晩秋。
やがて来る冬を予感させる、秋風の冷たさ。
老いが、すぐ側にまでやってきていた。
気がつくと、それが肩に手をかけ、骨の指を肉に食い込ませていた。
いつからだろうか。
日々欠かしたことのない鍛錬でさえも、肉体の衰えを隠せなくなってきたと知ったのは。
かつては外科医も恥じ入るであろう繊細な指の運びが、意識を集中しても細かく震えるようになってきたのは。
昔は楽々と持ち上げていた庭師の道具類を、いつの間にか腰に気をつけながら運ぶようになっていたのは。
誰にも分からない。
けれども自分が一番よく分かっている。
ほんの少しの枝の曲がり。
ほんの少しの切り口の歪み。
それがいよいよ、欺けなくなってきた。
――一葉落ちて天下の秋を知る――
妖忌は驚き、そして嘆息した。
「老いるとは――かくも辛きものかな」
自室の窓から、外を眺めた。
目を凝らせば、風に揺れる紅葉の一枚一枚は見て取れる。
まだ、かろうじて使い物にはなる。
書棚より和綴じの書を手に取り、おもむろに頁をめくる。
軋るほどに奥歯をかみ締めた。
所々がかすんで見える。
そんなことはない、と思いが否定しても、自分のどこかが納得している。
いずれもっと、見えなくなることだろう。
やがては、遠い景色も目に映らなくなることだろう。
自分が精魂を傾けてきた庭師という職を、辞さねばならなくなる。
無常迅速という語が、秋風と共に骨身に沁みた。
瞑目したまま、妖忌は思いをめぐらせた。
卓上に置かれたほうじ茶が、だんだんと冷めていくことにもかまわない。
どうしたことだろう。
今まで忘れていたことが、次々と脳裏に蘇る。
それは全て、自分の若い頃の思い出だった。
「…………昔の貴方はね、とても強くて凛々しくて、素晴らしい若者だった……」
あの隙間妖怪の言葉が、心を揺さぶる。
そうだ、自分はあの時は若かった。
鏡に映る若者の姿そのものだった。
血気盛んで、若さに満ち溢れ、この世の春を謳歌していた。
自分が道を歩けば、心を奪われぬ女人などいるはずがない。
自分が刃を握れば、退けられぬ敵などいるはずがない。
そんな、愚にもつかない自信に横溢とし、意気揚々としていた。
そして事実、そうだった。
己の自信は実力に裏打ちされたもの。
己を阻むものなど何一つなく、己の手に入らぬものなど何一つなかった。
剣の道に剣豪・魂魄妖忌の名は轟き、いかなる道場主も彼が門口に立つだけで震え上がるほどだった。
武者修行の旅に身を任せていたが、金に困ったことなどついぞない。
用心棒などしなくてもいい。ちょいと土地の道場に立ち寄り、型を見せてやれば師範から稽古代として多額の金子が手に入った。
実際は、自分のような異端の強者など早く消えてもらいたかっただけだろう。
だがそんな名声など、すぐに飽いた。
自分を取り巻く女たちにも、それよりさらに早く飽いた。
つまらぬ。
下らぬ。
失せよ。
少し剣を取るだけで名声は土下座して這いつくばり、少し目を向けるだけで女たちは彼に媚を売った。
退屈に、蝕まれていた。
驕慢に、溺れていた。
己が世界の中心であり、神仏さえも己を止められぬと自惚れていた。
何と愚かしく、何と未熟。
だがそれでも、あの時は若く、率直に認めれば楽しかった。
そう。懐かしむほどに、あの日々は楽しかった。
けれども、白玉楼を戯れに訪れたその日から、全ては変わった。
一人、思う。
あの日よりずっと、この白玉楼が自分の家であり、自分の世界であった。
ならば。
この年まで、自分は一体何をしていたのだろうか。
何を得た?
何を学んだ?
何を覚った?
答えは出てこない。
老いた身は、彼に初めて心細さというものを教えた。
迫る死という無慈悲な収穫者の大鎌が、喉元にかかっている。
時が迫っている。けれども自分には準備が出来ていない。
不安という今まで一度も味わったことのない感情に、妖忌は震えた。
我独覚成らず。
この身は三界に惑い、
この心は一念無量劫に囚われたまま。
「――――無念」
自分はここにいるべきではない。
我が身の不甲斐無さに、妖忌は己で己を処断しようとした。
枯れ、老い、衰えていく自分。
そんなことは知ったことではない。
勝手に枯れ、老い、衰えた果てに朽ちて屍を晒すがいい。
死体は鳥にでもくれてやる。それを最後の功徳にでもしようか。
だが。
この白玉楼は別だ。
自分の主たる幽々子と、跡継ぎである妖夢は別だ。
彼女たちは守らねばならぬ。
枯れ、老い、衰えた自分が、自らの大切なものを諸共に傾けさせることは許せなかった。
彼の生活は変化した。
最も、余人にはその変化など見抜けなかったことだろう。
今までの厳しく激しい気性は鳴りを潜め、その代わりにゆっくりと静かに全てを見守る目が培われた。
寡黙だった彼はさらに無口になり、時間をかけて念入りに庭の手入れに励んだ。
妖夢には「最近怒られることが少なくなったかな」という程度だったが、幽々子は何かを感づいていた。
風が止み、太陽が人も落ち葉も分け隔てなく暖める日のこと。
二人が庭を歩いていると、妖夢が一本の枝に目を向けた。
細くてひょろひょろとした一本の枝だけが、全体から飛び出しているように見えないこともない。
伐り残しだろうか。と妖夢は首をかしげた。
どうもそう見えるが、もし伐り残しだとしたらあまりにも目立ちすぎるものだった。
「師匠も、時にはうっかりすることがあるんでしょうか?」
どこかで妖忌が耳をそばだてているのではないか、と思っているらしく、恐る恐るといった調子で妖夢は幽々子に尋ねる。
「さて、どうかしらね」
幽々子は苦笑しただけだった。
彼女の見当違いの考えがおかしかったからだ。
それは確かに、今は伐り残しに見えることだろう。
けれどもやがて成長すれば、きっと見事な枝振りを見せるに違いないことを、幽々子は知っていた。
今までも、それとなく目立たない形で妖忌はそうしてきた。
妖忌の差配により、思いもかけぬ所から枝が伸び、美しい外観を見せた木は何度も見てきた。
でも今回のように、はっきりと妖夢の目にも、その気配りが分かるようなことは初めてだ。
それが何を意味しているのか。
時間をかけてゆっくりと、木の形を導くことがもう出来ないというのか。
まるで、自分は最後までこの木の剪定が出来ないとでも暗示しているような。
全てを幽々子は胸のうちに収め、妖夢には何も教えることはなかった。
大枝から外れた、細い小さな小枝。
その不安げな姿は、どこか目の前にいる半人前の庭師の姿と重なって見えた。
雪解けも終わりつつある春先。
人間の住まう里に居を構える上白沢慧音は、珍しい客を迎えた。
来客を告げる童女の顔に、どこか緊張したようなものを感じながら、彼女は読んでいた『黒の剣の年代記』もそのままに腰を上げた。
「どちら様かな」
「あの……庭師のお爺様がお見えに…………」
「ほう、ご老体がか。珍しいこともあるものだな」
いそいそと慧音は客間へと向かった。
合間に帽子や胸元のスカーフに手をやり、服装がどこも乱れたりはしていないかと確認しながら。
彼とは知らない仲ではない。
もとより生真面目で博識である彼女と、実直かつ勤勉な妖忌とは親交があった。
彼に何度か園芸関連の本を貸し出したこともある。
その本はきっかり期限の日に、しかもお礼の手紙と少量の和菓子と共に返されてきた。
礼儀をわきまえられたお方だ、と慧音は妖忌を尊敬してもいた。
そんな彼が、どのような用事なのだろうか。
いつものように、彼は客間で座布団の上に正座していた。
その見事な姿勢に、内心慧音は賛嘆する。
「お久しぶりです。ご老体」
「うむ」
いつもよりも挙措に気をつけながら、対面に置かれた座布団に自分も腰を下ろす。
真正面から向かい合う形となった。
しばしの沈黙。
「うむ」と一度頷いたきり、彼は何も言ってこない。
これは何だろうか。こちらから促すべきなのだろうかな。
しばらく逡巡した後、慧音は尋ねた。
「して、此度の御用の趣は」
妖忌はどう切り出したものか、考えあぐねているかのようだった。
この老人が悩むところなど、慧音は始めて目にした。
だが、やがて沈黙は破られる。
「白玉楼を、発つことに決めた」
「左様ですか」
重い鐘が響くかのような響きと、その内容とを慧音は厳粛に受け止めた。
一度だけ頷く。
「いささか、寂しくなりますね」
「否。枯れかけた枝など、気にも留めぬがよろしい」
「枯れかけた枝には、枯れかけたなりの風情がありますゆえ」
「いつもながら、某には過ぎたるお言葉。痛み入る」
「いいえ。私に出来ることは、貴殿のことを忘れぬことくらいでしょうから」
慧音は彼の気性を知っていた。
一度決めたら、てこでも動かないような頑固さをよく理解していた。
もしかして、少しだけ引き止めてもらいたかったのだろうか。
一瞬だけ愚考する。
まさか、と否定しつつも、万象を理解する白澤の精神はぼんやりとそうかもしれないと告げているような気がした。
人も、妖怪も、その中間も、皆老いれば一様に弱くなるのか。
ただ、自分よりも目の前の庭師が早かっただけのこと。いずれ自分にもその日が訪れよう。
それが呪いなのか、ある意味での救いなのかは、慧音にも分からなかった。
ただ彼の心意気を斟酌して、「寂しくなります」としか言えなかった。
「忘れぬ」と言った。
知識を操り、歴史をも手玉に取る白澤の、それははなむけの言葉だった。
「いつ頃、ご出発されるおつもりですか」
「恐らくは、春頃となることだろう。長旅になるであろうからな。暖かくなってからが程よい」
「成る程。それで、どこまで行かれるのでしょうか」
「さて」
妖忌は鷹揚に首を横に振った。
「行くあてなどござらぬ。一つ、風媒花の心地に身を任せてみるつもりだ」
「左様ですか」
もう、彼はここに帰ってくることはないのだろう。
それが今、はっきりした。
無骨なお方だ、と慧音は思う。
皆に迷惑をかけることを潔しとせず、一人で消えていってしまうのか。
年老いるという自然なことが、どうして迷惑なことであろうか。
たとえいくらこちらがそう論じたところで、彼の決意は揺るぐまい。
どこまでも独りで歩いていき、やがて消えていく老いた背中。
その姿は、慧音には言い尽くせぬほどに寂しげなものに映った。
「一つ、昔話をさせてもらってもよろしいだろうか」
不意に、妖忌が切り出した。
「謹んで傾聴させていただきます」
敬意を表して畳の上に手をつき一礼。
だが内心では驚いていた。彼が自分のことを語ることなど、今まで一度たりともなかったからだ。
何から何まで、初めて続きだな。
しかし慧音はどこか嬉しく感じた。
目の前の老人が、自分には過去を明かしてくれるという事実が、誇らしかった。
「某は、年若くして武者修行の旅に出た」
妖忌はゆっくりと、かみ締めるように語り始める。
「愚かな若造であった。たまさか天より幾分の剣の才を賜ったばかりに、己が世で比類なき男児であると思い込んでおった。
されど、どのような神慮か、天はそんな某の鼻っ柱をへし折ることはされなかった。恐らく、へし折る価値さえなかったのであろう。
某は一刀を友に放浪し、立ち向かうものならばいかなる人も妖怪も倒し、目に付くならばいかなる道場も破ってきた」
慧音は言葉少なに語る彼の声に耳を傾けていた。
このいかめしい巌(いわお)のような老人に、そんな血気にはやる時があったというのか。
彼女は目を閉じる。
瞼の裏に、若き日の妖忌の姿が目に浮かぶかのようだった。
長刀を肩に堂々と、己を阻むものなど何もないと誇示するかのように、喧騒の中心を闊歩する若く凛々しい剣客の姿が。
あたかも無双の剣豪宮本武蔵。
あるいは不世出の剣客伊藤一刀斎。
もしくは剣聖と謳われた千葉周作。
それとも彼の『燕返し』の剣士佐々木小次郎か。
自分がもしそのときの彼と出会っていたらどうだろうか。
成る程。女性たちはさぞかし彼を放っておかなかっただろうな、と苦笑。
「この世をば我が世と思う境地であったが、あるとき転機が訪れた」
目を開け、彼女は現実へと立ち戻る。
「某は、酔狂で白玉楼を訪れた。深い意味などなく、主に剣でも披露してしばし居候でも決め込むつもりであった。
だが、そこの主、一人の姫君はおっしゃられた」
『――そう。貴方は、向かう全てを斬ってきたという。ならばこの私に見せて頂戴。
私たちの上に遍く広がる、この天を斬ることが出来るかどうかを――』
「――まこと、青天の霹靂であったわ」
小さく妖忌は白髯の奥で笑う。
「己は剣か弾幕ならば、人も妖怪も、いや神仏さえも薙ぎ払って見せようと豪語していた。
されど、自然は、大地は、蒼穹は斬ることなど出来ぬ。
初めての屈辱であった。
何も出来ぬ恥辱と共に引き下がり、遮二無二腕を磨いた。何としても、あのこましゃくれた姫君を見返してやろうとな。
畢竟腕はさらに上がり、もはや某に挑む輩は絶え、某は最強の名を欲しいままとした。だが、ある時ふと空しくなったのだ」
自らと世界との間に広がる、何と大きな開きよ。
剣に身を捧げても、天地万物は何も変わらぬ。
天象悠久。地象永劫。
空に刃を届かせようとしても届かず、初めて己は空虚の意味を知った。
「そして、某は白玉楼の庭師となった」
世俗より離れて幾星霜。
老骨の最後の酔狂と、旅に出ることに決めたのだ。
そう、妖忌は締めくくった。
長い年月を、端的な言葉にまとめた思い出話だった。
慧音は静かに笑った。
「安心召されよ、白玉楼の庭師殿」
彼女は立ち上がる。
障子を開くと、外の景色が目の前に開ける。
まだ寒さに震える人里。
所々の家からは、竈を使う煙が立ち上っているのが見える。
時の流れからはずれ、澱みのうたかたにまどろむ幻想郷。
その名に相応しい風景が広がっていた。
「ご老体、どうぞ世界を見て回られよ」
慧音は一瞬だけ、本来は満月のときにしか感じられない白澤の本性を感じた。
悠久の時間を黙考して過ごし、森羅万象の歴史を観察してきた白澤の知恵が、言葉を彼女に語らせる。
「若き時分には斬っても斬れぬと思えたものが、いともたやすく変わってしまったのを見て安堵されよ」
〈続く〉
妖忌のこれまでの経緯についても、始めと終わりが書かれているだけで、一番大事なはずの過程の部分がまるっと抜け落ちていて、肝心なところで肩透かしを食らったような。
いきなり「庭師になった」とか言われても困ってしまいます。
幽々子とどういったやりとりがあったのか、いきなり「住まわせてくれ」「いいわよ」じゃあ面白くありませんし、そういった部分をもっと見せてほしかったな、と。
時間の経過にしても、そこまで急いで時計を回す必要があったのかと思う部分がちらほらと。
時間は飛んでる割に、話はあんまり進んでなかったり。
そして、これから最後に向かうにしてはあまりにも引きが弱い。
こういった話ではストーリーに起伏がそれほどないものですが、それでも次にかける期待感というものが持てませんでした。
長いから分ける、というのは確かに読者の事を考えた事ではありますが、折角分けたのですから、次へ、次へと引き込ませる何かを出してほしかった、そんな我侭を。
あ、前編でも言ってますが、話は好きです。だからこそ。
私からすればここは妖忌の精神の変容を追って描いている部分であって、庭師になる過程のやりとりなどは書いても蛇足にしかならないだろうと感じました。