「まさか、儂が渡し賃を持っているとはのぅ……」
「持ってないと思っていたのかい?」
「そうさなぁ……儂は妻も子も捨てた男じゃ。人との縁で手持ちの銭が決まるとなりゃ、そりゃあ文無しに決まっちょると思うておったしのぅ」
「縁は奇なものさ。世俗を捨て仙人になった男だって、木の瘤から生まれた訳じゃない。何の関わりも持たずに生きてくってのは存外難しいもんだよ?」
「確かになぁ」
「まぁ、それでもぎりぎりだったんだ。あんまり徳が高くないのも確かだね。閻魔さまに会ったら覚悟しな」
「……閻魔さまか。のぅ、閻魔さまってどんな人なんかいな? やっぱ恐ろしい顔しとるんかのぅ」
「そうさね。そりゃもうこわーいお方さ。地獄の鬼だろうと一発怒鳴られただけで小便ちびっちまうよ。身の丈十尺の見上げるような髭もじゃの大男で、目は爛々と輝き口からは火を噴いてる。生前の行いを全て記した閻魔帖と全ての罪を断つ笏を持ち、その蒼い瞳に睨まれりゃどんな悪党だって借りてきた猫みたいになっちまうさ」
「怖いのぅ……」
「ま、嘘を吐かない事だよ。閻魔さまはなーんでもお見通しなんだからね」
「嘘……嘘か。吐いたのぅ……一杯……」
「へぇ、あんた何をやったんだい?」
「儂は……金貸しをしちょった……返せないと解っちょる額の金を貸し、そいでそいつのもん何もかんも奪ってった……妻も子もそんな儂に呆れて出てったのに儂は何も改めんと……いや、逆にそれまで以上に厳しく取り立てるようになって……何人か首を吊ったっちゅう話を聞いても鼻で笑っておったよ……」
「そりゃ最低だ」
「全くのう……改めて振り返ると、ほんに最低じゃのう……」
「それでも渡し賃を持ってるって事は、あんたの事を大事に思ってる人がいたって事さ。心当たりはあるかい?」
「……そうさのぅ。そりゃこっちも金貸しだから、貸した金で成功してちゃーんと利子含めて返してくれりゃ万々歳じゃし、そういう輩か……違う、の……金貸して成功したもんは、一遍だって礼に来たこたないしのぅ……」
「そんな難しく考えるこっちゃないさ。転んだ人間に手を貸しただけでもいい。一回飯を驕っただけで一生恩義を感じるやつだっているよ」
「あったんかなぁ、そんな事……儂、全然憶えちょらん……」
「あんたもかなり業が深かったんだろうねぇ。まだまだ岸が見えやしない。まぁ、船旅はまだまだ続くんだ。ゆっくりと考えればいいさ」
「そういえば子供の頃、苛められちょった同級生を助けたような……いや、ひょっとしたらあれか? あん時の女の子……」
「へぇ、面白そうな話じゃないか。話してみなよ?」
「いや、その、あんま憶えてのうて……」
「言ったろう? 旅はまだまだ続くんだ――あたいで良ければ話を聞くよ」
『激しい雨が ~riverside~』
三途の川に雨が降る。
先月まで咲き誇っていた彼岸花も一時の眠りに就き、今は黒々とした砂利と岩が並ぶだけの賽の川原。
向こう岸が霞んでみえない大河の傍で――小野塚小町は傘も差さずに雨に打たれていた。
叩き付ける雨は時を追うごとに勢いを増し、傘を差すどころか立ち上がる事も困難。
それでも……小町は身動ぎもせず、その激しい雨を全身で受け止めている。
赤い前髪は額に張り付き、目元は隠れて見えない。ただその噛み締めた唇が、震える肩が小町の心を示していた。
鎌を持つ右手は長柄を握り締める拳が白む程に力が込められ、一体いつからそこにいたのか顔は青を通り越して紙の様に白い。
雨は激しく、大地を穿つ勢いだというのに、小町はいつまでも其処から動こうとしなかった。
まるで滝に打たれる修験者のように。
まるで罰を受け止める咎人のように。
大小様々な岩が並ぶ川原には他に誰の姿もない。
その赤い髪だけが、沈んだ墨絵のような世界で鬼火のように揺れている。激しい雨は大河の流音すらも掻き消し、壊れた打楽器のように耳障りな音を刻むだけ。
誰もいない彼岸で一人。
小町はいつまでも、いつまでも佇んでいた。
厚い雲に覆われ太陽の位置どころか、今が昼なのか夜なのかすら解らないが、昇った朝日が西に沈むには十分な程の時間が過ぎ去っても尚……独りで。
観客のいない舞台に取り残された赤い死神。
終幕の雨は容赦なく降り注ぎ、哀れな道化はその身を削られ砕けて消える。
その筈だったのに……
そうだったら良かったのに……
ゆらり、と。
小町は手にした鎌を振り上げた。
断頭台に昇る白刃のように。
凶兆を伝える狼煙のように。
ゆるゆると、肩を超え、頭頂を過ぎ、天に抗うように振り上げ――真っ直ぐに振り下ろした。
斬ったのは『空間』
削り取られた空間は失われたものを取り戻そうと足掻き、周囲の空気を、雨を、あらゆる物質を掻き集める。それは川原に転がる石や岩すら例外ではなく――高速で飛来する礫が、拳のような石が、一抱えもある岩が、唸りを上げて次々と小町の身体に叩き付けられた。
「か……ふっ」
粉々になった岩の影からは、全身を朱に染めた小町の姿。その赤い髪よりも、なお朱く。
ぐらりと前に倒れこもうとする身体を右足で支え、ぎちりっと歯を食いしばる音が激しい雨音を凌駕する。
「足りねぇ……」
血塗れの顔は俯いたまま。ぽたぽたと垂れる雫は鮮やかな赤。
モノクロームの世界で、ただその赤だけが焼き付いて、激しい雨が洗い流そうとするも網膜にこびり付いたその色は容易には消せそうにない。
小町は無言のまま、再び鎌を振り上げる。
濡れた前髪から覗く視線の先には更なる巨岩。それでも迷わず、躊躇わず、死神の鎌を振り下ろそうとして――
「……徒に自身を傷つけるのは止めなさい」
後ろから伸びた、細く小さな手に止められた。
見なくても解る。声だけで解る。そこに立つ者の事なら、目を閉じていようとも明確に思い描ける。
「止めないで貰えますか……四季様」
「小町……」
振り向いた小町の瞳は、幽鬼のように虚ろ。
光のない死んだ目が何より『死神』の名に相応しく……そして『小野塚小町』には相応しくない。そんな、死んだ瞳を閻魔に向ける。
映姫はその瞳に一瞬たじろぎ――踏み止まった。
「あれは貴女の責任ではありません。貴女は職務を果たしただけ。そこに罪など……」
「それじゃ、気が済まないんですよ。……すいません、今日だけは好きにさせて下さい」
「小町、貴女は……」
昨日、その事件は起きた。
三途の川を渡るために、魂たちは川原へと誘われる。
集まってきた魂たちを彼岸へ渡すのが小町の仕事。時折サボる事もあるが、死した魂を安楽へと導くこの仕事を誇りに思っていた。
生きている人間が様々であるように死んだ魂も様々である。陽気なもの、陰気なもの、怒るもの、嘆くもの。一つとして同じものはない。
人間生きていれば、語るべき過去や思い出を持ちきれぬ程に抱えている。
業とも呼べる生前の生き様、罪禍、夢、願い、希望。それを裁くのは閻魔の役目であり、死神はただ黙々と運べば良いだけ。
だけど小町は、そんな魂たちの思い出話を聞くのが何よりも好きだった。
素直になれず、幸せを掴めなかった女の心残り。
虫のような生涯を過ごした男の胸に輝く、唯一の光。
多くの人を裏切り、破滅を撒き散らし、様々な罪を犯した罪人が、ただ一つ穢す事の出来なかった幼き日の母との約束。
「墓場まで持ってくつもりだったが、死んじまったら隠すも糞もねぇよなぁ」
と、照れ臭そうに笑っていた。
死んで心の軽くなった魂は、饒舌に思い出を語る。
「俺さ。本当はお巡りさんになりたかったんだよ。だって格好いいじゃない? 正義の味方っぽくて」
「私……何であの時謝れなかったのかなぁ」
「でさ、そん時俺はこう言ったんだよ。『こいつらだけは勘弁してやってくれ。俺はどうなってもいいから』ってな。我ながらどのツラ下げて、そんな台詞抜かしたんだか」
それは何処かさっぱりしていて、子供のようで、小町はそんな自慢話を聞くのが好きだった。
誰もが望んで罪を犯した訳ではない。
何時か何処かで何かを間違えただけ。
それに気付きやり直せた者、死んで初めて気付く者、死してなお気付かぬ者……本当に様々だ。
罪を犯さずに生きる者などいない。だからこそ閻魔に罪を裁かれ、また一からやり直す事で新たな道を歩む。
死は哀しい事。だけどそれは終わりではないのだ。
だから小町は魂を運ぶ。
廻る命という輪廻の一端を担う事。
それが仕事。それが使命。それが誇り。
だけど昨日は……
「俺が死んだだと!? 嘘だ! 戻せ、俺を戻せ!」
小雨の降る賽の川原で、一人の男が叫んでいた。
通常、死を受け入れた魂は余計なものを捨て去り、魂本来の形である人魂となる。だが時折このように死を受け入れらぬ者が現れ、そのような者は生きていた時の形のまま此処へと来てしまうのだ。
それを諭し、死を受け入れさせる事も小町の仕事。
どのような罪人であろうとも、それを裁くのは閻魔であって死神ではない。ましてこの男は罪人ではないのだ。
ただ自身の死を受け入れられなかっただけ。現世に未練を残しているだけの哀しい魂。
だから小町は説得した。言葉の限りを尽くし、本当に誠心誠意、心を込めて説得したのだ。
それでも……男は死を受け入れなかった。
男の罵詈雑言が小町を抉ったが、それには耐えた。
男の拳が頬を強かに打ち付けたが、それにも耐えた。
帰る。そう言って立ち去ろうとする男を引き止め、何度蹴り飛ばされようとも立ち上がり、聞くに堪えない罵倒を受けても耐え続けた。
小町は死神。人の魂などが抗える存在ではない。その気になれば手にした鎌で魂魄すら消し去ることだって簡単だ。
男の拳は蝿が止まるかと思うくらい遅かったし、殴られようと蹴られようと大した事はない。
それでも……男の拳なのだ。死神であろうとも女性である小町には痛かった筈なのに。屈辱を感じた筈なのに。怒ったって、問答無用で斬り伏せたって、ぼこぼこに殴り倒して三途の川に叩き込んだって誰も文句は言えないのに。
放っておけば彷徨える悪霊と成り果て、恨みを抱いたまま輪廻の輪から外れてしまう。
それを見過ごしたくなかったから……
そんな存在を生み出したくなかったから……
小町は説得を続けた。言葉が尽き、喉が涸れようとも、心折れる事なく。
だけど業を煮やした男が、川原で順番待ちをしていた魂たちを扇動し始めたから。死を受け入れていた筈の魂たちが、動揺して人の形を取り戻し始めたから。
だから小町は、その鎌で――
「私が未熟だったんですよ。人間一人、説得できないなんて、ね」
小町の口元が歪み、泣きそうな顔で笑っている。
死神の鎌で斬られた魂は消滅する。輪廻から外れて虚無に落ち、存在すらも抹消されてしまう。
人を斬る毎に鋭く大きくなっていく死神の鎌。
そして小町は歪んだ刃を――『人を斬れない死神の鎌』を誇りにしていたのに。
「自分に腹が立って仕方ないんですよ。斬らずに済ませようなんて……身の程知らずもいいとこだ」
映姫は黙って小町の告悔を聞く。
雨に打たれたまま、真っ直ぐに小町を見て。
「あんまりムカつくんで、懺悔の真似でもしようかと。ははっ、自己満足に過ぎないってのに」
「……」
「明日からは真面目に仕事します。でも今日だけは放っておいてくれませんか? 明日からはちゃんと『死神』の仕事を……」
小町は映姫に背を向けて、再び鎌を振り上げる。
その先には山のような巨岩。
だけど小町は躊躇わず、虚ろな瞳のまま『空間』を削りとった。
削り取られた空間が岩塊を招き、唸りを上げて飛来する巨大な質量が、心打ち砕かれた死神の抜け殻すらも粉々にせんと――
「――四季様っ!?」
唸る巨岩の前に、両手を開いて立ち塞がる閻魔。岩と肉体が砕ける壊音が天を揺さぶり、血と雨の飛沫が花と散る。
巨岩が粉々になる程の衝撃に、閻魔の小さな身体が耐え切れる筈もなく、骨を砕かれ血を流しながら小町の胸元へと吹き飛ばされた。
「な、何やってるんですか! 馬鹿な事を!」
「……馬鹿なのはお互い様でしょう? あ、痛痛痛……」
「ったりまえじゃないっすか! 待ってて下さい、すぐ手当てを――」
腕に抱えた映姫を、引き摺って運ぼうとする小町。
その抱えた手に、映姫はそっと手を添える。
「――小野塚小町。貴女は少し優しすぎる。
死神でありながら人々に共感し、職務を滞らせる。
それは導くべき魂をおざなりにし、輪廻転生を妨げる事となる。
貴女はそれを――自覚していますか?」
「――っ! はい……明日からは真面目に……『死神』の仕事を……」
「知っていますか? 私のところに運ばれてくる魂たち――彼らがとてもさっぱりとした顔をしている事を。
罪状を告げ、地獄に送る事を宣告した後も、仕方ないなと笑いながら罪と罰を受け入れている事を。
不思議に思って聞いた事があります。反論はないのですか、と。罪と罰が覆る事はありませんが、貴方の無念を聞く事はできますよ、と。
そしたら……何て言ったと思います?」
「……解りません」
「死神さんに聞いて貰ったから、すっきりしてしまった。彼らはそう言っていましたよ?」
「……」
「小町。貴女は死神でありながら、閻魔である私の仕事まで奪ってしまった。これはもう許されざる罪です。極刑ものですね」
「す、すいません」
「そして、それを知りながら黙認していた私の罪でもあります。ですから罰は私も受けるべきなのです」
「で、でも、だからって!」
「黙らっしゃい」
「う……は、はい」
「私達は共犯です。ですから……共に罪を抱えましょう。
貴女が苦しければ私も苦しむ。
貴女が哀しければ私が支える。
上司というのは、そういうものです。貴女一人に抱えさせる訳にはいきません。越権行為ですよ、それは」
映姫は微笑んで、そっと小町の頬を撫でた。
全身を襲う激痛を微塵も見せず。母のように、友達のように、優しく包み込むように――
「だから……もう泣かなくていいんですよ?」
その言葉を聞いた瞬間、小町は映姫を抱えたまましゃがみ込んだ。
叩きつける雨にも、唸りを上げる岩塊にも膝を屈する事のなかった死神が、腕に抱えた小さな閻魔の胸に顔を埋めて蹲る。
低く漏れる嗚咽を聞きながら、自分の胸に顔を埋める小町の頭を優しく撫でながら、映姫は空を見上げた。
墨のような暗雲はその色を薄め、滝のような豪雨はその音を潜め、破砕のような濁流はその勢いを緩める。
深く深く……穏やかに緩やかに。
雨ももう――上がるだろう。
《終》
ごちそうさまです。
後書きには全然同意します。
映姫様はカッコ可愛いよ!
>おやつさん
小町はあげる。つか引き取ってください。
>名前がない様
いや、むしろ見て! このボクのもっと恥ずかしいところをぉぉぉおおおお!!
<裁かれました>
>名前がない様
映姫はもっとサイコー。
いや、まぁ、小町は好きなんですけどね? ただ映姫のところに行こうとするといっつも小町が邪魔ををを
>Admiralさま
そう、映姫は格好可愛いんだよ!
それは兎も角、何か心に残る物があれば幸いです。その言葉が聞きたいからこそSSを書いているのかもしれません。
読んで下さった皆様。本当にありがとうございましたw