小高い岬に一つの石碑があった。
しかし石碑と呼ぶには不十分かもしれない、それは苔むした大きな岩。そう表現した方が適当だろう。
導師服を身に纏った妖怪が一人、それに向かって杖代わりの木の枝をつき、力の無い歩を進める。
汗ばんだ額には前髪が張り付いている。そして気だるそうな表情で息を切らしていた。
「……様……」
石碑が目に入ったとき彼女はにわかに微笑み、途切れそうな弱々しい声で呟いた。
焦り気味に石碑へと歩み寄り、杖を取りこぼして、まるで倒れこむかのように石碑へともたれかかる。
頭には大きな獣耳、導師服の臀部からは大きな尻尾が飛び出していた。
畏敬の念からか耳は頼りなさげに折り畳まれている。
「私は務めを果たしました……」
石碑に強く抱きつき、頬を寄せた。あたかもそれが彼女の主であるかの如く。
耳を折り畳んでいるのは畏敬ではなく甘えによるものなのかもしれない。その表情は安堵に満ちたものだった。
不安にでもなったのか彼女は突然その指先についている鋭い爪で石碑の表面を引っ掻き、苔を剥ぎ取り始めた。
そしてやはりこの石碑で間違っていなかったのだと確認すると、目を細めて再び石碑を抱きしめる。
細めた目はそのままゆっくりと閉じ……彼女の荒い呼吸音は途絶えた。
眠るように、穏やかに、彼女は息を引き取った。
彼女が剥ぎ取った苔の下には『八雲』と彫られている。
下の名前は苔に覆われたままである。
「はぁ、ふ……うー、冷えるな」
冬は藍にとって憂鬱な季節だった。紫様は寝ている、橙も概ねこたつで丸くなっている、つまり寝ている。
誰も彼もみーんな寝ている、とても退屈な季節だった。
こたつへの出入りは慎重に行わなければならない、まかり間違っても橙を蹴り起こしてしまってはいけない。
それゆえにどっぷりとこたつに入ることもできない、入るときは膝程度まで控え目に。
あとは自慢の九尾で身体を覆って体温を維持する、空気をよく吸ったそれは保温効果抜群だ。
「だが肩が寒い」
もう少し髪を伸ばそうかなぁ、そんなささやかな抵抗を思いつく。
(どうすれば髪の毛は早く伸びるのだろうか?)
いろいろな試行錯誤を脳内で行うも、果てはどれもこれも「伸びすぎて鬱陶しい割に寒い」という結論に落ち着いた。
紫様はよくもまぁ、あそこまで伸ばして邪魔だと思わないものだ。ああそうか、髪を梳かすのも私がやるなら楽か。
「外出するわけにもいかないし……」
守らなければならない者が二名も家に居る、片方は弱いし、片方は無防備すぎる。
そんじょそこらの妖怪では、寝ている紫様に対してでもかすり傷さえ与えられるものか……と藍は思う。
実際ほったらかして出かけることもあるのだが、流石に冬眠に入って間も無く出かけるのは現金すぎるだろう。
それでは式神としてどうだろう、と思わないでもない。
とはいえ傍から見れば、いつであろうと無防備な主から目を離すのは式神としての職務怠慢に見える。
「でも紫様はともかく、橙まで守るのはなんだか妙な話ね……」
なんで主がその式神を守ってるんだろう、よく考えなくても妙な話だった。
まぁ、でも、それでもだ、橙がやられるのが悲しいから守るんだ、それで良いじゃないか。
半ば無理矢理に自分を納得させ、こたつの上にあったみかんを一つ手に取った。
(独り言を言い過ぎだな……ストレスだろうか)
つま先が橙の尻尾に触れた。おっといけない、もう少し下がらなければ……。
「世の中はどんどん変わっていくわ」
小高い岬で、彼女は日傘を差しながらそう呟いた。
春から夏へと移りかけている時期。誇らしげな太陽が水面を輝かせている。
人から見れば美しいその光景も、宵闇と月を好む妖怪にしたら少々明度が高すぎるだろう。
「ええ、ここ最近の文明の発展は目覚しいですね」
式神は彼女の横に並びながら、それでも彼女よりは少し下がって立ち、そう答えた。
海に小さな船が浮かんでいるのが見える、人は漁を覚えたのだろう。
「ふと悲しくなることがあるの」
「何故?」
「大好きな世界が変わっていくから」
「私めは視野が狭すぎるゆえ、日々を生きるが精一杯。そのお言葉、目から鱗でございますが」
「そう、けれどね」
式神の言うことには話半分、彼女は要領を得ない相槌を打ってから日傘を傾けた。
そして空を眺め、目に入った眩しすぎる太陽に表情を歪めて、それでも優しく緩んだ口で呟いた。
「空だけは、ずっと同じだと思わない?」
「確かに……私が生きている間は、ずっと蒼」
「ええ、きっとこれからも、ずっと蒼」
そうであってほしいと願うかのように彼女は目を閉じて、祈った。
そして日傘を元の位置に戻して再び陽光を遮り、悲しい瞳のままうっすらと微笑んで呟いた。
「けれど、世の中が変わっていくというのは、悲しい反面嬉しいのよ」
「何故?」
式神は己の語彙の無さに幾ばくかの呆れを覚えつつも、そう聞き返すことしかできなかった。
「神様気分かしら? それとも親の気分かしら?」
「はぁ……?」
「成長って素敵ね」
「お言葉ですが、もう少しわかりやすくご説明していただけないでしょうか?」
「でも巣立ちはほんの少し切ないわ」
世の中は移り変わる。
彼女は人の世を見守っていた、時折、いたずら程度に手を出したりもした。
大きすぎる力と長すぎる寿命が、その行動を優しい彼女の必然とさせた。
しかし育っていく文明は、いずれ彼女の力を必要としなくなってしまうのだろうか。
そう思うからこそ、彼女の瞳の底には悲しみの色が沈殿していた。
「貴女様のお言葉は少々難解すぎて、私めには不可解でございます。至らず申し訳ない」
式神は酷く疲れた様子で頭を垂れ、彼女に懺悔した。
しかし彼女は怒るでもなく、むしろ少し嬉しそうに笑って式神の頭に手を乗せた。
「いつかわかるときが来るから、嘆く必要はないわ」
「そうだと良いのですが……」
「変わらない貴女でいるのよ、あの空の蒼のように」
「はい……」
「絶対に、わかるときが来るから」
結局最後まで彼女の言いたいことを理解できない式神だったが、その悲しそうな表情からただならぬ何かを感じた。
(冬眠でも夢を見るのかなあ?)
朝食を済ませた藍は、お湯を汲んだ桶と手ぬぐいを小脇に抱えて眠る紫を見下ろしていた。
気持ち良さそうに布団に包まって寝息を立てているのを見ていると、愛らしいような小憎たらしいような気持ちになった。
(こっちはこんなに寒くても、やることはたくさんあるというのに……)
枕元に正座して、指先で軽く頭を突付いてみたりした。紫は反応しない。
「はぁ……」
溜息も出よう、主は食事すら摂らずに眠りこけているし、橙も朝食後こたつで丸くなっているし。
藍はこれから食器を片付け、洗濯をし、掃除をし……その後に退屈な時間が待っている。
(さて、次はストーブだ)
桶と手ぬぐいを持ってきたのは紫の体を拭くため。
たまには寝たままの紫の頭を洗ってやったりもしなければならない。
「そんなことをしなくても臭くなったりしないから平気よ」と紫は言うし、事実そうなのだろう。原理は不明だが。
それでもなんとなく、拭いてやらないと気が済まない。冬眠中だからと完全にほったらかすのはどうも面白くない。
普段散々こき使うんだから冬眠中にもこのぐらいさせろ、というのが藍の言い分だった。
なんだかんだで主は放っておけない、そんな真面目なところが藍にはある。
体を拭くには服を脱がせなければならないので、そのついでに服も着替えさせる。
いつもより洗濯物の量が減るのは、退屈な時間への道のりも短くなって面白くない。やっぱりこのぐらいはさせてほしい。
さて服を脱がせるので寒い部屋でやるわけにはいかない。こんな自分は気が利いていると藍は思う。
「はぁ~っ……」
今度は溜息ではない。吐いた息が白くなるのを見て、やはりこの部屋を少し暖めるべきだと確認するためだった。
藍自身も暖かい居間から出てきてからというもの、手はかじかむし、つま先は冷たくなるしでたまらない。
「そりゃ布団の中は温かいでしょうけども……」
ストーブに手を当てながら部屋が暖まるのを待った。紫は相変わらず小さな寝息を立てている。
「どのような夢をご覧になっているのでしょうか? 紫様?」
答えるわけがないな、と思い、クスッと自分を嘲笑した。
やはり独り言が多くなっているような気がする、ストレスというよりも話し相手がいないからだろう。
「はぁ~っ……よし、こんなものだろう。暖めすぎても寝心地が悪いだろうし」
藍なりの基準ではあるが適温になったと思い、手ぬぐいを桶の中のお湯にひたす。
「……冷めているな」
思いのほか部屋が暖まるのに時間がかかった、桶の中のお湯はぬるくなってしまっている。
不愉快そうに眉をしかめ、そのまま桶の中に手ぬぐいを放り込むと、藍はそれを抱えて立ち上がった。
「……やり直してくるか」
廊下はとても寒い。戻るまでにまたつま先が冷たくなってしまった。
彼女はその岬が大好きだった。
天気の良い日には式神を連れて岬へ行く。そして風を感じ、海を眺め、空を眺めた。
その岬に来たときは大抵、太陽が傾き水平線に沈むまで、二人はそこに佇んでいる。
お互い無言で居ることもあったが、彼女はそこで式神と様々な会話をした。
「私はこの岬から眺める景色が大好き」
「私もです」
日傘は折りたたんだまま。両腕を伸ばして気持ち良さそうに空気を吸い込んで彼女はそう言った。
式神はそんな彼女の横顔を見て、微笑みながら同意の念を示す。
彼女は生来の真っ赤な目で、斜め後ろに立っている式神を振り返り、その蒼い瞳を覗き込むようにして訪ねた。
「貴女が好きなのは青空よね?」
「はい、貴女は違うのですか?」
「青空も好きよ、でも貴女の瞳が青空のようだから、いつでも見られるじゃない」
「そんな、私の瞳はとてもではないがこの大空には及びません」
式神はクスクス笑っている主を見て、からかわれたことに気付く。そしてそのまま赤い顔をして俯いてしまった。
そんな式神の肩に優しく手を置いて彼女は続ける。
「私は夕焼けが好き」
「ああ……それならば」
「ん?」
「私も夕焼けは好きですが、貴女の瞳が夕焼けのようだから、いつでも見られますし」
「まぁ……」
思わぬ式神の反撃に、今度は彼女が驚いて頬を赤らめる番だった。
いつも変わらない穏やかな笑みを浮かべている主の、少女のような一面を見て式神は満足げだった。
そんな彼女をよそに、式神は大きな息を吐いてから問いかける。
「何故夕焼けが好きなのですか?」
「理由なんて……綺麗だから、じゃダメかしら?」
「いや、私もそうです。それで何も問題は無いですね」
「ふふ、違いないわ」
式神は彼女と過ごすこんな穏やかな時間が大好きだった。
彼女に会うまでは、人を襲い、別種の妖怪と戦い、薄暗い森の中で暮らしていた。
そんな式神に空の美しさを教えてくれたのが彼女だった。
彼女と居ると穏やかな気持ちになれて、そしてそんな穏やかな自分も悪くないと思うようになった。
強大で偉大な主に仕え、文化的で穏やかな生活。
血生臭い生活も嫌いではなかったが、一度そこから外れてしまうと野性に戻るつもりにはなれなかった。
「貴女は夕焼けのようです」
「あら嬉しい、でもどうして?」
「周囲の者に安息を与えます」
そういって微笑みかけると、主は再び赤くなって俯いてしまう。
これでは顔全体が夕焼けではないか、と、式神は一人で可笑しくなってしまった。
「でも……」
「どうなさいました?」
突然彼女の表情が陰った。それを見た式神も眉間にしわを寄せる。
「本当に私はそんなに高尚な存在なのかしら?」
「え……っ?」
式神はどうしていいかわからなくなって、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
そんな彼女を象徴するかのように夕日は水平線に沈み、辺りは暗くなり始めていた。
「うー、冷たいっ!」
紫の体を無事に拭き終えた藍を待ち受けるのは食器洗いと洗濯だった。
どちらも真水を使う作業、とても真冬にやりたいことではない。
食器洗いは自分と橙の二人分をさっさとやってしまえば良いのだが、
そうでなくても時間のかかる洗濯には、先ほど剥ぎ取ってきた紫の寝巻きも洗濯物として含まれる。
暖かければ庭で洗濯してそのまま干すが、冬は寒いので風呂場で洗濯をする。
とはいえ風呂場は家の外側に位置しており、その寒さは外と大差無い。外との違いは風があるかないかという程度だ。
「痛っ!」
寒さで痺れている藍の指に鈍い痛みがはしる。
早く終わらせたいからと急げば、今度は洗濯板に指をこすってしまったりして、たまったものではなかった。
「はぁ~っ」
藍はこすってしまった部分に息を吐きかけた。
大して温かくはならないし痛みも変わらないが、何故かそうしないと気が済まない。
(冬はなんとも辛い季節ね……)
こんなに辛いのに空は蒼すぎるほどに蒼い。藍は顔をしかめて風呂場の窓から空を見上げた。
「とはいえ、私がこれをやるからこそ皆が気持ちよく服を着られるんだ」
そう強く自分に言い聞かせて首をぶるぶると横に振った。つられて九尾もふるふると横に振るえた。
(こういうときだからこそ気を強く持たないといけない)
精進あるのみ。藍はしっかりと洗濯物を握り締め、洗濯板へとこすりつけた。
概ね平和な日々ばかり送っている身としては、日常の些細な仕事さえも精進へと結び付けなければならない。
難儀なものである。
彼女はあまり外出をしなくなった。
それまで身の回りのことはある程度自分でやっていたのだが、億劫がって何もかも式神にやらせるようになった。
顔を合わせた時の態度こそ以前とそう変わりなかったが、それとてもどこか胡散臭い。
「どこかお体でも悪いのでは」
「いえ……? そんなことはないわ」
見かねた式神は彼女に尋ねたが、やはり納得の行く返答は返ってこない。
一言だけ返して、ふぅ、と溜息をつくと、彼女は物憂げに空間の裂け目に視線を送った。
式神は爪先立ちして少しその中を覗き込んだがよく見えない、そして訝しがりながら主に訪ねる。
「貴女はそこに何を見るのですか?」
「人の世を」
「人の世を見て何とするのですか?」
「また争っているわ」
「争いはお嫌いで?」
「別に……他人事だもの」
「悲しいことですね」
「ええ、悲しいわね」
かつて彼女は、人々が『天災』と恐れるそれと見せかけて、争いを強引にやめさせた事があった。
式神はそれを見て、彼女が何を考えているのかまったく理解できなかった。
人の争いに我々妖怪が介入する必要なんてどこにあるのだろうか、と思うのみだった。
彼女は、彼女が見守ってきた人同士が争う姿を嫌っていただろう。
しかし彼女が幾度天災を起こそうとも、人々はしばらく後にまた似たような争いを起こした。
その度に彼女の心は傷付き、いつしか何もせずただ憂鬱そうに眺めるだけになった。
さらには大した興味も無くなり、祭りでも眺めるように、酒を飲みながらそれを覗き込むようになった。
式神はそんな彼女の様子を気にも留めなかったが、心の中では悲しかったに違いない。
今になってようやく気付き始めた自分の呑気さに呆れかえった。
「人は愚かですか?」
ここ最近の彼女の様子、そしてあの岬で言った彼女の言葉、それらが繋がりかけている。
式神はそれらを知り、彼女の心を支えてやるべく答えを求めた。
「愚か者もいるし、そうでない者もいるわ」
「ならば何をそう嘆きます、我々は妖怪、そこまで深く人と関わりあう必要はないでしょう?」
「私が嘆いている……?」
「私にはそうとしか思えません」
「ああ、そう、ならば教えましょうか……何がこんなに悲しいのか」
「……何が貴女をそうも悲しませるのですか?」
「私自身が愚かすぎるからよ」
空間の裂け目を閉じ、彼女は立ち上がって涙を流す。
「神になんてなれるはずがなかったのよ。この力は私には不相応だった、愚かな私が神を気取り、勝手に傷付いた」
「何を弱気なことを……神と見まごう程の力があるなら貴女は神のようなものだ、ふんぞり返っていれば良いでしょう」
「自由に育つべき種に手を加え、弄り回した、これはどれほど罪深いことかしら」
「そんなものは罪のうちに入りません……貴女は優しすぎるのです、妖怪らしくもない!!」
「なら、どうあれば妖怪らしいのよ……」
「私に聞くことではないでしょう……ただ、一つだけ申し上げます」
「……何?」
「私はそんな貴女だからこそ敬愛している」
式神は彼女を強く抱きしめた。優しく背中を撫でてやった。
いっそ彼女の力など全て無くなってしまえば良いのに。たとえそうなっても式神は彼女の側に居るつもりだった。
確かに尊敬し畏怖していた力だったが、彼女を悩ませるだけのものだったのならばそんなもの消えてしまえばいい。
空の美しさを知っている彼女が好きだ。穏やかな笑顔が好きだ。周囲の者に安息を感じさせる温かな色の瞳も好きだ。
彼女の式神としての自分、それ以外の人生はもう考えられない。
かつて、インチキのような強さを誇る妖怪にちょっかいを出してこてんぱんにされた。
『今日から貴女は私の式神……だから「八雲」の姓を名乗りなさい。それはそれは誉高きことよ』
殺されると思っていたのに、待っていたのは優しい笑顔と胡散臭い台詞。
与えられた動き辛い導師服、考えの読めない不可解な言動。だが彼女の優しさは確かだった。
何も知らぬままに、ただ彼女への敬愛の念は、恐ろしく無軌道に強まっていった。
「貴女は私の誇りだ」
彼女に与えられた導師服……その袖で涙をぬぐってやった。
その瞬間、彼女は大声をあげて泣き始めた。まるで子供のように大粒の涙をこぼして。
「うっぅぅ……あぁぁぁん!!」
「確かに貴女の持つ力は大きすぎる、しかし間違ったことをしたと思ってはいけない。
むしろ間違ったことをするぐらいでも良いのです……我々は妖怪なのですから、多少は人に恐れられてこそ。
もっとも事実を知ったとして、人が貴女を憎むことがあろうか? 私はそうは思いませんが」
「本当にぃ……?」
「本当です……まったく、私と初めて会ったときは容赦なく叩きのめしたくせに、こんなに幼い一面があるとは思わなんだ」
「私は許されるの……?」
「許すも何も、悪いことなどしていないと言っている。あまり深く考えずに胸を張りなさい、我が主」
式神は彼女の身をそっと離し、その目の前に跪いた。
「貴女には私がおります」
一点の迷いも無い、澄んだ蒼の瞳が彼女を見据えた。
それ以来彼女は穏やかな表情でいることが多かったが、やはり外出は減り、空間を裂いて人里を眺めることも無くなった。
罪の意識は軽くなったのだろうが、やはり自分の持つ力を恐れてしまっているようだ。
年月の経過により衰えが出てきたこともあるのかもしれない。
以前のような陰鬱さこそ漂わせてはいないが、物思いに耽ることも増えた。
気になった式神は彼女が何を考えているのか訪ねてみたりもしたが、
「もう少ししたら……いえ、決心がついたら話すわ」
と言われただけだった。
いつか自分から話すつもりならばやたらに勘ぐるのも良くないと思い、彼女自身が話し始めるのを待った。
あれっきりではあったものの、一度は泣きながら悩みを話してくれたのだから、今度何かあったときもきっと話してくれるだろう。
それはもはや確信に近い感覚だった。
「驚かないで聞いてほしいの」
何年か後に彼女は唐突に話し始めた。
何のこともない、普通の夕食時のことだった。
「後継者を遺して私は死ぬわ」
それは、驚かずに聞けとはなんとも無茶な話。
式神は酷く狼狽して、首を横に振り、彼女の両肩を掴んで問うた。
「何故?」
相変わらず、式神はそんな直接な問い方しかできない自分を嘲った。
「お願い、大人しく聞いて」
穏やかながらにその語気は非常に力強く、式神を萎縮させた。
式神は何も言い返せなくなり、かといって彼女から視線をそらすこともできず、ただその真っ赤な瞳を見つめていた。
「私は、私の力の全てをその後継者に託します」
「……」
「その時点で私は長くは生きられない、瞬く間に果てる」
「……それ以上は仰らないでいただきたい」
「ダメよ、貴女は私の式神でしょう? ただ私の力によって縛り付けられていたわけではないでしょう?」
「仰るとおりです、私は貴女を敬愛していたからこそ……」
「ならば聞いてほしいの、私の最後の頼みを」
「……」
最後の抵抗を試みたがそれは実を結ばず、式神がそれ以上発言をすることはままならなくなった。
彼女の決心が並々ならぬものであることを肌で感じ、その意志をへし折るだけの言葉を吐き出せないことを悟った。
「この力は、私が持つには大きすぎた」
「……」
「かくして私は自分自身の力を恐れ、何もせずにただ消費するモノへと成り下がった」
「……」
「かつては神を気取っていたこの私が」
「……」
「この力を恐れない、強い子……そういう子を創り、この力に縛られずに生きてほしい。
ただ単に生きることへの希望を失ったというわけではないの、そう、その子は私の分身なのよ」
「分身……?」
「交配する必要など無い、私は私の力の全てを授けた妖怪を、ほんの一人だけ生み出す力がある。
これは大分前から本能的にわかっていたこと……」
「私に何をせよと……?」
「その子を、私の分身を……ある程度大きくなるまで育ててほしいの」
それは式神にとって一番恐れていた言葉だった。
式神は側頭部についた二つの獣耳を手で覆い「聞きたくない」と、その動作をもって主張する。
「守ることにさえ自信を持てない」
「貴女が愛した『世界』をか?」
「そう……力を使うのを恐れるあまりに、できることさえやろうとしない」
「まだ……今からでも遅くはないでしょう?」
「……そうでもないのよ」
彼女は悲しそうに笑った。式神はその言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「本当に私は気が弱いわ……結局ぎりぎりになってしまった」
「な、何のことですか?」
「……もう肉体的にも限界が近いの、いずれにせよそろそろ後継者を残さなければ私の血は途絶える」
「えっ……?」
「何故ここまで思い止まったか、言わなければダメかしら?」
「??」
「言いたくなかったけど……言わなければだめよね、やはり」
「何のことですか!?」
半狂乱になって目を白黒させている式神の手を、彼女は両手で優しく包み込んだ。
そしてその手を見つめて、穏やかな表情で語り出す。
「少しでも長く貴女と一緒に居たかった」
「えっ?」
「式神に入れ込みすぎかしらね、だらしないとは思ったけど……うふふ」
「私と一緒に居たいがために……ぎりぎりまで死期を遅らせていたと?」
「……ええ、そう」
そっと手を離し……彼女はその赤い瞳で、式神の透き通るような蒼い瞳を見つめた。
「今までありがとう、私の誇り高い式神」
「あ……あぁ……」
「こんなこと貴女にしか頼めないの……どうか、私の分身を育ててはもらえませんか?」
「あぁぁ……ぁ……!」
「かつて貴女が言ったように、貴女もまた私の誇り」
「も、もう……おやめください!」
再び式神は自分の耳を押さえて地面にうずくまった。
自分は彼女から妖力の供給を受けている限り、死にもしないし老いもしなかった。
もう何百年彼女の式神をやってきただろう、千年にも到達しているかもしれない。
だから彼女が果ててからも、元の妖怪としてしばらくは生きることができるだろう。
長い間止まっていた時は通常より速く流れるかもしれないが、それでも百年近くは生きるだろう。
彼女によって与えられた最後の使命は、その余命を主の子の育成に捧げよということだった。
それは彼女自身は決して認めたくないものであって、それと同時に式神としては最高に誇り高い使命でもあった。
翌日、彼女を起こしに行くとその姿は忽然と消えていて、彼女の布団には一人の少女が眠っていた。
全てをこの子に与えたために、彼女は跡形もなく消え去ってしまったのだろう。
なんともあっけない別れだったが、かえってその方が彼女の死を痛感しなくて気が楽なのも確かだった。
彼女は限界まで老いていく自分の姿を式神に見せたくなかったから、いくらか早く見切りをつけたのかもしれない。
やはり彼女は、式神には読み取れない複雑な部分があった。
しかし目の前で無防備に眠っている少女は、一体どのような妖怪なのだろう。
主の死を悲しむゆとりすらなく、今はこの少女をいかにして育てるかが式神の思考を占拠している。
「お前は……誰だ?」
少女を揺り起こすと、驚いた様子もなくただ眠そうに式神を見つめていた。
まだ幼い少女だったが、主も幼い頃はきっとこのような顔をしていたのだろう……面影があった。
衣服は何も身につけていなかったが、二つの紫色の瞳は周りにある何よりも鮮明に映った。
「わからないわ、自分が妖怪であることしか」
「そうか……」
幼いながらにその体から発せられる妖気は並大抵のものではない。
主が全盛期だった頃はこれよりも強い妖気を持っていたが、生まれたてでこれほどならば、成長したときどうなるのだろう。
赤子の時代が存在しない妖怪は今までに何度か見た事があるが、ここまで成長した状態で生まれる妖怪もそうはいない。
言語能力を備え、妖怪としての常識的な知識も備えているようだった。或いはそのように創られたからかもしれない。
とはいえ少女はいつの間にか主と入れ替わっていたので、どのようにして少女が生まれたのか知る術は無かった。
訝しげに自分を観察している式神を見て、彼女はいたずらっぽく笑い、布団を引き上げて裸体を隠した。
「そういう貴女は誰なの?」
鼻にかかった幼い声だが、それでもどこか腹の底に溜まる、重い響きのある声で彼女は訪ねた。
式神は我に返ったように目を見開き、驚きながらも何と答えるべきかを必死に思案した。
「私は……とある方の式神だ、お前の面倒を見るように言われている」
「そう。ならばお洋服が欲しいわ、可愛らしいのが良いの」
「了解した」
「ああ、それと……」
命じられてすぐさま立ち上がった式神を彼女は呼び止める。
料理でも命じられるのかと思いながら、式神は首を傾げて少女を見下ろした。
「名前が欲しいわ」
「……名前か、なるほど確かに必要だ」
「なんだか感触としてわかる、私は貴女のことが好きよ。だから貴女に名前を付けてほしい」
「ありがとう、よく考えてから名付けさせてもらう」
「お願いね」
少女は満足げな表情で式神を見送ると、再び布団に包まって寝息を立て始めた。
数日後。
式神は少女の手を引き、よく主と共に訪れたあの岬に立っていた。
少女は式神が手作りしてくれた服を嬉しそうに着込んで、繋いでない方の手で大きな日傘を差し、陽光を遮っている。
「綺麗な景色ね、早起きは三文の得って本当だわ」
「すまない、無理矢理連れ出して……眠いだろう?」
「別に良いの、だって眠くなったら貴女がおんぶしてくれるでしょう?」
「もちろん」
満面の笑みで自分を見上げる少女の頭を式神は優しく撫でてやった。
そしてゆっくりと手を離し、岬の先端に立って海と空の境界、水平線を眩しそうに眺めた。
『絶対に、わかるときが来るから』
彼女はここでそう言った。
式神には理解できなかった「親心」についてそう言った。
あの頃から死について考えていたのだろう、だがそれを限界まで踏み留まらせたのは他ならぬ式神自身だった。
「よいしょっと……」
式が落ちてから妖力も体力も落ちてしまったが、それでも式神の力は相当なものだった。
日傘を差して海を眺める少女はそのままにして、岬に一つの岩を埋め込み、そこに自らの爪で主の名前を彫った。
「この墓には貴女の肉体の一欠けらも入ってはいないが……」
ここが貴女との思い出の場所。
貴女の墓標を建てるならここしかないと思ったから。
――世の中はどんどん変わっていくわ――
「まったくその通りですね……私はこの空のように変わりないが、貴女は変わってしまわれた、ふふふ」
墓標と呼ぶには無骨すぎる岩を撫でながら、式神は少女を振り返って目を細めた。
対する少女は、紫色の大きな瞳をくりくりとさせて不思議そうに式神を見つめている。
「お前の名前を考えてきたんだ、待たせてすまなかったね」
「本当?」
「ああ、まずお前の姓は『八雲』と言う。これは元々決まっていたものだ」
少女は何も言わずにゆっくりと頷いた、早く名前を付けてほしいと催促しているようだった。
目を輝かせて自分の唇を見守っている少女を見ていると、やはりまだ幼いのだと実感する。
あまり焦らすのも意地悪だと思い、式神は彼女に名を告げた。
「そしてお前の名前は『紫』だ」
「……素敵ね、貴女が付けてくれたっていうだけで嬉しいのに」
「それは良かった」
式神は岩から体を離して紫に寄り添い、腰を落として肩を抱き寄せた。
そして蒼い空を眺めると、つられて紫も同じように蒼い空を眺める。二人揃って太陽の眩しさに目を閉じた。
「目を閉じていても、蒼が瞳の奥に飛び込んでくるだろう?」
「ええ、貴女はそうやって大好きな空ばかり眺めているから、そんなに蒼い目になってしまったのね?」
「ああそうだ。そして私の主……お前の母親は夕日が大好きだった」
「母親……?」
「彼女は夕日ばかり眺めていたから、赤い目をしていたよ」
「そう……」
「そして、赤と蒼が混ざると紫色になる」
「それが私の名前?」
「そう紫。お前には私達の想いがこもっている」
式神は視線を落として紫を見つめた。目には涙が浮かんでいる。
紫は不思議そうな顔をして、そんな式神の涙を見つめていた。
「大変。貴女の目から蒼がこぼれ落ちてしまっているわ」
「ははは……大丈夫だよ」
式神は立ち上がり、目に浮かんだ涙を導師服の袖でぶっきらぼうに拭い取る。
「私の目は、いつまでも変わらぬ蒼」
にっこり笑って紫と手を繋ぐ。
そして主に一礼して、彼女達は帰路についた。
「ふー、さむさむ」
藍が家事を終えると、もう昼食の時間が迫っていた。橙も腹を空かせてこたつからのそのそと這い出す頃だ。
食事を作るのは橙が起きてからにしようと思い、手と足をこたつに突っ込んで暖を取る。
こたつの中で手をこすり合わせていると指先が橙の尻尾に触れた。
少し意地悪してやりたくなって尻尾を握ってみると、橙は敏感に反応してこたつの中で呻き声をあげた。
「やめてぇ~」
「あまりこたつの中にばかりいると、干からびてしまうわよ?」
こたつ布団の中から橙の頭がにょっきりと飛び出し、続いて出てきた右手で目をこする。
そして涙を搾り出すように潤んだ目を強く閉じて、ひとつ大あくびをしてから藍と目を合わせた。
「寒いんだもんー」
「じっとしているから寒いんだ、家事を手伝ってみるか?」
「やだー、水嫌いー」
橙はそう言ってまた大あくびをすると、目を閉じて二度寝を始めた。
橙の尻尾がするりと藍の手を抜ける、藍はこたつの中で少し指をこすり合わせてから溜息をついた。
「はぁ、主も式神も冬眠か」
「お昼ご飯できたら起きる~」
「はいはい」
藍は、橙が自分よりも紫に似てきたように思う。ご飯だけは要求する辺り、かえって紫よりもたちが悪いかもしれない。
寒い寒いとは言いながらも、頭までこたつに入って長時間寝るのは流石に暑かったのだろう。
既に寝息を立て始めている橙の顔は紅潮していて、緑色の帽子をかぶっているのもあり、何かの木の実のように見えた。
(紫様はどうだろうか)
寝汗をかいていたら拭いてやらなければ、布団が乱れていたらかけなおしてやらなければ。
藍は家事をあまり面白いとは思わなかった。
料理を作るのは結構面白いが、その他は雑にこそやらないが面白いとも思わない。
しかし直接的に家族の面倒を見るのは好きだった。
普段は何を考えているかよくわからない紫も、寝ている間だけは藍にされるがままである。
藍が立ち上がると、こたつの中にひゅうと冷たい空気が流れ込む。
橙はそれに反応してうっすらと目を開けたが、すぐに温かくなったので再び目を閉じた。
紫はよく眠る子だった。主もよく寝る方だったが流石に紫ほどは寝なかった。
生活リズムも主とは違い、日没後に目を覚まし朝方に眠りにつく。
だが何よりも式神を驚かせたのは、紫が冬眠をするということだった。
初めのうちは少し寂しいとは思ったものの、これといって何か致命的な問題が起こるわけでもない。
既に式神の妖力をはるかに上回っていた紫は、家の周りに強力な結界を引いてから冬眠するので襲撃の心配も無い。
だが……式神は、その寿命が限界に近い状態で迎えた数回の冬のみ、気が気ではなかった。
そしてこれが、紫と式神が共に迎える最後の冬となった。
(いかん……また気を失っていた)
式神は台所で倒れていた、この頃は意識がはっきりしていることなどほとんどない。
震える手で体を支え、痛む関節に鞭打って立ち上がると、視界がぐらぐらと揺れる。最近は常にそんな状態だった。
(早く目を覚ましてくれないものか……)
床に転がっている包丁を拾って、手からすべり落とすように流しに片付けた。
家の中も汚れていた。散らかさないためにあまり不要なものを出さないことにしていたが、固まった埃が床に転がっている。
式神が倒れこんだところだけが、埃を拭い取られてつやつやと反射していた。
歩くことさえままならず、移動するときは壁に手をつかねば歩けなかった。
湯船に湯を張りすぎるとそのまま意識を失って溺死しかねないので、腰辺りまでぬるま湯を張る程度に留めなければならなかった。
消化の良い物を作ろうにも、手の込んだものは作り終わるまで意識がもたない。
その上消化器官が衰えているので白米にお湯をかけた程度のものしか喉を通せなかった。
(私は務めを果たせたのでしょうか……もう休んでも良いのでしょうか……?)
実際のところ、式神が紫に教えなければならないことなどほとんど無かった。
紫は知能も、妖術も、全て持ち合わせた状態で生まれてきた。足りないものは教えるまでもなく自然に覚えていった。
主のように感傷的になることもなく、不敵で、排除すべき事態に対して手心を加えない冷酷さも垣間見せた。
式神が教えたのなんてそれこそ家事程度、あとは知ってて当然のようなことをたまに知らないことがあったので、それを教えてやる程度のものだった。
(ああ……これだけは伝えておかなければならない)
壁に手をつき、息を切らしながら縁側まで歩いた。
一歩進むたびに関節が軋み、このまま骨が砕けて五体がバラバラになってしまうのではないかと心配になった。
縁側から外を眺めると庭木には若葉が萌えている。もう春と言って過言ではない。
――紫、早く起きて……私はもう――
「おはよう」
式神の願いが天に届いたのか……紫は裸足で廊下をぺたぺたと鳴らしながら歩いてきた。
そして冬の間に酷く衰弱した式神の顔を見て歩みを止め、その力の無い微笑を神妙な顔つきで見つめている。
身長も随分伸びた。式神自身の背がそれなりに高かったためまだ追いつかれてはいない。
それでも表情からはあどけなさが抜け、大妖怪に相応しい落ち着いた表情と、少女ながらに妖艶さも漂わせている。
やはりもう十分に育っただろう、一人で生きることも可能に違いない……式神はそう確信した。
だから別れを告げる覚悟を決めた。どの道肉体的にもう限界を超えていたが。
「おはよう……紫」
「……」
「良かった……最期に会えて」
「そう」
紫は変わり果てた式神から視線をそらし、変わり果てた家の廊下を黙って見つめた。
いつも式神が綺麗に拭いていた床には埃が積もり、鈍い光沢しか発せずにいる。
紫も数年前から式神の妖力が徐々に弱っているのは感じていた。
それにしても冬眠する前はそれなりに元気だったのだが……。
そう思う紫に考える時間すら与えず、式神は話を続けた。
「紫……私はもう死ぬ」
「そうね、よくもってくれたわ……もっと早く死んでいてもおかしくなかった」
「ああ……流石紫だ。よくわかっているね」
式神は実に百五十年近く紫に連れ添い、身辺の世話をした。
それは式神の種族と、式が落ちてから生きていた年月を考えれば、かなりの長命と言えた。紫はそれをわかっている。
そして紫は息を切らしながら壁にもたれかかる式神を一瞥し、面白くなさそうに再び汚れた床に視線を落として問う。
「一応聞いておくわ、私の式神になるかどうか」
望んだ返事など返ってこないことは察している。
もちろん紫を愛してくれていたのは知っていたが、式神は紫に対して『式神』として振舞ったことは一度も無かった。
式神の紫に対する態度は『家族』もしくは『母親』と言い表した方が適当だろう。
彼女が従者……もとい式神らしい素振りを見せたのは、あの岬に不恰好な石碑を設置したときの一度きりだった。
だから紫は目を合わせなかったが、やはりその視界の外で、式神は首を横に振った。
「我が主がきっと寂しがっている。お前と違ってあの方は気が弱くてな」
「彼女なら『私自身』よ。私に仕える事はそれすなわち貴女の主に仕えることなの」
まるでその台詞を言うことが義務であるかのように、紫は淡々と述べる。
事実として、うっすらとだが前世のものと思しき記憶が無いでもなかったし、夢に見ることもあった。
しかし結果は全てわかっている、紫の言葉に感情はこもっていなかった。
「それでも、だ……私は頭が悪いのでな」
「頑固者」
「そうとも言う」
「けれど気高い」
「ありがとう」
ともすれば消えてしまいそうな命の灯火を必死に燃やして、式神は紫との最期の話し相手を務める。
目はうつろ、肩で息をし、もたれかかった壁からずるずると滑り落ちそうになっては足を踏ん張って姿勢を直していた。
「破談ね」
「ああ、最期に一つ、お前に伝えておかなければならない」
「何かしら?」
式神は歯を食いしばって足を前に出し、よろけながら紫へと歩み寄っていく。
そして今出せる最大の力をもって強く紫を抱きしめ、呟いた。
「良い式神に出会いなさい……」
「……ええ」
紫の肩を両手で掴んで、式神は最後の微笑を送った。
紫は式神の顔を忘れないよう、その優しい微笑と、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳を網膜に焼き付ける。
自分の肩を掴む式神の両腕に手をかけ、紫はそれをそっと押しのけた。
そして空間を裂き、式神に言う。
「あの岬に繋げたわ。貴女が求める死に場所はきっとあそこでしょう?」
「……心遣い感謝する……」
至って冷静に、淡々と言の葉を述べていく紫を見ても、式神はなんら悲しいとは思わなかった。
この子はこういう子だ、まだ妖怪としては若年の方だが、死と言うことについてしっかりした考えを持っている。
だから敢えて私の死に際を見届けようとしない。私がそれを望まないと言うことを見抜いている。
そう思う式神は、紫の式神として仕えてやれない自分のわがままさと頑固さを疎ましくも思った。
「早く……行きなさい」
裂いた空間を維持し続けたまま発した紫の声は、今にも消え入りそうな弱々しいものだった。
(そうか……私もこの子の意地を尊重してやらなければな)
強い子だと思わせるために、自分を置いて逝くことに未練を残させないために。
式神が死に際を見られたくないであろうことを知ってるがゆえに、さらに紫はその涙を見られたくないがゆえに。
様々な思惑が働いて、紫は若干焦り気味に空間を裂いてあの岬への通り道を作ったのだろう。
「逞しく生きろ……」
最期に紫の頭を撫で、式神は空間の裂け目へとその身を投じた。
式神が居なくなった後も紫はしばらくそのままの状態で呆然と立ち尽くしていた。
紫が空腹に気付き台所へ向かう途中も、我が家は目を覆いたくなるような酷い状況だった。
床には埃、老化により抜け落ちた式神の体毛、汚れていない箇所などどこにもない。
それらを見るたびに、無理矢理凍りつかせていた心にヒビが入った。
何よりも悲しいのは、それを必死に片付けようとした形跡があったことだった。
片付けたいのに体が言うことを利かない。あの気高い式神の苦悩がそのままの形で残されていた。
そしてたどり着いた台所には作りかけの料理、割れた皿。
紫の強がる気持ちが音を立てて崩れ、耐え切れなくなって縁側へ走る。
裸足のまま庭に出て、まだ冷たい大地を踏みしめる。
そして空を眺めると、そこにはいつも変わることのない蒼があった。
「いけない……」
――あの瞳からもらった蒼が、こぼれ落ちてしまう――
紫は目頭を押さえ、まぶたを閉じたまま空の蒼を感じた。
(懐かしい夢を見たわね……)
まだ冬眠し始めたばかりだというのに目が覚めるとは、紫自身驚きだった。
とはいえ、相変わらず全身には重りのような倦怠感がまとわりついている。すぐに二度寝は可能だろう。
寝ながら泣いてしまっていたようで、目尻がぱりぱりしていた。
ふと足音に気付きそちらに目をやると、手ぬぐいを抱えた藍が襖を開けて入ってきた。
「うわっ!?」
てっきり寝ているとばかり思っていた紫が体を起こして呆けていたのだから、藍が驚くのも無理はない。
藍は手ぬぐいを片手に、驚きで高鳴る心臓を押さえて紫の顔をまじまじと見つめていた。
「藍……」
「お、驚いた……起きてらしたんですか!?」
「ああもう、そんな大きい声を出さないの」
「すいません……」
藍は目的を見失いかけていたことに気付き、あたふたと両手で手ぬぐいを握りなおした。
そして苦し紛れのように紫に話しかける。
「あ、ああそうだ、寝汗などかいていらっしゃいませんか?」
「もう……そんなに私の体を拭きたいの? 藍は……さっきもやっていたでしょう? 夢うつつだけどわかってるのよ」
「そ、そういうわけではございませんが……」
自分は母親より強くなっただろうと自負しているが、どうも藍はあの式神に比べて頼りないところがある。
少しからかってやっただけなのに酷い慌てようだ。
「はぁ……それじゃせっかくだし、少し首周りでも拭いて頂戴」
「は、はっ! かしこまりました!」
ドタドタと畳を踏み鳴らしながら駆け寄ってくる藍を見ていると、溜息が止まらない。
でも「それでは失礼して」などと言って首に当てられた手ぬぐいは、ひんやりと湿っていて火照った肌に心地良かった。
藍は紫の背中に腕を回し、もう片方の手で肌を痛めないように、全神経を手先に集中して手ぬぐいを握っている。
「藍」
「はい?」
「もっと精進なさい」
「はい……」
――ああ、なんて情けない式神かしら。ごめんなさいね、約束は守れなかったかもしれない――
紫はぼやけていく意識の中で、母親代わりだったあの式神に謝った。
(あ……眠いわ)
まだ未熟さの残る紫の式神。けれどその腕だけは優しくて、かの式神を髣髴とさせる。
徐々にまぶたが重くなり、紫は藍に身を預けて二度寝に入ってしまった。
(ふう、驚いた……しかし寝てくれたか……紫様の寝起きっていつもこんなに不機嫌だったっけ……)
まだ高鳴っている胸の鼓動を落ち着かせるように大きく呼吸をしながら、藍はかけ布団を紫の肩まで引き上げた。
主は自分の腕の中でとても気持ち良さそうに眠っている。
「うー、お腹空いたよー、藍さまー……」
居間には自分の式神もいる。腹を空かせて待っている。
小高い岬に一つの石碑があった。
苔むしたその石碑に寄り添うようにして倒れている妖怪狸の死体がある。
閉じられたそのまぶたの奥には、死してなお空のように澄んだ蒼が広がっていた。
しかし石碑と呼ぶには不十分かもしれない、それは苔むした大きな岩。そう表現した方が適当だろう。
導師服を身に纏った妖怪が一人、それに向かって杖代わりの木の枝をつき、力の無い歩を進める。
汗ばんだ額には前髪が張り付いている。そして気だるそうな表情で息を切らしていた。
「……様……」
石碑が目に入ったとき彼女はにわかに微笑み、途切れそうな弱々しい声で呟いた。
焦り気味に石碑へと歩み寄り、杖を取りこぼして、まるで倒れこむかのように石碑へともたれかかる。
頭には大きな獣耳、導師服の臀部からは大きな尻尾が飛び出していた。
畏敬の念からか耳は頼りなさげに折り畳まれている。
「私は務めを果たしました……」
石碑に強く抱きつき、頬を寄せた。あたかもそれが彼女の主であるかの如く。
耳を折り畳んでいるのは畏敬ではなく甘えによるものなのかもしれない。その表情は安堵に満ちたものだった。
不安にでもなったのか彼女は突然その指先についている鋭い爪で石碑の表面を引っ掻き、苔を剥ぎ取り始めた。
そしてやはりこの石碑で間違っていなかったのだと確認すると、目を細めて再び石碑を抱きしめる。
細めた目はそのままゆっくりと閉じ……彼女の荒い呼吸音は途絶えた。
眠るように、穏やかに、彼女は息を引き取った。
彼女が剥ぎ取った苔の下には『八雲』と彫られている。
下の名前は苔に覆われたままである。
「はぁ、ふ……うー、冷えるな」
冬は藍にとって憂鬱な季節だった。紫様は寝ている、橙も概ねこたつで丸くなっている、つまり寝ている。
誰も彼もみーんな寝ている、とても退屈な季節だった。
こたつへの出入りは慎重に行わなければならない、まかり間違っても橙を蹴り起こしてしまってはいけない。
それゆえにどっぷりとこたつに入ることもできない、入るときは膝程度まで控え目に。
あとは自慢の九尾で身体を覆って体温を維持する、空気をよく吸ったそれは保温効果抜群だ。
「だが肩が寒い」
もう少し髪を伸ばそうかなぁ、そんなささやかな抵抗を思いつく。
(どうすれば髪の毛は早く伸びるのだろうか?)
いろいろな試行錯誤を脳内で行うも、果てはどれもこれも「伸びすぎて鬱陶しい割に寒い」という結論に落ち着いた。
紫様はよくもまぁ、あそこまで伸ばして邪魔だと思わないものだ。ああそうか、髪を梳かすのも私がやるなら楽か。
「外出するわけにもいかないし……」
守らなければならない者が二名も家に居る、片方は弱いし、片方は無防備すぎる。
そんじょそこらの妖怪では、寝ている紫様に対してでもかすり傷さえ与えられるものか……と藍は思う。
実際ほったらかして出かけることもあるのだが、流石に冬眠に入って間も無く出かけるのは現金すぎるだろう。
それでは式神としてどうだろう、と思わないでもない。
とはいえ傍から見れば、いつであろうと無防備な主から目を離すのは式神としての職務怠慢に見える。
「でも紫様はともかく、橙まで守るのはなんだか妙な話ね……」
なんで主がその式神を守ってるんだろう、よく考えなくても妙な話だった。
まぁ、でも、それでもだ、橙がやられるのが悲しいから守るんだ、それで良いじゃないか。
半ば無理矢理に自分を納得させ、こたつの上にあったみかんを一つ手に取った。
(独り言を言い過ぎだな……ストレスだろうか)
つま先が橙の尻尾に触れた。おっといけない、もう少し下がらなければ……。
「世の中はどんどん変わっていくわ」
小高い岬で、彼女は日傘を差しながらそう呟いた。
春から夏へと移りかけている時期。誇らしげな太陽が水面を輝かせている。
人から見れば美しいその光景も、宵闇と月を好む妖怪にしたら少々明度が高すぎるだろう。
「ええ、ここ最近の文明の発展は目覚しいですね」
式神は彼女の横に並びながら、それでも彼女よりは少し下がって立ち、そう答えた。
海に小さな船が浮かんでいるのが見える、人は漁を覚えたのだろう。
「ふと悲しくなることがあるの」
「何故?」
「大好きな世界が変わっていくから」
「私めは視野が狭すぎるゆえ、日々を生きるが精一杯。そのお言葉、目から鱗でございますが」
「そう、けれどね」
式神の言うことには話半分、彼女は要領を得ない相槌を打ってから日傘を傾けた。
そして空を眺め、目に入った眩しすぎる太陽に表情を歪めて、それでも優しく緩んだ口で呟いた。
「空だけは、ずっと同じだと思わない?」
「確かに……私が生きている間は、ずっと蒼」
「ええ、きっとこれからも、ずっと蒼」
そうであってほしいと願うかのように彼女は目を閉じて、祈った。
そして日傘を元の位置に戻して再び陽光を遮り、悲しい瞳のままうっすらと微笑んで呟いた。
「けれど、世の中が変わっていくというのは、悲しい反面嬉しいのよ」
「何故?」
式神は己の語彙の無さに幾ばくかの呆れを覚えつつも、そう聞き返すことしかできなかった。
「神様気分かしら? それとも親の気分かしら?」
「はぁ……?」
「成長って素敵ね」
「お言葉ですが、もう少しわかりやすくご説明していただけないでしょうか?」
「でも巣立ちはほんの少し切ないわ」
世の中は移り変わる。
彼女は人の世を見守っていた、時折、いたずら程度に手を出したりもした。
大きすぎる力と長すぎる寿命が、その行動を優しい彼女の必然とさせた。
しかし育っていく文明は、いずれ彼女の力を必要としなくなってしまうのだろうか。
そう思うからこそ、彼女の瞳の底には悲しみの色が沈殿していた。
「貴女様のお言葉は少々難解すぎて、私めには不可解でございます。至らず申し訳ない」
式神は酷く疲れた様子で頭を垂れ、彼女に懺悔した。
しかし彼女は怒るでもなく、むしろ少し嬉しそうに笑って式神の頭に手を乗せた。
「いつかわかるときが来るから、嘆く必要はないわ」
「そうだと良いのですが……」
「変わらない貴女でいるのよ、あの空の蒼のように」
「はい……」
「絶対に、わかるときが来るから」
結局最後まで彼女の言いたいことを理解できない式神だったが、その悲しそうな表情からただならぬ何かを感じた。
(冬眠でも夢を見るのかなあ?)
朝食を済ませた藍は、お湯を汲んだ桶と手ぬぐいを小脇に抱えて眠る紫を見下ろしていた。
気持ち良さそうに布団に包まって寝息を立てているのを見ていると、愛らしいような小憎たらしいような気持ちになった。
(こっちはこんなに寒くても、やることはたくさんあるというのに……)
枕元に正座して、指先で軽く頭を突付いてみたりした。紫は反応しない。
「はぁ……」
溜息も出よう、主は食事すら摂らずに眠りこけているし、橙も朝食後こたつで丸くなっているし。
藍はこれから食器を片付け、洗濯をし、掃除をし……その後に退屈な時間が待っている。
(さて、次はストーブだ)
桶と手ぬぐいを持ってきたのは紫の体を拭くため。
たまには寝たままの紫の頭を洗ってやったりもしなければならない。
「そんなことをしなくても臭くなったりしないから平気よ」と紫は言うし、事実そうなのだろう。原理は不明だが。
それでもなんとなく、拭いてやらないと気が済まない。冬眠中だからと完全にほったらかすのはどうも面白くない。
普段散々こき使うんだから冬眠中にもこのぐらいさせろ、というのが藍の言い分だった。
なんだかんだで主は放っておけない、そんな真面目なところが藍にはある。
体を拭くには服を脱がせなければならないので、そのついでに服も着替えさせる。
いつもより洗濯物の量が減るのは、退屈な時間への道のりも短くなって面白くない。やっぱりこのぐらいはさせてほしい。
さて服を脱がせるので寒い部屋でやるわけにはいかない。こんな自分は気が利いていると藍は思う。
「はぁ~っ……」
今度は溜息ではない。吐いた息が白くなるのを見て、やはりこの部屋を少し暖めるべきだと確認するためだった。
藍自身も暖かい居間から出てきてからというもの、手はかじかむし、つま先は冷たくなるしでたまらない。
「そりゃ布団の中は温かいでしょうけども……」
ストーブに手を当てながら部屋が暖まるのを待った。紫は相変わらず小さな寝息を立てている。
「どのような夢をご覧になっているのでしょうか? 紫様?」
答えるわけがないな、と思い、クスッと自分を嘲笑した。
やはり独り言が多くなっているような気がする、ストレスというよりも話し相手がいないからだろう。
「はぁ~っ……よし、こんなものだろう。暖めすぎても寝心地が悪いだろうし」
藍なりの基準ではあるが適温になったと思い、手ぬぐいを桶の中のお湯にひたす。
「……冷めているな」
思いのほか部屋が暖まるのに時間がかかった、桶の中のお湯はぬるくなってしまっている。
不愉快そうに眉をしかめ、そのまま桶の中に手ぬぐいを放り込むと、藍はそれを抱えて立ち上がった。
「……やり直してくるか」
廊下はとても寒い。戻るまでにまたつま先が冷たくなってしまった。
彼女はその岬が大好きだった。
天気の良い日には式神を連れて岬へ行く。そして風を感じ、海を眺め、空を眺めた。
その岬に来たときは大抵、太陽が傾き水平線に沈むまで、二人はそこに佇んでいる。
お互い無言で居ることもあったが、彼女はそこで式神と様々な会話をした。
「私はこの岬から眺める景色が大好き」
「私もです」
日傘は折りたたんだまま。両腕を伸ばして気持ち良さそうに空気を吸い込んで彼女はそう言った。
式神はそんな彼女の横顔を見て、微笑みながら同意の念を示す。
彼女は生来の真っ赤な目で、斜め後ろに立っている式神を振り返り、その蒼い瞳を覗き込むようにして訪ねた。
「貴女が好きなのは青空よね?」
「はい、貴女は違うのですか?」
「青空も好きよ、でも貴女の瞳が青空のようだから、いつでも見られるじゃない」
「そんな、私の瞳はとてもではないがこの大空には及びません」
式神はクスクス笑っている主を見て、からかわれたことに気付く。そしてそのまま赤い顔をして俯いてしまった。
そんな式神の肩に優しく手を置いて彼女は続ける。
「私は夕焼けが好き」
「ああ……それならば」
「ん?」
「私も夕焼けは好きですが、貴女の瞳が夕焼けのようだから、いつでも見られますし」
「まぁ……」
思わぬ式神の反撃に、今度は彼女が驚いて頬を赤らめる番だった。
いつも変わらない穏やかな笑みを浮かべている主の、少女のような一面を見て式神は満足げだった。
そんな彼女をよそに、式神は大きな息を吐いてから問いかける。
「何故夕焼けが好きなのですか?」
「理由なんて……綺麗だから、じゃダメかしら?」
「いや、私もそうです。それで何も問題は無いですね」
「ふふ、違いないわ」
式神は彼女と過ごすこんな穏やかな時間が大好きだった。
彼女に会うまでは、人を襲い、別種の妖怪と戦い、薄暗い森の中で暮らしていた。
そんな式神に空の美しさを教えてくれたのが彼女だった。
彼女と居ると穏やかな気持ちになれて、そしてそんな穏やかな自分も悪くないと思うようになった。
強大で偉大な主に仕え、文化的で穏やかな生活。
血生臭い生活も嫌いではなかったが、一度そこから外れてしまうと野性に戻るつもりにはなれなかった。
「貴女は夕焼けのようです」
「あら嬉しい、でもどうして?」
「周囲の者に安息を与えます」
そういって微笑みかけると、主は再び赤くなって俯いてしまう。
これでは顔全体が夕焼けではないか、と、式神は一人で可笑しくなってしまった。
「でも……」
「どうなさいました?」
突然彼女の表情が陰った。それを見た式神も眉間にしわを寄せる。
「本当に私はそんなに高尚な存在なのかしら?」
「え……っ?」
式神はどうしていいかわからなくなって、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
そんな彼女を象徴するかのように夕日は水平線に沈み、辺りは暗くなり始めていた。
「うー、冷たいっ!」
紫の体を無事に拭き終えた藍を待ち受けるのは食器洗いと洗濯だった。
どちらも真水を使う作業、とても真冬にやりたいことではない。
食器洗いは自分と橙の二人分をさっさとやってしまえば良いのだが、
そうでなくても時間のかかる洗濯には、先ほど剥ぎ取ってきた紫の寝巻きも洗濯物として含まれる。
暖かければ庭で洗濯してそのまま干すが、冬は寒いので風呂場で洗濯をする。
とはいえ風呂場は家の外側に位置しており、その寒さは外と大差無い。外との違いは風があるかないかという程度だ。
「痛っ!」
寒さで痺れている藍の指に鈍い痛みがはしる。
早く終わらせたいからと急げば、今度は洗濯板に指をこすってしまったりして、たまったものではなかった。
「はぁ~っ」
藍はこすってしまった部分に息を吐きかけた。
大して温かくはならないし痛みも変わらないが、何故かそうしないと気が済まない。
(冬はなんとも辛い季節ね……)
こんなに辛いのに空は蒼すぎるほどに蒼い。藍は顔をしかめて風呂場の窓から空を見上げた。
「とはいえ、私がこれをやるからこそ皆が気持ちよく服を着られるんだ」
そう強く自分に言い聞かせて首をぶるぶると横に振った。つられて九尾もふるふると横に振るえた。
(こういうときだからこそ気を強く持たないといけない)
精進あるのみ。藍はしっかりと洗濯物を握り締め、洗濯板へとこすりつけた。
概ね平和な日々ばかり送っている身としては、日常の些細な仕事さえも精進へと結び付けなければならない。
難儀なものである。
彼女はあまり外出をしなくなった。
それまで身の回りのことはある程度自分でやっていたのだが、億劫がって何もかも式神にやらせるようになった。
顔を合わせた時の態度こそ以前とそう変わりなかったが、それとてもどこか胡散臭い。
「どこかお体でも悪いのでは」
「いえ……? そんなことはないわ」
見かねた式神は彼女に尋ねたが、やはり納得の行く返答は返ってこない。
一言だけ返して、ふぅ、と溜息をつくと、彼女は物憂げに空間の裂け目に視線を送った。
式神は爪先立ちして少しその中を覗き込んだがよく見えない、そして訝しがりながら主に訪ねる。
「貴女はそこに何を見るのですか?」
「人の世を」
「人の世を見て何とするのですか?」
「また争っているわ」
「争いはお嫌いで?」
「別に……他人事だもの」
「悲しいことですね」
「ええ、悲しいわね」
かつて彼女は、人々が『天災』と恐れるそれと見せかけて、争いを強引にやめさせた事があった。
式神はそれを見て、彼女が何を考えているのかまったく理解できなかった。
人の争いに我々妖怪が介入する必要なんてどこにあるのだろうか、と思うのみだった。
彼女は、彼女が見守ってきた人同士が争う姿を嫌っていただろう。
しかし彼女が幾度天災を起こそうとも、人々はしばらく後にまた似たような争いを起こした。
その度に彼女の心は傷付き、いつしか何もせずただ憂鬱そうに眺めるだけになった。
さらには大した興味も無くなり、祭りでも眺めるように、酒を飲みながらそれを覗き込むようになった。
式神はそんな彼女の様子を気にも留めなかったが、心の中では悲しかったに違いない。
今になってようやく気付き始めた自分の呑気さに呆れかえった。
「人は愚かですか?」
ここ最近の彼女の様子、そしてあの岬で言った彼女の言葉、それらが繋がりかけている。
式神はそれらを知り、彼女の心を支えてやるべく答えを求めた。
「愚か者もいるし、そうでない者もいるわ」
「ならば何をそう嘆きます、我々は妖怪、そこまで深く人と関わりあう必要はないでしょう?」
「私が嘆いている……?」
「私にはそうとしか思えません」
「ああ、そう、ならば教えましょうか……何がこんなに悲しいのか」
「……何が貴女をそうも悲しませるのですか?」
「私自身が愚かすぎるからよ」
空間の裂け目を閉じ、彼女は立ち上がって涙を流す。
「神になんてなれるはずがなかったのよ。この力は私には不相応だった、愚かな私が神を気取り、勝手に傷付いた」
「何を弱気なことを……神と見まごう程の力があるなら貴女は神のようなものだ、ふんぞり返っていれば良いでしょう」
「自由に育つべき種に手を加え、弄り回した、これはどれほど罪深いことかしら」
「そんなものは罪のうちに入りません……貴女は優しすぎるのです、妖怪らしくもない!!」
「なら、どうあれば妖怪らしいのよ……」
「私に聞くことではないでしょう……ただ、一つだけ申し上げます」
「……何?」
「私はそんな貴女だからこそ敬愛している」
式神は彼女を強く抱きしめた。優しく背中を撫でてやった。
いっそ彼女の力など全て無くなってしまえば良いのに。たとえそうなっても式神は彼女の側に居るつもりだった。
確かに尊敬し畏怖していた力だったが、彼女を悩ませるだけのものだったのならばそんなもの消えてしまえばいい。
空の美しさを知っている彼女が好きだ。穏やかな笑顔が好きだ。周囲の者に安息を感じさせる温かな色の瞳も好きだ。
彼女の式神としての自分、それ以外の人生はもう考えられない。
かつて、インチキのような強さを誇る妖怪にちょっかいを出してこてんぱんにされた。
『今日から貴女は私の式神……だから「八雲」の姓を名乗りなさい。それはそれは誉高きことよ』
殺されると思っていたのに、待っていたのは優しい笑顔と胡散臭い台詞。
与えられた動き辛い導師服、考えの読めない不可解な言動。だが彼女の優しさは確かだった。
何も知らぬままに、ただ彼女への敬愛の念は、恐ろしく無軌道に強まっていった。
「貴女は私の誇りだ」
彼女に与えられた導師服……その袖で涙をぬぐってやった。
その瞬間、彼女は大声をあげて泣き始めた。まるで子供のように大粒の涙をこぼして。
「うっぅぅ……あぁぁぁん!!」
「確かに貴女の持つ力は大きすぎる、しかし間違ったことをしたと思ってはいけない。
むしろ間違ったことをするぐらいでも良いのです……我々は妖怪なのですから、多少は人に恐れられてこそ。
もっとも事実を知ったとして、人が貴女を憎むことがあろうか? 私はそうは思いませんが」
「本当にぃ……?」
「本当です……まったく、私と初めて会ったときは容赦なく叩きのめしたくせに、こんなに幼い一面があるとは思わなんだ」
「私は許されるの……?」
「許すも何も、悪いことなどしていないと言っている。あまり深く考えずに胸を張りなさい、我が主」
式神は彼女の身をそっと離し、その目の前に跪いた。
「貴女には私がおります」
一点の迷いも無い、澄んだ蒼の瞳が彼女を見据えた。
それ以来彼女は穏やかな表情でいることが多かったが、やはり外出は減り、空間を裂いて人里を眺めることも無くなった。
罪の意識は軽くなったのだろうが、やはり自分の持つ力を恐れてしまっているようだ。
年月の経過により衰えが出てきたこともあるのかもしれない。
以前のような陰鬱さこそ漂わせてはいないが、物思いに耽ることも増えた。
気になった式神は彼女が何を考えているのか訪ねてみたりもしたが、
「もう少ししたら……いえ、決心がついたら話すわ」
と言われただけだった。
いつか自分から話すつもりならばやたらに勘ぐるのも良くないと思い、彼女自身が話し始めるのを待った。
あれっきりではあったものの、一度は泣きながら悩みを話してくれたのだから、今度何かあったときもきっと話してくれるだろう。
それはもはや確信に近い感覚だった。
「驚かないで聞いてほしいの」
何年か後に彼女は唐突に話し始めた。
何のこともない、普通の夕食時のことだった。
「後継者を遺して私は死ぬわ」
それは、驚かずに聞けとはなんとも無茶な話。
式神は酷く狼狽して、首を横に振り、彼女の両肩を掴んで問うた。
「何故?」
相変わらず、式神はそんな直接な問い方しかできない自分を嘲った。
「お願い、大人しく聞いて」
穏やかながらにその語気は非常に力強く、式神を萎縮させた。
式神は何も言い返せなくなり、かといって彼女から視線をそらすこともできず、ただその真っ赤な瞳を見つめていた。
「私は、私の力の全てをその後継者に託します」
「……」
「その時点で私は長くは生きられない、瞬く間に果てる」
「……それ以上は仰らないでいただきたい」
「ダメよ、貴女は私の式神でしょう? ただ私の力によって縛り付けられていたわけではないでしょう?」
「仰るとおりです、私は貴女を敬愛していたからこそ……」
「ならば聞いてほしいの、私の最後の頼みを」
「……」
最後の抵抗を試みたがそれは実を結ばず、式神がそれ以上発言をすることはままならなくなった。
彼女の決心が並々ならぬものであることを肌で感じ、その意志をへし折るだけの言葉を吐き出せないことを悟った。
「この力は、私が持つには大きすぎた」
「……」
「かくして私は自分自身の力を恐れ、何もせずにただ消費するモノへと成り下がった」
「……」
「かつては神を気取っていたこの私が」
「……」
「この力を恐れない、強い子……そういう子を創り、この力に縛られずに生きてほしい。
ただ単に生きることへの希望を失ったというわけではないの、そう、その子は私の分身なのよ」
「分身……?」
「交配する必要など無い、私は私の力の全てを授けた妖怪を、ほんの一人だけ生み出す力がある。
これは大分前から本能的にわかっていたこと……」
「私に何をせよと……?」
「その子を、私の分身を……ある程度大きくなるまで育ててほしいの」
それは式神にとって一番恐れていた言葉だった。
式神は側頭部についた二つの獣耳を手で覆い「聞きたくない」と、その動作をもって主張する。
「守ることにさえ自信を持てない」
「貴女が愛した『世界』をか?」
「そう……力を使うのを恐れるあまりに、できることさえやろうとしない」
「まだ……今からでも遅くはないでしょう?」
「……そうでもないのよ」
彼女は悲しそうに笑った。式神はその言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「本当に私は気が弱いわ……結局ぎりぎりになってしまった」
「な、何のことですか?」
「……もう肉体的にも限界が近いの、いずれにせよそろそろ後継者を残さなければ私の血は途絶える」
「えっ……?」
「何故ここまで思い止まったか、言わなければダメかしら?」
「??」
「言いたくなかったけど……言わなければだめよね、やはり」
「何のことですか!?」
半狂乱になって目を白黒させている式神の手を、彼女は両手で優しく包み込んだ。
そしてその手を見つめて、穏やかな表情で語り出す。
「少しでも長く貴女と一緒に居たかった」
「えっ?」
「式神に入れ込みすぎかしらね、だらしないとは思ったけど……うふふ」
「私と一緒に居たいがために……ぎりぎりまで死期を遅らせていたと?」
「……ええ、そう」
そっと手を離し……彼女はその赤い瞳で、式神の透き通るような蒼い瞳を見つめた。
「今までありがとう、私の誇り高い式神」
「あ……あぁ……」
「こんなこと貴女にしか頼めないの……どうか、私の分身を育ててはもらえませんか?」
「あぁぁ……ぁ……!」
「かつて貴女が言ったように、貴女もまた私の誇り」
「も、もう……おやめください!」
再び式神は自分の耳を押さえて地面にうずくまった。
自分は彼女から妖力の供給を受けている限り、死にもしないし老いもしなかった。
もう何百年彼女の式神をやってきただろう、千年にも到達しているかもしれない。
だから彼女が果ててからも、元の妖怪としてしばらくは生きることができるだろう。
長い間止まっていた時は通常より速く流れるかもしれないが、それでも百年近くは生きるだろう。
彼女によって与えられた最後の使命は、その余命を主の子の育成に捧げよということだった。
それは彼女自身は決して認めたくないものであって、それと同時に式神としては最高に誇り高い使命でもあった。
翌日、彼女を起こしに行くとその姿は忽然と消えていて、彼女の布団には一人の少女が眠っていた。
全てをこの子に与えたために、彼女は跡形もなく消え去ってしまったのだろう。
なんともあっけない別れだったが、かえってその方が彼女の死を痛感しなくて気が楽なのも確かだった。
彼女は限界まで老いていく自分の姿を式神に見せたくなかったから、いくらか早く見切りをつけたのかもしれない。
やはり彼女は、式神には読み取れない複雑な部分があった。
しかし目の前で無防備に眠っている少女は、一体どのような妖怪なのだろう。
主の死を悲しむゆとりすらなく、今はこの少女をいかにして育てるかが式神の思考を占拠している。
「お前は……誰だ?」
少女を揺り起こすと、驚いた様子もなくただ眠そうに式神を見つめていた。
まだ幼い少女だったが、主も幼い頃はきっとこのような顔をしていたのだろう……面影があった。
衣服は何も身につけていなかったが、二つの紫色の瞳は周りにある何よりも鮮明に映った。
「わからないわ、自分が妖怪であることしか」
「そうか……」
幼いながらにその体から発せられる妖気は並大抵のものではない。
主が全盛期だった頃はこれよりも強い妖気を持っていたが、生まれたてでこれほどならば、成長したときどうなるのだろう。
赤子の時代が存在しない妖怪は今までに何度か見た事があるが、ここまで成長した状態で生まれる妖怪もそうはいない。
言語能力を備え、妖怪としての常識的な知識も備えているようだった。或いはそのように創られたからかもしれない。
とはいえ少女はいつの間にか主と入れ替わっていたので、どのようにして少女が生まれたのか知る術は無かった。
訝しげに自分を観察している式神を見て、彼女はいたずらっぽく笑い、布団を引き上げて裸体を隠した。
「そういう貴女は誰なの?」
鼻にかかった幼い声だが、それでもどこか腹の底に溜まる、重い響きのある声で彼女は訪ねた。
式神は我に返ったように目を見開き、驚きながらも何と答えるべきかを必死に思案した。
「私は……とある方の式神だ、お前の面倒を見るように言われている」
「そう。ならばお洋服が欲しいわ、可愛らしいのが良いの」
「了解した」
「ああ、それと……」
命じられてすぐさま立ち上がった式神を彼女は呼び止める。
料理でも命じられるのかと思いながら、式神は首を傾げて少女を見下ろした。
「名前が欲しいわ」
「……名前か、なるほど確かに必要だ」
「なんだか感触としてわかる、私は貴女のことが好きよ。だから貴女に名前を付けてほしい」
「ありがとう、よく考えてから名付けさせてもらう」
「お願いね」
少女は満足げな表情で式神を見送ると、再び布団に包まって寝息を立て始めた。
数日後。
式神は少女の手を引き、よく主と共に訪れたあの岬に立っていた。
少女は式神が手作りしてくれた服を嬉しそうに着込んで、繋いでない方の手で大きな日傘を差し、陽光を遮っている。
「綺麗な景色ね、早起きは三文の得って本当だわ」
「すまない、無理矢理連れ出して……眠いだろう?」
「別に良いの、だって眠くなったら貴女がおんぶしてくれるでしょう?」
「もちろん」
満面の笑みで自分を見上げる少女の頭を式神は優しく撫でてやった。
そしてゆっくりと手を離し、岬の先端に立って海と空の境界、水平線を眩しそうに眺めた。
『絶対に、わかるときが来るから』
彼女はここでそう言った。
式神には理解できなかった「親心」についてそう言った。
あの頃から死について考えていたのだろう、だがそれを限界まで踏み留まらせたのは他ならぬ式神自身だった。
「よいしょっと……」
式が落ちてから妖力も体力も落ちてしまったが、それでも式神の力は相当なものだった。
日傘を差して海を眺める少女はそのままにして、岬に一つの岩を埋め込み、そこに自らの爪で主の名前を彫った。
「この墓には貴女の肉体の一欠けらも入ってはいないが……」
ここが貴女との思い出の場所。
貴女の墓標を建てるならここしかないと思ったから。
――世の中はどんどん変わっていくわ――
「まったくその通りですね……私はこの空のように変わりないが、貴女は変わってしまわれた、ふふふ」
墓標と呼ぶには無骨すぎる岩を撫でながら、式神は少女を振り返って目を細めた。
対する少女は、紫色の大きな瞳をくりくりとさせて不思議そうに式神を見つめている。
「お前の名前を考えてきたんだ、待たせてすまなかったね」
「本当?」
「ああ、まずお前の姓は『八雲』と言う。これは元々決まっていたものだ」
少女は何も言わずにゆっくりと頷いた、早く名前を付けてほしいと催促しているようだった。
目を輝かせて自分の唇を見守っている少女を見ていると、やはりまだ幼いのだと実感する。
あまり焦らすのも意地悪だと思い、式神は彼女に名を告げた。
「そしてお前の名前は『紫』だ」
「……素敵ね、貴女が付けてくれたっていうだけで嬉しいのに」
「それは良かった」
式神は岩から体を離して紫に寄り添い、腰を落として肩を抱き寄せた。
そして蒼い空を眺めると、つられて紫も同じように蒼い空を眺める。二人揃って太陽の眩しさに目を閉じた。
「目を閉じていても、蒼が瞳の奥に飛び込んでくるだろう?」
「ええ、貴女はそうやって大好きな空ばかり眺めているから、そんなに蒼い目になってしまったのね?」
「ああそうだ。そして私の主……お前の母親は夕日が大好きだった」
「母親……?」
「彼女は夕日ばかり眺めていたから、赤い目をしていたよ」
「そう……」
「そして、赤と蒼が混ざると紫色になる」
「それが私の名前?」
「そう紫。お前には私達の想いがこもっている」
式神は視線を落として紫を見つめた。目には涙が浮かんでいる。
紫は不思議そうな顔をして、そんな式神の涙を見つめていた。
「大変。貴女の目から蒼がこぼれ落ちてしまっているわ」
「ははは……大丈夫だよ」
式神は立ち上がり、目に浮かんだ涙を導師服の袖でぶっきらぼうに拭い取る。
「私の目は、いつまでも変わらぬ蒼」
にっこり笑って紫と手を繋ぐ。
そして主に一礼して、彼女達は帰路についた。
「ふー、さむさむ」
藍が家事を終えると、もう昼食の時間が迫っていた。橙も腹を空かせてこたつからのそのそと這い出す頃だ。
食事を作るのは橙が起きてからにしようと思い、手と足をこたつに突っ込んで暖を取る。
こたつの中で手をこすり合わせていると指先が橙の尻尾に触れた。
少し意地悪してやりたくなって尻尾を握ってみると、橙は敏感に反応してこたつの中で呻き声をあげた。
「やめてぇ~」
「あまりこたつの中にばかりいると、干からびてしまうわよ?」
こたつ布団の中から橙の頭がにょっきりと飛び出し、続いて出てきた右手で目をこする。
そして涙を搾り出すように潤んだ目を強く閉じて、ひとつ大あくびをしてから藍と目を合わせた。
「寒いんだもんー」
「じっとしているから寒いんだ、家事を手伝ってみるか?」
「やだー、水嫌いー」
橙はそう言ってまた大あくびをすると、目を閉じて二度寝を始めた。
橙の尻尾がするりと藍の手を抜ける、藍はこたつの中で少し指をこすり合わせてから溜息をついた。
「はぁ、主も式神も冬眠か」
「お昼ご飯できたら起きる~」
「はいはい」
藍は、橙が自分よりも紫に似てきたように思う。ご飯だけは要求する辺り、かえって紫よりもたちが悪いかもしれない。
寒い寒いとは言いながらも、頭までこたつに入って長時間寝るのは流石に暑かったのだろう。
既に寝息を立て始めている橙の顔は紅潮していて、緑色の帽子をかぶっているのもあり、何かの木の実のように見えた。
(紫様はどうだろうか)
寝汗をかいていたら拭いてやらなければ、布団が乱れていたらかけなおしてやらなければ。
藍は家事をあまり面白いとは思わなかった。
料理を作るのは結構面白いが、その他は雑にこそやらないが面白いとも思わない。
しかし直接的に家族の面倒を見るのは好きだった。
普段は何を考えているかよくわからない紫も、寝ている間だけは藍にされるがままである。
藍が立ち上がると、こたつの中にひゅうと冷たい空気が流れ込む。
橙はそれに反応してうっすらと目を開けたが、すぐに温かくなったので再び目を閉じた。
紫はよく眠る子だった。主もよく寝る方だったが流石に紫ほどは寝なかった。
生活リズムも主とは違い、日没後に目を覚まし朝方に眠りにつく。
だが何よりも式神を驚かせたのは、紫が冬眠をするということだった。
初めのうちは少し寂しいとは思ったものの、これといって何か致命的な問題が起こるわけでもない。
既に式神の妖力をはるかに上回っていた紫は、家の周りに強力な結界を引いてから冬眠するので襲撃の心配も無い。
だが……式神は、その寿命が限界に近い状態で迎えた数回の冬のみ、気が気ではなかった。
そしてこれが、紫と式神が共に迎える最後の冬となった。
(いかん……また気を失っていた)
式神は台所で倒れていた、この頃は意識がはっきりしていることなどほとんどない。
震える手で体を支え、痛む関節に鞭打って立ち上がると、視界がぐらぐらと揺れる。最近は常にそんな状態だった。
(早く目を覚ましてくれないものか……)
床に転がっている包丁を拾って、手からすべり落とすように流しに片付けた。
家の中も汚れていた。散らかさないためにあまり不要なものを出さないことにしていたが、固まった埃が床に転がっている。
式神が倒れこんだところだけが、埃を拭い取られてつやつやと反射していた。
歩くことさえままならず、移動するときは壁に手をつかねば歩けなかった。
湯船に湯を張りすぎるとそのまま意識を失って溺死しかねないので、腰辺りまでぬるま湯を張る程度に留めなければならなかった。
消化の良い物を作ろうにも、手の込んだものは作り終わるまで意識がもたない。
その上消化器官が衰えているので白米にお湯をかけた程度のものしか喉を通せなかった。
(私は務めを果たせたのでしょうか……もう休んでも良いのでしょうか……?)
実際のところ、式神が紫に教えなければならないことなどほとんど無かった。
紫は知能も、妖術も、全て持ち合わせた状態で生まれてきた。足りないものは教えるまでもなく自然に覚えていった。
主のように感傷的になることもなく、不敵で、排除すべき事態に対して手心を加えない冷酷さも垣間見せた。
式神が教えたのなんてそれこそ家事程度、あとは知ってて当然のようなことをたまに知らないことがあったので、それを教えてやる程度のものだった。
(ああ……これだけは伝えておかなければならない)
壁に手をつき、息を切らしながら縁側まで歩いた。
一歩進むたびに関節が軋み、このまま骨が砕けて五体がバラバラになってしまうのではないかと心配になった。
縁側から外を眺めると庭木には若葉が萌えている。もう春と言って過言ではない。
――紫、早く起きて……私はもう――
「おはよう」
式神の願いが天に届いたのか……紫は裸足で廊下をぺたぺたと鳴らしながら歩いてきた。
そして冬の間に酷く衰弱した式神の顔を見て歩みを止め、その力の無い微笑を神妙な顔つきで見つめている。
身長も随分伸びた。式神自身の背がそれなりに高かったためまだ追いつかれてはいない。
それでも表情からはあどけなさが抜け、大妖怪に相応しい落ち着いた表情と、少女ながらに妖艶さも漂わせている。
やはりもう十分に育っただろう、一人で生きることも可能に違いない……式神はそう確信した。
だから別れを告げる覚悟を決めた。どの道肉体的にもう限界を超えていたが。
「おはよう……紫」
「……」
「良かった……最期に会えて」
「そう」
紫は変わり果てた式神から視線をそらし、変わり果てた家の廊下を黙って見つめた。
いつも式神が綺麗に拭いていた床には埃が積もり、鈍い光沢しか発せずにいる。
紫も数年前から式神の妖力が徐々に弱っているのは感じていた。
それにしても冬眠する前はそれなりに元気だったのだが……。
そう思う紫に考える時間すら与えず、式神は話を続けた。
「紫……私はもう死ぬ」
「そうね、よくもってくれたわ……もっと早く死んでいてもおかしくなかった」
「ああ……流石紫だ。よくわかっているね」
式神は実に百五十年近く紫に連れ添い、身辺の世話をした。
それは式神の種族と、式が落ちてから生きていた年月を考えれば、かなりの長命と言えた。紫はそれをわかっている。
そして紫は息を切らしながら壁にもたれかかる式神を一瞥し、面白くなさそうに再び汚れた床に視線を落として問う。
「一応聞いておくわ、私の式神になるかどうか」
望んだ返事など返ってこないことは察している。
もちろん紫を愛してくれていたのは知っていたが、式神は紫に対して『式神』として振舞ったことは一度も無かった。
式神の紫に対する態度は『家族』もしくは『母親』と言い表した方が適当だろう。
彼女が従者……もとい式神らしい素振りを見せたのは、あの岬に不恰好な石碑を設置したときの一度きりだった。
だから紫は目を合わせなかったが、やはりその視界の外で、式神は首を横に振った。
「我が主がきっと寂しがっている。お前と違ってあの方は気が弱くてな」
「彼女なら『私自身』よ。私に仕える事はそれすなわち貴女の主に仕えることなの」
まるでその台詞を言うことが義務であるかのように、紫は淡々と述べる。
事実として、うっすらとだが前世のものと思しき記憶が無いでもなかったし、夢に見ることもあった。
しかし結果は全てわかっている、紫の言葉に感情はこもっていなかった。
「それでも、だ……私は頭が悪いのでな」
「頑固者」
「そうとも言う」
「けれど気高い」
「ありがとう」
ともすれば消えてしまいそうな命の灯火を必死に燃やして、式神は紫との最期の話し相手を務める。
目はうつろ、肩で息をし、もたれかかった壁からずるずると滑り落ちそうになっては足を踏ん張って姿勢を直していた。
「破談ね」
「ああ、最期に一つ、お前に伝えておかなければならない」
「何かしら?」
式神は歯を食いしばって足を前に出し、よろけながら紫へと歩み寄っていく。
そして今出せる最大の力をもって強く紫を抱きしめ、呟いた。
「良い式神に出会いなさい……」
「……ええ」
紫の肩を両手で掴んで、式神は最後の微笑を送った。
紫は式神の顔を忘れないよう、その優しい微笑と、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳を網膜に焼き付ける。
自分の肩を掴む式神の両腕に手をかけ、紫はそれをそっと押しのけた。
そして空間を裂き、式神に言う。
「あの岬に繋げたわ。貴女が求める死に場所はきっとあそこでしょう?」
「……心遣い感謝する……」
至って冷静に、淡々と言の葉を述べていく紫を見ても、式神はなんら悲しいとは思わなかった。
この子はこういう子だ、まだ妖怪としては若年の方だが、死と言うことについてしっかりした考えを持っている。
だから敢えて私の死に際を見届けようとしない。私がそれを望まないと言うことを見抜いている。
そう思う式神は、紫の式神として仕えてやれない自分のわがままさと頑固さを疎ましくも思った。
「早く……行きなさい」
裂いた空間を維持し続けたまま発した紫の声は、今にも消え入りそうな弱々しいものだった。
(そうか……私もこの子の意地を尊重してやらなければな)
強い子だと思わせるために、自分を置いて逝くことに未練を残させないために。
式神が死に際を見られたくないであろうことを知ってるがゆえに、さらに紫はその涙を見られたくないがゆえに。
様々な思惑が働いて、紫は若干焦り気味に空間を裂いてあの岬への通り道を作ったのだろう。
「逞しく生きろ……」
最期に紫の頭を撫で、式神は空間の裂け目へとその身を投じた。
式神が居なくなった後も紫はしばらくそのままの状態で呆然と立ち尽くしていた。
紫が空腹に気付き台所へ向かう途中も、我が家は目を覆いたくなるような酷い状況だった。
床には埃、老化により抜け落ちた式神の体毛、汚れていない箇所などどこにもない。
それらを見るたびに、無理矢理凍りつかせていた心にヒビが入った。
何よりも悲しいのは、それを必死に片付けようとした形跡があったことだった。
片付けたいのに体が言うことを利かない。あの気高い式神の苦悩がそのままの形で残されていた。
そしてたどり着いた台所には作りかけの料理、割れた皿。
紫の強がる気持ちが音を立てて崩れ、耐え切れなくなって縁側へ走る。
裸足のまま庭に出て、まだ冷たい大地を踏みしめる。
そして空を眺めると、そこにはいつも変わることのない蒼があった。
「いけない……」
――あの瞳からもらった蒼が、こぼれ落ちてしまう――
紫は目頭を押さえ、まぶたを閉じたまま空の蒼を感じた。
(懐かしい夢を見たわね……)
まだ冬眠し始めたばかりだというのに目が覚めるとは、紫自身驚きだった。
とはいえ、相変わらず全身には重りのような倦怠感がまとわりついている。すぐに二度寝は可能だろう。
寝ながら泣いてしまっていたようで、目尻がぱりぱりしていた。
ふと足音に気付きそちらに目をやると、手ぬぐいを抱えた藍が襖を開けて入ってきた。
「うわっ!?」
てっきり寝ているとばかり思っていた紫が体を起こして呆けていたのだから、藍が驚くのも無理はない。
藍は手ぬぐいを片手に、驚きで高鳴る心臓を押さえて紫の顔をまじまじと見つめていた。
「藍……」
「お、驚いた……起きてらしたんですか!?」
「ああもう、そんな大きい声を出さないの」
「すいません……」
藍は目的を見失いかけていたことに気付き、あたふたと両手で手ぬぐいを握りなおした。
そして苦し紛れのように紫に話しかける。
「あ、ああそうだ、寝汗などかいていらっしゃいませんか?」
「もう……そんなに私の体を拭きたいの? 藍は……さっきもやっていたでしょう? 夢うつつだけどわかってるのよ」
「そ、そういうわけではございませんが……」
自分は母親より強くなっただろうと自負しているが、どうも藍はあの式神に比べて頼りないところがある。
少しからかってやっただけなのに酷い慌てようだ。
「はぁ……それじゃせっかくだし、少し首周りでも拭いて頂戴」
「は、はっ! かしこまりました!」
ドタドタと畳を踏み鳴らしながら駆け寄ってくる藍を見ていると、溜息が止まらない。
でも「それでは失礼して」などと言って首に当てられた手ぬぐいは、ひんやりと湿っていて火照った肌に心地良かった。
藍は紫の背中に腕を回し、もう片方の手で肌を痛めないように、全神経を手先に集中して手ぬぐいを握っている。
「藍」
「はい?」
「もっと精進なさい」
「はい……」
――ああ、なんて情けない式神かしら。ごめんなさいね、約束は守れなかったかもしれない――
紫はぼやけていく意識の中で、母親代わりだったあの式神に謝った。
(あ……眠いわ)
まだ未熟さの残る紫の式神。けれどその腕だけは優しくて、かの式神を髣髴とさせる。
徐々にまぶたが重くなり、紫は藍に身を預けて二度寝に入ってしまった。
(ふう、驚いた……しかし寝てくれたか……紫様の寝起きっていつもこんなに不機嫌だったっけ……)
まだ高鳴っている胸の鼓動を落ち着かせるように大きく呼吸をしながら、藍はかけ布団を紫の肩まで引き上げた。
主は自分の腕の中でとても気持ち良さそうに眠っている。
「うー、お腹空いたよー、藍さまー……」
居間には自分の式神もいる。腹を空かせて待っている。
小高い岬に一つの石碑があった。
苔むしたその石碑に寄り添うようにして倒れている妖怪狸の死体がある。
閉じられたそのまぶたの奥には、死してなお空のように澄んだ蒼が広がっていた。
あと紫の誕生も個人的には違和感なく。
ただ、欲を言えば少し場面転換等が解りにくかったかな、等と。お話の仕掛け上、敢えて曖昧にされているのかもしれませんが。
自分のチャチな予測をうわまりなんと先代の気高い事か
さて、パンドラの箱の入り口はどこだろu
先代式もまた子供を生んでそれが藍になるのかとも思ったけどそれもまた違ってました
やっぱり八雲ファミリーはいいですねえ。和みっぷりがたまらん
従者は気高く、ただ逝くのみ
次代八雲の式は橙でしょうか。果てさて
紡がれていく八雲の歴史。儚くも何と雄大な事か
其処に寂しさがついてくるのは仕方ないです。
いつか幼い式が八雲の名を冠するときが来るのでしょうかね……
誰かは常に誰かのために存在し、その誰かもまた誰かのために存在する。絆は時を繋ぎ合わせ、そうやって百年千年が積み上がってゆくのだ……そんなことを誰かが言ってましたねえ。
どのみち自己完結出来る人生の意義など少ないのかもしれない。誰かと共に生きて、脈々と続いてゆく歴史のどこか1ページになれたなら。
しかしま、先代の式は狸だったのかっ。狐狸妖怪という言い方はあるにせよ、藍に比べてスマートじゃないなあw
まあそれはともかくとして。綺麗なお話でした。
最後まで読んでから最初を見直すともう・・・
良い作品であり、温かい話でした。
読み終わって一番初めに想ったのは、先代式ってふっくらした「日本の伝統的おふくろさん」な外見だったんかなあ、という事でした(ぇ
あとゆかりんが胡散臭いのは育ての親の影響もあるのか! とか(爆
そんなこと忘れてしまうくらいに読み入っていました。
ただの主と従者ではない……
互いに気高く、互いを想い合う……そんな感じがしました。
この言葉しか書けないよ…。
点の位置のせいで変な意味に取れてしまうの巻き
シリアスな流れの中でこの一文が出てきたときには思わず噴出してしまったw
桶と手ぬぐいもって寝るゆかりんを想像してしまったじゃないか
今さらコメントしてもVENIさんには届かないかもしれませんが、素晴らしい作品を本当にありがとうございます