「――く、げほっ」
自宅にて魔法薬の研究を一段落終えた彼女、霧雨魔理沙は唐突に咳き込んだ。それと同時に眩暈が訪れる。
「あー、風邪でもひいたか? ……っと……っげほっ!」
そして再び大きく咳き込む。背中を丸めながら何度も何度も。彼女一人しか居ない部屋に、その音だけが繰り返し響き渡る。
しばらくの間それに耐えるとようやく収まり、荒い息をつきながら彼女は目の前の研究器具を片付け始めた。
「思ったより酷いな……ここ最近の徹夜が響いたか」
先ほどまでは極限まで集中していたせいからか、自分の体調に殆ど気がつかなかったようである。仕事を終えて疲れと一緒に一気にそれが押し寄せてきたのだろう。一通り片付け終わると、魔理沙はおぼつかない足取りでふらふらと寝室へ向かう。
「うー……こりゃマジでやばいぜ……えほっ」
着ていた服をその辺りに脱ぎ散らかしながら、布団へと潜り込みそう呟くがその間にも咳込み続けている。そしてそれに続いて頭痛までし始めた。付け加えるならば当然の如く顔はすでに真っ赤である。
「……あー」
通常ならば眠りにつくのも一苦労しそうな具合の悪さだが、幸か不幸か一度横になってしまうと睡眠不足のせいもあってか、彼女はまるで意識を失うかのように眠りへと落ちていったのだった。
熱に浮かされた頭で、魔理沙は昔の夢を見る。それは彼女がまだ幼い頃、霧雨の実家で過ごしていた頃の記憶。
その頃の魔理沙は、今では考えられないほど大人しい娘だった。とはいってもあくまで今と比べての話であり、普通一般で言い現せば十分に活発な娘だったのだが。
彼女の生まれた霧雨家というのは、付近でもそれなりに名の通った家系だった。
そのためそこの娘である魔理沙は、物心付く前から厳しい躾を受けてきた。それは一般的な礼儀作法から始まり、様々な勉学、そして魔法の知識までと多岐にわたった。その頃からすでに人一倍努力家な面を発揮していた彼女は、どんどんその知識を吸収していった。
それだけを言えばまるで箱入り娘のような教育振りだが、厳しく教えつつも彼女本来の意思を押さえつけないといった方法をとっていた。そのためか、それともやはり生来の性格ゆえなのか、彼女は自由奔放で天真爛漫な少女だった。それでいてその年頃の子供とは思えぬほど明晰な頭脳を持っていたわけだから、当然そんな娘が人気者にならぬはずも無く、誰もが彼女に惹かれたのである。
周辺の子供達の間ではリーダー的な存在として、それどころか同年代だけでなく年上や年下にも好かれていた。魔理沙自身も分け隔てなく、どんな相手とも仲良くなれる気質を持っていたため、その友人の輪はますます広がっていった。
彼女がそんな風に、誰彼と区別することなく接することが出来たのは、ひとえにとある人物のおかげであろう。物心つく前から彼女はその人物を兄と呼び慕っていた。
その彼の名は――
「……ん」
小さな物音に反応して目を覚ます魔理沙。体調は依然として芳しくない、しかしそれでも一眠りしたおかげである程度だが倦怠感は抜けていた。
「何だ……?」
再び聴こえる物音。コンコン、というそれは、どうやら彼女の家の玄関をだれかが叩いている音らしかった。
「客か……珍しいな」
とはいえ彼女は起き上がるのも億劫な状態である。そして他人にこんな姿を見せるのもあまり気が進まない。そんな理由から仕方なしに居留守を使おうとする。
「……」
しかし相手もよほど重要な用でもあるのだろうか。粘り強くドアを叩いてくる。いい加減に鬱陶しくなってきたところで、玄関から彼女を呼ぶ声が聞こえて来た。声から判断するに男性のようである。
「魔理沙、居ないのかい?」
(……あー)
こんな所にわざわざやってくるような男の知り合いは、魔理沙には一人しか居ない。
(香霖か……拙いな、あいつなら遠慮なく家に入ってくるだろうし)
普段この家へ来ることはあまり無い彼だが、来た時はたとえ魔理沙が留守のときだろうと平然と家の中へ入り、彼女が帰ってくるまで当然のように待っていたりする。そのうえ勝手に掃除などを始めていたりするので更に性質が悪い。
その態度に腹が立ち、前に一度「女の子の部屋に無断ではいるなんて失礼な奴だぜ」と言ってみたのだが「それは失礼なことをした。だがそれならもっと女の子らしくしたらどうだ? こんなに部屋を汚くしていては、嫁の貰い手も無いぞ」なんて返されてしまった。そのうえ畳み掛けるように「店の奥に勝手に入ってくるのは慎ましくない」だの「箒を振り回すのはやめろ」だのと小言を言われる羽目になったので、それ以来あまり文句は言わないようにしている。
前に数日間家を空けたときにも来ていたことがあったらしく、帰宅した時に妙に部屋が片付いていたりして驚いたものである。だがそのくせ魔理沙に会うと、たいした話もせずに帰ってしまうのだ。まるで娘の心配をする父親のようである。そんなことをする暇があったらまず先に自分の店を片付けろと魔理沙はいつも思う。
(このまま無視してたら絶対入ってくるよな……はぁ、流石にこんなの見られるわけにはいかないし)
仕方が無い、と眠気と倦怠感の残る体を布団から起こす魔理沙。眠る前より多少はマシになった足取りで、客――彼女としてはそうは思えないが――の待つ玄関へと向かう。
「はいはい、今開けるぜ」
未だ叩く音が止まない向こうへと話し掛けながら、ノブを捻りドアを開く。するとそこには今まさにそれを開けようとノブに手を伸ばした格好の男性が立って居た。
「なんだ、居るんじゃないか……って!」
「ああ? どうしたんだ」
魔理沙の目の前でまるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情になっている彼の名は森近霖之助。彼女の住む人のあまり来ない魔法の森に程近い場所にて、香霖堂という店を営んでいる奇特な青年である。
驚いていたのも束の間、彼はずれかけた眼鏡を直しながら口を開く。
「ええと、いやすまない、取り込んでいたんだな。その、だがそこまで急がなくても良かったんだが」
「……? 何言ってるんだ? 私はただ昼寝をしていただけだぜ」
一応は平静を取り戻した様子の霖之助だったが、やはりどこか焦っているようである。
「そうか……いやしかし……まあ、なんだ。最近は暑い日が続いているしね。涼しい格好で寝るのには文句は言わないさ。だが……その格好のまま出てくるのは少しどうかと思うよ」
「あー?」
熱と頭痛ほ酷い頭で「こいつなに言ってんだ」といわんばかりの不審気な視線を向ける。
とその時、開いたドアの向こうから爽やかな風が吹いてきた。涼しげなそれは彼女の火照った全身にとても心地よく感じられた。
(……ってあれ、全身?)
何か変だと気がつき、魔理沙は自分の身体を見下ろす。そしてやっと気がついた。
「……あ」
自分が現在、下着一枚だけの姿だったということに。
「……あー?」
視線を霖之助のほうへと戻すと、彼は気まずそうな表情で顔を背けている。
「……あー」
再び視線を自分の身体へ。
そして一瞬の間を置いて。
「っっきゃああぁぁーーー!!」
普段ではまず聞くことが無いであろう、魔理沙の非常にかわいらしい悲鳴が響いたのだった。
「ちょ、見るなおい!」
今更なのだがそんなことを言いながら片手で体を隠しつつ、魔理沙は付近にあったものを投げつける。
「痛っ、待て、落ち着け魔理沙」
「お前が落ち着きすぎなんだよ!」
次々と飛んでくる物を回避しながら必死になだめようとする霖之助。自身の動揺はどこかへ行ってしまったのか、先ほどとは打って変わって落ち着いた態度である。しかしそんな彼とは対照的に、彼女の方はもともと赤かった顔を更に紅潮させて、ますますヒートアップしていく。彼女にしても非常に不本意なのだろう。いくら熱のせいでまともに頭が回っていなかったとはいえ、まさかこんな失態を演じることになろうとは。
「いや魔理沙、流石にそれは拙いんじゃないか?」
そしてその小さな手が、軽く殴るだけでも相手を撲殺できそうなほど分厚い本を取ろうとしたときだった。
「……あ」
ふらりと傾く体。
(まず……)
そう思ったときには既に遅く、魔理沙の身体は床へと倒れこんでしまっていた。もともと寝込むほどに調子の悪い身体で、しかもほぼ全裸の状態で身体を動かしたのだ。こうなることは当然の結果だろう。
「なっ……魔理沙!」
目の前で倒れた彼女に驚き一瞬だけ硬直するも、霖之助はすぐに立ち直り側へと駆け寄ると屈みこむ。
「大丈夫か!?」
「……ぁー」
その呼びかけに気がつき、返事を返す魔理沙。
「……へへ、やっぱあれだな……流石にあの本は重すぎたか……バランスが崩れたぜ」
「何を馬鹿なことを……!」
荒い息で答える彼女の様子を見れば、明らかに具合が悪いであろう事は想像がつく。
「いや……ほんとだぜ」
「いいからもう喋るな……倒れるほど具合が悪いなら、何故そうと言わない!」
こんな状況になってさえ強がろうとする彼女に一喝する霖之助。
(くそ、いくら気が動転していたとはいえ、顔色を見れば調子が悪そうなことは簡単に見抜けたはずだろう……!)
そんなことにすら気付けなかった自分に悪態をつきつつ、彼は魔理沙を抱き上げる。
「……酷い熱だ……!」
両腕で抱え上げると体の軽さもそうだが、なによりその熱さに驚く。そしてこんな場所で考え込んでいる暇はないと、魔理沙をベッドのある寝室へと運んでいった。
意識の朦朧とした魔理沙を寝かしつけると。勝手知ったるとばかりに寝室の隅にある引出しを開け体温計を探す。やがて出てきたのは手のひらサイズの変則的な楕円形をした白い機械だった。見方によっては勾玉のような形にも思える。
外の世界で作られた最新式の体温計らしく、耳の辺りに当てると一瞬にして体温が測れるという優れものである。最新式の機械だというのにどこか馴染み深い形をしているという所が惹かれ、売らないでいようと思っていた物だったのだが、魔理沙が妙に気に入りいつの間にやら持って行かれてしまっていたのだ
「……ふう」
その時は使う気もないのに持っていくな、などと言った物だが実際こうして使うことになったのだから世の中なにが起こるか判らない。
「さて」
そんなことを気にしている場合ではないと思い出し、急いで魔理沙の熱を測る。
ピッという耳慣れない音と共に横についている長方形の窓に数字が表示される。
「三十八度……か」
普通に考えればかなりの高熱だが、それでも思ったほどの高さではなく一瞬安心しかける。しかし荒い呼吸のまま時折咳き込み大量の汗を流している魔理沙を見て、一息ついている場合ではないと考え直す。そして体温計を枕もとに置くと、霖之助は台所へと向かった。
寝室を出てから一分もしないうちに戻って来た霖之助。その手には水の張られた桶と手拭が握られている。
「よし」
桶をベッドの横へと置くと、まずは手拭で体中の汗を拭こうと手を伸ばす。年頃の娘の肌に無断で触るのは誉められたものではない。だがしかし事態が事態ということで目を瞑り、軽く頭を下げると拭き始める。
そして一通り拭き終わると桶の水で一度洗い、水が垂れて来ない程度まで絞ると魔理沙の額へと乗せようとする。
「と、その前に」
流石に病人をこんな姿のままで寝かせておくわけには行かないので、彼女の箪笥から寝巻きを取り出してくる。時折激しく咳き込むうえ、力の入らないだらんとした体の魔理沙。それを相手に四苦八苦しながら寝巻きを着せ終わると、再び横たえさせ今度こそ手拭を額に乗せる。
「これでいいか……ふむ、そういえば」
ふと思いつき、ベッド付近の床に脱ぎ捨ててあった魔理沙の服を探る。
「これだな」
懐から目的の物であるミニ八卦炉を取り出し、魔理沙の枕もとへと置く。この道具は製作者である霖之助が様々な効果を付随させてあるのだが、少し前に作り直したとき更に新しく付近の空気を綺麗にするという機能を付けた。それを思い出しその機能が現状では有効だろうと彼は考えたのだ。
「……ふう」
今度こそ、霖之助は現在の自分に出来ることの殆どを終えた。これ以上は医者の領分である。
とはいえこの状態の魔理沙を医者の居る場所まで連れて行くわけにもいかない。呼ぼうにもここは迷いの森、まともな人間が来てくれるとは思えない。
(だがこんな状態の魔理沙を放って置く訳にもいかない……どうしたものか)
別の手段としては彼女を背負って医者のもとまで飛んでいく、という方法がある。しかし地上と違い上空に吹く風はかなり強い。そしてそれを遮る物は無い完全に吹きさらしの状態だ。病人には辛すぎるだろう。
(まあ、最終手段だな)
そう結論付けて、彼はひとまず魔理沙の看病を続けることにした。
あれから数時間が経過した。窓から覗く外の風景は、既に薄暗くなり始めている。
しかし肝心の魔理沙の様態が一向に良くならない。こんな状態では医者を呼びにいくためにこの場を離れるなどもってのほかだ。
(本格的に拙いな)
霖之助は苦しそうにうなされている彼女を苦々しげな表情で見つめる。
「ちょっと待っていてくれ」
意識の無い彼女にそう告げると、彼は足早に外へと向かっていった。付近をだれかが通りかからないか見に行ったのである。一応先ほどから何度か様子見に言っているのだが、誰の姿も一向に見かけない。まあ場所的に考えて仕方の無いことなのだが、彼としては焦燥感が募るばかりだ。
「……ふむ」
外に出て辺りに意識を巡らせる。
「……」
しかしいくら周囲を見渡しても、夜の闇と木々の生み出す更なる影が視界を埋めるだけで、動く物は全くといって良いほど見かけない。
あまり魔理沙を放っておくわけにもいかないので、軽くため息をつきながら中へと戻ろうとする……と、そのときである。
少し離れた茂みから何者かの気配と、がさがさという音が聞こえてきたのだ。
「ん……?」
もしやと思いそちらへ視線を向ける霖之助。そしてそこから現れたのは――
「……人形?」
かわいらしい人形だった。
一体なんだろうと近くに歩み寄る霖之助。そこへ声がかけられる。
「あら、貴方何をやってるの?」
声は人形の出てきた茂みから聞こえて来た。そして現れる人影。
「おや、君は……」
そこにいたのは肩口まで金色の髪を伸ばした少女――魔理沙と同じくこの森に住む魔法使いにして人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
「珍しいわねこんな所で」
「そうだね、しかしちょうど良かった」
霖之助は彼女の姿を認め、一瞬にして思考を巡らせると有無を言わせずアリスの手を取り、霧雨邸へと連れて行こうとする。
「ちょっと、一体なんなのよ!?」
彼らしくない珍しく強引な行動に驚きつつもアリスは怒りの声を上げる。
「あ……と、すまない。少し焦ってしまっていたよ」
慌てて掴んでいた手を離す霖之助。
「だが事態は急を要するんだ。だから頼みを聞いてくれると有り難い」
「仕方ないわね……なんなのよもう」
唐突に頭を下げられて困惑するアリス。だがそこまでされては無碍に断るわけにも行かない。
「良かった……それじゃあこっちに来てくれるかい」
そう言うと来た時と同様に、彼は足早に霧雨邸に入っていく。
「……なんなのよほんと」
事態を飲み込めずにあきれた声をあげながら人形を腕に抱き、彼女もその後を追うのだった。
霖之助の後を追い魔理沙の寝室へと入ったアリスは、そこに広がった光景を目にし大まかに事態を把握した。
「なに、魔理沙ってば風邪でも引いたの?」
そうは聞いてくるものの、その口調は決して軽い物ではなく、魔理沙の様態が思わしくないことを理解しているようだった。
「もとはその程度だったんだろうが……また無理をしたらしくてね」
「律儀に答えないでよ。それで、医者には診てもらったの?」
「いや、まだだ。というかそのことで君に頼みたいんだ」
そういうと彼は事情を説明する。
「……なるほど、わかったわ。私はここで魔理沙の面倒を見てればいいのね」
「そうだ。その間に僕は医者を連れてくる」
言いながら既に彼は出て行く準備を始めている。
「新しい着替えは箪笥の上から二番目の段、下着は一番下にある。手拭は出て右手奥の洗面所の下だ。そっちの隅にある棚が一応薬箱だが、あまりまともな物は入ってない。体温計はその枕もとの白いのだ。耳元に当てるとすぐに体温が出る……こんなものか。あとは何かあるかい?」
全てを一息に言われて混乱しかけるアリス。
「ええと……大体は判ったわ、大丈夫……ってそれよりも何で貴方がそこまで詳しく知ってるのよ」
明らかに年頃の少女のプライバシーを侵害している事に気がつくと、それにアリスは突っ込みを入れる。
「緊急事態だからね。他には何か?」
「あ、う……特に無いわ」
有無を言わせぬ迫力でそう言われ、何も言えなくなる彼女。まあ不純な動機ではないというのは本当のことである。
「よし、それじゃあ行ってくる」
言うが早いか彼はまるで弾丸のような速度で霧雨邸を飛び出していってしまった。
一人残されたアリス。勢いで押し切られてしまった感はあるが、だからと言って放り出す訳にもいかない。とはいえ彼女自身も他人の看病などをすることは稀なため、勝手が判らずに戸惑ってしまっていた。普段では考えられない程に弱っている魔理沙を目にした事も、その戸惑いに拍車を掛けているのは間違いないだろうが。
「まったく……馬鹿は風邪を引かないなんて言うけど……迷信かしらね」
とりあえず内心の焦りを落ち着けようと、自分に言い聞かせるように軽口を叩く。
(目の前で魔理沙が苦しんでいるって言うのに、呆けている場合じゃないでしょう)
両手で頬を軽く張り、アリスは気合を入れた。
「……よし」
一つ息を吐くと、魔理沙へと近寄り額に乗せられた手拭をずらし熱を測る。
「っ、何よこの熱さは……」
先ほどまで外に居た事もあって、アリスの手も多少冷えていたのだが、その差を補って有り余るほどに魔理沙の額は熱かった。
「ええと」
視線を走らせ近くにあった桶に手拭を放り込む。
「……ん」
桶に張られた水は、既にかなり温くなっていた。霖之助も頻繁に取り替えてはいたのだが、魔理沙の熱の高さのせいですぐに温度が上がってしまうのだ。
記憶を頼りに家の中を歩き、彼女は桶の中身を取り替えて戻ってくる。
「そうだわ」
ふと何かを思いついたらしく、机の上に置いた桶に向かってなにやらブツブツと唱え始める。そうすると中に氷がいくつか浮び始めた。
「これで良し、と」
充分に冷やされた水に浸された手拭の水気を切り、魔理沙の額へと乗せる。
「次は……汗を拭かなきゃね」
水を替えるのと一緒に持ってきてあった新しい手拭を掴む。そして布団をめくり、ボタンを外そうと魔理沙の寝巻きの胸元へ手を伸ばす。
「……」
そこでアリスは少し躊躇う。意識の無い相手の服を勝手に脱がすと言う行為に、女性同士とはいえ多少なりとも気後れしてしまうのだろう。
「……えほっ!」
咳き込む魔理沙。
(って何考えてるのよ私は! こいつは今病人なんだから……!)
布団を捲くった状態で固まっていたアリスは慌てて思考を切り替える。躊躇う気持ちを捨て、一気にボタンを外す。
(……まあ病人なんだし、症状から考えても胸を圧迫するような物は着けないほうが良いってのは当然だけど……じゃなくて)
再び逸れそうになる思考を修正し、汗でじっとりと湿った肌を拭き始める。もしも他に誰かか居れば、何故か彼女の頬が赤くなっているのに気がついただろうが、生憎とアリスの他には意識の無い魔理沙しか居ない。
「……よし」
魔理沙の身体を冷やさないようにアリスは出来るだけ手早く全身を拭き終える。流石に女の細腕では辛いのか、霖之助と違い着替えさせる事までは出来なかったようだが。
霖之助が向かった先は永遠亭である。
彼の知りうる中でも彼女ほど薬に詳しい人間――月人のうえに不死人だが――は居ないだろう。それに下手に人間の医者の所へ行くのは、霖之助としてもあまり好ましくない。
「――あそこか」
よほど切羽詰っていたのだろうか、普段の姿からは想像もつかないような速さで、彼は永遠亭へと到着していた。
あまりの勢いにそのまま亭内へ突撃しそうになるが、必死に急停止をする。
「……っふう」
玄関の前まで来ると息を整える。急いでいるとはいえ、客としての礼儀を忘れてはいけない。
「夜分遅くに申し訳ない。八意永琳殿はいるだろうか」
中に向かってそう呼びかける。
しばらくの静寂の後、ぱたぱたという軽い足音が聞こえて来た。
「どなたですか?」
玄関の戸を開き姿を現したのは、幻想郷ではあまり見かけないような服装で、頭の上に二本の長い耳をぴょこんと生やした少女。
彼女の名は鈴仙・優曇華院・イナバ。霖之助が今現在、最も会いたいと思っている相手の弟子に当たる兎である。
「ええと、今晩は。僕は森近霖之助、こんな時間にすまないがここに住む八意永琳殿に用があってやってきたんだ」
「あ、香霖堂の店主さんですか」
彼が誰なのかわかったらしく、彼女は表情を緩める。
「そうだ……ええと、彼女は?」
自分の師匠に対してのなんとなく馴れ馴れしい物言いに、途端にむっとした表情になりかける鈴仙。
「それが……師匠は今ちょうど出掛けてまして」
「……そうなのか……それでどこへ」
それを聞き肩を落としかけるが、すぐに気を取りなおして行き先を尋ねる。
「確か人間の里のほうで風邪が流行ってるとかで……」
「人里か、わかった」
途端に踵を返し、霖之助は人里へ向けて飛び出す。
「……なんだったんだろ」
風のようにやって来て風のように去って行った彼の背中を眺めながら鈴仙はそう呟く。そんな彼女の視線の先にある霖之助の姿は、もうすでに米粒ほどの大きさしかなくなっていた。
一方、霧雨邸のアリスは、じっと霖之助の帰りを待っていた。
「……」
看病をしている彼女には、時間の進みが妙に遅く感じられるらしく、遅々として進まない時計の針に苛立ちを募らせている。
「……っ! げほっ! か、は……!」
「っ!」
そんな事を考えていると勢い良く魔理沙が咳き込む。それに反応しアリスはビクリと身体を震わせた。
「えほっ……ぜぇ、ふぅ」
「……は、ぁ」
大きくため息を一つ。
華奢な体が折れそうな程に激しく咳き込む彼女を見るたびに、アリスは自分の無力感を思い知らされる。そしてもしこのまま魔理沙が動かなくなったら……と言う不安に苛まれるのだ。
「……何やってるのよ馬鹿」
未だ姿を見せない霖之助を、アリスは小声で罵倒する。永琳を探すために彼が東奔西走しているだろうことは、当然彼女にも予想できるのだが、そうでもして気を紛らわせないと落ち着いて居られないのだ。
「早く帰ってきなさいよもう……お願いだから」
咳き込むたびに額からずり落ちる手拭を元に戻しながら、祈るようにして霖之助を待つのだった。
「くそ……」
心境的には一分一秒をも無駄にしていられない霖之助としては、悪態の一つも吐きたくなってくる。
(とはいえ、彼女も自分の仕事をしているんだ。文句を言うわけにはいかない)
そんなことを考えてい居る暇があるのならと更に速度を上げる霖之助。永遠亭とは全く正反対の場所に位置する人間の里へ向け、彼は飛び続ける。
そして彼が半分程度の距離――霧雨邸付近に差し掛かった時である。
「あら、珍しいわね」
高速飛行している横合いから、唐突に声がかけられた。
「な……っと!」
聞き覚えのあるそれに、彼は慌てて立ち止まる。
「そんなに急いでどうしたのかしら?」
再び聴こえた声に振り向く。そこにいたのは――
「や、八意永琳……」
「ええ、八意永琳よ」
――そう、幻想郷随一の薬師、月の頭脳こと八意永琳その人だった。
事態は急を要するとばかりに、霖之助は手短に事情を説明する。それを聞いた彼女はすぐに理解したようだ。
「わかったわ」
そう言うと、霖之助と二人で魔理沙の元へと向かう。幸いこの場所は彼女の家のすぐ近くだったため、数分もしないうちに到着すると、霖之助は急いで永琳を寝室へと案内した。
「ちょっと、遅いわよ!」
看病をしていたアリスは、彼らの姿を認めると開口一番そんなことを言ってきた。実際は短い時間だったのだが、こんな状況では時間が何倍にも長く感じられたのだろう。魔理沙の看病をしていた彼女は随分と疲弊しているように見えた。
しかしそれでもどこかほっとした表情なのは間違いない。
「すまない、手間取った」
「私じゃなくて、謝るならこいつにでしょ」
「そうだな……遅れてすまない、魔理沙」
未だ意識の戻らない姿を見据え、謝罪の言葉を放つ。霖之助はふと横のアリスを見ると、手元にある桶に氷が浮んでいることに気がついた。すぐに意味を理解し、彼女は彼女で魔理沙の看病を必死にしていてくれたことに少し嬉しくなる。
「それじゃあいいかしら」
そうこうしているうちに、永琳は手に持っていた鞄から道具を取り出し準備を終えていた。自分たちに出来ることは何も無いので、二人とも後ろへ下がる。
「……」
誰もが無言になる。
いつも優しげな笑みを浮かべている永琳も、今は真剣な表情で淡々と診察を進めている。
「……なるほど」
一通り診終えると、今度は鞄から注射器を数本とゴム紐を取り出す。
「二人とも、ちょっと手伝ってもらえる?」
「あ、ああ」
「え、ええ」
唐突に話を振られ驚くが、当然彼らには断る理由など無い。
「今から血を抜くから、この子の身体を押さえつけていて頂戴」
「は、どういうこと?」
意味がわからないでいるアリス。しかし霖之助のほうは既に魔理沙の横へと回っている。
「もしもその最中に咳き込んだりしたら危険だろ。針の先が血管を傷つけてしまうかもしれない」
「なるほどね」
得心の言った表情で、アリスも霖之助に続く。
「良いかしら」
「ああ、大丈夫だ」
「こっちも良いわ」
しっかりと魔理沙の身体を押さえつける。
「それじゃ、始めるわね」
二人が見守る中、手早く紐を魔理沙の腕に縛りつけると、注射器を手に取り採血を始めた。
ゆっくり、ゆっくりと赤い血が内部に溜まっていく。
「はい、おしまい。さて次は……」
二本ほど抜き取ると、彼女は茶色いビンを鞄から取り出した。
「それは?」
「栄養剤よ。彼女ずっと寝たきりで何も口にしていないんでしょう?」
「なるほど」
続けて注射をする永琳。
「はい、これも終了、と。もう離れてもいいわよ」
「……ふう」
「なにか妙に力が入っちゃったわね」
「ああ、緊張したね」
運の良いことに特に何かが起こることも無く終了したが、押さえていた二人はかなり緊張していたらしい。ある意味、時限爆弾を抱えたような気分だったのかもしれない。
「それにしても……知らない人が見たら勘違いされそうな光景だったわね」
何気にそんなことを口にする永琳。確かに、小柄な少女に二人がかりで覆い被さっているという状況は、傍から見れば少々危険だろう。
「……」
「……」
二人とも思ってはいても口にはしなかったことをあっさり言われ、微妙な表情を浮かべる。だが永琳はそんなことはお構いなしに、再び鞄の中を探り、何かを取り出した。
「さて次ね……二人とも、今度は服を脱がすの手伝って頂戴」
「「はぁっ!?」」
唐突に飛び出した爆弾発言に、霖之助とアリスはそろって驚きの声を上げる。
「いきなり何を!?」
「病人の前で大声を出さないの……ただ熱さましに座薬を入れるだけよ」
「ああ、なるほど、座薬ね……ってちょっと」
「? なにかしら」
更に動揺するアリスだが、永琳は至って普通の反応である。
「いや、その、座薬って……お尻に、よね」
「もちろんそうよ」
頬を染めながら言うアリス。だがやはり永琳は平然と答える。
「……まあ仕方ないだろう」
アリスよりも更に複雑な表情で、霖之助が言う。
「仕方ないって貴方……」
「意識の無い彼女に薬を飲ませるのは一苦労だろう。だから座薬を使うと言うのは理に適っている。粘膜からの吸収なら効果が現れるのも早いしね」
「……う、それはそうだけど」
「それに僕らがこうしていても魔理沙の症状が和らぐわけでもないよ」
「……うう」
確かにその通りである。別に自分自身が魔理沙に座薬を入れるわけでもないので、アリスも渋々と承諾することにしたのだった。
魔理沙の寝巻きを元に戻し、再び布団へと横に寝かせる。
「……一気に疲れたわ」
「……同感だね」
二人とも大仕事を終えた後のように疲労していた。それもそうだろう、意識の無い人間に座薬を入れるというのは随分と苦労が伴う物だ。今やもうアリスは魔理沙に負けず劣らず顔を真っ赤にさせ、霖之助も先ほどから目が泳ぎっぱなしでしきりに眼鏡の位置を直している。
「医療行為なんだから、そんなに恥ずかしがることはないんじゃないかしら」
「頭では理解してるんだけどね……」
実行犯……もとい、座薬を実際に挿入した永琳は、手馴れているのか軽く言うが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
生まれた時から付き合いがあり、おしめを取り替えたことがある霖之助ですらそうである……まあ、そんな赤ん坊の頃と比べると言うのはどこか違う気がしないでもないが。
「……それはもういいとして……それで、結局魔理沙はどうなんだい」
「そ、そうよ、どうなの?」
気を取り直して永琳に問い掛ける霖之助。先ほどまでのことを振り払うかのようにアリスもそれに続く。
「そうね……診た限りではだけど、風邪をこじらせて肺が炎症を起こしてしまっているみたい」
「やはりそうなのかい」
大体の予想はつけていた霖之助が頷く。
「ええ、でも詳しい原因はまだ特定できないから……ちょっと隣の部屋にあった機材を借りても良いかしら
「まさか薬を作ろうっていうの?」
「そうよ?」
決して軽い病ではないというのに、ほぼ即席で薬を処方しようと言うらしい。いかに彼女が天才と言えど、随分と無茶をするものである。
「いいんじゃないか。持ち主は寝込んでいるわけだし、彼女自身のためなんだから特に気にすることも無いだろう。後で何か言われても僕が謝っておくよ」
「そう、ありがとう」
礼を言うと永琳は先ほど抜き取った魔理沙の血液と鞄一式を手に取り、隣の部屋へと姿を消した。
それからしばらくの間、隣の部屋から不可解な音が聞こえてきたが、それが収まると再び永琳が寝室へと入ってきた。
「出来たわよ」
「流石に早いね」
「これで仕事をしているんですもの」
だとしても早すぎだろうが、彼女はそれが当然のように振舞っている。やはり天才と言うのは常人とは懸け離れたものだということを、アリスと霖之助は実感した。
「それでは早速」
そんな二人の心中は知らずに、完成したばかりの薬を注射器に入れ準備を始める。
「二人とも、また押さえていて貰えるかしら」
今度は特に何も言わずに魔理沙の身体を押さえに掛かる二人。それを確認すると、永琳は先ほどの手順で手早く注射を終える。
「……それはどんな効果の薬なの?」
針を抜き止血をしている永琳に、気になったのかアリスが問い掛ける。
「病気の元がこれ以上育たないようにするための薬よ。だからあとは彼女の体が残っている病気を排除できれば治るわ」
その言葉を聞きあからさまに安堵する二人。霖之助もそうだが、アリスも苦しむ魔理沙を前にして相当心配していたのだろう。一気に肩の力が抜けたようだ。
「……よかった」
「ふふ……あ、これを渡しておくわね」
鞄の中から何かを取り出す永琳。
「これは点滴の道具で、こっちはその中身。栄養剤やその他諸々の効能があるから……使い方はわかるでしょう?」
「大丈夫だ、すまないね」
「あともし意識が戻った時のための飲み薬も置いておくわね」
薬包紙に包まれたそれを渡すと、荷物をまとめ始める永琳。
「そろそろ行くわね」
「ああ、本当に有り難う」
「もし何かあったら遠慮なく訪ねて来て頂戴」
「わかってるわよ」
ぱたんと鞄を閉じ手に取る。
「それでは」
そして彼女は霧雨邸を後にしたのだった。
「さて、と」
ベッドの横へと椅子を置き、そこへと座る霖之助。どうやら再び彼女の看病を始めるようである。
「君はどうする? どうせここに居てもたいしたことが出来るわけでもないし、疲れているならもう帰ってしまってもいいが……」
「残るに決まってるでしょ」
まあいざと言う時に人手があるにこしたことは無いんだがね、と続けようとしたが、その言葉を口にする前にアリスに遮られてしまう霖之助。
「そうかい」
微笑ましいものを感じながら霖之助は立ち上がると、隣の部屋へと行ってしまった。何事かとアリスが問い掛ける間も無く、彼はすぐに戻って来た。
「ほら、長く居座るならずっと立ちっぱなしで居るわけにもいかないだろ」
そう言う彼が両手で抱えているのは、魔理沙愛用のロッキングチェアである。愛用しているというだけあって、随分と座り心地は良いらしい。それは彼女がその上に座ってよく居眠りをしている光景が見られることからも伺えるだろう。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
この部屋にもまだ椅子はあったのだが、わざわざ隣から座り心地の良い椅子を持ってきてくれたらしい。こういった気配りが出来る辺り、彼はやはり常識人なのだろう。
とはいえその常識が霖之助の周囲の少女達にとってもそうとは言えない辺り、どこか哀愁を誘う気がしないでもない。
「よし」
永琳から受け取った点滴の準備を始める霖之助。ビンの中身を移し替え、その辺りの棚を適当に並び替えて即席だがしっかりとした台を作りそこに掛ける。
「随分と手馴れてるわね」
「まあ使ったこともあるしね。そもそもこれは僕の物だったんだよ……でもどうせなら必要としている者が使う方が良いだろう? だから永琳に譲ったんだ」
「なるほどね」
そうこう話しながらも彼は魔理沙の手の甲へと小さな針を刺し、永琳から渡された医療用の粘着テープ――これも元々は彼のもの――で押さえつける。
「これで終わり、と」
簡単に外れないことを確認すると、ベッドの横に置いてある椅子へと腰掛けた。
「……」
「……」
なんとはなしに会話も途切れてしまう二人。聴こえてくるのは魔理沙の苦しげな息遣いだけである。それでも先ほどの薬のおかげか、永琳が来る前までよりは随分と顔色が良くなってきている。
霖之助はそんな彼女の見ると、ふと乱れた髪の毛に気がつき軽くまとめる。そして何の気なしに己の指で梳いてやる。久しぶりに触れるその髪はとても滑らかで柔らかく、馴染み深い魔理沙の匂いがした。ふと昔を思い出し無意識に目を細めてしまう。
「……ねえ」
「ん……なんだい」
その光景をどこか羨ましげに見つめていたアリスが口を開く。
「貴方って……魔理沙のことを昔から知ってるのよね」
「そうだよ。この子のことなら生まれる前から知っている」
魔理沙の髪を梳く手を止めることなく返答する霖之助。気のせいか撫でられている彼女の表情も、どこか和らいできているように見える。
「……ぅ……ん」
「ん?」
その魔理沙の口元がかすかに動く。
「……寝言かな」
「……みたいね」
それのせいで二人の会話は再び途切れるが、視線は未だもごもごと動いている魔理沙の口元に注がれていた。
その間も霖之助の手はずっと動きつづけている。
「……ん……兄様……」
眠る彼女の口元からはっきりとそんな言葉が紡がれる。同時に霖之助の手のひらに、擦り付けるようにして頭が動く。大分落ち着いてきた表情の中にはどこか嬉しそうなものが浮んでおり、なにやら良い夢でも見ているようである。
「……は?」
「おや、これは随分と懐かしい呼び名だね」
寝ているにしても随分と普段の彼女からは考えられない行動に、呆気に取られてしまうアリス。
しかし霖之助の方は嬉しげな表情を浮かべている。
「いや……懐かしい、って?」
「ふむ……そうだね。時間もあることだし……少し、昔話をしようか」
「昔話?」
「そう……まだこの子が、今よりもっとずっと幼かった頃の話だよ」
「へえ……聞かせて貰えるかしら」
興味をそそられたのか、アリスは居住まいを正して魔理沙のほうから霖之助へと向き直った。
「どこから話そうかな」
霖之助は軽く逡巡すると、ふと思いついたように口を開いた。
「そうだな、さっきこの子が言った寝言……聞いていたよね」
「ええ、確か兄様……とか」
口にするもあまりの違和感に頬を引きつらせるアリス。
「うん……随分と驚いただろう?」
「ええまあ。流石に……ねえ」
その反応に苦笑をする霖之助。
「それはそうだろうね。でも実はこの子……昔はずっとそんな感じだったんだよ」
「ぇえ?」
素っ頓狂な声を上げてしまうアリス。その反応に再び苦笑する霖之助。
「この子の家はね、それなりに名の通った家柄なんだ。だから幼い頃からも教育はきちんとされていた……今じゃ考えられないだろうけど、昔は良家のお嬢様然とした口調だったんだよ」
「…………はぁ」
「君の気持ちもわかるよ。僕も数年ぶりに再会したこの子が、随分とぶっきらぼうな口調と性格になっていたときはそれは驚いたさ」
「まあ……そうでしょうねえ」
自分とは正反対の状況だったであろうそれを想像しアリスは頷く。
「小さい頃は僕のことを兄様と呼んで慕ってくれていたというのにね……」
そんなことを口にしながらも、彼は慈しむような目で魔理沙を見つめている。
「父親と何かいざこざがあって家を飛び出してきたっていうから、多分その時になにか思ったんだろうね」
あくまで僕の想像でしかないけど、と付け加える霖之助。
「そういえば、昔からの知り合いだってことは知ってるけど、貴方って一体どういう風な関係なの?」
魔理沙のことだけではなく、霧雨家のことにも詳しいらしい霖之助に疑問を抱くアリス。
「おや、知らなかったのかい。僕はね、今の店を経営する前は、彼女の実家で修行をしていたんだ」
「修行って……」
「人の扱う物を詳しく知りたいと思ったからね。それが道具であれ魔法であれ、霧雨家はそれを覚えるのに関しては最適な場所だったんだよ」
「ふうん」
「だからあの家に居候していた。出て行った後もこの子が生まれてからは顔を出すことが結構あったからね。それで色々と知っているわけさ」
普段関わることの殆ど無い彼とじっくり話し合っている自分を、なんとなく不思議に思いながらアリスは会話を続ける。
「ちょっと疑問なんだけど、なんで魔理沙の実家を出て行ったの?」
「……ああ、それは……あの家では自分の能力を生かせないと思ったからだよ。それであの店を建てたというわけさ」
「……呆れた。世話になった相手の家をそんな理由で出て行ったなんて。挙句その結果が、あの万年閑古鳥が鳴いている店ってわけ?」
「耳が痛いね」
どことなく寂しげな表情で霖之助はそう言うが、先ほどまで多少は感心して聞いていたアリスの方は、今や本気で呆れているようである。
「……ふう、まあいいわ。どうせ私には関係ないことだし……それより魔理沙のことを聞きたいわ」
霖之助のことはもういいとばかりに、気を取り直して魔理沙の話の続きを催促するアリス。
「わかった」
霖之助も話を再開する。
「ええと、どこまで話したかな……っと、この子はお嬢様だったって所までか」
こくりと頷くアリス。
「まあそんな風に今とは違ったんだが……他にもちょっとあってね」
「……なにかしら」
「体がそんなに強い子じゃなかったんだよ。まあ病弱、という程ではなかったんだが、それでも結構頻繁に熱を出したりしていてね」
「それはまた……驚きね」
今では箒を片手にあちこちを派手に飛び回り、人の家に窓から飛び込んだり大魔法を撃ち込んだりと、好き勝手に暴れまわっている魔理沙である。今回のこと以前には、風邪をひいた姿すら殆ど見たことが無いほどの健康体だった彼女に、そんな過去があったなどにわかには信じ難い。とはいえ、霖之助がそんなことで嘘を言うわけも無く、それが真実であろうことは明白だ。
「熱が出ているのにも構わず友達と遊びまわったりしてね……帰ってきてから倒れるなんてこともあったよ」
「ふふ、そこは魔理沙らしいわね」
「だろう? ……とはいえ、小さな子が熱を出して倒れるなんてのは、大人である僕らからしてみれば正直落ち着いていられない事態だからね。何度も注意はしたんだが……」
「やめなかったのね?」
「その通り。普段は素直なのにそう言う部分では無駄に頑固というか、我侭というか……まったく、心配する方の身にもなって欲しかったよ」
外でアリスと会ったときのように、魔理沙のせいで度々慌てていたであろう霖之助の姿を想像し、アリスは可笑しくなってくる。
「本質っていうのはそうそう変わらないものなのね」
「そうなんだろうね。しかしまあ、そんなことが頻繁に起こるものだから、僕らもその状況に慣れてしまっていてね。一度だけ、いつものことだろうと思っていたら……凄い勢いで体調が悪くなっていったときがあるんだよ。それも間の悪いことに丁度他の人たちが出掛けている時でね」
「……その時はどうしたの?」
「僕一人で悪戦苦闘しながら必死で看病したよ……でもね、どう頑張ってもこの子の体調は一向に良くならなかった」
「……」
「思えばあの時が初めてなのかもしれないな……この子を本気で助けたいと、守りたいと思ったのは」
会話のためにアリスに向けていた顔を、魔理沙へと向ける。慈愛に満ちた彼の表情は、紛れも無く大切な家族を見守る者のそれだった。
「……それで、どうなったの?」
続きを促すアリス。
「僕の力ではどうにもならなかったよ……それで結局は、その時たまたま里に来ていた薬売りの手によって、この子は一命を取り留めたというわけさ」
「あら、そうなの」
なんとなくあっけない終わりに、アリスは拍子抜けしてしまう。
「ああ、ちなみにその時の薬売りって言うのが、あの八意永琳だったんだけどね」
「あら、そうなの?」
同じ言葉を今度は違うニュアンスで返す。
「それまでにも会った事はあるんだが、まともに話をしたのはあれが初めてだったかな……まあそんなこともあって、世話になった彼女には医療道具を優先的に譲るようになったんだ……あれとかね」
「そうだったのね」
魔理沙の手の甲へと繋がっている点滴を差しながら言う。
今でも彼女の方に足を向けては寝られないよ、と微笑んだ霖之助はさらに話を続けた。
たまに相槌を打ちながら、アリスは霖之助の話を聞いていた。
「……そういえば」
話をしながらなんとはなしに部屋を見回していた彼の視線が壁の一点で止まる。どうやらそこに掛けてあったカレンダー――これも彼の店から無断で持ち出した、どの年月にも対応させることが出来るという優れものである――に目を留めたようだ。
「……ああやっぱりか」
「なにがよ」
「いやなに、来週はこの子の誕生日だとおもってね」
「そうなの? 知らなかったわ」
魔理沙の知り合いは、誕生日を祝うということが殆ど無い。人間の何倍もの寿命を持っている彼女達は、そういったことに無頓着になりがちなのだ。そもそも人間である魔理沙本人からして誕生日を忘れていたりするものだから、それに拍車が掛かってしまっているのである。そのため当然のことながらアリスも魔理沙の誕生日を祝ったことなどなかった。
「ああ、しかも今年は少し特別なんだよ」
「何が特別なの?」
「霧雨家では一定の年齢に達すると、一人前と認められて独り立ちすることになっているんだ」
「へえ、それが今度の誕生日ってわけ」
「そういうことだね……まあ、家を飛び出して来ているこの子には余り関係の無い事と言えるかもしれないけど……そうだ」
良い事を思いついたと言わんばかりの表情になる霖之助。
「せっかくなんだし……皆でこの子の誕生日を祝わないかい? もちろん君も一緒に」
「……はぁ? なんで私が。祝うなら貴方たちで勝手にやっていればいいでしょ」
つい反射的に断ってしまうアリス。どうもこういったことに関して、本心とは逆のことを言ってしまうのが彼女である。
「まあそう言わずに。この子も友達である君が祝ってくれたら喜ぶと思うんだ」
「友達って……そんなことよく恥ずかしげも無く言えるわね」
「別に恥ずかしがるようなことじゃないだろう?」
「言ってなさい……それに私は魔理沙の友達なんかじゃないわ」
素直になれずにいるアリスの目を覗き込んで、霖之助は言う
「そうかい? でも君がそう思っていなかったとしても、この子は君のことを友達だと思っているよ」
「な、なんでそんなことがわかるのよ」
目をそらすアリス。
「わかるさ。この子が君の話をするときは、いつもとても楽しそうだからね……対立することも多いみたいだけど」
「……喧嘩するほど仲が良いとでも言いたいわけ?」
「はは、わかってるじゃないか」
徐々に赤らんでくる頬を隠すために更に顔を背け俯く。
「…………わかったわ、百歩譲って魔理沙が私のことを友達だと思っているとしましょう。でも……他にも友達なんてたくさん居るでしょ。私一人が祝わなくたって別にいいじゃない。結局はその他大勢のうちの一人でしかないんだから」
アリスは言ってしまってから気付いた。いま自分が口にしたのは心の中で常に思っていたもので、絶対に誰にも話すことなど無いはずの――不安、そのものだったということに。
「……っ」
しまった、と思うもなかなか顔が上げられないアリス。こんな弱気な発言をした自分を、目の前の青年はどう思い、どんな顔をして聞いていたのだろうかと考えると体が動かないのだ。
(……あれだけ散々強がって見せたのに、最後の最後にあんなこと言ったんじゃ……失敗したわ……)
硬直しているアリスに、霖之助は語りかける。
「確かに大勢と言うのは正しいだろうけど……その他、というのは間違いだね」
その声に彼女を嘲笑するような響きは一切含まれていなく、優しげでどこか諭すような雰囲気を持っていた。
アリスは恐る恐る顔を上げて見ると、先ほどと変わり無く微笑を浮かべたままの青年が見つめ返して来ている。
「……どうしてよ」
なんとか言葉を搾り出す。
「この子にとっては君たち一人一人、全てが掛け替えの無い大切な友人なんだよ」
かなり落ち着いてきたのか、あまり息苦しさを感じさせない安らかな寝息を立てている魔理沙のほうにチラリと視線を向ける。
「この子の情はとても広いんだ。相手が人間だろうと妖怪だろうと、全く気にせずに深くまで踏み込んで仲良くなってしまう。たとえ最初は鬱陶しいと思われていた相手ですらも、何時の間にか好意をもたれている……そんな子なんだよ」
まるでその相手というのが自分のことを差しているような気がして、再び頬が熱くなって来るアリス。
「でも、だからといって一人一人に対する情が薄いなんて言うことは無いんだ。誰に対してもわけ隔てなく接する、というだけならば霊夢も同じだろう。だが二人には決定的な違いがある」
「……その違いってなんなの?」
彼女は気を紛らわすために霖之助へと質問すると、それはね、と前置きしてから彼は話を続ける。
「霊夢は相手との距離の取り方が非常に上手い。だから誰とでも同じ距離で相手をしていられる。対して魔理沙はその距離の取り方がとても下手なんだ……というよりは、元々そんなものを取ろうなんて考えてないのかもしれないね。だから限りなくゼロまで近寄ることが出来るんだ。相手の深くまで入り込むっていうのは、自らの深い部分をさらけ出さないと無理だからね。つまり彼女にとって友達だと思っている相手は誰一人として同じではなく、そしてそれぞれに対して深い信頼を抱いているんだよ……っと、勘違いしないように言っておくけど、別に霊夢に情が無いってわけじゃないからね」
「…………ふうん」
彼の話した内容が本当ならば、アリスにとっては非常に嬉しいことである。しかし彼女の性格的に、そんなことを表に出すわけにはいかない。そのため返した言葉はそんな一言だけだった。
「だからね……やっぱり君にも祝って欲しいと思うんだ」
それを知ってか知らずかそんな頼みを口にする。
「…………はぁ、わかったわよ、参加するわよ。どうせ来週になれば調子も良くなってるだろうし……快気祝いも含めてせいぜい派手に祝ってやればいいんじゃないの」
やれやれと言わんばかりの口調の彼女だが、実際は頬がにやけないようにするのに必死である。
とことん素直になれない性格のようだ。
「そうか、ありがとう」
なんの含みも無いように礼を言ってくる霖之助。
(どうせ全部わかってて言ってるんでしょうね。まったく)
「食えない男」
当然聞こえてはいたのだろうが、彼が気にした様子は全く無かった。
自宅にて魔法薬の研究を一段落終えた彼女、霧雨魔理沙は唐突に咳き込んだ。それと同時に眩暈が訪れる。
「あー、風邪でもひいたか? ……っと……っげほっ!」
そして再び大きく咳き込む。背中を丸めながら何度も何度も。彼女一人しか居ない部屋に、その音だけが繰り返し響き渡る。
しばらくの間それに耐えるとようやく収まり、荒い息をつきながら彼女は目の前の研究器具を片付け始めた。
「思ったより酷いな……ここ最近の徹夜が響いたか」
先ほどまでは極限まで集中していたせいからか、自分の体調に殆ど気がつかなかったようである。仕事を終えて疲れと一緒に一気にそれが押し寄せてきたのだろう。一通り片付け終わると、魔理沙はおぼつかない足取りでふらふらと寝室へ向かう。
「うー……こりゃマジでやばいぜ……えほっ」
着ていた服をその辺りに脱ぎ散らかしながら、布団へと潜り込みそう呟くがその間にも咳込み続けている。そしてそれに続いて頭痛までし始めた。付け加えるならば当然の如く顔はすでに真っ赤である。
「……あー」
通常ならば眠りにつくのも一苦労しそうな具合の悪さだが、幸か不幸か一度横になってしまうと睡眠不足のせいもあってか、彼女はまるで意識を失うかのように眠りへと落ちていったのだった。
熱に浮かされた頭で、魔理沙は昔の夢を見る。それは彼女がまだ幼い頃、霧雨の実家で過ごしていた頃の記憶。
その頃の魔理沙は、今では考えられないほど大人しい娘だった。とはいってもあくまで今と比べての話であり、普通一般で言い現せば十分に活発な娘だったのだが。
彼女の生まれた霧雨家というのは、付近でもそれなりに名の通った家系だった。
そのためそこの娘である魔理沙は、物心付く前から厳しい躾を受けてきた。それは一般的な礼儀作法から始まり、様々な勉学、そして魔法の知識までと多岐にわたった。その頃からすでに人一倍努力家な面を発揮していた彼女は、どんどんその知識を吸収していった。
それだけを言えばまるで箱入り娘のような教育振りだが、厳しく教えつつも彼女本来の意思を押さえつけないといった方法をとっていた。そのためか、それともやはり生来の性格ゆえなのか、彼女は自由奔放で天真爛漫な少女だった。それでいてその年頃の子供とは思えぬほど明晰な頭脳を持っていたわけだから、当然そんな娘が人気者にならぬはずも無く、誰もが彼女に惹かれたのである。
周辺の子供達の間ではリーダー的な存在として、それどころか同年代だけでなく年上や年下にも好かれていた。魔理沙自身も分け隔てなく、どんな相手とも仲良くなれる気質を持っていたため、その友人の輪はますます広がっていった。
彼女がそんな風に、誰彼と区別することなく接することが出来たのは、ひとえにとある人物のおかげであろう。物心つく前から彼女はその人物を兄と呼び慕っていた。
その彼の名は――
「……ん」
小さな物音に反応して目を覚ます魔理沙。体調は依然として芳しくない、しかしそれでも一眠りしたおかげである程度だが倦怠感は抜けていた。
「何だ……?」
再び聴こえる物音。コンコン、というそれは、どうやら彼女の家の玄関をだれかが叩いている音らしかった。
「客か……珍しいな」
とはいえ彼女は起き上がるのも億劫な状態である。そして他人にこんな姿を見せるのもあまり気が進まない。そんな理由から仕方なしに居留守を使おうとする。
「……」
しかし相手もよほど重要な用でもあるのだろうか。粘り強くドアを叩いてくる。いい加減に鬱陶しくなってきたところで、玄関から彼女を呼ぶ声が聞こえて来た。声から判断するに男性のようである。
「魔理沙、居ないのかい?」
(……あー)
こんな所にわざわざやってくるような男の知り合いは、魔理沙には一人しか居ない。
(香霖か……拙いな、あいつなら遠慮なく家に入ってくるだろうし)
普段この家へ来ることはあまり無い彼だが、来た時はたとえ魔理沙が留守のときだろうと平然と家の中へ入り、彼女が帰ってくるまで当然のように待っていたりする。そのうえ勝手に掃除などを始めていたりするので更に性質が悪い。
その態度に腹が立ち、前に一度「女の子の部屋に無断ではいるなんて失礼な奴だぜ」と言ってみたのだが「それは失礼なことをした。だがそれならもっと女の子らしくしたらどうだ? こんなに部屋を汚くしていては、嫁の貰い手も無いぞ」なんて返されてしまった。そのうえ畳み掛けるように「店の奥に勝手に入ってくるのは慎ましくない」だの「箒を振り回すのはやめろ」だのと小言を言われる羽目になったので、それ以来あまり文句は言わないようにしている。
前に数日間家を空けたときにも来ていたことがあったらしく、帰宅した時に妙に部屋が片付いていたりして驚いたものである。だがそのくせ魔理沙に会うと、たいした話もせずに帰ってしまうのだ。まるで娘の心配をする父親のようである。そんなことをする暇があったらまず先に自分の店を片付けろと魔理沙はいつも思う。
(このまま無視してたら絶対入ってくるよな……はぁ、流石にこんなの見られるわけにはいかないし)
仕方が無い、と眠気と倦怠感の残る体を布団から起こす魔理沙。眠る前より多少はマシになった足取りで、客――彼女としてはそうは思えないが――の待つ玄関へと向かう。
「はいはい、今開けるぜ」
未だ叩く音が止まない向こうへと話し掛けながら、ノブを捻りドアを開く。するとそこには今まさにそれを開けようとノブに手を伸ばした格好の男性が立って居た。
「なんだ、居るんじゃないか……って!」
「ああ? どうしたんだ」
魔理沙の目の前でまるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情になっている彼の名は森近霖之助。彼女の住む人のあまり来ない魔法の森に程近い場所にて、香霖堂という店を営んでいる奇特な青年である。
驚いていたのも束の間、彼はずれかけた眼鏡を直しながら口を開く。
「ええと、いやすまない、取り込んでいたんだな。その、だがそこまで急がなくても良かったんだが」
「……? 何言ってるんだ? 私はただ昼寝をしていただけだぜ」
一応は平静を取り戻した様子の霖之助だったが、やはりどこか焦っているようである。
「そうか……いやしかし……まあ、なんだ。最近は暑い日が続いているしね。涼しい格好で寝るのには文句は言わないさ。だが……その格好のまま出てくるのは少しどうかと思うよ」
「あー?」
熱と頭痛ほ酷い頭で「こいつなに言ってんだ」といわんばかりの不審気な視線を向ける。
とその時、開いたドアの向こうから爽やかな風が吹いてきた。涼しげなそれは彼女の火照った全身にとても心地よく感じられた。
(……ってあれ、全身?)
何か変だと気がつき、魔理沙は自分の身体を見下ろす。そしてやっと気がついた。
「……あ」
自分が現在、下着一枚だけの姿だったということに。
「……あー?」
視線を霖之助のほうへと戻すと、彼は気まずそうな表情で顔を背けている。
「……あー」
再び視線を自分の身体へ。
そして一瞬の間を置いて。
「っっきゃああぁぁーーー!!」
普段ではまず聞くことが無いであろう、魔理沙の非常にかわいらしい悲鳴が響いたのだった。
「ちょ、見るなおい!」
今更なのだがそんなことを言いながら片手で体を隠しつつ、魔理沙は付近にあったものを投げつける。
「痛っ、待て、落ち着け魔理沙」
「お前が落ち着きすぎなんだよ!」
次々と飛んでくる物を回避しながら必死になだめようとする霖之助。自身の動揺はどこかへ行ってしまったのか、先ほどとは打って変わって落ち着いた態度である。しかしそんな彼とは対照的に、彼女の方はもともと赤かった顔を更に紅潮させて、ますますヒートアップしていく。彼女にしても非常に不本意なのだろう。いくら熱のせいでまともに頭が回っていなかったとはいえ、まさかこんな失態を演じることになろうとは。
「いや魔理沙、流石にそれは拙いんじゃないか?」
そしてその小さな手が、軽く殴るだけでも相手を撲殺できそうなほど分厚い本を取ろうとしたときだった。
「……あ」
ふらりと傾く体。
(まず……)
そう思ったときには既に遅く、魔理沙の身体は床へと倒れこんでしまっていた。もともと寝込むほどに調子の悪い身体で、しかもほぼ全裸の状態で身体を動かしたのだ。こうなることは当然の結果だろう。
「なっ……魔理沙!」
目の前で倒れた彼女に驚き一瞬だけ硬直するも、霖之助はすぐに立ち直り側へと駆け寄ると屈みこむ。
「大丈夫か!?」
「……ぁー」
その呼びかけに気がつき、返事を返す魔理沙。
「……へへ、やっぱあれだな……流石にあの本は重すぎたか……バランスが崩れたぜ」
「何を馬鹿なことを……!」
荒い息で答える彼女の様子を見れば、明らかに具合が悪いであろう事は想像がつく。
「いや……ほんとだぜ」
「いいからもう喋るな……倒れるほど具合が悪いなら、何故そうと言わない!」
こんな状況になってさえ強がろうとする彼女に一喝する霖之助。
(くそ、いくら気が動転していたとはいえ、顔色を見れば調子が悪そうなことは簡単に見抜けたはずだろう……!)
そんなことにすら気付けなかった自分に悪態をつきつつ、彼は魔理沙を抱き上げる。
「……酷い熱だ……!」
両腕で抱え上げると体の軽さもそうだが、なによりその熱さに驚く。そしてこんな場所で考え込んでいる暇はないと、魔理沙をベッドのある寝室へと運んでいった。
意識の朦朧とした魔理沙を寝かしつけると。勝手知ったるとばかりに寝室の隅にある引出しを開け体温計を探す。やがて出てきたのは手のひらサイズの変則的な楕円形をした白い機械だった。見方によっては勾玉のような形にも思える。
外の世界で作られた最新式の体温計らしく、耳の辺りに当てると一瞬にして体温が測れるという優れものである。最新式の機械だというのにどこか馴染み深い形をしているという所が惹かれ、売らないでいようと思っていた物だったのだが、魔理沙が妙に気に入りいつの間にやら持って行かれてしまっていたのだ
「……ふう」
その時は使う気もないのに持っていくな、などと言った物だが実際こうして使うことになったのだから世の中なにが起こるか判らない。
「さて」
そんなことを気にしている場合ではないと思い出し、急いで魔理沙の熱を測る。
ピッという耳慣れない音と共に横についている長方形の窓に数字が表示される。
「三十八度……か」
普通に考えればかなりの高熱だが、それでも思ったほどの高さではなく一瞬安心しかける。しかし荒い呼吸のまま時折咳き込み大量の汗を流している魔理沙を見て、一息ついている場合ではないと考え直す。そして体温計を枕もとに置くと、霖之助は台所へと向かった。
寝室を出てから一分もしないうちに戻って来た霖之助。その手には水の張られた桶と手拭が握られている。
「よし」
桶をベッドの横へと置くと、まずは手拭で体中の汗を拭こうと手を伸ばす。年頃の娘の肌に無断で触るのは誉められたものではない。だがしかし事態が事態ということで目を瞑り、軽く頭を下げると拭き始める。
そして一通り拭き終わると桶の水で一度洗い、水が垂れて来ない程度まで絞ると魔理沙の額へと乗せようとする。
「と、その前に」
流石に病人をこんな姿のままで寝かせておくわけには行かないので、彼女の箪笥から寝巻きを取り出してくる。時折激しく咳き込むうえ、力の入らないだらんとした体の魔理沙。それを相手に四苦八苦しながら寝巻きを着せ終わると、再び横たえさせ今度こそ手拭を額に乗せる。
「これでいいか……ふむ、そういえば」
ふと思いつき、ベッド付近の床に脱ぎ捨ててあった魔理沙の服を探る。
「これだな」
懐から目的の物であるミニ八卦炉を取り出し、魔理沙の枕もとへと置く。この道具は製作者である霖之助が様々な効果を付随させてあるのだが、少し前に作り直したとき更に新しく付近の空気を綺麗にするという機能を付けた。それを思い出しその機能が現状では有効だろうと彼は考えたのだ。
「……ふう」
今度こそ、霖之助は現在の自分に出来ることの殆どを終えた。これ以上は医者の領分である。
とはいえこの状態の魔理沙を医者の居る場所まで連れて行くわけにもいかない。呼ぼうにもここは迷いの森、まともな人間が来てくれるとは思えない。
(だがこんな状態の魔理沙を放って置く訳にもいかない……どうしたものか)
別の手段としては彼女を背負って医者のもとまで飛んでいく、という方法がある。しかし地上と違い上空に吹く風はかなり強い。そしてそれを遮る物は無い完全に吹きさらしの状態だ。病人には辛すぎるだろう。
(まあ、最終手段だな)
そう結論付けて、彼はひとまず魔理沙の看病を続けることにした。
あれから数時間が経過した。窓から覗く外の風景は、既に薄暗くなり始めている。
しかし肝心の魔理沙の様態が一向に良くならない。こんな状態では医者を呼びにいくためにこの場を離れるなどもってのほかだ。
(本格的に拙いな)
霖之助は苦しそうにうなされている彼女を苦々しげな表情で見つめる。
「ちょっと待っていてくれ」
意識の無い彼女にそう告げると、彼は足早に外へと向かっていった。付近をだれかが通りかからないか見に行ったのである。一応先ほどから何度か様子見に言っているのだが、誰の姿も一向に見かけない。まあ場所的に考えて仕方の無いことなのだが、彼としては焦燥感が募るばかりだ。
「……ふむ」
外に出て辺りに意識を巡らせる。
「……」
しかしいくら周囲を見渡しても、夜の闇と木々の生み出す更なる影が視界を埋めるだけで、動く物は全くといって良いほど見かけない。
あまり魔理沙を放っておくわけにもいかないので、軽くため息をつきながら中へと戻ろうとする……と、そのときである。
少し離れた茂みから何者かの気配と、がさがさという音が聞こえてきたのだ。
「ん……?」
もしやと思いそちらへ視線を向ける霖之助。そしてそこから現れたのは――
「……人形?」
かわいらしい人形だった。
一体なんだろうと近くに歩み寄る霖之助。そこへ声がかけられる。
「あら、貴方何をやってるの?」
声は人形の出てきた茂みから聞こえて来た。そして現れる人影。
「おや、君は……」
そこにいたのは肩口まで金色の髪を伸ばした少女――魔理沙と同じくこの森に住む魔法使いにして人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
「珍しいわねこんな所で」
「そうだね、しかしちょうど良かった」
霖之助は彼女の姿を認め、一瞬にして思考を巡らせると有無を言わせずアリスの手を取り、霧雨邸へと連れて行こうとする。
「ちょっと、一体なんなのよ!?」
彼らしくない珍しく強引な行動に驚きつつもアリスは怒りの声を上げる。
「あ……と、すまない。少し焦ってしまっていたよ」
慌てて掴んでいた手を離す霖之助。
「だが事態は急を要するんだ。だから頼みを聞いてくれると有り難い」
「仕方ないわね……なんなのよもう」
唐突に頭を下げられて困惑するアリス。だがそこまでされては無碍に断るわけにも行かない。
「良かった……それじゃあこっちに来てくれるかい」
そう言うと来た時と同様に、彼は足早に霧雨邸に入っていく。
「……なんなのよほんと」
事態を飲み込めずにあきれた声をあげながら人形を腕に抱き、彼女もその後を追うのだった。
霖之助の後を追い魔理沙の寝室へと入ったアリスは、そこに広がった光景を目にし大まかに事態を把握した。
「なに、魔理沙ってば風邪でも引いたの?」
そうは聞いてくるものの、その口調は決して軽い物ではなく、魔理沙の様態が思わしくないことを理解しているようだった。
「もとはその程度だったんだろうが……また無理をしたらしくてね」
「律儀に答えないでよ。それで、医者には診てもらったの?」
「いや、まだだ。というかそのことで君に頼みたいんだ」
そういうと彼は事情を説明する。
「……なるほど、わかったわ。私はここで魔理沙の面倒を見てればいいのね」
「そうだ。その間に僕は医者を連れてくる」
言いながら既に彼は出て行く準備を始めている。
「新しい着替えは箪笥の上から二番目の段、下着は一番下にある。手拭は出て右手奥の洗面所の下だ。そっちの隅にある棚が一応薬箱だが、あまりまともな物は入ってない。体温計はその枕もとの白いのだ。耳元に当てるとすぐに体温が出る……こんなものか。あとは何かあるかい?」
全てを一息に言われて混乱しかけるアリス。
「ええと……大体は判ったわ、大丈夫……ってそれよりも何で貴方がそこまで詳しく知ってるのよ」
明らかに年頃の少女のプライバシーを侵害している事に気がつくと、それにアリスは突っ込みを入れる。
「緊急事態だからね。他には何か?」
「あ、う……特に無いわ」
有無を言わせぬ迫力でそう言われ、何も言えなくなる彼女。まあ不純な動機ではないというのは本当のことである。
「よし、それじゃあ行ってくる」
言うが早いか彼はまるで弾丸のような速度で霧雨邸を飛び出していってしまった。
一人残されたアリス。勢いで押し切られてしまった感はあるが、だからと言って放り出す訳にもいかない。とはいえ彼女自身も他人の看病などをすることは稀なため、勝手が判らずに戸惑ってしまっていた。普段では考えられない程に弱っている魔理沙を目にした事も、その戸惑いに拍車を掛けているのは間違いないだろうが。
「まったく……馬鹿は風邪を引かないなんて言うけど……迷信かしらね」
とりあえず内心の焦りを落ち着けようと、自分に言い聞かせるように軽口を叩く。
(目の前で魔理沙が苦しんでいるって言うのに、呆けている場合じゃないでしょう)
両手で頬を軽く張り、アリスは気合を入れた。
「……よし」
一つ息を吐くと、魔理沙へと近寄り額に乗せられた手拭をずらし熱を測る。
「っ、何よこの熱さは……」
先ほどまで外に居た事もあって、アリスの手も多少冷えていたのだが、その差を補って有り余るほどに魔理沙の額は熱かった。
「ええと」
視線を走らせ近くにあった桶に手拭を放り込む。
「……ん」
桶に張られた水は、既にかなり温くなっていた。霖之助も頻繁に取り替えてはいたのだが、魔理沙の熱の高さのせいですぐに温度が上がってしまうのだ。
記憶を頼りに家の中を歩き、彼女は桶の中身を取り替えて戻ってくる。
「そうだわ」
ふと何かを思いついたらしく、机の上に置いた桶に向かってなにやらブツブツと唱え始める。そうすると中に氷がいくつか浮び始めた。
「これで良し、と」
充分に冷やされた水に浸された手拭の水気を切り、魔理沙の額へと乗せる。
「次は……汗を拭かなきゃね」
水を替えるのと一緒に持ってきてあった新しい手拭を掴む。そして布団をめくり、ボタンを外そうと魔理沙の寝巻きの胸元へ手を伸ばす。
「……」
そこでアリスは少し躊躇う。意識の無い相手の服を勝手に脱がすと言う行為に、女性同士とはいえ多少なりとも気後れしてしまうのだろう。
「……えほっ!」
咳き込む魔理沙。
(って何考えてるのよ私は! こいつは今病人なんだから……!)
布団を捲くった状態で固まっていたアリスは慌てて思考を切り替える。躊躇う気持ちを捨て、一気にボタンを外す。
(……まあ病人なんだし、症状から考えても胸を圧迫するような物は着けないほうが良いってのは当然だけど……じゃなくて)
再び逸れそうになる思考を修正し、汗でじっとりと湿った肌を拭き始める。もしも他に誰かか居れば、何故か彼女の頬が赤くなっているのに気がついただろうが、生憎とアリスの他には意識の無い魔理沙しか居ない。
「……よし」
魔理沙の身体を冷やさないようにアリスは出来るだけ手早く全身を拭き終える。流石に女の細腕では辛いのか、霖之助と違い着替えさせる事までは出来なかったようだが。
霖之助が向かった先は永遠亭である。
彼の知りうる中でも彼女ほど薬に詳しい人間――月人のうえに不死人だが――は居ないだろう。それに下手に人間の医者の所へ行くのは、霖之助としてもあまり好ましくない。
「――あそこか」
よほど切羽詰っていたのだろうか、普段の姿からは想像もつかないような速さで、彼は永遠亭へと到着していた。
あまりの勢いにそのまま亭内へ突撃しそうになるが、必死に急停止をする。
「……っふう」
玄関の前まで来ると息を整える。急いでいるとはいえ、客としての礼儀を忘れてはいけない。
「夜分遅くに申し訳ない。八意永琳殿はいるだろうか」
中に向かってそう呼びかける。
しばらくの静寂の後、ぱたぱたという軽い足音が聞こえて来た。
「どなたですか?」
玄関の戸を開き姿を現したのは、幻想郷ではあまり見かけないような服装で、頭の上に二本の長い耳をぴょこんと生やした少女。
彼女の名は鈴仙・優曇華院・イナバ。霖之助が今現在、最も会いたいと思っている相手の弟子に当たる兎である。
「ええと、今晩は。僕は森近霖之助、こんな時間にすまないがここに住む八意永琳殿に用があってやってきたんだ」
「あ、香霖堂の店主さんですか」
彼が誰なのかわかったらしく、彼女は表情を緩める。
「そうだ……ええと、彼女は?」
自分の師匠に対してのなんとなく馴れ馴れしい物言いに、途端にむっとした表情になりかける鈴仙。
「それが……師匠は今ちょうど出掛けてまして」
「……そうなのか……それでどこへ」
それを聞き肩を落としかけるが、すぐに気を取りなおして行き先を尋ねる。
「確か人間の里のほうで風邪が流行ってるとかで……」
「人里か、わかった」
途端に踵を返し、霖之助は人里へ向けて飛び出す。
「……なんだったんだろ」
風のようにやって来て風のように去って行った彼の背中を眺めながら鈴仙はそう呟く。そんな彼女の視線の先にある霖之助の姿は、もうすでに米粒ほどの大きさしかなくなっていた。
一方、霧雨邸のアリスは、じっと霖之助の帰りを待っていた。
「……」
看病をしている彼女には、時間の進みが妙に遅く感じられるらしく、遅々として進まない時計の針に苛立ちを募らせている。
「……っ! げほっ! か、は……!」
「っ!」
そんな事を考えていると勢い良く魔理沙が咳き込む。それに反応しアリスはビクリと身体を震わせた。
「えほっ……ぜぇ、ふぅ」
「……は、ぁ」
大きくため息を一つ。
華奢な体が折れそうな程に激しく咳き込む彼女を見るたびに、アリスは自分の無力感を思い知らされる。そしてもしこのまま魔理沙が動かなくなったら……と言う不安に苛まれるのだ。
「……何やってるのよ馬鹿」
未だ姿を見せない霖之助を、アリスは小声で罵倒する。永琳を探すために彼が東奔西走しているだろうことは、当然彼女にも予想できるのだが、そうでもして気を紛らわせないと落ち着いて居られないのだ。
「早く帰ってきなさいよもう……お願いだから」
咳き込むたびに額からずり落ちる手拭を元に戻しながら、祈るようにして霖之助を待つのだった。
「くそ……」
心境的には一分一秒をも無駄にしていられない霖之助としては、悪態の一つも吐きたくなってくる。
(とはいえ、彼女も自分の仕事をしているんだ。文句を言うわけにはいかない)
そんなことを考えてい居る暇があるのならと更に速度を上げる霖之助。永遠亭とは全く正反対の場所に位置する人間の里へ向け、彼は飛び続ける。
そして彼が半分程度の距離――霧雨邸付近に差し掛かった時である。
「あら、珍しいわね」
高速飛行している横合いから、唐突に声がかけられた。
「な……っと!」
聞き覚えのあるそれに、彼は慌てて立ち止まる。
「そんなに急いでどうしたのかしら?」
再び聴こえた声に振り向く。そこにいたのは――
「や、八意永琳……」
「ええ、八意永琳よ」
――そう、幻想郷随一の薬師、月の頭脳こと八意永琳その人だった。
事態は急を要するとばかりに、霖之助は手短に事情を説明する。それを聞いた彼女はすぐに理解したようだ。
「わかったわ」
そう言うと、霖之助と二人で魔理沙の元へと向かう。幸いこの場所は彼女の家のすぐ近くだったため、数分もしないうちに到着すると、霖之助は急いで永琳を寝室へと案内した。
「ちょっと、遅いわよ!」
看病をしていたアリスは、彼らの姿を認めると開口一番そんなことを言ってきた。実際は短い時間だったのだが、こんな状況では時間が何倍にも長く感じられたのだろう。魔理沙の看病をしていた彼女は随分と疲弊しているように見えた。
しかしそれでもどこかほっとした表情なのは間違いない。
「すまない、手間取った」
「私じゃなくて、謝るならこいつにでしょ」
「そうだな……遅れてすまない、魔理沙」
未だ意識の戻らない姿を見据え、謝罪の言葉を放つ。霖之助はふと横のアリスを見ると、手元にある桶に氷が浮んでいることに気がついた。すぐに意味を理解し、彼女は彼女で魔理沙の看病を必死にしていてくれたことに少し嬉しくなる。
「それじゃあいいかしら」
そうこうしているうちに、永琳は手に持っていた鞄から道具を取り出し準備を終えていた。自分たちに出来ることは何も無いので、二人とも後ろへ下がる。
「……」
誰もが無言になる。
いつも優しげな笑みを浮かべている永琳も、今は真剣な表情で淡々と診察を進めている。
「……なるほど」
一通り診終えると、今度は鞄から注射器を数本とゴム紐を取り出す。
「二人とも、ちょっと手伝ってもらえる?」
「あ、ああ」
「え、ええ」
唐突に話を振られ驚くが、当然彼らには断る理由など無い。
「今から血を抜くから、この子の身体を押さえつけていて頂戴」
「は、どういうこと?」
意味がわからないでいるアリス。しかし霖之助のほうは既に魔理沙の横へと回っている。
「もしもその最中に咳き込んだりしたら危険だろ。針の先が血管を傷つけてしまうかもしれない」
「なるほどね」
得心の言った表情で、アリスも霖之助に続く。
「良いかしら」
「ああ、大丈夫だ」
「こっちも良いわ」
しっかりと魔理沙の身体を押さえつける。
「それじゃ、始めるわね」
二人が見守る中、手早く紐を魔理沙の腕に縛りつけると、注射器を手に取り採血を始めた。
ゆっくり、ゆっくりと赤い血が内部に溜まっていく。
「はい、おしまい。さて次は……」
二本ほど抜き取ると、彼女は茶色いビンを鞄から取り出した。
「それは?」
「栄養剤よ。彼女ずっと寝たきりで何も口にしていないんでしょう?」
「なるほど」
続けて注射をする永琳。
「はい、これも終了、と。もう離れてもいいわよ」
「……ふう」
「なにか妙に力が入っちゃったわね」
「ああ、緊張したね」
運の良いことに特に何かが起こることも無く終了したが、押さえていた二人はかなり緊張していたらしい。ある意味、時限爆弾を抱えたような気分だったのかもしれない。
「それにしても……知らない人が見たら勘違いされそうな光景だったわね」
何気にそんなことを口にする永琳。確かに、小柄な少女に二人がかりで覆い被さっているという状況は、傍から見れば少々危険だろう。
「……」
「……」
二人とも思ってはいても口にはしなかったことをあっさり言われ、微妙な表情を浮かべる。だが永琳はそんなことはお構いなしに、再び鞄の中を探り、何かを取り出した。
「さて次ね……二人とも、今度は服を脱がすの手伝って頂戴」
「「はぁっ!?」」
唐突に飛び出した爆弾発言に、霖之助とアリスはそろって驚きの声を上げる。
「いきなり何を!?」
「病人の前で大声を出さないの……ただ熱さましに座薬を入れるだけよ」
「ああ、なるほど、座薬ね……ってちょっと」
「? なにかしら」
更に動揺するアリスだが、永琳は至って普通の反応である。
「いや、その、座薬って……お尻に、よね」
「もちろんそうよ」
頬を染めながら言うアリス。だがやはり永琳は平然と答える。
「……まあ仕方ないだろう」
アリスよりも更に複雑な表情で、霖之助が言う。
「仕方ないって貴方……」
「意識の無い彼女に薬を飲ませるのは一苦労だろう。だから座薬を使うと言うのは理に適っている。粘膜からの吸収なら効果が現れるのも早いしね」
「……う、それはそうだけど」
「それに僕らがこうしていても魔理沙の症状が和らぐわけでもないよ」
「……うう」
確かにその通りである。別に自分自身が魔理沙に座薬を入れるわけでもないので、アリスも渋々と承諾することにしたのだった。
魔理沙の寝巻きを元に戻し、再び布団へと横に寝かせる。
「……一気に疲れたわ」
「……同感だね」
二人とも大仕事を終えた後のように疲労していた。それもそうだろう、意識の無い人間に座薬を入れるというのは随分と苦労が伴う物だ。今やもうアリスは魔理沙に負けず劣らず顔を真っ赤にさせ、霖之助も先ほどから目が泳ぎっぱなしでしきりに眼鏡の位置を直している。
「医療行為なんだから、そんなに恥ずかしがることはないんじゃないかしら」
「頭では理解してるんだけどね……」
実行犯……もとい、座薬を実際に挿入した永琳は、手馴れているのか軽く言うが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
生まれた時から付き合いがあり、おしめを取り替えたことがある霖之助ですらそうである……まあ、そんな赤ん坊の頃と比べると言うのはどこか違う気がしないでもないが。
「……それはもういいとして……それで、結局魔理沙はどうなんだい」
「そ、そうよ、どうなの?」
気を取り直して永琳に問い掛ける霖之助。先ほどまでのことを振り払うかのようにアリスもそれに続く。
「そうね……診た限りではだけど、風邪をこじらせて肺が炎症を起こしてしまっているみたい」
「やはりそうなのかい」
大体の予想はつけていた霖之助が頷く。
「ええ、でも詳しい原因はまだ特定できないから……ちょっと隣の部屋にあった機材を借りても良いかしら
「まさか薬を作ろうっていうの?」
「そうよ?」
決して軽い病ではないというのに、ほぼ即席で薬を処方しようと言うらしい。いかに彼女が天才と言えど、随分と無茶をするものである。
「いいんじゃないか。持ち主は寝込んでいるわけだし、彼女自身のためなんだから特に気にすることも無いだろう。後で何か言われても僕が謝っておくよ」
「そう、ありがとう」
礼を言うと永琳は先ほど抜き取った魔理沙の血液と鞄一式を手に取り、隣の部屋へと姿を消した。
それからしばらくの間、隣の部屋から不可解な音が聞こえてきたが、それが収まると再び永琳が寝室へと入ってきた。
「出来たわよ」
「流石に早いね」
「これで仕事をしているんですもの」
だとしても早すぎだろうが、彼女はそれが当然のように振舞っている。やはり天才と言うのは常人とは懸け離れたものだということを、アリスと霖之助は実感した。
「それでは早速」
そんな二人の心中は知らずに、完成したばかりの薬を注射器に入れ準備を始める。
「二人とも、また押さえていて貰えるかしら」
今度は特に何も言わずに魔理沙の身体を押さえに掛かる二人。それを確認すると、永琳は先ほどの手順で手早く注射を終える。
「……それはどんな効果の薬なの?」
針を抜き止血をしている永琳に、気になったのかアリスが問い掛ける。
「病気の元がこれ以上育たないようにするための薬よ。だからあとは彼女の体が残っている病気を排除できれば治るわ」
その言葉を聞きあからさまに安堵する二人。霖之助もそうだが、アリスも苦しむ魔理沙を前にして相当心配していたのだろう。一気に肩の力が抜けたようだ。
「……よかった」
「ふふ……あ、これを渡しておくわね」
鞄の中から何かを取り出す永琳。
「これは点滴の道具で、こっちはその中身。栄養剤やその他諸々の効能があるから……使い方はわかるでしょう?」
「大丈夫だ、すまないね」
「あともし意識が戻った時のための飲み薬も置いておくわね」
薬包紙に包まれたそれを渡すと、荷物をまとめ始める永琳。
「そろそろ行くわね」
「ああ、本当に有り難う」
「もし何かあったら遠慮なく訪ねて来て頂戴」
「わかってるわよ」
ぱたんと鞄を閉じ手に取る。
「それでは」
そして彼女は霧雨邸を後にしたのだった。
「さて、と」
ベッドの横へと椅子を置き、そこへと座る霖之助。どうやら再び彼女の看病を始めるようである。
「君はどうする? どうせここに居てもたいしたことが出来るわけでもないし、疲れているならもう帰ってしまってもいいが……」
「残るに決まってるでしょ」
まあいざと言う時に人手があるにこしたことは無いんだがね、と続けようとしたが、その言葉を口にする前にアリスに遮られてしまう霖之助。
「そうかい」
微笑ましいものを感じながら霖之助は立ち上がると、隣の部屋へと行ってしまった。何事かとアリスが問い掛ける間も無く、彼はすぐに戻って来た。
「ほら、長く居座るならずっと立ちっぱなしで居るわけにもいかないだろ」
そう言う彼が両手で抱えているのは、魔理沙愛用のロッキングチェアである。愛用しているというだけあって、随分と座り心地は良いらしい。それは彼女がその上に座ってよく居眠りをしている光景が見られることからも伺えるだろう。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
この部屋にもまだ椅子はあったのだが、わざわざ隣から座り心地の良い椅子を持ってきてくれたらしい。こういった気配りが出来る辺り、彼はやはり常識人なのだろう。
とはいえその常識が霖之助の周囲の少女達にとってもそうとは言えない辺り、どこか哀愁を誘う気がしないでもない。
「よし」
永琳から受け取った点滴の準備を始める霖之助。ビンの中身を移し替え、その辺りの棚を適当に並び替えて即席だがしっかりとした台を作りそこに掛ける。
「随分と手馴れてるわね」
「まあ使ったこともあるしね。そもそもこれは僕の物だったんだよ……でもどうせなら必要としている者が使う方が良いだろう? だから永琳に譲ったんだ」
「なるほどね」
そうこう話しながらも彼は魔理沙の手の甲へと小さな針を刺し、永琳から渡された医療用の粘着テープ――これも元々は彼のもの――で押さえつける。
「これで終わり、と」
簡単に外れないことを確認すると、ベッドの横に置いてある椅子へと腰掛けた。
「……」
「……」
なんとはなしに会話も途切れてしまう二人。聴こえてくるのは魔理沙の苦しげな息遣いだけである。それでも先ほどの薬のおかげか、永琳が来る前までよりは随分と顔色が良くなってきている。
霖之助はそんな彼女の見ると、ふと乱れた髪の毛に気がつき軽くまとめる。そして何の気なしに己の指で梳いてやる。久しぶりに触れるその髪はとても滑らかで柔らかく、馴染み深い魔理沙の匂いがした。ふと昔を思い出し無意識に目を細めてしまう。
「……ねえ」
「ん……なんだい」
その光景をどこか羨ましげに見つめていたアリスが口を開く。
「貴方って……魔理沙のことを昔から知ってるのよね」
「そうだよ。この子のことなら生まれる前から知っている」
魔理沙の髪を梳く手を止めることなく返答する霖之助。気のせいか撫でられている彼女の表情も、どこか和らいできているように見える。
「……ぅ……ん」
「ん?」
その魔理沙の口元がかすかに動く。
「……寝言かな」
「……みたいね」
それのせいで二人の会話は再び途切れるが、視線は未だもごもごと動いている魔理沙の口元に注がれていた。
その間も霖之助の手はずっと動きつづけている。
「……ん……兄様……」
眠る彼女の口元からはっきりとそんな言葉が紡がれる。同時に霖之助の手のひらに、擦り付けるようにして頭が動く。大分落ち着いてきた表情の中にはどこか嬉しそうなものが浮んでおり、なにやら良い夢でも見ているようである。
「……は?」
「おや、これは随分と懐かしい呼び名だね」
寝ているにしても随分と普段の彼女からは考えられない行動に、呆気に取られてしまうアリス。
しかし霖之助の方は嬉しげな表情を浮かべている。
「いや……懐かしい、って?」
「ふむ……そうだね。時間もあることだし……少し、昔話をしようか」
「昔話?」
「そう……まだこの子が、今よりもっとずっと幼かった頃の話だよ」
「へえ……聞かせて貰えるかしら」
興味をそそられたのか、アリスは居住まいを正して魔理沙のほうから霖之助へと向き直った。
「どこから話そうかな」
霖之助は軽く逡巡すると、ふと思いついたように口を開いた。
「そうだな、さっきこの子が言った寝言……聞いていたよね」
「ええ、確か兄様……とか」
口にするもあまりの違和感に頬を引きつらせるアリス。
「うん……随分と驚いただろう?」
「ええまあ。流石に……ねえ」
その反応に苦笑をする霖之助。
「それはそうだろうね。でも実はこの子……昔はずっとそんな感じだったんだよ」
「ぇえ?」
素っ頓狂な声を上げてしまうアリス。その反応に再び苦笑する霖之助。
「この子の家はね、それなりに名の通った家柄なんだ。だから幼い頃からも教育はきちんとされていた……今じゃ考えられないだろうけど、昔は良家のお嬢様然とした口調だったんだよ」
「…………はぁ」
「君の気持ちもわかるよ。僕も数年ぶりに再会したこの子が、随分とぶっきらぼうな口調と性格になっていたときはそれは驚いたさ」
「まあ……そうでしょうねえ」
自分とは正反対の状況だったであろうそれを想像しアリスは頷く。
「小さい頃は僕のことを兄様と呼んで慕ってくれていたというのにね……」
そんなことを口にしながらも、彼は慈しむような目で魔理沙を見つめている。
「父親と何かいざこざがあって家を飛び出してきたっていうから、多分その時になにか思ったんだろうね」
あくまで僕の想像でしかないけど、と付け加える霖之助。
「そういえば、昔からの知り合いだってことは知ってるけど、貴方って一体どういう風な関係なの?」
魔理沙のことだけではなく、霧雨家のことにも詳しいらしい霖之助に疑問を抱くアリス。
「おや、知らなかったのかい。僕はね、今の店を経営する前は、彼女の実家で修行をしていたんだ」
「修行って……」
「人の扱う物を詳しく知りたいと思ったからね。それが道具であれ魔法であれ、霧雨家はそれを覚えるのに関しては最適な場所だったんだよ」
「ふうん」
「だからあの家に居候していた。出て行った後もこの子が生まれてからは顔を出すことが結構あったからね。それで色々と知っているわけさ」
普段関わることの殆ど無い彼とじっくり話し合っている自分を、なんとなく不思議に思いながらアリスは会話を続ける。
「ちょっと疑問なんだけど、なんで魔理沙の実家を出て行ったの?」
「……ああ、それは……あの家では自分の能力を生かせないと思ったからだよ。それであの店を建てたというわけさ」
「……呆れた。世話になった相手の家をそんな理由で出て行ったなんて。挙句その結果が、あの万年閑古鳥が鳴いている店ってわけ?」
「耳が痛いね」
どことなく寂しげな表情で霖之助はそう言うが、先ほどまで多少は感心して聞いていたアリスの方は、今や本気で呆れているようである。
「……ふう、まあいいわ。どうせ私には関係ないことだし……それより魔理沙のことを聞きたいわ」
霖之助のことはもういいとばかりに、気を取り直して魔理沙の話の続きを催促するアリス。
「わかった」
霖之助も話を再開する。
「ええと、どこまで話したかな……っと、この子はお嬢様だったって所までか」
こくりと頷くアリス。
「まあそんな風に今とは違ったんだが……他にもちょっとあってね」
「……なにかしら」
「体がそんなに強い子じゃなかったんだよ。まあ病弱、という程ではなかったんだが、それでも結構頻繁に熱を出したりしていてね」
「それはまた……驚きね」
今では箒を片手にあちこちを派手に飛び回り、人の家に窓から飛び込んだり大魔法を撃ち込んだりと、好き勝手に暴れまわっている魔理沙である。今回のこと以前には、風邪をひいた姿すら殆ど見たことが無いほどの健康体だった彼女に、そんな過去があったなどにわかには信じ難い。とはいえ、霖之助がそんなことで嘘を言うわけも無く、それが真実であろうことは明白だ。
「熱が出ているのにも構わず友達と遊びまわったりしてね……帰ってきてから倒れるなんてこともあったよ」
「ふふ、そこは魔理沙らしいわね」
「だろう? ……とはいえ、小さな子が熱を出して倒れるなんてのは、大人である僕らからしてみれば正直落ち着いていられない事態だからね。何度も注意はしたんだが……」
「やめなかったのね?」
「その通り。普段は素直なのにそう言う部分では無駄に頑固というか、我侭というか……まったく、心配する方の身にもなって欲しかったよ」
外でアリスと会ったときのように、魔理沙のせいで度々慌てていたであろう霖之助の姿を想像し、アリスは可笑しくなってくる。
「本質っていうのはそうそう変わらないものなのね」
「そうなんだろうね。しかしまあ、そんなことが頻繁に起こるものだから、僕らもその状況に慣れてしまっていてね。一度だけ、いつものことだろうと思っていたら……凄い勢いで体調が悪くなっていったときがあるんだよ。それも間の悪いことに丁度他の人たちが出掛けている時でね」
「……その時はどうしたの?」
「僕一人で悪戦苦闘しながら必死で看病したよ……でもね、どう頑張ってもこの子の体調は一向に良くならなかった」
「……」
「思えばあの時が初めてなのかもしれないな……この子を本気で助けたいと、守りたいと思ったのは」
会話のためにアリスに向けていた顔を、魔理沙へと向ける。慈愛に満ちた彼の表情は、紛れも無く大切な家族を見守る者のそれだった。
「……それで、どうなったの?」
続きを促すアリス。
「僕の力ではどうにもならなかったよ……それで結局は、その時たまたま里に来ていた薬売りの手によって、この子は一命を取り留めたというわけさ」
「あら、そうなの」
なんとなくあっけない終わりに、アリスは拍子抜けしてしまう。
「ああ、ちなみにその時の薬売りって言うのが、あの八意永琳だったんだけどね」
「あら、そうなの?」
同じ言葉を今度は違うニュアンスで返す。
「それまでにも会った事はあるんだが、まともに話をしたのはあれが初めてだったかな……まあそんなこともあって、世話になった彼女には医療道具を優先的に譲るようになったんだ……あれとかね」
「そうだったのね」
魔理沙の手の甲へと繋がっている点滴を差しながら言う。
今でも彼女の方に足を向けては寝られないよ、と微笑んだ霖之助はさらに話を続けた。
たまに相槌を打ちながら、アリスは霖之助の話を聞いていた。
「……そういえば」
話をしながらなんとはなしに部屋を見回していた彼の視線が壁の一点で止まる。どうやらそこに掛けてあったカレンダー――これも彼の店から無断で持ち出した、どの年月にも対応させることが出来るという優れものである――に目を留めたようだ。
「……ああやっぱりか」
「なにがよ」
「いやなに、来週はこの子の誕生日だとおもってね」
「そうなの? 知らなかったわ」
魔理沙の知り合いは、誕生日を祝うということが殆ど無い。人間の何倍もの寿命を持っている彼女達は、そういったことに無頓着になりがちなのだ。そもそも人間である魔理沙本人からして誕生日を忘れていたりするものだから、それに拍車が掛かってしまっているのである。そのため当然のことながらアリスも魔理沙の誕生日を祝ったことなどなかった。
「ああ、しかも今年は少し特別なんだよ」
「何が特別なの?」
「霧雨家では一定の年齢に達すると、一人前と認められて独り立ちすることになっているんだ」
「へえ、それが今度の誕生日ってわけ」
「そういうことだね……まあ、家を飛び出して来ているこの子には余り関係の無い事と言えるかもしれないけど……そうだ」
良い事を思いついたと言わんばかりの表情になる霖之助。
「せっかくなんだし……皆でこの子の誕生日を祝わないかい? もちろん君も一緒に」
「……はぁ? なんで私が。祝うなら貴方たちで勝手にやっていればいいでしょ」
つい反射的に断ってしまうアリス。どうもこういったことに関して、本心とは逆のことを言ってしまうのが彼女である。
「まあそう言わずに。この子も友達である君が祝ってくれたら喜ぶと思うんだ」
「友達って……そんなことよく恥ずかしげも無く言えるわね」
「別に恥ずかしがるようなことじゃないだろう?」
「言ってなさい……それに私は魔理沙の友達なんかじゃないわ」
素直になれずにいるアリスの目を覗き込んで、霖之助は言う
「そうかい? でも君がそう思っていなかったとしても、この子は君のことを友達だと思っているよ」
「な、なんでそんなことがわかるのよ」
目をそらすアリス。
「わかるさ。この子が君の話をするときは、いつもとても楽しそうだからね……対立することも多いみたいだけど」
「……喧嘩するほど仲が良いとでも言いたいわけ?」
「はは、わかってるじゃないか」
徐々に赤らんでくる頬を隠すために更に顔を背け俯く。
「…………わかったわ、百歩譲って魔理沙が私のことを友達だと思っているとしましょう。でも……他にも友達なんてたくさん居るでしょ。私一人が祝わなくたって別にいいじゃない。結局はその他大勢のうちの一人でしかないんだから」
アリスは言ってしまってから気付いた。いま自分が口にしたのは心の中で常に思っていたもので、絶対に誰にも話すことなど無いはずの――不安、そのものだったということに。
「……っ」
しまった、と思うもなかなか顔が上げられないアリス。こんな弱気な発言をした自分を、目の前の青年はどう思い、どんな顔をして聞いていたのだろうかと考えると体が動かないのだ。
(……あれだけ散々強がって見せたのに、最後の最後にあんなこと言ったんじゃ……失敗したわ……)
硬直しているアリスに、霖之助は語りかける。
「確かに大勢と言うのは正しいだろうけど……その他、というのは間違いだね」
その声に彼女を嘲笑するような響きは一切含まれていなく、優しげでどこか諭すような雰囲気を持っていた。
アリスは恐る恐る顔を上げて見ると、先ほどと変わり無く微笑を浮かべたままの青年が見つめ返して来ている。
「……どうしてよ」
なんとか言葉を搾り出す。
「この子にとっては君たち一人一人、全てが掛け替えの無い大切な友人なんだよ」
かなり落ち着いてきたのか、あまり息苦しさを感じさせない安らかな寝息を立てている魔理沙のほうにチラリと視線を向ける。
「この子の情はとても広いんだ。相手が人間だろうと妖怪だろうと、全く気にせずに深くまで踏み込んで仲良くなってしまう。たとえ最初は鬱陶しいと思われていた相手ですらも、何時の間にか好意をもたれている……そんな子なんだよ」
まるでその相手というのが自分のことを差しているような気がして、再び頬が熱くなって来るアリス。
「でも、だからといって一人一人に対する情が薄いなんて言うことは無いんだ。誰に対してもわけ隔てなく接する、というだけならば霊夢も同じだろう。だが二人には決定的な違いがある」
「……その違いってなんなの?」
彼女は気を紛らわすために霖之助へと質問すると、それはね、と前置きしてから彼は話を続ける。
「霊夢は相手との距離の取り方が非常に上手い。だから誰とでも同じ距離で相手をしていられる。対して魔理沙はその距離の取り方がとても下手なんだ……というよりは、元々そんなものを取ろうなんて考えてないのかもしれないね。だから限りなくゼロまで近寄ることが出来るんだ。相手の深くまで入り込むっていうのは、自らの深い部分をさらけ出さないと無理だからね。つまり彼女にとって友達だと思っている相手は誰一人として同じではなく、そしてそれぞれに対して深い信頼を抱いているんだよ……っと、勘違いしないように言っておくけど、別に霊夢に情が無いってわけじゃないからね」
「…………ふうん」
彼の話した内容が本当ならば、アリスにとっては非常に嬉しいことである。しかし彼女の性格的に、そんなことを表に出すわけにはいかない。そのため返した言葉はそんな一言だけだった。
「だからね……やっぱり君にも祝って欲しいと思うんだ」
それを知ってか知らずかそんな頼みを口にする。
「…………はぁ、わかったわよ、参加するわよ。どうせ来週になれば調子も良くなってるだろうし……快気祝いも含めてせいぜい派手に祝ってやればいいんじゃないの」
やれやれと言わんばかりの口調の彼女だが、実際は頬がにやけないようにするのに必死である。
とことん素直になれない性格のようだ。
「そうか、ありがとう」
なんの含みも無いように礼を言ってくる霖之助。
(どうせ全部わかってて言ってるんでしょうね。まったく)
「食えない男」
当然聞こえてはいたのだろうが、彼が気にした様子は全く無かった。
読中に大変失礼しました。
続けて読ませていただきます。