ風は途方もなく冷たかった。たったの一陣で体温をすっかり奪い、全身へと震えを与えてくる。それが当然の帰結であるというように。
 自身の唇が、何事かを呟くように震える。果たして本当に言葉を紡いだのかも分からないが、しかしそれは人の名前のような気がした。
 気が付けば、いつの間にやら夜空が眼前にあった。まるで手鞠のように丸い満月が、何を言うでもなく静かに見下ろしてきている。
 満月が視界の中で無邪気に跳ねた。いつだったか、大事な人が教えてくれた気がする。本当の月は忌まわしいものだと。その言葉は本当なのだろうか。こんなにも満月は美しいというのに。
 だが今になって思い返してみれば、忌まわしい物ほど美しいという気も確かにした。例えば、そう、大事なあの桜だ。
 横を見れば、長刀の鞘の先に一枚の葉。約束を交わしたあの桜から頂いた、たった一枚の葉。決して異形の力を持っていた訳ではないが、しかし自分に強く力をくれたように思う。特に心の部分に対して。
 あの桜も、忌まわしいからこそとても美しい花びらを咲かせるのだ。夜空が昏いからこそ月が映えるように、根に湛えた怨気が秀麗な桜の花をよりいっそう彩っているに違いない。そして死蝶は、あの人をどんな宵闇の中でも照らすに違いない。
 さくら。さくら。さくらが、見たい。満開に咲き誇るさくらを、約束を交わしたあの人と共に見たい。そう切なる思いを馳せた。
 しかし妖忌は―――約束を果たせなかった。



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 近舶妖忌が敵の長を倒し、しかし同時に壮絶な討ち死にを遂げたという報せが幽々子の元へと届くのにはそう時間を要さなかった。
「……妖忌様、が……討ち死に……?」
 言葉を失う幽々子の隣、こちらの想いを代弁するかのように小努が震える声で鸚鵡返しに問い返した。見れば薙刀を持つ手が震えている。
「妖忌様は僅かな手勢のみを率いて、鬼道衆の鉄砲衆のその殆どを打ち倒し……更には、鬼道衆が長、渡辺嘉実を見事討ち果たしたのですが……。その直後、潜んでいた鉄砲衆の凶弾に倒れたとの事です」
 伝令が、悔いの表情を隠そうともせずにそう言ってくる。
「そんな……」
 妖忌が―――死んだ。
 天地が逆転するような錯覚を、幽々子は覚えた。形容しがたい感情の奔流が心中で渦巻き、何を考えて良いのか分からなくなる。
 戦場で何かの流れがあったのであろう事は分かっていた。無理矢理に屋敷を突破してくる鬼道衆の数が、いよいよ頻繁になり始めていたところで突然止んだのだ。訝しく思っていると、今度は突破してくる鬼道衆の数がまばらになり、更にはどう考えても捨て鉢と取れる、単身での突撃も確認できるようになっていた。敵が、明らかに統制を欠いている様子だった。
 だが、暫く経つともう一つの変化があった。確かに統制こそ失っているものの、突破してくる鬼道衆の頻度が明らかに増加し始めていた。数少なかった弥疋の護衛も全て倒れ、今まで人を殺めた事の無かった筈の小努の手まで返り血を浴び始めるほどには。
 その答えが、これだった。敵の長の死亡。そして、味方の戦衆をまとめていた長―――妖忌の死亡。
 動揺。悲嘆。絶望。悔恨。そういった思いに囚われ、何も考えたくなくなるような衝撃。だが、そのどれもが幽々子に届かない。何を感じて良いのかも分からないという混乱。だが、無情にも伝令の言葉は耳を通して幽々子の中へと入ってくる。
「切り札の殆どを失い、更には長まで失った鬼道衆はかなり勢いを失っておりますが……同様に、楼観剣と白楼剣を持っていた妖忌殿の死亡も、味方にかなりの衝撃を与えた模様です。持ち直すのはさすがにこちらの方が早かったようですが……いかんせん、数の不利もありまして、その……」
 幽々子へと幾度か視線を配し言い淀む伝令へと助け船を出したのは、唯一落ち着いた様子を保った弥疋だった。
「構わん、続けてくれ」
「は……。数に押されるままに、こちらの戦衆はほぼ壊滅。混戦状態が続いているので明確な人数までは分かりかねますが、そう長くは保たないかと思われます……」
 話している間にも、鬼道衆が来た。迫る影はまた単身で、弥疋が即座に応じて矢を番えた。彼の狙いは正確で、一度の射撃で脅威は果てた。
「……そうか、分かった」
 人を射殺した直後とは思えないほど平静な声音で、弥疋がそう答えた。伝令は自身も前線へと行くと言い残して駈け去る。
 分かっていたはずの事だった。人の死などというものは、特別な誰かに対してのみ起こり得るものなどではなく、誰しも等しく可能性を抱えているものなのだと。誰よりも人の死に近い力を持っているからこそ、分かっているはずだった。分かっているつもりになっていた。
「幽々子様」
 約束は守られなかった。妖忌は確かに顕界一硬い盾となっていたが、幽々子が本当に望んでいた約束は守られる事がなかったのだ。
 信じられるだの、信じられないだのという話ではない。言うなれば自分の半身が失われたかのような感覚。生まれてからこの方、ずっと一緒の時を歩んできたのだ。そしてそれがいつまでも続くと、そう信じて疑っていなかった。……だが、もう共に歩く事は適わない。共に手鞠をつく事さえ適わない。共に桜を見る事すらも適わない。
「幽々子様!」
 妖忌が死んだなどと。現世にあろうと隠世にあろうと、幽々子の側にいる事を誓ってくれた、あの妖忌が死んだというのだ。
 ―――死んで花実がなるものか。
 そう自分を説き伏せた妖忌は―――果たして、死ぬ前に実をつけられたのだろうか。
「幽々子!」
 強い声に、はっとする。
「あ……お義父、さま……?」
 言ってから、久しく弥疋本人の前でこの呼び名を使っていなかった事を思い出した。西行寺家の世間体というのもあるし、何より気恥ずかしさもあった。
 それに気付いているのかどうかは分からないが、弥疋は厳然とした顔つきで幽々子を見ていた。
「幽々子……恐らく今は悲しみに暮れたい時だろう。だが……見てくれ」
 ゆっくりと上げられた、弥疋の逞しい腕。その先端で伸ばされた指が示す方を視線で追いかける。
 熱。最初に感じたものだ。赤。次に感じたものだ。
「屋敷が……!」
 小努が息を呑む音が聞こえた。
 富士見の屋敷が荒れ狂う炎に包まれていた。西行妖と、それを囲う桜の群れを外界から守り続けていた屋敷が、今まさに燃え落ちるところだった。
 屋根の上にいた者達が炎に巻かれ、一人また一人と落ちていく。男も女も、大人も子供も、総て見境無しに炎が消し去っていく。阿鼻叫喚という表現すら生易しい状況の中で、命の灯火が次々に失われていく。
 幼き日々から毎日を過ごしていた。総ての思い出が共にあった、揺りかごのような屋敷が消えていく。
 思い出も、帰る家も。安らぎも、喜びも。あの、手鞠も。
「……恐らく、鬼道衆がここまで押し寄せるのももはや時間の問題だろう。敵にどれだけの数が残っているのかは分からないが―――少なくとも、我々三人で防ぎ切れる人数とは思いがたい」
 弥疋の言葉には、何の感情も乗っていなかった。事実を事実として淡々と述べているようにも、諦観の境地に達しているようにも思えた。
「……西行妖よ。起きているか?」
 ふと、弥疋が妖怪桜を振り仰いだ。幽々子が見ている前で彼がこの妖怪桜に話しかけたのは、覚えている限りで初めてだった。
『ああ、起きておる……。そして、総てを見ておる』
 言葉が返ってくる。西行妖の言葉は人間の発するそれとは質からして違い、頭の中に直接響くような錯覚を感じさせるものである。侵入してくるというより、浸透してくるという表現が正しい。
 西行妖の前に幽々子達が集まった時も、妖忌が来た時も、紫が来た時も、彼は何も言わなかった。ただ無言で、総てを眺めていたのだ。
 言いたい事が無かった訳では無いだろう。何も思いを抱かなかった訳では無いだろう。ただ、結果として彼は沈黙を守り続けていた。その真意のほどは、人の身では窺い知れない。
「すまなんだな……どうやら、ここまでらしい」
 ここまで。弥疋のその言葉は、どれだけの意味を含んでいるというのだろうか。
『いや……謝らないでくれ。謝るべきは、何も出来ない儂なのだから……』
 雨が降るような音。西行妖がその枝葉を一斉に揺らした音だ。
 巨大な妖怪桜と崇められた西行妖だが、物理的に左様させる力は、元が桜という事もあり皆無も同然である。確かに人を死へと誘う力の本流は西行妖の力だが、そのあまりの暴力的な力は誰彼の差別も、また人や物の差別も無い。幽々子が力分けを受けた際にも、顕界の湯でその性質を極限まで薄めているからこそ何とか扱える力となっているのである。それでも制御を誤った時の危険は消えていないように、下手をすれば自身すら危ぶまれる西行妖の力を彼自身が行使する時は、恐らく無い。
 その西行妖は、今は赤に染まっていた。屋敷の炎の紅を受けてのものだ。西行妖だけではない。空も、地も、人も、総てが赤に染まっていた。
 赤が総てを押し流すような、そういう幻想を抱いた。血の赤。炎の赤。大事なものを総て失わせる、嵐にも似た破壊の波。
 嵐との決定的な違いは、運が良くても救われない事だろうか。
「……幽々子、小努。戦えるか?」
 弥疋が、唐突にそんな事を言った。
 半ば呆然としたまま、義父を見返す。もはや決着など、ついたも同然ではないか。その思いを視線に込めたつもりだった。
「幽々子よ。……妖忌が何を想って死んでいったのか、考えてやらないのか?」
「―――」
 幽々子の内心とは裏腹に、満月が炯々とした輝きを湛えてこちらを見下ろしていた。
―――妖忌の、考え。
 幽々子を、西行妖を守る盾になると言って戦へと赴いた妖忌。幽々子一人を死なせまいとした妖忌。その彼が、死ぬかもしれないような敵地へと突撃し、何を想っていたというのか。
「……」
 考えずとも―――分かった。まるで手鞠のように丸い満月が無邪気に見下ろしていたからだ。
「……守りましょう、西行妖を。死んでいった人達に……妖忌に、顔向け出来るように」
「幽々子様……」
 目尻に涙を浮かべていた小努が、ややあってから頷きを返してきた。
 生き残った者は、三人。そして護国の桜。なおも生き残れる者は―――
 遠く、今まさに燃え落ちている屋敷の中を一団が抜けてきた。百を下回らないその群れは、炎の中にあってもなお紅に染まっている鬼面―――鬼道衆だった。
 幽々子達は前へと出る。何としてでも西行妖に鬼道衆を近付かせてはならない。近付かせれば一巻の終わりだ。
 味方の姿はない。屋敷から逃げ延びた者も見えない。本当に、皆は失われてしまったらしい。
 敵は真っ直ぐに西行妖目掛けて駈けてくる。幽々子はその面前に立ち、扇を広げ、強い視線で鬼面達を見据える。
「生きている者は、必ず滅ぶ。これは決して避けられない……。その理に眩惑されたならば、もう既に―――誘われているのよ」
 駈けていた鬼面が幽々子の視線を受けるや否や、一切の外傷も衝撃も無く唐突に倒れた。その様を見た他の鬼面が慌てて駈け寄るも、彼は既に誘われている。消える命の灯火を再び灯す事など適わない。
 すぐさま次の一隊へと視線を動かす。滑るような、舞のような歩みで彼らの眼前を阻み、無理矢理に注意を引いた。
 一人ずつ誘っていたのでは間に合わない。だが、これだけの数でも足りない。もっと、多くの鬼道衆の注意を引きつけなければいけない。幽々子は扇を横薙ぎに一振りし、大地から一斉に死蝶を沸き立たせた。
 顕界とは思えないような幻想的な光景。僅かな草に覆われただけの地面から止め処なく、数え切れぬほどの蝶が舞い上がったのだ。蝶は半透明に淡く透けており、それぞれが死を象徴する紫の輝きを伴っている。
 牡丹色と紫苑色の死蝶の演舞は人の目を惹きつけるには充分過ぎる。そして鬼道衆の視線が集まる中で幽々子は詩歌を朗じるように言葉を紡ぐ。
「生者はやがて必滅の後、亡者となりて舞を夢見る。死蝶はその思いを借りて、人を引き寄せる舞を踊る。死蝶の舞に寄せられたらば―――理に従い亡者へとなる」
 誘われた数は多く、十近い鬼道衆が一斉に地に臥した。辛うじて死に誘われなかった鬼道衆も、傷さえ負わずに突如として倒れていった味方に驚いている間に弥疋の矢を受ける事となった。
 鬼道衆の足並みは悪く、幽々子の力で誘われるたびに混乱を起こすなどして進撃が遅れている。そういった動きを見る度、彼らが頭目を失って統制を欠いている事を再確認させられる。
 妖忌が、守ってくれているのだろう。顕界一硬い盾が、身命を賭して幽々子達を守ってくれているのだ。
 風に乗って伝わってくる熱がその激しさを増し始めていた。如何なる意図によるものかは分からないが、鬼道衆が庭園に立ち並ぶ桜の木々にも容赦なく火を放ち始めているのだ。
 燃える屋敷、燃える庭園。目を背けても伝わってくる熱波が、この地の終焉を何よりも雄弁に物語っていた。
「幽々子様、右手側に鉄砲衆が見えます。ご注意を!」
 小努の声に従い巡らした視界。三名だけだが、長筒を抱えて走る姿が確認された。灯火を持ってはおらず、急な射撃は不可能だろうと見える。
 それを悟り、幽々子は死蝶の群れを、鉄砲衆目掛けて囲い込むように飛ばした。死蝶は鱗粉にも似た細かな光の粒子を撒き散らしながら羽ばたき、炎に照らされた舞台で交錯し、鉄砲衆を取り囲む。
「気が付けば死に囲まれているの。常に右顧左眄していようと、一瞬でも気を抜けばもうそこは対岸。毒蛾の群れからは逃れられない。それこそが生者必滅の理」
 鉄砲衆は己を囲む死蝶の群れに慌てふためき、混乱して鉄砲で殴りかかる。だが当然のように当たる訳もなく、拍子で死蝶に触れてしまった者目掛けて一斉に群がり―――即効性の毒のように死へ誘う。
 恐慌状態に陥り、更に死蝶に囲まれゆく鉄砲衆から視線を外す。能力を連続で使用しているためか、軽い倦怠感のようなものを感じた。
 突出してくる鬼道衆を片端から潰しているものの、そもそも数が多すぎる。まるでその人数総てを集めて一つの生き物のような錯覚を覚えるような、赤の波。しかも威容は刻一刻とこちらへ向かって迫ってくるのだ。
 幽々子が舞い踊る。そこへ迫る矢を小努が打ち払う。突出した敵目掛けて、弥疋が精緻な射撃を行う。
 赤の波がそれだけで止まる筈もなかった。まるで鬼道衆は何かに取り憑かれたかのように、西行妖へと真っ直ぐに押し寄せてくる。
 幽々子は両手のうちに溢れるほどの死蝶を呼び出し、一斉に解き放つ。死蝶はゆらゆらと彷徨うように飛び、赤の威容へと向かう。
「そして、いつか気付くのよ。眩惑、死蝶、毒蛾……それらによって生者の望みが総て絶たれ、必滅こそが最上の理となったその地は―――既に、魔境であると」
 迫る異形の蝶を前に、鬼道衆の足並みが僅かに遅れた。そしてその恐怖の感情こそが、最も畏れるべき感情であるという事を人は知らない。
 死蝶は恐怖に支配された者達を取り巻き、動物が本能に従い繁殖するような当然さをもって恐怖という呪縛から彼らを解き放つ。
 死すれば、もう恐怖する理由は無い。だからというように、死蝶は彼らを恐怖から救う。一人、また一人と誘っていく。
「っ……」
 苦悶の呻きと共に幽々子は膝を折った。圧倒的な脱力感が全身を支配していた。
 もう、何人殺めたというのだろう? 何人の命を誘ったというのだろう? いくら理由があったと言えども、多くの命を奪ったという事実に変わりは無い。総ての人間がこちらに敵意のみを抱いているのではない筈だというのに、話せば分かってくれる者もいるかもしれないというのに。幽々子はそんな彼らに、今際の際の一言さえ許さずに誘っていく。
泥犂(ないり)が本当にあるとしたら……きっと私はそこに落とされるわね……」
 顔を上げる。地獄如きで済めば、安いものではないかと。
 そして、一瞬、考えてしまったのだ。
 ―――地獄に行けば、妖忌に会えるかな。
「幽々子様! あれを!」
 明らかに慌てた様子の小努に意識を揺さぶられた。胡乱な瞳で確認する先には、もうかなり近くまで迫って来た鬼道衆。そしてその中には、火矢を番えた鬼面の姿があった。
 火矢の狙う先は―――西行妖。
 時間が静止したかのような感覚。いや、寧ろ感覚などというものは既に失われているような気すらした。絵巻物の一枚のように、現実とは思えない光景。
 火矢を番えた鬼面の姿は一つではない。五人組や四人組、あちらこちらで斉射の用意が為されている。
 口が開き、まるで人間の声ではないような金切り音が漏れた。
「駄目ぇぇぇぇぇぇぇ!」
 喉も張り裂けよと叫び、幽々子は遮二無二鬼道衆を誘う。全身を包む倦怠感や喪失感、眩みや痺れの辛さなど気にもならなかった。ただ幼子のような必死さで、赤の群れを死へと誘った。
 幽々子の言葉に耳を貸す者はいなかった。彼らは番えた矢を納める事など毛頭考えてはおらず、引き絞りが頂点に達した途端に、杯に必要過多に注いだ水が零れるような必然さでもって手を離した。
 一本、二本、三本。瞬時には数え切れないような量の火矢が、容赦なく放たれた。
 赤の夜。赤の鬼。赤の矢。赤の空。赤の血。赤の幌。赤の木。
 瞬く間に、西行妖が火に覆われた。
「そん……な……」
 如何に妖怪桜でも、その性質は木。有り余るほどの火矢が放たれれば―――燃え落ちる以外に先は無い。
『お……おぉぉ……お……!』
 哭き声を聞いた。それは、燃え盛る西行妖の、あたかも悲鳴のようなうめき声。
「き……貴様らぁぁぁぁ!」
 続いて幽々子が聞いたのは、未だかつて聞いた事のないような弥疋の叫び。矢傷を受けたのか、左の腕から血を流した彼は憤怒の色を隠そうともしていない。その彼の雄叫びは鬼道衆をも圧倒し、さながら鬼の咆哮のようだった。
 世界が燃えていた。比喩などではない。錯覚などでもない。純粋に、総てが燃えてしまっていた。
 何故、と思う。何故西行妖は燃えているのか。何故火が放たれなければいけなかったのか。何故平和が打ち砕かれなければならなかったのか。何故約束は守られないのか。
 約束―――
『そう……約束、だ』
 幽々子は聞いた。今まさに紅蓮の炎の渦中にある、西行妖の声を。
 西行妖の声は、今まさに己が身が燃えているとは思えないほど落ち着き払ったものだった。
 穏やかに。秘やかに。ただ、或る事実を確認するかのように。
『儂が唯一度だけ……人と交わした約束』
 燃え尽きた葉が落下する。幹が剥がれる。極枝が崩れ落ちる。
 呆気ないほどに容易く訪れた終わりの中、西行妖の言葉は響く。
『近舶妖忌は……儂に約束を与えてくれた。何よりも大切な人を、守って欲しいと儂に頼み……。儂は約束の証に、我が葉を彼へと与えたのだ』
 幽々子は目を瞠る。妖忌が涙ながらに西行妖に頭を下げた、あの時だ。身命を賭してでも西行妖を守り抜くと誓い、その代わりに、彼は言ったのだ。
『……その約束に違いは無い。近舶妖忌は約束を守り……身命を賭けて己が志を貫き通した。ならば……儂は、西行寺幽々子を守る。そう約束したからだ。儂との約束を果たしても、彼は西行寺幽々子との約束は果たす事が出来なかった……。ならば……果たせなかった約束を、儂が守る。例え総てを失っても……約束を、果たさねばならぬ』
「西行妖……あなた、何を……」
 汗で滲んだ髪が、額に張り付いていた。それを払う事もせずにいると、誰かが代わりに払ってくれた―――
 空気が変わった。昼夜のような性質の交換による違いではない。今在る空気が、明確に変異したのだ。
 その変異は異様だ。黄泉と顕界のように、根本を違える変異。
 燃え盛る西行妖が、炎に包まれた枝葉を一斉に揺らした。それも一度ではない。大きく、大地を揺らすかのような勢いでだ。
 滝壺のような音を土台に、彼は地鳴りのように激しい言の葉を発した。
『今こそ見やれ! 顕界、富士見の里にその姿在りと謳われた西行妖の……』
 誰もが、我を忘れてその桜を見ていた。
 息をするのまで忘れたかのような沈黙の中で、大地を、空を揺るがす巨大な妖怪桜を見つめていた。
 注目の中、西行妖は吠えた。怒号のような響きをもって、見る者総てを圧倒する勢いで震撼の波を放つ。
『最後の拾分咲きであるぞ!』
 霧が晴れるかのように、一瞬にして赤の炎が消え去った。
 代わるように熱波の中から姿を顕した物がある。それは西行妖には違いないのだが、
「満開……だと……?」
 もう夏だというのに、総ての枝に桜の花びらをつけた桜の木。緑の葉は影も形もなく、季節外れの満開を迎えた巨大な妖怪桜。
「きれ……い……」
 呆然とした声音の小努が、そう呟いた。
 狂い咲きの満開を迎えた西行妖は、人の世にあってはあまりにも美しかった。
 立ち並ぶ桜の木に灯された炎がその威容を照らし、加えて満月の明りを雫のように受けたその姿は、ただの桜ではあり得ないような複雑な色彩を醸し出していた。桜本来の乳白色、二色の死蝶が彩る牡丹色と紫苑色、盛る炎の紅、満月の淡い金の色、そして夜の漆黒。
 それら総てが綯い交ぜになって生まれた色は、さながら墨汁のような黒に近い。
「完全なる墨染の桜……」
 弥疋の言葉に、我知らず頷いていた。
 これ以上ない完全な桜だった。恐らく歴史の上でも、この瞬間の西行妖を越えて美しく咲き乱れる桜は決して存在しないだろう。
 幽々子は思った。この桜は美し過ぎると。死の魅力があまりにも強すぎるのだ。少し気を緩めただけで―――
 誘われる。
 はっとする。この完全なる墨染の桜は危険だ。思わず魅入られかけていたところで立ち戻ると、慌てて隣にいる弥疋と小努の服を荒々しく鷲掴みにし、揺さぶった。
「お義父様! 小努! 気をしっかり! 魅入られては駄目!」
 二人とも、既に半ばまで目が虚ろな状態だった。富士見の一族というその慣れが無ければ、もうとっくに誘われていてもおかしくなかった。
 辛うじて、二人の瞳に色が戻る。だが完全に無事という訳でも無いようで、揃って声も無く、倒れるように座り込んだ。意識を失わなかったのが幸いか。
 ―――ならば、鬼道衆は?
 視線を後ろへ。西行妖の死の魅力に慣れている筈の二人でさえ、危ういところだったのだ。となると、西行妖の開花を初めて見た鬼道衆の者達はどうなるというのか。
 もしやの思いは、目に映ったその光景によって裏付けされた。
「鬼道衆が……!」
 赤の波は、場所もかわらずそこにいた。ただし、それには一つの変化も伴っていた。
「まさか……鬼道衆、全員が……死に誘われたというのか……?」
 額を押さえた弥疋が、膝を地に着いたままで辺りを見回して言った。
「おと……弥疋、まだ体の方が……」
「いや……平気だ」
 汗と返り血でべとついた髪を振り、弥疋が立ち上がる。右手で押さえている左腕の出血は収まりつつあるが、止まってはいない。多少覚束無い足取りではあるが、その瞳に込められた意志は外見以上にはっきりとしていた。
 小努はというと、まだ余韻が残っているらしく膝をついたまま腕の中に顔を埋めている。見たところ目立った傷は無いようで、その事に幽々子は少しだけ安堵した。
 弥疋と二人して、もう一度辺りを見回す。
 富士見の屋敷と庭園があった場所は、大きくその様相を変えていた。立ち並ぶ木々や草花は火にかけられ、元の美しい佇まいを失ってしまっている。屋敷はその殆どが倒壊し、未だに一部が燃え上がってその形を更に別の物へと変えつつあった。
 そして、庭園に転がるのは百近い数の屍。赤の僧服と鬼面を着けたそれらは、総てが等しく地に転がり、風に煽られる以外に動きを見せる者は誰一人としていない。
 総て、絶命していた。その殆どに外傷すら無い所為か、まるで狐に撮まれたかのような光景であった。
「……」
 あまりにも突然な戦の終焉だった。もはや刀を取る者も、矢を番える者も、槍を振るう者も、銃を構える者もいない。血を流す者もいなくなったのだ。
 戦をする人間が、総て死んでしまったがために。
 行き場を失った死蝶達が、虚しく亡者の上を舞い続けている。ただそれだけが、唯一の動く物体として二人の目に映る。
 間違っても、良い終わり方ではなかった。戦うべき理由を失って戦が終わるのではなく、戦の担い手自体の消滅という完結。元々鬼道衆が富士見の一族の根絶やしも目論んでいたために、どちらかが滅ぶまで戦が終わらない事は分かり切ってはいた。だが、いざ目の当たりにすると、あまりにも遣る瀬の無い終わりだった。
 あまつさえ、この戦の結果は勝利ですらない。生き残ったのは、僅か三名なのだ。人を失い、屋敷を失い、地を失った。更には―――
 一陣の風が吹いた。伴い、墨染の輝きを誇る桜の花びらが数枚、ひらひらと舞った。
『……約束は、果たされた』
 声。だが、それはとても小さい。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの、弱々しい声音だった。
 一瞬、幻聴かとも思うが、すぐに声の主に思い当たり二人は振り仰いだ。
 満開に咲き乱れる西行妖を。
『……儂は、もうじき果てるだろう』
 力無く言葉を送ってくる妖怪桜は、確かに見た目には満開を迎えて花盛りの様子ではある。だが、紅蓮の炎に包まれた名残か幹は焦げ、所々が剥げ落ちていた。
 更には、西行妖が持つ独特の雰囲気も失われていた。この巨大な妖怪桜が妖怪桜と呼ばれる所以、ただの桜とは明らかに違う何かが無くなっているのだ。
 それが何かは、彼自身の言葉で伝えられてくる。
『今の拾分咲きで……儂は総ての霊力を使い果たした。霊力さえ残っていたならば、例えこの身が胴体から二つに両断でもされない限りは死なぬが……既に、儂は儂を顕界に繋ぎ止めるだけの力すらも失ってしまったようだ……』
 それはつまり、
『……恐らく、日の出から僅かもしないうちに……怨気が解放されるだろう』
 守れなかったということ。
「そんな……何とかならないのか!」
 無事な右手を振り放ち、弥疋が問うた。手に付いていた血が飛び散り、炎に焙られた赤の大地に溶けた。
 花びらが舞う。牡丹と紫苑の二色蝶が舞う。満月と炎の明りの下、夜に舞う。
『……すまない』
 弥疋の悲壮な叫びに返る声は、謝罪。
 謝るべきは西行妖ではないというのに。だが弥疋は言葉に詰まり、何も言い返す事が出来なくなる。
「ここまでか……ここまでだというのか……!」
 義父の涙を、幽々子は初めて見た。当主代理の任を帯び、護国に努めてきた弥疋。彼が今どれだけの無力感に囚われているのか推し量る事さえ出来ない。
『其方達だけでも……早く、この地から逃げるのだ。一刻も早く、一歩でも遠くへ。……解放された怨気から逃げられる地など想像もつかないが、儂の近くにいれば間違いなく危険だ……。総てを賭して守ったのだ、せめて生き抜いてくれないか……』
「逃げろと申されましても……私達には、行くあてすらありませぬ……」
 漸く回復したのか、小努が薙刀を支えにしてゆっくりと立ち上がった。整っていた筈の顔立ちも、今は返り血や泥土にまみれてしまっていた。だが、彼女もまだ生きている。それだけで意味がある。
「それに……この地で死した皆を放っておく事など……何故出来ましょうか?」
 戦の列には、小努の父も、母も、兄弟も加わっていた筈だ。そして、妖忌も。
 彼らを弔う事なく去る事など、幽々子にとっても考えられなかった。
『だが……せっかく助かった命を、すぐに無為にする事もあるまい……。生きてさえいれば、……再び、この地に戻る事も適うのかもしれぬ。弔いはそれからでも遅くはない筈だ……』
 西行妖の声は苦しげだ。今にも途絶えそうな意識を、無理矢理に繋ぎ止めているようですらある。
 霊力がないから。力を使いすぎたから。
 それまで無言でいた幽々子が一歩を進み出た。巨大な妖怪桜を下から見上げ、
「……ねえ。西行妖」
 ぽつりと、幽々子は呟いた。風に乗って舞い落ちてくる花びらを広げた手で受ける。そしてその花びらを一度握り、死蝶へと変えた。その手を掲げ、死蝶を宙へと解き放つ。
「……霊力があれば……西行妖に力さえ戻れば、怨気は解放されずに済むの?」
 誰かから言葉が返ってくるより早く、幽々子は次の言葉を放つ。
「我ら西行寺の家、富士見の一族の贄の役を帯びし者。富士見の一族の頭目であると共に、西行妖の力分けを受け、御家を守護し、時にはその身を以て西行妖を慰撫するを務めとする……」
 かつての裳着に際して、誓いを立てるために諳んじた言葉だ。
 幽々子の言葉に皆が沈黙した。幽々子の言葉の意味が分からなかった訳では無いだろう。沈黙が生まれたのは、恐らく別の理由。
 追い打つように、死蝶を空へと飛ばす。その自由な羽ばたきを見つめながら、
「西行妖から唯一の力分けを受けた私を贄として捧げれば……西行妖、あなたの霊力を僅かでも戻す事が出来るかもしれない。……そうでしょう?」
『―――ならん!』
 強い語調。先程までの弱々しさをどうにか堪えて、西行妖は強い否定を返してくる。
『それだけは……ならん! 近舶妖忌との約束を違える事となる……! それに、今を凌いでもいずれまた儂を滅ぼそうとする輩は顕れるだろう……。無駄なのだ!』
「……あなたの力を戻す事が出来ないとは、言わないのね?」
『……!』
 狼狽えるような気配を返してくる西行妖に、幽々子は確信を得た。可能なのだ。西行寺家に与えられた役目、贄としての幽々子を捧げる事で、西行妖は再び霊力を取り戻す事が出来る。
「幽々子様、いけません……!」
「幽々子、莫迦な考えは止めるんだ! お前まで失ってしまったら……!」
 小努と弥疋が口々に静止の声を発してくるが、幽々子は小さく頭を振る。
「……でも……二人とも。他に何か、西行妖の怨気を防ぐ方法があるの?」
 幽々子の問いかけに、二人は閉口する。閉口せざるを得ないのだ。
「富士見の一族の誓い。その命尽き果てるまで護国に務め。その心総てを賭して御家のために尽くせ。その身が粉になるまで西行妖を奉れ―――」
『しかし……もう、富士見の一族の縛めに拘る必要は無い筈だ。もはや富士見の地も、人も、総てが失われているのだから……』
「そ……そうです、幽々子様! ここまで来て、いきなり何を言い出すのですか!」
 西行妖の言葉を受け、悲壮な面持ちの小努が詰め寄ってきた。彼女は涙すら滲ませながら、こちらを説き伏せるように瞳を直視してくる。
「せっかく妖忌様や、西行妖が救ってくれた命なのですよ! それを……それを簡単に擲ってしまっては……!」
 続く思いは、言葉にならない。続くのは嗚咽と、稚児のような泣き声。だが、言葉にならなくても、思いは充分過ぎるほどに伝わってきた。
 幽々子は一つ、大きく息を吐く。小努の言葉を噛み締めても、それでも自身の思いが変わる事はなかった。その事に驚きはない。眉尻を下げ、
「ごめんね、小努……でも、私はもう……人を殺めすぎたの。そして、この力を持っている以上、私はまた誰かの命を殺め続けなければ生きていく事が出来ない……」
 俯き泣きじゃくる従者の肩に手をかける。小努は一度だけ身を震わしたが、すぐにその手を握り返してきた。
 強く、強く。凍えたように震える手で、言葉にならない思いを必死に伝えようと握り締めてくる。
「でも、そんな私が最後に贄となる事で、多くの人の命が失われるのを防げるならば……私は、喜んでこの命を差し出すわ。もしも妖忌が生きていても……何だかんだ言うだろうけども、私を止めない筈」
 それは確信に近かった。妖忌は決して、自分一人の情で多くの命を見捨てる事が出来るほどに非情になれない。
 せめてもの手慰みになればと、手鞠歌を教えてくれた妖忌。庭木に水をやって回り、疲れてそのまま草に埋もれて眠っていた時もあった。誰かを守るための修行を欠かさず、その苦労を誰かに押しつける事もなかった。彼はいつだって、誰かを蔑ろにする事が無かった。
「待て、待ってくれ。……西行妖よ、私では駄目なのか」
 傷ついた左腕を押さえながらも一歩を進み出たのは、弥疋だ。彼は口惜しげな表情を隠そうともせず、
「私とて、本家の血筋こそ引いてはいないが西行寺の姓を継ぐ者。私が贄となれば……!」
『それ、は……』
 珍しく、西行妖が言い淀んだ。そしてその停滞が意味するところは、恐らく一つ。
「……弥疋。あなたじゃあ……駄目なのよ。西行妖の力分けを受けて、異形の力を宿した私じゃないと、贄の役目は……」
 思えば、幽々子は人の身でありながらあまりに多くの命を奪いすぎた。
 鬼子を殺した夜までは、決して人を殺めないとまで決心していた筈だというのに。鬼子を殺め、死に瀕していた村長を名乗る若者を殺め、更には数え切れないほどの鬼道衆を殺めた。
 先に刃を向けてきたのは鬼道衆、だがそれは人を殺めた事の否定には決してならない。事実として、幽々子は死に脅える人間達の叫びや惑い、恐怖の瞳を鮮明に覚えている。
 そして一番怖い事は、人を殺める事に自分が慣れていく事だ。最初は一人を殺めただけでも相当に苦悩していたというのに、今は理由があるからと自分に嘘を吐き、鬼道衆を多く殺めてしまった。殺める事が、出来てしまったのだ。
 やがては躊躇いを失い、懊悩を失い、人を殺める事を愉しむようになるのかもしれない。それだけは、どうしても嫌だった。
「……お願い。私は純粋な私であるうちに、この地で総ての責任を負い、多くの人の命のために」
 一息。驚くほど穏やかな心で、小努、弥疋、そして西行妖を見た。
「花を、散らせたいの」



 ~~~~~~~~~~~~



 永い夜が明けようとしていた。
 遠く、東の空が僅かに白やんでいる。夜明けが近付いているのだ。
 屋敷も、立ち並ぶ並木桜も総てが焼け落ちていた。赤の炎は総てを舐め尽くし、そしてただ人の亡骸のみを残して去った。
 勝者無き戦の後に残された者達は、ただ沈痛な面持ちを守り、粛々と。
 贄の儀の準備を進めていた。
「……この穴だ」
 弥疋が探し出したのは、西行妖の裏。根本に掘られた、人間一人が収まる程度の大きさの穴だった。
「戦の気配がした時に、何があっても良いよう、念のためにと掘らせておいた。使わなければ良いと思っていたが……」
 言う弥疋は辛そうだ。当主代理として、何もかもの準備を万端にする責任を全うしていただけだというのに、その穴に義子を入れる事になるという皮肉が彼の胸に強く突き刺さっている事に疑いは無い。
「弥疋様、……言われた通りに桜の花を集めました」
 小努が両手に溢れるほどの桜の花びらを抱えてきた。総て西行妖の花だ。
 それを見た弥疋が、やや血の気の薄まった青白い顔で頷いた。
「……顕界の液にて性質を薄めなかった異形の桜は、黄泉の物。喰えばもはや死者の国の者となり、二度と顕界には戻って来れぬ。……もっとも確実な、命を絶つ方法だ」
 続けて彼は、そびえ立つ巨大な妖怪桜を見上げる。
「また、西行妖の桜を喰う事で、その性質はより西行妖に近しいものとなる。……霊力を吸い上げるにはもっとも良い形だ」
「弥疋、ありがとう」
 もう、あまり時間が無かった。幽々子は小努の持っている桜を受け取る。
『その総てを喰らう必要は無い。……精々、片手に一握り程度の量を喰えば……もう、戻る事は適わない』
 西行妖の声。だが彼にはまだ迷いがあるのか、言葉に震えがあった。
『……今一度言う。ここで儂の霊力を戻したところで、すぐにでも鬼道衆のような輩が訪れる危険は残っている。そして、再びの襲撃を防ぐだけの力を、儂が取り戻す事は不可能だろう……。総てが無駄に終わるかもしれないのだぞ……』
 西行妖が一度揺れた。腹の中の毒を堪えるように、根から漏れようとする怨気に耐えているように。
「だからって、ただ手を拱いて怨気が解放されるのを見ている訳にはいかないでしょう? ……それに、鬼道衆は頭目ごと総て滅んだのよ。またすぐに敵が来るとも限らないわ」
 片手一杯の桜を掴み、幽々子は歩を進める。西行妖の裏、贄のための穴へと向かう。
 全く恐れが無いと言えばそれは嘘になる。死は怖い。自分がいなくなった後、西行妖や残された二人の行く末が分からなくなる事が、怖い。
 もう、誰とも笑顔を交わす事が出来なくなる事が、怖かった。
 しかし同時に安堵の気持ちがあるのも事実だった。もうこの異形の力を使う必要も無くなる。己を疎んでも責める者はいなく、更にこの身を捨てる事が誰かのための、多くの者のための救いとなるのだ。
 躊躇う必要など、なかった。
「それじゃあ……私は、先に逝くわね。小努、そして……お義父様」
 必要以上の会話は無用な躊躇いを生むかもしれない。だから幽々子は、挨拶一つを残して歩みを早めた。
 遠くの夜明けに追い立てられるように進む幽々子の背中へと、声がかけられる。
「……幽々子様!」
 今にも泣きそうな声で、小努が名を呼んだのだ。だが、幽々子は振り返らない。立ち止まり、ただ無言で次の言葉を待った。
「隠世で……お待ちください! 私も後ほど、必ず参り……再び、お仕えさせていただきますから!」
 続く声は尻すぼみになり、だが彼女は意地を張り涙を堪えて言った。
「必ず……必ずや……!」
 小努の声は、それ以上続かない。
 今すぐにも振り返り、小努の顔を見たい。そして、もっと長く話をしたい。
 そういった衝動を堪え、幽々子は振り返らない。ただ少しだけ顔を俯かせ、
「小努……幸せになって。顕界で幸せに生きて……そして満足して往生を迎えたなら……また、是非とも一緒に過ごしましょうね。そして、沢山の土産話を聞かせてくれると約束して。そしてそれを肴に……向こうで、お酒でも飲み交わしましょう?」
「はい……。はい……!」
 もう、小努は言葉も発さなかった。ただただ嗚咽を漏らし、頷き続けていた。
 再び幽々子は歩みを進める。手には桜、心には安堵を抱えて。一滴だけ零れた涙が口の中へ入った。その塩辛さが幸せの味なのだろうと、そう思った。
 穴へと入る時、その脇で腕を押さえて立っていた弥疋と目が合った。彼は視線が絡み合った事に狼狽えたように震えながらも―――無理矢理に、笑ってみせた。慈しむように、愛でるように。精一杯の笑顔でこちらを送ろうとしてくれた。
「幽々子……私は、いつもお前を想っていた。妻や実子……彼女達とお前を区別した事もない。お前は……間違いなく、私の大事な娘だった」
 最後の別れだからか。彼は、当主代理としてではなく、幽々子の義父として言葉をくれた。
 ならば、幽々子ももう当主としての座に留まる必要はない。歳相応に無邪気な、義父相手だというのに滅多に見せた事のない笑顔を送る。
「私もよ……お義父様。いつだって、私を守ってくれた……たった一人の、大事な義父上。あなたのような義父を持って……私は、本当に幸せ者でした」
 幽々子は頷きを返し、穴へと入る。穴の中にはせめてもの配慮なのか、筵が敷かれていた。幽々子はその筵に座り、花を持ち上げ口許へ。呷るように顔を上げた。
「……」
 一つだけ顕界に未練があるとすれば、妖忌の事だ。結局亡骸をこの目で見る事すら適わなかった。
 顕界一硬い盾になると、死んでしまっては花は実を付けないと言っていた妖忌。
 もう一度だけ。もう一度だけでいいから、妖忌に会いたいと願った。彼の声を、聞きたかった。
 いや、と思いを改める。何も、会えなくても良い。そこまでの贅沢は言わない。妖忌が幸せになれるのなら、自分が会えなくても構わない。もしも可能だったとしたら、幽々子の代わりに生きて、そして幸せになってもらいたかった。
 もし、自分ではなく妖忌が生きていたならば、きっと自分よりも良い道を見つけられたのかもしれない。彼を好いてくれる小努もいるのだ。二人で幸せになってくれた事だろうと、そう思った。
 思いは止め処なかった。せめて妖忌には生きて欲しかった。出来れば、彼にもう一度だけ機会を。再び顕界に立ち戻る、その機会を与えて欲しいと、そう切に願った。
 願いを飲み込むように、顕界の最後の空を見ながら花を口の中へと含んだ。
 そして幽々子は聞いた。弥疋が最後にこちらへと送る、これ以上ない手向けの一言を。
「……おやすみ、幽々子。願わくば、二度と苦しむ事の無きよう……。ゆっくりと、安らかに、華胥氏の国の夢に微睡むように眠ってくれ。……幽々子、私の大切な……愛子(あやし)
 ―――
 中編です。めっちゃ戦闘シーンです。
 東方世界なのかと思えるくらい男が活躍しています。
 後編へと続きます。
行先不定
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