これは、博麗神社の巫女が冥界を訪れるよりやや前の話。
これは、まだ白玉楼に庭師が二人いたころの話。
これは、魂魄妖夢がまだ幼く、その師が健在だった頃の話。
いずれ時の流れに消えてしまうであろう一人の老剣客の物語を、ここに記す。
「剣とは、一言で言うとどういうものなのかしら?」
ある朝のこと。白玉楼の主である西行寺幽々子はそう尋ねた。
季節は春の初め。見ごろになれば天地をその一色で埋め尽くすであろう桜は、まだそのつぼみをやっとふくらませた頃だ。
開け放たれたふすまから、朝の光が座敷へと差し込んでくる。
柔らかな風が吹くと、壁にかけられた「厭離穢土」「欣求浄土」と墨痕鮮やかに書かれた掛け軸がかすかに揺れた。
彼女がそんな何気ない疑問を投げかけたのは、下座に座る一人の老人に対してだった。
枯草色の羽織袴をきちんと着こなし、座布団の上に背筋を伸ばして正座する彼の姿からは、このようなくつろいだ場所でありながらも一部の隙も感じられない。
職人が鑿の跡も荒々しく残した木彫りの像が、そこに鎮座しているかのような雰囲気だ。
白髪白髯の老人は魂魄妖忌という。
この白玉楼の庭師にして、幽々子の剣の師範。そして未だ半人前である魂魄妖夢の師匠でもある。
言葉を発してから、幽々子は視線をふすまの向こうから、彼の方へと向けた。
常に何かに苦悩し、解けぬ命題をひたすら熟考しているかのような妖忌の表情には、何の変化もなかった。
一秒。二秒、三秒が流れ、そしてさらに六秒、七秒と沈黙が時を刻む。
やがて、妖忌は深く身を折り、黙礼した。
たっぷりと時間をかけてから、面を上げる。
その目が幽々子と合った。
そして、彼は何事もなかったかのように立ち上がった。
無言のまま、妖忌は幽々子のいる部屋を後にし、自分の仕事へと戻っていった。
彼の仕事は沢山ある。
二百由旬にも及ぶ広大な庭を、丁寧にかつ丹念に見て回る。
草を取り、虫を除き、病気にかかっていないかどうかを確かめる。
曲がった枝を直し、飛び出た葉を伐り、黙々と己に課せられた仕事に取り組む。
太陽が中天を過ぎた頃に屋敷へと戻り、妖夢の作った食事に箸をつけた。
食後は再び庭へ。はしごを出して桜のつぼみを観察し「今年はいつもよりも開花は遅いと思われます」と幽々子に告げた。
夕刻。
玉砂利の敷かれた縁側にて、妖夢の稽古を指南した。
指南といっても、彼は何一つ言葉をかけることはない。
ただひたすらに、剣舞を行う妖夢の姿を目で追うだけだ。
足捌き。太刀を持つ手と指。振るわれる白刃も、飛び交う弾幕も、その尽くを彼は二つの眼(まなこ)に逃さない。
大小を納刀し、正座して礼をする妖夢に告げる。
「未熟」
そして。
「迷妄」
さらに。
「以上」
とだけ。
伏して顔を上げない妖夢をその場に残し、彼は背を向けて奥へと入る。
食事の時間となった。
焼き魚と山菜の胡麻和え、それに香の物に飯という質素な夕餉に箸をつけた。
節くれだった指で箸を使い、器用に魚の身から骨のみを取り除き、骨の間に挟まった肉も箸先で取り出し口に運ぶ。
皿を空にし、茶碗にも飯粒一つ残さずに食事を終える。
一礼して自室に引き下がった後は、灯火の元書庫にあった古書の類に目を通す。
日付が変わる頃に就寝。
何も変わることはなかった。
いつもと同じ、何も変わらない一日が繰り返されただけだった。
そして、朝。
毎度ながらの健啖振りを発揮して朝食を終えた幽々子と、妖忌は向かい合う。
開け放たれたふすま。
朝日と共に部屋へと流れ込んできた風が、「健康第一」「食欲増進」と墨痕鮮やかに書かれた掛け軸を揺らす。
昨日と全く同じ対面が繰り返される。
「よく分かりました」
しかし。
上座に座す幽々子は、そう言って確信したように頷いた。
それは、昨日の問いに妖忌が答えたということなのか。
どうやって?
彼女の問いは空気に溶け、妖忌は何一つ答えずに彼女の元を去ったというのに。
何一つ変化のない、まるで幽々子の問いなど耳に入らなかったかのような妖忌の態度から、彼女は何を読み取ったというのか。
そして、妖忌もまた頷いた。
何一つ表情を変えず、
「以上」
とだけ告げて。
夏の陽がゆっくりと沈む。
山の稜線を黄昏の黄金色よりもほんの少し赤い色が染める頃。
焼け付くような暑さがほんの少し安らぎ、やがて降りてくる夜の先触れとなる。
人は一日の労苦と共に家路へと向かい、夜行性のあやかしたちはそろそろねぐらで目を覚ます頃。
逢魔が時とは言えど、実際には互いに出会ってもすれ違ってしまいようなのんびりとした空気が、幻想郷を覆っている。
そんな夕刻のこと。
里から離れた山のふもとに、一軒の廃寺がある。
住職も身罷り、檀家もいなくなったまま、風雨にさらされ廃屋と化した寺だ。
人里からは離れ、かつ妖怪たちの住まう山林でもない境界線上の建造物。
その境内が、妖夢の稽古場だった。
境内に立つのは彼女一人。
しかし、本堂に続く階段の最初の段に、もう一つの人影が立っている。
妖忌だ。
鞘に収めた一刀を地面に突き立て、その柄頭に両手を重ねている。
若者でもこうはいかぬと思えるほどに真っ直ぐに伸ばされた背筋。
雪のように白くなった眉の下、老いた鷲か鷹を思わせる両の目はただ妖夢だけを見ている。
睨み据えているかのような鋭いまなざし。
かすかに怯えを感じつつも、妖夢は一礼する。
頭を上げる。
小さく、彼の顎が上下に動いたような気がした。
それを合図とする。
抜刀。
小柄な妖夢にはいささか大きすぎるほどの白刃が、鞘から閃くように姿を現す。
片手に白楼剣を、もう片手に楼観剣を。
両の手にゆるく握り、静かに交差させて身構える。
さして広くもない境内に、刀身の放つ霊力が満ちる。
演舞の始まりだ。
振るう。
腰を落とし、摺り足で、体重をかけて半ば押し切るようにして長大な刀を妖夢は振るう。
風を切る音が、耳に届く。
すかさず左手が続けて振られ、体勢を崩した仮想の相手にさらに斬りつける。
ずっと昔から、ひたすら体に叩き込んで覚えた演舞の一挙一動。
それをただ忠実に実行し、なぞり、形とする。
この演舞のみが、妖夢と師匠を結ぶ唯一のものだった。
妖夢は生まれてこの方、師匠と切り結んだことなど一度たりともない。
まだ幼かった頃。その頃はそれでも手取り足取り教えてもらった。
姿勢。足の運び。剣の握り方。
細かなところまで教えられ、間違えるととそこが無言でぴしりと打たれる。
そんなに痛くはないけれども、打たれるのが嫌だから正しい形を覚えようとした。
やがて、刀を抜いて構えを見せても、妖忌の手がどこかを打つことはなくなった。
それから後、妖夢は彼に触れられたことがない。
今自分がしているこれとて、見て覚えたものだ。
「これより型を見せる」
ある時、妖忌にそう言われた。
「よく見て覚え、尽く己のものとするべし」
言われるがままに、幼い妖夢は目を凝らし、彼の姿を焼き付けようとした。
「えぇいッ!」
演舞は一刀によるものへと移行した。
掛け声一つ。
力強い踏み込みと共に、大上段から刀を振り下ろす。
白刃にまとわりつく霊力が、牙をむく蛇のようにして唸る。
妖夢の半身である人魂さえもが、その霊力に酔いしれたのかうねるような動きを見せる。
妖忌の演舞は重々しく、静かで緩やかなように見えてその実激しく苛烈なものだった。
女の妖夢にはどんなに努力しても手に入らない、仁王の如き筋肉の盛り上がり。
それが彼の力の源だった。
妖夢が比重の軽い水ならば、妖忌は重い水銀のようなものか。
妖忌の一つ一つの動作はゆっくりとしていても、まるで無駄がなかった。
空を切り裂くかのような刀身からは、秘められた膨大な力を感じた。
地面を踏みしめる両の足からは、しっかと根を張った大木のような安定を見て取った。
何処を見ているのかも分からないその目からは、いないはずの仮想の敵の姿を見たような気がした。
残心。
納刀。
そして一礼。
完成された一つの美が、そこにあった。
その日から、長い模倣の日々が始まった。
妖忌の動きを懸命に追いながら、ひたすらまねる日々。
「否」
剣を握ったとたんに言われた。
「否」
構えを取ったとたんに言われた。
「否」
一振りしたとたんに言われた。
「否」
「否」
「否」
「否」
数えることさえも馬鹿馬鹿しいほどに言われても、どこが違うのか分からず、懸命に考え、必死に見てまねようとした。
弟子が辛くて唇をかみ締め、悲しくて涙さえ流しても、師匠は「否」と言い続けた。
なにくそ、と思って妖夢が剣を取っても、それでも妖忌は「否」と言い放った。
でも、いつの頃からだろうか。
「否」という言葉を耳にしなくなったのは。
そして今。
溜まりに溜まった霊力が爆発した。
対を成す雌剣を再び引き抜く。
弾幕が空間に踊る。
二本の刃の軌跡が白く染まり、そこから次々と放たれる楔形をした霊力の結晶。
六道を象る弾幕。
「地獄」
「餓鬼」
「畜生」
「修羅」
「人間」
そして「天」。
衆生のさまよう迷界が、剣の動きによって象徴される。
ここから先は、妖夢独自のものとなりつつあった。
妖夢の渡された白楼剣と楼観剣は霊験あらたかなもので、妖夢の霊力を速やかに弾幕の形へと具現する名刀だ。
しかし妖忌の腰の大小は確かに業物だが無銘であり、何の霊験もない。
このようなある意味派手な弾幕は、妖忌の属性ではない。
けれども妖忌は、妖夢に弾幕を教えた。
体の小さく非力な妖夢には、こちらの方が得意だろうと踏んだのか。
「天星剣――――」
突如、弾幕が消え、全ての霊力が一本の刀に収束する。
「――――涅槃寂静の如し」
刹那。
一閃。
百なる狭間の一部の琴線。
微塵の彼方のほんの瞬き唯一つ。
空気が炸裂し、全方位に縦横無尽に駆け回る弾、弾、弾の暴風。
形あるもの一切を切り裂き、形あるもの一切を穿ち、決して逃がさずはずさない必殺の弾幕が空間を一瞬で彩った。
それが、演舞の終焉を告げる。
残心。
納刀。
妖夢は静かに、身動き一つせずに全てを見守っていた師匠のところに歩み寄る。
大小を地面に置き、正座をして深々と平伏する。
面を上げなくても分かる。
妖忌の目が、こちらを見た。
じっと、伏せたまま妖夢は彼の言葉を待つ。
じっと、ただ伏せたままに。
「未熟」
彼の乾いた重たい声が、耳に響く。
「迷妄」
ああ、いつもと同じだ。
もう妖夢は、「否」と注意されることはない。
妖忌は一連の動きを、怖いほどの沈黙を持って見ているだけだ。
全てを終えて礼をする妖夢にかけられる言葉は、いつも同じもの。
「未熟」「迷妄」
そして。
「以上」
妖忌が背を向けた気配がした。
階段を登る音がした。朽ちかけた本尊に、ここを使わせていただいた感謝を込めて手を合わせに行くのだろう。
ゆるゆると妖夢は立ち上がった。
大小を重たげに取り上げて腰に差し、目を上げる。
妖忌の広い背中が目に映った。
――いったい、私の何が足りないんだろう――
――どうすれば、師匠に認めてもらえるんだろう――
妖夢はいつもそう思う。
けれども、そんなことはとても妖忌に尋ねることはできなかった。
尋ねたところで、「不心得者」と一喝されるだけだろう。
自分が、自分で考え、自分の答えまで至らなければならない。
分かっていても、まだ少女の妖夢には、目の前に続く「一人前」への道程は果てしなく思えるものだった。
かすかなため息を一つつき、彼女は自分の師匠の背中を追って階段を登り始めた。
何一つ変わらない、何も縮まらない、師匠と弟子がそこにいる。
季節は巡る。
秋が来た。
庭師にとっては忙しい季節である。
掃いても掃いても、後から後から枯れ葉は木から落ちてくる。
怠惰な庭師ならば愚痴の一つでも言って不貞寝でもするところだが、生憎と白玉楼の庭師はそんなこととは無縁だった。
枯れ葉が次々と落ちてこようが、仕事が増えようが文句の一つも言わなければ嫌そうな顔一つしない。
丁寧に。愛着も執着もないが、しかし確実にかつ堅実に妖忌は庭を掃く。
枯れ葉など些細なことといった風情だった。
しかし、その休むということを知らないかに見える妖忌も、今日は一人で腰を下ろし休息していた。
離れの縁側に腰を下ろし、腰のものの手入れをしている。
向こうからはどんちゃん騒ぎの喧騒がかすかに聞こえてくる。
楽器の演奏も聞こえてくることから、どうやらプリズムリバー三姉妹も宴会に加わっていることだろう。
静謐を好み、騒音を嫌う妖忌が加わらないのもむべなるかな。一人でも十分やかましいのに、三人が集まれば姦しいどころではなくなる。
昼頃に白玉楼に押しかけて来たのは、隙間妖怪の八雲紫とその連れたちだった。
久しぶりの来客に喜ぶ幽々子と共に、あっという間に庭で酒宴となだれ込むのを見て、妖忌は早々に退散した。
隙間妖怪にはそれなりに感謝はしている。
死者の集う冥界にまで、結界を掻い潜って来られるものなどそうはいない。必然的に来客は減り、幽々子も暇を持て余すこととなる。
しかし、彼女ほど強大な力を持つ妖怪ならば、さしたる苦労もなしに白玉楼まで直行できる。
紫は幽々子のよき友人、いや隣人といったところだ。
しかしのんびり屋、いや端的に言ってしまえば惰性で生きているように見える彼女である。
こうして顔を合わせれば即酒宴という自堕落な流れは、妖忌の好むところではない。
そもそも、真昼間から酒を飲む神経が、妖忌には考え難い。
彼は酒は殆ど飲まず、煙草の類には一切手をつけたことはない。
妖夢と妖狐の悲鳴が聞こえる。なにやら芸でもやらされているのか。
それを押し留めようとしている猫又の必死の説得。
だがどうやら、さっさとおやりなさいとけしかけているのは幽々子らしい。
一体何を妖夢たちにやらせようとしているのか。
聞くともなしに妖忌は注意をそちらに向けた。
そちらに向けたゆえに、一瞬だけ「それ」の出現を見逃していた。
「お久しぶりね。妖忌」
妙に親しげな声が耳に届き、そのとき初めて彼は自分以外の何者かがこの離れにいることに気がついた。
「久しゅうございます。八雲殿」
無銘の愛刀を鞘に納め、妖忌は縁側に座ったまま首をそちらにやる。
空間に開かれた隙間。
奇怪な亀裂に見えるそこからは、得体の知れない異形のモノの目のような器官がぎょろぎょろとこちらを睨んでいる。
そして、その隙間から上半身を覗かせた女性。
幼い少女のような、途方もなく齢(よわい)を重ねた老女のような。
無邪気に笑っているような、侮蔑を込めて哀れんでいるような。
純粋なる人のような、比類なき魔のような。
相反する感覚を一つに合わせた、法と混沌の境界線上に遊ぶ逆理の眷属。
八雲紫だ。
「どうしたのかしら。宴の席はまだ十分空いているわよ」
不協和音を重ね合わせたような紫の声。
慇懃無礼の極致とも言うべき声だ。奇妙に心をざわつかせ不安にさせる。
「某(それがし)、招かれておりませぬゆえ」
「なら、私が招いてあげる。こちらにいらっしゃいな」
「結構にございまする」
「あら、つれないのね。招かれていないって言ったから招いてあげたのに」
「お言葉痛み入ります。されども、このような老いぼれが末席に着いたところで、興を冷ますのが関の山。
お心遣いのみ、ありがたく頂戴致す次第」
這う蟲の群のように迫る紫に、妖忌は正論のみで応じる。
「八雲殿の方こそいかがなされました。何か、手前どもに非礼がありましたでしょうか」
「ううん。いつもどおり楽しませてもらっているわ。今はね、うちの藍とおたくの妖夢と二人でリンボーダンスをやらせているの。
すごいわよ。ちょっとだけ削った髪の毛で支えた刀を、棒代わりに使っているんだから。二人とも真剣そのもの。まさに肉体の限界への挑戦ね」
刃の下を無理やりくぐらせるとは、どこの拷問方法だろうか。
ダモクレスの剣を地で行くけったいな遊びとしか言いようがない。
「左様でございますか」
「ご感想は?」
「『死中に活を求む』の境地にございましょう」
とても正気とは思えない紫たちの楽しみ方にも、妖忌は真顔で応じる。
もとよりこの戯れが主である幽々子の趣向ならば、仕える妖忌には反論する理由がない。
藍の悲鳴。さらに刃が低く調整されたのか。
妖夢はどうやら半泣きのようにも聞こえる。
情けない。もう根を上げたのか。
「あらそう。それだけなんだ」
「口下手ゆえ、お許しくだされ」
妖忌の反応に、明らかにがっかりしたような様子を見せる紫。
やはり挑発だったのか、と妖忌は理解した。
なぜかは分からない。だがどうやら紫はこちらを推し量っている。
わざとこちらの気をかき乱すようなことを言って、何かを得ようとしていたのか。
実際、紫はまだ帰らなかった。
よっこらしょ、といささか年寄りじみた掛け声と共に下半身を完全に隙間から引っこ抜くと、畳の上に降り立った。
ちゃんと履物は脱いであるところは用意周到だ。
「何用ですか」
「ふふふ。たまには貴方とお話したいかな~、な~んて思ったりして」
「某よりも幽々子様の方が、よほど優れた話し手にございます」
「会話を交わすことに優劣、貴賎なんてないわ。そうでしょう?」
妖忌は押し黙る。
幽々子のよき隣人とはいえ、妖忌本人としてはあまりこの手の類とは近づきになりたくなかった。
薄気味の悪い笑みの奥。何を考えているのかが分からない。
途方もなく強い力を持ち、幻想郷さえ崩壊させる実力の持ち主と聞く。
八大地獄の底の底。無間の距離を計り出したとも聞く。
それはそれ。八雲紫という個が何を考えているのかとは別問題だった。
だから、彼は慣れ親しんだ沈黙という領域に退避する。
「年を取られたのね」
妖忌は内心驚いた。
紫の口調が、突如哀切じみたものに変化したからだ。
「貴方自身覚えているかしら。昔の貴方はね、とても強くて凛々しくて、素晴らしい若者だった。ええそう、向かうところ敵無しだったのよね。覚えてる?」
「さて。なにぶん昔のことゆえ。よく覚えておりませぬ」
再び、蟲の群がこちらに向かって大顎を開きにじり寄ってくる。
虚を突かれないように、妖忌は我知らず早口で応じた。
だが、蟲はそこにまとわりつき、放さない。
「そうね。誰しも若かった頃のことなんて忘れてしまうものね。可哀相。でも、気に病むことはないわ」
紫は再びうっすらと笑う。
その笑みの深さは、亡者の嘆く奈落に等しい。
「ほら、これを御覧なさい」
紫の手が、そっと室内に置かれた鏡に伸びる。
怪鳥の鉤爪のような、その指先が鏡の縁をなぞった。
そうしてから、おもむろに彼女の手は鏡を掴み、こちらへと向けた。
「見えるでしょう? 貴方の姿が」
妖忌はそれを見た。
鏡には、顔が映っていた。
はつらつとした、若人(わこうど)の顔が。
一人の若者の顔が、鏡に映っていた。
涼しげな目元、通った鼻筋、薄く線を引いたような唇。
光沢を放つ黒髪は後頭部のところで一つにまとめ、長く垂らしている。
力強くも繊細。優美ながらも豪放。
誰が見てもはっとするような、美しい若者の顔だった。
そして、その典雅な容姿を引き立てているのは、若者から放たれる雰囲気だった。
堂々とした、傲慢とさえ感じるほどの自信の表れ。
泰然自若としつつも、若さゆえの溢れるほどの生気と勢いに満ち溢れていた。
その顔に、妖忌は見覚えがあった。
「いかがかしら?」
魅せられたように鏡を見ている自分に、妖忌は気づいた。
はっとして顔を上げると、そこには変わらず不可解な笑みを浮かべた紫の顔がある。
彼女と目が合った。
再び鏡に視線を落とす。
そこに映っているのは、見慣れた自分の顔だ。
白髪と白い髯が、顔を彩っている。
不覚、と妖忌は心の中で己を叱責する。
巧みな言動に惑わされた末、幻術の虜になるとは。
「率直に申し上げれば、過去はどう繕っても過去のまま。
一度放った矢の向きを変えることが出来ぬように、過去に戻ることなど不可能なこと。ただそれだけにございまする」
内心の動揺を押し隠し、妖忌は努めて平静に応じる。
「貴方は年を取った。今の貴方は飾らず、彩らず、そして和することもない。違うかしら?」
しかし、紫は彼の言葉など聞こえないかのように見当違いとも取れることを口にした。
「八雲殿がそうおっしゃられるのならば、そうなのでしょう」
「うふふ、謙遜ね。……たしかに、過去には戻れないわ。でもだからといって、過去が消えてしまったわけではない」
年を経た魔術師のような空気が、外見こそ年端も行かない少女のような姿にまとわりついている。
奇怪な少女が老いた庭師を、まるで猫が鼠をいたぶるような目で見つめている。
それはひどくおぞましく、陰鬱な眺めだった。
この紫という存在の正体は何なのか。
もしかすると、あの隙間の向こうでこちらを見るともなしに見ている無数の目玉の集まり。
それが八雲紫の本性ではないのだろうか。
「貴方はいずれ知ることになるでしょう。そして決断することになるでしょう。でも心配はいらないわ。
だって貴方ですもの。きっと、よい判断を下すことでしょう」
そう言って、紫は一人でくすくすと笑った。
「失礼ながら。某、八雲殿が何をおっしゃられているのか、まるで理解できませぬ」
いささか妖忌は気分を害していた。
これ以上の干渉は、客分といえども無作法に当たる。
彼は無礼を承知で立ち上がり、腰に刀を差した。
「申し訳ございません。某、所用がございますゆえ、これにて御免」
紫に背を向け歩き出す。
その背中に、さらに言葉が投げかけられた。
「貴方は、これでいいのかしら?」
「『これ』とは」
妖忌は首だけで振り返る。
「そのまま老いさらばえていき、ここに骨をうずめることに」
紫の問いに、妖忌は簡潔に答えた。
「言うに及ばず」
けれども。
果たして紫は気づいただろうか。
彼の声が、ほんの少しだけしわがれていたことに。
彼の即答が、ほんの少し迷いを含んでいたことに。
〈続く〉
ただ、こういった言い回しに慣れていないのか、ところどころ素の文章が出てしまっていたりしたのが残念でした。
文章も箇条書きになりかけている所が多々ありますので、もう少しその場の情景を考えて文章に流れを作ったらもっとよくなるやも。
場面ごとに見ても、もう少しその間を見てみたかったです。
前編として見ても少し掴みが弱いかなぁといったところ。
ただまぁ、こういう話は好きです。うん。
あと、 ×一部の隙も~ ○一分の隙も~