――貴方、誰……?
二人の出会いは真夜中、魔女の書斎で、そんな言葉から始まった。
第一印象は互いに最悪だった。魔女にとって吸血鬼はノックもなしに他人の家に上がり込み、あまつさえ読書の邪魔をする礼儀知らずで、吸血鬼にとって魔女は挨拶もなく自分の領地に住み着いた不届き者。
ただでさえ険悪な雰囲気に加えて吸血鬼――というより身勝手な悪魔の性格を考えれば和やかな会話が生まれるはずもない。
「人の領地に勝手に住もうなんて……貴方には常識というものがないのかしらね?」
口火を切ったのは吸血鬼だった。
相手を挑発しながらずかずかと進んでいく。もちろん途中でそこらの本棚から書を抜き取ることも忘れない。
書斎というだけあってこの部屋はそれほど広いわけではなかった。すぐに二人の距離は、互いの顔をはっきりと見られるまでになっていた。
そこまで来てようやく、本に目を落していた魔女は顔を上げる。
「常識――ね。生憎、私はそんな常識持ち合わせてないの。それよりも、他人の家にノックもなしに上がり込むなんて、それこそ最近の貴族様は常識がないのかしら?……それに――」
彼女の言葉は途中でビリビリと紙を破る音に遮られる。
「ん? どうした、続けろ」
吸血鬼は悪びれた様子もなく、上下二つに裂いた書を放り投げながら言った。にやにやと、相手の反応さえも楽しんでいるように見える。
魔女は幾分険しくなった視線を吸血鬼へ向けた。立ち上がり、読みかけていた本を閉じる。
それをどう受け取ったのか、吸血鬼は嬉しそうに笑って指をパキパキ鳴らした。
「……やる気?」
「こっちは今すぐにでも構わないぞ?」
「そう。それなら……」
魔女は人指し指を立てて、二三度招いて見せた。「かかってこい」という挑発行為。
「来るならそちらから来るべきよ。貴方の頭の中になんて興味ないけれど、ここは私の家、私の領地。そして貴方は勝手に入り込んできたネズミというわけ。どちらの立場が上かなんて一目瞭然でしょう?」
くすくすと笑う魔女。
吸血鬼の顔から表情が消える。
「死んで後悔しろ」
声は魔女の正面から。一瞬遅れて吹き荒れた風が書斎の中を掻き回す。
コマ落としのように現れた吸血鬼を前にしても魔女は顔色一つ変えなかった。
「後悔するのは、」
言い終わらないうちに吸血鬼の爪が魔女の胴を薙ぐ。
吸血鬼が地に降り立つと、魔女の体は二つに分かれて床に転がっていた。
「魔法使い風情が――後悔するのはお前の方だったな」
溢れ出した血溜まりの上を歩き、魔女の髪を掴み、持ち上げて吸血鬼は言った。魔女は答えない。すでに事切れているのか、光を失った目はどこか遠くを見つめている。
「本当に死んだのか?……つまらないな」
吸血鬼は魔女の顔をしばらく眺めた後、興味を無くしたらしく、それを放り投げて部屋を出ていった。
◆
そして我が目を疑った。
ドアを開けて出た部屋の外には同じ部屋が続いていたからた。
(幻?……いや、そんなはずは……)
妖怪や悪魔は幻を見ない。これは幻想郷にあるルールの一つ。
そのルールを覆すなど並大抵の力で出来るものではない。出来るとしたらそれこそ神の領域だ。
では、これは何なのか?
目の前には荒らされた――吸血鬼が飛びかかった際に発生した衝撃波で掻き回された――部屋。違う所と言えば魔女の死体が消えていることくらい。振り返れば後ろのドアはいつの間にか閉まっていた。
試しにドアを開けると、合わせ鏡のように同じ部屋が広がっている。
「……閉じ込められたか」
吸血鬼はうんざりした気分で本棚を引き倒すと壁を蹴っ飛ばした。穴の空いた壁の向こう側にはやはり隣り合わせで同じように続く部屋がある……。
延々と続く無限回廊。その中に自分は放り込まれたらしい。
少しの間歩き回った吸血鬼は今の状況をそう判断した。もしかしたら無限ではないかもしれないが、彼女自身、そこまで確認して回るほど気長ではなかった。
翼を広げ、声も高くスペルを宣言する。
「『神槍・スピア・ザ・グングニル』――」
空間が揺らぎ、吸血鬼の手に身の丈の倍はある紅の槍が出現した。
それを一度大きく振り、障害となる物を吹き飛ばして、見えないはずの標的に狙いを定め、槍を構える。
「日が落ちたらまた来るぞ」
そう告げて、彼女は手にした槍を投げ放った。
◆
紅の光――。
まるで魂まで揺さぶられるようなイメージが迫ってくる。
当たれば死ぬ。防ごうとすればいかなる盾をも貫き通す。あれはそういうものだと、彼女は理解していた。あれの前には私の体など塵芥に等しい。幾重にも張った防御結界でさえ薄紙同然。時間稼ぎにもならないだろう。
避けるしかないとわかっているのに体は動かなかった――いや、わかっているから動かないのだ。
あれを避けるなどできない。
風を破り、音を超える速さで標的に飛びかかるものをかわす手段を彼女は持っていない。
だから、動かない。動けない。
ただ、光に貫かれてばらばらになった自分の体を……。
「――っ!!」
魔女は喉まで出かかった悲鳴をどうにか飲み込むことに成功した。
荒い呼吸を調えながら、体の感触を確かめる。
よし、大丈夫。どこも無くなってない。私は生きている。
ほっと胸を撫で下ろす。
が、安心すると今度は腹が立ってきた。
(まったく……ばらばらになって死ぬなんて酷い夢)
心の中で悪態を吐きながら魔女は起き上がった。
汗を吸ったネグリジェが肌に張り付いて気持ち悪い。おまけに風が吹き込んでくるので寒くてかなわない。
(……風?)
窓を閉じようと伸ばした手が止まる。窓は閉まっていたからだ。
魔女は首を傾げた。ドアの方へ目を向けると、わずかに開いていた。どうやら風はここから入ってきているらしい。
だが、それでも魔女は納得しなかった。
この家は魔法によってほぼ全ての出入口が塞がれている。空気の循環は彼女の集めた、家中に保管されている『本』に良い影響を与えないからだ。
つまり、ここは意図的に密閉された空間。風が吹くことなど有り得ない。
付け加えるならこの一帯は嫌われ者の吸血鬼のお膝元。侵入者どころか、近づこうとする物好きな輩さえいない……はず。
では、この風はいったいどこから入ってくるのだろうか?
(どこかに隠し通路でも作ったかしら……それで、忘れている、とか?)
いやいやまさか。魔女は笑って首を振る。
生まれて百年以上は経ったけれど、呆けが始まるにはまだまだ早い。遡ること一年分の食事のメニューだって思い出せるのだから間違いない。短い寿命しか持たない人間とは違うのだ。ごく希にそういうことがあると聞いたことはあるが。
(……まさか、ね)
否定してみたものの、胸の内の不安は消えることはなかった。
明かりを生み出して部屋を照らしてみるが、部屋にこれといって不審な点は見当たらない。
少し迷った後、魔女はベッドから降りてドアを開ける。
そして、彼女はその訳を理解した。
「……道理で寒いわけだわ」
手を離したドアがバタンと倒れた。崩れる壁。とりあえず見上げた天井には大きな穴が開いていた。
一通り着替えを済ませて、さっぱりした気分で魔女は短い呪文を唱える。
『目』は生きていた。浮かび上がる映像を見ながら、眠っている間にあったであろう出来事に意識を向ける。
吸血鬼を送り込んだのは空間の捻れた世界。
そこでは入り口と入り口が合わせ鏡のように繋がってしまう。入り口から出ようとすれば入り口に繋がり、出口を作ればそこが新しい入り口となる。
つまり一度入り込んだが最後、術者が術を解くまで、閉じた世界を永遠にさ迷い続けることになるのだ。
しかし、全知全能の存在でもない限り完全な術を組むことが出来ないのは誰もが知る通りであり、もちろんこの術にも破る方法はある。
術者に匹敵する、あるいは凌駕する力を以って術を破るか、あるいは高度な空間制御を用いて抜け出すか。
他にも幾つかあるが、彼女とて月下の吸血鬼がどんなものか、理解はしている。あの吸血鬼の取った方法は間違いなく二つ挙げたうちの前者だろう。ほぼ無尽蔵に沸く魔力を以ってすれば術を破ることは容易いからだ。
だからこそ、あの術にはある仕掛けを施しておいた。
術が破られることで発動する破壊の言葉。世界を砕き、無に還す、消滅の魔法。
あれに巻き込まれればいかに不死身を誇る吸血鬼といえど死は免れまい。
初めはそう思っていたのだが……やはりそれは誤りだったと知らされる。
空間を突き破って彼方に消えた紅い槍と、続けて飛び出してくる小さな吸血鬼。彼女はこちらを見、にやりと笑って館の方へ飛び去っていった。
もしもあそこで襲われていたなら、自分はここにこうして生きてはいなかった。
今度こそ本当にあの爪で引き裂かれ、殺されていただろう。そう思うと背筋が寒くなる。
「詰めを誤って、その上、見逃してもらうなんてね。……とんだ失態だわ」
あの吸血鬼が無防備な姿を晒して眠りこけていた彼女の存在に気がつかなかったはずがない。
殺すことは容易かったはず。それを許さなかったのは貴族としての矜持か、それとも他の何かか。
どちらにせよ吸血鬼は魔女を見逃し、そのおかげで彼女は命を永らえた。
それが、動かすことの出来ない事実だった。
◆
紅い館の門を背に、紅い髪の妖怪は黙って星空を眺めていた。
日が落ちて、珍しく主が外出してからずいぶん経った。星の動きから見てあと一時間もすれば夜が明けるだろう。
しかし主が戻ってくる気配はない。彼女――妖怪のことだ――は苛立たしげに地面を踏みつけた。
吸血鬼である主にとって、日の光は浴びれば即死の天敵である。故に吸血鬼は日の下に出ることを極端に嫌う。それはわかっているが、生まれの古い吸血鬼ほど貴族としての体面を重んじるために、例え罠があると知っていても正面から戦いを挑むことが多い。万に一つの可能性もないとは言い切れないのだ。
「お嬢様……」
呼吸をする度、心臓の鼓動を感じる度にどうしても不安は募る。
……もしかしたら主はこの幻想郷のどこかで未だ見ぬ強敵に破れ、死んでしまったのではないか?
――そんな馬鹿なことがあるはずがない。あの吸血鬼を倒せるような化け物がいるものか。
頭を振って浮かんできた考えを追い払い、彼女はもう一度、門の正面から星空を見上げた。
それは、彼女の主が如何なる時も必ずこの門を使うことを知っているから。
(……早く帰ってきてください、お嬢様)
彼女は胸の前で両手を組み、強く願った。神にも、悪魔にも、等しく。
悪魔に仕える妖怪のくせに神に祈るとは何事だ。
そう言われるかもしれない。それでも構わなかった。藁にもすがるような気持ちで、彼女は一心に願った。
やがて東の空が次第に明るくなり、日の光に追い払われるように闇が薄れていく。
時の流れはあまりに無情で。彼女が祈るのをやめようとしたその時、日の光とも闇とも違う、もう一つの色が見えた。
闇にあって鮮やかに輝き、光の下でも色褪せることのない、紅の色――。
光の数は二つ。一つは空の彼方へと消え、もう一つはこちらへ向かって飛んでくる。
「――お嬢様!!」
彼女は叫んでいた。間違いない、あれは待ち焦がれた主の姿だ。
しかし、同時に心臓が凍りつくような感覚に襲われる。
それは太陽が変わらぬ速さで昇り続けるものだと知っているからだ。このままでは門を潜るのが先か、日の光に焼かれて滅びるのが先か。おそらくは――後者。
それだけはさせない。彼女は門の脇に立て掛けておいたそれを掴んで飛び出した。ただ飛ぶのではなく、一歩一歩跳ぶように空を駆けながら。
彼女が踏み込むたびに空間が波打つ。弾かれるように彼女は凄まじい速さで跳び続け、主の進路を遮るように前に立ち、両手を広げて……
――例えるならそれは、撃ち出された鉄の塊を受け止めたような衝撃。
自らの骨の折れる音を聞きながら、彼女は広げた両の手で主の小さな体をしっかりと抱きしめる。それからくるりと回転して、自分の体で太陽の光を遮った。
この時ばかりは主の体が小さくて本当に良かったと思った。
門の前に降り立ったとき、彼女はもう限界だった。歩こうとして足が前に出ず、その場にへたり込んでしまう。
「……お嬢様、起きてください」
呼びかけてみるも、腕の中の主は目を覚まさない。受け止めた際の衝撃で気を失っているらしかった。
とはいえこちらも無傷どころの話ではない。どこが折れて、どこが折れていないのか、本人にも分からない有様だった。彼女の体が他の妖怪に比べて丈夫だということを差し引いても致命傷に近い。
痛みを感じなくなっていたのが唯一の救いだった。もしそうでなければ、主をここまで運ぶことは出来なかっただろう。
「だから……言ったじゃないですか。転ばぬ先の杖が必要だって……」
最後の力でずっと握っていたそれを広げる。
純白の、可愛らしい日傘。
小さな手にそれを握らせて、彼女は意識を失った。
ずるずる。
ずるずるずる。
近く遠く、重たい物を引きずる音が聞こえてくる。それに背中が少し熱くてたまに痛い。
目を開けると天井が映った。上から下へと動いている。
「起きた?」
「……ふぇ――お、お嬢様!?」
声をかけられたことで、半分眠っていたような意識は一気に覚醒した。
わかれば何のことはない。彼女は自分の主に襟首を掴まれて引きずられていたのだ。
焦って起き上がろうとしたが痛みに呻くことしか出来なかった。
そんな彼女を見て、吸血鬼は笑っている。
「馬鹿ね。死にかけているくせに動けるはずがないじゃない。大人しくしてなさい」
「うう……すみません――って、何だか嬉しそうですね」
さっき死にかけたばかりなのにと言いかけて、慌てて口をつぐむ。
だが、吸血鬼は気にした様子もなく言った。
「嬉しい? 私が?」
「ええ。声とか雰囲気とか、いつもと違いますから」
「……そうね、久しぶりに面白い奴と出会ったわ。それも期待以上のね。こんなに夜が待ち遠しいのは何年ぶりかしら」
「そう、ですか」
主の声を聞きながら彼女は目を閉じた。見えはしないが、とてつもない量の力が渦巻いているのがわかる。気を引き締めていないと狂ってしまいそうなほど強い力――間違いなく主は今夜、昨夜出会ったという誰かを殺しに行くのだろう。
彼女は顔も名前も知らない誰かに心から同情した。
願わくば、その誰かが痛みもなく死ねますように、と……。
◆
どうにも集中できない。溜息をついて魔女は本を閉じた。
映像を見てある程度予想していたことだが、書斎は全壊していた。正確には、書斎を含めて家の半分近くが破壊されていた。
もちろん無事だった書物は少ない。空間を破った余波にやられたのだろう、ほとんどが破け、千切れてばらばらになって床に落ちていた。風にさらわれていった量のほうが多いのは疑いようもない。
普段は感情を表に出さない彼女だが、この時ばかりは怒りに我を忘れそうになった。
何せ、百年以上を費やして集めてきた書物のほとんどが駄目になってしまったのだ。価値の大小を問わず、中にはまだ目を通していないものが多くあったのに。それを考えれば、彼女の怒りがどれほどのものか、いくらかはわかるだろう。
その残りの整理と、書斎の申し訳程度の修復を終えたのがついさっき。
自分から招き入れた災厄とはいえ、家の中にいると感情が不安定になる。仕方なく外に出て、月明かりの下で本を読んでいたのだが……今日に限って何故か文字が目に入らない。
ずっと本と共に在った彼女にとって、これは未知の体験だった。
「どうしたっていうのかしら……?」
問いかけるように言ってみたものの誰も答えるはずもない。彼女はいつからか、自分の周りから『生き物』を排除したのだから。
しかし。
「知りたい?」
「――っ!?」
いつの間にそこにいたのか。向かいに昨夜の吸血鬼が座っていた。一瞬。彼女は息をすることも考えることも動くことも忘れていた。
その様子を、吸血鬼は愛らしい笑顔を浮かべながら眺めている。目は笑っていなかった。
いつから、どうやってそこに座っていたのか。
それ以前に座っているその椅子はどこから持ってきたのか。
などなど。
いろいろな考えをまとめて魔女が言葉を発するにはそこからさらに数秒を要した。
結果、聞かなければならないことは一つだけ。
「……何の用?」
「殺しに来たわ」
簡潔に、一言。その中に全てが詰まっている。
こんな言葉もあるのかと、魔女は苦笑した。
「貴方、わかりやすくていいわね」
「何それ。予想通りってわけ?」
「いいえ、違うわ。でもね、」
――私もそうしようと思ったところだから。
先手必勝とばかりに魔女は早口に呪文を唱えた。
吹き荒れる風。襲い掛かろうとして、しかし風に圧し戻される形で空に舞い上がった吸血鬼の翼が一枚、切り落とされる。
吸血鬼は素早く周囲に視線を走らせた。月明かりを受けて光る何かが自分の周りを飛び回っている。
「チェックメイト。終わりね」
「ふん、この程度でか?」
吸血鬼は振り向きもせず、風を裂いて飛んできたそれに爪を突き立てる。甲高い耳障りな音を立てながら動きを止めたのは、直径一メートルにも満たない丸い形をした鋸の刃だった。
「見くびられたものだ。こんな物で私が殺せるものか」
紅い妖気に侵された鋸の刃が吸血鬼の手の中で崩れていく。
次はお前の番だと睨んだ先の魔女は、吸血鬼を嘲るように笑っていた。
「見くびられたものね。それ一つで夜の王を殺せると思うほど、私は自惚れていないわ」
「……なんだと?」
全身が粟立つ不快な感覚。
複数の風切り音を聞いて飛び退いた吸血鬼の体を、新しい鋸の刃が掠めた。
むき出しの白い肌に血が滲む。吸血鬼は顔をしかめながら爪と足とで鋸の刃を叩き落すが、一つ落とせば二つ、二つ落とせば四つと音は数を増していく。
気づけばその数、実に数十……それらが今、吸血鬼を取り囲むように飛んでいた。
それらを操っているのは、変わらず椅子に腰を下ろしたまま吸血鬼を見上げている魔女。
「金土符『エレメンタルハーベスター』。如何に貴方が速かろうとも、この数からは逃れられない。それに、貴方がどれほどの再生速度を誇ろうとも、一度にこれだけの数に襲われれば生きていられないでしょう?」
確信を持って魔女は言う。
事実、喚びだした刃は吸血鬼の翼を切り落とし、その体に傷を負わせた。つまり一撃で殺すことは出来ないにしても、決して小さくないダメージを与えることが出来る。
そして、吸血鬼が“殺せる”種族である以上、ダメージを与え続ければ終わりは必ずやってくるのだ。
「ふん。ペラペラとよく喋る……」
しかし、吸血鬼はそれがどうしたと言わんばかりに笑って見せた。
「私に降伏しろと言うつもりはないのだろう? そんなに自信があるなら早くやってみせたらどうだ。それとも私を殺しきれるか、不安で仕方がないのか?」
魔女は答えない。
圧倒的に不利な状況に追い込まれながらもこの余裕。その真意を計りかねていたからだ。
「まだ迷うか? いいだろう。ならば私はここから一歩も動かない。好きなだけやってみせろ。……そうだな、狙うならここだぞ」
吸血鬼は自分の胸――心臓を指差し、両の手を広げて無防備な姿勢を取った。
魔女はますますわからなくなった。
吸血鬼の行動は逃げる、または反撃のための時間稼ぎとも思えない。
だとすれば本当に耐えるだけの自信があるというのか。
否だ。それこそ有り得ない。
それを肯定するなら、してしまうなら――
(有り得ない……!)
魔女は強く思った。
あれはただのはったりだ。月下の吸血鬼といえども無敵でもなければ不死身でもない。
決められた手順を踏み、然るべき武器を以ってすれば倒せるはず。
「そう……じゃあ、死になさい――!」
魔女の手が吸血鬼に向けて突き出され、上下前後左右あらゆる方向から刃が襲い掛かった。
細い手足は真っ先に切り落とされて地面に落ちる。
ある物は頭を二つに割り、またある物は腰を半ばまで切り裂いた。
それでも吸血鬼は動かない。上半分のなくなった頭で、口元に薄笑いを浮かべながら空を仰いでいる。
そこへ、止めとばかりに一斉に鋸の刃が殺到した。
一つが通り抜けるたびに吸血鬼の体が切り裂かれ、削がれてその体積を減らしていく。
細切れにされた肉片が地面を赤く染め、撒き散らされた血が霧となって漂う。
月の光に照らされた血染めの世界は、残酷で、この上なく美しい。
だんだんと小さくなっていく吸血鬼を見て、魔女はこみ上げて来る笑いを必死に抑えていた。
「……く……っ」
唇が不自然に吊り上る。
呼吸が荒くなって、心臓の鼓動が早くなっていく。
体が熱い。
このままでは内側から何かがあふれ出しそうで、魔女はよろよろと立ち上がりながら自分の体を強く抱きしめた。
――赤い、紅い、月さえも紅い幻想的な世界。
吸血鬼の姿は今やどこにもなく、血にぬめった鋸の刃が空を舞っているのみ。
(倒した……! あの夜の王を私は倒した!)
必死に抑えていた笑いが口の端から漏れ出す。
そうなれば後はもう、小さな穴が広がっていくように、笑い声は大きさを増していくだけだった。
「ふふ……あはははははははははは!!」
魔女は狂ったように笑いながらくるくると回り、踊る。
夜の世界において屈指の実力者を倒す。
それはつまり自分の実力を示すことであり、また、自らの正しさをも示すことでもある。
例え力では及ばなくとも、知識によってそれを補い、相手を凌駕する。
これで今度こそ、彼らも私の正しさを認めないわけにはいかないだろう。
「あははははは――私は勝った! 私は正しい! 私は……私、は……?」
――あれ? 『彼ら』って……誰?
不意に浮かんだ疑問。
『彼ら』……それが誰なのか、思い出そうとしても記憶に霞がかかったようにはっきりとしない。
払っても払っても纏わりつくそれの向こうに誰かがいる。捕まえたと思ったときにはもうそこにはいない。
まるで霧に映った自分の影を追いかけているような感じ。
思い出せない――よく知っているはずなのに。
思い出せない――大事な人のはずなのに。
何故、と自分自身に問いかける。
返ってきた答えはたった一つ、とても簡単なこと。
『思い出したくないから』
意識の全てがその一点に集中し、周りの存在が希薄になる。
その時、不意に耳元から別の声が聞こえてきた。
――腑抜けめ。
それは怒りと呆れの混じった吸血鬼の声。
魔女は何か言おうとしたが、ひきつったような、おおよそ言葉とはかけ離れた音を出すことしか出来なかった。
だが、それとは別に体は動いていた。これから起こることを知っているかのように一枚のスペルカードを取り出し――ほぼ同時に周囲の紅い霧が渦を巻いた。わずかに遅れて魔女はスペルを唱える。
「木符『シルフィホルン』……!」
霧ならば風に巻かれて散っていくもの。
それは間違ってはいない。少なくとも、この時点では最良の判断だっただろう。
彼女の目論見通り、紅い霧は風に巻かれて散り散りになっていく。
しかし、彼女は気づいていなかった。
霧の中を歩き回ればどうなるか、当然のように彼女の服は吸血鬼の血に塗れて、薄くではあるが赤く染まっていたのだ。
「……え?」
突然、全身にナイフで斬られたような痛みが走った。見れば、決して浅くない傷が無数に生まれている。察するに血の飛沫、その一つ一つが細かな刃となって体を切り裂いたらしい。
ならばと空を見上げると、同じように切り刻まれ、襤褸切れのようになった鋸の刃が次々に地面に向かって落ちていく。
「そんな……嘘よ……」
「いいえ、これが現実」
声につられて向けた視線の先に、月を背に負った、無傷の吸血鬼の姿があった。
後編も期待して待ってます。
題名、修正しました。
ご指摘ありがとうございます。