それからしばらくの間、他愛もない話を続けているうちに疲れと眠気に負けてしまったようで、アリスはうつらうつらと舟をこぎ始めていた。
話し掛けようとしてそれに気がついた霖之助は、じっとその姿を眺めている。
(……普段慣れないことをして疲れたんだろうね)
微妙に失礼な気もするが事実そのとおりである。アリスが他者と深く関わることなど基本的には皆無に等しい。そのため病気で倒れた相手を看病するという行為は、今まで全くと言っていいほどしたことがなかったのである。
そんな彼女が決して軽い病気ではなかった魔理沙を看病することになったのだ。それは心身ともに疲れもするだろう。
「……すー……すー」
そんなことを考えていると、アリスはかわいらしい寝息を立てて、本格的に寝入ってしまったようだ。
霖之助は立ち上がり、彼女を起こさないようにそっと毛布をかけてやる。その時、つい無意識の内に、まるで魔理沙を相手にするかのような調子でアリスの頭を撫でてしまった。
「おっと」
慌てて手を引っ込め、椅子へと戻る霖之助。
どうやら彼はアリスを魔理沙と同系列の位置に見てしまったようである。霖之助からして見れば、可愛らしい反抗を見せる魔理沙も、素直になれない性格のアリスも同等に子供なのだろう。
(言えば二人とも反論してくるんだろうけどね)
そんなことをすれば自分が子供だということをわざわざ主張しているような物だろうが、多分当人たちは気が付かないのだろう。
なんとなく微笑ましい気分になって、二人を交互に見つめる。
「……くー……」
「……すー……」
少女達が奏でる寝息を耳にしながら、霖之助は二人を眺めていたのだった。
アリスが眠ってしまってから二時間ほどが過ぎた頃。
「う……ん」
ベッドにて眠りつづけていた魔理沙が寝返りをうった。どうやら目覚めそうな雰囲気である。
「……ん」
もう一度寝返りをうつと、うっすらとその瞳を開く。
「…………あれ……兄様」
寝ぼけ眼で霖之助に視線を合わせ、そんなことを口にする。
「なんだい」
「……えへへ、兄様だぁ……」
返事とともに頭を優しく撫でてくる霖之助に、魔理沙は無邪気な笑みを向ける。
「兄様……もう、どこにも行かないでね……」
未だ半分夢の中に居るような状態で、魔理沙は霖之助の手をぎゅっと握り、頬を摺り寄せる。
「ああ、僕はここに居るよ」
「……そっか……よかった」
頬擦りをもう一度だけすると、その手を大事そうに握り締めたままで、魔理沙は目を瞑り再び寝息を立て始めようとして、
「…………え」
――パチリ、と目を開ける。どうやら今度は完全に目が覚めたようだ。
「どうかしたかい」
嬉しそうに目の前で微笑んでいる霖之助と、自分が握っている彼の手から現状を冷静に再認識。
そして先ほどまでの夢見ごこちの中での出来事を思い返し、ずるずると布団の中へ潜り込む。
「……迂闊だぜ」
布団の中からくぐもった声が聞こえてくる。そして何やらもぞもぞとした動き。どうやら魔理沙は羞恥心の余り身もだえしているようだ。
「そうかい? ……しかし君から兄様なんて言われることは――」
「あーあーうるさいうるさい」
わざわざ布団から顔を出し、霖之助の台詞を遮りながら両手で耳を塞ぐ仕草をする。聴こえないと主張しているようである。
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか」
「何の話だ? お前、夢でも見ていたんじゃないのか」
無かったことにしようととぼける魔理沙。
「僕としては久々で嬉しかったんだけどな」
そんな彼女に苦笑しながら霖之助は言う。
「……っ」
その言葉に魔理沙の耳がぴくりと反応する。
「……」
「……」
「……」
「……? どうかしたかい」
唐突に無言になる彼女にそう問い掛ける霖之助。
「……あー、その」
「ん、どうしたんだい」
彼女にしては随分と弱気な態度でちらちらと霖之助の顔色をうかがい始める。
「…………嬉しかった……のか?」
霖之助は少し目を見開くと、魔理沙にとってはとても馴染み深い優しい笑顔を向ける。
「……ああ、嬉しかったよ」
「…………そうかい……」
言葉の最後に聴こえるか聴こえないかぐらいの小さな声で、ぼそりとした一言を加える。それは確かに「兄様」と聞き取れた。
当然のように聞き逃さなかった霖之助は、浮かべた笑みを更に深くする。
「なんだい、魔理沙?」
「……ああもう! なんでもないぜ!」
下がったはずの熱がぶり返したのではないかと思うほど、顔を真っ赤に染めた魔理沙が、自分の感情を悟られまいと必死になって誤魔化そうとする。
それに対し無言で笑みを向ける霖之助、彼のそんな態度に更なる反発をする魔理沙。普段の飄々とした彼女からは考えられないほどに子供なやりとりだが、それはどこか嬉しそうにも見えるものだった。
「……で、一体どれくらい寝てたんだ?」
「丸一日近く寝てたんじゃないかな。もう翌日の朝方だよ」
「そりゃまた随分と寝坊したもんだ」
そんな会話を交わしつつ、今まであったことを霖之助は説明する。永琳のことはまだしも、アリスが自分の面倒を見てくれていたことに、魔理沙は少なからず驚いているようだった。
「あいつが私の看病をするなんて、今日は雨でも降るのかもな」
「おやおや、随分な言い草だね」
「いや、別に感謝してないってわけじゃないんだが……どうもなあ……」
首をかしげる魔理沙、どうもその構図が上手く浮ばないようだ。彼女のイメージとしては、余り他人と係わり合いになろうとしないのがアリスである。霖之助の口から聞いた話の様に、熱心な看病するなんて事はまいち想像できない。
「わざわざそんなことに骨折るような奴かなと思ったんだよ」
「ふむ……それじゃあ聞くけれど、もしも立場が逆だったら君はどうするんだい?」
「あー? そんなの看病するにきまってるだろ」
全く悩む素振りを見せずに即答する魔理沙。なんだかんだでお節介な彼女が、目の前で寝込んでいる友人を目にして頬って置けるはずはないのである。
「つまりは……そういうことなんじゃないかな」
「むう……お前の言いたい事はわかるが……私はあいつに何時も鬱陶しがられてるんだぜ?」
いつもは口にしないような本音がちらりと顔を覗かせる。どうも何時に無く饒舌になっているようだ。
「はは、そんな事か」
「おい」
それをそんな事呼ばわりされ、魔理沙は少し不機嫌そうになる。それを見て彼は軽く目で謝る。
「だがね……やはり君はもっと自分に自信を持って良いと思うよ」
「私は何時だって自身満々だぜ」
「そうだね、普通の事なら何時も胸を張っているけれど……感情面の事となると途端に臆病になるからね。君は自分では必要以上に相手に対して好意を向けるくせに、相手から受ける好意は苦手なんだよ……だから自分が好かれているという事に気付き難い」
自覚しているのか痛いところを突かれたように霖之助から視線を逸らしながら魔理沙は反論する。
「……何やら随分と好き勝手に評してくれたようだが……それはお前の勘違いじゃないのか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まあ少なくとも僕は君のことが好きだし、自分の時間を割いて君の看病をした相手がいるということも事実だよ」
「…………むぅ」
さも当然のようにそんな事を言われ、恥ずかしくなって押し黙る魔理沙。体を起こすと何とは無しに室内に視線を巡らせる……すると。
「げっ」
彼女の目が椅子に座っているアリスを捉える。どうやら今まで横になっていたため、死角になっていて見えなかったのだろう。
魔理沙が気付いていないことを知って、霖之助はわざわざあんな会話を選んだのかと一瞬だけ疑いかけるが、視線の先の少女が規則正しい寝息を立てていることに気が付くと、ほっと胸を撫で下ろした。
「……お前なあ、居るなら居るって教えてくれても良いだろうに……悪趣味だぜ」
「おや、僕は彼女が帰ったなんて一言も言っていないけどね」
「そりゃそうだが……」
とはいえ判っていてやったであろう事は明白である。
「……まあいいか」
余り納得の行かない様子の魔理沙だったが、聞かれていないのなら良いだろうと結論付けた。
「さて、ずっと寝ていたんだし、お腹が減っているんじゃないかな」
「あー、かなり減ってるな」
「丸一日近く眠りつづけていたんだしね……待っててくれ、食べる物を作るから……台所借りるよ」
「それは有り難いが、別に急がなくても……」
くるるー
いいんだぜ、と続けようとしたところで、魔理沙のお腹が可愛らしい音を立てた。
「……あー」
まるで催促するかのようなタイミングでなってしまい、彼女はばつの悪そうな表情で頭を掻く。
「……まあ、魔理沙がいつ起きても良いように、下準備は終わっているからすぐに出来るよ」
そう言うと霖之助は微笑みながら台所へと向かっていった。
「味は悪くないと思うんだけど、どうかな」
数分もしないうちに土鍋に入った雑炊を完成させた霖之助。自分の分も作ってあるのかそこそこの量がある。ちなみに魔理沙は寝ながら食べるのは流石に行儀が悪いと隣の部屋まで移動していた。
「……」
「……ん、どうかしたかい」
一口含み、魔理沙好みの味付けになっていることを再確認する霖之助とは対象的に、彼女は雑炊に手をつけない。
「お腹が減ってない……わけではないよね」
そう言って彼女の顔を覗き込むと、どこか恥ずかしげな表情をしていた。
「あー、あのだな、香霖」
「なんだい」
「私は病人なわけだ」
「そうだね」
「病人というのは看病して貰ってなんぼなもんだろ」
「まあ確かに」
「よし」
それじゃあ、と言うと彼女は霖之助に向かって口を開く。
「あーん」
「……は」
「だから、あーん」
一瞬頭が真っ白になりかける霖之助だったが、魔理沙が微妙に震えている事に気が付いた。やっている本人も、非常に恥ずかしいのだろう。小さい頃ならまだしも、この年頃になってからこんなのは初めてなのだから。やはり病気になると弱気になるのだろうか、それとも久しぶりに甘えたいだけなのか。
「……まったく」
一つ息をつくと自分のお椀を置いて、魔理沙の物を手に取る。
「ほら、あーん」
苦笑しながら彼女の口元へと匙を持っていく。しかし魔理沙はこれにも口をつけない。
「……?」
「……まだ熱いぜ」
その言葉に更に苦笑するが、今更かと思い直し聞き入れることにする霖之助。
「仕方がないな…………ふー、ふー……あーん」
「あーん……うん、美味い」
今度こそ、それを口にして咀嚼をすると、魔理沙は素直な感想を述べてきた。
「伊達に一人暮らしが長いわけじゃないな」
「はは」
彼女のそんな皮肉を聞き流しながら、二口目を掬う。
「ふー、ふー……ほら」
「あーん……んく……まったく、最初から素直にやれよ」
恥ずかしさを誤魔化すためかそんなことを言う魔理沙。
(どっちが素直じゃないんだかね)
霖之助はそんな事を思うが当然口には出さない。
「ほら、早く次」
「はいはい」
そんな考えも魔理沙の催促によって振り払われる。
それからも暫しの間、カチャカチャという音と魔理沙の可愛らしい催促の声が繰り返されるのだった。
正直言って他の人間が聞いていれば赤面は避けられないし、魔理沙にしても聞かせたくは無いだろうその会話は、
(…………お、起きられない……)
実は目が覚めていた寝室のアリスにばっちりと聞かれていたのだった。
(……ったく、人が眠ってるって言うのになんてことしてるのよ……まあ寝てると思ってるからこその行動なんだろうけど……ああもう)
せめてドアぐらい閉めて居てくれればここまで聞き取れはしなかったのだろうが、自分が閉めに行くわけにもいかない。拷問じみたそんな状況に、苦悩しながら赤面するアリス。自分の事に気が付かれていないのが、唯一の幸運だろうか。
(……でも……魔理沙があんなこと思ってたなんてね……)
先ほどの二人の会話を一通り聞いていたアリスは、魔理沙の台詞について考えをめぐらせていた。
(いつも自身満々なくせに、そんな不安を抱えてたなんて思いもしなかったわ…………それに、私に対しての事も)
元々孤独だったアリスの近くに堂々と踏み込んで来て、好き勝手に暴れまわっていた魔理沙。そんな傍若無人にも見える彼女に、実は弱い部分があるなどという事は、とてもではないが信じられるものではない。とはいえ本人が否定をしなかったのだから事実なのだろう。
(向けられる好意に臆病……ね)
それではまるで自分と同じなのではないだろうかと、彼女はそんな事を考える。
臆病だから相手に嫌われるのが怖い。ならば初めから好きにならなければ良いと、他者との関わりを断っていたアリス。
臆病だから相手に嫌われるのが怖い。ならば嫌われない様に更に近づけば良いと、他者との関わりを深めていた魔理沙。
きっと彼女達は似た物同士なのだ。よく対立するのも同属嫌悪からだったのかもしれない。そしてだからこそ、何度対立しても縁を断つことが無かったのだろう。
(なんだかねぇ……まあいいわ)
自分はきちんと魔理沙に好かれていたのだという喜びも在ったが、相手も同じく悩んでいたことを知り、なんとなく気が抜けてしまう。
まあ当然、会話を聞いていた事など伝える気はないのだろうが。
(でも……少しは素直になって良いのかもね……)
同じ不安を抱えていた二人の内、自分だけがそれを解消してしまったことに多少後味の悪さを感じ、ならばそれは自分がどうにかしようと考える。そして妙案を思いつくと、アリスは心の中でにやりと笑う。
(……ふふ、そうね。今度の誕生日に、精一杯の感謝と皮肉を込めてとびっきりの一発をぶつけてあげるわ)
アリスがそんな風に思考に浸っている間も、魔理沙と霖之助のやりとりは続けられていたらしく、魔理沙の椀は既に空っぽになっていた。
「ふう、ごちそうさま」
「お粗末様」
しかし魔理沙の面倒を見ていた霖之助は、自分の分に殆ど手をつけられないでいた。
「おっと、すまんな……なんなら私が食べさせてやろうか?」
「僕は病人じゃないから遠慮しておくよ」
それに気がつき彼女が提案するが、流石に恥ずかしいので断る霖之助。
「ちぇ、じゃあ今度お前が病気になったらやるからな」
「はは……まあ、そのときはお願いするさ」
随分冷めてしまった雑炊を黙々と口に運び、彼はお椀を空にした。
食事も終え、なんとなく手持ち無沙汰になる二人。病人ならば眠ればいいのだろうが、かなり長い間寝込んでいたため、魔理沙に眠気は全く無い。
そしてふと彼女は、自分が幼い頃にもよく同じような事があったな、と思い出していた。
(あの頃は本当に体が弱かったからなあ……『自分の能力が生かせないから』なんて理由で出て行ったこいつを、結局は半居候みたいな状況に戻したのも……私が原因だったんだよな)
霖之助を見つめながらつい頬を緩めると、彼はそれを自分に向けられたものと取ったらしく、魔理沙へと優しげな笑みを返してくる。
「どうかしたかい?」
「いや、なんでもないぜ」
首を軽く横に振りながら魔理沙は答える。そんな何でもないやり取りも、昔と全く同じだったためか、彼女は既視感を覚える。
そしてまるで自分が昔に戻ったかのような錯覚に見舞われた。
「なあ」
「ん?」
「……いや、呼んでみただけだ」
「そうかい」
特に意味の無い呼びかけにも、嫌そうな顔一つしないで応えてくれる彼を見て、そして本当に昔と全く変わらない自分たちの関係を再認識して……彼女はある欲求が押し寄せて来るのを抑えられずに居た。
「……なあ」
「……?」
先ほどと同じだが、今度は明確な決意を込めた言葉が霖之助へと向けられる。
彼もそれが真剣な色を含んだものと察し、無言で視線を合わせた。
「ひとつ……聞きたいことがあったんだ」
「……なんだい」
今のままでも十分に満たされていると思える。だがもしもこの質問をぶつけてしまえば、今の二人の関係が壊れてしまうかもしれない。だとすればわざわざ聞く必要など無いのではないか……そんな心の葛藤を必死に抑える魔理沙。
しばらく無言の空気が流れるが、霖之助は言葉を発することなくそれを見守る。
(……やっぱり……駄目だな)
再会してからも、どこかで遠慮しあっていた魔理沙と霖之助。
様々な理由はあっただろうが、そんなものは関係無しに自分たちは昔と変わらないと理解してしまった。
だからこそ、わざと無視していた欲求を抑えることが出来なくなり……知りたいと、思ってしまったのだ。
「……何で、来なくなったんだ?」
――――彼が霧雨家に訪れなくなった、その理由を。
「……それは」
「おっと、得る物が無いからなんてふざけた理由は無しにしてくれよ。一度は自分の能力が生かせないと判ったから出て行ったくせに、再び顔を出しに来ておいてそんな理由は納得できないからな」
彼女は、霧雨魔理沙は知っている。
自分が兄と慕ったこの相手が、そんなふざけた理由で世話になった家と縁を切るほど、恩知らずな性格ではないことを。
「そもそも家を出て行った理由からして納得いかない」
「いや、それは本当だよ。現に僕は自分の店を開いているじゃないか」
「うるさい」
彼がする言い訳を一言で切って捨てる魔理沙。彼のそんな態度を見て段々と腹が立ってきたのだろうか、怒気が滲み始めている。
「確かにお前は自分の店を開いてるさ。でもな、あの店でやってることなんか、やろうと思えばうちの実家でも出来たんじゃないのか?」
その通りである。彼女の実家はそれなりに大きいものなのだし、それにそもそも霖之助の開いている店など、ほとんど道楽でしかないようなものである。わざわざ何年も世話になり、家族同然の関係に前なった人間たちを捨ててまでの価値があるとは思えない。
……だがしかし、彼もここで本音を言う訳にはいかない理由があるのだ。そのためなんとか誤魔化そうと必死になって言葉を紡ぐ。
「いやそれは……ほら、やはり自分だけの店を持ちたいと思うのは、当然の事だろう? 他人の店を間借りしていたんじゃ、どうやったって……」
「……あん? …………ふざけるのも大概にしろよ……!」
霖之助のいい訳じみた発言と、それに含まれた『他人』と言う単語が更に魔理沙の怒りを煽る。
「他人だなんて……お前は本気でそんな事を思ってるのか!?」
怒りのままに手の平を机に叩きつける。大きな音が鳴り響き、その後に一瞬の静寂。
「……」
「……」
「…………はぁっ」
じんじんとした手の平の痛みで、何とか冷静さを取り戻し大きくため息をつく。
「……ったく」
「……む……う」
魔理沙の勢いに気圧されて、完全に言葉に詰まる霖之助。
「……まあ……それはいい。本題は別だからな……もう一度聞く、なんで家に来なくなったんだ?」
幼い頃、彼女はたまに自分の家にやって来る霖之助と出会い、その度に様々な話をするうちにとても仲良くなった。それからは来訪する回数も増え、まるで本当の兄のように彼を慕うようになっていった。
彼自身もその関係は満更でもなかったらしく、自ら進んで里の外の話をしたり、魔理沙が病気になった時などは親身になって看病してくれたりもした。
そして当然のようにそんな生活が続くものだと思っていた……だがしかしその関係も、霖之助が唐突に「二度と来ない」と去っていったために終わりを告げたのだ。
「ろくな理由も言わずに姿を見せなくなってから、私がどんな思いをしたのかわかってるのか?」
「……それ……は」
「誰に聞いても曖昧な答えしか返ってこないし、本気で問い詰めても軽くあしらわれる……あの時ほど自分が子供なのが憎いと思ったことはないさ」
「……」
「だからはじめの頃はもしかして嫌われたから来なくなったんじゃないかとも思った。でもな……仲良く遊んでた近所のやつらと話していて気がついたんだ……私が大好きだった兄様は、実は他の人間には嫌われていたんじゃないかってな」
怒気を滲ませ勢い付いていた魔理沙の言葉が徐々に弱くなり、その代わりに悲しげなものが混じり始める。
無言のまま話を聞いている霖之助もその顔には苦い物が混じり始めていた。
「正直、信じられなかったさ。だってそうだろ、今まで普通に接してきたってのに、何時の間にか胡散臭げな目で見られてたんだぜ? 何か悪いことをしたわけでもない。何かが変わった訳でもないってのに……ほんとに、わけがわからなかった……でも」
「…………人間は、不変なものにこそ畏怖を覚える」
「ああ……そういう事だったんだよな」
苦渋に満ちた表情の霖之助が、もうこれ以上は無理だと悟ったのか自分からそれを口にする。
「お前は半人半妖だから、普通の人間に比べて歳を取るのが遅い……そんなくだらないことは、私からしてみれば些細なことだった。というか気にしたことも無いような事でしかなかったんだ……でも、他の人間はそうじゃなかった」
かつて霖之助が霧雨家を出て行った理由もそれが原因だったのだ。そしてほとぼりが冷めた頃に再び顔を出すようになった。付近の住民も殆どが彼の存在を忘れ、誰に気が付かれる事も無い……筈だったのだが、再び彼は負の視線で見られるようになってしまった。
その切っ掛けは魔理沙と仲良くなったためであった。
彼女と頻繁に会うようになった事により、他の住民に顔を見られる機会が増えてしまった。そして止めが魔理沙の病気だった。看病をしていた霖之助を見かけた老人の一人が、かつて自分たちが畏怖した相手だということに気が付いてしまったのだ。
その頃ですら変わらない姿に恐れ慄いたというのに、かなりの年月が流れた今でも一向に変わらない彼を見て、その老人は思ったのだ。
霧雨の娘が病弱なのは、あの男がなにか良からぬ呪いでもかけているからではないかと。
そしてその噂は瞬く間に広がったのである。
「私が生まれる前に居たくせに、生まれたその後もずっと同じ姿をしているなんて、周囲の人間から見れば不気味以外の何者でもなかったんだ……はん、人間じゃないからって何が変わるってわけでもないのにな」
魔理沙は吐き捨てるように言う。
「その上……呪いだ何だと……笑えない冗談だ」
「……仕方が無いさ、元来妖怪というものは人間を襲い、人間によって倒されるものなんだ。そんな事を思われても仕方が無い」
既に形骸化した常識を、彼は当然のように述べてくる。それを聞き、魔理沙は頭に血が上ってきてしまう。
「でも……でも兄様は半分人間じゃない!」
「……そうだね……でも、半分は妖怪だよ」
「……っ!!」
激昂しかける自分を押さえ込み、魔理沙は何とか冷静を保とうとする。
「そうだよ、だから顔を出さなくなったんだ……悪意のある視線を向けられて平気で居られるほど、僕の神経は太くないからね」
「……そうかい」
紡がれようとしている決定的な言葉を恐れるかのように、霖之助は彼女を納得させる事が出来る言葉を探す。だがしかし、視線を泳がせながら口にした、その場しのぎでしかない台詞は説得力など皆無だった。
「信じられない、って顔してるね……でも本当だよ」
彼自身としても、こんな言葉で納得させる事が出来るなどとは思っていない。しかしそれでも何か言わずには居られないのだろう。
「いや、確かにそれも嘘じゃないだろうさ……でも、一番の理由じゃないんだろ」
「……っ」
無駄だと知りつつもポーカーフェイスを気取ろうとしていた霖之助の表情が固まり――そして魔理沙の口から、決定的な一言が放たれる。
「兄様はさ……私達に迷惑を掛けたくなかったんだよね」
「…………!」
今度こそ、言葉を失う霖之助。彼が必死に誤魔化そうとしていたのも、この一言を聞きたくなかったためだ。自分の行動によって彼女の精神的な負担が増える事などは望んでいなかったのだから。
「自分みたいな化け物と仲が良いと、私たち家族も同じような目で見られるからって……だからなんだよね?」
そして既に魔理沙の口調は完全に幼い頃のものに戻っており、それが更なる重みとなって弾劾するかのように彼の胸を押し付ける。
「……」
無言の彼の態度から、それを肯定と受け取った彼女は更に続ける。
「……そんなこと私が気にするとでも思ったの? 周りの人からの負の視線なんかよりも……そんなものなんかよりも……っ!」
感情が高ぶり、まるで悲鳴のような声で魔理沙は思いを叩きつける。
それを聞く霖之助は、まるで裁きを受ける罪人のような表情で次の言葉を待つ。
――――そして、怒りよりも遥かに大きな悲しみの混じった声色で
「兄様に会えない事の方が、よっぽど悲しかったのに……っ」
――――霧雨魔理沙は、抱きつづけていた思いを口にした。
血を吐くような想いの篭った彼女の言葉を聞いて、霖之助は完全に頭の中が真っ白になっていた。
「……」
「……ひっ……く」
絶句する彼の眼前には、嗚咽を漏らし泣き崩れる少女が一人。
「……」
彼は思う。
どうしてこんな事になったのだろうかと。
自分はこの子を悲しませたくないから居なくなったのではなかったのかと。
最後の挨拶の時に彼女のためを思って、あえてきつい態度で別れを告げた事も、良かれと思ってのことだった筈だ。
そうして嫌いになってくれれば、悲しむことも無いだろうと思ったのだ。
ならば何故――
(何故、魔理沙は泣いているんだ……っ)
押し寄せる後悔の念。
あの時の自分の判断は本当に正しかったのだろうかと自問自答する。
だがそんな事はするまでも無いことは判りきっている。
(正しかったのならば、これほどまでにこの子を悲しませる事にはならなかっただろうがっ!!)
出来る事ならば、今すぐにでも自分を殴り倒したい。
そしてその後は、涙を流しつづける少女を抱きしめてあげたい。
頭を撫で、謝罪をし、自分はここに居ることを伝えてあげたい。
(だが……この僕に、そんな事をする資格は……)
今までのことを考えると、彼女が家を飛び出したのは確実に自分が原因だろうと彼は確信した。
(この子がこんな道を歩む事になったのは……僕のせいだ)
親元を離れ、人里を離れ、こんな僻地に一人で住まうことになった魔理沙。本来ならば裕福な家庭で普通の少女のように恋をし、結婚し、子供を産み、幸せに過ごすはずだった彼女の人生。家を飛び出してからの数年は、人外のものに比べて遥かに短い一生のなかでも、さらに短く、しかしとても重要な期間のはずだった。青春時代と呼ぶであろうそれを、彼は潰してしまうことになったのである。
「……っく」
未だに止まない魔理沙の嗚咽が、霖之助を更に攻め立てる。
(……くそっ)
悲しみで泣き続ける魔理沙と、後悔で苦悩しつづける霖之助。
普段の二人からは考えられないような、ある意味で膠着状態とも呼べる状況になってしまっていた。
「……っ!」
「な、魔理沙!」
そして、その状況に耐えられなくなったのだろう、彼が止める間もなく魔理沙は立ち上がり、寝巻きのままで外へと出て行ってしまった。
霖之助は立ち上がり手を伸ばした状態で固まっていた。そしてしばらくの後、伸ばした手を虚しく握り締めると、肩を落として再び椅子に座り込む。
「……はぁ……」
深い、深いため息。
普段ならば、未だ病人である魔理沙を追うのが筋だろう。しかし今の彼は彼女に対しての後ろめたさが大きすぎて、それが出来ないでいた。
「…………はぁ……」
更に深いため息。
――そしてその直後
バシィィイン!!
激しい衝撃が彼の頬に走り、脳天を揺さぶった。
「ぐ……な」
堪らず椅子から転げ落ちる霖之助。何事かと彼は視線を向ける。
「……ぁ」
そこには憤怒の表情のまま、霖之助を睨みつけているアリスが佇んでいた。
彼女は大きく息を吸い込むと――
「こんの……っ……大馬鹿っっ!!!!」
爆発したかのような大声で、霖之助を怒鳴りつけた。
「……な」
隣の部屋で眠っていた居た彼女の存在を、霖之助も魔理沙も完全に失念してしまっていたのだ。だからこそあそこまで本音で言い争っていたのである。
しかし実際には起きていた彼女はそれを一部始終聞いてしまっていたのだ。とはいえああも大声で騒がれては、例え本当に寝ていたとしても目が覚めてしまっただろうが。
そういった訳で二人のやり取りを聞いていたアリスは、当然ながら全てを理解していた。だからこそ、彼の態度に激怒したのだ。
「あんたねえ……何考えてるのよ!」
「何……とは……?」
「それ本気で言ってるの? ……それなら少しでも貴方に感心した私が馬鹿だったってことかしらね」
遠慮の無い痛烈な嫌味を叩きつけるアリスと、反論が出来ないで居る霖之助。
「……」
「何? だんまりってわけかしら? ……なら言わせてもらうけど……なんであんな様子の魔理沙を追わないのよ。原因はあんたでしょうが!」
「……ああ、そうだ。あの子が悲しむことになったのは僕が原因だ。だから――」
「だからなによ? ……ふん、言わなくても良いわよ。さっきから聞いていたから、貴方の考えてることは手に取るように判るわ……どうせ自分が追えば更に悲しませるとかなんとか思ってるんでしょ……馬鹿じゃないの?」
「……っ」
「図星、って反応かしら……ほんっとに馬鹿ね貴方」
何度も繰り返し罵倒をするアリス。それを否定する材料は一片たりとも存在しないと思っているのか、霖之助はやはり反論をしないでいる。
「何考えてるの? 魔理沙はまだ病気が完治してないのよ……それをこんな早朝の冷え込んだ中に放り出すなんて……!」
「いや、放り出しては――」
「例え魔理沙が自分で出て行ったとしても同じ事でしょうが……何で追わないのよ。それとも何、あいつはもう貴方にとって大事じゃないとでも言いたいわけ?」
「……っ、そんな筈は無いだろう!」
つい過剰に反応して大声で返してしまう霖之助。しかしアリスはそれを冷めた表情で受け流す。
「そう、じゃあもう一度聞くけど、何で追わないの?」
「それは……」
霖之助は言葉を濁そうとするが、アリスの視線がそれを許さない。
「……それは……僕には、あの子を慰める資格が無いからだよ……」
「……はぁ?」
心底呆れたような声を出すアリス。
「だってそうだろう? 彼女を傷つけたのも、彼女の人生を狭めたのもこの僕なんだ。そんな人間が――」
「ああもう判ったわよこの馬鹿」
彼の言葉を途中で遮り再び罵倒するアリス。
「資格が無い? 何よそれ、そんなのあんたの勝手な思い込みでしょうが」
アリスは呆れを通り越して蔑みすら滲ませている。
「それ……は」
「大体にして結局今の道を選んだのは魔理沙本人じゃない」
更に彼女は追い討ちをかける。
「まだわからないの? じゃあ言ってあげるわ」
ふっ、と今まで湛えていた負の感情を一切消し去り、見た事も無い真剣な表情になるアリス。
「……判ってるでしょ、魔理沙があんな顔をするのは貴方の前だけだって事くらいは」
確かに霖之助は理解していた。魔理沙が自分の前では最も自然体で居ることを。
「散々人のこと評価してくれてたみたいだけど、貴方は自分自身の価値については理解して無いのよね……結局あんたも同じなのよ。人からの好意に鈍いのは」
「僕自身の……価値?」
「昔のことで魔理沙を傷つけたってのは事実でしょうけど……でもそんな過去のことに縛られてないで、今はどうなのかを考えなさいよ」
「……今は、どうなのか」
まるで鸚鵡のようにアリスの言葉をくり返す霖之助。
「そうよ……今現在、悲しんでいる魔理沙が一番求めている相手は誰なのか、その魔理沙を癒したいと一番思っているのは誰なのか! ……そんなの、簡単なことでしょう?」
そうである。傍観者でしかなかったアリスですら気付くことができるのだ。魔理沙の人生の中で一番長い付き合いの霖之助が気付けぬはずが無い。
「……ああ、そうか」
当事者だからこそ、近過ぎたからこそ気付くことが出来なかった魔理沙の、そして自分自身の想いを彼はやっと理解した。
「ほら、わかったでしょ……魔理沙を慰めることができるのなんて、貴方しか居ないのよ」
「……ああ、そうだ。自惚れでなければ、あの子を一番大切に思っているのは……この僕だ」
「ふん、そうよ……今は自惚れてなさい……それが正しいんだから」
「……気付かせてくれて有り難う」
アリスに心からの感謝を告げる霖之助。
「ふん……ほら、そろそろ行きなさいよ。あの調子じゃそう遠くへは行ってないでしょうから、頑張れば追いつけるんじゃない?」
「……有り難う」
もう一度アリスへ礼を言うと、霖之助は魔理沙を探すべく朝靄の出始めた森へと飛び出していった。
幸いなことに魔理沙は箒で飛び出したのではなく、自分の足で走り去ったようだった。気配を辿ると数百メートル離れた場所に居るのが感じ取れた。
「ふっ」
頬を掠める木々の枝を無視し、そこへ向けて全速力で走る霖之助。本気を出した彼は、数秒もたたぬうちに彼女のところへと辿り着く。
「魔理沙っ」
そして彼が辿り着いたそこには、木の根元で蹲り肩を震わせている少女が居た。
「……こんな所に居たのか」
立ち止まり軽く息を整えると、霖之助は衣服が朝露に濡れるのも構わずに膝を突く。
そして彼女に向けて手を伸ばす。
「っ!」
しかし気配に気付いた魔理沙は、まるで癇癪を起こしたかのように拳を振り回し遠ざけようとする。だが彼はそれが当たることを気にも留めずに当然のように近づく。
「ぅ……うぅー!」
眼鏡を弾き飛ばされるがそれすらも気にせずに、歯を食いしばり涙を堪えながら拒絶しようとする彼女の肩を掴み、自分へ顔を向けさせようとする。
「魔理沙」
「ひっく……うぅ」
いやいやと、魔理沙はまるで子供のような仕草で拒絶を示そうとする。
「魔理沙、こっちを見てくれないか」
「……っく」
「……魔理沙」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を逸らし続ける魔理沙に、霖之助は根気よく、優しい声で話し掛け続ける。
しばらくの間、何度か同じ言葉が繰り返された。そして根気負けしたのか彼女は視線を上げ、ようやく彼の瞳を覗き込んだ。
「…………魔理沙」
その視線の先では彼女の最愛の兄が、慈しむような目でこちらを見つめていた。
「兄……様……」
優しく伸ばされた彼の指先が、流れ続ける魔理沙の涙を拭い、もう片方の手を頭の上に載せる。
「……あ」
慣れ親しんだ温かく大きな手の平に包まれ、彼女の涙がぴたりと止まる。
「……」
「……」
暫くの間、魔理沙はされるがままに撫でられる。お互い無言だったが、先ほどまでと違い彼女の心は随分と落ち着き始めていた。
「魔理沙」
「……兄様」
視線という物は雄弁である。魔理沙は自分の名前を呼ぶ霖之助の眼差しに様々な物を見て取った。
そして彼の口から、それを裏付けるような言葉が放たれた。
「すまないね、魔理沙……そして、有り難う」
謝罪と、感謝。
その二つの言葉に含まれた意味を魔理沙は正しく捉え、そして優しい手の平の感触と相まって、堪えきれない想いが込み上げてくる。
「……っく」
はらりと、一度は止まった涙が再び頬を伝うのを感じた。
だがしかし、今度は先ほどの物とは違う、嬉しさゆえの涙である。
「う……っく……う、うあああぁぁっ」
そして勢い良く霖之助の胸へ飛び込み、感情の赴くままに泣き喚く。
「本当にすまない」
自分のせいで、辛い目にあわせてしまって。
「本当に有り難う」
自分の為に、そんな道を選んでくれて。
「兄様……兄様ぁ……!」
繰り返し紡がれるその言葉に、魔理沙の感情は更に高まる。
謝らなくて良いと、むしろ自分の方が感謝していると彼女は伝えたかった。しかし嗚咽のために上手く言葉を紡ぐ事が出来ず、そのもどかしさは更に強い抱擁へと変換されていく。
「……魔理沙」
それに応えるように、強く優しく抱きしめ返す霖之助。
彼女の冷え切った体と、そして心にとって、彼の力強い腕と胸板は何物にも変え難く、もう二度と放さないと言わんばかりにしがみ付居て来る。
「大丈夫……僕は、ここに居る」
そんな魔理沙の想いを受け取り、彼女の耳元で安心させるように囁く霖之助。何時の間にか彼の目元にも、光る何かが浮かんでいた。
「……うん……ひくっ……うんっ!」
そして霖之助は、自分の胸に顔を押し付けて歓喜の涙を流しつづける彼女に応える為に、優しく抱きしめ、語りかけ、頭を撫で続ける。
朝靄に煙る森の中、心が離れていた兄と妹は、こうしてようやく本当の二人に戻れたのだった。
それから暫くの間、彼の腕の中で声を上げ続けていた魔理沙だったが、落ち着いた後、泣き疲れたのか寝息を立て始めてしまっていた。
「……ふふ」
先ほど家を飛び出した時とは違い、微塵の不安も見受けられないその安心しきった表情を見て、霖之助は胸が熱くなるのを感じる。
二人が過ごした時間は決して長いものだったとは言えない。しかしそれでも、その絆は掛け替えの無いものだったのだ。
(散々遠慮しあっていた僕らだったけど……素直になって思いをぶつけ合うだけでこうも理解し合えるなんて……まったく、僕もこの子も何を悩んでいたんだか)
そんなことを考えている彼自身、魔理沙と同じく一切の不安が取り除かれた清々しい顔をしていた。
(結局は僕も魔理沙も、想いは同じだった訳だし……まあ、その素直になるっていうのが曲者だったんだが……何とも、愚かだね。まったくもって彼女の言い分に反論ができない訳だ)
今ごろ魔理沙の家にて待っているであろう人形遣いの少女を思い浮かべ苦笑し、腕の中で眠る少女の頭を撫で続けながら、心の中で肩をすくめる。
「……ん」
とそんな事を考えていると、魔理沙の肩がぶるりと震えた。先ほどから霖之助に抱きしめられ続けているとはいえ、長時間薄着でこんな所に居たのだから流石に寒いはずである。それに良く見てみると彼女は靴を履いていなかった。裸足のまま早朝の魔法の森を駆け抜ければ、冷えるのは当然だろう。
「よ……っと」
眠る彼女を起こさない様に自分の上着を脱ぎ、肩に掛けてやる霖之助。ついでに近くに落ちていた眼鏡を回収する。
「ふむ」
流石に靴はどうにも出来ないし、長々とここに居るわけにも行かないので、魔理沙の背中と膝の裏に腕を回し横抱きにして立ち上がる。
「眠っててくれて良かったかな」
もし彼女が起きていてこんな事をしたのなら、羞恥で拒絶されたであろう事は想像に難くない。とはいえ今の彼女ならば素直に受け入れるかもしれないのだが。
「……それじゃ、帰ろうか」
来た時とは逆に、彼女を起こさないようできる限り慎重に歩いてきた霖之助は、少々時間をかけて霧雨邸へと到着した。
「随分遅かったわね。それで、どうだったの……って聞くまでもなさそうね」
その玄関の外にて、二人の帰りを待っていたらしいアリスが、腕を組んだまま問い掛けてきたが、二人の顔を見て仲直りしたことを察したようである。
「それなら、邪魔者は退散ね」
どこか優しげな表情でそう言うと、止める間もなく彼女は自分の家へと飛び去って行ってしまった。
「……有り難う」
その後姿に向けて、小さな声で感謝の気持ちを述べる霖之助。
(彼女にも、改めて礼をしないとな)
そんな事を考えながら霧雨邸へと入り、魔理沙を寝室のベッドへと横たわらせる。そして自分も椅子に座ると、急激な眠気が訪れてきた。それはそうだろう、あちこち飛び回った肉体的疲労と、魔理沙と一悶着を起こした精神的疲労。というかそもそも丸一日まともに寝ていないのだ。
「……むう」
加えて先ほど魔理沙との数年に渡るすれ違いが解決したこともあってか、今までに無い安堵感と充足感が同時に襲ってきたのだ。
「……すぅー」
そして極めつけは目の前で気持ち良さそうに眠っている彼女の寝顔である。こんなものを見せられては流石に眠気に抗うことは難しい。
(……まあ、この子が起きた時に調子の悪そうな顔を見せるのもなんだしね)
仮眠でも取ろうと決めた彼は、眼鏡を外して机に置くと椅子に深く座りなおす。
「……ふぅ」
すぐに意識が離れていくのを感じる霖之助。その瞼が睡魔によって閉じられる最後の瞬間まで、彼は魔理沙の寝顔を眺めていたのだった。
魔理沙は夢を見ていた。それは彼女がまだ幼い頃、霧雨の実家で過ごしていた頃の記憶。
明るく幸せに過ごせていた彼女。しかしそんな生活は唐突に終わりを迎えた。切っ掛けは彼女が兄と慕っていた人物が、何の理由も告げずに姿を見せなくなった為である。
幼い彼女はその原因を調べるために、様々な人物を問いただして回った。そして気が付いたのだ。彼女の兄が、半分人間ではないという理由だけで周囲の人間から疎まれていたことを。
当然彼女は憤慨し、皆を叱責した。
しかし人間が心の底で抱いている妖の者への恐怖は簡単に拭える物では無く、周辺の村人はそろって気まずそうな表情をするだけであった。そのうえ中には「お前の病気もあいつが原因だ」などと見当違いのことを言うものまで居り、このままでは埒が開かないと感じた彼女は、自分の父親へと相談をすることにしたのである。
そして訴えた。
そんな事を気にはしないと。
兄様は誰にも迷惑はかけていないし、これからも迷惑を掛けるような人ではないと。
自分が病弱なのが悪いのなら、頑張って体を鍛えるからと。
……だから、連れ戻して欲しいと。
だがしかし、返って来たのは否の一言だった。
信じていた自分の父親の言葉に愕然とした魔理沙。どうしてと理由を求めるもまともな返事が得られることは一向に無かった。
それから数日間、彼女は泣き続け……そして決意したのだ。
一人で生き抜くことが出来るだけの実力がついたとき、家を出て行くと。
最愛の兄に会うために、幼い少女はそう決めたのだった。
それからの彼女は今までにも増して様々な知識の吸収に勤しんだ。その内容は既存の概念に捕らわれない魔法の運用方法から、森に生える茸の識別方法までと多岐に渡り、その量は膨大な物となっていたが魔理沙が熱意を失うことは無かった。
そして数年後、彼女は旅立ちの時を迎えた。
家を出る直前に、魔理沙はもう一度だけ父親に質問をした。それは兄が居なくなってから、何度も何度も繰り返された問答。
それを彼女は一縷の望みを託して問いかける。
しかし、返って来たのはやはり今までと同じ否定の言葉。
判りきった問いだったが、それでも聞かずには居られなかったのだろう。
彼女は僅かな落胆と大きな決意を瞳に湛えて、父親に使い慣れない乱暴な言葉遣いで別れの言葉を言い放つ。
「今まで世話になった。あんたのことは嫌いじゃなかったが……私は出て行くぜ」
父親からして見れば微笑ましいまでに小さな反抗だろうが、彼女にとっては精一杯の皮肉。その言葉と共に、今までの人生を振り切った。
そうしてその日から、彼女は「霧雨の娘」である魔理沙ではなく。
――――「普通の魔法使い」としての魔理沙になったのである。
はっ、と目を覚ました魔理沙は、真っ先に霖之助の姿を探した。
「……ふぅ」
直ぐ横の椅子で寝息を立てている彼を目に留めると、ほっと胸を撫で下ろす。
その寝顔を眺めながら、ふと今までのことに考えを巡らせる。
(今になって考えてみれば、私だけじゃなく皆も辛かったんだろうな。こいつの思いを無駄にしない為にもあえてあんな態度を取ってたんだろうに……なんというか、その場の勢いだけで随分な事をしたもんだ……まあ、あの頃は若かったってことか)
昔を思い出し、恥ずかしい気持ちで一杯になる。軽く頭を抱えて苦悩するが、余り大きな動作で霖之助を起こしてしまってはいけないと自嘲する。
というか今でも彼女回りの中では一、二を争うほど若いはずなのだけれど……本人にとってみればそうなのだろう。
(後悔が無いわけじゃないが……今のこの生活も気に入ってるしな)
父にも考えがあったのだろう、しかし既に後の祭りである。実家に帰りたいという気持ちも無いではないのだけれど、現在の生活が充実しているのは確かだ。
(……それに今は)
つい、と再び視線を霖之助へと戻し、微笑む。やはり最愛の兄との仲が元に戻ったことが嬉しいのだろう。
「……は」
笑みを深くして今の生活を変えるつもりは無いと、一層考えを深める。
今の幸せな毎日を、手放したくは無いのだろう。
とはいえ、
(それでも……)
未練も罪悪感も残ってはいる。
(だから、いつかは謝りに行きたい……かな)
脳裏に浮ぶもう何年も会っていない父親へ向けて頭を下げつつそんな事を考える魔理沙だった。
話し掛けようとしてそれに気がついた霖之助は、じっとその姿を眺めている。
(……普段慣れないことをして疲れたんだろうね)
微妙に失礼な気もするが事実そのとおりである。アリスが他者と深く関わることなど基本的には皆無に等しい。そのため病気で倒れた相手を看病するという行為は、今まで全くと言っていいほどしたことがなかったのである。
そんな彼女が決して軽い病気ではなかった魔理沙を看病することになったのだ。それは心身ともに疲れもするだろう。
「……すー……すー」
そんなことを考えていると、アリスはかわいらしい寝息を立てて、本格的に寝入ってしまったようだ。
霖之助は立ち上がり、彼女を起こさないようにそっと毛布をかけてやる。その時、つい無意識の内に、まるで魔理沙を相手にするかのような調子でアリスの頭を撫でてしまった。
「おっと」
慌てて手を引っ込め、椅子へと戻る霖之助。
どうやら彼はアリスを魔理沙と同系列の位置に見てしまったようである。霖之助からして見れば、可愛らしい反抗を見せる魔理沙も、素直になれない性格のアリスも同等に子供なのだろう。
(言えば二人とも反論してくるんだろうけどね)
そんなことをすれば自分が子供だということをわざわざ主張しているような物だろうが、多分当人たちは気が付かないのだろう。
なんとなく微笑ましい気分になって、二人を交互に見つめる。
「……くー……」
「……すー……」
少女達が奏でる寝息を耳にしながら、霖之助は二人を眺めていたのだった。
アリスが眠ってしまってから二時間ほどが過ぎた頃。
「う……ん」
ベッドにて眠りつづけていた魔理沙が寝返りをうった。どうやら目覚めそうな雰囲気である。
「……ん」
もう一度寝返りをうつと、うっすらとその瞳を開く。
「…………あれ……兄様」
寝ぼけ眼で霖之助に視線を合わせ、そんなことを口にする。
「なんだい」
「……えへへ、兄様だぁ……」
返事とともに頭を優しく撫でてくる霖之助に、魔理沙は無邪気な笑みを向ける。
「兄様……もう、どこにも行かないでね……」
未だ半分夢の中に居るような状態で、魔理沙は霖之助の手をぎゅっと握り、頬を摺り寄せる。
「ああ、僕はここに居るよ」
「……そっか……よかった」
頬擦りをもう一度だけすると、その手を大事そうに握り締めたままで、魔理沙は目を瞑り再び寝息を立て始めようとして、
「…………え」
――パチリ、と目を開ける。どうやら今度は完全に目が覚めたようだ。
「どうかしたかい」
嬉しそうに目の前で微笑んでいる霖之助と、自分が握っている彼の手から現状を冷静に再認識。
そして先ほどまでの夢見ごこちの中での出来事を思い返し、ずるずると布団の中へ潜り込む。
「……迂闊だぜ」
布団の中からくぐもった声が聞こえてくる。そして何やらもぞもぞとした動き。どうやら魔理沙は羞恥心の余り身もだえしているようだ。
「そうかい? ……しかし君から兄様なんて言われることは――」
「あーあーうるさいうるさい」
わざわざ布団から顔を出し、霖之助の台詞を遮りながら両手で耳を塞ぐ仕草をする。聴こえないと主張しているようである。
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないか」
「何の話だ? お前、夢でも見ていたんじゃないのか」
無かったことにしようととぼける魔理沙。
「僕としては久々で嬉しかったんだけどな」
そんな彼女に苦笑しながら霖之助は言う。
「……っ」
その言葉に魔理沙の耳がぴくりと反応する。
「……」
「……」
「……」
「……? どうかしたかい」
唐突に無言になる彼女にそう問い掛ける霖之助。
「……あー、その」
「ん、どうしたんだい」
彼女にしては随分と弱気な態度でちらちらと霖之助の顔色をうかがい始める。
「…………嬉しかった……のか?」
霖之助は少し目を見開くと、魔理沙にとってはとても馴染み深い優しい笑顔を向ける。
「……ああ、嬉しかったよ」
「…………そうかい……」
言葉の最後に聴こえるか聴こえないかぐらいの小さな声で、ぼそりとした一言を加える。それは確かに「兄様」と聞き取れた。
当然のように聞き逃さなかった霖之助は、浮かべた笑みを更に深くする。
「なんだい、魔理沙?」
「……ああもう! なんでもないぜ!」
下がったはずの熱がぶり返したのではないかと思うほど、顔を真っ赤に染めた魔理沙が、自分の感情を悟られまいと必死になって誤魔化そうとする。
それに対し無言で笑みを向ける霖之助、彼のそんな態度に更なる反発をする魔理沙。普段の飄々とした彼女からは考えられないほどに子供なやりとりだが、それはどこか嬉しそうにも見えるものだった。
「……で、一体どれくらい寝てたんだ?」
「丸一日近く寝てたんじゃないかな。もう翌日の朝方だよ」
「そりゃまた随分と寝坊したもんだ」
そんな会話を交わしつつ、今まであったことを霖之助は説明する。永琳のことはまだしも、アリスが自分の面倒を見てくれていたことに、魔理沙は少なからず驚いているようだった。
「あいつが私の看病をするなんて、今日は雨でも降るのかもな」
「おやおや、随分な言い草だね」
「いや、別に感謝してないってわけじゃないんだが……どうもなあ……」
首をかしげる魔理沙、どうもその構図が上手く浮ばないようだ。彼女のイメージとしては、余り他人と係わり合いになろうとしないのがアリスである。霖之助の口から聞いた話の様に、熱心な看病するなんて事はまいち想像できない。
「わざわざそんなことに骨折るような奴かなと思ったんだよ」
「ふむ……それじゃあ聞くけれど、もしも立場が逆だったら君はどうするんだい?」
「あー? そんなの看病するにきまってるだろ」
全く悩む素振りを見せずに即答する魔理沙。なんだかんだでお節介な彼女が、目の前で寝込んでいる友人を目にして頬って置けるはずはないのである。
「つまりは……そういうことなんじゃないかな」
「むう……お前の言いたい事はわかるが……私はあいつに何時も鬱陶しがられてるんだぜ?」
いつもは口にしないような本音がちらりと顔を覗かせる。どうも何時に無く饒舌になっているようだ。
「はは、そんな事か」
「おい」
それをそんな事呼ばわりされ、魔理沙は少し不機嫌そうになる。それを見て彼は軽く目で謝る。
「だがね……やはり君はもっと自分に自信を持って良いと思うよ」
「私は何時だって自身満々だぜ」
「そうだね、普通の事なら何時も胸を張っているけれど……感情面の事となると途端に臆病になるからね。君は自分では必要以上に相手に対して好意を向けるくせに、相手から受ける好意は苦手なんだよ……だから自分が好かれているという事に気付き難い」
自覚しているのか痛いところを突かれたように霖之助から視線を逸らしながら魔理沙は反論する。
「……何やら随分と好き勝手に評してくれたようだが……それはお前の勘違いじゃないのか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まあ少なくとも僕は君のことが好きだし、自分の時間を割いて君の看病をした相手がいるということも事実だよ」
「…………むぅ」
さも当然のようにそんな事を言われ、恥ずかしくなって押し黙る魔理沙。体を起こすと何とは無しに室内に視線を巡らせる……すると。
「げっ」
彼女の目が椅子に座っているアリスを捉える。どうやら今まで横になっていたため、死角になっていて見えなかったのだろう。
魔理沙が気付いていないことを知って、霖之助はわざわざあんな会話を選んだのかと一瞬だけ疑いかけるが、視線の先の少女が規則正しい寝息を立てていることに気が付くと、ほっと胸を撫で下ろした。
「……お前なあ、居るなら居るって教えてくれても良いだろうに……悪趣味だぜ」
「おや、僕は彼女が帰ったなんて一言も言っていないけどね」
「そりゃそうだが……」
とはいえ判っていてやったであろう事は明白である。
「……まあいいか」
余り納得の行かない様子の魔理沙だったが、聞かれていないのなら良いだろうと結論付けた。
「さて、ずっと寝ていたんだし、お腹が減っているんじゃないかな」
「あー、かなり減ってるな」
「丸一日近く眠りつづけていたんだしね……待っててくれ、食べる物を作るから……台所借りるよ」
「それは有り難いが、別に急がなくても……」
くるるー
いいんだぜ、と続けようとしたところで、魔理沙のお腹が可愛らしい音を立てた。
「……あー」
まるで催促するかのようなタイミングでなってしまい、彼女はばつの悪そうな表情で頭を掻く。
「……まあ、魔理沙がいつ起きても良いように、下準備は終わっているからすぐに出来るよ」
そう言うと霖之助は微笑みながら台所へと向かっていった。
「味は悪くないと思うんだけど、どうかな」
数分もしないうちに土鍋に入った雑炊を完成させた霖之助。自分の分も作ってあるのかそこそこの量がある。ちなみに魔理沙は寝ながら食べるのは流石に行儀が悪いと隣の部屋まで移動していた。
「……」
「……ん、どうかしたかい」
一口含み、魔理沙好みの味付けになっていることを再確認する霖之助とは対象的に、彼女は雑炊に手をつけない。
「お腹が減ってない……わけではないよね」
そう言って彼女の顔を覗き込むと、どこか恥ずかしげな表情をしていた。
「あー、あのだな、香霖」
「なんだい」
「私は病人なわけだ」
「そうだね」
「病人というのは看病して貰ってなんぼなもんだろ」
「まあ確かに」
「よし」
それじゃあ、と言うと彼女は霖之助に向かって口を開く。
「あーん」
「……は」
「だから、あーん」
一瞬頭が真っ白になりかける霖之助だったが、魔理沙が微妙に震えている事に気が付いた。やっている本人も、非常に恥ずかしいのだろう。小さい頃ならまだしも、この年頃になってからこんなのは初めてなのだから。やはり病気になると弱気になるのだろうか、それとも久しぶりに甘えたいだけなのか。
「……まったく」
一つ息をつくと自分のお椀を置いて、魔理沙の物を手に取る。
「ほら、あーん」
苦笑しながら彼女の口元へと匙を持っていく。しかし魔理沙はこれにも口をつけない。
「……?」
「……まだ熱いぜ」
その言葉に更に苦笑するが、今更かと思い直し聞き入れることにする霖之助。
「仕方がないな…………ふー、ふー……あーん」
「あーん……うん、美味い」
今度こそ、それを口にして咀嚼をすると、魔理沙は素直な感想を述べてきた。
「伊達に一人暮らしが長いわけじゃないな」
「はは」
彼女のそんな皮肉を聞き流しながら、二口目を掬う。
「ふー、ふー……ほら」
「あーん……んく……まったく、最初から素直にやれよ」
恥ずかしさを誤魔化すためかそんなことを言う魔理沙。
(どっちが素直じゃないんだかね)
霖之助はそんな事を思うが当然口には出さない。
「ほら、早く次」
「はいはい」
そんな考えも魔理沙の催促によって振り払われる。
それからも暫しの間、カチャカチャという音と魔理沙の可愛らしい催促の声が繰り返されるのだった。
正直言って他の人間が聞いていれば赤面は避けられないし、魔理沙にしても聞かせたくは無いだろうその会話は、
(…………お、起きられない……)
実は目が覚めていた寝室のアリスにばっちりと聞かれていたのだった。
(……ったく、人が眠ってるって言うのになんてことしてるのよ……まあ寝てると思ってるからこその行動なんだろうけど……ああもう)
せめてドアぐらい閉めて居てくれればここまで聞き取れはしなかったのだろうが、自分が閉めに行くわけにもいかない。拷問じみたそんな状況に、苦悩しながら赤面するアリス。自分の事に気が付かれていないのが、唯一の幸運だろうか。
(……でも……魔理沙があんなこと思ってたなんてね……)
先ほどの二人の会話を一通り聞いていたアリスは、魔理沙の台詞について考えをめぐらせていた。
(いつも自身満々なくせに、そんな不安を抱えてたなんて思いもしなかったわ…………それに、私に対しての事も)
元々孤独だったアリスの近くに堂々と踏み込んで来て、好き勝手に暴れまわっていた魔理沙。そんな傍若無人にも見える彼女に、実は弱い部分があるなどという事は、とてもではないが信じられるものではない。とはいえ本人が否定をしなかったのだから事実なのだろう。
(向けられる好意に臆病……ね)
それではまるで自分と同じなのではないだろうかと、彼女はそんな事を考える。
臆病だから相手に嫌われるのが怖い。ならば初めから好きにならなければ良いと、他者との関わりを断っていたアリス。
臆病だから相手に嫌われるのが怖い。ならば嫌われない様に更に近づけば良いと、他者との関わりを深めていた魔理沙。
きっと彼女達は似た物同士なのだ。よく対立するのも同属嫌悪からだったのかもしれない。そしてだからこそ、何度対立しても縁を断つことが無かったのだろう。
(なんだかねぇ……まあいいわ)
自分はきちんと魔理沙に好かれていたのだという喜びも在ったが、相手も同じく悩んでいたことを知り、なんとなく気が抜けてしまう。
まあ当然、会話を聞いていた事など伝える気はないのだろうが。
(でも……少しは素直になって良いのかもね……)
同じ不安を抱えていた二人の内、自分だけがそれを解消してしまったことに多少後味の悪さを感じ、ならばそれは自分がどうにかしようと考える。そして妙案を思いつくと、アリスは心の中でにやりと笑う。
(……ふふ、そうね。今度の誕生日に、精一杯の感謝と皮肉を込めてとびっきりの一発をぶつけてあげるわ)
アリスがそんな風に思考に浸っている間も、魔理沙と霖之助のやりとりは続けられていたらしく、魔理沙の椀は既に空っぽになっていた。
「ふう、ごちそうさま」
「お粗末様」
しかし魔理沙の面倒を見ていた霖之助は、自分の分に殆ど手をつけられないでいた。
「おっと、すまんな……なんなら私が食べさせてやろうか?」
「僕は病人じゃないから遠慮しておくよ」
それに気がつき彼女が提案するが、流石に恥ずかしいので断る霖之助。
「ちぇ、じゃあ今度お前が病気になったらやるからな」
「はは……まあ、そのときはお願いするさ」
随分冷めてしまった雑炊を黙々と口に運び、彼はお椀を空にした。
食事も終え、なんとなく手持ち無沙汰になる二人。病人ならば眠ればいいのだろうが、かなり長い間寝込んでいたため、魔理沙に眠気は全く無い。
そしてふと彼女は、自分が幼い頃にもよく同じような事があったな、と思い出していた。
(あの頃は本当に体が弱かったからなあ……『自分の能力が生かせないから』なんて理由で出て行ったこいつを、結局は半居候みたいな状況に戻したのも……私が原因だったんだよな)
霖之助を見つめながらつい頬を緩めると、彼はそれを自分に向けられたものと取ったらしく、魔理沙へと優しげな笑みを返してくる。
「どうかしたかい?」
「いや、なんでもないぜ」
首を軽く横に振りながら魔理沙は答える。そんな何でもないやり取りも、昔と全く同じだったためか、彼女は既視感を覚える。
そしてまるで自分が昔に戻ったかのような錯覚に見舞われた。
「なあ」
「ん?」
「……いや、呼んでみただけだ」
「そうかい」
特に意味の無い呼びかけにも、嫌そうな顔一つしないで応えてくれる彼を見て、そして本当に昔と全く変わらない自分たちの関係を再認識して……彼女はある欲求が押し寄せて来るのを抑えられずに居た。
「……なあ」
「……?」
先ほどと同じだが、今度は明確な決意を込めた言葉が霖之助へと向けられる。
彼もそれが真剣な色を含んだものと察し、無言で視線を合わせた。
「ひとつ……聞きたいことがあったんだ」
「……なんだい」
今のままでも十分に満たされていると思える。だがもしもこの質問をぶつけてしまえば、今の二人の関係が壊れてしまうかもしれない。だとすればわざわざ聞く必要など無いのではないか……そんな心の葛藤を必死に抑える魔理沙。
しばらく無言の空気が流れるが、霖之助は言葉を発することなくそれを見守る。
(……やっぱり……駄目だな)
再会してからも、どこかで遠慮しあっていた魔理沙と霖之助。
様々な理由はあっただろうが、そんなものは関係無しに自分たちは昔と変わらないと理解してしまった。
だからこそ、わざと無視していた欲求を抑えることが出来なくなり……知りたいと、思ってしまったのだ。
「……何で、来なくなったんだ?」
――――彼が霧雨家に訪れなくなった、その理由を。
「……それは」
「おっと、得る物が無いからなんてふざけた理由は無しにしてくれよ。一度は自分の能力が生かせないと判ったから出て行ったくせに、再び顔を出しに来ておいてそんな理由は納得できないからな」
彼女は、霧雨魔理沙は知っている。
自分が兄と慕ったこの相手が、そんなふざけた理由で世話になった家と縁を切るほど、恩知らずな性格ではないことを。
「そもそも家を出て行った理由からして納得いかない」
「いや、それは本当だよ。現に僕は自分の店を開いているじゃないか」
「うるさい」
彼がする言い訳を一言で切って捨てる魔理沙。彼のそんな態度を見て段々と腹が立ってきたのだろうか、怒気が滲み始めている。
「確かにお前は自分の店を開いてるさ。でもな、あの店でやってることなんか、やろうと思えばうちの実家でも出来たんじゃないのか?」
その通りである。彼女の実家はそれなりに大きいものなのだし、それにそもそも霖之助の開いている店など、ほとんど道楽でしかないようなものである。わざわざ何年も世話になり、家族同然の関係に前なった人間たちを捨ててまでの価値があるとは思えない。
……だがしかし、彼もここで本音を言う訳にはいかない理由があるのだ。そのためなんとか誤魔化そうと必死になって言葉を紡ぐ。
「いやそれは……ほら、やはり自分だけの店を持ちたいと思うのは、当然の事だろう? 他人の店を間借りしていたんじゃ、どうやったって……」
「……あん? …………ふざけるのも大概にしろよ……!」
霖之助のいい訳じみた発言と、それに含まれた『他人』と言う単語が更に魔理沙の怒りを煽る。
「他人だなんて……お前は本気でそんな事を思ってるのか!?」
怒りのままに手の平を机に叩きつける。大きな音が鳴り響き、その後に一瞬の静寂。
「……」
「……」
「…………はぁっ」
じんじんとした手の平の痛みで、何とか冷静さを取り戻し大きくため息をつく。
「……ったく」
「……む……う」
魔理沙の勢いに気圧されて、完全に言葉に詰まる霖之助。
「……まあ……それはいい。本題は別だからな……もう一度聞く、なんで家に来なくなったんだ?」
幼い頃、彼女はたまに自分の家にやって来る霖之助と出会い、その度に様々な話をするうちにとても仲良くなった。それからは来訪する回数も増え、まるで本当の兄のように彼を慕うようになっていった。
彼自身もその関係は満更でもなかったらしく、自ら進んで里の外の話をしたり、魔理沙が病気になった時などは親身になって看病してくれたりもした。
そして当然のようにそんな生活が続くものだと思っていた……だがしかしその関係も、霖之助が唐突に「二度と来ない」と去っていったために終わりを告げたのだ。
「ろくな理由も言わずに姿を見せなくなってから、私がどんな思いをしたのかわかってるのか?」
「……それ……は」
「誰に聞いても曖昧な答えしか返ってこないし、本気で問い詰めても軽くあしらわれる……あの時ほど自分が子供なのが憎いと思ったことはないさ」
「……」
「だからはじめの頃はもしかして嫌われたから来なくなったんじゃないかとも思った。でもな……仲良く遊んでた近所のやつらと話していて気がついたんだ……私が大好きだった兄様は、実は他の人間には嫌われていたんじゃないかってな」
怒気を滲ませ勢い付いていた魔理沙の言葉が徐々に弱くなり、その代わりに悲しげなものが混じり始める。
無言のまま話を聞いている霖之助もその顔には苦い物が混じり始めていた。
「正直、信じられなかったさ。だってそうだろ、今まで普通に接してきたってのに、何時の間にか胡散臭げな目で見られてたんだぜ? 何か悪いことをしたわけでもない。何かが変わった訳でもないってのに……ほんとに、わけがわからなかった……でも」
「…………人間は、不変なものにこそ畏怖を覚える」
「ああ……そういう事だったんだよな」
苦渋に満ちた表情の霖之助が、もうこれ以上は無理だと悟ったのか自分からそれを口にする。
「お前は半人半妖だから、普通の人間に比べて歳を取るのが遅い……そんなくだらないことは、私からしてみれば些細なことだった。というか気にしたことも無いような事でしかなかったんだ……でも、他の人間はそうじゃなかった」
かつて霖之助が霧雨家を出て行った理由もそれが原因だったのだ。そしてほとぼりが冷めた頃に再び顔を出すようになった。付近の住民も殆どが彼の存在を忘れ、誰に気が付かれる事も無い……筈だったのだが、再び彼は負の視線で見られるようになってしまった。
その切っ掛けは魔理沙と仲良くなったためであった。
彼女と頻繁に会うようになった事により、他の住民に顔を見られる機会が増えてしまった。そして止めが魔理沙の病気だった。看病をしていた霖之助を見かけた老人の一人が、かつて自分たちが畏怖した相手だということに気が付いてしまったのだ。
その頃ですら変わらない姿に恐れ慄いたというのに、かなりの年月が流れた今でも一向に変わらない彼を見て、その老人は思ったのだ。
霧雨の娘が病弱なのは、あの男がなにか良からぬ呪いでもかけているからではないかと。
そしてその噂は瞬く間に広がったのである。
「私が生まれる前に居たくせに、生まれたその後もずっと同じ姿をしているなんて、周囲の人間から見れば不気味以外の何者でもなかったんだ……はん、人間じゃないからって何が変わるってわけでもないのにな」
魔理沙は吐き捨てるように言う。
「その上……呪いだ何だと……笑えない冗談だ」
「……仕方が無いさ、元来妖怪というものは人間を襲い、人間によって倒されるものなんだ。そんな事を思われても仕方が無い」
既に形骸化した常識を、彼は当然のように述べてくる。それを聞き、魔理沙は頭に血が上ってきてしまう。
「でも……でも兄様は半分人間じゃない!」
「……そうだね……でも、半分は妖怪だよ」
「……っ!!」
激昂しかける自分を押さえ込み、魔理沙は何とか冷静を保とうとする。
「そうだよ、だから顔を出さなくなったんだ……悪意のある視線を向けられて平気で居られるほど、僕の神経は太くないからね」
「……そうかい」
紡がれようとしている決定的な言葉を恐れるかのように、霖之助は彼女を納得させる事が出来る言葉を探す。だがしかし、視線を泳がせながら口にした、その場しのぎでしかない台詞は説得力など皆無だった。
「信じられない、って顔してるね……でも本当だよ」
彼自身としても、こんな言葉で納得させる事が出来るなどとは思っていない。しかしそれでも何か言わずには居られないのだろう。
「いや、確かにそれも嘘じゃないだろうさ……でも、一番の理由じゃないんだろ」
「……っ」
無駄だと知りつつもポーカーフェイスを気取ろうとしていた霖之助の表情が固まり――そして魔理沙の口から、決定的な一言が放たれる。
「兄様はさ……私達に迷惑を掛けたくなかったんだよね」
「…………!」
今度こそ、言葉を失う霖之助。彼が必死に誤魔化そうとしていたのも、この一言を聞きたくなかったためだ。自分の行動によって彼女の精神的な負担が増える事などは望んでいなかったのだから。
「自分みたいな化け物と仲が良いと、私たち家族も同じような目で見られるからって……だからなんだよね?」
そして既に魔理沙の口調は完全に幼い頃のものに戻っており、それが更なる重みとなって弾劾するかのように彼の胸を押し付ける。
「……」
無言の彼の態度から、それを肯定と受け取った彼女は更に続ける。
「……そんなこと私が気にするとでも思ったの? 周りの人からの負の視線なんかよりも……そんなものなんかよりも……っ!」
感情が高ぶり、まるで悲鳴のような声で魔理沙は思いを叩きつける。
それを聞く霖之助は、まるで裁きを受ける罪人のような表情で次の言葉を待つ。
――――そして、怒りよりも遥かに大きな悲しみの混じった声色で
「兄様に会えない事の方が、よっぽど悲しかったのに……っ」
――――霧雨魔理沙は、抱きつづけていた思いを口にした。
血を吐くような想いの篭った彼女の言葉を聞いて、霖之助は完全に頭の中が真っ白になっていた。
「……」
「……ひっ……く」
絶句する彼の眼前には、嗚咽を漏らし泣き崩れる少女が一人。
「……」
彼は思う。
どうしてこんな事になったのだろうかと。
自分はこの子を悲しませたくないから居なくなったのではなかったのかと。
最後の挨拶の時に彼女のためを思って、あえてきつい態度で別れを告げた事も、良かれと思ってのことだった筈だ。
そうして嫌いになってくれれば、悲しむことも無いだろうと思ったのだ。
ならば何故――
(何故、魔理沙は泣いているんだ……っ)
押し寄せる後悔の念。
あの時の自分の判断は本当に正しかったのだろうかと自問自答する。
だがそんな事はするまでも無いことは判りきっている。
(正しかったのならば、これほどまでにこの子を悲しませる事にはならなかっただろうがっ!!)
出来る事ならば、今すぐにでも自分を殴り倒したい。
そしてその後は、涙を流しつづける少女を抱きしめてあげたい。
頭を撫で、謝罪をし、自分はここに居ることを伝えてあげたい。
(だが……この僕に、そんな事をする資格は……)
今までのことを考えると、彼女が家を飛び出したのは確実に自分が原因だろうと彼は確信した。
(この子がこんな道を歩む事になったのは……僕のせいだ)
親元を離れ、人里を離れ、こんな僻地に一人で住まうことになった魔理沙。本来ならば裕福な家庭で普通の少女のように恋をし、結婚し、子供を産み、幸せに過ごすはずだった彼女の人生。家を飛び出してからの数年は、人外のものに比べて遥かに短い一生のなかでも、さらに短く、しかしとても重要な期間のはずだった。青春時代と呼ぶであろうそれを、彼は潰してしまうことになったのである。
「……っく」
未だに止まない魔理沙の嗚咽が、霖之助を更に攻め立てる。
(……くそっ)
悲しみで泣き続ける魔理沙と、後悔で苦悩しつづける霖之助。
普段の二人からは考えられないような、ある意味で膠着状態とも呼べる状況になってしまっていた。
「……っ!」
「な、魔理沙!」
そして、その状況に耐えられなくなったのだろう、彼が止める間もなく魔理沙は立ち上がり、寝巻きのままで外へと出て行ってしまった。
霖之助は立ち上がり手を伸ばした状態で固まっていた。そしてしばらくの後、伸ばした手を虚しく握り締めると、肩を落として再び椅子に座り込む。
「……はぁ……」
深い、深いため息。
普段ならば、未だ病人である魔理沙を追うのが筋だろう。しかし今の彼は彼女に対しての後ろめたさが大きすぎて、それが出来ないでいた。
「…………はぁ……」
更に深いため息。
――そしてその直後
バシィィイン!!
激しい衝撃が彼の頬に走り、脳天を揺さぶった。
「ぐ……な」
堪らず椅子から転げ落ちる霖之助。何事かと彼は視線を向ける。
「……ぁ」
そこには憤怒の表情のまま、霖之助を睨みつけているアリスが佇んでいた。
彼女は大きく息を吸い込むと――
「こんの……っ……大馬鹿っっ!!!!」
爆発したかのような大声で、霖之助を怒鳴りつけた。
「……な」
隣の部屋で眠っていた居た彼女の存在を、霖之助も魔理沙も完全に失念してしまっていたのだ。だからこそあそこまで本音で言い争っていたのである。
しかし実際には起きていた彼女はそれを一部始終聞いてしまっていたのだ。とはいえああも大声で騒がれては、例え本当に寝ていたとしても目が覚めてしまっただろうが。
そういった訳で二人のやり取りを聞いていたアリスは、当然ながら全てを理解していた。だからこそ、彼の態度に激怒したのだ。
「あんたねえ……何考えてるのよ!」
「何……とは……?」
「それ本気で言ってるの? ……それなら少しでも貴方に感心した私が馬鹿だったってことかしらね」
遠慮の無い痛烈な嫌味を叩きつけるアリスと、反論が出来ないで居る霖之助。
「……」
「何? だんまりってわけかしら? ……なら言わせてもらうけど……なんであんな様子の魔理沙を追わないのよ。原因はあんたでしょうが!」
「……ああ、そうだ。あの子が悲しむことになったのは僕が原因だ。だから――」
「だからなによ? ……ふん、言わなくても良いわよ。さっきから聞いていたから、貴方の考えてることは手に取るように判るわ……どうせ自分が追えば更に悲しませるとかなんとか思ってるんでしょ……馬鹿じゃないの?」
「……っ」
「図星、って反応かしら……ほんっとに馬鹿ね貴方」
何度も繰り返し罵倒をするアリス。それを否定する材料は一片たりとも存在しないと思っているのか、霖之助はやはり反論をしないでいる。
「何考えてるの? 魔理沙はまだ病気が完治してないのよ……それをこんな早朝の冷え込んだ中に放り出すなんて……!」
「いや、放り出しては――」
「例え魔理沙が自分で出て行ったとしても同じ事でしょうが……何で追わないのよ。それとも何、あいつはもう貴方にとって大事じゃないとでも言いたいわけ?」
「……っ、そんな筈は無いだろう!」
つい過剰に反応して大声で返してしまう霖之助。しかしアリスはそれを冷めた表情で受け流す。
「そう、じゃあもう一度聞くけど、何で追わないの?」
「それは……」
霖之助は言葉を濁そうとするが、アリスの視線がそれを許さない。
「……それは……僕には、あの子を慰める資格が無いからだよ……」
「……はぁ?」
心底呆れたような声を出すアリス。
「だってそうだろう? 彼女を傷つけたのも、彼女の人生を狭めたのもこの僕なんだ。そんな人間が――」
「ああもう判ったわよこの馬鹿」
彼の言葉を途中で遮り再び罵倒するアリス。
「資格が無い? 何よそれ、そんなのあんたの勝手な思い込みでしょうが」
アリスは呆れを通り越して蔑みすら滲ませている。
「それ……は」
「大体にして結局今の道を選んだのは魔理沙本人じゃない」
更に彼女は追い討ちをかける。
「まだわからないの? じゃあ言ってあげるわ」
ふっ、と今まで湛えていた負の感情を一切消し去り、見た事も無い真剣な表情になるアリス。
「……判ってるでしょ、魔理沙があんな顔をするのは貴方の前だけだって事くらいは」
確かに霖之助は理解していた。魔理沙が自分の前では最も自然体で居ることを。
「散々人のこと評価してくれてたみたいだけど、貴方は自分自身の価値については理解して無いのよね……結局あんたも同じなのよ。人からの好意に鈍いのは」
「僕自身の……価値?」
「昔のことで魔理沙を傷つけたってのは事実でしょうけど……でもそんな過去のことに縛られてないで、今はどうなのかを考えなさいよ」
「……今は、どうなのか」
まるで鸚鵡のようにアリスの言葉をくり返す霖之助。
「そうよ……今現在、悲しんでいる魔理沙が一番求めている相手は誰なのか、その魔理沙を癒したいと一番思っているのは誰なのか! ……そんなの、簡単なことでしょう?」
そうである。傍観者でしかなかったアリスですら気付くことができるのだ。魔理沙の人生の中で一番長い付き合いの霖之助が気付けぬはずが無い。
「……ああ、そうか」
当事者だからこそ、近過ぎたからこそ気付くことが出来なかった魔理沙の、そして自分自身の想いを彼はやっと理解した。
「ほら、わかったでしょ……魔理沙を慰めることができるのなんて、貴方しか居ないのよ」
「……ああ、そうだ。自惚れでなければ、あの子を一番大切に思っているのは……この僕だ」
「ふん、そうよ……今は自惚れてなさい……それが正しいんだから」
「……気付かせてくれて有り難う」
アリスに心からの感謝を告げる霖之助。
「ふん……ほら、そろそろ行きなさいよ。あの調子じゃそう遠くへは行ってないでしょうから、頑張れば追いつけるんじゃない?」
「……有り難う」
もう一度アリスへ礼を言うと、霖之助は魔理沙を探すべく朝靄の出始めた森へと飛び出していった。
幸いなことに魔理沙は箒で飛び出したのではなく、自分の足で走り去ったようだった。気配を辿ると数百メートル離れた場所に居るのが感じ取れた。
「ふっ」
頬を掠める木々の枝を無視し、そこへ向けて全速力で走る霖之助。本気を出した彼は、数秒もたたぬうちに彼女のところへと辿り着く。
「魔理沙っ」
そして彼が辿り着いたそこには、木の根元で蹲り肩を震わせている少女が居た。
「……こんな所に居たのか」
立ち止まり軽く息を整えると、霖之助は衣服が朝露に濡れるのも構わずに膝を突く。
そして彼女に向けて手を伸ばす。
「っ!」
しかし気配に気付いた魔理沙は、まるで癇癪を起こしたかのように拳を振り回し遠ざけようとする。だが彼はそれが当たることを気にも留めずに当然のように近づく。
「ぅ……うぅー!」
眼鏡を弾き飛ばされるがそれすらも気にせずに、歯を食いしばり涙を堪えながら拒絶しようとする彼女の肩を掴み、自分へ顔を向けさせようとする。
「魔理沙」
「ひっく……うぅ」
いやいやと、魔理沙はまるで子供のような仕草で拒絶を示そうとする。
「魔理沙、こっちを見てくれないか」
「……っく」
「……魔理沙」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を逸らし続ける魔理沙に、霖之助は根気よく、優しい声で話し掛け続ける。
しばらくの間、何度か同じ言葉が繰り返された。そして根気負けしたのか彼女は視線を上げ、ようやく彼の瞳を覗き込んだ。
「…………魔理沙」
その視線の先では彼女の最愛の兄が、慈しむような目でこちらを見つめていた。
「兄……様……」
優しく伸ばされた彼の指先が、流れ続ける魔理沙の涙を拭い、もう片方の手を頭の上に載せる。
「……あ」
慣れ親しんだ温かく大きな手の平に包まれ、彼女の涙がぴたりと止まる。
「……」
「……」
暫くの間、魔理沙はされるがままに撫でられる。お互い無言だったが、先ほどまでと違い彼女の心は随分と落ち着き始めていた。
「魔理沙」
「……兄様」
視線という物は雄弁である。魔理沙は自分の名前を呼ぶ霖之助の眼差しに様々な物を見て取った。
そして彼の口から、それを裏付けるような言葉が放たれた。
「すまないね、魔理沙……そして、有り難う」
謝罪と、感謝。
その二つの言葉に含まれた意味を魔理沙は正しく捉え、そして優しい手の平の感触と相まって、堪えきれない想いが込み上げてくる。
「……っく」
はらりと、一度は止まった涙が再び頬を伝うのを感じた。
だがしかし、今度は先ほどの物とは違う、嬉しさゆえの涙である。
「う……っく……う、うあああぁぁっ」
そして勢い良く霖之助の胸へ飛び込み、感情の赴くままに泣き喚く。
「本当にすまない」
自分のせいで、辛い目にあわせてしまって。
「本当に有り難う」
自分の為に、そんな道を選んでくれて。
「兄様……兄様ぁ……!」
繰り返し紡がれるその言葉に、魔理沙の感情は更に高まる。
謝らなくて良いと、むしろ自分の方が感謝していると彼女は伝えたかった。しかし嗚咽のために上手く言葉を紡ぐ事が出来ず、そのもどかしさは更に強い抱擁へと変換されていく。
「……魔理沙」
それに応えるように、強く優しく抱きしめ返す霖之助。
彼女の冷え切った体と、そして心にとって、彼の力強い腕と胸板は何物にも変え難く、もう二度と放さないと言わんばかりにしがみ付居て来る。
「大丈夫……僕は、ここに居る」
そんな魔理沙の想いを受け取り、彼女の耳元で安心させるように囁く霖之助。何時の間にか彼の目元にも、光る何かが浮かんでいた。
「……うん……ひくっ……うんっ!」
そして霖之助は、自分の胸に顔を押し付けて歓喜の涙を流しつづける彼女に応える為に、優しく抱きしめ、語りかけ、頭を撫で続ける。
朝靄に煙る森の中、心が離れていた兄と妹は、こうしてようやく本当の二人に戻れたのだった。
それから暫くの間、彼の腕の中で声を上げ続けていた魔理沙だったが、落ち着いた後、泣き疲れたのか寝息を立て始めてしまっていた。
「……ふふ」
先ほど家を飛び出した時とは違い、微塵の不安も見受けられないその安心しきった表情を見て、霖之助は胸が熱くなるのを感じる。
二人が過ごした時間は決して長いものだったとは言えない。しかしそれでも、その絆は掛け替えの無いものだったのだ。
(散々遠慮しあっていた僕らだったけど……素直になって思いをぶつけ合うだけでこうも理解し合えるなんて……まったく、僕もこの子も何を悩んでいたんだか)
そんなことを考えている彼自身、魔理沙と同じく一切の不安が取り除かれた清々しい顔をしていた。
(結局は僕も魔理沙も、想いは同じだった訳だし……まあ、その素直になるっていうのが曲者だったんだが……何とも、愚かだね。まったくもって彼女の言い分に反論ができない訳だ)
今ごろ魔理沙の家にて待っているであろう人形遣いの少女を思い浮かべ苦笑し、腕の中で眠る少女の頭を撫で続けながら、心の中で肩をすくめる。
「……ん」
とそんな事を考えていると、魔理沙の肩がぶるりと震えた。先ほどから霖之助に抱きしめられ続けているとはいえ、長時間薄着でこんな所に居たのだから流石に寒いはずである。それに良く見てみると彼女は靴を履いていなかった。裸足のまま早朝の魔法の森を駆け抜ければ、冷えるのは当然だろう。
「よ……っと」
眠る彼女を起こさない様に自分の上着を脱ぎ、肩に掛けてやる霖之助。ついでに近くに落ちていた眼鏡を回収する。
「ふむ」
流石に靴はどうにも出来ないし、長々とここに居るわけにも行かないので、魔理沙の背中と膝の裏に腕を回し横抱きにして立ち上がる。
「眠っててくれて良かったかな」
もし彼女が起きていてこんな事をしたのなら、羞恥で拒絶されたであろう事は想像に難くない。とはいえ今の彼女ならば素直に受け入れるかもしれないのだが。
「……それじゃ、帰ろうか」
来た時とは逆に、彼女を起こさないようできる限り慎重に歩いてきた霖之助は、少々時間をかけて霧雨邸へと到着した。
「随分遅かったわね。それで、どうだったの……って聞くまでもなさそうね」
その玄関の外にて、二人の帰りを待っていたらしいアリスが、腕を組んだまま問い掛けてきたが、二人の顔を見て仲直りしたことを察したようである。
「それなら、邪魔者は退散ね」
どこか優しげな表情でそう言うと、止める間もなく彼女は自分の家へと飛び去って行ってしまった。
「……有り難う」
その後姿に向けて、小さな声で感謝の気持ちを述べる霖之助。
(彼女にも、改めて礼をしないとな)
そんな事を考えながら霧雨邸へと入り、魔理沙を寝室のベッドへと横たわらせる。そして自分も椅子に座ると、急激な眠気が訪れてきた。それはそうだろう、あちこち飛び回った肉体的疲労と、魔理沙と一悶着を起こした精神的疲労。というかそもそも丸一日まともに寝ていないのだ。
「……むう」
加えて先ほど魔理沙との数年に渡るすれ違いが解決したこともあってか、今までに無い安堵感と充足感が同時に襲ってきたのだ。
「……すぅー」
そして極めつけは目の前で気持ち良さそうに眠っている彼女の寝顔である。こんなものを見せられては流石に眠気に抗うことは難しい。
(……まあ、この子が起きた時に調子の悪そうな顔を見せるのもなんだしね)
仮眠でも取ろうと決めた彼は、眼鏡を外して机に置くと椅子に深く座りなおす。
「……ふぅ」
すぐに意識が離れていくのを感じる霖之助。その瞼が睡魔によって閉じられる最後の瞬間まで、彼は魔理沙の寝顔を眺めていたのだった。
魔理沙は夢を見ていた。それは彼女がまだ幼い頃、霧雨の実家で過ごしていた頃の記憶。
明るく幸せに過ごせていた彼女。しかしそんな生活は唐突に終わりを迎えた。切っ掛けは彼女が兄と慕っていた人物が、何の理由も告げずに姿を見せなくなった為である。
幼い彼女はその原因を調べるために、様々な人物を問いただして回った。そして気が付いたのだ。彼女の兄が、半分人間ではないという理由だけで周囲の人間から疎まれていたことを。
当然彼女は憤慨し、皆を叱責した。
しかし人間が心の底で抱いている妖の者への恐怖は簡単に拭える物では無く、周辺の村人はそろって気まずそうな表情をするだけであった。そのうえ中には「お前の病気もあいつが原因だ」などと見当違いのことを言うものまで居り、このままでは埒が開かないと感じた彼女は、自分の父親へと相談をすることにしたのである。
そして訴えた。
そんな事を気にはしないと。
兄様は誰にも迷惑はかけていないし、これからも迷惑を掛けるような人ではないと。
自分が病弱なのが悪いのなら、頑張って体を鍛えるからと。
……だから、連れ戻して欲しいと。
だがしかし、返って来たのは否の一言だった。
信じていた自分の父親の言葉に愕然とした魔理沙。どうしてと理由を求めるもまともな返事が得られることは一向に無かった。
それから数日間、彼女は泣き続け……そして決意したのだ。
一人で生き抜くことが出来るだけの実力がついたとき、家を出て行くと。
最愛の兄に会うために、幼い少女はそう決めたのだった。
それからの彼女は今までにも増して様々な知識の吸収に勤しんだ。その内容は既存の概念に捕らわれない魔法の運用方法から、森に生える茸の識別方法までと多岐に渡り、その量は膨大な物となっていたが魔理沙が熱意を失うことは無かった。
そして数年後、彼女は旅立ちの時を迎えた。
家を出る直前に、魔理沙はもう一度だけ父親に質問をした。それは兄が居なくなってから、何度も何度も繰り返された問答。
それを彼女は一縷の望みを託して問いかける。
しかし、返って来たのはやはり今までと同じ否定の言葉。
判りきった問いだったが、それでも聞かずには居られなかったのだろう。
彼女は僅かな落胆と大きな決意を瞳に湛えて、父親に使い慣れない乱暴な言葉遣いで別れの言葉を言い放つ。
「今まで世話になった。あんたのことは嫌いじゃなかったが……私は出て行くぜ」
父親からして見れば微笑ましいまでに小さな反抗だろうが、彼女にとっては精一杯の皮肉。その言葉と共に、今までの人生を振り切った。
そうしてその日から、彼女は「霧雨の娘」である魔理沙ではなく。
――――「普通の魔法使い」としての魔理沙になったのである。
はっ、と目を覚ました魔理沙は、真っ先に霖之助の姿を探した。
「……ふぅ」
直ぐ横の椅子で寝息を立てている彼を目に留めると、ほっと胸を撫で下ろす。
その寝顔を眺めながら、ふと今までのことに考えを巡らせる。
(今になって考えてみれば、私だけじゃなく皆も辛かったんだろうな。こいつの思いを無駄にしない為にもあえてあんな態度を取ってたんだろうに……なんというか、その場の勢いだけで随分な事をしたもんだ……まあ、あの頃は若かったってことか)
昔を思い出し、恥ずかしい気持ちで一杯になる。軽く頭を抱えて苦悩するが、余り大きな動作で霖之助を起こしてしまってはいけないと自嘲する。
というか今でも彼女回りの中では一、二を争うほど若いはずなのだけれど……本人にとってみればそうなのだろう。
(後悔が無いわけじゃないが……今のこの生活も気に入ってるしな)
父にも考えがあったのだろう、しかし既に後の祭りである。実家に帰りたいという気持ちも無いではないのだけれど、現在の生活が充実しているのは確かだ。
(……それに今は)
つい、と再び視線を霖之助へと戻し、微笑む。やはり最愛の兄との仲が元に戻ったことが嬉しいのだろう。
「……は」
笑みを深くして今の生活を変えるつもりは無いと、一層考えを深める。
今の幸せな毎日を、手放したくは無いのだろう。
とはいえ、
(それでも……)
未練も罪悪感も残ってはいる。
(だから、いつかは謝りに行きたい……かな)
脳裏に浮ぶもう何年も会っていない父親へ向けて頭を下げつつそんな事を考える魔理沙だった。