初秋のやや冷たい風が境内を冷やかし、赤トンボが柵を覆う。外界と隔離されているとは言え、まるでこの風景は日本の田舎を連想させる。
ちりん。
「―――あら」
今、神社にいるのは霊夢だけ。彼女は縁側に腰掛け、季節外れになりつつある風鈴を見上げている。そして静かにお茶を呷った。
普段の騒々しさに打って変わり、今度は虫たちが騒ぎ始める時間帯だ。その様子を縁側に座って鑑賞するのが日課になりつつある。涼しくなり始めた気候も手伝って、快適な夜の合唱と相成るのだ。
「……そうね、そろそろ外すべきかも」
情緒という物はあるべき場所、時間にあってこそ味が出る。すでに時期を過ぎてしまったならば、また来年と少しの祈りを込めて仕舞うべきである。
やがて、虫たちの羽音が徐々に増していく。
「さて、そろそろかしら」
その喧々を背に、霊夢は台所へと向かう。
新米の旨さは時間との戦いである。早くても遅くても駄目だし、そこに水の量や研ぎ加減も必要になる。職人芸とまではいかないものの、経験を積まなければならない事に間違いはない。
「……うん、まあこんなもんか」
一口、二口と食し、及第点だったことに安堵する。
今日も昨日と同じく、白米を主食に味噌汁と漬物、豆腐に焼き魚といった和食である。箸を持ち、手を合わせた。
「いただきます」
食事前の儀礼を済まし、箸を卓上に走らせた。
「よ、お邪魔するぜ霊夢」
箸が焼き魚の直前で止まり、縁側へと向けられる。その視線は諦観とも受け取られそうな程、「またか」の念に塗れていた。
「来るとは思っていたけどね、魔理沙。一応連絡くらいは入れなさいよ。来るなら来るって」
「堅いこと言うなよ、お前と私の仲じゃないか」
「寄生と宿主の仲かしらね?」
皮肉たっぷりの言い回しを軽く笑い飛ばし、否定も肯定もしない魔理沙に内心呆れつつも、霊夢は自分の食事を冷めないように結界で包み、魔理沙の分を用意することにした。
「さすが手際が良いな。私もいいかげん覚えようかしら」
「そう思うなら、そうしてくれると大いに助かるわ」
「出来るもんならそうしてるぜ。でもあいにくと、人には得手不得手があるんだ。あと家にそんなスペースはないしな」
それは自業自得でしょ。それもそうだな。
もう慣れっこになってしまったやり取りを交わしつつも、程なく作業は終了する。
「んじゃ、いただきますっと」
「はいはい、召し上がれ」
自分とは対照的に箸を積極的に進めていく魔理沙を見やって、霊夢も夕食を再開することにした。結界を司る札を摘んで、剥ぎ取った。
そうすると結界は音もなく弾け、崩れ去る。さあ、自分も夕食を―――
『 』
「……あれ?」
「どうした霊夢?」
結界が弾けて消える時、何か違和感があった。結界が消える時は一定方向に四散するのだが、今回はなぜか縁側へとすべてが流れていったのだ。縁側の先には、大結界が張られている境内がある。
「あー、いや、なんでもないわ。さ、早く食べちゃいましょ」
きっと気のせいだろう。気のせいじゃないにしても、魔理沙がいると話がこじれそうだ。
訝しげにしつつも箸を止めない対面の魔法使いを少しだけ凄いと思いながら、霊夢も箸を進ませる。
(調べるなら、魔理沙が帰ってからね)
漬物を齧りながら、焼き魚を箸で解した。
博麗の大結界によって隔絶されている外の世界と幻想郷。その結界は時折緩んだり穴が開いたりもするが、結界自体が解かれた事は一つもない。
故に、霊夢の無意識下で、結界は常にそこにあると根付いていたのだ。実際、結界は今も存続しているし、弱まる様子もない。
だから、霊夢がその綻びに気付いたのは些細な偶然だった。
なるほどね。ああなるほどね。なるほどね。
理由は恐ろしくなるほど単純明快だった。思わず脱力し、肩の力が抜けていく。また異変かと先走りしなくてよかった。
大きさにして一尺六、七寸といったところか。地面に扇を描くように結界に穴が開いている。だから弾けた結界が吸い寄せられるようにこっちへと流れていったのだ。
「こういうのは紫の仕事なんだけど。まあ仕方ないか」
自分でも、これくらいの大きさなら軽く修繕くらい出来る。あとは紫を引っ張ってきて直させればいい。
さあ、もう夜も遅い。とっとと終わらせて床に就こう―――
「わん」
「……へ?」
いざ。札を構えようとしている中途半端な体勢のまま霊夢は固まった。
わん、と聞こえた。つーでもすりーでもなく、確かに聞こえたのは「わん」だった。
恐る恐るゆっくりと、眼下に目線をずらしていく。
「わん」
足元に座り込んでいるのは、大きめの、栗色の毛を持つ犬。円らな瞳で霊夢をじっと見ている。
「…………わん」
とりあえず真似をしてみた霊夢だったが、それですべてが解決するわけもない。心なしか眩暈感を覚えた。
時々外の人間が紛れ込むことはあるが、自分が遭遇するとは思わなかった。それも、相手は犬だ。こういった場合の対処方法なんてものは宇宙の果てを知らないように知らないので、とりあえず溜息を吐くことにする。
「……うーん、どうしようかしら」
このまま放って帰ったとすると、明日には骨も残っていないかもしれない。そうなると夢見が悪いことこの上ない。
目が合った。「う」純真無垢な視線が霊夢には痛い。
「ま、しょうがないか」
もう夜も遅い。明日、霖之助さんにでも相談してみよう。あそこなら外の書物もあることだし。眠いし。
そう考え始めると、急に気が楽になる。霊夢は微笑んで、屈み、犬に手を差し伸べた。
「ほら、ついてきなさい。安全な場所に連れてってあげる」
「わん」
ぽふ。
差し出した手に置かれる柔らかい感触。
「……いや、そうじゃなくて」
霊夢は苦笑した。
「へえ、なるほど。それはまた珍しいこともあるもんだ」
香霖堂店主、森近霖之助の反応はやはり予想通りのものだった。
陳列してある外の書物の中に一冊だけ動物について書かれた物があり、それによると犬は「ゴールデン・レトリバー」というらしい。
「長ったらしい名前ね。飼い主も呼ぶのに疲れないのかしら」
「まあ、外の世界の人間は何を考えているか僕達には分からないからな。そういった好事家がいるのかもしれない。もしくは、長い名前をつけることで呪術的な意味合いを持たせる、とかね」
霊夢が開けっ放しになっている扉の方面を見やる。流石に店内に犬を入れるわけにはいかないので、迷い込んできた珍客は店の前で行儀よく座っている。時々「わん」と元気な声が聞こえるので、霊夢は心なしか安堵する。
「それでどうするんだ? まさか飼うわけでもないだろう?」
「そうね。飼い主も探してるだろうし。まさか同じ世界だけどまったく違う世界にいるなんて思ってもいないでしょうし、早めにね」
結論が出たところで霊夢は身を翻す。善は急げ、とはよく言ったものだ。
「それじゃあ今日のうちに返しちゃうわ。流石に飼い主のところに直接はアレだから、安全な場所まで同伴だけどね」
ただし同伴と言っても連れ立って大結界を越えるわけではなく、犬と一緒に行くのは『結界』だけだ。自分の結界なら並大抵のことでは破壊されたりはしない。『飼い主のところに戻るまで持続する』よう命令しておけばいい。
「その方が良い。善は急げの他にも、幻想郷に外の物が多くなるのは好ましい傾向じゃない。……まあ、紫の言っていたことだけど」
くす。霊夢の無意識な笑みが零れた。
霖之助にとって外の世界は憧れにも近い存在であるので、外の物があればあるほど喜ばしい。しかしあくまでもここは幻想郷であり、そこに生きる人たちにとってはここが世界。外の物こそ幻想なのだ。幻想は幻想のままが好ましい。紫が言いたかったことはそれなのだろう。
こう言えるようになるなんて、偏屈なところも少しは直ってきたのかしら。
―――わん!
「ん?」
いざ出ようとしたところで、再び犬の鳴き声がこだました。それは今までのものとは違い、どこか喜んでいるような、弾んだものだった。
「―――うわっ、なんだこいつっ!? や、やるのかっ!? やらせるかーっ!」
「…………」
「…………」
二人で一斉に押し黙る。もう聞き飽きた声が外で暴れていて、何をしているのか、『されているのか』、大体想像は付く。
外に出ると、犬に絡みつかれている魔理沙の姿があった。「うわっ」とか「やめっ」とか「舐めるなっ」とか、一人と一匹の仲は大層良さそうに見える。必死なせいか、魔理沙は二人に気付かない。一方、犬は嬉しそうに魔理沙の頬を舐めている。
なんとも微笑ましい風景だ。二人は呆気にとられるのではなく、ふっと笑った。
「相手が犬なら人間じゃないんだ! 私だって! くらえマスタ―――」
「犬相手にかますなー!」
そのほのぼのした風景を一気に殺伐とさせかねない大砲が構えられようとしたところで、霊夢のお払い棒が魔理沙の頭をしばいた。良い音だなぁ、と霖之助は感心する。
「痛ってー……ってうおっ!? れ、霊夢に香霖!? いつからそこに!?」
「あれだけ騒いでたら誰だって気付くと思うが」
しかし……。
霖之助はそう言ってから、目線を逸らして吹き出した。
「仲が良さそうで羨ましい限りだ」
「ち、違うっ! 私は何もしてないのにこいつが絡んでくるだけだ!」
「わふ」
必死に否定するものの、振り払おうとしない様子から見るに、決して心の底から嫌というわけではなさそうだ。
「……まあそれはともかく、香霖。犬なんてどうしたんだよ。まさか飼うわけじゃないだろうな」
「ああ、それは僕じゃなくて」
霖之助が言おうとしたところで霊夢が遮る様に言った。
「私の案件よ。一言で言えば迷子ね、迷子」
ああ、と頷いて、魔理沙は納得する。
「まあ事情は概ね分かったから、いいかげん引き剥がしてくれないか、これ。動きにくいことこの上ない」
「いいじゃない、懐かれてるみたいだし。引き離すのも犬に悪いわ」
「くっ、人の話を聞かない奴め」
「ああ、でもこの子は今日返すわけだし、いつまでもそのままじゃ運び辛いわね」
仕方ない。本当はもう少しこの光景を見ていたかったが、とても仕方ない。
「ほら、おいで。帰るわよ」
ぴく。
霊夢が屈んで手招きをすると、犬はあっさりと魔理沙から離れた。おおっ、と魔理沙が感心し、ふむ、と霖之助が唸る。
そしてのそのそと霊夢の前へと歩いていって、座り。
ぽふ。
肉球再び。霊夢はまた苦笑して、
「だからそうじゃないって」
まあ、いいけどね。
そう思うのだった。
「ごおるでんれとりばあ? それがこいつの名前ってか?」
「そ。長いでしょ?」
うーん。魔理沙は唸る。それは果たして飼い主のネーミングセンスを疑っているのか、はたまた別のことなのかは分からないが。
ややあって、魔理沙は霊夢に追従する犬を見た。すると何か閃いたのか、手を叩いた。
「……なあ、もしかしてそれって犬の種類って奴じゃないのか? 名前はまた別にあると思うんだが」
「え?」
「だってほら、そいつ首輪してるだろ。そこになんか書いてあるぜ」
どれどれ。霊夢が一旦止まると犬も止まる。首輪は確かに見えるが、少し毛に埋もれているので、見えるように掻き分けた。
「あ、ホントだ。じゃあこれがこの子の名前って線が強そうね」
「だな。私達だって人間っていう種類だし、名前は他にあるだろ?」
「なるほどねー」
魔理沙の言うことは尤もだった。霖之助と二人であーだこーだと論議をし、気付かなかった自分が恥ずかしくなってくる。
あとで教えてあげようっと。彼の驚く顔を想像するのは容易かった。
結界の隙間はまだ健在だった。しかし昨晩と比べてもなんら変わった様子はなく、どうやらこの犬だけが入ってきてしまったようだ。不幸中の幸いと表せば分かりやすいかもしれない。
「なんだ。迷子ってのは人里じゃなくて『あっち』からか」
「珍しいこともあるもんでしょ? 人ならともかく犬だもの」
そう改めて考えると、自分は結構、貴重な体験をしたのかもしれない。後学の為、と考えたが、今回のようなケースは稀だろう。役に立つとは思えないので、「こんなこともあったわね」で済ませるのが一番良い。霊夢はそう考える。
「それじゃあ、お達者でね」
詠唱の後、纏わり付くように結界が犬を覆う。これで心配はないだろう。
屈んで頭を撫でてやる。そして『出口』を指差した。
「さ、お帰り。あなたの飼い主も心配していると思うわ」
霊夢が「さあ」と促すと、犬は素直にその隙間を潜り抜けていった。見届けてから霊夢は札を取り出して、隙間を埋めるように結界を展開する。
これであとは紫を呼んできて直してもらうだけで、すべてが完了だ。しかし達成感はあるものの、一抹のなんとも言えない切なさが残る。
そういえば魔理沙が不思議と静かだったのが気になった。彼女の性格からして、真っ先にからかってきそうなものだが。
「なんか少しだけしんみりしちまったぜ。ガラにもないけど」
意外すぎる反応だった。しかし、不思議とその気持ちが霊夢にも理解できる。
「……そうね、私も。自分でも意外だわ。ただ元ある場所へ帰したってだけなのにね」
自分の手のひらをじっと見つめて、一回二回握り、あの感触を思い出す。すると自然に笑みが零れた。
「なんだ、お前も飼いたくなったのか?」
魔理沙が笑いながら、いつもの調子でからかってくる。
「まさか」
ならば霊夢も切り替わらなければならない。柔らかではない、不敵な笑みを漏らした。
もう、いつもの霊夢だった。
「さ、帰りましょうか」
「そうだな」
いつの間にやら陽は傾き始めていて、夜がやって来ようとしている。
明日は紫を捕まえて結界の修理をさせなければいけない。今日は早めに床に就こう。
「魔理沙、なんか食べたいのある?」
「げっ、どうした霊夢。熱でもあるのか?」
心底から驚いたらしく、魔理沙は箒から落ちそうになる。
「熱がなきゃ死んでるわよ。―――ま、今日くらいはあんたのリクエストに応えてあげてもいいかなって。嫌ならいいけどね」
「じゃあ、そうだな……」
「家に着くまでには決めておいてよね」
そう言って微笑む霊夢は、最後にもう一度だけ、後ろを振り向いた。もう誰も、何もいない。
―――元気でね。
さあ、これで本当にさようなら。今から、いつもの私だ。
あの犬は、私にとっての幻想だったのだ。あるべきものをあるべき場所へ。幻想を幻想へ。そうあれかし。
空を飛んで先行する魔理沙を追って、霊夢もまた空へと飛び立った。
隙間は霊夢が連行してきた紫によって本格的に直されて、あっさりと塞がった。また開くこともあるかもしれないが、霊夢はもうそんなことがないように願った。
「犬が迷い込んだ、ねえ。ありえなくはないけど、珍しすぎる事例だわ」
紫に昨日の顛末を教えると、「お見通しですわ」ではなく、紫自身も「意外」だと漏らした。
「人間ならともかく、犬が来るってことは本当に珍しいの。人間よりも感覚が鋭敏で、本能で危険を回避する生き物ですもの。『通常』と『違う』場所や事態は忌避する、ある意味賢い進化を遂げたのよ。殊更、幻想郷は異質すぎる。獣達ならそれが分かる筈なの。例え穴が開いていたとしても、入ってくるなんてありえないのよ」
「へえ。なら、なんで迷い込んできたのかしら」
「……そうね。私の推測になるけど」
紫はこほんと咳をして、語りだした。
「本能、って言ったわよね。危険を回避する為の。それが弱いのかもしれないわ」
「弱い?」
「ええ。前置きになるけど、犬と人間の歴史は凄い長いのよ。その長い間で人は犬を自身の手元に置くようになった。犬はそれまでは自分で狩りをして生き抜いてきたのに、ある日餌をくれる奴が現れた。当然、慣れてくれば狩りをしなくなるのよ」
「なんかそれを聞いちゃうと、人間が凄い悪いことをしたような気がしてくるわ」
「当たり前の反応ね。でも、餌をあげる代わりに、人間は犬に労働をさせるのよ。雇い主と傭兵ってところね。そしていつしか犬も、人間が主人だと勝手に刷り込まれるようになった。人間は図らずしも、最良のパートナーを手に入れたの。犬は恩を忘れないから」
「へぇ。成程ね」
霊夢の脳裏に赤い館のメイド長の姿が浮かび、再び納得した。
「最初は守人として。でも時代が変わるに連れて、危険も少なくなっていったわ。犬は次第に愛玩動物として、その地位に就くことになったのよ」
「―――読めてきたわ。牙を痛くないように削られ続けてるようなものね」
「そういうことよ。だから、あなたが帰した犬も平気で本能を無視して、幻想郷に辿り着いたのかもしれないわね」
それはよくよく考えると恐ろしいことだ。『危険』を『危険』だと思えないのだから。
霊夢は考える。もしもそれが続くとなれば。犬だけではなく、人間にも及ぶとなれば。
いつか幻想を幻想と思わくなってしまう時代が来るのかもしれない。尤も博麗大結界がある以上、幻想郷が自由に行き来できる観光名所になったりすることはないだろうが、それでも一抹の不安は残る。もしかしたら幻想郷から帰ってきた外の人間が、仲間を集めて大挙して押し寄せるかもしれない。
幻想は幻想のままがいい。
『外の物が幻想郷に増えるのは好ましくない』。紫が霖之助に言った言葉の真意を、霊夢は理解したのだった。
「さて、霊夢。話したこっちも不安になっちゃいそうだわ。だから、結界を全体的に強化しに行きましょうか。もっとも、根本的な解決にはならないけどね」
「―――そうね。そうしましょうか」
『外』の為にも、何より自分達の為にも、それはきっと必要なことだ。例え気休めだったとしても。
今のままの付き合いで続いて貰いたい。
法を持つ神社の巫女として、博麗霊夢として、そう願わずにはいられないのである。
終
ちりん。
「―――あら」
今、神社にいるのは霊夢だけ。彼女は縁側に腰掛け、季節外れになりつつある風鈴を見上げている。そして静かにお茶を呷った。
普段の騒々しさに打って変わり、今度は虫たちが騒ぎ始める時間帯だ。その様子を縁側に座って鑑賞するのが日課になりつつある。涼しくなり始めた気候も手伝って、快適な夜の合唱と相成るのだ。
「……そうね、そろそろ外すべきかも」
情緒という物はあるべき場所、時間にあってこそ味が出る。すでに時期を過ぎてしまったならば、また来年と少しの祈りを込めて仕舞うべきである。
やがて、虫たちの羽音が徐々に増していく。
「さて、そろそろかしら」
その喧々を背に、霊夢は台所へと向かう。
新米の旨さは時間との戦いである。早くても遅くても駄目だし、そこに水の量や研ぎ加減も必要になる。職人芸とまではいかないものの、経験を積まなければならない事に間違いはない。
「……うん、まあこんなもんか」
一口、二口と食し、及第点だったことに安堵する。
今日も昨日と同じく、白米を主食に味噌汁と漬物、豆腐に焼き魚といった和食である。箸を持ち、手を合わせた。
「いただきます」
食事前の儀礼を済まし、箸を卓上に走らせた。
「よ、お邪魔するぜ霊夢」
箸が焼き魚の直前で止まり、縁側へと向けられる。その視線は諦観とも受け取られそうな程、「またか」の念に塗れていた。
「来るとは思っていたけどね、魔理沙。一応連絡くらいは入れなさいよ。来るなら来るって」
「堅いこと言うなよ、お前と私の仲じゃないか」
「寄生と宿主の仲かしらね?」
皮肉たっぷりの言い回しを軽く笑い飛ばし、否定も肯定もしない魔理沙に内心呆れつつも、霊夢は自分の食事を冷めないように結界で包み、魔理沙の分を用意することにした。
「さすが手際が良いな。私もいいかげん覚えようかしら」
「そう思うなら、そうしてくれると大いに助かるわ」
「出来るもんならそうしてるぜ。でもあいにくと、人には得手不得手があるんだ。あと家にそんなスペースはないしな」
それは自業自得でしょ。それもそうだな。
もう慣れっこになってしまったやり取りを交わしつつも、程なく作業は終了する。
「んじゃ、いただきますっと」
「はいはい、召し上がれ」
自分とは対照的に箸を積極的に進めていく魔理沙を見やって、霊夢も夕食を再開することにした。結界を司る札を摘んで、剥ぎ取った。
そうすると結界は音もなく弾け、崩れ去る。さあ、自分も夕食を―――
『 』
「……あれ?」
「どうした霊夢?」
結界が弾けて消える時、何か違和感があった。結界が消える時は一定方向に四散するのだが、今回はなぜか縁側へとすべてが流れていったのだ。縁側の先には、大結界が張られている境内がある。
「あー、いや、なんでもないわ。さ、早く食べちゃいましょ」
きっと気のせいだろう。気のせいじゃないにしても、魔理沙がいると話がこじれそうだ。
訝しげにしつつも箸を止めない対面の魔法使いを少しだけ凄いと思いながら、霊夢も箸を進ませる。
(調べるなら、魔理沙が帰ってからね)
漬物を齧りながら、焼き魚を箸で解した。
博麗の大結界によって隔絶されている外の世界と幻想郷。その結界は時折緩んだり穴が開いたりもするが、結界自体が解かれた事は一つもない。
故に、霊夢の無意識下で、結界は常にそこにあると根付いていたのだ。実際、結界は今も存続しているし、弱まる様子もない。
だから、霊夢がその綻びに気付いたのは些細な偶然だった。
なるほどね。ああなるほどね。なるほどね。
理由は恐ろしくなるほど単純明快だった。思わず脱力し、肩の力が抜けていく。また異変かと先走りしなくてよかった。
大きさにして一尺六、七寸といったところか。地面に扇を描くように結界に穴が開いている。だから弾けた結界が吸い寄せられるようにこっちへと流れていったのだ。
「こういうのは紫の仕事なんだけど。まあ仕方ないか」
自分でも、これくらいの大きさなら軽く修繕くらい出来る。あとは紫を引っ張ってきて直させればいい。
さあ、もう夜も遅い。とっとと終わらせて床に就こう―――
「わん」
「……へ?」
いざ。札を構えようとしている中途半端な体勢のまま霊夢は固まった。
わん、と聞こえた。つーでもすりーでもなく、確かに聞こえたのは「わん」だった。
恐る恐るゆっくりと、眼下に目線をずらしていく。
「わん」
足元に座り込んでいるのは、大きめの、栗色の毛を持つ犬。円らな瞳で霊夢をじっと見ている。
「…………わん」
とりあえず真似をしてみた霊夢だったが、それですべてが解決するわけもない。心なしか眩暈感を覚えた。
時々外の人間が紛れ込むことはあるが、自分が遭遇するとは思わなかった。それも、相手は犬だ。こういった場合の対処方法なんてものは宇宙の果てを知らないように知らないので、とりあえず溜息を吐くことにする。
「……うーん、どうしようかしら」
このまま放って帰ったとすると、明日には骨も残っていないかもしれない。そうなると夢見が悪いことこの上ない。
目が合った。「う」純真無垢な視線が霊夢には痛い。
「ま、しょうがないか」
もう夜も遅い。明日、霖之助さんにでも相談してみよう。あそこなら外の書物もあることだし。眠いし。
そう考え始めると、急に気が楽になる。霊夢は微笑んで、屈み、犬に手を差し伸べた。
「ほら、ついてきなさい。安全な場所に連れてってあげる」
「わん」
ぽふ。
差し出した手に置かれる柔らかい感触。
「……いや、そうじゃなくて」
霊夢は苦笑した。
「へえ、なるほど。それはまた珍しいこともあるもんだ」
香霖堂店主、森近霖之助の反応はやはり予想通りのものだった。
陳列してある外の書物の中に一冊だけ動物について書かれた物があり、それによると犬は「ゴールデン・レトリバー」というらしい。
「長ったらしい名前ね。飼い主も呼ぶのに疲れないのかしら」
「まあ、外の世界の人間は何を考えているか僕達には分からないからな。そういった好事家がいるのかもしれない。もしくは、長い名前をつけることで呪術的な意味合いを持たせる、とかね」
霊夢が開けっ放しになっている扉の方面を見やる。流石に店内に犬を入れるわけにはいかないので、迷い込んできた珍客は店の前で行儀よく座っている。時々「わん」と元気な声が聞こえるので、霊夢は心なしか安堵する。
「それでどうするんだ? まさか飼うわけでもないだろう?」
「そうね。飼い主も探してるだろうし。まさか同じ世界だけどまったく違う世界にいるなんて思ってもいないでしょうし、早めにね」
結論が出たところで霊夢は身を翻す。善は急げ、とはよく言ったものだ。
「それじゃあ今日のうちに返しちゃうわ。流石に飼い主のところに直接はアレだから、安全な場所まで同伴だけどね」
ただし同伴と言っても連れ立って大結界を越えるわけではなく、犬と一緒に行くのは『結界』だけだ。自分の結界なら並大抵のことでは破壊されたりはしない。『飼い主のところに戻るまで持続する』よう命令しておけばいい。
「その方が良い。善は急げの他にも、幻想郷に外の物が多くなるのは好ましい傾向じゃない。……まあ、紫の言っていたことだけど」
くす。霊夢の無意識な笑みが零れた。
霖之助にとって外の世界は憧れにも近い存在であるので、外の物があればあるほど喜ばしい。しかしあくまでもここは幻想郷であり、そこに生きる人たちにとってはここが世界。外の物こそ幻想なのだ。幻想は幻想のままが好ましい。紫が言いたかったことはそれなのだろう。
こう言えるようになるなんて、偏屈なところも少しは直ってきたのかしら。
―――わん!
「ん?」
いざ出ようとしたところで、再び犬の鳴き声がこだました。それは今までのものとは違い、どこか喜んでいるような、弾んだものだった。
「―――うわっ、なんだこいつっ!? や、やるのかっ!? やらせるかーっ!」
「…………」
「…………」
二人で一斉に押し黙る。もう聞き飽きた声が外で暴れていて、何をしているのか、『されているのか』、大体想像は付く。
外に出ると、犬に絡みつかれている魔理沙の姿があった。「うわっ」とか「やめっ」とか「舐めるなっ」とか、一人と一匹の仲は大層良さそうに見える。必死なせいか、魔理沙は二人に気付かない。一方、犬は嬉しそうに魔理沙の頬を舐めている。
なんとも微笑ましい風景だ。二人は呆気にとられるのではなく、ふっと笑った。
「相手が犬なら人間じゃないんだ! 私だって! くらえマスタ―――」
「犬相手にかますなー!」
そのほのぼのした風景を一気に殺伐とさせかねない大砲が構えられようとしたところで、霊夢のお払い棒が魔理沙の頭をしばいた。良い音だなぁ、と霖之助は感心する。
「痛ってー……ってうおっ!? れ、霊夢に香霖!? いつからそこに!?」
「あれだけ騒いでたら誰だって気付くと思うが」
しかし……。
霖之助はそう言ってから、目線を逸らして吹き出した。
「仲が良さそうで羨ましい限りだ」
「ち、違うっ! 私は何もしてないのにこいつが絡んでくるだけだ!」
「わふ」
必死に否定するものの、振り払おうとしない様子から見るに、決して心の底から嫌というわけではなさそうだ。
「……まあそれはともかく、香霖。犬なんてどうしたんだよ。まさか飼うわけじゃないだろうな」
「ああ、それは僕じゃなくて」
霖之助が言おうとしたところで霊夢が遮る様に言った。
「私の案件よ。一言で言えば迷子ね、迷子」
ああ、と頷いて、魔理沙は納得する。
「まあ事情は概ね分かったから、いいかげん引き剥がしてくれないか、これ。動きにくいことこの上ない」
「いいじゃない、懐かれてるみたいだし。引き離すのも犬に悪いわ」
「くっ、人の話を聞かない奴め」
「ああ、でもこの子は今日返すわけだし、いつまでもそのままじゃ運び辛いわね」
仕方ない。本当はもう少しこの光景を見ていたかったが、とても仕方ない。
「ほら、おいで。帰るわよ」
ぴく。
霊夢が屈んで手招きをすると、犬はあっさりと魔理沙から離れた。おおっ、と魔理沙が感心し、ふむ、と霖之助が唸る。
そしてのそのそと霊夢の前へと歩いていって、座り。
ぽふ。
肉球再び。霊夢はまた苦笑して、
「だからそうじゃないって」
まあ、いいけどね。
そう思うのだった。
「ごおるでんれとりばあ? それがこいつの名前ってか?」
「そ。長いでしょ?」
うーん。魔理沙は唸る。それは果たして飼い主のネーミングセンスを疑っているのか、はたまた別のことなのかは分からないが。
ややあって、魔理沙は霊夢に追従する犬を見た。すると何か閃いたのか、手を叩いた。
「……なあ、もしかしてそれって犬の種類って奴じゃないのか? 名前はまた別にあると思うんだが」
「え?」
「だってほら、そいつ首輪してるだろ。そこになんか書いてあるぜ」
どれどれ。霊夢が一旦止まると犬も止まる。首輪は確かに見えるが、少し毛に埋もれているので、見えるように掻き分けた。
「あ、ホントだ。じゃあこれがこの子の名前って線が強そうね」
「だな。私達だって人間っていう種類だし、名前は他にあるだろ?」
「なるほどねー」
魔理沙の言うことは尤もだった。霖之助と二人であーだこーだと論議をし、気付かなかった自分が恥ずかしくなってくる。
あとで教えてあげようっと。彼の驚く顔を想像するのは容易かった。
結界の隙間はまだ健在だった。しかし昨晩と比べてもなんら変わった様子はなく、どうやらこの犬だけが入ってきてしまったようだ。不幸中の幸いと表せば分かりやすいかもしれない。
「なんだ。迷子ってのは人里じゃなくて『あっち』からか」
「珍しいこともあるもんでしょ? 人ならともかく犬だもの」
そう改めて考えると、自分は結構、貴重な体験をしたのかもしれない。後学の為、と考えたが、今回のようなケースは稀だろう。役に立つとは思えないので、「こんなこともあったわね」で済ませるのが一番良い。霊夢はそう考える。
「それじゃあ、お達者でね」
詠唱の後、纏わり付くように結界が犬を覆う。これで心配はないだろう。
屈んで頭を撫でてやる。そして『出口』を指差した。
「さ、お帰り。あなたの飼い主も心配していると思うわ」
霊夢が「さあ」と促すと、犬は素直にその隙間を潜り抜けていった。見届けてから霊夢は札を取り出して、隙間を埋めるように結界を展開する。
これであとは紫を呼んできて直してもらうだけで、すべてが完了だ。しかし達成感はあるものの、一抹のなんとも言えない切なさが残る。
そういえば魔理沙が不思議と静かだったのが気になった。彼女の性格からして、真っ先にからかってきそうなものだが。
「なんか少しだけしんみりしちまったぜ。ガラにもないけど」
意外すぎる反応だった。しかし、不思議とその気持ちが霊夢にも理解できる。
「……そうね、私も。自分でも意外だわ。ただ元ある場所へ帰したってだけなのにね」
自分の手のひらをじっと見つめて、一回二回握り、あの感触を思い出す。すると自然に笑みが零れた。
「なんだ、お前も飼いたくなったのか?」
魔理沙が笑いながら、いつもの調子でからかってくる。
「まさか」
ならば霊夢も切り替わらなければならない。柔らかではない、不敵な笑みを漏らした。
もう、いつもの霊夢だった。
「さ、帰りましょうか」
「そうだな」
いつの間にやら陽は傾き始めていて、夜がやって来ようとしている。
明日は紫を捕まえて結界の修理をさせなければいけない。今日は早めに床に就こう。
「魔理沙、なんか食べたいのある?」
「げっ、どうした霊夢。熱でもあるのか?」
心底から驚いたらしく、魔理沙は箒から落ちそうになる。
「熱がなきゃ死んでるわよ。―――ま、今日くらいはあんたのリクエストに応えてあげてもいいかなって。嫌ならいいけどね」
「じゃあ、そうだな……」
「家に着くまでには決めておいてよね」
そう言って微笑む霊夢は、最後にもう一度だけ、後ろを振り向いた。もう誰も、何もいない。
―――元気でね。
さあ、これで本当にさようなら。今から、いつもの私だ。
あの犬は、私にとっての幻想だったのだ。あるべきものをあるべき場所へ。幻想を幻想へ。そうあれかし。
空を飛んで先行する魔理沙を追って、霊夢もまた空へと飛び立った。
隙間は霊夢が連行してきた紫によって本格的に直されて、あっさりと塞がった。また開くこともあるかもしれないが、霊夢はもうそんなことがないように願った。
「犬が迷い込んだ、ねえ。ありえなくはないけど、珍しすぎる事例だわ」
紫に昨日の顛末を教えると、「お見通しですわ」ではなく、紫自身も「意外」だと漏らした。
「人間ならともかく、犬が来るってことは本当に珍しいの。人間よりも感覚が鋭敏で、本能で危険を回避する生き物ですもの。『通常』と『違う』場所や事態は忌避する、ある意味賢い進化を遂げたのよ。殊更、幻想郷は異質すぎる。獣達ならそれが分かる筈なの。例え穴が開いていたとしても、入ってくるなんてありえないのよ」
「へえ。なら、なんで迷い込んできたのかしら」
「……そうね。私の推測になるけど」
紫はこほんと咳をして、語りだした。
「本能、って言ったわよね。危険を回避する為の。それが弱いのかもしれないわ」
「弱い?」
「ええ。前置きになるけど、犬と人間の歴史は凄い長いのよ。その長い間で人は犬を自身の手元に置くようになった。犬はそれまでは自分で狩りをして生き抜いてきたのに、ある日餌をくれる奴が現れた。当然、慣れてくれば狩りをしなくなるのよ」
「なんかそれを聞いちゃうと、人間が凄い悪いことをしたような気がしてくるわ」
「当たり前の反応ね。でも、餌をあげる代わりに、人間は犬に労働をさせるのよ。雇い主と傭兵ってところね。そしていつしか犬も、人間が主人だと勝手に刷り込まれるようになった。人間は図らずしも、最良のパートナーを手に入れたの。犬は恩を忘れないから」
「へぇ。成程ね」
霊夢の脳裏に赤い館のメイド長の姿が浮かび、再び納得した。
「最初は守人として。でも時代が変わるに連れて、危険も少なくなっていったわ。犬は次第に愛玩動物として、その地位に就くことになったのよ」
「―――読めてきたわ。牙を痛くないように削られ続けてるようなものね」
「そういうことよ。だから、あなたが帰した犬も平気で本能を無視して、幻想郷に辿り着いたのかもしれないわね」
それはよくよく考えると恐ろしいことだ。『危険』を『危険』だと思えないのだから。
霊夢は考える。もしもそれが続くとなれば。犬だけではなく、人間にも及ぶとなれば。
いつか幻想を幻想と思わくなってしまう時代が来るのかもしれない。尤も博麗大結界がある以上、幻想郷が自由に行き来できる観光名所になったりすることはないだろうが、それでも一抹の不安は残る。もしかしたら幻想郷から帰ってきた外の人間が、仲間を集めて大挙して押し寄せるかもしれない。
幻想は幻想のままがいい。
『外の物が幻想郷に増えるのは好ましくない』。紫が霖之助に言った言葉の真意を、霊夢は理解したのだった。
「さて、霊夢。話したこっちも不安になっちゃいそうだわ。だから、結界を全体的に強化しに行きましょうか。もっとも、根本的な解決にはならないけどね」
「―――そうね。そうしましょうか」
『外』の為にも、何より自分達の為にも、それはきっと必要なことだ。例え気休めだったとしても。
今のままの付き合いで続いて貰いたい。
法を持つ神社の巫女として、博麗霊夢として、そう願わずにはいられないのである。
終
非常に幻想郷らしいお話でした。
犬に遊ばれる魔理沙萌え。
それにしてもお手がかわいい