その人里には、こう言い伝えられている。
『満月の晩に外を出歩くな、恐ろしい妖怪が出て食べられてしまうぞ』と。
ありきたりだがそれゆえに効果的な伝聞、もちろん各家族の親たちは口をすっぱくして我が子に言い含めた。
だがどこにでも腕白な子供というものはいる。
一人の少年が、満月の晩、夜だというのに明るく照らされた申し訳程度の街道を走っていた。
その少年は物知らずゆえの蛮勇を持って、この伝聞が嘘だと友人たちに証明してみせると意気込んでいた。
そしてその帰り道である。少年は正直ドキドキと高鳴り通しの胸を押さえながら、やはり伝承は伝承なんだと笑みを浮かべていた。
後数分もあるけば里に着く。そう、この街道の肝であるちょっとした丘、ここを登ってしまえば……伝聞は嘘なのだ、と大きな顔で自慢できるのだ。考えただけでわくわくしてしまう。
わくわくとドキドキが混ざり合い、心の臓が跳ねている。足を踏み出そうとしたとき、明るく照らされていた視界は薄暗く夜の帳に落ちる。空を眺めたら、丸い月を雲が隠していた。
けれど浮ついた気持ちを止められるはずも無く、少年は浮かした足を地に着け――、
そんな気持ちは、その瞬間に吹き飛んだ。
少年は霊的素養は殆ど無い。なんだかんだで幻想郷、その人里に住む者たちは霊的な感覚に鋭敏なものが結構いる。
しかし少年にはその手の感覚に遠く、妖怪に知らない間に食べられてしまうのではないか? といつも大人たちに言われていた。
それでもこういう蛮勇だけは持ち合わせていたから、厄介といえば厄介な子供ではあったのだ。
そんな、鈍感な子供である少年。彼が……背筋を震わせ、肝を冷やし、……そして心を凍らせるほどの妖気。そんな妖気が、辺りに充満した。
否。それは、少年に向かっていたものだろう。
あ、と頭を真っ白にして、呆けてしまった少年の目の前に……人影が降り立った。
長い髪と、揺れる長いスカート。それだけを見ればそれはまるで人間で、夜遅いとはいえここでみかけてもまあ不思議はないだろう。
しかし、頭に生える二本の角は、まるで月を穿たんとばかりに天を衝き……それが異様。正にソレは、妖怪、そのものだった。
見つめる。少年はただ呆然としていた。強烈な妖気に中てられたせいなのか、突然の出来事に遭遇したせいなのか。ただその聳える二本の角を注視して……あ、と声にならぬ吐息を漏らすのみだった。
と。雲が流れ、月の光が再び大地を照らす。
夜と思えぬ明るさが辺りを包み、暗く形しか見えなかった目の前の妖怪の全貌が露わになった。
それは美しく。神々しくさえあった。
そういえば、と少年は思い出す。その満月の晩に現れる妖怪は……妖しき美しさをも持って、人々を魅了するという話も無かったか――?
囚われる。止まって久しい、心の臓が再び鐘を打ち鳴らす。
それは。命を失う、という恐怖ではなく。それはもしかしたら――、
ぎゃあ、と声が響く。ばさばさと、鳥たちが急いで飛び立つ音がした。
びくり、と少年は体を揺らし、音の方向へ向き直ろうとして……目の前の妖怪のことを考えた。
コレは違う。此処はいつもの平和な自分の世界とは違う……ようやく、少年の頭に人間としての常識が流れ込む。正しく動き始めた血液が運んできたのか、頭がずきずきと痛み出しすらした。
――逃げなくては。
その思考が表に出るまでにどのくらいの時間を要したのだろうか。
きっと、その間に目の前に降り立った妖怪は十回は少年を殺せたであろう。
だが。少年は今走っている。里へと走っている。途中何度か足をもつらせ転んだ時の擦り傷はあるが、基本的に無傷だった。
かなりの距離を走った。丘の頂上を越えようというとき、少年はふと思い後ろを振り返った。
「え……?」
そこには、
疎い少年にも判る妖気の塊と、
それを撃ち込んだのであろうよく判らない嫌な笑みを浮かべた妖怪が――、
衝撃。
びりびりと響くそれが身体を撃ち抜くものではなく、あたりの空気を震わすものだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
思わず瞑ってしまった目を開くと、そこには長い髪、さらさらと音を立てていそうな美しい糸が揺れていた。
少年の前には、先ほどの妖怪が居て。
先ほどの妖気の塊は、きっと彼女が防いでくれたのだろうと少年は思った。
何故、とは思わなかった。
思う余裕が無かったというのはもちろんだが、何故かその妖怪がそうするのは自然なことだと思っていたのだと思う。
そして、目の前の妖怪で見えないが、向こうの空にはまた一匹、ちがう妖怪が居るとようやく気付く。
先ほどのこちらを狙った妖気は、あの妖怪が撃ったのだろう。
そう確信すると、遅れて恐怖がやってくる。ドクドクと暴れだした心の臓と、乱れる呼吸が生を教えてくれた。
その時、目の前の妖怪が口を開いた。
こちらを振り向き、まるで射るような目で少年を見つめていた。
生憎、少年は自身の心拍音が邪魔で声は聞くことが出来なかったが、唇の動きで何を言ったかは読み取れた。
「逃げろ」と言ったのだ。彼女は。
動作不良していた生存本能は、その一言で息を吹き返したのか。
それまで以上に暴れだした心の臓を押さえ、少年は転がるようにして駆け出した。
後ろは、振り向けなかった。恐ろしい音がして、強烈な妖気が漂っていたというのもあるが。
もう一度あの姿を見たら、きっと動けなくなる気がしたからだ。
そして里に帰り着いた少年は、こっぴどく親に怒られ。
それ以来夜には出歩かなくなった少年は、もう妖怪に不意に出会うことは無かった。
◇
『満月の晩に外を出歩くな、恐ろしい妖怪が出て食べられてしまうぞ』
その人里にはこう伝えられている。
彼もそうして、自分の子供に言い聞かせていた。
けれども腕白な子供というものはどこにでもいるもので、信じて怖がる子供がいる一方、そんなのはただの迷信だという子供もいる。彼の息子は後者だった。
自身もそうだったことを思い出し、彼は苦笑しながら、農作業の続きをしようと鍬を手に取る。
しばらく農作業に精を出していると、息子が帰ってきた。
無茶なことをしていないのだと判りほっとする。全く、自分は本当に親に心配をかけていたのだな、とこのところ彼は反省しかしていない。親の心子知らず、とはよく言ったものだ。
息子を迎えようとしたところで、息子の後ろに人影が有ることに気付く。
遠目から見ても美しいということが判る、その長い髪が目を引く女性だ。……なんだかヘンな形の帽子を被っているということはまあ置いておこう。
やがてその女性と息子がやってくる。
なんでも息子の言によれば、少し離れた場所に住んでいるのだが食料の備蓄が尽きた、買出しに来たのだが市はどこにあるだろうか、ということらしい。
彼は軽く微笑んでその女性の顔を真正面から見つめて――、
「どうした? 私の顔に何かついているか?」
我に帰る。
何故呆っとしてしまったのか、自分でも理由は判らなかった。
それでも、何か言わなければと妙に焦ってしまう。そう、何故か言葉が出てこなかったのだ。
言葉を捜していると、息子が「なんだ父ちゃん、この姉ちゃんが綺麗だからってぼーっとすんなよ」などと言ってきた。彼は内心助かったと思いながら、息子を叱る。すまん、あとで駄賃をやろう。
誤魔化し笑いを浮かべながら、市が開かれている場所を丁寧に教えてやる。
ふんふんと女性は頷き、その端整な顔立ちを笑みに彩り、ありがとう、と彼に言った。
そして彼が教えた方向に歩いていく。さらさらと揺れる長い髪が、まるで光を反射するような美しさを誇っていた。
彼女は振り向かない。
息子が、ばいばい、と手を振った。
その時だけ、彼女は振り向き、小さく手を振って、また再び歩いていく。
その姿が小さくなって見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
何故だかそうしたかったのだ。何故だかそうするべきだと思っていたのだ。
そうやっていると、裾をくい、と引っ張られた。息子がこちらを見上げている。
どうした? と聞くと、「本当なのか?」と聞き返された。
何がだ? と聞くと、「妖怪の話だ」と答える。
「ああ――」
何でも、先ほどの女性にも同じようなことを言われたのだという。
夜は、特に満月の夜は危ないから外に出ちゃいけないぞ、と。
全く、父の言うことは信じなくて、綺麗な女の人から言えば信じるのか、と息子の単純さを笑いながら、彼はこう答えた。
「そうだな。満月の夜には妖怪がでる。だから、外に出るのはいけないことなんだ」
『満月の晩に外を出歩くな、恐ろしい妖怪が出て食べられてしまうぞ』と。
ありきたりだがそれゆえに効果的な伝聞、もちろん各家族の親たちは口をすっぱくして我が子に言い含めた。
だがどこにでも腕白な子供というものはいる。
一人の少年が、満月の晩、夜だというのに明るく照らされた申し訳程度の街道を走っていた。
その少年は物知らずゆえの蛮勇を持って、この伝聞が嘘だと友人たちに証明してみせると意気込んでいた。
そしてその帰り道である。少年は正直ドキドキと高鳴り通しの胸を押さえながら、やはり伝承は伝承なんだと笑みを浮かべていた。
後数分もあるけば里に着く。そう、この街道の肝であるちょっとした丘、ここを登ってしまえば……伝聞は嘘なのだ、と大きな顔で自慢できるのだ。考えただけでわくわくしてしまう。
わくわくとドキドキが混ざり合い、心の臓が跳ねている。足を踏み出そうとしたとき、明るく照らされていた視界は薄暗く夜の帳に落ちる。空を眺めたら、丸い月を雲が隠していた。
けれど浮ついた気持ちを止められるはずも無く、少年は浮かした足を地に着け――、
そんな気持ちは、その瞬間に吹き飛んだ。
少年は霊的素養は殆ど無い。なんだかんだで幻想郷、その人里に住む者たちは霊的な感覚に鋭敏なものが結構いる。
しかし少年にはその手の感覚に遠く、妖怪に知らない間に食べられてしまうのではないか? といつも大人たちに言われていた。
それでもこういう蛮勇だけは持ち合わせていたから、厄介といえば厄介な子供ではあったのだ。
そんな、鈍感な子供である少年。彼が……背筋を震わせ、肝を冷やし、……そして心を凍らせるほどの妖気。そんな妖気が、辺りに充満した。
否。それは、少年に向かっていたものだろう。
あ、と頭を真っ白にして、呆けてしまった少年の目の前に……人影が降り立った。
長い髪と、揺れる長いスカート。それだけを見ればそれはまるで人間で、夜遅いとはいえここでみかけてもまあ不思議はないだろう。
しかし、頭に生える二本の角は、まるで月を穿たんとばかりに天を衝き……それが異様。正にソレは、妖怪、そのものだった。
見つめる。少年はただ呆然としていた。強烈な妖気に中てられたせいなのか、突然の出来事に遭遇したせいなのか。ただその聳える二本の角を注視して……あ、と声にならぬ吐息を漏らすのみだった。
と。雲が流れ、月の光が再び大地を照らす。
夜と思えぬ明るさが辺りを包み、暗く形しか見えなかった目の前の妖怪の全貌が露わになった。
それは美しく。神々しくさえあった。
そういえば、と少年は思い出す。その満月の晩に現れる妖怪は……妖しき美しさをも持って、人々を魅了するという話も無かったか――?
囚われる。止まって久しい、心の臓が再び鐘を打ち鳴らす。
それは。命を失う、という恐怖ではなく。それはもしかしたら――、
ぎゃあ、と声が響く。ばさばさと、鳥たちが急いで飛び立つ音がした。
びくり、と少年は体を揺らし、音の方向へ向き直ろうとして……目の前の妖怪のことを考えた。
コレは違う。此処はいつもの平和な自分の世界とは違う……ようやく、少年の頭に人間としての常識が流れ込む。正しく動き始めた血液が運んできたのか、頭がずきずきと痛み出しすらした。
――逃げなくては。
その思考が表に出るまでにどのくらいの時間を要したのだろうか。
きっと、その間に目の前に降り立った妖怪は十回は少年を殺せたであろう。
だが。少年は今走っている。里へと走っている。途中何度か足をもつらせ転んだ時の擦り傷はあるが、基本的に無傷だった。
かなりの距離を走った。丘の頂上を越えようというとき、少年はふと思い後ろを振り返った。
「え……?」
そこには、
疎い少年にも判る妖気の塊と、
それを撃ち込んだのであろうよく判らない嫌な笑みを浮かべた妖怪が――、
衝撃。
びりびりと響くそれが身体を撃ち抜くものではなく、あたりの空気を震わすものだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
思わず瞑ってしまった目を開くと、そこには長い髪、さらさらと音を立てていそうな美しい糸が揺れていた。
少年の前には、先ほどの妖怪が居て。
先ほどの妖気の塊は、きっと彼女が防いでくれたのだろうと少年は思った。
何故、とは思わなかった。
思う余裕が無かったというのはもちろんだが、何故かその妖怪がそうするのは自然なことだと思っていたのだと思う。
そして、目の前の妖怪で見えないが、向こうの空にはまた一匹、ちがう妖怪が居るとようやく気付く。
先ほどのこちらを狙った妖気は、あの妖怪が撃ったのだろう。
そう確信すると、遅れて恐怖がやってくる。ドクドクと暴れだした心の臓と、乱れる呼吸が生を教えてくれた。
その時、目の前の妖怪が口を開いた。
こちらを振り向き、まるで射るような目で少年を見つめていた。
生憎、少年は自身の心拍音が邪魔で声は聞くことが出来なかったが、唇の動きで何を言ったかは読み取れた。
「逃げろ」と言ったのだ。彼女は。
動作不良していた生存本能は、その一言で息を吹き返したのか。
それまで以上に暴れだした心の臓を押さえ、少年は転がるようにして駆け出した。
後ろは、振り向けなかった。恐ろしい音がして、強烈な妖気が漂っていたというのもあるが。
もう一度あの姿を見たら、きっと動けなくなる気がしたからだ。
そして里に帰り着いた少年は、こっぴどく親に怒られ。
それ以来夜には出歩かなくなった少年は、もう妖怪に不意に出会うことは無かった。
◇
『満月の晩に外を出歩くな、恐ろしい妖怪が出て食べられてしまうぞ』
その人里にはこう伝えられている。
彼もそうして、自分の子供に言い聞かせていた。
けれども腕白な子供というものはどこにでもいるもので、信じて怖がる子供がいる一方、そんなのはただの迷信だという子供もいる。彼の息子は後者だった。
自身もそうだったことを思い出し、彼は苦笑しながら、農作業の続きをしようと鍬を手に取る。
しばらく農作業に精を出していると、息子が帰ってきた。
無茶なことをしていないのだと判りほっとする。全く、自分は本当に親に心配をかけていたのだな、とこのところ彼は反省しかしていない。親の心子知らず、とはよく言ったものだ。
息子を迎えようとしたところで、息子の後ろに人影が有ることに気付く。
遠目から見ても美しいということが判る、その長い髪が目を引く女性だ。……なんだかヘンな形の帽子を被っているということはまあ置いておこう。
やがてその女性と息子がやってくる。
なんでも息子の言によれば、少し離れた場所に住んでいるのだが食料の備蓄が尽きた、買出しに来たのだが市はどこにあるだろうか、ということらしい。
彼は軽く微笑んでその女性の顔を真正面から見つめて――、
「どうした? 私の顔に何かついているか?」
我に帰る。
何故呆っとしてしまったのか、自分でも理由は判らなかった。
それでも、何か言わなければと妙に焦ってしまう。そう、何故か言葉が出てこなかったのだ。
言葉を捜していると、息子が「なんだ父ちゃん、この姉ちゃんが綺麗だからってぼーっとすんなよ」などと言ってきた。彼は内心助かったと思いながら、息子を叱る。すまん、あとで駄賃をやろう。
誤魔化し笑いを浮かべながら、市が開かれている場所を丁寧に教えてやる。
ふんふんと女性は頷き、その端整な顔立ちを笑みに彩り、ありがとう、と彼に言った。
そして彼が教えた方向に歩いていく。さらさらと揺れる長い髪が、まるで光を反射するような美しさを誇っていた。
彼女は振り向かない。
息子が、ばいばい、と手を振った。
その時だけ、彼女は振り向き、小さく手を振って、また再び歩いていく。
その姿が小さくなって見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
何故だかそうしたかったのだ。何故だかそうするべきだと思っていたのだ。
そうやっていると、裾をくい、と引っ張られた。息子がこちらを見上げている。
どうした? と聞くと、「本当なのか?」と聞き返された。
何がだ? と聞くと、「妖怪の話だ」と答える。
「ああ――」
何でも、先ほどの女性にも同じようなことを言われたのだという。
夜は、特に満月の夜は危ないから外に出ちゃいけないぞ、と。
全く、父の言うことは信じなくて、綺麗な女の人から言えば信じるのか、と息子の単純さを笑いながら、彼はこう答えた。
「そうだな。満月の夜には妖怪がでる。だから、外に出るのはいけないことなんだ」
素直に『いい』と思えました、私の大好きなタイプのお話です。ありがとうございました。
ところどころ、此処は読点でいいんじゃないかなぁという所が句点になってましたが演出かしら?