ゆっくりと腐り堕ちていく。
†
メディスン・メランコリーは毒の中で生まれた。腐れ堕ちる花の中で、彼女は眼を覚ました。
ぱちくりと。
瞼を開けてみれば、周りはすべて毒の花。人も妖怪も関係なく、少しずつ少しずつ、岩に水で穴を開けるように少しずつ、心も身体も浸食していくような、鈴蘭の花畑。
メランコリックな毒の海。
基調は緑。土の色を消すかのように生えた緑の葉。そこから鈴生りに、鈴の形の白い花が咲いている。風が吹けば音の鳴りそうな光景。けれども、風が吹いたとしても心に響く音は鳴らない。代わりにわずかな毒が風に乗って広がるだけだ。
風に流れる毒は、紫。
限りなく透明に近い、紫の色。眼を凝らしても見えないような毒の風は、空気よりも重く、ゆっくりと土の上に降りかかる。いずれそこから、鈴蘭の花が生えてくるのだろう。
メディスン・メランコリーが生まれてきたように。
† †
ゆっくりと、ゆっくりと、腐り堕ちていく。
† †
「スーさんスーさん、今日は良い天気ね」
スーさんに向かってメディスンは言う。確かに、良い天気ではあった。雨が降れば毒は飛ばずに地面に染み込んでいく。遠くへは広がらないものの、その一点においていえば、毒の濃度は高くなる。
というわけで、こんな土砂降りの日は、メディスンにとっては『良い天気』だった。空を見上げれば雨、雨、雨。分厚い雲は灰色を通り越して黒く染まっている。空の蒼など、微塵も見えなかった。遠くに見える空も黒――そもそも、降りしきる雨が強すぎて、遠くなんてほとんど見えなかった。
音は聞こえない。
雨が断続的すぎて、それが音と認識できなかった。ざー、ざー、ですらない。音が絶えることなく耳に入ってくるせいで、頭の中でもう聞き流しているのだ。雨音が他の音を全て掻き消しているため……結局、メディスンの脳には、何の音も入ってはこなかった。
無声の世界。
無音の世界。
黒い雲と灰色の雨に景色は塗り潰され、色さえも塗り潰されている。モノクロームのサイレント。現実味なんてありもしなかった。もしメディスンの隣に誰がいるとしても、その誰かは、きっとその光景を夢だと思っただろう。
けれど、側には誰もいない。
幻想郷でも寄り付く者のいない鈴蘭の毒畑にいるのは、メディスン・メランコリーだけだった。
彼女はそれを、寂しいとは思わない。
寂しいと、考えもしない。
ひょっとしたら寂しいというのが、どういうことか知らないだけかもしれないけれど――ともあれ、彼女は幸せだった。
なぜなら。
「スーさん、私お昼ねしたいわ」
そう言って、メディスンはごろりと鈴蘭の上に転がった。小さな身体に押しつぶされた鈴蘭たちが、逃げ場を探すように毒を吐いた。その毒を布団代わりにして、メディスンは微笑む。金の髪も、赤い服も、次から次へと降り堕ちる雨に濡れていくけれど、気にはしなかった。
彼女の側には『スーさん』がいる。
それ以上に、望むべきものはなかった。
毒と雨と、そしてスーさんに囲まれて、メディスン・メランコリーは幸せそうに笑っている。
† † †
時計の針よりも、遅々とした動きで――毒は、すべてを腐らせていく。
† † †
たまには晴れる日もある。
鈴蘭畑から遠くを眺めながら、メディスンは思うことがある。
あの空は、どこまで続いているのだろうと。
雲が流れてくる。風が吹いている。それは分かる。
けれど、幻想郷には端があるはずで、雲や風はその先から流れてくるのだろうか――そんなことを、メディスンはたまに思う。
思うだけだ。
それを突き止めたいとか、理由を知りたいとか、そんなことは思わない。明日の天気は晴れかな、と思うのと同じようなものだ。
その証拠に、すぐにメディスンは別のことに思考を移した。
「スーさんはどう思う?」
誰からも答えも期待せずに言って、メディスンは毒の中を歩いた。
小さな足で、歩いた。
人形の足で、歩いた。
鈴蘭畑からは出ようとしない。小さな世界が、彼女の全て。
毒の世界で、メディスンは、幸せそうに笑う。
彼女は――毒なのだ。
メディスン・メランコリーは、毒であり、毒でしかない。人形に宿った毒、毒によって動く人形、それが、メディスンだ。
たとえそこに絶対的な矛盾が交ざっていても、メディスンは気にしない。考えようともしない。
幸せそうに笑うだけだ。
ただ、笑うだけだ。
毒人形は疑問を持たず、今日も毒の中で笑っている。
† † † †
なにひとつの、例外もなく――毒は、彼女を犯していく。
† † † †
鈴蘭は枯れない。毒を出す花は、自らの毒で死にはしない。メディスンが、自身の毒にやられたりはしないように。
白い花は、今日も美しく咲いている。
人形は、今日も楽しそうに笑っている。
天気は晴れ。風のない、穏やかな春の日だった。こういう日には『スーさん』たちも元気で、ひとたび風が吹けば遠くにまで飛び立つだろう。けれども風は吹かず、鈴の花の中で穏やかにと眠っていた。
その中で、メディスンも同じように丸くなっていた。
猫のように、というよりは――箱につめられた人形のように。手足を抱えて、全身で毒を味わうようにして寝ている。
眠りに堕ちてはいない。
薄く眼を開けて、鈴蘭の花を下から見上げている。空の蒼に映える鈴蘭の白は綺麗で、小さな雲のようにも見えた。触れれば鐘の音が鳴りそうな光景。小さな小さな鈴は、さぞかし良い音を奏でるだろうとメディスンは思う。
思うだけだ。
それ以上、何をするわけでも、何があるわけでもない。
彼女は、生きているだけで幸せなのだから。
生きていることの、全てが楽しいのだから。
――ひらり、はらりと。
空と鈴蘭を見上げるメディスンの視界を、紫色の蝶が横切っていった。羽に紋様のある、珍しい蝶だった。
「珍しいね、スーさん!」
紫の蝶が珍しいのではない。
鈴蘭畑に蝶がくるのが珍しい、とメディスンは言っているのだ。
春の陽気に加えて、風がないせいかもしれない。こんな昼寝日和には、蝶も遠出をしたくなるのだろう。
やっ、と掛け声勇んでメディスンは立ち上がった。珍しいものを、そのまま見逃す手はなかった。追いかけて遊ぼうと、子供のように思ったのだ。
立ち上がり、駆け出そうとして、
「――あれ、スーさん?」
駆け出せずに倒れて、メディスンは不思議そうに呟いた。
蝶を目掛けて走ったはずなのに――真横に、鈴蘭の花があった。思いっきりこけて頭から鈴蘭畑に突っ込んだのだと、メディスンには分からなかった。
何が起きたのか分からないまま、立ち上がろうとする。
立ち上がれなかった。
「スーさん、足がないよ?」
あっけらかんと、明るい声で、メディスンは言う。
球体間接で出来た、人形の足。
その足首から先が、いつのまにかなくなっていた。寝ている間に落ちたのかもしれない。
痛みはなかった。
痛みはないから、気づかなかった。
メディスン・メランコリーは、キズ一つとして追っていない。ただ人形の足がないだけだ。
そんなことよりも、もっと重要なことが今はあった。メディスンは顔をあげ、紫色の蝶を捜す。
――いた。
視線の先、一メートルも離れていないところに、紫色の蝶はいた。飛ぶのに疲れたのか、鈴蘭の花にとまろうとしているところだった。
そして、当然のように、蝶は地面に落ちた。
鈴蘭の花びらを押しのけて、蝶は土の上へと落ちた。当たり前だ、毒の花に近づいて無事でいられるはずがないのだ。ここまで飛んでこられたこと自体が賞賛に値する。
メディスンは手を伸ばす。足がない以上、手を伸ばすことしかできない。
けれども、手は届かない。
メディスンは、蝶を見ることしかできない。
一度、羽根が蠢いて。
それきり、二度と動かない。
紫の蝶は堕ちたまま――飛び上がろうとはしなかった。
† † † † †
ゆっくりと、ゆっくりと、腐り堕ちる。
† † † † †
それから、数日が経った。
メディスン・メランコリーは困っていた。けれど、つらくはなかった。痛くもなかった。
なにに困っているかといえば、足がないせいで、その場から動けずに暇だったのだ。それどころか、この数日の間に手までなくなっていた。手も足もなく、移動しようにも移動できず、本当に何もできなかった。
それでも、辛くはなかった。
手がなくても、足がなくても、痛みはない。
人形の身体は食べ物を必要としなければ、毒から生まれたメディスンは、ずっと毒畑の中にいてもへっちゃらだった。
手足が腐り堕ちても。
メディスンに、変わりはなかった。土の上に横になり、空と鈴蘭を見上げるだけだ。
「スーさんスーさん、いい天気ね」
彼女の言う通り、いい天気だった。どんよりと空は曇り、静かに雨が降っている。豪雨ではなく、涙のような、切れ切れの雨。
その雨を、メディスンは眼をそらすことなく見ている。
瞼が腐り堕ちて眼を閉じることもできなかった。水晶球の瞳の上に、雨は次から次へと降り注ぐ。眼球に直接雨が当たっても、痛みはない。水が跳ねるたびに世界が破裂するように見えて楽しいくらいだ。
手がないから、雨水を払うこともできない。
足がないから、雨宿りの場所へ行くこともできない。
ただ空を見上げて、雨と、鈴蘭を見上げることしか、メディスンはできない。
それでも、幸せだった。
スーさんが、側にいるのだから。
雨と共に降り積もった毒が、側にいるのだから。
「スーさん、スーさん」
蓄音機のようにメディスンは言う。いつまで言えるかなど、彼女は知らない。
周りは全て毒だ。
毒は、全てを腐り落す。
人も。
妖怪も。
魂も。
心も。
そして、人形も。
メディスン・メランコリーと、スーさん以外の全てを、毒は腐らせていく。
腐り堕ちる小さな世界の中で、メディスンは、幸せそうに笑っている。
彼女は、毒から生まれたのだから。
† † † † † †
メディスン・メランコリーは、腐り堕ちる。
† † † † † †
そして――
雨上がりの鈴蘭畑には、誰もいない。
何も、ない。
人形の姿は、どこにも無い。
毒があるだけだ。
毒が腐らせたものは、雨が流してしまった。
空は晴れ。雲ひとつない、晴天。
その元で春風が――吹く。
雨を耐え忍んでいた鈴蘭たちが一斉に揺れた。白い鈴の音が合唱する。誰にも聞こえない、静かな毒の大合唱。
鈴の中にたまっていた毒が、いっせいに鈴蘭畑に舞い上がる。
スーさんたちが、春を謳歌するように舞い上がる。
そして。
姿なく幸せそうに笑う、メディスン・メランコリー。
彼女は今も其処にいる。
渇いた雰囲気に、無心で読み進めていきました。
しかしながら、匿名評価では50、コメントではこの数字といったところでしょうか。
最後の最後にメディスンに何かを感じさせることが出来たらと、思ってしまいます。過程も変わらず最後に何も変わらないなら、バナナが腐っていくのを見るのと同じなのだから。ごめん凄く違う。
それでも、ただ腐っていく様を見つめているのも新鮮でした。
その情景を、幻想郷を感じられた良い作品です。バナナと違って。
それは穏やかで、それでいて残酷でした
たとえカラダが無くなっても、いつまでも鈴蘭畑で微笑むメディを幻視しました。
何処ぞの人形師が黙ってなさそうだが
そして、そのことは、彼女にとって、なんらおかしなことでも、悲しいことでもなく、幸せな日常。
終わりと始まりは同じ物なのかもしれないと、そんなことを思わせてくれるお話でした。
メディスンの物語ながら、これ実は人間の物語でもあると私は思う。
人間も同じように、いずれ朽ちてゆく器に心を入れて生きてる訳ですから。
私たちとメディスンはどこも違わない。
ではその器が壊れてしまった時、心はどこに往くのだろう……
宗教的な魂だ霊だってのは横に置いとくとしても、誰かを恨んだり、誰かを愛したりしながら、或いは世界の中にずっと留まっているのかもしれない。
死を迎え、露になってしまったあの人でも、或いはこの世という毒の畑のどこか片隅で、今でも世界を愛しながら笑っているのかもしれない。
とそう考えてみると、凄く救われた気持ちになる。
この物語は救いのない物語なんかじゃない。救いしかない物語だと私は思う。
哀しくもないし、辛くもない。
こんなに嬉しいことはありませんよ、生きてる者にとっても、死んだ者にとっても。
人間も人形。
これほどまでに深いお話は久々でした。
より彼女は成長できたような気がします。自分を解放