※作品集その34「ナイトメアによろしく ―1―」の続きです。
――また来てもいい?
その言葉から一ケ月。
チルノはあれ以来、三日に一度は文の家を訪れていた。
訪れて何をするのかといえば、まあ大体があの夜と似たりよったりである。
チルノが初めて文の家に泊まった、あの夜と。
要約すれば――
チルノがやってきて、
お茶を飲みながらおしゃべりをして、
一緒に御飯を食べて、
一緒にベッドに入って、
ぎゅっとして
ちゅーして
寝る。
眠れません。
眠るのはチルノだけだ。
はっきり言って、これは拷問だと思う。
確かに、至福の時には違いない。
だが自分の腕の中で安心しきった寝顔をさらすチルノを前にして、文は己の節操のなさを呪いながら、睡魔が煩悩を駆逐してくれるのをひたすらに待つことになる。
眠ったら眠ったでまた邪な夢を見て寝ぼけやしないかと気が気ではなく、胡蝶夢丸もろくに効かないこの健康体が恨めしくなってくるのだった。
――だから、無理もないことなのだ。
最近の文には、チルノを迎える前に、済ませておく事がある。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
「あーやーーーーーーっ!!」
『ほわーーーーーーー!?』
玄関先で元気いっぱいに来訪を告げる氷精の声に、なぜか家の中から帰ってきたのは天狗の奇声。
鴉ってたまにこんな鳴き方しますよね。
『ち、ちちっ、チルノさんっ!?』
「入るよー」
『なっ!? だ、駄目ですよ今は入っちゃ駄目! 絶対!!』
「へ?」
弾む足取りでいつもどおりに玄関をくぐろうとしたチルノを、えらく慌てた声が押し止める。
おまけになにやらばたばたと、騒々しい物音まで聞こえてきた。
「どうしたの文? 毛玉でも出た?」
『なんでもないんですっ! ええとその、そう! 部屋がものすごく散らかってまして』
どすんばたん
「そうなの? お掃除するなら手伝ってあげるよ?」
『けけけ結構です! ちっとも散らかってなんかいませんからっ!!』
がったんばったんフキフキがさごそばさー
「ねえ、もう入ってもいい?」
『あぁんもうちょっとだけ待ってお願いー!』
どたばたぐしゃどしゃパンツアゲー
「やっほー」
「ひいっ!?」
部屋の入口にひょっこり顔を覗かせたチルノを迎えたのは、間一髪で時限爆符の解呪に成功した陰陽師のような顔をした文と、たった今そこら中の物をぶちまけたような散らかり方をした室内だった。
「ち、チルノさん。きょきょ今日はずいぶん早いんですねー」
「――えへ」
乾ききった声で客人を歓待する文に、チルノは破顔して答える。
「だって、早く文に会いたかったんだもん」
――うわ。
思わず目を逸らしてしまった。
今の文には色々と眩しすぎる、まっすぐな笑顔だった。
「……あー、げふん。それで、部屋はご覧のとおりの有様でして」
「わぁ」
ほら本当に散らかってるでしょ? とばかりに文は物の散乱した床を示す。
「片付けちゃいますから、ちょっと待っててくださいね」
「うん」
うなずきながらも、チルノの視線は足元に転がるあれこれに興味深げに注がれている。チルノにとって文の家は、今なお好奇心をくすぐる珍品の宝庫なのであった。
と、それら品々の間を行き来していたチルノの目が、一点で止まる。
「あっ、私の写真がある!」
――ぎくり。棚に本を押し込んでいた文の肩が揺れる。
ベッドの上。
紛れもない氷精の姿を切り取った写真が数枚、無造作に並べられていた。
「ねえねえ、どうしたの? これ」
ぴょん、と布団の上に飛び乗って写真を覗き込み、チルノは目を輝かせて問う。
「え、えとあの、溜まってた写真を整理していたらたまたま、たまたま出てきたんですよたまたま」
「ふーん」
冷や汗をかきながらまくしたてる文を訝る様子もなく、チルノは写真を手に取る。
文にとっては体の一部と言ってもよく、あって当たり前のカメラだが、幻想郷においてはこれまた希少品である。故に写真もまた然りで、チルノはベッドの上をごろごろしながら、その一枚一枚を楽しそうに眺めはじめた。
「あっ」
今度はなんだ。
チルノが次に何を言い出すかと肝を冷やしながら、文は黙々と作業を続ける。
しかしチルノの声はそこで途切れ、奇妙な沈黙が部屋を満たす。
――――……?
不思議に思って文は振り向き、
「…………」
「――チルノさん?」
うつむき加減に顔を赤くして、ちょっと怒ったようにこちらを睨むチルノと目が合った。
「ど、どうしたんですか」
「……うー……」
不満げに唸りながら手元に目を落とすチルノの視線を、追う。
「あっ――」
それで、理由に気付いた。
チルノの手にある一枚の写真。それはあの日、鈴蘭畑で文がチルノを助ける前に撮影したものだった。
まだ毒が回ってぶっ倒れる前、何も知らずにはしゃぐ氷精の弾けるような笑顔と、凍って舞い散る草花が七色に光を跳ね返す様が調和した、珠玉の一品である。
一つ問題があるとすれば、パンツまる見えなことぐらいか。
「あ、あはは……。妖精でも気にするんですねぇ、そういうこと」
「妖精でもって何よー」
「ついこの間まで、そんなのお構いなしだったじゃないですか」
「そんなこと言ったって、恥ずかしいもん」
チルノは心外だとばかりに頬を膨らませ、なぜか文の方が照れ隠しのように笑う。
――そっかぁ。
思わず頬が緩む。
滑稽だからでも馬鹿にしているのでもない。嬉しいのだ。
思えばこの一月で彼女はずいぶんと変わったし、今も変わりつつある。
それをこう目の当たりにしてみると、嬉しいやら恥ずかしいやら後ろめたいやら。
「……チルノさん、今夜はハンバーグにしましょうか」
「えっ、ほんと?」
やったぁ。
チルノはあっさり機嫌をなおし、手の中の写真と同じ満面の笑みを浮かべる。
こういうところはまだまだ子供なんだけどな、と文は思うのだった。
あと、写真は無事に返して欲しいなあ、とも。
なにしろ珠玉の一品である。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
部屋の片付けが済んで、お茶の時間。
チルノはいつものように、今日ここに来る前にどんなことをして遊んだかを話しはじめた。
今日は何を凍らせただの、誰に悪戯してやっただのといったことを得意げに語るチルノを見ていると、獲物を持ち帰って自慢する猫みたいだなあ、と文はいつも思う。
実際、獲物を持ってくることもあった。綺麗な木の実とか変な形の石とか、多くは他愛のない物なのだが、時々本当に珍しい物を拾ってくることもあるから侮れない。コウモリ柄のパンツを差し出されたときには血の気が引いたものだ。
チルノがひとしきり話せば今度は文が、執筆の片手間に記事の内容をおもしろおかしくチルノに聞かせてやったりしている。
幻想郷最速のニュースをなお一番乗りで耳にできるのは、チルノの特権であった。そのことをチルノ自身も愉快に思っているようで、多少難しい話でも一生懸命に聞いてくれるのが文には嬉しかった。
日が暮れれば、エプロン姿の文が台所で鼻歌まじりに奮闘する。
以前の文にとって食事とは「済ませるもの」であり、質も量も簡素なものだったのだが、ここ一ケ月でそのレシピは各段に充実した。ハンバーグだのオムライスだのホットケーキだの、内容にある種の偏りがあるのは別として。
そんな文が大泣きしながら玉葱を刻んでいる間、チルノもただ座して飯を待っているわけではない。
新調された少し大きめの卓袱台に、二人分の食器をいそいそと並べてゆく。これも卓袱台と一緒に文が買った浅葱の塗り箸は、チルノの大のお気に入りであった。
なにか物を冷やしたり凍らせたりする用があれば、この氷精はさらに張り切る。
酒をいい具合に冷やすのも手慣れたもので、うっかり氷点を過ぎて酒器を破裂させていたのも今は昔。最近は文の好みの温度までピタリである。
……そんなこんなでちょっとだけ太ったのは、チルノにも話せない文の秘密だった。
二人の晩餐も終わって、夜。
風呂というものに関して、語るほどの事はない。
チルノは湖でしょっちゅう体を清めているので湯浴みは無用だと言い、文は文であっという間に入浴を済ませてしまう習慣の持ち主だからである。
だから、この時間帯の文はほとんど机に向かっている。チルノがいてもいなくても。
いないチルノが何をしているかは知らないが、いるチルノは意外におとなしかった。文の机の周りで、ごく簡単な作業を手伝ったり、あまり字の多くない本を読んだりしている。
そのうちに幼い氷精の口数も少なくなり、眠そうな目でちらちらと文を見るようになれば、後は時間の問題だ。
文の仕事を尊重しているのかそれとも単に恥ずかしいのか、「一緒に寝て」などとチルノは言わない。といって先に一人で寝ようともしない。それで結局、普段は宵っ張りの文も早々に折れることになる。
床にぺたりと座り込んで目をこするチルノに呼びかけると、彼女は喜々として立ち上がり、間髪入れずベッドにダイブする。お前は本当に眠かったのかと問いたい。
――そして、地獄のハッピータイムが始まる。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
「んっ……」
「…………」
忍び寄り、重なった唇が、湿った吐息とともに再び離れてゆく。
月光がわずかに差し込む薄暗がりの中、今日一日とその終わりに満足した表情のチルノが、眠気にかすれた声でささやく。
「……おやすみ。あや」
「おやすみなさい、チルノさん」
文はチルノの背中をとん、と叩き、チルノはそれで催眠術にでもかかったように、文の胸に頭を預けた。
「――――……」
すぐに安らかな寝息が胸元から聞こえてきて、文は一人とり残される。
そうして今日も、際限のない思考にずるずるとはまってゆくのだ。
チルノの気持ち。
自分がいくら考えたところでそれは想像に過ぎず、答など得られないことは解っている。
それでも、考えずにはいられなかった。
日頃のチルノの態度を見れば、広い意味での好意を自分に対して持ってくれているのは疑いないだろう。その程度のことは断じても自惚れにはならないと思う。
問題は、その好意がどういう種類のものなのかということだった。
子供が親に、妹が姉に甘えるようなもの――客観的に見れば、それが一番妥当な見解だろう。文がそれを望んでいるかは別として。
ただ一点だけ、その仮定にそぐわない要素が存在することも、また確かなのだった。
「……ぅ……ん……」
もぞり、とチルノが肩を動かし、布団の隙間から漏れる甘い体臭が文の鼻をくすぐった。
以前、チルノが半分眠った頃を見計らって訊いてみたことがある。このキスは、一体どういう意味のあるキスなのかと。
――わかんない。
寝ぼけた声で返ってきた返答はそれだった。
質問が抽象的だったからかもしれないし、眠かったせいかもしれないし、あるいはチルノ自身も本当にわからないのかもしれない。ともかく謎は謎のままで、どれだけ首を捻っても募るのはやはり文自身の想いだけなのだった。
「――――はぁ」
思考が一巡して、眠気はまだ訪れない。
文は自問する。考えすぎているのだろうか、と。
本当はもっと、簡単な話なのかもしれない。
仮定は正しく、実はあのキスは、妖精が親愛の情を示すときのお決まりの行為なのかもしれない。
だとしたらこれはスクープだ。妖精は親しい相手にキスをする。
親しい相手なら、誰にでも――
「…………」
――ぎゅ。
「んっ……ぅ……、文? ちょっと苦しい……」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
知らず力を込めていた腕を、慌てて緩める。
――重症だな。色々と。
チルノの後ろ髪を撫でながら、文は眠りの時を待つ。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
それから数日後。
発刊ペースが少々落ち気味の「文々。新聞」を配り終えた後、文はふらりと帰路を外れ、一人で川を眺めていた。
川はいい。
いつも変わらずそこに在りながら決して同じ姿でいることがなく、その悠久のせせらぎは見る者の心まですすいでくれる。
悩ませすぎた頭を軽くするには、格好の場所だった。
「ろっかっけ~の鳩が~いる~♪」
「こらそこの自殺志願者ぁ! これ以上死神の仕事を増やすんじゃない!」
早くも邪魔が入った。
水面を見つめる文の背後、威勢のいい声とともに姿を見せたのは、紅い髪の死神だった。
「誰が自殺志願者ですか。見てのとおり、私はいたって壮健ですよ」
「見てのとおりって……彼岸花に囲まれて膝抱えながら三途の川に向かって電波な歌口ずさんでたら、少なくともまともにゃあ見えないと思うんだけど」
「とにかく、死ぬ気はありませんよ。ちょっと頭を冷やしていただけです」
どこか低調な文の言葉に拍子抜けしたか、死神は大鎌を乗せた肩をすくめてみせる。
「は、珍しいこと言うもんだ。盗撮行為がばれでもして怒られたとか?」
「違いますよ。第一、それしきの事で頭を冷やすつもりはありません」
「……そりゃご立派なことで」
いつまでも尻を向けて話すのも落ち着かないので、文は立ち上がり、川を背に死神と向き合う。
「ごく私的な問題ですから、死神の手は煩わせませんよ」
「ならいいけどね。悩みがあるなら生きてるうちになんとかしなよ? 迷ったまま死ぬと舟が揺れる」
「初耳です。そういうものなんですか?」
「そうだよ。いい死人ってのはいい生者の成れの果てなんだ。川向こうで苦労したくなけりゃ、うじうじ悩んでないで楽しく生きるこったね」
はぁ。
文は気のない相槌を返す。
生死の境界で糊口を凌ぐプロが言うのだから、多分そのとおりなんだろう。
だが、自分だってなにも好き好んで悩んでいるわけではないのだ。
「ま、善処はしますけどね……」
「なんだなんだ、本当に元気ないねえ。どうだい? いっちょ、この小町さんに話してみたら」
「……なにを?」
「だから、あんたの悩みをさ。――なによその目は。これでも人生相談の経験は腐るほどあるんだよ?」
そう言って小町は胸を張る。
「人生相談って、あなたのはもう終わっちゃった人生の話を聞いてるだけでしょうに」
「まあ、まあ似たようなもんさ。それに、悩みは人に話すだけでも結構楽になるもんだよ」
まあ、それは認めよう。
情報とは、流通させてこそ価値のあるものだ。それがどんな種類の情報であれ、溜め込んでおくことがフラストレーションに繋がるというのは文自身よく解っている。
とはいえ、死神相手に恋愛相談とは――
「こんなところで話し込んで、お仕事は大丈夫なんですか?」
「今は休憩時間」
「またさぼっているのですね。あなたという人は」
「いやいや、誤解してもらっちゃ困る。あたいは仕事が嫌いなんじゃなくて、自分のペースを守ってるだけさ」
それがさぼってるようにしか見えないのが問題なんですけどね。
「――好きな人がいるんです」
――――……。
唐突に切り出した文に動じる様子もなく、小町は肩から大鎌を下ろして静かに耳を傾ける。
「その人が私のことをどう思っているのかはわかりません。仮に、私と同じ気持ちでいてくれたとしても、彼女はまだまだ子供で――」
やはり溜め込んでいたせいか。
言葉は、文自身が驚くほどの勢いで溢れ出す。
「私が彼女に望んでいるような事を、彼女はきっと知りもしません」
話しちゃったなぁ。
ある種の諦めとともに、文は溜め息まじりの言葉を紡ぐ。
「――だから、今は、なにもかもがもどかしい」
――――……。
ひと塊の気持ちを吐き出し終わり、此岸につかのまの静寂が戻る。
立てた大鎌の柄に両手と顎を乗せたまま無言で話を聞いていた小町が、それでようやく口を開いた。
「……訊いてみりゃいいんじゃない? 抱いてもいいですかって」
ダメだこの人。
「訊けるわけないでしょう。その台詞の真意が理解できるかどうかも怪しいような相手ですよ?」
「駄目でもともとってやつだよ。意味が解らなくたって悪い方に転がるわけでもなし」
「解った上で嫌われちゃったらどうするんですか」
「――へぇ」
「へぇ、って」
なにやら苦笑する死神に、思わず詰め寄る文。
まあまあ、と小町はそれを制止し、
「いや失敬。つくづくあんたって妖怪らしくないなあ、と思ってね」
「……そうでしょうか」
「天狗っていやあ幻想郷でも力のあるほうなんだからさ。気に入った相手は構わずかっさらって、食っちまうなり遊ぶなり、好きにするもんだと思ってたけど」
それはそれで、ずいぶんと極端なたとえだと思う。
「天狗は文化人ですから、今時そこまでするのはむしろ少数派ですよ?」
「そこまでしろとは言わないけどね。あんたの場合、ちょっとおとなしすぎるんじゃない? いつもはぶんぶん飛び回ってるのにさ」
「取材活動とはわけが違いますよ。事が事なら慎重にもなります」
「だけどさっきから聞いてりゃあ、相手はまだ子供だの話しても理解してもらえないだの、全部あんたの頭ん中だけで考えてることじゃないか」
「う」
痛いところを突かれた。
確かに、忙しく活動しているのは文の脳味噌だけで、実際の行動にはなに一つ反映されていないのだから、はたから見ればなにもしていないのと同じである。
観察と記録だけで干渉はしないのが観測者の性だといったら、それは言い訳だろうか。
「現状を嘆く以上のことができないんなら、はなっからなにも考えない方がましってもんだ」
「うぅ、否定できません……」
「言葉も通じないほど幼い相手じゃあるまいし、なんでもいいからつっついてみなよ。なりは小さくても中身はわかんないもんだよ?」
「なんだか、妙に実感のこもった物言いですね」
「身近にいるからねえ。可愛い顔して中身は大年増の上司が」
「可愛いですか」
「可愛いね」
「大年増ですか」
「大年増だよ」
「それは、やはりあの、閻魔様のこと?」
「もちろん。それがどうかした?」
「……さっきからあなたの後ろに立ってるんですけど」
「きゃんっ!?」
仁王立ち。
夜摩天だけど仁王立ち。
花を咲かせる霊たちも、怒気に押されて逃げてゆく。
「こ~ま~ち~」
文チルとは関係のないお説教が続きますので、しばらくお待ちください。
「まったく。職務怠慢に飽き足らず、私のお株まで奪って人様にお説教とは……」
「いや、死後を見据えて今のうちに厄介事の解消をですね、」
「目の前の仕事を放ってまでする事ですか!」
裁判長が、小さな肩をいからせる。
その顔がちょっぴり赤いのは、はたして怒っているせいなんだろうか。
「さあ、きりきり働きなさい。舟が着く頃には私も行きます」
「へぇ~い……」
すっかり絞られた様子の小町は檄を飛ばされ、霊を従えて舟に乗る。
物言わぬ霊も位置につき、出航の準備が整うと、最後にくるりと文を振り返った。
「じゃあね。がんばんなよ」
「……え? あ、はい」
笑って親指を立てて見せた死神は三途の川にゆるりと漕ぎ出し、その後ろ姿もやがて霧の向こうに消えていった。
――ふぅ。
死神の背中を見送った裁判長は短く溜め息をつき、それからゆっくりと文に目を向ける。
「――さて、射命丸文」
「は、はい」
「私もあなたに話があります。……何に関する話かは見当がついていますね?」
いきなり矛先が自分に向いて、文は思わず緊張する。
もっとも、この楽園の最高裁判長、四季映姫ヤマザナドゥを前にして緊張しない者など――いや結構いるか。
「……チルノさんのことでしょうか」
「あの氷精と、あなた自身のことです」
文自身のこと。
言われて思い返せば、事の発端は文の好奇心の悪ノリだったのだ。
「ご、ごめんなさい閻魔様。あなたの忠告を忘れて、チルノさんを酷い目に――」
「いえ。そのことについてはこの際、不問に付します」
「えっ?」
「心から反省しているようだし、今のあなたは十分に彼女をいたわっていますからね」
「あ、それはその……どうも」
肩透かしを食らうと同時になんだか恥ずかしくなり、文は顔を赤らめてうつむく。
珍しくも優しい口調で、映姫は続けた。
「あの子はいくらか変わったようですね。成長したと言ってもいい」
「はい。それは、私もそう思います」
「どうですか? あなたから見て、彼女の変化は」
「えっと、気性が穏やかになったといいますか……ある意味では幼くなったようにも見えるんですけど、やっぱりあれは成長してるんだと思います」
「ほう」
「最近は私の仕事を進んで手伝ってくれたりしますし、冷気を操るのもとっても上手になったんですよ? それに、」
――――……。
自分がかなり親バカな物言いをしていたことに気付いた。
己の言動を客観視できてこそジャーナリストである。
「――いやその。そんな感じです。はい」
再び恥じ入って口ごもる文に、映姫は柔らかな笑みを向けた。
「精神とは、時さえ経てば成熟するというようなものではありません。あなたと一緒にいることが彼女にとっていい刺激になったのでしょうね。立派な善行ですよ」
「きょ、恐縮です」
「――ですが」
声音が、変わる。
厳しさというよりは、どこか寂しさをはらんだ声で、映姫は言った。
「これ以上は……報われない善行になるかもしれませんよ」
「えっ……?」
間の抜けた返事で、続いていた会話が途絶えた。
もとより口をきくはずもない花や霊たちがことさら押し黙っているように感じるのは、文の気のせいだろうか。
「閻魔様、それはどういう――」
「あの子は、妖精としては破格の力を持っている」
不意の宣告に思考が追いつかない文をせき立てるように、映姫は確固たる言葉を繋ぐ。
「そしてその力ゆえに、他の妖精たちから恐れられているのです」
「――お、」
恐れられている? チルノが?
それ自体の信憑性も、そのことと自分の関係も、文にはさっぱり理解できなかった。
そんな文の様子を一瞥してから、映姫は一面に咲く彼岸花に目を向ける。
「幻想郷の花が一斉に咲いた、あの異変のとき……あなたも見たでしょう。浮かれて飛び回る妖精たちを」
「はい。見ました、けど、」
「妖精とは本来、あのように群れるものです。でも、あの子が他の妖精たちと一緒にいるところを、あなたは見たことがありますか?」
「あっ――」
そこまで言われて、初めて気付いた。
今まで文が写真に収めてきた、チルノの姿。
チルノ自身が文に話してくれた、遊ぶときの様子。
そのどこにも、彼女以外の妖精はいなかった。
――だけど、
「信じられません。彼女はちょっとおてんばなだけで、別に怖くなんて――」
「それはあなたが妖怪だからです。未熟で分別が足りず、強大な力の制御もままならない彼女は、もともと弱い存在である妖精にとっては驚異になる。たとえそれが同族であっても」
言い返せなかった。
映姫の言葉は容赦なく続く。
「同胞からは拒絶され、といって妖怪と対等に渡り合うこともできない。唯一の救いは、あの子自身がその宿命的な孤独に対して無自覚だったことです。思うにあの浅はかさは、身に余る力を持って生まれた彼女が自分自身の心を守るために身に付けた術なのかもしれない」
――なんだ、これは。
あれこれ考えるのに疲れたから、ここに来た。
少しでも楽になりたくて、人に打ち明けた。
それが今、思わぬ密度の情報に溺れかけている。
「……閻魔様、あなたのおっしゃることですから、きっとそのとおりなんでしょう。でも、なぜそれを私に?」
「解りませんか?」
「解りませんよ。チルノさんのそういう境遇は可哀想かもしれませんけど、彼女がそれを苦にしていないのなら変につつきまわす必要はないじゃないですか」
「珍しいことを言うのね。どんな秘密にも首を突っ込みたがるあなたが」
「ば、場合によりけりです。とにかく、本人が知らなくてもいいような事を私に教えてどう――」
文が止まった。
――身に余る力。宿命的な孤独。
先に耳にしたその言葉が、文の記憶のどこかで引っ掛かった。
なにか。
どこかで。
今まで、チルノと過ごしてきた時のどこかで。
似たようなことを――
「――――っ!!」
目を見開いた。
思い当たった「それ」の衝撃に。
「あ、あ……」
――悪夢。
文が見せた悪夢。
目覚めたチルノは、泣きながら確かに言った。
寒い、一人はいやだ――と。
「わ、私……」
震える両手で、頭を抱える。
目の前の裁判長は、さっき何と言った?
幸福にも、チルノは我が身の孤独に無自覚だった。
だった?
じゃあ、今は。
「――私が、あの悪夢で、気付かせた?」
すがるような視線を投げ掛ける文に、映姫は静かに頷いた。
「私とて夢の中までは見通せません。でも、今のあの子がすべてを承知しているのは確かです」
「チルノさんが……」
――ああ。
頭が痛い。
胸が割れそうに痛い。
泣き叫ぶチルノを抱きとめたあの時とは、比べものにならない痛みだった。
この件については不問に付す? なんのことはない。自分がした事の正体を突きつけられることが、十分すぎるほどの罰だったのだ。
「ああ、どうしよう……私……」
天にも地にもあわせる顔がなく、文は泣き出しそうな目を虚空にさまよわせる。
「あまり悲観ばかりしないことです。あの子がそれでも変わらず笑っていられるのも、射命丸文。あなたのおかげなのですから」
「そんなの、自分で起こした事件を記事にして手柄を誇るようなものじゃないですか……」
「今回の事がなくても、いずれは気付いたことです。悟ったその時に慰めてくれる者がすぐ傍にいたことは、むしろ幸運だったのですよ」
「……優しいんですね、閻魔様。悪い事したのは私なのに」
「あなたが嫌というほど自分を責めているのは、見れば判りますからね。それに、」
映姫は一瞬、言い澱み、
「……落ち込んでいる理由は、それだけではないのでしょう?」
本当に。
なんでもお見通しなんですね。
文は寂しげな目で微笑んだ。
「――悩みが、解決しちゃいました」
知りたかったこと。
ずっと考えていたこと。
それが、判ってしまった。判りたくもない形で。
チルノの気持ち。
思えば、あまりに急激な変化だった。
己の孤独を認識したチルノは、あっさりと文に懐いた。
それは、つまり、
「ただの寂しさ、だったんですね」
それは、文の想いとはあまりに隔たっていた。
小町には悪いが、早まらなくて良かったと思う。
「ふふ、勇み足にも程がありますよね。私ったら、一人で勝手に舞い上がって……」
「それでも、あの子があなたを慕っていることに変わりはないのですよ」
「解ってます」
「あなたがあの子の保護者に甘んじていられるのならいい。それはむしろ必要なことです。ただ、それ以上を望むことがお互いに――」
「解ってますよ。閻魔様」
映姫の言葉を、文は力なく押し止めた。
「――なんだっていいんです。チルノさんと一緒にいられる理由があるなら」
迷いが晴れたのだ、もっといい顔をしろ。
そう自分に言い聞かせ、文は背筋をきりりと伸ばす。
映姫はそんな文に気遣わしげな視線を送りながら、言った。
「あの子の存在の危うさは、私も以前から気になっていたのです。だから、本気であの子を案じてくれるあなたには、本当のことを知って欲しかった。でも……ごめんなさいね。あなたの気持ちに水を差してしまって」
「とんでもない。おかげで気持ちが固まったんです」
文は明るい声で映姫に笑いかけた。
少しは格好がついてきた、オトナの笑顔だった。
「今日から私は、チルノさんのお姉さんです。ふつつか者ですが務めさせていただきますよ」
「……そうですか。いい心掛けです」
――はい、この話はおしまい。
互いにそれを察し、文は自分の家の方角を、映姫は彼岸を振り返る。
「小町さんにお礼言い損ねちゃいました。よろしく言っておいていただけませんか」
「伝えておきましょう」
「それでは、私はこれで」
映姫はええ、と短く応える。
そしてちょっと迷ってから、
「――頑張りなさいね」
にゅ、と親指を立てて見せた。
「…………」
「な、なんですかその顔は」
「いえ、小町さんの言ったことが解るような気がしまして」
「ほう。小町の言った……どの部分がでしょうね?」
「ふふ、秘密ですよ」
不敵な笑みとともに風が巻き起こり、文は生者の住まう空へと舞い戻る。
頬に当たる風が、心地よかった。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
家に戻ると、チルノが来ていた。
「あっ、おかえり文」
弾む声で出迎えたチルノが、嬉しそうに駆け寄ってくる。
――が、文の顔を見るなりきょとんとして、
「――文、どうしたの?」
「えっ……、何がですか?」
「……元気?」
チルノは思案顔で文の目を覗き込み、大真面目に問う。
内心慌てたのは文だ。
自分はそんなにしょぼくれた顔をしていたのだろうか。
「げ、元気に決まってるじゃないですか」
「ふーん」
「どうして突然、そんなこと訊くんです?」
「んー、私にもよくわかんない。でも文が元気ならいいや」
言葉とは裏腹にまだ疑問を残しているチルノの表情を見て、文はそっと溜め息をついた。
心を決めて早々、こんなことでこの先やっていけるのだろうか。
「さ、さあ、もういい時間ですから、御飯の支度始めちゃいましょう。チルノさんもお手伝いお願いしますね?」
「うんっ。今日はなに作るの?」
「そうだなあ……蓮根のつみれ汁にしましょうか」
「えぇ~、蓮根?」
「駄目ですよ、好き嫌いは克服しないと。それに、お団子にすればきっとおいしく食べられます」
「うー……わかった。今日の文、なんだか厳しいよぉ……」
結局チルノは、自分も手伝って作った蓮根団子を「おいしい」と言って食べた。
その笑顔と一緒に卓袱台を囲みながら、文は幸せだと思った。
幸せだと。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
夜になり、二人がベッドに入って、いつもの儀式を終えた後。
寝静まったかに見えたチルノの頭が、闇の中で文を見上げた。
「……あのね、文」
「…………ん……」
「さっきは話さなかったけど、今日、湖で遊んでたらね、」
「………………」
「――文?」
「ん……あ、はい。なんですか……?」
「……ううん、なんでもない。文、疲れてるの?」
「ごめんなさい。今日はなんだか、眠く……て…………」
これ以上、悩むことはない。
悩んではいけない。
そんな思いが、睡魔を招き寄せたのかもしれない。
その夜、文は初めてチルノよりも先に眠りに落ち――――
その翌日から一週間。
チルノはやって来なかった。
~続く~
わくてかが とまらない
>>自分を攻めて→責めて
それはともかくとても良いお話。
さぁ最後はハッピーエンドかっ!?
…だよね? ね?
…えっちなのはいけないとおもいますよ?(笑)
方々の過分なご期待に添えるべく、最終話を鋭意製作中です。
一度読んだはずですが、今読み返してもやっぱりそう思います。