昔日に 苦界送るを すすぎ風
何処にあらむ
すすきの如く―――
~~~~~~~~~~~~
「一で一の谷」
無邪気に手鞠が跳ねた。
あやしと呼ばれているのが己であると、そう気付くのに充分なだけの齢に、少女は既に達していた。
「二で庭桜」
少女は一人で手鞠をついていた。
あやしあやしと呼ばれる事自体が悪い事ではないと皆から度々言われてはいたが、しかしそもそもあやしと呼ばれる事にどれだけの意味が込められているというのだろうか。それは未だに理解出来ていなかった。
「三に下がりふじ」
少女が唄に合わせて軽快に弾む手鞠に何を期待しているのかは窺い知れない。
空に棚引く筋雲が昼の陽光を遮り、薄く立ちこめた霧が少女の姿を朧に隠す。少女は誰からも隠れて、しかし誰にでも見つかるよう手鞠歌を朗じ続ける。
「四で獅子牡丹」
少女の声は決して楽しそうな色を帯びてはいない。だが少女は唄いながら鞠をつく。まるでそれしか知らない稚児のように。
少女の唄が響き渡るのは広い庭園である。霧が薄らと隠すその狭い世界は、それでも尚初めて見た者を圧倒するには充分過ぎるほどに荘厳とした佇まいをもっている。
「五つ井山の千本桜」
少女は手慣れた手つきで手鞠をつく。手鞠の練習をしているといった風体より、寧ろ一人の暇潰しに仕方なく手鞠をついているようだ。
名家か豪商の家か。一般農民の家柄では、半生かけてもまず辿り着けないであろう財が使われた庭園に、少女の唄はよく通る。聴衆のいない
「六つ紫いろいろ染めて」
手鞠が揺れた。歌が風を揺らした。
霧が揺れた。
「七つ、南天……」
歌声が少し潜まる。今にも止めてしまいそうなほどに勢いを失い、次第に手鞠が立てる軽快な音も控え目に、頻度を下げていく。
しかし、霧がそれを良しとはしなかった。
「お嬢様、お止め下さるな」
「……八つ山桜」
霧中の声に押される形で、少女は一節歌う。透き通る音色は純粋さを感ずるには充分過ぎるほどで、つかれる手鞠の軽快な音との調和が耳に心地よい。
手鞠が、一つ大きく音をたてた。ただし、今度は先程までと音の位置が違う。少女の手許では無く、そこから幾分か離れた地点に。
少し薄れた霧の中、ごく僅かの光彩を受けた球体がその姿を暗幕越しに跳ねさせる。球体が跳ねる先には、少女の他に突如として顕れていた一つの影。
「九つ……小梅を……。何、でしたかな……?」
手鞠を受け取りながら苦笑混じりに発された、まだ年若い男の声。霧はやがて晴れ、男の姿が鮮明になる。そろそろ初冠と見える、十二かその辺りの歳の少年だ。
戸惑いがちな疑問符を上げる少年の手と地の間を跳ねるのは小さな赤い手鞠。こちらは少女と対照的に大分ぎこちない手つきで、あまつさえ歌も途切れてしまった。
「小梅をいろいろ染めて、よ
霧の中、先に手鞠をついていた少女が少し拗ねたように言う。
ぎこちなく跳ねた手鞠を受け取ったこちらも、木見彦と呼ばれた男と同じくらいの歳の少女である。歳相応のあどけなさを感じられる顔立ちだが、豪奢な庭園を持つ家庭に暮らしているであろう事を裏付ける、どことなく気品のある物腰。装飾性を損なわない程度に華やかな小袖、そして髪に挟んだ簪が、彼女がただの一般農民ではないという事を如実に顕していた。
「それに……」
他にも不満があるらしく、少女が一歩を木見彦へと詰め寄る。
「他の目が無い時は、お嬢様と呼ぶなと言い付けてあるでしょう?」
二人の衣服と会話の流れからして、少女と木見彦の間には主従関係かそれに近いものがあるようだ。少女が上、少年が下。あまりにも明確に引かれた線引きは、だが歳の頃も近く見える二人なだけに何処かに緩みがあるらしい。
尤もそれは少女の方が主体なようで、少年はあまり乗り気では無いらしい。彼はあからさまな渋面を作り、
「しかし。誰かに聞かれておりましたら……それにお嬢様も裳着控えた身でしょうに。成人になられるのですから、いつまでも童心でおられますと……」
「木見彦、説教は聞き飽きたわよ。第一結婚させる気も定まっていないのに裳着だなんて、まるでお父様達は少し焦っているよう。そんなに私が奔放に見えるのかしら」
「お、お嬢様。お父上様を悪く言われますのは……」
「木見彦?」
少女は、にこりと笑った。何故か手鞠を持った手を上にあげ、まるで何かに投げ当てようとするかのような姿勢を取る。
「そんなに私の言い付けを守りたくないのかしら? あなた、昔はあんなに素直で良い子だったのに……」
「な、
軽快な音と共に、手鞠が跳ねた。ただし、木見彦の顔面にて。
さすがに童女の投げた手鞠如きで痛手などになる筈もないが、それでも衝撃は衝撃だ。もし鼻に当たったならば普通に痛いであろう。
当たった訳だが。
「むお、むおお……」
膝を折って鼻を抑え、苦悶の唸り声を上げ始める木見彦を後目に、少女―――那枝は投げた手鞠を回収に向かう。履き物が庭園に敷き詰められた砂利を踏み、またしても小気味の良い音が庭園に響く。
「それで良いのよ。その堅苦しい言葉遣いも直せばもっと良いのだけれどね」
手鞠は大分勢いがついていたようで、薄くなった霧の狭間を遠くへ転がり行くのが垣間見える。仕方なく那枝がそれを追い始めると、後ろで鼻を抑えていた木見彦が反応した。
「那枝様! そちらは!」
追う声と同時に響く、砂利を踏み分ける音。構わず那枝は数歩を行き手鞠の元へと寄ると、しかし上を見上げた。
穏やかな風が吹いた。霧が押し流される。那枝が髪を抑えながら、薄らと微笑む。
「こんにちは、西行妖」
ざざ―――少女の声にまず応えたのは、葉と葉が擦れ合い立てる異音だ。続いて、西行寺家の巨大な庭園の一角を占めるほど巨大な桜がその枝葉を揺らし、人の声をもって応えた。
『ああ、……元気かね。西行寺の娘よ』
「那枝様!」
慌てた声音と共に木見彦が駈け寄り、無理矢理那枝の肩を掴み三歩を下がらせる。そして警戒の眼差しで葉桜へと移りゆく桜―――西行妖を睨み、那枝を掴んでいない方の手で大太刀の柄を持つ。
事と次第によっては、抜く。少年のその決意を正面から受け、桜は再び枝葉を震わした。
『富士見の眷属よ。未だ儂を認めてはくれぬのか?』
桜の放つ声は人間のそれと同じ音階、発音を持ってはいるが、だが音質は人と大きく異なっている。対峙している筈なのに、声は真正面から来るというよりも、まるで周囲全体から響くように聞こえてくるのだ。耳朶を打つ声が桜の位置を錯覚させ、この桜と会話する時には自身が圧倒的存在の群れに囲まれているような幻想を抱かせる。木見彦はその感覚が途轍もなく嫌いだった。
「認めるも何も、例え其方が護国の木であろうと妖怪である事に違いは無い!」
一息。決然とした面持ちで、
「もし那枝様に手を出そうものなら、誰が止めようと其方を根から焼き払おうぞ!」
まだ幼い時分の少年ながらも、瞳に宿る決意と意思は充分過ぎる程で。
『……心に留め置こう』
気圧された、という訳でもないだろうが。静かに、どこか寂寥と西行妖が応えた。
妖怪桜の殊勝な態度に落ち着いたのか、木見彦は大太刀から手を離す。それでも瞳は警戒の色を宿したまま、まさに妖怪という呼び名に相応しいだけの威容の桜を睨み続ける。
その腕の内、那枝は不満そうな面持ちだった。僅かに自分より身の丈が上な少年を見上げ、
「……木見彦。西行妖はそんな悪い子じゃないわ。あなたが怯えるほど、人に対して敵意を抱いてすらいない。それにこの子がいないと、きっと護国もままならない。だからそんなに怯えちゃ駄目よ」
「な……自分は、怯えてなどは……!」
腕の中の少女の言葉に驚き、木見彦は顔を赤くする。那枝はその反応を見逃さない。
「だったら震える手で野太刀を握るのは何故なの? 私を西行妖から遠ざけるのは何故? わざわざもしもの時の脅しまでするのは何故?」
早口に捲し立てる那枝と、ぐ、という音と共に黙り込んでしまう木見彦。その二人のやり取りを黙って聞いていた西行妖が、笑みのように穏やかな気配と共に言った。
『良いのだ、西行寺の娘よ。如何に詭弁を弄そうと儂は妖怪。人間とは根本的に理解し合える訳が無いのだ』
「でも、あなたは私達と理解し合えるよう努力しているじゃないの」
己よりも遙かに巨大な妖怪桜を振り仰ぎ少女が言う言葉に、西行妖は少し驚いたような気配を返した。葉が擦れ合い、秋の森を歩いた時の落ち葉を踏み分けるような音が鳴る。
『儂が努力している……何故、斯様な事が分かるのだ?』
簡単な事よ、と那枝は言い、転がる手鞠の元へと戻る。今度ばかりは、木見彦も止めなかった。
「あなたは、間違いなく人間と理解し合うための努力をしている。でなければあなたは何故言葉を操れるようになったの? 聞けば昔のあなたは喋れなかったそうじゃないの。そして、あなたは何故悩むの? 自分の存在について考えるのは人間くらいなのよ」
外見不相応なまでに饒舌に語ると、手鞠を持ち上げる。付いた砂を二度叩いて払い、
「違う? 西行妖」
『……いや』
いつの間にか巨大な桜は末葉を揺らすのを止め静かになっていた。雰囲気を厳格なものへと変え、
『慧眼だな、西行寺の娘よ』
西行妖の言葉を受け、少女がころりと微笑んだ。手塩にかけて育てられた芳醇な果実のような微笑み。
木見彦が、見とれたようにその笑顔をじっと見つめていた。
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富士を遠く見やる
富士見の御家
富士見の御家にゃ
大きな大きな妖怪桜
その丈まさに由旬に及び
陰より御国を守りたり
富士見の桜は
大きな桜
大きな桜は
ずっとずっと独りぼっち
いくとせしづかに生きやうと
いずれは御国に苅られます
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昏い空だった。何かを予感させるような暗雲が覆い尽くすように空に立ちこめ、陽の光を殆ど遮ってしまっていた。
「何やら不吉な……」
「神配の者達は祈祷を怠ってでもいるのか?」
集まった二十を下らない富士見の眷属の者達が囁き合う中、儀は厳かに執り行われていた。
「
「はっ」
中央、白髪の初老の一声の後、正装をした木見彦が前へと出て正座し、初老に向かい頭を下げる。背には変わらず大太刀を背負っているが、少女と手鞠をついていた頃から幾分伸びた身長によって体格と釣り合う程度にはなっていた。
屋敷の離れ、神社を模した社殿の中には、多くの者が集まっている。いずれもこの屋敷に住まう、富士見の一族の者達である。
富士見の一族の歴史は古く、遠く海の向こうにそびえる富士の山を見ゆる地一帯に住まう事から周りにそう呼ばれ始めたのが富士見という名の始まりだと言われる。勿論海の向こうの富士の山など、このような辺境の地からでは見る事も適わない。しかし周りからの揶揄も混じってそのような名で呼ばれ始めてから、既に富士見を自称するに至るほどの年月が流れている。今では自ら率先して富士見の一族を名乗るほどだ。
「近舶が子、木見彦よ。汝は富士見の約定を憶えておるか」
儀を仕切っている初老が、佇立したまま木見彦を見下ろし問いかけた。先程まで隣の者と何事かを囁き合っていた者達も、水を打ったように静まり成り行きを見守っている。
「はっ」
木見彦は姿勢を崩す事無く頭を上げ、
「我ら富士見の一族、西行妖を奉り護国を務める者。西行妖が御力を以て、日の本に宿りし神霊を鎮め災禍を防ぐを役目とする者」
毅然とした態度で答えると、集まっていた者達―――その多くは大人か老人―――がゆっくりと頷きを返した。
「よろしい。では、近舶が子、木見彦よ。汝は近舶家の役目を憶えておるか」
再び初老が問い、木見彦が一度頭を下げて答える。
「はっ」
淀みない眼と、口調。
「我ら近舶の家、富士見の一族の剣の役を帯びし者。如何なる手段を用いてでも西行妖と、それを鎮める富士見の一族を守護するを務めとする者」
問いかけた初老は鷹揚に相槌を打ち、手に持っていた儀礼用に装飾がなされた刀剣を、音を立てて床へと垂直に突き立てる。
木見彦は、再び頭を垂れる。
「西行妖は遙か昔、その根に歌聖の血を吸い上げ死の魅力を得た。以来西行妖は益々人の心を揺るがす妖怪桜へとなった……」
唐突に、初老が昔語りを始める。それは西行寺の庭に咲き誇る巨大な妖怪桜、西行妖の物語。
「同時に西行妖は、その根に多大な陰の気を蓄えてきた。人も物の怪も分別なく西行妖に魅了され、己の怨気を吸われた。やがて西行妖の根には禍々しいまでの恨み、嫉み、怒りの念が蓄えられた」
初老は語る。西行妖に纏わる物語を。幾人もの法師が、呪い師が西行妖の根に溜まった怨気に気付き、祓おうとしたが徒労に終わった事。寧ろ、祓おうとした者達が逆に怨気を受けて倒れ伏した事。
「生き残った法師達のうち一人の高僧が命と引き替えに妖怪桜を富士を遠く見ゆる島へ移動させる事に成功した。元々西行妖があった寺では、いざという時に都合が良くなかったのだ。残された者達は富士見の一族となり、皆で力を合わせその妖怪桜を慰撫、奉納する事でそれ以上の怨気が溜まらぬよう、そしてその怨気が解放されてしまう事の無きよう花鎮めを請け負う事にした……」
誰も口を開かない。誰もが静かに昔語りに聞き入り、沈痛な面持ちで成り行きを見守っていた。
「我らは富士見の一族。そして近舶が子、木見彦よ。汝が名に託された願いは、木をよく見、心に留めて育つ事」
一息。
「近舶が子、木見彦よ。汝は富士見の一族の末席となり、我ら富士見の一族が受け継いできた宿縁を担う覚悟があるか!」
この儀は即ち―――初冠。ただし、世間一般にて行われている物とは、様相が違っているようだが。
初冠―――つまり成人の儀は本来武家や公家で行う物である。富士見の一族の中にはその流れを汲んでいた家柄も多く、西行妖を奉るこの特殊な環境下においては誓約の儀として利用されている。
誓約の儀に一度頷いたならば、二度と覆す事は適わない。己の身命を賭して、西行妖と富士見の家に仕える事となる。
その意味を噛み締めるように、木見彦の沈黙は長い。幾許かの時間を待ってから、やおら伏せていた顔を上げる。背負っていた刀を鞘から外し、自分の前へと横たえる。
「はい。富士見の一族、近舶家が長男木見彦。これより命を賭して、西行妖と富士見の一族を守護し抜きましょう」
居合わせていた男達が木見彦の解答に安堵したように、ほっと胸を撫で下ろした。が、弛緩は一瞬で、すぐさま皆が初老の次の動作へと傾注する。
初老は見る。少年の誓約と、その決意の表情を。僅かな間、それを眺める。
「今日より其方は木見彦の幼名を捨てよ。其方の実名は妖忌だ。我ら富士見の一族に牙を剥く妖を忌み、そして今日の誓約を持戒として守り通せ」
「……富士見の一族、近舶妖忌。承知致しました」
淀みない動きで初老に一人の従者が近付く。その手の上には敷物があり、その上に鞘に収まった長刀が横たわっていた。初老はその長刀を見やってから、
「妖忌よ。富士見の新たな剣に、新たな刀を授ける。この『楼観剣』を取れ。この刀はかつて富士見の祖先に恭順していた妖が打った銘刀で、僅か一太刀で十の霊をも切り伏せるという業物だ」
深く頷き、幼き頃から今まで持ってきた無銘の長刀に別れの一瞥をくれた。だが、すぐさま迷わず楼観剣を手に取り、背負った。
これで、初冠の儀は終了する。幼名を廃し、実名を名付ける。晴れて木見彦―――妖忌は富士見の一族の末席へと入る事となったのだ。
しかし、集まった者達は誰一人腰を上げようとはしなかった。退席の意を表す者のいない中、妖忌だけがそのまま一礼し、後ろで儀を見守っていた者達の中へと入っていき、座する。
従者が妖忌がかつて使っていた長刀を下げるのを待ってから、初老が再び口を開いた。
「西行寺が娘、那枝、前へ」
「はい」
後ろで控えていた者達の中から一人の少女―――那枝が歩み出る。元よりさして長くも無かった髪を束ね上げ、普段付けている簪よりもきらびやかな簪、他も日常ではつけないような装飾に身を包んでいる。
いつぞや手鞠をついていた頃とは大違いで、大人の女性を意識しているために歩みは緩慢で、瞳も薄らと閉じている。儀の神聖さを、決して破る事の無きように。
と、那枝が注目されると共に、周りにいた者達がにわかにざわめいた。
「あれが噂に聞く……西行寺のあやしか」
「なるほど……、あやしと呼ばれるのも合点がいく。まだ年端もいかぬ女子ではないか」
那枝はそのまま数歩を進み、初老の前で恭しく頭を下げる。初老も首肯を返す。
「西行寺が娘、那枝。汝は富士見の縛めを憶えているか」
再び、初老は儀礼用の刀の柄に手をかける。威厳をもった問いかけに、
「はい」
那枝は答える。彼女自身でも驚くほどすんなりと声が出た。
「富士見の一族に生まれたならば、その命尽き果てるまで護国に務め。富士見の一族に育ったならば、その心総てを賭して御家のために尽くせ。富士見の一族に迎えられたならば、その身が粉になるまで西行妖を奉れ」
年端もいかない女子が、己達の家系の縛めを訥々と語る―――その何かが狂った光景に、しかし目を背ける者はいなかった。
ただ、辛そうに顔をしかめ、
「よろしい……。では、西行寺が娘、那枝よ。汝は……」
初老は少し言葉に詰まる。それを見た周りの者が気遣うような視線を投げる。奥に座していた一人の老人が腰を浮かそうとすると、初老はそちらを見ることなく手で制し、一息に言う。
「汝は、西行寺家の役目を憶えているか」
那枝は小さく頷く。
「はい。……我ら西行寺の家、富士見の一族の贄の役を帯びし者。富士見の一族の頭であると共に、西行妖の力分けを受け、御家を守護し、時にはその身を以て西行妖を慰撫するを務めとする」
身を以て西行妖を慰撫する―――
その言葉の意味は、重い。
「……西行妖は、護国の木と言えど妖怪桜。時には人の命を糧として必要とする。それが要とされた場合、西行寺の家がその糧の役目を帯びる。代償として、西行寺の家は西行妖の力分けを受ける。死霊を
初老は語る。西行妖を枯れさせる訳にはいかないと。もし枯れてしまえば、根に蓄えられた怨気が解放され、日の本は今以上に妖魔の跋扈する恐ろしき世に成り果ててしまうであろうと。
「汝が名前に込められし願い、強く健やかなる木の苗であること」
逡巡するような間を置き、問う。
「西行寺が娘、那枝よ。汝は富士見の一族の次代を担い、富士見の一族総ての業を引き受ける覚悟があるか?」
先の木見彦と比較しても弱い口調。居合わせている者達の中にも迷いや戸惑いの色が窺える。
だからと言うように、那枝は即座に頷く。
「はい。富士見の一族、西行寺家の長女那枝。この命潰えるまで、西行妖を奉り、富士見の一族を率いていく事をここに誓いましょう」
一見して那枝の本心を問いつめた問答のようだが―――実際は大きく違う。そもそも、那枝には拒否する事など出来はしないのだ。
那枝の両親は、那枝が幼いうちに既に鬼籍に入ってしまった。そして那枝は両親の一人娘だ。兄弟はいない。同じ西行寺の姓を受け継ぐ分家は目前の初老を含め、いるにはいるが、西行寺の本筋を継ぐ家は既に那枝一人しか残っていない。富士見の一族に課せられた呪縛は少女一人の意思によって無視出来るほど小さくない。
那枝には逃げ場など無かったのだ。生まれた時から。
「……花を持て!」
思いを振り切るような初老の一喝と共に、社殿の中へと手に銀細工の皿を持った一人の従者が入ってくる。
銀細工で出来た浅い皿には、那枝の両手で握りしめられる程度の花びらが載っていた。乳白色の、切り口のある薄い花びら―――桜の花びらだ。
「西行寺が娘、那枝よ。この西行妖の花びらを喰らう事で、汝は力分けを受ける。そうしたならば、元々妖の血を取り入れた富士見の一族の中にあって、更に妖に近い存在となる」
初老の言葉を受け、那枝が銀の皿を両手で受け取る。と、皿の上に積まれた桜が何かを感じたのか一瞬震えを返した。
「異形の桜はそのまま喰らうと
安全だと言い聞かせる一方で、しかし危険であるとも警告している。あまりにも無責任な警鐘、飾らない脅し。
それはまるで、今すぐ強がる少女の皮をかなぐり捨て、業も何もかもから逃げ出して欲しいと願うような言葉にも思えた。
「西行寺が娘、那枝よ。直ちにその花びらを喰らうのだ」
時間を与えない事で、更なる焦燥感を煽っているのだろうか。
だが、那枝は落ち着いた様子で静かに周りを見回した。
齢僅かの無垢な少女が向ける視線を、誰もが直視出来ずに目を逸らした。中には少女に幾度も悲壮な顔で頭を下げる者までいた。
集まった者達の中にいる、一足先に初冠を終えた木見彦―――いや、妖忌の姿を、那枝は探し出す。
妖忌は、背筋を真っ直ぐ張ったまま座していた。先程貰い受けた楼観剣を背負い、緊張に顔を張りつめ、じっと那枝を見ていた。
那枝と妖忌の視線が交錯する。妖忌は―――目を、逸らさなかった。
それがすべてだった。
「……っ!」
那枝は一息に桜を喰らう。積まれた花びらを鷲掴みにし、多少零れる事も厭わず口の中へと押し込む。僅かに感じる塩のような味に眉をひそめながらも、ただ無心に喰らう。
「な、那枝様……っ」
桜の花びらを運んできた従者の少女が、戸惑いを顕わにする。だが、那枝は構わない。一口燕下し、二口目を掴み、躊躇無く口の中へと押し詰める。
周囲が微かにざわめいたような気がした。気遣うような声も遠く聞こえる。
一口喰らい、二口喰らい、三口喰らい。無我夢中で咀嚼もそこそこに花びらを飲み込んでいく。
「……っ」
幾度か嘔吐きそうになりながらも、総てを喰らう事が義務であるかのように那枝は桜を貪る。
次の一口を、と桜を掴もうとした那枝の手が空を切る。だが一瞬それに気付かず、もう一度無を掻く。そうして漸く、自身が銀の皿を取り落としていた事に気付いた。慌てて皿を拾い上げるが、既に桜の花びらは残ってはいなかった。
幾つかの花びらは鷲掴みにした時などに溢れ、床にと舞い落ちていたが。それでも、那枝は総て喰らったのだ。
西行妖の、花びらを。
「……見事に御座います、西行寺が当主、那枝様」
那枝は聞く。どこか遠くから虚ろに響く初老―――義父の声を。
「今日より貴方は那枝の幼名を廃しましょう。新たな実名は幽々子。西行寺が当主、幽々子様に御座います」
新たな名を頂き、そして―――幽々子は倒れた。
~~~~~~~~~~~~
幸せな日々というものは、何も特別な事があった日のみとは限らない。別段何もない日。取り立てて出来事も無かった日。ほんの少しだけ嬉しい事があった日。そんな日の方が、寧ろ幸せな日々として数えやすいのかもしれない。
「たまには早起きしてみるのも良いものね……」
早朝の薄霧に包まれた西行寺の庭を眺めながら、欠伸混じりに呟く。
「那枝様?」
名を呼ばれた事により、ぼんやりとしていた那枝は慌てて振り返った。
富士見の屋敷は大きい。幾つもの大きな家が西行妖を囲むように建てられており、外からはまるで城壁のように映る。
その城壁の一角に、西行寺本家の住居もある。だが今は西行寺本家の血筋は那枝一人しか残っていないため、臨時で西行寺の分家の人間も住まっている。富士見の一族の統制を司る場所なだけに、人も多い。
そんな西行寺本家の中に、那枝のお気に入りの場所があった。四階、主に接客用に使用している桜見の間。最大で二十余名を接客出来るこの間の、西行妖が見える方向は襖が開いており、その反対側には川縁で酒を飲み交わす貴族達の絵が描かれた壁がある。一見雅やかな接客の間だが、しかしその作りはある程度の事態を計算されている。
いわく付きな家系なだけに、訪う人間が必ずしも友好的とは限らない。時には客を装って突然刀を抜く人間が来る可能性も否定できない。そういった時に四階であるという事が、刺客側にとってすぐには逃げにくく、また策も巡らし難いという面で役立つ。更に窓から逃げようにも開いているのは西行妖の側で、あまつさえそちらに飛ぼうとした所で落下の衝撃が凄まじく、加えて裏門を守護する門番に捕まる。そしてその状態からなんとか逃亡しようとしても、総ての方向は高い造りの家々に阻まれる。完全なる防御の態勢と言える。
が、そのような大人の事情は子らには関係もなく、人が滅多に現れないここは那枝にとって絶好の遊び場だった。
今日も那枝はこの桜見の間で一人西行妖を眺めながら戯れていた。絵合わせ札で一頻り遊んだ後、頬杖をついて庭園の様子を眺めていた。
そこに突然声がかかり、那枝は慌てた。滅多に人が入らぬとはいえ、ここは西行寺家の客間である。妄りに入っては咎めも受けるだろう。
そうして振り返った那枝の目前にいたのは、
「なんだ……
「大層上品な挨拶ですね、那枝様」
笑顔を浮かべたままに皮肉を返す少女。本気でそう言っている訳でないのは雰囲気から察せられたが、さりとて那枝の一言に気分を害していない訳でもないらしい。
那枝もそれを察知したらしく、少し始末が悪い顔をして謝りの言葉を口にする。
「ごめんごめん。こんな所に来るなんて、てっきり
「弥疋様でしたら当分は戻られませんよ。西行寺第一分家の当主として、讃岐に住まう僧達の元を訪ねているのだとか」
小努と呼ばれた少女が答える。那枝と齢は同じか少し上くらいと見え、着ている服装はどちらかというと実務的な方に傾く。多少汚れても良いような深い色調で、那枝ほど良家の印象を感じない物だ。加えて会話口調などから、小努がこの家に仕える従者の類である事が窺える。
「……そう」
どことなく残念そうな色を帯びた那枝の声。その感情を機敏に察知した小努が苦笑する。
「お義父様がいなくて残念ですか?」
「……別に。大体、お義父様が私に良くしてくれるのだって、分家が本家に辛く当たっては世間体が保てないからよ」
那枝はそっぽを向く。
建前上、同じ西行寺の姓を持っているという事もあり弥疋と那枝は親娘という事になっている。だが本家と分家の溝は強く、決して弥疋は那枝を自分の下の人間として扱ってはならない事情もある。そういった幾つかの事柄もあり、双方の間には普通の親娘としての絆は築けていない。
「ただそれだけでは無いと思うのですけどねえ……」
それでも、弥疋は那枝に優しくしていると皆口を揃えて言う。弥疋には自身の子もいるというのに、それと同じか、或はそれ以上の惜しみない愛情を注いでいると言うのだ。
その事実を軽々しく受け止める事は、容易くはない。那枝は話題を切り替える事にした。
「それで、小努? まさかそれを言うためだけに私を捜していたというの?」
那枝が軽く顔を上に向けて問いかけた。
小努は那枝より少し丈が高いので、普通にしていても見上げるような構図となる。
「あ、いえ、別に那枝様を捜していた訳では……。あ、あ、いえ、捜していたんです。そ、そう、那枝様を捜していたのですよ」
途中まで言ってから、まるで失言に気付いたように赤面して慌て出す。
那枝は見逃さない。目の端を光らせ、
「何? 小努、本当は何の目的でここに来たの? こら、教えなさい」
「あえ、その、いや、これはその……」
しどろもどろになる小努を、更に問いつめようと那枝は一歩をにじみ寄る。
そこで―――気付いた。
それは声だ。更には水面を跳ねたような快音も付いている。一度ではなく、二度、三度。一定の間隔をもって繰り返されるその音が、鋭利な刃物が風を切り裂く音であると気付くのにそう時間は必要なかった。
「あ、な、那枝様、これは」
小努も音が聞こえているらしいが、何故か更に輪をかけて慌て出している。本人に訊ねるまでもなく、この音に小努が何らかの関係を持っている事は疑いないだろう。
小努の次の言葉も待たず、那枝は開け放たれた襖へと近寄る。富士見の一族の庭には、いつもと変わらず西行妖を囲うように幾つもの種類の桜が並んでいる。普段と何ら変わりは見られないが―――
「下?」
声と音は、丁度那枝の真下の辺りから聞こえてくる。
ごく自然な好奇心と興味から、那枝は身を乗り出し見下ろす。
「あ、那枝様!」
芸術的なまでに洗練された音が断続的に響く。それに合わせるように、呼気が僅かな声を伴って響く。
―――木見彦が刀を振っていた。普段から背中に掛けている長刀を両手に携え、上段から勢いよく振り下ろす。軌跡はしなやかに、直線に近い曲線を描き風を割る。木見彦は一つ呼気を吐き、再び刀を振り上げ、下ろす。一連の動作の間に無駄は無い。三度振り下ろすと、次は中段に刀を構えて横に薙ぐ。風を半円の形に断ち切り、再び構え直す。
「……毎朝、この時間になると木見彦様はああして修練を為されるのです。例え雨が降ろうと風が吹こうと、一日も欠かさず」
諦めたような落ち着きを得た小努が、那枝の隣に立ち木見彦を見下ろしながら言う。
その顔はどこか憂いを帯びていており、自分と同じくらいの歳の少女のその顔つきは、那枝の瞳に眩しく映った。
「毎朝……小努も見てるの?」
返答は無言の首肯だった。少し顔を赤らめた小努の頷きを見て、那枝も悟る。
「好きなのね。木見彦のこと」
返事は無い。先程と同じように、しかし耳まで赤く染め上げた従者の顔が揺れた。
縦に、一度。
そっか、と呟き、そうなんだ、と繰り返す。茶化すつもりこそ無かったが、それでも好奇心ははし奔った。
「……いつからなの?」
少し語調が落ちた那枝の声。訊ねつつも、無心に刀を振り続ける木見彦から目は離さない。
小努も小努で、まるで妖に魅入られたかのように木見彦の一挙一動を食い入るように眺めている。
「もう、三年か……或はそれ以上になりましょうか」
「三年も……?」
小努が静かに頷く。その小さな動きに伴い、艶やかな香りを纏った長い髪があわせて揺れる。その姿は、自分と同じ歳の少女というより、恋する乙女のそれのようだった。
「……」
複雑な心境で、那枝は再び木見彦へと視線をやる。木見彦がこちらに気付いた様子は無い。恐らく、刀を振る事に集中しているのだろう。
木見彦の斬撃は疾い。一陣の風のように自然な流れで、尚かつ力強い。更には刀が振られる回数が増える度にその斬撃の軌跡はより洗練された物になり、身体から無駄な動きも消えていく。
「あんなに刀を振り回して……疲れないのかしら。木見彦が持っているあの刀って、かなり重い筈なのに……」
刀という物は元来重い。その鋭利な形状から振り抜く事こそ可能だろうが、木見彦の丈と同じだけの長さをもった長刀を幾度も降り続ければ身体の方がすぐに参ってしまうだろう。
「なんでも……こういった修練の場合、疲れてからが寧ろ肝要なのだとか。身体が極限まで疲弊したならば、刀を振るという動作も無駄が省かれていき、真に刀を振るという事が見えてくるという事らしいです」
刀など一度も持った事のないだろう小努が言った。それだけ木見彦の姿を見続けて、木見彦のしている事総てを知ろうとしたのだろうか。
「それに……」
一拍、従者は逡巡した。次の一言を本当に言うべきかを悩むように。
小努は木見彦から目を離した。その視線は那枝にも向けられず、遠く、巨大な妖怪桜―――西行妖へと注がれた。表情も消し、力無い語調で一言だけ呟く。
「木見彦様には、命に代えてでも那枝様を守り抜くという使命が御座いますから」
その表情は、どこか諦観に彩られていて。
那枝が気付いた頃には、既に木見彦は朝の修練を終え屋内へ戻ってしまっていた。
~~~~~~~~~~~~
彼が恐怖を感じるよりも早く、その身体が駈け出していた。
『有り得ぬ、このような事が有り得てはならぬ……』
彼の心中で繰り返されるのはその想いだけだ。ただ胸中で否定の頭を振り続け、しかし身体は明確な意志に支配され走り続ける。
立ち止まってはいけない、という脅迫にも似た観念が彼の身体を突き動かしていた。もしも立ち止まったなら、自身の存在が容易く失われかねないという純然たる恐怖。
彼は知らなかった。未だかつて経験した事が無かったのだ。自分よりも強い―――いや、ずっと凶悪な力を持った者がいるなどということを知らずにいたのだ。
―――狂っている……。
彼は呻く。
しかし、その自分が背中を見せてみっともなく逃げているのだ。
―――有り得ぬ……有り得ぬ……!
幾ら否定の頭を振ろうと、足を止める訳にはいかない。自分が失われてしまう。即ち、死。
そもそもいわく付きの富士見の地へ単身乗り込んだ事がそもそも間違いだったと、今なら彼も後悔出来た。尤も、後悔した所で事態が好転する訳もなく、彼はただただ生を求めて足掻くように走る。
『ひっ!』
足が止まる。眼前、夜の闇にゆらりと揺らめく小さな発光体が出現していた。彼の目線と同じくらいの高さで、見る度形と大きさを微細に変える白塗りの半球体。
それは死霊。死した者の魂。生者が触れたならば、たちまち生気を奪われ死に至る事だろう。
『来るな……こちらへ来るでない!』
浮かぶ死霊は一つだが、次第に数が増えていく。二つ、三つと数えた時にはもう終いだ。
彼は、死霊の群れに囲まれている。
「鬼子よ。そこまでだ」
人間の男の声。目をやると、
死霊に触れれば即座に命を削られるというのに、少年の動きには躊躇いも何もない。まるで死霊と接触する事など元から念頭に無いかのようだ。
「一つ、訊ねる。何が目的で我ら一族を襲った?」
少年が長刀の切っ先を彼へと向けた。人が打った物とはまるで違うような、妖しげな輝きが夜の闇の中で彼を捉える。
彼は悟る。この少年も、その刀も、狂っている物なのだと。恐らくこの少年ならば、状況の有利も加勢し一人でで彼を打ち倒す事が可能だろう。
しかし、彼は容易に屈しなかった。焔神とまで呼ばれ畏れられた自分が、二十年も生きていないだろう人間の少年に威される。この事実をすんなり受け入れられるほど、彼は負けを知ってはいなかった。
それこそが慢心だとも知らなかった。
少年の持つ刀の切っ先が、ちらりと揺れた。死霊達の放つ燐光を僅かに跳ねて、長刀が風を切る。
いや、少年の刀は風を切らない。寧ろ、風に乗っていく。少年も彼へと踏み込んで行くが、風が乱れない。何もかもが自然な動き過ぎた。少年のその踏み込みに対して身構えるのは、季節の変わり目に唐突に吹く薫風に対して警戒し、身構えるようなもの。
彼が、あ、の音を発する頃には、既に左手が根本から高々と宙を待っていた。あまりにも自然な斬撃を入れた少年は、風と同じように彼の脇を通り抜け、再びこちらへと向き直る。
少年が異常なほど速かった訳ではない。彼が鈍かった訳でもない。ただ、あまりにも自然な接近と斬撃に、警戒する事すら出来なかったのだ。
『ぐ、が―――あぁ! ち……畜生……』
一呼吸置いて、分断された肩口が燃えるような熱さを伴った激痛に襲われる。
「なんだ、喋れるではないか。人語を解する前に人里より離れた訳でも無いのだな」
自分が斬りつけた相手だというのに、少年は特に意識した風もなくさらりと言い捨てる。再び刀の切っ先を彼へと向け、
「次は疾く斬るぞ」
冗談のような口調で、しかし本気の瞳をして言い放った。
『き、貴様……本当に人間なのか……?』
信じがたい、といった面持ちで放った質問の答えは、後ろから来た。
「失礼ね、鬼子の癖に。私達の一族は歴とした人間よ。……多少、妖の血も取り入れているけれど」
土を踏む音と共に、少女の声。それに併せて漂う死霊の数が更に増え、一部の死霊は宙に飛び少女のために道を開け、照らす。慌てて振り返る彼の目に映ったその姿は、桜の模様をあしらった和服の少女だ。
ただし、少女の周りにはまるで取り巻くかのように幾つもの死霊が浮かんでいた。
「申し遅れたわね。私は西行寺幽々子。……この富士見の一族の長をしているわ」
少女が、ころりと微笑んだ。
同時、彼は全身が総毛立つのを感じた。少女の笑みは本当に無垢で純真な少女のそれと変わらない。だが、少女は明らかに普通ではない。大勢の死霊を引き連れているのだ。恐らく、あの少女の指示一つで、その意のままに彼は失われてしまうだろう。
「それで……そこの鬼子様」
少女は、笑みを絶やさない。ただ、片手を僅かに持ち上げる。その上に、灯る死霊を一つ浮かべる。
「そこの妖忌が既に訊ねたとは思うのだけど、何が目的でこのような所に?」
相手は童と言って良い筈の少女だというのに、彼は有無を言わさぬ威圧を感じた。もはや、屈さざるを得ない。
『つ、強い妖気を感じたのだ。この富士見の地から』
斬られた肩を抑えながら、彼は慌てて答えた。
『それに噂で聞き及んでいた限りだと、この富士見の者達は巨大な妖怪桜と共謀し、数多の妖異を封じ込めているそうではないか。もののついでにそいつらも目覚めさせてやろうと思ったのだ―――う、嘘ではない! 本当だ!』
かつて焔神とまで呼ばれ、それに奢っていた姿は何処かへ行ったのか、彼は生に対する執着に取り憑かれたかのように狼狽する。
「そう……誰かの差し金という訳ではないのね?」
笑みを消し、窺うような上目遣いで少女が問うと、彼は震えるように首を縦に振る。
『あ、ああ。ここへ来たのは我一人の意志だ。仲間達にも話をしていない!』
「そうか、貴様には仲間がいるのか」
後ろ―――先程までいた筈の距離よりも近いところから、少年の声。僅かずつ躙り寄っていたらしい。その事実が、更に彼の心に冷たい刃を差し込んだ。
「……仕方ないわね」
衣擦れの音。少女の手が上がった音。死霊を浮かべた掌が彼に向いた音。彼を、即座に殺せる音。
死霊が跳ねた。手鞠のように軽快に跳ねて、彼の元へと辿り着く。
『―――!』
彼はもはや言葉すら失いかけた。しかし死霊は彼の僅か手前で止まると、独楽のように幾度もその場で回転。そしてそのまま彼の周りを、二度、三度と周回する。
「戻って仲間達に伝えて。富士見の一族を、西行妖を脅かす者は総て死に誘われる事になると。そして、もしも貴方が再びここを襲おうと思ったり、仲間を唆そうとでもしたら、その死霊がたちまち貴方の生を貪るわ」
言い終えるなり、行って、と締め括る。死霊の群れが割れ、後方、海の方へと道が開く。いつの間にやら少年の侍も少女の隣に立ち並び、冷たい眼差しで彼を見据えいてた。
ここまでの―――ここまでの屈辱を彼が受けたのは、生まれて初めてだった。だが、もし抵抗しようとした所で無意味だろう。相手は手練れなどという話ではない。狂っているのだ。
彼は憎々しげに相貌を歪め、歯を軋ませ、しかしその人間二人に背を向ける。失った左手を拾い上げ、掻き抱く。
『……あやしめが』
少女達を見やり、そう言い捨てた。
彼の最後の言葉となった。
幽々子は見た。赤い人の形をした異形が、呆気ないほど容易く死に至ったのを。
鬼子だった。かつては人家に生まれたのだろうが、人を喰らい、次第に鬼へと変じていったのだろう。鬼子はすぐに間引かねば、両親ですら躊躇わずに喰らうのだ。
間引かれなかったのだから、仕方がない。鬼子に生まれた彼の身の不幸もあるだろう。そう思って、見逃そうとした。
だが、鬼子が最後に言った一言が、幽々子の心を惑わした。
確かに彼はこう言ったのだ。
「……あやし……?」
富士見の家で、幽々子はあやしと呼ばれていた。だがそれは悪い意味ではないと、大人達は言っていた。
だが。今、鬼子は明らかに幽々子を見て、吐き捨てるように言った。
『あやし』め、と。
その言葉を聞いて死霊を動かした覚えはない。死霊が動いた跡もない。大体、死霊を憑かせたとして一瞬で絶命する訳ではない。徐々に生命を貪るのだ。
ならば、今鬼子の命を奪ったのは何なのか。隣の妖忌も突然の事に動揺している様子で、彼が何かをした訳でもないようだ。
とすると―――幽々子以外にいない。
彼に、あやしめ、と言われた時。幽々子の心の中で一瞬激しい感情のうねりがあった。今まで自分が寄りかかっていた支えが、総てまやかしへとすり替わったかのような感覚。
「―――う」
自然に膝が折れた。夜気の中、支えを失い四つ足をつく。頭が痛い。喉が熱い。何かが喉を迫り上がり、込み上げる。
「幽々子様!」
慌てた声。気遣っているのだろうか。
込み上げた吐瀉物を大地へ落とす。未成熟な動物のような嗚咽が漏れる。何故か涙が溢れて止まらなかった。
「こ……殺すつもりなんて。本当に、殺すつもりなんて……殺すつもりなんて無かった……殺そうとしてなんか……いなかったのに……!」
「幽々子様! 幽々子様!」
妖忌の声が、遠くに霞んだ。
~~~~~~~~~~~~
前夜の襲撃もあってか、富士見の屋敷は俄に喧噪に包まれていた。各屋敷を繋ぐ通路を忙しなく人が行き来し、西行寺家の会談の間には続々と各家の主要な人間が集まりつつあった。
「桐里家の! 其方の家の当主はどうした!」
「当主様はただ今この地に加護の術を張り直しておられます!」
「神配家はその補佐に当たれ!」
昨夜富士見の地を襲撃した鬼子は、相当に手練れだった。たった一人での襲撃だというのに、突然の奇襲に門兵二人がやられ、更には鎮圧に出た者が一人倒れ、二人が重傷。もしあと少し対応が遅れていれば屋敷を抜かれ、西行妖への突入を許していたかもしれない。
守備体制の見直し。緊急時の対策。再襲撃への警戒。決め直すべき事は無数にある。
そんな中、妖忌だけは普段と変わらず毎朝の修練を行っていた。元々近舶家が富士見の一族の剣としての役割が大きい分だけ、普段から妖怪などとの戦いに赴く事が多い。それだけ非常事態には平静でいられた。
修練を終え、屋敷へ戻る。他の者達のように過剰に慌てる気にはなれなかった。何より―――妖忌には、それ以上に気になる事があったからだ。
「妖忌」
名を呼ばれ振り向くと、雑然とした屋敷の中、落ち着きを保った男が一人いた。
「父上……あ、いえ、近舶家当主、
「正式な場以外では父で良い」
腰に短刀を佩いた厳めしい姿は、妖忌の実父妖禍のもの。全身から漂う気配、所作一つとっても、彼が並の者とは一線を画した武士であることが容易に窺える。
実際、妖禍に課せられた肩書きは大きい。富士見の一族の荒事を担当する家達総てを纏める立場でありながら、尚かつ自身も矢面に立ち戦闘に出る。
いずれ妖忌も父の跡を継ぐ事になるのだろうが、いつになったら父と同等の武士になれるのか、まだ見当も付かない。
その父が、辺りを軽く見回しながら問いかけてきた。
「妖忌よ、幽々子様を知らないか?」
「―――」
虚を突かれた。妖忌自身も修練している間から気になっていた事だが、それ以上に、
「お嬢様は……会談の間におられるのではないのですか?」
既に幽々子は西行寺家の当主としての役に就いている。外見的な問題が起こる時や、遠くの地へ赴かねばならない時などは分家の当主弥疋が代理を務めるが、そうではない内輪での扱いは当主としての幽々子だ。今日の会談にも当主として出席しているものだと、妖忌は思っていたのだが。
怪訝に思い訊ねた妖忌の質問に、妖禍はゆっくりと頭を振って応えた。
「いや、今朝から幽々子様のお姿を見た者はおられぬ。寧ろ、昨晩お前が会ったのが最後の筈だ。妖忌、昨夜の襲撃の際……一体何が起こったのだ?」
幽々子。昨夜。襲撃。
言葉が一つ
「父上、自分は急用を思い出しましたゆえ……」
俄に慌てだした妖忌に、妖禍が眉の端を僅かに上げる。総てを見透かすような輝きを湛えた瞳が、妖忌を、その心髄を睨め付けた。
「……ああ」
突然の言葉にも慌てる事が無い返答。即座に、妖忌は焦りを悟られぬよう一礼をして実父に背を向ける。背負った長刀の金具が擦れ合い、妖忌の心情を代弁するかのように音を立てた。
「失礼します」
挨拶もそこそこに、早足で去ろうとする。明らかに不審な動作かもしれないが、この問題だけは妖忌自身で解決したいという思いが強かった。
逃げるように走り出す妖忌へと、追うように父から言葉が飛んでくる。
「頼んだぞ」
いない、と捜していたくらいなのだから自室は既に見た後だろう。妖忌はそう目測をつける。あまり人の目が無く、そして幽々子が行きそうな場所。昨日あのような事があった矢先に外はないだろう。そもそも襲撃直後なのだから、屋敷の警戒態勢も強化されている。そんな中で、もし外に出ようとしたならば必ず誰かに見つかる。
屋内。しかも、朝から人通りが激しくなっているとなれば通路を通らないで行ける場所。そうなると自ずと場所は限られてくる。
「桜見の間か!」
昔、幽々子に―――いや、那枝に、一人の時の手慰みに手鞠歌を教えた時、お礼にと教えて貰った場所だ。主に接客として用いるような重要な場所だが、その代わりに普段は滅多に人の目が無く、また広さもそこそこで庭も見渡せる絶好の場所なのだと、彼女は微笑み混じりに言っていた。
微笑み。そういえば、那枝が幽々子になって以来あの純粋な微笑みを見ていない気がした。妖忌が好きな、春先に生える花のようで、しかしどこか儚さも感じるあの微笑みを。
そもそも。そもそも過ぎた力だったのだろう、あの死霊を操る能力は。生まれと環境の不遇さえ無ければ、那枝はきっと純粋な少女として育ち、争いとは無縁なままで微笑み続けた事だろうに。
確かに、時折妖への人並み外れた感知をするなど、何らかの才はあったようには思う。しかしそれも恐らくは西行寺の血に所以している部分が多いのだろう。元々、那枝は心優しいただの少女なのだから。
頭を振って、思いを振り払う。今は那枝ではなく幽々子だ、と胸中で己へ言い聞かせる。
階段を駈け上がる。二階に登る間に何人かとすれ違うが、皆一様に焦っているので走っているこちらを別段咎めたりはしない。
遠くで、各家の当主への集合を意味する鐘が鳴らされている。断続的に響くその音に後押しされるように、妖忌は三階を過ぎ、四階、桜見の間へ。
「幽々子様!」
室内は、唯一外を見る事が出来る襖が閉ざされ、光の殆ど入らない昏い状態だった。
その中でも特に闇に包まれた一角に、桜の模様があった。
「幽々子様!」
息を切らして畳に上がる。入り口に積まれていた座布団の山に足が当たり崩れるのにも構わず、無我夢中で主の元へと寄る。
「幽々子様!」
三度目の呼びかけに、漸く反応が返ってくる。背を向けて座り込んでいた幽々子がゆらり―――と振り返り、妖忌を見たのだ。
「ゆゆ……こ……様……」
その顔は―――能面のように表情がすっぽりと抜け落ちていた。生きているのか死んでいるのかすら判然としない虚ろな瞳に、妖忌の姿が嘘のように鮮明に映った。
「なんだ……妖忌じゃないの」
力無い声が来る。口調こそいつものままだが、まるで気が入っていない。意識の半分以上を夢に喰われているかのような状態だ。
「……ねえ」
妖忌が何を言うよりも早く、言葉が来る。独り言のような、遠い問いかけの声。
「昨夜、あの鬼子を殺めたのは……私なのよね?」
いきなりの核心を突いた言葉に、妖忌には幽々子が何を言っているのか一瞬分からなかった。呆然とし、しかしすぐに意識が立ち戻る。
頷くべきか。確かに昨夜、あの鬼子は去ろうとした瞬間に死に喰われた。妖忌が斬った訳でもない。無くした腕から大量の血が流れていた風でもない。見た限り死霊が生を貪った様子もない。鬼子自ら命を絶った様子もない。
何が理由でもない偶然の突然死。人間ならまだしも、あれだけ強靱な肉体を持った鬼子に、あの瞬間突然にそれが起こるとは考え難い。
あの場に居合わせていたのは、妖忌と、幽々子の二人のみ。妖忌が何かした訳でもなく、そして鬼子が何事かを吐き捨てた直後に、幽々子が過剰に反応を起こして、鬼子が倒れた。
断定出来るだけの要素はないが、状況を重ねる度に否定する要素が消えていく。
「ねえ、妖忌。答えて?」
答えなければならない。答えてはならない。安易に否定したら、今度こそ幽々子は心を閉ざしてしまうのかもしれない。だが、肯定したら幽々子の心が壊れてしまうのかもしれない。
「あ……」
口を開く。何かを言わねばならないと、その思いに駆られて。だが言葉は形作られず、開いた口は何を発する事もなく空気を噛む。幽々子の虚ろな瞳が、真っ直ぐに妖忌を見据えている―――
日常という名の当然が終わろうとしていた。那枝の微笑みは、もう幽々子に見る事が出来ないのかもしれない。漠然と、そんな諦観が脳裏をちらついた。
目を瞑る。噛み締めた歯が鈍い音を立てる。思いだけが先行し続け、意識が加熱する。耐えきれず、口を開いた。
「―――鬼子を……あの鬼子を殺めたのは……」
これで、終わり。
そう思い詰めた瞬間に―――助け船は来た。
「お取り込み中、失礼するわ」
その言葉は、閉められた襖の向こうから響いた。
「……な……」
突如として聞こえた声に、奔りかけた言葉が飲み込まれる。一瞬前まで自分が何をしていたのかを忘れかけ、しかし即座に思い出す。
同時に、襖の向こうは四階の高さで、木すら無い空中である事も思い出した。
「く、曲者?」
弱い語気で問う。だが、言っている妖忌も半信半疑だ。富士見の家の警備をかいくぐり屋敷を突破し、尚かつ四階の高さにいて、更にはわざわざ中の人間に声までかける。
曲者と考えるには、あまりにも不自然な点が多すぎた。
幽々子も幽々子で、想像だにしていなかった出来事に気を抜かれたようで、虚ろだった瞳に驚きの色を込め、襖の向こうを凝視していた。
そして、先の謎の言葉通りに、取り込み中にも関わらず襖が開いてその何者かの姿が顕わになる。
「たまには正面から来てみたというのに、門前払いされるとは思ってもみなかったわ。確かに十何年か、二十余年か来てなかったけれど、まさか私の事が伝わっていないなんて」
胡散臭い言葉と共に空中を滑るように室内へと入ってきたのは、やはり胡散臭い風体の少女だった。大陸系の色を匂わせる服装に身を包んだ、恐らく二十歳近くと思える風貌の少女。怪しい服装が、薄らと浮かべた笑みが、人間のそれとは光彩自体が違う瞳が、およそ生物的とは思えないような動きが、総てが胡散臭く、怪しかった。
妖怪―――。妖忌はその女を見た途端、そうと分かった。地に足も着けず動く事は当然だが、それ以上に纏っている雰囲気が人間のそれとは大きく異なっていた。
女は入って来るなり腰ほどの高さに手を振る。するとその範囲の両端に亀裂が発生し、その間を繋ぐように黒の太い線が引かれる。明らかな異常現象はそこに留まらず、女はさも当然のように線に腰掛け、座る。
「……」
「……」
二人は言葉もない。呆然と成り行きを見守るだけだ。
幽々子は幽々子で、一体何が起こっているのか理解出来ていないらしく目を瞬かせている。
妖忌も妖忌で、突然現れた女に対処が出来ていなかった。先程まで幽々子の問いかけに煩悶し、神経を磨り減らし半ば混乱状態にあったというのもあるが、女から全く敵意が感じられないという事、そしてあまりにも超然とした雰囲気に飲まれたという事もある。
恐らく、この女に対して、楼観剣を抜いて斬りかかった所で当たりはしないだろう。それこそ千回の斬撃のうち一度でも通れば仏に感謝するべきだろう。
稚児と剣客。いや、蟻と虎。勝負をする前の段階で、既に相手になっていない。
「あら。そんなに警戒しないでいいのよ?」
妖忌の内心を悟ったのか、女が先んじて言う。口元だけの笑みすら浮かべて、
「何もしないのだからね」
口元の笑みが少し強くなり―――女の目元も僅かに笑みの色を見せる。同時に、背筋が凍るような錯覚を感じる。
この段階になって、漸く体が反応を示した。長刀を抜き放ち、幽々子を庇うように前へ出る。
「お嬢様、お逃げ下さい!」
告げるも、幽々子は微動だにしない。顕れた女の方を凝視したまま、意識を完全に奪われたように硬直してしまっている。
西行寺家の人間は、元々霊能の才が強い血筋だ。恐らく、女の持つ気に『当てられた』のだろう。
口中で舌打ちし、長刀の切っ先を女へと向け不退転の決意を示す。女はというと、この状況を特に何とも思っていないのか暢気に欠伸をしていた。
「貴様……何者だ!」
誰何の声を発すると、女の目がこちらを向く。その時になって漸く気付いた。先程まで、女はこちらを見てすらいなかったのだ。だというのに、あれだけの威圧を感じたというのか。
女の唇がぬらりと怪しい光沢を放ち、
「あら? 自ら名乗らずに、あまつさえ刀さえ向けながらたかだか女一人に名を問うなんて。武士としてどうなのかしらね?」
一呼吸経ってから、まあいいわ、と繋げる。軽く肩など竦めてみせ、金属質の光彩を放つ目を細める。
「私は紫。八雲紫よ。しがないすきま妖怪などをやらせて頂いてるわ。昔からこの西行寺家には懇意にさせて貰ってるのだけれど―――」
女―――紫の所作一つ一つは、それこそ隙だらけだ。突然斬りかかれば、案外当たるのではないかと思えるほどに。だが逆に考えると、既に抜刀した相手にそれだけ余裕を持った態度で臨んでいるのだ。こちらが敵意を持って動いた途端に、何かが豹変するかもしれない。
「以前まで私と知り合いだった西行寺家当主様の先代様は、どうやら既に鬼籍に入ってしまわれたようなのよね。だから、新しい西行寺家の当主様に御挨拶に参ったという訳なのよ」
先代、という言葉に幽々子の背が僅かに跳ねた。先代とはつまり―――幽々子が幼い頃に死んでしまった、実父の事だろう。
紫と名乗った妖怪と思しき女は口調こそ丁重で、話にも一応筋が通っているが、それでも気を抜けない。気を抜けないが、それでも曲がりなりにも名乗らせたのだ。名乗り返すのが武士としての礼儀だろう。そう判断して、妖忌は名乗りを返す。
「……富士見に仕える近舶家の嫡男、妖忌だ。主に西行寺家の側侍の役目を担っている。そしてそちらにおわすのが……」
逡巡する。幽々子の名も言うべきなのか。が、紫は言ったのだ。新しい西行寺の当主に挨拶に来たと。もし当主が誰なのか分かっていなければ、わざわざこんな所に顕れたりもしないだろう。となると、隠すだけ無駄だ。
「西行寺家当主、西行寺幽々子様にあらせられる。お嬢様は、今は気分があまり優れない。わざわざの御足労すまないが、日を改めてくれないか」
刀を突きつけたまま言う。礼節に欠く挨拶だとは分かっているが、しかし相手が相手だ。妖忌個人としてはある種の窮地から救ってもらった訳になっても、今は正式な面会を許可出来る筈もない。富士見の一族自体がそんな悠長な事をしていられる状況ではない上、幽々子の精神状態も良くないのだ。
「あら。出会い頭に嫌われたものね」
紫が、自身どうとでも思っていないような声音で言ってのけた。開かれた襖の向こうから容赦なく注がれてくる光の中、その顔が幽々子へと向いた。
「でもね、私は側侍に用がある訳じゃないの。そちらの当主様とお話がしたくて来たのよ」
「だから、お嬢様は今気分が優れないのだ。お引き取り願いたい」
「いいの、妖忌」
言葉と共に、後ろから肩を掴まれた。先程のあの消沈していた様子からは考えられないほど力強く、そして落ち着いた声音。
「わざわざ私を名指しでこんな所まで来たのよ。相手が妖怪とはいえ、応じるのが礼儀でしょう」
「……へえ? 側侍と違って、当主様はしっかりしているのね。ただ泣きじゃくるだけの子かと思っていたのだけれど」
含みのあるような笑み。まるで、先程までの有様を総て見ていたのだと言わんばかりの言葉に、しかし幽々子は動じない。泰然と言葉を返す。
「妖忌は優秀よ。少なくとも、私なんかよりもね」
ともすれば侮辱とも取れる言葉を受けたというのに、全くそれを気にした風もない。むしろ平静を取り戻したようにも見える。その落ち着いた対応に当主としての貫禄すら感じ、妖忌は恥じ入った。長刀は抜いたままだが、一歩を退く。どうやら自分の出る幕ではないらしい、と判じたためだ。
紫も、幽々子の毅然とした態度に僅かだが目を瞠る。今度ばかりは透明ではない、感心したような笑みを形作る。
「あら、本当に芯は強いようね。先のやり取りを見させて貰っていたのだけれど、案外そこの側侍が何と答えたとしても、どうとでもなったんじゃないかしら?」
ずけずけと、この妖怪少女は人の大事な部分へと踏み込んでくる。躊躇いも、遠慮も、悪気すらも無く。それが当然の事だと言わんばかりに。
そう、妖怪だ。先程自分でも名乗っていた。すきま妖怪をやっている、と。だが妖怪にしては、不思議とこちらへの敵意を感じられないのだ。好意も感じられないが。
西行妖という最大例もある上、富士見の一族はその血筋に妖の血も頂いている。妖怪と聞いたらすぐに斬るべきものとは限らないという認識は幼少期に形成されている。とはいえ、妖と人間とは根本的には違った生き物。いつ牙を剥くともしれないために、妖忌は警戒を怠らない。
「……そんな事、あなたには関係ないじゃないの」
少しだけ、幽々子の語気が弱まった。流石に全く気にしないという事が出来るものでも無いらしい。
対する紫は笑みを浮かべたままだ。開いた襖から漏れ入ってくる光と風を僅かに受け、金のような色合いを持った異色の髪がふわりと揺れる。
「ふふふ、気丈ね。なかなかいいわ。私、あなたの事が気に入ったわよ。―――大事な話を盗み見した詫びとは言わないけれども……、挨拶代わりに良い事を教えてあげましょう」
ごくごく自然な動きで、紫は己の服の懐へと手を入れた。あまりにも気配の無い動きだったので、一瞬何をしたのか分からなかったが、すぐにその行動が持つ可能性に思い至り、妖忌は目つきを険の一文字に変えて前屈みの姿勢を取る。
懐に手を入れる事によって起こる可能性など、考えるまでもなくすぐに分かる。何か道具を取り出そうとしているのだ。即ち、それは武器の可能性も有り得る。
妖忌は前屈みの姿勢のまま、紫を睨め付ける。いつでも斬り込めるような、そういう前傾姿勢だ。
が、それを制したのは幽々子だった。体は紫の方へ向けたままで片手だけを上げると、刀を持つ妖忌の手を静かに抑えた。言外に大丈夫と言われた気がして、妖忌は少し憮然とした面持ちになりながらも前傾姿勢を解く。
そのやり取りを、紫は上目で見ていた。幽々子が制した辺りでまた質の違う笑みを浮かべる。少しだけ人間的な、ごく僅かながらも機嫌の良さを窺わせるような微笑みだ。
果たして紫が懐から出したのは、一つの扇子だった。鉄扇ならば、時として暗器に用いられる事もある要注意の道具だが、彼女が出したのはどう見ても紙で出来ていた。人を傷つけるのに充分な武器とは思えない。
訝しげな視線を受けた紫が扇子を持ち上げてみせ、
「―――この扇。あなたの先々代か、或はその先代か。どうだったかしら。まあ、とにかく何代目かの西行寺家当主の遺品よ」
胡散臭い言葉が来た。
確かにその扇子には、富士見の一族が好んで使う物と同じ、桜の紋様があしらわれている。紙の質も良さそうで、かなり高価な部類に入る事は理解出来た。理解出来たが、だからと言ってそれがいきなり身内の、しかも爺か曾爺の世代の遺品だと言われたとしても、納得など出来る筈もない。
しかも流れに反して、紫は扇子自体はどうでも良いのだけれど、と付け加えた。
ならば出すな、武器かと紛う。そう言い返そうとした途端に、
「この扇の持ち主は、西行寺家に与えられた死霊を操る能力を、更に強化させたのよ」
言葉が来る。何でもない風に発された言葉で、理解には時間を要した。西行寺家。死霊を操る能力。そしてそれを、強化させたらどうなる?
「―――!」
妖忌の胸中で、あまりにも唐突すぎた話に理解が及んだと同時、隣にいた幽々子も焦ったように身を乗り出していた。
「そ、それは……」
死霊を操る能力は、即ち相手から生を貪る能力だ。西行妖を奉納し、守護する者に与えられた究極の防衛手段と言える。だが死霊による生の剥奪には多少の時間が掛かり、更に相手に触れさせる事が必要となる。その難点を改善し、更に強化させていくと、
「御明察。妖を、容易く死へと誘う能力よ」
幽々子の眼前のその自称すきま妖怪は、もっとも、と勿体ぶるように言葉を置いた。
「その時は人間同士の戦乱の時代だったみたいでね……。突発的に襲いかかってくる妖の類よりも、西行妖を利用しようと群れで来る人間達の方が脅威だったみたい。妖を死へ誘う能力は、その制約を自ら打ち破り、人も妖も区分無く死へと誘えるようになった。結果的に、死への抵抗力が薄い人間の方に対して効果が強くなったのは皮肉でしかないわね」
紫の話を集中して聞きながらも、幽々子は胸中でどうだろうか、と首を一度捻った。
この妖怪の話は、信じられるのだろうか。
まだ会ってから四半刻と経っていない。妖怪とはよくよく人を謀るものであり、常に疑ってかからないと痛い目を見るというのは常識だ。
それでも、この話には信じるだけの部分がある気がした。少なくとも現段階においては。今のところ、この妖怪が何かを要求してくる節も無ければ、信じて痛い目を見そうな話でもない。
―――それに……。
先程、紫は笑んだのだ。幽々子の事を気に入ったと言って。その後、こちらの動きを見ながら再び笑んだ。先の笑みは透明な笑みだったが、後の笑みはどこか人間臭さを感じた。
まるで人間のようでないこの妖怪の、少しだけだが人間味を感じさせた笑み。
信じてみたいと、そう思った。
「その人には生来才能があったみたいで、彼の意一つで大概の命は果てた。彼はその力に心の底から畏怖しながらも、どうにか折り合いをつけていた。しかし、乱世にあっては使わずにはいられなかった。……そんなある時、二百近い人間の軍勢がここへと襲来した」
含みも何もなく、ただ事実を事実として語る。
紫は昔を語る。二百近い人間の軍に話し合う気など最初から無く、上陸と同時に一気に西行妖目がけて進軍し始めた事を。
「何とも莫迦莫迦しい事に、その人間達は西行妖を手中に収めれば、異形の力も、更には根に蓄えられた悪鬼妖怪の類も総て自分達の意のままになると思っていたらしいわ。とんだ驕り、過ちね。第一西行妖の根に蓄えられているのは妖怪そのものではなく、それらの怨の気。そんな物を解放したら、何より自分達の身が危ういという事にすら気付けなかった」
当時の人間の愚かしさをせせら笑う。その時だけ、紫は妖怪らしく饒舌になった。
しかし同時に、幽々子は理解した。この妖怪は安全であると。それに値する一言を、今の話の中で紫は間違いなく言ったのだ。
西行妖がその根に封じているのは、妖怪や悪鬼などの類ではなく、それらが積もらせた最も危険な怨の気であるという事を。そこまで知っているならば、そんな物を解放した時に妖怪ですらただでは済まないという事も分かっているに違いない。
となれば、この頭の良さそうな妖怪が富士見の一族に牙を剥く必要性など微塵もない。
「そして無知な軍は富士見の地へ押し寄せた。彼は、自ら出陣しそれを迎え撃ったわ。話し合いも試みたようだけど、全くといって良いほど効果はなかった。そして」
語調が変わる。伴い、空気が変質した。気配が薄く変わった紫の瞳が、蛇の舌のように幽々子の身を舐めた。
「彼は、富士見の一族の多くの犠牲と引き換えに、その二百の軍勢総てをたちまち死へと誘ったわ」
隣の妖忌が、身を強張らせたのが分かった。恐らく、幽々子も同様に身を張りつめている事だろう。
紫の話は衝撃的に過ぎた。富士見の歴史において、何度となく襲撃してきた無法者や妖怪の類を討ち滅ぼし、殺めたという事は聞いてはいたが、二百の人間を一日で殺めたというほどの話は初耳だった。
今、自分がいるこの富士見の地は、本当にたくさんの血を吸っているのだと思うと、背筋が薄ら寒くもなった。
「勿論、こんなにたくさんの者を一斉に死へと誘えたのは、偏に彼が生まれ持った異常な程の天賦の才もあったのだけれど」
昔語りは終わり、紫は今へと話を繋ぐ。
「それでも、人も妖も死へと誘う力は西行寺家に形として残っているのよ。戦乱の時代を経た確かな記憶として、ね」
この妖怪の言わんとしている事は、容易に理解出来た。
「つまり……今、お嬢様の中にも、その力があると……?」
妖忌が、幽々子の思いを代弁するかのように力無く問いかけるのを聞いた。
紫は妖忌の方を見ず、幽々子の方を向いたまま緩やかに一つ頷いた。
「その一代後ではその力は顕現しなかったけれど、確かあなたの父親は死へと誘う力を得ていたみたいよ。どうやらある程度、能力を得る者の生来的な能力に影響される部分があるみたいね」
一息。
「―――あの鬼子を殺めたのは、間違いなくあなたよ。西行寺家当主、西行寺幽々子。あなたは、死へと誘う能力に目覚めている」
枯れ葉が落ちるような音を立てて、紫の扇子が開いた。彼女はそのまま扇子を持ち上げ、幽々子に正面から向ける。
「さて? 泣くかしら、それとも憤るかしら、或は絶望に打ちひしがれるかしら?」
幽々子の死の能力に全く脅える様子も無く、紫は挑発とも取れる言葉を吐く。
その扇子の先が、そのまま水平に移動し、隣―――妖忌へ向く。
「丁度良い介錯の務め手なら、そこにいるわよ?」
「き……貴様!」
妖忌が憤る。確かに、妖忌のこういう所は駄目だと幽々子も思った。幽々子の事など、自分以外の大事な事となるとすぐに血相を変える。妖忌自身の事や、他の人間に対しては常に冷静で、平静を保つ癖に。
けれども、その想いはとても有り難いものだった。だから、幽々子はやんわりと頭を振り、再び妖忌を制する。そうする事で妖忌の想いを踏みにじらないようにして、
「ねえ、八雲紫さん?」
呼びかけると、紫は扇子を静かに下ろした。閉じ、懐へとしまい直してから、口を開いた。
「なにかしら? 西行寺幽々子様」
超然とした微笑みで応じる紫へと、幽々子は笑みを返した。屈託のない、柔らかな笑みを。その笑みを浮かべた途端、何故か隣の妖忌が息を飲む音が聞こえた。
「那枝様……」
その言葉の意味は知れないが。
「良い事を教えてあげるわ。人間というものは、そうやって皮肉げに挑発されると逆に落ち着いたりもするのよ?」
あら、と紫が呟いた。片手を口元に当て、まるで大根役者のように気の入らない声で、
「それはそれは。私ちっとも存じておりませんでしたわ」
「ええ、あなたはきっと知らなかったでしょうね、残念だわ」
どちらからともなく、微笑みを交わす。今度の紫の微笑みには、一切の含みが無かった。
隣の妖忌は唖然としたように立ち尽くしていたが―――手に持っていた楼観剣を今になってから気付いたかのように一瞬震えさせると、慌てて納刀した。そしてやおら、紫へと頭を下げた。深く、長く。
つまりは、そういう事だった。
西行寺幽々子と八雲紫との出会いは、このような形であった。