素兎(うさぎ)を嗤(わら)った白兎(うさぎ)
『因幡の素兎』
かつて因幡の素兎(しろうさぎ)と呼ばれた兎がいた。
彼はある日、大洪水によって沖の島へと流されてしまう。
どうにか帰る術はないものか。このままここにいては飢え死にしてしまう。
そんな彼の目にワニザメの群れが映る。
生きるため、元の場所へ帰るために彼はワニザメ達を騙し何とか元の岸へと帰ってこられた。
だが嘘をつかれたことを知ったワニザメ達は、彼の毛を毟って丸裸にしてしまう。
それを嘆いていたところに神が通りがかり、彼はどうにか治す方法はないものかと尋ねた。
しかし神は彼が行ったことを知っていた。
嘘をついた報い――。
神は海水に浸ければ治ると嘘を教えた。嘘の罪には嘘による贖罪が適当と考えたのだろう。
言うとおりにした彼は、酷い傷を負ってしまい自身が付いた嘘の罪深さを思い知ったのだ。
あたしはこの物語を聞いたときから、ずっと思っていることがある。
生きるためなら、生き残るためなら嘘もつかざるを得ないのが世の常だ。
だからこの兎だって嘘をついて生きようとしたのではないか。
だけどその後が不味かった。嘘がばれてしまったのだ。
結果、その嘘で負った罪を激痛を伴うことによって償わされる羽目になる。
嘘はついてもばれてはならない。
ばれるくらいなら罪にならない嘘をつくべきだ。
あたしはそう思い続けて、長い時を過ごしてきた。
仲間が流した血に濡れた道の上を歩き続けて――――
☆
「なんであたしが……まったく……」
人間の郷、その一角に生えている木の下で一人の少女が独り言を言っている。
その表情はまさに不機嫌そのもの。
誰が見ても彼女が苛立っているのが一目瞭然でわかるほどだ。
彼女の名前は因幡てゐ。
迷いの竹林の永遠亭に住み着いている兎達の長老だ。
見た目は可憐なウサ耳少女だが、その歳はそんじょそこらの低級妖怪よりも遙かに長い。
その顔が今は不機嫌一色に染まっている。
「あいつが風邪なんか引くからあたしがこんな所に来る羽目になっちゃったじゃない。
そうよ、全部あいつの所為だわ。薬師の勉強をしているくせに自分の健康には無関心なんだから」
彼女があいつと称しているのは、同居人の一人である鈴仙・優曇華院・イナバのこと。
そしてこんな所とは人間の郷のことである。
本来なら鈴仙が同行するはずだった永琳の薬売りの手伝いなのだが、
当の鈴仙が風邪を引いてしまい、てゐが代役として抜擢されたのだ。
実際の所は暇そうにしていたところを無理に連れてこられたというのが正しいが。
「荷物持ちなんて他の兎にやらせればいいのよ……」
てゐには鈴仙のように薬学の嗜みもないため、手伝いといっても荷物持ちくらいなもの。
それなら他の兎でも良いのではと提案したのだが、永琳には微笑と共に一蹴されてしまった。
どうせ暇を持て余していたのは事実だし、本当は手伝いをすること自体に文句はない。
ただてゐは“人間の郷”に来ることが嫌なのだ。
「あれ、今日はいつものお姉ちゃんじゃないんだね」
苛立ちを振りまくてゐの元へ郷の子供達がやってきた。
鈴仙が訪れている為か子供達はてゐの姿を見ても恐れることはない。
むしろ遊び相手になってくれるものと信じて無邪気に話しかけてくる。
だがそんな子供達とて、てゐには不愉快の対象でしかない。
「うっさいわね! とっとと消えないと痛い目に遭わせるよっ」
てゐの怒声に子供達は戸惑いと理不尽に対する怒りを見せる。
「なによっ、何怒ってんのよ」
「ふんだ、行こうぜ」
子供達が行ってしまったことを確認するとてゐは溜息をついた。
これだから里に下りてくるのは嫌なのだと言わんばかりな大きく深い溜息を。
「そんなに子供が嫌いなのかしら」
「大っ嫌い」
薬の販売を兼ねた治療を終えた永琳の苦笑混じりな問いをてゐは一言で否定する。
「みんな素直で可愛い子ばかりなのに……。さっき尋ねた家の子もお母さん想いのとても良い子で――」
「それより! 終わったのならさっさと帰りましょうよ。ここにはいたくない」
全身から早く帰りたいオーラを出して訴えてみる。
しかし永琳はその期待に応えることはしてくれなかった。
「はいはい。でもあと一軒残ってるのよ。そこだけだから我慢して頂戴」
てゐは不服そうに唇を尖らせながらも、足下に置いてあった荷物を持ち上げた。
永琳と並んで歩いて、てゐは改めて永琳がこの郷で歓迎されてる存在であることを実感していた。
会う人会う人皆が笑顔で挨拶をしてくる。
中には畑で取れた野菜をお礼と称して渡してくる者もいた。
しかしその間もてゐは終始目を合わせることもなく不機嫌な表情は崩していない。
「もう少し愛想良くしても良いと思うわよ? いつもしているじゃない」
「時と場合によります。あたしは誰彼構わず愛想を振りまくわけじゃない」
「そうだったわね。でも別にあの人達は悪い人じゃないわよ」
「そんなの関係ないわ。あたしは人間が好きじゃない。それだけです」
てゐはいくら永琳が言ったところで考えを改めようとはしない。
元々そんな素直で可愛い性格ではないことは知っているが、これだけ頑なに否定する姿も珍しい。
それが気になってつい永琳はお喋りを続けてしまう。
そう言えば彼女とこうして二人きりで話すなどいつ以来のことだろうか。
「別に構わないけどね。でも貴方がそこまで人間嫌いだなんて知らなかったわ」
「人間嫌いって言葉だけじゃ説明できません」
「ふぅん……。それにしても今日はお喋りね。もしかして全部お得意の嘘なのかしら?」
「……これだからこの人は」
「あら、何か言ったかしら?」
聞こえていたが敢えて聞こえていなかったように振る舞う永琳。
しかしそれもてゐにはばれてしまっていることだろう。
「別に何も。それよりさっさと用事終わらせて帰りまし――」
……タァーン!……
遠くの山から聞こえる残響。
断続的に放たれたそれは、音の質と響きから考えて猟銃のものだろう。
秋も深まり冬を目前に控えたこの時期、山の動物たちを狩る銃声が度々聞こえてくるのだ。
「もうそんな季節か。しばらくしたら猪肉が出回るようになるわね……てゐ、どうしたの?」
ふとてゐの方へ視線を動かすと、両腕を抱えてしゃがみ込む彼女の姿があった。
どうも様子がおかしい。
まるで何かに怯えているかのように背中が震えている。
これは演技ではないと直感で悟った永琳はすぐにてゐに呼びかけた。
「てゐ、てゐ、一体どうしたの? 気分でも悪くなった?」
だがてゐは荒い息づかいを繰り返すだけで言葉は発しない。
そしてそのまま何も言わないまま、てゐは意識を失って倒れてしまった。
☆
あれはいつのことだっただろう。
まだ自分が妖怪としてではなく、ただの兎として生きていた頃。
この竹林も幻想郷ではなく、外界に存在していた時代。
自分の周りには今よりずっと沢山の兎がいた。
あの頃は何も考えず、ただ野山を自由気ままに飛び跳ねて過ごすだけで幸せだった。
だが突然その足下が真っ赤な血に染まる。
☆
目が覚めると、視界は月光に照らされた木目に変わっていた。
寝起きの頭はいまいち働きが遅くここがどこなのか理解できない。
確か自分は人間の郷に行っていたはずだが……。
「あら、起きたのかしら?」
その声に反応して首が自然と入り口の方を向く。
そこには水の入った桶を持った永琳が立っていた。
どうやら永遠亭に戻ってきていたらしい。
「いきなり貴方が倒れたときは吃驚したわよ。背負って帰る羽目になったんだから」
「あたしを、背負って?」
てゐにはそんな覚えがない。
だが永琳が言うには突然意識を失って倒れたのだという。
引きずって帰るわけにもいかないから、背負って戻ってきたということだ。
「てゐにしては珍しいわね。兎一倍健康には気を遣っているのに」
「別にそういうわけじゃ……ってなんですか、これ」
差し出されたお椀。
中身は明らかに水や味噌汁ではない色をしている。それになんだか嫌な匂いだ。
本能的に飲まない方が良いと察したてゐはお碗を手で押し返した。
「薬だったら要りませんよ。あたしは病気や体調不良で倒れた訳じゃないんですから」
「それならどうして倒れたのかしら」
にこにこと笑みを浮かべて永琳はまたお碗を目の前に持ってくる。
「そ、それは……」
てゐにもどうして自分が倒れてしまったのかわからない。
そういえばあの時何かが聞こえ、それを聞いた辺りから記憶が曖昧になっている。
だがこのままでは得体の知れない“薬”を飲む羽目になってしまう。
「人間の郷の空気があたしには合わなかったんです。長居していたからそれにあてられた。それだけです」
「本当に?」
「疑うなら疑っても良いです。寝てればあたしは良くなりますから」
てゐは布団を被り直すと永琳から顔を背けた。
「まぁそれなら良いけど。みんなも心配していたわよ。貴方が倒れるなんてよほどのことだから」
てゐからの返事はない。
永琳はやれやれと小さく息をつくと部屋を出て行った。
遠ざかる足音を耳で確認すると、てゐは布団から抜け出し背筋を伸ばす。
変な時間に寝過ぎたせいか目が冴えてしまった。
障子を開けて廊下に出ると、雲の途切れ目から月の光が顔を照らし出す。
「眩し……」
静謐な青白い灯は太陽よりも静かな筈なのに、何故かとても眩しく見える。
「あれ、起きてたんだ。もう大丈夫なの?」
屋敷の戸締まりが終わり自室へ戻る途中の鈴仙が話しかけてきた。
「なんだ鈴仙か」
なんだはないでしょと藤色の髪をした少女が笑う。
その笑顔には影がない。自分の愛想笑いとは違う笑顔だ。
「あたしは少し郷の気にあてられただけ。あんたこそ医者の不養生じゃないの」
「それを言われると痛いなぁ」
また笑みを溢す鈴仙。
だが彼女にも暗い過去がある。それでこんな笑みが浮かべられるのはどうしてなのか。
考えたところで答えが出るはずもない。
「まぁお互い健康には気をつけましょうということで……じゃあね」
「ちょっと! こんな時間に何処行くのよ」
縁側から飛び降りて竹林へと向かうてゐに鈴仙が呼びかける。
だがてゐは振り向くことなく、ただ一言だけ告げて竹藪の中に姿を消した。
「散歩」
夜の竹藪はまさに静の世界だ。
見上げても生い茂る竹の葉が邪魔となり月光も殆ど届かない。
風が吹かなければ音すらしない。立ち止まれば完全な静寂が周囲を包み込む。
「あーぁ」
なんでこんなところにいるんだろう。
ふとそんなことを考えて、すぐに頭を振って否定する。
ここはかつて高草群と呼ばれた場所。自分の生まれ故郷ではないか。
故郷――そういえばそうだったということを久しく忘れていた。
永遠亭で暮らすようになってから、自分はどこか別の世界にいるように感じていたのかもしれない。
だが自分はここから出ていないのだ。何処へ行っても必ず此処に戻ってくる。
どうして?
「怖いから」
ぽつりと漏れた一言。
途端、昼間に聞いたあの音が蘇ってくる。
タァーン!……タァーン!……
「嫌だ、嫌いっ、怖いっ!」
自分でも訳が分からないほどの嫌な感情が、想いが頭も体も支配する。
頭を抱えて音から逃げ出すように走り出す。
しかしまるですぐ側で猟師が銃を撃っているかの如く、その音は離れることはない。
怖い、嫌い、逃げたい――
ただその感情が頭を巡り体を支配してゐを走らせ続ける。
ただひたすらに竹藪の中を走り続ける。
何も考えられなくなるまで、体力の続く限り。
いつしか体力が限界を迎え、一歩も動けなくなったてゐはそのまま地面に倒れ込む。
土と草の匂いが心を落ち着かせてくれた。次第にクリアになってゆく思考。
「なにしてんだか」
思い返せば馬鹿なことをしたものだ。
何もいない何も起こるはずのないこの場所で幻聴に怯え、終いには倒れるまで走るなど。
本当に“なにしてんだか”だ。
疲れ切った体に鞭打って、とりあえず仰向けに寝転がる。
丁度葉の合間から月明かりが差し込んできた。
「だから……眩しいのよ」
その明るさから目を背けるために目を閉じる。
あれだけ冴えきっていた目も、走り疲れた為か今は重い。
てゐはそのまま闇の中で眠りに落ちた。
☆
人間の貪欲性はどこまで底なしなのだろうか。
高草群と呼ばれた兎の楽園たる竹林は人間にとっては迷いの森でしかなく、好き好んで近づく者はそれまでいなかった。
だが時間の経過は人々の知恵を伸ばし、そんな恐怖など微塵も気にせず侵入を果たしてきたのだ。
それまで天敵という天敵には狙われたことの無かった兎達は人間の前にはあまりにも無力。
次々と食料や売買の為に殺されていった。
至る所から立ち上る火薬と血の臭い。
いつの間にか家族も全員いなくなって、てゐは一匹になっていた。
周りの兎達は自身のことで精一杯で、家族を失ったてゐには誰も手をさしのべてはくれなかった。
だからてゐは決めたのだ。
たった一人になっても生き延びてみせると。
その為にまずてゐが気をつけたことは自身の健康である。
病気や怪我で命を落としてしまっては生き延びるも何もあったものではない。
日頃の健康在ってこそ、生き続けることができるのだ。
次にてゐは仲間を騙してまでも食料を得るという狡猾さを手に入れた。
時には人間達までをも騙し、逃げ延びたり時には食料を拝借したりもした。
そうして誰の手も借りることなく、ただひたすらに生き延びることを、生き続けることに執着したてゐ。
何日も、何ヶ月も、そして何年も。
どんどん賢くなり、どんどん大きくなり、そして――
彼女は妖怪へと変化した。
☆
迷いの竹林に朝がやってきた。
あれだけ暗かった林の中も、太陽の光が差し込めばその姿をがらりと変える。
そうは言っても似たような景色ばかりで迷いやすいことに変わりはない。
竹の葉から朝露が滴り落ち、てゐの頬を濡らす。
その冷たさによって眠りの淵から引きずり下ろされるてゐ。
「うー……なんであたしこんな所で寝てるのかしら。風邪でも引いたらどうするのよ」
自分で取った行動の末の結果に自身で文句を垂れながら、上体を起こした。
固い地面の上で寝たのはいつ以来か。
そんなことを考えながら、とりあえず完全に目が覚めるのを待つことにしたてゐ。
その間頭に浮かんでくるのはかつての記憶。
もうとっくの昔に忘れてしまっていたことのはずなのに、今更になって思い出すとは。
「気分悪いわ」
あの頃は毎日が地獄のような生活だった。
仲間からは疎んじられ、人間からは逃げ続け……。
よくもまあ今まで生きてこられたものだと苦笑を浮かべる。
銃声は人間の凶悪な一面を思い出させる鍵だ。
普段竹藪から出なかったから、久しくその音を聞いていなかった。
もうとっくに忘れたものと思っていたのに、まだ自分はその束縛から逃れられないでいたのか。
「はは……長生きしても嫌いなものは嫌いなのね」
自嘲的な笑みを浮かべながら立ち上がる。もう体も完全に目を覚ました。
屋敷にいないとなれば、きっと鈴仙あたりが口うるさく問い詰めてくることだろう。
面倒が増えないうちに帰るのが賢明か。
そんなことを考えていた最中、不意に感じた気配にてゐは体を強張らせ警戒する。
「誰っ」
「うわあっ」
相手は向こうから話しかけられ事を想定していなかったのか、情けない声を上げそのまま後ろに倒れた。
それは人間の子供だった。一人で周囲には他の人間の気配はない。
まったく警戒する必要の無かった相手にてゐは嘆息する。
夢見が悪かったからか、変に緊張してしまっていたらしい。
「あ、兎のお姉ちゃんだ」
子供は尻餅をついたままてゐに話しかけてきた。その発言から察するにてゐのことを知っているらしい。
てゐはそんな発言をする子供の顔をまじまじと見つめた。
そういえば昨日郷に行ったときに見かけたような気がする。
しかし、ここは人間の子供が容易に踏み込んで良い場所ではないはずだ。
「何を考えてるんだか。あんた死にたいの?」
「ぼく、どうしても欲しいものがあるんだ。それでここならあると思って」
「欲しい物?」
「筍」
その解答にてゐは思わず「はぁ?」と聞き返してしまった。
筍なんて時季違いも甚だしい。
それに妖怪に襲われるかもしれない郷の外まで出てきてまでして欲しいものだろうか。
「あんたね、筍はこんな時季に採れるものじゃないの。竹林ならいつでもあるとでも思ったら大間違いよ」
「でも持って帰らないと母ちゃんが……」
子供は俯いて浮かない表情を浮かべた。どうやら訳ありということらしい。
訳ありでもなければこんな所にやって来るなどしないだろうが。
「母ちゃんが大好きなんだ。だから食べさせてあげたくて」
「母親がどうかしたわけ?」
「お医者さんが言ってたんだ。もう長くないって……」
「そうなんだ」
てゐは別に可哀想だとも大変だとも思わなかった。
人間だって兎と一緒。病気になって死ぬときは死ぬ。
それが他人なら尚更のこと心配も同情も必要無い。
「それで筍食べさせてあげようと思って探してるんだけど……」
成る程、もうすぐ死んでしまうかもしれないからその前に好物を食べさせてやりたい。
人間的な思考としては極々自然な発想だ。だが――
「だからさっきも言ったじゃない。季節が違うから無いものはないって」
「でも……」
なかなか諦めようとはしない子供。それだけ母親に食べさせてやりたいと思っているのだろう。
しかし無いものはないのだ。さっさと諦めるのが妥当である。
そうは言っても子供特有の一途な頑固さはなかなかそれを飲み込もうとはしてくれない。
このまま押し問答を続けていても時間だけが過ぎていく。
「しょうがないわね」
てゐは溜息をつきながら指を差した。
子供は何のことか分からず首を傾げている。
「あっちの方に在るかもしれないわ。探すなら勝手に探せば」
「ありがとう、お姉ちゃんっ」
嬉しそうに礼を言うと、子供はてゐの指差した方へと駆けていく。
その姿が見えなくなってからてゐは大きく息をついた。
人間の子供の相手など疲れる以外の何ものでもない。
そういえば素直で良い子と永琳が言っていたが、それは頷ける。
「あんな嘘に軽々しく乗っちゃって」
無いものはないと言った直後ではないか。適当に指を指しただけなのにそれを信じてしまうとは。
てゐはクスリと苦笑を漏らすと永遠亭へと戻ることにした。
「もう、散歩って言っておきながら朝帰りだなんて。何をしていたのよ」
永遠亭に帰ってきたてゐを待っていたのは鈴仙のお小言だった。
自分がいないことを永琳にでも咎められでもしたのだろう。
いつもより怒っている度合いが一割り増しくらいに感じられる。
「あはは、別になんでもないわ」
いつものように笑ってはぐらかす。
その笑みが次の瞬間凍り付いた。
「この近くで凶暴な妖怪が出たって見張りの子達が言ってて、みんなてゐのこと心配してたのよ」
「え?」
「無事だから良かったけどね」
まさか、という嫌な予感が脳裏をよぎる。
いやそうと決まったわけではない。
彼は自分と出会っているのだ。“人を幸せにする程度の力”を持つこの因幡てゐと。
きっと無事に竹林を抜けて母親の元へ帰っていることだろう。
「そうよ……そうに決まってる」
「何か言った?」
「なんでも……」
本来なら人間が何処でどうなろうと関係ないし気にすることでもない。
なら何故こんなにも動悸が激しくなっているのか。
「顔色悪いわよ? ずっと外にいて風邪でも引いた? あ、そういえばさっきね」
「ごめん。気分悪いし、ちょっと寝てくるわ」
鈴仙の言葉を止めててゐはふらふらと歩き出す。
「あ、うん。お大事に」
本当に気分が悪い。だがこのまま寝てもきっとこの気持ちの悪さは拭うことはてきないだろう。
やはり直に確認しなければ。
てゐは自室に戻るフリをして、こっそりと郷へと向かった。
☆
郷について探してみたが、まだあの子供は戻っていなかった。
彼の家を覗いても、床に臥せった母親が寝ているだけ。
近所の家の者達は皆一様に子供の所在を心配しており、
午後になっても戻らなければ探しに出ようという相談を行っていた。
てゐはますます嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、今朝彼と出会ったあの場所へと一目散に飛び去った。
何もなければそれで良い。
そう思いながら、自分が指を指し子供が走り去った方向を探す。
しかし進むにつれて、てゐの動物的嗅覚が嗅ぎ慣れた“あの”嫌な臭いを感じ始めていた。
これは――そう、かつて自分がその上を歩いた紅く錆びた道。
生臭くて薄暗い。あの頃と同じ。
「――ぁ」
微かに漏れた呟き。
目の前に広がるのは深紅に染まった開けた場所。ただ緋色の泉だけが広がっている。
いや、そうではなかった。
「これは……」
てゐは血溜まりの中に転がる物を見つけて拾い上げた。
それは季節外れの筍。紅から黒へと変わりつつある血に塗れた筍だった。
これはきっと彼が見つけた物だろう。まさか適当についた嘘が本当になっていたなんて。
“人に幸せを与える程度の力”がこんなことに発揮されていたというのか。
自分はてっきり竹林から無事に逃げられることに作用するとばかり考えていたのに……。
筍を見つけたとき、彼はとても喜んだに違いない。
しかし、その直後に――
喰われたのだ。
☆
てゐは疲れ切った様子で永遠亭へと戻ってきた。
また鈴仙が何事か言ってきたが、何も返事を返すことなくてゐは自室へと向かった。
すでに片付けられた布団を出すこともせず、そのまま畳の上に寝転がる。
感情も感傷もない。
てゐは静かに目を閉じると、いつの間にか眠りの淵へと堕ちていった。
因幡の素兎――
これはいつ聞いた話だったか。
嘘だとばれなければ良いとてゐは思った。
彼は最後にばれてしまったから、その罪を償わなくてはならなくなったのだ。
ならばばれなければ償う必要もないではないのか?
てゐは生き残るために人間を、仲間を騙し続けて生きてきた。
それらはばれないように。ばれても罪にならぬ程度に。
だから罪の意識は感じたこともなかったし、償う必要などないと思っていた。
だがそうではなかった。
てゐはやはり素兎と同じ道を辿っていたのだ。
毛は毟られていない。だがまるで素肌を海水に浸けたかの如き痛みを心が感じている。
因幡の素兎は、その後通りがかった別の神によって救われたと聞く。
ならば自分も誰かが救ってくれるのだろうか。
この痛みから救ってくれるのだろうか。
☆
まず頭が目を覚ました。
目を閉じたまま、てゐは眠りの中で考えていたことを思い出し反芻する。
因幡の素兎の物語。
嘘と共に生きてきた自身の兎生。
救いなど必要なかった。必要ないはずだった。
因幡の素兎を嗤い、自身は大丈夫と高を括っていたのに。
「誰か……助けてよ」
誰もいない。
天へと伸ばした手は空を掴むだけ。
誰も握り替えしてくれなど――
「どうやら起きたようね」
「え……」
柔らかく優しく、そして温かな感触が手の平を伝ってくる。
目を開けるとそこには手を握ってくれている永琳と、その隣で心配そうな表情を浮かべている鈴仙がいた。
「かなりうなされていたようだから、勝手だけど薬を打たせてもらったわ」
腕を見ると確かに注射を打たれた痕があった。
「起きていたら絶対に打たせてくれないもんね」
てゐが目覚めたことで安心したのか、鈴仙はいつものように笑みを溢した。
永琳も心なしかほっとしているように見える。
「とりあえず起きたならこれでも食べなさい。昨日からずっと何も食べてないでしょう」
そう言って差し出された碗には、昨日のような得体の知れない薬は入っておらず、
熱々の山菜粥が美味しそうな湯気を立ち上らせている。
てゐはいらないと返そうとしたが、その前にお腹の虫が結構な音を立てた。
言葉で嘘はつけても体は正直らしい。
「いただきます……」
ここで嘘をついても仕方ないと、てゐは粥に手を付ける。
「ご馳走様でした」
ずっと動きっぱなしだったためか、腹の方はかなり空腹になっていたらしく
熱かった粥もすぐに食べ終わってしまった。
「良かったわ。その食欲ならもう問題ないわね」
碗を片付ける永琳に、てゐは気になっていた事を尋ねた。
聞けば自分が苦しむことになるのは分かっている。それでも聞かずにはいられない。
「あの、永琳様。竹林に出たっていう妖怪は……どうなったんですか」
「妖怪? もしかしてウドンゲから聞いてなかったの?」
「鈴仙から聞いたのは妖怪が出たことだけだけど」
すると永琳は鈴仙の方を向いた。
「教えてなかったの?」
問い詰めるような口調の永琳に、鈴仙は慌てて否定の言葉を口にする。
「言おうとしたんですけど、先に寝たいって言ったから。帰ってきたときに言いましたけど
……あの様子じゃまともに聞こえてなかったかもしれません。言ってない訳じゃ無いですよっ」
「そんなに全力で弁解する必要はないんじゃない?」
「あのさ、今ひとつ話が見えてこないんだけど」
てゐには二人が一体何のことを話しているのかさっぱりだ。
置いてけぼりをくらうというのは、あまりいい気はしない。
「もう妖怪はいないわ。あんまり暴れられても困るからお暇してもらったのよ」
永琳は朗らかに言ってのけているが、その内容はかなり物騒だ。
しかしそんな話にはたいして驚きはしない。至極“当然”のことなのだ。
だがてゐにとって驚くべきことは、次に鈴仙が話すことにあった。
「それともう一つ、その時にね……」
『兎が泣いていると、通りがかった神様が救いの手を差し伸べてくれました……』
☆
それから数日後の人間の郷。
永琳はいつものように薬を売るためにやってきていた。
その共は風邪の治った鈴仙――ではなく、またてゐであった。
今度は強制ではない。彼女が自身の意志で付いてきたのだ。
それを永琳に茶化されもしたが、何を言われてもてゐには来るべき理由があった。
その理由とは――
「あ、あの時のお姉ちゃん」
てゐをお姉ちゃんと呼ぶのは、あの竹林で出会った子供だった。
彼は死んでなかったのだ。正確には死にかけただけ。
妖怪を退治しに行った鈴仙達は、彼が襲われているところに偶然出くわしそこで助けたのである。
てゐが村に行ったときはまだ永遠亭で傷の手当てを受けていて、
ちょうど入れ違いになってしまい彼が生きていることに気づけなかったのだ。
それを聞いたてゐはどっと体から力が抜けてしまった。
自分は救われたのか、いや赦されたのか。ただほっとしたことだけは確かだった。
「今日はどうしたの?」
「えと……その、これ」
てゐは子供に袋を差し出した。
それを永琳は微笑ましげに見つめている。
「わぁっ」
渡された袋の中を見た子供は歓喜の声を上げた。
そこに入っていたのは季節外れの筍。
てゐが手下の兎達に竹林中を探させて見つけたものだ。
「ありがとう」
子供はにっこりと微笑みを返した。
「まったく、貴方らしくないじゃない」
「放っておいてください」
用事を済ませるとてゐは、すぐにその家を後にした。
その様子を一部始終見ていた永琳は、終始口元が笑みの形のままである。
てゐは本来の目的を隠すためにわざわざ付き添いを名乗り出たのだ。
この笑みを見ればわかるが、永琳にはばれてしまっているのだろう。
「今日のことは絶対に内緒ですからね。特に鈴仙なんかには言わないでくださいよ」
「はいはい、わかってるわよ。また手伝ってくれるんでしょう?」
弱みとして握られても仕方がない。
だが今のてゐにとっては、そんなに気にすることではなかった。
なんだかとても清々しい気分で、苛立ちなど微塵も湧き上がってこない。
「永琳様なんて、だいっきらいです」
べーっと舌を出して、駆けだしていくてゐ。
秋晴れの空に彼女の笑い声が響いた。
因幡の素兎。
あたしはあんたを嗤ったけれど、あんたも今のあたしを見たら笑うのかしら。
でも今ならあたしだって、あんたに向かってちゃんと笑えるわ。良かったねって。
だって、手を伸ばせば必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれるってわかったから。
《終幕》
『因幡の素兎』
かつて因幡の素兎(しろうさぎ)と呼ばれた兎がいた。
彼はある日、大洪水によって沖の島へと流されてしまう。
どうにか帰る術はないものか。このままここにいては飢え死にしてしまう。
そんな彼の目にワニザメの群れが映る。
生きるため、元の場所へ帰るために彼はワニザメ達を騙し何とか元の岸へと帰ってこられた。
だが嘘をつかれたことを知ったワニザメ達は、彼の毛を毟って丸裸にしてしまう。
それを嘆いていたところに神が通りがかり、彼はどうにか治す方法はないものかと尋ねた。
しかし神は彼が行ったことを知っていた。
嘘をついた報い――。
神は海水に浸ければ治ると嘘を教えた。嘘の罪には嘘による贖罪が適当と考えたのだろう。
言うとおりにした彼は、酷い傷を負ってしまい自身が付いた嘘の罪深さを思い知ったのだ。
あたしはこの物語を聞いたときから、ずっと思っていることがある。
生きるためなら、生き残るためなら嘘もつかざるを得ないのが世の常だ。
だからこの兎だって嘘をついて生きようとしたのではないか。
だけどその後が不味かった。嘘がばれてしまったのだ。
結果、その嘘で負った罪を激痛を伴うことによって償わされる羽目になる。
嘘はついてもばれてはならない。
ばれるくらいなら罪にならない嘘をつくべきだ。
あたしはそう思い続けて、長い時を過ごしてきた。
仲間が流した血に濡れた道の上を歩き続けて――――
☆
「なんであたしが……まったく……」
人間の郷、その一角に生えている木の下で一人の少女が独り言を言っている。
その表情はまさに不機嫌そのもの。
誰が見ても彼女が苛立っているのが一目瞭然でわかるほどだ。
彼女の名前は因幡てゐ。
迷いの竹林の永遠亭に住み着いている兎達の長老だ。
見た目は可憐なウサ耳少女だが、その歳はそんじょそこらの低級妖怪よりも遙かに長い。
その顔が今は不機嫌一色に染まっている。
「あいつが風邪なんか引くからあたしがこんな所に来る羽目になっちゃったじゃない。
そうよ、全部あいつの所為だわ。薬師の勉強をしているくせに自分の健康には無関心なんだから」
彼女があいつと称しているのは、同居人の一人である鈴仙・優曇華院・イナバのこと。
そしてこんな所とは人間の郷のことである。
本来なら鈴仙が同行するはずだった永琳の薬売りの手伝いなのだが、
当の鈴仙が風邪を引いてしまい、てゐが代役として抜擢されたのだ。
実際の所は暇そうにしていたところを無理に連れてこられたというのが正しいが。
「荷物持ちなんて他の兎にやらせればいいのよ……」
てゐには鈴仙のように薬学の嗜みもないため、手伝いといっても荷物持ちくらいなもの。
それなら他の兎でも良いのではと提案したのだが、永琳には微笑と共に一蹴されてしまった。
どうせ暇を持て余していたのは事実だし、本当は手伝いをすること自体に文句はない。
ただてゐは“人間の郷”に来ることが嫌なのだ。
「あれ、今日はいつものお姉ちゃんじゃないんだね」
苛立ちを振りまくてゐの元へ郷の子供達がやってきた。
鈴仙が訪れている為か子供達はてゐの姿を見ても恐れることはない。
むしろ遊び相手になってくれるものと信じて無邪気に話しかけてくる。
だがそんな子供達とて、てゐには不愉快の対象でしかない。
「うっさいわね! とっとと消えないと痛い目に遭わせるよっ」
てゐの怒声に子供達は戸惑いと理不尽に対する怒りを見せる。
「なによっ、何怒ってんのよ」
「ふんだ、行こうぜ」
子供達が行ってしまったことを確認するとてゐは溜息をついた。
これだから里に下りてくるのは嫌なのだと言わんばかりな大きく深い溜息を。
「そんなに子供が嫌いなのかしら」
「大っ嫌い」
薬の販売を兼ねた治療を終えた永琳の苦笑混じりな問いをてゐは一言で否定する。
「みんな素直で可愛い子ばかりなのに……。さっき尋ねた家の子もお母さん想いのとても良い子で――」
「それより! 終わったのならさっさと帰りましょうよ。ここにはいたくない」
全身から早く帰りたいオーラを出して訴えてみる。
しかし永琳はその期待に応えることはしてくれなかった。
「はいはい。でもあと一軒残ってるのよ。そこだけだから我慢して頂戴」
てゐは不服そうに唇を尖らせながらも、足下に置いてあった荷物を持ち上げた。
永琳と並んで歩いて、てゐは改めて永琳がこの郷で歓迎されてる存在であることを実感していた。
会う人会う人皆が笑顔で挨拶をしてくる。
中には畑で取れた野菜をお礼と称して渡してくる者もいた。
しかしその間もてゐは終始目を合わせることもなく不機嫌な表情は崩していない。
「もう少し愛想良くしても良いと思うわよ? いつもしているじゃない」
「時と場合によります。あたしは誰彼構わず愛想を振りまくわけじゃない」
「そうだったわね。でも別にあの人達は悪い人じゃないわよ」
「そんなの関係ないわ。あたしは人間が好きじゃない。それだけです」
てゐはいくら永琳が言ったところで考えを改めようとはしない。
元々そんな素直で可愛い性格ではないことは知っているが、これだけ頑なに否定する姿も珍しい。
それが気になってつい永琳はお喋りを続けてしまう。
そう言えば彼女とこうして二人きりで話すなどいつ以来のことだろうか。
「別に構わないけどね。でも貴方がそこまで人間嫌いだなんて知らなかったわ」
「人間嫌いって言葉だけじゃ説明できません」
「ふぅん……。それにしても今日はお喋りね。もしかして全部お得意の嘘なのかしら?」
「……これだからこの人は」
「あら、何か言ったかしら?」
聞こえていたが敢えて聞こえていなかったように振る舞う永琳。
しかしそれもてゐにはばれてしまっていることだろう。
「別に何も。それよりさっさと用事終わらせて帰りまし――」
……タァーン!……
遠くの山から聞こえる残響。
断続的に放たれたそれは、音の質と響きから考えて猟銃のものだろう。
秋も深まり冬を目前に控えたこの時期、山の動物たちを狩る銃声が度々聞こえてくるのだ。
「もうそんな季節か。しばらくしたら猪肉が出回るようになるわね……てゐ、どうしたの?」
ふとてゐの方へ視線を動かすと、両腕を抱えてしゃがみ込む彼女の姿があった。
どうも様子がおかしい。
まるで何かに怯えているかのように背中が震えている。
これは演技ではないと直感で悟った永琳はすぐにてゐに呼びかけた。
「てゐ、てゐ、一体どうしたの? 気分でも悪くなった?」
だがてゐは荒い息づかいを繰り返すだけで言葉は発しない。
そしてそのまま何も言わないまま、てゐは意識を失って倒れてしまった。
☆
あれはいつのことだっただろう。
まだ自分が妖怪としてではなく、ただの兎として生きていた頃。
この竹林も幻想郷ではなく、外界に存在していた時代。
自分の周りには今よりずっと沢山の兎がいた。
あの頃は何も考えず、ただ野山を自由気ままに飛び跳ねて過ごすだけで幸せだった。
だが突然その足下が真っ赤な血に染まる。
☆
目が覚めると、視界は月光に照らされた木目に変わっていた。
寝起きの頭はいまいち働きが遅くここがどこなのか理解できない。
確か自分は人間の郷に行っていたはずだが……。
「あら、起きたのかしら?」
その声に反応して首が自然と入り口の方を向く。
そこには水の入った桶を持った永琳が立っていた。
どうやら永遠亭に戻ってきていたらしい。
「いきなり貴方が倒れたときは吃驚したわよ。背負って帰る羽目になったんだから」
「あたしを、背負って?」
てゐにはそんな覚えがない。
だが永琳が言うには突然意識を失って倒れたのだという。
引きずって帰るわけにもいかないから、背負って戻ってきたということだ。
「てゐにしては珍しいわね。兎一倍健康には気を遣っているのに」
「別にそういうわけじゃ……ってなんですか、これ」
差し出されたお椀。
中身は明らかに水や味噌汁ではない色をしている。それになんだか嫌な匂いだ。
本能的に飲まない方が良いと察したてゐはお碗を手で押し返した。
「薬だったら要りませんよ。あたしは病気や体調不良で倒れた訳じゃないんですから」
「それならどうして倒れたのかしら」
にこにこと笑みを浮かべて永琳はまたお碗を目の前に持ってくる。
「そ、それは……」
てゐにもどうして自分が倒れてしまったのかわからない。
そういえばあの時何かが聞こえ、それを聞いた辺りから記憶が曖昧になっている。
だがこのままでは得体の知れない“薬”を飲む羽目になってしまう。
「人間の郷の空気があたしには合わなかったんです。長居していたからそれにあてられた。それだけです」
「本当に?」
「疑うなら疑っても良いです。寝てればあたしは良くなりますから」
てゐは布団を被り直すと永琳から顔を背けた。
「まぁそれなら良いけど。みんなも心配していたわよ。貴方が倒れるなんてよほどのことだから」
てゐからの返事はない。
永琳はやれやれと小さく息をつくと部屋を出て行った。
遠ざかる足音を耳で確認すると、てゐは布団から抜け出し背筋を伸ばす。
変な時間に寝過ぎたせいか目が冴えてしまった。
障子を開けて廊下に出ると、雲の途切れ目から月の光が顔を照らし出す。
「眩し……」
静謐な青白い灯は太陽よりも静かな筈なのに、何故かとても眩しく見える。
「あれ、起きてたんだ。もう大丈夫なの?」
屋敷の戸締まりが終わり自室へ戻る途中の鈴仙が話しかけてきた。
「なんだ鈴仙か」
なんだはないでしょと藤色の髪をした少女が笑う。
その笑顔には影がない。自分の愛想笑いとは違う笑顔だ。
「あたしは少し郷の気にあてられただけ。あんたこそ医者の不養生じゃないの」
「それを言われると痛いなぁ」
また笑みを溢す鈴仙。
だが彼女にも暗い過去がある。それでこんな笑みが浮かべられるのはどうしてなのか。
考えたところで答えが出るはずもない。
「まぁお互い健康には気をつけましょうということで……じゃあね」
「ちょっと! こんな時間に何処行くのよ」
縁側から飛び降りて竹林へと向かうてゐに鈴仙が呼びかける。
だがてゐは振り向くことなく、ただ一言だけ告げて竹藪の中に姿を消した。
「散歩」
夜の竹藪はまさに静の世界だ。
見上げても生い茂る竹の葉が邪魔となり月光も殆ど届かない。
風が吹かなければ音すらしない。立ち止まれば完全な静寂が周囲を包み込む。
「あーぁ」
なんでこんなところにいるんだろう。
ふとそんなことを考えて、すぐに頭を振って否定する。
ここはかつて高草群と呼ばれた場所。自分の生まれ故郷ではないか。
故郷――そういえばそうだったということを久しく忘れていた。
永遠亭で暮らすようになってから、自分はどこか別の世界にいるように感じていたのかもしれない。
だが自分はここから出ていないのだ。何処へ行っても必ず此処に戻ってくる。
どうして?
「怖いから」
ぽつりと漏れた一言。
途端、昼間に聞いたあの音が蘇ってくる。
タァーン!……タァーン!……
「嫌だ、嫌いっ、怖いっ!」
自分でも訳が分からないほどの嫌な感情が、想いが頭も体も支配する。
頭を抱えて音から逃げ出すように走り出す。
しかしまるですぐ側で猟師が銃を撃っているかの如く、その音は離れることはない。
怖い、嫌い、逃げたい――
ただその感情が頭を巡り体を支配してゐを走らせ続ける。
ただひたすらに竹藪の中を走り続ける。
何も考えられなくなるまで、体力の続く限り。
いつしか体力が限界を迎え、一歩も動けなくなったてゐはそのまま地面に倒れ込む。
土と草の匂いが心を落ち着かせてくれた。次第にクリアになってゆく思考。
「なにしてんだか」
思い返せば馬鹿なことをしたものだ。
何もいない何も起こるはずのないこの場所で幻聴に怯え、終いには倒れるまで走るなど。
本当に“なにしてんだか”だ。
疲れ切った体に鞭打って、とりあえず仰向けに寝転がる。
丁度葉の合間から月明かりが差し込んできた。
「だから……眩しいのよ」
その明るさから目を背けるために目を閉じる。
あれだけ冴えきっていた目も、走り疲れた為か今は重い。
てゐはそのまま闇の中で眠りに落ちた。
☆
人間の貪欲性はどこまで底なしなのだろうか。
高草群と呼ばれた兎の楽園たる竹林は人間にとっては迷いの森でしかなく、好き好んで近づく者はそれまでいなかった。
だが時間の経過は人々の知恵を伸ばし、そんな恐怖など微塵も気にせず侵入を果たしてきたのだ。
それまで天敵という天敵には狙われたことの無かった兎達は人間の前にはあまりにも無力。
次々と食料や売買の為に殺されていった。
至る所から立ち上る火薬と血の臭い。
いつの間にか家族も全員いなくなって、てゐは一匹になっていた。
周りの兎達は自身のことで精一杯で、家族を失ったてゐには誰も手をさしのべてはくれなかった。
だからてゐは決めたのだ。
たった一人になっても生き延びてみせると。
その為にまずてゐが気をつけたことは自身の健康である。
病気や怪我で命を落としてしまっては生き延びるも何もあったものではない。
日頃の健康在ってこそ、生き続けることができるのだ。
次にてゐは仲間を騙してまでも食料を得るという狡猾さを手に入れた。
時には人間達までをも騙し、逃げ延びたり時には食料を拝借したりもした。
そうして誰の手も借りることなく、ただひたすらに生き延びることを、生き続けることに執着したてゐ。
何日も、何ヶ月も、そして何年も。
どんどん賢くなり、どんどん大きくなり、そして――
彼女は妖怪へと変化した。
☆
迷いの竹林に朝がやってきた。
あれだけ暗かった林の中も、太陽の光が差し込めばその姿をがらりと変える。
そうは言っても似たような景色ばかりで迷いやすいことに変わりはない。
竹の葉から朝露が滴り落ち、てゐの頬を濡らす。
その冷たさによって眠りの淵から引きずり下ろされるてゐ。
「うー……なんであたしこんな所で寝てるのかしら。風邪でも引いたらどうするのよ」
自分で取った行動の末の結果に自身で文句を垂れながら、上体を起こした。
固い地面の上で寝たのはいつ以来か。
そんなことを考えながら、とりあえず完全に目が覚めるのを待つことにしたてゐ。
その間頭に浮かんでくるのはかつての記憶。
もうとっくの昔に忘れてしまっていたことのはずなのに、今更になって思い出すとは。
「気分悪いわ」
あの頃は毎日が地獄のような生活だった。
仲間からは疎んじられ、人間からは逃げ続け……。
よくもまあ今まで生きてこられたものだと苦笑を浮かべる。
銃声は人間の凶悪な一面を思い出させる鍵だ。
普段竹藪から出なかったから、久しくその音を聞いていなかった。
もうとっくに忘れたものと思っていたのに、まだ自分はその束縛から逃れられないでいたのか。
「はは……長生きしても嫌いなものは嫌いなのね」
自嘲的な笑みを浮かべながら立ち上がる。もう体も完全に目を覚ました。
屋敷にいないとなれば、きっと鈴仙あたりが口うるさく問い詰めてくることだろう。
面倒が増えないうちに帰るのが賢明か。
そんなことを考えていた最中、不意に感じた気配にてゐは体を強張らせ警戒する。
「誰っ」
「うわあっ」
相手は向こうから話しかけられ事を想定していなかったのか、情けない声を上げそのまま後ろに倒れた。
それは人間の子供だった。一人で周囲には他の人間の気配はない。
まったく警戒する必要の無かった相手にてゐは嘆息する。
夢見が悪かったからか、変に緊張してしまっていたらしい。
「あ、兎のお姉ちゃんだ」
子供は尻餅をついたままてゐに話しかけてきた。その発言から察するにてゐのことを知っているらしい。
てゐはそんな発言をする子供の顔をまじまじと見つめた。
そういえば昨日郷に行ったときに見かけたような気がする。
しかし、ここは人間の子供が容易に踏み込んで良い場所ではないはずだ。
「何を考えてるんだか。あんた死にたいの?」
「ぼく、どうしても欲しいものがあるんだ。それでここならあると思って」
「欲しい物?」
「筍」
その解答にてゐは思わず「はぁ?」と聞き返してしまった。
筍なんて時季違いも甚だしい。
それに妖怪に襲われるかもしれない郷の外まで出てきてまでして欲しいものだろうか。
「あんたね、筍はこんな時季に採れるものじゃないの。竹林ならいつでもあるとでも思ったら大間違いよ」
「でも持って帰らないと母ちゃんが……」
子供は俯いて浮かない表情を浮かべた。どうやら訳ありということらしい。
訳ありでもなければこんな所にやって来るなどしないだろうが。
「母ちゃんが大好きなんだ。だから食べさせてあげたくて」
「母親がどうかしたわけ?」
「お医者さんが言ってたんだ。もう長くないって……」
「そうなんだ」
てゐは別に可哀想だとも大変だとも思わなかった。
人間だって兎と一緒。病気になって死ぬときは死ぬ。
それが他人なら尚更のこと心配も同情も必要無い。
「それで筍食べさせてあげようと思って探してるんだけど……」
成る程、もうすぐ死んでしまうかもしれないからその前に好物を食べさせてやりたい。
人間的な思考としては極々自然な発想だ。だが――
「だからさっきも言ったじゃない。季節が違うから無いものはないって」
「でも……」
なかなか諦めようとはしない子供。それだけ母親に食べさせてやりたいと思っているのだろう。
しかし無いものはないのだ。さっさと諦めるのが妥当である。
そうは言っても子供特有の一途な頑固さはなかなかそれを飲み込もうとはしてくれない。
このまま押し問答を続けていても時間だけが過ぎていく。
「しょうがないわね」
てゐは溜息をつきながら指を差した。
子供は何のことか分からず首を傾げている。
「あっちの方に在るかもしれないわ。探すなら勝手に探せば」
「ありがとう、お姉ちゃんっ」
嬉しそうに礼を言うと、子供はてゐの指差した方へと駆けていく。
その姿が見えなくなってからてゐは大きく息をついた。
人間の子供の相手など疲れる以外の何ものでもない。
そういえば素直で良い子と永琳が言っていたが、それは頷ける。
「あんな嘘に軽々しく乗っちゃって」
無いものはないと言った直後ではないか。適当に指を指しただけなのにそれを信じてしまうとは。
てゐはクスリと苦笑を漏らすと永遠亭へと戻ることにした。
「もう、散歩って言っておきながら朝帰りだなんて。何をしていたのよ」
永遠亭に帰ってきたてゐを待っていたのは鈴仙のお小言だった。
自分がいないことを永琳にでも咎められでもしたのだろう。
いつもより怒っている度合いが一割り増しくらいに感じられる。
「あはは、別になんでもないわ」
いつものように笑ってはぐらかす。
その笑みが次の瞬間凍り付いた。
「この近くで凶暴な妖怪が出たって見張りの子達が言ってて、みんなてゐのこと心配してたのよ」
「え?」
「無事だから良かったけどね」
まさか、という嫌な予感が脳裏をよぎる。
いやそうと決まったわけではない。
彼は自分と出会っているのだ。“人を幸せにする程度の力”を持つこの因幡てゐと。
きっと無事に竹林を抜けて母親の元へ帰っていることだろう。
「そうよ……そうに決まってる」
「何か言った?」
「なんでも……」
本来なら人間が何処でどうなろうと関係ないし気にすることでもない。
なら何故こんなにも動悸が激しくなっているのか。
「顔色悪いわよ? ずっと外にいて風邪でも引いた? あ、そういえばさっきね」
「ごめん。気分悪いし、ちょっと寝てくるわ」
鈴仙の言葉を止めててゐはふらふらと歩き出す。
「あ、うん。お大事に」
本当に気分が悪い。だがこのまま寝てもきっとこの気持ちの悪さは拭うことはてきないだろう。
やはり直に確認しなければ。
てゐは自室に戻るフリをして、こっそりと郷へと向かった。
☆
郷について探してみたが、まだあの子供は戻っていなかった。
彼の家を覗いても、床に臥せった母親が寝ているだけ。
近所の家の者達は皆一様に子供の所在を心配しており、
午後になっても戻らなければ探しに出ようという相談を行っていた。
てゐはますます嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、今朝彼と出会ったあの場所へと一目散に飛び去った。
何もなければそれで良い。
そう思いながら、自分が指を指し子供が走り去った方向を探す。
しかし進むにつれて、てゐの動物的嗅覚が嗅ぎ慣れた“あの”嫌な臭いを感じ始めていた。
これは――そう、かつて自分がその上を歩いた紅く錆びた道。
生臭くて薄暗い。あの頃と同じ。
「――ぁ」
微かに漏れた呟き。
目の前に広がるのは深紅に染まった開けた場所。ただ緋色の泉だけが広がっている。
いや、そうではなかった。
「これは……」
てゐは血溜まりの中に転がる物を見つけて拾い上げた。
それは季節外れの筍。紅から黒へと変わりつつある血に塗れた筍だった。
これはきっと彼が見つけた物だろう。まさか適当についた嘘が本当になっていたなんて。
“人に幸せを与える程度の力”がこんなことに発揮されていたというのか。
自分はてっきり竹林から無事に逃げられることに作用するとばかり考えていたのに……。
筍を見つけたとき、彼はとても喜んだに違いない。
しかし、その直後に――
喰われたのだ。
☆
てゐは疲れ切った様子で永遠亭へと戻ってきた。
また鈴仙が何事か言ってきたが、何も返事を返すことなくてゐは自室へと向かった。
すでに片付けられた布団を出すこともせず、そのまま畳の上に寝転がる。
感情も感傷もない。
てゐは静かに目を閉じると、いつの間にか眠りの淵へと堕ちていった。
因幡の素兎――
これはいつ聞いた話だったか。
嘘だとばれなければ良いとてゐは思った。
彼は最後にばれてしまったから、その罪を償わなくてはならなくなったのだ。
ならばばれなければ償う必要もないではないのか?
てゐは生き残るために人間を、仲間を騙し続けて生きてきた。
それらはばれないように。ばれても罪にならぬ程度に。
だから罪の意識は感じたこともなかったし、償う必要などないと思っていた。
だがそうではなかった。
てゐはやはり素兎と同じ道を辿っていたのだ。
毛は毟られていない。だがまるで素肌を海水に浸けたかの如き痛みを心が感じている。
因幡の素兎は、その後通りがかった別の神によって救われたと聞く。
ならば自分も誰かが救ってくれるのだろうか。
この痛みから救ってくれるのだろうか。
☆
まず頭が目を覚ました。
目を閉じたまま、てゐは眠りの中で考えていたことを思い出し反芻する。
因幡の素兎の物語。
嘘と共に生きてきた自身の兎生。
救いなど必要なかった。必要ないはずだった。
因幡の素兎を嗤い、自身は大丈夫と高を括っていたのに。
「誰か……助けてよ」
誰もいない。
天へと伸ばした手は空を掴むだけ。
誰も握り替えしてくれなど――
「どうやら起きたようね」
「え……」
柔らかく優しく、そして温かな感触が手の平を伝ってくる。
目を開けるとそこには手を握ってくれている永琳と、その隣で心配そうな表情を浮かべている鈴仙がいた。
「かなりうなされていたようだから、勝手だけど薬を打たせてもらったわ」
腕を見ると確かに注射を打たれた痕があった。
「起きていたら絶対に打たせてくれないもんね」
てゐが目覚めたことで安心したのか、鈴仙はいつものように笑みを溢した。
永琳も心なしかほっとしているように見える。
「とりあえず起きたならこれでも食べなさい。昨日からずっと何も食べてないでしょう」
そう言って差し出された碗には、昨日のような得体の知れない薬は入っておらず、
熱々の山菜粥が美味しそうな湯気を立ち上らせている。
てゐはいらないと返そうとしたが、その前にお腹の虫が結構な音を立てた。
言葉で嘘はつけても体は正直らしい。
「いただきます……」
ここで嘘をついても仕方ないと、てゐは粥に手を付ける。
「ご馳走様でした」
ずっと動きっぱなしだったためか、腹の方はかなり空腹になっていたらしく
熱かった粥もすぐに食べ終わってしまった。
「良かったわ。その食欲ならもう問題ないわね」
碗を片付ける永琳に、てゐは気になっていた事を尋ねた。
聞けば自分が苦しむことになるのは分かっている。それでも聞かずにはいられない。
「あの、永琳様。竹林に出たっていう妖怪は……どうなったんですか」
「妖怪? もしかしてウドンゲから聞いてなかったの?」
「鈴仙から聞いたのは妖怪が出たことだけだけど」
すると永琳は鈴仙の方を向いた。
「教えてなかったの?」
問い詰めるような口調の永琳に、鈴仙は慌てて否定の言葉を口にする。
「言おうとしたんですけど、先に寝たいって言ったから。帰ってきたときに言いましたけど
……あの様子じゃまともに聞こえてなかったかもしれません。言ってない訳じゃ無いですよっ」
「そんなに全力で弁解する必要はないんじゃない?」
「あのさ、今ひとつ話が見えてこないんだけど」
てゐには二人が一体何のことを話しているのかさっぱりだ。
置いてけぼりをくらうというのは、あまりいい気はしない。
「もう妖怪はいないわ。あんまり暴れられても困るからお暇してもらったのよ」
永琳は朗らかに言ってのけているが、その内容はかなり物騒だ。
しかしそんな話にはたいして驚きはしない。至極“当然”のことなのだ。
だがてゐにとって驚くべきことは、次に鈴仙が話すことにあった。
「それともう一つ、その時にね……」
『兎が泣いていると、通りがかった神様が救いの手を差し伸べてくれました……』
☆
それから数日後の人間の郷。
永琳はいつものように薬を売るためにやってきていた。
その共は風邪の治った鈴仙――ではなく、またてゐであった。
今度は強制ではない。彼女が自身の意志で付いてきたのだ。
それを永琳に茶化されもしたが、何を言われてもてゐには来るべき理由があった。
その理由とは――
「あ、あの時のお姉ちゃん」
てゐをお姉ちゃんと呼ぶのは、あの竹林で出会った子供だった。
彼は死んでなかったのだ。正確には死にかけただけ。
妖怪を退治しに行った鈴仙達は、彼が襲われているところに偶然出くわしそこで助けたのである。
てゐが村に行ったときはまだ永遠亭で傷の手当てを受けていて、
ちょうど入れ違いになってしまい彼が生きていることに気づけなかったのだ。
それを聞いたてゐはどっと体から力が抜けてしまった。
自分は救われたのか、いや赦されたのか。ただほっとしたことだけは確かだった。
「今日はどうしたの?」
「えと……その、これ」
てゐは子供に袋を差し出した。
それを永琳は微笑ましげに見つめている。
「わぁっ」
渡された袋の中を見た子供は歓喜の声を上げた。
そこに入っていたのは季節外れの筍。
てゐが手下の兎達に竹林中を探させて見つけたものだ。
「ありがとう」
子供はにっこりと微笑みを返した。
「まったく、貴方らしくないじゃない」
「放っておいてください」
用事を済ませるとてゐは、すぐにその家を後にした。
その様子を一部始終見ていた永琳は、終始口元が笑みの形のままである。
てゐは本来の目的を隠すためにわざわざ付き添いを名乗り出たのだ。
この笑みを見ればわかるが、永琳にはばれてしまっているのだろう。
「今日のことは絶対に内緒ですからね。特に鈴仙なんかには言わないでくださいよ」
「はいはい、わかってるわよ。また手伝ってくれるんでしょう?」
弱みとして握られても仕方がない。
だが今のてゐにとっては、そんなに気にすることではなかった。
なんだかとても清々しい気分で、苛立ちなど微塵も湧き上がってこない。
「永琳様なんて、だいっきらいです」
べーっと舌を出して、駆けだしていくてゐ。
秋晴れの空に彼女の笑い声が響いた。
因幡の素兎。
あたしはあんたを嗤ったけれど、あんたも今のあたしを見たら笑うのかしら。
でも今ならあたしだって、あんたに向かってちゃんと笑えるわ。良かったねって。
だって、手を伸ばせば必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれるってわかったから。
《終幕》
王道なお話なのですが、文章とてゐの心理描写の見事さで完全にひきこまれました。久しぶりに涙腺が緩むお話を読んだ気がします。ありがとうございました。
>たまにはてゐが素直でも良いと思うのです
あれ、私はいつもそんなイメージを持っていますけどww
ただ…ただ一言言うなれば…ネタかぶったうわーん!!ごめんなさい。
このくだりでグッときた。因幡の素兎の解釈やてゐの心情描写が巧みですねぇ…
>お話が見事にツボでした。
>久しぶりに涙腺が緩むお話を読んだ気がします。
そう言ってもらえると書き上げた甲斐がありました。
一人でもこういった方がいてくれると嬉しいものですよね。
>ただ一言言うなれば…ネタかぶったうわーん!!
謝ることではないかもしれませんがこちらこそ申し訳ない。
こればかりは仕方のないことですね。私も幾度となく……
>なんですか、このてゐのツンデレっぷりはw
それがこの話を思いつく切っ掛けだったのですよ。
気に入っていただけたようで何よりです。
>このくだりでグッときた。
自分でもお気に入りの部分ですね。
我ながら上手いこと思いついたものですw
>しかし知れば知るほど嫌いになるというてゐの本性を書いた作品も見てみたく思う今日この頃。
私の思うてゐの本性はこんな感じですね。
何故嘘付きな性格になったのか。それを考えていくとこんな話に。
ですが氏の仰るような話も有りかもしれませんね。
>救われる話って良いよなぁ…
プロット段階では、もっと救いがなかったりします。
子供は死んでしまってて、その母親の死にも直面したり。
一応フォローしての最後は考えてましたが、あまりにも書くのに抵抗がw
やっぱりハッピーエンドにしてしまいます。
たまには反動で救いのない話を思いついたりもしますが、結局はこんな感じにw
コメント、ご評価ありがとうございました。
やっぱり「めでたしめでたし」で終わってこそ…ね(笑