* このSSは作品集33「そんなエサに俺様がこぁクマー!」の設定上の続編ですが、話的なつながりはありません。
~ 一応前回のあらすじ ~
「こ……ここが大魔法図書館!」
「私が魔界の勧誘員……謎の魔族『K』よー!」
(さては仏教徒ーー!?)ガビーン
「パチェがんばってね! あたしは出てこないけど応援してっかんね!」
「くらえ! ビジネススキル☆とても凄い☆寝技!」
「バカッ早くメロンパンを買いに行かせなさい!」
「ン……ンナローー こ……こんな条件で……契約されてたまるかよォォーー!!」
「それアメリカ合衆国大統領じゃないかーーー!!!」
~ よくわかった所で本編をお楽しみ下さい ~
すっかり陽が落ちるのも早くなった秋の日、ドアを開けて入ってきたのは魔理沙ではないと分かった時、僕、森近霖之助は正直なところ、安堵をおぼえた。もっとも、魔理沙であれば、あんな丁寧なドアの開け方はすまい。なので、より正確に言うならば、魔理沙ではないと確認した時、ということになるだろうか。
「こんにちは。ここは香霖堂さんですよね?」
まず目に入ったのは赤だった。腰まで伸ばしている髪は緩やかな波を描いており、窓から注ぐ西日も相まって、鮮烈な赤を僕に伝える。女性にしてはなかなかの長身で、体型もそれに見合った、かなりメリハリのあるものだ。赤い髪で豊かな体型というと、ある二人が想起させられるが、門番嬢の引き締まった感じとも、死神嬢の弾むような感じとも異なる、柔らかく落ち着いた印象を受ける。黒を基調に、シックにまとめられたその服装は、何かと装飾過多になりがちな幻想郷の少女達の中にあっては、割と珍しいほうだと言える。穏やかに微笑むその姿は、普段騒がしい少女達ばかり相手にしている僕にとっては、かなり新鮮である。
だというのに、僕の彼女に対するファーストインプレッションは、なぜかあるひとの姿なのだった。あの胡散臭さ全開な妖怪と彼女では、共通点のほうが少ないように思えるのだが……
「……それとも、もうこんばんはでしょうか?」
キャラメルを溶かしているような甘い声に、僕はふと我に返った。せっかく来てくれたお客(……とも言い切れないところが悲しいが)に対して、なんだかんだと値踏みするのは礼を失した態度と言える。僕は慌てて読みかけの本を机に置くと、椅子から腰を浮かせた。
「いらっしゃいませ。もう暗いでしょう、今灯りを点けますよ」
「いえいえお構いなく」
社交辞令的なやり取りを経つつ、僕はランプに火を点した。あいにく電球が切れてしまっているため、このような旧世代の技術に頼らざるを得ない。柔らかな光が漏れ出、室内を染める赤が相対的に少し和らぐ。
「何かお探しのものがおありですか?」
今更だが、僕の店は繁盛からは程遠い。たまのお客となればなんとしても何かお買い上げいただきたいというのが正直なところである。半ば趣味でやっているようなものとは言え、僕も商売人であるからして、売れないよりは売れたほうが嬉しいに決まっている。
僕は、なるたけそのような内心を悟られないよう、冷静、かつ穏やかに彼女に話しかけた。
陳列してある和人形を見止め、興味深そうにつついていた彼女は、その言葉に驚いたように目を少し見開く。側頭部から角のように生えている蝙蝠状の羽根(と言っていいのかはわからない。飛行の役には立たなさそうであるし)が二、三度はためいた。
「ああ、申し訳ありません。触ってはいけませんよね」
「いえ、どれでも自由に手に取っていただいて結構ですよ。ただ……」
苦笑交じりにそう言うと、彼女は視線を僕に向け、小首をかしげる。
「ただ?」
「この店には、いわゆる『曰く付き』の品が多いのです。ですから、うかつに触ると、怨念が襲い掛かってくるかも……」
トーンを落として続ける。少々のスパイスは、かえってその品への興味をかきたてるものである。もちろん、相手が引いてしまう可能性もあるが、こと幻想郷の少女達に限ってその程度でびくつくような神経は持ち合わせていないだろう。それに、本当に危険なものなら、そもそも店頭には出さない。
「怨念……ですか」
しかし、残念ながら反応は薄いものだった。そんなものは信じていないのか、それとも別に恐れるようなものでもないのか。彼女は再び視線を前方に戻し、じっと人形を見つめている。
「その人形、お気に召しましたか?」
なので、切り口を変えてみることにする。
「ええ、このお人形さん、ある方に似ている気がするのです。不思議ですね、部分部分は全然違うのに、全体として似ているように思えるなんて」
そう言って彼女は目を細め、艶のある黒髪を人差し指でそっと撫でた。その人形は拾い物である。拾ったときはところどころ破損していたが、俄仕込みの修復術と裁縫術でなんとかそれなりに見れるようにはしたつもりだ。和人形にしては随分白い肌と血色の悪そうな唇が、本来あでやかであるはずの振袖姿を、無理して着せられ外に連れ出されているような、なんとも不健康そうなものにしている。常にうつむいているように見える、中ほどまでまぶたを閉じた瞳もそれに拍車をかけているだろう。
つまるところ、愛玩用にするにはどうにも不適切なデザインに思える。ある方というのも、きっと愛玩に適した性格ではないのだろう。
「それはおそらく……もし魂に色というものがあったとして……その方というのと、この人形のそれが、とても近しいものなのでしょうね」
「色、ですか。それは今まで考えたことがありませんでしたが。なるほど、そうなのかもしれませんね」
彼女はそう呟いて含み笑いをすると、再び自分と人形の世界に入り込んだ。よほどお気に召したようだ。ある方というのも、きっと随分と愛されているのだろう。機嫌よく戯れる彼女の横顔は言ってしまえば魅力的であり、今ここでそれを独占していることに、僕は誰とはなしに優越感をおぼえた。少なくとも、彼女が何も買わずに帰ってしまっても、まあいいかと思える程度には。
僕はもちろんここで価格交渉を始めるような無粋な真似はせず、そっと彼女から離れると、音を立てないように注意しながら愛用の椅子を引き、腰を下ろした。
すると嫌でも、眼前のそれが目に入る――僕を朝から憂鬱な気分にさせていた元凶だ。せっかく忘れかけていたのだが、また思い出してしまった。僕はそれに軽く指を伝わせ、軽くため息をついた。しばし沈思し……そして目を開けると、文字通り鼻の先に彼女の顔があった。
「う、ん……?」
間抜けな声を上げる。彼女はくすりと笑い、ゆっくりと曲げていたひざを伸ばした。
「申し訳ございません。お眠りになってしまったのかと思ったものですから」
「いや、こちらこそすみません。お構いもしませんで」
「いえいえ、こちらこそ、売り物に好き勝手してしまって」
そう言う彼女の手には何もなかった。気に入ったが買うつもりはないと、そういうことだろうか。
「とても素敵なお人形さんだと思うのですが、私はお金を持っていないのです」
その疑問に答えるように、彼女は残念です、と僅かに肩をすくめた。僕としてはそうですか、と言うほかない。
「本来これを最初に言うべきだったのですが、すっかり夢中になってしまいまして。駄目ですねえ」
「店ではなく、僕個人に用がおありで?」
お金を持っていないということは、つまり買い物に来たわけではないのだろう。強盗でないならば、僕に用があると考えるのが自然である。
「そうなります。なんでも香霖堂様は、『未知の道具の名称と用途が分かる』という能力をお持ちとか」
「ええ、そうですが――ああ、そこの椅子を使ってください。ずっと立っていては疲れるでしょう」
僕は来客用の椅子を勧め、それに彼女はそうですね、と従った。僕だけ座っているのも気が引けるし、会話の間は僕が見上げる形になるので首が疲れる。テーブルを挟んで向かい側、これでお互いに落ち着いた格好になる。
手元の水筒を取り、琥珀色の液体をカップに注いだ。この水筒、一見ただの水筒だが、実は「魔法瓶」なる外の世界の道具である。用途は「飲料を冷まさずに保管する」。しかし魔法瓶と言うからには魔導具の一種に違いないが、一体どのような術式を用いているのか、とんと見当が付かない。外の世界では魔法はかなり廃れたと聞いていたが、なかなかどうして大したものだと思う。まあ、最近の拾い物の中では抜きん出て便利なので、売り物にせずこうして使用しているというわけだ。
「どうぞ。紅茶ですが、お口に合うといいのですが」
「ありがとうございます、いただきます」
彼女は口元を緩めると、両手でカップを持ち、ゆっくりと水面に口付けた。登り立つ湯気のためかその双眸は閉じられ、ただお茶を飲んでいるというそれだけの場面が、何か額縁に入った絵画のように感じられる。おいしい、という呟きが僅かに漏れ出、僕は大いに満足した。
「ところで、あなたとはたぶん初対面だと思うのですが、どちらでそのことをお知りに?」
「ああ、私は紅魔館に住んでおりまして――メイド長などから、香霖堂様のことは伺っております」
「おや、そうなのですか。すると――」
紅魔館とは、ここから少し離れた湖のほとりにそびえる洋館である。幻想郷には珍しく純西洋風なたたずまいで、吸血鬼の主を筆頭に、数多くの使用人が暮らしている。うちの数少ないお得意先でもあり、当然僕のことも知悉している。そこから来たとなると、彼女もそこで働くメイドなのだろうか。物腰からして十分考えられる話ではあるが、彼女の服装は使用人服というよりは、よく糊のきいたシャツに黒のベストを黄色のタイでまとめ、そして黒のロングフレアスカートと、メイドというよりはまるで司書のように見える。もっとも、メイドが常にメイドの格好をしているわけではないだろうが。
「いえ、私はメイドではなく……間借りさせていただいているというか、言うなれば居候でして」
「ほう」
私のような者でも快く滞在を許していただいて、なんとも有難いところです……と彼女は微笑をたたえて続けた。やはりメイドではなかったらしい。幻想郷有数の名家である紅魔館のこと、居候の一人や二人いても別におかしくはないが、そうなるに至った事情というのも気になるところではある。
「おっと、これではいつまでもお話が進みませんね。要は、私がここに来たのは、香霖堂様にその能力を生かした仕事を一つご依頼したいということなのです」
「と、言いますと」
水を向けると、彼女は説明を始めた。
「ご存知とは思いますが、紅魔館の歴史は、主人の歴史ともども、大変長うございます。それだけ続いておりますと、昔集めたり、頂いたりしたものが溜まってきまして。中には、一体何に使うのかすら分からないものもあるという始末」
「ほう」
「そこで一大整理を行うことにしたのですが、香霖堂様にはよく分からないものの鑑定や、不要なものの引取りをお願いしたいのです」
聞けば、なるほど僕にうってつけの依頼である。スカーレット家ゆかりの品々にはとても興味をそそられるし、道具のほうにしたって、倉庫に死蔵されているよりは、ここに並んでいたほうが、まだしも人の目に触れる機会もあるだろう。
「それは、断る理由はありませんね。むしろぜひ、とこちらからお願いしたいくらいです。いつでも構いませんので、そちらの都合のいい日に呼んでください」
僕がそう言うと、彼女は良かった、と顔をほころばせた。
「皆手が離せないということで私が来たのですが、もし香霖堂様がお断りになったらどうしようかと思っておりました。紅魔館までご足労いただく形になると思いますが、それでもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。そんな興味深い話、断るはずがありませんとも」
「ありがとうございます。では後日、使いの者を参らせますので」
沈みきる最後の輝きを伝えようとするのか、太陽の光が店内を茜に染めた。森の外れという立地上、木々が天蓋を覆うため、普段この家に日光がさんさんと降り注ぐなどということはない。しかし、毎日この時間だけは、どういった偶然か窓から直截日光が注ぎ込むのだ。何か太陽が僕にだけメッセージを送っているようで、僕はひそかに、この時間を気に入っていた。
「ところで」
彼女の声に、僕は呆としていた意識を戻す。
「その。そこにあるのは、ひょっとして魔理沙様の八卦炉ではありませんか?」
漠然と手で指し示すその先は、確かに八卦炉である。光を受けて眩しく輝くと共に、長く伸ばした影が壁に色を付けている。
「ええ……魔理沙をご存知なのですか?」
「はい。魔理沙様は、よく紅魔館へいらっしゃいますから。私もよく遊んでいただいております」
「それは……大変でしょう」
彼女はそれには答えず、ただ楽しげに微笑んだ。それだけで言わんとすることは伝わった。
何をするにも全力で突撃する魔理沙のこと、霊夢のような性格でもない限り、相手をするのにはとにかく体力を使う。僕の場合ははなから眼中にないので助かっているが、弾幕ごっこになど付き合わされた日にはたまったものではないだろう。
「実を申しますと、初めて香霖堂様のことを伺ったのは、魔理沙様からなのですよ」
「なんと言っていましたか」
こんな僕でも、他人の評価というものは気になるところである。どうせ魔理沙のことだから、ろくな言い方はしていないだろうが。
「さて、私の方からはなんとも」
案の定、彼女はくすくすと笑い声を立てるのみで、お茶を濁す。
「ですが、魔女とは偏屈なものです。自らの魔導具を香霖堂様に預けるとは、よほどの信頼がなければできないことだと思いますよ」
「どうでしょうかね……」
苦笑交じりに返した僕に、彼女は小首をかしげた。
「おや、違ったのでしょうか」
「これを預かった時に喧嘩をしてしまいましてね……魔理沙の生い立ちについてはご存知ですか?」
「人間の里の出身ながら、現在はお一人で暮らしていらっしゃるとか」
ぶかぶかの三角帽をかぶった少女がドアを叩いた日のことは、まるで昨日のように思い出せる。僕はなんだかんだと言いながらも、結局は涙目に負けて、魔理沙側に立ってしまった。霧雨氏は今でも僕が訪問すれば歓迎してくれるが、時折言葉の端に含まれる小さなトゲがたまらなく痛い。
だから僕も、余計なこととは思いつつ、つい魔理沙にあれこれ言ってしまうのだが……
「……魔理沙は家出娘なんですよ。一回くらい帰りなさいと言っても、聞いてくれるどころか不機嫌な顔をされるばかりで」
数日前も――と僕は続けて、八卦炉を手に取った。
「これの点検を受けるついでに少し強く言ったら、言い争いの果てに飛び出していってしまって」
これに関しては魔理沙が間違っていると思うので、僕に譲る気はない。たとえどれほど弾幕を張るのが上手くても、魔理沙は本質的にはまだ子供に過ぎないのだし、子供には親が必要なものだ……とは言っても、喧嘩の後というのは気まずいもので、僕は今、魔理沙に会いたいような会いたくないような、微妙な気持ちだった。おそらく魔理沙もそうだろうと思う。会えばどうして話の続きをせざるを得ないだろうし、また喧嘩になるのはどちらも嫌だろう。
「ははぁ、それで」
なにが「それで」なのかは分からないが、少し間をおいても説明される様子はなかったので、仕方なく僕は自分の話を続けた。
「今日、取りに来るはずだったのですが。魔理沙の意地っ張りにも困ったものです」
「それはそれは。ですが、まさかとは思われますが、香霖堂様は、魔理沙様がただ意地を張っているだけだなどと、思われてはいないでしょうね?」
そう言いつつも彼女は、そう思っているに違いない、という雰囲気を、言外に匂わせてくる。事実その通りであったので、僕は軽く肩をすくめた。
「やっぱり。男の方って、いつの時代も女の子の事が分からないのですね。私はなぜ魔理沙様が飛び出してしまわれたのか、分かる気がいたしますよ」
彼女はいたずらっぽく笑い、上目遣いで僕を見つめてきた。
「分かるとおっしゃるなら、是非ご教示いただきたいですよ」
憮然として告げるが、僕の要求は、だめですよー、とにべなく断られてしまった。
「それは香霖堂様が、ご自分でお気づきにならなければ」
「分かる気がしませんよ」
僕は道具のことならよく分かるが、人の心の機微などにはどうにも疎い面がある。こんな辺鄙な場所に年中こもっているからだ、などと言って魔理沙はよく僕を宴会などに引っ張り出そうとするが、苦手なものに怯まず挑戦できるような年代は、もうだいぶ前に過ぎてしまった。手持ちの武器――知識と論理――で生きていくほか、どうもうまい方法が見つからないのだ。
「ふふ」
声に視線を戻すと、彼女が嫣然と微笑んでいる。僕はなんだか急にからかわれているような気分になり、頬に血が集まるのが感じられた。顔の赤さをごまかしてくれたことを祈りたい夕日は残光と共に山の向こうへ去り、僅かに西空を紫に染めるのみである。急激に明度が減じたように感じられる店内を、ランプが薄暗く照らした。
これからは妖怪の時間だ。
「さて」
彼女が口を開く。用件も無事済んだことだし、紅魔館へ帰るのだろう。僕はと言えばなぜか感じる気まずさが何ともむずがゆく、彼女には悪いが、これはとてもよいタイミングであったと思う。
しかし、彼女が続けた言葉は実に予想外だった。
「ここからが本題です」
そう言い、組んだ両手にあごを乗せる。
「申し訳ございません。先ほど、わたくし一つ嘘をつきました」
この瞬間の僕はと言えば、さぞかし間抜けな顔をしていただろうと思う。
「……と、言いますと」
「香霖堂様、私の種族は、なんだとお思いになりますか?」
日が落ちたせいだろうか、店内の雰囲気が、今までと確かに違っているように感じられる。何か、大気中の水分がなくなってしまったような、ねっとりとした感覚。僕は思わず左右を見渡した。
「……そうですね、背中の、蝙蝠の羽根から察するに」
悪魔、ですかと僕は返した。この幻想郷において、悪魔とは希少であるものの、別段忌むべき存在というわけでもない。だと言うのに、その単語を口にするとき、僕の頬を一筋の汗が伝った。汗ばむような陽気でもないのに。
「そうです、悪魔なのです。隠してありますが、尻尾もございますよ」
彼女はふふ、と笑う。
「嘘と申しますのは」
笑う、というか、彼女は来た時からずっと笑っている。
「皆が忙しそうだったから、私が代わりに来た、というところでして」
しかし、今の笑いは、先ほどまでのそれとは何か異なるような気がしてならない。
「……どう違うと?」
「皆様が忙しそうだったのは本当ですが」
身を乗り出して、彼女は言う。
「実は、私から志願して、来たのですよ」
「それはまた、なぜ」
「なぜって、先ほど香霖堂様がおっしゃったではありませんか」
私は悪魔なのですよ――
彼女は更に身を乗り出す。
何か途方もないことが起きつつあるという予感に、僕は思わず椅子から腰を浮かした。
「おや、どちらへ?」
「いや、その……カ、カーテンを、閉めなければ、と」
「いいじゃありませんか、あとでも」
彼女は更に大きく身を乗り出し、とうとう片膝が机に乗った。
「い、いや、その、しかし」
「ふふ」
しどろもどろに言葉を発する僕に、彼女は目を細める。確かに見ているはずなのに、どこか焦点がずれているように思えるその瞳が、ランプの炎を宿して妖しく揺らめいた。
「ご存知かもしれませんが」
もう片膝もテーブルに乗った。
「紅魔館には、女性しかいないのです」
四つん這いの姿勢となり、そのまま彼女は蛇を思わせる動きでこちらへとにじり寄ってくる。
「そ、そうですか。それで?」
僕は蛙だ。腰を浮かした姿勢のまま、僕は蛇の視線に射られて磔となっていた。
「親交のある方々も、なぜか女性ばかりで」
自分の脈動の音が随分大きく聞こえる。
「私は、自由に外に出られるような身分ではありませんから」
唇の渇きを潤す彼女の舌が、他のどこよりも赤く、唾液にぬめるそれは触手を思わせた。
「香霖堂様が男性であると聞き及びまして、ずっとこのような機会を待っていたのです」
彼女のつま先がカップに触れ、倒れる。僅かに残っていた琥珀色の液体が、スカートの裾を染めた。
「ス、スカー、トが、濡れ、まし、た、よ」
声が裏返らなかったのは、僕の大いなる努力によるところである。だが、どうせならもう少し頑張って、首から下も動くようにして欲しかった。
「そのようですね。ですが、大した問題ではありませんよ。黒い生地ですし――」
彼女は右手で濁った空気をかき分けると、ツタのように指を僕の頬に這わせる。
「これから色々と――もっと濡れてしまいますもの」
絡めとられた。
彼女の唇が大きく三日月に釣りあがったかと思うと、僕の上半身は一気に、何か熱くて柔らかいものに包まれた。抱き寄せられたのだと、遅れて脳が理解する。彼女から発せられる果実が腐敗したような臭いは、しかしどうしようもなく甘かった。
「ああ――素敵です」
「な、何の――」
僕の言葉は、彼女がより身体を押し付けてきたことで遮られた。息が詰まってしまいそうで、僕は彼女を押しのけようとしたが、相変わらず身体は金縛りにあったかのように動こうとしない。さっきから僕を射抜いていた視線は、皮肉にも密着したことで外れたというのに、煮沸されきって凝った空気が僕を固定しているようであった。
なるほど、とほんの少し残った冷静な部分が理解する。つまり、僕はとうに釜の中だったわけだ。
かかった彼女の体重に、僕は再び椅子に腰を落とした。背中に手を回しながら、彼女は艶のある声で言う。
「本当に、久しぶりなのですから、男の方は。ふふ」
彼女の指先が触れるたびに、曰く言いがたい感覚が僕の身体を襲う。吐息が首筋を撫でるたびに、毛穴から彼女の因子がもぐりこみ、その毒をもって理性を溶かすようであった。
「霖之助様――」
彼女の熱っぽい甘言が、そっと耳朶を打つ。
「はしたない女は、お嫌いで?」
上気した頬が目に入った。抱擁による拘束が緩まり、背中にあった腕が首に回される。熱に潤んだ視線が僕の瞳を捕らえ、そらすことを許さない。そっと、しかしじっとりと手櫛を通されるたびに、神経など通っていないはずの髪に電流のような何かが流れ、そしてそれは蕩けるような心地よさを生むのだった。こうしていると、自分はなぜ抵抗しようなどと思っているのか、という気になってくる。そう、拒否しなければならない理由など、僕にはない――
彼女は瞼を下ろし、つい、とおとがいを上向ける。僅かに開いた上下の唇に架かる銀糸が、何かとても美しいもののように、僕には思われた。一種の神聖さすらおぼえながらも、自分も目を閉じるべきなのだろうかなどと、間の抜けたことを考える。
後頭部に掛けられた手に、微弱な力が入れられた。僕は唾をぐびりと飲み下す。
少しずつ近づいてくる彼女の唇が、ランプの炎を照り返し――
しかし、そのとき僕の脳裏をよぎったのは。
「ちょまっおまっとりゃあぁおわぁっ!?」
奇声と共に正面の窓ガラスが打ち破られ、何か黒い物が店内に飛び込んできた。バランスを崩したためかしばらくじたばたともがく物体から、金色の柔らかそうな何かが零れ落ちる。
「ま――魔理沙!?」
窓から入った風が凝った空気を吹き払い、僕はようやく呪縛から解放された。帽子の形状やそこから覗く金髪は、間違えようもなく霧雨魔理沙その人である。
僕の言葉に反応したのか、魔理沙は勢いよく顔を上げ、こちらをにらみつける。何かしらの障壁を張っていたのか、ガラスを割って飛び込んできたにもかかわらず、その肌には傷はない。
「な……なにやってるんだよお前ら!」
もっともその顔色は、薄暗い灯りの中でも分かるくらい真っ赤だったが。まるでリンゴのようだ。
「もう、無粋ですよ、魔理沙様」
両腕を僕に絡ませたまま、彼女は首だけをひねって魔理沙を見遣る。
「何が無粋だ! なにやってるんだっての!」
立ち上がりつつ怒鳴る魔理沙に、相変わらず僕に巻きついたままの彼女は少し考えるようなそぶりを見せ、そして言った。
「混ざりますか?」
「混ざるかっ!」
提案を拒否された彼女は実に残念だという表情を浮かべ、それがまた魔理沙の気に障ったようだった。顔をトマトのように赤らめる。
「大体お前パチュリーと契約してるんだろ! そういう……その、なんだ……そういうそれはアレだろ!」
聞きなれない人名が出てきたが、今の問題はそこではない。何かの反動か、僕の脳は急速に冷静さを取り戻しつつあった。彼女が悪魔であるというなら誰かと契約していてもおかしくはない。まあなんであれ、何が起きようとしていたのか理解できてしまうほど成長した魔理沙に僕は一抹の寂寥を感じ、そしてそれについて明言しない程度には魔理沙が恥じらいを持っていることに安堵した。
「確かに法では禁止されておりますが、こんな話をご存知でしょうか。擬似行為の最中にお客との愛情が芽生えてしまって」
「なんの話だァァァァァ!」
魔理沙の顔色はもはや茹蛸のように赤い。叫びすぎて息切れを起こしたのか、しばらく肩で荒い息をついていた魔理沙は、決然と顔を上げると正面に手をかざし、魔力を集中させる。
「と、に、か、く! 離れろよ!」
長年の経験から分かるのだが、あれは本当に撃つ気だろう。しかも僕ごと撃つ気だろう。僕は彼女に視線でそのことを伝えると、彼女は、「無粋です」と片眉をひそめ、絡める腕を放すと、僕の横にしゅるりと降り立った。今まで身体を圧迫していたものがようやくなくなり、僕は解放感に包まれると共に、少し寂しさを――おぼえたりはしない。おぼえたりは、しない。
「鼻の下伸ばしやがって……」
あからさまに不機嫌な魔理沙の呟きが耳に入った。しかし別に僕が誘ってこうなったわけではないし、その点では僕はむしろ被害者であるとすら言える。なのになぜこうも攻撃的な態度を取られなければならないのか。理不尽である。
などと思っていると目が合ってしまった。
「で! 何か申し開きはあるか!」
「僕としては、なぜ窓から飛び込んでくるのかということのほうが気になるんだが」
「い、いいだろそんなことは! 今聞いてるのは私だ!」
「一体いつからいたんだい」
「いつからだって構わないだろ! そんなことより、その……フケツだぞ香霖!」
「不潔って」
ここまで激しい反応を魔理沙がするのは、少々意外だった。なんだかんだでまだまだ少女である魔理沙が大人の生々しい行為に拒否感を抱く、というのは分からないでもないが、それにしても、普段は何があろうと余裕の仮面を外さない魔理沙がこうも感情をあらわにすることは、思い返してもあまりなかったような気がする。それこそ、家出してきたときのあの泣き顔くらいだろう。
「ああ香霖がこんなにフケツな奴だとは知らなかったよ! 軽蔑するぞ! いいのか!」
普段の僕なら、ここで慌てて魔理沙を説得しようとするところだが、その直前に酷い混乱を体験したためか、自分でも驚くほどに冷静だった。マイナスにマイナスを掛けたらプラスになったようなものだろうか。僕の見たところ、どうも魔理沙は少し錯乱しているように思う。いいのかと言われても、もう起きてしまったことを今更どうしろというのだろうか。とは言え軽蔑されたくはないので、何とかして落ち着かせたいところだが。
「まあまあ魔理沙様、まずは話をお聞きください」
僕の頭越しに彼女が話しかける。そこには熱っぽさはかけらも感じられない。先ほどまでのあれがまるで夢まぼろしだったかのようだ。
「お前には聞いてないぜ」
「まあそうおっしゃらずに。まずは先ほどの魔理沙様の発言ですが、あれは私が一方的にお誘いしただけでして、霖之助様にはなんら責はございません」
「だからって……そんな……」
「ですから、私にならともかく、霖之助様に不潔とか軽蔑するなんておっしゃってはいけませんよ。男の方は繊細なのですから」
彼女はそこまで言うと、僕の肩にそっと手を置いた。
「立たなくなったらどうするのですか」
「「何が!?」」
僕と魔理沙の声がハモる。
「言わせる気ですか? もう、お二人とも……では率直に申しますと」
「あーあー言うな言うな言わなくていい!」
言わせる気なのかなどと言いつつも妙に言いたそうな彼女を魔理沙が大声で遮り、そして僕をにらむ。だからなぜ僕がにらまれなければならないのか。
「ええい、じゃあこの際お前でもいい。なんでこんなことしてるんだよ」
魔理沙は苛々と身体をゆすりながら続ける。
「それはもちろん、不足しがちな男性分を。具体的には」
「いいよ一々具体的に言わなくて! じゃあ別に香霖じゃなくてもいいだろ!」
「そうは申しましても、選り好みできるほど自由に動ける立場でもありませんし。それに、最近分かったのですが」
「何が」
「私の好みのタイプです。出不精な知識人」
「いや、そりゃまあ、そういう共通点が……だからってさあ」
僅かの間に、場の会話の主導権が移ってしまっていることに僕は気づいた。もちろん、彼女に、だ。なんと言うか、彼女を敵には回したくないな、と僕はぼんやりと思った。
「くそ、真の意味で敵に回すと、これほど厄介な奴だったとは」
魔理沙も同様の感想を抱いたようで、しきりに歯噛みしつつも反撃の糸口を見出せずにいる。
「じゃあほら、パチュリーに構ってもらえよ。あいつならちょっと男になるくらいできるだろ多分」
パチュリー氏のことは僕はよく知らないが、それは少々あんまりな発言なのではないだろうかと思う。
「パチュリー様はお忙しい方なのです。私のことなど眼中にはないのですよぅ」
拗ねたように彼女は言う。このときだけ、ずっとからかうような調子だった彼女のセリフに一滴の真実が含まれていたように感じ、僕はおや、と思った。魔理沙は気づかなかったようだが。なんとなく、きっとパチュリー氏とは彼女にとって本当に大事な人なのだろうという気がした。
それはそうと、魔理沙が割った窓から風が吹き込んできて、寒い。
「では逆にお尋ねいたしますが、魔理沙様はなぜ止めに入ろうとなされたのですか?」
彼女の思わぬ反撃に、魔理沙がたじろぐ。
「な、なんでって……」
「どこからご覧になっていたのかは存じませんが――」
含みのある声で、彼女は続ける。僕はまったく気づかなかったが、彼女はひょっとしたら気付いていたのかもしれない。……その上であの行為に及んだのだとしたら、相当なたまだと思うが。
「仮に私と霖之助様が恋仲になったとして、何か魔理沙様に不都合がおありですか? それとも、実は魔理沙様も霖之助様を好いていらっしゃったとか?」
「いや、それはない」
しごくあっさりと魔理沙は答える。そうだろう、僕もそれはない。僕と魔理沙の付き合いは長く、それこそ魔理沙が哺乳瓶を加えていたころからの付き合いだ。言うと魔理沙が怒り出すので人前では言わないが、おしめを取り替えたことだってあるくらいだ。今更愛だの恋だの言い出すような間柄でもない。
「ないんだが……うー」
魔理沙は浅蜊を食べていたら砂を噛んでしまったときのような表情を浮かべている。理由はないが、納得いかない、といったところか。
考えてみれば、実際、理屈の上では、魔理沙に反対する理由はないはずなのだ。しかし僕も、魔理沙が抗議するのはごく自然なことのような気がしていた。さて、この齟齬を解決するキーワードはなんだろうか。
「ないのなら、いいではありませんか」
彼女はそう言うと僕の頭を抱え込み、身体を押し付けてくる。後頭部に当たる柔らかい感触は、ごく正直に言って、嫌かと聞かれれば嫌というわけでもなかったが、殺意のこもった視線が怖くてそれどころではなかった。
「う……ぐ……ぐぐぐぐぐ……おい香霖! ぼんやりしてないでお前もなんか言え!」
「なんかと言われてもな……」
そもそもこの件について僕が言えることなど、もう何もないのだ。僕は最初から完全に受身だったし、強いて言うとするなら我が身の不徳の致すところで申し訳ない、くらいだろうか。余計火に油を注ぎそうだ。
「大体香霖だって嫌がってただろ! 人が嫌がるようなことはしちゃいけないんだぞ!」
「それをおっしゃるなら魔理沙様、本を返してくださいな……まあ、それはさておきましても、お嫌でしたか? 霖之助様」
「え? あ、あー……いや、その」
「ほら、魔理沙様、魔理沙様の空回りではありませんか」
「がぁぁぁ! なんで嫌だって言わないんだよ馬鹿香霖!」
僕はまだ何も言ってないぞ。
そう言いたかったが、その間に論争ははるか彼方へ行ってしまっていた。こうして既成事実とは積み重ねられていくのだろう。
「香霖は好きで女っ気のない生活してるんだからお前が勝手に乱すなよ!」
「お釈迦様は長年にわたる苦行の果て、苦行では悟りを開けないとして中庸を尊ぶべしと説かれました。ですから少しくらい女っ気があったほうがよろしいのです」
「知らねーよそんなこと! 出てけよもう!」
「ここまで来たら私も引けないのです。蔵書整理する振りをして読んでいたカーマスートラを実践するときが遂に来たのです」
「そんなもん昼間から読むなよ! あと整理終わんないと帰れないんだろ! サボんなよ!」
「おや? カーマスートラが何か知ってらっしゃる? 読まれたのですか? 耳年増ですねえ」
「あああああ腹立つわー!」
「それに私は今の生活が気に入っておりますので。できるだけ仕事を引き伸ばして、こちらにいさせていただこうかなーなどと思っておりますが。あ、パチュリー様にはご内密にお願いしますね」
「なんなんだよお前もう! そうやってここにも居つく気か!?」
「あ、それはいいかもしれませんね。ここから通わせていただく方式なら、私の仕事も趣味も満たされますし」
「しまった墓穴掘ったか!? くそ、絶対に追い出してやるからな! いびり倒してやるからな!」
「姑のいびりをひたすら耐える嫁……しかし年月を経て介護が必要になった姑は気付くのです。最近嫁の自分を見る目が怖いと」
「生々しいなオイ! どこのご家庭の実話だ! しかも普通にありそうで嫌だわ!」
「あの、君たち、論点がずれてる気がするんだが」
「香霖は黙ってろ!」
なんか言えと言われたり黙れと言われたり、僕はどうすればいいのだろうか。大体そうは言うが魔理沙、君涙目じゃないか。僕としては君が泣く前に止めたいのだが。あと僕が好きで独り身でいるなんていつ言った。むしろ僕が泣きたかった。僕の意思など誰も気に掛けていないんだ。
「物事は変化するものです。受け入れると人生色々と幸せになれます」
「いらんわそんな幸せ! 香霖は私がいつ来ても独りで本を読んでるんだ! そう決まってるんだよ!」
「いつ決まったんだそんなこと」
僕の呟きは、薄暗い闇の中へと吸い込まれていった。いつかどこかで、誰かが受け取ってくれるだろうか。そう願いたかった。
「もう、魔理沙様、魔理沙様は霖之助様の一体なんなのですか? そうやって、ずっと霖之助様を拘束しておくおつもりですか?」
彼女の言葉に、やや非難するような色が混じる。魔理沙には答えられないだろう。僕にも答えられない。
「うるさいなもう! 関係ないだろお前には!」
「関係ないことはないと思いますが」
だが、こうして魔理沙が言い争っているのが、僕にはどうしようもなく自然に思えて――
「とにかく! 香霖はずっとそのままの香霖でいてもらうからな!」
無茶言うな。
僕はそう言おうとして、しかし同時に、何かがぴたりとはまった気がして、出かかった言葉を飲み込む。
ああ、なんだ、つまりそういうことか。
頭上で、彼女が小さく笑う声が、聞こえたような気がした。
「そうおっしゃいましても、私は本懐を遂げるまでは帰りませんよ。しつこさには定評のある私ですから」
「よーし分かった! お前がそこまで言うなら我慢比べだ! お前が帰るまでここで全力で邪魔してやるからな! お前が引くくらい必死に邪魔してやるからな! 今泊まる準備してくるから待ってろよ! いいか! 絶対帰るなよ! ここにいろよ!」
魔理沙は何かを決意した目でまくし立てると、身を翻し、猛然と走り始める。何を言う間も有らばこそ、突入してきた窓から飛び出して、空中で箒にまたがったかと思うと物凄い加速で夜の闇に消えた。烈風が店内を襲い、軽い物は舞い飛び、重い物は身震いした。しばらくは箒が風を切る音が響いてきたが、やがてそれも消える。
そしてここには、椅子に座った僕、さっきから僕の頭を抱えたままの彼女、瞬時にして混沌が支配した店内が残された。
ずれた眼鏡を直す。
様々な感情が体内を駆け巡ったが、つまるところ。
「ジーザス」
そう言わざるを得ないほど、僕の心中はまったくもってジーザスだった。
「さて、帰れと言われたりここにいろと言われたり、私はどうしたら良いのでしょうか」
なんだか既視感を覚える台詞が聞こえる。首だけを動かして彼女を見れば、やはり、彼女は笑っているのだった。
視線に気付いた彼女が、僕を覗き込む。
「とりあえず、お邪魔な魔理沙様は行ってしまわれましたし……続き、しますか?」
「本気かい?」
「本気ですとも」
「間違えた。正気かい?」
「それは定かではありませんね」
定かではないのか。
僕は軽くため息をつき、そっと彼女の腕を引き剥がした。
「あら」
「そこまで命知らずではありませんよ」
「残念ですね」
そう言いつつもさして残念ではなさそうな口調で、彼女は奇跡的に吹き飛ばされず机の上に残っていたカップを手に取り、元通りに立てた。魔法瓶はどこかに飛んでいってしまっていたが。
「気付かれましたか?」
何を、とは僕は聞かなかった。
「なんとなく、ですが」
「魔理沙様は」
僕に背後を見せて、彼女は言った。緩やかにはためく背中の羽根が、微風を生む。
「霖之助様に、父親像を求めていらっしゃるのでしょう」
そう、そう考えれば説明は付くのだ。実家に帰らなくても平気な理由や、執拗に僕と色恋沙汰を切り離そうとする理由――さしずめ、親が自分の知らないところで勝手に再婚しようとしていた、といったところか。子供は親にずっと親でいて欲しいものだ。
「霖之助様に、実家に帰れ、と言われると魔理沙様はとても不機嫌になられる……それはきっと、子供は常に、親に肯定されていたいものだから、なのでしょう」
僕は魔理沙の父親ではない。だから、そんな役を僕に求められても、困る。だから僕は、しつこく魔理沙に、帰るように言うのだ。
だが、本当に僕はそう思っているのか。そう思っているのなら、なぜ、僕は魔理沙が怒り出すのが、自然だと思ったのか。
「他人の分際で、差し出がましいようですが」
後ろを向いたままで、彼女の表情はうかがい知れない。彼女は今、笑っているのだろうか?
「魔理沙様がご実家に帰ろうとなさらない理由の一つには、霖之助様、あなた様の存在があるのですよ」
そう、僕はきっと、この関係が心地よかったのだ。自分を慕ってくれる人がいることが、嬉しかったのだ。
あの、泣きべそをかいた少女の頭を撫でたときから、僕は魔理沙の保護者役になってしまった。
だからきっと、僕が変わらない限り、魔理沙が実家に帰ることは――少なくとも当分は――ないだろう。
「では、私はそろそろお暇しましょうか」
彼女が振り返る。そこには笑顔があった。
「このままいると、片付けを手伝わされてしまいそうですし、もっと厄介なことにもなりそうですし」
「ごもっともです」
僕は彼女が迫ってきたとき、脳裏をよぎった情景をもう一度思い起こした。たまにやってきたかと思うとやかましく騒ぎ立てる魔理沙。その側では霊夢がだれていたりして――それは僕が望んだ光景でもある。一言告げてしまえば、この関係は壊れるのだろうか。あるいは、全て承知の上で、ずっとこのままでいるのだろうか。どちらになるかは分からないが、ただどちらにせよ、そこまで彼女に付き合ってもらうわけには行かないだろう。それだけは確かだった。
肩をすくめて、椅子から腰を上げる。せめて玄関までは、送ろうと思う。
「そうだ、一つお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「魔理沙は、一体いつからここにいたんでしょうか?」
彼女ならきっと分かっていただろうと思い、僕は尋ねた。彼女は猫のように目を細める。
「そうですね、ネタばらしをしてしまいますと……実はここに参りましたとき、木立の影に三角帽子が隠れているのを発見いたしました。なにやら入りたいような入りたくないようなご様子、霖之助様とのご関係のことは聞いておりましたので、気にはなったのですが、とりあえず気づかない振りをして訪問させていただいた次第でして」
僕は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。それが真実だとするなら、つまり、彼女が店に入ってきてからの出来事は、全て彼女の掌の上だったということになる。あの誘惑も演技だったというのだろうか。
僕がある種の戦慄を持って彼女を見つめると、彼女は苦笑して手を振った。
「なんて、嘘ですよ。嘘嘘。魔理沙様が飛び込んでくるまで、私は気づきませんでしたよ。欲望と成り行きに任せたら、こうなったまでのことです」
彼女はそう言うが、僕にはどうにも信じがたかった。成り行き任せにしては、僕と魔理沙の間にあった微妙な気分は吹き飛んだし、僕は自分の役割に気付いたし、そしてこれから魔理沙と一晩かけて話し合う時間までできている。偶然にしてはできすぎだ。
「僕はあなたに、お礼を言わなければならないようですね」
「何のことかは存じませんが、お礼を言われて悪い気はいたしませんね」
あくまでとぼける彼女に僕は苦笑し、僕は入口のドアノブを回す。すぐ横の窓が割れているが、あとで新聞紙でも張っておくしかないだろう。しかし魔理沙は、ひょっとしたらまたここから入ってくるのだろうか。
「では、数日中になるかと思いますが、整理の件、よろしくお願いいたします。当日に使いのものが参りますので」
そういえばすっかり忘れていたが、元々彼女はそのために来たのだった。
「ええ、こちらこそ、お願いします。ご当主によろしくお伝えください。あと――」
僕はにやりと口元をゆがめる。
「できれば使いの方は、あなた以外でお願いします」
それに彼女も口元をゆがめ、返す。
「さあ、また私かもしれませんよ。今度は魔理沙様もいないでしょうし、そのときこそは――」
僕らはそのまま数秒にらみ合い、そして同時に噴き出した。
「そうだ、まだ名前を伺っていませんでしたね、よろしければ教えていただけますか」
僕の質問に、彼女は一瞬目を伏せた。
「名前、ですか」
「言いづらいのでしたなら」
「いえ、その……申し訳ございません。私は名無しの悪魔です。お呼びになるときは、どうぞ、そこの悪魔、とでも」
悪魔なら、色々あるのだろう。特に誰かと契約しているのならば。
「では悪魔さん、このお礼は改めて。今日は大したおもてなしもできずにすみませんでした」
僕はある種の定型文的なものとしてそう言ったのだが、なぜか、彼女はそれにいたずらっぽい視線を返し、にんまりと笑みを浮かべる……彼女はここに来てからほぼずっと笑っていたが、僕にはなぜか、その笑みが、最も彼女らしく、最も魅力的な笑みであると、そんな風に感じられた。
「おや? 何か勘違いしてらっしゃるようですね、霖之助様――」
今更気付いたが、いつの間にか僕の呼び方が屋号から名前に変わっている。いつからだったか僕は思い出そうとして……赤面してやめた。
「悪魔が、無償で何かをするなどということは決して無いのですよ」
僕の赤面に気付いたかどうか……いや、おそらく気付いただろう、彼女は顔を近づけると、僕の耳元でそう囁いた。
どういうことかと思っていると、僕の視覚は彼女の右手が何かを抱えているのを認めた。彼女は手ぶらで来たはずだが。妙に思ってよく目を凝らすと、それは細長い本体に枝のようなものがくっついていて、本体は布のようなものをまとっており、そして血色が悪そうな肌と目つきの悪い――
僕は、あっ、と叫ぶと反射的に店内を振り返った。もちろん、気まぐれな嵐によってめちゃくちゃに物が散乱している店内で、どこに何があるのかなんて分かるはずがない。
「それでは、ごきげんよう」
ドアの閉まる音と共に、そんな声が聞こえた。
「……この、小悪魔」
僕は悔し紛れにそう呟くと、荒れた店内もそのままに愛用の椅子へと身を預け、頼りない灯りの中、じきに戻ってくるだろう少女を静かに待った。
~ 一応前回のあらすじ ~
「こ……ここが大魔法図書館!」
「私が魔界の勧誘員……謎の魔族『K』よー!」
(さては仏教徒ーー!?)ガビーン
「パチェがんばってね! あたしは出てこないけど応援してっかんね!」
「くらえ! ビジネススキル☆とても凄い☆寝技!」
「バカッ早くメロンパンを買いに行かせなさい!」
「ン……ンナローー こ……こんな条件で……契約されてたまるかよォォーー!!」
「それアメリカ合衆国大統領じゃないかーーー!!!」
~ よくわかった所で本編をお楽しみ下さい ~
すっかり陽が落ちるのも早くなった秋の日、ドアを開けて入ってきたのは魔理沙ではないと分かった時、僕、森近霖之助は正直なところ、安堵をおぼえた。もっとも、魔理沙であれば、あんな丁寧なドアの開け方はすまい。なので、より正確に言うならば、魔理沙ではないと確認した時、ということになるだろうか。
「こんにちは。ここは香霖堂さんですよね?」
まず目に入ったのは赤だった。腰まで伸ばしている髪は緩やかな波を描いており、窓から注ぐ西日も相まって、鮮烈な赤を僕に伝える。女性にしてはなかなかの長身で、体型もそれに見合った、かなりメリハリのあるものだ。赤い髪で豊かな体型というと、ある二人が想起させられるが、門番嬢の引き締まった感じとも、死神嬢の弾むような感じとも異なる、柔らかく落ち着いた印象を受ける。黒を基調に、シックにまとめられたその服装は、何かと装飾過多になりがちな幻想郷の少女達の中にあっては、割と珍しいほうだと言える。穏やかに微笑むその姿は、普段騒がしい少女達ばかり相手にしている僕にとっては、かなり新鮮である。
だというのに、僕の彼女に対するファーストインプレッションは、なぜかあるひとの姿なのだった。あの胡散臭さ全開な妖怪と彼女では、共通点のほうが少ないように思えるのだが……
「……それとも、もうこんばんはでしょうか?」
キャラメルを溶かしているような甘い声に、僕はふと我に返った。せっかく来てくれたお客(……とも言い切れないところが悲しいが)に対して、なんだかんだと値踏みするのは礼を失した態度と言える。僕は慌てて読みかけの本を机に置くと、椅子から腰を浮かせた。
「いらっしゃいませ。もう暗いでしょう、今灯りを点けますよ」
「いえいえお構いなく」
社交辞令的なやり取りを経つつ、僕はランプに火を点した。あいにく電球が切れてしまっているため、このような旧世代の技術に頼らざるを得ない。柔らかな光が漏れ出、室内を染める赤が相対的に少し和らぐ。
「何かお探しのものがおありですか?」
今更だが、僕の店は繁盛からは程遠い。たまのお客となればなんとしても何かお買い上げいただきたいというのが正直なところである。半ば趣味でやっているようなものとは言え、僕も商売人であるからして、売れないよりは売れたほうが嬉しいに決まっている。
僕は、なるたけそのような内心を悟られないよう、冷静、かつ穏やかに彼女に話しかけた。
陳列してある和人形を見止め、興味深そうにつついていた彼女は、その言葉に驚いたように目を少し見開く。側頭部から角のように生えている蝙蝠状の羽根(と言っていいのかはわからない。飛行の役には立たなさそうであるし)が二、三度はためいた。
「ああ、申し訳ありません。触ってはいけませんよね」
「いえ、どれでも自由に手に取っていただいて結構ですよ。ただ……」
苦笑交じりにそう言うと、彼女は視線を僕に向け、小首をかしげる。
「ただ?」
「この店には、いわゆる『曰く付き』の品が多いのです。ですから、うかつに触ると、怨念が襲い掛かってくるかも……」
トーンを落として続ける。少々のスパイスは、かえってその品への興味をかきたてるものである。もちろん、相手が引いてしまう可能性もあるが、こと幻想郷の少女達に限ってその程度でびくつくような神経は持ち合わせていないだろう。それに、本当に危険なものなら、そもそも店頭には出さない。
「怨念……ですか」
しかし、残念ながら反応は薄いものだった。そんなものは信じていないのか、それとも別に恐れるようなものでもないのか。彼女は再び視線を前方に戻し、じっと人形を見つめている。
「その人形、お気に召しましたか?」
なので、切り口を変えてみることにする。
「ええ、このお人形さん、ある方に似ている気がするのです。不思議ですね、部分部分は全然違うのに、全体として似ているように思えるなんて」
そう言って彼女は目を細め、艶のある黒髪を人差し指でそっと撫でた。その人形は拾い物である。拾ったときはところどころ破損していたが、俄仕込みの修復術と裁縫術でなんとかそれなりに見れるようにはしたつもりだ。和人形にしては随分白い肌と血色の悪そうな唇が、本来あでやかであるはずの振袖姿を、無理して着せられ外に連れ出されているような、なんとも不健康そうなものにしている。常にうつむいているように見える、中ほどまでまぶたを閉じた瞳もそれに拍車をかけているだろう。
つまるところ、愛玩用にするにはどうにも不適切なデザインに思える。ある方というのも、きっと愛玩に適した性格ではないのだろう。
「それはおそらく……もし魂に色というものがあったとして……その方というのと、この人形のそれが、とても近しいものなのでしょうね」
「色、ですか。それは今まで考えたことがありませんでしたが。なるほど、そうなのかもしれませんね」
彼女はそう呟いて含み笑いをすると、再び自分と人形の世界に入り込んだ。よほどお気に召したようだ。ある方というのも、きっと随分と愛されているのだろう。機嫌よく戯れる彼女の横顔は言ってしまえば魅力的であり、今ここでそれを独占していることに、僕は誰とはなしに優越感をおぼえた。少なくとも、彼女が何も買わずに帰ってしまっても、まあいいかと思える程度には。
僕はもちろんここで価格交渉を始めるような無粋な真似はせず、そっと彼女から離れると、音を立てないように注意しながら愛用の椅子を引き、腰を下ろした。
すると嫌でも、眼前のそれが目に入る――僕を朝から憂鬱な気分にさせていた元凶だ。せっかく忘れかけていたのだが、また思い出してしまった。僕はそれに軽く指を伝わせ、軽くため息をついた。しばし沈思し……そして目を開けると、文字通り鼻の先に彼女の顔があった。
「う、ん……?」
間抜けな声を上げる。彼女はくすりと笑い、ゆっくりと曲げていたひざを伸ばした。
「申し訳ございません。お眠りになってしまったのかと思ったものですから」
「いや、こちらこそすみません。お構いもしませんで」
「いえいえ、こちらこそ、売り物に好き勝手してしまって」
そう言う彼女の手には何もなかった。気に入ったが買うつもりはないと、そういうことだろうか。
「とても素敵なお人形さんだと思うのですが、私はお金を持っていないのです」
その疑問に答えるように、彼女は残念です、と僅かに肩をすくめた。僕としてはそうですか、と言うほかない。
「本来これを最初に言うべきだったのですが、すっかり夢中になってしまいまして。駄目ですねえ」
「店ではなく、僕個人に用がおありで?」
お金を持っていないということは、つまり買い物に来たわけではないのだろう。強盗でないならば、僕に用があると考えるのが自然である。
「そうなります。なんでも香霖堂様は、『未知の道具の名称と用途が分かる』という能力をお持ちとか」
「ええ、そうですが――ああ、そこの椅子を使ってください。ずっと立っていては疲れるでしょう」
僕は来客用の椅子を勧め、それに彼女はそうですね、と従った。僕だけ座っているのも気が引けるし、会話の間は僕が見上げる形になるので首が疲れる。テーブルを挟んで向かい側、これでお互いに落ち着いた格好になる。
手元の水筒を取り、琥珀色の液体をカップに注いだ。この水筒、一見ただの水筒だが、実は「魔法瓶」なる外の世界の道具である。用途は「飲料を冷まさずに保管する」。しかし魔法瓶と言うからには魔導具の一種に違いないが、一体どのような術式を用いているのか、とんと見当が付かない。外の世界では魔法はかなり廃れたと聞いていたが、なかなかどうして大したものだと思う。まあ、最近の拾い物の中では抜きん出て便利なので、売り物にせずこうして使用しているというわけだ。
「どうぞ。紅茶ですが、お口に合うといいのですが」
「ありがとうございます、いただきます」
彼女は口元を緩めると、両手でカップを持ち、ゆっくりと水面に口付けた。登り立つ湯気のためかその双眸は閉じられ、ただお茶を飲んでいるというそれだけの場面が、何か額縁に入った絵画のように感じられる。おいしい、という呟きが僅かに漏れ出、僕は大いに満足した。
「ところで、あなたとはたぶん初対面だと思うのですが、どちらでそのことをお知りに?」
「ああ、私は紅魔館に住んでおりまして――メイド長などから、香霖堂様のことは伺っております」
「おや、そうなのですか。すると――」
紅魔館とは、ここから少し離れた湖のほとりにそびえる洋館である。幻想郷には珍しく純西洋風なたたずまいで、吸血鬼の主を筆頭に、数多くの使用人が暮らしている。うちの数少ないお得意先でもあり、当然僕のことも知悉している。そこから来たとなると、彼女もそこで働くメイドなのだろうか。物腰からして十分考えられる話ではあるが、彼女の服装は使用人服というよりは、よく糊のきいたシャツに黒のベストを黄色のタイでまとめ、そして黒のロングフレアスカートと、メイドというよりはまるで司書のように見える。もっとも、メイドが常にメイドの格好をしているわけではないだろうが。
「いえ、私はメイドではなく……間借りさせていただいているというか、言うなれば居候でして」
「ほう」
私のような者でも快く滞在を許していただいて、なんとも有難いところです……と彼女は微笑をたたえて続けた。やはりメイドではなかったらしい。幻想郷有数の名家である紅魔館のこと、居候の一人や二人いても別におかしくはないが、そうなるに至った事情というのも気になるところではある。
「おっと、これではいつまでもお話が進みませんね。要は、私がここに来たのは、香霖堂様にその能力を生かした仕事を一つご依頼したいということなのです」
「と、言いますと」
水を向けると、彼女は説明を始めた。
「ご存知とは思いますが、紅魔館の歴史は、主人の歴史ともども、大変長うございます。それだけ続いておりますと、昔集めたり、頂いたりしたものが溜まってきまして。中には、一体何に使うのかすら分からないものもあるという始末」
「ほう」
「そこで一大整理を行うことにしたのですが、香霖堂様にはよく分からないものの鑑定や、不要なものの引取りをお願いしたいのです」
聞けば、なるほど僕にうってつけの依頼である。スカーレット家ゆかりの品々にはとても興味をそそられるし、道具のほうにしたって、倉庫に死蔵されているよりは、ここに並んでいたほうが、まだしも人の目に触れる機会もあるだろう。
「それは、断る理由はありませんね。むしろぜひ、とこちらからお願いしたいくらいです。いつでも構いませんので、そちらの都合のいい日に呼んでください」
僕がそう言うと、彼女は良かった、と顔をほころばせた。
「皆手が離せないということで私が来たのですが、もし香霖堂様がお断りになったらどうしようかと思っておりました。紅魔館までご足労いただく形になると思いますが、それでもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。そんな興味深い話、断るはずがありませんとも」
「ありがとうございます。では後日、使いの者を参らせますので」
沈みきる最後の輝きを伝えようとするのか、太陽の光が店内を茜に染めた。森の外れという立地上、木々が天蓋を覆うため、普段この家に日光がさんさんと降り注ぐなどということはない。しかし、毎日この時間だけは、どういった偶然か窓から直截日光が注ぎ込むのだ。何か太陽が僕にだけメッセージを送っているようで、僕はひそかに、この時間を気に入っていた。
「ところで」
彼女の声に、僕は呆としていた意識を戻す。
「その。そこにあるのは、ひょっとして魔理沙様の八卦炉ではありませんか?」
漠然と手で指し示すその先は、確かに八卦炉である。光を受けて眩しく輝くと共に、長く伸ばした影が壁に色を付けている。
「ええ……魔理沙をご存知なのですか?」
「はい。魔理沙様は、よく紅魔館へいらっしゃいますから。私もよく遊んでいただいております」
「それは……大変でしょう」
彼女はそれには答えず、ただ楽しげに微笑んだ。それだけで言わんとすることは伝わった。
何をするにも全力で突撃する魔理沙のこと、霊夢のような性格でもない限り、相手をするのにはとにかく体力を使う。僕の場合ははなから眼中にないので助かっているが、弾幕ごっこになど付き合わされた日にはたまったものではないだろう。
「実を申しますと、初めて香霖堂様のことを伺ったのは、魔理沙様からなのですよ」
「なんと言っていましたか」
こんな僕でも、他人の評価というものは気になるところである。どうせ魔理沙のことだから、ろくな言い方はしていないだろうが。
「さて、私の方からはなんとも」
案の定、彼女はくすくすと笑い声を立てるのみで、お茶を濁す。
「ですが、魔女とは偏屈なものです。自らの魔導具を香霖堂様に預けるとは、よほどの信頼がなければできないことだと思いますよ」
「どうでしょうかね……」
苦笑交じりに返した僕に、彼女は小首をかしげた。
「おや、違ったのでしょうか」
「これを預かった時に喧嘩をしてしまいましてね……魔理沙の生い立ちについてはご存知ですか?」
「人間の里の出身ながら、現在はお一人で暮らしていらっしゃるとか」
ぶかぶかの三角帽をかぶった少女がドアを叩いた日のことは、まるで昨日のように思い出せる。僕はなんだかんだと言いながらも、結局は涙目に負けて、魔理沙側に立ってしまった。霧雨氏は今でも僕が訪問すれば歓迎してくれるが、時折言葉の端に含まれる小さなトゲがたまらなく痛い。
だから僕も、余計なこととは思いつつ、つい魔理沙にあれこれ言ってしまうのだが……
「……魔理沙は家出娘なんですよ。一回くらい帰りなさいと言っても、聞いてくれるどころか不機嫌な顔をされるばかりで」
数日前も――と僕は続けて、八卦炉を手に取った。
「これの点検を受けるついでに少し強く言ったら、言い争いの果てに飛び出していってしまって」
これに関しては魔理沙が間違っていると思うので、僕に譲る気はない。たとえどれほど弾幕を張るのが上手くても、魔理沙は本質的にはまだ子供に過ぎないのだし、子供には親が必要なものだ……とは言っても、喧嘩の後というのは気まずいもので、僕は今、魔理沙に会いたいような会いたくないような、微妙な気持ちだった。おそらく魔理沙もそうだろうと思う。会えばどうして話の続きをせざるを得ないだろうし、また喧嘩になるのはどちらも嫌だろう。
「ははぁ、それで」
なにが「それで」なのかは分からないが、少し間をおいても説明される様子はなかったので、仕方なく僕は自分の話を続けた。
「今日、取りに来るはずだったのですが。魔理沙の意地っ張りにも困ったものです」
「それはそれは。ですが、まさかとは思われますが、香霖堂様は、魔理沙様がただ意地を張っているだけだなどと、思われてはいないでしょうね?」
そう言いつつも彼女は、そう思っているに違いない、という雰囲気を、言外に匂わせてくる。事実その通りであったので、僕は軽く肩をすくめた。
「やっぱり。男の方って、いつの時代も女の子の事が分からないのですね。私はなぜ魔理沙様が飛び出してしまわれたのか、分かる気がいたしますよ」
彼女はいたずらっぽく笑い、上目遣いで僕を見つめてきた。
「分かるとおっしゃるなら、是非ご教示いただきたいですよ」
憮然として告げるが、僕の要求は、だめですよー、とにべなく断られてしまった。
「それは香霖堂様が、ご自分でお気づきにならなければ」
「分かる気がしませんよ」
僕は道具のことならよく分かるが、人の心の機微などにはどうにも疎い面がある。こんな辺鄙な場所に年中こもっているからだ、などと言って魔理沙はよく僕を宴会などに引っ張り出そうとするが、苦手なものに怯まず挑戦できるような年代は、もうだいぶ前に過ぎてしまった。手持ちの武器――知識と論理――で生きていくほか、どうもうまい方法が見つからないのだ。
「ふふ」
声に視線を戻すと、彼女が嫣然と微笑んでいる。僕はなんだか急にからかわれているような気分になり、頬に血が集まるのが感じられた。顔の赤さをごまかしてくれたことを祈りたい夕日は残光と共に山の向こうへ去り、僅かに西空を紫に染めるのみである。急激に明度が減じたように感じられる店内を、ランプが薄暗く照らした。
これからは妖怪の時間だ。
「さて」
彼女が口を開く。用件も無事済んだことだし、紅魔館へ帰るのだろう。僕はと言えばなぜか感じる気まずさが何ともむずがゆく、彼女には悪いが、これはとてもよいタイミングであったと思う。
しかし、彼女が続けた言葉は実に予想外だった。
「ここからが本題です」
そう言い、組んだ両手にあごを乗せる。
「申し訳ございません。先ほど、わたくし一つ嘘をつきました」
この瞬間の僕はと言えば、さぞかし間抜けな顔をしていただろうと思う。
「……と、言いますと」
「香霖堂様、私の種族は、なんだとお思いになりますか?」
日が落ちたせいだろうか、店内の雰囲気が、今までと確かに違っているように感じられる。何か、大気中の水分がなくなってしまったような、ねっとりとした感覚。僕は思わず左右を見渡した。
「……そうですね、背中の、蝙蝠の羽根から察するに」
悪魔、ですかと僕は返した。この幻想郷において、悪魔とは希少であるものの、別段忌むべき存在というわけでもない。だと言うのに、その単語を口にするとき、僕の頬を一筋の汗が伝った。汗ばむような陽気でもないのに。
「そうです、悪魔なのです。隠してありますが、尻尾もございますよ」
彼女はふふ、と笑う。
「嘘と申しますのは」
笑う、というか、彼女は来た時からずっと笑っている。
「皆が忙しそうだったから、私が代わりに来た、というところでして」
しかし、今の笑いは、先ほどまでのそれとは何か異なるような気がしてならない。
「……どう違うと?」
「皆様が忙しそうだったのは本当ですが」
身を乗り出して、彼女は言う。
「実は、私から志願して、来たのですよ」
「それはまた、なぜ」
「なぜって、先ほど香霖堂様がおっしゃったではありませんか」
私は悪魔なのですよ――
彼女は更に身を乗り出す。
何か途方もないことが起きつつあるという予感に、僕は思わず椅子から腰を浮かした。
「おや、どちらへ?」
「いや、その……カ、カーテンを、閉めなければ、と」
「いいじゃありませんか、あとでも」
彼女は更に大きく身を乗り出し、とうとう片膝が机に乗った。
「い、いや、その、しかし」
「ふふ」
しどろもどろに言葉を発する僕に、彼女は目を細める。確かに見ているはずなのに、どこか焦点がずれているように思えるその瞳が、ランプの炎を宿して妖しく揺らめいた。
「ご存知かもしれませんが」
もう片膝もテーブルに乗った。
「紅魔館には、女性しかいないのです」
四つん這いの姿勢となり、そのまま彼女は蛇を思わせる動きでこちらへとにじり寄ってくる。
「そ、そうですか。それで?」
僕は蛙だ。腰を浮かした姿勢のまま、僕は蛇の視線に射られて磔となっていた。
「親交のある方々も、なぜか女性ばかりで」
自分の脈動の音が随分大きく聞こえる。
「私は、自由に外に出られるような身分ではありませんから」
唇の渇きを潤す彼女の舌が、他のどこよりも赤く、唾液にぬめるそれは触手を思わせた。
「香霖堂様が男性であると聞き及びまして、ずっとこのような機会を待っていたのです」
彼女のつま先がカップに触れ、倒れる。僅かに残っていた琥珀色の液体が、スカートの裾を染めた。
「ス、スカー、トが、濡れ、まし、た、よ」
声が裏返らなかったのは、僕の大いなる努力によるところである。だが、どうせならもう少し頑張って、首から下も動くようにして欲しかった。
「そのようですね。ですが、大した問題ではありませんよ。黒い生地ですし――」
彼女は右手で濁った空気をかき分けると、ツタのように指を僕の頬に這わせる。
「これから色々と――もっと濡れてしまいますもの」
絡めとられた。
彼女の唇が大きく三日月に釣りあがったかと思うと、僕の上半身は一気に、何か熱くて柔らかいものに包まれた。抱き寄せられたのだと、遅れて脳が理解する。彼女から発せられる果実が腐敗したような臭いは、しかしどうしようもなく甘かった。
「ああ――素敵です」
「な、何の――」
僕の言葉は、彼女がより身体を押し付けてきたことで遮られた。息が詰まってしまいそうで、僕は彼女を押しのけようとしたが、相変わらず身体は金縛りにあったかのように動こうとしない。さっきから僕を射抜いていた視線は、皮肉にも密着したことで外れたというのに、煮沸されきって凝った空気が僕を固定しているようであった。
なるほど、とほんの少し残った冷静な部分が理解する。つまり、僕はとうに釜の中だったわけだ。
かかった彼女の体重に、僕は再び椅子に腰を落とした。背中に手を回しながら、彼女は艶のある声で言う。
「本当に、久しぶりなのですから、男の方は。ふふ」
彼女の指先が触れるたびに、曰く言いがたい感覚が僕の身体を襲う。吐息が首筋を撫でるたびに、毛穴から彼女の因子がもぐりこみ、その毒をもって理性を溶かすようであった。
「霖之助様――」
彼女の熱っぽい甘言が、そっと耳朶を打つ。
「はしたない女は、お嫌いで?」
上気した頬が目に入った。抱擁による拘束が緩まり、背中にあった腕が首に回される。熱に潤んだ視線が僕の瞳を捕らえ、そらすことを許さない。そっと、しかしじっとりと手櫛を通されるたびに、神経など通っていないはずの髪に電流のような何かが流れ、そしてそれは蕩けるような心地よさを生むのだった。こうしていると、自分はなぜ抵抗しようなどと思っているのか、という気になってくる。そう、拒否しなければならない理由など、僕にはない――
彼女は瞼を下ろし、つい、とおとがいを上向ける。僅かに開いた上下の唇に架かる銀糸が、何かとても美しいもののように、僕には思われた。一種の神聖さすらおぼえながらも、自分も目を閉じるべきなのだろうかなどと、間の抜けたことを考える。
後頭部に掛けられた手に、微弱な力が入れられた。僕は唾をぐびりと飲み下す。
少しずつ近づいてくる彼女の唇が、ランプの炎を照り返し――
しかし、そのとき僕の脳裏をよぎったのは。
「ちょまっおまっとりゃあぁおわぁっ!?」
奇声と共に正面の窓ガラスが打ち破られ、何か黒い物が店内に飛び込んできた。バランスを崩したためかしばらくじたばたともがく物体から、金色の柔らかそうな何かが零れ落ちる。
「ま――魔理沙!?」
窓から入った風が凝った空気を吹き払い、僕はようやく呪縛から解放された。帽子の形状やそこから覗く金髪は、間違えようもなく霧雨魔理沙その人である。
僕の言葉に反応したのか、魔理沙は勢いよく顔を上げ、こちらをにらみつける。何かしらの障壁を張っていたのか、ガラスを割って飛び込んできたにもかかわらず、その肌には傷はない。
「な……なにやってるんだよお前ら!」
もっともその顔色は、薄暗い灯りの中でも分かるくらい真っ赤だったが。まるでリンゴのようだ。
「もう、無粋ですよ、魔理沙様」
両腕を僕に絡ませたまま、彼女は首だけをひねって魔理沙を見遣る。
「何が無粋だ! なにやってるんだっての!」
立ち上がりつつ怒鳴る魔理沙に、相変わらず僕に巻きついたままの彼女は少し考えるようなそぶりを見せ、そして言った。
「混ざりますか?」
「混ざるかっ!」
提案を拒否された彼女は実に残念だという表情を浮かべ、それがまた魔理沙の気に障ったようだった。顔をトマトのように赤らめる。
「大体お前パチュリーと契約してるんだろ! そういう……その、なんだ……そういうそれはアレだろ!」
聞きなれない人名が出てきたが、今の問題はそこではない。何かの反動か、僕の脳は急速に冷静さを取り戻しつつあった。彼女が悪魔であるというなら誰かと契約していてもおかしくはない。まあなんであれ、何が起きようとしていたのか理解できてしまうほど成長した魔理沙に僕は一抹の寂寥を感じ、そしてそれについて明言しない程度には魔理沙が恥じらいを持っていることに安堵した。
「確かに法では禁止されておりますが、こんな話をご存知でしょうか。擬似行為の最中にお客との愛情が芽生えてしまって」
「なんの話だァァァァァ!」
魔理沙の顔色はもはや茹蛸のように赤い。叫びすぎて息切れを起こしたのか、しばらく肩で荒い息をついていた魔理沙は、決然と顔を上げると正面に手をかざし、魔力を集中させる。
「と、に、か、く! 離れろよ!」
長年の経験から分かるのだが、あれは本当に撃つ気だろう。しかも僕ごと撃つ気だろう。僕は彼女に視線でそのことを伝えると、彼女は、「無粋です」と片眉をひそめ、絡める腕を放すと、僕の横にしゅるりと降り立った。今まで身体を圧迫していたものがようやくなくなり、僕は解放感に包まれると共に、少し寂しさを――おぼえたりはしない。おぼえたりは、しない。
「鼻の下伸ばしやがって……」
あからさまに不機嫌な魔理沙の呟きが耳に入った。しかし別に僕が誘ってこうなったわけではないし、その点では僕はむしろ被害者であるとすら言える。なのになぜこうも攻撃的な態度を取られなければならないのか。理不尽である。
などと思っていると目が合ってしまった。
「で! 何か申し開きはあるか!」
「僕としては、なぜ窓から飛び込んでくるのかということのほうが気になるんだが」
「い、いいだろそんなことは! 今聞いてるのは私だ!」
「一体いつからいたんだい」
「いつからだって構わないだろ! そんなことより、その……フケツだぞ香霖!」
「不潔って」
ここまで激しい反応を魔理沙がするのは、少々意外だった。なんだかんだでまだまだ少女である魔理沙が大人の生々しい行為に拒否感を抱く、というのは分からないでもないが、それにしても、普段は何があろうと余裕の仮面を外さない魔理沙がこうも感情をあらわにすることは、思い返してもあまりなかったような気がする。それこそ、家出してきたときのあの泣き顔くらいだろう。
「ああ香霖がこんなにフケツな奴だとは知らなかったよ! 軽蔑するぞ! いいのか!」
普段の僕なら、ここで慌てて魔理沙を説得しようとするところだが、その直前に酷い混乱を体験したためか、自分でも驚くほどに冷静だった。マイナスにマイナスを掛けたらプラスになったようなものだろうか。僕の見たところ、どうも魔理沙は少し錯乱しているように思う。いいのかと言われても、もう起きてしまったことを今更どうしろというのだろうか。とは言え軽蔑されたくはないので、何とかして落ち着かせたいところだが。
「まあまあ魔理沙様、まずは話をお聞きください」
僕の頭越しに彼女が話しかける。そこには熱っぽさはかけらも感じられない。先ほどまでのあれがまるで夢まぼろしだったかのようだ。
「お前には聞いてないぜ」
「まあそうおっしゃらずに。まずは先ほどの魔理沙様の発言ですが、あれは私が一方的にお誘いしただけでして、霖之助様にはなんら責はございません」
「だからって……そんな……」
「ですから、私にならともかく、霖之助様に不潔とか軽蔑するなんておっしゃってはいけませんよ。男の方は繊細なのですから」
彼女はそこまで言うと、僕の肩にそっと手を置いた。
「立たなくなったらどうするのですか」
「「何が!?」」
僕と魔理沙の声がハモる。
「言わせる気ですか? もう、お二人とも……では率直に申しますと」
「あーあー言うな言うな言わなくていい!」
言わせる気なのかなどと言いつつも妙に言いたそうな彼女を魔理沙が大声で遮り、そして僕をにらむ。だからなぜ僕がにらまれなければならないのか。
「ええい、じゃあこの際お前でもいい。なんでこんなことしてるんだよ」
魔理沙は苛々と身体をゆすりながら続ける。
「それはもちろん、不足しがちな男性分を。具体的には」
「いいよ一々具体的に言わなくて! じゃあ別に香霖じゃなくてもいいだろ!」
「そうは申しましても、選り好みできるほど自由に動ける立場でもありませんし。それに、最近分かったのですが」
「何が」
「私の好みのタイプです。出不精な知識人」
「いや、そりゃまあ、そういう共通点が……だからってさあ」
僅かの間に、場の会話の主導権が移ってしまっていることに僕は気づいた。もちろん、彼女に、だ。なんと言うか、彼女を敵には回したくないな、と僕はぼんやりと思った。
「くそ、真の意味で敵に回すと、これほど厄介な奴だったとは」
魔理沙も同様の感想を抱いたようで、しきりに歯噛みしつつも反撃の糸口を見出せずにいる。
「じゃあほら、パチュリーに構ってもらえよ。あいつならちょっと男になるくらいできるだろ多分」
パチュリー氏のことは僕はよく知らないが、それは少々あんまりな発言なのではないだろうかと思う。
「パチュリー様はお忙しい方なのです。私のことなど眼中にはないのですよぅ」
拗ねたように彼女は言う。このときだけ、ずっとからかうような調子だった彼女のセリフに一滴の真実が含まれていたように感じ、僕はおや、と思った。魔理沙は気づかなかったようだが。なんとなく、きっとパチュリー氏とは彼女にとって本当に大事な人なのだろうという気がした。
それはそうと、魔理沙が割った窓から風が吹き込んできて、寒い。
「では逆にお尋ねいたしますが、魔理沙様はなぜ止めに入ろうとなされたのですか?」
彼女の思わぬ反撃に、魔理沙がたじろぐ。
「な、なんでって……」
「どこからご覧になっていたのかは存じませんが――」
含みのある声で、彼女は続ける。僕はまったく気づかなかったが、彼女はひょっとしたら気付いていたのかもしれない。……その上であの行為に及んだのだとしたら、相当なたまだと思うが。
「仮に私と霖之助様が恋仲になったとして、何か魔理沙様に不都合がおありですか? それとも、実は魔理沙様も霖之助様を好いていらっしゃったとか?」
「いや、それはない」
しごくあっさりと魔理沙は答える。そうだろう、僕もそれはない。僕と魔理沙の付き合いは長く、それこそ魔理沙が哺乳瓶を加えていたころからの付き合いだ。言うと魔理沙が怒り出すので人前では言わないが、おしめを取り替えたことだってあるくらいだ。今更愛だの恋だの言い出すような間柄でもない。
「ないんだが……うー」
魔理沙は浅蜊を食べていたら砂を噛んでしまったときのような表情を浮かべている。理由はないが、納得いかない、といったところか。
考えてみれば、実際、理屈の上では、魔理沙に反対する理由はないはずなのだ。しかし僕も、魔理沙が抗議するのはごく自然なことのような気がしていた。さて、この齟齬を解決するキーワードはなんだろうか。
「ないのなら、いいではありませんか」
彼女はそう言うと僕の頭を抱え込み、身体を押し付けてくる。後頭部に当たる柔らかい感触は、ごく正直に言って、嫌かと聞かれれば嫌というわけでもなかったが、殺意のこもった視線が怖くてそれどころではなかった。
「う……ぐ……ぐぐぐぐぐ……おい香霖! ぼんやりしてないでお前もなんか言え!」
「なんかと言われてもな……」
そもそもこの件について僕が言えることなど、もう何もないのだ。僕は最初から完全に受身だったし、強いて言うとするなら我が身の不徳の致すところで申し訳ない、くらいだろうか。余計火に油を注ぎそうだ。
「大体香霖だって嫌がってただろ! 人が嫌がるようなことはしちゃいけないんだぞ!」
「それをおっしゃるなら魔理沙様、本を返してくださいな……まあ、それはさておきましても、お嫌でしたか? 霖之助様」
「え? あ、あー……いや、その」
「ほら、魔理沙様、魔理沙様の空回りではありませんか」
「がぁぁぁ! なんで嫌だって言わないんだよ馬鹿香霖!」
僕はまだ何も言ってないぞ。
そう言いたかったが、その間に論争ははるか彼方へ行ってしまっていた。こうして既成事実とは積み重ねられていくのだろう。
「香霖は好きで女っ気のない生活してるんだからお前が勝手に乱すなよ!」
「お釈迦様は長年にわたる苦行の果て、苦行では悟りを開けないとして中庸を尊ぶべしと説かれました。ですから少しくらい女っ気があったほうがよろしいのです」
「知らねーよそんなこと! 出てけよもう!」
「ここまで来たら私も引けないのです。蔵書整理する振りをして読んでいたカーマスートラを実践するときが遂に来たのです」
「そんなもん昼間から読むなよ! あと整理終わんないと帰れないんだろ! サボんなよ!」
「おや? カーマスートラが何か知ってらっしゃる? 読まれたのですか? 耳年増ですねえ」
「あああああ腹立つわー!」
「それに私は今の生活が気に入っておりますので。できるだけ仕事を引き伸ばして、こちらにいさせていただこうかなーなどと思っておりますが。あ、パチュリー様にはご内密にお願いしますね」
「なんなんだよお前もう! そうやってここにも居つく気か!?」
「あ、それはいいかもしれませんね。ここから通わせていただく方式なら、私の仕事も趣味も満たされますし」
「しまった墓穴掘ったか!? くそ、絶対に追い出してやるからな! いびり倒してやるからな!」
「姑のいびりをひたすら耐える嫁……しかし年月を経て介護が必要になった姑は気付くのです。最近嫁の自分を見る目が怖いと」
「生々しいなオイ! どこのご家庭の実話だ! しかも普通にありそうで嫌だわ!」
「あの、君たち、論点がずれてる気がするんだが」
「香霖は黙ってろ!」
なんか言えと言われたり黙れと言われたり、僕はどうすればいいのだろうか。大体そうは言うが魔理沙、君涙目じゃないか。僕としては君が泣く前に止めたいのだが。あと僕が好きで独り身でいるなんていつ言った。むしろ僕が泣きたかった。僕の意思など誰も気に掛けていないんだ。
「物事は変化するものです。受け入れると人生色々と幸せになれます」
「いらんわそんな幸せ! 香霖は私がいつ来ても独りで本を読んでるんだ! そう決まってるんだよ!」
「いつ決まったんだそんなこと」
僕の呟きは、薄暗い闇の中へと吸い込まれていった。いつかどこかで、誰かが受け取ってくれるだろうか。そう願いたかった。
「もう、魔理沙様、魔理沙様は霖之助様の一体なんなのですか? そうやって、ずっと霖之助様を拘束しておくおつもりですか?」
彼女の言葉に、やや非難するような色が混じる。魔理沙には答えられないだろう。僕にも答えられない。
「うるさいなもう! 関係ないだろお前には!」
「関係ないことはないと思いますが」
だが、こうして魔理沙が言い争っているのが、僕にはどうしようもなく自然に思えて――
「とにかく! 香霖はずっとそのままの香霖でいてもらうからな!」
無茶言うな。
僕はそう言おうとして、しかし同時に、何かがぴたりとはまった気がして、出かかった言葉を飲み込む。
ああ、なんだ、つまりそういうことか。
頭上で、彼女が小さく笑う声が、聞こえたような気がした。
「そうおっしゃいましても、私は本懐を遂げるまでは帰りませんよ。しつこさには定評のある私ですから」
「よーし分かった! お前がそこまで言うなら我慢比べだ! お前が帰るまでここで全力で邪魔してやるからな! お前が引くくらい必死に邪魔してやるからな! 今泊まる準備してくるから待ってろよ! いいか! 絶対帰るなよ! ここにいろよ!」
魔理沙は何かを決意した目でまくし立てると、身を翻し、猛然と走り始める。何を言う間も有らばこそ、突入してきた窓から飛び出して、空中で箒にまたがったかと思うと物凄い加速で夜の闇に消えた。烈風が店内を襲い、軽い物は舞い飛び、重い物は身震いした。しばらくは箒が風を切る音が響いてきたが、やがてそれも消える。
そしてここには、椅子に座った僕、さっきから僕の頭を抱えたままの彼女、瞬時にして混沌が支配した店内が残された。
ずれた眼鏡を直す。
様々な感情が体内を駆け巡ったが、つまるところ。
「ジーザス」
そう言わざるを得ないほど、僕の心中はまったくもってジーザスだった。
「さて、帰れと言われたりここにいろと言われたり、私はどうしたら良いのでしょうか」
なんだか既視感を覚える台詞が聞こえる。首だけを動かして彼女を見れば、やはり、彼女は笑っているのだった。
視線に気付いた彼女が、僕を覗き込む。
「とりあえず、お邪魔な魔理沙様は行ってしまわれましたし……続き、しますか?」
「本気かい?」
「本気ですとも」
「間違えた。正気かい?」
「それは定かではありませんね」
定かではないのか。
僕は軽くため息をつき、そっと彼女の腕を引き剥がした。
「あら」
「そこまで命知らずではありませんよ」
「残念ですね」
そう言いつつもさして残念ではなさそうな口調で、彼女は奇跡的に吹き飛ばされず机の上に残っていたカップを手に取り、元通りに立てた。魔法瓶はどこかに飛んでいってしまっていたが。
「気付かれましたか?」
何を、とは僕は聞かなかった。
「なんとなく、ですが」
「魔理沙様は」
僕に背後を見せて、彼女は言った。緩やかにはためく背中の羽根が、微風を生む。
「霖之助様に、父親像を求めていらっしゃるのでしょう」
そう、そう考えれば説明は付くのだ。実家に帰らなくても平気な理由や、執拗に僕と色恋沙汰を切り離そうとする理由――さしずめ、親が自分の知らないところで勝手に再婚しようとしていた、といったところか。子供は親にずっと親でいて欲しいものだ。
「霖之助様に、実家に帰れ、と言われると魔理沙様はとても不機嫌になられる……それはきっと、子供は常に、親に肯定されていたいものだから、なのでしょう」
僕は魔理沙の父親ではない。だから、そんな役を僕に求められても、困る。だから僕は、しつこく魔理沙に、帰るように言うのだ。
だが、本当に僕はそう思っているのか。そう思っているのなら、なぜ、僕は魔理沙が怒り出すのが、自然だと思ったのか。
「他人の分際で、差し出がましいようですが」
後ろを向いたままで、彼女の表情はうかがい知れない。彼女は今、笑っているのだろうか?
「魔理沙様がご実家に帰ろうとなさらない理由の一つには、霖之助様、あなた様の存在があるのですよ」
そう、僕はきっと、この関係が心地よかったのだ。自分を慕ってくれる人がいることが、嬉しかったのだ。
あの、泣きべそをかいた少女の頭を撫でたときから、僕は魔理沙の保護者役になってしまった。
だからきっと、僕が変わらない限り、魔理沙が実家に帰ることは――少なくとも当分は――ないだろう。
「では、私はそろそろお暇しましょうか」
彼女が振り返る。そこには笑顔があった。
「このままいると、片付けを手伝わされてしまいそうですし、もっと厄介なことにもなりそうですし」
「ごもっともです」
僕は彼女が迫ってきたとき、脳裏をよぎった情景をもう一度思い起こした。たまにやってきたかと思うとやかましく騒ぎ立てる魔理沙。その側では霊夢がだれていたりして――それは僕が望んだ光景でもある。一言告げてしまえば、この関係は壊れるのだろうか。あるいは、全て承知の上で、ずっとこのままでいるのだろうか。どちらになるかは分からないが、ただどちらにせよ、そこまで彼女に付き合ってもらうわけには行かないだろう。それだけは確かだった。
肩をすくめて、椅子から腰を上げる。せめて玄関までは、送ろうと思う。
「そうだ、一つお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「魔理沙は、一体いつからここにいたんでしょうか?」
彼女ならきっと分かっていただろうと思い、僕は尋ねた。彼女は猫のように目を細める。
「そうですね、ネタばらしをしてしまいますと……実はここに参りましたとき、木立の影に三角帽子が隠れているのを発見いたしました。なにやら入りたいような入りたくないようなご様子、霖之助様とのご関係のことは聞いておりましたので、気にはなったのですが、とりあえず気づかない振りをして訪問させていただいた次第でして」
僕は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。それが真実だとするなら、つまり、彼女が店に入ってきてからの出来事は、全て彼女の掌の上だったということになる。あの誘惑も演技だったというのだろうか。
僕がある種の戦慄を持って彼女を見つめると、彼女は苦笑して手を振った。
「なんて、嘘ですよ。嘘嘘。魔理沙様が飛び込んでくるまで、私は気づきませんでしたよ。欲望と成り行きに任せたら、こうなったまでのことです」
彼女はそう言うが、僕にはどうにも信じがたかった。成り行き任せにしては、僕と魔理沙の間にあった微妙な気分は吹き飛んだし、僕は自分の役割に気付いたし、そしてこれから魔理沙と一晩かけて話し合う時間までできている。偶然にしてはできすぎだ。
「僕はあなたに、お礼を言わなければならないようですね」
「何のことかは存じませんが、お礼を言われて悪い気はいたしませんね」
あくまでとぼける彼女に僕は苦笑し、僕は入口のドアノブを回す。すぐ横の窓が割れているが、あとで新聞紙でも張っておくしかないだろう。しかし魔理沙は、ひょっとしたらまたここから入ってくるのだろうか。
「では、数日中になるかと思いますが、整理の件、よろしくお願いいたします。当日に使いのものが参りますので」
そういえばすっかり忘れていたが、元々彼女はそのために来たのだった。
「ええ、こちらこそ、お願いします。ご当主によろしくお伝えください。あと――」
僕はにやりと口元をゆがめる。
「できれば使いの方は、あなた以外でお願いします」
それに彼女も口元をゆがめ、返す。
「さあ、また私かもしれませんよ。今度は魔理沙様もいないでしょうし、そのときこそは――」
僕らはそのまま数秒にらみ合い、そして同時に噴き出した。
「そうだ、まだ名前を伺っていませんでしたね、よろしければ教えていただけますか」
僕の質問に、彼女は一瞬目を伏せた。
「名前、ですか」
「言いづらいのでしたなら」
「いえ、その……申し訳ございません。私は名無しの悪魔です。お呼びになるときは、どうぞ、そこの悪魔、とでも」
悪魔なら、色々あるのだろう。特に誰かと契約しているのならば。
「では悪魔さん、このお礼は改めて。今日は大したおもてなしもできずにすみませんでした」
僕はある種の定型文的なものとしてそう言ったのだが、なぜか、彼女はそれにいたずらっぽい視線を返し、にんまりと笑みを浮かべる……彼女はここに来てからほぼずっと笑っていたが、僕にはなぜか、その笑みが、最も彼女らしく、最も魅力的な笑みであると、そんな風に感じられた。
「おや? 何か勘違いしてらっしゃるようですね、霖之助様――」
今更気付いたが、いつの間にか僕の呼び方が屋号から名前に変わっている。いつからだったか僕は思い出そうとして……赤面してやめた。
「悪魔が、無償で何かをするなどということは決して無いのですよ」
僕の赤面に気付いたかどうか……いや、おそらく気付いただろう、彼女は顔を近づけると、僕の耳元でそう囁いた。
どういうことかと思っていると、僕の視覚は彼女の右手が何かを抱えているのを認めた。彼女は手ぶらで来たはずだが。妙に思ってよく目を凝らすと、それは細長い本体に枝のようなものがくっついていて、本体は布のようなものをまとっており、そして血色が悪そうな肌と目つきの悪い――
僕は、あっ、と叫ぶと反射的に店内を振り返った。もちろん、気まぐれな嵐によってめちゃくちゃに物が散乱している店内で、どこに何があるのかなんて分かるはずがない。
「それでは、ごきげんよう」
ドアの閉まる音と共に、そんな声が聞こえた。
「……この、小悪魔」
僕は悔し紛れにそう呟くと、荒れた店内もそのままに愛用の椅子へと身を預け、頼りない灯りの中、じきに戻ってくるだろう少女を静かに待った。
まさか続編が読めるとは!!
このクールでファニーな小悪魔が大好きです!!
嬉しすぎてたまらんぜ!
これは読者に対して、「よし、みんなで香霖を血の池に沈めてやろうぜ」と言っているように感じました。そうであればもちろんご一緒させて頂きますが。
それはさておき。
魔理沙もなのですが、それよりも実に小悪魔が良かったです。
それこそ香霖をヌッコロしたくなるくらいに色んな意味で良い小悪魔でした。
前作といい、まさに小悪魔なこあ、GJです!
皆さん惨殺言ってますが(笑)私はどことなく可愛げのあるこーりんに惚れました
……ああ、言われて見れば、まさに。納得納得。
それにしても色っぽい小悪魔最高。紫といい、意外とこういう女性に好かれる性質だったりするのでしょうか(笑)>香霖
何故かこーりんのCVが小山力也で再生された自分がいる…
それはそうと登場人物紹介だけ見ていると全然違う物語だ。特にゆあきんw
お礼を言わせて下さい。
賢者の嘘は感謝はされど恨まれない
だが嘘かどうかもわからないのが小悪魔クオリティ
小悪魔すげ~
やられすぎだぜ香霖!
「ああ、アリだな」
愛を感じました。
紅いお嬢様はいるし不法侵入しまくる金髪のパワーファイターはいるし結構共通点多いか?
不思議と同情の気持ちは沸かんがwwwwww
霖之助が主体なためか前回のようなはっちゃけはありませんでしたが、そこはやはり小悪魔。小悪魔してて本当に小悪魔な作品でした。
こぁー
普段の余裕の全くない魔理沙も良いですね。
香霖との関係も、恋愛感情とか強烈なモノでなく、保護者としての関係というのがまた。
良い小悪魔でした。ごちそうさまです。
恐るべしッ。
では無くて正に小悪魔!なSSで彼女らしさが十二分に出ていたと思いますです。
あと、何気にこーりんと魔理沙の関係が父娘と言うのには納得しました。そう言えばそうなんだなあ、と。
こーりん、そこは、即答だろう!?
悶絶モノの良いこぁでした。
小悪魔→大原さん
魔理沙→柚木さん
で再生するとより楽しめました。
フォークはどこだッ!
もちろん本編もよい!続き、もしくはもっと他のキャラとの絡みも見たいね。
ぴったりなネーミングですね。
こあったらもう!
パチュリーの話題が出たときの小悪魔が可愛すぎると思いました。
そして必死な魔理沙がかわいいw
単純に嫌な小悪魔は見たことあるけど、凡用人型兵器さんのこぁは
実はいい奴な感じで好きです
それにしてもキャラがいきいきと動きすぎである
ちょっと美人過ぎて…こぁーこぁぁー!!!俺だ!!結婚しt(ry
やっぱり
えろい
な
アリアリ、大いにアリ。
こーりんさん愛されてるなwwwwwwwww